態度と応答の双方向的回路を開く 岩佐光広 ·...

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民博通信 No. 137 20 2010 年度に発足した本共同研究も本年度から最終年度を迎 えた。これまでに 4 回の研究会を開催し、議論を重ねてきた が、それを通じてキー概念である態度と応答それぞれの意味 について一定の理解が深まりつつある。しかし同時に、両概 念のあいだの関係性をどのように捉えていくのかということ が課題ともなってきた。最終年度の報告である今回は、これ までの議論を踏まえて、態度と応答の関係性について整理し、 今後の展望を示したい。 あらためてキー概念である「態度」の意味を確認しておこ う。辞書などでその意味をしらべてみると、そこには大きく 3 つの意味が挙げられている。 物事に対したときに感じたり考えたりしたことが、言 葉・表情・動作などに現れたもの 事に臨むときの構え方、その立場などに基づく心構えや 身構え 心理学で、ある特定の対象または状況に対する行動の準 備状態、またある対象に対する感情的傾向 確認してみると、そこには微妙な意味のズレがあることに 気づく。①が何らかの形での「現れ」を意味しているのに対 し、②と③は何らかの形での現れが生じる前の姿勢や状態、 いうなれば「現れ以前」の状態に言及している。この微妙な ズレがひとつの出発点となる。 この意味のズレを整理するために、関一敏(2008)の議 論を参考にしてみよう。関は現代社会における民俗慣習を論 ずる方針を検討するなかで、ハビトゥス(habitus)という言 葉の意味に注目する。ハビトゥスといえば、ピエール・ブル デューを通じて普及した概念、つまり思考や行為の再生産の 生成母体としてのハビトゥスを思い浮かべる人も多いだろう。 それに対して関は、ギリシア思想史とキリスト教神学におけ habitus の意味、すなわち聖体拝領によって人体内に注入さ れた恵みとしての習性という意味に注目し、それを踏まえて 清水哲朗がハビトゥスという言葉に与えた「備え」という訳 語に注目する。 ギリシア思想史もキリスト教神学も不勉強な私にその真髄 はよくわからないが、清水による「備え」という訳語につい ての「世俗的な」説明はわかりやすい。英語を話す場面を例 に挙げながら清水は、「実際に英語を話しているときには、「英 語を話すという働き actus」があるのに対し、じっさいには話 していなくとも、英語を話すことができる人には、「英語を話 す備え habitus」がある、というように使う」(関 2008:ⅲ り転載)と説明する。この説明を踏まえて関は、「備え・構え」 としての habitus と、「現れ」としての actus の関係を次のよ うに述べる。 habitus には「そなえ」もしくはそのための「かまえ」と いった可能態がふくみこまれており、場面と状況によって現実 態としての actus へと移行すべく備え・まちうけている図を読 むことができる。いいかえれば、将来するであろう事態と出来 事に備える力のありかを habitus とよんできたことになる。(関 2008:ⅲ) ここに見られる habitus actus の関係性に照らしてみる と、態度の意味のズレを以下のように整理できそうである。 すなわち、態度の②と③の意味に相当するのは、ある事態や 出来事に対する actus の可能態としての構え・備えのありか である habitus のことであり、対して①の意味は、場面と状況 によって habitus たる態度から生成する現実態としての actus に相当するといえる。日本語における態度という言葉には、 habitus actus という相関しながらも質的に異なる 2 つの意 味がふくまれていたのである。 態度という言葉を研究概念として用いるためには、この点 を整理する必要がある。そのために本共同研究で導入したの が応答という概念であった。つまり、概念としての「態度」 を②と③の意味で捉え、①の意味は応答という概念で捉えよ うとしたのである。そして先の整理を踏まえれば、備え・構 えといった可能態のありかとしての「態度」は、場面と状況 によって現実態としての応答へと移行すべく備え・まちうけ ているという関係性を両概念のあいだに読むことができるの である。 この<「態度」→応答>という図式は両者の基本的な関係 性と考えられるが、それだけでは十分ではない。前回の報告 (「応答性は人間の「本性」か」『民博通信』135 号)で論じた ように、現れとしての応答は、態度に即したという意味で適 切な形で生じるとは限らず、それは多様に、しかもしばしば 予期せぬ形 4 4 4 4 4 で現れうるものである。たとえば次のような状況 を考えてみよう。 もし目の前で人が突然倒れたら、人はいったいどのように振舞 うのだろうか。思わず手を差し伸べるだろうか。それとも、か かわり合いを煩わしいと思い、見て見ぬ振りをして通り過ぎよ うとするだろうか。それでも、倒れた人が気がかりで、他に誰 もいなければ、戸惑いつつも声をかけるかもしれない。(浮ヶ 20093ケアを主題とする著書のなかで浮ヶ谷は、「こうした状況 に置かれたとき、基本的には気になる、手を差し伸べる、声 をかけるということが、ほとんど反射的な身体的行為として 起こるのではないだろうか」とし、それを「人と人との根 源的な関わり合いの態度 4 4 」として論を展開していく(浮ヶ谷 20093、傍点は筆者)。 この浮ヶ谷の指摘はたしかにその通りかもしれないし、実 態度と応答の双方向的回路を開く 岩佐光広 共同研究【若手】 交錯する態度への民族誌的接近連辞符人類学の再考、そしてその先へ(2010-2012

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Page 1: 態度と応答の双方向的回路を開く 岩佐光広 · ているという関係性を両概念のあいだに読むことができるの である。 この<「態度」→応答>という図式は両者の基本的な関係

民博通信 No. 13720

2010年度に発足した本共同研究も本年度から最終年度を迎えた。これまでに 4回の研究会を開催し、議論を重ねてきたが、それを通じてキー概念である態度と応答それぞれの意味について一定の理解が深まりつつある。しかし同時に、両概念のあいだの関係性をどのように捉えていくのかということが課題ともなってきた。最終年度の報告である今回は、これまでの議論を踏まえて、態度と応答の関係性について整理し、今後の展望を示したい。

あらためてキー概念である「態度」の意味を確認しておこう。辞書などでその意味をしらべてみると、そこには大きく3つの意味が挙げられている。

① 物事に対したときに感じたり考えたりしたことが、言葉・表情・動作などに現れたもの② 事に臨むときの構え方、その立場などに基づく心構えや身構え③ 心理学で、ある特定の対象または状況に対する行動の準備状態、またある対象に対する感情的傾向

確認してみると、そこには微妙な意味のズレがあることに気づく。①が何らかの形での「現れ」を意味しているのに対し、②と③は何らかの形での現れが生じる前の姿勢や状態、いうなれば「現れ以前」の状態に言及している。この微妙なズレがひとつの出発点となる。この意味のズレを整理するために、関一敏(2008)の議

論を参考にしてみよう。関は現代社会における民俗慣習を論ずる方針を検討するなかで、ハビトゥス(habitus)という言葉の意味に注目する。ハビトゥスといえば、ピエール・ブルデューを通じて普及した概念、つまり思考や行為の再生産の生成母体としてのハビトゥスを思い浮かべる人も多いだろう。それに対して関は、ギリシア思想史とキリスト教神学における habitusの意味、すなわち聖体拝領によって人体内に注入された恵みとしての習性という意味に注目し、それを踏まえて清水哲朗がハビトゥスという言葉に与えた「備え」という訳語に注目する。ギリシア思想史もキリスト教神学も不勉強な私にその真髄

はよくわからないが、清水による「備え」という訳語についての「世俗的な」説明はわかりやすい。英語を話す場面を例に挙げながら清水は、「実際に英語を話しているときには、「英語を話すという働き actus」があるのに対し、じっさいには話していなくとも、英語を話すことができる人には、「英語を話す備え habitus」がある、というように使う」(関 2008:ⅲ より転載)と説明する。この説明を踏まえて関は、「備え・構え」としての habitusと、「現れ」としての actusの関係を次のように述べる。

habitusには「そなえ」もしくはそのための「かまえ」といった可能態がふくみこまれており、場面と状況によって現実態としての actusへと移行すべく備え・まちうけている図を読むことができる。いいかえれば、将来するであろう事態と出来事に備える力のありかを habitusとよんできたことになる。(関

2008:ⅲ)

ここに見られる habitusと actusの関係性に照らしてみると、態度の意味のズレを以下のように整理できそうである。すなわち、態度の②と③の意味に相当するのは、ある事態や出来事に対する actusの可能態としての構え・備えのありかである habitusのことであり、対して①の意味は、場面と状況によって habitusたる態度から生成する現実態としての actus

に相当するといえる。日本語における態度という言葉には、habitusと actusという相関しながらも質的に異なる 2つの意味がふくまれていたのである。態度という言葉を研究概念として用いるためには、この点

を整理する必要がある。そのために本共同研究で導入したのが応答という概念であった。つまり、概念としての「態度」を②と③の意味で捉え、①の意味は応答という概念で捉えようとしたのである。そして先の整理を踏まえれば、備え・構えといった可能態のありかとしての「態度」は、場面と状況によって現実態としての応答へと移行すべく備え・まちうけているという関係性を両概念のあいだに読むことができるのである。この<「態度」→応答>という図式は両者の基本的な関係

性と考えられるが、それだけでは十分ではない。前回の報告(「応答性は人間の「本性」か」『民博通信』135号)で論じたように、現れとしての応答は、態度に即したという意味で適切な形で生じるとは限らず、それは多様に、しかもしばしば予期せぬ形4 4 4 4 4

で現れうるものである。たとえば次のような状況を考えてみよう。

もし目の前で人が突然倒れたら、人はいったいどのように振舞うのだろうか。思わず手を差し伸べるだろうか。それとも、かかわり合いを煩わしいと思い、見て見ぬ振りをして通り過ぎようとするだろうか。それでも、倒れた人が気がかりで、他に誰もいなければ、戸惑いつつも声をかけるかもしれない。(浮ヶ谷 2009:3)

ケアを主題とする著書のなかで浮ヶ谷は、「こうした状況に置かれたとき、基本的には気になる、手を差し伸べる、声をかけるということが、ほとんど反射的な身体的行為として起こるのではないだろうか」とし、それを「人と人との根源的な関わり合いの態度

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」として論を展開していく(浮ヶ谷

2009:3、傍点は筆者)。この浮ヶ谷の指摘はたしかにその通りかもしれないし、実

態度と応答の双方向的回路を開く 文

岩佐光広

共同研究【若手】● 交錯する態度への民族誌的接近―連辞符人類学の再考、そしてその先へ(2010-2012)

Page 2: 態度と応答の双方向的回路を開く 岩佐光広 · ているという関係性を両概念のあいだに読むことができるの である。 この<「態度」→応答>という図式は両者の基本的な関係

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際にそのように反射的に動ける人もいるだろう。そこでは、<「態度」→応答>という上記の図式を想定することに無理はない。しかしその一方で、反射的な現れとしての応答が「身がすくんで動けない」「どうしていいかわからない」という形で現れることも少なくないのではないだろうか。では、そうした人が浮ヶ谷の指摘する「態度」を有していないかといえば、いちがいにそうともいえない。むしろ実際的な感覚としては、そうした応答が「態度」に先んじた

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とみなすほうがしっくりくる。そして、その先んじた応答は「態度」としばしばズレうる4 4 4 4

のである。「態度」に先んじ、かつそれとズレた形で現れる応答の可能性を認めるならば、両者の関係性は<「態度」→応答>という一方向的な図式だけでは捉え切れない。予期せぬ形で先んじた応答は、違和を感じさせるが、特に問題とされず受け流されてしまうことは少なくない(この経験は、ケアの場面よりもむしろ差別の場面において顕著かもしれない(好井 2007))。あるいは、「誤った応答」として問題化され、「態度」を再確認し、<「態度」→応答>という図式をより強化することもあるだろう。しかし同時に、予期せぬ形で先んじた応答は「態度」を意識化し、自省的に見つめ直すという契機ももたらしうるのである。すなわち、<「態度」→応答>という図とともに、<「態度」←応答>という図も両者の関係性には組み込む必要があるということであり、その点で、可能態としての態度と現実態としての応答は、質的には異なるが双方向的な回路が開かれている関係にあると考えることができる。この視点は、研究会における報告と、それを踏まえた議論

を通じて得られたものである。たとえば徳安祐子(九州歯科大学非常勤講師)の報告では、南ラオスの山地民カタンの精霊をめぐる種々の実践を、心身の不調などの形で現れる精霊からの働きかけへの応答として捉え直すという興味深い試みが行われた。そこから見えてくる彼らの精霊に対する基本的な「態度」とは、積極的に精霊に働きかけるのではなく、精霊からの働きかけに適切に応答できるように絶えず備えておくという受動的なものといえる。この報告を受けて議論された点のひとつが、精霊に対する応答の男女差である。たとえば精霊に対する応答の機会である「家の精霊」の儀礼は、男性だけで執り行われるものであり、そこに女性は関与できないとされる。こうした男女間の関わり方の違いは男女間の「態度」のズレをうみだすのではないか、そしてそのズレゆえに上述の「態度」がゆらいだり問い直されたりすることも

ありうるのではないか、といった点をめぐり議論は展開した。こうした<「態度」←応答>という図の意識化につながる議論は他の報告においても行われ、それを通じて「態度」と応答の双方向的回路という視点が徐々に輪郭をなしていった。今後の議論は、より意識的な形でこの視点を民族誌的記述の水準に組み込んでいく試みとなるであろう。最後に、今後の展開に関連する動向に触れておきたい。日

本文化人類学会の新しい事業として設置された課題研究懇談会のひとつに「応答の人類学」(代表:亀井伸孝)が採択され、4月より活動を開始した。本共同研究がどちらかといえばフィールドにおける人びとの態度と応答の記述に焦点を当てているとすれば、このプロジェクトは人類学者の応答に関心が向けられているといえる。異なる関心から出発し、重ねてきた議論が、同様のキー概念にたどり着いたことも興味深い。こうした外部の議論との接合も、本共同研究の今後の展開を刺激し、豊かにするものと信じている。

【参考文献】浮ヶ谷幸代 2009『ケアと共同性の人類学―北海道浦河赤十字病院精神科

から地域へ』生活書院。好井裕明 2007『差別原論―<わたし>のなかの権力とつきあう』平凡社。関一敏 2008「慣習論・覚書」『慣習―共生社会学論叢Ⅲ』九州大学大学院

人間環境学府共生社会学講座・比較宗教学研究室。

いわさ みつひろ

高知大学人文学部講師。専門は医療人類学、生命倫理学、ラオス研究。論文に「老親扶養からみたラオス低地農村部における親子関係の一考察」(『文化人類学』75(4):602-613 2011 年)、「制度批判で見えなくなること:日本の難民の第三国定住制度をめぐって」(久保忠行との共著、『国際社会文化研究』12:53-82 2012 年)など。

南ラオスの山地民カタンの「家の精霊」の儀礼の一場面。そこに女性の姿はみられない(2006年 1月、徳安祐子撮影)。