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「在日朝鮮人の民族教育」 ~民族教育変革の時~ 国際学部国際学科 国際政治経済コース 4 峯岸 理恵 1

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Page 1: 「在日朝鮮人の民族教育」 民族教育変革の時...な「日朝修好条規」を朝鮮に認めさせ、釜山など3港を開港、朝鮮を開国させた。1984年

「在日朝鮮人の民族教育」

~民族教育変革の時~

国際学部国際学科

国際政治経済コース 4 年

峯岸 理恵

1

Page 2: 「在日朝鮮人の民族教育」 民族教育変革の時...な「日朝修好条規」を朝鮮に認めさせ、釜山など3港を開港、朝鮮を開国させた。1984年

目次

はじめに …………………………………………………………… 3

第 1 章 在日朝鮮人とは…………………………………………… 4

第 1 節 韓国併合以前の日本と朝鮮半島の関係 第 2 節 在日朝鮮人の歴史的形成 1. 韓国併合後~日本への出稼ぎ労働者 2. 朝鮮人強制連行~強制的に日本に渡航した人々 3. 敗戦後の在日韓国・朝鮮人~日本に残留した人々 第 3 節 「在日韓国・朝鮮人」であることから「在日朝鮮人」を選択した人々

1. 帰国事業 2. サンフランシスコ対日講和条約

第 2 章 在日朝鮮人にとっての民族教育とは~民族教育の現状..10

第 1 節 植民地での朝鮮人教育 第 2 節 解放後の民族教育 1. 駆け出し期 2. 阪神教育事件 3. 在日朝鮮人総連合会結成 第 3 節 現在の民族教育

第 3 章 ウリハッキョ~わたしたちの学校………………………. 16

第 1 節 聞き取り調査 1. 在日朝鮮人三世 A さん 2. 在日朝鮮人四世 C さん 第 2 節 「ウリハッキョ」~ドキュメント作品から

終章……………………………………………………………………. 19

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日本の外国人人口は、すでに総人口の 1.5%、200 万人を超えている [法務省入国管理局

HP2006]。労働力としての新来外国人(ニューカマー)の急増と定住化も日本の「内なる国

際化」を形成している。しかし、今でも在日韓国・朝鮮人や在日中国人などの旧来外国人

(オールドカマー)が相当部分を占めている[駒井 1995:17-42]。

何故、日本にはこんなにも多くの在日韓国・朝鮮人が定住しているのだろうか。筆者は、

日本人の大多数の人々は、自分たちの社会の出来事にあるにも関わらず、彼らの歴史に目

を向けず、「在日」という存在に積極的に関心を向けることなく生活してきたのではないか

と考える。特に、日本と北朝鮮の関係は決して正常ではない。筆者は、日本人の中には朝

鮮植民地支配以来、根強い差別感情や朝鮮民族に対する偏見が少なからず残っているだろ

うと考える。なぜなら北朝鮮が悪だと報道されると、在日朝鮮人の人々・民族学校に通う

人々が過去に幾度となく暴言・暴行事件に巻き込まれたという事実があるからである。

2002 年 9 月 17 日に日朝首脳会談が行われたことで、一時両国間で、明るい兆しが見えた

ものの、最近は核問題や拉致問題が日本のメディアで大きく取り上げられているなど、そ

の関係は決して良いものとは言えない。日本のメディアが北朝鮮バッシングする報道を行

う度、それを見聞きした日本人は在日朝鮮人に対して敵意と排除の意識につながるような

感情を持つこともあるだろう。日本人は、理解不能という否定的なイメージで全ての在日

朝鮮人を括ってしまうのではなく、理解しようとすることが必要である。

国境を越えるヒトの移動が激しくなり、多くの外国人が日本に来ているにも関わらず、

筆者の「在日」の人々との出会いは、大学に入ってからの朝鮮大学校ラグビー部との合同

合宿であった。しかし、桜美林側は「朝鮮大学校」と聞いただけで、この合宿を快く感じ

ていなかった人間がいた。明らかに「チョン」と言って馬鹿にするような人もいたのだ。

同じスポーツをするものでありながら、お互いに距離を置くようなところが感じられた。

このような相手を知ろうとせず、壁を作ってしまう雰囲気を筆者は淋しく感じたが、その

一方で、同じ日本に生きる「在日」の人々のことを何も知らない自分自身に気づいたので

ある。彼らはただ単に「在日」と括れる存在なのであろうか。この出会いが、筆者が「在

日朝鮮人」そして「民族学校」という環境に興味を持つきっかけになった出来事である。

また、筆者は、朝鮮総連の幹部として自分のすべてを祖国へ捧げる両親のもとで育った

女性の書いた本を読んだ。そこには、なぜ両親は自分たちのすべてを捧げるほど祖国を愛

するのか?という彼女の深まる葛藤と、「在日」であることの意味を考え続ける姿が描かれ

ていた。また、別のある在日韓国人の男性が書いた小説では、朝鮮籍から韓国籍になった

青年が最後にこう問いかける。「俺はお前ら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺

してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなんの疑問もなく俺のことを『在日』だなんて

呼びやがるんだ?俺はこの国で生まれて、この国で育ってるんだぞ。在日米軍とか、在日

イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ・・略。俺は何者だ?

俺は『在日』でも韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺は俺なんだ。

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いや、俺は俺であることも嫌なんだよ[金城 2003:246]」若い世代の在日は自らのアイデン

ティティの混乱に悩まされることもある。

今後、北朝鮮がどのような国際的立場になっていくかによって、在日の人々の置かれて

いる状況は変化していくだろうと考える。メディアによる北朝鮮バッシングの後、民族学

校に対する暴行・暴言事件が度々発生するのは、「民族学校=日本の中の北朝鮮・北朝鮮の

絶対的支持者の集団」といったイメージに直結しているからだろうか。筆者は民族教育を

受けた在日朝鮮人の友人から、朝鮮大学校には、韓国国籍を持つ人もいれば日本国籍を持

つ人もいるといった話を聞いた事がある。民族教育といった特殊な環境で生きる彼らも、

様々な葛藤の中で生きているのではないだろうか。

民族学校は、一世のどのような思いによって建設され、現在の在日の社会でどんな意味

を持つのか。民族学校の通う生徒は年々減少しているが、現在の日本社会の状況・在日ア

イデンティなどの中で、何が大きな理由となっているのか。今後の民族教育の在り方・彼

らの生き方を考察していく。

第 1 章 在日朝鮮人とは

現在の「在日」のほとんどは日本で生まれ日本で育っている。本国生まれの 1 世は今や

圧倒的な少数派である。在日朝鮮人発生の根源、現在日本に定住している「在日朝鮮人」

とは一体どのように形成されていったのかを第1章では考察していく。

第1節 韓国併合以前の日本と朝鮮半島の関係

第 1 節では、韓国併合以前の朝鮮半島と日本の関係について大まかに触れていく。朝鮮

半島と日本の関係は大変古く、旧石器時代に始まると言われている。弥生時代以前には、

朝鮮半島から人々が渡来し、日本人のルーツは中国・台湾や東南アジアではなくて、法医

学的には外蒙古、韓国・朝鮮やカナダのエスキモーが正しいとされている [徐 1986:19]。

弥生時代から日本と朝鮮の交流が本格的になり、弥生文化の稲作・青銅器・鉄器の出現

は、朝鮮半島から古代人が大量に日本に移住して来たことによって始まった。4世紀~7世

紀に、朝鮮半島において高句麗・百済・新羅の 3 国が抗争した時代には、多くの人々が日

本に亡命してきた。飛鳥文化は、朝鮮仏教文化の強い影響の下で開花したと言われ、典型

的な例として、世界最古の木造建築である法隆寺西院伽藍は、朝鮮三国の建築様式の影響

を受けた。このように、優れた新技術を持って渡来した人々の日本文化に与えた影響は大

きく、日本にとって最も親しい国は朝鮮であり、文化・経済の交流が盛んに行われた相手

も朝鮮であった。

その後、時代の間には元寇・倭寇・豊臣秀吉による朝鮮侵略など、時々敵対する関係に

なった。特に、戦国の世を統一した豊臣秀吉は、朝鮮支配の妄想を抱き、更に明の征服を

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企てて、朝鮮に日本への入貢と明への先導を求めたのである。しかし、拒否された事によ

り、豊臣秀吉による 7 年間にわたる侵略が行われた。この関係に転機がもたらされるのは

徳川時代になってからであり、徳川家康は朝鮮との国交回復を積極的に進めていき、通信

使が日本を訪れるようになった [朴 1999:26-49]。

このように、時代をさかのぼってみると、前近代の日朝関係は暗い関係の時代もあった

ものの、長い間ほぼ友好的であり、平和的であったと考えられる。

19 世紀に入ると、欧米諸国がアジアに進出し植民地化を推し進めていった。日本では 1868

年に明治維新が起こり、明治政府は欧米にならって富国強兵をはかり、「脱亜入欧」をスロ

ーガンとした。政治・経済・軍事・教育などの改革を進め、資本主義体制を軸とする近代

国家の建設を目指していったのである。欧米諸国は鎖国を続ける朝鮮に開国を迫り、日本

もこれにならった。日本は 1875 年におこった江華島事件を機に朝鮮に迫り、1876 年不平等

な「日朝修好条規」を朝鮮に認めさせ、釜山など 3 港を開港、朝鮮を開国させた。1984 年

には、朝鮮支配をめぐって日清戦争が勃発し、日本が戦争に勝利し、更に 1904 年の朝鮮と

中国東北地方の支配をめぐる日露戦争にも勝利した日本は、1905 年「乙巳保護条約」を経

て朝鮮を保護国とし、朝鮮植民地化を進めていったのである[江上・山本・林・成瀬

2002:246-260]。

初代韓国統監となった伊藤博文は、明治日本の対韓政策として「日本は出来るだけ、韓

国を独立させようと欲して来た。けれども韓国は遂に独立出来なかった。ために、日本は

日清・日露の二大戦役を開くのをやむなき結果となった。その結果として、日本は遂に韓

国を保護国とした。日本は自衛上、実にやむを得ずして韓国を保護国としたものである・・・

けれども、日本は非文明的・非人道的な働きをしてまでも韓国を亡ぼさんと欲するもので

はない。韓国の進歩は大いに日本の望むところである。ただ一つの条件がある。すなわち

韓国は日本と提携すべしということ、これである。韓国は自治を要する。しかも、日本の

指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い[馬野 2000:171]」。この伊藤の政策では、日本

は朝鮮が西洋諸国の生け贄になるのを防ごうとしたような言い方であるが、日本は朝鮮を

通じて欧米諸国が日本に進出してくるのを何とか避けたかったのであろう。その策として

の保護国化であり、韓国併合への準備であった。結局、朝鮮の人々にとっては日本であれ、

欧米諸国であれ支配されるといった感情は拭い切れなかっただろうと考える。

結果的に、反日闘争が起こる事があった。また、伊藤博文が朝鮮の愛国者に暗殺された

にも関わらず、日本は朝鮮支配思想を強めていき、1910 年には韓国を併合し日本は朝鮮を

完全な植民地としたのである。

第 2 節 在日朝鮮人の歴史的形成

1 韓国併合後~日本への出稼ぎ労働者

第1節で触れたように、古代から多数の渡来人が日本に定着し、渡来人も日本人を形成

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する形となった。「韓国併合」前の 1909 年には、790 人が日本に住んでいたとされる。主と

なるのは、留学生であり出稼ぎ労働者の数はそれ程多くなかった[徐 1986:67]。

出稼ぎ労働者は、朝鮮へ進出した鉄道工事請負業者や労務省のブローカーが工事の需要

に応じて安価な労働力として募集し、連れてきたと言われている。そして、1910 年に「韓

国併合」が行われ朝鮮総督府の統治下の植民地政策で生活手段を奪われて生きる糧を求め

た人々が日本へ移入し、本格的に在日韓国・朝鮮人の形成が始まっていった[朴 1999:75]。

何故、朝鮮の農民は没落し日本へと渡航してきたのだろうか。その理由としては、1つに

1910 年~1918 年に行われた土地調査事業が挙げられる。当時、朝鮮の全人口の約 80%が農

民であった。土地調査事業は近代的な土地所有権の確立の基礎を築くと言われていたが、

真の狙いは植民地の農民から土地を奪い朝鮮統治の財源を現地調達し、日本が利潤を得る

ものであった。申告方法が分からなかったり、形式不備により無効とされたりした多くの

土地は総督府の物になり農民は没落していった[朴 1999:75-80]。丁度、1914 年に勃発した

第 1次世界大戦による軍需景気で工場が 24 時間稼動中の日本では、労働力不足が深刻な問

題であり「勤勉で体力があり粗食に耐えられながら劣悪な労働環境でも仕事をする朝鮮人

[朴 1999:81]」は日本企業にとって好都合な存在であったようだ。あまりの乱脈ぶりに 1918

年には総督府が「労働者取締り規則」を発行する。翌年の 1919 年には「三・一運動」をき

っかけに厳しく日本への渡航が制限された。1919 年の「三・一運動」後「武断統治」を「文

化統治」と名目を変えた。しかしながら、1920 年の日本国内の食糧問題の解決が主な目的

であった産米増殖計画により、朝鮮の農民は負担を増大させられ追い討ちをかけられた。

飢餓と没落農民を増やしただけの産米増殖計画の結果、わずかな家財道具を売り新たな生

活の糧を求め日本へ密航・渡航する人々が後を絶たなかった。一般的に北部朝鮮の農民は

中国北東部へ、南部朝鮮の農民は日本へ渡航したとされている[朴 1999:80-99]。

いずれにせよ、日本の政策により祖国で生活出来なくなった人々は日本に渡り、「在日朝

鮮・韓国人」を形成していったのだ。表 1 によると在日朝鮮人人口は、1920 年の時点で 3

万人になり 1911 年 2527 人の約 12 倍にもなったのである。(表 1)

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表 1 在日韓国・朝鮮人の人口(民団統計)

年度 在日韓国・朝鮮人

年度 在日韓国・朝鮮人

1911 2,527 1936 690,501

1912 3,171 1937 735,689

1913 3,635 1938 799,878

1914 3,542 1939 961,591

1915 3,917 1940 1,190,444

1916 5,624 1941 1,469,230

1917 14,502 1942 1,625,054

1918 22,411 1943 1,882,456

1919 26,605 1944 1,936,843

1920 30,189 1945 1,115,594

1921 38,651 1946 647,006

1922 59,722 1947 598,507

1923 80,415 1948 601,772

1924 118,152 1949 597,561

1925 129,870 1950 544,903

1926 143,798 1951 560,700

1927 165,286 1952 535,065

1928 238,102 1953 575,287

1929 275,206 1954 556,239

1930 298,091 1955 577,682

1931 311,247 1956 575,287

1932 390,543 1957 601,769

1933 456,217 1958 611,085

1934 573,695 1959 619,096

1935 625,678 1960 581,257

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2 朝鮮人強制連行~強制的に日本に渡航した人々

1938 年までの在日朝鮮人の形成は間接的な強制と言えるだろう。日本の植民地政策によ

って多くの没落農民を生み出しその結果多くの人々が仕事を求め日本へ渡航してきた。し

かし、39 年以降は直接的・暴力的強制があったといっても過言ではないだろう。

世界恐慌の余波を受け日本経済を救う道を侵略戦争に求めた日本は、更にアジア侵略へ

の道を歩んでいく。

1931 年には「満州事変」を起こし、1937 年には「日中戦争」が勃発したのである。戦線

は拡大する一方で、大量の軍人・兵士を必要とした。民間人の徴兵も行われ、その結果日

本国内は労働力不足になった。1938 年には「国家総動員法」が制定され、人的・物的資源

を戦争の為に総動員するという軍事経済体制が整ったのである[朴 1999:88-90]。

「国家総動員法」は 1939 年「朝鮮人労務者内地移行に関する件」と形を変えて朝鮮人に

も適用された。不足する労働力を朝鮮人によって埋めようとしたのである。当初は「自由

募集」による動員で 8万 5000 人を募集し、募集地の警察の下に権力的に行われ甘い言葉に

騙されて募集した者もいた。

1941 年日本は米国に宣戦布告をし、太平洋戦争が勃発した。更に大量の労働力が必要と

なり、1942 年の「労務動員計画」により 13 万人の朝鮮人を日本に連行する事が決定された。

しかし、それだけの人数の確保は困難であり、行政と警察力を伴う強制的な労働者の移入

方法「官斡旋」の朝鮮人連行方式の形式が取られることになった[金 2004:70-77]。

1944 年には「一般徴用令」が朝鮮全土にも適用され激しい反発が起きたが、脅迫・人狩

りのような方法で、日本国内に必要な朝鮮人労働者が強制的に駆り出されるようになった。

その一例として、徐正雨さんの話がある。「家の畑仕事を手伝っていたとき 2人の日本人と

1 人の朝鮮人の男性がやって来た。突然かけられた言葉は『日本へ行こう』。何が何だか訳

が分からない。『急にそんな事言われても困る。自分は畑仕事をするんだ』と拒む徐さんの

言葉を無視して男らは家族に無理に話しをつけ、トラックに押し込んだ(朝鮮人強制連行

真相調査団編『強制連行された朝鮮人の証言』)[朴 1999:90]」

すべてが徐氏のように強制的でなくても、連行者の家族が訪れてくるような場合や、自

ら渡航してきた場合もあったと考えられるが、この時期の在日韓国・朝鮮人を形成してい

たのは大多数が強制連行によるものだと考えられるであろう。今日に至るまで正確な人数

は発表されていないが、連行された朝鮮人の証言、表 2 を見ても 1938 年には約 80 万人で

あった在日韓国・朝鮮人人数が 1944 年には 200 万人近くになっていることからも、その連

行の仕方がどれだけ強引であったかを想像出来る。

3 敗戦直後の在日韓国・朝鮮人~日本に残留した人々

では、現在の在日朝鮮人を形成しているのが強制連行された人々の子孫であるかという

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と、そういうわけでも無い。日本にとって敗戦の日である 1945 年 8 月 15 日は、朝鮮人に

とって祖国と民族の解放の日であった。不潔で、劣悪で日本人も嫌がるような鉱業、工業

一般、土建業など日本産業労働の最下層の労働をさせられ日本での差別に耐え続けてきた

彼らは、この解放の日を心の底から喜んだであろう。

敗戦当時の日本にはおよそ 200 万人強の在日朝鮮人がいたとされるが、大部分の人は朝

鮮半島に帰りたい一心で、事実当時いた在日韓国・朝鮮人の約 4分 3は帰国した。7ヶ月の

間に 140 万人余りが帰国したとされている。1946 年に約 65 万人の中で帰国希望者は 51 万

もいたという[大沼・徐 1986:82-88]。だが、このとき希望した者のうち帰国したのは 5 分

の 1以下であった。

敗戦の混乱期には、日本人もそうであったように、在日韓国・朝鮮人にとっても更に苦

しい生活が待っていた。しかし強制連行者が中心に帰国している中で、日本に残留する人々

もいたのだ。彼らは、在日期間が長期に渡っており生活基盤が日本にある、親戚も皆日本

に来ている、GHQ による私有財産の大幅な持ち出し制限などで、帰国を見合わせた。そうし

て日本に留まっているうちに、更には 1948 年大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立、

祖国は分断されてしまった。米ソの冷戦の激化、1950 年朝鮮戦争勃発によって帰国者は減

少していった。この時に残留を決断した人々、一度帰国したものの、祖国で生活出来ずに

戻って来た人々が現在の在日朝鮮・韓国人を形成していくのである[金 2004]。

第 3 節 「在日韓国・朝鮮人」から「北朝鮮」・「在日朝鮮人」を選択した人々

在日朝鮮人は、日本帝国主義の朝鮮植民地政策の結果としてつくられたと考えられる。

何故これほど多くの在日韓国・朝鮮人が日本に定住しているかを歴史的に踏まえなければ

今後の在日韓国・朝鮮人問題を考察することは出来ないと考え、敗戦直後までの「在日韓

国・朝鮮人」の歴史的経緯を考察してきた。だが、筆者が考察したいと考えるのは、「在日

韓国・朝鮮人」ではなく、「在日朝鮮人」についてである。帰国せずに残った在日韓国・朝

鮮人が大韓民国ではなく、何故北朝鮮人民共和国を祖国とし、「在日朝鮮人」となったのか

を考察していく。

1 帰国事業

1953年の朝鮮戦争の停戦によって38度線を境にして分断が固定化されてしまったわけだ

が、この分断は在日の社会にも深い対立を招いた。今の「在日朝鮮人総連合会(総連)」と

「在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)」との対立といえばわかりやすい。

そして、戦後間もない日本社会、在日韓国・朝鮮人の社会では、圧倒的に社会主義の活動

が支持されていた[菊池 2005:84-89]。

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だが、在日韓国・朝鮮人の約 95%の人が朝鮮半島南部の出身者である。そうなると、ほ

とんどの人にとって北朝鮮は故郷では無かったはずだが、何故多くの人が社会主義の活動

を支持し、そして北朝鮮に「帰国」する事を望んだのであろうか。

それには、分断以降在日韓国・朝鮮人に対して特に何の対策も行わなかった韓国政府と

は異なり、朝鮮総連が社会主義国建設の為の帰国運動を起こした時に、それを受ける形で

北朝鮮の金日成主席が「在日朝鮮人は共和国の海外公民である」との声明を発表した事が

大きく関わってくる[岩尾・日名子 2004:132]。

金日成は在日朝鮮人の権利擁護、朝鮮総連に対して積極的支援、在日同胞の歓迎、数億

円の資金送金、更には同胞の帰国後のすべての保障を約束したのだ。日本で貧困や民族差

別に苦しんでいた在日韓国・朝鮮人にとってはまさに、「地上の楽園」であったのだろう。

更には、日本政府やマスコミもやっかい払いの好機であるかのように帰国を賛美したので

あった[梁 2006:37-53]。

今となっては北朝鮮の実態が明らかになってきているわけだが、当時 60 万人といわれた

在日韓国・朝鮮人のうち、その 7 割が北朝鮮を支持していた。こうして、1959 年から帰国

事業が開始され、第 1 次帰還船から約 3000 人、約 5 万人、約 2 万 3 千人と 20 年間の間で

約 9万 3千人が北朝鮮に「帰国」したのであった[羹 2004:36]。

2 サンフランシスコ対日講和条約

では「国籍」という法的な地位から見て、在日朝鮮人は何故「朝鮮籍」を選んだのであ

ろうか。1つ言える事は、在日朝鮮人の「国籍」の面では「朝鮮籍」だからといって北朝鮮

支持者とは一様に言えないという事である。

1945 年の終戦時、日本を占領した GHQ は朝鮮人を「軍事上の安全を許す限り解放国民と

して扱うが、必要な場合には、敵国人として扱うことができる」という基本指令をだした。

46 年に GHQ は「在日朝鮮人は、正当な朝鮮人の政府が朝鮮半島に樹立され、その国家が彼

らを樹立した国家の国民と認定するまでは日本国籍の保持者である」としている。しかし

翌年、日本政府は「外国人登録令」を発行し日本国籍を有している朝鮮人を「当分の間、

これを外国人とみなす」とした。在日韓国・朝鮮人は、外国人登録証の常時携帯・提示義

務、指紋押捺義務が課せられ、登録国籍欄には「北朝鮮」を意味するものでなく、出身地

を表す用語としての「朝鮮」が記載されることになったのだ。ところが、48 年大韓民国は

国籍欄に「大韓民国」と記載することを要求してきた。在日韓国・朝鮮人はあえて「韓国」

と書き換えるか「朝鮮」のままでいるかを選択することになったのである。51 年にはサン

フランシスコ対日講和条約の調印が行われ「朝鮮人は講和条約の発効の日を持って日本国

籍を喪失した外国人になる」との通達がされ、国籍の選択の余地なく日本国籍を剥奪され

たのだ。その後の在日は、出入国管理法・外国人登録法という 2 つの法律によって管理さ

れることになる[梁 2006:169-171]。

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「朝鮮籍」を持ち続ける「在日朝鮮人」となった人々は、積極的に政治的に北朝鮮を支

持する総連の人、親が朝鮮籍なので自動的に自分もそうなった在日の子供たち、「朝鮮」は

あくまで記号であり、いずれ統一された祖国が誕生するまでは、あえて選択をしないとい

うこだわりを持つ人、とさまざまな理由が見られるのである[梁 2006:171-173]。

このように法的な地位から考察しても、すべての人々が北朝鮮を支持しているかと言え

ばそういうわけでもない。在日韓国・朝鮮人にとって「国籍」は複雑であり、「韓国籍」・「朝

鮮籍」といった 2つのもので簡単に括れるものではないと考える。

第 2 章では、民族性の強さが現れている在日朝鮮人の民族教育・民族学校について考察

していく。

第2章 在日朝鮮人にとっての民族教育とは~民族教育の現状

朝鮮総連傘下の民族学校に通う生徒数は年々減少していると聞く。年間約1万人が日本

に帰化している現状や、北朝鮮籍から韓国籍への移籍の増加なども、原因として挙げられ

るだろう。北朝鮮「悪」のイメージが日本人社会に植えつけられる度に、民族学校に通う

こどもたちに対する嫌がらせ、脅迫、暴行、朝鮮人バッシングが少なからず行われてしま

う。こうした影響もあるのだろうか。

世代交代がされ、民族の意識構造が変化している在日社会において、民族学校に通う子

供たち・民族学校に通わせる親は民族学校にどのような期待をしているのか、こどもたち

は民族アイデンティティの高い学校の中で自分自身をどう捉えているのかを考察していき

たい。筆者の中では「民族学校=閉鎖された世界」「絶対的な北朝鮮支持者」「帰国志向」

といったイメージがあるが、果たして全てがそうだろうか。

何故、朝鮮学校は建設される事になったのか。まず在日朝鮮人の民族教育の歴史につい

て研究していこうと考える。

第1節 植民地化での朝鮮人教育

1910 年、日本は朝鮮を「併合」し、敗戦まで朝鮮総督府をおき朝鮮を日本の植民地化と

した。そこでとられた朝鮮人教育政策は「同化教育政策」であり、在日朝鮮人に対する教

育政策の基本も同化教育であった。1920 年代に入り、学齢児童者数が約 4 万人いたが、小

学校児童者数は約 7000 名にすぎず就学率は 18.5%であった。在日朝鮮人の子供は義務教育

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対象外の「外地人子弟」とされていたからである。1930 年代に入り、日本の文部行政が朝

鮮人児童の義務教育就学について言及したものの、33 年の就学率は 39.8%であった。解放

前には、就学率は 70%に上がったが、1940 年代には公立中学における一定以上の入学は拒

否という民族差別が行われた。

その一方で、植民地化での積極的な同化政策はさらに進み、「創始改名」の徹底や在日朝

鮮人の戦争動員に向けての軍国青少年の育成が行われた。ひそかな民族的抵抗はあったも

のの、植民地化での在日朝鮮人に対する教育は「朝鮮人」を「日本人化」することであり、

「遅れた」朝鮮人を「進んだ」日本人に引き上げるといったもので民族教育をするような

状況では無かった [朴・李 1999:136-138]。

第2節 解放後の民族教育

1 駆け出し期

約 60 万人の在日朝鮮人が在留しなければならない状況の中、解放後には民族文化を取り

戻す活動、すなわち「朝鮮語」を取り戻すための活動が起こり始めた。これから盛んにな

るであろう帰国に向けて、日本で生まれたこどもたちに母国語の読み書きを習得させると

が急務であった。

1945 年 9 月には、民族教育をバックアップする民族団体「在日朝鮮人連盟」が発足した。

46 年には、在留の見通しの中で子弟に教育を保障できるような学校体系の編成にむけて、

朝鮮人学校の建設にとりかかった。9 月には 6 年制の世正規な初等学校が建設され、10 月

には東京・大阪・兵庫に中学校が建設された。47 年には初等学校 541 校、中学校 7 校、青

年学校 22 校、高等学校 8校、と戦後の混乱期の中、朝鮮人の学校は資金難や資材不足を乗

り越え建設運動の高まりをみせていったのである [朴・李 1999:139-142]。

2 阪神教育事件

奪われた祖国の言葉と民族の歴史・文化を取り戻そうと、各地で学校建設運動が行われ

ているなか、1947 年占領軍の民間情報教育局の民族教育に対する基本方針が打ち出された。

「朝鮮人諸学校は、正規の教科の追加科目として朝鮮語を教えられることを許されるとの

例外を認められるほかは、日本(文部省)のすべての指令にしたがわしめるよう、日本政

府に指令する」と、占領軍は朝鮮人学校に対して抑圧政策を出した。47 年の段階で日本政

府は朝鮮人学校の設立を認めていたわけだが、48 年占領軍の指示のもとに在日朝鮮人の民

族教育を抑圧する方針として、文部省は「朝鮮人学校の取り扱いについて」との通達を提

出した。その中で民族教育の権利の否定・日本の学校への就学義務を強要し、朝鮮人学校

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を法的に承認しないとの方向性を決定し、認可申請の条件として日本語のみ使用、日本の

教科書使用が求められた[朴・李 1999:142-144]。

在日朝鮮人は、「四項目提案」を文部省に提出した。その内容とは(1)教育用語は朝鮮

語とする、(2)教科書は朝鮮人教科書編纂委員会が作る、(3)学校の経営管理は学校の管理

組合が行う、(4)日本語を正課とする、の四項である[朴・李 1999:143-144]。朝鮮人の自主

性に任せること、教育の特殊性を認めることを要求し各地で抗議行動を展開した。

しかし、日本政府は朝鮮人学校閉鎖命令を出した。その命令に対して抗議活動が続けら

れる。4 月 24 日には、兵庫県で約 1 万名参加の集会が開かれ集団交渉の結果、県知事は学

校閉鎖の撤回をした。だが、「非常事態宣言」が占領軍の神戸憲兵隊の名で出され朝鮮人 1973

名が無差別に検挙されるという結果になった。そして、大阪でも 4月 23 日代表団の交渉と

ともに約 3万人の集会が開かれ、400 名の警察動員、213 名が検挙され、26 日の再度講義集

会では警察の発砲によって死者 1 名を出す結果となってしまった。そして、27 日には、日

本人政府は大阪警察局長による朝鮮人の集会とデモ行為に対する規制を布告し、反対運動

への実力行使による弾圧が激しさを増していったのである。これらの一連の事件が阪神教

育事件である。

1949 年、占領軍と日本政府は新たな弾圧政策として「団体等規正令」を適用し、在日朝

鮮人連盟を解散させた。同時に、朝鮮人学校の閉鎖を実施し、閉鎖命令に基づく具体的な

事後措置を指示した一連の文部省通達を提出した。内容は、「朝鮮人学校が各種学校として

すでに認可されている場合はその認可を取り消し、新たなる認可申請はすべて拒否せよ」

である。こうして、多くの民族学校は閉鎖され、在日朝鮮人のこどもたちは日本の学校に

行くことになった。しかし、在日朝鮮人のこどもたちは「公立学校に収容した児童・生徒

が授業妨害その他の行動に出て、日本人児童、生徒の学習を妨げる場合には、体罰になら

ない限度で懲戒を行うべきである。また他の児童、生徒の教育上悪影響を及ぼす場合は出

席停止を命ずることができる(1949 年 11 月 25 日、文部省初等中等局長、管理局長の和歌

山県教育委員会あて『朝鮮人児童、生徒の公立中学校の受け入れについて』)」このように、

在日のこどもたちは教育の対象ではなく「管理」や「排除」の対象として見られていたこ

とが理解出来る[朴・李 1999:145]。

このような政策が簡単に受け入れられるものなのだろうか。自分の民族の言語・文化を

学ぶことが、こんなにも難しく制約されなければいけないことなのだろうか。解放された

とはいえ、日本の植民地支配と何ら変わらないではないかと考える。だが、当時は政策に

よってさらに民族学校の閉鎖が進んでいくのであった。

3 在日本朝鮮人総連会合結成

民族教育の弾圧に苦しむ在日朝鮮人民族教育ではあったが、1955 年に在日朝鮮人総連会

合(朝鮮総連)が結成されると、在日朝鮮人の民族教育は急速に発展するようになる。朝

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鮮学校の運営母体は総連に継承されていたが、1957 年からは教育援助費と奨学金が祖国か

ら送られてくるようになった。朝鮮戦争勃発後の大変であろう時期の祖国からの送金に、

在日朝鮮人の人々は深い感動を受けたに違いない。それに対し在日朝鮮人は「金のある者

は金を、力のある者は力を、知識のある者は知識を」のスローガンのもと、民族教育の充

実のため一致団結することになる[殷 1983:106-107]。

総連は朝鮮学校の教育課題を「民主主義的民族教育」と規定し、その教育の中で最も大

事なことは母国語である朝鮮語を学ぶことであり、それと同時に、独立国家公民としての

民族的な自覚と誇りをもち、自分の祖国と祖国の人々を愛し、世界の人々と仲良くするこ

とといったことが打ち出された。日本生まれの祖国を知らない子どもたちに、民族性を伝

えるのを目的としているのだろう。そして、1966 年には朝鮮人学校は 140 校を超え、学生

数は約 4万人になった[朴・李 1999:150]。

だが、朝鮮総連は北朝鮮の政治思想を支持している在日同胞の団体である。1955 年結成

された「在日朝鮮人総連合会」の綱領に明記された方針では、「われわれは在日 60 万人同

胞を、栄光あるわが祖国朝鮮民主主義人民共和国と、敬愛する首領金日成元帥の周りに結

集させ、わが祖国の平和的統一、独立を達成するために日帝の朝鮮侵略と李承晩売国逆徒

たちに反対して断固として闘争するであろう」と、自らを北朝鮮の海外公民と位置づけて

いる[岩男・日名子 2004:132]。このように見ると、朝鮮学校というのはまさしく北朝鮮の

政治色が払拭されず、「祖国志向」であり、日本には一時的に定住しているに過ぎないのだ、

という彼らの日本社会に対する「閉鎖的」な考えが現れていると感じる。しかし、朝鮮学

校に日本籍・韓国籍の学生がいる、数年前から朝鮮初中級学の教室に飾られていた金日成

主席と金正日総書記の肖像画が取り外されたといった話を聞く限り、基本方針は変わって

いなくとも、時代の流れとともに民族教育にも少しずつ変化が起こっているのではないか

と考える。

第 3 節 現在の民族教育の現状

かつて総連は「在日」は日本における少数民族ではなく、日本に住んでいるはいるが、

朝鮮民主主義人民共和国の国民であり、朝鮮半島が統一された際には帰国すると主張して

いた。このように、日本と距離を置いていた。しかし、「特例永住」が日本政府からだされ

ると総連は申請を進めるようになった。1998 年の時点で、総連所属の人々のほとんどは永

住権を持っているとされているから、彼ら自身も日本に定住し続ける事にしたのだと考え

られる[原尻 1998:85-86]。

このように「在日」であることを選んだ人々による教育は、決して日本人を拒否し壁を

隔てているような教育ではないと考えられる。

しかしながら、朝鮮人学校に対する教育助成と教育扶助の差別問題がある。日本の社会

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は朝鮮人の権利を認めず、在日朝鮮人社会は差別を受けてきた。日本人ではなく外国人と

みなしてきた。

朝鮮学校は、専門学校のように各種学校の扱いであり、国からの教育助成金は全く無く、

地方公共団体による教育助成金も低いものレベルである。その結果、民族学校に通わせる

親に大きな経済的負担を強いているのだ。

しかし、否定的な現状ばかりではない。奈良県・滋賀県では民族学校の改築費用を援助

した例がある。補助理由として「朝鮮学校が日本の学校教育に準ずる教育を行っている。

国際時代において民族教育を尊重する必要性を感じたから[空野・高 1995:152]。」と肯定的

な見解である。

他にも日本の教育現場からもお互いに交流を持とうという動きが出てきている。日本人

のこどもたちを民族的偏見や差別の問題に向き合わせることでもある。そして、「民族的・

文化的な差異を否定的なものとしてではなく、肯定的なものとしてとらえる価値観の変革

と、『ともに生きる意味』を考えさせることでもあった[朴・李 1999:171]。

その一つの例に関西地方のある日本の小学校の話がある。

その小学校の日本人の児童が、毎朝すれ違う朝鮮学校の児童を馬鹿にしていた。そこで、

担任教師が朝鮮人について知っているかと尋ねると、こどもたちは何も知らなかった。そ

こで、交流会を持つことにしたのだが、最初は抵抗があったという。しかし、交流を続け

るうちに、何も知らずに朝鮮の人たちを笑っていた自分たちが恥ずかしい、もっと多くの

ことを知りたいといった考え方に変化したという[殷 1983:122-123]。無知が生み出す差別、

そして知ること、正しく理解することが第一歩であるということを典型的に表した例だと

考える。

第 2 章で検討してきたように、朝鮮学校は、祖国を奪われ、民族を、言葉を奪われた在

日朝鮮人 1世たちが異国の地で「こどもたちを朝鮮人に育てたい」「民族のことばである朝

鮮語を話せるこどもを育てたい」と命をかけて必死で築いたかけがえのない財産であった

[朴 1997:33-37]。しかしながら、世代交代が進むにつれ民族の意識構造が変化していく。

果たして高い学費を払ってまで、こどもたちを朝鮮人として育てる意味はあるのだろうか。

日本で生き続ける選択をした両親の多くは、安くて設備の充実した日本の学校にこどもた

ちを通わせることに違和感を持たなくなるだろう。それが日本に同化していくことなのだ

と筆者は考える。

第 3 章ではそんな構造的な変化に直面しながらも、朝鮮学校に通った経歴を持つ女性へ

のインタビューとドキュメンタリー映画「ウリハッキョ」を基に、更に具体的に朝鮮学校

の現状を考察していく。

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第 3 章 ウリハッキョ~わたしたちの学校~

第 3 章では、2007 年 10 月~12 月に筆者自身が行った在日朝鮮人の人々への聞き取り調

査を通じて、現在の民族教育について、在日朝鮮人の人々がどのように考えているのかを

探りたい。

第 1 節 聞き取り調査

1 在日朝鮮人三世 Aさん

現在 22 歳の Aさんは、総連傘下の団体職員として働く在日三世である。彼女の祖父はか

つて慶州の両藩の家系であったが、植民地支配で住みづらい環境であった。彼女の祖父は

生きていく為に仕事を求めて日本に来た。

彼女は幼稚園も含めると 17 年民族学校に通っていたのだが、民族学校に通ったことにつ

いては、「両親が朝鮮人なら朝鮮学校に通うのを当然のこととして民族学校に通わした。そ

れは北朝鮮云々というより、日本で朝鮮人として堂々と生きていくってゆう考えからだっ

た」と言った。

朝鮮人として生きていくということに、アイデンティティの葛藤は無いのかと質問した

ところ「ないです。自分は朝鮮人だから」とはっきり答えた。「ただ『南北朝鮮』『在日』

という意味についてはよく考えます」と付け加えた。

彼女に朝鮮学校について話を聞いた。「朝鮮学校では、朝鮮語の取得はもちろん、歴史や

哲学を通して正しいものの見方を習えた。日本学校に通っていたら分からない真実、世界

観、人生観とかの観点を自然と身につけるきっかけに溢れていたと思う。」筆者は朝鮮学校

の教科書には、金日成主席・金正日総書記を偉大な存在として称える文章が多いのではな

いかとの質問に、彼女は「ただ無根拠に称えているわけではない。前後関係あっての称賛

なり、評価だと思う。それが偏りだとかどうだとか正しく判断する為に、どれだけ正解な

知識を持つことが出来るかだと思うな。」と冷静に答えた。

筆者は朝鮮学校に通うということは少なからず「帰国志向」があるのか、「絶対的支持者」

といったイメージがついてしまうのではないかと質問した。彼女は「学生の帰国志向はも

う 100%ない!とは無責任には言い切れないけど、ほとんど 100%に近い。それに最近は南(韓

国)から来たこどもを朝鮮学校に入れたりしているし、日本国籍の在日朝鮮人もいるから、

絶対的な支持者で構成されている学校というわけではない。」と言った。そして、「朝鮮学

校に触れた日本人からは、皆で何かを成し遂げる温かさを感じるとよく言われる。昔の日

本の学校のような皆を思いやって助け合っていくというか・・・懐かしい感じがすると言

われることがある。」と答えてくれた。

インタビューの回数を重ねるにつれて、自分の無知を恥ずかしく思うことが多々あった。

研究していく上で、日本社会が考えているような「北」に直結するような、行き過ぎた民

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族教育についてのイメージは、まさしく勝手な先入観からくるものだと感じた。そんな日

本の社会をどう思うか最後に質問した。「自分が学生時代に交流した子や、社会に出ても尽

力してくれる人もすごくたくさんいる。だけども、日本社会の中には政治的・法的・制度

的差別が常にあるし、過去の謝らなければいけないことを誤魔化して正当化しているのに、

拉致のことや北朝鮮の実態だけを取り上げるのは間違っていると感じる。根本的に教育が

間違っていると思うし、根源はそこにある。おかしいと声をあげる人がいないのは、何も

知らないし、興味が無いから。興味が無いのは知らないから。判断せずに情報を鵜呑みに

して、分からないことも調べたこともないのに知った風なことを言う。<無知ほど怖いもの

はない>、自分の観点がはっきりしてくるにつれて実感し、強く思う」と語った。

2 在日朝鮮人四世 Cさん

C さんは 23 歳の在日朝鮮人 4 世である。現在は朝鮮大学の研究院生で、4 月からは日本

の大学の法科大学院に進学することが決まっている。強制連行や、学業、植民地の影響に

よって生活水準が大幅に下がり渡航したなど理由は様々である。

やはり A さん同様、朝鮮学校に通ったのは「父母の意向」であった。朝鮮学校での生活

を聞くと、「民族としての誇りを持つことが出来た。」との答えが返ってきたが、Cさんは資

格を取る為にダブルスクールしたなど、当時の制度の面で苦労したようだ。日本の高校で

は当たり前に認められている大検の受験資格や、日本の大学ではどこの大学でも教養課程

を取得すれば認められる司法試験の一時試験の免除を受けるためであった。学校に通って

いるのにも関わらず、ダブルスクールしなければならない状態であったことは、マイノリ

ティに対する制度的保障が少ないことを直に表していると言える。そんな不便さを感じな

がらも、何故朝鮮学校に通ったのか。「ただ朝鮮民族という自覚と誇りを失いたくなかった

んです。朝鮮人としての誇りを奪われた時期があり、南北分断で祖国に戻れない一世の強

い思いを受けてきた。それが自分のアイデンティティを守ること、それを可能にしてくれ

る朝鮮学校に通うことに繋がった」と答えてくれた。そして「在日の同胞の権利の為に、

出来ることが多いと思うから弁護士を目指しているんだ。」と力強く答えてくれた。C さん

のようにはっきりと自分を見つめられている在日朝鮮人は少ないのではないのかと考える。

民族学校に通い、民族学校の教育を受けてきたからこそ、得られる意識なのであろうか。

だが、民族学校に通う人は、年々減少傾向にある。何が大きな原因なのか。Cさんは「確

かに民族性の希薄化や学費の高さから、在日の 70%ぐらいが日本の学校に通っている。理由

はそれだけではなくて、親の代では民族学校に通って、かつての『北朝鮮万歳』を全面に

出したやりすぎの民族教育に、嫌な思いを経験した人もいた。部活動でも公式戦に出場出

来なかったりした。こどもにはそんな思いをさせたくないと考えている人もいるのではな

いかな」と言った。

そして、C さんに金日成主席、金正日総書記についてどう考えるか質問した。「私は、二

人のことは政治家として尊敬している。でも、朝鮮学校出身者の中でも考え方は多様だよ。

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ただ、普通の人より問題意識は高いと思う。朝鮮人として生きる以上、自分自身に直面す

る問題だから」筆者は C さんと話すときに、同世代の割に落ち着きがある子だな、大人っ

ぽいなと感じていた。それは性格の問題ではなくて、今まで彼女たちの背負ってきたもの

の重みが違ったからだと、問いの答えを聞いて分かったような気がした。

これからの民族学校に何を求めるか、との問いに「ニューカマーのこどもたちとたくさ

ん受け入れられるようなキャパの広い学校になるべき。『北』というイメージを変えて、門

戸を広げていく。実際のところ若い世代が、一世たちの守ってきた民族学校を継承して、

在日の為にどう発展させていくかがこれからの課題だと考えます」

縮小していく在日社会の中で、民族教育をどう維持していくかは民族教育を受けた在日

の人々だからこそ分かることなのだろう。

第 2 節 「ウリハッキョ」~ドキュメント作品から~

筆者はこのテーマを研究するにあたって、韓国人の監督が制作した一本のドキュメント

映画「ウリハッキョ」と、日本のテレビ局が放送した映像ドキュメント「ウリハッキョ~

民族のともしび~」が出版化された文献を読んだ。北海道朝鮮学校と四国朝鮮初中学校が

それぞれの舞台であり、どちらの作品も学校側から全面取材と撮影許可得て取材を行った

ものである。

ドキュメンタリー映画「ウリハッキョ」は、韓国人の視点から見たものである。韓国か

ら来日した監督が撮影するということで、朝鮮学校側では当初、戸惑いがあったようだ。

韓国では、日本にある朝鮮学校、そして在日朝鮮人の事はよく知られていない。『パンパッ

チョリ(半分日本人)』と呼ばれ、朝鮮語を上手く話せないことを馬鹿にされることさえあ

る。しかし、朝鮮学校のありのままを撮影したいという熱意が伝わり、撮影許可が下りた。

そして一度、朝鮮学校に足を踏み入れると、そこには同じ『朝鮮民族』というだけで、監

督自らを快く受け入れる生徒たちの姿があった。自分たちの背景には、分断された祖国の

現状があるが、彼らは何も拒まなかったのだ。

自らの祖国の人々だけでなく、生徒たちは、日本人も決して拒もうとはしない。映画の

中で紹介されているのが、北海道朝鮮学校唯一の正式な日本人教師、サッカー部の指導教

師から体育教員になった藤代隆介先生である。「開かれた民族教育」を目指すといっても日

本人が専任教師として朝鮮学校の教員となるのに反対は起きなかったのだろうか。北海道

朝鮮学校の先生方は、彼のことを「朝鮮人よりもっと朝鮮人らしい」と言う。そうは言っ

ても校長先生が彼に教師になるように頼んだときの、在日同胞の驚きは大きかったようだ。

何故、日本人がウリハッキョの教員をしなければならないのか、不満を感じた在日同胞も

多くいたようだ。しかし、時が経つにつれて彼の人柄の良さ・朝鮮学校の生徒を思う気持

ち、そして生徒が先生のことを必要としていることが評価されてきたのではないか。

この話を、インタビューに答えてくれた A さんにすると「自分が学生のときは、日本人・

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英語の先生はいたけど専任はいなかった。それが本人の希望か学校の方針かは分からない

けども。慣例を破ったということは、先生の誠意・熱意が伝わったのだ。ありきたりな言

い方かもしれないけど、民族の壁を越えて心が通ったということだと思う」と答えが返っ

てきた。彼のような先生がいたら日本と朝鮮の間の見えない溝も埋まっていくのではない

かと考える。

「ウリハッキョ~民族のともしび~」は、日本人のディレクターが撮影したものである。

エスカレートする連日の北朝鮮報道の中には、興味本位としか思えないものも多い。彼は、

「在日という『この国の』朝鮮人を真正面から見つめたい、たとえ一局だとしてもこの『異

様な雰囲気』一石を投じたい」との思いから、この番組を制作した。

四国朝鮮学校では、「建国の父」「民族の指導者」と称えられる金日成主席と金正日総書

記の肖像画が撤去される日から取材が始まっていた。その日は 2002 年 9 月 17 日、平壌で

初の日朝首脳会談が行われ、日本人拉致事件を正式に認め、謝罪した日であった。

朝鮮総連によると、政治色を払拭し、開かれた民族学校を目指す機運が盛り上がり、金

正日総書記の了解のもと、肖像画をおろすことになったのだ。筆者から見たら、「開けた民

族教育」を目指すのであれば、日本社会への良いアピールだと簡単に考えてしまう。しか

し、今までの精神的な支えが無くなった先生方はなかなか消化出来ないのであろう。「政治

教育だ、思想教育だと捉えられがちだが、良くも悪くも朝鮮学校のイメージ付けになるの

ではないか。教育のベースには金日成主席、金正日総書記の教えがあったわけで、原点に

あったものは、肖像画を始めとした祖国への思いなんです。そういうものを一掃するのに

は抵抗があります。」これは四国朝鮮学校の校長の話である[村口 2004:13-20]。

この大きな出来事は、民族教育の現場を支える立場の職員たちにとって、そして祖国を

精神的な拠り所にして民族教育を守ってきた在日一世たちにとっては、中々受け入れるこ

とが出来ない変革であろう。これが時代の流れであり、これからの民族学校が歩んでゆく

道なのであろうか。

終章

在日朝鮮人とは、そして民族教育とは一体何なのか。何も分からない段階からスタート

した研究も、章が進むにつれて少しずつ見えてくることがある。「在日朝鮮人」とは、日本

に翻弄された悲しい民族なのだろう。未だ祖国は南北に分断され、在日社会は社会情勢に

よって大きく左右されている。しかし、決して苦難の悲しみだけの民族ではなくこの日本

の中で逞しく生きている。そんな在日社会の礎になったのは、在日一世たちが必死の思い

で築いてきた民族学校であると筆者は考える。

「帰国」を前提に日本で生活していた一世とは異なり、年間約 1 万人が日本に「帰化」

し、日本を母国として「同化」していく。数十年後には在日は消滅するのではないか、と

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言われる現在の在日社会である。民族学校の存在はそれほど重要ではないのかもしれない。

しかし、筆者が出会った民族学校を巣立った在日朝鮮人の若者たちのことを考えると、民

族学校の重要性を感じてしまう。当初、筆者は、在日朝鮮人の若者は自らのアイデンティ

ティに悩んでいると考えていた。「一体自分は朝鮮人なのか。韓国人なのか。日本人なのか。

それともどこにも属さない根無し草なのか。」しかし、「北」「南」「在日」という複雑な立

場の彼らは民族学校に通うことによって自らを確立していくのである。そして、それは決

して「北」だけを見たものではなく、一つの国「朝鮮」の民族であることに辿り着く。

果たして自分は何人なのか。日本にいて当たり前に日本人であることを疑わない筆者は、

自分自身にそう問いたい。

「朝鮮人が朝鮮学校に通う」「自らの民族について学ぶ」という当たり前の事を肩身の狭い

思いでしなければいけない日本の現実を受けて、わたしたちは何をするべきなのか。たと

え在日の人々が自ら日本人になることを選択し、民族学校に見切りをつけたとしても、わ

たしたち日本人が在日の歴史・歩んできた道のりを正しく深く理解することが必要である。

民族学校は今、変革のときである。2003 年度には、朝鮮学校の教科書の内容が大幅に改訂

された。教科書の政治的、思想的な部分が薄められ、今までほとんど記述がなかった韓国

を「これまで別々の道を歩んできたが、大切なパートナー」と位置付けた。南北統一の重

要性を強調し、「ルーツは韓国」「祖国は北朝鮮」の矛盾を抱えていた朝鮮学校は「ひとつ

の民族」という原点に戻ろうとしている[村口 2004:177-179]。そして朝鮮学校は門戸を広

げ、在日の人々を部分的に見ることが無いよう、多くの日本人に理解してもらおうとして

いる。朝鮮学校は、これまで考察してきたように、自身の運営などに様々な問題を抱えて

いる。これからもその状況は、良くなっていくとは決して言えないかもしれない。しかし、

日本人に彼らの架け橋を架けようと取り組んでいる。その橋を、日本人は逃げずに真正面

から受け止めなければならない。在日という『近くて遠い』存在に目をつぶらず、彼らの

教育の信念を正しく理解しようとする第一歩が必要である。

最後に、筆者が在日朝鮮人の友人に、問題の根本をまだ捉えられていないときに言った

一言「朝鮮学校といっても普通の学校だし、朝鮮人も日本人と変わらないよ。変に意識し

てしまっていたよ。」に対して

「ううん。私は朝鮮人だよ。見かけや名前が変っていったとしても、流れる血は変わらな

い。日本に住んでいるからってすべて同じわけじゃない。違いを認めて共生していくこと

が大切なんだ。」

日本人になることではない。朝鮮人として日本人と共に生きる「共生」が彼らの願いな

のではないかと考える。

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<参考文献>

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馬野周二(2000)「朝鮮半島の真実~日本人の魂 朝鮮人の魂~」フォレスト出版

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江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会(2004)「東京のコリア・タウン~枝川物語~」

樹花舎

朝鮮青年社(1983)「続・侵される人権 在日朝鮮人の生活と闘争」現代新書

東北アジア問題研究所(2004)「在日朝鮮人はなぜ帰国したのか~在日と北朝鮮 50 年~」

現代人文社

朴三石(1997)「日本のなかの朝鮮学校」創風社

朴鐘鳴編(1999)「在日朝鮮人~歴史・現状・展望~」明石書店

原尻英樹(1998)「「在日」としてのコリアン」講談社

民族教育研究所(1991)「在日朝鮮人の民族教育の権利について」朝鮮大学校・民族教育

研究所

村口敏也(2004)「ウリハッキョ~民族のともしび」

梁英姫(2006)「ディア・ピョンヤン DEAR PYONGYANG~家族は離れたらアカンのや~」

アートン

<参考 HP>

法務省入国管理局 HP http://www.immi-moj.go.jp/

朝鮮大学校 HP http:/www.korea-u/ac.jp/

在日本大韓民国民団中央本部 HP(統計)http://mindan.org/tokei.php

<映像ドキュメント>

キム・ミョンジュン(2006)「ウリハッキョ」