太宰治の「乞食学生」と外国文学 ·...

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九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 25 太宰治の「乞食学生」と外国文学 九頭見 1.はじめに 太宰治の作品に「乞食学生」がある。この「中 篇」小説は、昭和15年7月から12月にかけ六回に わたって雑誌「若草」の創作欄に連載され、その 後昭和16年5月発行の『東京八景』(実業之日本 社)に収録された。ところでこの昭和15年は、前 年の石原美知子との結婚を契機に実生活の立直し をはかった太宰にとって・生涯において心身とも に最も安定した時期で、この落ち着いた生活の中 で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小 説、20編以上の随筆など生涯で最も多くの作品を 残したのである。いわば昭和15年は、作家太宰治 の名を名実ともに揺るぎのないものにした年と言 えるであろう。試みに「乞食学生」を除いた17編 の小説を列挙すると、「俗天使」(「新潮」1月)、 「鴎」(「知性」1月)、「美しい兄たち」(「婦人画 報」1月)、「春の盗賊」(「文芸日本」1月)、「短 片集」(「作品倶楽部」1月)、「女の決闘」(「月刊 文章」1月~6月)、「駈込み訴へ」(「中央公論」 アルト 2月)、「老ハイデルベルヒ」(「婦人画報」3月)、 「善蔵を思ふ」(「文芸」4月)、「誰も知らぬ」 (「若草」4月)、「走れメロス」(「新潮」5月)、 「古典風」(「知性」6月)、「盲人独笑」(「新潮」 7月)、「失敗園」(「東西」9月)、「きりぎりす」 (「新潮」11月)、「一一燈」(「文芸世紀」11月)、「ろ まん燈龍」(「婦人画報」12月~昭和16年6月)で ある。 しかし太宰を取り巻く外的世界は決して穏やか なものではなかった。日本においても外国におい ても軍国主義が台頭し、思想や言論の統制が徐々 に強化されていったのである。昭和14年9月、ナ チス・ドイツがポーランドに進撃を開始、第二次 世界大戦が勃発する。同年11月、ソ連がフィンラ ンドを攻撃、いわゆる冬期戦争に突入する。翌昭 和15年6月にはドイツ軍がパリに無血入城。同年 9月には「日独伊三国同盟」がベルリンで調印さ れる。日本国内においては、昭和15年10月、大政 翼賛会が発足、同年12月には日本出版文化協会が 設立され、用紙の配給統制にあたっている。以下 は「十五年間」での太宰の述懐である。 いったい私たちの年代の者は、過去二十年間、 ひでえめにばかり遭って来た。それこそ怒濤の 葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちにな るやならずの頃に、既に私たちの殆んど全部 が、れいの階級闘争に参加し、或る者は投獄さ れ、或る者は学校を追はれ、或る者は自殺した。 つづいて満州事変。五・一五だの、二・ 二六だの、何の面白くもないやうな事ばかり起 って、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃 の者は皆戦争に行かなければならなくなった。 事変はいつまでも愚図々々つづいて、蒋介石を 相手にするのしないのと騒ぎ、結局どうにも形 がっかず、こんどは敵は米菓といふ事になり、 日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極めた。 (V皿.47-48) このような世相の影響なのか、この時期の作品の 特徴の一つとして、太宰が内外の古典や個人の日 記に素材を求めたことがあげられるであろう。例 えばドイツの作家オイレンベルクの小説「女の決 闘」の鴎外訳を素材とした「女の決闘」、同じく ドイツの詩人シラーの詩「人質」を参看した「走

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Page 1: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 25

太宰治の「乞食学生」と外国文学

九頭見 和 夫

1.はじめに

 太宰治の作品に「乞食学生」がある。この「中

篇」小説は、昭和15年7月から12月にかけ六回に

わたって雑誌「若草」の創作欄に連載され、その

後昭和16年5月発行の『東京八景』(実業之日本

社)に収録された。ところでこの昭和15年は、前

年の石原美知子との結婚を契機に実生活の立直し

をはかった太宰にとって・生涯において心身とも

に最も安定した時期で、この落ち着いた生活の中

で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら

ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

説、20編以上の随筆など生涯で最も多くの作品を

残したのである。いわば昭和15年は、作家太宰治

の名を名実ともに揺るぎのないものにした年と言

えるであろう。試みに「乞食学生」を除いた17編

の小説を列挙すると、「俗天使」(「新潮」1月)、

「鴎」(「知性」1月)、「美しい兄たち」(「婦人画

報」1月)、「春の盗賊」(「文芸日本」1月)、「短

片集」(「作品倶楽部」1月)、「女の決闘」(「月刊

文章」1月~6月)、「駈込み訴へ」(「中央公論」    アルト2月)、「老ハイデルベルヒ」(「婦人画報」3月)、

「善蔵を思ふ」(「文芸」4月)、「誰も知らぬ」

(「若草」4月)、「走れメロス」(「新潮」5月)、

「古典風」(「知性」6月)、「盲人独笑」(「新潮」

7月)、「失敗園」(「東西」9月)、「きりぎりす」

(「新潮」11月)、「一一燈」(「文芸世紀」11月)、「ろ

まん燈龍」(「婦人画報」12月~昭和16年6月)で

ある。

 しかし太宰を取り巻く外的世界は決して穏やか

なものではなかった。日本においても外国におい

ても軍国主義が台頭し、思想や言論の統制が徐々

に強化されていったのである。昭和14年9月、ナ

チス・ドイツがポーランドに進撃を開始、第二次

世界大戦が勃発する。同年11月、ソ連がフィンラ

ンドを攻撃、いわゆる冬期戦争に突入する。翌昭

和15年6月にはドイツ軍がパリに無血入城。同年

9月には「日独伊三国同盟」がベルリンで調印さ

れる。日本国内においては、昭和15年10月、大政

翼賛会が発足、同年12月には日本出版文化協会が

設立され、用紙の配給統制にあたっている。以下

は「十五年間」での太宰の述懐である。

 いったい私たちの年代の者は、過去二十年間、

 ひでえめにばかり遭って来た。それこそ怒濤の

 葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちにな

 るやならずの頃に、既に私たちの殆んど全部

 が、れいの階級闘争に参加し、或る者は投獄さ

 れ、或る者は学校を追はれ、或る者は自殺した。

 …  つづいて満州事変。五・一五だの、二・

 二六だの、何の面白くもないやうな事ばかり起

 って、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃

 の者は皆戦争に行かなければならなくなった。

 事変はいつまでも愚図々々つづいて、蒋介石を

 相手にするのしないのと騒ぎ、結局どうにも形

 がっかず、こんどは敵は米菓といふ事になり、

 日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟を極めた。

 (V皿.47-48)

このような世相の影響なのか、この時期の作品の

特徴の一つとして、太宰が内外の古典や個人の日

記に素材を求めたことがあげられるであろう。例

えばドイツの作家オイレンベルクの小説「女の決

闘」の鴎外訳を素材とした「女の決闘」、同じく

ドイツの詩人シラーの詩「人質」を参看した「走

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れメロス」、『聖書』を素材とした「駈込み訴へ」、

「葛原勾当日記』を原拠とした「盲人独笑」など

がある。さらに今回取り上げる「乞食学生」の場

合も、引用されたヴィヨンの詩集『大遺言書』、

ゲーテの悲劇『ファウスト・第一部』、ドイツの

作家マイヤー=フェルスターの劇『アルト・ハイ

デルベルク』の一節が物語の展開において重要な

役割をはたし、作品解釈上非常に興味をそそられ

るのである。しかしこの「乞食学生」は、研究者

の研究意欲をかきたてるものが少ないのか、作品

発表以来半世紀を経た今日においても、整った作

品論といえるものはなぜか皆無に近い状態で、同

じ太宰の作品でも例えば「走れメロス」の活発な

研究の展開と比較すると、その落差の大きさに驚

かされるのである。

 「乞食学生」一編は、冒頭の「半病人みたいな」

 作家と、青春を取り戻した「私」との対比があ

 ざやかなばかりではなく、さらにそれが夢にす

 ぎなかったというかなり陳腐な結末をつけるこ

 とにより、「私」の「佗びしさ」を定着しえた

 作品といえるのではないか。…  素材を他に

 あおがないで、ほとんど単純陳腐であるがゆえ

 にこれほど典型的な青春をとらえた作品は少な

 いのではなかろうか。2)

これは、数少ない「乞食学生」論の一つ、塚越和

夫の「乞食学生」の評価であるが、「陳腐」の表

現が目につく彼の評価があるいは現在の「乞食学

生」研究における最大公約数的な評価になってい

るのではないか。そうだとすれば、「乞食学生」

についての作品論が皆無に近いことも納得がいく。

このことの確認もまた今回の「乞食学生」論の目

的の一つである。

 以下この小論においては、「乞食学生」と外国

文学との関係の解明を主な目的に、1)作品の構

成の観点から枠小説を形成する「夢」を取りしげ、

2)作品における太宰の視点、太宰がこの作品で

めざしたものは何か、を確かめ、3)外国文学の

影響、特にヴィヨンの『大遺言書』、ゲーテの

『ファウスト』、マイヤーニフェルスターの『アル

ト・ハイデルベルク』との関係を分析する。

2001年12月

n.作品の構成

1.「夢」の役割一枠としての「夢」

 「乞食学生」は、前述のごとく6回にわたって

雑誌に連載された「中篇」小説であるが、作品の

構成は非常に明快で、32才の小説家太宰(本名木

村武雄)のみた「夢」、白日夢が作品の中心とな

る、いわば一つの小説の中に「夢」という形でも

う一つの小説が挿入された枠小説、または入れ子

型小説といえる。試みにこの作品を構成の面から

整理すると、

①原稿投函後自己嫌悪に陥った私「太宰」は、危

険な玉川上水で泳ぐ少年佐伯を発見、そのあと彼

との会話の最中に眠り込む。(「第一回」)

②睡夢の中で太宰は様々な経験をする。少年の虚

偽に対する同情、虚偽発覚後の少年および少年の

友人熊本も含めた二人の旧制高校生との意気投合

など。(「第一回」から「第六回」まで)

③覚醒後の太宰は、少年佐伯が大学の新入生であ

ること、友人熊本は夢の中の架空の存在であるこ

とを知る。(「第六回」)

以上の三つの部分に集約され、さらに作品の大部

分を占める②の「夢」の部分と①および③の「現

実」の部分とがいわば入れ子型の構造になってい

ることが明らかになるのである。

 それではいかなる意図を持って太宰は、作品に

「夢」という形式を取り入れたのか。「夢」は、一

般的には作者が作品に距離を置いて自己の考えを

表現する時に用いる方法といわれている。しかし

この作品では作者太宰自身が、本名こそ木村武雄

であるが、「太宰」という名の「32才の小説家」

として登場する。さらに作品の舞台も太宰の実生

活の場である三鷹周辺、例えば井の頭公園、玉川

■ヒ水、万助橋などである。距離を置くどころか作

者太宰自身が舞台に登場し一人二役を演じている。

それ故にこそ「乞食学生」に太宰が「夢」という

形式を取り入れた理由が改めて問われることにな

る。このことの解明の前に太宰が他の作品では

「夢」をどのように把握していたか、例えば太宰

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九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 27

の晩年の短篇「フォスフォレッスセンス」(昭和

22年)等をもとに検討する。

 「フォスフォレッスセンス」に登場するフロイ

トは、その著書『夢判断』の中で、「白日夢」に

ついて以下のごとく規定する。

 白日夢も夢と同様に願望充足であり、大体にお

 いて幼児期の諸体験の諸印象に基づいていると

 いう点もまた夢と同様である。… 白日夢の

 幼児記憶に対する関係(白日夢はここに還元さ

 れる)は、ローマの多くのバロック様式の宮殿

 の、古代遺跡に対する関係のごときものである。

 古代遺跡の切石や円柱が近代形式のバロック建

 築に対して材料を供給したのであるから。3)

太宰は、フロイトの説を大筋で認めながらもフロ

イトとの微妙な相違を示唆する。

 私の夢は現実とつながり、現実は夢とつながっ

 てるるとはいふものの、その空気が、やはり全

 く違ってみる。夢の国で流した涙がこの現実に

 つながり・やはり私は口惜しくて泣いてみるが・

 しかし、考へてみると、あの国で流した涙のほ

 うが、私にはずっと本当の涙のやうな気がする

 のである。…  人間はこの現実の世界と、そ

 れから、もうひとつの睡眠の中の夢の世界と、

 二つの世界に於いて生活してみるものであって、

 この二つの生活の体験の錯雑し、混迷してみる

 ところに、謂はば全人生とでもいったものがあ

 るのではあるまいか。(皿.381-382)

さてこの「フォスフォレッスセンス」の検討で気

になるのは、この作品が太宰が自殺する前年(昭

和22年)に発表された作品で、一方現在検討して

いる「乞食学生」は石原美知子と結婚した翌年

(昭和15年)発表の作品で、両作品の間には7年、

それも「太平洋戦争」という激動の期間が挿入さ

れた7年の時間的な開きが存在することである。

この時間の開きを越えて、かりに「フォスフォレ

・ノスセンス」に示された太宰の「夢」についての

考えをもとに、32才の小説家「太宰」が夢の中で

一二人の旧制高校生佐伯や熊本との間に実現した意

気投合を解釈すれば、以下のごとくなるであろう

か。青春のまっただ中にいる彼らとの問に実現し

た意気投合は、現実の延長線上にある出来事では

あっても、現実の中で起こりうるかもしれない意

気投合よりもはるかに本物の意気投合に近いと。

おそらく津島修治の「太宰」は、はるか昔に失っ

た青春は、現実ではない夢の中でこそ失った時に

近い状態で取り戻せると考えたのであろう。その

際「夢」を見る本人を津島修治の「太宰」から木

村武雄の「太宰」に変えたのは、津島修治の「太

宰」が、かりに本音に基づく発言ではあっても、

彼独特のはにかみから、現実と作品との間には距

離があることを示そうとした結果と推測される。

ところで太宰の「乞食学生」のように作品に「夢」

を用いる方法は、一般に「陳腐な夢落ち」と指摘

されるくらい古来多くの詩人が用いている。例え

ば芥川龍之介も自作に好んで「夢」を用いた作家

の一人である。

 芥川は、太宰が最も影響を受けた作家の一人で

ある。弘前高校の時に芥川の講演を聞き、そのニ

ヵ月後芥川自殺の報に大きな衝撃を受けた太宰は、

その後の人生において、例えば芥川を模倣して帝

国ホテルで女性と自殺の打ち合せをしたと伝えら

れるほど芥川の自殺の影を引きずり、自殺未遂を

繰り返したあと玉川上水に身を投げ命を断つので

ある。自作への「夢」導入についても芥川の影響

を考慮せねばならないであろう。

 芥川には・随筆も含め夢を対象にした作品が・

例えば「黄梁夢」(大正6年)、「女体」(大正6年)、

「夢幻」(大正7年)、「海のほとり」(大正14年)、

「死後」(大正14年)、随筆「夢」(大正15年)、小

説「夢」(昭和2年)など少なくないが、ここで

は小説「死後」と随筆「夢」を取り上げる。随筆

「夢」によれば、「夢の中に色彩を見るのは神経の

疲れてみる証拠」で、「夢の中には嗅覚は決して

現れないと云ふ」が、芥川自身は、「ゴムか何か

を燃やしてみるらしい悪臭を感じたのを覚えてみ

る」し、「夢の中でも歌だの発句だのを作ってみ

る」という。4)また「死後」の「僕」は、妻子の

眠る傍らで自分の死後の夢を見、夢から覚めた後

なぜかフロイトのことを意識する。

 僕は妻に対しては恐しい利己主義者になってゐ

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 る。殊に僕自身を夢の中の僕と同一人格と考へ

 れば、■一層恐しい利己主義者になってみる。し

 かも僕自身は夢の中の僕と必しも同じでないこ

 とはない。フロイドは。5)

細かいことだが、フロイトの表記が芥川も太宰も

「フロイド」である。さて「僕自身は夢の中の僕

と必しも同じでないことはない」など大正時代に

日本に紹介され昭和初頭に大流行したフロイト心

理学の影響が読みとれるだけでなく、太宰の「乞

食学生」や「フォスフォレッスセンス」の…節と

の類似が認められ興味深い。試みに芥川が問題に

した夢の中の色彩について「乞食学生」を検証す

ると、「馬各駝色のアンダーシャツ」、「緋鯉」、「問

題の鼻は、さういへば少し薄赤い」、「赤い唇」な

ど色彩と深い関わりをもつ表現が少なからず認め

られる。歌についても「アルト・ハイデルベルヒ」

が三人全員で歌われるが、嗅覚に関係する表現は

全く認めることができない。参考までに芥川のい

う「色づきの夢」と「夢の中の歌」の意味につい

て心理学の立場からの分析を紹介する。

 ①r色づきの夢」については昔から、不吉であ

 るとか、身体の具合がわるいから(五臓六腑の

 疲れ)とか狂気の前兆(たとえば、てんかんの

 前駆症状として出る光や赤色のアウラとの類似

 から)などといわれてきた。また夢について関

 心をもつ人の幾人かは、この色についてとくに

 関心があるのも不思議なくらいである。どうし

 てそうなのかというと、おそらく夢の記憶の中

 でも、色づきはたいへん印象に残るからではな

 いだろうか。しかし、色づきの夢というのは正

 確な言い方ではない。もともとほとんどの夢は

 色がついているのであるが、それを私達は色っ

 きとして印象に残していないだけである。正確

 には「夢の中の色の部分が強く印象に残った」

 と言うべきであろう。6)

 ②「歌う」 心の奥深く秘められた感情や真実

 の自己を表現したい気持ち、感情や気持ちを言

 葉にすることの現れ。生命感あふれる感情を表

 す。自分に対して他の人たちが挑戦してきたり、

 自己主張したりすること。7)

2001年12月

2.粋小説採用の経緯

 太宰は創作において様々な小説の形式を試みて

いる。例えばその一一っに枠小説(額縁小説、入れ

子型小説、ドイツ語ではRahmenerzahlung)が

ある。枠小説とは、一つの小説の中に、一つない

し二つ以上の別の小説が挿入され、挿入された小

説がいわば枠のようになっている小説のことで、

特に19世紀に活躍したT.シュトルム、G.ケ

ラー、F.グリルパルッァーなどドイツ語圏の作

家が好んで用いた方法であるが、例えば『千一一夜

物語』、ボッカッチョの『デカメロン』、ブルース

トの『失われた時を求めて』などもよく知られた

作品である。ある芝居の中で、さらに別の芝居が

演じられる劇中劇や映画におけるカット・バック

も同じ手法である。

 「乞食学生」と非常に近い時期に発表された

「愛と美について」(昭和14年)や「ろまん燈寵」

(昭和15年)にも枠小説の形式が用いられている

と推測される。最初に両作品の梗概を記すと、

「愛と美について」は、ロマンス好きで退屈する

と集まって物語の連作をはじめる習慣がある兄妹

弟5人が、梅雨の時期のある日曜日に、「老人」

をテーマに5人の連作で一つの物語を完成すると

いう内容である。テーマである「老人」がいわば

一一 チの枠を形成している。一方「ろまん燈龍」は、

前述の5人の兄妹弟が今度は正月の一日から五日

までの5日間、一一一日一話ずつ話を続けて一一編の童

話を完成するという内容で、話は一日ごとに完結

し、かっそれぞれの話がオムニバス形式で連結し

ている。いわば5っの枠から構成されたオムニバ

ス小説である。「夢」を枠とした「乞食学生」は、

作品の構成の面からみれば、「老人」を枠とした

「愛と美について」の方により類似しているとい

えるであろう。

 それでは太宰はこの枠小説という創作の手法を

どこから学んだのか。おそらくは他の文学作品、

とりわけ外国文学の影響ではないか。問題は太宰

の場合、「太宰治ほどその作品中に外国文学の影

をちらっかせた作家も少ないが、同時に、この人

の作品ほど外国文学の影響云々を論じにくいもの

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九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 29

もない。」(長野隆)8)という評価である。確かに

太宰の作品には外国の作家や作品の名前が少なか

らず登場する。しかしこのことが、芥川龍之介や

森鴎外などの場合のように、その作家や作品を太

宰がきちんと読んで理解していることに必ずしも

結びつかないのである。太宰の作品を解釈する場

合の難しさがここにある。例えば「乞食学生」執

筆の頃同じ三鷹に住居があって頻繁に交流した亀

井勝…郎など他の人々から聞いた話や太宰が丹念

に読んだと伝えられる朝日新聞の記事からでも彼

の天性の創作力をもってすれば、後世の評価に耐

え得るような作品を作ることができたからである。

しかしこの小論では様々な角度から幅広く作品を

検討したいので、あえて枠小説という創作の手法

に関して他の文学作品、特に外国の文学作品の太

宰への影響について分析を継続する。

 試みに太宰の全集をめくってみると、「八十八

夜」にシュトルムとケラァの名前が、「十五年間」

には『デカメ・ン』の題名が見出される。おそら

く『デカメロン』については、もう既に明治15年

には『欧州情譜・群芳綺話』の題名で日本に紹介

されるほどの著名な作品なので、太宰が内容をよ

く理解していたことはほぼ間違いないと推測され

るが、シュトルムとケラァについては彼がどの程

度の知識を有していたかは定かでない。

 まず『デカメロン』Decameron(1348年一1353

年)についてであるが、イタリアの作家ボッカッ

チョGiovanni Boccaccio(1313年一1375年)が

執筆したこの作品は、10名の男女が木陰で涼をと

りながら、気晴らしに十日の間おのおの一日一つ

ずつ、それぞれの日に指示されたテーマ、例えば

十日目は「気高い、寛大な行為」、に基づいて物

語を話すという内容になっている。一つの枠に10

の話が入り、全体で10の枠から構成された典型的

な枠小説である。「ろまん燈龍」の構成の形式が

「デカメロン』に似ていることからその影響が推

測されるが、ただ「デカメロン』は9世紀に書か

れた『アラビアン・ナイト』Arabian Nights

(邦訳名『千一夜物語』)の影響が少なくないこと

から太宰が『アラビアン・ナイト』をみた可能性

も否定できないであろう。

 つぎに「乞食学生」と「愛と美について」であ

るが、作品の構成の形式がシュトルムTheodor

Storm(1817年一1888年)の「インメン湖』

Immensee(1850年)やケラーGottfried Keller

(1819年一1890年) の 『寓詩物語』Das

Sinngedicht(1881年)、太宰の作品に名前は出て

こないがマイヤーConrad Ferdinand Meyer

(1825年一1898年)の『僧の婚礼』Die Hochzeit

des M6nchs(1884年)などとの類似が認められ

る。

 青春の日の不幸な恋などを懐古的に語る作品を

得意としたシュトルムの作品の中でも「インメン

湖』は、最もシュトルムらしさが発揮された作品

で、日本でも大正3年に『湖畔』(三浦白水訳)

の題名で翻訳され、さらに昭和11年には『みずう

み』(関泰祐訳)の題名で岩波文庫に収録されて

いる。安楽椅子に腰をおろした老人が、壁の上の

肖像を月光が照らし出した時、思わず「エリーザ

ベト」とっぷやく。これがきっかけとなって結ば

れなかった青春の日のあわい恋の思い出が回想さ

れる。いわば「エリーザベト」というっぶやきが

一つの枠を形成している作品である。つぎにケ

ラーの『寓詩物語』についてであるが、「おまえ

はどのようにして白百合を紅ばらに変えるか、色

白のガラテーにキスをせよ、そうすれば彼女は顔

を赤らめてほほえむだろう」9)という寓詩の詩句

に心ひかれた自然科学者が・顔を赤らめてほほえ

む女性との結婚をめざして旅に出、宿泊した城の

城主とその姪との間でこの結婚の条件について議

論をし、交互に物語をつくる。寓詩の詩句が一つ

の枠を形成しているといえる。この作品も昭和14

年、『白百合を紅いばらに』(道家忠道訳)の題名

で岩波文庫に収録されている。さて19世紀に活躍

したドイツ語圏の作家の中でも枠小説の形式を最

も得意としたのがC.F.マイヤーである。作品の

多くが、取り扱った事件を、作者自身の言葉とし

てではなく、他の人物、例えばダンテのような有

名な人物の口から語らせる、枠小説の形式をとっ

ている。例えば『僧の婚礼1でも、イタリアのヴェ

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30 福島大学教育学部論集第71号

ロナの宮廷を訪れたダンテによって、「ここに僧

アストレ、その妻アンティオーペの傍らに眠る。

二人をエヅンェリンが埋葬した。」10)という墓碑

銘をもとに僧アストレの波瀾に満ちた生涯が語ら

れる。墓碑銘が枠の役割をはたしている。この作

品も、昭和11年に『僧の婚礼』(伊藤武雄訳)の

題名で岩波文庫に収録されている。

皿 太宰の視点一作品で太宰がめざした

 もの

1.青春の思い出としての乞食学生

 太宰は中篇「乞食学生」で何を表現しようとし

たのか。太宰自身が、現実の太宰そのままに32才

の小説家「太宰」の名前で登場し、夢の中で二人

の旧制高校生と交流する。「太宰」は嘘に踊らさ

れながらも二人と意気投合し、当時の学生たちの

間で青春の象徴となっていた「アルト・ハイデル

ベルヒ」の歌を高吟する。これらの作中人物の行

動によるのか、既に引用した塚越和夫は、「乞食

学生」を「典型的な青春をとらえた作品」と解釈

したが、その他の数少ない「乞食学生」を論じた

作品論においても、若干の相違は認められるもの

の、塚越同様太宰の青春論、失われた青春への回

帰と解釈するものが大部分である。以下発表され

た年代順に紹介する。

 ①単に年令上の約束事とはいひながら、青春に

 別れを告げるのは、悲しいことだ。掌中の珠を

 取り落すやうなものだ。珠の行方を、駈けだし

 て追っかけたくなる。玉川上水の土手の草原に

 寝転んでみると、大学生の群に交って彼等と悲

 喜を共にする白日夢を、まざまざと見るのであ

 る。悲しい青春。如何に悲しく惨めな青春であ

 っても、も…度、せめて白日夢の中にでも還っ

 て来て貰ひたいのだ。(豊島與志雄)m

 ②浪曼的雰囲気の濃い作品である。売文業者、

 生活者としての現在の境遇への嫌悪が、かつて

 の放縦な青春時代を思い起させる。玉川上水の

 岸辺で素裸でいる学生に会い、青春の純粋さの

 中に興奮して行く。この作品は途中から夢の雰

2001年12月

 囲気をともない、青春をとりもどした感激は、

 一場の夢と消え、わびしい現実だけが残る。

 (奥野健男)吻

 ③「乞食学生」に擬された、作家「太宰治」こ

 と木村武雄の白日夢のかたちで物語は展開する

 が、夢に登場する少年佐伯五…郎は、留置され、

 窃盗し刃傷行為をする学生である。しかも作中

 にはフランソワ・ヴィヨンの詩に対する、痛切

 な共鳴の心情が書きとどめられている。かくし

 て、『乞食学生』は、十五世紀中葉の盗賊「乞

 食学生」詩人、フランソワ・ヴィヨンから得た

 イマァジュを核とする作品といってよい。(実

 方清)13)

 ④作品中に、大人と少年の対照という構図があ

 ることに注意する。…  ここでは主人公が

 〈大人〉の側に組みこまれていることに注意し

 たい。太宰の中に、青春を失った大人の意識が

 あったことは間違いなかろう。そうした青春の     アルド 喪失は、「老ハイデルベルヒ」などとも通じる

 ものである。そして青春を失った側から新しい

 世代の青少年へ期待する思いがこの作に語られ

 ている。…  前期の「ダス・ゲマイネ」に通

 じるものをもっている。(渡部芳紀)14)

 ⑤取り戻す術なき青春を追憶するという点では アルト

 『老ハイデルベルヒ』と同様であるが、特徴的

 なことは作中の佐伯・熊本そして木村(太宰)

 が憧憬しているのが型にはまらぬ青春期特有の

 複雑でやみくもな熱情であることである。いず

 れの人物も作家の自己像の一側面が担わされて

 いるという点では『ダス・ゲマイネ』とも近似

 している。(鶴谷憲三)15)

 ⑥この「乞食学生」では同じ青春という主題を

 当時の青年に向けて語りかけるという新たな試

 みをなしたのではないかと考えるのである。言

 い換えれば、この小説とは太宰の青春論であり、

 その虚構化であったということである。(大平

 剛)⑥

以しの「乞食学生」についての評価をもとに、

「乞食学生」解釈上問題となる点を整理すると、

以下の二点が特に重要と判断される。

Page 7: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 31

1)「乞食学生」は、「夢」、すなわち白日夢の形

 式を用いて、作者の失われた青春への回帰が表

 現されていること。         アルシ2)「乞食学生」と「老ハイデルベルヒ」(昭和15

 年)および「ヴィヨンの妻」(昭和22年)との

 関係。

第一の点を論じる前に、青春とは、少なくとも太

宰にとって「青春」とは何であったのかを追跡し

てみたい。『広辞苑』によれば、「年の若い時代。

人生の春にたとえられる時代」とある。「人生の

春」という時、単に生活年令だけが対象となるの

ではあるまい。素朴な疑問であるが、既に20代に

おいて自分の現状を「晩年」と形容した太宰には

たして失うような青春があったのか、少なくとも

白日の下で「アルト・ハイデルベルヒ」を高吟す

るような青春は太宰にはなかったはずである。旧

制弘前高校の時芥川龍之介の自殺に衝撃をうけた

太宰は、その直後花柳界に出入りし、芸妓小山初

代と親しくなり、東京帝大入学を機に、同棲。そ

の間カフェーの女給と心中をはかり女性が絶命し

自殺幇助罪に問われる。大学にも行かず、生活を

実家からの仕送りに頼りながら左翼運動を支援、

しかしイデオロギーがあるわけでもなく、ほどな

く離脱。大学を卒業できず、さりとて新聞社の入

社試験にも失敗するなど就職もできない。鎌倉で

の自殺未遂の後急性盲腸炎で入院、その際用いた

鎮痛剤パビナールにより中毒し精神に異常をきた

す。精神病院入院中に初代が姉の子と姦通事件を

起し、清算のため水上温泉で心中を試み、その後

離別。以上の事実からも、太宰の10代後半から20

代における生活は、いわば日蔭の生活といってよ

く、当時の旧制高校生や帝大生たちが白日の下

「アルト・ハイデルベルヒ」を高吟したような

「青春」ではなかったはずである。それ故「乞食

学生」の「太宰」がめざした、失われた青春への

回帰とは、津島修治の太宰自身が旧帝大生として

経験し加齢と共に忘却した青春への回帰ではなく

て、太宰自身は経験したことのない、「青春」と

呼ばれている世界への憧憬に満ちた空想といえる

のではないか。それ故太宰はおそらく未経験の

r青春」を、いかにも経験したごとく直接的に描

写することにきまり悪さを感じ、木村武雄の「太

宰」のみた「夢」という形式で表現せざるを得な

かったのであろう。太宰自身が実際に経験した

「青春」であるならば、例えばシュトルムのよう

に回想、追憶という形式での表現も可能であった

はずである。なお「乞食学生」と太宰の含羞(は

にかみ)との関係については、亀井勝・一郎が指摘

している。

 「乞食学生」などには、三鷹に定住して後の日

 常生活、言わば作家としての生活をめぐっての

 様々な感慨がうかがわれるが、私はここに…貫

 している彼固有の含羞(はにかみ)を興味ぶか

 く思う。…  自己崩壊、人間失格の意識に根

 本的にはそれは発したものだ。おそるおそる生

 きていると言った気持、また他人が自分をどう

 見ているかと言った一種の妄想、また極度の内

 気とそれへの反撥としての強がり、その強がり

 への気まりのわるさ等々、彼の含羞の由来する

 ところは複雑だが、それが作品のひとつの魅力

 になっていることに注目したい。の

                   アルトそれでは太宰の「青春」が込められている「老ハ

イデルベルヒ」とはどこにあるのか。まず「太宰」、

佐伯、熊本の三人が高吟した「アルト・ハイデル

ベルヒ」についてであるが、ハイデルベルク

Heidelbergは、現在人口約15万人のドイツの町

で、ドイツ最古の大学(1386年創立)があり、町

の人口の約一割が大学関係者といわれる、長い歴

史をもつ学生の町である。しかし「乞食学生」に  アチトも、「老ハイデルベルヒ」にも、太宰と関係の深

い旧制弘前高校のあった弘前、東京帝大のあった

東京の本郷など学生の町は全く描写されていない。

 修善寺で一泊して三島に出たときは小雨が降っ

 ていた。太宰は雨の中を先に立って町中歩きま

 わり、私は安くてうまい店を探しているものと                アルき ばかり思っていた。三島が太宰の老ハイデルベ

 ルヒとは知る由もなかった。捌

これは、昭和14年6月、太宰、美知子夫人、美知

子夫人の母と妹の4人が、三保、修善寺、三島な

どを旅行した時の思い出を美知子夫人が回想した

Page 8: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

32 福島大学教育学部論集第71号

          アヰトものである。三島と「老ハイデルベルヒ」との関

係を検証すると、太宰は昭和9年8月に約一一ヵ月

友人の坂部武郎宅に滞在し「ロマネスク」を執筆、

二年前の昭和7年8月にも沼津市に住む坂部武郎

の兄坂部啓次郎宅に妻初代とともに滞在し「思ひ             アルト出」を執筆する。なお短篇「老ハイデルベルヒ」

には、三島市を中心に、沼津市の狩野川、伊豆の

古茶温泉が登場する。太宰は三島について記して

いる。

 三島は、私にとって忘れてならない土地でした。

 私のそれから八年間の創作は全部、三島から教

 へられたものであると言っても過言でない程、

 三島は私に重大でありました。(1皿.152)      アルトしかし短篇「老ハイデルベルヒ」からも読み取れ

るように・帝大生太宰としてではなく・作家太宰

としての青春の思い出の地である三島には、酔っ

て「アルト・ハイデルベルヒ」を高吟する学生た

ちの姿はない。ここにあるのは、佐吉と妹たちに

代表される「含羞といたわり」である。

2.乞食作家としての現在

 32才の小説家、本名は木村武雄、下手くそ、無

智、深い思索が何も無い、ひらめく直感が何も無

い、まるで作家の資格が無い、訪ねて来る客も無

く、仕事でもない限りは、一日いっぱい毛布にく

るまって縁側に寝こんでみて、読書にも疲れて、

あくびばかりを連発し、あくびの涙が、つっと頬

を走って流れても、それにもかまはず、ぼんやり

庭の向うの麦畑を眺めて、やがて日が暮れるとい

ふやうな、半病人みたいな生活をしてみる。(327-

330) これが「夢」ではない「現実」の中に描

写された32才の小説家「太宰」の姿である。この

一見無気力で周囲に無害にみえる「太宰」だが、

エピグラフにもある「大貧に、大正義、望むべか

らず」で、いずれは十五世紀の盗賊詩人ヴィヨン

に傾倒する詩人「大谷」となり、終には「大谷」

の妻のいう「私たちは、生きてみさへすればいい

のよ。」(四.334)の心境にならない保証はない。

かりにこのような視点からの「乞食学生」の分析

が可能なら、作品に引用されたヴィヨンの詩集

2001年12月

『大遺言書』(1462年?)、および太宰晩年の作品

「ヴィヨンの妻」(昭和22年)との関係が、例えば

「乞食学生」について「詩人、フランソワ・ヴィ

ヨンから得たイマァジュを核とする作品」(実方

清)の指摘もあり、無視できなくなる。

 「乞食学生」とヴィヨンの『大遺言書』および

「ヴィヨンの妻」との関係については次の「外国

文学の影響」の個所で分析することにし、ここで

は未来ではない現在の「太宰」、32才の小説家の

「太宰」(「乞食学生」を書いた時、津島修治の

「太宰」も32才であった。)についての分析を継続

する。「乞食学生」とほぼ同時期に発表された作

品に例えば「鴎」(昭和15年)がある。精神科医

で太宰が入院した時の主治医であった中野嘉一は、

太宰の気質として「自虐、自嘲、自己分裂的、自

己懐疑的な要素がある」19)ことを指摘し、私小説

風の短篇、例えば「鴉」に最もよくうかがわれる

と記している。「私」の告白によれば、五年まへ

に、半狂乱の一期間を持ち、人間の資格をさへ剥

脱されてみた私は、自分は唖の鴎、小暗い露地で

一生懸命ヴァイオリンを奏してみる、かの見るか

げもない老爺の辻音楽師で、いわば人では無い、

芸術家といふ、一種奇妙な動物であるという。

(108-114) それでも私はまじめな顔をして酒を

呑み、ぶざまでも、私のヴァイオリンを続けて奏

し、何か知らぬが「待つ」という。(122-124)

この作品には、「私」の出口のない閉塞状況が詳

細に描写されており・「乞食学生」の「太宰」の

置かれた状況との類似が感じられる。奥野健男は

「鴎」を、

 小市民生活への忍従も限度に来た感じである。

 唖の鴎、路の石塊、「イマハ山中、イマハ浜」

 の童女のあわれな歌。どれもこれも作者のわび

 しい心象風景だ。…  今は時代に流される群

 衆の一人に過ぎなくなった自分。けれど太宰は

 心にもない妥協を排し、芸術家として生きよう

 とする。2ω

と分析する。なお「鴉」への影響が推測される作

品としてグリルパフレッアーFranzGrillparzer

(1791年一1872年)の短篇『哀れな辻音楽師』Der

Page 9: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 33

arme Spielmam(1847年)とチェーホフ(1860

年一1904年)の戯曲『かもめ』(1895年)があげ

られる。生活力がなく、楽器をひきこなす技術も

ないが、音楽への情熱だけは失わないウィーンの

年老いた辻音楽師の姿は、まさに「鴎」の「私」

がめざす世界である。この作品は、昭和9年石川

錬次訳『維納の辻音楽師、附ベエトホオフェンの

思ひ出』の題名で岩波文庫に収録されている。つ

ぎに出口のない閉塞状況にある女優志望の二一ナ

と作家志望の青年トレープレフが登場するチェー

ホフの戯曲『かもめ』であるが、最後に二一ナが

名声や栄光ではなく忍耐力が大切であることを悟

るのに対し、トレープレフは人生の苦しさに耐え

切れず自殺する。このチェーホフの『かもめ』の

二一ナとトレープレフの置かれた閉塞状況と太宰

の「鴉」の「私」の状況が類似しているだけでな

く、二一ナが最後に到達した「忍耐力」と「私」

の額に光った「待つ」の言葉との間にも微妙な関

わりが感じられるのである。チェーホフは太宰が

最も愛した作家の一人であるが、彼の作品は比較

的早い時期に日本に紹介され、例えば戯曲『かも

め』も明治43年に楠山正雄訳『戯曲鴉』の題名で

邦訳されて以来多数の翻訳が出版され、多くの読

者を得ている。

IV.外国文学の影響

1.ヴィヨンの「大遺言書』

 「乞食学生」には、冒頭に掲げられた「大貧に、

大正義、望むべからず」のエピグラフを含め、第

一一 �フ「若き頃…  」、第六回の「青年よ…  」

と「ああ、残念…  」の合計四個所にフランソ

ワ・ヴィヨンの詩句が引用され、ヴィヨンに対す

る太宰の関心の高さが感じられる。このヴィヨン

ヘの関心は、「北方の或る城下まちの高等学校で

英語と独逸語とを勉強してみた」(「猿面冠者」)

(1.221)21)とはいえ、「東大の仏文科に在籍した

といっても、フランス語は目に一丁字もなかった」

(檀一一雄)22〉太宰のことを考えると、おそらくは翻

訳、または東京帝大仏文科進学の動機の一一つとい

われるフランス文学者辰野隆の著作等を通して得

たものと推測される。例えば太宰に私淑したドイ

ツ文学者の堤重久は、

 太宰の外国文学的、また外来思想的教養の全部

 が、芥川の諸作品に負っているのではないので

 ある。事実、若年の太宰は、間もなく森鴉外に

 よってドイツ文学に親しみ、辰野隆によってフ

 ランスの諸作家に通暁。23)

と報告している。つぎに「乞食学生」に引用され

たヴィヨンの詩句については、既に山敷和男が

「ヴィヨンの要論」の中で、佐藤輝男訳『大遺言

書』(昭和15年、弘文堂書房、世界文庫)からで

あることを、翻訳の文と引用された文との類似を

理由に、両者が一致しない部分については、「太

宰は彼流にこれをなおしている」との条件をっけ、

明らかにしている。24)

 それでは太宰はいっ頃からヴィヨンに関心をも

つようになったのか。試みにヴィヨンの名前が登

場する太宰の作品を紹介すると、「乞食学生」、

「ヴィヨンの妻」以外では、昭和23年に発表され

た「如是我聞」のみで、同じく「乞食学生」に引

用された『ファウスト』の作者ゲーテの名前が多

くの作品に登場するのとは対照的である。山内祥

史は、『太宰治全集第三巻』の「解題」で、井伏

鱒二の「解説」に引用された「美知子夫人の手記」

をもとに「太宰治がフランソワ・ヴィヨンに関心

を持つようになったのは、昭和13年の秋以降のこ

とではないか」(452)と推測する。すなわち太宰

のヴィヨンヘの関心は、見合いをした石原美知子

との交際の中で喚起されたとの解釈であるが、前

述の堤重久は、太宰が青森中学時代から心酔した

芥川龍之介の作品を手引きに外国文学、例えばヴ

ィヨンにも接していったと主張する。

 若年の太宰治は、その中学時代の諸習作に芥川

 の作品そのものの影響を色濃く宿しながら、そ

 れと並列してバイロンを、チェホフを、ダンテ

 を、ストリンドベリーを、ボードレールを、ド

 ストイェフスキーを、ニーチェを、フランソ

 ワ・ヴィヨンを読み進んでいったのである。25)

堤重久の主張には根拠となるものが具体的に提示

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34 福島大学教育学部論集第71号

されていないので・にわかに首肯できないが・堤

自身が太宰から直接ヴィヨンに関する読書遍歴を、

例えば太宰と親交のあった檀一雄や山岸外史など

の場合と同様耳にしたとも考えられる。かりに堤

の主張をもとに太宰のヴィヨンに対する関心につ

いて仮説をたてると、青森中学の頃から芥川の諸

作品等を通してヴィヨンに関心を持つようになっ

た太宰は、見合いをした石原美知子との交際、さ

らには佐藤輝夫訳の『大遺言書』によってヴィヨ

ンヘの関心を再度喚起させられた、となるであろ

うか。

 つぎに、影響という点で、これが最も重視しな

ければならない点であるが、太宰はヴィヨンの作

品を通してヴィヨンのどこに共感を覚えたのか。

「フランソワ・ヴィヨンの『大盗伝』が、尤も納

得のいった面白いものだったらう」26)との太宰の

読書に関する檀一雄の証言もあるので、以下太宰

が面白いと感じたといわれる「大盗伝』(檀の記

憶違いで『大遺言書』のこと)の説明も含めてヴ

ィヨンの人物像を紹介する。

 中世随一の詩人フランソワ・ヴィヨンFrancois

Villon(1431年一1463年以後)は、パリに生まれ、

パリ大学学芸科に学ぶが、その後生活を乱し、

1455年には僧侶を過失殺害しパリを逃亡、盗賊団

の一味にまで身をもちくずし、強盗殺人など数々

の罪を犯す。1462年パリ帰還後喧嘩がもとで死刑

を宣告されるが、10年間のパリ追放に減刑され、

1463年以降行方知れずとなる。以上がヴィヨンの

生涯の概略であるが、いかにも太宰の関心をひき

そうな波瀾に満ちた生涯である。つぎに詩集『大

遺言書』Le Testament(1462年?)であるが、

盗賊団に加わり犯罪を犯してパリを逃亡したヴィ

ヨンが、6年間の大放浪の後パリに戻った1462年

頃に執筆したと伝えられているが詳細については

諸説があり定かでない。さて「乞食学生」に引用

された『大遺言書」の詩句の解釈であるが、まず

「乞食学生」のエピグラフとなった「大貧に大正

義望むべからず」27)については、その後続の部分

でヴィヨンは、飢餓が狼を森より出させるとのべ、

青春時に犯した罪の一切は貧困に起因しているこ

2001年12月

とを示唆し、同時に取り戻すことのできない放蕩

の青春に後悔の涙を流すのである。

 憾みなん、ああ!狂しい青春の頃に

 学にいそしみ風習のよろしき社会に

 わが身をば寄せてみたればいま頃は

 家も持ち得て快よき寝床もあらうに。28)

これは、「乞食学生」の最終回「第六回」に引用

された「ああ、残念!」から「快き寝床もあらう

に」に相当する個所で、鈴木信太郎は以下のごと

く解説する。

 窮迫のどん底から、彼は過去に振返って視線を

 投げ、また身の周囲に視線を投げ、その対照に

 愕然とする。彼が出発したのは正に二十五才、

 快活な学徒であり、恐らくこの陽気な一味徒党

 の中で最も恵まれた男であった。その思出は、

 既に土牢の悲しみの中で喚起されたが、今一度、

 彼に付きまとって、浮んで来るのである。29)

ヴィヨンの思いは、32才の乞食作家「太宰」の胸

に響き、さらには「ヴィヨンの妻」へと波及した

のであろうか。

2.ゲーテの『ファウスト』

 「乞食学生」の第四回にゲーテの悲劇『ファウ

スト』の一節が引用されている。試みに太宰の作

品を調査すると、ゲーテの名前、ゲーテの作品名、

作品に登場する人物等が多数発見される。例えば

「乞食学生」に引用された『ファウスト』に限定

しても、「葉」にメフィストフェレス、「猿面冠者」

にファウスト、「狂言の神」にメフィスト、「鴉」

にファウスト、ファウスト博士、「女の決闘」に

ファウスト、『正義と微笑』にファウスト、メフ

ィストフェレス、ワルプルギスの夜、メフィスト、

『斜陽』にファウスト博士、メフィスト、「もの思

ふ葦」にファウストのメフィスト、グレエトヘン、

昭和21年の『書簡』にファウストなど少なくない。

太宰とゲーテとの関係については・堤重久等によ

り太宰のゲーテヘの関心の高さが証言されている

が、ここでは太宰に私淑し、晩年の太宰と交流の

あった野原一夫の証言を紹介する。

 ゲーテのことも話に出た。ゲーテはさっぱり面

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九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 35

 白くないと私が言うと、なぜか太宰さんは柔和

 な顔をして、すこし年をとるとゲーテのえらさ

 がわかるようになる、「ヘルマンとドロテア」

 なんて、俺も若いうちはっまらない恋愛小説だ

 と思っていた、いい老人がなんでこんな甘い小

 説を書くのかと馬鹿々々しかったが、いや、こ

 れがなかなかいいものなのだ。ゲーテは、達人、

 というものかもしれない。30)

ちなみに「ヘルマンとドロテア」の名は、「猿面

冠者」と「現代小説を語る」(昭和22年)で取り

上げられている。

 「相当に早期から太宰を魅了」31)したゲーテ

Johann Wolfgang von Goethe(1749年一1832

年)は、ドイツ文学の最高峰に位置する詩人、小

説家、劇作家であると同時に、『色彩論』を著し

た自然科学者であり、ヴァイマールの宮廷の最高

顧間宮(首相)を勤めた政治家でもある。代表的

な作品としては前述の『ファウスト』や『ヘルマ

ンとドロテア』以外に、「狂言の神」に登場する

『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」と『ヴィ

ルヘルム・マイスターの遍歴時代』、「八十八夜」

に登場する『若きヴェルターの悩み』、さらに

『詩と真実』、「親和力』などがあり、他に作品で

はないが「春の盗賊」に登場する「エッカーマン

との対話』がよく知られている。

 「乞食学生」に引用された『ファウスト』

Faust(「第1部」1808年、「第2部」1832年)は、

15世紀から16世紀にかけてドイツに実在した魔術

師をモデルとした作品で、悪魔メフィストフェレ

スと契約を結びこの世のすべてを知ろうとした老

学者ファウストの人生遍歴を扱った悲劇である。

「乞食学生」に引用された個所は、『ファウスト』

第1部第1場の「夜」の場面であることは確実で

あるが、引用された文と太宰が参看可能な森鴎外

等の翻訳の文とが必ずしも類似しているとは言い

難く、いずれの翻訳からの引用なのか断定は困難

である。参考までに太宰が参看可能であった『ファ

ウスト』の翻訳の中から比較的著名な翻訳を紹介

する。

 ①いや。成功しようと云ふには、正直に遣らな

 くては行かん。

 何か真面目に言はうと思ふ事があるのなら、

 なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。

 ②正直な成功を求めたまへ!

 若し君の言はうとすることが本気なら、

 言葉などを捜してみる必要が何処にある?

 ③正直にして成功し給へ。

 何か真面目に言ふことがあるなら、言葉を

 詮索する必要があるものか。

 ④君、まことの成功を求めるが好かろう。

 君が真剣になって物を言ふ場合、

 一一言葉を詮索する必要があろうか。

①は森鴎外訳(昭和3年発行の岩波文庫)、②は

阿部次郎訳(昭和12年発行の改造社版『ゲーテ全

集』第4巻)、③は秦豊吉訳(昭和2年発行の新

潮社版『世界文学全集』第9巻)、④は桜井政隆

訳(大正14年発行の大村書店版『ゲーテ全集』第

3巻)である。32)

 太宰がいっ頃から「ファウスト』を知ったかに

ついては定かでないが、「葉」にメフィストフェ

レス、「猿面冠者」にファウストの名前が登場す

ることから判断して、堤重久の言うごとく「相当

に早期から太宰を魅了」し、その後例えば亀井勝

一郎、芳賀檀、高橋幸雄、堤重久等のドイツ文学

の研究者との交際などを通してrファウスト』に

関する知識を深めていったものと推測される。特

に亀井勝一郎は旧制山形高校の時からゲーテの作

品に親しみ、ゲーテ論をテーマとした『人間教育』

(昭和12年)などゲーテの思想を背景とした作品

を発表している。一方堤重久は、太宰の作品の中

で『ファウスト』関連の名前が最も多く登場する

『正義と微笑』の素材となった「日記」を執筆し

た堤康久の兄である。

3.マイヤー=フェルスターの『アルト・ハイデ

 ルベルク』

 「乞食学生」の第六回、夢から覚醒する直前

「太宰」は佐伯、熊本二人の高校生とともにマイ

ヤー=フェルスターの『アルト・ハイデルベルク』

の歌を高吟する。この歌が、番匠谷英一訳の『ア

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36 福島大学教育学部論集第71号

ルト・ハイデルベルク』(昭和10年、岩波文庫)

からの引用であることは、翻訳の文と非常に類似

していることなどによりほぼ間違いないと判断さ

れる。

 『アルト・ハイデルベルク』Alt-Heidelberg

(1901年)は、マイヤー=フェルスターWilhelm

Meyer-F6rster(1862年一1934年)が1899年に発

表した小説『カール・ハインリヒ』Kar1Heinrich

を脚色した戯曲で、皇太子と旅館の娘との恋を中

心に学生たちの青春を感傷的にうたいあげている。,

初演のベルリーン劇場で記録的なロングランを続

けたこの作品は、その後世界各地で上演された。

日本でも「思い出」の題名で、1913年(大正2年)

2月1日から16日間有楽座で上演され、旅館の娘

ケティを演じた松井須磨子は特に好評であった。

以後昭和の初頭にかけて築地小劇場などで「アル

ト・ハイデルベルグ」の題名で上演され好評を博

した。33)作者のマイや一二フェルスターは、この

一作で有名になったが、死後はほぼ完全に忘れさ

られ、現在ではかなり詳細なドイツ文学史でもな

ければ彼の名前を見出すのは困難である。参考ま

でにマイヤーーフェルスターの生涯を簡単に紹介

すると、34)妻のエルスベートElsbethも作家、父

親は本屋、ライプッィヒ、ウィーン、ベルリーン

の各大学で法学、美術史を学び、ジャーナリスト

としてパリ(1890年一1898年)、その後ベルリー

ンに滞在、1904年に失明する。作品については、

小説及び戯曲を多数執筆したが、『アルト・ハイ

デルベルク』以外めぼしい作品はない。

 ここで細かいことであるが、太宰が「乞食学生」

執筆の際に番匠谷英一訳の『アルト・ハイデルベ

ルク』を参看したにもかかわらず、「乞食学生」

の中に記された出典を、「アルト・ハイデルベル

ヒ」と記述した点についてその理由を考えてみた

い。試みに太宰の他の作品を調べてみると、短篇アルト

「老ハイデルベルヒ」があり、『斜陽』には「ハイ

デルベルヒの若い学生」の記述がある。ドイツの

地名であるHeidelbergの正規の発音は「ハイデ

ルベルク」である。太宰が「アルト・ハイデルベ

ルヒ」と記述した理由として三点考えられる。

2001年12月

①当時超人気を博した演劇の題名が「アルト・ハ

イデルベルヒ」であったから。上演を指導した松

居松翁は、題名“Alt-Heidelberg”を『アルト・

ハイデルベルヒ』と訳している(昭和4年、『世

界戯曲全集、第15巻・独逸近代劇集』)。

②尊敬する森鴎外の影響。例えば鴎外は、地名

「シュトラースブルク」StraBburg(1871年一1918

年、ドイツ領)を「ストラアスブルヒ」(「ギョォ

テ伝」)35)と9の発音を「ヒ」と訳している。「走

れメロス」の素材となった「人質」の作者シラー

Schillerの名前も鴉外は「シルレル」と訳してい

る。太宰は、「走れメロス」執筆の際『新編シ

ラー詩抄』(昭和12年、改造文庫)を参看したこ

とはほぼ間違いないにもかかわらず、出典を「シ

ルレルの詩」としたが、このこともあるいは鴎外

の影響とみなせないこともない。

③太宰特有の音感で、「ハイデルベルク」より

「ハイデルベルヒ」の方がよいと判断した。

V.おわりに

 「中篇」小説「乞食学生」について外国文学の

影響を中心に種々検討してきたが、あらためて太

宰の「外国文学的、また外来思想的教養」の幅の

広さに驚かされた。例えば作品構成上重要な役割

をはたしている「夢」に関しては、フロイトの

『夢判断』、枠小説の観点からシュトルムの『イン

メン湖』やケラーの『寓詩物語』等の影響が推測

され、また作品に引用されたヴィヨンの『大遺言

書』、ゲーテの『ファウスト』、マイヤー=フェル

スターの『アルト・ハイデルベルク』の文章につ

いては、「大貧に大正義望むべからず」が作品の

エピグラフとして重要な役割をはたしているだけ

でなく、それぞれの文章が作品の節目において不

可欠の存在となっている。多数の外国語に精通し

外国の文献を原語で読破した芥川龍之介の場合と

異なり、英語が多少読める程度の太宰の場合その

「外国文学的、また外来思想的教養」の幅の広さ

はいったいどこから来るのか。

 原文で読まなければ、ほんとうの味はわからな

Page 13: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

九頭見和夫1太宰治の「乞食学生」と外国文学 37

 いなんていうけど、どういうものかね。いま

 ドーデーの小説を読みおわったところなんだけ

 ど、誤訳がいっぱいあるんだ。妙な顔をしては

 いけない。フランス語を解さずとも、あ、これ

 は誤訳だ、わかるねえ。36)

これは、太宰が野原…夫とかわした会話の一節で

ある。

        使用テキスト

太宰治全集・第三巻(筑摩書房)1989年

このテキストよりの引用は、アラビア数字(ニペー

ジ数)のみで示した。この全集の他の巻よりの引用

は、ローマ数字(二巻数)とアラビア数字(=ペー

ジ数)で示した。

           註

(1)津島美知子:回想の太宰治.(人文書院)昭和5a

 P.30.

(2)塚越和夫:「乞食学生」について.[昭和文学研

 究会「昭和文学研究11」](笠間書院)昭和60.p,61

 -62.

(3)フロイト:夢判断.[「フロイト著作集第二巻』]

 (人文書院)1977.p.405.

㈲ 芥川龍之介:夢.[「芥川龍之介全集第八巻』コ

 (岩波書店)1978.p.196-197.

(5)芥川龍之介:死後.[「芥川龍之介全集第八巻』]

 (岩波書店)1978.p.26.  たたら(6)鐘幹八郎:夢分析の実際一心の世界の探求.(創

 元社)昭和54.p.257-258.

{7) トニー・クリスプ:最新夢辞典.(どうぶつ社)

 1993. p.71.

18}東郷克美:太宰治事典、(学燈社)1995.p、152.

(9) Gottfried Keller:Erzahlungen.Das Sinngedi-

 cht.M茸nchen(Winkler Verlag)1990,S.444.

(10)Conrad Ferdinand Meyer:Die Hochzeit des

 M6nchs.Bem(Benteli Verlag)1961.S、11.

(ll)小山清:太宰治研究.(筑摩書房)昭和31.p.

 182.

(12)奥野健男:太宰治論く決定版>.(春秋社)昭和

 41. p.155.

(13)実方清:太宰治文芸辞典.(清水弘文堂)昭和47

 P.28.

114)三好行雄:別冊国文学太宰治必携.(学燈社)昭

 不055. P.99.

(15)東郷克美:太宰治事典、p、56.

(16)神谷忠孝、安藤宏:太宰治全作品研究事典.(勉

 誠社)平成7.p、101.

(1り 亀井勝一郎:解説.[太宰治全集第四巻](筑摩

 書房)昭和35.p.247.

(18)津島美知子:回想の太宰治.p.25.

(19)中野嘉一:太宰治一主治医の記録.(宝文堂出版)

 昭和55.p.177.

⑳ 奥野健男:太宰治論く決定版>.p.152-153.

⑳ このことについて、弘前高校の時の同級生大高

 勝次郎は、以下のように記している。

  二年のときの英人教師はロンドン大学(?)出

  のブルールという人で、いろいろな題を出して、

  生徒に作文を書かせたが、津島が「戦争の真の

  原因は何か」という題について書いたものはそ

  の教師に激賞された。ブルール教師は、津島の

  文章を最優秀と評したばかりでなく、もしその

  文章が作者の創作であるならば、それは大きい

  (発展の)見込を示すだけでなく、その陰にある

  頭脳をも示していると評した。津島は「猿面冠

  者」の中でこのことを昂然と書いている。[大高

  勝次郎:太宰治の思い出一弘高・東大時代.(た

  いまつ社)1982.p.27.]

  檀一雄:太宰と安吾.(虎見書房)昭和43.p、51.

  堤重久:外国文学と太宰治.[「京都産業大学論

 集」第5巻第2号人文科学系列第4号]昭和51.p.

 103.

 治』](芳賀書店)昭和50.p.207.

伽)檀一雄:太宰と安吾.p、51.

㎝ フランソワ・ヴィヨン:大遺言書[「世界文庫』]

偽)

⑳ 山敷和男:ヴィヨンの要論.[「批評と研究太宰

偽)堤重久:外国文学と太宰治.p.103.

 (弘文堂書房)昭和15.p,13.ref.

 Villon: (Euvres. Le Testament.

 Frさres) 1970. p.23.

㈱ 同上書.p.17.ref.FranCois Villon:

Francois

(Gamier

〔Euvres.

Page 14: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

38 福島大学教育学部論集第71号 2001年12月

 Le Testament.p.25.

偽)鈴木信太郎二詩人ヴィヨン(岩波書店)昭和30.

 P.39.

帽0)野原一夫:回想の太宰治.(新潮社)昭和55.p.

 25.

61)堤重久:外国文学と太宰治.p.111.

⑳ 参考までに翻訳のもととなった原文とその出典

 を以下に記す。

 Such’Er den redlichen Gewinn!

 Und wenゴs euch Emst ist,was zu sagen,

 Ist’s n6tig,Worten nachzujagen?

 [Johann Wolfgang von Goethe:Goethes

 Werk Band皿.Faust Eine Trag6die、

 Hamburger Ausgabe. Hamburg (Christian

 Wegner Verlag)1972.S.25.]

03)以下の文献を参照した。

 ①坂本徳松:前進座年表.[「前進座』](黄土社)

 昭和28.p.12.

 ②河竹繁俊:日本演劇史.(岩波書店)昭和34.p.

 1048.

 ③番匠谷英一:解説.[「アルト・ハイデルベルク』]

 (岩波文庫)昭和16.p.152.

悩) Deutsches Literatur-Lexikon.Zehnter Band.

 hrsg,v.Heinz Rupp u.Carl Ludwig Lang.

 Bern (Francke Verlag) 1986. S.1003.

鵬)森鶴外:ギョオテ伝.[「鴎外全集第九巻』コ(鴎

 外全集刊行会)大正13.p.458.

㏄)野原一夫:回想の太宰治.p.21.

Page 15: 太宰治の「乞食学生」と外国文学 · で太宰は、「予定表を作って調整しなければなら ぬほど」1)原稿の注文が増加し、例えば18編の小

九頭見和夫:太宰治の「乞食学生」と外国文学 39

Die Novelle,,Kojiki-gakusei“von DAZAI Osamu

und die fremde Literatur

Kazuo KUZUMI

 Die Novelle。Kojiki-gakusei(Der Student,der wie ein Bettler aussieht.)“von DAZAI Osamu

wurde im Jahr1940vom Juli zum Dezember sechsmal in Fortsetzungen in der Zeitschrift,,

Wakakusa“ver6ffentlicht.Dieses Werk ist eine Art,,Rahmenerzahlung“:Der Traum bildet in

diesem Werk kompositorisch einen Rahmen.Dann steht dieses Werk in engen Beziehungen

zur fremden Literatur,z.B.aus,,Das Testament“von Villon,,,Faust“von Goethe und,,Alt-

Heideiberg“von Meyer-F6rster werden viele Verse angefOhrt und sie spielen eine groBe Rolle

in dem Werk.

 Nun wird in diesem kleinen Aufsatz f廿r die Erlauterung der Novelle,,Kojiki・gakusei“von

Dazai hauptsachlich folgendes untersucht.

1.Die Komposition dieses Werkes.

 1)Die Rolle des Traumes.

 2)Die Rahmenerzahlung.

2.Der Gesichtspunkt von Dazai in diesem Werk:Was hat Dazai in dem Werk zum Ausdruck

 bringen wollen?

3.Der EinnuB der fremden Literatur auf dieses Werk.

 1)Die Gedichtssammlung。Das Testament“(1462?)von FranCois Villon.

 2)Die Trag6die。Faust.Erster Teil.“(1808)von Johann Wolfgang von Goethe・

 3)Das Drama”Alt・Heidelberg“(1901)von Wilhelm Meyer-F6rster.