明治期の文学に見える「家」意識追悼...

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79 みどり先生追悼 富 田   哲 1.序―問題の所在― 2.『不如帰』の背景 3.『不如帰』に見える「家」意識 4.おわりに―法学と文学との交錯― 1. 序―問題の所在― (1)『不如帰』の出版 1898(明治31)年7月16日に民法典が施行された。いわゆる「明治民法」 である。同じ1898年から翌年にかけて、徳冨蘆花 (1) の小説「不如帰」が国民 新聞に連載されている。この小説は1900年に民友社から単行本として出版さ れ、1938年には岩波文庫に収録されて現在に至っている。何度も増刷を重ね た超ロングセラーであり (2) 、読者を魅了してきた作品の一つといえよう。この 明治期の文学に見える「家」意識 ―法学と文学との交錯― (1) 徳冨蘆花の冨は「ワかんむり」を使い、蘆花の兄・徳富蘇峰の富は「ウか んむり」を用いている。両者の不和によって蘆花が「冨」を用いたといわれて いる。 (2) 私の手元にある岩波文庫は、徳冨蘆花『小説 不如帰』(岩波文庫・1995年)

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みどり先生追悼 論 説

富 田   哲

      目 次

   1.序―問題の所在―

   2.『不如帰』の背景

   3.『不如帰』に見える「家」意識

   4.おわりに―法学と文学との交錯―

 1. 序―問題の所在―

(1) 『不如帰』の出版

 1898(明治31)年7月16日に民法典が施行された。いわゆる「明治民法」

である。同じ1898年から翌年にかけて、徳冨蘆花(1)の小説「不如帰」が国民

新聞に連載されている。この小説は1900年に民友社から単行本として出版さ

れ、1938年には岩波文庫に収録されて現在に至っている。何度も増刷を重ね

た超ロングセラーであり(2)、読者を魅了してきた作品の一つといえよう。この

明治期の文学に見える「家」意識―法学と文学との交錯―

(1) 徳冨蘆花の冨は「ワかんむり」を使い、蘆花の兄・徳富蘇峰の富は「ウか

んむり」を用いている。両者の不和によって蘆花が「冨」を用いたといわれて

いる。

(2) 私の手元にある岩波文庫は、徳冨蘆花『小説 不如帰』(岩波文庫・1995年)

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小説のあらすじは次のようなものである。ヒロイン片岡浪子は川島武男と結婚

したが、まもなく肺結核を発症する。武男の母親は武男に断ることなく、浪子

を実家に帰し、武男と浪子とを離婚させる。そうして浪子は武男に思いをはせ

つつ、実家で短い生涯を閉じるというものである。とりわけ浪子が臨終に発す

る最後の一句は涙を誘ってきた。

 「ああつらい! つらい! もう―もう婦人(おんな)なんぞに―生まれ

はしませんよ。―あああ!」(3)

 徳冨蘆花は、1909年、『不如帰』が百版になった時に、校正かたがた久しぶ

りに読んでみて、「お坊っちゃん小説である」という感想を漏らしている。

 『不如帰』の中に日清戦争の場面が描かれているので、この小説で扱われて

いる時期は1894年から翌年にかけてである。それゆえ日本において民法典が

まだ成立していない時代の話である。この小説が国民新聞に掲載された1898

年は、日清戦争と日露戦争との中間期である。とはいえ、こうした恋愛小説が

雑誌に掲載されたのである。太平洋戦争の時代であれば、こうした内容の小説

は女々しいもの、戦意高揚にそぐわないものとして弾圧されたに違いない。と

ころが19世紀の末においては、こうした内容の小説が雑誌に掲載される自由

が残されていたのである(4)。

(2) 明治民法の成立・施行

 話は一転して、民法典の制定について言及しておきたい。日清戦争の時期

は、民法典の編纂がピークを迎えた時期でもあった。1890年にいったん公布

で、第67刷発行である。引用はこれを用いる。

(3) 徳冨蘆花、前掲『不如帰』216頁。

(4) 『不如帰』とほぼ同時期の小説として、尾崎紅葉の『金色夜叉』があり、読

売新聞に1897年から1902年にかけて連載された。

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追悼 明治期の文学に見える「家」意識―法学と文学との交錯― (富田 哲)

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された民法典(5)(いわゆる「旧民法」)に対して、旧民法の施行を断行するべ

きか、それとも延期するべきかをめぐって論争が生じた。いわゆる「民法典論

争」である(6)。そうして第3回帝国議会において、民法商法施行延期法律案が

1892年5月28日に貴族院で可決され(一部修正)、同年6月10日衆議院で可

決され、同年11月24日に民法及商法施行延期法律として公布された。この結

果、民法典論争は延期派の勝利で政治的な決着がついたとされている(7)。この

論争が純粋に学問的な論争であれば(8)、議会の議決によって決着が付くという

(5) 旧民法のうち、財産編、財産取得編第12章まで、債権担保編、および証拠

編は1890年4月21日に公布され、財産取得編第13章以下、および人事編は

1890年10月7日に公布された。

(6) 民法典論争の資料集として、星野通編著・松山大学法学部松大GP推進委

員会増補『民法典論争資料集【復刻増補版】』(日本評論社・2013年)があり、

現在知られている論稿がほぼ網羅されている。

(7) 帝国議会における審議の経過については、広中俊雄「日本民法典編纂史と

その資料―旧民法公布以後についての概観―」広中俊雄責任編集『民法研究第

1巻』(信山社・1996年)137頁以下。

(8) 穂積陳重は民法典論争を自然法学派と歴史法学派との争いとみている。す

なわち「延期戦は単に英仏両派の競争より生じたる学派争いの如く観えるかも

知れぬが、この争議の原因は、素と両学派の執るところの根本学説の差異に存

するのであって、その実自然法派と歴史派との争論に外ならぬのである。由来

フランス法派は、自然法学説を信じ、法の原則は時と所とを超越するものなり

とし、いずれの国、いずれの時においても、同一の根本原理に拠りて法典を編

纂し得べきものとし、歴史派は、国民性、時代などに重きを置くをもって、自

然法学説を基礎としたるボアソナード案の法典に反対するようになったのは当

然の事である。故にこの争議は、同世紀の初においてドイツに生じたる、ザ

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ことはありえないはずである。民法典論争はやはり政治的論争という性格を強

く有していたことがここにも現われている。

 民法・商法の施行が延期されたことを受けて、1893年3月に「法典調査会」

が設けられ、穂積陳重、富井政章、梅謙次郎の三名が民法の起草委員に任命さ

れ、ここにおいて明治民法の編纂が開始された。形式上から見ると、旧民法の

インスティーツティオーネン体系に代えて、明治民法はパンデクテン体系を採

用した。明治民法は、第4編親族において「家」制度を規定し、第5編相続に

おいて家督相続を相続の中心に置いているので、これらの分野については近代

的な民法とは言い難いものであった。前近代的な色彩を強く残した親族・相続

法を近代的な特色を有する財産法の分野から切り離して独立の編を構成したと

ころにパンデクテン体系を採用した意義が見出される(9)。明治民法のうち、第

1編総則・第2編物権・第3編債権については1896年4月27日法律第89号と

して成立し、第4編親族・第5編相続については1898年6月21日法律第9号

として成立し、両者合わせて1898年7月16日に施行された。

(3) 考察の対象

 『不如帰』に描かれている時期およびその出版の時期と民法典論争および明

治民法の編纂の時期とはほぼ重なっていた。そして民法典論争においては、争

点の一つとして「家」制度が問題となっていたし、『不如帰』においても「家」

制度が重要なモチーフとなっている。法学と文学という異なる分野において、

同一の時期に同一のテーマがとりあげられていることは興味深い。本稿におい

ヴィニー、ティボーの法典争議とその性質において毫も異なる所はないのであ

る。」(穂積陳重『法窓夜話』(岩波文庫・1980年)342頁以下)

(9) 戦後の親族・相続編の全面改正において、これらが独立の編を構成してい

たことが改正の対象を容易にするというメリットがあったといえよう。

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ては、一方では『不如帰』において表現されている「家」意識および婚姻観に

着目し、他方では民法典の編纂過程において現われた「家」意識および婚姻観

をとりあげて、これらを検討していくことにしたい(10)。

 2.『不如帰』の背景

(1) モデル小説としての『不如帰』

 『不如帰』にはモデルがあったことは早くから知られていた(11)。ヒロイン浪

子の父は片岡海軍中将となっているが、そのモデルは陸軍大将・大山巌であ

り、浪子のモデルはその長女・信子であった。大山巌は先妻の死亡後、後妻と

して山川捨松を迎えている。浪子の夫となった川島武男の父のモデルは内務官

僚の三島通庸であり、武男のモデルはその長男・弥太郎であった。大山巌も三

島通庸も薩摩藩出身の士族であり、両者とも華族に列せられている。そうして

大山信子と三島弥太郎との結婚式は、西郷従道夫妻の媒酌により、1893年4

(10) 法社会学の立場から『不如帰』をとりあげた文献として、湯沢雍彦『明治

の結婚 明治の離婚―家庭内のジェンダーの原点』(角川選書・2005年)163頁

以下がある。

(11) 蘆花によれば、蘆花が相州逗子の柳谷という家の間を借りて住んでいたと

ころ、病後の保養に童男一人を連れて来られた婦人から、ある悲酸の事実譚を

話し出されたという。そうして「「浪さん」が肺結核で離縁された事、「武男君」

は悲しんだ事、片岡中将が怒って女を引き取った事、病女のために静養室を建

てた事、一生の名残に「浪さん」を連れて京阪の遊をした事、川島家からよこ

した葬式の生花を突っ返した事、単にこれだけが話のなかの事実であった。」と

いう(徳冨蘆花、前掲『不如帰』3頁以下)。

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月に行われた(12)。大山巌は山川捨松との結婚を通じて、三島通庸は福島事件

の際の福島県令として、両者ともに福島と縁がある人物であった。

(2) 大山巌の後妻・山川捨松

 『不如帰』においては、浪子の実母は結核により若くして死亡したため、実

父・片岡中将は後妻を娶ったが、後妻となった女性はイギリスに留学した経験

のある才女とされている。『不如帰』では後妻すなわち浪子の継母は浪子を苛

める悪役として登場する。大山巌の後妻は山川捨松である。捨松は会津藩出身

であり、東京帝国大学総長となる山川健次郎の妹である。捨松は日本最初の女

子留学生として、津田梅子らとともにアメリカに留学し、アメリカで学士号を

取得している。それゆえ、捨松は英語が堪能であり、後に「鹿鳴館の華」と称

された女性である。なお、戊辰戦争における会津攻撃は、戦闘の烈しさ、死傷

者の数からいって、戊辰戦争のピークといってもよい。この会津戦争に際し

て、捨松は会津鶴ケ城の篭城戦に加わっていたし、大山巌もまた薩摩藩士とし

て会津攻め参加し、そこで負傷したといわれている。

 大山信子と三島弥太郎が婚姻した1893年の冬に、信子は病気をこじらせて

起き上がることができない状況となった。三島家では信子を大山家に里帰りさ

せて養生させることにしたのであるが、医者によると、結核の疑いがあるとい

う。そこで信子は転地療養のため、神奈川県の横須賀に滞在することとなっ

た。ところが年が明けると、三島家から離婚話が持ち込まれてきた。三島家で

は信子を一日も早く離婚させたいと考えていたようである。三島家の安泰ため

には弥太郎・信子の意志を考慮する余地はなかったといえよう。

(12) 久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』(中央公論社・

1988年)208頁。著者である久野明子氏の祖母・留子は大山巌の前妻の子であ

り、信子の妹である。『不如帰』においては、「駒子」として登場する。

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 『不如帰』では武男の母が武男に無断で離婚手続きを進めたことになってい

る。この武男の母親も悪役として登場する。しかし実際には、弥太郎の同意の

下に離婚が行われたようであり、弥太郎が信子にあてた手紙が残っているが、

その手紙なかで、弥太郎は信子に諦めて欲しい旨を書き送っている。大山捨松

から信子の離婚話を聞いた津田梅子は、弥太郎がアメリカに留学した経験があ

るにもかかわらず、母親の言いなりになっているのは不甲斐ないとして、弥太

郎のところに抗議の直談判に行ったという。三島家と大山家との間で正式に離

婚が成立したのは、1895年9月であった。日清戦争は1895年4月に終わって

いたが、同年6月、大山巌、捨松、信子は関西旅行に出かけている。『不如帰』

のなかでは、浪子の継母は関西旅行に行かず、女中が同行している。その旅行

の際に、三島家から正式に離婚の申出があったことを、大山巌は信子に伝えた

という。それから約1年を経て、1896年5月、信子は20歳でこの世を去った。

 久野明子氏の祖母・留子は国民新聞に連載されたこの小説を読み、世の中に

は随分と自分と似た境遇の人もいるものだと思ったという。そうしてすでに嫁

いでいた次姉の芙蓉子から渡された本を読んで初めて大山家の人々がこの本の

モデルであったことに気がついたという(13)。

(3) 三島通庸の妻・和歌

 『不如帰』における浪子の夫、川島武男は海軍の軍人とされているが、その

モデルは三島弥太郎である。弥太郎の父は三島通庸、すなわち福島事件の際の

福島県令である。三島通庸は福島の自由党を徹底的に弾圧したことで名を知ら

れている。彼は三方道路の建設を強引に進め、労務の提供または費用の負担に

(13) 大山信子・山川捨松等については、久野明子、前掲『鹿鳴館の貴婦人 大山

捨松』208~216頁に詳しい記述がある。本稿の記述は主にこの本にもとづいて

いる。

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応じない農民については、その者の財産を強制競売に付したのである。また会

津藩の残党士族に会津帝政党を作らせ、これを自由党弾圧および農民弾圧に利

用した。その当時、河野広中が福島県会の議長をしていたが、三島通庸は県会

への出席要請を悉く無視したという。そのうえで、河野広中らの福島の自由党

が政府転覆を企てたとして、彼らを東京に護送し、高等法院において有罪判決

を下したのである。三島通庸は山形県令、栃木県令等も拝命しているが、どこ

でも土木工事等の地域振興に熱心であったといわれている。三島通庸もまた薩

摩出身であったが、大久保利通に引き立てられて、官僚としての出世街道を歩

み始めた。下級武士が明治権力に取り込まれたときに、いかに自由民権運動に

敵対的な態度をとったか、また農民運動を弾圧したか、その典型的な姿を見る

ことができる。

 三島通庸の長男・弥太郎は軍人ではなく、アメリカ留学体験を持つ実業家で

あり、後に日本銀行の総裁を務めている。武男の母親は、武男の承諾なしに結

核に罹った浪子を実家・片岡家に追い返してしまう最大の悪役・鬼婆として登

場する。この武男の母親のモデルは三島通庸の妻ということになるが、薩摩藩

士である柴山権助の二女・和歌であった。和歌については、詳しい人物像は残

されていないようである(14)。

(4) 『不如帰』の作者・徳冨蘆花

 『不如帰』の著者、徳冨健次郎蘆花について、簡単に言及しておきたい(15)。

徳冨蘆花は1868年10月25日に熊本藩の水俣に生まれた。父は徳富一敬、母は

(14) 三島和歌については、幕内満雄『評伝 三島通庸 明治新政府で辣腕をふ

るった内務官僚』(暁印書館・2010年)38頁を参酌した。

(15) 徳冨蘆花に関係する施設として、東京都世田谷区に「恒春園」および「蘆

花記念館」、群馬県渋川市の伊香保温泉に「徳冨蘆花記念文学館」がある。

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追悼 明治期の文学に見える「家」意識―法学と文学との交錯― (富田 哲)

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久子、兄は猪一郎蘇峰である。蘆花は、若いころ京都の同志社に学び、新島襄

に師事している。そしてこの頃にキリスト教に入信した。その後、東京に出

て、兄が発刊した国民新聞の編集等を手伝っている。1894年に愛子と結婚し

た。ところが1903年頃から兄と不和になった。1906年にはロシアに旅行し、

トルストイに会っている。1914年に父・一敬が死んだが、葬儀に参列しなかっ

たという(16)。1911年、第一高等学校において、蘆花は「謀叛論」という講演

を行っており、幸徳秋水に同情的な発言をしている(17)。蘆花は1927年9月18

日に死去するが、その直前に兄と和解したとされている。

 以上が簡単な蘆花の年譜であるが、注目すべき点を簡単に記しておきたい。

 第1に、蘆花が熊本の水俣の生まれであることである。水俣は戦後に「水俣

病」でその名を知られるようになったが、熊本藩と鹿児島藩との藩境に近い所

にある。熊本の細川家と鹿児島の島津家とは対抗関係にあり、水俣も薩摩に対

する対抗意識が強いところであった。『不如帰』のなかに、川島家の仲働きと

小間使いとが武男の母親の悪口を言う場面がある。もしかすると、蘆花の心境

を吐露しているのかもしれない。

 「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう

母さんがあるものかね。旦那の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼婆

め」

 「あれくらいいやな婆っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、

人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。

そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩でお芋を掘ってたンだもの。わたしゃもう

(16) 徳冨健次郎「日記 大正3年5月―6月」(徳冨健次郎著、中野好夫編『謀

叛論 他六編・日記』(岩波文庫・1976年)77頁以下)。

(17) 徳冨健次郎「天皇陛下に願ひ奉る」および「謀叛論(草稿)」(徳冨健次郎

著、中野好夫編、前掲『謀叛論 他六編・日記』7頁以下および9頁以下。

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こんな家(うち)にいるのが、しみじみいやになッちゃった」(18)

 第2に、蘆花が同志社に学んでいることである。新島襄などの影響を受け

て、彼もキリスト教に帰依している。それがトルストイとの接点でもある。

 第3に、兄・蘇峰との不和である。その理由についてはよくわからないとこ

ろがあるが、大逆事件における幸徳秋水等に対する蘆花の親近感などから考え

ると、蘇峰との思想的な対立は決定的なものがあったように思われる。

 3.『不如帰』に見える「家」意識

(1) 母親による離婚の説得をめぐって

 『不如帰』において、武男の母親が武男に対して、肺結核に罹った浪子との

離婚を説得しようとする場面がある。武男の母親の言動には、「家」に対する

意識がストレートに現われている。最初は婉曲に肺結核の恐ろしさを示して納

得させようとする。しかし武男は離婚を望まない。次いで「家」の安泰を図る

ためという理由によって説得を試みる。しかしこれでも武男は離婚に同意しよ

うとしない。最後にご先祖様という「家」の本尊というべきものを持ち出して

強引に離婚を押し付ける。ここには武男の母親が次第に強硬になっていく様子

が鮮明に描かれている。武男にとっては、親および「家」に対する孝と妻に対

する人情とに挟まれて苦しむことになる。母親は鹿児島弁、武男は標準語とい

う使い分けによって、その対立がいっそう際立ったものとなっている(19)。

 「浪を―引き取ってもらっちゃどうじゃろの?」

 「引き取る? どう引き取るのですか」

(18) 徳冨蘆花、前掲『不如帰』138頁以下。

(19) 『不如帰』岩波文庫版の原文において、振り仮名を振っている漢字について

は、初回のみ括弧に容れて、読み方を記しておく。

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 母は武男の顔より目を離さず、「実家(さと)によ」

 「実家に? 実家で養生させるのですか」

 「養生もしようがの、とにかく引き取って―」

 「養生には厨子がいいですよ。実家には小供もいますし、実家で養生さ

すくらいなら此家(うち)の方がよっぽどましですからね」

 ……じっとわが子の顔を見つめ「わたしがいうのはな、浪を―実家に戻

すのじゃ」

 「戻す?……戻す?―離縁ですな! !」

 「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て

 「離縁(じえん)、そうじゃ、まあ離縁よ」

 「離縁! 離縁!!―なぜですか」

 「なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」

 「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」

 「そうよ、かわいそうじゃがの―」

 「離縁! ! !」(20)。(中略)

 「なあ、武どん、あんまいふいじゃから卿(おまえ)もびっくりするな

もっともっごあすの、わたしはもうこれまで幾晩も幾晩も考えた上での話

じゃ、そんつもいで聞いてもらんといけませんぞ。……何を言うても病気

が病気―」(21)。

 激しく抵抗する武男に対し、病気を理由とすることのみでは説得できないと

みた武男の母親は、次に川島家という「家」の存続に関わる問題を持ち出して

くる。爵位をもつ上流階層にとって、「家」の存続は何事にも代えられない重

要問題であった。

(20) 以上、徳冨蘆花、前掲『不如帰』111頁。

(21) 徳冨蘆花、前掲『不如帰』112頁。

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 「よし浪が今死なんにしたところが、そのうちまたきっとわるくなッハ

うけあいじゃ。そのうちにはきっと卿に伝染すッなことうけあいじゃ、な

あ武どん。卿にうつる、子供が出来(でく)る、子供にうつる、浪ばかい

じゃない、大事な主人の卿も、の、大事な家嫡(あととり)の子供も、肺

病持ちなッて、死んでしもうて見なさい、川島家はつぶれじゃなッかい。

ええかい、卿がおとっさまの丹精で、せっかくこれまでになッて、天子様

からお直々に取り立ててくださったこの川島家も卿の代でつぶれッしまい

ますぞ。……浪がかあいそうじゃて主人の卿にゃ代えられン、川島家にも

代えられン。よウく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないま

せんぞ」(22)。(中略)

 「へへへへ、武男、卿は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかま

わンか、川島家はつぶれてもええかい?」

 「卿はまだ年が若かで、世間を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、

小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、卿は―川島家

は大の虫じゃ。の。それは先方も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃ

が、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよ

かまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こ

んな例は世間に幾らもあります。家風に合わンと離縁する、子供がなかと

離縁する、悪い病気があっと離縁する。これが世間の法、なあ武どん。何

の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。全体こんな病気のした時ゃ

の、嫁の実家から引き取ってええはずじゃ。先方からいわンからこつちで

言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか」(23)。

 これでも説得できないとみた武男の母親は、最後に川島家のご先祖様の位牌

(22) 徳冨蘆花、前掲『不如帰』112頁以下。

(23) 以上、徳冨蘆花、前掲『不如帰』114頁。

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追悼 明治期の文学に見える「家」意識―法学と文学との交錯― (富田 哲)

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を取り出して説得に努める。その際に、親の言うことを聞かない者は親不孝で

あると決め付ける。

 母はつと立ち上がって、仏壇より一つの位牌を取りおろし、座に帰っ

て、武男の眼前に押しすえつ。

 「武男、卿はな、女親じゃからッて私をなんとも思わんな。さ、おとっ

さまの前で今(ま)一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々

のお位牌も見ておいでじゃ。今一度言って見なさい、不孝者めが! !」

 きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。

 さすがに武男も少し気色ばみて「なぜ不孝です?」

 「なぜ? なぜもあッもンか。妻(さい)の肩ばッかい持って親のいう事

は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを粗略(そまつ)に

して、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、

卿は不孝者、大不孝者じゃと」

 「しかし人情―」

 「まだ義理人情をいうッか。卿は親よか妻が大事なッか。たわけめが。

何というと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッ

かいいう。不孝者めが。勘当すッど」

 武男は唇をかみて熱涙を絞りつつ「母さん、それはあんまりです」

 「何があんまいだ」

 「私は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。母さんにそ

の心が届きませんか。」

 「そいならわたしがいう事をなぜ聞かぬ? エ? なぜ浪を離縁せンッか」

 「しかしそれは」

 「しかしもねもンじゃ。さ、武男、妻が大事か、親が大事か。エ? 家が

大事? 浪が―?―エエばかめ」(24)。

 武男の母親の最後の手段は、ご先祖様を持ち出してくることであった。日本

における「家」はある一時点での構成員のみで存在するものではない。一時点

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における「家」の構成員は鎖の一つであって、それが先祖から子孫へと連綿と

してつながっているのが日本の「家」であった。それゆえ、「家」をつぶすと

いった失態は、決して個人的な責任によって解消されるものではなく、祖先に

対する責任でもあった。火事の際に最も重要なものとして持ち出すものが祖先

の位牌であったという話は、日本人であるならば、一度は聴いたことがあると

思われる。こうして武男は母親に対する孝と、それを上回る祖先に対する孝

と、妻に対する人情・愛情との狭間に立たされ、離婚をするか否かの選択の強

制を迫られたのであった。親および家が大事か、妻が大事かという一種の信仰

告白である。いわば、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠な

らんとされた平重盛の立場であり、また王である叔父の命令に従うべきか、そ

れとも神に意思に従うべきかという義務の衝突に苦しんだアンティゴネーの立

場であったといえよう。平重盛もアンティゴネーも自由な意思による態度決定

からは程遠いところにおかれていたが、それ以上に、武男の場合には母親に

よって離婚を押し付けられたのであって、ご先祖様を持ち出された以上、母親

に逆らうことは実質的に不可能という状況にあった。

(2) 明治民法施行前の離婚

 1)法慣習と太政官布告

 話を民法に移して、『不如帰』における武男の母親による説得を民法の立場

からはどのように評価するべきかという問題をとりあげることにする。前述の

ように、この小説が扱っている時期(1894年頃)は民法典の施行前であるか

ら、その時期に効力を有していた法慣習および諸法令を前提として考察を進め

ていくことが必要になる。

(24) 以上、徳冨蘆花、前掲『不如帰』115頁以下。

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 日本においては、明治民法の施行前、非常に離婚(25)が多かった(26)。世界で

もトップクラスの離婚率であった。離婚に対する法の規制として、1873年の

太政官布告第162号などいくつかの法令があったが、慣習による規律が圧倒的

に強かったものと思われる。『不如帰』で扱われている時期よりも15年ほど前

であるが、民法典編纂に資するために慣行調査が行われ、1877年に『民事慣

例類集』、1980年に『全国民事慣例類集』として出版されている。これらによ

れば、離婚につき「凡ソ離縁ニ及フトキハ、嫁具ヲ婦家ヘ引渡シ、送籍ヲ戻

シ、夫ヨリ自筆ノ離縁状ヲ婦ニ付與スル事一般ノ通例ナリ。」(27)と記されてい

る。すなわち、離婚の場合には、第1に嫁具等を返還すること、第2に戸籍の

手続きとして籍を戻すこと、第3に離縁状を交付することが行われたとされて

いる。1871年の戸籍法(いわゆる「壬申戸籍」)による手続きと江戸時代から

の離縁状の交付とが併存しているところに、この時代の特色が現われている。

しかし、何をもって離婚原因とするのかにつき、具体的な事由は『民事慣例類

集』および『全国民事慣例類集』には何ら記されていなかった。

 いうまでもなく当時の離婚の多くは、現行民法にいう協議離婚であった。た

だし個人と個人とではなく、家と家との合意をもって行われた。また江戸時代

までは、妻の側からの離婚はほとんど認められていなかった。夫が離婚に同意

(25) 民法施行前においては、離婚を「離縁」と表記することが一般的であった。

『不如帰』においても「離縁」という文言が用いられている。本稿においては、

資料を引用する場合には「離縁」とし、それ以外の場合には「離婚」とする。

(26) 民法施行前の人口1000人あたりの離婚率につき、1882年2.62、1887年

2.83、1892年2.76、1897年2.87であった(玉城肇「明治以後の離婚問題」中川

善之助他編『家族問題と家族法Ⅲ離婚』(酒井書店・1974年)191頁による。)。

(27) 「司法省蔵版 全国民事慣例類集」明治文化研究会『明治文化全集第13巻

法律篇』(日本評論新社・1957年)210頁。

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しないときは、鎌倉の東慶寺などの縁切寺に駆け込むという方法もあったが、

原則として夫のみが離婚を申し渡すことができる夫の専権離婚であった。ま

た、とくに離婚原因はとくに要求されておらず、離縁状においては、「不縁ニ

付キ」と記される程度であった。

 1873年の太政官布告第162号によって初めて、妻の側にも離婚の権利が認

められた。すなわち「夫婦ノ際已ムヲ得サルノ事故アリテ其婦離縁ヲ請フト雖

モ、夫之ニ肯セス、之レカタメ数年ノ久ヲ経テ終ニ婚期ヲ失ヒ、人民自由ノ権

利ヲ妨害スルモノ不少候、自今右様ノ事件於有之ハ、婦ハ父兄弟或は親戚ノ内

附添、直ニ裁判所ヘ訴出不苦候事」と。こうした法令が定められた理由とし

て、法令のなかに、夫が離婚に同意しないため、妻が再婚の時機を失すること

があげられているが、このことが人民自由の権利を妨害するものとして捉えら

れていることは注目に値する。さらに同年の「訴答文例」によって、その手続

きが定められた。しかし布告第162号には「已ムヲ得サルノ事故」という文言

はあるものの、具体的な離婚原因に関する規定はおかれていなかった。

 2)『不如帰』の事例への法の適用

 明治民法施行前に『不如帰』のようなケースが現実に現われたときはどうな

るであろうか。とりわけ裁判で争われたときはどのように判断されるのであろ

うか。肺結核のような病気が離婚原因として認められたであろうか。これらの

点につき、当時の法慣習および太政官布告等の法令を前提に考えていきたい。

この問題に関して、高柳真三教授によると、「婿養子が家女である妻を離婚す

るには、悪疾にかかるか或いは倫理を犯す等の重大な理由があれば格別、一通

りの事由では離婚は許されないということを指示した内務省令があるが、これ

によってみても、悪疾は律令の七出之状以来最も重大な離婚原因の一つとされ

ていたことがわかる。しかし律令におけるように一方的に妻の側だけの原因と

されたのではなく、夫にも悪疾・癲狂・不治の病などといわれる原因が生ずる

と、妻の離婚請求はみとめられた。」(28)と述べている。悪疾等の場合であれば、

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妻からの請求であっても離婚が認められるというのであるから、夫からの請求

であれば、当然に認められるといってもよい。当時、肺結核は悪疾の代表的な

ものであるから、離婚原因にあたるといってもよいと思われる。そうであるな

らば、肺結核であるがゆえに離婚を迫るといった武男の母親の主張は決して荒

唐無稽のものではなく、正当な根拠があったものといえよう。

(3) 民本典論争・延期派における「家」意識

 1)穂積八束の「家」意識

 次に、「家」を維持するためという理由から、嫁を追い出す行為は正当な離

婚原因として認められるであろうか。なお、ここでとりあげる「家」は、江戸

時代における武士の「家」、そしてそれを引き継いだ士族・華族層の「家」を

念頭においている(29)。『不如帰』において扱われている階層は爵位を有してい

る上級階層であるから、旧武士の階層であると見てよい。

 『不如帰』で扱われている時期に、「家」制度をめぐる争いはどのような状況

になっていたのかについて概観すると、民法典論争においては、延期派が

「家」制度の強化を主張したのに対し、断行派はよりリベラルな立場であった

されている。延期派の代表的論文といえば、穂積八束の「民法出テヽ忠孝亡

(28) 高柳真三『明治家族法史』(日本評論社・1951年)59頁。

(29) 川島武宜教授は封建的支配階級の儒教的家族制度と直接生産者たる農民等

の家族制度とを区別するべきであるとする(川島武宜『日本社会の家族的構成』

(日本評論社・1950年)5頁以下)。しかし明治維新以降、戸籍法も太政官布告

162号も士族と平民とを区別せずに適用されるものとなっているが、法意識の

面においては完全に同一になったというわけではないと思われるので、ここで

は士族層を念頭において論ずることにしたい。

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フ」(30)をあげることができる(31)。ここではこの論文に依拠して、武男の母の

言動の思想的背景を探究していくことにしたい。

 穂積八束は、この論文において、日本における「家」制度および家父長権の

重要性を強調していることは有名である。

 「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法トハ家ニ生レタリ、

不羈自由ノ個人ガ森林原野ニ敵対ノ衝突ニ由リテ生レタルニアラザルナ

リ。氏族ト云ヒ国家ト云フモ家制ヲ推拡シタルモノニ過ギズ。権力相関ヲ

指摘スルノ呼称ハ異ナリト雖、皇室ノ嬖臣ニ臨ミ、氏族首長ノ其族類ニ於

ケル家父ノ家族ヲ制スル皆其権力ノ種ヲ一ニス。而シテ之ヲ統一シテ全カ

ラシムルモノハ祖先教ノ国風ニシテ、公私ノ法制習慣之ニ依ルニアラザレ

バ解スベカラザル者比々皆然リ、……」(32)。

 穂積八束は日本が祖先教の国であることから解き始める。そうして彼によれ

ば、国は家を拡大したものであって、国と家とは同一の性質・同一の由来をも

つものであるという。国と家との同質性が日本特有のものであると考えてい

る。これに対して、穂積八束によれば、ヨーロッパにおける国家は自由な個人

が山林原野において敵対しているところで成立したとする。こうした説明の仕

方は、いわゆる自然法思想に由来するものである。自然状態を「万人の万人に

(30) 穂積八束「民法出テヽ忠孝亡フ」『法学新報』第5号(1891年8月25日発

兌)〔星野通編著・松山大学法学部松大GP推進委員会増補『民法典論争資料集

【復刻増補版】』(日本評論社・2013年)82頁以下〕。

(31) 穂積八束の同時期の論文「耶蘇教以前ノ欧洲家制」『国家学会雑誌』第5巻

第54号(1891年8月15日出版)〔星野通編著、前掲『民法典論争資料集』85頁

以下〕もほぼ同趣旨である。

(32) 穂積八束、前掲「民法出テヽ忠孝亡フ」〔星野通編著『民法典論争資料集』

82頁以下〕。なお、引用に際して、句読点を補充した。

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対する闘争」と説明したホッブス流の発想であるといえよう。この自然状態を

脱するために、社会契約にもとづいて国家の成立をみたとするのが近代自然法

思想である。そうして、このホッブスの自然法思想は、やがてロックとかル

ソーなどに引き継がれ、完成することになる(33)。

 そのうえで、穂積八束は、日本における「家」制度の思想的かつ宗教的背景

とキリスト教成立以前のヨーロッパにおけるそれとの類似性を指摘する。すな

わち、キリスト教成立以前はヨーロッパもまた祖先崇拝が中心となっていたと

し、この点で日本と共通しているという。

 「我固有ノ国俗法度ハ耶蘇教以前ノ欧羅巴ト酷相似タリ、然ルニ我法制

家ハ専ラ標準ヲ耶蘇教以後ニ発達シタル欧洲ノ法理ヲ採リ、殆ント我ノ耶

蘇教国ニラザザルコトヲ忘レタルニ似タルハ怪ムベシ。……

 一男一女情愛ニ由リテ其居ヲ同フス、之ヲ耶蘇教以後ノ家トス。我新民

法亦此ノ主義ニ依レリ。是レ我国固有ノ家制ニアラザルナリ、是レ欧洲固

有ノ家制ニアラザルナリ、……然レドモ民法家ガ我国ニ行ハントスルガ如

キ家トハ一男一女ノ自由契約(婚姻)ナリト云フノ冷淡ナル思想ハ、絶テ

古欧ニ無キ所ナリトス。婚姻ニ由リテ始メテ家ヲ起スニアラズ、家祠ヲ永

続センガ為メニ婚姻ノ礼ヲ行フナリ、茲ヲ以テ古法ハ娶ラザルヲ禁ジ、又

子無キトキハ婦ヲ去ルコトヲ認メ、或ハ他姓ノ子ヲ養フテ家祠ノ断絶ヲ防

グ、皆古欧ノ家制ハ今ノ家制ト其主想ヲ異ニシ祖先教ニ本源スルコトヲ証

スルモノナリ。」(34)。

(33) 近代自然法思想のなかで、自然状態とはどのような状態なのかにつき、

ホッブスは相争う闘争の状態と解したのに対して、ロックやルソーは平和な状

態と捉えている。

(34) 穂積八束、前掲「民法出テヽ忠孝亡フ」〔星野通編著『民法典論争資料集』

83頁〕。

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 穂積八束によれば、一人の男と一人の女による自由な意思にもとづく結合が

西欧の婚姻であって、これはキリスト教に由来するものと捉えている。穂積八

束は、西欧的な婚姻観を冷淡な思想であると評価しているが、公布された旧民

法はこの西欧的かつキリスト教的な婚姻観が背景となっていると考えている。

しかしヨーロッパにおいてこの思想が広がったのはキリスト教の普及以後のこ

とであって、それ以前のローマ社会などは、日本と同様に祖先崇拝の思想が中

心を占めていたという。祖先教・祖先崇拝にもとづく婚姻観によれば、婚姻は

子孫を確保するために必要なものであって、それゆえ婚姻しないという自由は

なく、婚姻しても子をもうけることのできない女子は離婚の対象となりうると

捉えていた。

 「之ヲ我国非耶蘇教ノ習俗ニ照応スルトキハ、相似タル者アリ、欧洲ハ

彼ノ宗教行ハレシヨリ独尊ノ上帝ハ人類ノ敬ト愛トヲ専有シ、子孫マタ祖

先ノ拝スベキヲ知ラズ。於是乎孝道衰フ、平等博愛ノ主義行ハレテ民族血

族ヲ疎ンス。於是乎家制亡ブ。而シテ個人平等ノ社会ヲ成シ、個人本意ノ

法制ヲ以テ之ヲ維持セント欲ス。フユステル、ド、クーランジハ法制史ノ

大家ナリ、其古欧家制ヲ解説スルニ序シテ曰ク。「人ガ其父若ハ祖先ヲ崇

敬スルト云フコトハ吾人ノ信ジ難キ所ナリ。然レドモ是レ実事ナリキ」

ト。」(35)

 穂積八束によると、キリスト教的な西欧の婚姻観に従うならば、祖先崇拝の

精神は衰退し、孝道は地に落ちるという。そうして民族・血族を粗略に扱うこ

とになるというが、ここでの民族は国家を、血族は「家」を表しているといえ

よう。穂積八束は、キリスト教以前には祖先教が支配していたことにつき、フ

ランス法制史の大家フュステル・ド・クーランジュ(Fustel de Coulanges)

(35) 穂積八束、前掲「民法出テヽ忠孝亡フ」〔星野通編著『民法典論争資料集』

83頁以下〕。

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の学説 (36)をあげている。いまだ祖先崇拝を色濃く残す日本において、このキ

リスト教思想にもとづいた民法典を制定すると、「家」制度の破綻を導き、孝

道を衰退されると結論づけている。まさにタイトルとしての「民法出テヽ忠孝

亡フ」である(37)。

 「嗚呼、耶蘇教国ニ於キテ、耶蘇教人ニ孝道ヲ説明スルノ難キ、此ノ一

言ヲ以テ証スベシ、我国未ダ他教ヲ以テ祖先教ヲ一洗シタルニアラザルナ

リ。然ルニ民法ノ法文先ヅ国教ヲ排斥シ、家制ヲ破滅スルノ精神ニ成リ、

僅ニ「家」「戸主」等ノ文字ヲ看ルト雖、却テ之ガ為メニ法理ノ不明ヲ招

ク。空文無キノ優レルニ若カザルナリ。嗚呼、極端個人本意ノ民法ヲ布キ

テ、三千余年ノ信仰ニ戻ラントス。而シテ一方ニ於キテハ或ハ耶蘇教旨ノ

我ニ行ハルルヲ欣ハズ。強テ忠孝ノ国風ヲ保持セントス。」(38)

 穂積八束によれば、旧民法においては「家」とか「戸主」などの旧制度をわ

ずかに残しているけれども、キリスト教的西欧の婚姻観にもとづく個人本意の

旧民法にこのような日本独自の制度を追加しても、それは木に竹を接ぐような

ものであって、かえって法理論の立場からみれば、一貫性のない民法典となっ

(36) クーランジュの古代法を代表する著作は『古代都市』であるが、これの翻

訳として、古くは、中川善之助訳『古代家族』(弘文堂書房・1927年)があり

(家族関係の部分のみ)、全体の翻訳としては、田辺貞之助『古代都市』(白水

社・1995年)がある。

(37) 穂積陳重によると、「この題目は江木衷博士の意匠に出たものであるとのこ

とである。……右の如く覚えやすく口調のよい警句は、群衆心理を支配するに

偉大な効力があるものである。」(穂積陳重、前掲『法窓夜話』339頁以下)と

いう。

(38) 穂積八束、前掲「民法出テヽ忠孝亡フ」〔星野通編著『民法典論争資料集』

84頁〕。

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てしまったと考えている。キリスト教国家ではない日本において、キリスト教

を支柱とする個人主義的民法を導入するならば、3000年来の祖先崇拝の信仰

にもとることになり、「家」制度を破壊し、孝道が廃れていくことになると懸

念している。そうして最終的に、民法という法律の力によって忠孝の精神を達

成することができないのであれば、教育の力によって達成するべきであるとい

うのが穂積八束の真意である。しかし穂積八束は後になって、民法典が成立し

た以上もはや取り返すことができないと悟ったのか、死んだ子の齢を数えるに

等しいという感想を漏らしている。

 2)武男の母親における「家」意識との類似性

 祖先崇拝および「家」制度の重視という穂積八束の思想は、クーランジュの

ようなフランス法制史の大家の学説にも依拠して、自己の学説を補強してい

る。しかし穂積八束の思想は決してアカデミズムの範囲に限定されたものでは

なく、政治的な分野において、より大きな影響力をもったのである。

 ところで、穂積八束における「家」意識および祖先崇拝の思想などは、普通

の国民の言葉をもって表現すれば、武男の母親の言い方になるのではあるまい

か。『不如帰』において、武男の母親は「家」を維持するために、肺結核に

罹った嫁は「家」から出て行ってもらう必要があると考えていた。なぜなら、

こうした病気をもっていると、子をもうけることができないかもしれないし、

子ができても子に感染して一家全滅というおそれもあるからである。「家」の

維持という最大の利益の保護の前には、その他の利益は小さいものとして犠牲

にすることもやむを得ないことと考えている。そうして「家」を維持するため

には、手段を選ぶ必要はない。そのため最後にはご先祖様を持ち出してきて、

離婚を説得するなどは当然のことであるという意識である。「家」を取り崩す

ことは、ご祖先様に対して申し訳が立たないことであり、これ以上の親不孝、

祖先に対する不孝はないのである。それゆえ、「家」制度におけるご先祖様は、

水戸黄門の印籠と同じく、いかなる抵抗をも阻止できるマジック・ワードであ

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る。

 「民法出テヽ忠孝亡フ」に現された穂積八束の思想は、ローマ法にまで遡る

高尚な学説の外観を有しているのに対して、武男の母親の言動は学識のない老

婆の発想である。しかし、その「家」制度および「家」意識に関しては、その

基礎となっている部分は共通している。とりわけ祖先崇拝の観念をもって説得

するところに、それが現われている。

 『不如帰』において、武男の母は悪役・鬼婆として扱われており、その言い

分は現在の視点からすると、頑迷固陋としか言いようがないけれども、民法施

行前の法慣習および太政官布告等の法令に即して考えてみても、さらに穂積八

束などの民法典論争における延期派の主張に照らしてみても、それほど的外れ

とはいえないと思われる。

(4) 武男の抵抗とその婚姻観

 1)西欧的な婚姻観

 一方、武男は徹底した一男一女の婚姻観を有している人物として描かれてい

る。たとえば、病気を発症した浪子を武男が見舞い、二人で湘南海岸を散策し

ているところの会話である。

 浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおります

わ、―あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 死ぬなら二人

で! ねエ、二人で!」

 「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」

 「本当? うれしい! ねエ、二人で!―でもおっ母さまがいらッしゃる

し、お職分(つとめ)があるし、そう思っておいでなすッても自由になら

ないでしょう。その時はわたしだけ先に行って待たなければならないので

すねエ―わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ?

あなた!」

 武男は涙をふりはらいつつ、浪子の黒髪をかいなで「ああもうこんな話

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はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長

生きして、金婚式をしようじゃないか」

 浪子は良人の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をは

らはらと武男の膝に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ!

たれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来は未来の後(さ

き)までわたしはあなたの妻ですわ!」(39)

 婚姻とは一人の男性と一人の女性とが愛情によって結ばれるものであると

いった婚姻観、そのうえその結合は終生続くのみならず、生死を超えて続くも

のであるといった婚姻観は、日本においては、江戸時代までは存しなかったと

思われる。こうした婚姻観は、いうまでもなく西欧における婚姻観であって、

とりわけキリスト教の思想の影響を強く受けているものである。この点につい

ては、穂積八束もまた「一男一女情愛ニ由リテ其居ヲ同フス之ヲ耶蘇教以後ノ

家トス」(40)と指摘していたところである。蘆花は若くしてキリスト教に帰依し

ていた。それゆえ、武男の言葉に託して蘆花の婚姻観が提示されているといっ

てもよいであろう。

 武男によるこの婚姻観は、武男の母が武男を説得しようとする場面にも現れ

ている。

 「母(おっか)さん、私はそんな事はできないです」

 「なっぜ?」母はやや声高になりぬ。

 「母さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」

 「そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは卿の命が惜しい、

川島家が惜しいのじゃ!」

(39) 徳冨蘆花、前掲『不如帰』102頁以下。

(40) 穂積八束、前掲「民法出テヽ忠孝亡フ」〔星野通編著『民法典論争資料集』

83頁〕。

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追悼 明治期の文学に見える「家」意識―法学と文学との交錯― (富田 哲)

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 「母さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんで

ください。……実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなん

ぞ、どうしても私はできないです。」(41)

 しかし、武男・浪子の婚姻観をもって当時の若年層の婚姻観を代表している

ということはできない。なぜなら、武男の母親の年代のみならず、武男の年代

においても、キリスト教的な西欧の婚姻観が支配的であったとは到底いえない

からである。有地亨教授によれば、「民衆のレベルでは、一夫一婦制論や婦人

改良論は皮肉にも、キリスト教によって主張され、擁護されればされるだけ、

ますます民衆の支持を失うという結果になったようである。」(42)と述べている。

一部の知識人層は別として、民衆のみならず上流層にもキリスト教に対する反

発は強かったものと思われる。モデルであった三島弥太郎もまた離婚に踏み

切っているのである。「家」が大事か、妻が大事かという選択を迫られたとき

に、内心はともかく、「家」の安泰を選択した若者も多かったことであろうし、

こうした若者を封建思想の持ち主として批判することはできない。

 しかし、武男・浪子の婚姻観を単なるフィクションの世界だけのもの、徳冨

蘆花の頭の中だけにあるものということもできない。当時の若者にとっては、

武男・浪子の婚姻観は一つのロマンスとしての価値を有していたに違いない。

武男および浪子に同情する者が多かったからこそ、『不如帰』はベストセラー

になったのである。

 2)民法典論争・断行派における婚姻観

 話はまた民法典論争に戻る。民法典論争における断行派の論文の中に西欧的

な婚姻観について、これを明瞭に叙述しているものがどれだけあるだろうか。

(41) 徳冨蘆花、前掲『不如帰』102頁以下。

(42) 有地亨『近代日本の家族観―明治篇』(弘文堂・1977年)60頁。

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行政社会論集 第 29 巻 第4号

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旧民法はその当初、いわゆる第一次草案のころまではある程度、個人主義的な

婚姻制度にもとづく規定を有していた。ところが、それが再調査案、元老院提

出案、元老院における審議等での修正過程を通じて、次第に当初の性質を失っ

ていき、「家」制度が強く現われるように修正されたのである。公布された旧

民法は、後の明治民法とほとんど変わらない程度に「家」制度が強化されてい

た。断行派の立場からすれば、こうした近代的婚姻制度の後退を積極的に批判

するべきであったと思われるが、この点に関する論述はきわめて曖昧であっ

た。

 旧民法の施行にもっとも関心があったはずのボアソナードは、祖先祭祀と民

法との妥協につき、次のように述べている。

 「子孫其祖先の祭祀を絶たさるか若きは啻に日本及ひ支那に止まらす萬

邦普及の俗習と謂ふへし。……新民法は従来の家制を釐革せず纔かに二三

の変更を施したるに過きす。」(43)と。

 明治民法の起草者・梅謙次郎もまた、旧民法には「家」制度の根幹である戸

主、家族(44)、隠居、養子等の制度が規定されており、旧民法の妥協的性格を

強調する。

 「我ガ人事編ニハ戸主アリ、家族アリ、隠居アリ、養子アリ、庶子アリ、

離婚アリ、毫モ従来ノ慣習上ニ存スルモノヲ廃セス。唯其規定ニ至リ幾分

カ時勢ニ伴ヒテ更改セシモノナキニ非ズト雖ドモ、力メテ激変ヲ避ケント

欲シタル立法者ノ苦心ハ章々節々ニ現ハレタリ。」(45)と。

(43) ボアソナード、森順正訳『新法典駁議弁妄 全』(鈴木義宗発行・1872年)

8頁

(44) ここでいう「家族」とは家を構成するメンバーとしての家族であって、現

在のファミリーではない。

(45) 梅謙次郎「法典実施意見」『明法誌叢第3号』(1892年5月21日発兌)〔前

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追悼 明治期の文学に見える「家」意識―法学と文学との交錯― (富田 哲)

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 延期派が、旧民法は「家」制度を破壊し忠孝の精神にもとるものと強く非難

したのに対して、ボアソナードにしろ梅謙次郎にしろ、断行派は成立した旧民

法においても戸主等の「家」制度にもとづく規定がおかれているなどといっ

て、妥協的な態度を示し、強く反撃していない。この点では断行派の見解は不

徹底であるように思われる。民法を制定する以上は、近代的な婚姻思想に立脚

した民法を制定するべきであるという立場もありえたはずである。なぜなら近

代的な婚姻観は必ずしもキリスト教に依拠したものばかりではなかったからで

ある。自然法思想の立場から見た近代法における婚姻につき、フランス民法典

の起草委員の一人であるポルタリスは「婚姻は、キリスト教の成立前から存在

していたもので、すべての実定法に先立ち、そしてわれわれの存在の構造自体

から生れ出て来るものであるから、民事行為でもなければ、宗教行為でもな

く、一個の自然行為であって、それが立法者を惹きつけ、宗教がこれを聖別し

たものに過ぎない。」(46)と述べていた。ボアソナードや梅謙次郎がこれを知ら

ないはずはないのである。

 その後、日本においても、キリスト教にもとづかない近代的婚姻思想が提唱

されるに至る。これについては、誰もが福沢諭吉の著作を思い出すであろう。

婚姻に関する福沢の思想は、個人の尊厳と男女平等を基礎としたものであっ

た。中川善之助教授は、「福沢諭吉と身分法」という論文の中で、福沢諭吉の

『女大学評論』から離婚原因としての「悪疾」の箇所を引用している。

 「癩病の如き悪疾あれば去ると云ふ。無稽の甚だしきものなり。癩病は

伝染性にして神ならぬ身に時として犯さるゝこともある可し。固より本人

の罪に非ず。然るに婦人が不幸にして斯る悪疾に罹るの故を以て離縁とは

何事ぞ。夫にしても仮初にも人情あらば離縁は扨置き、厚く看護して仮令

掲、星野通編著『民法典論争資料集』239頁〕。

(46) ポルタリス、野田良之訳『民法典序説』(日本評論社・1947年)33頁。

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ひ全快に至らざるも、其軽快を祈るこそ人間の道なれ」と(47)。

 しかし、『女大学評論』が出版されたのは1899年であり、すでに「不如帰」

は国民新聞に掲載された後であり、民法典も施行された後であった。福沢諭吉

が近代的婚姻思想を著わしたのは、晩年のことであったのである。

 このようにみてくると、『不如帰』における、武男の母親の「家」に対する

意識は、延期派・穂積八束の思想と非常に類似しているのに対して、武男・浪

子の若手夫婦の婚姻観は断行派の思想とは大きく異なっていることに気がつ

く。武男・浪子の婚姻観は、作者である徳冨蘆花のキリスト教的な婚姻観の反

映ということができようが、こうした婚姻観がキリスト教に依拠しないでも、

近代的な婚姻観としてもう少し早く根付いていたとすれば、明治民法における

家族法・相続法の規定も異なるものになっていたのかもしれない。

 4.おわりに―法学と文学との交錯―

 本稿は、民法典の施行と同年(1898年)に出された徳冨蘆花の小説『不如

帰』において「家」意識がどのように扱われているか、またそれと同時期に

華々しく行われていた民法典論争において、「家」意識がどのようにとりあげ

られているかを検討してきた。いわゆる延期派の主張する「家」意識は、『不

如帰』における武男の母親のそれと非常に類似しているのであった。他方、断

行派の立場からは、ボアソナードも梅謙次郎もポルタリスが掲げていたような

自然法思想を正面から主張せずに、旧民法を守ることに終始していたのであ

る。そうして日本においては、「家」意識に関していえば、当初、近代的婚姻

観は蘆花のようなキリスト教の立場からとりあげられたのであり、非宗教的な

(47) 中川善之助「福沢諭吉と身分法」『家族法研究の諸問題』(勁草書房・1969

年)49頁。

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近代的婚姻観の提唱はかなり遅れたといわざるを得ない。

 民法典論争における延期派と断行派との対立構造(法学的な面)と『不如

帰』における武男の母親と武男・浪子との意識の対立構造(文学的な面)との

間には大きな相違がある。家族法の分野においては、法律が国民の意識と乖離

したものであれば、規定があっても浮き上がってしまう。明治期における自然

法思想はボアソナードをはじめとして、そうした弱点があったことを否定する

ことはできないように思われる。

 最後になりましたが、本稿において「法学と文学との交錯」というテーマを

とりあげたのは、同じ年齢であり、かつ28年近くにわたり同僚としてご一緒

させていただいた、辻みどり先生の専門(文学)と私の専門(法学)との架橋

ということからです。謹んでご冥福をお祈りいたします。