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95 文化経済学と新しい公共性 ― 政策論的視点から見た「ボーモルの病」の貢献 ― 京都橘大学文化政策学部 阪本 崇 Takashi Sakamoto 1. はじめに 近代的な学問は専門化と細分化の道を歩んでいるとしばしば言われる。学問の専 門化、細分化は、特定の研究領域における研究蓄積の増加や研究者の増加、組織化 など、学問の中での事情によって生じることが多いが、社会科学においては、社会の変 化に要請されて生じることも多い。たとえば近年の経済学における環境経済学や情報 経済学は、そうした要因によって生まれた下位分野の典型例であろう。文化経済学もま た、同様である。こうした学問の専門化・細分化については、その行き過ぎのために、 学問が生活実態から乖離するなどの批判がしばしばなされる。もちろん、こうした批判 が一定の事実を含んでいることは否定できないが、反面、専門化された領域での新た な発見あるいは論理の展開がその上位分野にフィードバックされ、より広い領域全体の 発展に寄与する可能性も無視することはできない。 文化経済学の領域において、そのなかで展開された理論が経済学全体に波及したと いう事実について明確に言及したのは、 Hutter 1996)である。1996年当時、彼はボー モル=ボーエンの『舞台芸術-芸術と経済のジレンマ』以来30年にわたる現代の文化経 済学の歴史を振り返り、その学問的な貢献を、文化の経済学的側面についてのファク ト・ファイディング、文化的現象に対する経済学的方法の適用、そして経済学そのものに対 する理論的インパクトの3つに類型化した。そして、最後に示された経済学そのものに対 する理論的インパクトの事例として、「ボーモルの病」、公共財における新解釈、選好の 変化、絵画の長期的収益率、新しい技術やメディアの影響、価値論の6点を挙げた。 Hutter 1996)の挙げた、これら6つの理論的インパクトの中でも最も大きなインパクト を経済学に与えたのが「ボーモルの病」である。 Baumol 1967)ではじめて理論的に定 式化された「ボーモルの病」は、以後、芸術文化の領域だけでなく、サービス産業を中 心に経済の様々な領域の分析において応用されている。つまり、文化経済学の領域を 超えて経済学一般が対象とするより広い領域に適用されているのである。もちろん、イ ンパクトの大きさをどのように評価するかという点については、それぞれの研究者の主 観によることは否定できないが、それが経済分析ツールのひとつとして定着しているこ とに疑いの余地はなく、文化経済学がその上位分野である経済学に影響を与えた事 例であることだけは間違いない。 ところで、経済学と政策あるいは政策科学とが密接な関係をもつことは、ここで改め て言うまでもないことである。 K.J.ボールディングの「経済政策の原理は経済学の原理

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文化経済学と新しい公共性

―政策論的視点から見た「ボーモルの病」の貢献―

京都橘大学文化政策学部 阪本 崇

Takashi Sakamoto

1. はじめに近代的な学問は専門化と細分化の道を歩んでいるとしばしば言われる。学問の専門化、細分化は、特定の研究領域における研究蓄積の増加や研究者の増加、組織化など、学問の中での事情によって生じることが多いが、社会科学においては、社会の変化に要請されて生じることも多い。たとえば近年の経済学における環境経済学や情報経済学は、そうした要因によって生まれた下位分野の典型例であろう。文化経済学もまた、同様である。こうした学問の専門化・細分化については、その行き過ぎのために、学問が生活実態から乖離するなどの批判がしばしばなされる。もちろん、こうした批判が一定の事実を含んでいることは否定できないが、反面、専門化された領域での新たな発見あるいは論理の展開がその上位分野にフィードバックされ、より広い領域全体の発展に寄与する可能性も無視することはできない。文化経済学の領域において、そのなかで展開された理論が経済学全体に波及したという事実について明確に言及したのは、Hutter(1996)である。1996年当時、彼はボーモル=ボーエンの『舞台芸術-芸術と経済のジレンマ』以来30年にわたる現代の文化経済学の歴史を振り返り、その学問的な貢献を、文化の経済学的側面についてのファクト・ファイディング、文化的現象に対する経済学的方法の適用、そして経済学そのものに対する理論的インパクトの3つに類型化した。そして、最後に示された経済学そのものに対する理論的インパクトの事例として、「ボーモルの病」、公共財における新解釈、選好の変化、絵画の長期的収益率、新しい技術やメディアの影響、価値論の6点を挙げた。

Hutter(1996)の挙げた、これら6つの理論的インパクトの中でも最も大きなインパクトを経済学に与えたのが「ボーモルの病」である。Baumol(1967)ではじめて理論的に定式化された「ボーモルの病」は、以後、芸術文化の領域だけでなく、サービス産業を中心に経済の様々な領域の分析において応用されている。つまり、文化経済学の領域を超えて経済学一般が対象とするより広い領域に適用されているのである。もちろん、インパクトの大きさをどのように評価するかという点については、それぞれの研究者の主観によることは否定できないが、それが経済分析ツールのひとつとして定着していることに疑いの余地はなく、文化経済学がその上位分野である経済学に影響を与えた事例であることだけは間違いない。ところで、経済学と政策あるいは政策科学とが密接な関係をもつことは、ここで改めて言うまでもないことである。K.J.ボールディングの「経済政策の原理は経済学の原理

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に他ならない」という有名な言葉の通り、経済政策が経済学の基礎の上に成り立つことは当然のこととして、経済政策という枠に収まりきらない政策一般においても経済学はその原理の一翼を担っている。したがって、経済学へのインパクトの存在は、同時に政策科学に対する何らかのインパクトの存在を意味するはずである。本稿では、文化経済学の中でも最も重要なキー概念である「ボーモルの病」が経済学に対して与えたインパクトがいかなるものであったのかを確認しつつ、それが政策科学、とりわけ近年盛んに議論されている公共性の概念あるいは公共部門の役割に関する考え方という問題に対してどのようなインパクトを与えうるのかを検討することで、政策科学にとっての「ボーモルの病」の意義を明らかにしたい。

2. 文化政策学・文化経済学と公共性2.1. 公共性に関する議論の高まり近年の政策科学研究を見渡して、その特徴をひとつ挙げるとするならば、「公共性」が重要なキーワードとなり、政策を実施する根拠となる公共性とは何か、あるいは政策を施行する主体である公共部門の役割とは何かということが改めて問われるようになってきているということである。その背景として山口(2003)は、「既成政党支持層の分解による『公共空間の喪失』や構造汚職に見られる『公私混同』の蔓延、果ては『市場原理』主義の隆盛による『公共政策』関係者の萎縮や『福祉国家の危機』と財政破綻、さらには近代における『公共性』の中心的な担い手だった『国民国家』体制そのものの行き詰まりがある」1)と、実に多様な要因があることを指摘しているが、とりわけその中でも山口が「『市場原理』主義の隆盛」という言葉を用いて言及している、1980年代からはじまって現代に至るまで続く公共部門の縮小に対しての危惧と反省があることは疑う余地がないだろう。1980年代初頭に台頭した新自由主義の影響下で、「小さな政府」を目指す政策が次 と々実施され、医療や教育といった、これまでほとんどの人々が公共的な領域であることを疑うことすらしなかった分野においても、市場原理の導入によって、公共部門の役割は驚くほど縮小した。しかし、近年では、その結果として生じた負の側面が、医療の崩壊や、教育現場での混乱としてクローズアップされるようになった。こうした事実を背景に、これまでとは異なる方法、すなわち「市場原理」主義が人々に支持される原因となったような「公私混同」や財政破綻に陥りにくく、なおかつ行き詰まりつつある「国民国家」体制に頼ることのない方法で、公共部門を再構築する必要を認識させる中で、なにをもって公共性とするかということが問われていると考えることができるのである。

2.2. 文化政策と公共性いずれにしても、公共哲学を含めて、公共性に関する研究は今や政策科学における一大潮流となっていると言っても過言ではないだろう。文化政策学においても、公共性に関する議論は避けることのできない重要なテーマのひとつとなっている。2)その背景にもやはり、これまで公共部門が担うことが当然とされてきた文化に関わる活動の一部

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が、急速に市場化されはじめたという事情がある。たとえば、これまで国立であった博物館・美術館の独立行政法人化や、文化施設への指定管理者制度の導入は、いずれも芸術・文化の領域において市場原理が導入され始めたことを意味するが、こうした動きとともに、果たして民間部門に属する企業その他の主体が、博物館や美術館の公共性を担うことができるのかという議論が、ここ数年、非常に盛んになったし、今後もしばらくの間は同様の議論が続くものと予想される。しかし同時に、文化政策の領域においては、公共部門の活動を正当化することが、司法制度や道路・橋などの公共財はもちろん、教育や医療など他の準公共財的サービスと比較して、そもそも困難であるということに、より根本的な問題があることに注意する必要があるだろう。公共部門の活動の正当化が困難であるということは、それだけ「市場原理」主義の流れの影響が及びやすいということであるし、多様な立場から見解が示され、議論が複雑になることを意味するからである。独立行政法人化や指定管理者制度といった個々の政策については、もちろん賛否両論があることを認めなければならないが、それらを契機に文化や文化政策における公共性の問題が改めて議論されるようになったことについては肯定的に評価されるべきだろう。これまで、文化振興や文化財保護など、文化に関わる活動には様々な形で公共部門が関与してきたが、そうした関与について明示的にその根拠が検討されてこなかった。それが市場原理の導入を契機に注目を集め、その公共性を改めて問い直し、それらに関わる公共部門、あるいは従来の民間部門と公共部門という二元論では論じることのできないNPOなど官ではない公の役割が再検討されるようになったことは有意義なことであったと言えよう。

2.3. 経済学の公共性と文化経済学の公共性ところで、上で見たような近年の日本の文化政策をめぐる事情は、かつてのイギリスでの文化政策をめぐる事情と、ある面で酷似している。第2次大戦後のイギリスでは、その経済的な凋落の結果、国内に蓄積されてきた絵画等の美術作品の国外への流出が相次いだ。その際、政府がこうした美術作品を買い取り、国外への流出を防ぐという政策提言がなされたが、こうした政策を正当化する論拠が無いことが問題視された。このとき、Robbins(1963)は芸術文化に教育価値が存在することを主張し、それが正の外部性となって社会一般に便益を与えることが政府による美術作品の買い取りを正当化する根拠になると論じたのである。以後、文化に関わる政府の経済活動の公共性については、文化経済学においても盛んに議論されるようになる。文化経済学において、公共性に関する議論が避けられないのは、文化の生産と消費を巡る様々な活動に対して、現実に様々な政府の介入が行われているのに対して、その根拠は従来の経済学が提示しているものでは必ずしも明確に説明できないからである。経済学においては、公共性の問題が公共財、外部性、独占、不確実性、所得分配の領域にほぼ限定され、公共部門の活動について具体的かつ明快な根拠を与えることが可能な場合が多い。文化に関わる公共部門の活動が経済学的に根拠を示しに

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くいということは、それがこうした領域に収まりきらないということでもある。Robbins

(1996)の議論は、文化に関わる公共部門の活動を、経済学で議論される公共性の領域に納めようとする試みであると解釈することができるが、こうした議論には無理のある場合も多く、その想定する公共性の領域に収まりきらないことから、経済学では文化に関わる公共部門の活動を否定する場合も多い。しかし、それは一面的な見方であると言うこともできる。たとえば齋藤(2000)が指摘するように、「人々の間に形成される言説や行為の空間」や「公共的価値を解釈し、定義すべき政治が行われるアリーナ」3)などといったより広い意味での公共性を排除している経済学の公共性の解釈が狭量にすぎることを示している可能性も否定できないのである。文化経済学に限っていえば、その可能性は認識されている。本稿で詳しく触れることはできないが、Hutter(1996)が文化経済学の理論的インパクトのひとつとして挙げたように、文化経済学の中で、すでに経済学においては「廃れた」とされる価値論が議論され続けていることにも、これまでの公共性の領域には収まりきらない公共部門の活動に正当性を与える根拠の模索という一面があり、文化をめぐる社会現象において公共性が今もって論争の中にあることと無関係ではないだろう。

3.「ボーモルの病」の理論的展開では、上で見たような文化政策学および文化経済学における公共性の議論に対して、本稿で検討する「ボーモルの病」はどのようなインパクトを与えうるのであろうか。それを理解するためには当然のことながら「ボーモルの病」そのものを理解する必要がある。

A.スミス、J.ラスキンらによる先駆的な業績、あるいはJ.K.ガルブレイスや前節で見たL.ロビンズの萌芽的な論考があったものの、一度はほとんど忘れられた存在となっていた文化経済学が現代において再び注目を集めるようになったのは、まぎれもなくW.J.ボーモルとW.G.ボーエンによる『舞台芸術-芸術と経済のジレンマ』の刊行(1966年)によってである。彼らの研究は舞台芸術を取り巻く経済的環境を多面的に検討したものであるが、そのなかでもとりわけ以後の文化経済学の発展に大きく影響を与えたのが「ボーモルの病」であった。「ボーモルの病」の理論の内容と発展過程については、すでに拙稿(2001)において詳しく検討しているが、以下に続く政策論的含意のより的確な理解を図るために、その着想に至る過程とその理論の主要内容について、本稿でも改めて確認しておきたい。

3.1. 舞台芸術団体と所得不足のちにその発見者の名を冠して「ボーモルの病」と呼ばれることになる理論を、W.J.ボーモルが着想するに至る契機となったのは、W.G.ボーエンとの共著『舞台芸術-芸術と経済のジレンマ』の中で詳細に報告された舞台芸術団体の経済的状況に関する実証的研究である。この著作が刊行された1960年代半ばは、それに先立つおよそ10年間においてアメリカ合衆国で生じた芸術文化活動の急速な広がり、いわゆる「カルチャー・ブーム」が盛んに喧伝された時期である。なかでも注目を集めた著作としてA.トフラ

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ーの『文化の消費者』を挙げることができる。トフラーはその中で、「第二次大戦以後、アメリカ人の芸術に対する姿勢は、無関心で、無頓着で、敵意さえもっていたものから、熱心で、時には無学であっても、熱狂的なものへと180度転換した。急速に価値観が変化するこの時期にあっても、その変化の大きさと速さは驚くべきものであった」4)と述べて変化の大きさを表現するとともに、この変化を「文化の爆発」と呼ぶことを支持した。しかし、ボーモルらはこうした「カルチャー・ブーム」という現象については懐疑的であった。その理由は、「ここ数年間で観客の規模が目立って増大してきているにしても、まだ人口全体を取り込んでいるわけではないのは確実なこと」であり、「観客の社会学的な基盤が広がってきていることは事実だと言っても、ブームになる以前のもともとが、信じられぬほど狭い基盤であった」5)ということを反映しているにすぎないと考えたからである。こうした中でボーモルらが注目したのはむしろ、「カルチャー・ブーム」の裏側で、多くの実演芸術団体が経済的な困難を抱えているという事実であった。6)1960年代前半にニューヨークをはじめとするアメリカ合衆国の都市部で行った舞台芸術団体に対する調査によって明らかとなった舞台芸術団体のおかれた経済的状況から、彼らは次のように結論した。

アメリカの職業としての独立した非営利的な舞台芸術団体に関する所得不足の総額は、現在の経済水準から見れば規模が小さい。しかし、個々の舞台芸術団体については、所得不足が生と死との違いを意味することがあるし、あるいは少なくとも満足のいく水準の公演と受け入れがたい水準の講演との違いを意味することがある。7)

この中で言及されている「所得不足(income gap)」とは、運営経費から所得を差し引いた額のことであり、経営上の赤字に他ならない。しかしながら、ボーモルはあえて「赤字」という言葉を用いることを避け、「所得不足」という概念を新たに提起した。その理由について、ボーモルは次のように説明している。少し長くなるが、本稿の結論とも深く関わるので引用しておこう。

この不足はこれまで「運営赤字」と呼ばれてきた。これはかなり標準的な用語であるが、非営利団体に適用する場合には適切な言葉ではない。「赤字」があると言うことはどこか具合の悪いところがあったことを意味し、(非難されて当然の)赤字を減少させるように、費用を切りつめるか、所得を増加しなければならないことを意味する。しかし、所得が費用に達していないという事実によって種々の問題が生じるとしても、芸術の場合には十分に吟味せずに判断を下すべきではないことは確かである。--(中略)--ここで言いたいことにもっと近いのは、「所得不足」という言葉ではないかと思われる。この言葉は、それに相当する大きさだけ団体の財政に不足が生じていて、とにかく埋め合わせをする必要があることを強調する。8)

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つまり、「赤字」という言葉が回避されたのは、その原因が「運が悪かったからだとか、具合の悪い運営をした結果だというような問題ではな」く、とりわけ経費の側面に注目すれば「公演という技術がどうしても逃れることのできない必然的な結果であ」るからである。ボーモルは「工学的な観点からすると、舞台芸術の公演は技術的に停滞している」という。それは「実演家の労働それ自体が、客が購入する最終生産物を構成している」からである。このような場合、生産性の上昇はそれ自体が生産物すなわち作品の品質の低下を意味する。そのため「生産性が不変である舞台芸術のような活動の場合には、貨幣賃金のあらゆる上昇が自動的にそれに等しい単位労働費用の増加に移されてしまう」9)、言い換えれば要素費用の上昇を相殺するだけの生産性の改善を実現できないことが、所得の上昇を上回る経費の増加を招くのである。この生産性向上の停滞によって生じる平均費用の増加傾向が「ボーモルの病」である。

3.2.「ボーモルの病」のモデルボーモルが優れていたのは、彼らが観察した現象を実演芸術に特有の現象ととらえるのではなく、社会の中で広く見ることのできる現象であると考えたことである。もちろん、それを可能にした条件として「ボーモルの病」が普遍性の高い理論として定式化されたことを見逃してはならない。「ボーモルの病」が最初に定式化されたのは1967年に公表された論文においてである。このモデルは、わずか4本の方程式からなるきわめてシンプルなものであるが、本稿の性格から考えて数理モデルを展開することは適切ではないと考えるので、最初にモデルの仮定の意味を検討した上で、ボーモル自身が提示した命題を示し、そして項を改めて数値例で各命題のもつ意味を検討することにしたい。モデルを展開するに当たって、ボーモルは次のような4つの仮定をおいた。

仮定1:経済には常にその生産性が上昇する産業部門と、生産性が変化せず一定にとどまり続ける産業部門が存在する。以下では前者を「発展部門(progressive sector)」、後者を「停滞部門(stagnant sector)」と呼ぶ。

仮定2:労働費用以外の全ての支出は無視されうる。仮定3:賃金は「発展部門」の生産性の上昇率と同じ変化率で上昇する。仮定4:両部門の賃金は常に等しい。

このうち「ボーモルの病」を最も特徴づけているのは仮定1である。すなわち、経済のなかに、他の部門とは異なり生産性が向上しない「停滞部門」が存在するという認識である。これに対し、仮定2,4はモデルにとって本質的なものではなく、簡単化のためにおかれた仮定にすぎない。実際、およそ20年後に公表されたBaumol et. al(1989)で展開されたモデルでは、仮定2に相当する仮定はおかれていないが、モデルから得られる結論はその本質の部分において全く変化していない。また、仮定4についても、本質的なものではなく、Baumol and Oats(1972)等で両部門の賃金が時間とともに乖離するようなモデルが提示されているが、やはりモデルから得られる結論に本質的な変化はない。

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仮定3については、やや慎重な表現が必要である。仮定4が成立している条件のもとでは、仮定3の成立が条件となるのは次に示す命題1の前半部分のみであり、それ以外の部分にはその存在は何ら影響を及ぼさない。しかしながら、以下で検討するモデルの政策的含意において、この仮定は重要な影響を及ぼす。つまり、この仮定はモデルの構造にはほとんど影響を与えないが、その含意を解釈するに当たって重要な影響を及ぼす仮定であるということができるだろう。なお、ボーモルはモデルを数理的に展開するに当たって、労働力の全体量は変化せず、両部門に雇用される労働力の合計は常に等しいという仮定も加えている。この追加的な仮定は、以下に提示する命題3,4の成立にとって必要になるので、次項で展開するモデルにおいてもこの仮定が成立していることを条件に論を進める(以下では仮定5と言及する)。上で検討した仮定の下で展開されるモデルから、ボーモルは次の4つの命題を導いた。

命題1:停滞部門で生産される財の単位あたり費用は際限なく上昇するのに対し、発展部門で生産される財の単位あたり費用は一定に留まり続ける。また、前者の後者に対する比率は、賃金の変化に関わらず、上昇し続ける。

命題2:この経済では、停滞部門によって生産される財は、その需要が相応に価格非弾力的でない限り、減少の過程を経て消滅する傾向がある。

命題3:この経済で、両部門の生産量の比を一定に維持しようとすると、時を経るにつれ労働力は次第に進歩部門から停滞部門へと移転され、逆に進歩部門における労働力の量はゼロに近づく。

命題4:命題3と同様に、両部門の生産比を一定に維持しようとすると、経済全体の生産性は漸次的にゼロに近づく。

一見して明らかなように、4つの命題は大きく2つの種類に分けることができる。命題1,2はそれぞれの産業部門の変化について示したものである。これに対し、命題3,4はこうした産業の構成をもつ経済全体が時とともにどのように変化するのかを示したものである。

3.3. 数値例各命題についてその意味を理解するために、以下のような簡単な数値例を示しておきたい。ただし、「ボーモルの病」そのものが長期にわたって、あるいは永続的に続く現象をモデル化したものであるのに対し、以下で展開する数値例は簡単化のために3時点間の比較とする。もちろん、こうした簡単化はモデルの本質を損なうものでは決して無く、むしろその意味を理解するに有効であると考える。最初に、産業1と産業2のふたつの産業部門から成り立つ経済を考える(【表a】参照)。産業1は発展部門であり、産業2は停滞部門である。ある基準年において、両部門はともに10単位の労働力を雇用し、1,000単位の生産物を生産するとし、それぞれの産業が生産する生産物をそれぞれ第1財、第2財と呼ぶことにする。この基準年において、

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両部門を比較すると、生産物1単位当たりの費用が等しいことに注意されたい。なぜなら仮定2により労働力以外の要素費用は無視することができ、かつ仮定4により賃金は両部門に於いて等しいとされるからである。仮に労働1単位当たりの賃金を100とするならば、第1財、第2財ともに、その1単位当たりの生産費、すなわち平均費用は1となる。

次に、仮定1により、10年後(以下では比較年〔1〕と呼ぶ)に産業1においては生産性の上昇が見られ、同じく10単位の労働力から2,000単位の第1財を生産できるようになった、すなわち生産性が2倍に上昇したと考える。一方で、同じく仮定1より、産業2においては生産性は上昇せず、基準年と変わらず10単位の労働力から1,000単位の第2財を生産しているとする。また、仮定3より、このとき同時に労働力1単位当たりの賃金は産業の生産性の上昇率と等しく2倍の200に上昇すると仮定する。両産業の技術的特性がこのまま変化しなければ、さらに10年後(比較年〔2〕と呼ぶ)の経済でも、同様の変化が生じることになる。すなわち、産業2では生産性の変化がないのに対し、産業1では生産性が比較年〔1〕の2倍になり、10単位の労働力から4000単位の第1財が生産されるようになる。同時に、労働力1単位当たりの賃金も比較年〔1〕の2倍の400に増加する。この数値例の下で、前項で示した各命題はそれぞれ以下のような現象として表れる

(【表b】参照)。最初に命題1については、比較年〔1〕の第1財と第2財の平均費用を示せば十分であろう。比較年〔1〕においては、第1財と第2財の平均費用はそれぞれ、1と2になる。産業1においては労働費用の上昇をちょうど相殺するだけの生産性の上昇が生じたのに対し、産業2においては、生産性の上昇が生じなかったことから、労働費用の上昇がそのまま平均費用の上昇に反映されたためである。命題の後半部分に示されている第1財と第2財の相対費用については改めて計算値を示す必要もないであろう。次に命題2を理解するためには、仮定2の「労働費用以外の費用は全て無視されうる」ということに加えて、両産業において利潤が発生していない場合10)を考えると分かりやすい。このとき、第2財の価格は平均費用に一致し、基準年と比較年〔1〕の間で価格上昇率は100%となる。さらに問題を単純化するために、需要の所得弾力性がゼロ、

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仮定1 産業1(発展部門)  生産量※1 1000 2000 4000  生産性※2 100 200 400 産業2(停滞部門)  生産量※1 1000 1000 1000  生産性※2 100 100 100 仮定3 労働力1単位当たりの賃金 100 200 400 仮定5 社会に存在する労働力の量 20 20 20

【表a】Baumol(1967)のモデルの仮定(数値例)

基準年 比較年〔1〕 比較年〔2〕

出典) 著者が独自に作成 註) ※1:労働が10単位投入された場合の生産量。 ※2:「生産性=生産量/労働投入量」とする。

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すなわち所得の変化に対して需要が変化しないケースのみを考えよう。11)所得の変化による需要の変化が起こらないと考えるのであれば、需要の変化は純粋に価格の変化に対する反応として考えることができる。ボーモルは両財への支出の割合が一定で推移するケースを考えたが、ここではより理解が容易でかつより需要の弾力性が低い需要の価格弾力性が0.1というケース12)を想定したい。このとき、比較年〔1〕における第2財への需要は10%減少する。当然、比較年〔2〕においては、その需要は比較年〔1〕よりもさらに10%減少することになる。こうした過程の結果、第2財への需要は徐々にゼロに近づき、やがて産業2は消滅するであろう。命題3,4はともに、両部門の生産シェアが一定である場合に関するものであるが、ここでは、第1財と第2財のシェアが1:1に保たれる場合を考えてみたい。まず、仮定5のとおり労働力の全体量が変化しないという前提で、比較年〔1〕において、第1財と第2財のシェアが1:1に保たれるのは、それぞれが4000/3単位生産される場合である。このとき、社会に存在する20単位の労働力の全てが雇用され、第1財の生産に20/3単位の労働力が、第2財の生産に40/3単位の労働力が投入されることになる。つまり、基準年と比較すると、10/3単位の労働力が産業1から産業2へと移動したことになる。これが、命題3の意味である。さらに比較年〔2〕においては、産業1の生産性が400に上昇しているから、両財のシェアが1:1に保たれているためには、産業1、産業2が、それぞれ4単位と16単位の労働力を雇用し、両産業が共に1600単位の生産を行わなければならない。このとき、比較年〔1〕と比べると、労働力がさらに産業1から産業2へと移動したことがわかる。最後に、命題4に関しては、経済全体の生産性を示す指標を作成する必要がある。ボーモルは両財の生産量の加重平均によってその生産性を一般的に定義したが、ここでは両財の生産量を単純に合計したものを生産性の指標と考えてみたい。13)このとき生産性指標は、基準年で2000、比較年〔1〕で8000/3、そして比較年〔2〕で3200となる。

命題1 平均費用  第1財(産業1・発展部門) 1 1 1  第2財(産業2・停滞部門) 1 2 4 命題2 第2財への需要※1 1000 9000 810 命題3,4 両財の生産量の比が1:1に 保たれる場合の生産量  第1財(産業1・発展部門) 1000 4000/3 1600  第2財(産業2・停滞部門) 1000 4000/3 1600 命題3 必要な労働力  第1財(産業1・発展部門) 10 20/3 4  第2財(産業2・停滞部門) 10 40/3 16 命題4 社会全体の生産性※2(上昇率) 2000(-) 8000/3(33.3%) 3200(20%)

【表b】Baumol(1967)のモデルの命題(数値例)

基準年 比較年〔1〕 比較年〔2〕

出典) 著者が独自に作成 註) ※1:基準年の需要量が1000、所得弾力性が0、価格弾力性が0.1の場合。 ※2:「第1財の生産量+第2財の生産量」を生産性の指標とする。

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この生産性指標から、経済全体でみた生産性の上昇率を計算すると、基準年から比較年〔1〕の間では33.3%、比較年〔1〕と比較年〔2〕の間では20%となり、生産性の上昇率が減少していることが分かる。この過程が続けば生産性の上昇率がゼロに近づいていくことは、明らかであろう。

3.4.コスト病からコスト・ユートピアへボーモルが提示した4つの命題のうち、当初注目を集めたのは、命題4であった。実際、停滞部門における生産性の停滞が経済全体に波及し、やがては経済全体の生産性の停滞をもたらしてしまうという結論は多くの人 と々って衝撃的なものであったことは想像に難くない。なぜなら、経済全体での生産性の上昇が停止するということは、労働人口の増加をはじめ外生的に与えられる生産要素の増加がなければ経済成長が停止するということに他ならないからである。ボーモル自身はこの現象を「コスト病(Cost

Disease)」と呼んだが、確かに停滞部門において生産コストを削減できないこと--現在、衰退産業や公共サービスの問題点を指摘する際にしばしば用いられる言葉で言えば「高コスト体質」--が社会全体の足を引っ張り、経済全体の生産性の上昇、そして経済成長を鈍らせるという現象は、現代経済の抱える「生活習慣病」と比喩的に捉えることができるであろう。しかしながら、これらの命題のうち命題1をのぞく3つの命題の妥当性をめぐっては、1967年に論文が公表された直後から、議論が盛んに交わされるようになる。とりわけ、Bradford(1969)をはじめとする批判は、命題2の解釈が適切でないという点からはじまり、最終的には命題4が示唆するような陰鬱な将来予測を覆すに至った重要なものである。簡潔に述べれば、ボーモルは、産業1の生産性の上昇によって生じる生産フロンティアの拡大を見逃してしまっているため、可能な発展経路が複数あることに気づかず、特に困難な未来へとつながる発展経路のみに議論を限定してしまっているというのがBradford(1969)をはじめとする批判の要点である。彼らの主張に寄れば、命題2で前提とされた発展経路や、命題3,4で想定された発展経路には、それが選択される合理性がない。たとえば、第2財の生産量を1,000単位に維持するというケースを考える場合、第1財の生産量は比較年〔1〕で2,000単位、さらに比較年〔2〕では4,000単位という発展経路を描くことができる。この場合でも、確かに第1財の生産量に対する第2財の生産量が占める割合でみれば、それは徐々に減少し、やがてゼロに近づくから、産業2が衰退していくように見えないわけではない。しかし、それは第1財の増加が続くためであって、決して産業2が消滅してしまうからではないのである。また、このとき、経済全体の生産性の上昇率は、基準年から比較年までが50%、比較年からその10年後までが66.7%とむしろ上昇しているのである。もちろん、産業1から産業2への労働力の移転も生じていない(【表c】参照)。もちろん、この批判はボーモルが命題3,4で示した発展経路の存在を否定するものではなく、それとは異なる、そしてその中にはより明るい未来へとつながる発展経路をも含む複数の発展経路が存在しうることを示しただけである。にもかかわらず、この批判が

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強力であったのは、そのような発展経路が存在するとき、人々はあえてボーモルが示したような暗い未来へとつながる発展経路を選択するとは考えにくいからである。結局のところ、ボーモルはBradford(1969)らの批判に対し、当初の主張に誤りがあったことを認め、両財の生産量を増加させながら、無限に成長を続けるような経路が存在することを認めている。Cowen(1996)は、こうしたボーモルの主張の変化を「コスト病」から「コスト・ユートピア」への転換という言葉で表現した。しかし、この「コスト・ユートピア」という言葉が適切であるとは言えない。なぜなら、たとえ無限の経済成長を実現するような発展経路が存在するとしても、生産性の上昇率における格差の存在は様々な問題を引き起こす可能性があるからである。次節では、この点に注目して「ボーモルの病」と公共性の関係について検討することにしよう。

4.「ボーモルの病」と公共性前節での議論から明らかになるように、1967年に示された4つの命題の中で、その妥当性が否定されずに残ったのは命題1だけである。具体的には、停滞部門における財の生産コストは上昇し続けるということであるが、この事実がどのような問題をもたらすであろうか。

4.1.「ボーモルの病」の新たな解釈停滞部門における財の生産コストは上昇し続けることによって生じる問題は、それが①民間部門によって供給され、コストの上昇を価格に転嫁できない場合、②民間部門によって供給され、コストの上昇が価格に転嫁される場合、そして③公共部門によって提供される場合の3つの典型的なケースに分けて考えると理解が容易になる。まず、①のケースはボーモルがボーエンとともに調査した実演芸術団体のケースにあたる。生産者は所得不足に苛まれることになり、その状態が長く続けばやがては財の供給を断念することになろう。②のケースでは、①のケースとは異なり生産者が所得不足に陥ることはなく、財の供給も継続される。しかしながら、その価格が上昇するために、財によっては、とりわけ低所得者の生活を悪化させる可能性がある。医療や教育は「ボーモルの病」に罹るサービスの典型例であるが、これらのサービスが純粋に市場によって供給され、なおかつその生産コストがすべて価格に転嫁されるのであれば、多くの低所得者がこれらのサービスを受けることができなくなり、その生活に悪影響を及ぼす

生産量  第1財(産業1・発展部門) 1000 2000 4000  第2財(産業2・停滞部門) 1000 1000 1000 社会全体の生産性※1(上昇率) 2000(-) 3000(50%) 5000(66.7%)

【表c】第2財の生産量が1000に維持される場合の発展経路

基準年 比較年〔1〕 比較年〔2〕

出典) 著者が独自に作成 註) ※1:基準年の需要量が1000、所得弾力性が0、価格弾力性が0.1の場合。 ※2:「第1財の生産量+第2財の生産量」を生産性の指標とする。

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ことは必至である。こうした所得分配上の悪影響への配慮もあって「ボーモルの病」に罹りやすいサービスは、何らかの形で公共部門の支援を受け、公共サービスとして供給されていることが多い。そのうち、完全に公共部門のみによって供給されている場合が、上述した③のケースである。このとき、①や②のケースで見たような、所得不足や低所得者の生活への悪影響は起こらない。しかし、その一方で生産コストの上昇は、公共部門を肥大化させ、納税者の租税負担の増加につながる。その結果、政治過程を通じた生産コスト抑制への要求が生まれやすくなる。民間部門による供給に補助金などの形で、公共部門からの資金が入る場合(要するに所得不足が補助金で埋め合わせられる場合)も、ほとんど同じことが言える。むしろ、供給される財と生産コストとの関係が単純な民間部門に属する生産者であればこそ、納税者から徴収された税を財源とする補助金を得ているにもかかわらず、生産コストが増大し続けていることが問題視され、「高コスト体質」の改善といった要求の形で、コスト削減圧力がさらに強くなる可能性が高い。もうひとつ、こうした過程の中で生じうることとしてボーモルが危惧したのは、財の品質の低下である。市場を通じてであろうと、政治過程を通じてであろうと、過度なコスト削減圧力が加わった場合、すでに十分効率的(にもかかわらず高コスト)な生産が行われていた生産過程で費用削減を実現しようとすれば、それは本来であれば必要なはずの生産要素の節約という手段に向かわざるを得ず、最終的には品質の低下に帰結する。医療、教育、建築確認などをはじめとする多様な分野で、競争的な資金配分や民営化が行われた結果、様々な形での「品質の低下」が生じたことには、こうした理由があるとも考えられるのである。

4.2. 貨幣錯覚の可能性公共サービスのコストの増大が公共部門の非効率性を原因とするものであれば、それが問題視されなければならないのは当然である。しかし、ここで問題としているコストの増大は「ボーモルの病」を原因とするものであり、その財の生産過程が必然的にもつ技術的特性によって、民間部門で供給されようと公共部門で供給されようと同じように生じるコストの増大である。さらに厳密に言えば、この現象はコストの増大と呼ぶこと自体が適切ではない。なぜなら、実際に起こっていることは、発展部門における生産性の上昇だけであり、そこで生産される財の生産コストが相対的に低下しているということに過ぎないからである。停滞部門においてコストが増大しているように見えるのは、貨幣賃金の上昇という純粋に貨幣的な現象に他ならず、実質値で見ればコストは一定である。にもかかわらずコストの増大が問題視されるのは、人々が「ボーモルの病」に直面したとき、貨幣錯覚に陥る傾向があるからであるとボーモルは言う。「貨幣錯覚」は次のように定義される言葉である。すなわち、「家計・企業・政府など経済において意思決定を行う各主体が、実質的な量や関係に基づいて行動する場合を〈貨幣錯覚がない〉といい、そうでない場合、すなわち名目的な量や関係に基づいて意思決定をなす場合を〈貨幣錯覚がある〉という。」14)典型的な貨幣錯覚の例で説明す

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ると、所得と全ての価格とが比例的に増加する場合に、各財に対する需要が変化しないとき、〈貨幣錯覚がない〉とされる。所得と全ての価格とが比例的に上昇するときには、実質所得も各財の間の相対価格も全く変化していないため、本来であれば人々は消費に関する意思決定を変える必要がない。したがって、実質量に影響を与えない単なる貨幣的な現象である価格と所得の変化に対して需要が変化しない場合を〈貨幣錯覚がない〉と呼ぶのである。これに対し、実質所得も各財の間の相対価格も全く変化していないにもかかわらず、所得と全ての価格とが比例的に上昇した場合に、需要が変化する場合を〈貨幣錯覚がある〉という。実質的には何ら変化が無いにもかかわらず、貨幣的な現象によって、本来は変更すべきでない消費に関する意思決定を変更してしまったからである。「ボーモルの病」に直面した人々が、相対的に高くなった停滞部門で生産される財の購入を抑制しようとすることは合理的な行動である。しかし、Baumol(1967)でおかれた仮定3の条件が成立する場合としない場合とで、すなわち貨幣賃金が上昇し停滞部門で生産される財の価格が上昇することで相対価格が変化する場合と、貨幣賃金が上昇せず発展部門で生産される財の価格が下落することで相対価格が変化する場合とで人々の行動に相違があるとすれば、そこには貨幣錯覚があると言える。もちろん、このような貨幣錯覚が存在するのか否かを実証的に確認することは、同一条件での比較実験を行うことができない以上不可能である。しかし、近年に見られるような公共サービスの生産コストに対する、報道機関を含めた人々の過剰とも言える反応は、ボーモルの指摘した貨幣錯覚が現実のものであることを示唆しているようにも思える。問題は、特定の財の供給において「ボーモルの病」が貨幣錯覚をともなって起こった場合、それは当該財の過少供給を引き起こすということである。この場合に特徴的なのは、それが市場を通じて供給されているのか、公共部門を通じて供給されているのかに関わりなく生じるということである。

4.3. 公共の場での議論の必要性経済学における公共性が公共財、外部性、独占、不確実性、所得分配の領域に限定されると言うことはすでに述べたとおりである。このうち、「ボーモルの病」と貨幣錯覚との組み合わせは、公共財や負の外部性、そして独占の問題と似ている。なぜなら、いずれの場合にも市場に供給される財が過少になることが問題となるからである。しかし、他の問題と「ボーモルの病」とを並列的に捉えるのは誤りである。なぜなら他の問題が、財のもつ技術的特性によって価格シグナルが市場の中でうまく伝わらなかったり、あるいは市場の中で少数の主体が突出して大きな交渉力を持ったりすることがその原因であり、そうした原因を取り除いてやりさえすれば解消される問題であるのに対し、「ボーモルの病」についてはその原因を取り除くことが論理的にできないことであるからである。ある財の生産が「ボーモルの病」に罹っているとき、その財を「ボーモルの病」から救い出すことは、もとの財とは異なる財にすることと同じである。唯一可能であるとすれば、それは、人々に停滞部門におけるコストの増加傾向が見

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かけ上の現象に過ぎないことを理解させ、より正しい判断を行わせるということである。ボーモルはこうした手段を「大衆の教育(public education)」という言葉を用いて表現したが、おそらく「教育」という言葉は適切でないだろう。「教育」が可能であるためには、教育される内容が明確であり、なおかつ教育をする立場と受ける立場が明確である必要があるが、現在問われているのはむしろその内容であり、教える主体と客体とを区別することもまた不可能であるからである。したがって、必要なのは主体と客体とが区別される教育ではなく、互いが対等の立場に立つ「議論」である。この結論は、現在の公共性に関する議論の高まりを追認しているだけのように見えるかも知れないが、そうではない。必要とされるのは公共哲学に典型的に見られるような抽象的な議論ではなく、個々の公共サービスに関する具体的な議論である。また、公共サービスのより効率的な供給方法について議論することでもない。問題となるのは、どれだけの資源を問題となる公共サービスの生産に向けるのかと言うことである。つまり、私たち自身にとって何がどれほど量必要であるのかについて問わねばならないのである。

5.「公共性」の再考第3節で引用した所得不足という言葉を使う意図についてのボーモルの説明のなかに、あえて中略とした部分がある。この部分には次のように述べられている。「まさにこうした理由のために、経費が授業料収入を超過することが特徴となっている教育機関においては『運営赤字』が話題にならないし、このような言葉では思案されない。」15)つまり彼は「ボーモルの病」によってその赤字に陥りやすい教育機関が赤字であるからと言って非難されないということを根拠に、同じく「ボーモルの病」が赤字の根本的な原因である実演芸術団体も非難されるべきではないと主張しているのである。もちろん、授業料収入を診療報酬、教育機関を医療機関(正確には高度治療を行う公立の病院に限定されるかもしれない)に変更しても同様の主張は可能であっただろう。しかしながら、現在、このような正当化は受け入れられるだろうか。さすがに学校や病院の赤字経営を直接的に非難するような言説は現在でもほとんど見られないが、その生産の効率性やコストについては、しばしば問題視されるようになっており、コストを削減するための方策、あるいは各主体がコスト削減のインセンティブをもつための方策が実際にとられてきた。しかし、その結果として生じたのが医療や教育の崩壊ともとれる現象である。かつて「ボーモルの病」は、それを支援する根拠がそれほど明確ではない芸術文化という特定の領域においてのみ意義を持つ議論であったのかも知れない。しかし、近年では以前は公的なものとして疑われることの無かった領域においてまで、その根拠が疑われ始めている。こうした中では、文化経済学においてボーモルの行ったことを、社会のより広い様々な領域において行う必要があるのではないだろうか。

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【参考文献】

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1)山口(2003)、3頁。

2)2007年6月に設立された日本文化政策学会の第1回研究大会テーマは、「文化はなぜ政策を必要とするのか:文化政策が開く新たな公共性」であった。

3)齋藤(2000)、109頁。

4)Toffler(1964)、邦訳、13頁。

5)Baumol and Bowen(1966)、邦訳、115頁。

6)公平性のために付言しておくと、トフラーにしても芸術団体や芸術家たちが抱えていたについて全く認知していなかったわけではなかった。実際、彼は芸術家の貧困に関する分析のために著書の1章を費やしている。しかしまた、彼の著書において、この点が中心的な論点となっていないことも事実である。

7)前掲書、邦訳、205頁。

8)同書、邦訳、196頁。

9)同書、邦訳、214-222頁。

10)これは、両産業が完全競争市場における長期均衡の下にあることを意味する。

11)この間、賃金の上昇の結果として所得も増加しているはずである。

12)需要の価格弾力性は需要量の変化率を価格の変化率で除した値にマイナス1をかけたものであるから、需要の価格弾力性が0.1ということは、100%の価格上昇に対し、需要がその10分の1の10%減少することを意味する。

13)生産性は本来、生産量を生産要素の投入量で除したものによって定義される。しかし、ここでは、経済全体に存在する生産要素すなわち労働力の量が変化しないと仮定しているので、生産量のみを以て生産性を示す指標と捉えることができる。

14)大阪市立大学経済研究所編『経済学辞典第2版』岩波書店、1979年による定義。

15)前掲書、邦訳、205頁。

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