文化開発について - kufsた。それまで商品開発において消費者目線とい...
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研究者と図書館
前回は文化概念がどのように構築されたかについて述べたが、いったん出来上がったその概念は独り歩きをし、文化本質論が当たり前となってしまった。これは文化人類学者においても同じで、文化は変わらないもの、さらには変えてはいけないとも思い込むようになっていった。これがモダンの状況であったが、ポストモダンの語りの中で、この常識の呪縛から徐々に人類学者は解き放たれていく。それがホブズボーム他の『創られた伝統』1983やベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983といった書物であった。これらを契機として人文諸科学他で、様々な常識の見直しの議論がされるようになるが、ただそれは学問の世界にとどまり、文化は変わるという認識が、十分に一般化するまでには至っていない。 人類史という広いパースペクティブで考えれば、我々の生活が変化してきたことは一目瞭然で、それにより価値観や世界観なども変わらざるをえないが、そうは考えない人たちもいる。ここが思考の分岐ポイントとなる。モダニストに限らず、信仰の世界にも同じことがいえるからである。絶対性に大きな価値を見出す人々にとって、変化や相対性は認められない。虚構であろうがなかろうが、彼らにとっては疑うことのない真理で、これが信仰の本質なのである。 モダニズムの世界での文化観に加え、信じ込むという人類の特質、そして日常性の慣性化という、いったん出来上がった状況を人々は維持し続けるという事情も絡み、文化は変化しないという確信へと至る。しかし、文化を日常性
(Way of Life)としたときに、今やそれは相対的でうつろい易いものと認識すべきである。近代以降における生活の変化の速さと外部世界からの様々なモノ・コトや情報の流入量の飛躍的な拡大、モノは買うという生活習慣、これらにより我々の日常は日々変わっているのである。
例えば連絡手段、筆者が子供のころは主なる手段は郵便と電報しかなかったが、電話が当たり前に、そこからポケベル、携帯電話、スマートフォン、インターネットへと大きく変わってしまった。他に事例は山ほどある。これらを創り出しているのがビジネスの世界であり、われわれの日常はそれ抜きには成立しない。 ただビジネスの側の全てがそういった認識を持っていたかというと、必ずしもそうではない。自分たちの創り出すモノ・コトが何をどう変えてしまうかについては無頓着であり、技術があるから、作れば売れそうだから、これを売りたいからと様々なものを商品化してきた。一度始めたビジネスに終わりはない。個人が止めることは可能だが、儲かるのであれば他の誰かがそれを引き継ぐ。あるいはすぐに競合相手が出現する。ビジネスモデルと製品が時代に適合する限りそれは続く。いわゆる文化化である。 こういった中で、文化開発という概念が注目されるようになった。2010年の三宅秀道「「文化開発論」のための概念整理の試み」という論で、これは2012『新しい市場のつくりかた』東洋経済新報社、という著書になるが、これが日経BPなどで大いに取り上げられることになった。それまで商品開発において消費者目線という語りがしばしばなされるようになってきていたが、それは新しい文化を創り出すという、別な切り口でなければ達成できないことを突き付けたからである。消費者は無いモノについては語れないのである。ただ文化開発自体は実際にはかなり難しい。既存のモノを異文化の中に受容させるには長い時間が必要である。魚の生食である寿司が海外で定着するのに実に半世紀近くかかっていることを見れば理解できよう。この世にないモノならさらに難しい。AIとからめてこの点について次回でまとめよう。
ささき しんいち(教授・文化人類学)
佐々木伸一文化開発について
文化とビジネス 3