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仏教は、出世間の法であると言われる。「世間(loka)」とは 西

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Page 1: の 教 お 世 間 ま 象 毀 際 は い 出 界 た を 壊 仏教は …特 集 「 仏 教 と キ リ ス ト 教 」 3 〉 出 世 間 性 と 社 会 倫 理 一 出 世 間

〈特集「仏教とキリスト教」3

出世間性と社会倫理

一 

仏教は、出世間の法であると言われる。「世間(loka)」とは

「毀壊す

べき

もの」を意味し、対治して

滅尽

すべき有為

有漏

の現

象を指す。「出世間」と

は、有漏

の現象

を断

滅す

ることで

あり、

また有漏

の現象を断滅す

る無漏解

脱の法を

言う。そこ

から、「世

間」とは迷いの世界で

あり、「出世間」

とは真実

の世界、

悟りの

世界だという一般的な用語法も出て

くる。

出世開法である仏教の脱世俗的超世俗的な性格は、近代日本に

おいてことさら評判の悪いものであ

った。明治期

にお

いて日本仏

教は新たな近代宗教として脱皮を余儀なくされたのであるが、そ

の際、仏教者たちはこの脱世俗的性格を否定すること

に或いは乗

り越えることに力を尽くしたと言

ってよい。明治政府が西欧諸国

氣 多 雅 子

に伍して近代

国家

として立ち行

くために国民

に求

めたのは、まず

優秀な近代産

業人

たることであった。出世間的、脱世俗的という

こと

は、世

俗の社会生活

に究極的意義を認めないと

いうことで

り、この価値観は在家信徒

において近代

の産業社会

の中で競争し

勝利

者となろうとする意

欲を削ぐものと見なされた。ましてや生

産活

動に参加しな

い僧侶は、少なくとも初期の明治政府にと

って

無為

徒食の輩でし

かなかった。そのような近視眼的な有用性の視

点からだけでなく、近代

社会の特質をなす世俗性とも深く呼応し

て、仏教が世俗社会に対

し積極的な関わりをもつものであること

を喧伝しなければならないという考え方が、仏教者の中に深く根

を下

ろしてきたように思われる。

この考え方の背後には、仏教

は現実の社会の諸問題に対して直

接に寄与すべきだという社会の側

からの強い圧力があった。近代

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会は現実の社会の諸問題に寄与することの中

にしか、宗教の意

を見出すこ

とができないからである。宗教は社会の為にあるの

ある。この圧力

の下

で、多くの真摯な仏教者

たちは仏教思想の

に現代社会

の諸問題

への解決の手がかり

を懸命

に探し求めたと

言え

る。

そして

、仏

教者がこのような考え方をも

ち、このような

努力を行

ってき

た背景

には、キリスト教

の旺盛

な社会

的活動

が意

されて

いること

は明ら

かである。

明治期

にお

いて

、キリスト教

は一方で西欧人

の宗教として

日本

の伝統的精神文化を保守し

よう

とする多くの日本人

に反発と警戒を呼び起こしながら、他方で西

欧の進んだ学術文化、論理的で構築力のある思想や制度と結び

いて、近代的合理的な宗教のイ

メージを獲得したと言

ってよい。

そして、現実の社会の人々の生活に深い関心をもち、社会的な問

に積

極的に発言し、社会の霊的かつ精神的な指導者たろうとす

るキリスト教団の姿勢は、仏教者にと

って近代

宗教の一つのモデ

ルとな

ったと考えられる。

聖書の神は裁く神であるとよく言われるが、その裁きは個人が

義であるか否

かに向けられると同時に、社会が正

しい在り方をし

いるか否かにも向け

られる。キリスト教は社

会との関係に関し

て歴史

的に微

妙な屈

折を内

包しているにしても

、社会的規範の超

会的基

盤とし

ての意義を長い間担

ってき

たので

あり

、その役割

を具体

的に支えてき

たのは道徳と宗

教と

は不可分であ

るという考

え方で

あった。

トマス・アクィナスは、宗教

(religio)

徳の

全体にと

っての基礎であり、その意味で宗教は道徳の根本に属す

ると

述べて

いるが。宗教の否

定は社会道徳の否定を直ちに意味す

るという考え

方は西欧社会の精神的伝統とな

って

いると言うこと

ができよ

う。

かし

、仏教の伝統において

は、宗教と道徳との関係

は別の様

相を取

ってき

たことがうかがえ

る。仏教の核心をなす教え

は縁起。

無我、四諦

八正

道という解脱と涅槃の思想で

あり

、世俗倫理の教

は付随的

に位置

づけら

れると

いうのが、仏教

につ

いての一般的

な理解であろう。但しそ

の一方で、ア

ショーカ王が仏教に深く帰

依して「法」を現実の政治の内に実現しようとしたという事例も

あることから、仏教に政治や世

俗倫理の指導理念を求めることが

でき

るとする考え

方も可能で

あろう。しかし、中村元

氏はこう述

べて

いる。「それ(ア

ショーカ王

の倫理思想)

は多分

に仏教

に由

来して

いるが、しかしインド教徒や

ジャイナ教徒なども当然承認

せね

ばなら

ぬ性質

のものである。かれの説く倫理は、諸宗教のそ

れと大体

において

一致する。そうしてそれはどこまで

も世

俗人と

して

の倫

理で

ある。そこには特定の宗教の立場が認められない。

なるほど

かれの思想の根本は仏教思想であると言って

もよ

いであ

ろう。し

かしア

ショーカに影響を及ぼした原

始仏教の思

想は特殊

な宗教として

の色彩をもたぬも

のである。かれは苦も

無常も無我

も説

かな

かったし

、四

諦・八正道・十二因縁

というよ

うな特殊な

教理体系

には少しも言及

して

いない。……

かれの所説

は。

バラモ

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ソ教。殊に叙事詩やジャイ

ナ教の倫

理思

想と相当

に良く一致す

のみならず、驚くべき

こと

には、全

く思

想潮流を異

にす

る西洋

宗教の倫理思想とも

いちじ

るしい類似

一致が

認められる」。そし

てV

・A

・スミスの「ア

ショーカ王

の説

く道徳の大部分

はまた

リス

ト教

の信仰

答の中

に説

かれ

るも

のと

も殆

全く

致す

る」

という文章

を引用して

いる。

これ

に類し

た事柄

は。キリスト教

の文

脈の中

にも見出され

る。

それ

は、自然法

倫理と

キリ

スト教倫

理と

の関係

の問題として論じ

られてき

たも

のであり、それ

をめぐ

る学説

は一様ではな

いようで

る。し

かし、

キリ

スト教

は、キリ

スト教

に固有の仕方で一般社

におけ

る倫理的規範を根拠づけるものであり、倫理的規範の前

提とな

る原理を与えるものであると

いうこと

は一貫して主張され

いるよ

うに思

われる。その意味で。世俗倫理

はキリ

スト教の教

義体系

の中心部分

にが

っちりと納

め込まれて

いる。

他方ま

さにそ

の意味で、仏教の教え

は世

俗倫理

に根拠づけを与

えておらず、世俗倫理をその内

にが

っちりと

納め込んで

はいな

い。

このこと

は、

ゴータマ・ブ

ッダが形而上学

的議論を退けたことと

結びつ

いて

いる。仏教の思想

は一切を形而上学的体系に納め込む

ことを拒否する性格をも

っており。それ

は逆

に、そこに納め込ま

れないものの存立を許す性格とな

って

いる。ア

ショーカ王の治世

において起こ

っていたのは、政治的指導者が自らの政治的理念と

倫理的基盤を仏教において

いたということであ

って、仏教の教え

が政

治理念や世俗倫理を根拠づけ

るという事態とは別のことであ

う。

だが

、仏教の社会への関係を個人的な問題に委ねてよ

いの

かと

いう疑問は、当然起こって

くるはずであ

る。仏教のサソガが、

国家や社会

に対してどのような態度を取

って

いるかを見て

おく必

要があろ

う。

ゴータマ・ブ

ッダによ

って

定めら

れた出家者の生活

の基本原則

、四

依、即ち、糞掃衣

・乞食・樹

下住

・陳棄薬で

る。

糞掃

衣・樹下住・陳棄薬という規定は。衣類・住まい・薬に関して棄

ててあ

るものやその辺にあるも

のを利用するという態度を示して

おり、乞食という規定は、食

に関して在家者の余り物

を分けても

らうという姿勢を示して

いる。ここ

には、出家修行者

の生活の仕

につ

いての基本理念が表れて

いる。佐々木閑氏はこ

の基本理念

を「自活生活の放棄」で

あるとして

いるが、的を射た把握であろ

う。四依の指し示す宗教的意味

は。所有物を最小限とし生存維持

を最低限

に押さえるというこ

とよりも

、生存維持を徹底的

に「世

間」(器世間と衆生世間)

に委ね

るというところ

にあ

ると考えら

る。

この世間への経済的依存に対して、

サンガの世間へ

の精神的教

はどのようなもので

あり得

たか。原始経典の中には、しばしば

繰り返され

いわば定型化して

いる在家信者への説法がある。それ

は、布施・戒・生天

の三

論の教説

から始めて、それを聞いた在家

者が正

法を受け

入れることができるようになったなら、四諦の教

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説を説

いてゆ

くと

いう次第説法であ

る。三

論は、生死

輪廻

の世界

にあ

って善業

をなし生天

の楽果を得

ることをめざす教説で

あって

生天を願う人

々の願

いに合わせて説

かれる世

間道で

あると見なさ

れる。し

たが

って

、三論

の教説

は世

俗社会における行

為の仕方を

教えるも

のと

言え

る。さら

に、世

俗社

会の具体的な状況の中で

に触

れて

、人々は比丘

たちに指導

を仰いだと推測されるが、パ

ーリ律

その他の諸部派の律の記述

によ

れば、仏教サン

ガは、基本

的に

はそのとき

そのとき

の社会

の状況

に適合するもの、社会が求

めるも

のにそのつど応えて行くと

いう

在り方

をして

きたようであ

る。こ

の初

期のサン

ガと

一般社会と

の関

係が、仏教におけ

る社会

倫理の位置

づけ

を最も根本

的に指し示すも

ので

はなかろう

か。

二 

おけ

る社

会倫

づけ

つまり

、仏教は世

俗社

会の政治思想

・倫理思

想に関して

。社会

そのも

のの自律的原

理を基

本的

に認

めて

いると考えて

よいので

いか。社会の

メカ

ニズ

ムは、仏教の教え

に従

って

方向を定めら

るべきで

あるという考え

方は、仏教的で

はないように思

われる。

但し

、この自律的原理は、それ自身を究極的に根拠づけることは

でき

ないので

って、それが世間法

の限界で

あると言え

る。この

社会

の自律的原理という問題について

は。仏教が興起した時代

ンドの社会体制の中には。バラモン教が組み

込まれて

いたことを

念頭

に置く必要があろう。そこには考察しなければならない多く

の問題

が存す

るが、

仏教はその固

有の宗教性

の展

開を「社

会の

外」

に追求するものとして成立したということは動

かせ

ないであ

ろう。

この社会の自律的原

理は社会それ自身の存続維持の志向

に貫か

れて

おり、その志向は生命体の生存維持の志向と連続す

るもので

ある。サン

ガはこの原

理を自らのものとすることを否定し、サン

ガの成員の生存維持をこの社会に依存するのである。生存のため

のエネルギーと苦から

の解脱を求

める

エネルギーとは、徹底化さ

れた局面

において

は相反する方向性をもつからで

ある。仏教の解

脱の追

求は、生存の維持高揚の努力を放棄することを要求するの

であ

るが、同時

にそれ

は、生存維持の努力が消失す

るとき、それ

自身も消失す

る。こ

の矛盾をはらんだ関係は、そのまま仏教教団

と社会

との関係

を表す。

サンガは社

会の自律的原理を退けそれを超えることを、自らの

共同体

の規矩として

、厳然と社会に提示する。この出家者の社会

に対す

る否

定は、生存維持

についての社会への全面

的依存を自覚

的に背負った否

定で

あり、そのこと

によ

って、それは社会を直接

に破壊

するような反社

会性と

は別の次元のものとなる。或

いは、

出世間法

は社会の原

理の中

に決して取り込まれることなく、その

理に向けて

、自ら

をさらし、自らの真理性を試すのだと言

った

がよ

いかもしれない。ここ

には、二重の仕方で

の世間との関係

が存す

るので

あり、出世間と

いうことは或る意味で世間とのこの

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二重の関係そのものに他ならない。出世間性とは、裏返しにされ

た二重の社会性なのである。

このことは、世

俗社会の側から言うと、社会は自己完結するこ

とができないということを絶えず突きつけられて

くるということ

に他ならない。それは、社会が充実した生存を可

能にする場であ

るために決定的に重要で

あるように思われる。社会は自己完結す

るとき、それ自身を超え

るものをどこにも見出すことがで

きず、

それ自身を絶対化す

る以

外に世界理解を全うすることがで

きない

からで

ある。

だが、この自己絶対化が意味するのは、社会の自律

的原

理は社

会それ自

身によ

って

しか根拠づけ

られないということ

であり

、それ

は、究極

的な根拠づけ不可

能と同

義で

ある。出世

性は、専らこ

の社会

の自己

絶対

化、自己神化

に対して否

定を突き

つけ

る仕方で働く。世

俗社会は、それ自身とは別

の原

理として

宗教的原

理を認めるので

あるが、この場合、宗教的原

理は世俗的

価値観に対

抗する別

の価値観で

はなく、また、世俗的価値観を包

摂す

る上位

の価値

観で

もない。それは、世俗的価値観に対

して、

そこ

に包摂

されるこ

とを徹底的に拒否

する他者で

あり、このよう

な他者

をもつこと

によって

世俗社会は健全で

あるこ

とが可

能とな

る。社

会の自己神化

に対して否

言う立場は、キリスト教の中にも

存す

るであろう。(特

に、イ

エスの言行

の中には、仏

教の出世

性とき

わめて近

いも

のが見出

される。

それはその後

のキリスト教

の歴史的

展開の中で

、変容されて

いったと言う

べき

かもし

れな

い。)

もし

、それに関して

あえて仏教

の特質

を取り出す

ならば、

この否

定が。決して社

会に内化されないと同

時に決して社会を内

化しない形で

、遂行

されるところ

にあろう。この形

は、仏教者の

生存の可

能性

を賭け

る覚悟

によ

って裏打ちされてこ

そ可

能である。

大乗

仏教になると、世

俗生活

に積極的に宗教的意義

を認

めようと

する考え

方が出て

くるが、そ

の場合でもこの否定

は社会

に内化さ

れるこ

とはない。むしろそこで

は、世俗社会の自律

的原理を受け

入れるこ

とと世

俗社

会の自己絶対化を否定す

ることとが、

いっそ

う尖鋭化して

結びつ

いて

いると考えられる。

この否定を奥底

に孕

んで成立する仏教と世

俗社会との一般的な

係は、仏教が智慧

の真理

に照らして

社会の在り方を批判するよ

りも、むしろ社

会が仏

教の在り方、サンガの在り方

を批判するこ

との方

を第一

義的とす

る。即

ち、絶対的なも

のから

相対的歴史的

なものを批判

するので

はなく

、相対的歴史的なも

のから批判がな

され、その批判

を通して、絶対的なものが間接的

に示唆

され得る

と言って

よかろう。そこで初

めて、社会倫理の根拠

づけ

の不可能

性によ

って起

こり得る倫理

の崩壊に立ち向

かって、倫理を取り戻

す場が開

かれ

得るであろう。

この出世間性

のもつ意味が、改めて強調

されてし

かるべきであ

る。仏教思想

の中

に。現代社会の諸問題へ

の直接の指針を求め、

会倫理

の基礎

づけを直截

に見出そうとす

ること

には、根本的に

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不適切なところがある。ただし、このこ

とは、現代社会の諸問題

への具体的対応が仏教に帰依する個人

の問題

に突き返されると

うことでもあ

る。

三 

キリ

ト教

「接

点」

「交

さて、上述の私の提題は、先の

八木先

生と岸先生の提題と基本

的な視座が異な

っている。ここで私の提題の内容をこのまま追究

して

いくこと

はやめて、この視座の違

いに目を向けてみた

いと思

う。こ

の視座の違いが、実は仏教の出世間性と

いう問題と関わ

いて、同時

にそれが、仏教とキリ

スト教との関係状況を鮮明に

表して

いるように思われるからである。

八木先生も岸先生も「仏教とキリ

スト教との対話」を積極的に

進めて来られた方々であり、両宗教がテ

ーマとなるとき、両宗教

の「接

点」や「交点」を明ら

かにす

ることが目指されるというこ

とは自明であ

るよう

に見える。日本のみ

ならず

、キリ

スト教が伝

道され

た他の国

々でも、宗教間対話

はキリスト教の先導で行われ

てき

たと言

ってよ

い。それ

は、

キリ

スト教の中

に、他宗教との出

会いと対話を行う内的必然性が存す

ることを

うかがわせる。即ち、

キリ

スト教が唯一絶対的な救済を標榜してき

た歴史をもつと

いう

こと、更

に、その唯一絶対性

に基づ

いて

他宗教

の信徒

に改宗を要

求する志向をもつということ、更に、その志向に従って世俗的な

民地主義に背負われた仕方で異なる文化伝統をもつ地域にキリ

スト教の宗教的支配を敢行しようとした歴史をもつということ

これらのことへの自覚と反省がキリスト教徒を他宗教との対話

駆り立て

たのではなかろうか。この自覚と反省の真摯さは、賞

に値す

る。その上、近代日本のキリスト者

に限

って言え

ば、日本

の宗教的文化的伝統の中でキリスト教信仰を自己化するために、

何ら

かの仕方で仏教とキリスト教とを比較しその接点を見出す

とが必要であ

ったと推測される。仏教とキリ

スト教の比較は、日

本のキリ

スト者にと

って、キリストに出会う道程におけ

る一つ

実存的課題ではなか

ったか。

それに対して

、近代

日本の仏教者にとって、キリスト教は別

出会

われ方をしてき

た。江戸

時代

から明

治にかけて

、仏

教徒

ってまずキリスト教は邪教で

あり

、仏教徒は率先

して

キリスト

教の思想的邪教性と政治的反

国家性を論究してきた。江戸

幕府

宗教政策の下では、キリスト教が邪

教であ

ることが、仏教教団

公的存在意義を支えるもので

あったからであり、護法と護国を切

り離すことができなか

った明治期の教団仏教も、キリスト教排斥

をその護法と護国に組み込むことで

、文明開化の圧力に抗しよ

とした

からである。

だが、明治期の仏教者の排耶思想は、キリ

スト教に対

するコン

レッ

クスの裏返しで

もあった。西

洋の学術文化に接した当時

日本人にと

って、キリスト教はその合理的で実証的で

進歩的な思

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想・科学

の精神的基盤として

或る種の開明

的光輝

をまと

っていた

と推測

される。明治の知識人にとって

、地

獄・極楽の観念や六道

輪廻

の思

想は非

科学的な迷信の類で

あり、そのような観念を内

る仏教

は一般に理性の審判

に堪えら

れないものと見なされた。

のよう

な世間

の風潮

の中で

、仏教者

に求

められ

たのは、仏教が

い精神性を内包

した宗教であ

ることを知的

な仕方で表現すると

いうことであ

った。つ

まり、近代仏教

の成立

に際して、仏

教は、

キリ

スト教およ

びそれと深く結

びつ

いた西洋哲学と

いう外部の知

的権威に面して、その宗教としての真髄を試されたと言

ってよい。

このとき仏教が、

キリ

スト教に対して教理上の接点を求

めるとい

うよりも、仏教の独自性を強調し、キリスト教に負けることのな

い真理性の深さを主張する方向に進んだのは、当然であるように

思われる。

四 

仏教に課せられたこの課題に最初

に応え

たのは、清沢満之で

るが

、彼

は、仏教とキリスト教の関

係、および宗教の本質(エッ

センシア

ル、フンダメン

タル、プリ

シプ

ル)

に関

して

、近代

本仏教徒

の一つ

の典型

的な考え方を示して

いるよ

うに思

われる。

彼は、宗教において「エッセンシアルなもの」があることを認

める。そしてそれ

は「従来の宗教にも将来の宗教

にも

エッセンシ

アルなもの」であり、「仏教

エッセン

シア

ルなもの

ならば、基

督教

にも其

他の宗

教にも

エッ

セン

シアルなも

のであ

る」と言う。

その一方で

、満之

は、”自

の浄土真宗の

信仰と、基督教の信

と、或

いはそれ以外

の信仰と。エッセンスが同一であることがど

して

か”

れて

、「わ

から

いの

す」

と答

ている。満之

は、

他者の信仰はわからな

いのであり、他者の信仰

を批評すること

は無益である、と

いう態度を一貫して取

るのであ

る。満

之において、宗教のエッセンスとは「有限と無限の一致」で

あるが、この

エッ

センスを明ら

かにするのは宗教哲学の立場であ

る。宗教哲学ないし哲学

の立場は、近代日本においてまず、西欧

人にも

日本人にも共通に妥当する普遍的理性の立場として、そこ

において

仏教の真理性を証すことのでき

る権威

ある法廷と見なさ

れたので

ある。明

治の仏教者は、近代科学という強力

な知を生み

出し

た母

胎で

あるところの近代的な普遍

理性において科学の真理

性と対決し、科学を生み出したヨーロッパの思想伝統と対決しな

ければ

、自ら

の立場

が成り立たないというところ

に追

い詰められ

ていたわけである。そのとき、キリスト教はそのヨーロッパの思

想的文化的伝統

の基層をなすものとして、対決の相手となったと

言うことができ

る。言い換え

れば

、他の主体の内

に現成するキリ

スト教信仰そのも

のが、仏教の対決

の相手とな

ったわけで

はな

い。

それ故、清沢満之において

、或

いは西田幾多郎ら仏教に深く関

わった後続の日本の哲学者

たちにと

って、宗教哲学ないし哲学は、

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それ自身、「発

菩提心」という形

で仏教

の伝

統の中

で長

い間培わ

れてきたけれども幕藩体制下

の教団仏教において形骸化していた

求道の要

求が、新たに発見した真理探究の道であるという性格を

って

いる。仏教とは真実の智慧を追求する道である。こ

の智慧

の追求が、近代と

いう新し

い時代を迎えて、西洋哲学と

いう新し

い知

の形態

に直面して、

それ自

身の展開の仕方を見出し

たのであ

る。

それ

は、近代

の仏教

者にとって必要

な展開であ

った。

しかも、

それ

が、

あくまで

哲学

として

遂行

され哲学として自己理

解される

こと

が必要であ

った。

「宗

教のエッセンス」(満之

)や「歴史

的形成作用

の論理」(西

幾多

郎)や

「宗教

そのも

の」(西谷

啓治)を

探究す

ると

いう仕

真実

の智慧を求

めると

いう在り方

は、西

洋の文

的伝

統を

負って日本人に君

臨してくる近代という時代

の課題

を明

確に映し

出している。彼らの哲学は普遍的理性の立場に立ちながら、もと

もと普遍的理性概念の背後

にある歴史的文化的制約が、概念や論

理の

レベルではなく問題意識

のレベ

ルで、しかも逆説的な仕方で。

彼らの思索のうち

に入

って

いたと言うことができる。現代

に至

て普遍的理性と

いうも

のは根

本的な批判を受けて、現代哲学

は所

謂言語論的転回

を経験し

たわけで

あるが、清沢や西田

の哲学

の普

的立場

はそも

そも

無条件

的なものではない。彼ら

は、

ヨーロッ

パ近代

の普遍

的理性

の膝下

に馳せ参じたので

はなく、普遍

的理性

という新天地

を踏破

することで自らの真理探究

に忠実

であろ

うと

したので

ある。そのことによって

、西田の哲学の中には近代理性

の普遍性の立場を破るものが見出

される。それ故、「場所

の論理」

はどこまで

も哲学的概念であるが

。それが仏教とキリスト教の対

話の共通の基盤になると

いうような考え方は、西

田の哲学の普遍

的立場を抽象化すること

によって

出てく

るものでしかない。清沢

や西田の哲学の立場がそう

いうものであ

るからこそ、彼らは哲学

の限界というもの

に敏感であ

った。

この限界

は、清沢が他者

の信仰はわからな

いと言

い切るところ

に裏返しの仕方で表れて

いる。実は清沢満之

にお

いて

は、哲学の

立場と信仰の

立場とがま

だ自己理解の上で未分化なところがある

が、このよう

に言

い切ることができるのは、哲学の立場ではなく

信仰の

立場であ

る。清沢

は、信仰の立場

において、他者の信仰は

わから

ないと言

い切り

ながら、キリスト教のバイ

ブルにせよ、他

の宗

教的テ

クストにせよ、自らの浄土真宗の信

仰でも

ってみ

な読

むことができ

ると言う。それは、彼が「浄土真宗の信仰を得て、

之に満足し、少しも不足を感じて居な

い」という「最も確かな事

実」に立

っているからである。これは、西田が「宗教は心霊上

事実である」と語るその「事実」であ

る。ど

の事実に立つ限り、

哲学的普遍性の立場から諸宗教が見渡

されなくとも、他宗教の他

は決して不気味な脅威とはならない。

そして、宗教がこの事実に立つもので

あることを見遣りつつ、

哲学

の立場がそこ

に及

び得な

いもので

あること

を自覚する宗教哲

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学は、そのような他性をそれ自身が獲得し得ないことを覚知す

一方で、自らが追究する真理の有り

様をそこから感知す

ること

きる。即ち、彼らの追

究し

た哲学的真理の真

理性は、いわば

者のわからなさに浸された真

理性で

あり、他者のわから

なさの闇

の中で

その闇に侵されず

にま

たその闇

を侵

さずに光で

あり得

る真

理性で

ある。それは、彼らが宗

教そ

のものについて語

る語り口

おいて

、キリスト教を語り、仏

教を語

ると

いうこ

とと、全

く矛盾

しない。

のよ

うな仏教の他宗教への態度

の取り方

、宗教

哲学

の成立の

仕方

は、仏

教の出世間性と深く関わ

って

いる。そこで問われるの

は、宗教間対話の必要性がい

ったいどこ

から語られるの

かという

ことであ

る。対話の必要

性が語られるのは、まずも

って、異なる

宗教を奉ずる人

々がこの地球上でどのよう

にして平和的

に共生し

てゆく

かと

いう問題場面であろう。異なる宗教

は。異なる民族、

異なる文化、異な

る伝統へと繋が

って

いる。現代世界の民族間の

抗争や文化的な衝突のず

っと奥深い根の部分

に、宗教間の対立が

あり、それが諸

々の紛争や対

立を深刻なもの

にして

いるというこ

とがよく指摘される。だが、人類の平和的な共生と

いうことは、

先の言い方で言え

ば、まさし

く世間道、世俗社会の理念である。

仏教が、宗教間対話という問題

に敏活な対

応をなし得ないのは、

その故で

あろう。仏教は宗教間対話

を必要

としないところに。自

の在り場

所を見て

いると言ってよ

い。宗教間対

話を必要

とし

いところは、宗教の違い

による対立の起こらないところであるは

ずで

ある。

ただし、この出世間性には、それを現代社

会が感知することが

でき

るかどうかと

いう大きな問題が残されて

いる。超越的なもの

との関係

に関して、限り

なく自閉的

になり、限り

なく自

足的

なって

いる現代の日本の社会は、出世

間という開けを感知でき

いと

いう点でこと

さら際立

って

いる。現代仏教がこのまま、世

は出世間へと開

かれていることを、社会に向けて告げ知らせ

るこ

とができ

ないならば、仏教的真理のリアリテ

ィは消失するであろ

う。自己絶対化する社会において

、リアリテ

ィを失った出世間性

が絶対的真理の偽りの

シンボルとして

いいように利用

されるとき、

社会倫理の脆さが露呈される。仏

教が緊急に必要

とす

るのは、全

面的

に世俗的である人々との対話であろう。仏教において他宗教

との対話の必要性が見えて

くるとしたら、それは宗教に無関心な

々と

の対話の試みの中

においてであろう。

仏教とキリ

スト教の有り

様は、異な

るものを同一の地盤の上

置くのでな

い比較の在り方

を示して

いるように思われる。共通の

地盤を求めようとして

いつもすれ違

ってしまう、そのすれ違いを

通して、自らの絶対

的実在性の感得と

は別の仕方で

の実在性の感

得が存することを、我

々は探り当てることができ

る。このすれ違

いが対

立や不

安を引き起こすような状況を、少

なくとも仏教とキ

リスト教に関

して

は、我

々は既に卒業したように思う。他者と分

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(1

) 岸

『宗

の人

一九

、三

(2

) 中

「宗

一九

二七

八頁

(3

) V. A. Sm

ith

, Asoka

, 3rd

. edition

「 p. 66.

(4) 佐々木閑『出家とはなにか』大蔵出版、一九九九年、一二八頁。

(5) S・B・『増支部経典』八―一二。

(6

) 参

考、

柏原

『日本

の研

書店

一九

六九

「近

九九

八年

(7

) 森

『真

資料

巻 

一九

三六

(8

) 「然

にせ

、基

よ,

の方

いも

して

の信

エッ

スが

一で

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ら、

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の信

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