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338臨 床 血 液 小松 「この人に聞く」のコーナーも今回で第 8 回を迎えまし た。本日は,第 9 回日本血液学会国際シンポジウムを主催さ れました東京大学医科学研究所北村俊雄先生にお話を伺いま す。去る 7 月 27 日,28 日の 2 日にかけて,北村会長の下, 第 9 回日本血液学会国際シンポジウムが京都のグランドプリ ンスホテル京都で開催されました。「Epigenetic Abnormali- ties and Therapies for Hematologic Malignancies」をメイ ンテーマに,この領域で世界のトップを走る研究者を含む,国 内外から 300 名近い参加者を迎え,造血器腫瘍のエピゲノム 制御異常と,それを標的とした治療法に関する最新の研究成果 の発表と,活発な質疑応答がなされ,本シンポジウムは成功裏 に終了しました。それでは,早速ですが,シンポジウムを無事 に終えられた今の率直な感想をお聞かせください。 北村 大役を果たせて,本当に良かったと思います。とてもいい シンポジウムだったとたくさんの方々に言われたので,それも うれしかったです。 小松 最新のエピゲノムの研究に関して,北村先生ご自身も最先 端を走っておられるわけですが,今回のシンポジウムの中で新 たにわかってきたこと,最新の,論文ではまだ発表されてない ような新しい発表がありましたか。 北村 一番印象に残ったのは,クローン性造血に関する Peggy Goodell の発表です。p53 変異が治療後のがん患者のクロー ン性造血に多い変異であることは知られていますが,p53 を リン酸化する PMD1A に変異があるクローン性造血も多いこ とを発表していました。同時に,何か新たなことがわかってき ている可能性があるんじゃないかと思いました。一方では,効 率良く遺伝子の変異を入れるゲノム編集について,他のグルー プが開発した方法論を改良して,造血細胞でも非常に効率良く 遺伝子変異を導入する方法を開発した話もしました。今後,こ の分野でも必須のテクニックになっていくと思います。 Negative Selection 小松 先生はテクノロジーに非常に大きなこだわりがあるので, これについては後ほどお話を伺いたいと思いますが,懇親会で 北村先生が活動しているNegative Selectionというバンド の演奏がありました。先生はドラム担当でした。いつごろから ドラムを叩いているのですか。 北村 大学生のときに少しやっていた程度です。ところが新学術 領域でご一緒した河本宏先生を私の車にお乗せしたときにたま たまかかったのが 1970 年代後半のキングクリムゾンってい 臨床血液は会誌としての役割だけではな く,若手の医療従事者の教育ツールとして重 要な役割を果たしている。 この人に聞くでは,血液学の発展に寄与した偉大な先生方 に貴重な話を伺う。今回は第 9 回日本血液学 会国際シンポジウム会長の北村俊雄先生に 語っていただいた。 進行役=小松則夫 順天堂大学医学部内科学血液学講座教授

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Page 1: p338-349臨床血液60巻4号0009 この人に聞く 北村臨床血液60(2019):4 -339- うプログレッシブロックバンドのRedという曲でした。「え,先生,こんな曲聞くんですか?」と言われたのがきっかけで

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小松 「この人に聞く」のコーナーも今回で第 8回を迎えました。本日は,第 9回日本血液学会国際シンポジウムを主催されました東京大学医科学研究所北村俊雄先生にお話を伺います。去る 7月 27 日,28 日の 2日にかけて,北村会長の下,第 9回日本血液学会国際シンポジウムが京都のグランドプリンスホテル京都で開催されました。「Epigenetic Abnormali-ties and Therapies for Hematologic Malignancies」をメインテーマに,この領域で世界のトップを走る研究者を含む,国内外から 300 名近い参加者を迎え,造血器腫瘍のエピゲノム制御異常と,それを標的とした治療法に関する最新の研究成果の発表と,活発な質疑応答がなされ,本シンポジウムは成功裏に終了しました。それでは,早速ですが,シンポジウムを無事に終えられた今の率直な感想をお聞かせください。

北村 大役を果たせて,本当に良かったと思います。とてもいいシンポジウムだったとたくさんの方々に言われたので,それもうれしかったです。

小松 最新のエピゲノムの研究に関して,北村先生ご自身も最先端を走っておられるわけですが,今回のシンポジウムの中で新たにわかってきたこと,最新の,論文ではまだ発表されてないような新しい発表がありましたか。

北村 一番印象に残ったのは,クローン性造血に関する Peggy Goodell の発表です。p53 変異が治療後のがん患者のクローン性造血に多い変異であることは知られていますが,p53 をリン酸化する PMD1Aに変異があるクローン性造血も多いことを発表していました。同時に,何か新たなことがわかってきている可能性があるんじゃないかと思いました。一方では,効率良く遺伝子の変異を入れるゲノム編集について,他のグループが開発した方法論を改良して,造血細胞でも非常に効率良く遺伝子変異を導入する方法を開発した話もしました。今後,この分野でも必須のテクニックになっていくと思います。

Negative Selection

小松 先生はテクノロジーに非常に大きなこだわりがあるので,これについては後ほどお話を伺いたいと思いますが,懇親会で北村先生が活動している“Negative Selection”というバンドの演奏がありました。先生はドラム担当でした。いつごろからドラムを叩いているのですか。

北村 大学生のときに少しやっていた程度です。ところが新学術領域でご一緒した河本宏先生を私の車にお乗せしたときにたまたまかかったのが 1970 年代後半のキングクリムゾンってい

「臨床血液」は会誌としての役割だけではなく,若手の医療従事者の教育ツールとして重

要な役割を果たしている。「この人に聞く」では,血液学の発展に寄与した偉大な先生方

に貴重な話を伺う。今回は第 9回日本血液学

会国際シンポジウム会長の北村俊雄先生に

語っていただいた。

進行役=小松則夫

順天堂大学医学部内科学血液学講座教授

Page 2: p338-349臨床血液60巻4号0009 この人に聞く 北村臨床血液60(2019):4 -339- うプログレッシブロックバンドのRedという曲でした。「え,先生,こんな曲聞くんですか?」と言われたのがきっかけで

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うプログレッシブロックバンドのRed という曲でした。「え,先生,こんな曲聞くんですか?」と言われたのがきっかけです。当時,河本先生の造血幹細胞分化についての新説など,河本先生のことは免疫学会を通じてよく知っていましたが,個人的な付き合いはなく,このとき初めてお互いの音楽の趣味が似ていること,また河本先生たちがバンドをされていることを知りました。河本先生が,「PI(principal investigator)がメンバーのバンドにしたいけれど,ドラムを叩く PI がなかなかいない」というので,「昔叩いていたよ」と言ったら「ぜひメンバーに加わって欲しい」と言われました。「もう 30年やっていないし,忙しいから無理です」と一度はお断りしました。でも,振り返って考えると,断る選択肢は私の中になかったと思います。というのは,私は音楽がとても好きで,40 年以上ずっと音楽を聴きながら仕事をしたり勉強したりしてきたくらいだったからです。

小松 北村先生の好きな音楽はどういったジャンルですか。北村 一番好きなのは,1970 年代後半から 1980 年代前半の叙情的かつ知的なプレグレッシブロックです。変拍子とポリリズムも重要な要素です。でも,ピアノとバイオリンが好きなので,クラシックも好きです。ハードロック,ポップス,歌謡曲,ジャズも聴きますが,9割はプログレです。

小松 先生は多彩な趣味を持っておられるんですね。正直,驚きました。懇親会のステージで,Skoda 先生も一緒にギターを演奏されて,サプライズでした。Skoda 先生がギターを弾く

ことになった楽屋話を教えていただけませんか。北村 普段から学会で演奏する場合は必ず学会関係者にも参加していただきまます。我々のバンド“Negative Selection”は『リンパ節一人旅』や,今度の『LAZY STEMY』など,免疫,血液絡みの曲を作って,アウトリーチの一環として活動しています。ただ,有名なバンドではありませんので,オリジナル曲だけを演奏しても喜んでくれる人は少数です。だから学会から演奏の依頼があると,会長や学会関係者に好きな曲を歌ってもらうようにします。今回は,EHAと ASH から招聘した誰かに歌ってもらうか,あるいは演奏してもらうかが重要と思い,知り合い 5~6人に声を掛けてみました。ギターを弾いてもいいと言ってくれたのが Peggy(Margarett Goodell 先生)とRadek(Radek Skoda 先生)でした。Radek は長年の友人ですが,バーゼルに行ったときに一緒にステージに立たないか聞いたところ,何とジーンズのポケットからギターのピックを出して「20 年もやっていなかったんだけど,つい最近またギター始めたんだ」という偶然。「僕も 30年やっていなかったけれどやっているから大丈夫だよ」ということで参加が決まりました。Peggy はロックというイメージはなかったのですが,歌ってもらえるか聞いたところ,ギターを弾いてもいいと言われたのは意外でした。Peggy と Radek はギターまで持参して参加してくれました。大きな声で言えませんが,懇親会前の最後のセッションは少しさぼって 2人で練習していたそうです(笑)。2人もとても楽しかったと言ってくれました。日本からはがんセンターの北林一生先生,東海大学の幸谷愛先生にもピアノの弾き語りで参加していただきました。アジア代表として研究室の大学院生(リュウさん,実はシンガーソングライター)にコーラスで参加してもらいました。演奏直後には長年の友人 Tony Green 先生が「次は歌わせてくれ」と言ってき

図 2 �班会議「細胞運命抑制」ホームページ(http://www.riken.jp/cell-fate/)

図 1 �懇親会で演奏した日中欧米の混成バンド。河本先生がリーダーのバンド Negative�Selection のメンバーは石戸聡(兵庫医大,ベース),大久保博志(プログレス,キーボード),河本宏(京大,ギター),大野博司(横浜理研,ボーカル)である。

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ましたし,Jon Licht 先生は「私もバンドをやっている,いつか共演しよう」と言ってくれました。宮崎泰司先生にも「ピンク・フロイド大好きです」と言っていただきました。サイエンスと音楽から人の輪が広がりました(図 1)。

小松 素晴らしいですねえ。とにかく,皆さん多才ですね。河本先生は絵も巧みですよね。班会議「細胞運命制御」のホームページの絵(図 2)も描かれたじゃないですか。

北村 河本先生は異才の人です。普通じゃないですね。小松 しかも筆が早い。北村 我々の細胞療法の班研究のホームページの絵は水彩画で一晩で描かれたそうです。

小松 とてもきれいな絵ですよね。私もその班会議で発表させてもらいましたのでよく覚えています。ところで,東大医科研のコラムの「ご挨拶」を読ませてもらいました。北村先生はご自分のことを「凝り性のあまのじゃくだ」とおっしゃっています。先生の研究の原点は,おそらく TF-1 細胞にあるのだろうと思うのですが,そこから研究が発展し,IL-3 や GM-CSF 受容体のサブユニットのクローニングにつながっていくのだろうと思います。TF-1 は,確か 1989 年に『Journal of Cellular Physiology』に掲載されたと思うのですが。

北村 その通りです。小松 この TF-1 というネーミングには諸説ありますね。Last author が高久史麿先生なので,タカク(T)フミマロ(F)なんじゃないかとか,あるいは様々なサイトカイン,たとえばGM-CSF,IL-3,Epo に反応するから,3ファクターに反応する細胞株ということで TF-1 としているとか,いろいろな説があるのですけれど,本当のところはどうなんでしょうか。

北村 “高久史麿 1”じゃないかって言われることがありますが,これは誤解です。フミマロタカクだから,もし付けるとしたら,FT-1 ですね(笑)。でも教授の名前を付けるなんて,そんなことはしないです。実は一度,ASHでMulti-factor depen-dent,MFD-1 という名前で発表したことがあります。ところが,MFD-1 っていうのはいかにもパッとしない名前です。覚えてもらえる名前にすることが大事と思いいろいろと考えたのですが,いい名前を思いつきませんでした。結局,小松先生のご指摘のように,GM-CSF,IL-3,エリスロポエチン,この 3つのファクターに反応して増えるから,tri-factor dependentということで TF-1 にしました。ただ,その後,20 以上のサイトカインに反応することがわかりました。

小松 そんなに多くのサイトカインに反応するんですか。北村 はい。それで,今は Tokyo Factor とか,あるいは Takusan Fueru(たくさん増える)とか言っております。

小松 ネーミングって大切ですね。北村 そう思いますが,その才能は私にはなさそうです。小松 TF1 はヒトのサイトカイン依存性細胞株として,世界で最初に発表された細胞株ですね。

北村 確かMeg07e という細胞株の論文が少し早く出ていますが,一番よく利用されているのは TF1 と小松先生が作られたUT-7 ですね。UT-7 の方が,名前のセンスはいいと思います。先生は私とほぼ同時期にサイトカイン依存性の細胞株を作られて,私たちはこの 2つの細胞株を使って研究してきたこともあり,小松先生とはずっと同じ道を歩んできているという感じを持っています。

小松 いやいや,とんでもない。私は先生の足元にも及びません。私は樹立したUT-7 の名前の由来はウルトラセブンです。子供たちが好きだったこともあり,M7の患者さんから樹立したので,最初はウルトラセブンと命名したのです。

北村 いいですよね。小松 でも師匠の三浦恭定先生に「ウルトラセブンにします」と報告したら,「品がないからやめなさい」って言われました。

北村 三浦先生らしいですね。小松 でも,ウルトラセブンとせっかく付けたからなあと思って,ウルトラセブンのウとト,セブンをいただいてUT-7 としました。ところで北村先生は高久先生のところで大学院を過ごされたんですか。

北村俊雄先生

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“あまのじゃく”に

北村 当時,基礎系教室は大学院生を受けていましたが,臨床系教室では実質的に大学院は存在しませんでした。学生運動の名残りです。そのため,私は大学院生としてではなく医員として臨床をしながら研究していました。高久先生が教授になられたばかりの東大第 3内科の 6研で浦部晶夫先生を中心としてEpo の研究が中心的テーマでした。そのころ,6研では Epo依存性のマウス細胞株を使って Epo 受容体の研究が行われていました。当時,ヒトではサイトカイン依存性の細胞株はできないと言われ,皆マウスの細胞を使って研究していました。私はあまのじゃくなので,「できないっていうんだったら作ってみたい」と思いました。ヒトのサイトカイン依存性細胞株を樹立しようと多くの研究者が競争していたら,きっと樹立しようと思わなかったでしょう。でも多くの研究者が失敗して,皆ほとんど諦めていたので,やってみようと思いました。自分が担当している患者さんも含めて 50例ぐらい培養しましたが,2例目の患者さんから樹立できました。運が良かったと思います。

小松 どのような患者さんだったのですか。北村 当時の診断基準ではM6と診断した患者さんです。ただ,その後すぐに変更された診断基準に従うとMDSの診断になる患者さんでした。異常な造血細胞が全身の様々な組織に浸潤しているのが特徴だった珍しい症例でした。病理部からはMDSとして報告され,pan-myelose という病理診断名がついたと記憶しています。

小松 ヒトではサイトカイン依存性細胞株がなかなかできなかったわけですが,樹立の際に工夫されたことがありましたら教えていただけませんか。

北村 その前のがんセンターでの経験が役に立ちました。第 3内科入局後,私はがんセンターでATL の研究をする機会を与えていただき,そこで患者さんの白血病細胞の培養をたくさんしました。がんセンターでの 2年間が私にとって初めての研究でしたが,体の中ではどんどん増えている細胞がvitro で培養するとあっという間に死んでしまうことが多いことを経験し,「元凶の細胞は体の中のどこかに潜んでいるんだ」と思いました。これが今でいう白血病幹細胞です。元凶はきっと骨髄の中だと思いました。そこで私は患者さん 50例全て,骨髄細胞を培養しました。当時は骨髄細胞培養では,付着細胞を除くことが必要と言われていたのですが,私は逆に付着細胞を一緒

に培養する方法をとりました。それには理由がありました。多くのMDS患者さんを診ていて,「MDSでは,骨髄ストローマ細胞に異常がある人がいる」と考えました。ひょっとしたら,MDS細胞は,異常なストローマ細胞に依存して増殖するのではないか,と考えたのです。TF-1 が樹立できた患者さんの細胞は同じウェルに生えてきた患者さん由来のストローマ細胞上でどんどん増えて,エリスロポエチンも必要ありませんでした。ストローマ細胞のない新しい培養皿に移すとあっという間に死んでしまう。「あ,これはなにかストローマが出してるな,おそらく GM-CSF か G-CSF だろう」と閃きました。エリスロポイエチンでは 1週間くらいは培養できましたが,それ以上は無理でした。ところが,当時エリスロポイエチン,IL-1 やIL-2 以外に入手できるサイトカインはほとんどありませんでした。私にとって幸運だったのは,そのときに同じ研究室で研究されていた東條有伸先生が他の実験目的でボストンにあるGenetics Institute 社から供与された GM-CSF をお持ちだったことです。

小松 成功には運というものは必要ですね。北村 それで,「それ,ちょっと分けて」と頼んで,ふりかけたら,ストローマがなくてもあっという間に増え始めてきて,「あ,これは間違いなくGM-CSFだ」ということで,サイトカイン依存性の細胞株が樹立できたわけです。他にも同様の方法でサイトカイン依存性細胞株を樹立しようと思いましたが,なかなかうまくいきませんでした。

小松 先生は他にも細胞株を樹立されようとしていたんですか。北村 はい。50例骨髄を培養して,取れたのは 2例だけ。もう1つの方は IL-3 依存性の細胞株で,common ALL から樹立し

小松則夫先生

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TF-72 と命名しました。TF-72 は IL-3 に反応して増えますが,IL-3 がなくてもある程度は増えました。50 例から培養して,その 2例しかできませんでした。皆がトライしてもなかなかできないと言われていたので,普通の AMLは除いて,ALL,MDS,M6,や少し変わった症例を中心に培養しました。中でもM6は元々 Epo 依存性が知られていましたので,注目していました。50例やって 2例目に出てきたから良かったのですが,もし,これが 49 例目だったら,やはりできないんだと思ってやめてしまったかもしれないと思います。

小松 運もあったと思いますが,着眼点が良かったと思います。北村 そうですね。それと,もう 1つは執着心です。この患者さんはドライタップでほとんど取れなかったんですよ。それで,1滴だけ取れた骨髄液を使って培養しました(半分は検査用)。

小松 なるほど,そうなんですね。私のUT-7 もまったく同じです。

北村 あ,UT-7 はM7ですよね。小松 そうです。北村 TF-1 はM6由来ですが,サイトカイン依存性ということに加えてUT-7 と形態も似ています。

小松 私はUT-7 を樹立する前にCMKという千葉大学小児科の佐藤武幸先生が樹立された細胞株を供与していただいて巨核球の分化について研究を行っていました。CMKの培養系にホルボールエステルを添加すると当然巨核球に分化するわけですが,2~3日すると培養液が真っ黄色になるんです。「どうしてだろう。何か分泌されているのだろうか」と思って,培養液もとCMK細胞に添加したところ,どんどん増えたんですね。「CMKは巨核球系の性質を持っているから,もしかしたら,世界中が追い求めているトロンビポエチンかもしれない」と思って精製を始めたのです。1年間,寝食を忘れて精製に没頭したのですが,精製できたのはGM-CSF だったんです。私の研究はこれで終わったと思いました。精製したGM-CSF が大量に冷蔵庫に余っていました。その後間もなくして川崎医大血液内科の和田秀穂先生(現在主任教授)からM7の骨髄の巨核球コロニーのアッセイを依頼され,わずかに余った細胞を液体培養してみました。1ヶ月間培養しましたが,ほんのわずかな細胞が生き残っていましたが,増えてはきませんでした。そこで,「ちょっと待てよ,冷蔵庫の中に精製したGM-CSF がたくさんあるから,かけてみよう」と思って振りかけたんです。そしたら増えてきたんです。それが UT-7 なんです。先生もおっしゃるように,GM-CSF をかけたら,ぶわぁっと一気に増えだしたという先生の今のお話を聞いて,誕生のプロセスがTF-1 と UT-7 は非常に似てると思いました。不思議ですね。

ところで,話は変わりますが,北村先生はカリフォルニアのDNAX研究所に 8年間留学されていましたよね。DNAXに留学されたきっかけは何ですか。

北村 いくつかの偶然が重なってDNAXに留学することになりました。実は,海外に興味があったわけではありませんし,海外に留学したいという気持ちはまったくなかったんです。ところが当時の第 3内科は,順番が回ってきたら学年ごとにほぼ全員留学するというところで,「今年はうちの学年だ」となると,8人いたら 8人全員留学します。素晴らしい環境でした。

小松 それはすごいですね。北村 海外にあまり興味がなかった私がそういう環境に身を置くことで,「あ,次は自分が行くんだな」と普通のこととして留学を捉えることができました。最初はUCLA の David Goldeというオーソドックスな血液学者の研究室を高久先生に紹介していただきました。当初,UCLA に行くつもりでしたし,渡米 10ヶ月前の結婚式ではそのように紹介されました。ところが,TF-1 を使っていろいろ調べているうちに,GM-CSF とIL-3 のレセプターはサブユニットを共有していると思うようになりました。でも,サイトカイン 1つに対してレセプターは1つということが当時の常識だったので,私の仮説は信じてもらえませんでした。そこでGolde 先生にその仮説と仮説を証明するための実験についての長文の手紙を出しました。しばらくして,先方から受け入れられないと連絡がありました。ポスドクが自分で考えたプロジェクトを持ってくるということがアメリカではなかったからかもしれません。あるいはGolde 先生の研究室では遺伝子クローニングができない環境だったからかもしれません。結局,Golde ラボへの留学はご破算となりました。「どうしようかな」と思っていたら,高久先生が「新井さん(新井賢一先生)っていう面白い人がいるから,そこに行ってみるか」と言われ,インタビューでDNAX研究所のある Palo Alto を訪れました。1988 年の 10 月でした。彼らもIL-3 のレセプターをクローニングしようとしていたこと,さらに発現クローニング法で遺伝子クローニングができることもわかり,DNAXの宮島篤先生のラボに翌年の 4月から留学することにしました。その後長く住むことになる Palo Alto への,思い出深い最初の訪問となりました。

Ready! Steady! Go!

小松 そこで先生の仮説を証明するための研究がスタートしたわけですね。

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北村 そうですね。とてもいいタイミングでした。DNAXで宮島先生と出会わなければ,仮説は証明できなかったと思います。DNAXでも私の仮説を信じてくれる人はいませんでしたが,DNAX 以外では仮説を証明することはできなかったでしょう。詳しい話をすると 1時間くらいかかってしまいますので,簡単にまとめると 3つの要素がありました。まず,私が研究室に参加する直前にマウスの IL-3 レセプターが宮島研で同定されたことです。2つ目はDNAXでは当時の最先端の発現クローニング法を導入していたことです。もう 1つ極めて重要だったのはDNAXには極めて安定な酵母で作ったリコンビナント IL-3 があったことです。当時,入手可能だった大腸菌由来の IL-3 は不安定で,放射性ヨードで標識しても 1日で使用できなくなりました。それに対してDNAXの IL-3 は標識後 1ヶ月も使用できました。このDNAXの環境に私が 3つの要素を持ち込みました。IL-3 依存性細胞株 TF-1,IL-3/GM-CSF レセプターに関する仮説,それから発現クローニング法の感度を数百倍に上げるフィルムエマルジョン法です。実はこのフィルムエマルジョン法は第 3内科時代に「腎臓のエリスロポイエチンの産生細胞の同定」というテーマを高久先生に与えていただいたときにmRNA in situ はハイブリダイゼーションをするために導入した実験法です。この競争には負けましたが,この実験法が IL-3 レセプターの同定に大きく役に立ちました。

小松 もう少し研究の内容についてお聞かせください。北村 我々の研究で IL-3 レセプターは主にリガンドに結合するα サブユニットと結合を高親和性にする β サブユニットで構成され,β サブユニットはGM-CSF と共通で,シグナル伝達に重要な働きをすることが明らかになりました。その過程は紆余曲折でしたが,上で述べた 6つの要素が絶妙に絡まり,仮説の証明につながりました。

小松 ちょうど北村先生が留学されていた時期というのは,DNAX研究所ではサイトカイン,あるいはサイトカインの受容体の研究をものすごく精力的にされていた時期ですね。当時,世界をリードした研究でしたね。運もありますが,そのようなところに目をつけた先生の実力も素晴らしいですね。David Golde のところに留学していたら,おそらくこのような研究成果を出すことは難しかったかもしれませんね。

北村 あの手紙を書かなければ,きっと UCLA に行くことになったと思います。DNAXでは IL-3 と GM-CSF のレセプターの共通サブユニットのあと,IL-3 のレセプターのアルファサブユニットのクローニングを手掛けることができました。

小松 先ほど,紆余曲折とおっしゃいましたが,実験の成功までの苦労を教えてください。

北村 まず,同僚の林田さんがマウスの IL-3 レセプターとの相同性を利用してヒトの遺伝子を取ろうとしましたが,なかなか全長の cDNAが取れませんでした。TF-1 を使った生化学的実験で 120 Kda くらいの共通サブユニットと思われる分子はIL-1 によって発現が増強することがわかっていたので,IL-1 で刺激した TF-1 からmRNAをとりました。そのmRNAでライブラリーを作成しクローニングに成功しました。ところが,同定した遺伝子を発現しても IL-3 に結合しません。困りました。出口のないトンネルに迷い込んでしまった感じでした。ちょうど渡米後 1年経った季節のいい時期でしたが,さすがに好きなゴルフをする気もなくなったことを覚えています。

小松 どういうきっかけで上手くいき始めたのですか?北村 はい。なかなか興味深いきっかけです。当時は,レセプターのクローニングをすると,大抵『Nature』か『Cell』に掲載されました。ところが,オーストラリアのDon Metcalfと Nick Nicola たちが GM-CSF レセプターのα サブユニットを同定した論文は,なぜか『EMBO J』に掲載されました。データも足りなくて,焦って投稿した感じだったので,どうして? と思いました。彼らが慌てて発表した理由は実は我々にあったことがあとでわかりました。当時,東大の第 3内科でGM-CSF のレセプターがクローニングされたという噂が世界中に流れたらしいんですよ。だから,彼らは焦って,最初のクローンが取れてから 10日ほどで急いで論文を投稿したというのです。なぜそんな噂が流れたのかと,たどって調べたところ驚きました。なんと私が DNAX にインタビュートークで,GM-CSF と IL-3 のレセプターはベータサブユニットを共有するという仮説のスライドを出したのを,DNAX にいた私の 1年先輩で分野違いの人が見てクローニングしたと勘違いしたらしく,それが噂になって世界中を駆け巡ったようです。

小松 それだけたくさんの人が注目していたということですね。北村 先ほどお話ししたようにマウス IL-3 レセプターとの相同性で同定したヒト遺伝子は IL-3 にも GM-CSF にも結合せず困り果てていました。我々にとって幸運だったのは,オーストラリアのグループが「東大グループ GMレセプター同定」の誤った情報を聞きつけて慌てて未完成な状態の論文を発表したことです。彼らの論文はGM-CSF に低親和性で結合するα サブユニットのみで発表しました。我々はその論文を見て,「あ,これと組み合わせたらきっと高親和性レセプターになる」と考え,実験を進めました。でも,周囲からは,マウス IL-3 レセプターとの相同性で同定したヒトレセプター(KH97)をGM-CSF レセプターと組み合わせて変な実験をしているという風に思われました。「わけがわからないね」と言われました。IL-3 と GMがサブユニットを共有しているという仮説があっ

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てこその実験です。予想通り KH97 とオーストラリアのグループが発表したGM-CSF レセプターα サブユニットを組み合わせると高親和性のレセプターができました。次に,KH97が共有サブユニットであることを示すためには,IL-3 レセプターの α サブユニットを同定しないといけない。ところが,生化学的実験から,IL-3 レセプターは α も β も単独では IL-3にはほとんど結合しないことを予測していました。α と β が両方ないと IL-3 は結合しないと考えていました。そこで TF-1 から作成した cDNAライブラリーを IL-3 の結合でスクリーニングする際に KH97 を同時にトランスフェクションしました。今度は,周りの人から,「GM-CSF レセプターのベータサブユニットであると判明した遺伝子を同時に発現して,IL-3 レセプターのスクリーニング? また本当にわけわかんないことやってる」と言われるのです。1990 年 10月 17日土曜日の午後,仮説を裏付ける実験の結果を得ることができました。ついにIL-3 レセプターアルファサブユニットの遺伝子を同定し,IL-3レセプターとGM-CSF レセプターがサブユニットを共有するという仮説を立証することができたのです。

小松 その成果が『Cell』に掲載されたのですね。実験が成功したときの感想を教えてください。

北村 今でもよく覚えていますが,仮説を証明した日に宮島先生の机の上に「研究していてこんなにうれしかったことはありません,ありがとうございました」と一言メモを残して,気持ちのいい快晴の土曜日だったのでゴルフに行きました。ご指摘のようにこの研究成果は『Cell』に掲載され,私が研究者としてやっていく道を拓いてくれました。ただ,成果以上に重要な経験もしました。実験が成功したときに宮島先生と相談し「新井先生は情報に対してとてもオープンなので,宮島先生と私と実験を手伝ってくれた大学院生の佐藤憲子さん以外にはしばらく秘密にしよう」ということになりました。私は当然のことだと思いました。このことで,2つ重要なことを学びました。緘口令が敷かれるとかえって何か結果が出たようだと周りの人が感じ,「どういう結果が出て,何がわかったのか」と聞かれました。皆が我々の結果を知りたくていろいろな予想してくれました。ところが誰も我々の結果を予想できませんでした。その前日まで私はこういう仮説でこういう実験をしているんだと隠さずに公言していたにもかかわらずです。

小松 その人たちはハナから信じていなかったということでしょうか。

北村 そうですね,先入観が邪魔をしたと思います。「サイトカインのレセプター 1つにサイトカイン 1つ」という先入観がありますから。だからその先入観に縛られていると変な実験しているとしか映らない。こういう仮説を証明するために実験を

続けているのだということは知っているはずなのに,うまくいったときにその仮説が証明されたことを誰も言い当てられなかったのです。不思議でした。先入観を持って物事を考えていると,その一線を越えるのが難しいことを実感しました。

「情報を共有すること」と 「競い合う」ということ

小松 それは先生が学ばれた重要なことの 1つですね。ではもう 1つは何でしたか?

北村 もう 1つはアメリカで学んだ中で一番大きなことです。論文を投稿する前にキーストンシンポジウムで発表したのですが,情報が漏れていなくて聴衆は皆びっくりしていました。しかし,あとになって,同じ研究室の人たちにまで秘密にするだけの価値が本当にあったのだろうかと考えました。だって一緒の研究室で,同じようなテーマで実験をしている仲間なのに,そのデータを伝えないわけです。本当にそれで良かったのかなと思いました。当時DNAXにいらっしゃった上代淑人先生に「先生のように情報にオープンだと損することもあるのではありませんか」と尋ねました。すると上代先生は「君はまだ若いからわからないだろう」,「RNAse を最初に同定した人の名前,知っていますか? 誰が最初に何を見つけたかなんて,覚えている人は少ないです。それよりも大切なのは,新たな情報をコミュニティ内で共有しその分野に貢献したということです」とおっしゃいました。私は「結局それで負けてしまったら,実験をした博士研究員や大学院生の人にはかなりの打撃ではないでしょうか」と伺いました。「では,たとえばあなたが親しくしている共同研究者が来たとします。あなたは大事なことを発見したことを黙っています。そして,あなたの論文が『Cell』や『Nature』に出たとき,論文に記されている受付日,修正日そして採択日を見て,ああ,親しいと思っていたのに,僕が行ったときにこんな大事なデータについて話してくれなかったんだと思います。こういうことがあなたのサイエンスの世界を狭めるんです」とおっしゃいました。この答えは当時の私には想像できない衝撃的なものでした。  実際のところ,本当に大事なこと見つけたときに,果たしてオープンになれるかというのは難しいところです。でも,今はアメリカやヨーロッパの研究者たちと議論するとき,あまり隠さないようになりました。せっかく議論するのだから,なにか面白い話を自分がしたら,向こうから面白いアイデアを出してくれるかもしれないし,逆に向こうの情報もいろいろスムースに出てくるでしょう。「彼は情報に関してオープンじゃない」

Page 8: p338-349臨床血液60巻4号0009 この人に聞く 北村臨床血液60(2019):4 -339- うプログレッシブロックバンドのRedという曲でした。「え,先生,こんな曲聞くんですか?」と言われたのがきっかけで

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と思われると,サイエンスのコミュニティの中で孤立した感じになると思います。日本人にはそういう傾向の人が多いかもしれません。

小松 そうですね,先生の仕事のような,いわゆる長いストーリーの中でのデータをしゃべるんだったら,聞いてもすぐにはできないからいいけど,どこか 1ヶ所のミューテーションによってその病気が起こるということがわかるような場合だったら,それを一気にやってしまえばわかってしまう。そのような情報を論文化していないのに簡単に発表することは難しいですね。たとえば,北村先生が共通のサブユニットが存在するって言っても,それをクローニングしようとしてもすぐにはできませんからね。

北村 確かに。小松 だから,先生の研究はオープンにできると思うんですが。北村 実際そのときも宮島先生から「他ではできないよ。こんな仮説でこんな実験ができる人はいないから心配する必要はないと思う」と言われました。そう言われてもとても心配でした。夜寝る時間も惜しく,どうしても 1日休まないといけない日に,宮島先生にプラスミド DNA取ってほしいと頼んだぐらい,大変焦っていました。先にどこかのチームが発表するのではないかと心配でした。

小松 それはそうでしょうね。結局競争社会でもあるし,1日でも早く発表してしまえば,それは勝ちですから。

北村 その通りです。先生もおっしゃるように,情報を共有することと競い合うということは,常にそのバランスを考えないと非常に難しいところです。

小松 UT-7 には UT-7/EPOという亜株があります。この細胞株は EPOに増殖依存性を示します。その培養系から徐々に EPOを除いていって EPOがなくても増殖する細胞株UT-7/EPOIDを樹立したのです。先生もご存知のように,EPOの細胞内シグナル伝達に重要な分子として JAK2 がありますが,このJAK2 は JH1,JH2,SH2,FERM の 4 つの領域から構成されています。私の記憶では 2000 年に JAK2 の JH2 がキナーゼ活性を有する JH1 を負に制御するという論文がMCBに発表されました。私は UT-7/EPOID の JH2 領域にミューテーションがあるのではないかと考え,シークエンスしたのですが,ミューテーションがなかったんです。JH2 の変異で EPO非依存になることはないんだとその当時は思いました。そうしたら 2005 年に真性多血症や本態性血小板血症,原発性骨髄線維症に共通の JAK2V617F 変異は発表され,この変異はJH2 のミューテーションだったのです。あのころは細胞株にばかり執着し,真性多血症にまで発想を展開できなかった。私の実力のなさです。

北村 惜しかったですね。実は,私はMPL(トロンボポイエチンレセプター)の活性型変異は 1998 年に見つけていたんですよ。

小松 W515の変異を見つけていたんですね。北村 そうです。PCR で任意に変異導入したMPL をレトロウイルスベクターで IL-3 依存性細胞に発現させて,自律増殖する細胞からMPLの活性型変異を同定しました。それで,そのときに当然これは患者さんにもあるだろうと思って,100 例ぐらい AML,MPN,ET の患者 DNA を集めました。残念ながら,ET,MPNはその中に 5例ぐらいしかなく,患者さんでの変異が同定できませんでした。

小松 MPN変異の頻度は ETの数%ですからね。北村 あのとき私が多くの患者サンプルを集めることができれば,10年早く,しかも JAK2 の前に報告できていました。あの研究成果は私が報告する可能性があったのに,他の人にやられてしまったと,残念に思います。もっと自分の仮説を信じてとことんまで追求すべきでした。

小松 研究していると,後で,ああと思い返すことが多々ありますよね。

北村 今,4つぐらいとても大事なことを見つけています。最大限の努力を払って最初に発表したいと思って頑張っています。それが研究室の若手の独立を可能にします。これらの研究成果の中でオープンにしても負けないと思う成果に関しては論文を投稿する前から学会発表など積極的にしています。ただ,先生が指摘されたように,内容がわかってしまうと真似できる研究成果についてはやはり慎重になります。

小松 情報の共有化と,ある程度プライオリティを保たなきゃいけないというところに,ある意味相反する面がありますね。

北村 そうですね,信頼できる人と情報の共有化をしておけば,たまたま似たような研究をしていることがわかったときはback to back で論文を発表することができますね。

小松 Back to back は大きいですね。インパクトがあります。北村 サイエンスのコミュニティで,面白いことを全て隠して誰にも話さないというのは,マイナスがかなり大きいと思います。それはアメリカという日本とは研究風土も全く異なる環境で研究したときに学んだ一番大きなことですね。

小松 そうなんですね。話題が変わりますが,影響を受けた人について毎回お聞きしているのですが,いかがでしょうか。

北村 研究面でいえば,国立がんセンターで最初に研究の手ほどきをしてくださった星野洪郎先生と下遠野邦忠先生ですね。2人とも当時はATL の研究をされていました。星野先生に 1年半ぐらい指導していただき,下遠野先生に半年ほど教わりました。下遠野先生は逆転写酵素の発見でノーベル賞を取った

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Howard Martin Temin の弟子です。この 2人に教わったことが私の研究の基礎となりました。

小松 それは,要するにレトロウイルスの研究ですか。北村 はい。星野先生には,ATL の患者さんなどの細胞培養の仕方とかのコツも教えていただきました。このことが TF-1 樹立の際に役に立ったと思います。下遠野先生にはレトロウイルスの生活環など教わりました。レトロウイルスの魅力の虜になった私は,医師を辞めてレトロウイルス学者になろうと一度は決心しました。ある程度,実験ができるようになったときに渡米して,指導を受けたのが宮島先生です。一言では言えないくらいお世話になりました。宮島先生と一緒に研究ができたからこそ,私は研究者としてやっていけていると思います。私はもともとなんでもあまり人に習うのは好きではありませんが,研究では 3人の素晴らしい指導者に恵まれたと思います。

小松 先生は,自称あまのじゃく。人と同じことはやりたくないとおっしゃっていましたね。

北村 そう。ドラムもゴルフも正式に教わったことはありません。見よう見まねでとりあえず始めてみる。おそらく人に教わることが面倒なだけなんでしょうけれど,研究に対しても似たようなところがあって,誰かに本当に研究を一から教わったということはあまりないと思っていました。でもよく考えると 3人の先生には大きな教えをいただいたと思います。私は大学院生と議論するとき,サイエンスの上では対等という気持ちで接しています。意識していませんでしたが,そのことは 3人の先生の指導法を踏襲していたことに,今気がつきました。やはり教育において指導者は重要ですね。

小松 北村研究室のホームページを見ると,8人の先生方がアメリカに留学されていますね。ヨーロッパにもお 2人が留学中です。次の若い世代を育成することは常に重要かつ最優先課題だと思っていますが,一番懸念されるのは,若い優秀な素晴らしい人たちはたくさんいるにもかかわらず,研究をやろうという志のある人が確実に減ってきているように思われます。北村先生の研究室は特別で,若い人たち,研究志向の人たちが集まってくるように見えますが。

北村 私は高校の先生にもなりたかったんです。教えるなんて少々口幅ったいのですが,若い人と一緒に,ワイワイ皆で面白いことをしたいという気持ちが強いです。若い人と議論したり,元気付けたり,一緒に遊んだりするのが大好きです。残念なのは,私が彼らと同じ歳でないということくらいです。

小松 それは仕方ないです(笑)。北村 留学から帰ってきた時は 40歳だったから,彼らとほとんど同い年くらいのつもりでやっていました。今でも基本的にはそういう気持ちですが,相手から見たら,もうお父さんみたい

な歳(笑)。小松 よくわかります。私は同じ土俵で話しているつもりなのに,若い人たちは厭みたいです(笑)。

新たなキャリアパスを整えたい

北村 私自身は研究を楽しめる間は,あと 10年でも 20年もやり続けたい。こんなに面白いことはない。毎日楽しくてやめられない。考えることが大好きで,研究が面白いと思える人を集めて皆で一緒に研究したら,毎日エキサイティングで,こんなに楽しいことはない。でも,今の時代,小松先生がおっしゃる通り,なかなかそういう方向に向かないようになってきています。臨床は臨床で忙しい。研究者になる人でも会社に勤めた方が安全そうだと。最悪なのは,助教になっても,将来その先がどうなるかわからない不安定な職業にしてしまった現代の社会構造です。これでは,優秀な人はこんなところで働きたくないなと思うでしょう。確かに私のところに来てくれる人は研究者になりたいという人が中心です。研究が好きになりそうな人を集めるために,毎年 7~8回公開セミナーを医科研で開催しています。お弁当も出します。そのセミナーでは,私やスタッフの留学話,どういう研究をしてきたかを誰でも理解できるような内容で話をします。私が大体 5回ぐらい話して,あとスタッフが 1回ずつ担当します。このセミナーのおかげで,私の研究室に来る人の多くは留学したい人です。学位取得後に大体 7割ぐらいは留学します。ただ,日本では 30代や 40代前半で PI になることは難しい。留学した人が帰国して研究する場所を用意する必要があります。そうしないと優秀な人は日本に帰ってこなくなります。そこが一番の問題です。私は若い人

小松先生(左)と北村先生(右)

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が独立していける新たなキャリアパスを日本でも作りたいと考えています。ちょうど神戸にある医療産業都市推進機構の先端医療研究センターにひとつ研究室をいただきましたので,よいきっかけになればと思います。

小松 戻る場所ができるというのは重要ですね。北村 はい。今回は私が客員部長ですが,これをきっかけとして,本当のキャリアパス,新しいキャリアパスを,若い人のために準備していきたいです。そうしないと優秀な人が留学から帰ってきても自分のやりたい研究ができなくて潰れてしまうか,あるいは優秀な人は海外に残って日本に帰ってこなくなります。日本の研究が空洞化していくことは明らかです。私はこの件で少しでも役に立てればいいなと思います。

小松 優秀な人たちも PI として研究を継続できる環境を用意している大学もすでにありますね。

北村 いくつかの大学では確かに用意されていますね。でも,実際には本当の意味でアメリカのテニュアトラックとは少々異なるように感じます。

小松 研究というのは,成果が出るかどうかもわからない中でただひたすら続けていかなくてはならない。そして成果が出なければ上に進めない。

北村 頑張ればなんとかなるという世界ではない。小松 新しいことを見つけなきゃいけないし,先が見えない不安定な生活より,企業に就職したほうがいいという判断も理解できます。特に今は非常に就職率もいいですし,ぜひ大学院に行ってほしいなと思う優秀な学生から先日「自分は製薬会社に行くことにしました」と言われました。本人の人生ですから,仕方ないですが,とても残念です。

北村 どこも状況は似たり寄ったりです。小松 もったいないなと思いながらも「生活の面もあるからね」と答えるしかありません。生活が安定するとハングリー精神がなくなり,どんどん研究して進めていこうという意欲が薄れてくる可能性もある。生活が安定してしまうと,もう研究は適当でも別にいいかみたいな気持ちに傾いたりして,モチベーションを保つことが非常に難しいとは思いますが,日本の血液研究を考えたときに基本となるのは,私は基礎研究だと思いますが,いかがでしょうか。

北村 臨床と基礎,両方大事ですけどね。小松 もちろんそうですが,基礎がきちんとしてこその臨床だと思いますが。

北村 血液の臨床をやろうと思う人は,基礎に興味があって来る人が多い。だから,学会がさらに発展するために,少しでも力になれればと思っています。

小松 ぜひ先生には次世代のためのキャリアパスを構築していた

だきたいと思いますね。北村 そのために 1つ重要なことがあります。私のバンド活動にもつながるんですけど,若い人たちが見ていて,大変そうな世界で安定していないなと思うだけだとネガティブな面だけになってしまいます。そこで,PI になった人が仕事と人生を楽しんでいる姿を見てもらうことは大事なことだと考えています。若い人たちが少しでもこうなりたいと思うロールモデルが必要です。国際シンポジウムという場で造血幹細胞の曲などを会長自ら演奏できたことは,そういう意味も含めて良かったと思います。少々,我田引水的ですが……。

小松 まったく同感です。たとえば医局の人たちを見ていて,教授を目指して頑張ろう! といった意欲を持っている人たちはあまりいないんですよ。

北村 実は私も持っていませんでした。すみません。小松 いや(笑),それはなぜかと振り返ると,彼らの目に私たちがハッピーに映っていないからではないとか。ひたすら大変で,夜遅くまで仕事して,会議にばかり駆り出されて,一体なにが楽しくて教授をやっているのだろうと思われているような気がしています。ポジティブな楽しさが伝わっていないのではないかと私は反省しています。

北村 そういう意味では,私はいつも「この仕事は考えることが好きな人はやめられない楽しい仕事なんだ。仕事と言うよりもう趣味が高じたようなもんだ」と言っています。

小松 おっしゃる通りですね。北村 大学院の真面目な優秀な学生から「北村先生,研究もうまく行き教授になっても,自分の好きな車ひとつ乗れないんですね」と言われました。彼は普段そんなこと言う人ではありません。なぜそのときそういうふうに言ったのかわかりませんが,「そうか,そういうところまで見られているんだ」と思って,今まで欲しかったホンダのNSXという車をすぐに買いに行きました。2年後に,NSX に釣られて,すごく優秀な大学院生が来ました。またゴルフやったりバンドやったりしていると,「ああ,楽しそうで自由に研究できそうだ」と思う学生もやってきます。そんなこともあり,研究室には長距離ランナー,トレイルランナー,空手家,柔道家,ダンサー,シンガーソングライター,卓球プレイヤーと様々な人が集まってくれています。中でも現在ニューヨークに留学中の井上君はトレイルランニングの国際大会で 5回も優勝し,その実力は全米でトップ10に入ります。彼が私の研究室を選んだ一番の理由は「先生だったら走ることを認めてくれるだろうと思った」からだそうです。日本血液学会はとてもいい学会だと思いますが,もっと多くの若い人が「入りたいな」と思う学会にするためには,もう少しくだけたところを見せてもいいと個人的には思います。

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たとえば,赤司理事長が学会で 1曲歌ったら大ウケ間違いなしです。「絶対歌わない」って言っていたけど(笑)。今回の国際シンポジウムでも,赤司先生や副理事長の三谷先生にも「歌ってもらえませんか?」とお誘いしましたが,固辞されてしまいました(笑)。もちろん,人によって考え方が違いますので,今回のような学会の運営法に賛否はあると思います。でも赤司先生が歌ってくれたら,きっともっと盛り上がったんだろう,と私は勝手に思っています。

小松 本当にいろいろな意味で憧れる存在でなければ,目指すものが見えなくて,若い人たちは迷いますよね。山梨大学に勤務していたときに,ある教授が「どうして先生は外に出られなかったんですか」と学生から聞かれたそうです。まさにポジティブセレクションではなく,ネガティブセレクション。学生がそのように自分を見ていたと知って非常にショックを受けていましたね。

北村 「外に出られなかった」ってどういうことですか。小松 「外に出られなかった」というのは大学を離れられなかったということです。若者にとっては,「大学の外に出て一般病院の病院長や内科部長になる」ということがポジティブセレクションで,「大学に残る」ことがネガティブセレクションだと。「大学に残る」というのは「大学の外に出られなかった」医師の集団という捉え方です。我々が憧れの存在になるためには,ハッピーにやっている姿を見せないといけないんですね。

北村 「外に出る」とはそういう意味ですか。変わりましたね。昔は「外に出される」でした。先生のご意見に同感です。知的レベルが高い人にとって,研究ほど楽しい仕事は少ないと思います,PI になれば考えることが仕事になるのです,ということをもっと若い人たちにアピールしないといけませんね。

小松 若いころは私もわくわくしながら研究していました。夜中までやっていても全然苦にならなかった。どうして今の若い人たちは遅くまでやらないのかなと私は逆に不思議に思っています。

北村 私は学生のころより今の方が勉強しています。そしてまだまだやりたいことがたくさんある。ここでお話しできないぐらいあります。

小松 それでは,先生が今後どのようなことをされたいのかお聞かせください。

北村 たくさんありすぎて,全部はお話しする時間はありませんが,1つは,先ほど申し上げたように,日本で新しいキャリアパスを作りたいです。若い人が独立できるように。そういうことを少しでも役に立てればいいなと思います。他には,研究は研究でこれほど楽しいことはないとは思いますが,研究と同じくらい書くことが大好きです。研究費の申請書を書いていても

本当に幸せな気分になります。書くことを仕事にできるのもいいなと思います。また,今回の学会を見て感じていただけたかもしれませんが,ユニークなことをしたいんです。イベント作ったりとか,人を驚かせたりとか,楽しませたりとか,そういったことが好きなので,広告代理店に入社しても楽しい人生だったかもしれません。可能ならばそういうこともしてみたいと思いますが,今から広告代理店入社は難しいかもしれませんね(笑)。  最後にもう 1つ若い人へのエールです。私は音楽が本当に好きで,ずっと音楽を聴き続けてきましたが,曲が好きなだけで歌詞にはまったく興味がなく聞いていませんでした。ところが,一緒にバンド仲間が曲を作っているのを見て,「面白そうだな,歌詞を書いてみよう」と思って書いてみました。そしたら,これが結構楽しくて。この歳になっても,まだこんな新しいことができてしまうんだと勇気付けられました。また,最近,スタジオに 2日間入り,イタリア人のとてもいいミキサーと一緒にレコーディングしましたが,私の人生にスタジオでレコーディングするってことが起きると思わなかった。こんなことがこの歳になってできたことで,これからもなんでも好きなことは全部やってやろうという気持ちになりました。自分にとって大きな発見でした。だから若い人はこれからもっともっとなんでもできる,何百%の可能性があるのだから,なんにでもチャレンジしてほしいと思います。

血液学はロマンティック

小松 それでは日本血液学会の会員の皆さんへのメッセージをお願いします。

北村 血液学は,臨床と研究が非常に近いところです。私が血液内科医になろうと思ったのも,血液系では目的の細胞だけを集められる。そこが大事だと思ったのと,顕微鏡を見るのが好きだったからです。この細胞の中でなにが起こっているんだろうと考えると,ロマンティックな気分になります。そういう人はきっと研究が楽しめる人です。一方,血液学には保守的な部分もあります。初めて骨髄の血球を見るときは,「これはプラズマセル,これは赤芽球」と言われると,その命名の理由も知らないまま,経験的に教えられます。つまり,血液学は伝統的な世界とロマンティックに広がる新しい世界が絶妙に配合されています。顕微鏡で細胞を観察し,細胞の中で何が起こっているかを明らかにできれば,楽しい世界が広がると思います。

小松 研究にしても,趣味にしても,先生の旺盛な好奇心と,そ

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れから探究心。それが全ての行動に表れていますね。北村 そうですね。ただ,凝り性なんですけど,学生のときは臨床医になるつもりだったので,基礎の授業に出なかった。そのため基礎的な知識が結構欠落していると思います。凝り性だと周りからも言われますが,実は徹底的に最後まで追求したことがありません。ドラムにしたって,ドラマーというほどでもないし,ゴルフだって,まったくの自己流で中途半端です。一番好きな研究だけでも,最後の最後に自分でちゃんとできたなと思えるようにしたいです。研究室の若い人たちのためにも頑張ります。そうすれば研究室から 20人ぐらい教授を輩出できるでしょう。

小松 最後に,先生の座右の銘をお聞かせください。北村 座右の銘というのは特にありませんが,いつも意識していることが 3つあります。「できるだけ考える時間をとること,議論を大切にすること」「世の中にはそうでなくてはいけない,ということはほとんどない」「好きなことを見つけて頑張る」です。まず,1つ目の「できるだけ考える時間をとること,議論を大切にすること」ですが,研究者の一番大事なことは考えることです。でも忙しいと,どうしても考える余裕がなくなります。長い時間考える必要はないと思いますし,あまり意味もありません。私はベッドに入ってから眠るまでなど,タイミングを決めて考える時間を確保しています。実際にはほとんどすぐに眠りに落ちてしまいますが。また,議論していると 1人で考えるより良いアイデアが出ることがあります。そういう瞬

間は気分が高揚します。2つ目の「世の中にはそうでなくてはいけない,ということはほとんどない」ですが,一般的に人がこうしたい,こうなりたい,これが欲しいと思ってもなかなかそうはいきません。でも思った通りにならなくても何とかなりますし,逆にその方が良かったということも結構多いです。物事に執着し過ぎると創造性が失われる気がします。なった道が良いと思って前に進むのが良いと思います。3つ目の「好きなことを見つけて頑張る」ですが,好きなことの方が頑張れますし,いくら頑張っても疲れません。またストレスもありません。好きなことを見つけてそれが仕事になるのは幸せなことだと思います。私の場合,研究がそうなりました。落ち込んでいる大学院生を食事やお茶に連れて行き,いろいろ話をすることがあります。あるとき,食事後に大学院生が私に言ったのは「今日はとても勇気付けられました。私も先生のように楽しく打ち込めるものを探したいと思います。それが研究とは限りませんが」でした。少しがっかりはしましたが,重要なことは自分がやりたいことを見つけることです。そこはちゃんと伝わったと思います。このことに関連して私は,好きなことは思いっきり頑張り,好きでもないことにはあまり時間を使わないよう気をつけています。人生は思ったより短く,有効に使える時間も限られています。

小松 非常に興味深い研究の話からバンド活動まで幅広く「自由」に活躍されている北村先生のお話でした。本日はお忙しい中誠にありがとうございました。