「沖縄報道と地元メディア―沖縄の声を伝える」...3 沖縄独立論は今...

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日本記者クラブ 記者研修会 パネルディスカッション 「沖縄報道と地元メディア―沖縄の声を伝える」 2013年8月28日 パネリスト(発言順) 謝花直美 沖縄タイムス特別報道チーム部長 島 洋子 琉球新報東京支社報道部長 三上智恵 琉球朝日放送ディレクター 外岡秀俊 元朝日新聞編集局長 コーディネーター 瀬口晴義 日本記者クラブ企画委員 (東京新聞論説室論説委員) 沖縄のメディアと本土のメディアの間に深くて大きな溝がある。「本土のメディア にとって沖縄は安全保障の問題だが、沖縄にとっては暮らしの問題、人権の問題なの です」と外岡さんがずばり代弁してくださった通りだ。「温度差」という言葉では弱 すぎる。沖縄ではあきらかな差別と感じているのだから。この深い溝を本土のメディ アに関わる者がどう認識し、埋めていけることができるのか。そんなことを考えさせ るパネルディスカッションになった。謝花さんは沖縄の言葉である「しまくとぅば」 を見直す沖縄の動きの中、沖縄戦や基地問題を文化や歴史に根ざした問題として捉え 直してゆくことの重要性を指摘した。島さんは沖縄の経済に占める基地の収入は 5% に過ぎない事実を突きつけ、基地経済と抑止力という本土の人間が信じている「二つ の神話」について分かりやすく解説してくださった。三上さんは自ら監督を務めた映 画「標的の村」を通じて、オスプレイが飛来するヘリパッドに反対する住民の座り込 みを通行妨害で訴えた裁判を 6 年間続ける「スラップ裁判」がなぜ、全国ニュースと して伝わらないのかと訴えた。どの発言も切迫感にあふれ、聞く者の胸を揺さぶる内 容だった。(瀬口晴義) 配布したレジュメを巻末に掲載しています。 日本記者クラブ YouTube チャンネル h t t p : / / w w w . y o u t u b e . c o m / w a t c h ? v = e a c 7 d A u b X 8 c C 公益社団法人 日本記者クラブ

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Page 1: 「沖縄報道と地元メディア―沖縄の声を伝える」...3 沖縄独立論は今 さらに、そこから進んで、主権を獲得しようで なくて、独立していこうという話も研究者の中か

日本記者クラブ 記者研修会

パネルディスカッション

「沖縄報道と地元メディア―沖縄の声を伝える」 2013年8月28日

パネリスト(発言順)

謝花直美 沖縄タイムス特別報道チーム部長

島 洋子 琉球新報東京支社報道部長

三上智恵 琉球朝日放送ディレクター

外岡秀俊 元朝日新聞編集局長

コーディネーター

瀬口晴義 日本記者クラブ企画委員

(東京新聞論説室論説委員)

沖縄のメディアと本土のメディアの間に深くて大きな溝がある。「本土のメディア

にとって沖縄は安全保障の問題だが、沖縄にとっては暮らしの問題、人権の問題なの

です」と外岡さんがずばり代弁してくださった通りだ。「温度差」という言葉では弱

すぎる。沖縄ではあきらかな差別と感じているのだから。この深い溝を本土のメディ

アに関わる者がどう認識し、埋めていけることができるのか。そんなことを考えさせ

るパネルディスカッションになった。謝花さんは沖縄の言葉である「しまくとぅば」

を見直す沖縄の動きの中、沖縄戦や基地問題を文化や歴史に根ざした問題として捉え

直してゆくことの重要性を指摘した。島さんは沖縄の経済に占める基地の収入は 5%

に過ぎない事実を突きつけ、基地経済と抑止力という本土の人間が信じている「二つ

の神話」について分かりやすく解説してくださった。三上さんは自ら監督を務めた映

画「標的の村」を通じて、オスプレイが飛来するヘリパッドに反対する住民の座り込

みを通行妨害で訴えた裁判を 6年間続ける「スラップ裁判」がなぜ、全国ニュースと

して伝わらないのかと訴えた。どの発言も切迫感にあふれ、聞く者の胸を揺さぶる内

容だった。(瀬口晴義)

配布したレジュメを巻末に掲載しています。

日本記者クラブ YouTube チャンネル

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○C 公益社団法人 日本記者クラブ

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司会:瀬口晴義・企画委員(東京新聞論説室論説委員) 皆さん、お待たせしました。きょうは朝から、震災俳句の話があった後に、高速増殖炉「もんじゅ」の話を聞いて、さきほどは韓国大使館に訪問して大使と記者会見するという、目まぐるしい日程ですけれども、もう少し頑張って聞いていただきたいと思います。

これからはパネルディスカッション「沖縄報道と地元メディア―沖縄の声を伝える」というテーマで語っていただきたいと思います。

午前中、自己紹介ができなかったので、ここでしますが、私は日本記者クラブ企画委員で、東京新聞の論説委員の瀬口と申します。

なぜこういう企画を提案したかというと、沖縄の現地での報道と東京で流れるニュースの差があまりにも大きいことに日頃から愕然としていまして、沖縄のメディアの人はどういうことを考えて報道現場に居られるのか、沖縄のメディアの皆さんの思いを共有できないか、ということを考えて企画しました。

きょうは、沖縄のメディアから 3人の女性の方に来ていただきました。もう一人は、東京のメディアを代表するということではないのですが、外岡さんに来ていただきました。では、一人一人ご紹介をしていきたいと思います。

まず、一番向こう側に座っていらっしゃる方が沖縄タイムスの謝花直美さんです。(拍手)現在、特別報道チームの部長さんをされております。

そのお隣が琉球新報の島洋子さんです。(拍手) ことし 4 月から東京支社の報道部長をされております。

そのお隣が琉球朝日放送の三上智恵さんです。(拍手)ディレクターとして、 近では「標的の村」という映画をつくられて、いま東京で上映されていますので、皆さん、ぜひ見てもらいたいと思います。

後に、男性代表ということで、ジャーナリストの外岡秀俊さんです。元朝日新聞の編集局長で、長く沖縄の問題を取材している方です。

では、まずお一人ずつ発言をしていただいて、それでいろいろ議論をしていきたいと思います。

まず、謝花さんのほうから自己紹介も兼ねてお話をしていただけませんでしょうか。

謝花直美・沖縄タイムス特別報道チーム部長 日本語でしゃべる前に、しまくとぅばでしゃべろうと思っていたのですが、緊張して日本語になってしまうのですけれども、「ハイタイ、沖縄タイムスの謝花直美ヤイビーン。ユタサルグトゥ ウネゲェサビラ(こんにちは、沖縄タイムスの謝花です。どうぞよろしくお願いいたします)」。

沖縄の言葉を「しまくとぅば」と言うのですが、なぜ私がいま、しまくとぅばで挨拶したかというと、きょうのレジュメに、いま私が担当している

「チルーぬ方言札」という連載を入れました。このような連載なので、後でぜひ読んでみてください。

なぜ沖縄報道とか米軍基地問題をテーマにしたものに、私がしまくとぅばをひっ提げて沖縄報道についてしゃべるのかということを少し説明したいと思います。

しまくとぅばの位置づけを考えることが、いまの沖縄問題とか米軍基地問題、あるいは沖縄戦の根っこにある問題というものを一つ象徴しているような位置にあるからなのです。

レジュメに沿ってお話しします。

しまくとぅばの連載というのは、実は連載だけでなくて、毎週 1ページ、しまくとぅばによる新聞というのをつくっております。全部しまくとぅばを使っているわけではないのですが、ことし 7月から週 1回、しまくとぅば新聞「うちなぁタイムス」というのを掲載していまして、好評です。

なぜこういうことをやっているかというと、沖縄では2006年に9月18日を「しまくとぅばの日」と制定しました。

しまくとぅば、日本語ではない、沖縄の言葉を推進して使いましょうという機運がいま盛り上がっています。

その後、2009 年にはユネスコのほうで、琉球諸語 6 言語――奄美、国頭、沖縄本島中南部、宮古、八重山、与那国の 6言語が消滅危機言語ということで指定されました。

なぜ沖縄の言葉がそういうふうに追い詰められているのか。結局、しまくとぅば自体が周辺化されている。

しまくとぅばの継承

では、しまくとぅばを継承するということはどういう意味を持っているのか。それは、琉球、沖縄の文化、あるいは歴史、歴史経験、認識のあり方を言葉というツール、メディアを通して再認識し、獲得する取り組みであるということが言えると思います。

それはどういうことかと言いますと、米軍基地問題や沖縄戦をめぐる歴史認識の問題の背景、つまり、沖縄と日本の温度差とこれまでよく言われていたのですが、実は沖縄では、「差別」であるとか、非常に強い言葉で語られるようになっております。

その問題の背景には、沖縄が日本にとって周辺化されているという位置づけがあるからなのです。だから、普天間の問題、オスプレイの強行配備の問題も、沖縄の民意を無視し続けている状況の中で、いま、こういう問題に対して、沖縄は合意していないのだという主権の問題です。一度たりとも合意していないということが認識として広がって、共有されてきています。

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沖縄独立論は今

さらに、そこから進んで、主権を獲得しようでなくて、独立していこうという話も研究者の中からはかなり出てきていて、定着し始めました。

それは、つまり、日本との関係性を歴史的な経緯から問い直そうとする動き。実はしまくとぅばも同じような構造の中にさらされているのです。

例えば読者からの電話をとってみますと、安倍さんが妄言というか、変なことを言ったりすると、ぜひ安倍政権に問うてほしい。1879 年、琉球国を廃止して沖縄県を設置した琉球処分、他府県については、単なる「廃藩置県」という言葉なのですが、沖縄は「琉球処分」という形でした。処分されたのです。それを安倍さんに問うてほしい。そういうことが日常の空間で会話として成り立っているわけです。ちょっと驚きますよね。

沖縄はなぜ処分されないといけなかったか。そういうことが普通の生活の中の論点として浮上しているわけです。別に特殊な話ではないわけです。

きのう会見がありまして、8 月 30 日には「しまくとぅば連絡協議会」というのが発足します。6つか7つぐらいの大きな団体がしまくとぅばを推進していって、学校の中で教えられることのなかったしまくとぅば、沖縄の歴史、文化をもっと学校の中で教えていこうと。

それはなぜかというと、それまで反対の動きがあったからです。私たちは、近代化した学校の中では沖縄の歴史も沖縄の言葉も学んでいません。だから、話せなくなっているわけです。

それよりは、むしろ標準語という東京の言葉を習って、周辺化する、その同化の中で私たちは沖縄人として生きているという状況があるわけです。それに対してだんだん気づきがあって、こういう動きになっている。

だから皆さんは、なぜ沖縄からしまくとぅばを話しに来ているのかなと驚かれたと思うのですが、これはいまの基地問題、沖縄戦の問題の源流にあるものと一緒です。

きょう、レジュメを配らせていただいたので、

連載については、これから持ち帰ってぜひお読み願いたいのですけれども、この連載というのは、現在、90歳になるチルーというおばあちゃん(喜納千鶴子さん)の話を書きました。

いま那覇のど真ん中で雑貨商を営んでいる 90歳の女性の人生の中に、その一族がたどった沖縄の近現代史の経験が全て語られるような体験をしている方なのです。

こういう方は多分大勢いらっしゃると思うのです。その経験というのはどういう経験か。

節目節目の経験というのは、沖縄の人々が日本という国家といかに対峙していったか、そしてどうやって国家に同化されていったか、国民国家の位置に位置づけられていったか。この方々の一つ

一つの具体的なエピソードがそれを物語っているものだと思います。

例えば 1800 年、すごい昔ですね。200 年以上前の話をなぜ新聞記者が書けるのかと思うかもしれないですが、この千鶴子さんの祖父母の話なのです。

一世代が 40 年ぐらいとすると、6 代ぐらいまでの記録というのが記憶としてこういうふうに語られていたみたいな形で、多分語っていけると思うのです。

千鶴子さんのおばあちゃんの記憶として、その何代か前に那覇のユカッチュ、侍であった士族が落ちぶれて、本部町の桃原というところにヤンバルウイ、都落ちしたのだよという記憶があると。

それはどういうことだったか。チルーの祖母、チュラヌヌウヤーハンシー(美しい布を織るおばあさん)が一族の歴史を伝えていました。

どういう歴史かというと、8代前に那覇の士族だったのだが、琉球が戦に負けたことがきっかけで帰農士族となって地方へ下った。

1800 年のこの戦は何だと思いますか。1609 年の薩摩の侵攻なのです。薩摩が中国との貿易の利潤を狙う形で琉球国に入ってきたことが士族を没落させて、食べることができなくなったので、農業をするために地方に散っていくという歴史をこの一族は記憶していました。

1880 年になると、琉球処分――琉球処分は1879年です――という形で沖縄県が設置されて、その翌年には東京の言葉を中心にした「沖縄対話」という標準語教育が開始されました。標準語教育を行うことで兵隊になる。兵隊になって命令を聞けなければ、兵として役に立たない。日清・日露のころ、徴兵制が入ってくる。沖縄の徴兵制は日本に比べて遅れましたが、そういうふうに標準語教育をしていって、日本の国民にしていくということが 1880 年から始まりました。

これは多分台湾とか韓国、朝鮮半島でもあったものだと思うのですが、「会話伝習所」をつくり、日本から教師を送り込み、日本の標準語を教えていくという経過があります。その後にそれが沖縄師範になっていくという形です。

これは連載1の中に書いてあるので、少し読んでみていただきたいのですけれども、例えば先ほどのヤンバルウイという記憶の中には、連載の 1回目の 5段目ぐらいに、チュラヌヌウヤーハンシーの記憶として、「女は子を背負い、鍋や道具を頭に乗せ、男は道具を綱で束ねて、20 里余をはだして草をかき分け歩いていった」と。200 年前の記録なのだけれども、このおばあちゃん、ハンシーは、「ヤマトに負きてぃ ヤンバルうりさんり いーさ(日本に負けて山原まで下ってきたそうだ)」、それが一族の記憶として残っていることなのです。

那覇のど真ん中で雑貨商を営んでいるおばあちゃんの祖父母の記憶として、こういう国家と対

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峙するような記憶があること自体が非常に興味深いというか、沖縄が歩んできた歴史を象徴していると思うのです。

現在沖縄に生きている 90 歳ぐらいの人の経験が非常に多難と苦難に満ちているということを知らない限り、気づいて意識しない限り、沖縄の問題の根っこにあることというのは、実はかなり伝わりにくいし、なかなか理解しにくいと私は思っています。

沖縄の若い人でも歴史を勉強する機会がなかなかないので、非常に難しいことだと思うのですが、実際 90 年生きている、平穏な、平和ではないのだけれども、いまの社会の中で生きているおばあさんの体験の中に、日本に侵略された歴史や、国民国家に同化されていく沖縄人の歴史が残っているというのは、ものすごい体験だと思うのです。

90 歳の体験に残る同化の歴史

もう一つ特徴的な部分は、一つの事例として、チルーさんが本部町桃原というところの出身だったのですが、現在は豊原というところに変わっています。

ここをすごく有名にしているのは桃原事件、1910 年の山原事件というのがあるのです。

これはどういった事件かというと、沖縄では徴兵検査というのは、1897 年ごろ、日本に遅れて導入されました。

徴兵検査で大和出身の検査官によって、腕が曲がった障がいのある男性が腕を押し曲げられ、伸ばされた。それで卒倒したことで男性に徴兵忌避の疑いをかけているわけです。それで地元、桃原の人が怒って騒動になる。

そのいきさつというのは、連載の 2回目に日露戦争の兵士の写真が載っている回に載っているのですが、本土出身の検査官が青年の忌避を疑って、曲がった腕を力ずくで伸ばした。障がいをうそと疑われ、仲間を物扱いされた怒りが青年たちの怒りをかき立てた。

これはチルーが先代から聞いた話で、感情を代弁しているのですが、「がってぃんならん うんなまでぃ、うちなー うしぇーるばーい(全く納得できない。許せない。こんなに沖縄をばかにするのか)」と。

そういうふうにして、障がい者であるにもかかわらず徴兵に動員していこうということに対する憤りです。

徴兵忌避というのは、もちろん日本にもありました。それは、戦争では死にたくないわけですから、沖縄だけの話ではない。

しかし、沖縄の徴兵忌避の特徴というのは、琉球国というものが日本に併合されて、日本の兵隊にはなりたくない、日本の兵隊になることが非常に嫌だということもあったと聞いています。

例えば連載の 2 回目の上から 5 段目ぐらいに「皆、言葉が分からんから、苦労したという。一人でも標準語が分かる者がいれば代表して聞いて、残りの者に説明する」、そういう状態だった。

そして軍隊の中では命令がわからず、ばかにされ、制裁を加えられることもあった。

「沖縄対話」による標準語教育が始まってから30 年たってもこの状況で、沖縄の言葉というのが低位に置かれ、沖縄人というのは 初から低いものだという差別の対象に置かれることで、沖縄人が激しい同化を強いられていったというのがここからわかると思うのです。

その桃原は、戦前に「豊原」という地名に変わっているのですが、実は戦後、集落を潰して、米軍が上本部飛行場というのをつくっております。この人たちはそこには住むことができなくなって、那覇にかなり出ていきました。

しかし、上本部飛行場というのは、1972 年、沖縄の施政権が日本に返還された後に 15 年放置されました。15年放置されて、何ら補償もない、何ら活用することもできないときに、日本政府が、どうせだったら自衛隊の基地にしたほうがいいのではないかということで、再接収をしようとしたわけです。それに対して、桃原の人たちが怒って住民ぐるみで反対し、20 年の闘争を闘いました。おじいさん、おばあさんが闘争小屋をつくって、全県から支援者を募って監視をして、20 年かかってこの自衛隊基地というのを断念させたのです。

その根っこにあるのが「桃原頑固(とうばるぐわんくー)」という自分たちのプライドであり、決して戦争のために自分たちは動員されたくないのだという気持ちがそこに出ているわけです。

沖縄の問題を語る、考えているときには、そういう人々の根っこにある国家と常に対峙するという感覚を意識しないといけないと思います。

例えば、あまり報道はされないのですけれども、基地問題、沖縄戦の認識問題で県民大会が開かれたときに、8 万人、10 万人、11 万人集まる。何であれだけ集まるのかがわからないという、この根っこにこういう問題があって、それぞれの参加者、人々の立っているその足元、そういう記憶とか歴史経験がしみついている土地に私たちが生きているということが、大和の人にはほとんど理解されていないのです。

そこが沖縄問題というか、非常に認識の違いがあると思うのです。

忌避の中で「がってぃんならん(合意していない、許せない)」という言葉が使われていたのですが、この言葉は、ことし 4 月 28 日に安倍さんが「主権回復の日」というのをやったときに、沖縄で抗議集会が行われて、そのときに、普通だったら「反対」とかいうシュプレヒコールを上げるときに、「がってぃんならん」三唱でやっているのです。「がってぃんならん、がってぃならん」と。

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その大会は非常におもしろくて、しまくとぅばがすごく出ていました。それまでは日本語で「頑張ろうとか、絶対許さない」みたいなことを言っていたのが、沖縄の言葉で言うことで、世界というか、その空間がちょっと違った感じになっているのです。この言葉を意識的に使うことで自分たちの根っこを獲得しようと。私たちは一体何者なのか、私たちは日本という国家に対してどういうふうに位置づけられているものなのかというのが、違う言葉、違うという認識を醸し出す言葉を使うことで自分の立つ位置というのが見えてきているのだと思っています。

つまり、なぜ「沖縄問題とは何か」というタイトルをレジュメにつけたか。これはすっと結びつかないのかもしれないのですが、基本的に沖縄の問題というのは沖縄の問題ではありません。これは大和の人々の問題です。その問題を問題化することで、鏡にして、自分たちの国のあり方、自分たちの立つ位置のあり方を沖縄に投影しているだけの話で、沖縄問題は沖縄で発生しているわけではないのです。それを意識しないと、報道もできないし、問題の解決もできないと沖縄の人はいま気づいていて、だからこそいろんな立場で立ち上がろうとしているという部分があると思います。

以上です。

司会 どうもありがとうございました。では、島さん、よろしくお願いします。

島洋子・琉球新報東京支社報道部長 こんにちは。琉球新報の島と申します。

きょうは、たくさんの研修の中で沖縄問題にも関心を寄せていただいて、本当にありがとうございます。感謝します。

私は、沖縄問題の 2つの神話ということで、大きな誤解がある点を 2点、お話をさせていただきたいと思います。

まず、「沖縄は基地で食っている」というお話があります。

逆に質問させていただきたいのですけれども、沖縄の県民総所得の中で、基地に関する収入というのはどのぐらいだと思われますか。

これは、軍用地料であったり、基地で働く人の給料、基地内で工事をしたりするもの、米軍の人たちが沖縄の民間地で買い物をしたりするものを全部ひっくるめた数字です。

一番前に座っている方にお聞きします。ざっと何%だったか。勘でいいですよ。――10%ぐらい。わかりました。

私は 4月に転勤で東京に来まして、この質問をいろいろとさせていただいているのですが、大体50%か 30%と言うのです。10%とおっしゃったのは本当に低いぐらいの数字ですけれども、沖縄の経済に占める基地の収入というのは 5%です。

先ほど言った基地関係収入というのは、いま、約 2,000 億円あるのですが、その中で 7割は日本政府が出しているお金です。軍用地料という基地として使うために借りる土地のお金、基地の従業員の所得などもひっくるめて、7割は日本政府が出していて、それが沖縄の経済の中に占める割合は 5%です。決して小さくはありませんが、沖縄は基地で食っているというほどの数字でしょうか。

東京でも聞いていて、皆さん、その辺を全く誤解していて、沖縄の人は、3割とか 5割は基地で食っているのだろう、沖縄の人は多くが基地に雇用されているのだろうという誤解がありますし、実は沖縄の中でもその誤解は解けていないところです。

では、基地で働く人は何人いるのでしょうか。

40 年前、沖縄が復帰したとき、1972 年に約 2 万人が基地で雇用されていました。現在は 9,147 人です。ほぼ半分になっています。沖縄の全労働者というのは66万人ですから、66万人の中の9,000人ということになります。民間の経済の中で基地の占める割合は少ないということがおわかりになるかもしれません。

基地で食っているという神話

では、沖縄の自治体というのは、基地がないと立ち行かないのか。

これについても非常に違うと思います。

お配りしたレジュメの中にこういう表があると思います。政治家や官僚という人も含めて、私が東京で話をすると、沖縄は基地と引きかえに金をたくさんもらっているのだという話をして、さらに基地に反対する者もお金を引き出す手段ではないかということを言っている人たちもいます。

では、沖縄の自治体というのはどういうふうになっているか。

国からの財政移転というのは、大きく分けて国庫支出金と地方交付税です。その 2つを合わせても沖縄が全国 1 位になったことは、復帰から 40年で一度もありません。大体 5 位から 11 位ぐらいの間を行ったり来たりしているような状況です。

これは 2008 年のもので、ちょっと古いのですが、島根の皆さんには申しわけないのですけれども、都道府県名が全部わかるので出させていただきました。決して沖縄県の自治体が基地から財政移転をして潤っているわけではないことがこの数字でおわかりになると思います。

沖縄の本島の 10%の土地が基地に使われていて、さらに全国の 74%の米軍施設が沖縄に集中しているという状況で、沖縄県庁、いま保守県政ですけれども、保守の県政であっても、基地は沖縄の経済発展の阻害要因であると明確にうたっています。そこがなかなか東京には伝わっていな

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いという現実があります。

いま、なぜ沖縄の人がそういうことを言い始めたかというと、戦後 40 年たって、返還された土地が開発によって大きなまちになっているからです。那覇市の北のほうに那覇新都心という仰々しい名前のエリアがあります。192ha あって、復帰後 30 年かかってようやく返還が実現しました。それからまちづくりが始まり、およそ 10 年でいま、すごく大きなまちになっています。

那覇新都心地区というのは、例えば市町村に入る固定資産税、軍用地料、それから基地の従業員は 162 人しかいませんでしたが、そこで働いている所得も全部ひっくるめた返還前の経済効果というのは 51億円でした。

那覇新都心 返還後の経済効果 735 億円

返還後、そういった設備投資効果も含めた経済効果は、いま 735 億円になっています。雇用は、160 人だったものが 4,161 人と 30 倍以上になっています。

北谷町美浜にハンビー地区というところがあります。ここは米軍の飛行場でした。滑走路があったところで、雇用人数というのは本当に少なかったのですが、いまここは観覧車などもある観光地になっていて、返還前の経済効果が年間 3.3 億円でしたが、いまは 573 億円になっています。

沖縄の人はこういった状況を見て、基地は返されたほうが沖縄の発展に役立つのだということが目に見えてわかってきています。

ただし、敗戦後、それからずっと基地に依存してきたという、復帰前の依存構造というのはまだ残っています。例えば軍用地料というのが必ず言われるのですが、本土の基地の場合は、民間地というのが 12%ですが、沖縄の場合は、9割が一般の人が持っている土地です。それは、「銃剣とブルドーザー」と言われているぐらい、人が住んでいたり、農地だったところを米軍が強制的に接収したからなのです。そこの補償として入ってくる軍用地料というのは、沖縄ではよく「真水」といわれていて、土地は使えないのだけれども、軍用地を持っている人たちだけは真水で潤っているという形になっていて、そういった形の依存構造。

市町村にしても、基地が大きい嘉手納町などは、3割が基地収入、軍用地料や、基地がある市町村にだけおりる基地交付金ということになっています。

そういう依存構造がまだ残っていて、そこを突破するのが沖縄の課題ではないかなと思っています。

もう一つ、政府が沖縄にはすごくお金をあげているといったまやかしをちょっとご説明します。

お配りしたものの裏の表です。

沖縄の振興予算というのは、1998 年の 4,700億円がピークでした。いま現在は 2,300 億で、半減しています。

95 年に沖縄で不幸な少女乱暴事件が起きまして、それから沖縄の基地問題に関して、政府は、普天間飛行場の移設を受け入れてくれた名護を含む北部には、北部振興費ということで年間 100億円を 10 年間与えようではないか、それから基地がある市町村に対しては、活性化事業でいろんな箱物をつくっていいよということで、島田懇事業のお金を投下しました。それを政府はすごく喧伝しましたけれども、実は島田懇事業や北部振興費というのは、結局、予算を大きく削減した上で別の名目でちょっと乗せたぐらいの数字になっているのです。

沖縄振興予算は本当に右肩下がりで減らしたけれども、こういう振興費をつけているということをすごく喧伝しているわけです。

小泉改革のときに、全部の自治体に「三位一体改革」という言葉があったことを覚えていらっしゃると思うのですが、自治体に対するお金を一律3%減ということをやりましたが、沖縄は 5%減らされました。5%減らされたうえで、北部振興費などの予算を乗せたという形です。

だから、沖縄に基地を負担させている代わりにすごくお金を落としているということは、実は数字のマジックというか、まやかしであるということがよくわかると思います。

もう一つ、抑止力の神話ということで、沖縄の海兵隊が、尖閣問題も含め、抑止力になっているという話があります。沖縄の海兵隊については説明しませんが、海兵隊の必要性については、実は日米双方の学者から疑問が出されています。

リチャード・サミュエルズさん、マサチューセッツ工科大学の冤罪補償の専門家が米専門誌に去年発表しましたが、「海兵隊を沖縄から移動させても、ほとんどの緊急事態における作戦遂行上、大きな支障はない」というふうなことを言っています。

柳澤協二さん、元内閣官房副長官補で、安全保障担当の方も、「尖閣問題で仮に日中が衝突した場合、現在の軍事作戦で陸上戦力のプライオリティーは低い、海兵隊自体が戦局を左右するという戦争はなくなっている」というふうに言っています。

実際、海兵隊の位置づけもアメリカ内部で変化しています。米軍の新しい東アジア戦略が昨年発表されましたが、当時のクリントン元国務長官は、「今日の急速に変化するアジア地域の課題に対処するには、より地理的に分散し、作戦面で弾力性があり、政治的に持続可能な米国の軍事態勢が必要である」と言っています。

実際、米海兵隊は、沖縄だけでなくて、ハワイ、グアム、オーストラリアにローテーションで展開するという新しい軍事戦略を、もう展開しています。

ジョセフ・ナイ元米国防次官補も、「沖縄県内に海兵隊を移設するいまの普天間飛行場の計画が、沖縄の人々に受け入れられる余地はほとんど

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ない。海兵隊をオーストラリアに移すことは賢明な選択だ」とニューヨーク・タイムズに述べています。

こうした中で、日本政府は、海兵隊は必要だ、しかも、海兵隊は沖縄にいるべきだということに固執している。そして、実はメディアのほうもそこにあまり疑問を挟んでいないという現実があると思います。

もし海兵隊の抑止力が必要ならば、日本全国に分散させてもいいのではないかというのがいま沖縄県の主張です。

私自身は、沖縄への過重な負担を解消することは必要だけれども、日本全国にその負担を広げていいものなのかということに対しては相当な疑問がありますが、いま、実際沖縄県はそう言い始めています。

普天間飛行場も含めて沖縄に基地を置き続ける理由。これは、野田内閣のときの防衛大臣、森本敏さんが 2012 年 12 月 25 日の閣議後会見で、普天間基地などの移設先について、「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が

適の地だ」と明言しています。

つまり、軍事戦略上ではなくて、いま沖縄に基地があって、ほかの他府県に移すのは非常に苦労するから、それだったら沖縄に置き続けていたほうがいいというのが日本政府の本音だと思います。彼の一言に要約されていると思います。

そういう意味で、沖縄の人は、この 2つの抑止力、基地経済の神話に気づき始めています。ですから、沖縄のいまの基地問題に対する強い抵抗、反対というのが起きているということをぜひ記者の皆さんにはわかっていただきたいなと思います。

私の話はとりあえず以上です。

司会 どうもありがとうございました。では、三上さん、お願いします。

三上智恵・琉球朝日放送ディレクター 皆さん、こんにちは。琉球朝日放送のディレクターと紹介されました三上智恵です。

アナウンサーと言われたり、キャスターと言われたり、 近は監督とも言われているのですけれども、私は映画監督としてカチンコ鳴らしたことはないのです。ことしの 8 月 10 日から東中野にありますポレポレ東中野というところで映画を公開しています。実はきょうも朝早く沖縄を出てきて、1回目の上映の後の監督舞台挨拶みたいなものをやってきたところで、 それがいまからお見せする「標的の村」という映画なのです。映画と言っても、私たちはテレビ局なので、テレビ用の、しかも、ドキュメンタリー用というよりもニュース用に撮った映像の積み重ねで 30 分番組になり、1 時間番組になり、そして 91 分のテレビ局初のドキュメンタリー映画という形でいま公

開中です。全国 20都市で公開が決まっています。これからもうちょっと増える予定です。まさかこんなに観客が動員でき拡がることになるとは思ってもみませんでした。

沖縄の基地問題は、テレビ朝日の大先輩がいる中で言いにくいのですが、なかなか系列の全国ネットに乗せてもらえない種類の話題です。1分程度のニュースにはなるのですが、沖縄発の企画としてはなかなか取り上げてもらえず、オスプレイが来ると言ってオスプレイが飛来する瞬間を生で上から下から映しても、全国に何のインパクトも与えられていないというのがいまの現状だと思います。

オスプレイ配備 泣きながら取材

私たちは毎日毎日 30分、40分のニュースを伝えている。私は夕方のニュースキャスターで、18年も毎日のようにニュースをやっているのですけれども、本当にジレンマの連続で、特に去年の10 月 1 日に配備されたオスプレイ。そのときは敗北感でいっぱいで、取材も泣きながら、3日間ぐらい徹夜で現場と編集を往復しました。その場面が出てきますけれども、顔もですが心もぼろぼろだし、いまだに立ち直れていません。

私たちQAB(琉球朝日放送)は、この映画が全国公開になって、おめでとうなどという雰囲気では全くなくて、いまこれを全国に見せ、私たちは何のために報道してきたのかわからないというような、いても立ってもいれない状態で今日に至っています。91 分編集したテープを、全国の関心がある人のところには持っていってでも見せようと。小屋を借りるなら、そのお金は入場料としていただくけれども、全国津々浦々に持っていってでも見せなければいけない、そういう気持ちで作ったものなのです。

12~13 分にまとめてあります。抜粋したのでつながりは悪いのですけれども、ごらんください。「標的の村」です。

(DVD上映)

随分説明不足なのですが、まず、オスプレイが飛来する 3 日ぐらい前から配備先の普天間基地の各ゲートの前はこういう状態だったことを皆さんはご存じでしょうか。

テレビ朝日がこの日、日曜日の夕方に 2分ぐらいのちょっとした特集をつくってくれた以外は、全国ではほとんど放送されませんでした。かといって、沖縄県内でもあまり見ませんでした。うちが随分やったのですが、なぜ他社が放送しなかったのか、ここがものすごく怖いところだと思います。

きょう、朝、飛行機で外岡さんのレジュメを読みながら来たのですが、外岡さんのレジュメの中に、沖縄は 27 年間、異民族統治があって、その

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間に一つ一つ闘って民主主義を勝ち取ってきたということをまず理解するべきだということが書かれてあったのですが、私はその 1行を読んで、

思わず涙がこぼれました。民主主義を勝ち取ったというけれども、この状況ですよね。

占領から 27 年間、本当に沖縄県民には人権も自由も何もなかったのです。財産権がないから、基地に勝手にとられてしまうわけです。平和に生きる権利もこうして奪われて、いま現在も奪われている。平和的生存権もないですし、教育基本法さえなかったし、英語で教えるか、日本語で教えるか、沖縄の言葉という話が出たかどうかわかりませんが、そんなことからアメリカ人に決められる始末だった。そんな絶対的な権力を持つ相手に抗議する手法として、何も力のない民の 後の手段が「座り込み」。沖縄県民はずっとそれをやってきたわけです。

でも、その基本的人権を守らんがための座り込みを通行妨害という全然関係ない交通法で取り締まり、裁判を 6年間続ける。いま、日本の政府が国民に対してそんな裁判を仕掛けていることを皆さんはご存じでしょうか。

日本政府によるスラップ裁判

この 5年間、スラップ裁判が全国的なニュースになっていかない、とても薄気味悪い国になったなと思っています。私たちだけがなぜ問題にしているのか。多くのメディアが見て見ぬふりをしている理由がよくわからない。なぜ伝わっていかないのかわからない。ずっともがいている中で、映画という手段で、映像を持っていって見せるということにいま初めて取り組んでいるわけです。

いまのを見ていただいただけでも、テレビ局にしては随分偏っているなという印象を持った方が多いと思います。よく偏っていると言われます。沖縄の報道自体が偏っていると国会議員の小池百合子さんにも言われました。中立というのは何なのかということなのです。公正中立とは一体何なのか。そんな概念は本当に成立するのかどうか。

東京を中心とした日本の国全体の利益と沖縄の利益が一致しないことは、あり過ぎるぐらいたくさんあります。そのときに、地元のメディア、地元に伝えるのがメーンの私たちが、国と沖縄の真ん中に立って両方伝えるなどということはあり得ないです。海に落ちてしまいます。国と沖縄という 2項対立の置き方自体がおかしいです。

でも、沖縄の中にも賛成、反対があるじゃないかと言うかもしれませんが、私は、18 年間沖縄で報道している中で、自分の中の結論として、沖縄で基地に賛成している人なんていないと思います。先に折り合った人がいるのだと思います。「基地をつくってもいいですか?」と聞かれてから土地をとられたわけではないです。アメリカに占領されて、ただ同然でとられていって、いま現在はある程度の地料があるかもしれませんが、皆さんが驚くほどの金額ではないです。

そうやって外国の軍隊と一緒に生きていくしかなかった中で、どんなに抵抗してもほとんどやられてしまうという中で、怒りとか抵抗を持ち続ける強さなんて、ほとんどの人はないと思います。どうせやってもだめなのだったらということで、条件を出して折り合った人に対して、それはお金が欲しくて基地に賛成しているのでしょう? というレッテルを外の人たちが貼っています。

先ほど島さんの話にもありましたが、基地のお金がないと生きていけないという神話とか、 近は尖閣とかなんとかにオスプレイが必要だという防衛省が垂れ流している情報をそのまま書く記者たち、そういうものや、お金が欲しいから賛成しているというストーリーは、つぶしてもつぶしても毎回よみがえってくるのはなぜかということを考えたときに、それは本土側の、基地を押しつけてしまっている罪悪感を楽にしてくれる要素だからなのだと思うのです。

「だって、沖縄の人たちはお金がないとだめなのでしょう、背に腹は代えられないよね」という話に落とし込んでいくことで、落としどころを見つけるという形のいまの報道が成立してしまってから随分長いのではないかなと思います。

実態が伝わらない。大手メディアが探しているストーリーは、結局、沖縄の人たちはお金が必要なのだというストーリーだということをものすごく自覚したのは、鳩山さんが辺野古の県外移設をぶち上げたときです。毎日毎日、辺野古の問題が報道されているのですが、舞台は全部官邸とかこの辺(霞が関)なのです。そもそも埋め立てられる海はどんな生態系があるのか。既にある基地との共存はどのように地域に刻まれてきたか。地元は賛成、周囲は反対と言われる構図は本当なのか。その目で見ないと解らない大事な問題が待っているというのに全然辺野古に取材に来ないのです。

普天間の返還を決めたSACOの合意のころは、沖縄問題をやる人たちは随分辺野古にも入っていましたが、私の知る限り、鳩山さんの民主党政権にかわってからは、政治絡みの記者たち、大臣にくっついてくる人たちはみんな、鳩山政権がぼろを出すところを狙うような報道ばかり。沖縄に来て辺野古も見ないで、失言ばかり追い求めて、ゴシップ的な記事を書いて終わる。沖縄の基地問題に切り込まずに仕事を済ませようとする。本当にていたらくだなと思います。

沖縄の現状を取材しなくても、視聴率がとれる政局であったり、大臣の失言だったり、そういった政治模様をニュースショーにするようになってしまってから、本当に沖縄の取材の中身が薄くなったなと思っています。

公正中立とは一体何のことかなと思います。この 91 分の映画の中に基地をつくりたい人が出てこないじゃないかという意見が結構ありますが、基地をつくりたい人をそこに出さなければいけないという概念自体が、テレビ的なドキュメンタ

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リーは両論併記みたいなことで成り済ましの中立ということを随分やってきて、その悪い癖が視聴者にしみついてしまっているなと思っています。

どうしてそこを描かなかったかというのはまだまだ話すと長いので、このぐらいにします。また懇親会の席とかで個別に話せたらと思います。

以上です。

司会 どうもありがとうございました。では、その話も受けて外岡さんのほうからお願いします。

外岡秀俊・元朝日新聞編集局長 私は 2年前に朝日新聞を早期退職しまして、札幌が田舎なものですから札幌に戻って、札幌を拠点にいま仕事をしています。

去年のこの席に、東日本大震災の話をするようにということで呼ばれて、お話をしました。

今回、「なぜ私を呼んでくださったのですか」と事務局の方に伺ったら、「去年、おまえが来たときに、『記者であれば沖縄にぜひ一度行ってくれ。それが私の望みです』ということを話したろ」と言われまして、確かにそうなのです。

95 年に阪神大震災があって、私は当時「AERA」という雑誌の記者で、そこから 1年近く通っていたのですが、途中で沖縄で少女暴行事件が起きて、新聞に取材班に入れと言われて、それ以来ずっと関わってきたのです。途中ロンドンにいたこともあったのですけれども、自分の中では、震災と沖縄というのがライフワークだなというふうにこの十数年間思ってきました。

きょう、映像を初めて拝見したのですが、本当にすごいなと思いました。ああいう衝突が日常的に起きているわけですけれども、辺野古の海の問題もそうなのですが、要するに、記者がそこにいることによって辛うじて暴力自体が避けられているのです。彼らが見ることによって、住民の人たち、おじい、おばあにけがをさせるというようなことが起こらずに済んでいる。沖縄の記者というのは、本当に体を張って前線で取材しているわけです。

去年もことしもそう思っているのですが、福島と沖縄というのは共通しているところがあると思うのです。もちろん違うところもあるけれども、一つは、さっきの映像の中で防衛省の人が言っていました。「われわれは基地がどう運用されるかということについては関知していないのだ」と。あれが非常に典型的な言葉だと思うのです。

原発も、できるまでは反対運動があって、両論併記で書きますけれども、いざできてしまうと、自治体は一切関知できないのです。あれは国家の空間になってしまうわけです。もちろん、電力事業者が管理するわけですが、地元の住民が全く関知できない空間になってしまう。そういう意味で

は、基地も全く同じなわけです。

もう一つの特徴というのは、忘れ去られてしまうということなのです。避難している福島の人たちは、いまこの瞬間でも 15 万人いるわけです。戦後、日本でそんなことはなかったし、世界的な紛争の中でも、一遍に 15 万人の国内避難民が出て、そのまま 2年以上もたっているというところは数えるぐらいしかないと思うのです。多分 100もないと思うのです。それがいまこの日本で起きていて、しかも、なお今後数年間、あるいは 10年以上続くかもしれない。

そういう事態が日々の紙面、あるいは日々の番組の中から忘れ去られてしまう。そして沖縄問題、いまでもこういうふうになっているにもかかわらず、メディアが取り上げていない。この構図というのは一体何なのかということ。先ほど 3日間の研修のカリキュラムを見せていただきましたけれども、多分考えるべきは、なぜメディアはこうなっているのかということで、それぞれの場に帰って職場で話し合ってほしいと思うのです。

なぜわれわれはこれを取り上げていないのか、われわれのメディアがこの問題を提起していないのかということが、おそらく皆さんが働いているそれぞれの職場、あるいはそれぞれの仕事に直結しているはずなのです。なぜ取り上げられていないのかということを今回の研修の一番のテーマにしていただきたいなというのが私の希望です。

去年も申しあげたのですが、いらしていない方は、一度ぜひ沖縄に行って自分の目で見ていただきたいと思います。そうしないと、あれほど狭いところにあれほど過重な負担を強いられていることの意味を実感できないと思うからなのです。沖縄あるいは福島と直接関わりのない方にとっても、それはとても大きな意味を持ってくると思うのです。それはいま、あなた方が働いているメデイアの欠陥がそこに凝縮されているからだろうと思うのです。

いま、3人からプレゼンテーションがあったとおりのことで、私がいまそれを受けてお話ししたいことは、なぜそれが理解されていないのか、あるいは理解しようとしないのか、理解しないふりをしているのか、その原因について簡単にまとめてみたいと思います。

私のレジュメは、「沖縄と本土の溝」というのが一つ。もう一つは、朝日が出している「Journalism」でことしの 2月に琉球新報の政治部長と比屋根さんという琉大の先生と鼎談をしたので、そのコピーが資料としてあります。

中身は帰ってからごらんいただけたらと思いますが、左側の琉球新報の記事と写真があります。「オスプレイ拒否、10 万 3,000 人結集」と。これは小さくなっているのでよくわかりませんけれども、新聞の両面見開き、1面、フロントページと、普通、テレビ欄がある一番の 後のところを 1枚にして印刷しているのです。

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これは珍しいことではなくて、大きな節目には沖縄タイムスも琉球新報もこういう紙面構成をしています。

たまたま先ほどタイムスの方がこれを持ってきてくださって、これはきょうの新聞ですが、「オスプレイ着陸失敗」ということです。

けさ、私は朝日しか見ていないのですけれども、1社のべたです。

オスプレイの配備が決まってから、連日このような紙面の落差が続いています。

NHKだって、沖縄の方がきょう来ていらっしゃると思うのですが、沖縄に行けば、沖縄のローカルのニュースで基地問題が取り上げられない日はないです。

本土メディアは安全保障

沖縄メディアは暮らしと人権の問題

それはなぜかというと、本土のメディアにとっては沖縄というのは安全保障の問題ですけれども、沖縄にとっては暮らしの問題、あるいは人権の問題なのです。それは生活に否応なく入ってこざるを得ない。別にイデオロギーとかそういう問題で反対しているわけではないのです。

さっきのゲートの閉鎖には、沖縄の地元の議員とか、あるいはかつての県議会を代表していて、いま沖縄の那覇市長をやっている翁長さんとか、自民であろうが、どこの政党であろうが、みんなそこに座り込んで、そこに行ってから議会に行くということをやっているのです。しかし、悲しいかな、それは本土には伝わらない。そういうことを沖縄の記者はずうっと毎日毎日感じているわけです。

だけど、本土にいるわれわれは、沖縄が偏向しているのではないかとか、あるいは金が欲しくてやっているのではないかとか、そういう目でしか見ていない。そのすれ違いについて 3人の方がおっしゃっていて、謝花さんは、それはいま始まった問題ではなくて、長い文化あるいは歴史に根差した問題ではないかということを指摘されたわけです。

その次のページに続く「差別的扱い」というのがあって、いまの琉球新報、あるいはタイムスがこの差別ということを正面から取り上げ始めた。あるいは県民集会でも議員の皆さんが差別ということを公然と言い始めている。

これは何かというと、民主党政権が非常に大きな役割を果たしたと思うのです。それまではずうっと自民の政権がやってきて、基地を押しつけてきて、それが変わらなかった。しかし、民主になれば変わるのではないかという期待があったわけです。

それに火をつけたのは、ある意味で鳩山さんだったわけですが、しかし、それは全く変わらなかった。変わるどころか、オスプレイ配備ということまで過重に押しつけてきた。これは一政権の問

題、あるいは自民の問題、民主の問題ではなくて、これは本土全体が沖縄に基地、あるいは安全保障問題の重荷を押しつけて動かさない。そういう構図は「差別」と呼ぶしかないのではないか。そういう自覚になってきているわけです。

しかも、ごく 近では、いままでは「居酒屋独立論」と言われていた琉球独立論が、学者の間でも、あるいはもっと広がりを持って語られ始めている。いま、そういう状況だと思うのです。

時間がないので、なぜそういう溝が生まれたのかということについては、後で読んでいただくことにして、簡単にいくつかのポイントを指摘しておきたいと思います。

一つは、さっきもご紹介があったように、27年間、米軍による直接の統治があった地域は沖縄以外ないわけです。小笠原とか、途中まで占領されていたところはありますけれども、少なくとも本土が 6年間、間接統治しか経験していないところで、米軍と向き合って 27年間を送ってきた。

勝ち取ったというふうに私が言ったことについては、さっき疑問が出ましたが、勝ち取ったというふうに言えるかどうか疑問なのは、そのとおりだと思うのです。

沖縄返還が決まってからも、コザ暴動という形で民衆の不満が爆発したし、さっきのあれとは別なのですが、沖縄には立法院という形だけの議会が占領当時もあったのですが、そこの周りを住民が全部埋め尽くして、教公二法という法案を通そうとしたときに、住民がそれを実力で阻止したのです。そのときに周りを警官が囲ったわけです。ところが、沖縄県民が警官をごぼう抜きにして徹夜でそれを阻止したのです。そういう歴史を持ったところなのです。

残念ですけれども、そういうことをわれわれは知らない。

さっきの誤解の一つですが、本土の米軍の基地というのは、ほとんど旧軍の基地なわけです。昔から軍の基地だった。しかし、例えば嘉手納飛行場というのは、日本軍の中飛行場を米軍が占領して、そこを拡充してつくったところなのです。戦場の中で、普天間飛行場というのも米軍が占領してつくったわけです。それは力ずくで奪い取ったわけです。だから、民有地があり、共有地がほとんどなのです。もともとの国有地でないから。だから、住民が先祖の土地を奪われたという怒り、悲しみがそこにあるわけです。そのことも、われわれ本土には例がないので、知らないわけです。

だから、ある人が普天間の話をしたときに、普天間のすぐ周辺に、ヘリが落ちた沖縄国際大学をはじめ、12 の小中学校、幼稚園、大学があるわけですが、何でそんな危ないところに学校なんかつくるのというふうに言う人がいて、ちょっとどうしようもないなと思ったのです。

もともと住民が住んでいた一番の中心地を米軍が占領して、住民がキャンプに収容されているときに、フェンスで囲ってつくってしまったわけ

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です。戻された住民はその周りに住むしかないのです。その地域の 3 割だ、4 割だ、5 割を米軍に占拠されて、もともとそこに住んでいた住民は帰るところがないわけです。本当に周りの狭いところに暮らすしかない。そういうことを 27 年間ずっと強いられた。

しかし、本土並みと言われていた沖縄返還の後もずっと続いているわけです。68 年間、全く構図が変わっていないというのが沖縄の現実なのです。

もちろん、それを知っている人は知っていますし、ここにいらっしゃる 3人の方とか、きょういらしている沖縄ラジオの方とか、沖縄のNHKからいらした方にとっては、皆さんこんなのは常識なのですが、悲しいかな、それを知らない人が多いのです。

ですから、少なくとも沖縄のことを報道するときは、そういう前提となっている歴史とか、あるいは沖縄戦で 3人に 1人、4人に 1人の県民が殺された、あるいは巻き添えになって軍に銃剣を向けられた、壕から追い出されたとか、そういう沖縄戦の歴史というのが、いまの基地の問題には欠かせない前提なのです。

あるいはベトナム戦争のさなかに、沖縄から直接爆撃機が飛んでいってベトナムを爆撃している。それはなぜかというと、日米安保すら適用されていないときにそうされて、だから基地にわれわれは加担することができない。そういう歴史をたどっているということをぜひどこかでお知りになってほしいなと思うのです。

そういうことは、行けばすぐわかるので、あるいは一度行ってみないとまず皮膚感覚ではわかりにくい問題なので、皆さん、ぜひ行ってください。それを私のきょうの簡単な結びにしたいと思います。

司会 どうもありがとうございました。

この中で沖縄に行ったことがあるという人はどのぐらいいますか。ちょっと手を挙げてみてください。――結構多いですね。問題意識のある方が多いのかなと思います。

では、質問をしていきたいと思います。

謝花さんと島さんにお聞きしたいんですけれども、きょう、謝花さんは沖縄タイムスの朝刊を持ってきていただいて、これを初め見たとき、昔の新聞を持ってきてくださったのかと思ったんです。つまり、朝、東京の新聞の 1面だけしか見てこなかったから、全然ニュースに気づかなかったし、例えばいま携帯電話でニュース速報が通信社から送られてくるのですが、それにも全然なかった。アメリカでオスプレイが着地に失敗したというのは、現在の沖縄のことを考えると、すごく大きなニュースだと思うんです。これが普天間基地の外で着地に失敗して炎上したら、どれぐらいの事故になっているか。人が巻き添えになってい

る可能性も十分あるわけですし、かなり大きいニュースだと思うのです。

でも、全然気がつかなかったものだから、古い新聞を持ってきてくださったのかなと勘違いしてしまった。それで、さっき直前に各紙を調べたら、1 面にちょこっとでも入っているところは 1社もなくて、東京新聞は社会面 3段でした。朝日新聞もそういう扱いだったと思うんです。

謝花さんと島さんは、この落差について、新聞記者としてどんなふうにお考えになりますか。

謝花 きのう、この事故が起きたのは日本時間の朝の 7時で、われわれの新聞社としては、昼過ぎに情報が入って、アメリカの特派員の人からの一報とかを受けながら記事をつくっていく中で、みんな非常にいらいらしているわけです。また落ちたと。オスプレイが普天間に配備されているときに、これが落ちたら沖縄はものすごいことになるよなということ、想像力というか、私たちはこの事故の当事者なのです。

私たちは命を脅かされている

非常に怒りながら記事を書いていく。お読みになっていただければわかると思うのですが、そういう紙面になっていると思うのです。

それが、きょうここに来て、東京新聞さんの 3段が一番大きいですよということは、全国紙については、こちらに来てみないとわからないものですから、仰天というか、この落差。われわれは命を脅かされている。

私は、強行配備、オスプレイが一番 初に来たときに、先ほどの三上さんの映像にあったゲートの前とか、ああいう場所を見て、来るぞ、来るぞというときに、記者の中に非常に不快な感じを持っている人がいて、身体感覚として嫌な感じが出てくるわけです。

鉄の塊。一体オスプレイというのはどれぐらいの大きさか、わかりますか。沖縄国際大学に落っこちたあのヘリというのは、どれぐらいの大きさでしょうか。観光バスみたいなのが頭の上に飛んでいて、落っこちてくるわけです。ローターは道路をバーンと横断するような形のでかいやつがわれわれの頭上を飛んでくる。オスプレイはかなりよく落ちると。

そういうのが来たときに、記者仲間と話していると、口の中がじゃりじゃりするというか、口の中に金属を突っ込まれている感じで嫌だとか、あるいは若い記者などがよく言っていたのは、悪夢を見ています。まだ来ていないとき、自分だけかと思ったら、先輩もですかという話で、強行配備のとき、これが 1週間か 2週間続きました。

これこそは、自分たちは、これを文字にはできないのだけれども、多分沖縄の多くの人が自分たちの身体感覚として、やられているというか、沖縄の空間の中に、どでかい鉄の塊が十何機も来て

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いるということが、なぜ自分の問題としてわからないのか。自分の命が危険にさらされているという感覚があまりにもないということに対して、ちょっと唖然とするというか、怒りを持っています。

以上です。

島 いまに限ったことではなくて、先ほどもちょっとお話をしたんですけれども、2005 年 8 月13 日、ちょうど夏休みでしたけれども、普天間飛行場のそばにある沖縄国際大学にCH-53というヘリが落ちた。あれは夏休みで、人に犠牲がなかったのが奇跡だったのですが、でも、在京の新聞のトップはオリンピックで、2番手は読売新聞の渡辺恒雄会長が巨人軍の裏金問題で辞めるというような話だったのです。

沖縄の問題は国内問題ではないのか

死者が出ないと 1 面に行くこともないのかと私たちは驚いたのです。大学に落ちて、大学の本館が損傷してしまったぐらいの事故だったのですが、在京紙の扱いは本当にひどかった。テレビのニュースも、全部見たわけではないけれども、3番手、4番手で、1分、2分ぐらいの扱いでした。あのときに、沖縄の問題というのは本当に辺境の、もしかしたら国内の問題ではないのだろうなと思うぐらいでした。

ある人が言っていたのですが、私はこれにすごく納得したのですけれども、全国紙、在京紙は、沖縄の問題が事件・事故という社会部マターのときは、ワーッと報道するのだけれども、これが政治部マターになった途端に沈黙するのです。つまり、女の子が乱暴されたとか、交通事故を起こした米兵が逃げたとか、そういう事件・事故になったときには、在京紙もある程度報道してくれるけれども、では、なぜこんな問題が頻発するうえに、問題が終わらないのかというと、例えば日米地位協定の問題であったり、もっと大きく言うと、安保の問題であったりということになると、本当に沈黙してしまうのです。

だから、そこの構造をどう変えていくのかということが私たち自身の宿題としてあるし、それはなぜだろうというふうに、特に 4月に東京に来てからもずっと思い続けています。

答えになっていないかもしれません。

司会 三上さんに伺いたいんですけれども、さっき上映したDVDはすごく短くて、劇場、映画館で見るのとは全然違うのですが、意地悪な見方をする人もいると思うんです。あそこに座り込みとかをやって実力行使に出ている人たちは、ちょっと特別な人なんじゃないか、そういう人たちを取り上げてこんな映画をつくるのはおかしいんじゃないかと。そういう見方をする人もいるかと思うんですけれども、どういうふうに反論をされていますか。

三上 それはいつも言われるんですね。これよりもいくつも前の作品で「海にすわる」というのをつくったんですが、辺野古の基地闘争が一番激しかった、海の上にやぐらが立ってから海の上に座り込みが移って、 後は 24 時間やっていたのが 2004 年、2005 年なんです。

そのころ、うちは、「きょうの辺野古」という棚があるぐらいほとんど毎日のように辺野古を取材していて、その 600 日間をまとめたドキュメンタリー「海にすわる」というのをつくりました。

これは、 後はギャラクシー賞とか、地方の時代賞をいただいたんですが、 初に 30 分の「テレメンタリー」という枠で放送したときは、全国を担当しているプロデューサーの方からものすごくお叱りを受けた。「見たら、政党の旗とか、団体の旗とかばかりじゃないか。こんな偏った人たちを映して、ドキュメンタリーでございますというような勘違いは今後二度としてほしくない」という、ワード 2枚ぐらいになぜこれがだめなのかということを書かれたのがすごくショックで、正直意味がわかりませんでした。

でなぜだめなのか、政党の旗とか教組の旗とか、団体の登りなり、横断幕が一つもない反対運動の現場というのは沖縄にはめったになくて、それがなぜだめなのか、逆にすごく新鮮でした。

変な団体がいるという想定で、ある一定の思想団体は映さないとか、そういう旗を映すと、その団体の何かを宣伝していることになるからよけるということが高じて、三里塚の闘争テレビでは全くやらなくなったぐらいから、群衆がワーワーやっているということに対して、テレビは本当に伝えるすべがなくなってしまったのではないですかね。

だから、そんな基準があるということは、「海にすわる」をつくったときに初めて聞いたのです。でも、そんなことを言ったら、沖縄の私たちの日々のニュースは映すところがなくなってしまうのです。団体の何が悪いのか。

念のために言いますけれども、いま映っていた普天間を封鎖したのは、どこの団体でもないです。台風のときに出ていって中心になったのは 20 人、30 人なんですが、それもどこかの団体は後づけでは来るんですけれども、あのときに関してはどこの団体でもないです。

今年の8月5日にオスプレイの第2陣が来たときに、ついに逮捕者が出てしまいました。私は、去年 10 月の配備の前に逮捕者が出ることを覚悟して全てのゲートを見張っていたので、うちはこの映像が撮れたということもあります。この映像のときは逮捕者が出なかったんですが、8月 5日に逮捕者が出てしまいました。

ネットではその人も、過激な団体の人だとか、いろんな色がついたこと、罵詈雑言が書かれていましたが、その方は 58 歳の男性で、去年 9 月からずっと毎日野嵩ゲートに夫婦で反対アピールに真っ先に来て、旗を立てて、 後に旗をしまっ

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てから帰るような、ごく普通の方でどの団体にも所属していません。

釈放されたときに奥さんと抱き合って泣いているところとか、そういうのをごらんになったら、変な団体の一部の人というネットの誹謗中傷がどうしてここまでいま膨れ上がっているのか、そのことのほうが気持ち悪いと思ってもらえると思うのですが、何せ伝わらないまま、ネットのほうの攻撃が、いますごいなと心配しているところです。

司会 外岡さんに伺いたいんですけれども、温度差という言葉は生易しいと思うんですが、これを変えていくにはどうすればいいんですか。そんな簡単な処方箋というのはないと思うんですけれども、東京のメディアがちゃんと沖縄に向き合うというんですかね。

外岡 一つは、沖縄報道というのは、例えば新聞で言えば、1面の政治面に安全保障の問題として取り上げるわけです。社会面では反基地運動、あるいは沖縄の心という形で分断されて出てくる。

本土の人がそれを読むと、沖縄の心に共感は寄せる。だけど、一部のメディアでは、1面なり社説なりの、結果的に沖縄に基地がなくては困るじゃないかと。そういうところに納得してしまう。

「自分は共感しているんだけど、同情しているんだけど、現実はなかなか変わらなくてね」と。福島を語るのと全く同じになっちゃうんです。福島の人はあんなになって本当にかわいそう。だけど、いま原発をやめたら、債務超過で電力会社は倒れちゃうよね。そうすると、自分たちの生活とか、あるいは企業が逃げたらどうするのと、そういうふうに使い分けているんです。

メディアは、その使い分けを固定する役割をしている。だから、いくら沖縄の心を本土の記者が取り上げても、それは感情だけで終わってしまう。あるいはそれは自己消化のための消費の手段にしかなっていない。

その構造を変えるには、これは安保の問題だけでなくて、生活の問題であれ、人権の問題であれ、それがわれわれに降りかかってきたときにどうするのかという問題だということを一人一人の記者がまず自覚することですね。

先ほど謝花さんもおっしゃっていたし、島さんもおっしゃったと思うんだけれども、要するに、沖縄問題というのは、沖縄の問題じゃないんです。それを沖縄問題にしてしまっている。

福島問題だって、福島の問題にしてしまって逃げている。そこがわれわれのいまのメディアの問題なのではないかなと思います。

ついでに申しあげると、オリバー・ストーンという監督が広島、長崎へ行って、沖縄へ行って、彼はいろんなところに案内されて、轟壕という軍

民で逃げた壕とか、南部の戦跡とか、それから名護市長にも会って、その後、辺野古の海でいまでも座り込みをしている人たちに会っているんです。会ったうえで、シンポジウムに出ていろんな話をしているのが琉球新報のサイトで全部見られますから、あれをぜひごらんになってほしいと思うのです。

多分、ああいう非常に批判的に見ているアメリカ人と沖縄の人たちが語れば、多分同じ言葉で語れると思うんです。ところが、本土の人間と沖縄の人がこの問題について話したら、多分会話が成立しないのではないかと思うのです。そのぐらい意識というか、歴史認識、その他に落差ができている。そういうことを私は感じないわけにはいかないです。

ですから、自分たちがまず理解していないのだということを自覚することが出発点かなと思います。

おばあに注目を

後に一言。さっき三上さんがおっしゃった特別な人がやっているんじゃないかというのは、映像とか写真をごらんになればわかりますけれども、おばあに注目してください。本当にごく普通の、近所で生きてきたおばあが参加しているんです。政党の旗、団体の旗があるのは、沖縄では保革を問わずみんな参加しているから、そういう映像になって出ちゃうわけです。保守とか普通の人たちというのは旗を振りませんから、たまたまそこに写っていないだけで、そこにあるのは運動のための運動をしている人たちじゃないんですね。本土からそういう人たちがいっぱい応援に行こうとします。でも、大体地元から排除されます。長続きしない。というのが現状だと思います。

司会 ありがとうございました。

では、皆さんのほうからいろいろな質問を受けたいと思います。質問のある方は挙手していただいて、マイクのところまで来て質問してください。

どなたか、質問等、あるいは意見が違う、言いたいことがあるということがあったら、ぜひお願いします。どうでしょうか。

テーマが重いだけに、質問するのもなかなか難しいかもしれないですけれども、どうですか。

沖縄から来ている方もいらっしゃると思うんですが、手を挙げてもらってもいいですか。

では、お二人に感想でもいいので一言ずつお話ししてもらってもいいですか。前に来ていただけますか。

質問 NHKの沖縄放送局から参加させてもらいました。貴重なお話をどうもありがとうございました。

私は沖縄放送局に勤務はしているんですけれ

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ども、沖縄に赴任してまだ 1カ月もたっていなくて、この 1カ月間でヘリコプターの墜落事故とかもあって、事故が起きても、事故現場に地元の行政の人たちも米軍の許可がないと立ち入れないとか、本当に不条理な現状をまざまざと見せつけられて、自分はいままで関心が薄かったんだな、勉強不足だったんだなというのを痛感しているところです。

まだ勉強もしていないし、勉強不足というか、うまく質問もできないので、一つだけお聞きしたいことは、いまの普天間の移設の問題について、地元で長く取材されている記者の皆さんは、今後どういうふうになっていくのが一番の解決方法だと考えられているのかというのを教えていただければと思います。よろしくお願いします。

司会 では、謝花さんから。

謝花 辺野古はやっぱり断念――無理だと思います。

島 普天間飛行場を辺野古に移すのは私も無理だと思います。

そして、普天間飛行場は周りを住宅地に囲まれて、何のバッファーゾーンもない、非常に危険な飛行場ですから、すぐに使うのをやめて返還すべきだと思います。

三上 うちは、「普天間代替施設」という言葉を 10 年ぐらい前から使っていなくて、普天間基地を移さないといけないというストーリーから全部欺瞞だったということをずっと報道しています。移さないとなくならないという前提のお話自体をもう終わりにしてほしいと思います。

辺野古につくられるのは、弾薬庫のそばに軍港がある初めての新しい基地なんです。普天間の代替部分ももちろんありますが、自衛隊も使うことになる、嘉手納と同じぐらい半永久的に使えるような基地がつくられる予定なので、「普天間代替施設」という言葉だと全く実質が伝わらないので、うちはそれを使っていないのです。

辺野古につくるのは無理だと言いたいんですが、私はずっと反対運動の現場を見てきているので、つくれない理由がものすごい反対運動があるからということであるならそこにはちょっと異論がある。そこまで持ちこたえられるようなハードな反対運動をする母体がかなり疲弊しているということもわかっているのでかなりきついと思います。アメリカ議会の意向や経済問題の流れで計画が変わるというような外部のファクターがあれば、断念もあり得るかもしれないですが。

映画をつくったのも、全国の人がもっと関心を持って、流れを変えてくれないかなと思うからこそ。でも、私は悲観主義者なので、このままだと埋め立てという方向になだれ込んでいくのでは

ないかなと思っています。

司会 では、もう一人の方、いいですか。

質問 ラジオ沖縄の記者です。今回お話を聞かせていただいて、あらためて沖縄の現状を伝えていかなければならないという意識になりました。

取材する中で、オスプレイの追加配備のときもそうだったんですけれども、私も、なぜ沖縄にオスプレイが来るのかということで、空を見上げながら非常に悲しみに包まれました。

一方で、いま感じているのが、三上さんもおっしゃっていたんですが、沖縄に基地があるのは仕方がないというような世論が広がりつつあるということです。

私の友人で、生まれてこの方ずっと普天間、30年になるという子がいるのですが、彼女は「もう反対運動をするのは疲れた。できればふたをしたい」というような話をしていました。そのようなことを彼女が言うのにすごくショックを覚えて、これはどうにかしていかないといけないなと思いました。

そのことについて、どんなふうにしていけばいいのか、まだ答えは出ていないんですけれども、メディアに携わる者として、彼女が心にふたをしてしまった、それぐらいつらいものを抱えているというのをどうやって伝えていけばいいのかなといま感じていまして、そのことについて、三上さん、島さん、そして謝花さんに伺いたいと思っています。

基地「容認派」の声をどう伝えるか

もう一点ですが、辺野古を取材したときに容認派の方がおっしゃっていたのが、「容認派の声はどんなふうに伝えていこうと思っているの?」という言葉を投げかけられまして、すぐに答えることができませんでした。3人はそのことについてどう思うのか、教えていただければと思います。

拙い質問なんですが、よろしくお願いします。

司会 ありがとうございます。では、謝花さんからまたいいですか。

謝花 30 歳ぐらいの人が状況に疲れる。計算したら、多分 1995 年の激動というか、その直前の状況もあるんですけれども、10 歳ぐらいから沖縄が揺れ続けている状況を多分ごらんになっている、あるいは大人になってコミットしているのか、どういう形かわからないんですけれども、そういう環境にあって、1995 年以降の沖縄の状況に大変疲れるというのは、多分それよりもっと年配者の方も一緒だと思うんです。

しかし、このサイクルと言ったら変なんですが、先ほど触れた沖縄の歴史経験というのは、常に国

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家と対峙するということをわれわれは歩んでいる。しかし、歴史が奪われたとは言わないんですけれども、奪われているし、同化という部分の中で、教えられることがない中で、この何百年ずっとこういうことを繰り返して歩み続けているわけです。「ウッチントゥー」(うつむく)ってわかりますよね、下を向かざるを得ないような状況の中でも生き延びてきているわけです。生きる。

これは一体何なのか。これは未来を信じて、基地が何もなくなるように、自分たちの土地が戦争に使われないような、そういうウェファーフジ(先祖)の考え方というのを自分の代、あるいは次の代で実現したいという気持ちの人たちが過去からずっと歩んできているわけです。

だから、現実、この 15年、20年の動き、確かに疲れるような動きもあるんだけれども、それは、沖縄が 1609 年から歩んできた、あるいは 1879 年から歩んできた歴史に比べると非常に短いです。

先ほどの 90 歳のおばあちゃんの話なんかを見ても、200 年レベルでいって、こんなですよ、あんなですよという部分、こういう歴史を知ったときに元気にならないですかね、と。そういう過去のことを知って、自分たちの先輩とか、ご先祖様たちが下を向いているだけでなくて、生活の中に政治がある、生活の中に運動があるわけですから、歌も歌い、酒も飲み、そうやって生き延びていく。その中で絶対負けない一線がある。それをずっとたどりながら生きているのが沖縄の歴史だと思うんです。そこをぜひそのお友達に伝えてほしいなと。

そして、容認派の声というのも、そういう部分の中で、三上さんもおっしゃっていたと思うんですけれども、積極的容認というのはどうなのかな、そういうものじゃないのではないか。そうしたら、それは難しい状況の中で選び取らないといけなかった人。

軍の基地従業員なんかでも、畑をとられて働く場所がないから基地で働いていく。でも、本当はその土地が自分の畑だったんだよという人たちが、行き場がなくて、その土地をもう取り戻せないからしょうがなく、あるいはだんだん賃金も上がってきたから、高いなと思っているけれども、さっきチラシを配らせていただいたんですが、その根っこの中には、「やっぱしアメリカのところで働くのは嫌さね」とかいう人とか、「ばかにされたときにちょっと……」という話が出てくるわけです。

その容認派の声を二項対立でない形で沖縄の社会でちゃんと位置づけていく。そういう部分は、運動というものを軸足にして、沖縄の反戦とか基地とかというのが過去、かなりきっちり伝えられていた部分の中で、そこに対する言葉の領域を広げていないと私は思っています。

それは、いまの報道の中で逆に問題を硬直化させる可能性もありますので、そういう部分も含めて、言語の領域、言語を位置づけられる、沖縄の

社会の中で置いていけるという部分を少しずつ進めていかなければいけない。それは一人一人の記者が厳しく問われていると私は思っています。

司会 では、島さん、お願いします。

島 初のお友達のお話についてです。われわれも新聞をつくって、毎日毎日、基地問題をやっていて、新聞というのは、喜怒哀楽が詰め込まれた総合的な紙面をつくるものだというふうに思うんですが、沖縄の新聞というのは、どっちかというと怒りのほうが大きくて、実際つくるほうにとっても、毎日これでいいのかなあというところも実はあるんです。

突きつけられた不条理を広く伝える

でも、伝えないといけないことが本当に多過ぎるんです。怒りというか、私たちに突きつけられた不条理は、沖縄の新聞社の記者であれば、必ず広く伝えていかないといけないし、さらに、なぜこういうことが起きるのかということの解説までやっていかないといけないと思うんです。

お友達も、多分新報、タイムスを見たらしょっちゅう基地問題ばかりということもあるのかもしれませんけれども、でも、これが沖縄の現実です。

先ほど三上さんが沖縄のメディアは偏っていると言いましたが、沖縄自体が偏っているんですよ、皆さん、本当に。だからこそこういう新聞やテレビにならざるを得ないというところもあるんです。それは逆にお友達にも伝えてほしいなと思います。

それから容認派のことです。さっき謝花さんがおっしゃったことと同じなんですが、私も基地で食っていると言われる人たちをいろいろ取材しました。軍用地主の方であるとか、基地従業員の方もそうですし、いま、辺野古の新基地を受け入れてもいいと言っている人たちの話も聞きますが、彼らも皆さん、何か自分の心に折り合いをつけてやっているというところがあるんですね。

軍用地主の皆さんは、沖縄ではずっと不労所得者と言われて、基地の被害は沖縄の人みんなが受けているのに、基地のお金はあなたたちだけもらってというような立場にもあったんですが、彼らもいまはすごく意識が変わってきています。基地が返還されることは、実は沖縄全体のためになるし、自分たちのためにもなっているということが数字としてわかってきているからなんです。そういうところの変化もすくい出していかないといけないと思います。

容認派は、なぜ容認しているのか、なぜ受け入れているのか。彼らは、基地推進派と言われるのを嫌います。僕らは推進しているのではないんだ、容認しているんだ、仕方ないから受け入れているんだと。そこから入っていけば、またいろんな取

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材ができるんじゃないかなと思います。

以上です。

司会 では、三上さん、お願いします。

三上 容認派の声をどう伝えるかというのは非常に難しくて、容認派というグループを想定するのも嫌なんですが、誤解を招きやすいと思うのです。

ある局がつくった辺野古のドキュメンタリーで、初期のころですが、賛成派と反対派を両方出す。 後は仲よく綱を引いて、それでも生きていかなければいけないねと。形式的にはバランスのとれたドキュメンタリーのように見せていくのですが、でも、それを見ていると、テレビを見ている沖縄でないほとんどの人たちは「大変ね」と引いたところに自分を置いてしまう。「辺野古で先祖の土地を守りたい、平和が好きと言っている人たちがいる、よくわかる。でも、背に腹は代えられないからお金を欲しい人たちがいる。大変ね、辺野古って」ということで、テレビのこっち側にいる人たちがみんな逃げていってしまう。そんなドキュメンタリーをたくさんテレビはつくってきたと思うのです。

時間の短い企画だったら、一方的に見せないコツとして私だってそういうふうにバランスをとるような形でつくってきたということもありました。

でも、視聴者はそこで「容認している」部分だけをほらやっぱり、と受け取る。問題の本質がそこでばっさり見えなくなってしまうんですね。

辺野古 知られざる反対運動

だから、私はそこに焦点を当てて、「狙われた海」というドキュメンタリーをつくったんですが、1960 年代に大浦湾(辺野古)を軍港にするという計画があって、それをいま、なぞっているだけなんですが、そのときは地元の漁師たちがみんなで反対運動をしたんです。知られざる反対運動があったんです。でも、いま、なぜほとんどの漁師が賛成に見えているのか、賛成だというふうに表明をしているのかというところを追ったドキュメンタリーで、どうして反対ができなくなるのかとを理解したい方にはお送りします。番組としてある程度まとまった時間で描かないと、容認派に見える人の歴史がわからない。

彼らが、賛成していると言われる漁師たちが、暴力的になって、反対運動の人たちの首を絞めているようにみえるシーンとか、この人たちがどうしてここまで過激になるのかというのが、私たちは報道しながらも、 初はあまりわかりませんでした。

特に辺野古の成り立ちを勉強しないとわから

ないんですけれども、一番 初に基地にとられた部分の分け前をもらう人たちと、後から来た寄留民という人たちの間にまた裂け目がある。その寄留民の人たちはお金をそんなにもらえないで、基地の門前町として生きてきている。でも、その漁師たちはほとんどが寄留民でできている。その寄留民の人たちが何十年もそこに住んで辺野古の人間になっているけれど、基地の恩恵は元々住んでいる人とは違って充分に受けられていない。その後で辺野古の基地建設の話が本格化し防衛施設局のお金がたくさん入るようになって、その仕事にやっとありついたときに、「漁師は海を守るのが当たり前でしょう」というような声をかけられたときに、ものすごく頭にきてしまうというのはよくわかるんです。

でも、その対立の場面だけ捉えると、また暴力的に思われるし、賛成している人だっているじゃないというふうに捉えられるし、本当に難しいんです。

だから、容認派の声を伝えていないわけでは決していないんですが、簡単に伝えると本当に誤解を招きやすいので、難しいですよね。そこが私たちの知恵の絞りどころだと思うんですけれども。

司会 どうもありがとうございました。ほかに質問はございませんか。では、どうぞ。

質問 きょうはどうもありがとうございました。日本テレビは沖縄の中では放送していないんですけれども、きょうこういったドキュメンタリーを見せていただいたりとか、われわれの取材の中でいろいろ考えていかないといけないなと思うことがあって、本当に勉強になりました。どうもありがとうございました。

私は兵庫県で生まれ育ちまして、社会人になって都内に来たんですが、自分が生まれ育った兵庫のことは大好きですし、日本国民として日本が大好きなんですけれども、お話の中でもあったとおり、沖縄と本土の溝というのは、報道をとってもとても深いなと感じますし、沖縄の方々が本当に沖縄を愛されているのはすごくよくわかるんです。

概念的な質問で恐縮ですが、沖縄の方々が、北海道から沖縄まで含めた日本というものに対して、どういった感情を持たれているのかというのを、取材された中でもしあれば、教えていただきたいんです。よろしくお願いします。

司会 ちょっと難しい質問かもしれませんけれども、謝花さんから。

謝花 私が 近思うのは、「差別」という言葉がキーワードになっているのではないかなと思っています。施政権の返還の 1970 年、いわゆる復帰のときは、祖国日本に帰ろうと。途中から、

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祖国日本に帰っても基地は本土並みにならないし、核抜きでもないということがわかったので、運動は、むしろ平和憲法のもとの復帰とか、いろんな形になっていったんですけれども、ある意味、日本というものが自明の理として自分たちの母国であるみたいな感じの認識は非常に強いのです。

前段で同化というのがすごく強くやられた。同化しない限りは殺されていく存在である。というのは、沖縄戦の中で、しまくとぅばを話す者はスパイとして斬り殺していいと。実際殺されていますから。

そういうのがいくつも起こる中で、激しい同化を強いられて、また自らもそれに前のめりになっていく。日本という国家に対して前のめりになっていかない限りは、排除されて、はじき出されていく存在だというのがあるわけです。

それがずっと続いていて、施政権返還の 1970年以降、もう 50年近くたって鳩山さんの話とか、基地が膠着している中で、いよいよ日本というのは、沖縄にとって一体何なのか。

それは、さっき私がお話ししたみたいに、日本というのは沖縄を排除することでいろんなものが成り立っている国だというのを、鳩山さんのあの一件からかなり保守的な人も気づいてしまったということがあったと思うんです。

だから、日本というのは一体何なのか。例えば沖縄から主権を問う、あるいは沖縄から独立を問うときに、一方でまた課題があって、近代国家、国家というのは一体なのかというのを問うときに、国家権力に対して前のめりになるというのは、かつて沖縄が失敗しているわけです。

その結果、激しい沖縄戦にさらされて、移民とか出稼ぎを出して、旧南洋群島で多くの人が「集団自決(強制集団死)」で死んでいきました。

そういう歴史を私たちは歩んでいるわけですから、日本という国家に対して前のめりにならないようにしないといけないのではないか。そういう動きが出ていて、先ほど質問者の方がおっしゃっていたように日本が大好きというのは、私にはエッというふうな感じが非常にある。

いまの沖縄の中で、例えばメーンのキャンペーンで集団自決のキャンペーンをやったときに、戦争体験をした高齢者の方々が、そのころから、日本の政府というのは沖縄を差別しているという声がすごく出ていたのです。それが、基地問題、オスプレイの問題で公然といろんなところへ出るようになって、温度差ではとまらないような厳しい糾弾というか、指摘が出てくるようになりました。

だから、安倍さんにぜひ琉球処分をどう思っているか聞いてください、沖縄というのは一体何なのですかということを問いたい。

尖閣問題がナショナリズムの装置に

私たちは日本をどう思っているかというのは、なかなか報道が全国に届かないからあれなんですけれども、結構出ています。沖縄がどこに向かっていくのか。逆に端っこにいる力を生かしたほうがいいですね。尖閣なんか、ナショナリズムの装置になってしまって、われわれの生活が乱されて、とんでもないことになって、非常に厳しい状況になっている。

そういうふうに端っこであることで排外的に置かれていることというのは、実はかつてはかなり力があって、いろんなところと交易をしたり、いろんなところの人とつながっていたわけです。それが、国境というのを持ち出されて、それで分断されていく。別に日本だけを凝視する必要はなかったわけです。

そういうのが非常に薄くなっている中で、近代国家ができる日本の歩みというのを決して疑わないというのは、沖縄だけでなくて、アイヌの方々、あるいは在日の方々も含めている日本という国に関して、皆さんがどう向き合うかということと地続きではないかなと私は思っています。

司会 では、島さん、よろしくお願いします。

島 もしかしたら、あまり覚えていないのかもしれませんけれども、ことしの 4 月 28 日の在京紙の紙面と沖縄紙の紙面を比べると、そこがはっきりするのかなと思います。

在京紙の中でも、東京新聞さんとか沖縄のことを報道してくれたところもあるんですが、この日は、サンフランシスコ講和条約で日本から沖縄が切り離されて、米軍の施政権下に置かれることが決まったという日なんです。それを日本では「主権回復の日」と言って、安倍政権はお祝いをしました。

ところが、沖縄ではこれを「屈辱の日」と言って、抗議の集会をしました。ここにもあらわれているのではないでしょうか。

私たちを切り離しておいて、つまり、これを擬似的に言えば、子どもを里子に出して、それを祝う日なのか。「主権回復」というのであれば、本来は、沖縄が帰ってきて、そこを祝う日なのではないでしょうか、沖縄はそれから本当に主権もなかったし、人権もなかったんですよということを沖縄の人はすごく言いたかったと思います。

沖縄独立論の背景

いま、沖縄の独立論が出てきていることの背景にも、日本という国は沖縄のことを日本の一員だと思っていないのではないかなというところがすごくあると思います。それは沖縄の人の心の中にいま、すごく怒りの材料として出てきています。

だから、沖縄が本土をどう考えるの? という

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ことで言うと、だんだん見限らざるを得ないんじゃないかなと思うような人たちが出てきて、それが琉球独立論という形になっているのではないかと思います。

司会 では、三上さん、どうぞ。

三上 ずっと沖縄と本土みたいな話をしてきて、ちょっと違うことを言うのも何なのですが、私は民俗学をずっと学んでいて、いまも非常勤講師としてヘリが落ちた沖国大で教えたりもしていますが、沖縄というグループと本土というグループがあるという前提のお話は限界があると思うのです。

というのも、私はずっとフィールドワークをしている足場が宮古島なんですが、宮古島や八重山の歴史というのは、貝塚時代までさかのぼると沖縄本島とは全然違っていて、奄美グループとも違っている。沖縄本島に行くことを「沖縄に行く」と言ったりもしますし、宮古島や八重山の文化と沖縄本島の文化、沖縄本島の中でも方言も隣の部落で全然違うぐらい違う。

ということを考えたときに、私は、生まれは東京なんですが、父の仕事の関係もあって一番長く住んでいるのが沖縄で、自分の住む場所だと思っているし、当事者だと思って住んでいますが、でも、血筋がという話になると、これはすごく迷宮入りしてしまう話に到達していく。

自分というグループと自分じゃないグループがいるということで人間はグルーピングしながら全てのことを認識していくものなので、ある程度仕方がないのですが、「沖縄人」という表現や概念をメディアがいま出せるかといったら、これは非常に微妙な問題があると思いますし、そんなことをやる必要もないと思う。

それよりも、社会構造として、日本という国家がマイノリティーグループや、国境の地域とか、それから過疎の地域に一体何を押し込めようとしているのか。特異な文化グループや、在日の方々、歴史上発生したいろんな種類のグループに対して、この国家は冷たい国家であるのか、ないのかという、その構造をはかっていくことが私たちの仕事であると思うのです。

だから、いろんなグループに対して、いい国であって、この国は好きだな、誇りを持てるなというふうに思いたいという気持ちは、それは別に沖縄の方でも、どこの人でも、そう思っているとは思います。ただ、いまお話にあったように、そうなっていない部分に対しての悲しみとか、距離感とか、そういうものを持っている人は多いかもしれない。

でも、沖縄の人はこう考えていますなんていうことは、私はとてもじゃないですが代表としての意見は持ち合わせていません。自分の周りがこう思っているということでさえも一通りではない

しこんな人が多いとも言えない。そこはグループ化して意見を求める行為に無理があるのではないかなと思います。

司会 ありがとうございました。本当はもっともっといろいろ話をしたいんですが、時間が迫ってきました。

後に一言ずつ締めの言葉を言っていただきたいと思います。では、外岡さんからよろしくお願いします。

外岡 後に出たご質問はすごく大事な質問だし、3人の答えも、本当にいまの沖縄の声を伝えていらっしゃるなと思って聞いていました。

一つだけいま思い出したんですけれども、沖縄の復帰闘争を闘った人に聞いたこんな逸話があります。

米軍占領時代は日本の主権が及ばなかったわけです。沖縄の人たちは祝日に日の丸を出したんです。それを米軍の軍人が馬にまたがってサーベルで切って回った。そのぐらい沖縄の人たちが日の丸にかけた希望、期待というのが当時あった。それが幻滅に変わって、その後、戦後の日の丸焼き討ち事件にまでなるわけです。

そのときに幻滅させた日本というのは一体何なのか。その問題は片づいていないはずだから、考えていっていただきたいなと思います。

後に 1つだけお願いなんですが、「全国紙」という言い方がかつてはありましたけれども、いま、沖縄でその日に読めるのは日経だけで、県版もないという状況ですから、ほとんどの中央紙は全国紙でなくなっているんです。大手紙の方にはそのことをちょっと考えていただきたい。

それから、琉球新報が始めて、「Journalism」という雑誌の対談にも出てきますけれども、高知新聞と結びつきができて、高知新聞とのやりとりというのがいま始まっているのです。ですから、中央経由でない、横同士の連携ということもあり得るし、そういう企画があってもいいのではないかと思うんです。地方でいま働いていらっしゃる方は、そういう可能性を探っていただきたいなと思います。

司会 どうもありがとうございました。では、三上さん、お願いします。

三上 QAB 制作の「標的の村」をいま上映しているんですが、当日券 1,700円のところ、きょう私から買うと 1,100 円です。(笑)先ほどのDVDの 5倍はおもしろいので、ぜひポレポレ東中野に行ってください。10 月中旬までしかやっていないので、よろしくお願いします。

司会 では、島さん、お願いします。

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島 きょうは、すごく難しい話もしましたし、また、厳しいことも申しあげましたけれども、どうぞ沖縄にいらして沖縄の現状を見てください。沖縄って、相当勉強しないと行けないなとか、そういう距離感を置くのではなくて、どうぞ関心を持って沖縄に来てください。楽しいこともたくさんありますし、おいしい食べ物もヤギを含めてたくさんありますので、どうぞいらしてください。

後に、関心を持っていただきたいということで、お願いです。

きょうはどうもありがとうございます。

謝花 もう一度強調したいのは、沖縄問題、沖縄報道というのは、別に沖縄のことでなくて、皆さんが沖縄をどう捉えるか、どう向き合うかということの認識の枠組みなんですね。それに気づい

て、沖縄の問題は沖縄の人が発生させているわけではない。沖縄の報道というのは誰のためにあるのかという部分をしっかり認識して、そのプロセスというか、自分がどこに立って報道しているのか。沖縄的なものが自分の足元にないのか。伊波普猷(沖縄学の祖)の言葉に、足元を掘れみたいな感じがあるんですけれども、そういうことを含めてやっていけば、沖縄を別に鏡にしなくても、日本の国内の報道というのがもう少し元気になっていくのではないのかなときょう思いました。どうもありがとうございます。

司会 では、長い間、本当にありがとうございました。4人の方に大きな拍手をよろしくお願いします。(拍手)

(文責・編集部)

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沖縄と本土の溝 外岡秀俊

○ はじめに

長く気になっていることの一つに、沖縄と本土の溝があります。本土の記者が、自分

の常識や経験をもとに沖縄のことを書くと、無意識のうちにその段差が反映され、本土

の読者や視聴者には届いても、沖縄には届かない言葉になってしまいます。 つねに、その溝を意識して、段差を指摘し、時にはその段差そのものを報道のテーマ

にする必要があると思います。 ○ 段差その1 27年間の米軍統治の歴史 vs 6年間の間接統治・主権回復 もっとも大きな溝は、本土がGHQによる6年間の間接統治のあと、主権を回復

したのに対し、沖縄は1945年以来、米軍の直接統治に置かれ、サンフランシス

コ平和条約によって分断され、正式に米軍の直接統治下に置かれたことです。この

27年間を理解していないと、沖縄を本土の一地方と同じ目で見てしまい、誤解を

助長する結果になると思います。

① 日本は分断国家だった。 ② 沖縄は復帰運動で、民主主義を戦い取った。 ③ 27年間、沖縄では憲法も日米安保条約も適用されなかった。 ④ 本土ではその間、経済の高度成長を経たが、沖縄では基地固定の経済政策がとら

れた。 ⑤ もともと基地があったり、県民が受け入れてできたりしたわけではない。沖縄戦

さなかから日本軍の基地を奪い取った米軍が飛行場を拡充し、あるいは直接占領

下の時期に「銃剣とブルドーザー」によって農地を基地に変えた。 ○ 段差その2 本格的な陸上戦 vs 空襲・原爆・引き揚げによる被害 日本は第二次大戦中、ヒロシマ・ナガサキを含む66都市が空爆によって破壊されま

した。原爆はいうに及ばず、東京大空襲でも10万人以上が亡くなり、多くの国民が悲

惨な戦争を体験しました。ただ、直接、陸上戦に巻き込まれた沖縄とは、体験に溝があ

ります。

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① 県民の三分の一、あるいは四分の一が落命した。 ② 軍の持久戦によって、県民の多くが南部に追い込まれ、犠牲になった。 ③ 軍が住民を壕から追い出したり、食糧を奪ったりする場面を県民が見た ④ スパイ扱い、集団自決(サイパンなど南洋の島には沖縄の移民が多く、その「玉砕」

との関連を考えるべきでは。 非武を伝統とする沖縄で、住民は「軍が民衆を守らず、逆に銃剣を向ける」かのよ

うな体験をしました。徴兵をされて若者が少なく、主力部隊を台湾防衛に引き抜かれ

た沖縄では、少年少女を動員し、ひめゆり、鉄血勤王隊として前線に臨みました。 沖縄戦を知らなければ、沖縄の反軍感情、ベトナム戦争時の反基地感情は理解でき

ないように思えます。

○ 段差その3 琉球独立王国 vs 単線の近代国家 日本はもともと複数の勢力圏が併存する国家でした。南から琉球、大和、陸奥、アイ

ヌです。徳川の鎖国時代においても、琉球から大陸、長崎から欧州・中国、対馬から朝鮮

半島、松前からアイヌ・ロシア情報を入手し、国家の外縁は比較的ゆるやかでした。明治

以降、国家の領土の確定作業が進められ、いまの姿になりました。日本は古代・中世から

ひとつのまとまりを維持したのではなく、「前史」をもつ地域があることを、忘れずにいた

いと思います。その典型が琉球王国です。 15世紀前半 尚巴志による三山統一、琉球王国 1609年 島津の琉球入り 両属国家へ 1872年 琉球藩設置 1879年 琉球処分 この「前史」が特別の意味をもつのは次の点です。 ① 非武の伝統 その後、皇民化教育によって教え子を戦場に送ったという教師たちの

悔恨が、戦後の沖教祖を中心とする復帰運動のエネルギーになった。 ② アジア交易の伝統

「万国津梁の鐘」の文字(第1知事応接室の屏風)

≪鐘銘原文≫ ≪書き下し文≫

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琉球国者南海勝地而

鍾三韓之秀以大明為

輔車以日域為唇齒在

此二中間湧出之蓬莱

島也以舟楫為万国之

津梁異産至宝充満十

方刹地靈人物遠扇和

琉球国は南海の勝地にして

三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車(ほしゃ)となし、

日域を以て唇歯(しんし)となして、

此の二つの中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)島なり

舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁(しんりょう)となし、

異産至宝は十方刹(さつ)に充満し、

地靈人物は遠く和夏の仁風を扇ぐ。