saiohama shell-mounds · 松本彦七郎博士...
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縄文漁りのムラ
国史跡
Saiohama Shell-Mounds
貝塚断面里浜貝塚西畑地点奇を埋めるように累々と積み重なった里浜縄文人のゴミ。アサリの純貝層、魚骨層、
炭化物層等、縞状に積み重なったゴミを通して、彼らの暮らしぶりをうかがうことカずできる。
人骨の埋葬状況台園地点
Satohama Shell-Mounds
貝塚と、一時二名縄文人のコミ揺て場
貝塚は、縄文人が大量の員殻や獣・鳥・魚などの食べかす、
こわれた土器や石器、骨・角・員などで作った道具類を捨
てた「ゴミ捨て場」です。
縄文のタイムカプセル日本の土は酸性が強く、人間の骨も百年もすれば、跡形
もなく土に帰ってしまいます。ところが、員塚には、貝殻
のカルシウム分によって土が中和されるため、通常では残
らないような骨や角などの類も、良好な状態で保存される
のです。縄文人のすがたや当時の自然環境、食生活などを
知る上で、貴重な情報を与えてくれます。
聖なる送りの場貝塚からは、ていねいに埋葬された人骨やイヌの骨も出
土します。縄文人にとって、員塚は、私たち現代人がイメ
ージする単なる「ゴミ捨て場」ではなく、自然の恵みや道
具に感謝するとともに、供養と再生とを祈った「送りの場」
でもあったのです。
骨角器の出土状況西畑地点
マグロの出土状況梨木東地点
イヌの埋葬状況西畑地点
縄文時代の貝塚密集地帯岡村 (1994)を一部改変
-主な貝縁
Satohama Shell-Mounds
縄文時代の貝爆全国には約3000カ所の貝塚があります。太平洋側を中心
に北から、オホーツク沿岸、内浦湾、 三陸沿岸、仙台湾、
いわき沿岸、霞ヶ浦沿岸、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海沿岸、
有明海沿岸などに多く形成されました。
松島湾沿岸貝爆群宮城県は、千葉 ・茨城県に次いで貝塚の数が多く、約210
カ所の貝塚が知られています。このうち松島湾沿岸には約
70カ所もの員塚が集中しており、とくに貝塚の密集する地
域として全国的に知られています。
松島湾沿岸の員塚群は、 ①里浜員塚を中心とした宮戸島
遺跡群、②西ノ浜貝塚を中心とした松島遺跡群、③大木囲
貝塚・ 二月田貝塚を中心とした七ヶ浜遺跡群からなります。
松島湾は東西約10km、南北約 8kmの小さな湾ですが、縄
文時代を通じて、定住的な大規模遺跡を中心に径 3'"4km
程の領域(縄張り)をもっ、 3つの縄文のムラが共存して
いたと考えられます。
松本彦七郎博士 松本博士が発表した出土状況のスケッチ (r現代之科学J7-2)
Satohama Shell-Mounds
日本の貝塚の研究は、明治10年のE.S.モースによる東京都大森貝塚
の発掘に始まりますが、里浜貝塚の研究の歴史も古く、明治時代の末頃
には全国的にその名を知られていました。とくに、骨角製の漁具や珍し
い鹿角製の腰飾りが注目され、 N.G.マンローの WPrehistoric
Japan (先史時代の日本)~や岸上鎌吉の W Prehistoric fishing in
Japan (日本先史時代の漁労)~に紹介されています。
里浜貝塚の最初の学術的な調査は、大正 7・8年に東北帝国大学理学
部の松本彦七郎、同医学部の長谷部言人らによって行われました。層位
的な発掘調査が行われ、土器型式編年研究の基礎を築くとともに、多数
の縄文人骨が発見され、日本人種論や古環境分析など、今日的な視点で
優れた調査研究を実践しました。
里浜員塚は、その後も、加藤孝 ・後藤勝彦を中心とした宮戸島遺跡調
査会や、藤沼邦彦 ・岡村道雄ら東北歴史資料館(現東北歴史博物館)に
よって継続的な調査が行われ、土器編年や骨角器の研究、縄文人の生業
と食生活の復元など、多くの成果を上げてきました。
里浜貝塚の主な調査研究の歴史
調査年 | 主な調査者 | 調査地区 キーワード
表採、鹿角製漁具、土偶明治30年代
大正7・8年
昭和27-37年
昭和54-59年
昭和59-61年
昭和61-62年
平成1-2年
平成3年
平成8年~
高島多米;台
東北帝国大学
松本彦七郎
早坂一郎
長谷部言人
東北大学教育学鶴
宮戸島遺跡周査会
東北歴史資料館
(現東北歴史博物館)
不 明
初めての学術発鋸
寺下園地点 会 集団墓《縄文人骨の発銀(14坪18体)))
語 層位的発掘《土器型式編年研究の基礎》
動物遺体分析《古環境の復元》
台園地点 縄文後・晩期、骨角製漁具・護身具
寺下園地点 毒 縄文晩期・弥生、集団基本縄文人骨川》
畑中地点 宮高 縄文中期、骨角製漁具
製木園地点 究
袖窪地点 縄文後期、縄文人骨(頭なし・再現?)
縄文晩期、ゴミの最小単位《悉皆サンプリング》
西畑地点 坦 動物遺体分析《縄文人の生業と食生活の復元》
支 豊富な骨角製漁具・装身具《国指定重要文化財》
人西畑北地点、 の 縄文晩期の製塩跡
生
台囲頂部地点 差 縄文前中期
梨木東地点、 冗 縄文前期、古代竪穴住居跡
台閤(風越)地点 縄文後期、骨角製漁具・装身具
西畑地点 員層の広がり、古代製温・竪穴住居跡、中近世の菖
会 縄文晩期~弥生中期の幽跡
奥松島縄文村 西畑北地点 の 縄文前・後期の泥炭層
歴史資料館 建植物遺体分析《植生復元縄文前期のクリ林》
里地点 還 縄文後期末の貝層、晩期の縄文人骨(琳〉
台園地点 縄文中期の貝層、晩期の居住峨《竪穴住居跡》
宮戸島遺跡調査会による台園地点の調査(昭和30年、費藤良治氏提供)
寺下園地点人骨出土状況 (昭和31年、「特別名勝松島J)
梨木園地点の調査(昭和36年、後藤勝彦氏提供)
東北歴史資料館による西畑地点の調査(昭和54-59年)
大高森から望む里浜貝塚
西畑地点
台園地点
袖窪地点
地点名 貝塚の標高 縄文時代
|前期 中期
O 10 20 30m 6000 5000
@ 台囲頂部
@台囲東斜面A口A
。 台囲
。台囲(風越)
@ 梨木東
袖窪・畑中・ 梨木囲
梨木 @ 畑中
袖窪
@寺下囲・西畑 I I
里@ 西畑北 (製塩遺跡)
里浜のムラの変遷と貝の種類の変化
後期
4000
Satohama配置 Shell-Mounds
変わらぬ海の景観松島湾は、氷河時代以降の地球の温暖化にともなう海水面の上昇によ
って沈水し、 形成されました。今日の姿になるのは、 縄文人が松島湾沿
岸に居住し、 多くの員塚を残しはじめる今から約6000年前頃のことです。
その後も、 海が近づいたり退いたり、小刻みな地形変化を繰り返しますが、
湾内の沖積作用は鈍く、 里浜のムラをめぐる海の景観は、縄文時代を通
じて大きくは変わらなかったようです。
ただし、 今から約3500年前の縄文時代後期後半頃を境に、主体とな
る貝がスガイからアサリへと推移しており、岩礁性から砂・砂泥性へと、
海の底の状態が少しずつ変化した様子がうかがえます。(下図参照)
里浜人の生活を育んだ森里浜貝塚の地層に含まれる花粉や種実、木材などの分析によって、 里
浜人の生活を育んだ縄文の森は、 今よりもずっ と多種多様な樹木からなり、
縄文時代を通じてクリ・コナラ・ケヤキなどの落葉広葉樹林が優勢な植
生だ、ったことが明らかになりました。とく に、クリの花粉が占める割合
が高く、ムラを営みはじめて間もない約5700年前から、管理され栽培
されていた可能性も考えられます。
芭蕉がたたえた 「松島」 を代表するマツも、 縄文時代から生えていた
ことが明らかになっていますが、 現在のよ うなマツが織り なす美しい景
観となるのは1000年"-'500年くらい前のことだ、ったようです。
Satohama Shell-Mounds
里浜員塚は、松島湾内最大の島「宮戸島」にあります。東西約640m、
南北約200mの規模をもっ 日本最大級の員塚です。 “優れた骨角器や多
種多様な生活関連の遺物が出土し、 当時の生活を復元する上で貴重な情
報を提供する貴重な遺跡"として、 平成7年国史跡に指定されました。
里浜人は、 約6000年前の縄文時代前期(台囲・梨木東)にムラを営みはじめ、
数百年から千年単位でムラの場所を移動しながら、「台囲(だいがこい)J、「畑
中(はたなか)・梨木囲(なしのきがこい)・袖窪(そでく同」 、「寺下回(てらしたがこい)・
西畑 (にしはたい里(さと)Jの各地点に生活の場を残しました。
弥生 貝の種類晩期 時代 (岩場の貝と砂・泥海の貝の比率)
3000 2300年前 o 10 20 30 40 50 60 70 80 90100%
岩場の員 I I
砂・砂泥の貝
.
L一一一ー
※各地点の番号は、右の地形図に符号する。
はじめは小さなムラ
でしたが、約4500年
前の中期後半(畑中・梨
木囲・袖窪)になるとか
なり大きなムラを形成し、
約2000年前の弥生時
代 (寺下回・西畑・里)まで、
4千年以上にもわたっ
て安定した生活を送り
続けました。
o
里浜貝塚全体図
貝層の範囲
塩作りの場
松本彦七郎博士
宮戸島遭跡調査会(東北大学敏育学部)
東北歴史資料館(現・東北歴史縛物館)
奥松島縄文村歴史資料館
Satohama • ~ Shell-Mounds
員塚から出土した道具類や食べかすなどを詳し く調べると、
漁や狩り をはじめとする季節ごとの生業や、縄文人の食生活
の実態が明らかになります。
里浜人は、四季折々の自然の恵みを、効率よく取り入れた
生活を営みま した。春と秋に集中する季節の恵みを、食料が
不足する冬や盛夏に備えて「塩漬け」などの保存食料としたり、
また漁や狩り の合間には道具作りを行い、来るべき季節に備
えました。実に計画的な暮らしぶりだ、ったといえます。
里浜人の植物利用については、詳しいことはわかっていま
せんが、人骨や花粉などの分析による と、木の実や果実・キノコ・
山菜・イモ類などの植物質食料もかなり利用していたと考え
られ、里浜人の食生活はバラエティーに富んだ豊かなもので
あったと思われます。
アサリ を中心とした貝類の採取。内湾に群れをな して回
遊してきたイワ シやフグなどを漁獲。山ではコゴミやゼンマイ などの山菜を採集。
春
夏d
秋d
冬
貝やウニ・ガザミなどの採取。外洋でのマダイ・クロダイ
・大型のスズキ・ブリ ・マグ口などを漁獲。塩作り o
内湾に回遊してきたアジ・サバを漁獲。山ではクリ ・クルミ.卜チの実やキノ コを集中採集。
シカ・イノ シシなどの獣やガン・カモなどの冬鳥を捕獲。
20
nu
(封
sgE側出納幽爾側)??。
o
里浜人が漁獲した魚貝類(西畑地点)
O -30 -20
d'l(; (炭家安定同位体比)
-10
里浜縄文人の四季の暮5し(生業カレンダー)岡村道雄氏作成
里浜人骨か5分かること
里浜貝塚からは、これまでlこ50体を越える縄文人骨
が発掘されている。その特徴は、顔面が幅広で低く、彫
りの深い顔立ち。眼寓はほぼ長万形。前歯は毛披き状
|こ噛み合わさる「鉛予状岐合」で、反っ歯の程度ガ弱いなど、典型的
な縄文人の特徴を示している。成人や冠婚葬祭時などの通過儀礼と
しての「披歯」も、上顎の犬歯や側切歯|こ多く見られる。
まだ、潜水漁をする人|こ特徴的芯「外E道骨腫」、病歴や栄養状態・
食料事情を示す「虫歯Jfエナメル質減形成」、 しゃがむ姿勢の多かつ
だことを示す「噂据面形成」芯どのさまざまな生活痕や病痕も観察
されている。
最近では理化学的な分析|こよって、生前の食生活の復元Cf炭素・窒素安定同位体分析J)や正確な年代測定ガ行なわれ、人骨からち里
浜ムラの人々の暮らしぶりが明らか|こなってきている。
縄文人骨か5食料を読む(炭素・窒素の安定同位対比)南川 (1993)を一部改変
人骨に含まれる食料資源の炭素 ・窒素の同位体比
の分布を調べた結果、里浜ムラの人々はシカ ・イ
ノシシなどの獣や植物質食料よりも、魚や貝など
の海産資源を多く摂っていたことが明らかになった。
左図は、土ごと回収した縄文人のゴミを調べ、貝
殻や骨に刻まれた成長線、魚の回遊、鳥の渡りの習
性などをもとに、ゴミ のまとまりごとに季節を推定し、
食料護得や道具作りなどの仕事の内容を 1年間のカ
レンダーにまとめたものである。動 ・植物質食料の
割合は、人骨の炭素・窒素同位体分析や現代の狩猟
採集民の食料割合を参考にしている。
里浜人の虫歯 縄文人は歯の磨耗が激しく、岐合面に虫歯はほとんど認められない。
歯と歯肉との境目に多く見られる。
里浜人女性の復銅像(川久保智普氏作成) 18-20続くらいの成人女性。縄文人の直系と考
えられているアイヌの顔立ちを参考に、自は「謙吉ヒダJのない二重まぶたとし、唇は厚くして復頗した。
縄文後・晩期の漁具 (台園地点)
漁り(すなどり)
里浜貝塚からは多彩なシカ角製の
漁具が多量に出土しています。魚
の生態や大きさなどからみて、マ
グ口・サメなどの大型魚は錯や釣針、
アイナメ・カサゴ類・カレイなど
はヤス、外洋の深い場所にいる大
型のスズキ・ブリ・マダイなどは
釣金十で‘捕ったものと思われます。
塩作り
外洋での漁の様子(錯漁)
~ ~
浜辺に位置する西畑北地点では、縄文時代晩期から弥生時代にかけての製塩炉とおびただしい量の製
塩土器が発見されています。里浜ムラの人々は、夏に海水を煮詰めるための塩作り専用の薄い土器を
大量に作って、塩作りに励みました。海草を焼き、「藻塩焼きJの方法で塩作りを行った可能性も考え
られています。生産された塩や塩漬けは、ムラの特産品 (=交易品)として山のムラに運ば.れました。
狩り
里浜人の狩りは、冬場を中心に、シカ・イノシ シやガンカモ類、ウ
ミウなどの鳥獣を対象として行われました。多量の石鎌や骨・角・
牙でできた鉱のほか、鎌が突き刺さ った状態の骨も見つかつており、
里浜人は主に弓矢を使って捕獲したものと思われます。また、イヌ
を使つての集団による追い込み猟や落とし穴を掘っ てのワナ漁も行
われたことでしょう。
狩りの道具 (台園地点) 石鉱が刺さ ったシカの背骨 骨鎌(エイ尾赫)が刺さ った
(台園地点) シカの肩の骨 (西畑地点)
{重要文化財}
製塩土器出土状況
(西畑北地点)
製塩土器 (酉畑北地点)(重要文化財〉
Satohama Shell-Mounds
〈重要文化財〉は東北歴史博物館所蔵
奥松島縄文村歴史資料館