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1 土田隆平「高度成長と集団就職――中卒者就職構造の分析――」 目次 はじめに――研究の課題 1 章 集団就職の登場 (1)労働市場の主役 (2)集団就職のインパクト 2 章 中卒就職の構造とその環境 1 節 労働市場の拡大と農村社会の変容 (1)高度成長以前の農村 (2)雇用拡大と農村からの大規模な人口移動 (3)中卒就職者の就職構造 (4)県外就職と地域差 2 節 職業安定行政の拡大 (1)需給調整という役割 (2)職業紹介における中学校の下請け化 (3)社会政策としての労働市場の制度化 3 節 中学校のなかの就職希望者 (1)就職する生徒の位置 (2)就職組と進学組 3 章 集団就職の実像 (1)集団就職のはじまり (2)広義の集団就職 (3)山形県における集団就職 (4)県内就職をめぐって おわりに (1)まとめ (2)集団就職を検討して

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1

土田隆平「高度成長と集団就職――中卒者就職構造の分析――」

目次

はじめに――研究の課題 第 1 章 集団就職の登場 (1)労働市場の主役 (2)集団就職のインパクト

第 2 章 中卒就職の構造とその環境

第 1 節 労働市場の拡大と農村社会の変容 (1)高度成長以前の農村 (2)雇用拡大と農村からの大規模な人口移動 (3)中卒就職者の就職構造 (4)県外就職と地域差

第 2 節 職業安定行政の拡大 (1)需給調整という役割 (2)職業紹介における中学校の下請け化 (3)社会政策としての労働市場の制度化

第 3 節 中学校のなかの就職希望者 (1)就職する生徒の位置 (2)就職組と進学組 第 3 章 集団就職の実像 (1)集団就職のはじまり (2)広義の集団就職 (3)山形県における集団就職 (4)県内就職をめぐって おわりに (1)まとめ (2)集団就職を検討して 注

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はじめに――研究の課題 中卒者がかつて新規学卒就職者の大多数を占めていたことは、高学歴化した今日におい

てあまり顧みられることはない。だが歴史的に振り返れば、中卒就職者は高度経済成長1の

最も重要な担い手であり、さらに彼らの就職システムは現在のそれの原形を成したという

歴史的意義を見出すことができる。彼らが果たした役割を抜きにして日本現代史を語るこ

とはできないであろう。 こうした中卒者に関する優れた歴史研究として加瀬和俊『集団就職の時代』(青木書店

1997)がある。この研究書は、昭和 30 年代の中卒就職を包括的に幅広く扱った唯一のもの

といえる。その他に同時代の農村研究として、並木正吉『農村は変わる』(岩波書店 1960)、近藤康男『激動期の農村問題』(東京大学出版会 1955)があり、詳細な中卒者の制度的職

業紹介システムを解明した研究として、苅谷剛彦・菅山真次・石田浩『学校・職安と労働

市場』(東京大学出版会 2000)がある。 さて、この論文では昭和 30 年代の中卒者の就職構造を、次のような章立てで検討してい

く。第 1 章では中卒就職の概要を見、なぜ中卒者及び集団就職に着目するのかを述べる。

第 2 章では中卒就職を生み出す環境を、高度成長による社会の急激な変化、職業安定行政、

中学校での教育システムという3つの視点から検討していく。具体的に、第 1 節では加瀬

の研究に基づいて、経済的・社会的側面から昭和 30 年代が中卒者の就職が活況を呈した時

代であったこと、就業に伴う農村出身者の人口移動が大規模なものであり、彼らが労働市

場の下位に位置づけられていたことを述べ、加瀬の言う労働市場の拡大には出身地による

社会的な格差付けが伴っていたことを確認する。第 2 節ではそうした状況下で職業安定行

政が統制を強めていったことを苅谷などの研究を交えて確かめていき、労働市場の制度化

の意義について検討する。第 3 節では、加瀬においてはあまり詳しく取り上げることのな

かった中学校内部の階層性の問題をみていき、中卒で就職する生徒の多くに成績と経済面

の低さがあったこと、当時の教育システムによって、就職組と進学組というグループに区

分けされていたことを確認する。 第 3 章では集団就職の実像に迫る。集団就職は中卒者の就職システムの 1 つであるが、

それを見送る光景、彼らが引き渡される光景が人々にとってあまりに印象深かった。一方

で、集団就職が一種の流行語であり、また明確な概念がないために、中卒就職者の全てが

集団就職したわけではないにもかかわらず、中卒就職者=集団就職者という誤ったイメー

ジを人々の脳裏に焼き付けた。加瀬は集団就職を集団求人と同義語ととらえて、専ら集団

求人についての論説を展開しているが、それだけでは集団就職の全容を俯瞰できず、人々

の誤ったイメージを正すことはできない。そこで、まず集団就職の定義、及び集団求人と

の関係を明確化する。さらに集団就職の規模を明らかにするが、具体的に集団就職者の数

値を表すのは今まで行われたことのない試みのため、資料の関係上、山形県に限定して算

出する。そして最後に、中卒就職者=集団就職者という誤ったイメージがなぜ形成されて

いったのかということに言及していく。 第 1 章 集団就職の登場

(1)労働市場の主役 学校を卒業してから即会社に就職するというシステムが高度成長の前半期、昭和 30 年代

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において急速に形を成していった2ことは注目すべきことである。今日では、3 月に学校の

卒業式を終えて 4 月に入社式を迎える、しかもそのほとんどは 4 月 1 日づけで採用された

新卒者で占められている。現代社会ではごくあたりまえとなっている、このような「『間断

のない』学校から職業への移行のしくみ」3は高度成長以前、実は多くの日本人にとって常

識ではなかった。それは次のような事情があったからであった。 戦後「六三三」制の学校制度が発足し、新制中学校が義務教育を担うことになった。こ

れにより「戦前までの尋常小学校、高等小学校といった、初等教育の出口が複数あった時

代に比べ、義務教育の修了が新制中学校へと一本化されたこの新制度のもとで、」中学校卒

業者が「毎年大量に輩出される」ようになったのである4。この義務教育が 15 歳までにな

ったことに、実は重大な意味がある。 戦前の学校制度における義務教育であった尋常小学校の卒業年齢は 12 歳、高等小学校の

卒業者であっても 14 歳のため、工業年齢者最低年齢法等の規定により、企業は直ちに基幹

労働力として採用することができなかった。しかし戦後、労働基準法の制定により工業労

働者の最低年齢が 15 歳以上になったことで、企業は新制中学校の卒業者を、卒業と同時に

基幹労働力として採用することが可能になった5。また、昭和 30 年の全国の高校進学率が

約 50%、山形県に至っては 40%強であったから、この当時、毎年大量の中卒者が労働市場

に出たのだった。そして、彼らと企業をむすびつけたのが、中学校と公共職業安定所(以

後、職安と記す)であった。中学校と職安は「緊密な連携を保ちながら、高校進学者と同

じく、ひとりの落伍者をだすことなく卒業から就職への切れ目のない移行が行われるよう

に、第三学年のはじめに詳細な年間計画をたてて、職業指導・斡旋活動に臨んだのである。」

こうした新たな学校制度と労働基準法の施行、日本の経済発展に伴う市場の拡大、中学

校・職安のあっせんなどの要因が、中卒者を労働市場の主役にさせたのであり、また学校

卒業=就職というシステムの普及を大いに促進させた。 日本が戦後復興を終えて高度成長に向かっていく昭和 30 年代、発展する日本経済を最も

支えたのは新規中卒者であった。当時、彼らは「労働力給源として最大のものであり、」7労

働市場の主役だったのである。

(2)集団就職のインパクト 昭和 30 年代、中卒者に用いられた学校卒業=就職というシステムは、形を変えながらも

現在まで受け継がれ、日本人の常識となっている。ところが、中卒者が労働市場の主役だ

ったのは昭和 30 年代に特有の事態であり、1965 年を境にしてそれは高卒者へと移行して

いった。要するに、わずか 10 年という短い期間に新たな就職システムが確立し、それが当

時の人々にすぐさま浸透したということである。菅山真次によれば、この常識が急速に広

まったのは、中卒者の就職を映像的に印象付けた「集団就職」という現象が人々に大きな

インパクトを与えたからであるという。 「毎年、桜の花の咲くころに、東北の農村から『就職列車』に乗ったまだ幼さが顔に

残る十五歳の少年・少女たちが、職安の係員や中学校の先生に引率されて上野駅に到着

し、出迎えた雇用主に引き渡された。その光景は、『集団就職』という巧みなキャプショ

ンをつけてマスコミによって大々的に報じられ、日本中の人びとに強烈な印象を与えた。

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こうして人びとの心に焼き付けられた『就職』の原風景こそが、『学校卒業即就職』とい

う考え方を日本社会の新しい『常識』としたのである。」8

集団就職とは「昭和 30 年代に学校や職安を通して採用された地方出身の中卒者が集団就

職列車で大都市に向かい、そこからそれぞれ振り分けられて、採用された企業に引き取ら

れる」9一連の行程を表現した言葉として通用してきた。この言葉を多くの人々は何の疑い

もなく、中卒者の就職に言及する際に口にしてきたのである。 しかし菅山が言うように、この言葉は「マスコミの巧みなキャプション」によって広ま

った一種の流行語であって、確かな定義があるわけではないし、実施された期間も定かで

はない。また、当時を知る人々の中には中卒就職者=集団就職者と誤ったイメージを持つ

者も少なくない。集団就職にはそれを意味づけする制度上の枠組みがないため、このよう

なことをはっきりと認識するに至らないのである。 山口覚は、集団就職が「現代史を語る上で重要なキーワードとなることは間違いない」

が、この「明確な定義のない言葉は、一元的に語ることが困難な一連の現象について何と

なく理解できたような気にさせてくれる。ゆえに集団就職という言葉を使うこと自体、そ

の忘却に与する危険性をともなっている」10と注意を促し、筆者もこれに同感である。集

団就職者の圧倒的大多数を占めた中卒者は高度成長の担い手であって、現在常識となって

いる就職のシステムを形作るなど、戦後の日本経済の礎を支えてきた。日本現代史の重要

な構成員であったにもかかわらず、経済発展した今日、彼らが負の記憶として埋没してい

るのではないか、ここに筆者の問題意識がある。本論文で中卒者を通して、日本現代史の

ありのままの姿を浮き彫りにすることができたら幸いである。

第 2 章 中卒就職の構造とその環境 第 1 節 労働市場の拡大と農村社会の変容 (1)高度成長以前の農村 1957 年、山形県庄内地方の一農民は、農業経済学者の並木政吉に対して次のように語っ

たという。 「『私達の若い時代は、小学校を出た次三男は、五年でも十年でも、家の農業を手伝っ

たものだ。それが、それまで育ててもらった恩返しだった。いまどきの若いものはちが

う。高等学校まで出してもらいながら、すぐに就職してしまう。』」11

この言葉が端的に言い表しているように、1950 年以前の日本は第 1 次産業を中心とした

社会であり、自営の家族農業に従事する人が多数派を占め、小商いを営む人や職人もかな

りの数に上り、彼らの多くは、いずれ雇用の機会をみつけるとしても、学校教育を終えた

あともしばらくは家のなかにとどまっているのが普通だった12。 しかし、彼らが雇用の機会をみつけることは非常に困難であった。それは図 113におい

て、1950 年代の求人倍率が低調に推移していることから確認することができる。かろうじ

て中卒は 1 倍を超えて需給が均衡しているものの、高卒にいたっては 1 倍を下回る年がし

ばしば見受けられる。この求人倍率は全国平均だから、農村においてはさらに低い値を示

していたことは容易に想像できる。ちなみに、1950 年から 5 年間の全国の中卒求人倍率は、

順番に 0.6 倍、0.8 倍、0.9 倍、1.1 倍、1.2 倍であり14、55 年以前の求人倍率はさらに低

かった。

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図 1 学卒求人倍率の推移(全国平均)

0.00

1.00

2.00

3.00

4.00

5.00

6.00

1955 57 59 61 63 65 67 69 年

このような雇用機会の低迷によって、農村は「失業者の貯溜池であるといわれる状態を

呈して」15いた。中学卒業後農村に

とどまって生涯農業をやろうとい

うものも少なくなかったが、当時

の農村の生産力では村の青少年た

ちに充分な働く場を提供できず、

仮に家業の手伝いや日雇いになっ

たとしても実際にはその多くが潜

在的失業者として農村に滞留して

いたのである16。ここでいう潜在

的失業者とは、すなわち家を継ぐ

ことができない二三男たちを指し

ている。

中卒求人倍率 高卒求人倍率戦前から農家の二三男の立場に

は厳しいものがあった。「田分け」

17という言葉が示すとおり、農家が複数の子どもに農地を均等相続させてしまっては、経

営規模が小さくなりすぎてしまって存続できない。したがって、江戸時代以来、子供一人

に全農地を相続させて跡継ぎとし、他の子供は他の職業につくか、男子のいない農家の婿

になるかという職業選択をしなければならなかった。分家を希望するものも多かったが、

よほど農地に余裕のある農家でなければ困難な望みであった。通常、跡継ぎは長男である

場合が多かったから、もし二三男が別の就業機会を得られなければ、跡継ぎとなった長男

の下で雇い人的な位置に甘んじなければならなかった18。こうした近代日本における二三

男の一般的なライフコースを、並木は次のようにまとめている。

「次三男は、戦前・ ・

、小学校を卒業しても、数ヵ年の間、家にとどまって農業の手伝いを

することが多かった。それは、長兄が兵隊勤務を終え除隊するまでであったり、あるい

は長兄が嫁てま

(農家ではてま・ ・

〔=労働力〕という)をもらうまでであったり、あるいは、

次三男が兵隊生活に入るまでであったりした。その理由は、次三男が労働力として必要

であったからである。そのような経営が、一定の規模以上の農家であったことも、こと

の性質上当然であった。」19

農家の子弟は 20 歳で徴兵されればそれまでの仕事をやめなければならなかったし、中規

模以上の農家では、農繁期には一時的な労働力とされていた。20 歳までは育ててもらった

お礼にと奉公的に働き、それを過ぎてから一生の仕事を探すために家を出るということが

広く一般的だったのである。しかし「兵隊検査後の次三男が就職しうる機会は少なかった」

から、彼らは「自分の家の農業を手伝ったあとでは、…〔中略〕…必要なてま・ ・

から穀つぶ

しに一変する」存在でもあった20。 戦後、二三男はさらに深刻な立場に追い込まれた。労働力需要地である大都市の復興が

まだ完全でなかった21こともさることながら、食えないものが軍隊に入るという選択肢が

なくなったため、農村に留まるほかなくなったのである。 ところがこのような情勢は、神武景気から始まる高度成長下の、大都市における雇用機

会の拡大によって解消されることになる。しかし、それは農村社会が資本主義の波に洗わ

5

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れるということを伴っていた。戦前からの課題であった二三男問題は、皮肉にも旧来の農

村が崩壊することで解消されたのである。

(2)雇用拡大と農村からの大規模な人口移動 では次に、こうした二三男問題を解消した雇用拡大の情況を確認していくことにする。

図 1 で確認したように 1950 年代の求人倍率は低調で、中卒がかろうじて需給均衡を保って

いたものの、高卒は労働力の供給過剰という状態だった。また図 1 で、60 年代初めまで高

卒が中卒の求人倍率を上回る

ことがなかったということも

すでにみた。つまり、経済発展

に伴う雇用の拡大を、まず中卒

就職者が先導していたのであ

る。それは中卒就職者数と高卒

就職者数を比較した、図 222を

みるとさらに明らかだろう。50年代は中卒就職者数が高卒就

職者数を倍近く上回り、61 年

を例外として 64 年まで中卒者

の数が高卒を上回っている。ま

さに、昭和 30 年代の労働市場

の主役は中卒者だったのであ

る。

図 2 学卒就職者数と高校進学率の推移

0

20

40

60

80

100

120

1955 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70

40.0

50.0

60.0

70.0

80.0

90.0

100.0%

中卒就職者 高卒就職者 全国高校進学率 山形高校進学率

表 1 中学校卒業者・就職者・農業就業者

6

この状況は前述したように、

義務教育が 15 歳までになった

ためと、50 年代の高校進学率

が全国平均で 60%を、山形県

にいたっては 50%を下回って

おり、高校に進学しない中卒者

はまだ多数を占めていたため

である23。 しかも、このような誰もが高

校に進学したわけではなかっ

た時代において、企業は高卒者

を採用したがらなかった。それ

は「高校を出る年ごろになると

物ごとに対して相当批判的に

なっており使用者が中学卒よ

りもあつかいにくく、また大半

が事務系統の比較的手足のヌレない職種を望んで」24いた、とされていたからであった。

卒業月 卒業者(a) 就職者(b)農業就業

(c) b/a(%) c/b(%)

1952 年 3 月 1682239 798379 362630 47.5 45.4

1953 年 3 月 1746709 728944 243948 41.7 33.5

1954 年 3 月 1531488 613242 185775 40.0 30.3

1955 年 3 月 1663184 698007 204682 42.0 29.3

1956 年 3 月 1871682 797697 193264 42.6 24.2

1957 年 3 月 1997931 864636 170438 43.3 19.7

1958 年 3 月 1895967 774975 139432 40.9 18.0

1959 年 3 月 1974872 785851 119356 39.8 15.2

1960 年 3 月 1770483 683697 84494 38.6 12.4

1961 年 3 月 1401646 500864 43550 35.7 8.7

1962 年 3 月 1947657 652400 55065 33.5 8.4

1963 年 3 月 2491231 763844 64368 30.7 8.4

1964 年 3 月 2426802 687687 49933 28.3 7.3

さて図 1 によれば、1959 年を境にして中卒・高卒ともに求人倍率は急激な伸びを示した。

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これは日本経済がなべ底不況を脱して岩戸景気に入り、本格的な経済成長期に突入してい

ったことがその理由の 1 つであるが、もう 1 つ、中卒者の絶対数が一時的に減少したとい

う大きな要因があった。 表 125をみると 1961 年 3 月の中学校卒業生が、その前後に比べて極端に数が少ないこと

に気づく。それは彼らが主に 1945 年に出生した「終戦っ子」世代だったためである。この

好景気最中の労働力不足は、学卒の求人倍率を一気に跳ね上げ、それまでの買い手市場を

売り手市場へと一変させた。それは――図 1 で分かるように――63 年に「ベビーブーム」

世代が登場しても変わることはなく、逆によりいっそう売り手市場の情況を呈していった。

それだけ、労働力の需要が経済発展に伴って急速に拡大していたということである。 企業にしてみれば、「いかに拡大の意欲があっても、…〔中略〕…労働力を確保できなけ

れば生産規模の拡大は実現できない」26わけであり、労働力をいかに確保するか――特に

最も安価で使いやすく、様々な環境に適応しやすいとされた中卒者をいかに確保するか―

―は必須の課題であった。 そしてこの企業の要請に大いに応えたのが、潜在的失業者であった農村の子弟たちであ

った。表 1 をみると、1961 年を例外として中卒就職者数はあまり減少していないにもかか

わらず、就職者に占める農業就業者の割合(b/a)は急激に減少している。この農業人口の

大移動は、巨大な労働力需要地である大都市に吸収されていき、その大半が第 2 次・第 3次産業の従事者となっていったのである27。

(3)中卒就職者の就職構造 彼らの就職構造をさらに詳しくみていくと、表 228で確認できるように製造業が圧倒的

に多い。しかも地域によってその割合にばらつきがあることが分かる。この表では東日本

の各県を大都市に遠い順に並べているが、大都市との距離が近づいていくにしたがって、

製造業に従事する割合が高

くなるということがわかる。

大都市である神奈川では約

85%とほとんどの中卒者が

製造業に従事しているが、青

森・山形・福島の東北諸県は

製造業の全国平均、64.5%を

下回っている。

表 2 62 年 3 月の中卒就職者の産業別就職先の割合(%)

一方、小売業・サービス業

に目を向けると、東北諸県は

関東諸県――特に大都市及びその近郊である神奈川・埼玉――に比べて、比較的高い割合

を示している。

農林水産業 製造業 小売業 サービス業 その他

全国 9.7 64.5 7.9 9.0 8.9

青森 26.0 45.4 9.0 9.8 9.8

山形 15.1 56.8 8.4 11.0 8.7

福島 15.7 62.9 5.2 9.0 7.2

栃木 7.3 65.5 11.8 8.9 6.5

埼玉 7.5 76.2 6.1 5.6 4.6

神奈川 1.4 84.5 4.1 3.9 6.1

次にこれらの就職先の事業規模を、表 329を用いて確認していく。この表は 1961 年春に

中学を卒業した就職者に対して、宮城県が個人ごとに実施した悉皆調査の結果であり、県

単位で中卒者の人数を事業規模別に表した貴重な資料である。他の県のこのような統計資

料を探し出すことができなかったため、この表から東北諸県の状況を類推していく。 ここで明らかなように、規模の大きい企業に勤める従事者は製造業(製造修理業・その

7

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他の生産業)に多く、逆に小売(販売)業・サービス業では 30 人未満の小規模企業が、就

職先として大多数である。表 2 で確認したように、地方の――東北の――中卒者は大都市

周辺の中卒者より製造業に就職する割合が低く、販売業・サービス業に就職する割合が若

干高い傾向にあった。要するに、彼らはおのずと中小・零細企業に就職する比率が高かっ

たということになる。 表 3 宮城県中卒者の規模別職業従事状況

就職者総数農林業

従事者

製造修理業

従事者

その他の

生産業従事者

販売業

従事者

サービス業従

事者

その他の

全職業従事者

就職者総数 9337(100%) 1492(16.0%) 3144(33.7%) 2279(24.4%) 756(24.4%) 847(9.1%) 819(8.7%)

1~4 人 2928(31.4%) 1478 107 249 327 470 297

5~29 人 2052(22.0%) 13 648 586 297 280 228

30~99 人 1688(18.1%) 1 895 546 79 50 117

100~299 人 1249(13.4%) ― 720 418 17 23 71

300~499 人 399 ( 4.2%) ― 219 126 31 4 19

500 人以上 1021(10.9%) ― 555 354 5 20 87

さらに加瀬によれば、製造業のなかでも都内学卒者の多くが機械・化学などの大規模産

業に就職したのに対して、地方からの学卒者は繊維衣服・金属部品など小規模産業に多く

就職していたという。地方出身者が製造業に就けたとしても、必ずしも規模の大きな企業

ではなかったのである30。 このことは表 431でも確

認することができる。この表

は 1963 年、東京都内に就職

した中卒者を、出身地別に就

職先の事業規模の割合を示したものである。これによると、従業員数 29 人以下の小規模な

企業に地方出身者が 44%であるのに対して、都内出身者は 7%、逆に 500 人以上の大企業

には地方出身者が 5% に対して、都内出身者は 28%と鮮やかな相違をみせている。

表 4 都内に就職した中卒者の出身地域別・就職先企業規模別割合(1963 年)

計 ~29 人 30 人~ 100 人~ 300 人~ 500 人~

都内出身者 100.0 7.2 22.9 30.2 11.2 28.4

地方出身者 100.0 44.1 32.3 14.4 3.6 5.6

大企業は当然、大都市に集中していた。すなわち農村出身の中卒者とは厳然たる地理的

距離が存在し、地方出身中卒者の就職には高い確率で、県外流出――就業機会を求めての

大都市への流出――という性格が含まれていたのである。そして、こうした地理的距離の

存在は就職機会を求める労働者には不利に働いた。次に、その状況を確かめていこう。

(4)県外就職と地域差 まず、図 332で中卒者の県外就職率をみると、青森・山形・福島の東北諸県はおよそ 40

~50%前後で推移しており、一様に高い値を示している。北関東に位置する栃木では、そ

れよりもやや低い値を示し、栃木よりも京浜に近い埼玉では、その半分の値しか示してい

ない。京浜地帯にある神奈川に至っては 5%前後の値を示し、県外就職者が圧倒的に少ない

ことが読みとれる。 県外就職率の低さは、すなわちその県の経済が進展していたことを表しているといって

8

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よい。というのも、県内での労働力の需要量が多いということは、その県が盛んな経済活

動を行っていると判断できるからである。

つまり、図 3 で示された各県の県外就職

率が低い順に京浜、北関東、東北と並んだ

ことは、経済発展の程度に比例していると

考えられるのである。

図 3 中卒者の県外就職率

地元に就業機会を得ることが困難な東

北地方の中卒就職者は、労働力一大需要地

である京浜・中京地方の工業地帯にそれを

求めた。例えば、1966 年における山形・

青森両県の県外就職者の赴任先をみてみ

ると、山形では県外就職者 4007 人中、東

京 1911 人、神奈川 745 人、静岡 210 人、愛

でも県外就職者 5865 人中、東京 2445 人、神奈川 800 人、静岡 211 人、愛知 988 人で山形

と同様に 76%を占める

0

10

20

30

40

50

60

70

1959 60 61 62 63 65 66 67 68 年

青森 山形 福島

栃木 埼玉 神奈川

知 183 人で、4 県だけで 76%を占める。青森

に地方といっても、大都市での就職が一様な条件で与えられたわけではな

いので、庄内や宮城の大百姓で作男をし、

文は 1954 年での一例であるため、これを即高度成長期におけるすべての農

でも、企業は通勤圏内の労働者を好んで採用したとい

33。県外就職する地方の中卒者は、雇用機会を求めて経済発展の進

んだ大都市・大工業地帯に流入していったのである。 しかし、一口

。そこには距離を伴った地域差が存在した。 「岩手の山奥の次男が一気に東京へは出られな

機会をねらって、はじめて工場へ勤めたり、東京へ転じたりする。…〔中略〕…それが

都市へ近い農村や山村の次、三男や娘になると、離村するのにもう少し有利な条件の下

でする。」34

この近藤の一

村出身中卒者の就職状況に当てはめることはできないが、大都市からの遠近による就職面

での有利・不利ということに関しては、同様な状況であったと考えてよい。雇用機会に恵

まれない県の就職者は必然的に県外の大都市にそれを求めなければならず、そのため多く

の中卒者はこの現実に直面した。 加瀬によれば大都市でも地方都市

。それは、彼らは親と同居している場合がほとんどであり、そのため身元保証が確実で、

生活面でも親に監督させることができると判断されていたこと、寮や宿舎を建設すること

がないことなど、労務コストがかからなかったという理由からであった。さらに菅山によ

れば、職業あっせんする職安も、紹介先が通勤圏内であれば求職者は事業内容や労働条件

を詳しく知ることができるし、仮に不採用や退職となった場合でも負担がかからないとい

うことから、労働力は可能な限り通勤圏内でまかなうことを基本姿勢としていたという。 要するに、「従業員採用の安全性を求める企業の『合理的』な行動」35と行政の「労働者

護の観点」に基づいた「通勤圏内紹介の原則」36によって、地域間移動を伴う就職は地

元就職よりも不利に働いた。このため、就業機会の少ない地域の求職者が都市で職を見つ

ける場合、都市出身労働者が就かないような余りものを見つける以外になく、労働市場の

下位に位置付けられてしまうという必然を生んだのである。

9

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10

第2節 職業安定行政の拡大

立って職業紹介をしていたことは、先に述べた。しかし、

が主催して各県の職業安定課係員を集め、日時を定めて年

もっぱら地方の求人開拓の性格

縁故紹介、学校に申し

校としては職業紹介業務を行わず、職業安定所に

② 条の 3 により、学校の長が公共職業安定所の業務の一部を分担する

③ 定法第 33 条の 2 により、学校が届け出をして無料の職業紹介を全面的に実施

49 の大学や高校が過去に行ってきた経緯にかんがみ」、「大学はすべて 33

(1)需給調整という役割 職安が「通勤圏内の原則」に

国の求人倍率は一定ではなく、求人を出しても労働者を確保することが困難な大工業地

帯と、十分な雇用機会に恵まれない農村地帯との地域格差は大きかった。例えば 1964 年の

求人倍率の全国平均は 3.6%ではあるが、東北は 0.8%、県外就職率が 90%近い鹿児島を含

む南九州に至っては 0.3%という低さだった。その一方、県外就職率が 5%前後だった神奈

川を含む京浜では 10.9%という高さである37。このためそれぞれの地域だけで労働力需給

の均衡を図ることは困難であり、求人倍率の低い県では雇用の機会を、求人倍率の高い県

では労働力の未充足分を他県に求めなければならなかった。そこで、「国民の労働力の需要

供給の適正な調整を図る」38という職安のもうひとつの役割が生じてきた。いわゆる職安

の都道府県間の「連絡求人」システムの確立39であり、それを実行するための全国的な「需

給調整会議」の実施である。 全国需給調整会議は、労働省

に 2 回開催される。会議の前に、各県から報告された求職・求人の見込み数を労働省が把

握して、会議にかける連絡求人のとりまとめを行う。当日の会議では、労働省が提出する

資料に基づいて需要県が求人を読み上げ、これを供給県が手を挙げて持ち帰るという内容

で進められた。その後各県が持ち帰った求人は、県レベルでの需給調整会議を通じて各管

轄内の職安に配分されていったのである。苅谷らによれば、このような流れで開催される

需給調整会議は 1950 年代に入って実施されたという40。 だが 50 年代は求人倍率が全国的に低く、需給調整会議は

を帯びていた。全都道府県で求人倍率を均一化するという、需給調整本来の性格になった

のは、求人が競合するようになった 60 年代に入ってからである。特に、「終戦っ子」世代

が中学校を卒業する 61 年が大きな転機となり、需給バランスが崩れて一気に求人難の様相

を呈するようになってから、労働省は需給調整方式の大幅な見直しを行った。その内容は、

職業紹介業務の年間計画の早期化・画一化によって、需給調整の効率化を図ろうとするこ

と、求人を出す企業に対して労働条件の監視・指導を強化する41ことであり、そして何よ

りも重要なのは自由な求人活動を制限したことだった。 企業が新規学卒者に求人を示す場合、近隣地域で直接募集する、

込む、職安に申し込むという方法かあった。学卒者の職業紹介には、その中で学校の果た

す役割が大きかった。というのも 1947 年に制定、49 年に改正された職業安定法によって、

学校の職業紹介が認められていたからである。その方法には次の3つがあり、各学校はそ

の内 1 つを選択して業務を行っていた。 ① 職業安定法第 25 条の 2 により、学

委託する方法。 職業安定法第 25方法。 職業安

する方法。42

年以後、「新制

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条の 2 と」し、高校は各々の「実績企業の多寡や学校の方針によって」3つのうちから選

択して業務を行ってきた(ただし、25 条の 2 を選択した高校はごくわずかであった)43。

一方、戦後新たに発足した新制中学校は企業との実績関係がまったくなかったので、25 条

の 2 が 7 割弱、25 条の 3 が 3 割弱という選択であり、33 条の 2 はほとんど皆無に近かっ

た44。しかし「25 条の 2 と 25 条の 3 の違いは実質的にあまりなかったようで」、「職安と

学校が相互に緊密に連絡を取り合いながら、いわば一体となった形で」業務が行われてい

た45。このように大学・高校はもちろんのこと、どの中学校でも新規学卒者の職業紹介に

果たす役割は、多かれ少なかれあったのである。 (2)職業紹介における中学校の下請け化

前、中学校と職安の職業紹介は次のようなも

業安定所に募集人員を知らせる。職業安定所は、それを学校に知らせる。

、この文でもその様子をみ

年代は全就職者では 5 割以下、非農就職者でも 3

職安経由率が

需給調整方式の大幅な見直しを行う 61 年以

のであった。 「会社から職

それでよいのである。就職係の先生、しばしば『安定所』というニックネームを頂戴し

ている先生が、指定の期日に、採用人員に数倍する応募者を揃えてくれる。会社はその

中から、優秀な労働力をえらび取りすることが出来る。」46

中学校の場合、求人は職安に依拠する場合がほとんどであり

ることができる。筆者がインタビューし

た元中学校教師の方47も「中学校は高校

と違って、自分から求人開拓をすること

はまずなかった。だから職安からの求人

情報を生徒に伝えるしかなかった。」と言

うように、職業紹介において「中学校が

職安の下請けのような役割」48を有して

いたことは否めない。しかしながら、学

校に直接募集にくる企業や縁故による就

職など、職安を通さない就職も少なから

ずあった。例えば、村山市立袖崎中学校

の昭和 28 年度の新規就職者 39 人中、職

安経由の就職はわずか 7 人であった49。こ

の就職は必ずしも職安経由ではなく、50分の 2 ほどであった。 しかし、労働省が需給調整方式の大幅な見直しを行った 61 年を頂点として

図 4 新規中卒者の職安経由率

0

10

20

30

40

50

60

70

80

90

1955 57 59 61 63 65 67 69年

全就職者 非農就職者

れは極端であるにしても、図 450の通り中卒者

さな山のような形を成し、全体としても上昇している。これは、61 年が職業安定行政に

とって大きな転換点であったことを示している。この年、新規中卒者に関しての委託募集

はもちろん、通勤圏外からの直接募集、新聞・広告等による文書募集を行うことを禁止し、

さらに縁故の範囲を厳格に定めて従業員の子弟を雇い入れる場合でも他の募集と同様の規

制を布いた。そして職安の業務を一部分担してきた中学校にも規制を布いたことにより、

「中学校が県外からの求人を受理することは禁止され、県外向けの求人はすべて職安に申

し込まねばならないとされた。」51

11

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こうして、通勤圏外の求人者と中学校および求職者が直接に接触することを禁止し、中

切職

、色々

、管轄職安の連絡会議での様子

絡会議の席上、職安の係員がぼう大な数の『求人一覧表』の

介の下請け機関と認識していることが、これらの話によって明

(3)社会政策としての労働市場の制度化 けではなく、相互に重複がないよ

かれるところである。例えば加瀬は「中学校・

就職者の職安による一元管理が進んでいった。ある中学校教師は昭和 36(1961)年度に

職安の態度がガラッと変わったとし、次のようなことを職安側から言われたという。 「先生方の個々の職場訪問は、今後一切やめてもらいたい。就職後の追指導は、一

安の方で行ないます。…〔中略〕…それから、今後は縁故就職は認めません。縁故就職

は、あっせんをした教師は職安法違反で処罰の対象になりますし、求人側は不当雇用に

不良職場として、今後正式に求人申込があっても受け付けぬ方針をとります。」 「大体、求人情報なんかを学校に配るやり方をとってるので、先生方の意見が入り

問題が起こるので、本来ならば、情報など配る必要はないのだ。…〔中略〕…就職あっ

せんを出来るのは我々だけであって、先生方には権限はないのだから、あまり先生が意

見を出して、子どもらを迷わせないでもらいたい。」52

また別の中学校教師は、全国需給調整会議の末端である

を次のように語っている。 「かつてわたしは職安の連

中から特定の事業所名・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

を読みあげ『そのページでは以上の各社が“スイセン”になって

おります。』という言葉を聞いたことがある。なるほど事業所の内容については知識皆無

に等しい教師にとって、職安が推薦するなら――と生徒指導にそのまま『活用』される

ことになるだろう。」53

職安側が中学校を職業紹

らかである。初めの話では、生徒の就職に関して学校側に口出しをさせないで、指示する

通りにさせようとする職安側の強硬な態度を、次の話では職安が各学校に振り分ける求人

情報を、教師たちはそのまま生徒に伝えるしかなかった様子を見ることができる。このよ

うに、職業安定法に認められていた学校独自の職業紹介業務は職安の強い締めつけを受け

て形骸化し、中学校は職安の下請け的役割から、完全に下請けとしての位置に組み込まれ

ていったのである。

職安は求人情報の全てを管内の全中学校に提示したわ

うに各学校に割り振る方式をとっていた。そして、中学校も生徒のなかからそれにふさわ

しい求職者を選択して企業に紹介するというように、生徒間に一つの求人をめぐる競争が

生まれることを容認しなかった54。こうした方式をとったのは、中学生に関して「不用意

に不合格者を出すことは教育上問題があるし、需給調整の観点からみても支障が大きい」55

ためであった。職安・中学校の無競争的な職業紹介は、経済成長を大企業主導で推進して

いったなかで、全国の需給関係を均一化して地元経済を振興し、また中小・零細企業を保

護するという一種の社会政策であった。 このような職業紹介に対しては賛否が分

職安の指導に従った者が馬鹿を見るという事態を否定できなかった。多くの者が人的なコ

ネクションを利用して有利な就職口を探そうとしたのはその意味では自然なことであっ

た。」56と否定的にとらえている。一方、苅谷は「『人的なコネクションを利用』できる者

と利用できない者がいたとしたら、そこに社会階層によって入手可能な職業情報の不平等

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が生じなかったか。さらには 1960 年代の売り手市場の時代に、…〔中略〕…より良好な企

業の選定に努めようとした職業斡旋制度が果たした役割は、就職者個人の自由の制約と引

き換えに、就職者全体の利益を高めたということはできないか。」57とその公共機関として

の有益性を評価し、肯定的にとらえている。 先の 2 人の中学校教師は、「生徒と教師とを切り離させ、職業選択の自由さえ奪いさ」り、

なかったら、地域間、あるいは大企業・中小

第3節 中学校のなかの就職希望者

環境について考察してきた。この章では彼ら自身、及び

年に山形県下の中

部分

の余裕のなさから進学できずに就職しなければなら

就職者を届ける「集団赴任列車が、貨物列車に見えてくる」58とも、「職安にとって生徒は

『処理』される数としての対象である」59とも語っており、彼らは生徒をモノとしか考え

ない職安に対して非常に批判的であった。 しかし、もし職安がその機能を果たしてい

企業間に偏った労働力の需給関係が生じ、仕事を見つけられない中卒者が多数存在してい

たもしれないし、高度成長も遂げられなかったかもしれない。職安の機能に批判的な加瀬

も、「情報が完全に公開され、自由な労働市場が形成されれば問題が解決するわけではなか

ったこともまた明らかであった。」60と認めるように、空前の売り手市場になった 60 年代

において半ば強制的に求人管理・選択を行い、労働条件を改善させること61、労働力の需

給調整を図ることは、今から振り返れば自由な就労が制限された以上に労務面・経済面で

有益性があったと認めざるをえない。

(1)就職する生徒の位置 これまで、中卒就職者をめぐる

らの教育現場である中学校に焦点

を当てて、教育現場からどのように

就職者が生み出されていったのかを

検証していく。 表 562は 1959

表 5 就職する理由(1959 年)

人数

1.成績がよくなくて高校には入れそうにもないから 134 29.5

2.家のくらしがなんぎで高校に入学できないから 78 17.1

3.成績もよくないし家のくらしもなんぎだから 67 14.7

4.家計を手伝わなければならないから 57 12.5

5.自分のつく職業は高校に入る必要がな

生の就職する理由を調査した結果

である。上位 4 位まで、約 4 分の 3の生徒が成績の悪さと家の経済的事

情から高校進学をあきらめ、仕方な

しに就職しなければならないと答え

ている。下位をみると、9 番目を除い

て就職を積極的にとらえた項目が連

なっているが、その合計は約 6 分の 1以下であり、少数派である。 この表から分かることは、大

いから 33 7.3

6.早く給料をもらって独立したいから 32 7.0

7.兄や姉も中学を出てすぐ就職しているから 24 5.3

8.上級の学校に進むほど就職が難しくなるから 14 3.1

9.もう勉強をつづけたくないから 14 3.1

その他 2 0.4

合計 455 100

の就職希望者は成績の低さ、金銭面で

ず、就職することを消極的にとらえているということである。しかしこの結果は中学生の

主観に基づいた答えなので、実際はどうだったのか確認しておかなければならない。そこ

で客観性のあるデータを表 663に示す。これは 1962~64 年の間に、京浜地区に就職した新

庄及び天童の中卒就職者 313 名を対象にした調査結果である。

13

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まず、出身家庭の年間所得をみると、20~40 万円の家庭が圧倒的に多く、次に 20 万円

科の 5 段階評価を平均した値で

つをまとめると、所得も成績も平均をやや下回る中位者の割合が最も高く、次に低位

績の低い生徒に関する、次のような投

いで就職する、という子は貧困であるため進学できないか、学業

しは彼等とと

特に触れないが、貧困

(2)就職組と進学組

表 6 出身家庭の年 得・中学校での成績

満、40~60 万円と続く。その合計は 252 人であり、所得不明者を除けば就職者の大部分

が 60 万円未満の家庭出身者である。1962 年の新庄市の勤労世帯の平均年間所得が 59.8 万

円、山形市のそれは 75.8 万円であるから、ほとんどの家庭が平均所得を下まわっており、

貧困な者が中学校卒業と同時に就職すると考えてよい。 次に中学校での成績をみてみる。これは英語を除く各教

る。これによると評定平均が 2.5~3.5 の成績中位の者が 6 割近くで圧倒的に多い。その

次が 1~2.5 の 3 割であり、合計すると 3.5 未満の成績の者が 9 割を占める。

間所

出身家庭の年間所得 ~20 円~ 不明 合計 万円 20~40 万円 40~60 万円 60 万

人数 59 136 57 13 48 313

割合(%) 18.9 43.5 18.2 4.1 15.3 100

中 1 2 3 学校での成績 ~2.5 .5~3.5 .5~5 不明 合計

人数 97 183 32 1 313

割合(%) 31.0 58.5 10.2 0.3 100

が続いていることが分かる。就職者の中に所得が平均を上回り且つ成績の良い者はごく

少数しかおらず、平均以下の者が大多数である。このことから、表 5 でみた就職希望の中

学生の意識と実際とはほとんど乖離しておらず、貧困と成績の低さが中卒就職者を生み出

す要因となっていると結論づけることができる。 雑誌『職業指導』には、ある中学校長が貧困で成

稿が載せられている。 「要するに、進学しな

成績が芳しくないので進学の見込みが立たないという子たちが全部といってよく、そし

て、注意すべきことは、貧困ということと成績不振ということは一致している場合が多

い。そしてその貧困とは、近頃父親が事業に失敗したなどというのではなくて、その子

が生れた時から貧の中で育ったというような貧困である。…〔中略〕… 『勤労意欲を高め仕事を喜こんでやるようにする……』というが、わた

っ組んだ三年間の結論では『それはむりだ』ということである。彼等には持って生れた

『怠惰』というものがある。親も子もそうである。だからこそ貧乏なのであって、…〔中

略〕…まともなわれわれの国ではとても働こうとはしない。」64

就職生と「怠惰」の関係を議論することは本題からはずれるため

と成績不振が一致している場合が多いということは、やはり確かなようである。それにし

ても中学校長のこの一文には、就職生に対する差別的感情が露骨に表現されている。この

ように記述したのは彼自身の経験もあるのだろうが、次節で検討するように、当時の中学

校の教育システムによる影響が甚だしく大きかったと考えられる。

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校では通常、3 年に進級すると就職希望者と進学希望者をクラス

になった。こういうことは三年の二学期ともなれば必ずあるのだ

がたい心理的葛藤があった。「進学組の方は、

と競って補習を行ったのか、その

組をひいきにしないといけなかった。山形東に何人入れ

進学を重要視しなけれ

のも

中学校教育が、補習の

内部には就職組と進学組という 2 つの階層が存在していた。両者の

1960 年半ばまで、中学

ごとに分けていた。経済的に余裕がなく成績が悪い傾向にある就職組と、経済的に余裕が

あり成績の良い進学組という 2 つの階層の形成によって、互いの対立が生じたのはことの

必然であった。寒河江市内の中学 3 年の女子生徒の作文には、そのときの中学生の心情が

切々と記されている。 「このごろ学校がいや

ろうか。女子の方は進学組と就職組にわかれ、進学組の人たちはでかい顔をしている。

ある時、私が進学する人にわからない問題を教えてもらおうと思っていくと、てんで相

手にしてくれない時があった。…〔中略〕…ある日、先生が『就職する人で補習・ ・

をやっ

ている人は職が決まったらやめたければ十二月いっぱいでやめてもよい』といった。私

たちは普通でも劣等感をいだいているので、そんないい方をされますとますますいやに

なる。…〔中略〕…時には頭にくる。進学する人はみんなおちればいいのだと思う時が

ある。就職する人はみんなのようだ。」65

このように、就職組と進学組との間には避け

入学準備で痛めつけられながらも、就職する生徒に対して、一種の優越感を持」つ一方、「就

職組の方は学業に対する関心と情熱は早くからうすれ、世俗的な興味に動かされながらも、

進学組に対して、ひそかな劣等感とレジスタンスを持」つ66のである。この感情は、中学

校が進学を重視することでさらに増幅する。そして、学校の進学重視を端的に表すのが補

習授業の実施である。山形県では 97%、就職生に対しても 86%の中学校で実施し、その時

間帯は放課後・長期休み・日曜・夜間に及んでいた。 なぜ、中学校は高校進学を重視し、進学率を上げよう

由は次のようなものである。 「担任になるとどうしても進学

たとかそういうことが教師の能力として評価されたからね。」67

すなわち、進学状況が即その中学校の評価に結びついたために、

ばならなかったのである。こうなると、「就職組の担任をしたときがあったが、うるさくて

授業にならなかった。でも(どうせ勉強しても意味がないからということで)学校も彼ら

に雑用の仕事をさせていた。」68というように、就職組は全く蚊帳の外に置かれて勉強に対

する興味は失せ、「進学組に対して劣等感とレジスタンスを持つ」に至るのである。 他方、中学校で補習授業を行うことは、それ自体矛盾をはらむものだった。という

「平常授業を中学校性格の教育とするならば、」補習授業は「予備校の性格」となり、「正

常性格と予備校性格とを同じ場所で実施する限り、正常性格と思っている平素正規教育も、

いつの間にか予備校性格を帯びて」しまう69からである。 山形県では、高校への入り口が大きく開かれてきたこと、「正常な

ためにゆがめられている」ことに鑑み、昭和 41 年 2 月に「補習廃止の声明がなされた。」70

しかし、「県から補習をやめるように言われてからもお構いなしにやっていた。」71という

ように、規模は縮小したものの補習は引き続き実施されていった。それだけ、進学率をあ

げることと、どの高校に合格させることができたかということは、中学校にとって死活問

題だったのである。 このように、中学校

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間には各々の成績や経済状況は然ることながら、中学校が高校の予備校と化したことで、

決して埋まることのない溝が形成されていた。こうした教育現場から中卒就職者が生み出

されていたのである。 第 3 章 集団就職の実像

り 田谷の桜新町商店街が青森・秋田の中学校に新卒者を求めた

業主が、地域別

777によると、

19

ため、60 年以前の充足率は 50%近くを維持していたが、60 年に

表 7 集団求人の実施状況

団体数 就職者数 充足率

(1)集団就職のはじま

集団就職は 1954 年、東京世

ことが始まり72とも、渋谷職業安定所管内の商店連合会が新潟県に申し込んだことが始ま

り73ともいわれ、どの地域から始まったかということは定かではない。しかし、1954 年に

始まったこと、商店街や同業種団体がまとまって集団求人・ ・ ・ ・

を図ったことは確かなようであ

る。各団体は管内の職安に申し込み、供給地の職安とタイアップして集団的な職業紹介を

実施した。よって、元来の集団就職とは集団求人で就職先を決めた新卒者たちが、需要地

に集団赴任することを指していたのである。小川利夫の「集団就職とは、集団求人の交通

的対応形態」である74という定義は、その意味で的確であるといえる。 都内の職業安定所の所長であった新井巌は、集団求人を「中小企業の事

又は業種別に就業規則及び給与規定などの労働条件を協定し、この協定を堅く守ってゆ

くという約束の下に従業員を雇用する方式である。」75と定義している。この方式は早くか

ら労働省によって推奨され、1957 年には正式な事業として開始された。需給関係の調整を

図るためには、労働者が働きやすい環境を整えることが第一であって、一中小・零細企業

では改善することが困難な低い労働条件や劣悪な労働環境を、集団求人に参加した企業相

互で協定を組むことで、それらを改善させることができると労働省は企図したのである。

このため、職安が集団求人を受理する際、前もって求人側に示した労働条件の基準が守ら

れているかどうかをチェックし、それに達していなければ求人を回すことはしなかった。 集団求人はしかし、大企業と求人を争わなければならなかった都市部の中小・零細企業

とっても画期的なものだった。求人を加盟団体や職安に任せて求人コストを下げ、相互

の労働条件を改善し、さらに行政と結びつくことで求職者に対する信用を高めることがで

きるなど、求人競争力の補完を図ることができたのである。とはいっても「集団求人は、

都市部出身者を雇用することはできないことが前提となってい」たから、求人団体が職安

に申し込む際、「地元には就職口が少ないと思われた遠方の地域を指定」するのが普通だっ

た76。 さて表

59 年までに集団求

人の加盟店社数や求人

数、就職者数は順調に

伸びている。ところが

60 年以降をみると、求

人数は増える一方、就

職者数は 59 年の値を

上回ることなく、1 万人

強で推移している。その

加盟店社数 求人数

1957 年 3 月卒 61 ― 5386 2338 43.4

58 年 3 月卒 257 5 4111 21814 8997 41.2

59 年 3 月卒 485 109192 33000 16267 49.3

60 年 3 月卒 504 104132 53147 13992 26.3

61 年 3 月卒 533 101092 58627 10944 18.7

62 年 3 月卒 455 ― 65582 13622 20.8

16

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は 25%と急激に低下している。図 1 で確認したように、この時期は求人倍率が増加し、新

卒者の雇用機会が拡大したときであった。それは、地方においても集団求人以外の雇用機

会に恵まれるようになったことを意味し、集団求人という方法で中卒者を確保することは

限界を迎えたのである。 しかし、その後も中卒者が労働力の最大の供給源であることに変わりはなく、集団就職

集団就職者数である。詳

と図 5 を比べると、集団

2)広義の集団就職 いう公的機関を経由して採用された中卒者が県外の就職先に赴

たちを無事に大都市に送る

また引き続き実施されていた。その様子を確認してみよう。 図 578は『荘内日報』から拾った鶴岡職安・酒田職安管轄内の

な数値を示していない年もあって正確な数値ではないが、集団就職者の推移を確かめる

のに目安になるグラフである。これによれば、1959 年に急激に増加して 64 年に最も高い

値を示し、その後激減している。表 7 でみたように、集団求人による就職者数は 59 年を頂

点としてその後停滞し、充足率も下がって

労働力の確保が困難になっていたが、図 5では 60 年以降も集団就職者数は高い水準

を示している。 このように表 7

図 5 庄内地方の集団就 数 職者

0

100

200

300

400

500

600

1957 58 59 60 61 62 63 64 65 66年

人による就職者数と集団就職者数の推

移には、明らかにズレが見られる。集団求

人による集団就職者数が 59 年をピークに

して、その後は停滞している一方、集団就

職者数は 64 年まで増え続けている。これ

は集団就職という言葉の使われ方が、集団

求人に伴う集団赴任という当初の範囲か

ら、もっと広い枠組みで使われ出したため

鶴岡 酒田

ではないかと考えられる。

職業安定所及び中学校と

任する際、特別仕立ての臨時列車(場合によっては船舶)を利用して集団で赴任していた79。

集団就職列車とも呼ばれるこの臨時列車は、関係する県が企画し、それに国鉄が協力して

運行したものであり、予定の就職者を各駅で乗せると、途中の駅には止まらずに就職先の

駅まで直行した。到着すると、中学生たちは目印ののぼりをもった就職先の企業に引き取

られていくのである。ちなみに、職安や中学校を通さない縁故就職の場合は、「集団就職列

車の利用は出来ず、単独赴任か会社の引率赴任であった。」80

集団就職列車で集団赴任させるのは、年端のいかない中学生

という労働者保護の観点からである。しかし別の観点に立てば、貴重な中卒労働者を行政

の監視の下まとめて送ることで、効率的にしかも確実に輸送できるというもうひとつの理

由が浮上してくる。列車を降りた中学生たちが引き渡されていく光景を見たある学生が、

「今まで労働力が商品だということを抽象的な概念としては使っていたけど、このように

なまのままその現実を見せられると、この言葉はたいへん恐しい言葉ですネ。」81と表現し

た通り、資本主義社会において集団就職とは最も安価な労働力の大量輸送・計画輸送に他

ならなかった。

17

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さてこうしてみてくると、中卒者の就職のうち、学校や職安を通した県外就職で行政の

(3)山形県における広義の集団就職 いの規模であったのかを山形県に限定して検証

おける集団就職の実施期間は 1955 年~71 年であるといわれる。ちなみに、全

で広義の集団就職者は何人だったのか、その確かな統計は存在しない。

監督の下、集団就職列車(あるいは船舶)を交通手段として集団赴任することを広義の集

団就職、そのうち集団求人で採用された者が集団赴任することを狭義の集団就職と定義づ

けることができる。両者のうち、人々の脳裏に一般的に焼きついているのは広義の集団就

職の方であるといってまず間違いない。その原因は、集団就職列車を見送る光景、また到

着した中学生たちが引き渡されていく光景を、毎年、テレビや新聞などマスコミが大々的

に報道したことである。こうした報道から、人々が広義の集団就職が集団就職なのだと思

い込んだのも当然の成り行きだろう。

最後に、この広義の集団就職はどれくら

、なぜ中卒者=広義の集団就職者という誤りが認識されていったのか確かめていくこと

にする。 山形県に

に先駆けて集団就職を実施したのは青森県で、1954 年 4 月 5 日に初めて臨時列車が走っ

た82とされ、1975 年 3 月 24 日岩手県盛岡発の臨時列車が「最後の集団就職列車」83とさ

れている。『山形新聞』1955 年 3 月 9 日付けでは「県と秋田鉄道管理局のはからいで三十

一日特別仕立の就職列車(八両)が上野に向け新庄駅を出発する。就職列車の増結はこれ

までもあったが、特別にこのため列車を一本走らせるのはこんどが初めて」であると報じ、

3 月 21 日付けでは「戦後はじめて三十一日新庄発上野行就職列車が走ることに」なったと

報じていたことから、山形県での集団就職の開始は 1955 年だったということが分かる。一

方、2004 年に集団就職の特集記事を掲載した『読売新聞』では県は 70 年に「他県に先駆

けて集団就職業務を廃止」を決め、71 年春の就職列車が「県内初では最後の専用列車だっ

た」と記している84。よって山形県では集団就職の実施期間は 1955 年~71 年であるとい

うことができる。 この期間、山形県

こで、山形県の中卒者で県外に就職した者のうち、何人が職安・中学校(法的に職業紹

介業務が認められていた)を経由したかを、図 4 を用いて算出する。職安・学校を経由し

た中卒者のほとんどが集団就職列車

により集団赴任したと考えられるか

ら、その数を広義の集団就職者数と

推定する。また、図 4 に示した職安

経由率のうち非農就職者の値をその

算出に用いる。というのも山形県に

おいて県外へ農業就業のために流出

する人数は微々たるもので、ほとん

ど無視してよい数だからである85。

こうして算出したのが図 686である。 これをみると、広義の集団就職者

図 6 山形県の集団就職者数(推計)

0

2000

4000

6000

8000

10000

12000

14000

1956 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70

16000

就職者総数 県外就職者数 集団集就職者数(推計)

は 50 年代に漸増し、60 年から 65 年

18

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まで 4000 人付近の高水準を保ち、66 年以降減少している。図 5 の庄内地方の集団就職者

数の推移とは多少の誤差が生じているが、全体の山の形は一致しているとみてよい。他方、

『山形新聞』では 1964 年の集団就職者数を約 2100 人、65 年を 2200~2300 人と報じてお

り87、図 6 とは 1000 人強の隔たりがある。先の『読売新聞』(2004.5.1)では「六六年ご

ろまで毎年五千人前後が県外に就職、うち四千人近くは集団就職列車で郷里と惜別した。」

と振り返っており、図 6 と近い値を示している。本論文では学校・職安を経由して県外就

職した中卒者を広義の集団就職者として推計したが、『山形新聞』も『読売新聞』も何をも

って集団就職者としていたのか、その定義が定かではないため、どちらの数値がより正し

いのかという判断はしかねるところである。 県外就職者に占める広義の集団就職者数の割合は 70%前後であり、その意味では県外就

職者を広義の集団就職者と結びつけることにはさほど違和感はない。一方で県内就職を含

めた就職者総数からみると、その割合は 2~3 割であり、到底中卒就職者全体を広義の集団

就職者と結びつけることはできない。しかし人々が当時を回想するとき、地方の中卒就職

者全体を広義の集団就職者ととらえる向きがあることもまた事実である。 (4)県内就職をめぐって 普通、人々の多くが学卒者の就職を、「学校卒業後直ちに企業に就職し、同一企業に継続

勤務」すること88だととらえている。それは、図 6 と明らかに乖離した「県内の就職なん

て聞いたことないな。家業継ぐ以外は県外がほとんどだった。」89という言葉からもみてと

れる。つまり、県内就職に多かった、地元に留まって農業や商売など家業を継ぐ・手伝い

をする、あるいは職人の徒弟になることを就職とは把握せず、企業に限って就職すること

を県内では聞いたことがないと言っているのである。 この言葉のとおり、本当に県内の企業に就職することはなかったのか、これを『山形県

統計年鑑』(1960 年度版)で確かめていくことにしよう。これによれば、1960 年度の山形

県の中卒就職者総数は 12909 人、そのうち県内就職は 7338 人であった。その主な業種別

就職先の内訳は、農林水産業が 2940 人、製造業が 2338 人(うち軽工業が 1313 人、重化

学工業が 1025 人)、卸売・小売業が 909 人、サービス業が 842 人である。従事者のほとん

どが家業を継いだり、あるいは手伝ったりしたと考えられる農林水産業が約4割、さらに

卸売・小売・サービス業に従事した者の中にも家業を継いだり、徒弟として働いたりした

者も含まれるから、県内就職者の半数が企業以外に就職したと考えられる。当然、残りの

半数――就職者全体の 3 割近く――は県内企業に就職したことになるから、山形県におい

て県内就職がなかったというのは誤った認識であるといえる。 しかし、県内就職を聞いたことがないと言った元教師の方は、赴任先が主に北村山郡の

中学校であったため、この地方での経験をもとにした発言であると考えられる。そこで地

域を限定して、北村山郡大石田町の中卒者の就職先を明らかにし、この発言の真偽を確か

めていくことにする。 1960 年、大石田町の中卒就職者は 168 人、うち県内就職者は 85 人であった。その主な

就職先の内訳は、多くが家業・徒弟として仕事に就いたと考えられる農業・職人が 67 人―

―順に 47 人、20 人――であり、企業に就職したと考えられる工場・会社及び商店・病院が

15 人――順に 5 人、7 人、3 人――である90。この結果から、企業に就職する者はごく少

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数であり、大石田町の中卒者のほとんどが県内就職においては家業及び職人の徒弟に就い

たことが分かる。したがって地域を大石田町に限定する限り、先の発言は正確にこの状況

を物語っていたのである。山形県の中でも、山形市や米沢市、酒田市などの地方都市では、

ある程度商工業が発達していた。そのため、山形県全体の統計と農村地帯である大石田町

の統計では、少なからず隔たりがあったのである。 しかしながら、企業に就職する確率が極めて高い業種である製造業に従事する割合は、

県内就職よりも県外就職の方が圧倒的に高かった。再び『山形県統計年鑑』(1960 年度版)

を用いると、県内就職者 7338 人中、製造業に就職した者は 2338 人で 32%であるが、県外

就職者 5571 人中では 3854 人で 69%にも上る。要するに、「企業に就職して継続勤務する」

中卒者は県内就職者の中にも存在したが、彼らの県外就職者に占める割合の方が圧倒的に

高く、雇用機会を求めて県外就職することには、すなわち――規模の大小はあるが――企

業に就職するという性格が多分に含まれていたのである。 このように、「企業に就職して継続勤務する」確率が極めて高かった県外就職が、県内就

職の実情を覆い隠してしまい、人々に企業に就職できたのは県外就職者だけという印象を

植え付けた。これが中卒就職者=広義の集団就職者と誤った認識をさせてしまう原因であ

るといえよう。 おわりに

(1)まとめ この論文では、空前の超売り手市場となった昭和 30 年代における、中卒者の就職に関す

る分析を行ってきた。第 1 章でその概要を見、第 2 章で彼らを取り巻く環境について検討

してきた。この第 1 節では、農村で潜在的失業者となっていた彼らを、高度成長の下急激

に発展した大都市が吸収したこと、しかし大都市とその周辺の出身者に比べると、労働市

場の下位に位置づけられていたことを、第 2 節では最も需要の高かった新規中卒者を均一

に配分するために、職業安定行政が強い統制力を発揮して需給調整を図ったこと、それに

よって労働者の自由な経済活動は制限されたが、一方で労働力の偏在を是正して中小企業

や地元企業を保護し、さらに求人先を監視して労働条件を改善させていったなど、社会政

策として一定の評価ができることを、第 3 節では中卒で就職する生徒は成績が低く、経済

的に貧しい傾向があったこと、中学校内部に就職組と進学組という 2 つの階層が存在し、

両者には埋まることのない溝が形成されていたことを、それぞれ確かめた。 第 3 章では中卒就職の代名詞ともなっている集団就職について検討し、それは元来、集

団求人に伴う集団赴任を指していたが、中学校及び職安を通して就職先を決め、行政が用

意した臨時列車で集団赴任することに意味合いが拡大していったこと、県外就職者のうち

広義の集団就職者は 7 割に及ぶと推定されるが、それは山形県の場合、就職者総数から見

れば 2~3 割であり、中卒就職者=広義の集団就職者という概念は誤りであること、その概

念の形成には「企業に就職して継続勤務する」ことが就職することだと考えられていたこ

とが関与し、こうした就職は県内就職にも多分に存在したが、県外就職に占める割合のほ

うが圧倒的に高かったため、人々はあたかも企業に就職できたのが県外就職だけであると

思い込み、それが中卒就職者=広義の集団就職者という意識を成立させた要因であること

を明らかにした。

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(2)集団就職を検討して

本論文では中卒者を取り巻く環境や就職構造そのものに焦点を当て、集団就職を生み出

したもの、突き上げたものを広範に渡って検討してきた。しかし集団就職の全体像を知る

には、本論では扱っていない、集団就職者のその後の追跡調査が不可欠である。これに関

する優れた研究書である小川利夫ほか「集団就職――その追跡研究」1967(『社会・生涯教

育文献集Ⅳ32』日本図書センター 2000)には、彼らの歩んでいく人生が次のように評さ

れている。 「それにしても集団就職した青年たちの生きる姿は、現に日本の青年全体の生きる姿の

ひとつの極限状況をしめしているだけでなく、その矛盾のしわよせを『その将来』にお

いてももっとも集中的に表現していくにちがいない。」91

この言葉が示唆するように、集団就職者の多くは労働市場の底辺に位置づけられ、終身

雇用や年功賃金制の世界とは無縁の不安定就労を余儀なくされた。こうした彼らの境遇に

興味を抱いたことも、本論のテーマを選んだ理由の 1 つであった。時代の要請であるとは

いえ、「極限状況」で生きていかなければならない世界へ彼らを導いたことに対してどう感

じていたのか、最後にそのことを聞きたいと思い、インタビューを実施した元教師の方に

今から振り返って、中学生を集団就職列車に乗せたことに後悔はなかったかと質問したら、

さばさばと次のように返答された。 「うーん、当時はあたりまえっていうか、みんな一緒だったし、かわいそうとか悲しい

とかっていうことはなかったな。まあ、激励するほかなかったんだな。」 一方で「最後の集団就職列車」を見送った教師はこれとはまったく逆の感想を、次のよ

うに記している。 「『A 事業所に就職する B 君』『C 会社へ就職した K 子さん』、小旗を持った引き取り人が

一人、また一人とつれていく。小さな体に大きなかばんがやたらと目につく。トボトボ

とあとをついて行く姿、この様子をみて『現代の人買いだ』と酷評する人がいる、それ

では私達は何なのか――。私はこの様子を見るのが耐えられないのだ。…〔中略〕… 集団就職は終わった。県外就職は今後も続くであろう。…〔中略〕…いずれにせよ集

団就職列車が終わってホッとしている。これはかつて職業指導を担当した経験のある教

師の気持ではなかろうか。」92

1965 年、労働市場の最大の供給源は中卒から高卒へシフトした。それは図 2 で鮮やかに

みることができる。高校進学率が上昇し、高校が半ば義務教育化していく中、中卒就職者

は数を激減させていき、現在ではほとんどみることができない。しかし小川は言う、中卒

であろうと高卒であろうと「日本の資本主義にとってはまったく『同一のみち』としての

意味しかない」93と。企業にとっては、高卒が一般化すればそれまで中卒の労働者が担っ

ていた位置に高卒の労働者を当てはめればそれでよいのである。中卒者から始まった学卒

者の就職システムは形を変えながらも引き継がれ、今後も続くだろう。 *本論文を作っていくうえで、元中学校教師の方の回想録は大変参考になり、随所に引用

させて頂いた。突然のインタビューにも快くお答え頂き、お礼を申し上げる。

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1 本論文では高度経済成長期を、最も一般的な神武景気が始まる 1955 年からオイルショックが起こる

1973 年までとする。 2 菅山真次「〈就社〉社会の成立」(『日本労働研究雑誌』No.457 日本労働研究機構 1998 p.14)によ

れば、「学校卒業=就職という『常識』が形成されたのは、1950 年代以降のことである。」 3 苅谷剛彦他『学校・職安と労働市場』(東京大学出版会 2000)pp.12~13 4 苅谷(2000)p.1 5 苅谷(2000)p.39 6 菅山真次「現在に生きる『集団就職』」(『UP』332 号 東京大学出版会 2000) 7 苅谷(2000)p.33 8 菅山(2000) 9 百瀬好子『「金の卵」の四十年』(つくばね舎 2004)p.74 10 山口覚 「文化的イベントとしての集団就職」 (『人文研究』51 巻 5 号 関西学院大学人文学会編 2001

年 12 月) 11 並木正吉『農村は変わる』(岩波書店 1960)p.1 12 菅山(1998) 13 加瀬和俊『集団就職の時代』(青木書店 1997)p.65(Ⅰ-3-6 表)、p.72(Ⅰ-3-7 表)、労働省職業安定

局『労働市場便覧』(日刊労働通信社 1968)、『学校基本調査報告書』各年版より作成。ただし 1969~70は佐藤修司「産業構造の変化と進路指導」(『東京大学教育学部紀要』27 号 東京大学教育学部 1987)図

2 より推定。 14 小野浩「戦後日本の雇用と中卒就職者の動向」(『教育社会学研究』 日本教育社会学会編集委員会

1970) 15 近藤康男『激動期の農村問題』(東京大学出版会 1955)p.193 16 また雇用機会の低迷に加え、敗戦による外地からの帰国者の増加、戦時中疎開した人々の引き揚げの鈍

化といったことによる農村人口のかつてないほどの膨張が、それに拍車をかけた。 17 東海地方の言葉で、愚か者の意。 18 加瀬(1997)pp.12~13 19 並木(1960)p.85、傍点および( )内は原文のまま。

この節で主に用いている加瀬・並木・近藤の研究もそうであるが、農村研究において、女性を取り上

げることは数少ない。そのため本論文でも専ら男子のライフコースについて論じている。農村社会にお

ける女性研究は、この分野の今後の課題になるだろう。 20 並木(1960)p.85。また当の二三男たちの心情は次のようなものであった。

「農村の次、三男の三割は自分自身を邪魔者と認識している。その理由としては、生活が苦しい、田

畑が足りない、家族が多すぎる、職なしでぶらぶらしている、というにつきる。残りの七割は家のた

めに働いている、病身の兄の代りに働らいているから喜ばれているという。次、三男にとっては、長

男が病身であった方が幸福なのである。」(近藤 1955 p.222) 21 戦後復興に伴い増加した雇用機会は、まず雇用されるしか手立てのなかった都市労働者が就いたから、

遠隔の地方在住者が都市の就業機会を得ることは困難であった。(加瀬 1997 p.14) 22 『学校基本調査報告書』各年版より作成。

高校進学率(%)は(進学者+就職進学者)÷卒業者により算出。 23 1950 年代の高校進学率の上昇は停滞していた。その理由としては、中学校卒業生と高校進学希望者の

増大に対して高校の収容力に限界があったこと、1955、56、57 年と米の未曾有の大豊作により、農家の

所得が向上して農業を従事する環境がよかったこと(そのため図 2 をみると、その年では山形県の高校進

学率は漸減している)、就職だけを考えるなら中卒で就職したほうが有利だったことが挙げられる。 (加瀬 1997 pp.48~50)

24 『荘内日報』(S29.3.17) 25 加瀬(1997)p.46(Ⅰ-3-1 表)より作成。 26 小野(1970) 27 例えば、1960 年代の初頭において製造業に従事した新規中卒者のうち、農家子弟の占める割合は 3~4割であった(刈谷 2000 p.37)。まさに労働力供給の主力であったことを物語っている。 28 『学校基本調査報告書』より作成。 29 萩野正一「宮城県新規中卒者の就職構造についての一考察」(『農林統計調査』12 巻 6 号 農林統計協

会編 1962)第 5 表より。

30 加瀬(1997)p.99 31 加瀬(1997)p.98(Ⅱ-1-2 表)より。

32 『学校基本調査報告書』各年版より作成。県外就職率(%)は県外就職者数÷全就職者数により算出。 33 『学校基本調査報告書』1966 年版より。 34 近藤(1955)p.225

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35 加瀬(1997)p.100 36 菅山(1998) 37 『青少年白書』1964 年版 中央青少年問題協議会 p.243 38 苅谷(2000)p.79 39 労働省職業安定局(1968)によれば、1964 年の山形県の中卒求職者 6617 人に対して県内求人は 8032人で、求人倍率は 1.21 倍だった。ところが県外連絡求人は 27836 人で県内求人の 3 倍以上あり、職安間

の連絡求人が活発だったことを物語っている。 40 苅谷(2000)p.81 41 労働省が定めた労働条件の基準に達しない求人は、需給調整会議の対象外とし、他県に連絡求人はまわ

さないことにした。こうした行政の厳密な求人側の管理によって、学卒者をまわしてほしい企業は積極的

に労働条件の改善に努めたのである。 42 刈谷(2000)pp.114~115 43 菅山(1998) 44 苅谷(2000)p.83 45 苅谷(2000)p.115 46 並木(1960)p.35 47 2004 年 12 月 2 日、山形県大石田町在住の元中学校教師の方にインタビューを行った。当時、職業指導

主事を担当されていたことから、進路指導関係に大変詳しく、興味深い話を聞くことができた。なお、以

下のインタビューはこの元中学校教師からのものである。 48 羽鳥一雄「金の卵をめぐる現状と問題点」(『教育』257 号 国土社 1970.12) 49 『山形新聞』(1954.3.23) 50 苅谷(2000)p.84(表 3-3)より作成。 51 苅谷(2000)p.102 52 阿部重弘「集団就職はどのように行なわれるか」(『教育』13 巻 5 号 国土社 1963) 53 羽鳥(1970) 強調は土田。 54 加瀬(1997)p.117、p.128 55 菅山(1998) 56 加瀬(1997)p.135 57 苅谷(2000)p.24 58 安部(1963) 59 羽鳥(1970) 60 加瀬(1997)p.135 61 インタビューでも職安経由の就職先の労働条件は比較的よく、教師は安心して生徒に紹介していたとい

う。例えば、 「職安の求人情報と就職先の条件が違っていたなんていう話は聞いたことないなあ。職安に申し込む

企業の顔ぶれはほとんど決まっていたし、職安の審査もあったしな。」 「生徒はけっこう優遇されてたな。求人難になるとなおさらね。」 という証言からも、職安による求人先の労働条件の改善は、求人難になるにしたがって効果をみせたと

いうことができる。 62 山形県教育研究所『中学校における就職生指導の研究』(1960)第 5 表より作成。山形県下の昭和 34年度中学卒業の就職予定生徒、男子 244 名、女子 211 名、計 455 名を無作為抽出によって選び、質問紙法

で行なった調査の結果である。 63 松浦孝作ほか「新規学卒勤労青少年における定着性の条件分析」(『東京学芸大学紀要 第 3 部門社会

科学』東京学芸大学 1968)表Ⅱ・5、表Ⅱ・7 より作成。 64 橋本士郎「貧困家庭中学生の就職」(『職業指導』日本職業指導協会 1960.11) 65 『山形新聞』(1963.3.2) 強調は土田。 66 田崎仁「進路指導」(『講座・生活指導の心理 第 4 巻』 阪本一郎ほか編 1958) 67 インタビューより 68 インタビューより 69 小関栄助「進学問題」(『山形県中学校十年誌』小関栄助編 1957) 70 浅香泰一郎「補習廃止」(『山形県中学校二十年誌』大武重雄編 1968) 71 インタビューより 72『現代日本の歩み――金の卵』(朝日新聞社 1995) 73 加瀬(1997)p.145 74 小川利夫ほか「集団就職――その追跡研究」1967(『社会・生涯教育文献集Ⅳ32』日本図書センター

2000)p.20 75 新井巌「集団就職の問題点とその対策」(『職業指導』日本職業指導協会 1958.12) 76 加瀬(1997)p.146

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77 『青少年白書』1962 年版の第 40 表、1963 年版の第 79 表より。 78 『荘内日報』1957 年~66 年の各 3・4 月の集団就職を報じた記事より拾った。時代がそれ以前及びそ

の後になると、集団就職を報じる記事をみることができなかった。 79 集団就職には中学生以外も少数ながら含まれていた。例えば『荘内日報』(S33.3.28)によれば、鶴岡

職安管内の集団就職者 155 人のうち、高卒 4 人、補導所卒 36 人という割合であった。 80 遠藤彦次郎「最後の集団就職列車」(『思想の科学.第 6 次』通号 50 思想の科学社編 1975.8) 81 小川(1967)p.22 82 山口覚「人身売買から集団就職へ」(『関西学院史学』31 号 関西学院大学史学会 2004) 83 遠藤(1975) 84 『読売新聞』(2004.5.1) しかし読売新聞社に問い合わせたところ、71 年が最後だったという確かな

資料はなく、取材を通して総合的に判断した結果であるという。ただ 72 年以降、『山形新聞』にも『荘内

日報』にも集団就職に関する記事が全く掲載されていないことから、71 年というのはどうやら確かなよう

である。 85 例えば『山形県統計年鑑』1960 年版によれば、1960 年の新規中卒農業就職者 1557 人のうち 27 人が、

1965 年では 1534 人のうち 18 人が県外就職であり、農業従事のために県外へ就職するのはごくまれであ

ったことが分かる。 86 就職者総数・県外就職者数は『学校基本調査報告書』・『山形県統計年鑑』より作成。ただし、1956~58 年、64 年の県外就職者数は『読売新聞』(2004.5.1)より推定。集団就職者数(推定)は県外就職者数

×職安経由率(非農就職者)により算出。 87 『山形新聞』(1964.3.24 及び 1965.3.24) 88 菅山(2000)、労働省はこのような労働者を「標準労働者」と定義している。 89 インタビューより 90 大石田町役場『要覧大石田』(1962)p.32 より。 91 小川(1967)p.3 92 遠藤(1975) 93 小川(1967)p.31