日本英文学会関西支部 122 4.『白衣の女』 ―加筆する男たちの犯罪...

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日本英文学会関西支部 12 回大会資料 プログラム 研究発表・ シンポジウム 要旨 日時: 2017 12 17日(日) 11 00より 会場:京都女子大学(〒6058501 京都市東山区今熊野北日吉町 35日本英文学会関西支部事務局 651-2187 兵庫県神戸市西区学園東町 9 1 神戸市外国語大学外国語学部英米学科 E-mail: [email protected]

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  • 日本英文学会関西支部第12回大会資料

    プログラム

    研究発表・シンポジウム要旨

    日時:2017年12月17日(日)11:00より              

    会場:京都女子大学(〒605‒8501 京都市東山区今熊野北日吉町35)

    日本英文学会関西支部事務局〒651-2187 兵庫県神戸市西区学園東町9‒1神戸市外国語大学外国語学部英米学科

    E-mail: [email protected]

  • 会場(京都女子大学)までのアクセス

    JR京都駅あるいは阪急河原町よりプリンセスラインのご利用が便利です。所要はJR京都駅より10分、阪急河原町より15分です。なお市バスでもおいでになれますが、混雑のため大変時間がかかる場合がございます。くれぐれも余裕を持っておいでください。

    詳しくは、http://www.kyoto-wu.ac.jp/access/ をご覧ください。

  • プリンセスライン乗降所からJ校舎までは徒歩10分程です。学会当日の昼は学生食堂の営業はなく、また学内店舗も閉店しております。昼食は各自でご用意をお願いいたします。

    プリンセスライン乗降所

    懇親会会場

    大会会場

  • J校舎内案内図

     1階

     2階

     3階

    受付

    一般控室

    第5室

    第1室

    第3室

    第2室

    第4室

  •  4階

     5階

    開会式、英米文学シンポ、総会、閉会式

    第6室、英語学シンポ

    書籍展示

    書籍展示

  • 1

    日本英文学会関西支部第12回大会プログラム       日時:2017年12月17日(日) 11 :00より

    会場:京都女子大学(〒605‒8501 京都市東山区今熊野北日吉町35)

    大会受付 10 :30より(J校舎1階エントランスホール) 受付、懇親会費納入

    開 会 式 11 :00より(J校舎4階 J420教室) 挨拶    日本英文学会関西支部支部長 新 野   緑

    研究発表 第1発表 11 :10~11 :50 第2発表 11 :55~12 :35 第3発表 13 :30~14 :10 第4発表 14 :15~14 :55

    第1室 (J校舎2階J201教室)

    1. (発表なし)

    司会 同志社大学教授 下 楠 昌 哉

    2. 大砲と道徳:『バーバラ少佐』におけるサイボーグ的人間性 関西学院大学院生 松 本 望 希

    司会 関西学院大学教授 小 澤   博

    3. 【招待発表】『空騒ぎ』とスペインのオレンジ 同志社大学教授 勝 山 貴 之

    4. Robert Arminの演じた Grave-digger と Porter 関西大学非常勤講師 スミザース 理恵

    第2室 (J校舎2階J202教室) 司会 京都大学教授 廣 野 由美子

    1. メアリー・シェリー最後の小説   ―『フォークナー』における愛、共感、そして “fidelity”―

    大阪歯科大学助教 岡   隼 人

    2. 【招待発表】 Hogarth の Credulity, Superstition, and Fanaticism, a Medley (1762)を読む   ―啓蒙期亡霊談のかたち―

    関東学院大学教授 仙 葉   豊

    司会 大阪市立大学教授 田 中 孝 信

    3. ディケンズの風景描写―ピップの沼地における距離と細部について― 京都大学非常勤講師 木 島 菜菜子

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  • 2

    4. 『白衣の女』―加筆する男たちの犯罪― 三重県立津商業高等学校教諭 古 野 百 合

    第3室(J校舎3階J301教室) 司会 同志社大学教授 山 本   妙

    1. Flush における「匂いの世界」 同志社大学嘱託講師 大 西 祥 惠

    2. Not a Feminist―Reading The Memoirs of a Survivor as an Autobiographical Record of    Lessing’s Independent Thinking on Women’s Growth― 京都大学大学院生 李     超

    司会 関西学院大学教授 横 内 一 雄

    3. ‘Ah, we’re all pagans here’―Sebastian Barry, A Long Long Way における   第一次世界大戦の記憶のアイルランド性、グローバル性、21世紀性― 大阪大学准教授 霜 鳥 慶 邦

    4. ヤール・ヴァン・フーサーの排泄音   ―『フィネガンズ・ウェイク』における語りの断絶と共鳴― 大阪大学大学院生 宮 原   駿

    第4室(J校舎3階J302教室) 司会 京都大学非常勤講師 服 部 美 樹

    1. “The Sailor’s Mother” におけるJoanna の悔恨と苦しみ 京都大学大学院生 永 盛 明 美

    2. (発表なし) 司会 京都女子大学教授 松 宮 園 子

    3. E. M. ForsterのMaurice における対話への志向 近畿大学非常勤講師 米 田 亮 一

    4. 与えられないConsolation   ─カズオ・イシグロのThe Unconsoled における空間描写をめぐって─ 武庫川女子大学大学院生 岩 本 朱 未

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  • 3

    第5室(J校舎3階J320教室) 司会 甲南大学教授 秋 元 孝 文

    1. “Semitic-Celtic Oriental” としての Glass Family   ─ J. D. Salinger の “Franny” および “Zooey” におけるエスニシティと東洋思想の関係─ 神戸大学大学院生 尾 田 知 子

    2. Paul Auster 作品の9/11表象を問う   ─The Brooklyn Follies と Man in the Dark─

    大阪大学大学院生 桑 原 拓 也

    司会 立命館大学教授 中 川 優 子

    3. 女性作家が描くアメリカ南部女性の表象   ─ Katherine Anne Porter、Edna Ferber の作品の分析を通して─

    京都大学大学院生 西 岡 かれん

    司会 大阪大学准教授 木 原 善 彦

    4. 【招待発表】 囁ささや

    き続ける水滴─『ゼロK』における「器官なき身体」 大阪大学教授  渡 邉 克 昭

    第6室(J校舎5階J525教室)

    1. (発表なし)

    司会 神戸女学院大学名誉教授 鵜 野 ひろ子

    2. Emily Dickinson の詩における時間感覚 京都女子大学大学院生 山 下 あ や

    司会 京都大学教授 谷 口 一 美

    3. Really の調査によるPopular Music の歌詞の文体研究 京都大学大学院生 渡 部 文 乃

    4. 【招待発表】 焦点辞と比較文 大阪大学准教授 田 中 英 理

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  • 4

    シンポジウム 15 :10~17 :30

    英米文学部門(J校舎4階J420教室)

    アダプテーションの内と外 講師    神戸大学准教授 芦 津 かおり 講師 神戸女学院大学准教授 高 村 峰 生 司会・講師   同志社大学准教授 藤 井   光 講師     大阪大学教授 片 渕 悦 久

    英語学部門(J校舎5階J525教室)

    語彙・構文の文法現象における名詞の役割 講師 龍谷大学講師 工 藤 和 也 講師 大阪大学講師 小 薬 哲 哉 司会・講師 大阪大学教授 由 本 陽 子

    総 会 17 :40より(J校舎4階 J420教室)

    閉会式 18 :00より(J校舎4階 J420教室) 挨拶    日本英文学会関西支部副支部長 竹 村 はるみ

    懇親会 18 :30より(A校舎地下学生食堂) 会費4,000円

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  • 5

    研究発表要旨

    第1室(J校舎2階J201教室)

    第1発表 (11 :10より)

    (発表なし)

    司会 同志社大学教授 下 楠 昌 哉

    第2発表 (11 :55より)

    大砲と道徳:『バーバラ少佐』におけるサイボーグ的人間性 関西学院大学院生 松 本 望 希本発表は、バーナード・ショー『バーバラ少佐』(1907) における武器商人としてのアンドリュー・アンダーシャフトの表象に注目しながら、20世紀初頭における武器と人間の精神(mind)のつながりについて分析する試みである。その際、1960年に登場した「サイボーグ」という概念を足掛かりとし、テクノロジーの発展に直面していた社会で形成される人間性を、ショーがどのように捉えていたかについて考察する。作中、アンダーシャフトが、「私の道徳―すなわち私の宗教は、その中に大砲と魚雷が空間

    を占めるものでなくてはならない」と述べるように、武器は彼の道徳の一部を形成するものとして提示される。武器が精神を補完しているアンダーシャフトの道徳観の中には、ある種のハイブリッドともいえる人間性を見出すことができるのではないだろうか。その点に、現代においてサイボーグという形象を通して提示されるポストモダン的人間性の萌芽を読み込みたい。

    司会 関西学院大学教授 小 澤   博

    第3発表 (13 :30より)

    【招待発表】         『空騒ぎ』とスペインのオレンジ 同志社大学教授 勝 山 貴 之シェイクスピアが、『空騒ぎ』におけるクローディオとヒーローのエピソードの執筆にあたっ

    て、マッテオ・バンデッロの物語集に依拠したことはよく知られている。バンデッロの物語は、13世紀において、アラゴン王ペドロ三世(ドン・ピエロ)の支配下にあるシチリア島メッシーナでの出来事を記したものである。しかし劇中に描かれるスペイン支配下のシチリアに、シェイクスピアは16世紀の歴史上の人物ドン・ジョンを登場させる。フェリペ二世の庶子であり、オーストリアを統治していたドン・ジョンは、レパントの海戦でトルコ艦隊を撃破した後、しばしシチリアに滞在したと言われる。そしてこのドン・ジョンこそは、メアリー・ステュアートとの結婚を通して、スコットランドとイングランド両国の支配を目論んだ張本人として、またアルマダ海戦によるイングランド侵攻を画策した影の人物として、エリザベス朝イングランド人に恐れられた人物であった。本発表では、作品に影を落とすスペインの脅威について考察してみたい。

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  • 6

    第4発表 (14 :15より)

    Robert Armin の演じた Grave-digger と Porter 関西大学非常勤講師 スミザース 理恵

    “equivocation”(Hamlet, 5.1.134)や“equivocator”(Macbeth, 2.3.9)という同じ言葉でセリフの特徴が指摘されるHamlet のGrave-diggerとMacbeth のPorterは作品初演当時、道化役者Robert Armin によって演じられたと考えられている。本発表では、Armin が彼の身体的特徴や演技力を生かして実際に舞台上でこれら二つの役を演じていた姿に想像を馳せながら、台詞から読み取れるそれぞれの役の特徴や象徴性、あるいは演劇的コンテキストにおける彼らの役割の類似性と重要性について考察する。

    Grave-diggerとPorterの両者が共通して提示する「地獄」や「死後の場所」の概念が、それぞれの悲劇と深く関わりを持っており、コミック・リリーフとしては片づけられない重要な役割を担っているということを論証する。そして、これらの役割がそれぞれの悲劇作品の芸術性を高め、劇世界を完成させるために必然として登場し、極めて重要な役割を果たしているということを明らかにする。

    第2室(J校舎2階J202教室) 司会 京都大学教授 廣 野 由美子

    第1発表 (11 :10より)

    メアリー・シェリー最後の小説 ―『フォークナー』における愛、共感、そして “fidelity”―

    大阪歯科大学助教 岡   隼 人『フォークナー』は、謎めいた暗い過去を持つルパート・フォークナーと孤児のエリザベス・レイビィとの絆を描いた物語である。実の親子でない二人をつなぐ絆を強固なものにするものが作中で幾度も言及される “fidelity” である。本発表の目的はメアリー・シェリーの作品で繰り返し描かれてきた愛と共感の概念を『フォークナー』の中にも見出し、その二つの概念が本作を特徴づけていると言っても過言ではない “fidelity” の概念とどのように結びつき、関連しているかについての理解を通じて、シェリーの後半生の思想を垣間見ることにある。シェリーが両親から受け継いだのは、理性と知性の啓発による社会改革の理念というよりむしろ、非情な慣習及び制度の蔓延る「社会」という巨大な力によって虐げられている弱者の側に立ち続ける信念であるように思われる。人生最後の小説で、シェリーは愛と共感という概念に加えて、弱者により徹底して寄り添い、彼らを救いうる力を持った “fidelity” という美徳の重要性を説いたのである。

    第2発表 (11 :55より)

    【招待発表】Hogarth の Credulity, Superstition, and Fanaticism, a Medley (1762)を読む―啓蒙期亡霊談のかたち―

    関東学院大学教授 仙 葉   豊Hogarth の晩年に描かれたこの作品は、メソジストの教会内部の様子を風刺した作品といわれ

    ている。そのあまりにも強烈な風刺性が、キリスト教そのものに対する風刺と読まれることを怖れたホガースは、前作を書き換えてこの作品を出したのだった。そのなかの図は、軽信、迷信、

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  • 7

    狂信、のさまざまな姿が描かれた興味深いものであるが、迷信の象徴的なものとして、この時期によく知られた幽霊談がいくつか登場する。これらは、Mrs. Veal、Julius Caesar、George Villiers、Cock Lane Ghost、Drummer of Tedworth など、幽霊談の系譜としては馴染み深いものばかりだが、この発表では、これらの分析を通して、イギリス啓蒙期のさまざまな幽霊談のかたちを考察してみたいと思っている。

    司会 大阪市立大学教授 田 中 孝 信

    第3発表 (13 :30より)

    ディケンズの風景描写―ピップの沼地における距離と細部について― 京都大学非常勤講師 木 島 菜菜子レイモンド・ウィリアムズが「風景という概念には別離と観察がある」と述べているように、風景描写とは自然の景観を離れた場所から描写したものだと言える。しかし小説において読者の記憶に残る風景描写には、距離を置いたところからの景観だけでなく、登場人物との関わりにおける細部の描写が合わせて存在しているのではないだろうか。ディケンズの『大いなる遺産』の主人公ピップが 「私たちの沼地」と呼ぶ湿地の描写も、これまで多くの批評家によって言及され主にその物語上の機能が議論されてきた。本発表はそうした先行研究を踏まえた上で、改めてピップの沼地がなぜ読者の印象に残り、ディケンズの他の風景描写と比較してどのような特徴を持つかという点について、物語上の機能に加え、主に描写の手法、すなわち距離を置いた景観の描写と、登場人物との関わりによってもたらされる細部の描写を組み合わせたディケンズの手法という観点から考察するものである。

    第4発表 (14 :15より)

    『白衣の女』―加筆する男たちの犯罪― 三重県立津商業高等学校教諭 古 野 百 合ウィルキー・コリンズ(Wilkie Collins, 1824‒89)の『白衣の女』(The Woman in White, 1860)は、

    センセーション小説というジャンルの再評価に伴い、1980年以降研究が盛んになった。その多くは、ハートライトの語りの信憑性を問うものである。ハートライトはその語りの隠蔽性においてパーシヴァル卿やフォスコ伯爵以上に悪漢であるとする見方(Pamela Perkins and Mary Donaghy 1990, Ann Gaylin 2001)や、逆玉の輿を狙うフォーチュン・ハンターであるとする見方(Ann Cretkovich 1989)などがある。一方イヴ・セジウィックは『男同士の絆』(1985)において、『白衣の女』では浪費と荒廃により破滅する貴族階級が描かれていると述べた。本発表では、パーシヴァル卿とフォスコ伯爵の陰謀を検証する。パーシヴァル卿は登記簿の写しに虚偽の結婚届を自ら加筆し、出生を偽り利権を主張する。またフォスコ卿はハルカム嬢が熱病に罹る間、彼女の日記を無断で読んだ上、自らが日記に感想を書き込む。どちらも加筆することによって罪を犯し、自らの破滅の一途を辿ることを明らかにする。

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    第3室(J校舎3階J301教室) 司会 同志社大学教授 山 本   妙

    第1発表 (11 :10より)

    Flush における「匂いの世界」 同志社大学嘱託講師 大 西 祥 惠

    Virginia Woolf の小説Flush (1933)は、詩人Elizabeth Browning の愛犬Flush を主人公にした小説である。この動物小説の際立った特徴は、Jamie Johnsonも指摘するように、擬人法によらない犬独自の意識をウルフが提示していることである。そのために重要な役割を担っているのがこの小説の中の感覚表現であり、とりわけ匂いをめぐる表現である。「匂いの世界」の住人であるフラッシュにとって愛や美や宗教も全て匂いにより構成されており、臭覚によるフラッシュの知覚手段は、視覚を中心とした人間の知覚手段と対比されている。さらにこうした臭覚を描く試みは、新しい表現方法を模索しているウルフの文体実験とも密接に関わっている。本発表では、『フラッシュ』の中での匂いの描写に注目することで、この小説の実験性について明らかにしていきたい。

    第2発表 (11 :55より)

    Not a Feminist―Reading The Memoirs of a Survivor as an Autobiographical Record of Lessing’s Independent Thinking on Women’s Growth―

    京都大学大学院生 李     超Doris Lessing’s work The Memoirs of a Survivor has been read as a science fiction and dismissed as

    intricately confusing regardless of the subtitle of “an attempt of autobiography”. With the publication of Jenny Diski, the claimed model of the protagonist Emily’s real memoirs In Gratitude in 2016, however, the work’s biographical feature is rediscovered. This presentation argues that it reveals Lessing’s understanding about women’s growth through the lens of Diski’s growth. Scenes of Emily’s childhood presented beyond the wall, with verification of Diski, are mainly based on Diski’s real childhood experiences; how Emily develops in real time, however, are fictional interpretations of Lessing. They show Lessing’s understanding about women’s position in the society. This point is significant in that it can add some understanding on Lessing’s gender views after she rejects any form of label, especially the “feminist” label. The label “feminist” especially irks her because she does not want to talk inside the terms the feminists slap on her though her works deal with women. This work shows that, according to Lessing, Emily does not achieve her growth in the male power matrix bearing a certain feministic goal in mind, but asserts herself in the project of finding her position and true value.

    司会 関西学院大学教授 横 内 一 雄

    第3発表 (13 :30より)

    ‘Ah, we’re all pagans here’―Sebastian Barry, A Long Long Way における

    第一次世界大戦の記憶のアイルランド性、グローバル性、21世紀性―

    大阪大学准教授 霜 鳥 慶 邦Sebastian Barry のA Long Long Way (2005年ブッカー賞候補作)についての従来の批評は、この

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  • 9

    小説が、アイルランドの国家的記憶において周縁化されてきた存在に光を当て、大戦期のアイルランドの複雑に分裂した状況を物語化した点を高く評価する一方で、この小説が、実際にはアイルランドの枠をはるかに超えた、よりグローバルなレベルの諸要素を、物語の中心的テーマとして射程に収めた作品であることの意義について論じることができていない。本発表は、戦場の多人種的・多言語的・多文化的・多宗教的状況―具体的には、アルジェリア兵、中国人労働者、グルカ兵、ベルギー人女性など―の表象に注目して作品を読み直すことで、本小説におけるアイルランド性のテーマは、戦場の混淆的状況との関係において理解されてこそ、独自性と批評性に満ちた文学的効果を発揮することを論証する。この作業は同時に、本小説の21世紀大戦文学としての意義を明らかにすることをも意味する。

    第4発表 (14 :15より)

    ヤール・ヴァン・フーサーの排泄音 ―『フィネガンズ・ウェイク』における語りの断絶と共鳴―

    大阪大学大学院生 宮 原   駿ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』において排泄行為は物語の展開に重

    要な役割を果たすことが多い。本発表ではヤール・ヴァン・フーサーの挿話において雷鳴を示すカバン語 “Perkodhuskurunbarggruauyagokgorlayorgromgremmitghundhurthrumathunaradidil-lifaititillibumullunukkunun!”(FW 23)に暗示される排泄音について取り組む。排泄音はフーサーと排泄物を断絶するだけではなく、挿話の語りをも断絶し、この100文字語は読解の鍵となる二重の断絶である。物語言説の時間が読解行為の時間ならば、100文字語においては物語言説の時間は無限に伸長し、物語内容の時間が殆ど停止することで語りの断絶が起きる。読者が100文字語、つまり、雷鳴と転落、排泄音に遭遇することで物語内容の時間は殆ど止まるのである。この言葉による語りの断絶は他の100文字語との共鳴を示唆する。本発表では、断絶の共鳴に意識的になることで、100文字語間のテクスト横断的な響き合いに読解の可能性を探り、フーサーの排泄音による断絶の意味を提示したい。

    第4室(J校舎3階J302教室) 司会 京都大学非常勤講師 服 部 美 樹

    第1発表 (11 :10より)

    “The Sailor’s Mother” におけるJoanna の悔恨と苦しみ 京都大学大学院生 永 盛 明 美

    Thomas Hardy (1840‒1928)の短編集Life’s Little Ironies (1988)に所収されている“To Please His Wife”は、船乗りShadrachが、妻である Joannaを喜ばせるため、二人の息子たちと海へ出て二度とは帰って来ず、Joannaは夫と息子の帰りをいつまでもいつまでも待ち続ける、という物語である。“To Please His Wife” から約30年後、Hardyは同短編を下敷きとした詩 “The Sailor’s Mother” を発表している。“The Sailor’s Mother” では、単に短編 “To Please His Wife” のストーリーに倣うのみならず、時が流れ、Joannaと思われる「船乗りの母」が老いさらばえてなお息子の帰りを待ち続けるという物語の展開をみせる。本発表では、短編 “To Please His Wife” を参照しながら、Late Lyrics and Earlier (1922)再録版の

    “The Sailor’s Mother” における Joannaと想定される女性キャラクターに焦点を当てる。Hardyは、

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  • 10

    “To Please His Wife” では強欲な主人公 Joannaに、終わりのない後悔と苦しみを与えたまま物語を終えたにもかかわらず、約30年後に詩の形式で「船乗りの母」という素材を再び取り扱った意義について考察する。

    第2発表 (11 :55より)

    (発表なし)

    司会 京都女子大学教授 松 宮 園 子

    第3発表 (13 :30より)

    E. M. Forster のMaurice における対話への志向 近畿大学非常勤講師 米 田 亮 一中産上流階級出身のMauriceは、若くして父と死別したものの、周囲の人々から十分な愛情を受けて育つ。彼が成人し、同性の愛人であるCliveと別れてからも、その状況は変わらない。同性愛を拒否するようになったCliveでさえ彼と別れた後、妻のAnneとともに、悩みを抱え具合が悪そうに見える彼に心から同情を寄せている。しかし彼らは、苦しむMauriceに情緒的に共感してみせはするものの、彼の悩んでいる内容を彼と共に彼自身のパースペクティヴを通して理解しようとはしない。一方、MauriceはAlecとの間で、相手の情緒だけでなく相手の考えも互いに共有しようとしながら、自分とは異なる他者のパースペクティヴから応答し合うような対話的関係を築いていく。本発表では、物事を考えるに際して同性愛の観点を頑に拒む周囲の人物たちとMauriceとの関係性と、彼とAlecとの関係性の比較を通して、Mauriceが社会に求めていたものがこうした他者の異なるパースペクティヴを拒まない対話的環境であったことを、主にMikhail BakhtinのDialogismを参照しながら、明らかにしたい。

    第4発表 (14 :15より)

    与えられないConsolation ―カズオ・イシグロのThe Unconsoled における空間描写をめぐって―

    武庫川女子大学大学院生 岩 本 朱 未カズオ・イシグロの4作目となる長編小説The Unconsoled (1995)において、街や室内など、空間に関する描写にはいつも特徴的な窮屈さがある。物語は「かなり広々としている(‘reasonably spacious’)」にもかかわらず「閉所恐怖症になりそうな窮屈さ(‘claustrophobic mood’)」を感じさせるホテルのロビーから始まり、以降主人公Ryderが移動する道のりや訪れる場所には閉塞的なイメージが付きまとうように描かれている。また舞台となる街自体も架空の街として描かれており、この空間的特徴にも独特な閉塞感を生み出す機能があると考える。本発表では、The Unconsoledにおいて語られる特徴的な空間描写に焦点を当て、 それが本小説の

    ‘Consolation’ に欠ける雰囲気へとどのように作用しているのか、また ‘Consolation’ なき物語世界を描くことでイシグロが表現しようとしたものについて、迫ってみたい。

     

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  • 11

    第5室(J校舎3階J320教室) 司会 甲南大学教授 秋 元 孝 文

    第1発表 (11 :10より)

    “Semitic-Celtic Oriental” としての Glass Family ―J. D. Salinger の “Franny” および “Zooey” におけるエスニシティと東洋思想の関係―

    神戸大学大学院生 尾 田 知 子J. D. Salinger (1919‒2010)の作品において、最も強い存在感を放つ登場人物に、Glass家の長兄

    Seymourがいる。彼は、次兄Buddyによって “Semitic-Celtic Oriental” と呼ばれている。「東洋趣味」を持つ長兄を揶揄して使用されているこの言葉には、Seymourを特徴付けるユダヤ/ケルト系の出自も示されている。こうしたエスニシティの観点から、Seymourをはじめとする七人の兄妹を描いたGlass family sagaと呼ばれる物語群を再読すると、ユダヤ/ケルト系の血統を持つGlass家の兄妹が、WASP中心の主流社会における「エスニック・マイノリティ性」を克服するために、対抗文化として東洋思想・文化を称賛していることが明らかとなる。本発表は、短編“Franny”(1955)およびその続編 “Zooey”(1957)における東洋思想・文化の影響

    を再考し、ユダヤ/ケルト系のGlass家を取り巻く東洋の叡智が、WASP中心社会における彼らの「エスニック・マイノリティ性」に対抗するための手段として、いかに機能しているかを分析したい。

    第2発表 (11 :55より)

    Paul Auster 作品の9/11表象を問う ―The Brooklyn Follies と Man in the Dark―

    大阪大学大学院生 桑 原 拓 也本発表ではPaul Austerによる2作品―The Brooklyn Follies (2005)とMan in the Dark (2008)―における9/11表象の不可能性を問う。この2作品における間接的なテロ描写が、ポスト9/11 の言説における死者の偶像化および英雄化という問題に対する1つの対抗的な言説を提示すると仮定し、Judith Butler のテロリズム論を援用しながら分析を試みる。作品の分析は、国家的物語と個人の関係および映像の反復とトラウマという2つのテーマを中

    心に行う。The Brooklyn Follies では、テロの死者が国家的物語の枠組みに入れられるプロセスを通して、枠組みに入りうる人物がどのように選択的に決定されるのか、という問題を探る。また、Man in the Darkでは、メディアによる映像の反復とトラウマの関係を参照しながら、国家的なプロパガンダとして使用される死者の姿がどのように提示されるか、分析する。この2点を中心に分析することで、Austerの作品が 9/11の表象不可能性という問題をどのように追求したか、解き明かす契機になるだろう。

    司会 立命館大学教授 中 川 優 子

    第3発表 (13 :30より)

    女性作家が描くアメリカ南部女性の表象 ―Katherine Anne Porter、Edna Ferber の作品の分析を通して―

    京都大学大学院生 西 岡 かれん本発表では20世紀前半に活躍した女性作家、Katherine Anne Porter (1890‒1980)とEdna Ferber

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  • 12

    (1885‒1968)作品に登場する、南部女性の表象に注目する。モダニズムの作家と大衆小説家として、作風は異にした二人だが、ともに女性差別や人種差別への抵抗という共通した政治的メッセージを持って、Southern belleと呼ばれる南部女性のステレオタイプに切り込み、時代の変化に伴って変わっていく女性の生き様を緻密に描いた。短編の名手として知られたPorterは、家族の中で語り継がれる伝説的なSouthern belleの存在に翻弄される若い少女の成長を描く“Old Mortality”(1937)の中で、語りの中で美化されてきたSouthern belleの実態に迫った。また、Ferberは、代表作の一つ、Show Boat (1926)の中で、南部の女性を三世代にわたって描いた。本発表では、Porter、Ferberのこれらの作品を具体的に論じる。

    司会 大阪大学准教授 木 原 善 彦

    第4発表 (14 :15より)

    【招待発表】    囁ささや

    き続ける水滴―『ゼロK』における「器官なき身体」 大阪大学教授 渡 邉 克 昭デリーロの最新作、『ゼロK』(2016)は、前作『ポイント・オメガ』(2010)で展開された人類進化

    の極限に明滅する絶滅と深遠な時間といったテーマをさらに掘り下げ、まさに彼の晩年のスタイルを確立したと言ってよいだろう。この小説の基盤をなすのは、地質学的な無底の時間と、石化を促す無機的な力をめぐる惑星的想像力である。未来のナノテクによる器官の再生を期して中央アジアの砂漠の地下に設えられた人体冷凍保存施設、“Convergence”には、ポストヒューマンが永遠の命を夢見てpodの中に眠り続ける。マネキンの群れや黙示録的な映像が氾濫する地

    カ タ コ ン ベ

    下墳墓とも見紛うこの秘所は、究極のバイオポリティクスの迷宮でもある。文字どおり器官なき零度の身体として凍結されたアーティスは、アルトー経由でドゥルーズが提起した「器官なき身体」へと反転を遂げる可能性を果たして含みもつのだろうか。本発表では、無限の生成変化を秘めた「微粒子」という視座から、デリーロ文学におけるポストヒューマンへの眼差しを探ってみたい。

    第6室(J校舎5階J525教室)

    第1発表 (11 :10より)

    (発表なし)

    司会 神戸女学院大学名誉教授 鵜 野 ひろ子

    第2発表 (11 :55より)

    Emily Dickinson の詩における時間感覚 京都女子大学大学院生 山 下 あ や

    Emily Dickinson(1830‒1886)は、本来絶対的に流れる時間を詩の中の様々な状況において相対的に描いた。その相対的に描かれた時間のバリエーションは、Dickinson独自のことば―精神的停止や崩壊を表す「鉛の時間」や死と永遠の狭間を示唆する「正午」、死と永遠との間の期間である「何十年もの傲慢」や、特有のイメージ―語り手が墓の中で何世紀も停止するものや、ま

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    たある時は美しい朝焼けで停止するものなどに表されている。また、詩の中で語り手の死後、その時間感覚と自己存在が歪んで停止したまま結末を迎える(永遠への懐疑)のか、それとも美しいイメージを伴って停止する(永遠への期待)のかも考察し、語り手の時間感覚の歪みや停止、そしてその自己存在の危機や死、さらに永遠に対する懐疑や期待といった、Dickinsonの詩における時間の感覚を理解するために注目すべきテーマを分析する。

    司会 京都大学教授 谷 口 一 美

    第3発表 (13 :30より)

    Really の調査によるPopular Music の歌詞の文体研究 京都大学大学院生 渡 部 文 乃本研究の目的はPopular Musicの歌詞の文体の特徴を明らかにすることである。本研究は発表

    者が構築した英語歌詞コーパスを用いて reallyについて観察する。Reallyを扱うのは以下3つの点で文体研究に適しているからである。1つ目は① reallyが一般的に話し言葉に多く生じる表現であるため、テキスト内における頻度を調べることでどの程度話し言葉に近いのかを考察することができる。また② reallyには代表的な2つの用法(intensifierと emphasizer)があるが、それらの用法は聞き手との interactionを基に会話が展開していく文体なのか、話し手の主張を一方的に伝える文体なのかによって違った分布を見せる。従ってそれらの頻度を調べることで、歌詞がどちらの文体に近いのかを考察することができる。最後に③ reallyは文の様々な場所に生じる事が可能だが、位置によって話し手が聞き手を理解させることにどれだけ意識を働かせて発言しているのかを観察することができる。本研究はコーパス内の約400例の reallyを観察し、以上の3点について考察する。 

    第4発表 (14 :15より)

    【招待発表】             焦点辞と比較文 大阪大学准教授 田 中 英 理本稿は、比較文における焦点辞 evenの特異な振る舞いについて分析を行う。通常、比較文は、

    対応する原形形容詞で叙述された命題が真になることを保証しない。(1) John is taller than Bill. =/=> John is tall. / Bill is tall.

    しかし、evenを伴う比較文は、この点で特異な振る舞いを示す。(2a)では比較対象の背が高いことを、(2b)では、主語の背が低いことを含意する。(2) a. John is even taller than [Bill]F. (Bill is tall.) b. Even [John]F is taller than Bill. (John is short.)

    焦点辞 evenは、Fで標示されている要素の対比要素が形成する命題よりも、主張されている命題の可能性が低いことを前提(スケール前提)とする(Horn 1967, Jackendoff 1972, a.o)。(3) a. Even [John]F attended the meeting. b. John attended the meeting.

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    シンポジウム要旨

    英米文学部門(J校舎4階J420教室)

    アダプテーションの内と外 講師    神戸大学准教授 芦 津 かおり 講師 神戸女学院大学准教授 高 村 峰 生 司会・講師   同志社大学准教授 藤 井   光 講師     大阪大学教授 片 渕 悦 久 

    シンポジウムのねらい

    アダプテーションあるいは翻案をめぐって、創作と批評の現在地点を探ることが、本シンポジウムの目的である。アダプテーションについては、戯曲の上演や小説の映画化、さらには二次創作など、原作への忠実性の検証から翻案の自律性の議論までの批評が蓄積され、リンダ・ハッチオン(2006)などの理論化の試みも登場してきている。アダプテーションをめぐる論点は多岐にわたるが、その議論のなかで「内」と「外」は繰り返し浮上する問題である。ある文学テクストが異なる言語・文化の土壌に翻案されるとき、あるいは政治性を内包する物語が2010年代に進行する政治的文脈においてアダプトされるとき、外的コンテクストはどのようにテクスト内の意味生産に作用するのか。他ジャンルという外部性を文学テクストはどこまでアダプトできるのか、あるいはアダプテーションという概念自体の限界はどこに定められるべきか。文学とアダプテーションが内に抱える、あるいは外に発する問題系の豊かさを確認する機会としたい。

    シェイクスピア文学の 翻アダプテーション

    案―日本の『ハムレット』翻案における「内」と「外」 神戸大学准教授 芦 津 かおりシェイクスピア文学といえば、人類共有の文化財産として神話やおとぎ話にもひけを取らぬ普

    遍的存在である。没後400周年を終えた今もなお、その翻案は増殖の一途をたどり、文学芸術の諸分野のみならず、アニメ、CM、ゲームソフトなど多方面へと広がりをみせる。本発表では、シェイクスピア翻案化に顕著な特徴、なかでもこの「大作家」に否応なくまとわ

    りつく文化的権威や名声、英国的アイデンティティとの関連性について概説したのち、悲劇『ハムレット』の日本人による翻案を例に議論を進めたい。しばしば指摘されるように、翻案作品とは、ひとつの完成品として「内」なる自律性を有しながらも、「外」なる諸要素―原作/先行テキストや作品誕生時の社会・文化的背景など―との関係性のなかで新たな意味の次元を獲得するものである。そうした「内」と「外」の二つの相を、日本の『ハムレット』翻案例のなかに示したい。

    ディストピア(小説)への欲望 神戸女学院大学准教授 高 村 峰 生トランプ政権成立に前後して、20世紀前半に書かれたディストピア小説が再読され、映像作

    品に翻案されている。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』やマーガレット・アトウッドの『侍

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    女の物語』は2016年にドラマ化され、ジョージ・オーウェルの『1984年』やシンクレア・ルイスの『それはここでは起こりえない』のセールスが大幅に伸びている。個人の自由が徹底的に制限される管理的権力への関心の高まりは、現実社会における集合的な不安や恐怖心を示している一方、反知性主義や理性への不信、広義のマゾキズムとも呼応し、現代社会のタナトス的な衝動を示してもいる。そうした意味では、ディストピア小説は全体主義や管理社会の支持にも嫌悪にもつながる両義性を有しているといえる。過去のディストピア小説が反復、再読されるとき、そこにはどのような欲望が兆していると考えられるだろうか。またAI技術の急速な発展は、ディストピア小説の読解に何を付け加えるだろうか。

    現代小説がアダプテーションを偽装するとき 同志社大学准教授 藤 井   光小説が映画あるいはテレビドラマといった他のメディア形式に翻案されるという典型的なケースとは逆に、本発表では、他のメディアを模倣するようにして成立する文学テクストについて、現代アメリカ作家を例として考察したい。たとえば映画的な技法や視点の採用(Paul AusterやSteve Erickson)、写真や音楽の特徴を小説として再現する試み(Rebecca Makkaiや John Edgar Widemanの短編など)などは、自己と他者の境界線をそれぞれが探求する試みのなかで採用されている。語りの断片化や語る視点の設定、即興性の取り込みなど、それらのテクストに必然的に含まれてくる「擬態」や「偽装」という要素は、文学という自己と他のメディア形式という他者との境界線がどこにあるのかという問いとともに、最終的には文学テクストという形式に特有の限界と可能性を浮き彫りにもするだろう。

    アダプテーションから物語更新へ 大阪大学教授 片 渕 悦 久すべてのアダプテーションには物語の更新がともなうが、すべての物語更新がアダプテーショ

    ンであるとは限らない。そもそもアダプテーションの定義を、原作の明示とメディアの置き換えを前提とした物語の作り変えととらえるだけで十分なのだろうか。原作とそこから派生する物語との関係は多様性をはらんでいる。たとえば、ひとつの原作が何度かリメイクされる場合はどうだろうか。またひとつのアダプテーション作品に複数の原作の存在が想定される場合についてはどう考えればいいのか。さらには通常アダプテーションとはみなされない作品間に物語の更新が観察される場合もある。こうした多様な事例を分析することは、アダプテーション理論の限界と物語更新理論の可能性を示唆する。本論では、バズ・ラーマン監督『華麗なるギャツビー』、ロン・ハワード監督『白鯨との闘い』、そして『007』シリーズをとりあげ、アダプテーションと物語更新との間に横たわるいくつかの問題について考えてみたい。

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    英語学部門(J校舎5階J525教室)

     語彙・構文の文法現象における名詞の役割 講師 龍谷大学講師 工 藤 和 也 講師 大阪大学講師 小 薬 哲 哉 司会・講師 大阪大学教授 由 本 陽 子

    シンポジウムのねらい

    語彙意味論は、結合価、語彙的アスペクト、結果含意の有無といった動詞の意味が文法現象の説明に重要な役割を果たすことから、動詞意味論を中心として発展してきた。そのため、道具立てとしては、動詞の意味と統語構造との関係付けに最適だと考えられている概念構造(以下LCS)が重視され、実際LCSによる分析はある程度の成果を挙げてきた。しかし、たとえば、文のアスペクト一つをとってみても、動詞のLCSのみでは決定できず、従来の動詞意味論にとどまっていては語彙意味論の成熟は望めない。近年、Pustejovskyの生成語彙論が提唱するクオリア構造によって、LCSでは捉えられなかった世界知識を含む語彙情報についても形式化が進められ、語彙意味論にも新たな展開が期待できる状況になってきた。本シンポジウムでは、文法現象や語形成に関わる名詞の意味に焦点をあて、名詞と述語の意味の合成の帰結をいかに捉えるべきかについて考えてみたい。

    構文交替における名詞の役割 龍谷大学講師 工 藤 和 也構文交替とは、特定の述語における項(argument)の具現化のパターンが変化する文法現象であり、屈折語の中でも、語の形態的特徴が失われ、1つの動詞が複数の意味を獲得している現代英語において特に顕著に現れる。これまでの語彙意味論の研究では、構文交替現象を捉えるために様々な理論や操作が提案され

    てきたが、その中でも、本発表では、「述語の項の値(value)を変換する語彙規則」に焦点を当て、構文交替における名詞の役割について考察する。とりわけ、述語の項の値を変換する語彙規則の一般性や汎用性を、極小主義に基づく今日の文

    法モデルの中で再検証し、当該操作がレキシコンにおける語彙の余剰性を排除するのに効果的であるかどうかを検討する。本発表が、英語動詞の創造的な意味拡張の過程を解明する一助となり、ひいては、人間言語の

    意味と形式の接点を探る語彙意味論研究に新たな視点を提供する契機となれば幸いである。

    非飽和名詞の意味論と受動化 大阪大学講師 小 薬 哲 哉本発表では、動作表現構文(例 Pauline smiled her thanks.)、同族目的語構文(例 Bill sighed a

    weary sigh.)、身体行為構文(例 Linda winked her eye.)の文法的振舞いについて考察する。これらの構文は他動詞形式をとるが、受動化することができないなど、他動性が低いことが先行研究で指摘されてきた。本発表ではこれらが他動詞文としての統語構造をもつことを示した上で、いず

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    れも目的語名詞句の意味解釈がその統語的振舞いに重要な役割を果たしていることを主張する。特に、 (i)「目的語が非飽和名詞として、動作主項から義務的に束縛される項(束縛変項)を含むため、受動化が容認されない」、(ii)「受動化が可能となる場合、目的語が飽和名詞句としての解釈が可能になることで認可されるが、その認可の仕方には構文的特性に応じたいくつかのパターンが存在する」という二つの提案を行う。

    複合語形成から明らかになる部分名詞と形質名詞の性質について 大阪大学教授 由 本 陽 子構文レヴェルでの研究と並行して、動詞由来の派生語や複合語についての研究においても、動

    詞の項構造あるいはLCSを用いてその形成に関わる制約や形成された語の意味的・統語的性質が明らかにされてきた。特に日本語の「名詞+動詞連用形」型の複合名詞や「動詞+動詞」型の複合動詞については、その多様性を説明するには、項構造とLCSのいずれも必要であることが明らかにされている。本発表では、日本語の叙述機能をもつ複合語の形成において、複合する名詞の性質が重要な役割を果たしていることを示し、クオリア構造を用いることによって初めて明らかになる事実があることを指摘する。特に、「色、幅、格」といった物体の属性を表す「形質名詞」と「口、頭、足、縁、裾」などの「部分名詞」が、動詞または形容詞を主要部として複合語を作る場合をとりあげ、これらの名詞の意味情報が複合語の意味的・統語的性質の決定に影響することを述べる。

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    大会準備委員

    委 員 長: 桂山 康司(京都大学・英文学)副委員長: 川島 伸博(龍谷大学・英文学)

    英文学部門委員:  奥村 沙矢香(神戸大学)    川島 健(同志社大学)

    米文学部門委員:  中西 佳世子(京都産業大学)  中村 善雄(ノートルダム清心女子大学)

    英語学部門委員:  藏藤 健雄(立命館大学)    谷口 一美(京都大学)

    開催校委員:  金澤 哲(京都女子大学)

    (五十音順、敬称略)

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