戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) -...

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戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 1 はじめに 本稿の目的と問題意識 本稿は,戦前期における日本自動車産業の確立と海外展開の解明を意図したものである。現在, 日本の自動車産業は,トヨタ自動車が世界最大の自動車メーカーであることに象徴されているよ うに,日本の強い産業の代表選手である。筆者は,1980 年代半ば頃から,30 年以上にわたり, 現地企業を含めて,アメリカ,韓国,東南アジア,中国(台湾を含む),イギリス,ドイツ,フ ランス,ロシア,ハンガリー,ラテンアメリカなど,世界の多くの国における日本の自動車工場 などへの現地調査を実施してきた 1 。これらの調査を実施するなかで,戦後の日本自動車産業の グローバル展開の歴史をまとめてみたいという思いが強まっていった。しかし,その解明のため には,戦前期の日本自動車産業の海外展開をどう位置づけるかという問題を無視して進むことは できないという考えが生じ,本稿を執筆することとした。 この戦前期における日本自動車産業の海外展開の解明およびその前提となる日本自動車産業の 確立の歴史については,以下本文中の注に記したような多くの先行研究がある。これらの研究の 多くは原資料を丹念に精査し,的確な分析を行っている。本稿は,基本的にはこれらの先行研究 に依拠しつつ,欧米諸国,特にアメリカの自動車産業に対して質量ともに圧倒的に遅れていた日 本の自動車産業が,自動車製造事業法の成立以降,政府がアメリカメーカーに対して制約を課す ことにより確立できたプロセスについて,また脆弱な日本の自動車メーカーが,なぜ 1930 年代 33 1 はじめに 本稿の目的と問題意識 2 黎明期における自動車生産への取り組み 3 国家的保護政策に支えられた自動車産業の確立(以上,本号) 4 戦時統制経済期における自動車産業確立の限界(以下,次号) 5 戦前期日本自動車産業の海外展開 6 おわりに 戦後自動車産業への含意

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戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)

上 山 邦 雄

1 はじめに 本稿の目的と問題意識

本稿は,戦前期における日本自動車産業の確立と海外展開の解明を意図したものである。現在,

日本の自動車産業は,トヨタ自動車が世界最大の自動車メーカーであることに象徴されているよ

うに,日本の強い産業の代表選手である。筆者は,1980年代半ば頃から,30年以上にわたり,

現地企業を含めて,アメリカ,韓国,東南アジア,中国(台湾を含む),イギリス,ドイツ,フ

ランス,ロシア,ハンガリー,ラテンアメリカなど,世界の多くの国における日本の自動車工場

などへの現地調査を実施してきた(1)。これらの調査を実施するなかで,戦後の日本自動車産業の

グローバル展開の歴史をまとめてみたいという思いが強まっていった。しかし,その解明のため

には,戦前期の日本自動車産業の海外展開をどう位置づけるかという問題を無視して進むことは

できないという考えが生じ,本稿を執筆することとした。

この戦前期における日本自動車産業の海外展開の解明およびその前提となる日本自動車産業の

確立の歴史については,以下本文中の注に記したような多くの先行研究がある。これらの研究の

多くは原資料を丹念に精査し,的確な分析を行っている。本稿は,基本的にはこれらの先行研究

に依拠しつつ,欧米諸国,特にアメリカの自動車産業に対して質量ともに圧倒的に遅れていた日

本の自動車産業が,自動車製造事業法の成立以降,政府がアメリカメーカーに対して制約を課す

ことにより確立できたプロセスについて,また脆弱な日本の自動車メーカーが,なぜ1930年代

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目 次

1 はじめに 本稿の目的と問題意識

2 黎明期における自動車生産への取り組み

3 国家的保護政策に支えられた自動車産業の確立(以上,本号)

4 戦時統制経済期における自動車産業確立の限界(以下,次号)

5 戦前期日本自動車産業の海外展開

6 おわりに 戦後自動車産業への含意

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後半以降,「満州」(以下,当時の表記に従って,括弧をとって表記する)やその他中国各地,朝

鮮,東南アジアに進出できたのかということを明確にするとともに,その限界を明らかにするこ

とを目的とする。その際,当然のことであるが,単に海外に進出し,現地生産を開始したという

事実を明らかにするのではなく,戦前期日本自動車産業の確立の限界とそれに伴う海外展開の不

十分性がどこにあったのかという論点から分析を試みることとする。

はじめに,戦前期日本自動車産業の状況を数字的に確認してみよう。図表1は戦前期における

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)34

図表1 四輪車保有台数推移(単位:台)

年 合 計 乗 用 車 トラック バ ス

1908 9

1909 19

1910 121

1911 235

1912 512

1913 892

1914 1,066

1915 1,244

1916 1,648 1,624 24

1917 2,672 2,647 25

1918 4,533 4,491 42

1919 7,051 6,847 204

1920 9,999 9,355 644

1921 12,116 11,228 888

1922 14,866 13,483 1,383

1923 12,765 10,666 2,099

1924 24,333 17,939 6,394

1925 29,164 21,002 8,162

1926 40,353 28,256 12,097

1927 52,102 28,701 15,987 7,414

1928 66,777 33,358 21,719 11,700

1929 80,826 37,300 27,541 15,985

1930 89,222 40,819 30,881 17,522

1931 97,828 41,765 34,837 21,226

1932 100,851 42,087 35,939 22,825

1933 100,824 42,501 33,501 24,822

1934 114,371 45,376 42,667 26,328

1935 125,915 49,548 47,939 28,428

1936 136,714 52,359 55,610 28,745

1937 145,530 60,054 61,132 24,344

1938 151,181 59,317 67,840 24,024

1939 149,429 54,986 71,262 23,181

1940 152,065 52,110 77,561 22,394

1941 141,610 47,924 71,721 21,965

1942 134,636 37,527 75,365 21,744

1943 132,116 33,893 76,721 21,502

1944 122,765 30,401 75,595 16,769

1945 111,233 25,533 72,908 12,792

(注) 1915年以前は車種区分不明。1926年から32年のトラック小型4輪は

乗用車小型4輪に含む。1916年から26年のバスは普通乗用車に含む。

明らかな誤植は訂正した。

(出所) ダイヤモンド社編『自動車』ダイヤモンド社,1959年,4�5頁。原資

料は,自動車会議所発行『日本自動車産業の変遷と将来の在り方』1948

年。

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自動車保有台数をみたものである。第一次大戦の勃発以前,日本では自動車保有はごく微々たる

ものであった。第一次大戦の勃発以降日本の自動車普及はある程度進むことになったが,1920

年代初頭においても,日本全国の自動車保有台数は約1万台という小規模なものであった。1920

年代には,当時の欧米先進国と比較すればささやかな規模ではあったが,自動車保有台数は大き

く拡大し,1940年が戦前期のピークとなった。こうした自動車保有の拡大の契機となったのは

1923年の関東大震災であり,フォードやGMが進出するなかで,震災後の復旧過程における自

動車の有用性が認められたことが自動車保有を押し上げることになった。

つぎに,図表2は国内生産・輸入・移出と供給台数の関係を示したものである。国内生産(国

産車)台数は,1932年までは漸増しつつあるとはいえ数百台の規模であった。例えば,1926年

の供給台数は僅か2,626台にとどまっているが,その殆どは輸入車であり,国内メーカーによる

生産は245台にとどまっている。国産車生産台数が大きく増加したのは1936年以降であるが,

その理由は自動車製造事業法によるものである。それまでの国内供給の主体となったのは,当初

は輸入車,さらに1920年代後半にフォード,GMが参入して以降は輸入組立車であった。1930

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 35

図表2 戦前期普通自動車供給台数(単位:台)

生 産 輸 入 移 出供給台数

貨物車 乗用車 合 計 車 輌 シヤシー 組 立 合 計 車 輌 シヤシー 合 計

1926 245 245 2,381 2,381 2,626

1927 302 302 3,895 3,895 4,197

1928 347 347 7,883 1,910 9,793 10,140

1929 437 437 5,018 2,019 29,338 36,375 36,812

1930 458 458 2,591 1,609 19,678 23,878 24,336

1931 434 434 1,887 1,204 20,109 23,206 23,634

1932 676 696 997 703 14,087 15,787 16,483

1933 1,055 1,055 491 780 15,082 16,353 17,408

1934 1,077 1,077 896 950 33,458 35,304 349 349 36,032

1935 1,181 1,181 934 1,010 30,787 32,731 626 735 1,361 32,551

1936 5,004 847 5,851 1,117 1,061 30,997 33,175 1,731 2,267 3,998 35,028

1937 7,643 1,819 10,239 4,988左に含む 28,951 33,939 1,495 1,918 3,413 40,765

1938 13,981 1,774 15,755 20,000 20,000 1,311 807 2,118 33,637

1939 29,233 856 30,089 1,668 5,396 7,064 23,025

1940 42,073 1,633 43,706 4,915 4,915 38,791

1941 42,813 1,065 43,878 2,210 2,210 41,668

1942 34,786 705 35,491 1,180 1,180 34,311

1943 24,000 207 24,207 1,599 1,599 22,608

1944 21,434 19 21,453 213 213 21,240

1945 6,723 0 6,723 6,923

(注) 貨物車は乗合を含む。

(出所) �日本自動車会議所調査部調査部長真鍋康男『我国に於ける自動車の変遷と将来の在り方』1948年,7頁。

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年代の後半になって,国産車が中心となる構造が確立するが,その中心は軍用トラックを主体と

するもので,乗用車の生産は限定されていた。しかも,国内生産がピークに達したのは太平洋戦

争が開始した1941年であるが,その年以降,乗用車生産は大きく減少していくことになった。

以上のように,戦前期の国産車生産は1930年代後半に至るまでは極めて限られた台数にとど

まった。しかし,明治期から大正,昭和にかけて,自動車を生産しようという多くの取り組みが

なされてきたことは無視できない。明治期のそれは個人的ないしは零細な規模による先駆的な取

り組みであったが,第一次大戦期に入ると,これらの多くは企業組織を形成し,あるいは大規模

な資本による参入の動きが特徴的となった。もっとも,これらの試みの殆どは事業としての存続

が困難な状況に陥らざるをえなかった。

1928年以降は供給台数が大きく増加したが,これは関東大震災後の復興に際して,自動車の

有用性が認識されたためである。しかし,こうした自動車需要の拡大を賄ったのは,米系自動車

メーカーであった(2)。1925年には日本フォード自動車株式会社,さらに1927年には日本ゼネラ

ルモータース株式会社が創業を開始し,輸入組立車は1929年には約3万台に達し,その後昭和

恐慌の影響もあり1933年までやや低迷したが,1934年には33,458台というピークに達した。そ

れに対し,日本メーカーの生産は,1933年に漸く1,000台規模に達したが,1930年代後半に至

るまではフォードとGMという米系メーカーに対し,圧倒的に劣位な状況にあった。

こうした米系メーカーが日本の自動車市場を席巻していた状況を大きく変えたのが1936年5

月に公布された自動車製造事業法である。同法の成立以降,結局,フォード,GMは日本市場か

らの撤退を余儀なくされ,日本メーカーによる市場支配が進んでいく。それとほぼ前後して日本

メーカーの海外展開が進んでいくことになるのであるが,本稿はその点に焦点を当てて分析する

ことにする。

2 黎明期における自動車生産への取り組み

本章は黎明期における日本の自動車生産への取り組みをみていくが,明治期から第一次大戦ま

での取り組みと,第一次大戦期の状況はやや異なるため,節に分けて考察しよう。

① 先駆的な取り組み

自動車の起源は1769年にフランスで造られた蒸気自動車であるといわれる。それからヨーロッ

パにおいてさらにアメリカで,自動車製造の取り組みが進められており,19世紀後半以降,欧

米において,数多くの自動車メーカーが誕生している。しかし,1908年のT型フォードの発表

以降,フォードが近代的な生産方式に基づく大量生産を実施することにより,自動車産業の中心

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)36

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はアメリカへと移行することになった。

この自動車がいつ日本国内に登場したのかについては1900年頃といわれているが,これにつ

いては諸説あり(3),現在も必ずしも確定しているとはいえない。「ごく早くは明治30年から32

年にかけ,自動車がわが国に渡来出現したことを伝える説が種々あるが,その信憑性の疑わしい

ものが多い」(4)との指摘もある。本稿ではこの点には立ち入らない。しかし,20世紀に入ったあ

たりから,早くも1901年4月にはロコモビル日本代理店,同年11月にモーター商会自動車販売

店が誕生しており,限られた台数ではあるが,自動車の輸入が開始されている(5)。この自動車の

普及への契機となったのは,1903年に開催された第5回内国勧業博覧会において,「横浜の外国

商館が自動車を初めて出品」(6)したことにあるとされているが,当時の日本の段階では,自家用

車を所有することができたのは,ほんの一部の富裕層に限られていたことはいうまでもない。

しかし,20世紀に入り,自動車という存在が認知度を高めるとともに,自動車の製造を試み

る多くの取り組みがなされていく。こうした黎明期における自動車生産への取り組みについて,

以下,簡単に紹介しておこう(7)。

・双輪商会 1902年7月頃,吉田真太郎(後に日本自動車工業を創始する)経営の自転車販売

店双輪商会内で,同商会技師内山駒之助は,吉田がアメリカ旅行から持ち帰った横型2気筒12

馬力のガソリンエンジンを利用して,シャシーを組立て,簡単なボディを架装した自動車を作っ

た。これは日本で最初に組立てられた自動車といえるが,エンジン以外の一部の部品も輸入され

ており,日米混血第1号自動車といえる。しかし,この自動車は格好もお粗末であり,ほどなく

解体されたといわれている。製作された作業場は,卸売り店舗の片隅で,設備は1,2台程度の

貧弱なものであった。

・オートモビル商会 1902年12月には,双輪商会から改称されたオートモビル商会(1904年頃

に双輪商会に再改称)に,広島に乗合乗用車を走らす計画に基づき使用するために1台のバスの

注文がなされた。吉田真太郎はこの注文を引き受け,その製作はまた内山駒之助が担当した。エ

ンジンはやはり吉田がアメリカから持ち帰った横型2気筒18馬力ガソリンエンジンであった。

作業所は双輪商会時代と同じ場所ではあったが,1902年12月に最終的に12人乗りバスが完成

した。このバスは,日米混血第2号自動車といえるものであるが,バスとして日本で組み立てら

れた最初のものとなった。しかし,タイヤの問題で,路線区間を数回試験運行した程度で,失敗

に終わった。

・山羽式蒸気乗合自動車 1904年4月に,山羽虎夫は10人乗り蒸気式乗合自動車の組立を完成

させた。この自動車は,蒸気式自動車ではあるが,ネジ1本まで山羽が苦心して製作したといわ

れ,日本最初の純国産自動車であったと評価できる。山羽虎夫は,横須賀海軍造船所,小野浜造

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 37

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船所,沖電気,逓信電気試験所を経て,山羽電機工場を営んでいたが,岡山―高梁間の乗合馬車

に代替させる目的で1903年9月半ばから蒸気自動車の製作にとりかかり,まず1904年3月に機

関部の組み立てを終了し,翌月に最終組立を完了した。山羽電機工場は足踏旋盤2台と若干の工

具ぐらいの貧弱な設備であり,従業員も当初は本人と徒弟一人だけであり(最後にはあと2名の

追加),僅か6坪の土間が工場であった(組立工場は隣家が家を取り壊して提供)。このように苦

心して製作された自動車であったが,タイヤの問題で,実用には至らなかった。

・東京自動車製作所 1904年に,吉田真太郎は個人経営で,東京自動車製作所を設立し,これ

が日本で「最初の自動車会社」であると評価されている(8)。とりあえず自動車修理を目的とした

工場であったが,自動車に深い関心を持っていた有栖川宮殿下の奨励を受け,内山駒之助が製作

に取りかかり,1年数ヶ月を経て,1907年4月にガソリン自動車の製造を完成させた。これは,

日本最初のガソリン国産車であると評価されている。タクリー号といわれたこれと同様の自動車

の生産は,1907年から翌年にかけて,合計10台に達したという(9台は乗用車,1台はトラッ

ク)。本工場では,旋盤7台,フライス盤1台,ボール盤1台,グラインダー1台,スロッチン

グ1台,定盤1基,風車1具,火造用具2式,直流3馬力の電動機1台が設備であり,従業員数

26~7人を抱えていた。また,別にボディ工場があり,全従業員は34~5名程度であった。この

東京自動車製作所は,事業としては成功せず,1909年に大日本自動車製造会社へと改組され

(吉田と内山は退社),1910年には日本自動車合資会社(後,日本自動車株式会社)へと組織替

えとなった。

・国末自動車製作所(築地自動車製作所) 1908年6月頃に,手提金庫を製造する国末金庫店主

の国末良吉が3,000円の資金を提供し,鈑金下請けをしている山田鉄工所の経営者である山田米

太郎が設計試作の責任者となり,1台の二人乗り小型車の試作を完成させた。この自動車のモデ

ルとなったのは,相撲取りであった常陸山がアメリカから持ち帰った中古車を2分の1に縮尺し

て,人力車代用を狙った短気筒のガソリン車であったが,ほとんど国産であったといわれる。し

かし,この自動車は半年間全く動かず,機械職人である林茂木に改造を依頼し,林は3ヵ月かけ

て,1909年4月頃に,やっと動く程度の改造に成功した。次いで,1909年7月には,今度は2

気筒4人乗り乗用車の設計に着手し,途中でフランス製チューブを取り寄せるというアクシデン

トはあったが,1910年には国末第 2号車が完成し,年末までに,第 3号車,第 4号車が完成す

ることになった。これらは,純粋の国産車と評価できるものであった。

こうして,第4号車までを完成させたのは林茂木の手腕によるものであったが,それを背後か

ら援助したのが国末良吉,山田米太郎,後藤勝造であった。そして,この自動車事業を本格化す

る計画が後藤を中心とする3氏で計画され,1911年5月に東京自働車製作所が創立されること

となった。東京自働車製作所は,敷地面積330坪の新工場に移転するとともに,乗用車の製造に

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乗りだし,明治年間に6台以上を製造したとのことである。しかし,乗用車は販売不振で,バス,

トラックの生産へと転換したが,明治末年から大正初期にかけて日本で最大の自動車製造会社と

なったといわれる。

・快進社自動車工場 1911年4月に橋本增次郞の個人経営である快進社自動車工場が創業され

た。この工場は140坪の借地に工場建坪37坪という,現在の基準からいえばほんの町工場であっ

たが,機械設備として旋盤2台,ミーリング1台,ボール盤1台,ツーリング・グラインダー1

台,可搬式鍛冶炉1基,動力用ガス式エンジン4馬力1台,万力,定盤など付属工具1式を備え

ていた。最初の従業員は橋本を加えて7名というささやかな規模であり,投下資金額は当初

8,700円であった。この資金を援助したのが,田健治郎,竹内明太郎,青山祿郎の3氏であった。

橋本增次郞は,1895年東京工業高校を卒業し,第三師団工兵第三大隊への入営,住友別子鉱

業所,農商務省派遣のアメリカ留学,東京砲兵工廠,越中島鉄工所,九州炭礦汽船を経て,自動

車製造を志して快進社の創業に至ったのである。しかし,創業当初の同社はとりあえず外国車の

輸入と自動車修理事業を中心に営んでいたが(9),橋本自身が失敗であったと述べている第1号乗

用車試作の完成は1913年頃であり,翌1914年以降に国産乗用車の製造に成功するに至る。

・宮田製作所 宮田製作所は1881年に初代宮田栄助が創業した宮田製銃工場が村田銃の製造に

着手したことに由来しているが,徐々に自転車修理を副業としていき,1890年に宮田製銃所と

改称,1902年には自転車製造を専業と定め,宮田製作所と改称している。自動車へと乗りだし

たのは,2代目宮田栄助の時代で,1907年頃から自動車の研究を開始し,タイヤ以外は全部品を

製作したといわれる1909年夏頃には国産小型乗用車旭号を完成している。次いで,1911年には

旭号第2号車を完成しているが,これはイギリス製のエンジンその他主要部品を使用しており,

国産車とは認められない。それ以降も,宮田製作所は,昭和にかけて,しばしば自動車の試作を

実施していったとのことである。

これらの先駆的な自動車製造の試みに加えて,1911年に斑目鉄工所主の桜井藤太郎が国産自

動車を製造したともいわれており,1907年から10年にかけて米山利之助・芳賀五郎による乗用

車の試作があったともいわれる。その他,明治年間の繁多商会主範多龍太郎による蒸気自動車の

試作,1908年の三田機械製作所によるガソリン乗用車の試作,1911年の東京電灯株式会社によ

る電気自動車の試作など,真偽は必ずしも明らかではないとのことであるが,20世紀初頭に,

多くの先覚者による自動車製造への取り組みがなされたことはここで強調しておきたい。しかし,

図表3に示したように,明治年間における国産車生産は,エンジンを輸入し組み立てた車両及び

陸軍政策のものを除き43台にとどまったという。

つぎに,後の展開との関連で,陸軍による軍用自動車の研究と試作について簡単に述べておこ

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う。1904年から05年の日露戦争終了後,陸軍部内には,兵器,弾薬,食料などの輸送力などを

巡り,作戦用兵上の反省があり,軍用自動車に対する研究が行われていった。具体的には,1907

年2月に,陸軍次官は陸軍技術審査部長に対して4項目の調査研究命令を通牒し,同月,陸軍技

術審査部長は陸軍次官宛に貨物積載用自動車を交付されたしという旨の申請を行った。これに基

づき,1908年1月には,陸軍最初の自動車としてフランスの「ノーム」2台が購入され,交付さ

れた。さらに,1909年12月にはやはりフランスの「スナイドル」2台が交付された。これらを

使用し,陸軍技術審査部は運行試験を繰り返し,その結果,1910年5月に技術審査部長は陸軍

の採用すべき軍用自動貨車の具備すべき要件を調書として作成し,陸軍大臣に提出するとともに,

試作に取りかかり,1911年5月に国産の軍用自動貨車第1号,同年7月に第2号が大阪砲兵工

廠で完成した。そして,1912年6月に軍用自動車調査委員会制度が設けられ,こうした検討の

方向が,軍用自動車補助法の制定へとつながっていくことになる。

以上のように,日本に自動車が出現してから比較的短期間で,多くの自動車製造を試みる取り

組みが見られたことは注目に値する。これらの試みのうち民間のものは,町工場的規模で実施さ

れた手工業的な技術段階のものであり,事業として成功を収めるには至らなかったことはいうま

でもない。自動車産業は,多くの産業部門にまたがる総合産業であり,当時の日本産業の実力で

は,欧米に対抗できる国産自動車を生み出すことは極めて困難な課題であった。

しかし,この時期の取り組みの中から,大正から昭和への戦前期日本自動車産業の展開を予見

させる兆候を読み取ることができる。すなわち,純粋に民間の事業を成功させるためには,国民

のニーズを組み込んだ製品が必要であるが,それは当時の段階でいえば小型車である。他方で,

軍部が必要としたのは軍用トラックを中心とした軍用車両であり,それを中心とした自動車産業

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)40

図表3 明治期における国産自動車生産台数

年 次 合計台数 概 要

1904 1 山羽式

1905 0

1905 0

1907 17 タクリー号

1908 3 タクリー号

1909 5 タクリー号,宮田

1910 6 後藤,東京自動車,米山,タクリー号

1910 5 後藤,東京自動車,米山,タクリー号,ほか軽便車4台

1912 6 後藤,東京自動車,米山,タクリー号,快進車

(注) エンジンを輸入し組み立てた車両及び陸軍政策のものを除く。

(出所) オートモビル社編『国産自動車全史』オートモビル社,1940年,15頁。

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の構造を形成することを目的とせざるをえない。このことを本稿の叙述の方向を先取りして引用

すれば,奥村正二氏による「トラックが軍事目的による国家の庇護を受けて,上からその発達を

促されながらも,常に経営難に苦しんだのだから,何らの保護を受けない小型車がつぶれるのは

無理のないことだ。それにしても小型車の一部がいくたびかのパニックにも根強く生き残っていっ

たのは,それが庶民の経済生活の中に基盤をもった自然発生的なものであることに原因してい

た」(10)という指摘は,まさに正鵠をえたものである。

② 第一次大戦から1920年代初頭における国産車メーカーの取り組み

第一次大戦の勃発により,開戦に伴う一時的ショックから開戦後1年位は不況状態が続いたが,

その後典型的な戦争ブームとなり,多くの企業は戦時特別利潤に潤うことになった。そのため,

少なからぬ企業が新産業へと多角化を進めることになった。自動車産業も例外ではなく,新規参

入が相次いだ。それとともに,陸軍が,国産自動車奨励策を求め,1918年3月に軍用自動車補

助法が成立することとなった。本節では,基本的には,第一次大戦前後から関東大震災前後の時

期を対象に,この大戦期前後に明治期から生き残った企業の動向と,自動車産業への新規参入の

動きをみておこう(11)。なお,この時期に,軍用自動車補助法が成立し,一定の影響を与えたが,

そのことについては後述する。

・東京自働車製作所 東京自働車製作所が1911年4月に創立されたことは既に述べたが,同社

は大正期に入り,乗用車製造を中止し,その重点をバスとトラックに転換した。そして,同社は

創立以降1915年4月までの満4年間で28台ないし29台の自動車を製造したといわれているが,

このうち販売できたのは24台で,50数名の従業員を抱えた同社の経営は常に赤字状態であった

といわれている。その後同社は麹町から赤羽に移転して経営を続けていたが,1915年4月には

林茂木が退社し,1916年夏頃には工場長山田米太郎が死去するなどの不幸に見舞われ,1918年

に軍用制式4屯自動貨車10台の試作完成などの活動は続けていたが,1921年には閉鎖に至った。

・株式会社快進社 橋本增次郞が1913年頃に第1号乗用車試作車を完成させたことは既に述べ

た。最大の問題は外注エンジン鋳物の不良にあったが,以後,1914年に車名をダットと命名し

た第2号設計車,1915年6月に第3号設計車,1916年12月に第4号設計車を完成させている。

このダット41型乗用車において,橋本が当初からの目的としていたエンジン馬力15馬力を達成

し,その製造事業へと乗りだすことになる。1918年8月には株式会社快進社創立事務所が設置

され,資本金60万円で,北豊島郡長崎村に本社ならびに工場を新設して,操業が開始されていっ

た。機械設備として,クランク軸研磨盤,円筒研磨盤,グリーソンのベベル・ギア歯切盤など,

当時で最も進歩した専用工作機を含め20数台余りを輸入新設したという。従業員数は,最盛期

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 41

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には50名ないし60名を抱え,当時としては画期的な規模であった。

こうしてダット41型乗用車の製造を目指して操業が開始されたが販売はふるわず,1919年以

降,完成したのは4~5台にとどまったという。そこで,橋本は軍用保護自動車製造に乗りだす

ことになる。1922年には積載量1トン積みダット41型トラック1台が試作完成され,軍用保護

自動車として検定審査を受ける手続きをとったが,ボルト,ナット等のねじ規格が欧米で一般化

しているSAE規格を採用しており,補助法の規格に合わないとのことで,不合格となった。こ

れに対し,橋本は猛烈に抗議し,その効果もあって,1924年にねじ規格が改正され,同年,快

進社のダット41型3/4トン積トラックは陸軍の検定に合格することとなった。こうして,快進

社は経営不振の活路を軍用保護自動車製造に求めたが,同社の経営不振は続き,1925年7月に

は株式会社快進社を解散し,合資会社ダット自動車商会へと組織を編成替えし,営業目的は軍用

保護自動車製造とはしていたが,主に試験的なバス営業を活動内容とすることになった。

・発動機製造株式会社 発動機製造株式会社(現在のダイハツ工業)は,1907年3月に,内燃

機関の国産化を目指して創立された会社である。1918年4月「軍需工業動員法が公布され,同

年6月,大阪砲兵工廠は当社を民間自動車製作指導工場に指定した。ただちに図面と主要材料を

軍から支給され,自動貨車2台の試作を命じられ」,翌1909年3月に完成し,公式試運転の結果

も良好であったが,「軍用自動車の製作は軍の情勢変化によって中止された」とのことである(12)。

・矢野倖一のアロー号 矢野倖一は,九州製油会社の社長であった村上義太郎の資金援助により

1916年8月に幌型四人乗り小型乗用車「アロー号」を完成させている。この試作車は,プラグ,

デストリビューター,車輪,タイヤ以外は国産部品を使用していたといわれており,国産車と評

価できよう。その後,矢野は1922年に福岡市に個人経営の矢野オート工場を設立し,簡素型の

大衆車の製作を目的に,1924年に空冷 V8,水冷 V8の2つのエンジンの試作を完了したが,結

局,その事業は実現しなかった。

・川崎造船所(川崎車輌) 川崎造船所は,「早くも大正7(1918)年中兵庫工場内に自動車工場

を設け,爾来これが製作研究の為孜々として怠らなかった」(13)とのことであるが,これも軍用自

動貨車の試作のことを指すことはいうまでもない。この試作は川崎造船所造機部が担当したが,

川崎造船所自動車部と改称され,その後この自動車部は川崎航空機株式会社の母体となり,自動

車関係は川崎造船所車両部に引き継がれるなど,複雑な内部組織替えがなされた。この川崎車両

が,後に省営バスの車体製造事業を計画着手し,1930年代の「六甲号」自動車,トラック,バ

スにつながっていく。

・東京瓦斯電気工業株式会社 1910年8月に,ガス事業用補助器具製造を目的として,東京瓦

斯工業株式会社が設立された。同社は,1913年に電気事業の設計並びにそれに付属した電気器

具類の製造へも乗りだし東京瓦斯電気工業株式会社へと改称し,多角化を進めていった。1917

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)42

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年初期には自動車製造への関心も深め,同年,新規に大森工場を建設中に大阪砲兵工廠から軍用

制式4屯自動貨車5台の試作勧奨を受けることとなった。自動車への参入は社長の松方五郎も早

い段階から関心を持っており,当初,山羽虎夫の招聘も行おうとしたが,結局,日本自動車株式

会社の星子勇を自動車部長として招聘し,軍用自動貨車の試作に乗り出していった。「陸軍省か

らの最初の注文はシュナイダー・タイプ制式4トン自動車5台」(14)であり,この試作車は軍用保

護自動車の試験に合格し,1919年3月に日本で最初の保護自動車資格検定書を授与されたとい

う。このトラックの車名は「T.G.E.A型」と名付けられた。こうして,軍用保護自動車の製造

を含め,同社は1918年3月から23年4月の累計で,軍用制式4トン自動貨車15台,陸軍用保

護自動貨車100台,陸軍患者用自動車車体30台,各種自動貨車206台,東京市街自動車用客車

100台,小型自動車用客車22台,その他各種自動車用客車302台の合計775台を製造したとい

われているが,同社の経営は1920年頃から悪化していき,1922年下期には一挙に1,400万円余

りの損失を計上し,資本金を2,000万円から600万円に減資せざるを得ないという状況に追い込

まれた(15)。

・東京石川島造船所 明治年間から造船業を営んでいた東京石川島造船所は,第一次世界大戦中

の1916年頃以降に,戦時特別利潤を獲得し,戦後に予想される経済不況の対策として,「好況時

の収益をもって陸上輸送の自動車に乗りだすこととした」(16)のである。そこで,フィアット社お

よびウーズレー社と提携の折衝を開始するとともに,1916年にフィアット乗用車1台を購入し,

翌年から,分解スケッチを始め,試作を開始し,どうにか動くところまでまとめるのに約1年か

かったという。両社との提携は,結局,ウーズレー社と決定し,1918年11月に,ウーズレー乗

用車2車種,貨物自動車1車種の東洋における一手販売権と製造権を買い取ることとなった。そ

の結果,ウーズレー車の製造を開始することになったが,まず初めに完成した乗用車を輸入して

販売し,ついで輸入した完成部品を組み立てて販売するという形で進んでいき,ようやく1922

年12月末にともかくも国産車といえる最初のウーズレー乗用車(A9型)1台が完成したとのこ

とである。しかしながら,このA9型乗用車の原価は高く,品質面でも問題があったため,結局,

A9型乗用車の製造はいったんは停止となった。

そこで,同社はウーズレー社と新たにE3小型車2種とCP型1トン半積トラック1種の製造

契約を更新し,製造準備に取りかかるとともに(E3小型車は輸入販売のみ),保護自動車の製造

に注目し,CP型保護トラックの製造に取りかかったが,1923年9月1日に関東大震災に襲われ,

自動車生産そのものを中止するかどうかの選択を迫られた。結局,工場を移転し,この工場を東

京石川島造船所と改称し,保護自動車の生産を継続した。1924年3月にはようやく同社最初の

軍用保護自動車であるCP型保護トラック2台が完成し,3月28日に陸軍省から資格検定証書

が下付されることになった。

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 43

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・三菱の自動車製造 1917(大正6)年の夏頃,三菱造船神戸造船所(三菱造船の設立は同年10

月6日であり,正確には三菱合資会社造船部神戸造船所)の工場内に,「当時の三菱合資本社で

社用に使っていたイタリア製の ・フィアット乗用車・を同工場に運び込み,それを分解してスケッ

チすることから,自動車の開発に着手することになった」(17)という。1918年11月にはこの三菱

A型乗用車(完成当初は甲型と称した)が完成し,販売が開始された。なお,神戸造船所では,

1917年末に乗用車の生産準備を開始した造機部内の内燃機工場を1918年9月に内燃機部に改組,

翌年内燃機部を独立させて神戸内燃機製作所に改組,そしてそこを母体として,1920年には三

菱内燃機製造株式会社(翌年三菱内燃機株式会社と改称)が設立されている。しかし,この三菱

A型乗用車は22台を製造したところで,航空機への転換を理由として,1921年に生産を中止す

ることになったという。さらに,神戸造船所内燃機工場では軍用保護自動車の製作も行っており,

1920年に4屯車および3屯車各2台を完成し,陸軍の検査に合格したが,結局,辞退すること

になった。

・実用自動車製造株式会社 1919年大阪に実用自動車製造株式会社が資本金100万円で創立さ

れた。同社は,1918年に来日したウイリアム・R・ゴーハムが自動車試作工場を設立し製造した

自動三輪乗用車「クシカー」に,久保田篤次郎(久保田鉄工所社長久保田権四郎の女婿)が興味

を抱き,久保田権四郎を社長として設立され,ゴーハムの権利を10万円で買い取ることにより,

自動車製造に乗りだした。ゴーハムも招聘され,同氏が設計主任者となって新たに設計変更した

前一輪,後二輪の幌型自動三輪乗用車の試作に着手し,1920年6月頃には試運転を実施し,月

産50台を目標に製造に乗りだした。同年6月中には,それまでの久保田鉄工所の仮工場から第

1期工事が終了した南恩加島工場へと移転し,第2期工事完了後の同社建坪は1,349坪となった。

同社の設備はアメリカ人のレイアウトであり,米国式最新式の機械を使用した当時の最新最大の

自動車工場となった。1920年の終わり頃の従業員数は,職員25名,工員120名,合計145名に

達したという。

こうして生産されたゴルハム三輪車の生産台数は乗用車,トラック合計で150台に達したとい

う。さらに1921年11月からは,設計変更してゴルハム自動四輪車の製造へと切り替え,1923

年の生産打ち切りまでに100台を生産したという。さらに,1923年には新たに「リラー号」と

名づけられた丸ハンドル四輪車が製造,販売されることになった。リラー号は1926年までに約

200台が製造されたという。なお,リラー号までの設計に関わったゴーハムは,1922年には同社

を退社し,戸畑鋳物株式会社に移動した。

・白楊社 1912年に豊川順弥により機械の模型と各種機械製作を目的として,白楊社が設立さ

れた。同社は1918年,19年頃に自動車販売部を設け,アメリカ車やグッドイヤー・タイヤの輸

入販売を開始したが,他方で同社は国産車製造の計画を進めていた。1920年12月頃には,空冷

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780ccと水冷1,610ccエンジン各1台の設計を終え試作に着手している。「アレス」と名づけら

れたこの乗用車は,1921年末頃には完成し,その後に空冷エンジンは980ccにパワーアップさ

れたが,結局,12台の生産にとどまった。その後,同社は,1923年9月には国産「オートモ号」

の試作に着手し,1924年には試作が完成し,同年12月には本格的販売に乗りだし,欠損覚悟の

販売ではあったが,1928年に自動車製造の中止に至るまで,約230台を生産した。

その他,1919年頃に軍用制式自動貨車を試作完成させたといわれる京都の奥村電気商会,株

式会社東京自動車を退社した林茂木が1915年に設立した林自動車製作所で軍用特殊兵器車輌の

試作に乗りだすなどの自動車製造への取り組みもあった。しかしながら,これら国産メーカーの

経営は苦難の道を続け,順調に発展することはできなかった。

③ 軍用自動車補助法の制定

本章の最後に,第一次大戦期に自動車生産への参入を試みた多くの企業が関わった軍用自動車

補助法について触れておこう。陸軍が日露戦争終了後に,軍用自動車に対する調査研究,運行試

験,試作を行っていたことは先に述べたとおりである。1914年に第一次世界大戦が勃発すると,

ヨーロッパの戦線において自動車の有効性が認識されただけではなく,日本も青島におけるドイ

ツとの戦闘に軍用貨車4台が軍需品輸送に使用され威力を発揮した(18)。そこで陸軍は「当時,

英,独,仏などの陸軍が,民間保有の自動車を指定して補助金を支給し,有事の際の徴用に備え

るとともに,民間自動車工業の発達に役立たせていることを知った」(19)ために,軍用自動車補助

法の成立を図り,同法は1918年3月に法律15号をもって公布されることになった。

軍用自動車補助法は,「主務大臣ハ軍用ノ為何時ニテモ保護自動車ヲ収用又ハ使用スルコトヲ

得」(第8条)という目的を達成するため,「政府ハ予算ノ範囲内ニ於テ陸軍ノ軍用ニ適スヘキ自

動車ノ製造者又ハ所有者ニ対シ補助金ヲ下附スルコトヲ得」(第1条)という措置をとることを

規定したものである。この補助金は,予算の関係やその後の動員計画により何度か変更されてい

るが(20),四輪自動車および六輪自動車の2種類を対象に,貨物の運搬に使用する自動貨車,お

よび車体その他一部の改造により直ちに自動貨車として使用可能な乗合車のような応用自動車に

対し支給されたもので,有効積載量によって甲種~己種までの6種に区分された。その詳細は図

表4に示した通りであるが,製造補助金は竣工検査完了のものに対し製造者に支給されるもの,

購買補助金は保護自動車の一般購買者に支給されるもの,増加補助金は製造者が自己の製造した

保護自動車を使用する場合購買補助金の代わりに支給するもの,維持補助金は維持検査に合格し

た保護自動車に対し毎年度末購買使用者に支給されるものである。なお,所有者の資格およびそ

の他の要件が規定されており,資格としては,内地,朝鮮,台湾,樺太,関東省及満州,満鉄附

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 45

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属地に存在すること(21),帝国臣民又は帝国の法令により設立された法人であることが求められ,

製造者の資格およびその他の要件としては,製造者は購買使用者資格のほか,1カ年100台以上

を製造することができる設備を有し,かつその認定を受けなければならないなどと規定されてい

た(22)。

それゆえ,軍用自動車補助法は,陸軍が有事の際の備えとして,国産車メーカーの育成と保有

台数の増加を目指して施行されたものと捉えることができる。この保護自動車に認定されるため

には,重要部品の製作,その他部品も許可を受けたものを除き内地製品を使用,車台の総組立な

どの条件の上で,資格検定試験に合格することが必要とされた。しかし,先に述べたように,少

なからぬ企業の参入を促したことは事実であり,軍用自動車保護法は「瓦斯電・快進社・発動機

製造をはじめ,石川島造船所,三菱造船所などの各社の自動車製造を促し,日本の自動車産業の

発展を下支えした」(23)という評価は妥当であろう。しかし,この軍用自動車補助法・同施行細則

は何度も改正が繰り返されており(24),1920年代末には補助法の運用に注目すべき変化が生じ,

それまでの民間用との共用を重視した態度から,軍用専門車輌中心に変わったのであり,1929

年以降,製造補助金,購買補助金の減額,補助対象に6輪車が追加される一方3/4~1トンのト

ラックの除外などの変化があり,1932年以降は軍用専門の6輪車を中心に補助法が運営される

ことになったという(25)。

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)46

図表4 保護自動車補助金(1930年改正)(単位,円)

種 類 製造補助金 増加補助金 購買補助金 維持補助金

甲種4輪車 400 500 1,000 400

6輪車 1,400

乙種4輪車 750 500 1,000 500

6輪車 1,750

丙種4輪車 1,200 500 1,000 600

6輪車 2,220

丁種4輪車 250 375 750 300

6輪車 1,250

戊種4輪車 500 375 750 400

6輪車 1,500

己種4輪車 800 375 750 500

6輪車 1,800

(注) 甲~丙種は4輪または6輪自動貨車,丁~己は4輪または6輪応用自動車。甲

種と丁種は3/4仏瓲ないし1仏瓲未満。乙種と戊種は1仏瓲ないし1仏瓲半未

満。丙種と己種は1仏瓲半以上。維持補助金の期間は5カ年。

(出所) 尾崎正久『日本自動車史』自研社,1942年,242�3頁。

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この軍用自動車補助法の効果については肯定的,否定的評価があるが,1931年当時の認識と

しては,「日本の自動車工業が辛うじてその命脈を保つてゐるのは,大正7年から実施された軍

用自動車補助法と高率保護関税の賜であつて,これなくしては今日の存在さえ許されなかつたの

であろう。陸軍省の補助は軍備の整備上,貨物自動車の製造とその使用を助長せんがためであつ

て,ここにいふ工業の振興とは全然目的が違ふのである。けれども,これが間接に同工業を助成

し,今日の供給能力にまで育成せしめたことは事実である」(26)というのが一般的であろう。しか

し,コスト的,品質的に欧米車に劣る日本車が同法によって競争優位を獲得したということは決

してなく,国家的保護によって,何とか生き残るメーカーがあったという程度の効果を果たした

と理解するべきであろう。

3 国家的保護政策に支えられた自動車産業の確立

第一次大戦の終了後,1920年には日本経済は反動恐慌に襲われ,その後1920年代には「慢性

不況」に陥ったとされる。その中でも,日本企業による国産自動車生産への取り組みは継続する

が,前掲図表2に示されているように,国産車生産台数が1,000台を超えたのは1933年のこと

であり,1930年代初頭に至るまでの国産車生産台数は数百台にとどまっていた。しかし,国内

四輪車供給台数は1928年に1万台を超え,昭和恐慌の影響により1932~33年にやや低迷したが,

それ以降2~4万台規模の市場に成長していた。そのことは,成長した市場に国産車は対応でき

ず,輸入車および輸入組立車に市場を席巻され,1930年代後半に至って自動車製造事業法に代

表される国家的保護の下で,アメリカメーカーを閉め出し,国産車が市場を確保したということ

を意味する。しかし,戦争の進行とともに,自動車に対する国家による優遇が低下し,さらに戦

争の激化のなかで,国産車生産台数は太平洋戦争が開始した1941年をピークに減少に向かって

いくことになる。以下,本章ではまず関東大震災以降のアメリカ企業の参入のプロセスからみて

いこう。

① 関東大震災後のアメリカ企業の参入と自動車市場の発展

1923年の関東大震災は関東地方に激烈な被害を与えた。しかし,震災からの復旧過程で,壊

滅的な打撃を受けた「東京市電気局が,当時として大量な800台ものフォード T型トラック・

シャシーを,米国フォード自動車会社に発注」(27)するなど,アメリカからまとまった台数の自動

車輸入がなされることになった。このように,日本では復興の過程で,交通・輸送手段として自

動車が注目されることになったが,その日本市場に注目したのがフォードである。フォードは

1920年代初頭から中国への進出を検討していたが,関東大震災後に日本への進出を選択し,

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 47

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1925年2月には日本フォード自動車株式会社を設立した。このようにフォードは日本市場に積

極的な攻勢をかけ,1925年と26年に16,909台のアメリカ車およびカナダ車が日本に輸出された

が,そのうち16,689台はフォード車であったといわれている(28)。

フォードがこうして横浜で組立生産を開始したことは,GMにも影響を与え,同社は1927年

に(開業式は4月)大阪に日本ゼネラルモータース株式会社を設立し,シボレーはじめ乗用車8

車種,貨物車4車種の組立を開始した。さらに,クライスラーも日本への進出を検討したが,結

局,進出は実現しなかった。しかし,1930年に横浜に日本人が経営する株式会社共立自動車製

作所の組立工場が建設され,クライスラーのダッジを中心に3車種がノックダウン生産されるこ

とになった。

このようなフォードとGMを中心とするアメリカメーカーの日本進出は,日本の自動車市場

を大きく拡大することに貢献したことは評価すべきことである。前掲図表2に示したように,日

本国内供給は1926年の2,626台から29年の36,812台へと飛躍的な拡大を遂げたが,日本メーカー

は技術的にも未熟な段階にあったため,国内市場は完全にフォードとGMに席巻されることと

なった。本稿は日本メーカーを中心として分析することを目的としているため,アメリカメーカー

の動向の詳細はこれ以上記さない。以下,このような状況に対して,日本の政府および自動車メー

カーの状況をみていこう。

② 国家的保護育成政策と国産車メーカーの動向

明治期から第一次世界大戦に至る期間,黎明期の自動車生産への取り組みは少なからぬ個人・

企業が自動車生産への必死の取り組みを行ってきたことは既に述べた。しかし,1923年の関東

大震災後に国内市場が大きく拡大するなかで,国産車の生産は年間数百台という規模にとどまっ

ていた。そのような状況に対し,政策的な国家的保護育成政策により日本に自動車産業を確立し

ようという動きが生じていく。商工省機械局動力機械課長であった岩崎松義は,1941年5月に

以下のように述べている。「自動車工業方針確立が具体的にはつきりしましたのは御承知の通り,

昭和11年の自動車製造事業法が制定になつた以後のことでありますが,その以前に於きまして

も,既に我が国の自動車工業確立の素地が作られて居つたのであります」(29)とし,その「素地」

として,①軍用自動車保護法の制定,②省営自動車の開始,③商工省の標準形式車の制定,を挙

げている。

このうち,1918年の軍用自動車補助法の制定については既に述べているが,製造補助金は

「これは1噸半の自動貨車でございますと大体に於て二千円交付するのであります。その算出方

法は,その当時アメリカの車は五千円であつた。それを日本で作ると七千円かゝる。だから,そ

の差額の二千円を交付すれば日本で製造できるのではないか」(30)という認識であったという点の

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)48

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みを追加しておこう。他の2つについて簡単にみておこう。

省営自動車とは,国有鉄道の補助もしくは代行機関として,鉄道省が運行したもので,1930

年12月に岡崎と多治見間に開通させたバス路線を皮切りに,それ以降順調に拡大し,1935年に

は377台の省営自動車を数えるようになったという(31)。この省営バスには当初から国産車を使

用するという方針がとられており,軍用保護自動車以外の市場を提供することになった。

さらに,フォード,GMの日本進出により国内市場が米系メーカーに席巻される状況のなかで,

国際収支など経済的にもまた国防的観点からも国産自動車産業を振興させる必要があると判断し

た商工省は,商工省標準型式自動車の規格を制定し,製造補助金を支給することを決定する(32)。

具体的には,1926年5月に商工省が設置した国産振興委員会に対して1929年4月に「自動車工

業を確立する方策」が諮問され,翌年5月に得られた答申は「自動車工業確立の諸方策を実施す

る前に,自動車の国産化を図るための自動車工業確立調査委員会を設置して,十分な調査研究を

行なうとともに,標準型式自動車を試作して,あらかじめ国産車の性能を確かめることが望まし

い」(33)という内容で,東京瓦斯電気工業株式会社,株式会社石川島自動車製作所,ダット自動車

製造株式会社の3社を会員会社として1932年6月に結成された国産自動車組合に対して標準型

式自動車5種類9両の試作が委託された。1932年3月に完成した試作車に対して各種性能試験

や運行試験が実施され,同年11月に多少の設計変更を施したトラックTX35型,TX40,BX40

型各1両の再試作が完成し,それに外観等に改善を加えたものを標準型式自動車として,保護奨

励車種が決定されることになった。

この標準車には,製造奨励金として,1台あたり300円ないし500円が交付されたが(34),製造

状況は必ずしも順調とはいえず,製造実績は1933年は150台,1934年度は300台を製造し,300

台分の部品を満州の同和自動車向け輸出用として製造した。なお,商工省などは国産自動車組合

加盟3社を合併させる意向であったが,ダット自動車製造株式会社の大阪工場は組合設立以前の

1931年8月には戸畑鋳物株式会社に買収されていたため,石川島自動車製作所と営業権を中心

とするダット自動車製造との間で1933年3月に合併が成立し自動車工業株式会社が誕生するこ

ととなった。残る東京瓦斯電気工業との合併は1937年4月に東京自動車工業株式会社が創立さ

れることにより実質的な合併が実現することになった(1941年4月社名をヂーゼル自動車工業

株式会社へと変更,後のいすゞ自動車株式会社)。最後に,この標準車は1936年頃に軍の採用が

決定し,それまでの軍用保護6輪自動車は軍の直接発注車の対象に組み込まれたため,軍用自動

車保護法に基づく製造補助金および購買補助金支給制度は実質的に消滅することとなったことを

付け加えておこう。

なお,内務省が自動車取締令の運用措置として,一定規格の小型自動車を無免許で運転可能と

し,その製造を奨励したことが小型車市場の拡大を促していったことについて触れておこう。も

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 49

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ともと第一次大戦中の1917年頃「米国からスミス・モーターホィール(一種の発動機動輪)が

輸入され,最初自転車の後輪軸に取り付け乗り回すのがはやり,次には前二輪後一輪の足踏み三

輪車の後車軸にとりつけ,前車軸の荷物箱に若干の荷物を積んで,走ることが流行した」(35)とい

う形で,馬力がせいぜい1/2ないしは1馬力の三輪車が製造されていったが,内務省はこれに

対しおおよその規格を決め個々に出願させ認定を行い,合格した車に対しては無免許運転を許す

こととなった。この許可条件は自動車取締令の改正によって徐々に緩められていき,エンジン総

排気量でみると,1924年には350cc以内であったが,1930年には4サイクルエンジンは500cc

まで(2サイクルエンジンは350ccまで),1933年には4サイクルエンジンは750ccまで(2サ

イクルエンジンは500ccまで)と緩められ,4輪車でも無免許運転が可能となった。こうした内

務省の方針は,国民のニーズに基づく需要を見込んだ小型車の製造意欲を高めることになった。

③ 関東大震災から30年代前半期における自動車市場拡大下の国産車メーカーの動向

関東大震災後の自動車市場の拡大は,国産車メーカーのさらなる参入を促すことになった。し

かし,国産車メーカーはその需要の拡大を賄うことができず,欧米からの輸入車,さらにはフォー

ド,GMが日本に進出し,組立生産を実行するなかで,日本メーカーはアメリカメーカーに圧倒

的に国内市場を席巻されることになった。その中で,国産化メーカーは苦境に立たされるが,

1931年の満州事変以降,新たな取り組みが進んでいく。軍用自動車を中心とした国家的保護に

支えられた自動車と,当時の段階に於ける国民のニーズを組み込もうとした小型車製造を中心と

するメーカーの取り組みが進んでいく。以下,この時期の主要な自動車生産の取り組みをみてい

こう(36)。

・ダット自動車製造株式会社 橋本增次郞の株式会社快進社が経営不振のため1925年に解散し,

合資会社ダット自動車商会へと組織を編成替えしたことは既に述べた。このダット自動車商会は,

試作のダット号で試験的なバス営業を主たる業務とするにとどまり,自動車製造ではほとんど実

績を残すことができなかったようである。しかし,1926年には,大阪でリラー号を生産してい

た実用自動車製造株式会社がこのダット自動車商会を買収する形で合併し,ダット自動車製造株

式会社が発足することになった。

このダット自動車製造は,既に改進社で陸軍の検定に合格していたダット41型軍用保護自動

車を手始めに,その改良設計のダット51型,後藤敬義により新設計されたダット61型,さらに

ダット71型などを製造していき,1927年から30年の間に362台が生産されたという。さらに

同社は,1929年末にやはり後藤敬義の手により水冷式4気筒 500cc小型乗用車用ガソリンエン

ジン1台の試作を完成しており,翌年10月にはシャシーとボディを完成させ小型乗用車試作第

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1号車を完成させ,その後若干手直しした第2号車の試作をも完成させており,これらは「ダッ

トソン」と名付けられた。それ以降も,同社はこの2台の試作車を改良していき,1932年には

さらに8台の自動車を製造している(なお,車名は「ダットサン」と変更された)。

・東京瓦斯電気工業株式会社 既に述べたように,東京瓦斯電気工業株式会社は1920年反動恐

慌以降経営を悪化させ,1930年代初頭に至るまで,日野自動車工業株式会社の社史によれば

「暗黒の10年間」という状況に陥っていた。しかし,この間に,星子勇を中心とする同社技術陣

は新製品開発に必死に取り組んでおり,その成果は1931年満州事変以降の軍事予算増額の恩恵

を受け,1933年下期以降には業績の回復へとつながることになった。同社は「軍用自動車会社」

といわれたように,「後の昭和12年までに製造した自動車は,後期の一部鉄道省営バスを除いて,

ほとんど一貫して軍用保護自動車(トラック),および補助法に応用自動車と定義づけられ,補

助金の対象となる自動車すなわち軍用特殊車,一部のバス,民需用特殊車等に置かれていた」(37)

という状態が,1937年4月の自動車工業株式会社と東京瓦斯電気工業自動車部との合併準備の

ための東京自動車工業株式会社の創立まで継続していった。

・株式会社石川島自動車製作所 関東大震災により東京石川島造船所の深川区富川町の自動車工

場が被災したが,結局,工場を移転し,保護自動車の生産を継続することになり,1924年3月

にウーズレーCP型保護自動車が陸軍省から資格検定証書を下付されたことは既に述べた。以後,

同社は1927年までにウーズレーCP型だけで240台余りを生産したといわれている。また,

1925年以降は,ウーズレーCG型の製造も併行して開始し,1928年までに240台を生産したと

いわれている。これらには軍用保護自動車だけではなく,純軍用特殊車両やバスその他特殊車両

も含まれる。しかし,同社は,1926年にそれまでのウーズレー社との提携を解消し,独自設計

による国産車の製造に乗りだし,1928年に車名を「スミダ」と決定した。

以降,同社の製造車種は,過渡的に例外として製造された一部のウーズレー車を除き,スミダ

のブランドで統一されることになった。さらに,1929年5月には,国産車の本格化する時代を

見据えて,分社化することとし,株式会社石川島自動車製作所が資本金25万円で創立された。

同社は,軍用保護自動車,純軍用特殊車,バスなどの製造を続けていったが,業績を悪化させて

いった。その「主な理由はフォード,シボレーの米国車攻勢と,加えて軍用保護自動車が欧州大

戦後の軍縮と国家財政の緊縮により,軍方面の企図する生産計画台数に,一定程度の制約を伴っ

たこと」(38)にあるといわれており,その点はダット自動車製造や東京瓦斯電にも共通する事態で

あった。

・「国産3社」の合同問題と戸畑鋳物によるダット自動車製造株式会社の買収 このように,軍

用保護自動車製造会社各社の経営状態は,必ずしも順調ではなかった。そこで,「軍用保護自動

車製造会社である㈱石川島自動車製作所,東京瓦斯電気工業㈱,ダット自動車製造㈱のいわゆる

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 51

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『国産3社』の合同問題は陸軍省,商工省,鉄道省によって度々勧告されながらもなかなか実現

しなかった」(39)が,この合併交渉はようやく1930年代初頭に動き出す。まず,1932年に9月に

石川島自動車製作所とダット自動車製造との間で合併交渉が開始されるが,前年8月に戸畑鋳物

株式会社がダット自動車製造社長の久保田権四郞の有していた株式の大部分を入手し子会社化し

ていたため,戸畑鋳物の対応如何がこの合併交渉に影響を与えることになった。そのことは,戸

畑鋳物の社長であり,日本産業株式会社の社長であった鮎川義介の考え方次第ということであっ

た。

この点に関連し,1931年に戸畑鋳物取締役在任のままダット自動車製造の取締役を兼任した

山本惣治による鮎川の自動車構想に関する記述が興味深い。日産の自動車工業界への進出は,

「第一は自動車部品の製造である。第二は日本産業の傘下に自動車用の電装品,特殊鋼,塗料等

を生産する会社を育成して,総合工業たる自動車製造の準備を整えることであった。第三は日本

における既存の自動車メーカーを合併して,一個の強力な会社を組織すること,第四はまずフォー

ド,シボレー級の大衆車(ニッサン)をつくるに先立ち,これと抵触せざる小型乗用車(ダット

サン)を製作することであった」(40)という構想に,第三段階は必ずしも予定通りの進行ではなかっ

たが,ほぼ沿って行われたという。要するに,鮎川の構想は,「わずか少量の標準型式自動車の

製造や,古い既存の機械設備を利用することは全然考えず,べつに近代的大量生産方式による自

動車工業を確立することであった」(41)といわれており,そのためにダット自動車製造を買収した

のであった。

そして,前述のように,1933年2月には石川島自動車製作所と営業権を中心とするダット自

動車製造との間で合併が成立し,自動車工業株式会社が誕生することとなったが,1933年9月

には,「ダットサンとその部品の製造権ならびに営業にかんする一切の権利」(42)を合併契約時に

遡り戸畑鋳物が自動車工業から無償で譲渡されることになった。それ以降,1933年12月には,

日本産業600万円と戸畑鋳物400万円の出資により,資本金1,000万円の自動車製造株式会社が

設立され,さらに1934年5月には社名を日産自動車株式会社と改称し,ダットサンの量産化を

目指す動きが進められていく(43)。なお,3社合同問題は,自動車工業と残る東京瓦斯電気工業

との合併を残していたが,1937年4月に東京自動車工業株式会社が創立されることにより実質

的な合併が実現することになった。

・三菱の取り組み 1920年5月に三菱内燃機製造株式会社が設立されたものの,三菱 A型の生

産が中止されたことは既に述べた。その時に神戸造船所での自動車生産事業は,名古屋製作所に

移管され,さらに名古屋製作所分工場としていた芝浦工場に自動車関連作業は移管されており,

そこで輸入シャシーへの架装や各種自動車の整備・修理作業を継続していた。関東大震災の発生

は,被災した自動車の修理や整備などで同分工場は超多忙を極める状態となったが,その後同分

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)52

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工場の自動車関連事業は戦車関連の修理等を主体とするものとなった。

三菱が再び自動車そのものの製造に取り組むようになったのは,かつて三菱の自動車発祥の地

であった神戸造船所内燃機工場において,何度かの組織替えの後,1930年に再び神戸造船所内

燃機部として自動車の製造に取り組むこととなった時のことで,鉄道省の依頼に応じて,省営バ

スの開発に取り組んだ。シャシー第1号が完成したのは1932年5月のことであり,これは「B

46型」と称され,ふそう自動車第1号となった。さらにやはり鉄道省からの注文に応じて「BT

38型」と称した旅客牽引車も開発され,1933年2月には「B46型」バス4台と「BT38型」バ

ストラクター3台が鉄道省に納入された。こうして三菱は,ふそうバスを中心に自動車製造を続

けていったが,1935年に陸軍自動車学校から「野戦指揮官全輪起動自動車」の試作依頼を受け,

軍用4輪駆動乗用車の試作も行っている(44)。

・太田自動車製作所 自動車修理業を営むかたわら飛行機エンジンの試作も行っていた太田祐雄

は,1923年春に幌型ボディを取り付けた最初の国産乗用車の試作を完成させている。そこで同

年5月から8月の間に「OS号」と名付けたその乗用車の製造のために,神田柳原河岸にあった

自動車修理工場を株式組織と改め国光自動車株式会社を設立したが,関東大震災で罹災したため,

会社を解散せざるをえなかった。

しかし,しばらく後に太田は工場を再建し,個人経営の太田自動車製作所を設立した。その後,

同社は被災自動車の修理・再生等を行っていたが,1930年に無免許運転が可能な小型自動車の

エンジン容積が300ccと500ccへと拡大されたのを機に,1931年に500ccエンジンの小型トラッ

クを試作した。さらに,無免許小型車のエンジン容積が750ccにまで拡大される気運が高まる

中で(無免許運転のエンジン容積基準が750ccに拡大されたのは1933年8月),水冷四気筒サ

イドバルブ750ccの小型トラックの試作に着手し,1933年8月に試作を完成させている。「オオ

タ」号と名付けられたこのトラックと乗用車は,1936年に同社が高速機関工業株式会社に改組

されるまでに,合計60台ないし70台が生産されたといわれている。

・「アツタ」号と「キソ・コーチ」バスの試作 1931年の満州事変以降,名古屋において,何社

かが共同で中京自動車工業株式会社を設立しようという「中京自動車工業化計画」(45)が進められ

ていたが,それがなかなか進行しなかったため,サンプルとして自動車を試作しようということ

が計画された。これに参加したのが豊田式織機,大隈鉄工所,日本車両,岡本自転車の4社で,

各社が分担して1932年夏頃に2台の試作車を完成させている。「アツタ」号と命名されたこの試

作車の試作コストは,当時フォード車が3,000円の価格であったのに対し,9,200円であったと

いわれており,日本車両を除く各社はこの事業から撤退した。結局,1932年夏頃から1938年頃

にかけて乗用車とトラック・シャシー合計で14~16台程度が製造されたといわれているが,中

止のやむなきに至った。

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 53

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また,そもそも中京自動車工業化計画を提唱していた川越庸一自身が豊田式織機の研究所でコー

チ型低床式バス「キソ・コーチ」を1935年頃に12台試作し,完成させている。このバスは名古

屋市電気局においても市営バス用に採用されたが,エンジン,トランスミッション,アクスルは

外国製品を使用しており,純粋な国産車とは評価できない。

・川崎車輌 既に述べたように,川崎車両は1931年からエンジンの生産を開始し,1932年以降,

六甲号自動車の製造を継続していった。1932年から36年に,同社は六甲号トラック,バス,乗

用車合計240台,軍用制式自動貨車30台を製造している。

・豊田自動織機製作所 トヨタの自動車への参入は余りにも周知のことなので,ごく簡単に述べ

る(46)。豊田自動織機製作所の事業の一つに国産自動車の製造が加えられたのは1933年9月のこ

とである。しかし,常務の豊田喜一郎はそれ以前から自動車の製造を密かに準備していた。1930

年には4馬力小型ガソリンエンジンの試作・試験が開始され,1933年夏には600ccのバイク・

モーター10台が完成している。1933年9月には自動車部が設置され,1934年1月には臨時株主

総会で資本金を100万円から300万円に増資するとともに,定款を一部変更し,会社の目的に

「原動機及動力運搬機械ノ製作売買」「製鋼製鉄其他精錬ノ業務」を追加することが決議されてい

る。こうしていよいよ乗用車の試作が開始し,1934年10月に最初のエンジン(A型)が,35

年5月には大型乗用車試作第一号(A1型)が完成した。さらに,同年8月にはA1型乗用車と

同じエンジンを搭載したトラック1号車を完成させている。こうして,1936年5月29日に自動

車製造事業法が公布される以前に,自動車事業に参入しており,1937年8月には自動車部門が

分離独立し,トヨタ自動車工業株式会社が設立されている。

ここまで述べてきた国産自動車製造への取り組みは,フォード,GMというアメリカメーカー

が日本市場を席巻する中で,多くが軍用自動車補助法を中心とした国家的保護に依存せざるをえ

ないものであった。さらに,1936年5月の自動車製造事業法の制定と37年7月の日中戦争の開

始以降の統制経済への移行は,自動車産業を戦争目的の下に従属させていくことになる。しかし,

こうした方向とは別に,1930年代の半ば過ぎまで急成長した小型車の動向について,節を改め

て述べておこう。

④ 小型自動車製造への取り組み

これまで強調してきたように,明治時代からの先駆的取り組みを含めて,日本で自動車の製造

を試みる多くの営みがみられたことは,注目すべきことである。その中で,小型車分野に関して,

ここで確認しておこう。小型車の試作や製造は,これまでにも述べてきたように,早くも1913

年頃に試作第1号車を完成させた橋本増次郎の快進社自動車工場以降の取り組み,1916年に最

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終的に完成させた矢野倖一の「アロー」号(総排気容量1,054cc),ウイリアム・R・ゴーハムが

製造した三輪乗用車(「クシカー」)を原型として人力車に代用する実用自動車を作ることを目的

に1919年に創立された実用自動車製造株式会社の活動,1920年に豊川順弥が試作を完了した

「アレス」号(総排気容量空冷780cc,水冷1,610cc)以降「オートモ号」に引き継がれた白楊

社の活動,1923年に「OS」号と名付けられた乗用車(総排気容量950cc)の試作を完成して以

降「オオタ」号に引き継がれていった太田自動車製作所の活動など多くの先駆的の取り組みがあ

る(47)。

しかし,小型車市場が大きく拡大したのは,1930年代に入ってからである。図表5からその

概要が明らかであるが,1930年の小型四輪車生産はゼロ,三輪車は300台,二輪車は1,350台で

あったが,ピークに達した1937年にはそれぞれ9,695台,15,236台,2,492台とこの間に小型車

の生産拡大は目覚ましいものであった。こうした小型車の普及は,前述のように,無免許運転許

可車の規格拡大という制度的な要因に加えて,価格要因や道路状況などによるものであったとい

える(48)。1920年代から30年代前半期に普通自動車分野においてはフォード,GMに国内市場が

席巻されるなかで,1930年代半ば過ぎまで小型車生産が先行して拡大したことは特筆すべきで

あろう。

ここで四輪車を中心に,1930年代初頭から半ば過ぎまでの小型車分野における取り組み状況

をみておこう(49)。

・日産自動車による「ダットサン」の製造 戸畑鋳物がダット自動車製造と石川島自動車製作所

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 55

図表5 各種自動車生産台数推移

(出所) �日本自動車会議所調査部調査部長真鍋康男『我国に於ける自動車の変遷と将来の在り方』1948年。

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が合併した自動車工業から1933年9月にダットサンとその部品の製造権および営業に関する一

切の権利を無償で譲り受けたことは既に述べた。同社は同年11月にダットサンを改良し,エン

ジンサイズを747ccに引き上げ,12月末に戸畑鋳物自動車部は廃止され,自動車製造株式会社

が設立され(1934年6月に日産自動車株式会社と改称),ダットサンの製造販売に乗りだしてい

く。1931年秋からダットソンとして生産され,32年4月からダットサンと改名されて販売が開

始された同車は,当初は31年10台,32年150台,33年202台の生産にとどまっていた。しか

し,日産自動車の下で,34年には1,170台,35年4月からはそれまでの大阪工場に加えて横浜

工場でシャシーからの一貫生産を実施したため(36年初めに横浜本社工場に集中)同年は3,800

台,36年には6,163台,37年には8,353台と,当時としては画期的な大量生産を記録することに

なった。

こうして日産自動車は当時の日本最大メーカーの地位を確立することになったが,それをもた

らしたダットサンの販売拡大は,「�国産車である,�値段が安い,�日本の道路事情に適して

いる,�燃料代が安い,�無免許で運転できる」(50)などの特徴が認められ,乗用車は自家用車や

小型タクシーとして,トラックは三輪トラックの代替車として需要を拡大させたという。

・京三製作所による「京三号」の製造 1930年10月に,もともと電気医療機器類の製造を目的

に1917年に東京電気工業株式会社として発足した株式会社京三製作所は,鶴見工場において,

水冷式単気筒500cc,1/2トン積み小型トラックの試作に着手し,1931年3月に完成させている。

同年12月には「京三号」と名付けたその小型自動車の販売機関として資本金2万円で京三自動

車商会を発足させ,販売を開始した。さらに,1932年にはV型2気筒750cc,3/4トン積の改

良型「京三号」トラックを完成させ,量産に乗り出していった。1937年12月には同商会とトヨ

タ自動車工業,大洋商会の3社協同出資により,京豊自動車商会と改称し,資本金を1,000万円

に増資している。同商会は,横浜市鶴見区に新工場を建設するとともに,同月「京三号」の製造

部門を京三製作所から京豊自動車工業株式会社に分離独立させている。この「京三号」の生産台

数は,1931年から1938年まで合計2,050台余りに達したが,1937年の日中戦争開始以降困難な

形勢となり,1938年8月には「京三号」は生産中止となり,京豊自動車工業は社名を自動車部

品製造株式会社と変更することとなった。

・高速機関工業による「オオタ」号生産 「オオタ」号を製造していた太田自動車製作所が1936

年に高速機関工業株式会社に改組されたことは既に述べたが,同社の資本金100万円のほとんど

は三井財閥により出資されることになり,1936年4月には新工場が建設され,新しい設備の下

で,約250名の従業員を擁し,生産能力は年産3,000台であった。そして,同年12月には新型

「オオタ」号トラックが発表されて以降,トラックおよび乗用車の生産販売を開始したが,1938

年頃から,軍用車両でない小型自動車を生産していたため,生産用資材の調達が困難となり,実

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)56

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質的には製造は中止状態となった。

・東京自動車製造の創立と「筑波」の製造 1931年7月に川真田和汪は「ローランド号」と名

づけた小型前輪駆動車の試作を完成させている。さらに川真田は「新ローランド」として改善設

計するとともに,その企業化を働きかけることに奔走した。その結果,1934年に汽車製造株式

会社と株式会社石川島自動車製作所の折半出資により,資本金30万円で東京自動車製造株式会

社が設立され,車名を「筑波」と決定し,製造が開始された。同車は,750cc弱公称7馬力のガ

ソリンエンジン車で,当時の日本では画期的な前輪駆動車であった。この筑波号は1934年~38

年頃にかけて約130台が製造販売されたといわれているが,それ以降は1937年日中戦争の開始

以降の状況を受け,その製造は制限されることになった。

・「スピリット」および「ライト」の製造 1934年12月には,野村保之輔と牧田雅男は共同で

創立発起人となり,ライト自動車製造株式会社を設立し,国産小型車「スピリット」号の製造販

売に乗りだすことになった。同社の資本金は100万円であったが,1937年9月には同社はライ

ト自動車工業株式会社と改称し,資本金を300万円に増資し,国産小型車「ライト」の製造販売

を第一次計画では月産60台で量産を実施する予定であったが,日中戦争開始以降の情勢変化に

より,結局,試作程度にとどまることになった。

・ダイハツの小型四輪トラック製造 1907年に発動機製造株式会社として創立された同社は,

1951年にダイハツ工業株式会社と社名変更している。そこで,本稿では同社のことをダイハツ

と略記することにする。ダイハツは,1930年12月に500cc型ダイハツ1号車HAを完成して

いる。そのことはそれまでのエンジンメーカーから自動車メーカーへの転換の出発点に立ったこ

とを意味している。同社の小型三輪トラック生産台数は,当時の日本の実状に適合した移動・輸

送手段として,1931年177台,32年667台,33年1,113台,34年1,977台,35年3,391台,36

年5,122台と急増していき(37年以降は減少),三輪車トップメーカーの地位を確立した。さら

に,1937年には後述の陸軍自動車学校主催の四輪起動(駆動)式自動車比較審査会に空冷2気

筒1,200ccエンジン搭載の試作車を出品しており,小型ないし中型自動車の製造を計画していた。

実際に,1937年春には小型四輪トラックFA型(エンジン総排気量732cc)の製造販売を開始

したが,日中戦争開始の影響から資材入手が困難な状況となったため,量産には至らなかっ

た(51)。

その他,三井物産株式会社造船部が1932年4月に499cc水冷式4気筒ガソリンエンジンを完

成させ,同年6月乗用車とトラック各2台(小型車「やしま」)の試作を完成,株式会社宮田製

作所が1917年以降中断していた自動車の製作を再開し1937年にエンジン総排気量750cc空冷4

追来るV型2気筒の前輪駆動小型四輪トラックの試作を実施,小型三輪車を製造していた国益

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 57

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農機製作所(後に国益自動車製造株式会社と改称)が1938年に小型四輪車の試作を完成したな

どの多くの取り組みがあった。このように多くの企業が小型車市場への参入を試みたことを考え

ると,1937年の日中戦争開始以降,日本が戦時統制経済を実施し,資材供給等で軍需と結びつ

かない小型車生産の困難さが増すことがなかったら,日本の自動車産業にも別の可能性があった

ことは否定できない。この点については次章で再度述べることにする。

なお,日本内燃機株式会社(後の東急くろがね工業)では1935年に2気筒エンジン排気量

1,200ccの軍用四輪起動乗用車の試作車1台を完成したが,同年総排気量を1,300ccに増量した

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)58

図表6 1935年における国産自動車製造会社一覧

主要製品 製造会社 所 在 地 資本金(万円) 摘 要

乗用車及び貨車 東京瓦斯電気工業株式会社 大森区入新井 600 「ちよだ」号,他に牽引車及び装甲車

自動車工業株式会社 京橋区新佃島西町 600 「スミダ」号,他に牽引車及び装甲車

川崎車輌株式会社 神戸市和田山通 1,200 「六甲」号 乗用車

三菱重工業株式会社 神戸市湊西区 5,000 「扶桑」号 主として大型乗合車

日本車輌製造株式会社 名古屋市南区 1,000 「アツタ」号 乗用車

豊田自働織機株式会社 愛知県刈屋町 600 大衆乗用車及び貨車

聖製造株式会社 東京市 50 大衆乗用車及び貨車

戦車 三菱重工業株式会社 東京市品川区大井 5,000 戦車及び装甲車

神戸製鋼所 神戸市 2,000 戦車

日本製鋼所室蘭工場 室蘭市 3,000 戦車

汽車製造株式会社 大阪市此花区 930 戦車

日本特殊鋼株式会社 大森区 装甲車

自動車組立 日本フォード自動車株式会社 神奈川県子安 800 「フオード」

日本ゼネラルモータス株式会社 大阪市湊区 400 主として「シボーレー」

共立自動車製作所 神奈川県鶴見 10 主として「ドツジ」

側車附自動二輪車 日本内燃機株式会社 大森区大森 50 「くろがね」号,他に三輪車

ハーレーダビツトソン株式会社 赤坂区溜池町 40 「ハーレーダビツトソン」号

岡本工業株式会社 名古屋市中区 150 「能率」号

小型自動車 日産自動車株式会社 神奈川県子安 1,000 「ダツトサン」

高速度機関株式会社 東京市品川区 100 「オータ」

京三自動車商会 麹町区丸ノ内日興ビル 100 京三

発動機株式会社 大阪市西淀川区 200 「ダイハツ」

兵庫モーター製作所 神戸市苅藻通 10 HMC

日本エーヤーブレーキ会社 神戸市脇ノ濱 60 「ツバサ」

東洋工業株式会社 広島市外府中町 200 「マツダ」

日本自動車株式会社 東京市大森 50 「ニユーエラー」

安全自動車株式会社 東京市赤坂区 100 「安全」

ハーレーダビットソン株式会社 東京市品川区 40 「ハーレーダビツトソン」

中島三輪車部 大阪市西区 「ヤマーター」

富士鐵工所 堺市遠里小野町 20 KM

大澤商会 京都市三条 300 「サクセス」

岡本工業株式会社 名古屋市 150 「ノーリツ」

ホーソンモータース合資会社 東京市 3 「ホーソンモータース」

ヂヤイアントナカノモータース株式会社 名古屋市 5 「ヂヤイアント」

(注) 一部誤植を訂正した。

(出所)『国産自動車全史』オートモビル社,1940年,36�7頁。

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エンジンを試作完了し,1936年には240台の以上の四輪起動乗用車を製造したという。さらに,

翌1937年には総排気量1,400ccの改良したエンジンを搭載した四輪起動乗用車の量産を開始す

るなど軍用四輪起動乗用車の試作・製造に積極的に取り組んだというが,本稿ではこれ以上は言

及しない。

本節の最後に,特に解説はしないが,自動車製造事業法の成立する前年の1935年におけるオー

トモビル社の調べによる国産自動車メーカーの一覧表を掲げておく(図表6)。

⑤ 自動車製造事業法の成立と日本自動車産業の確立

1936年5月に公布された自動車製造事業法は,これまでフォードやGMを中心とするアメリ

カメーカーに市場を席巻されていた状況を大きく変えていくことになった。自動車製造事業法の

成立により,日産とトヨタはそれまでフォード車,GM車,さらに共立自動車製作所が組み立て

ていたクライスラー車プリムスに準ずるいわゆる大衆車の生産に乗りだし,それまで国産車のな

かで台数ベースで先行していた無免許運転が許可される小型車に替わり,日産とトヨタが日本の

自動車市場のなかで中心をしめるに至った。その状況を図表7で確認してみよう。

自動車製造事業法の成立した前年の普通自動車の生産は僅か1,181台であり,小型四輪車の

3,913台と合計しても約5,000台と,フォードやGMを中心とする輸入組立車に対して圧倒的に

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 59

図表7 自動車生産台数

普通自動車 輸入組立車 小型四輪車 日 産 トヨタ いすゞ

1935 1,181 30,787 3,913 3,800 20

1936 5,851 30,997 6,335 6,163 1,142

1937 10,239 28,951 9,695 10,227 4,013 1,210

1938 15,755 20,000 8,217 16,591 4,615 1,655

1939 30,089 3,153 17,781 11,981 4,196

1940 43,706 2,439 15,925 14,787 7,148

1941 43,878 2,590 19,688 14,611 7,767

1942 35,491 1,710 17,434 16,302 5,639

1943 24,207 933 10,753 9,827 5,724

1944 21,453 355 7,083 12,720 3,845

1945 6,723 31 2,001 3,275 683

(注) 1949年にいすゞ自動車株式会社と社名が変更された同社の前身は,1937年4月設立の東京自動車工業株式会

社であり,1941年4月には社名がヂーゼル工業株式会社と改称されているが,ここではいすゞと表記した。な

お,いすゞの生産台数は年度数値。

(出所) �日本自動車会議所調査部調査部長真鍋康男『我国に於ける自動車の変遷と将来の在り方』1948年,『日産自

動車30年史』,『トヨタ自動車30年史』,『いすゞ自動車50年史』。

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劣位な状態にあった。ところが自動車製造事業法の成立した1936年をピークに輸入組立車は減

少に向かい,1939年には組立生産を停止するに至った。それに替わり,国産車の生産が拡大し

ていき,日中戦争の開始した1937年には戦時統制経済の強化により小型車生産はピークに達し

たが,普通自動車の拡大が太平洋戦争が開始した1941年まで続いていく。こうして,アメリカ

メーカーを閉め出す形で日産とトヨタを中心とする国産車の生産が拡大し,1940年前後に日本

の自動車産業はようやく確立したということができる。いうまでもなく,それは自動車製造事業

法を中心とする国家的保護政策の支えにより可能となったものであり,軍用トラックを中心とす

る軍需に依存するなどの大きな限界を伴ったものであった。この点については,次章で展開する

が,以下,まずは自動車製造事業法の成立プロセスとその性格について,簡単に述べていこう。

自動車製造事業法の成立の前年,1935年8月9日の閣議では,自動車工業法案が提出され,

決定されている(52)。この法案の要旨は,1.「大衆車の組立又は主要部分品の製造事業は之を許可

事業とすること…」,2.「前項の許可を受け得る者は株数の過半数が日本臣民又は帝国法令に依

り設立したる法人にして,議決権の過半数が日本臣民に属するものに属する株式会社に限ること」,

3.「第一項の許可を受けたる事業に関しては産業上,国防上必要なる監督規定を設くること」4.

「現に存する自動車工業にして第一項に該當するものについては本方針決定當時における現存範

囲内においてのみ既得の権益を認むるもその後における新設または拡張については法律施行の際

遡りてその権益を容認せざること」という内容であった。この法案に対して,町田商相は,「来

議会に自動車工業法案を提出したき旨を述べ,既に事務當局においては,内務,鉄道,大蔵,外

務,陸,海軍の関係各省當局並に主要製造業者と大体基礎的折衝を終了した旨諸般の経緯を説明,

政府の了解を求めた」という。

上記法案要綱の運用方針として,商工当局の見解は,1.「上級大衆車の自給自足を目標」,2.

「許可事業の特典を享有し得る資格は大体年産五千乃至一万台程度の生産者とする」,3.「當局は

大体1,2社が許可事業の特典を享けるものとみている」,4.「小型車,その他特殊車を法律適用

外とする」,5.「内外製造業者の既得権益は8月9日現在を基準とすること,しかしてその後の

新設又は拡張を濫りに認めず,内地製造業者の存立の基礎を確保する方針である」となっている。

このように本要項に,基本的には翌年の自動車製造事業法で規定される根本的方針が前もって盛

り込まれたのには訳がある。すなわち,当時,日本フォードは既に量産組立を実施していたが,

「京浜地帯に約30万坪ほどの工場用地を買収して,製鉄から部品の製造を行ない,最後の組立ま

でを一貫作業でフォードの大量生産を実施する,大規模な工場計画を立てていた」(53)のであり,

以前から純国産自動車工業の確立を意図していた陸軍省がこのフォードの計画に危機感を抱き,

商工省との協議を繰り返し原案を作成し,各省の賛同を求めた結果この閣議決定となったのであ

る。そして,自動車製造事業法の公布は1936年5月29日であるが,その発効はこの法案要綱が

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)60

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閣議決定された前年8月9日となった(54)。

こうした自動車製造事業法の成立に至るプロセスで,陸軍が演じた役割は大きい(55)。1918年

に軍用自動車補助法が制定されたことは前述の通りであるが,1928年には,永田直武少佐と陸

軍自動車学校教官であった伊藤久雄が選ばれ,「満蒙」の自動車運行状況の一般偵察が行われた

が,その視察の結果,従来の補助法政策はその効果が十分ではなく,伊藤久雄の意見は「有事に

際して徴発するトラックは,共にフォード,シボレー級と同等の自動車にすべきである」(56)とい

うものであった。さらに,伊藤久雄は1928年の済南事件の際の経験から,フォード,シボレー

級の国産大衆車を製造,普及させることが必要であるとの確信を強め,また「満州事変」に際し

ての経験から,フォード,シボレーと比較して,国産車は故障が多く,「戦争に使う自動車は,

そのような大衆車であらねばならぬとの信念を強めた」(57)といわれており,商工省,内務省,鉄

道省その他の関係官庁への働きをも強めていくことになった。

1934年3月には,陸軍省が主導して国産自動車型式決定委員会を設置し(58),将来の目的とす

る自動車の型式について審議し,軍用1屯車と称するフォード・シボレー級の大衆車と決定し,

フォードの4気筒,シボレーの6気筒に準ずる各2台の試作を決定し,それを協同国産自動車株

式会社および川崎車両株式会社に命じた。1935年1月に完成した試作車に対して綿密な性能試

験が実施され,同年7月に修正された改修車に第2回目の試験を実施した結果,この大衆車の量

産の奨励が目指されることとなった。

このように陸軍省が主導して,フォード・シボレー級の大衆車の製造による自動車工業確立の

方向が定まっていくなかで,陸軍省は自動車工業,三菱重工業,川崎車両,東京瓦斯電気工業,

三井物産,自動車製造(後,1934年6月に日産自動車株式会社と改称)などに大衆車の製造を

勧誘したが,各社とも乗り気ではなかったという(59)。そこで,自動車の製造に乗りだしていた

豊田自動織機が注目され,同社は「当社が自動車製造に着手したことを知った商工省および陸軍

省は,当社に対し,国策上トラックおよびバスを製造するよう要請してきた。そこで当社はトラッ

ク,バスの製造を新たに自動車事業のなかに加えることを決めて,昭和十年三月トラック部門を

設け,34年型フォード・トラックを購入し,それを参考にトラックの設計に着手」(60)すること

となり,この間の詳細は省略するが,1936年5月に公布された自動車製造事業法による自動車

製造事業委員会の9月15日の第1回委員会において,許可会社として認可されることとなった。

自動車製造(日産自動車)の場合,当初は小型車ダットサンの量産を成功させ,より大型の一

般用自動車の製造は日本ゼネラルモータースとの提携を模索し,国産大衆車の製造に消極的であっ

た。しかし,日産自動車も「日本ゼネラル・モータースとの合弁会社が不調に終わった直後に,

自動車製造事業法が発布されることが決まったので,日本産業は日産自動車株式会社をして,同

法による許可会社の申請を急いで出させること」(61)になり,豊田自動織機と同時に許可会社とし

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 61

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て認可された。

さらに,前述のように,自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部の両社を合併させる目的で

1937年4月に設立された東京自動車工業株式会社(1941年4月には社名をヂーゼル工業株式会

社と改称,1949年にいすゞ自動車株式会社と社名が変更,以下いすゞと表記する)は,自動車

製造事業法成立時点では許可会社としての申請を見送っていたが,その後商工大臣への申請を行

い,1941年4月には許可が下りることになった(62)。ただし,同社の許可会社としての対象は,

将来ディーゼル車の大量生産を目的とする鶴見および川崎の製造所とされ,同社日野製造所は,

従来通りいわば「軍に従属」する状態におかれることになった。そのために,同社に対する許可

会社として2つの条件が課せられたという。一つは,同社は将来ディーゼル車の製造に専念する

こと,そのためディーゼルメーカーである三菱重工業,日立製作所,池貝自動車,川崎車両のディー

ゼル技術を同社に参加させ,国内のディーゼル車製造を一元化すること。二つ目は,日野製造所

の2年以内の分離独立であった。

ともかくも,自動車製造事業法の成立以降,前掲図表7に示されているように,日本の自動車

産業は,アメリカメーカーを日本市場から閉め出し,それに代わり日産,トヨタ,いすゞの許可

会社3社を中心に一定の量産規模を達成することに成功した。それゆえ,前述のように,1940

年前後に日本の自動車産業は確立したと評価できる。しかし,その確立は大きな限界を伴ったも

のであり,その点を含めた日中戦争開始以降の自動車産業の状況については,次章で述べること

にする。

(1) 2000年代半ば頃までは,これらの調査の多くは,安保哲夫元東京大学教授を代表とする日本多国

籍企業研究グループの一員として実施したものである。同研究グループには謝意を表したい。

(2) この米系メーカーの日本進出については多くの文献が述べているが,比較的新しい書物として,佐

藤誠『横浜製フォード,大阪製アメリカ車』株式会社城南光村,2000年は詳細な事実を明らかにし

ており,興味深い。

(3) 例えば,奥村正二『自動車』岩波新書,1954年は,「明治32年(1899年)の秋米国製電気式自動

三輪車が1台日本へ持込まれた」(173頁)と記している。また,齋藤俊彦『轍の文化史 人力車

から自動車への道』ダイヤモンド社,1992年では,「明治31年(1898年)2月6日。この日こそ,

東京市民,いや日本にとっての初めて自動車が披露された日である」(201頁)としている。なお,

中部博『自動車伝来物語』集英社,1992年は,大須賀和美氏や齋藤俊彦氏の見解を含めて,この点

について,丹念に検討しているが,ここではこれ以上立ち入らない。

(4) 自動車工業会『日本自動車工業史稿(1)』1965年,8頁。同上書はこの点についてページを割いて,

種々の説を検討している。なお,本稿では,基本的には四輪自動車を中心に分析することにする。

(5) 同上書,「第三部 自動車輸入販売(1)」を参照した。

(6) 同上書,72頁。

(7) 以下,特に断らない限りは,同上書,「第六部 自動車製造の芽ばえ」による。

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)62

�注�

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(8) オートモビル社編『国産自動車全史』オートモビル社,1940年,8頁。なお,明治期から大正5年

頃にかけて車名も付されずにかつ試作的なものが15~6台制作されていると推定している。

(9) 奥村正二「自動車工業の発展段階と構造」(有沢広巳編集『現代日本産業講座Ⅴ各論Ⅳ 機械工業

1,岩波書店,1960年』)によれば,創業当初から自動車製造に乗りださなかった理由は,「技術的障

害があまりにも大きかった」(251頁)ことにあるという。なお,同上論文241�57頁における記述は,

橋本の手記をも活用した快進社に対する優れた分析である。

(10) 奥村正二,前掲書,179頁。

(11) 以下,特に断らない限りは,自動車工業会『日本自動車工業史稿(2)』1967年,「第六部 自動車

工業の端緒期」による。

(12) ダイハツ工業株式会社60周年記念社史編集委員会編集『六十年史』1967年,11�2頁。

(13)『川崎造船所40年史』1936年,175頁。

(14) 日野自動車工業株式会社発行『日野自動車工業40年史』1982年,17頁。

(15) 以上については,同上書,17�2頁を参照した。

(16) いすゞ自動車株式会社社史編集委員会編集『いすゞ自動車50年史』1988年,3頁。

(17) 三菱自動車工業株式会社総務部社史編纂室編纂『三菱自動車工業株式会社史』1993年,32頁。以

下,三菱の取り組みは同上書による。

(18) 尾崎正久『日本自動車史』自研社,1942年,209�10頁。

(19) 宮田應義「商工省初期の自動車行政」(�自動車工業振興会『日本自動車工業史行政記録集』1979

年),2頁。

(20) 軍用自動車補助法の改定については,大場四千男『日本自動車産業の成立と自動車製造事業法の研

究』信山社,2001年,80頁以下が詳しい。本稿では,改正の詳細については論述しない。

(21) 所有者の範囲が朝鮮,台湾,樺太,関東省等に拡大されたのは,1921年の改正からである。同上

書,98頁参照。

(22) 以上については,尾崎正久,前掲書,1942年,241�5頁,参照。

(23) 日本自動車工業会『日本自動車産業史』1988年,13頁。

(24) 呂寅満『日本自動車工業史 小型車と大衆車による二つの道程』東京大学出版会,2011年,78頁

の一覧表を参照。

(25) 同上書,81�2頁,参照。

(26)「エコノミスト」第9年第19号,1931年10月1日発行,20頁。

(27) 自動車工業会(1967),前掲書,431頁。なお,米系メーカーの日本進出については,基本的には,

同上書,429頁以下を参照した。また,桜井清『戦前の日米自動車摩擦』白桃書房,1987年の詳細な

分析を参照した。

(28) MiraWilkins& FrankErnest,AMERICAN BUSINESSABROADFordOnSixContinents,

WayneStateUniversityPress,Detroit,1964,p.151.

(29) 笠松愼太郎編集兼発行『我国の自動車工業に就て』�帝国自動車協会,1941年,2頁。

(30) 同上書,4�5頁。

(31)『トヨタ自動車30年史』1967年,30頁,参照。

(32) この間のプロセスについては,基本的には,自動車工業会(1967年),前掲書,160�5頁,および

自動車工業会『日本自動車工業史稿(3)』1969年,4�15頁を参照した。

(33) 宮田應義「商工省初期の自動車行政」,�自動車工業振興会『自動車史料シリーズ(3) 日本自動

車工業史行政記録集』1979年,4頁。

(34) �自動車工業振興会の同上書は500円,自動車工業会(1969年)の前掲書は300円と記載してい

る。

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上) 63

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(35) 自動車工業会(1967年),前掲書,155頁。以下の叙述は,同上書を参照した。

(36) 以下,特に断らない限りは,この間のプロセスについては,自動車工業会(1967年),前掲書,第

六部,および自動車工業会(1969年),第三部,を参照した。

(37) 自動車工業会(1967年),前掲書,343頁。

(38) 同上書,378頁。

(39) 通商産業省編集『商工政策史』第18巻,機械工業(上)〔戦前編〕,1976年,409頁。

(40) 山本惣治『日本自動車工業の成長と変貌』1961年,216�17頁。

(41) 日産自動車株式会社総務部調査課編集『日産自動車三十年史』1965年,30頁。

(42) 同上書,32頁。

(43) 日産の自動車産業への取り組みについては,宇田川勝氏の一連の業績,特に,同氏『日産コンツェ

ルン経営史研究』文眞堂,2015年,を参照した。

(44) 以上の三菱の取り組みについては,三菱自動車工業株式会社総務部社史編纂室編纂,前掲書,47�

57頁を参照した。

(45) 中京自動車工業化計画については,牧幸輝「『中京デトロイト計画』とその帰結 戦前自動車開

発の諸相と軍需工業化の影響について 」,名古屋市立大学経済学会「オイコノミカ」第48巻第1

号,2011年が詳しい。

(46) 以下の叙述は,株式会社豊田自動織機製作所社史編集委員会編集『四十年史』1967年,184頁以下

を参照した。

(47) 以上の叙述は,自動車工業会(1967年),前掲書,「第六部 自動車工業の端緒期」による。

(48) 呂寅満,前掲書,170頁以下を参照。なお,同書は,戦前から1960年代までの自動車産業を詳細

かつ明晰に分析したもので,「国産大衆車工業の形成と共に国産小型車工業の衰退といった自動車工

業の編成替え」(同上書,9頁)を明らかにするという視点が一貫している。

(49) 以下の叙述は,特に注記なき場合は,自動車工業会(1969年),前掲書,第三部第五章を参照した。

(50) 日産自動車株式会社総務部調査課編集,前掲書,47頁。なお,この部分は基本的に同上書,特に

45頁以下を参照した。

(51) ダイハツ工業株式会社60周年記念社史編集委員会編集の前掲書を参照した。

(52) 以下,この法案に関しては,引用文も含めて,「東洋経済新報」第1667号,1935年8月17日,66

頁を参照した。

(53) 自動車工業会(1969年),前掲書,36頁。なお,このプロセスについては,宮田応義氏の発言(�

自動車工業振興会『自動車史料シリーズ(1) 日本自動車工業史座談会記録集』1973年,63�4頁)

を参照。

(54) 自動車工業振興会(1979年),前掲書,36頁の小金義照氏の発言を参照した。

(55) 以下の叙述は,自動車工業会(1969年),前掲書,20�32頁,伊藤久雄「自動車工業化確立に関す

る経過 陸軍の自動車行政 」(�自動車工業振興会(1969年),前掲書,12�20頁)を参照した。

(56) 自動車工業会(1969年),前掲書,22�3頁。

(57) 同上書,24頁。

(58) 以下の叙述は,同上書,28�29頁を参照した。

(59) 同上書,32�33頁を参照した。

(60) 株式会社豊田自動織機製作所社史編集委員会編集,前掲書,190頁。

(61) 浅原源七氏の発言(�自動車工業振興会(1973年),前掲書,63頁)を参照した。

(62) 以下の叙述については,いすゞ自動車株式会社/いすゞ自動車史編纂委員会『いすゞ自動車史』

1957年,69�70頁を参照した。

戦前期日本自動車産業の確立と海外展開(上)64