「仏教とは何かー仏教発展史」智慧とは、煩悩を消し、業...

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「仏教とは何かー仏教発展史」 クリニックだより 第113-1号 平成30年2月1日 高森内科クリニック (1)ブッダと仏教の成立 1,仏教という宗教の定義 「仏・法・僧」を三宝(三種の財宝)といい、この三宝こそが仏教の定義です。この 三つの要素がそろった宗教活動のことを仏教と呼びます。 「仏」(ブッダ)とは、釈迦のこと。釈迦という人物を自分たちの生きる拠り所として 信頼するということ。 「法」(ダンマ)とは釈迦が説いた「教え」のこと。釈迦の教えをベースとして自己 の生活を組み立てていくということです。 「僧」(サンガ)とは、四人以上の比丘もしくは比丘尼が集まって作る修行の組織の ことです。 「仏・法・僧」という三要素が仏教を構成するということは、釈迦を信頼し、釈迦の 教えに従って暮らすお坊さんたちが、修行組織を守りながら生きている状態を指します。 2,ブッダの生涯 ブッダは紀元前五、六世紀頃、ヒマラヤ山脈の南麓にあったカピラヴァットゥという 国の王子として生まれました。生まれたときにつけてもらった本名はゴータマ・シッダッ タと言います。ブッダというのは、シッダッタが出家をして悟りを開き、最高の宗教者 となった後の呼び名で、目覚めた人(覚醒した人)という意味です。「釈迦」とは彼が 生まれた一族シャーキャ族の漢語への音写に由来しています。「シャーキャ族の聖者 (ムニ)」、即ち釈迦牟尼と呼ばれるようになり、釈迦や釈尊はその略称・尊称です。 人生は苦であることを知ったゴータマ・シッダッタは王子の身分を捨て、王城を出て 修行の旅に出ます(四門出遊)。ひたすら難行苦行を重ねた末に、事の本質は肉体では なく精神にあり、精神を集中することにある、という真実に気づきます。 そこで、彼は、苦行をやめて体力を回復し、ネーランジャラー河という川で沐浴した のち、大きな樹の下に坐って瞑想に入ります。そして、そこで、襲い来る煩悩の悪魔 (欲望、妄執、睡魔、恐怖など)と闘ったのち、ついに悟りを開きます。その後さらに 何十日も瞑想を続けて自分の悟りを点検し、人生の苦しみを克服する術(すべ)を獲得 します。この時、ゴータマ・シッダッタは、ブッダすなわち「目覚めた人」となったの です。 悟った直後、ブッダはその悟りを伝えることの困難さを感じ、布教をためらいます。

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「仏教とは何かー仏教発展史」

気・心・体

クリニックだより 第1 1 3-1号

平成30年2月1日高森内科クリニック

(1)ブッダと仏教の成立

1,仏教という宗教の定義

 「仏・法・僧」を三宝(三種の財宝)といい、この三宝こそが仏教の定義です。この

三つの要素がそろった宗教活動のことを仏教と呼びます。

 「仏」(ブッダ)とは、釈迦のこと。釈迦という人物を自分たちの生きる拠り所として

信頼するということ。

 「法」(ダンマ)とは釈迦が説いた「教え」のこと。釈迦の教えをベースとして自己

の生活を組み立てていくということです。

 「僧」(サンガ)とは、四人以上の比丘もしくは比丘尼が集まって作る修行の組織の

ことです。

 「仏・法・僧」という三要素が仏教を構成するということは、釈迦を信頼し、釈迦の

教えに従って暮らすお坊さんたちが、修行組織を守りながら生きている状態を指します。

2,ブッダの生涯

 ブッダは紀元前五、六世紀頃、ヒマラヤ山脈の南麓にあったカピラヴァットゥという

国の王子として生まれました。生まれたときにつけてもらった本名はゴータマ・シッダッ

タと言います。ブッダというのは、シッダッタが出家をして悟りを開き、最高の宗教者

となった後の呼び名で、目覚めた人(覚醒した人)という意味です。「釈迦」とは彼が

生まれた一族シャーキャ族の漢語への音写に由来しています。「シャーキャ族の聖者

(ムニ)」、即ち釈迦牟尼と呼ばれるようになり、釈迦や釈尊はその略称・尊称です。

 人生は苦であることを知ったゴータマ・シッダッタは王子の身分を捨て、王城を出て

修行の旅に出ます(四門出遊)。ひたすら難行苦行を重ねた末に、事の本質は肉体では

なく精神にあり、精神を集中することにある、という真実に気づきます。

 そこで、彼は、苦行をやめて体力を回復し、ネーランジャラー河という川で沐浴した

のち、大きな樹の下に坐って瞑想に入ります。そして、そこで、襲い来る煩悩の悪魔

(欲望、妄執、睡魔、恐怖など)と闘ったのち、ついに悟りを開きます。その後さらに

何十日も瞑想を続けて自分の悟りを点検し、人生の苦しみを克服する術(すべ)を獲得

します。この時、ゴータマ・シッダッタは、ブッダすなわち「目覚めた人」となったの

です。

 悟った直後、ブッダはその悟りを伝えることの困難さを感じ、布教をためらいます。

しかし、梵天の懇請により布教を決意しました(梵天勧請)。

 そして、みずから獲得した「安穏への道」に確信を持ったブッダは、その道を他の

苦しんでいる人たちにも知ってもらいたいと考え、布教活動に出立します。最初にカー

シー国のベナレス近郊のサルナートに赴き、「初転法輪」と呼ばれる最初の説法を行い、

五人の人たちを弟子にしました。これが仏教という宗教集団の始まりです。

 その後、ブッダは「サンガ(僧団)」と呼ばれる組織を作り、たくさんの弟子たちと

暮らしながら、マガタ国の王舎城(ラージャグルハ)という街を中心に、約四十五年、

布教活動を続け、静かに息を引き取りました。

3,四門出遊

 仏教が何を目指す宗教であるかは、「四門出遊」の挿話に端的に示されており、この

挿話は仏教者にとって非常に重要な挿話であるからこそ、長く伝えられて来ました。

 仏教が解決しようとしている問題は、あくまで「この私」の生老病死の苦(四苦)と、

またそれの原因とも結果ともなり得る「この私」の存在性質を加えたもの(八苦)です。

これを明らかにした挿話が「四門出遊」であり、ブッダが出家の志を立てるその第一歩

が苦との出会いであったようです。その苦が、貧困とかの社会的苦しみではなく、老病

死というあらゆる人間に等しく降りかかる避けがたい根源的苦であり、ここには仏教が

立ち向かう課題が極めて明確に示されています。

4, 梵天勧請でブッダは変わった

  悟った後、ブッダは真理とは世の流れに逆らうものであることに気づいた。すなわ

ち、苦しみを生み出す世俗の価値観をひっくり返して、正反対の価値観の中で安穏の

境涯を手に入れようとするものである。したがって当然ながら、仏教の真理というもの

は、世の流れに逆らう非社会的な視点であることになります。

 かくしてブッダは「世間の流れ」に身を任せている衆生には、自分の悟った道理は

わかってもらえない、と考えて説法を断念しようとする。そこに、バラモン教の最高神

の一人、梵天ことブラフマンが現れて説教を懇請する。

 梵天勧請こそが、仏教における決定的瞬間であり、この時にブッダは変わった。この

ことによって仏教が生まれたのである。

5, ブッダは苦行ではなく瞑想によって悟りを得た

 苦行では悟ることができないと気づいた釈迦は瞑想、禅定に方法を変えた。しかし、

智慧に支えられた瞑想・禅定でないと悟ることができない。智慧とは、煩悩を消し、業

のパワーを無力化することに役立つ知力のことであり、自己の努力を涅槃へと方向づけ

る知的パワーが智慧の本質です。

 仏教本来の修行とは精神集中であり、これを瞑想という。瞑想はあくまで道具にすぎ

ない。瞑想という研ぎ澄ました精神状態を使って、智慧の力を引き起こし、自分の心を

改良していくのである。すなわち、瞑想によって智慧を生み出し、それによって自己の

心を改良していくことが、仏教修行の基本的な枠組みである。

 ところが、大乗仏教の時代となり、さらに密教にいたると、釈迦によって「悟りには

無益」として退けられたはずの苦行が復活してくるのである。

6, 智慧は思考の結果ではない 

 瞑想において決定的な実存の転換が起こることによって「悟り」がもたらされると

いう。思考の結果として悟りがもたらされたのではない。瞑想・禅定(集中・集中力)

の集中力がもたらすある種の変性意識は、「悟り」の前提になっているようである。

 推論や思考の進行の結果として徐々に到達される概念的分別知ではなく、瞬時に起こ

る決定的な実存のあり方の転換、即ち、いわゆる直覚知によって悟りがもたらされて

いるようである。

 ここで、智慧が大切な役割を果たすようになる。智慧の助けがないと瞑想・禅定に

おいて実存のあり方の転換(=悟り)が起きないと言われている。

7,よりどころは自分 

 ブッダが創始した仏教、すなわち「釈迦の仏教」の最大の特徴は、外の力に頼らず、

あくまでも自分の力で道を切り開くという点にあります。これは、それまでの宗教の

通念を覆す考え方でした。

 仏教が現れる以前、インド社会はバラモン教の教えに支配されていたのです。それは、

この世は超越的な存在(ブラフマン=梵)の上に成り立っており、自己(アートマン=

我)が幸福になりたかったら、その超越存在との一体化を目指せ、という考え方でした。

これを「梵我一如」と言います。

 しかし、ブッダはその考え方を採らず、「頼るものは自分だけ」という信念をもって、

みずからの苦悩を解決しようとしました。ブッダはバラモン教を全否定して登場して

きたのです。

(2)仏教の歴史

1,仏教伝播の概要

 ブッダは今から二千五百年くらい前にインドの北方、現在のネパール領内で生まれ、

その後亡くなるまで、北インドの狭い範囲だけで活動しました。ブッダの没後、その

教えはまず西の方に伝わり、海岸に到達すると海伝いに南下してスリランカに入り、

さらに海沿いに北上して東南アジアのタイ、ミャンマーなどに根付きました。これが

いわゆる「小乗仏教」と呼ばれる仏教で、ブッダの教えをかなり正確に残した教派です。

「ニカーヤ」を聖典として重視するのはこの人たちです。現在、当地の人々は自分たち

の仏教を「上座部仏教」と呼んでいます。

 一方、ブッダ入滅後の仏教は南だけでなく、陸伝いに北の方へも伝わったのですが、

シルクロードがまだ開通していなかったので、中国まで行き着くことはできず、長く

国境付近で足踏みすることになりました。

 その後、紀元前後頃にインドの仏教世界で、内容的にかなり変容した第二派として

「大乗仏教」が起こります。「釈迦の仏教」は「ブッダの教えに従いながら、自分で努力

して悟を開く」という自助努力の宗教であったのですが、これに対して「大乗仏教」は、

「超越的な救済者や、不思議な力の助けを借りて、自分自身が釈迦と同じブッダの位

まで行こう」と考えるのです。

 この大乗仏教がそれまで国境で足踏みしていたオリジナルの仏教と肩を並べて、折か

ら開通したシルクロードを伝わって中国に入ります。つまり中国へはオリジナルの仏教

と大乗仏教が平行して入っていきました。違った二種類の教えが「仏教」の名のもとに

一度に入ってきたので、中国の人たちは混乱するのですが、神秘性と寛容性を重視する

大乗仏教の方が民衆にアピールしたため、こちらの方が好まれ根付くことになりました。

日本は、その中国から直接に、一部は朝鮮半島を経由して、仏教を輸入したため大乗

仏教一色の国になったのです。

2, 仏教拡大の経過

①部派仏教

 ブッダが亡くなってから百~二百年後の紀元前三世紀中頃、インド亜大陸の統一を

果たしたマウリア朝第三代のアショーカ王が仏教に帰依したことが、仏教がインド全土

に広まった一番の理由であると考えられています。

 アショーカ王の時代に現れたと思われる「部派仏教」が仏教の多様性を生んだことが

仏教拡大の大きな原動力になりました。部派仏教とは、ブッダの教えの解釈の違いに

よって、仏教世界が一気に二十ほどのグループ(部派)に分かれていった状況を指しま

す。部派仏教のそれぞれの部派が、自分たちの正統性を主張しながらも、自分たち以外

の部派の存在も承認していたことが重要なことです。

 昔は、ブッダの教えに背くこととサンガ(僧団)の規則を破ることは「破僧」といい、

僧団から追放されていました。しかし、アショーカ王の時代に「破僧」の定義が変更

され、「仏教の教えの中にもいろんな解釈があってもいい。異なる考え方を持つ相手を

否定するのではなく、互いに仲間として認め合おう」という状況が生まれました。これ

によって部派仏教の時代が到来しました。

②大乗仏教

 部派仏教の動きが起こってから何百年か経った紀元前後の時代、つまり今から二千年

ほど前に、二十ほどの部派に分かれていた仏教世界の中で、次なる大変革が起こります。

それが大乗仏教です。

 大乗仏教が興った時代は、インドを統一したマウリア王朝が滅び、混乱期を迎えた頃

と重なります。特に北インドのガンダーラ周辺には、色々な異民族が流入してきて激し

い乱世状態に陥っていました。当然そういう環境では、呑気に出家生活を送ることは

難しくなってきます。人々は自分の身を守ることに精一杯でサンガや出家者を養う余裕

などなくなります。でも、出家者たちは悟るための修行を諦めきれません。それで、

出家をせずに在家のままで悟りに近づける方法はないものかと模索が始まりました。

 おそらく、悟りの可能性を出家者だけでなく、在家者に対しても広く開いていきたい

という志向性の高まりがあって、それが大乗仏教を生み出す原動力になったようです。

 そして、もう一つ、大乗仏教の発生を考える上で重要なポイントがあります。「釈迦

の仏教」では、この世で修行を積んで悟りを開いた者が到達する境地を「阿羅漢」と

言います。阿羅漢とは、ブッダの教えをすべて学び終えて、悟りを開いた人のことです。

悟ったと言っても、阿羅漢はステージ的にはブッダよりもずっと下位のレベルです。

「釈迦の仏教」では誰もが皆、この阿羅漢を目指すのであって、「ブッダになることを

目指す」などと言う人はいません。ブッダというのは、お釈迦様のような、特別の資質

を持ったある種の天才だけが到達可能な境地なのです。

 一方の大乗仏教では、悟りを開いた者の最終到達点は「ブッダになること」です。

「成仏」という発想がそれです。「釈迦の仏教」ではまったく想定されていなかった「誰

にでも開かれたブッダへの道」が、大乗仏教では可能になったというわけです。「釈迦

の仏教」では「現世にはブッダは一人しかいない」ととらえられていましたが、大乗

仏教ではこの世界には何人ものブッダが存在していて、努力すれば誰でもがその一人に

なれると考えました。

 こうして「日常の中で行う善行がブッダになるための大切な修行になる」とされる

ようになっていきました。やがて、「ブッダと出会い、それを崇めること、供養すること

がブッダになるための近道である」と考えるようになっていったのです。

3,インド仏教の衰退 

「変容を許した仏教は存在意義を失っていった」

 インド仏教消滅の真の理由は仏教自身の問題にあります。「釈迦の仏教」が大乗仏教

へと変化していったこと、そのことに尽きるようです。

 ブッダの時代には完全にヒンドゥー教とは別の教えであった仏教が、大乗仏教が成立

してから以降、次第にヒンドゥー教の教えに近づいていったことがインド仏教衰退の

最大の原因だということです。ほぼ同じ教えを説いた宗教が二つある意味はありません

から、いつのまにか仏教はまわりのヒンドゥー教に吸収されてしまったのです。

 ヒンドゥー教は、バラモン教から聖典や、社会制度としてのカースト制を受け継ぎ、

そこに土着の民間信仰が融合して生まれました。「輪廻や業」についての概念や、悟り

を開いて輪廻を止めるという考え方は、ヒンドゥー教も仏教も共通していますが、悟り

に至るための方法が違っています。ヒンドゥー教では、宇宙を貫く根本原理として「ブラ

フマン(梵)」というものがあり、私たち個人には個体原理として「アートマン(永遠

不滅の自我)」が存在していて、この二つが一体化した時に悟りに至ると説きました。

ヒンドゥー教のこのような教えを我々は「梵我一如」と呼んでいますが、これは仏教の

悟りの考え方とは明らかに異なっています。

 もともとの「釈迦の仏教」では、「自我という錯覚の存在を自力で打ち消し、煩悩を

断ちきることが悟りに至るための道」だったはずです。それに対してヒンドゥー教では、

自我(アートマン)を永遠不変のものととらえた点が大きな違いです。仏教が無我を

説いているのに対して、ヒンドゥー教は有我を認めているということです。

 ブッダは諸行無常を説いたように、永遠不変の自我であるアートマンの存在を認めて

いません。逆に自我を想定するからこそ、人間は苦しむことになると考え、「自我が

ある」という思いを消滅させる修行へと向かったのです。

 華厳経や密教が示した「この宇宙全体が一つのブッダ世界であり、そこに私たちは

生きている」という考え方は、宇宙の原理と自我が一致した「梵我一如」とほぼ同じ

ことを言っています。

 さらに、大乗の涅槃経では如来蔵思想が登場し、「もともと私たちの内部にブッダは

存在していて、私とブッダは常に一体である」という世界観を提示しています。「自己

の内部にブッダがいる」ととらえてしまうと、ヒンドゥー教の「梵我一如」と完全に

同じものになってしまいます。こうして「如来蔵思想」を持った時点で、インドの大乗

仏教は存在意義を失い、ヒンドゥー教と同化する方向に進んでいったのです。

(3)縁起とは何か

1, ブッダは何を悟ったのかー縁起の体得

 ブッダの悟りとは何かと考えれば、やはり「縁起の体得」が一番大事です。最初は

原始的な縁起説がいくつかあって、最終的に十二支縁起にまとめられたようです。十二支

縁起は釈迦のずっと後の時代にできた縁起説の完成体みたいのものです。そして、さら

にそれがアビダルマという精緻な哲学大系に受け継がれていったと考えられています。

「十二支縁起」  

 十二支の支は要素という意味ですから、十二の要素が連なった縁起と解釈できます。

2, 縁起とは何か

 「縁起をみる者は法(ダルマ)をみる。法をみる者は縁起をみる」。つまり、縁起と

いうのは、ダルマそのものといっても決して過言でないほど、仏教にとって本質的です。

 縁起を一言で説明すれば、「この世界の物事はすべて原因と結果の関係で動いている」

ということです。ただし本来的にはそれはわれわれ生き物に限定する縁起則であったと

思われます。物質世界をどう理解するかという問題は、仏教が本質的に関知するところ

ではなかったからです。

 日本語では「縁起」、漢語では「因縁生起」。

 仏教は、一切の事物を縁起的に生ずると捉えます。一定の条件によって生起し、その

条件が解除されれば消滅する。その一定の条件もまた他の条件によって「在ら」しめ

られていて、もし他の条件が変滅すれば、それに従って変滅する。だから、そこで認め

られるのは、存在というよりも仮構という語がふさわしい仮の存在性に過ぎない。自立

し独存し永続するものは何もなく、また万物に変滅しない固有の本質などない。一言で

いえば実体というものはない。私たちの目に「在る」ようにみえているものも実体と

して「在る」のではない、ということです。

 原始仏教や初期仏教においても、二つの縁起観があったようです。一つは文字通りの

因果としての縁起。これは、時間的に原因が先行し、後で結果が生じる通時的縁起(通時

的因果関係)。もう一つは相衣関係としての縁起。蘆束のように同時的にお互いを規定

しあうことで成り立つ、共時的相依関係。

3,人の苦しみにはすべて原因がある

 「この世はすべて苦しみである」とブッダは認識しました。ではそのような苦しみが

生まれる根本的な理由は何でしょうか。

 一番大切なことは、この世の森羅万象、あらゆる現象の背後には「因果」の法則が

作用しているという考えです。因果は「縁起」「因縁」とも言います。あらゆる出来事

は必ず何らかの原因によって起こるのであって、ものごとはすべて原因・結果の関係で

つながっているというのです。「因果応報」という考えです。

 「釈迦の仏教」は、不可思議なパワーでこの世を動かす絶対者の存在を認めません。

ですから、この世を動かす力は、因果則以外にはあり得ないということになります。

4, 修行と縁起

 縁起の実相は、普通の日常感覚だけでは見えてこない。われわれの日常感覚は、自動

的に好ましいもの欲してしまったり、また、物事を言語の枠組みの中で非常に固定的に

捉えてしまったりする。そこで、瞑想によってそのような思い込みを完全に解除して、

縁起の実相を見るということを行う。

 瞑想は、五感からのインプットを自分の意思の力でシャットアウトして、心が好き

勝手な方向に自動的に流れてしまうのを食い止めるという、非常に特殊な精神作用です。

それによって、普段は錯覚でものを見ている我々が、その錯覚を超えた形で、世界の

ありのままを見ることができるという働きです。

 普段我々が五感で捉えているデータは粗雑なので、五感を研ぎ澄ますことによって

もっと繊細なデータを取り入れて、それを分析的に見るのが瞑想です。知によって分析

するのではなく、感覚によって分析する。

 瞑想はヴィパッサナー瞑想(観)とサマタ瞑想(止)に大別され、前者は自分の感情

や感覚、企図の動きを極限までに細分し、無常の相、縁起の相を如実に観じる。後者

は、日常的な心の動揺を沈めて、一点に向かって集中力を高めていく瞑想です。

 初期仏教の瞑想のなかに、言語における言語表現と指示対象とを分離する観法があり

ます。これは生まれて以来刷り込まれてきた言語体制を解体する心の訓練です。そう

して得られた智慧を「名色分離智」と言います。

 ブッダは瞑想という包丁を使って、「縁起を正しく見て、苦を消して安楽を手に入れ

る」という素晴らしい料理を作った。そのときのレシピが仏教なのです。

 「縁起を正しく見る」とはなんであろうか? それは、最終的には自分の中にある

強い生存本能を見つめることでしょう。生存本能は我々に大きな力をもたらしてくれま

すが、同時に、すべての煩悩の大元でもあります。それに気付くことが重要なのです。

すなわち、根本煩悩、生存本能こそが無明なのです。その無明を自然に衰弱させていく

ようなところに、仏教の瞑想修行の一番の目的があります。

(4)輪廻と業

1,輪廻の苦しみ

 「四苦八苦の苦しみが、輪廻世界の中で永遠に続いていく」と苦悩が、ブッダを出家

修行へと駆り立てました。

 ブッダはこう考えました。「私たちは苦しみに満ちた輪廻世界を、誰からも助けてもら

えず、いつまでも巡り続けねばならない。その原因は私たちの心にある。私たちの心が

作り出す様々な悪心、悪行がエネルギー源となって輪廻が続くのだ。したがって、輪廻

を停止させ、永遠に変化しない絶対安穏な状態になるためには、私たちの心中にある

悪い要素(これを煩悩という)を完全に断ち切らねばならない。自分自身の努力によっ

て心の煩悩を断ちきること、これこそが一切皆苦のこの世界で真の幸福を手に入れる

道だ」。

 一切皆苦。すべては生老病死という「四苦」の上に成り立っている。一切皆苦の本質

は、私たちが生命体であるというところにあります。「四苦」とは、つまり生命体が生命

体であるゆえに必然的に抱え込む苦であり、したがって「けっしてそこから逃れられ

ない」ものであり、「誰にでも等しく襲いかかる」ものです。この「四苦」を上回る

「楽」というものはどこにもありません。

 ブッダの言う「真の安楽」とは、悟りを開いて「涅槃」に到達することを指します。

涅槃とは、自分の心の中の煩悩をすべて断ちきることであり、同時にその結果として、

二度とこの世に生まれ変わないことを意味します。

 ブッダは「生きることは苦しみである」ととらえたため、輪廻が続くということは、

永遠に苦しみが続くことを意味します。だからこそ、二度と生まれ変わらない世界に

入ることを最上の安楽と考えたのです。

 では輪廻を止めて涅槃に到達するための修行法を考えてみましょう。私たちを輪廻

させているのは「業」のエネルギーであり、そのエネルギーを作り出しているのが煩悩

なので、自力で煩悩を消し去ることが修行の基本となります。

2, 因果と業

 この世の法則性を、仏教では因果といいます。因果とは物事の原因と結果の法則の

ことです。因果応報という言葉は、仏教が誕生する前からインド世界に広く定着して

いた「業」や「輪廻」の思想を土台としてできあがりました。ここでブッダの時代から

仏教世界でも信じられていた「業」と「輪廻」の思想を説明します。

 業とは、私たちが何らかの意思をもって物事を行おうとする際に発生するパワーで

あり、悪いことをすれば悪業のパワーが、善いことをすれば善業のパワーが生まれます。

こうしてできた善い業、悪い業が、私たちを将来、楽なところや嫌なところへ引っ張っ

ていくのです。

 そこに関係してくるのが輪廻です。輪廻とはこの宇宙には複数の異なった生まれが

あり、生き物はそのいずれかの生まれを永遠に転生しつづけるという考え方です。その

生まれとは、すなわち「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」の五つです。これを「五道

輪廻」と言います。後の時代になると「阿修羅」を加えて「六道輪廻」と言われるよう

になりました。

 業にはいくつかの厳格な法則があります。いったん発生してしまった業は自然消滅

することはありません。必ず報いとしてなにがしかの結果をもたらします。

 もう一つ別の法則。業とその結果との関係は一回限りです。業の結果が原因となって、

またその次に別の結果が現れる、といった連鎖関係はありません。ある業が原因となっ

て結果が現れたら、それでその因果関係は終了になり、後に尾を引くことはありません。

 ブッダが考えた仏教の目的は、煩悩を消すことによって業のパワーを消して、輪廻を

止めることにあるのですが、それは業が連鎖しないという前提の上に成り立っているの

です。ブッダは、完全に業を滅し、もはや二度と輪廻することのない安らかな「涅槃」

に至ることを仏教の至上目的としたのです。

 では、そのためには、どうしたらよいのでしょう? ここからが、また特徴的なので

す。ブッダは輪廻を断ち切り、涅槃をめざすためには、「この世では良いことをも悪い

こともしてはいけない」と説いたのです。善い行いも、悪い行いも輪廻を助長するので、

それらはすべきでない行為となると考えたのです。

 つまり、業とは心の中で強い思いを持って行うと発生するものです。したがって、

自分を「善いことをする人間だ」と強く意識しながら行動することが業につながるわけ

です。ですから、大切なことは、自我意識を捨てて、平常な心で暮らすことが大切なの

です。ブッダが考えた「善いこと」とは、このような自我意識の鎧を捨てた姿での善行

なのです。けっして「善い行いをするな」と言っているのではありません。ブッダの

慈悲は、平常心のまま人を助けるところに大きな意味があるのです。

 このような視点に立っていたブッダは、業のパワーを消して輪廻を止めるための特別

な道として仏教という宗教を創りました。それは、世俗の善悪とは次元の違う、「一切

の業を作らず、ひたすら煩悩を消すことだけに打ち込む特別な生活スタイル」を推奨

する宗教です。それは、自分を変えて、心の苦しみを消すための病院です。

 「この世界の因果則は厳然たるものであって変えることはできない。だから、特別な

努力をして自分の心のあり方のほうを変えよう。それによって生きる苦しみに打ち勝っ

ていこう」と考えるのが「釈迦の仏教」なのです。

 これに対して大乗仏教ではどう考えたかというと、自分を変えるのではなく、逆に

世界の因果則の方を変えられるようにしたのです。つまり、出家して修行に身を捧げ

なくても、業の因果則から解放されるアイデアを考案したのです。そのポイントとなる

のが、「利他」と「廻向」という考え方です。これは大乗仏教の考え方のなかでもとり

わけ特徴的なもので、大変興味深い思想です。

3,輪廻思想

 ブッダは輪廻思想を信じていましたが、その輪廻というのも、なにか「絶対的な自己」

というものがあって、それが永遠の命をもって生まれ変わり死に変わりを繰り返す、と

いったものではけっしてありません。「不滅の霊魂」などというものはないのです。

すべては要素の集合体なのです。肉体も精神も、個々の構成要素が一種の複雑系のよう

な集合体を作り、それが一人ひとりの生命体を形作る。寿命が来て死ぬと、各要素は

バラバラに散っていきますが、次の集合体を作る結合エネルギーのようなものは別の

生へと引き継がれ、それが次の生まれ変わりを形成する、といったメカニズムです。

 インドの通念では輪廻自体はそもそも苦ではありません。あくまで苦というのは、

その輪廻が老病死という現象を宿命的に含みこんでいるということなのです。しかし、

仏教は、その老病死の際限のない繰り返しが輪廻の本質であると考えることで、輪廻=

苦と見るようになったのです。

(5)仏教の基本教義

1,「ダンマ=法=ブッダの説いた教法」とは

 ダンマとは、法則、真理、存在の構成要素、などと捉えられる。ブッダの説いた教法

の最も基本的な要素は、「縁起」「一切皆苦」「諸法無我」「諸行無常」の四つだと言われ

ています。

2,苦悩のメカニズム

 大樹の下でひたすら「瞑想」した果ての澄み切った精神の中で、ブッダはその方法を

見つけ出したのです。強烈な精神集中の結果、ブッダが悟ったこの世の真理を「四諦」

と言います。人間の苦悩が生まれ出るプロセスを分析し、それにどのように対処すべき

かを説いた「仏教の基本方針」です。ベナレスでの「初転法輪」の際、弟子たちに説い

たのが四諦でした。

 ブッダによれば、この世の真理には「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの局面

があります。

「苦諦」とは、この世はひたすら苦しみであるという「一切皆苦」の真理。

「集諦」とは、その苦しみを生み出す原因が心の中の煩悩だと知ること。

「滅諦」とは、その煩悩を消滅させることで苦が消えるという真理。

「道諦」とは、煩悩を消滅させるための具体的な八つの道を実践することです。

 具体的な八つの道を、仏教では「八正道」と言い、「正見」「正思惟」「正語」「正業

(正しい行い)」「正命(正しい生活)」「正精進(正しい努力)」「正念(正しい自覚)」

「正定(正しい瞑想)」です。

 正しい生活を送れと言っているのですが、「正しい」という意味が重要です。それは、

自分中心の誤った見解を捨て、この世の在りようを客観的に合理的に見るという意味を

含んでいます。そのような姿勢で日々の行動を律していけば、煩悩を消すことができる

と言っているのです。

3, 無常とは何か

 仏教の基本教理として「縁起」「苦」「無我」「無常」があり、これらの四つの法(ダ

ルマ)が互いに交叉し、連関し、共鳴しています。すなわち、諸行は縁起しているから

無常なのであり、無常だから苦が生じるのであり、無我であることを認めれば無常を

受け止められる。無常を中心に考察すれば四者はこのような関係にあります。

 無常とは、「すべては移ろう」ということです。万物は時々刻々と変化していき、永遠

不滅なものはどこにもない。それがこの世界の真実だということです。この世のあら

ゆる物事は因果関係の網の目でつながっていて、互いに影響を及ぼし合いながら不断に

変化し続けています。私も、そして私を取り囲むまわりの世界も,すべては因果の網で

つながった無常転変の存在に過ぎないのです。

 諸事物は一瞬の静止も間断も滞留もなしに流動し続けています。ところがその変化の

相は、通常の知覚によっては感知できません。さらにその上に言語の網が覆い被さり、

変滅し続ける事物をあたかも固定的、個別な実体に見せかけているので、その分、私たち

の苦も深くなるわけです。

4, 無我とは何か

 いま私が実在している、自分が「在る」という観念が「我見」です。

 いま「在る」限りは、ずっと、この先も私は永続する違いない、永遠に存在しなくて

は不条理だ、という観念が「我執」です。

 この「我見」と「我執という執着」から渇愛が生じ、渇愛によって輪廻が起動される、

ということが伝承されている教義です。したがって解脱するには有我の見を滅ぼし、

我への執着を断ずる必要がある。

 仏教が言う「無我である私」という状況は、「複雑系」のイメージで理解されます。

複雑系というのは、本質となるコアはないのだけれど、様々な要素の集合体として、

一つの体系が出来上がっている。しかも、その要素の間に特別な接続関係が成り立って

いるために、単なる集合体ではなくて、特定の機能を持つ集合体として作用するわけ

です。私たちの存在が、まさに仏教でいう五蘊という構成要素の集合体であって、それ

が機能をもって存在しているということです。もちろん、その五蘊の関係性の中に、

「私という独立した実体存在がある」という感覚を生じさせる機能も含まれているわけ

です。

 その集合体としての私が、機能として思惟とか、あるいは物事を実感するという作用

を行うわけですけれども、それはあくまで作用に過ぎないのであって、その作用を一元

的にコントロールしている中心存在としての我はないということである。

 我々人間も、頭髪、体毛、爪、歯、皮、肉・・・など様々な物質的要素と、さらに

精神をかたち作る様々な心的要素が集まって「私」という仮の存在が生み出されている

だけだということです。それらがバラバラに分解されたなら、「私」という存在はその

瞬間に消滅する。それが「私」というものの正体だとブッダは考えたのです。

5,「有身見」という根本煩悩

 無我の教えが、なぜ仏教において決定的に重要なのであろうか。

 仏教は哲学や心理学でもなく、まして道徳哲学や倫理学などとは基本的に無縁です。

神経科学や脳科学とは目的が異なります。仏教の課題はもっと切迫したもので、無我を

説くのも、それなしには苦を解除できないという確信に裏付けられている。

 死への苦しみ、死の恐怖をはじめとする様々な苦が、我見、我執によって、すなわち

「私はずっと生存しなければならない」「永遠に存在していたい」という欲望によって、

発生しているからです。断言的に言えば、存在しなくなることへの恐れは、そもそも

現在も存在などしていないと真実を悟ることで消えます。

 さらに言えば、自分が実在しないなら、自分の所有物もまた存在しなくなるし、自分

の回りに広がっている自分中心の世界も消える。そうやって、次々と実在を消すことに

よって、自動的に多くの苦も消えていく、ということが仏教の基本的な考え方です。

 むしろ、大切なことは、自分に実体がないという思いよりも、その実体のない自分と

いうものを設定し、それを中心にして自分に都合の良い世界をというものを生み出して

いるところにあるのです。

 自分の所有物があるという錯誤は「我所見」と呼ばれ、「我見」とセットで否定され

ることが多い。有我論とほとんど同一の煩悩で「有身見」というものがあります。これ

は、色・受・想・行・識、つまり五蘊を自己と錯視することです。「有身見」の中に

「身」という語がありますが、身体のことだけではなく「心」も含まれます。

 「有身見」は煩悩のなかでも一番根底にある根本煩悩の一つです。やはり「私という

実在がここにいるではないか」という思いがどうしても残ってしまう。「有身見」とは、

諸行無常の我が身を、いつまでも変わることなく存続する恒常的存在であると錯覚する

ことです。したがって、そこに老病死が襲いかかってくれば、とてつもない苦がうまれ

ます。これは非常に本質的な苦しみです。

 無我を会得するのは難しいけれど、仏教ではとても重要なことです。ブッダもあらゆる

ところで、その煩悩に言及し、無我の会得の重要性を説いています。すなわち、我執、

我所執が一番の根本的な煩悩になるのだと。

6,煩悩の根源「無明」

 煩悩はいろいろありますが、ブッダはその中でも一番の大元になる煩悩は「無明」

だと考えました。「明」という単語は智慧という意味なので、「無明」とは「その智慧が

ない」ということ、つまり「愚かさ」を意味します。「愚かさこそが諸悪の根源」「煩悩

の親分」というわけです。「愚かさ」とは、ものごとを正しく、合理的に考える力が欠如

しているという本質的な暗愚を指します。

 無明は根本煩悩であり、根源的無智でもあります。世界が縁起的に生成と消滅を繰り

返しているという事実を知らない、あるいは、認めない無智です。一時も留まること

なく生滅が繰り返されているが、人間は訓練を積まないとその変化の相を認識できない

のです。

 無明を原因として苦しみが起こってくるメカニズムを説明した仏教特有の理法に「十二

縁起」というのがあります。まず、苦が生じる根本のスタート地点として「無明」が

あり、以下「行」→「識」→「明色」→「六処」→「触」→「受」→「愛」→「取」→

「有」→「生」→「老死」の順で展開していきます。

「すべてはうつろう」 

 煩悩の大本である無明が、具体的にはどのような愚かさあるのかを理解することは

「釈迦の仏教」の要となるポイントです。

 無明というのは「智慧(明)」が無いことです。ではその、智慧がないということは

どういうことかというと、「この世で起こっているものごとを正しくとらえる力がない」

ということです。あるいは、「この世で起こっているものごとを自分の都合でねじ曲げ

てとらえている」ということです。これを逆に言うと、現実をありのままに正しく認識

できるならば、それは「明」なのです。

 では、この世で起こっているものごとの正しい姿とは何か。それはすなわち、「すべて

うつろう」ということです。すべてのものは時々刻々と変化するものであり、永遠不滅

なものなど、どこにもない。これを「諸行無常」と言います。

「自分はどこにもない」

 執著はなぜ生まれるのでしょうか?

 「無明」とは、この世のものはすべてうつろうという真理、すなわち「諸行無常」を

理解していないことが原因になっている。

 また、それに加えて、「無明」の原因になっているものに、人間の根本的愚かさがあり

ます。それは、自分、すなわち「自我」というものに対する誤った認識です。

 われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、そのまわりに自分の所有

する縄張りのようなものを同心円上に形作っていきます。そしてその一番外側に、世間

と呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の主ですから、手に入っていない

ものがあったら手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やしていこうとします。

これが執著です。

 すなわち、執著とは、この「自分中心」の世界観から発生するのです。自分中心の

考え方に立つ限り、欲望は消えませんし、きりがありません。

 しかし、ここでその中心人物たる自分を、「それは実在しない仮想の存在である」と

して、その絶対存在性を否定してしまうと、まわりある所有世界も自然に消えます。

自分というのは、本質のない仮想存在なのですから、当然、それを取り巻く世界も仮想

だということになり、執著も自ずと消えるわけです。これを表す言葉が、「諸法無我」

であります。

 この世の一切の事物は自分のものでないと自覚して、自我の虚しい主張と縁を切った

時、執著との縁も切れ、初めて苦しみのない状態を達成できるのです。

 「この世のすべてのものはうつろう」=「諸行無常」。

 「この世に『私』という絶対的存在など、どこにもない」=「諸法無我」。

 この二つが、世界を正しく見るための羅針盤です。

 この二種類の真理を念頭に置きながら物事を考えることで、無明の束縛を断ち切り、

世の在りようをあるがままに正しく見られるようになります。それがひいては、誤った

世界観から生まれ出る様々な苦しみを消し去ってくれるのです。

 行というのは、「原因と結果の因果関係によってこの世に生まれ出るすべてのもの」

という意味です。行は別名「有為」とも言います。つまり、「諸行無常」とは、「因果則

によってこの世に現れ出るすべての事物は無常である」と言っているのです。

 これに対して法というのは、行(=有為)よりも一層広い概念で、「因果則によって

この世に現れ出るすべてのものと、そして、因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」

を合わせて呼ぶ名称です。このような不変不滅の状態は、有為の反対ですから「無為」

と呼ばれます。したがって法という語は、有為と無為の両方を含んでいます。

 「諸行無常」とは、「有為法はすべて無常である」という主張です。無為法は無常で

はありません。ですから「諸法無常」とは言えません。これに対して「諸法無我」と

言うことは問題ありません。有為法をみても、無為法をみても、どこにも「自分」と

いう絶対的存在などないからです。 

(6)空と輪廻

1, 空

 「釈迦の仏教」で用いられた「空」の例としては、『スッタニパータ』に「ここに自分

というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」というもの

があります。これらの「空」は、「諸行無常」が語る、「すべてのものごとに永遠の実体

はない」という真理を別の言い方で表現したような言葉であり、大変重要な概念です。

しかし、それも、この世の正しい在りようを見るためのさまざまな視点の一つにすぎない

のであって、「空」だけがなにか特別重要な原理として別格扱いされているわけではあり

ません。

 それが、後の大乗仏教になると、「空」は俄然存在感が増してきて、教えの主役になっ

てきます。

 「釈迦の仏教」では、この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果関係にもと

づいて動きます。自分がなしたことの結果は必ず自分に帰ってきます。因果関係を無視

してどんなことでもしてくれる超越的な絶対者など存在せず、人は自分の行為に対して

100パーセントその責任を負わなければならないのです。

 ところが、大乗仏教においては、人がすくわれるかどうかは、必ずしも原因と結果の

法則によりません。その因果則を超えて、我々を不思議なパワーで仏の境地へと導いて

くれる、特別な何かがあると考えるからです。「特別な何か」というのは、「別の世界に

いる仏」であったり「一般の因果則を超えたハイパー因果関係」であったり、様々な

かたちが考案されましたが、いずれにしろ、「釈迦の仏教」が言う因果則では説明でき

ない、神秘的な作用を想定しているのです。

 しかしながら、この理論を根拠づけるためには、それまでの因果則をどこかで崩さね

ばなりません。そこで大乗仏教では、「私たちが普通に想定しているものごとの関係性

は単なる錯覚であり、その背後には、凡人には理解困難な、より高次な世界がある」と

主張するようになります。これが「世界の本質は、きわめて深遠にして理解の難しい

原理に基づいている」という主張になり、「空」の思想を形成していくのです。

2, 龍樹の「空」の理論

 中観派の龍樹の「空」の理論は極めて重要なものです。龍樹は、ブッダの死後七百年

余り後、二世紀後半から三世紀前半にかけてインドで活躍した、大乗仏教における最初

にして最大の哲学者です。その著書「中論」によって創始された中観派は、唯識派と

並び、その後の大乗仏教の流れを決定的に変えました。チベット仏教・密教系はもと

より、禅宗や日本の浄土系などにも多大な影響を及ぼしています。

 中観派の特徴は、「般若経」で強調された「空」の概念をさらに徹底させ、あらゆる

実体(自性)を否定し、すべての存在は無自性であると説いたことです。

 また、龍樹は全ての存在は言語によって捉えられる限り相依的であり、実体はないと

考えました。このことは「言語による問題」の設定でもあります。あるいは諸事物の

実体視という「言語の罠」を回避するための方法の確立です。「生死即涅槃」とか、

「煩悩即菩提」とかは、言語が作り出した分別の虚妄、概念設定の虚妄を破壊するため

に導入された道具立てに過ぎません。概念設定こそが諸事物の実体視を促進し、確定

する決め手である以上、私たちは煩悩を断じ、無明を滅尽するために概念設定の外に

でるしかない。しかし言語を離れて「思考」するのはなんと困難であることか! 概念

設定を止滅するのはなんと困難なことであることか! ブッダが梵天勧請に際し、自分

の得た真理は、深遠にして微妙であり、しかも思考の領域ではないので、衆生の理解は

届かない、として布教を謝絶した意味はこのようなものであったと思われます。

3, 利他と廻向

 「釈迦の仏教」では、悟りに近づくためにはまず自分の煩悩を消す修行が必要と考え

ますが、大乗仏教では最初から人のために身を捧げることを奨励します。そうした「善

行」を日常の中で積んでいけば、出家して仏道修行を行わなくても悟りに近づいていけ

るとしたのです。他者を救った結果として最終的に自分が救われるのです。

 大乗仏教では、この世で自分がなした善行のエネルギーは、そのまま輪廻の中で使っ

てしまうのでなく、ぐっとため込んでおいて別の方へ振り向けることが可能だと考え

ました。「別の方」というのは悟りを開き、ブッダとなって、二度と生まれ変わること

のない涅槃に入ることです。俗世で行う善行がそのままブッダになるためのエネルギー

に使えるのです。このように、本来なら絶対に転換不能な原因と結果の関係にひねりを

入れて、望む方向に結果を転向させることを廻向といいます。

 これは超絶的な因果則転換ですが、なぜそのようなことができたのかといえば、これ

もまた「空」という概念によって、それまでの世界のあり方の決まり事をまぼろしに

してしまったからです。それらをみな、「空」としてリセットしたからこそ、このよう

な逆転が可能になったのです。

 「釈迦の仏教」の利他とは、「まず自分で自分を救う道を確立し、それが間違いなく

完成したと確信できたら、はじめてその道を他の人にも利用してもらう」というもので

す。

4, 自己責任と廻向

「はたして無我において自己責任は成り立つのか?」

 社会的な意味での個人の責任などというものは、仏教は一切考えません。仏教は、

社会のあり方をあれこれ考えるために存在しているのではなく、あくまで個人の苦を

解消するためだけに存在する。

 哲学的には、あくまで仏教の世界は自業自得であり、自らの行いによって生じた業は

自らが背負わなければなりませんから、業をつくる者には、悟りが遠のくという苦果が

あるということです。

 ところが、大乗仏教ではブッダの考えた自業自得という業の法則性が、明らかに改変

されました。そこには、自己責任制の方向をまったく変えてしまう、「廻向」という

新しい概念が導入されているのです。この廻向の導入こそが、大乗仏教の根源でありま

す。

「大乗仏教の本質は空であり、それは廻向を可能にする新しい思想の導入である」

 「自分のなした善行を他にも差し向け、自他ともに悟りを目指す」という廻向の考え

方から、利他を強調する大乗仏教、そして阿弥陀頼みの他力本願の思想などが生まれて

くる。その裏で、ブッダの考えた業の自己責任制はどんどん相対化され、変質してしまっ

たわけです。

 

 現代の大乗仏教には、理想社会をつくるために社会にコミットしようとする動きも

あるようですが、それは仏教の目的を誤解しています。仏教は、理想社会をつくるので

はなく、どんな理想社会が実現したとしても必ず残る「苦」というものを説くものなの

です。「仏教にもとづく理想社会」などと言うと、世間の人々に仏教的な生き方を強制

することになりかねません。仏教は社会の中でどうにもならなくなった人を引き受ける

「病院」なのであって、それを超えて仏教的な生き方を社会に進めたりすることは絶対

にいけないことです。「皆さんも出家しましょう。みんなで無我の境地で生きましょう」

などと言えば、社会を破壊することになりかねません。

 「釈迦の仏教」が自己鍛錬によって煩悩を消そうと考えたのに対し、大乗仏教は外部

に私たちを助けてくれる超越者や、あるいは不思議なパワーが存在すると想定して、

自分の力ではなく「外部の力」を救いの拠り所に考えました。

(7)大乗仏教

1, 大乗仏教の最初の経典 

 大乗経典として「般若経」「法華経」「華厳経」が重要です。

①般若経

 大乗経典の中では般若経が最も古いもので、おそらく紀元前後と考えられています。

般若経は大乗仏教系の様々な宗派で広くとなえられていますが、禅宗(曹洞宗、臨済宗、

黄檗宗など)と密教系の宗派(天台宗、真言宗など)が、特に般若経を大切に扱って

います。逆に、浄土真宗ではとなえません。日蓮宗・法華宗も法華経だけを基本の教義

としているので、般若経をとなえることはほとんどないようです。

 まず、般若経の大きな特徴は、「すべての人は過去においてすでにブッダと会って

いて、誓いを立てている」と考える点にあります。大乗仏教では自分がブッダになろう

と思ったら、まずはとにかくブッダに会って「私もあなたのようなブッダになるように

努力します」という誓いを立てなくてはなりません。そして、そのブッダが「お前も

将来、きっとブッダになるであろう」と、認めてくれてはじめて、正式なブッダ候補生

となり、修行の道に進むことが可能となります。

 このようなブッダ候補生のことを「菩薩」と呼びますが、般若経では「私たちはすで

にブッダと出会って誓いを立てているのだから、菩薩である」と考えるのです。

 また、般若経は、悟るための方法を「厳しい出家修行」から「日常生活での善行」へ

と変えてしまいました。それは、本来は輪廻を繰り返すことしか役立たないはずの業の

エネルギーを、悟りを開いてブッダになり涅槃を実現するために転用することができる

と、とらえ直した点にあります。

 ブッダが言う「空」とは、私たちが「そこに存在する」と信じていたものは、「私」

を含めてじつは実体はなく、確実に存在するのは構成要素だけである、ということを言っ

てます。「石や私は、人間があると思い込んでいるだけで、実体はない(諸法無我)」と

考えたところまでは「釈迦の仏教」も般若経と同じです。しかし、般若経では、ブッダ

が実在すると考えた「五蘊」などの、世界を構成している基本要素すらも実在しないと

捉えたのです。

 また、ブッダはこの世の本質を「諸行無常」、つまり「すべてのものはうつりゆく」

と見抜いていましたが、般若経ではすべての基本的存在要素には、そもそも実体がない

のだから、すべて錯覚であると考えて、「諸行無常」さえも否定しました。

 「お経を讃えよ」と般若経が言った理由は、般若経では「お経」そのものをブッダと

捉えたからです。つまり、お経を讃える行為が、ブッダ自身を崇め、供養していること

になるのです。

②法華経 

 法華経は、経典自身が持つパワーを絶対的なまでの、理屈を超えた不可思議なものと

位置づけたことで、「空」の概念による理屈づけを跳び越えてしまったのです。したがっ

て、法華経はもはや「ブッダ信仰」ではなく、お経そのものを信じる「法華経信仰」に

変容してしまっています。

③浄土教

 「阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土へ往生する」ことを説く教えのことです。阿弥陀

様のパワーを信じることが基本となるため「阿弥陀信仰」と呼ばれています。

 日本では浄土教系の宗派と言えば、法然の説いた浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の

時宗が有名ですが、良忍の融通念仏宗や天台宗も、その教義の中に浄土信仰を取り入れ

ています。代表的な経典には「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三つがあり、日本

ではこれらをまとめて「浄土三部経」と呼んでいます。

 大乗仏教の時代になると「お釈迦様だけが唯一のブッダである」という考え方は薄れ

てゆき、阿弥陀仏以外にも大日、薬師、阿閦など、様々なブッダが登場してきます。

パラレルワールドの概念が作られ「世界は無数存在する」という話になったことで、

ブッダの数は増殖していったのです。

④華厳経

 華厳経は法華経と双璧をなす重要な大乗経典であります。紀元三世紀頃中央アジアで

作られたとされており、密教は華厳経と深いつながりがあります。

 「この世界の外側に別の世界が存在し、そこにブッダがいる」と考えた点は浄土教と

共通しているのですが、浄土教では「私たちは死んだ後にブッダに出会う」と説いたの

に対し、「華厳経」は「死ななくても、この世界で生きたままブッダに会うことができ

る」と説いたのです。

 宇宙に存在する無限のブッダがお互いにつながっていると仮定すると、この世界に

現れた一人のブッダを供養しただけで無限のブッダを供養したことなります。そういう

意味では、華厳経はこれまでのどのお経よりも、成仏のスピードアップ化がはかられる

ようになった「最強のお経」と言えるのです。

 華厳経では毘盧遮那仏は、宇宙の真理、宇宙そのものを意味する「宇宙仏」と定義

されています。宇宙全体に遍満する超越的パワーとしてのブッダです。一方、我々が

知っている人間の形をした釈迦というブッダは、その「宇宙仏」からメッセンジャーと

してこの世界に送り込まれた3D映像の「人間仏」と思われます。そして、お釈迦様も

毘盧遮那仏の映像としての現れであるという意味からすると、「同じ仏」であると捉え

ても間違いとは言えないのです。

2, 華厳経と結びついて教義を確立した密教

 密教で最重要仏とされる大日如来は毘盧遮那仏と同じ仏様です。インドで密教が誕生

したのは四~五世紀頃。当時のインドではヒンドゥー教の勢力が強まり、仏教は次第に

衰退をはじめていました。その中で生き残る方法を考えた大乗仏教が、ヒンドゥー教や

バラモン教の呪術的な要素を取り入れて生まれたのが密教の起源と言われています。

最初は教義も整理されておらず、主要経典ができて体系化されたのは七世紀頃です。

 真言宗では、密教は「顕教」と対比される教えであると説いています。顕教とは、

ブッダが秘密にすることなくすべての衆生に向かって説いた教えのことです。一方の

密教とは、大日如来が秘密のものとして修行の進んだ人だけに説いた教えのことを指し

ます。一言で言えば「教えを一般には公開しない」というのが密教最大の特徴です。

 根本経典は「大日経」と「金剛頂経」の二つであり、唐の僧侶恵果がこの二つの経典

を統合して真言密教のベースを作り、それを受け継いで空海が開いたのが真言宗です。

 密教における修行の最終目的は「即身成仏」です。すなわち「生きたまま仏の境地に

至る」ことです。真言密教ではそのためには「三密加持の行」が基本になると説いて

います。三密とは身密(印を手で結び)・口密(真言を唱え)・意(宇宙の真理を心に

思い描く)の三つの修行を指しますが、それは、「今ある私が仏である」ということに

気づき、実感するための神秘的な特殊儀礼です。すでにブッダのいる宇宙の中に私たち

は生きているのだから、それに気づけば誰もがブッダになれる、というのが密教の悟り

についての考え方です。

3, 禅とは信仰ではなく修行である

 禅はインドではなく中国発祥の思想です。道教などをベースにした出家者コミュニティ

がまず中国に存在し、それが「釈迦の仏教」の修行の一つである「禅定」(瞑想によって

心を集中する修行)と結びついて、仏教集団となっていったのが起源とされています。

開祖は、紀元五世紀後半に南インドから中国に来たと言い伝えられている達磨です。 

 禅宗には特定の根本経典がなく、教えより生活スタイル(実践)がベースとなって

いる点で、他の大乗宗派とはかなり趣を異にしています。

 「禅とは信仰ではなく、修行である」とも言われるように、禅では基本的には書かれ

た法(教え)や、死んだ後の生まれ変わりといったことはさほど重視しません。

 禅では、大乗「涅槃経」と同様に「私たちの内側には仏性があり、それに気づくこと

が悟りへの道である」ととらえ、仏性に気づくための修行方法として「坐禅修行」を

重視しています。自分の中の仏性に気づくとは「主観と客観、自己と世界が分かれる

以前の存在そのものに立ち戻る」ことを意味します。そのためには思考を内側に向かわ

せて雑念を払い、本来の自己を見つめ直すことが基本となります。