大日本帝国憲法下の日本陸軍の法制面と問題点 - 明治大学...【説論】...

32
Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 77(6): 237-267 URL http://hdl.handle.net/10291/1355 Rights Issue Date 2005-03-22 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title大日本帝国憲法下の日本陸軍の法制面と問題点-日本

    陸軍の創設から消滅まで-

    Author(s) 宮崎,繁樹

    Citation 法律論叢, 77(6): 237-267

    URL http://hdl.handle.net/10291/1355

    Rights

    Issue Date 2005-03-22

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 法律論叢

    第七七巻

    第六号

    (ご○〇五

    ・三)

    【論

    説】

    大日本帝国憲法下

    の日本陸軍の法制面と問題点

    日本陸軍の創設から消滅ま

    自信と高慢

    アジアの盟主に向け

    人紘

    一宇

    の幻想

    1

    徴兵制

     23

    明治新政府は、固有の軍事力を持たす、当面各藩の軍隊を利用せざるをえなかった。慶応四年

    (一入六八年)の陸軍

  • 8

    は、

    一万

    つき兵

    一〇

    (当分三人)、

    地方

    に五

    を、

    一落

    人以

    場合

    は指

    ヨ2

    せ。

    一万

    つき

    三〇

    三度

    に分

    せて

    を兵

    の給

    にあ

    た。

    の実

    戸幕

    の軍

    役体

    と変

    のな

    いも

    った。

    西郷隆盛、板垣退助ら有力者が自藩

    にとどまり、政権

    の基礎は容易に固まらなか

    った。

    一八六九年六月兵制

    に関し、大村益次郎

    (村

    田蔵六)を主とす

    る長州藩

    は、国民徴兵制

    による中央直属

    の常備軍創設を主張、大久保利光を主

    とする薩摩藩は、薩

    ・長

    ・土三藩

    の兵

    によることを主張

    した、前者

    は不平士族

    を、後者は農民

    ・町民の

    一揆反抗を対象とした。論争

    の末、大村案は否決

    された。

    明治

    四年

    (一八七

    }年)二月

    二三

    日、薩

    ・長

    ・土

    の三藩

    に御

    召集

    の命

    が出

    れ、

    でに薩

    から

    ・砲

    四隊

    (市

    ケ谷旧尾張屋敷跡

    に駐屯)、

    州藩

    ら歩

    (西丸大手町前及

    び山下門内駐屯)、

    土佐

    から

    ・騎

    二小

    ・砲

    二隊

    (旧

    一ツ橋屋敷跡、桔梗門及び数寄屋橋内駐屯)、

    七五

    部省

    の指

    った。

    同年

    長各

    一大

    隊を

    五年

    三月

    の二

    一大

    に合

    て、

    た。

    一大

    ○人だつ鷲

    明治

    四年

    (一入七

    一年)七月

    一四

    日廃

    置県

    の八月

    、東

    、大

    、鎮

    西

    (熊本)、東

    (仙台)に四

    を設

    、歩

    一〇

    大隊

    一九

    、砲

    二隊

    、造

    (工兵)

    一隊

    の合

    七九

    を配

    た。

    これ

    日本

    の創

    みら

    る。

    の後

    明治二年

    (一九六九年)六月から明治三年

    (一入七〇年)八月

    にかけて、欧州

    の兵制を研究し、国民皆兵

    の徴兵制度

    の必要を

    痛感して帰国した山県有

    (兵部大輔)、西郷従道

    (同少輔)、川上純義

    (同)等

    は、徴兵制度

    の採用を強調、明治四年

    (七

    一年)

    =

    月二人目

    「全国徴兵の詔」が発せられた。

    六年

    (一八七三年)

    一月

    六軍

    に分

    し、

    ・広島

    鎮台

    よう

    に変

    更、

    には

    さら

    に北

    を追

    た。

  • 一月

    一〇

    「徴

    布。

    一回

    の徴

    は同

    に行

    われ

    入営

    た。

    士官の養成に

    ついては、慶応四年京都に陸軍兵学校、明治二年

    には大阪兵学寮を設置、明治五年東京

    に移して東京兵学寮と改称。同

    年四月青年学舎を陸軍士官学校、幼年学舎を幼年学校と改め、五月に新

    たに教導団を併置した。明治

    二〇年士官生徒

    は士官候補生

    変わ

    った。士官生徒は

    一一期までで約

    =二〇〇人、士官候補生

    一期から五八期までで約三万六九〇〇人だ

    った。軍政面

    では明治五

    年二月に、。れまでの丘ハ部省にかわり陸蟹

    が設置された.

    点題問と

    2

    西南戦争

    厨瀞動

    明治

    δ

    (天

    七七年)二旦

    五日、西郷隆盛皇

    将とする旧薩摩董

    と私学校生徒

    (一万・手人、九州各地の士族が

    加わり三万人)が

    熊本

    に向

    い、

    府軍

    (五万八五八五人)

    の間

    に西

    南戦

    が尋

    」つた・

    カ月

    び・

    (2)

    日薩摩軍は城山で全滅した。西南戦争の結果は、封建的武力の消滅と、徴兵制度による新丘ハ制の確立をもたらした。

    下龍魍

    3

    軍人勅諭

    躰大

    明治

    =

    人七八年)八月二三日、西南戦争の直後に

    「竹橋事件」が起こった。麹町竹下門内にあった近衛砲兵

    大隊の下士官ら二六〇余人が西南戦争の論功行賞

    の遅れと俸給

    の減額に反発し、大隊長宇都宮少佐と週番士官深澤大

    尉を殺害して兵営を占拠、天皇に直訴すべく赤坂の仮皇居に向け出発したが、共に行動予定だった近衛歩兵に阻止さ

    39

    て二四日鎮圧された。この事件の明治政府に与えた衝撃は大きく、憲兵の設置や、軍人勅諭

    (明治

    】五年一月四日)の

    2

  • によ

    を引

    た。

    402

    は、

    (頭

    )、

    人を

    (股

    )

    と位

    置付

    、忠

    ・礼

    ・武

    ・信

    ・質素

    の根

    の政治

    いた。

    勅諭

    は、

    の後

    、日本

    構成

    の精神

    った

    が、

    の内

    は、抽

    であ

    、実

    に兵

    の具

    的行

    で規制

    に到

    った、

    は中

    「三

    規律

    注意

    と比

    較す

    明確

    であ

    (三大規律

    は①

    べての行動は命令に従う。②民衆

    のも

    のを

    一本

    の針、

    一本

    の糸も没収しな

    い、③す

    べての歯獲品は公

    のものとする。八項注意は11人

    の家に休

    むときは人民の同意を受け

    水甕

    の水

    は+分もとの考

    に満

    たし・便所は別

    に饗

    壊したものは弁償すると

    いう

    に具体的に示したV。

    また、軍人の政治不干与の訓えは、政治的知識の欠如、政治的無知を招き、広い視野での判断を妨げ、また直情径

    行的に直接行動に走るという欠陥の原因にもなった。

    明治

    =

    (一入七人年)

    一〇月西郷従道の上申により、

    一二月五日、従来陸軍省の

    一局だった参謀局が、参謀本部

    法「

    立、

    天白王に直

    た.

    .日本

    の軍

    、当

    フラ

    スに範

    って

    いた

    が、

    三年

    (一入七〇年)か

    翌年

    かけ

    た普

    フラ

    スが敗

    ことも

    一〇

    年代

    から

    ツ式

    に改

    めた

    4

    軍の性格の変化

    明治

    一五

    (一入入

    二年)

    は、

    って重

    った。

    (一月四日)、

    (八月五

    日)、

  • (八月

    一二日)

    が定

    めら

    た。

    日本

    は、当

    、国

    一のた

    の、主

    て内

    に備

    る兵

    った

    が、

    西

    戦争

    以後

    のた

    の兵

    にな

    り、

    が、

    一五

    は、

    に、

    のた

    の外

    の性

    (3)

    つようにな

    った。そのき

    っかけは、朝鮮をめぐる清国、次

    いでロシアとの関係にあ

    った。

    軍制整備の過程で、清国や

    ロシアと外地

    (朝鮮や満州)でも戦える外征軍に編成しなおすため拡張を主張する山県

    』…有

    (監軍)、大

    山巌

    (陸軍大臣)、桂太

    (次官)、川

    上操

    (近衛二旅団長)等

    のド

    ツ派

    と、

    これ

    に反

    し侵

    入軍

    慰問

    台編

    の防

    衛軍

    に留

    よう

    とす

    る谷

    (農商務大臣

    ・中将)、

    小弥

    (元老院議官

    ・中

    将)、

    浦梧

    (東京鎮

    と価

    台司令官

    ・中将)、

    曽我

    (参謀本部次長)、

    堀江

    芳介

    (近衛

    一旅団長)ら

    フラ

    ス派

    が対

    。拡

    張派

    が勝

    制磁

    左遷

    た。

    車塵

    は、

    「建

    の目

    には

    たん

    に敵

    の襲

    ら国

    て局

    等国

    の目的

    と、

    いに

    武威

    を輝

    本日

    、国

    の時

    雌雄

    に訴

    しも

    の侮

    りを

    、国

    ても

    でき

    る軍

    }等

    の蔚

    の目的がある.日本の軍制は⊥

    的に留まる・と守

    欧州強国と同じ目的を追求している.したがって、徴兵

    の方法其の他の百般の事も、すべて後者

    の目的に基ぞ

    べきである」と述べていた・以後、山県有朋

    の派閥が肇

    常本

    よう

    にな

    った。

    日大

    明治

    【五年二月参謀本部条例

    により、参謀将校を養成する陸軍大学校を設置する

    ことにな

    った。明治

    「六年四月二日に開校、明治

    [

    二・年四月か・昭和二・年三月

    ・甲府・疎開す・まで青・北町

    (現在

    の青・

    目交差点付近)

    ・あ

    ・た・

    明治二

    一年

    (一八人入年)には六鎮台が廃止され、東京鎮台

    (第

    一軍管区)を第

    一師団、仙台鎮

    (第

    二軍管区)を第二師団、名古

    屋鎮台

    (第三軍管

    区)を第三師団、大阪鎮台

    (第四軍管区)を第四師団、広島鎮台

    (第五軍管区)を第五師団、熊本鎮台

    (第六軍管

    区)を第

    六師団に改編した。

    412

  • 242

    5

    明治憲法の制定

    明治二二年

    (一八八九年)大日本帝国憲法が制定された。憲法第

    一一条は

    「天皇

    ハ陸海軍ヲ統帥ス」として軍令

    (統

    帥)大権を、第

    一二条は

    「天皇

    ハ陸海軍ノ編成及常備兵力ヲ定

    ム」として軍政

    (編成)大権を定めた。前者は国務大

    の輔弼の外にあり、後者は国務大臣の輔弼の範囲内にあるものと解されていた。

    [

    憲法では・第二・条に

    ・呆

    国民

    ハ法律ノ定メル所

    二従ヒ兵役ノ霧

    ヲ有

    スLとして・国民皆兵・兵役の霧

    を明

    にし

    。同

    、徴

    兵制

    が大

    (次の改訂は昭和二年の兵役法)、

    兵役

    常備

    、後

    、補

    充兵

    、国

    (平時約

    六万四千人、戦時約

    一二万三千人、後方部隊約

    二万人

    の体制

    が取られた)。

    6

    日清戦争と三国干渉

    法[

    日本陸軍最初の外征は日清戦争

    (一八九四一九五年)であり、

    一二万二二〇〇人が出征した。清国陸軍は総員三五万

    人。明治二七年

    (一入九四年)八月

    一日開戦。遼東半島を中心に戦われ、明治二八年三月三日威海衛を攻略、三月九日

    田庄台の会戦に勝利。

    一〇日休戦、四月

    一七日講和条約が結ばれ、台湾が日本の版図にな

    った。

    日清戦争後、明治二八年四月二三日、

    ロシア公使が日本政府に遼東半島を放棄するよう申入れ来り

    ・独

    ・仏もこれ

    に同調した。日本政府はやむなくこれに従

    ったが、この

    「三国干渉」を契機として、

    ロシアとの戦争が予想される状

    となり、「臥薪嘗胆」を合言葉に丘バカの整備、兵器の改善、軍人教育の充実が図られた。六ケ師団と騎丘八二旅団の増

  • によって、陸軍兵力はこの間に約二倍となり、明治三〇年には、のちの三入式歩兵銃の原型となる三十年式小銃が

    制定された。海軍も明治二九年から

    一〇年計画で、戦艦四隻、艦艇九四隻を増強し、戦艦六

    ・巡洋艦六の

    「六六艦隊」

    を目指し、明治三五年にはぼぽ完成した。清国からの賠償金三億四四〇五万円から陸軍に約五四〇〇万円、海軍に約

    ↑…雛

    軍幼年学校の増殻

    陸軍士官学探

    陸軍大学校の拡充が進められ

    明治≡

    年に

    踊価

    7

    北清事変

    卸法の軍陸

    明治三三年

    (一九〇〇年)五月、北支に列強国の大陸侵略に反抗する義和団の暴動が発生、塘沽

    (タンクー)停泊の草

    本明

    から各国は北京

    天津に兵約三千人を送

    .たが、清国軍竺

    万人千人、団匪約三万人の攻撃を受け、

    ・シア軍約六

    九〇〇人、日本軍第五師団約三八○○人

    (のち三万三千人・増強)が救援にあたった.北清事変の結果

    列強はそれぞれ

    清国内に地歩を拡大した。満州を事実上支配したロシアは、清国から明治三

    一年旅順

    ・大連を租借、三三年には韓国

    常本

    から馬山

    (釜山西方四〇キロ)付近に艦隊停泊地を租借した。

     ↓

    明治三五年

    (一九〇三年)

    一月、日英同盟が調印された。同条約は清

    ・韓両国の独立と領土保全を宣

    言していた。そ

    の結果、

    ロシアは同年四月満州占領中の兵力を三回に分けて撤兵することを約し、

    一〇月第

    一回は実行したが、明治

    三六年

    (一九〇三年)四月の第二回以後履行せず、逆に増兵の気配を見せた。

    243

  • 244

    8

    日露戦争

    三七

    (一九〇四年)二月

    日、

    ロシ

    日本

    て宣

    これ

    に対

    て、

    一〇

    日、

    ロシ

    に宣

    こと

    によ

    って始

    った日

    戦争

    は、

    =

    ニケ

    師団

    (戦争中

    に四ケ師団を臨時編成し、歩兵

    は六入聯隊

    にな

    った)、

    ・砲

    兵各

    ケ旅

    とす

    る軍

    が参

    、海

    を渡

    った者

    一〇〇

    に達

    た。

    一万

    を出

    五億

    二千万円余を寒

    した・・騒

    争においては・政戦両略の一致・陸海の協調が確保さ掩㌧辛

    フじて勝利のうちに

    収束

    こと

    が出

    た。

    一〇

    一六

    、講

    は批

    公布

    され

    が、

    れを

    とし

    が擾

    こし

    から

    一〇

    にか

    て東

    に戒

    た。

    主(1)

    松下芳男

    『明治軍制史論』上、

    一九五六年、有斐閣、八四ペー

    ジ。生田惇

    『日本陸軍史』

    一九入○年、教育社、一

    二六ページ。

    (2)

    軍費

    は、政府軍約四

    一六〇万円

    (予備紙幣

    二七〇〇万円を発行してまかな

    った)に対し、薩軍約七〇万円だ

    った。1黒野耐

    『参謀本部と陸軍大学校』二〇〇四年、講談社、二四ペー

    ジ。

    (3)

    大江志

    乃夫

    『日本

    の参謀本部』

    一九六五年、中央公論社、四三ペー

    ジ。

    (4)

    森貞彦

    『日露戦争と

    「菊と刀」一

    歴史を見

    る新し

    い視点1

    』二〇〇四年、東京図書出版会、

    一二

    六ペー

    ジ。

  • 自信と高慢

    -

    国防方針の決定とその改訂

    点題問

    日清

    ・日露

    の二度

    の戦

    によ

    って、

    日本

    は自

    信も

    った

    が高

    にも

    った。

    陸軍

    がそう

    った、

    いう

    は、

    と面

    はじ

    日本

    民全

    の雰

    そう

    朝鮮

    や中

    への優

    越感

    ・蔑

    醸成

    し、

    それ

    が、

    も影

    制廉

    ・た.

    日義

    は、

    が国

    に権

    つ・と

    にな

    ・た

    ・と

    とも

    「外

    の性格

    を強

    た.

    明治四・年

    (一九・圭

    四且

    最初

    ・帝国国防方針Lが決定され…

    の国防方針

    は・・帝国・国防

    ハ攻勢

    ・以テ本領

    スLとし・

    想定敵国を

    .露国

    ヲ第

    一ト

    シ、米

    ・独

    ・仏

    二次ク・とし

    た.国防に要する兵力は、陸軍平時

    二五ケ師岡

    戦時五〇ケ師岡

    軍は二万ト

    ン級戦艦入、

    一万八千ト

    ン級巡洋艦入を基幹とする約五〇万ト

    (「人入艦隊」)とされ、日露戦争開始時

    の約二倍を目標

    し・.ちな

    み・、明治四・年

    の国家総予算・約六徳三五九・万円、陸軍費

    一億

    =

    六・万円

    八二四・万円.軍書

    ・全国家予

    算の三

    一%をしめた.明治四五年度

    の平時兵員は、将校約

    一万四千人、下吉

    二万四千へ

    兵二・万七千人、合計二四万五千人だ.た.

    常本

    七年

    (一九

    一入年)六月

    「国

    針」

    が改

    れ、

    想敵

    は、

    ・米

    ・支

    と改

    め、

    ・仏

    が除

    中国

    を加

     ↓

    。国

    防兵

    は、

    時所

    一〇

    師団

    て四

    ケ師

    とし

    た。

    一二年

    (一九二一二年)

    の第

    次改

    では、

    リカ

    一想

    とし

    た。

    にお

    いても

    一九

    二三

    に、中国

    めぐ

    る対

    日米

    にな

    ると

    の想

    に基

    く国

    「オ

    ンジ

    5

    ン」

    が策

    いた。

    の構

    一段階

    は、

    日本

    る攻

    攻撃

    の過

    、②

    二段

    24

    がさ

    まな

    で日本

    近海

    に迫

    って

    いく

    程、③

    によ

    って生

    よう

    とす

    日本

    の力

    を、

  • (5)

    6

    の力

    で封

    し、

    て降

    る過

    て捉

    いた

    24

    一年

    (一九三六年)六月

    方針

    の第

    は、

    定敵

    は、

    ソを主

    目標

    とし

    て支

    に備

    こと

    た。

    所要

    は、

    戦時

    ケ師

    時常

    二〇

    ケ師

    のう

    を満

    に置

    一四

    〇中

    来拡

    こと

    は、

    一二隻

    一〇隻

    六五

    とし

    一二年

    の予

    は陸

    ・三億

    ・八億

    の四七

    %

    に達

    た。

    2

    一次世界大戦

    ・対独戦争

    論律

    一次世界大戦では、日本は連合国の一員として戦い、青島や太平洋のドイツ植民地を占領した。大戦末期から大

    戦後

    にかけて行われた四年にわたるシベリア出兵は、意味の薄

    い軍事行動であ

    ったし、中国に対する対華一ニ

    カ条要

    求も高度の政治的判断力を欠惑

    のだ・た.

    3

    軍縮とその影響

    一次世界大戦後、世界的な軍縮の機運が高まり、国内的には予算上

    の要請から軍縮は必至とな

    った。陸軍は大正

    =

    (一九二二年)と大正

    一四年

    (一九二五年)の二回、大軍縮を実行した。ときの陸軍大臣の名を取

    って、前者を山

    梨軍縮、後者を宇垣軍縮という。前者では、四ケ中隊編成の歩兵大隊を三ケ中隊にし。六万人弱の兵員、三万頭の軍

  • 馬を削減、陸軍の平時兵力を約二〇万人にし、軍事費約三五〇〇万円を節減した。後者では、高田

    ・豊橋

    ・岡山

    ・久

    留米の四ケ師団を廃止し、約三万四千人を整理した。

    軍縮によ

    って多数

    (約四千人)の将校が退職し進級も停滞した。日清戦争以後約二〇年間、陸軍士官学校卒業者は年

    平均七〇〇人だったが、大正年代から三五〇人と半減し、昭和初年には二〇〇人余になった。幼年学校は、六校

    (仙

    晶…台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本)中

    の五

    し、

    (五〇人)だ

    に縮

    題問

    軍縮

    の反

    員潜

    の整

    が考

    】四

    (一九二五年)四

    ら現

    学校

    以上

    の学

    .

    と纐

    属し、軍事教練にあたらせる.」とにな

    った.配羅

    校の配置や在饗

    人の増加などによ

    って、陸軍の思潮は国民のな

    に深く根をおろした。また、これによって二千人の将校を定員外に持つことが出来た。学校教練修

    了者には、在営

    軍陸

    期間

    (徴兵令の三年を二年に短縮)を、六ケ月短縮するなどの配慮もされた。

    本四痴

    軍の近代化

    鴎常本

    将来の戦争が長期にわたる総力戦になるであろうということも予想され、軍需工業の動員態勢整備

    のために、すで

    ロ↓

    に大正七年四月軍需工業動員法が制定され、内閣に軍需局

    ・軍需評議会が設置されていた。

    一時廃止されたが、昭和

    二年

    (一九二七年)資源局として復活した。

    軍事技術の進歩に対応するため、飛行部隊の増加、航空兵科

    (大正一四年五月

    一日)・戦車隊の新設、通信学校

    ・自動

    7

    車学校

    の新設など軍隊の近代化がはかられた。航空の面では八八式偵察機、九

    一式戦闘機などの傑作機も誕生したが、

    24

    戦車部隊の整備などの近代化は不徹底

    (外国製戦車二〇両を保有するに過ぎなかった)に終

    った。それらの遅れは、日本の

  • ・工

    水準

    と関

    いた。

    一二

    (一九二一二年)八

    の関

    震災

    る国

    の窮

    482

    の余

    た。

    スは、

    正七

    (一九

    一八年)空

    が、

    日本

    は、

    地上

    (空中偵察

    ・戦場上空

    の制

    (8)

    空)を主目的とした航空戦力の充実を考えていた。まだ、日本は優秀な爆撃機を生産する技術力も無

    かった。

    注(5)

    加藤藤陽子

    『戦争

    の日本近現代史』二〇〇二年、講談社現代新書、

    一七ペー

    ジ。

    (6)

    石橋湛山は

    『東洋経済新報』

    の大正

    一一年

    (一九二二年)七月三〇日号に

    「大日本主義

    の幻想」を書き、大日本主義を棄て

    べきだと述

    べた

    (佐高

    『黄沙の楽土』

    一六

    ページ)。私は、そ

    の卓見は認め

    つつも、明治大正期

    における世界、特

    にアジ

    の情勢を冷静に見たとき、楽観

    に過ぎる見解

    だと思わざ

    るをえな

    い。

    論律

    アジアの盟主にむけて

    1

    満州事変

    昭和二年

    (一九二七年)四月、中国統

    一を目指す蒋介石軍が北支

    への進攻を開始した。田中義

    一内閣は、これに対し

    在留邦人保護のため在満州の第

    一〇師団を派遣

    (九月撤兵

    ・第一次山東出兵)。

    一時蒋介石は失脚していたが、昭和三年

    国民党軍船司令官に復帰して北伐を再開した。田中内閣は再び出丘ハを決意し第六師団、関東軍混成第

    二入旅団、次い

    で第三師団

    ・偵察飛行隊二中隊を派遣した

    (第二次山東出兵)。六月四日午前五時三〇分過ぎ、張作森座乗の列車が北京

  • を発ち奉天に入る直前、関東軍河本大作大佐により爆破され、張は死亡した。

    昭和三年

    (一九二入年)

    一二月、張学良が国民党支配下の東北辺軍船司令となり、日本の満蒙権益

    の駆逐を進めばじ

    めた。日本では、昭和五、六年頃から

    「日本の生命線描蒙」という

    ことが叫ばれはじめた。関東州と満鉄付属地は

    一二

    。。キロメートルに及び、満州には二三万人の日本人がいた、それに対して関東軍は第二師団を轟

    、する

    一万四千

    人に過ぎず、中国軍約二五万人、さらに張学良の精鋭部隊

    =

    万人が北平付近に進出していたのに対峙していた。事

    題問

    件前には、中村震太郎大尉の殺害事件や、当時日本国民だった多数の朝鮮人が殺害された万宝山事件も起こった、さ

    と樋

    らに

    .満鉄付近にそれと並行する幹線および満鉄の利益を害する支線姦

    設しない」.という

    一九・五年

    月二二・

    ・満州に関する日清条約付属取極」に出遅反して中国側は吉海鉄導

    打通鉄道を敷設し・嚢

    に脅威を与えた・また・

    軍陸

    「南満州及東部内蒙古に関する条約」によ

    って日本臣民には土地を商相することが認められていたのに、中国側は、間

    在住の朝鮮人

    (当時呆

    臣民)

    への商租を拒否した・・の一

    な・・で・満州には緊張した雰囲気

    が滋

    ・て遣

    昭和六年

    (一九・=年)九月

    日夜奉天北部の柳条湖(溝)で満州事変が生起した.陸軍は軍事的成

    功を収め、昭和

    七年三月

    満州国が建国、九日建国式が行なわれ・覇

    最後の皇帝儀

    が執政に就任した・

    常本

    国際連盟のリットン調査団が四月二

    一日大連に到着、現地視察後、六月五日離満、

    一〇月二日にその報告書を公表

    ロ大

    た。報告書は、日本の権益の正当性や満州における特殊性は認めたが、九月

    一八日の事件は日本の自衛行為とは認

    められず、満州国の成立も不自然であるとした。国際連盟総会も、この報告を、賛成四二、反対

    (日本)、棄権

    (シ

    ャム)で追認する決議を採択した。

    9

    日本は昭和七年九月

    一五日

    「日浦議定書」を締結して、満州国を正式に承認した。日本は国際連盟を脱退し、国際

    24

    的孤立に陥

    った。

  • 国際的孤立に陥った日本は、その安全と独立の保障を軍備の増強に求めるとともに、国際社会の現状に不満を持

    502

    ・伊両

    に接

    し、

    昭和

    一年

    (一九三六年)

    =

    日、

    日独

    共協

    、翌

    =

    アも

    た。

    が強

    て、

    昭和

    一五

    (一九四〇年)九

    の日

    伊三

    った。

    2

    皇道派と統制派

    昭和六年

    (一九三

    一年)

    月犬養内閣が成立し、荒木昊

    が陸相に就任した.当時天皇親政による国体具現を主張

    する皇道派という派閥があり、荒木軍閥とも言う

    べき状況にな

    っていた。昭和七年

    (一九三二年)五月

    一五日、犬養首

    相が、皇道派の主張に同調した海軍士官、士官学校生徒ら

    一入人に襲われ、凶弾に倒れた

    (五

    ・一五事件)。昭和八年

    に、皇道派に反対し、憲法に抵触しないで国家革新を図ろうとするやや穏健な統制派

    (永田鉄山、東条英機、武藤

    章、富永恭次など)が逐次勢力を占めるようになった。昭和

    一〇年八月

    一二日陸軍省内で、林銑十郎

    陸相の下で皇道

    法一

    をすすめていた永田鉄山霧

    局長

    (少将)が、相沢三郎中佐に褻

    された.

    3

    陸軍充実計画

    昭和九年

    (一九三四年)

    一〇月、陸軍省新聞班は

    『国防の大義とその強化の提唱』という小冊子

    一〇数万部を各方面

    に配布した

    「陸軍パンフレット」と呼ばれたものである。それは、陸軍の立場から国防の重要性を強調し、国防強化

    の具体策を示して国民の共感と協力を得ようとしたものだった。

  • 昭和

    一〇年

    (一九三五年)末頃、極東における日本軍のソ連軍に対する比率は、二、三割と概観され

    た。日本軍二三万

    に対し、ソ連軍は

    一六〇万人であり、ソ連軍が新式装備なのに対して、日本軍は旧式装備を脱して

    いなかった。約

    一〇万人の中国軍も、ドイツ顧問団の指導下に近代化を進めていた。昭和

    一二年

    一月極東ソ連軍

    の戦車約

    一二〇〇

    に対し、日本軍は装甲車、軽戦車を含めても六〇〇台に満たなかった。千葉に戦車学校を作り本格

    的研究教育を始

    (8)

    占…

    めたのが昭和

    一一年八月

    一日だった。

    慰問と画

    4

    幼年学校の功罪

    卸磁騨

    松下芳男氏は、その著

    『明治軍制史論』の中で

    「陸軍幼年学校の功罪」を論じ、①中学校と大体同じ教育を、なぜ文

    本日

    部省管轄外の学校でするのか。②将校生徒教育を、なぜ

    一三、四歳の少年時代から始めなければならないのか。③幼年

    の獅

    学校が絶対に必要ならなぜ中学卒業生も陸士に入れるのか、の三問を提起し、①は無用、②は功罪共

    にあり、③は財政

    の理由だとされる。幼年学校出身者は、軍人としては優秀だったが、「弊害」の第

    一として、少年時代から特殊の軍

    帝本

    人教育を受ける結果、その思想はともすれば偏狭になり、軍国、封建、武断主義的に傾く。それは武職

    に留まる限りあ

    日大

    る程度許されるとしても、政治に関与する時には憂慮すべき事態を招来する。第二に、幼年学校教育

    が軍人至上主義

    に傾き、陸軍大学校卒業後要職をしめると、弊害をもたらした。第三に幼年学校では独仏露語を学ぶ結果、独仏露の

    (9

    V

    (10V

    英米

    の事

    視す

    る結

    にな

    った、

    とし

    「功

    って

    を償

    に足

    った」

    と断

    る。

    1

    は、

    「東

    で処

    二五

    、陸

    】五

    の内

    年学

    が、東

    (*)、松

    25

    (*)、

    肥原

    (*)、板

    四郎

    (*)、木

    太郎

    (*)、武

    藤章

    (*)、大

    、畑

    、梅

    津美

    、南

    、鈴

  • 】、橋

    =

    二人

    学出

    は、

    夫、

    の二名

    に過

    い。

    て全

    522

    であ

    る。

    によ

    っても

    、幼

    の部内

    おけ

    と思

    が判

    であ

    る。

    A

    に海

    軍軍

    二名

    田繁

    弘毅

    (*)、

    一郎

    戸幸

    一、

    、重

    、政

    一名

    、星

    、外

    一名

    白鳥

    った

    。死

    (*印)七

    人中

    、.広

    田を

    は、

    いず

    年学

    った。

    5

    「国策

    の基準

    設定

    叢論

    昭和

    一〇年

    (一九三五年)八月作戦課長に就任した石原莞爾大佐は、国防国策大綱を作る必要ありとし、八月七日、

    五相会議は

    「国策の基準」を決定した。その根本国策は、「外交国防相侯

    ッテ東亜大陸

    二於ケル地歩ヲ確保スルト共

    南方海洋

    二進出スルニ在リ」とし、「南方海洋方面殊

    二外南洋方面

    (比島、蘭印)二対シ我民族的経済的発展ヲ策シ、努

    法「

    メテ他国

    二対スル刺戟ヲ避ケツツ漸進的平和的手段

    二。リ我勢力.進出。図り、以テ満州国,完成ト相侯

    ッテ男

    ,

    充実強化ヲ期ス」とした。また、同日

    「帝国外交方針」も決定され

    「速カニ北支ヲシテ防共親日満ノ特殊地域タラシ

    メ、且国防資源ヲ獲得シ交通施設ヲ拡充スルト共

    二、支全般ヲシテ反ソ依日タラシムルコトヲ以テ対

    支実行ノ重点ト

    (11)

    ス」

    た。

    が起

    「国

    防国

    「日本

    の国

    は、

    の指

    とな

    こと

    であ

    り、

    のた

    ・英

    ・米

    を排

    る実

    であ

    ・英

    ・米

    に対

    とく

    に航

    を充

    とと

    日浦

    と北

    て持

    準備

    こと

    が基

    であ

    の充

    と持

    戦争

    の準

    が完

    ら、

    まず

    ソ連

  • 極東攻勢を断念させるため積極的工作を開始し、すみやかに目的を達成する。この間、米国との親善関係を保持する

    ことに努める。ソ連が屈服したら親善関係を結んで、英国の勢力を東亜から追放し、東亜の諸民族を独立させる。ソ

    (12)

    と英国を屈服させたら東亜諸国を指導し協同して実力の飛躍的発展を策し、米国との大決戦に備える」としていた。

    占…

    6

    ・二六事

    慰問と順

    昭和

    一年

    (一九三六年)二月

    早暁

    一師

    の将

    一二

    、下

    一四五

    二人

    が、

    如行

    こし

    卸磁

    府高宜

    朝日新聞社などを襲撃した.内大臣斉藤実

    教育総監渡辺錠太郎大将を殺害

    侍従長鈴木貫太郎大将、大蔵

    大臣高橋是清に重傷を負わせた・岡田啓介首相

    (肇

    大将)は襲われたが無事だ・た・決起部隊の目的は・現政府と

    本日

    それに協調する軍内勢力を

    一掃し、真崎甚三郎大将を首班とし皇道派を基幹とする政府を樹立し、荒木関東軍司令官

    の游

    の実現を望むものだった.事件は失敗に終ったが、その後

    日本の軍里

    義傾向は強ま

    った.七月吾

    、東京陸軍軍

    法会議判決は、

    一七人を死刑とし

    一二日執行された。昭和

    一二年度予算は、軍事費

    一四億円に急増し

    た。

    輔 大

    7

    「軍備充実計画の大綱」の作成

    253

    昭和

    一一年

    =

    月二六日陸軍省が、石原の構想によ

    って

    「軍備充実計画の大綱」を策定し、昭和

    一七年度までに四

    一ケ師団と

    一四二飛行中隊を整備し、満州と朝鮮に

    一三個師団を配備する計画が決ま

    った。また、参

    謀本部の外郭団

    ・日清財政経済研究会が作成した日満

    「産業五カ年計画」が、

    一二年五月陸軍省に移管され、六月

    一五日近衛内閣

  • で政府計画として決定された。この計画は、基礎産業を二なし三倍に、航空機生産を

    一〇倍に向上させるなど、日本

     5

    (13)

    2

    の産業構造を軽工業から重工業に転換させようとする野心的な計画だった。

    昭和

    =二年修正軍備充実計画では、六五ケ師団と

    一六二飛行中隊に拡大された。

    8

    シナ事

    昭和

    一二年

    (一九三七年)七月七日夜、北平西郊の盧溝橋付近で日中部隊が衝突、それを契機にシナ事変が始ま

    った。

    石原莞爾

    (参謀本部第

    一部長)らは、事件の拡大を抑え早期に事態を収拾し、「軍備充実計画」や重要

    「産業五ケ年計画」

    を推進しようとしたが、杉山元陸相や田中新

    一軍事課長らは武力を行使して

    一挙に解決すべきだと

    の強硬的意見だっ

    た。現地では、七月

    一一日宗哲元との間に停戦協定が結ばれたが、蒋介石は、

    一七日

    「最後の関頭」の決意で徹底抗戦

    を呼びかけ、七月二四日北平南東約五〇キロの郎坊での衝突から再び事変は燃え上がった。八月末、北支方面軍

    (司令

    官寺内寿

    一大将)が入ケ師団、飛行機

    一五〇機で編成された。

    一二月中旬までに北支の主要都市を占領した。

    一一月七日、中支派遣軍

    (司令官松井石根大将)九ケ師団、飛行機五〇機が編成され、

    =

    月二〇

    日には大本営が

    設置された。

    一二月

    =二日南京を占領したが、同地における日本軍の非行は

    「南京事件」として各国

    の箪豊をか

    った。

    中国側は屈服せず、政府諸機関を重慶に移転して抗戦を続けた。

    昭和

    一三年

    (一九三六年)

    一月

    一六日、駐華ドイツ大使トラウト

    マンを通じての和平工作が挫折し、日本政府は蒋政

    権との和平交渉を断念、「蒋介石を相手とせず、新政権の成立発展を期待する」と声明した。四月大本営は北中支を連

    絡するために徐州会戦を行い、.一〇月末武漢三鎮を攻略、

    一〇月一二

    日広東を占領、戦線は全中国に拡大した。中国

  • 出征部隊は三四ケ師団

    (約七〇万人)にのぼ

    った。昭和

    一五年三月三〇日、注精衛

    (兆銘)を行政院長とする新中央政

    が成立した。

    9

    張蓬

    事件

    .ノモンハン事件

    点題問

    昭和

    一二年

    九三七年)六月、黒龍江の乾君子島

    (カンチャイズ)がソ連軍に占領された。反撃と外交交渉でソ連軍

    と緬

    は撤退したが、昭和

    一三年

    (一九三八年)七月九日には、朝鮮東北端の張鼓峰に・連兵が進出、笙

    師団が奪回した

    が、その後再び奪取された。

    軍陸

    昭和

    一四年

    (一九三九年)五月中旬、ノモンハン方面に外表部隊が侵入、第二三師団

    (師団長小松原中将)が駆逐した

    本明

    が、五月下旬再び越境、六月中旬ジューコフ中将の指揮するソ連軍も加わり、八月二〇日蓮

    軍は、三ケ師団、戦車

    ・七旅団、飛行機三〇〇機で大反撃を開始し、戦場は惨状を極めた.第二三師団は持久守勢に転換、新たに進出し

    た第六軍

    (司書

    荻州立兵中将)も反撃を拒まれた・九月に欧州で第二次大撃

    起こったこともあり・九月

    一音

    滞本

    協定

    が成

    の戦

    に参加

    日本

    将兵

    弱、

    戦死

    一九

    〇四

    ソ豪

    の戦

    二四

    日大

    の戦闘

    は、

    日本

    の装

    の劣

    が表

    面化

    た。

    た、

    決定

    から

    兵力

    りも

    の充実

    が緊

    た。

    事件集結から

    一月後

    一〇月、大本営陸軍部に設置された

    「ノ

    モンハン事件研究委員会」で、陸軍技術本部委員

    の川上清康

    大尉

    (の

    ちに中佐)は、「大口径

    で高初速

    の対戦車砲を速やかに制定すると共に、他

    の対戦車兵器研究を促進すべきである」と述

    べ、「全般的所

    55

    見の結論として、支那事変によ

    る誤

    った観念を速やかに捨て去ゆ、次期目標

    に対して最大速度

    の努

    力を為さなければ、悔

    いを千年

    2

    後まで残す

    ことになろう」と述べた。しかし、委員会

    の報告

    では

    「最大

    の教訓は、国軍伝統

    の精神威力を益

    々拡充す

    ると共に、低水準

  • (14)

    6

    にあ

    る我

    が火力戦能力を速やかに向上させるにある」

    と抽象化されてしま

    った。

    25

    は、装

    の近

    りも

    、兵

    に重

    いて軍

    拡充

    った。

    シナ事

    の遂

    に伴

    い兵

    し、

    大化

    る兵

    に十

    代装

    る資

    源も

    を持

    たな

    った

    でも

    、装

    力拡

    った

    昭和

    一四年

    に陸

    の動

    一四

    六万

    (陸

    一二

    四万

    )

    に達

    た。

    かし

    は、

    日本

    の経

    圧迫

    た。

    の動

    は、

    一〇年

    ・二

    四万

    一一年

    ・二九

    一二

    ・九

    人、

    =

    二年末

    =

    二万

    人、

    一四

    年末

    ・一二

    一五年

    =

    二五

    人、

    一六

    ・二

    一〇

    】入

    年末

    二人

    終戦

    (15V

    った。

    は、

    のみ

    はな

    、装

    の質

    ・量

    勝敗

    る。

    て、

    ため

    には

    基礎

    の振

    'が

    の前

    のだ

    ハン事

    の貴

    重な

    さず

    それ

    軍当

    の責

    は重

    であ

    る。

    シナ

    の間

    に、

    日本

    の軍需

    成長

    いた

    (例えば昭和

    =二年の自動車生産量

    は、二年前

    の三倍

    …約

    一万六千台にな

    た)。し

    かし

    、他

    の先

    に較

    べれ

    ば低

    レベ

    ルに留

    って

    いた。昭

    一四

    一月

    に成

    た平

    」郎

    「生

    計画

    を決

    。し

    、同

    月、

    次世

    の勃

    によ

    って軍

    入手

    が次

    に困

    った。

    の装

    に必

    な兵

    の生

    は何

    とか

    かな

    たが

    、そ

    を支

    る基礎

    産業

    は、資

    の入手

    人手

    によ

    って、

    退潮

    せは

    った。

    乱掘

    によ

    れ、

    の生

    昭和

    一五

    し、

    に回

    った。

    民需

    は圧

    た。

    昭和

    一五

    (一九四〇年)三月

    中央

    は、

    年中

    シナ

    を解

    い場

    は、

    ら、

  • (16)

    中国

    にあ

    る兵

    退し

    一入

    に、

    、北

    に兵

    こと

    た。

    昭和

    一五年

    (一九四〇年)四月

    ドイ

    ルウ

    ェー

    ・デ

    マー

    クを

    、五

    ルギ

    ・オラ

    ンダ

    入、

    には

    フラ

    スが降

    た。

    の軍

    が華

    々し

    く伝

    るや

    消極

    は立

    にな

    ってし

    った

    の機

    とら

    が支配する南方地域の資源を斐

    米菓依存の経済体制から脱却」

    ルートを遮断してシナ妻

    の行詰まりを打

    ょう

    の考

    った。

    ッベ

    ント

    ロップ

    構想

    によ

    って

    独伊

    ソ連

    が結

    び、

    が押

    .

    (17v

    も積

    いと

    の判

    った。

    二七

    日、

    独伊

    が結

    た。

    緬法の

    10

    戦陣

    車轍明

    昭和

    一六

    (一九四

    一年)

    一月

    日、

    陸軍

    「戦

    を発

    た。

    の内

    は抽

    なも

    で、

    必ず

    しも

    ・たとは思われない・其の本訓

    ・その二の第八に

    ・名を惜しむ」という項があり

    ・恥を知る者は強し.常に饗

    家門

    憲国

    の面

    を思

    ひ、

    々奮励

    て其

    の期

    に答

    べし

    て虜

    の辱

    を受

    けず

    罪禍

    の汚

    こと勿

    れ」

    帝躰

    った

    この部

    が明確

    に降

    いた

    ため

    これ

    によ

    って多

    の兵

    が無

    と批

    いる。

    大一

    注(7)

    加藤陽子、前掲、二三五一

    二六入

    ページ)。

    (8)

    生田惇、前掲、

    =二一二ペー

    ジ。

    (9)

    松下芳男

    『明治軍制

    史論』下巻、

    四五五ページ。

    57

    (10)

    佐高信

    『黄沙

    の楽土-

    石原莞爾と日本人が見た夢』二〇〇〇年、朝

    日新聞社、

    一九四ページ。

    2

    (11)

    田、前掲、

    一四八ペー

    ジ。

  • (12)

    『石原

    莞爾

    ・国

    論策

    』1

    黒野

    一九

    ペー

    ジ。

     25

    (13)

    野、

    〇三

    ペー

    ジ。

    (14)

    入郎

    『間

    に合

    った兵

    一九

    、東

    済新

    ペー

    ジ。

    (15)

    一復

    『動員

    』1生

    田、

    七七

    ペー

    ジ。

    (16

    )

    野、

    二六

    ペー

    ジ。

    (17)

    佐治

    『封

    され

    「昭和

    の真

    〇四

    日本

    (日文

    書)、八

    ペー

    叢論

    八紘

    剛宇の幻想

    1

    南方進出

    律法

    基礎資源が極度に欠乏した日本では、オランダが敗れ、英国も崩壊の

    一歩手前という状況から、豊富な資源を持

    つオ

    フンダ額束イ・ド、仏領インド・ナ・英領

    マ¥

    に対する関心が高まり・陸軍部内でも・南方作戦の検討が始ま

    ・た・

    日本の第二五軍は、援蒋物資遮断の理由で昭和

    一五年

    (一九四〇年)九月二三日、北部仏印、

    ついで昭和

    }六年七月

    二人-三〇日には南部仏印に進駐した。それは米菓との対立を示すものとし、アメリカは、八月

    一日、対日石油輸出

    を全面的に禁止し、在米日本資産を凍結した。

    昭和

    一六年九月六日、御前会議で決定した

    「帝国国策遂行要領」は、「外交と並行して戦争準備を進

    め、

    一〇月上旬

    頃に至

    っても要求貫徹の目途が立たない場合には開戦を決意する」というものだった。

    一〇月第三次近衛内閣は総辞

    職し、

    一人目東条英機中将を首班とする内閣が成立した。

    一一月五日、御前会議は

    「開戦」を決意。「南方作戦陸海軍

  • が成

    立し

    た。

    方軍

    は寺

    寿

    一大

    将、

    一四

    (本間雅晴中将(

    一六、

    四八師団)、

    一五

    (飯

    田祥

    二郎中将、三、五五師団)、

    一六

    (今村均中将、二、三八、四八師団)

    は、

    菌類

    ンド

    ナ攻

    (山下奉文中

    将、近衛、五、

    一八師団)

    には

    マレー

    へて

    ンガポ

    ルを攻

    略す

    る任

    が与

    た。

    2

    大東亜戦争

    思燗圃

    昭和

    一六年

    =

    月二六日、仏印、中国からの即時撤兵、蒋政権以外の中国政府の否認、三国同盟の実質的無力化を

    制磁

    めるハル

    ・ノー些

    米国は呆

    に提示した.

    の御前△議

    で、日米開戦が決定された.

    月入日付けの

    軍陸

    陸海軍軍人に対する

    「勅語」は

    「朕ハ帝国ノ自存自衛ト東亜永遠ノ平和確立トノ為

    二米英両国

    二対シ戦ヲ宣スル

    本日

    二決セリ。朕

    ハ汝等軍人ノ忠誠勇武二信椅シ、克ク出師ノ目的ヲ貫徹シ

    以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス」と

    の齎

    いた.

    は.

    の羅

    の命令

    に従

    って戦

    った.

    によ

    つい

    ては

    軍部

    にも懸

    があ

    重論

    ・た

    のだ

    れを

    張す

    る勇

    と、

    .

    (18)

    に真

    に耳

    傾け

    る合

    が欠

    いた。

    日大

    独伊

    と接

    いた

    日本

    ヨー

    ッパ

    の枢

    軸国

    の戦

    況有

    み、

    諸国

    の対

    日禁

    「ジリ

    にな

    のを

    て、

    に、

    英開

    に踏

    った

    った。

    かし

    戦前

    日米

    にあ

    って

    た野

    三郎

    使

    昭和

    一六

    一人

    目、

    に送

    た次

    の意

    を読

    み返

    る必

    があ

    「本

    使

    の所

    を率

    に述

    ぶれ

    や和

    の分

    岐点

    に臨

    つあ

    り。

    の意

    畳し

    、」ご苦

  • 程拝察に余りあるも、この際、政治の局に在る者は、真に国家百年の為に大勇猛心を発揮すべく、

    一時の致誉褒既の

    602

    如きは忍んで、之を度外視せ看るべからず。観ずるに、濁は、ソ連邦には打勝つに相違なきも、可成

    り時を要し、今

    年英国に進入の公算少きが如く見え、従って、東部

    一段落の上、最も難関とする英国侵略は来春以後となるべく、英

    国、その後に米国ありという風にて、戦局は、愈々長期となるべく、而して掲逸に於いては、赫々たる戦勝の間にも、

    上層部に於

    いて、軍と党との間に多少の拝格

    (カンカク)あり、国民に於いても戦局の集結が、必ずしも総統予告の如

    くならざるを以って、多少懐疑的傾向を生ずるに至り、且

    つ占領地人心の収捕も可成り難物なるが如き報道もあり、

    今日の情勢を以て

    一九

    一七年に比するは、必ずしも当らざるべきも、今日は愚か明年に於いても、其

    の期待するが如

    き戦果を得て平和が来るべしとは思われず。而して、最後の勝利は、結局経済力、精神力、持久力多き者に帰するは、

    前大戦の実証する所にして、今後の戦争に於いても、何れの陣営が

    一層長く持耐

    へ得るやは容易に判断し難く、従

    て、今日英掲載

    の将来については、遽に逆賭し難しと思わる。(又猫逸が赫々たる勝利を継続するに於

    いても、極東方

    に於いては、我単独英米

    「ソ」蘭印と戦う場合、我が国力を消耗し、我が方の希望するが如き結果を招致するとは

    思われず。萬

    一濁逸不利なる場合は、其の結果想察に余りあり)。皇国としては、余り

    一方に深入りし、国運を賭する

    が如き危険を冒すことなく、概ね自主濁往の見地より自強の道を取り、世界に無比なる二千六百年の国家を行々安泰

    強固ならしむるの途を進むべく、覇道は取らず、否、皇道こそ我国の進むべき道なり。我国が欧州戦争

    の圏外に立ち、

    国力を充実する以上、交戦国は、皆疲労するを以て、戦後世界再建には吾国最も有利なる立場を獲得し得べしL。この

    意見具申では

    「濁は、ソ連邦には打勝つに相違なきも」と述べられていたが、田本が開戦した昭和

    一六年

    (一九四一年)

    には、独逸は、対ソ戦争において膠着状態に陥り、ソ連邦に打ち勝つことは困難な状況にな

    っていたことも考慮さ

    るべきであ

    った。

  • 開戦を決意した

    =

    月五日の御前会議の席上、永野軍令部総長は、二年間の対米作戦には確算があるが、その後は

    予断を許さない、と述べ、杉山参謀総長は、南方作戦には確算があり、海上交通を確保できれば、不敗態勢が確立で

    (19)

    ると

    べて

    いた。

    の時

    に、

    めら

    のは、

    以外

    に無

    った。

    天皇

    『昭

    天皇

    独白

    録』

    で、

    「開

    の際、

    条内

    」「…決定を私が裁可したのは、立憲政治の下に於

    いては、立憲君主としては已むを得ぬ事である。私が若し開戦の決定に

    慰問

    して

    『ベトー』をしたとしよう。国内は必ず大混乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私

    の生命も保証出

    (20)

    ない」と述べている。しかし、政府が決定するにあたっては、あらかじめ事前に天皇に対して詳細な事情の説明が

    あ砿

    なされ、天皇の意思を汲んで政府が決定するのが常であり、天皇の意思を無視して事前に政府が決{疋する・となどは

    あり得なかった。極東国際軍事裁判所の法廷で東条元首相は

    「日本国民が陛下

    (天皇)の御意思に反してかれこれす

    本日

    ことはあり得ぬことであります」と明確に述べている。その発言は

    「天皇の戦争責任を問われかねない」として、

    の灘

    キーナン検事らの工作で事実上撤回させられたが、それによって真実を変えることは出来ない。当時、天皇以上に事

    実を知り、また知り得た者はいなかっただろう。天皇が開戦を抑えるか、そこまで行かなくても、対英米開戦を望ま

    い意向を示せば・軍部としても・開戦を断念せざるをえなか・た・特に東条首相は天皇絶対王義者

    で・自己の明確

    ロ↓

    な主体的意思、信念を持つ人物ではなかった。

    昭和

    一六年

    (一九四一年)

    一二月入日未明、午前三時

    一九分

    (日本時間)、海軍航空部隊の真珠湾攻撃

    によ

    って対英米

    戦争が開始された。陸軍部隊も、東南アジア各地

    への進撃を開始した。

    一二月

    一二日、情報局は

    「今次の対米英戦は、

    シナ事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争

    なることを意味

    612

    るものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表した。

  • 大東亜戦争では、初期作戦終了後、守勢的戦略態勢を築いて長期戦を戦う考え方もあ

    ったが、初期作戦で急襲的な

    622

    成功を収め、その成果に幻惑されて攻勢を継続し、戦線を拡大して補給を困難にするなど、作戦指導

    は当を欠き、連

    合軍との装備の差も次第に表面化するようになった。第

    一線将兵は勇戦敢闘したが、航空機の欠乏、海軍力の消滅に

    って補給は続かず、各戦線で玉砕する部隊が続出した。

    3

    戦争の名分

    大東亜戦争を戦

    った日本の戦争目的は、公式文書によれば、日本国の自存自衛とアジア地域の安定

    (平和)確保だっ

    た。昭和

    一六年

    (一九四一年)

    一二月入日の

    「開戦の詔書

    」には、「中華民国政府襲

    二帝国ノ真意ヲ解セズ、濫

    二事ヲ構

    ヘテ東亜ノ平和ヲ撹乱シ遂

    二帝国ヲシテ干支ヲ執ルに至ラシメ、弦

    二四年有余ヲ経タリ。1残存スル政権

    ハ米菓ノ庇

    ヲ侍ミテ兄弟尚未ダ暗

    二相圓グヲ俊メズ。米菓両国

    ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和

    ノ美名

    二匿レテ

    法一

    東洋製

    ・非望ヲ逞ウセムトス.剰へ与国ヲ誘・笛

    ・周辺

    二於テ武備・増強シテ我

    二挑戦・更

    二帝国・平和的通商

    二有ラ

    ユル妨害ヲ与

    へ、遂

    二経済断交ヲ敢

    エテシ帝国ノ生存

    二重大ナル脅威ヲ加フ。1斯ノ如クニシテ推移セムカ東

    亜安定

    二関スル帝国積年ノ努力

    ハ悉ク水泡に帰シ、帝国ノ存立亦正

    二危殆

    二瀕セリ。事既

    二此二至ル。帝国

    ハ今や自

    存自衛ノ為、騒然起

    ッテ

    一切ノ障磯ヲ破砕スルノ外ナキナリ」とある。昭和二〇年

    (一九四五年)八月

    一四日の終戦の

    詔書

    「抑帝国臣民ノ康寧ヲ図り萬邦共栄ノ楽ヲ楷

    ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範

    ニシテ朕ノ拳

    々措カサル所

    二米英二

    三旦戦セル所以モ亦實

    二帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ

    他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵

    スカ如キハ固

    リ朕が志

    ニアラス」と述べていた。

  • 、大

    の樹

    いう

    こと

    が言

    われ

    た。

    英米

    の欧

    によ

    って支

    地化

    ジア

    れら

    の支

    ら解

    「共

    栄圏

    いう

    った

    一入

    (一九四三年)

    一一月

    の大東

    同宣

    、「抑

    々世

    界各

    が、各

    々其

    の所

    を得

    、相

    扶け

    て、

    共栄

    の楽

    にす

    、世

    界平

    の根

    要義

    。然

    に、米

    は、自国

    の繁

    の為

    は、他国

    ・他

    」…

    特に大東亜に対して鑑

    くなき侵略搾取を行い、大東養

    化蜜

    を芒

    遂に娃

    大東亜の安定を根

    題問

    底より覆さんとせり、大東亜戦争の原因弦に存す。大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の

    と緬

    より解放して其の自存自衛を全

    ・し左の綱領に基づき大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せん・とを期

    す.

    大東亜各国は、協同して大東亜の安定を覆

    し、道義に基ぞ

    共存共栄の秩序を建設す・(以下略)・lLと

    軍陸

    べていた。

    本明

    米英等の栓桔から東アジアを解放し、現地人民の自決権を認めて、独立を達成させるということであれは、日本

    戦争目的に名分があ

    った.第二次大石

    べ…

    モウは、その著

    ・ビルマの夜明け・の中で

    、歴史的に見るならば、日

    ほどアジアを白人支配から離脱させることに工員敵した国はない・しかしまたその解放を助けたり・あるいは多あ

    (21)

    て範

    ったり

    諸国

    のも

    のか

    日本

    ほど

    誤解

    を受

    いる

    いL

    と書

    いて

    いる。

    日大

    日本

    の戦

    の実

    の行

    冷静

    に検

    てみ

    と、

    「共栄

    圏」

    の内

    日本

    であ

    の人

    は、

    の支

    配者

    った欧

    諸国

    に替

    って日本

    が新

    い支