スキステ街道(schistê hodos)-オイディプウス伝説と url doi

22
Meiji University Title �(Schist� Hodos)-�- Author(s) �,Citation �, 81: 191-211 URL http://hdl.handle.net/10291/6087 Rights Issue Date 1991-02-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Page 1: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

Meiji University

 

Titleスキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と

中部ギリシア内陸・湾岸交通路-

Author(s) 馬場,恵二

Citation 駿台史學, 81: 191-211

URL http://hdl.handle.net/10291/6087

Rights

Issue Date 1991-02-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

Page 2: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

スキ

ステ街道

(縛

e陽誌

§句)

オイデ

ィプウス伝説と中部ギリ

シア内陸

・湾岸交通路

それとは知らずに実

の父を殺害し、生みの母を妻

としたテーベ王オイディプウス。真相を知

ってわが両眼を盲目

の闇に滅ぼしや

った同王の凄惨きわまる血まみれの運命は、ペロポネソス戦争勃発直後、前五世紀

二十年代前半の

アテネ

で上演

され

たアナグ

ーリ

シス(§

O喜

冴)の鬼気迫

フォク

レスの名

『オ

イデ

ィプ

ス王

(◎恥§

§

§

目§民§ご

によ

って後代に伝えられ、邦訳にも高津春繁訳

(『ギリシア悲劇全集』・第二巻

人文書院刊

一九六〇

年)と藤沢令夫訳

(岩波文庫版

一九六七年)、それに岡道男訳

(『ギリシア悲劇全集』三

岩波書店

一九九〇年)が

ある。

この作品の文学としての評価や思想

の問題は上記翻訳書

の解説に委ねるとして、

ここでは文学的解説では枝

葉末節として省

みられな

い雑事

一点、オイディプウス伝説において父親殺しの現場

に特定されている

「スキステ

街道

(鰺ミω驚き

§偽)」とその周辺について、現地踏査の個人的体験を交えながら若干の考察を試

みることにしたい。

191

スキステ街道

フォク

レス版

オイデ

ィプ

ス伝説

では、

わが子

に殺

される

との神

託を恐

れたテー

ベ王ラ

イオ

ス(い巴oω)は王妃

イオカ

ステ

(Ho六器旦

の間

に生ま

れた息

子を生後

三日も経

たな

いう

ちに、両足

の躁を留金

で刺

し貫

いて足枷

とした

Page 3: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

えでキタイ

ロン(田

許巴昌昌)山中

に捨

てること

になる。テー

ベ王家

の羊

一群を任

され

て春から秋

まで同山中

で季

(1

)

節的移動放牧

苦句e是§

§ひ恥)の生活を送る羊飼

いに命じて捨てさせたのだが、羊飼

いはその赤ん坊が不欄

でなら

ず、同

じキタイ

ロン山中

の牧人仲間

でも

コリ

ント王家

の羊群

をあず

かる羊飼

いに赤

ん坊

の身柄

を託す。

この羊飼

は赤

ん坊

の足枷

を抜

き取

り、生命

を救け

コリ

ント王ポリ

ュボ

ス(㊥o守ぴoω)に差

し出

した。コリ

ント王

はこの赤

ん坊

をわ

が子とし

て養育

。そ

の子は両足

の躁

の腫れ

ている

ところから

「オイデ

ィプウ

ス(oミ合

‖腫

れる

+∀o§

‖足)」と

呼ば

れた。成

人し

てある宴会

の席上、

った男

「奴

はおやじの本当

の子などではな

い」

と間接的

になじられ

たオ

イデ

ィプ

スは苦悶

のあげく、デ

ルフォイ

(OΦ甘げ9

のアポ

ロンの神託を伺

いに

コリ

ント

の地

を出奔す

る。だが、彼

の出生を明

かす託宣

はなく、恐

ろしく

「自分

の母と交わ

り、父親

も殺害す

る」

の不吉

な神

託が下

された。

コリ

ント王を実

の父、

王妃

を生

みの母

と信ず

るオイデ

ィプウ

スは神託

の成就を恐れ

て、

のまま

二度

とは

コリ

ントの地

にも

どらず、

できるだけ

コリ

ントから遠退

いた地

を目指

して旅す

る人とな

った。

の父親殺

の事件

が起

った

はそ

の道中

のことであ

った。

の事件

の現場

はソ

フォクレスの作品

では

「三本

の道

の合

流な

いし分岐

地点」

を意味

するか

のような言葉

がも

とも頻

に用

いられて

いる。

これ

には複数形

の場合

と単数形

の場合

があり、

複数

§

§§誉

へ(ミ.§◎

べωO)

『§

合へぎ

§

へ(N」

ωqっ㊤)

ぎ合ミS忘

(S

-ωq⊃o。)

単数

ミW鳶

言合ミき8

(へ.。。⇔O()

とな

って

いる。これら

のうち、形容詞

ミ∀合§

ついて

いるギ

リシア語

は上掲邦訳書

では「三筋

の道

の合

って

いる

192

Page 4: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

ころ」、「三重

の道」、「三

つまた」(高

津訳)と

か「三筋

の道

の合わ

さるところ」、「三

つの道

一つに合

わさ

るところ」、

くるまみち

「三叉路」(藤沢訳)、「草

径が三つに分かれるところ」、「三つに分かれる道」(岡訳)などと訳出されている。だが

実は、ソフォク

レスの作品

には事件

の現場をもっときめ細かく特定する重要な台詞があるのだが、残念ながらいず

れの邦訳書もこの箇所を見損な

って誤解している。問題

の台詞は七三ニー七三四行にわたるオイデ

ィプウスと王妃

イオカステとの間に交わされる対話

で、特

に七三三ー七三四行

の王妃の返事

(オクスフォード古典原典叢書

の原文を

トラ

ンス

スクライブ

して示せばー

●傍

§§

趣意駕§

、毯ぎ傍心⇔、書式8

D

合式せ

bo守§

s瀞ざ

oS

索§

へ)

が決定的

に重要

であ

る。先ず高

津訳を挙げ

ると、

「そ

の凶事

があ

ったのは

いず

こか」

「そ

の地はポ

キス、別

れた道

はデ

ルポ

イとダ

ウリアから同じ所

に通じ

いる」

93

とあ

り、

一方

、藤沢訳

のほう

こうな

って

いる。

「い

った

いそれは、

この土地

での出来事

であ

った

のか?」

「ポ

スと呼ば

れる土地

で、

ルポイ

から来

る道

とダ

ウリ

スから来

る道

とが、

一つに合

わさる

ところー

そして最新

の岡訳は両者の折衷にすぎない。藤沢訳

のほうがこなれた日本語にな

っているのは

】議して明白だが、

残念ながら肝腎

の句品奇苦言§切の語が見落とされている。オクスフォード版

の原典

ではこの語が普通名詞に扱われ

ているが、

のちに詳しく紹介するパウサ

ニアス

『ギリ

シア案内記』第

一〇巻五章三ー四節に照らして、地名として

「スキステ街道」と訳すべきことは明白なのである。高津訳はこの単語を生かしてはいるものの、「別れた道はデ

ルポイとダウリアから同じ所に通じている(ー傍点は引用者ご

では、読者

の頭が混乱してしまう。殺害現場を特定

するイオカステの返事は、

つぎ

のように理解す

べきであろう。

Page 5: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

「(そ

の凶行現場は)フォキ

スと呼ば

れる土地

で、「スキ

ステ街

道」な

のです。デ

ルフォイから来

ても、ダ

ウリア

(nダ

ウリ

ス)から来

ても同

一地点を通

ること

になる、あ

の道な

のです」

つまり、

この

一節

スキ

ステ街道

が、デ

ルフ

ォイ

とダ

ウリ

スとを結

ぶ本道中間

の経由地点

にな

っている

ことを説明

いるのであ

る。

がこ

こま

で煮詰ま

ってく

ると、われわれ

はどう

してもパウサ

ニアス

『ギリ

シア案

内記』第

一〇巻

「フォキ

ス地

方」

をひもと

かねば

ならな

い。回

春五章

でパ

ウサ

ニア

スは

こう語

って

いる。

「ω…ダ

ウリ

スからデ

ルフ

ォイ直

の本

にも

って、先

のほう

に進

んで行

くと、道

の左

にフォキ

コン(き

蔑,

●§

)と呼ば

れる建物

があ

って、こ

一堂

に各都

(代表

)のフォキス人

が会

する

のである。…③

ここからさらに

行く

と、あ

なたは

「スキ

ステ」と呼ば

れる道

(ぎ

切害せミ還§

㌻染e糠穂)にお着

になる。ま

さしく

この道

のと

ころで、

父親

殺し

いう

オイデ

ィプウ

スの例

の事件

が起

った

のである。

…ω

オイデ

ィプ

ウスにと

っては

スキ

ステ街道

(eo§

切言

切合傍忘)とそ

この凶行

が禍

の始

まりとな

った

のだが、(父王)ライオ

スと同行

の従僕

(o隷6藻

)

の墓

(苦蕊

§災ミ)は

いまでも三本

のち

ょう

ど真

ん中

ミ窃ミ合§

§

ミO是

是)二

つい

っし

ょにあ

って、

の石

ころが積

み上げ

られ

いる。プ

ラタイアイ

の王

であ

ったダ

マシストラトスが

これら

の遺体

の転が

って

のを見

つけて、

両者を埋葬

した、

と言

い伝

えら

れて

いる」

ウサ

ニア

スのフォキス地方

に関

る地誌叙述

はカイ

ロネイア

の西方

二〇

スタデ

ィオン

(約

.六粁

)の町

ノペ

ス(㊥碧

o駕

cω)に始

まり

(一〇巻

・一以下)、そ

つぎが

パノ

ペウ

スのさら

に西方

二七

スタデ

ィオ

ン(約

.八粁

)

の町ダ

リウ

ス(O知昆

。り)である。パ

ノペウス

のアク

ロポリ

スとそれ

を囲う古代城壁

は現在

の集落

アヨス

・ヴ

シオス

(〉首8

8)真南

に隣接

する険し

い岩山

に特定

き、ダ

ウスのほう

も現在

の集落

ザヴ

リア

(O①巳o声①)の南

に谷

194

Page 6: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

ひと

つ隔

て孤立す

る丘

に特定

でき

ている。

ところで、

パウサ

ニアスの記事

でとく

に注目す

べき点

は、

ルフォ

イに通ず

る本道

「ダ

スからもど

った」

ところ、

すなわちパ

ノペウ

スとダ

ウリ

スの中間地点

を南下

して

いた

とを明言

して

いる点

であ

る。

現在

の地

誌地形

に即

して言

えば、

の本道はケ

フィソ

ス川

一支流

であるプ

ラ夕

雲ア

ス川

の形成

する比較的浅

い谷

をさか

のぼ

るにほかな

らな

い。幸

いな

ことに、

フォキ

ス都市連合総評議会

の議事

った

フォキ

コンのも

のと思

われる石材が、プ

ラ夕

雲ア

ス左岸

(西側

)のツ

ェレシ

(吋N⑳「o旦

と呼ば

れる場所

に散在

(2

)

いる。北

から南

下す

るパウサ

ニア

スは

フォキ

コンが

「道

の左側」

にあるとして

いる

ので、デ

ルフ

ォイ直通

の古

の道

はプ

ラタ

ニアスの西側

を南北

に通

ていた

ことが判明

する。問

のスキ

ステ街

道は

このフォキ

コンを通り過ぎ

て、さら

にデ

ルフォイ側

に寄

った辺り

に位置

づけ

られるのだが、それを詰める

には、スキ

ステ街

のスキステ

(鋤き享

禄)の語

「枝分

かれし

いく道」を意味

する

ことを考

え合

わせながら、

上掲

「三本

の道」絡

みのギ

シア語

の真

95

意を探ら

ねば

ならな

い。

1

一九世紀末

にパウサ

ニアス

『ギ

シア案内

記』全

一〇巻

の英訳

と注解

の偉業

を果

たしたJ

・フ

レイザ

ーはスキ

テ街道

(吟ゴ⑳n-⑳津ヰく白く)に

ついては、これをパ

ルナ

ソス山

とクセ

ロヴ

ニ(古

のキ

ルフィス山

)が形成す

る深

い渓

の東

側入

の辺り

に置

く見解

のほう

を支持

て、「三本

の道

」はωダ

ウリ

ス起点

の道、②

ルフォイ起点

の道、③

(3

)

1

べ起点

の道

であ

ったと

して

いる。

パウサ

ニアスを現代ギ

リシア語

に翻訳、

ップ

・ト

・デイ

トな注解

を付

出版文化賞

の栄誉

に輝

いた

N

・パ

ハツ

ィスは

スキ

ステ街道

の位置

フレイザ

ー説

を継

承するも

のの、

「三本

の道」

ついてはω北側

のパノ

ペウス、ダ

ウリ

ス方

から

の道、②東側

レバデ

イア、

テー

ベ方

面から

の道、③南側

のア

ンブ

ロソス、

ステ

イリ

ス方面

から

の道

であるとし

て、

これら

が合流

してパ

ルナソ

ス南麓

の深

い谷を西方

のデ

ルフ

⌒4

)

に向

ったと解説

して

いる。し

かし、

パウサ

ニア

スに即

せば両者

に共通し

て投げ

かける

べき疑問

がある。すなわ

Page 7: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

.華び

難叢 叢

連 山レ宝竺 ク 、

橿㌶ ηア

ごア

カー サ'

歪ロ

_.湾=

.IS

,PEUS

RONM,

DETA

[OMEN

~POTAl

UtPOLIl'EIA

REUSISLYKI{TOULISlEDEONNTIKYiIRRHARISAISTOM〔TIRIS

ち、パ

ウサ

ニア

スは

ステ

イリ

ス(ω江ユo力)叙

の冒頭

こう明

言し

いる

のであ

(×・

ωP

。。)。「

カイ

ロネ

イアから

ォキス地方

に入

」る通路はデ

ルフォイ直通

の本道、

つま

りパ

ノペウス経由

でダ

ウリ

スを

かすめ

てスキ

ステ街道

を行

くあ

の街道

ひと

だけ

ではな

い(窃甘心

§

Qざ㊦

もボO§

§

慰ボ

も瀞§

Oミ

還OボOボ

隷SOミ塾O昔

窃民§ぴ

bO守隷O嵩、苦瓜§

§§

S句

へ∀亀§

誌S

b責ミ§

§

§誌民印

譜奇縁ボ)。

カイ

ロネ

イアか

はもう

一本別

の、粗

て大半

が山道

の街道

がフ

ォキ

ス人

一都市

ステイリ

スに通

じて

いる

のだ」

ンススクライブし

て原文

を示

した前半

部分

の訳

は細

かく言

えば前

のか

かり方

や意味

に問題

はあ

るが、

ともかく

196

Page 8: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

こで語られ

るデ

ルフォイ直通

の本道

とは、先

に引用した五章

一節以下

で語

られて

いた街道

にほかならず、上記

の訳

はその箇所

を考慮

に入れ

て試

みた訳

である。パ

ウサ

ニアスはパノ

ペウス経由

のこの道

のことを

「ボ

イオテ

ィア地

からフ

ォキ

ス領

に入

るも

っとも容易

な道

(×`ふ◆N)」

と評

して

いる。

カイ

ロネイア

からフォキス領

ステ

イリ

スに至

る道

のほう

については、詳し

い経路

は伝

わらな

いが、

パウ

ニアス

はステ

イリ

スの

つぎ

に、

その西方

のアンブ

ロソ

ス(〉日宮

oω。・oω)に向

かう道

を自分

「順路」

に設定

ているので、

ステ

イリ

スには反対

の東方

から接

近し

たと推測

する

のが妥当

であ

る。

とす

れば、

その道

はカイ

ロネイ

アを出

て、低

い山並

みの

つづく山中

一路南

に向

い、

レバデイ

アの西方を

かす

めて

ヘリ

コン山塊

に入

って行く。

コリ

エゼ

ス山

(宍o冨

α窃

標高

一四八七品

)東麓

の深

い谷間

をさら

に南

下し

て、

メガリ

・ルウ

ァ(呂⑳σq巴Φ冒o¢9①

標高

一五四九.

)の山塊

に前

方を

はば

まれたと

ころ

(現在

の集落

エリ

コナ

ス/ゼ

リキア)で西方

に向

って山越

の道

に入

り、そ

とは

コリ

エゼ

ス南

麓沿

いに北西

に進

んだも

のとの推測が可能

であ

る。

この道

は山勝

ちで、デ

ルフォイ直

の本

を通

る第

一ルート

に比

べれば遙

に難路

であ

ったには相違

いが、

パウサ

ニア

スが第

二ルートとしてこ

の道

を挙げ

るかぎ

りは、主要な街道

であ

ったと考

えざる

を得

い。確

かに現在

では国道

がテー

ベとリヴ

ァデ

ィア(古

のレバデ

ア)を結び、

さら

に西方

に走

ってカラ

コリソ

ス(】吟①「御文O嵩⇔●Oω)のト

ンネ

ルをくぐ

ると間

もな

くプ

ラタ

ニア

ス川

上流

に接触

ているが、古代

には

この

ルートは実在

したも

のの、街道とし

ては副

次的

でしかなか

ったと思われ

る。

つまり、

レイザ

ーもパパ

ハツィスも

そろ

ってそ

一本

に数

いるテー

ベ、

レバデ

イア方面

から

の道

は、

スキス

テ街

に絡

「三本

の道

に関

るかぎ

り、

の構成要素

から除外す

べき可能性

が大な

のである。

テー

ベからデ

フォイ

に向

かう場合、

この副

次的な道

を利用す

ことも、もち

ろん皆無

いう

わけではなか

った

であろう

が、

パウ

ニアスの言うデ

ルフォイ直通

の本道、

すなわちカイ

ロネイ

アとパノ

ペゥス経由

「第

一ルート」が主

に利用

され

197

Page 9: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

たと考

えられる

のであ

る。

レバデイ

アから

の場合

は第

ルートを行き、例

のスキ

ステ街道

には南方

のア

ンブ

ロソス

方面

から接

近する

のが主要

な道程

であ

った

のであ

ろう。

以上

のよう

に考

えてく

ると、

「三本

の道

」とはす

なわち、ω

ルフォイから

スキ

ステ街道

に至

る西

から

の道、②

ペウス、ダ

ウリ

ス方面

から

スキ

ステ街道

に接続す

る北

から

の道、

ステ

イリ

ス、ア

ンブ

ロソス方面

から

スキ

ステ

街道

に接続

する南

からの道

の三本

に絞

り込

むことができる。他方

スキステ街道

の名称

そのも

のは聖地デ

ルフォイ

から見

の表現

であ

ったと

いう点

の理解

なされねば

ならな

い。そ

の語義

「道が裂

かれるよう

に分岐

する」

であ

って、複数

の道

一点

で合流

分岐

る分岐点

を意味

するとは、必ずしも

かぎらな

い。

そこで検討

を要

るのはライ

ス王と同行者

の両名

を埋葬

した墓

の位置

に関

する上記

引用済

みのパ

ウサ

ニアスの

一節

(×●切・《)である。「三本道

ょうど真

ん中

還"鶏§

§

ミ)」

が問題

の箇所だ

が、

この

O§句を文字通

「三叉路」

と理解す

ると、

「ち

ょう

ど真

ん中

に」の説明が

つきにく

い。

現場

の地形

に即

してこの点を考え

ると、デ

ルフォイ

から東

に向

った街道

は、パ

ルナソ

ス山/

ルフィ

ス山

の谷間

の東端

を抜け

て平坦地

に出

たと

ころ

で、先ず

ンブ

ロソス(現在

ィスト

モン)に向

かう道

が現在

の国道

と分

かれる分岐点

の辺り

か、あ

いはも

っと北側

に寄

った地点

で右手

(南方)

に分岐し、

ついで、そこからさらに数粁東方

の険路(パルナソス東麓に連なる低

い山岳とコリ

エゼス西麓の間の谷)

を経て、今度はダウリスとパノペウス方面に向

かう本道が北方にカーブを切り、枝分かれした副次的な小道がその

まま東方のレバデイア方面に通じていたという状況が想像される。そしておそらく、

これら大小二つの分岐点

の間

を占める街道筋がスキステ街道と呼ばれたのであろう。「三本道のちょうど真ん中」というのは、したが

って、同区

の最大

の難所である前述

の降路の辺りと解釈するのがも

っとも妥当、と思われるのである。

198

Page 10: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

中部ギリシア内陸交通

前章

ではオイデ

ィプ

ウス伝説

にま

つわ

るスキステ街道

を取

り扱

ったが、本章

では

これをも

っと発展

させて、中部

ギリ

シア

の内陸交

通路

の検討

を基軸

に、ギリ

シア本土

における南北

交通

の問題

に接

近を試

みてみた

い。

イオテ

ィア地方

からフ

ォキス地方

に入る通路

として、

カイ

ロネイアからパノ

ペウ

スに向

かう道

「も

っとも容

易」

とす

るパウサ

ニア

スの評価

はすでに紹介

てお

いたが、

パノ

ペウ

スに関す

る彼

の記述

はさまざ

まな意味

で実

興味

深く、

やや詳

しく引用す

るに値

する

(×.ふ

一き

)。

「ω

カイ

ロネイ

アから距離

二〇

スタデ

ィオ

ンでパノ

ペウ

ス。

フォキス人

一都市

(>o嵩)と

いう

わけだ。ただし、

とは言

っても、そ

この住

民が公官庁

の建物

(亀§

o昔)も、体育

(題§ミ8へ§

)も、劇

(■§×§s)、それに広

§)さえもたず、

水を引き入

れた泉場

(●司蕊

)もな

い。

まるで山奥

の山小屋同然

のあば

ら屋を住処

とし

て、ここ

の場合

はカラド

ラ(へぎ

§§

)の河床

を下

に見

て人

が住

でいる。それを都

(盲

房)と呼

んで差

し支

なければ

だが。それ

でも彼

の領域

§)の、隣接民

の境

を画する境界標

(ぎ

さへ)があ

り、彼らだ

ってフ

ォキ

(5

)

ス総評議会(留葛

切)に代議員たち(き

§

へ)を送り出している。市の名はエペイオスの父親

に由来すると彼ら

は語り

:②私

たちはパ

ノペウ

スの年代

の古

い周壁

(㌃

§

o合物)を観察し

て、

ほぼ七

スタデ

ィオ

ンあると見積も

た」

パウサ

ニアスのこの

一節は、ポリスという場合、その都市景観はいかなるものと古代ギリシア人

一般が考えてい

たか、という点を簡潔に示唆して有名な箇所である。

これまで何度

か車窓からパノペウスの岩山を遠景

に捉えたこ

(6

)

とはあ

ったが、今夏(一九九〇年八月六日)はじめて、宿願の現地を踏むことができた。上掲引用文

二節

に言及され

199

Page 11: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

ている周壁は東西に細長

いアクロポリス頂上部にめぐらされた前四世紀の城壁

であ

って、南壁はかなり良く残

って

いる。パノペウス住民が見下ろしていたというカラドラを特定するのは、同市

の下町の所在地を推測するうえに欠

かせない作業

であるが、幸

いなことに、東側の台地を越えてさらに東方

の浅い谷にはっきりそれを確認することが

できた。というのは、カラドラとは冬季相当量の降雨があ

ったときにだけ川となり、普通は水流を欠くような河床

いうのだが、今回のような夏

の季節

でも、河床

の地下水

に養われた草木

の緑が長蛇のごとき

一本

のグリーン

・ベ

ルトとな

って、麦の収穫を終えてなお麦秋のみごとな黄色を留

める畑をぬって走

っているので容易

に識別すること

(7

)

できる

のである。

このような観察

から、パ

ノペウ

スの下町は

アク

ロポリ

スの東側

にすぐ接続

する

一段

い丘

の頂

上部

に形成

され

いる台地

に営

まれ

いたと推測

する

ことが

できた。

この台地

には

「キ

ュク

ロプ

ス様

式」

の、年代

(8

)

の古

そうな城

壁石組

の断片

が残

り、天然

の岩盤

を削

って敷地

とした

ような痕跡も窺

われる。

つい、パ

ノペウス遺跡

の現状

に深入り

してしま

ったが、パウ

ニアスの上掲引用箇所

ロー

マ帝政

の同市

かにさび

れた状態

にあ

ったかを伝

えるものであ

る。だが、そ

のあ

と彼

はホメ

ロスの詩歌

を想起

して、

つの点

から

パノ

ペウ

ス市

の往古

の重要性

、とく

に交通

の要衝

とし

ての同市

の意義

に想

いを

はせることになる。

一つは

『イリア

ス』

一七巻三〇六-

八行。

ロイ

ア遠征

に参加

ヘクト

ルに討

ち取られた

フォキス勢

の王

スケデ

ィオ

スが

「パノ

ペウ

スを居所

として

いた」と歌

われて

いる点

であ

る。

パウサ

ニア

スは

これを解

釈し

て、「ボ

イオテ

ィア勢

のもたらす

脅威

のゆえ

に同

王はパノ

ペウ

スを砦

(さ

さミ注§

)として

この地

に住んだ

のだ」と推論す

るが、そ

の推論

の根拠

に挙げ

る理由が、

「ボイオ

ティアから

フォキ

ス地方

への進

入路

(緩

曾烏)は現

にこの方面

がも

っとも容易」と

いう地

理的要

のである。残

るもう

一点

は、

『オデ

ュッセイ

ア』

一一巻

五八

一行

にパノ

ペウ

スが

「カリ

コロス(書

§ひぎ

さ句)の町」

のう

と歌わ

れて

いる点

である。呉茂

一訳岩波文庫

(一九

一年)は

N誉

さ句の語をどう

いう

わけだか、「苑生

もみご

200

Page 12: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

な」

と意外

な訳語

を当

てているが、

正しくは

「麗し

の歌舞合唱

の町」

と訳

べき

である。そ

れはともかく、

パウサ

ニア

スは

この解釈

には苦

労さ

せられたと告白

しな

がらも、

こう語

っている。

「ついに、

アテネ

の人び

とがテ

ユイアデ

ス(§

合切)と呼

んで

いる人

たちから私

は教

ても

った。

ユイ

スとはア

ッテ

ィカ

の御

婦人方

で、隔年

ルナ

ソス山

に通

ってデ

ルフ

ォイ

の御婦

人方

と合同

でデ

ィオ

ニュソ

のために秘儀

(o寒

)を執り行な

っている。アテネからの道中あちこちで歌舞合唱(品⇔さ㊤)を演ずるのが彼女

ユイ

アデ

の仕来

であ

ったが、

なかでもパ

ノペウ

スがその本場

であ

った

のだ。

ホメ

ロスが

パノ

ペウス

つけた添え名

(魯寒醇

傍)こそ、まさ

しくテ

ユイアデ

スの歌舞

合唱

(コ

ロス)を示唆

して

いるよう

に思わ

れる」

ユイ

アデ

ス、す

なわちアテネ

のバ

ッコス信

(鳥

ぎ言

へU

マイナデ

s§ざ⇔音

)がパ

ルナ

ソス

(最

一局峰

アクウ

↑置百

①は標高

二四五七)川)の

「お山参

り」のた

めにと

った順

路は、すで

にホ

ロス

『オデ

ュッセイ

ア」上掲箇

にも言

及され

いる

レト

(↑Φ9)女神

(アポ

ロン、ア

ルテミス双子神

の母神)のデ

ルフォイ参詣

の道程

とぴ

った

り同

じで、

パウサ

ニアスの記事

はアテネー

ルフォイ間

の主要経

由地点がパ

ノペウス市

であ

ったことを教

ているので

る。

また、このパノ

ペウ

スの地

で巨人

ィテ

ユオ

ス(↓凶qo。。)が

レト女神

を襲

った

とす

るのがホメ

ロス以来

の伝承

であ

るが、前

一世紀

/後

一世紀交

の頃

の地

理学者

ストラボ

ン(】×・ω」N)は、「(母神

に同行

て)アテネを発ちデ

ルフ

ォイに向

かう街

道を行

ったアポ

ロンは…パ

ノペウスにや

って来

たとき、同地方

を支

配し

いた乱暴狼籍

のテ

ィテ

スを退治

した」

と伝承

を敷宿

して

いる。

このストラボ

ンの解説

で最

も注

に値する

のは上記引用文

では省略

した

一節

であ

って、

テネ

からデ

ルフォイ

に向

かう

アポ

ロン神

のと

った順路は、実

ストラボ

ンの時代

でもアテネがデ

(9

)

ルフォイに派遣していた神事使節団ピ

ュティアス(趨S§

)のと

った順路と同じであるとの指摘である。神話

の権

威で飾られ、テ

ユイアデスや神事使節団のコースでもあ

ったこの順路

の、アテネからボイオティア地方に入る道順

201

Page 13: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

は判然

としな

いが、おそらくアテネから先ず

エレウシ

ス(更o已ω{。り)を経由

し、デ

ィオ

ュソ

ス信仰

の聖地

エレウテ

(国‥一〇暮庁O吟口{)を経

て、キタ

ロン山系

の山越

でボ

イオティア

の平原

に出

たも

のと推測

できる。そ

の後

はテー

ベ経

コパ

(民8

巴ω)湖

南岸

を西

に向

い、

コメ

ス(08ぎ

日oぎ

ω)手前

の地点

ス(民Φ・

弓巨ωoω)河畔

の平坦な沖積平

野沿

いにカイ

ロネイア経由

でパ

ノペウ

スに達した

のであ

ろう。パノ

ペウ

スを過ぎ

ると、

前章

で紹介

したダ

ウリ

ス手前

のプ

ラタ

ニアス川

の左岸

をさ

かのぼ

り、

フォキ

コンを経由

してあ

「スキ

ステ街

道」

に出

る。

これが

アテネ

から、

そし

て当

のことながらテー

ベからも、デ

ルフォイ

に参詣す

「本道」

であ

った。前

八〇年、テ

ルモピ

ュライ

(]り庁O日

OO鴇一①一)守備

のスパ

ルタ軍を粉砕、ケ

フィソ

ス上流

ドリ

ス地方

(b曾

一ω)の山

岳地通

路を確保

のうえ南

に成功

した

ペルシア軍

のう

ち、デ

ルフォイ掠奪

の別働

隊が

ここパ

ノペウスでアテネ侵攻

の本

と分

かれて、

「パ

ルナ

ソス山を右手

にしながら」

ルフォイ

の空所

に向

ったと伝

わるかぎ

りは

(国ユ[

・≦

廷・

ω切)、

やは

りこの

「本道

」をデ

ルフォイ

に向

ったと推測

できる。

このペルシア軍

の進路が示唆す

るように、パ

ノペ

スは北方

マケド

ニア、

ッサリア方

から

の南下路

と、東

西

に走

ってさら

に南

へ向

かう

この

「本道」

とを結

ぶ節

ともな

って

いた。少

なく

とも、

パノ

ペウ

スま

で南下

して来

れば、

ボイオテ

ィアや

アッテ

ィカ地方

への道

は天下

かれ

ていたのである。

この点を側面

から補強

してくれ

る絶好

の史料

は、政敵

アイ

スキネ

スを弾劾し

て前

三三〇年

に開陳

され

たデ

モステネ

スの弁論第

一八番

『花冠

ついて

(㌃

さ.せミ句§

§

索)』

一六九節以下

に詳述され

いる前

三三九

アテネ

の緊急事態

である。宿命

のカイ

ロネイ

アの戦

いの前年

に当た

るこの年、

マケド

ニア王

フィリポ

ス二

エラ

テイ

ア(口

90冨)を急襲

て陥

させたが、

エラ

テイ

ア陥落

の報

せは

アテネ市

を動転

混乱

の堀

と化

た。「夕食中

の当番役議員たちは食事を中断して席を立ち、広場(§

ミ)に露店を張る連中を締め出して、枝木の類

を編

んだ彼

の商

品陳列棚

(鷺

ミ§)に火

を放

った。そし

て、将軍職

にある者

たちを呼

に遣

と同時

に、ラ

ッパ手を

202

Page 14: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

頭さ

せた。町中騒然

たる状

とな

ってしま

った」

(一六九節

)と

いう。す

なわち

エラテイ

ア陥落

は直

マケド

(10

)

ア軍

のアテネ国境

への出

現を意味

した

のであ

る。翌朝

、緊急召集

された民会

の席上デ

モステネ

スは、

アテネ船隊

〇隻

ルモピ

ュライ方

の海域

に、陸軍

と騎兵隊を

エレウシ

スに出動

させること。・他方

テーベと

の結束

を固

める外交

使節

テー

ベに派遣

べき

ことを提議

可決

させた。

単な考

察だ

が、以上

でパ

ノペウスを結節点

とする中部

リシア南北

および東西

の内陸交

通路

の重要性

があ

る程

度、浮

彫りされ

たことと思うが、

これを

さらに煮詰

める

には、あ

「スキステ街道」

でも、

の西側

つまりパ

ナソ

ス山寄り

のほう

にある分岐

から南方

のア

ンブ

ロソ

スに向

かう街道

の検

討が不可欠

の作業

となる。し

かも、

の街道

は前述

のよう

にア

ンブ

ロソ

ス経由

で東方内陸

のステ

イリ

スに通じ

ているだけ

ではなく、

ンブ

ロソスからそ

のまま南下

すれば

コリ

ント湾

の港湾都市

アンティキ

ュラに至

るのであ

って、

コリ

ント湾

の内海交通

の絡

み合

いで

03

検討

されねば

らな

いので、章

を改め

てこれ

を問題

とする

こと

にした

い。

2

コリント湾北岸の港湾都市

走行距離延

べ三、

五〇〇粁

を越

える今夏

(一九九〇

年七月中旬一

八月中旬)のギ

シア旅行

のうち、何度

コリ

ト湾岸

の遺跡

を訪

れる

ことが

できた。同湾

東岸

メガ

ラ領

のアイゴ

ステナ

(≧

ぬoω昏oロ①H現在

のボ

ルト

・イ

エル

マノ

勺o詳oOm目

o)、パガイ

(㊥㏄ぬ巴"現在

のカ

・ア

レポ

ホリ

民陪Φ≧

oOo合

一)はボイオ

ティアー

メガラ間

の陸上交

の要衝を占

ていて、港湾拠点

としても存在意義

があ

った

と思わ

れるが、残念

ながら、

これら両拠点

に関

するパ

ウサ

ニアスの記述

は、

現場

に残

る遺跡

の規模

の大

きさ

に比

して簡潔

に過ぎ

るとの不満足感

を覚

えざ

るを得な

いほど

であ

って、

ともかくパウサ

ニアスはこれらを港湾都市

とは呼

んで

いな

い。

Page 15: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

他方、

コリント湾北岸

についてパウサニアスが港湾都市ないし港湾施設として記述しているものを東から西の順

番で挙げてみると、

ω

レウ

(民苫鐸ω」む。

「テ

アイ

の外

」ー

H×・ωN

・一)

(弓甘言

「小

・紹

・《)

(ロo巳{む。)の外

(×・ωS

N・ω)

ω

(呂

Φ△9

ロバ

ニア

の時

はす

に廃

×・ω◎

Φ)

ンテ

ィキ

ュラ

(』日

毒ー

×.ωΦひ

-ωべ

H)

(民{「}

「デ

ォイ

の外

」ー

×・ωS

+。。)

ω

ンテ

(9

o富

「沿

」ー

×.。。。。』

)

(一4①一と)①WけO印Il)(◆ω◎o.一⇔-戸ω)

にな

る。

も、

ニア

スは

の所

と名

いも

の、

つ、

ベ市

の沿

に同

の外

を言

に匂

いる

(一×.ωN』

)。

スト

ラボ

(一×・N』

。。)は

は挙

いも

の、

ィスベ市

「鳩群

がる岩勝

の外港

(愚S豊§

V

S

V

音嵩§さ8せ§)」を語

り、

こから

コリ

ント湾対

の町

シキ

ュオ

(む◎《置

)まで

の航

路は

一六〇

スタデ

ィオ

ン(約

二八

・五粁)とし

ている。

このテ

ィスベ市

の外

はゾ

ンヴ

ニ湾

(犀o■o・・Oo§<8ロぽ)西端

を占

めるヴ

ァシ入江

(o§8ω<巴ξ

)入

口北岸

の港町

ルモス

.ア

(11

)

.イォァ

ンヌゥ

(O目

oω〉怠〇三

〇§

巳oロ)に特定

できる。

スト

ラボ

ンはさら

に、

アンテ

ィキ

ュラよりも東方

の沿岸

ついて、

パウサ

ニア

スにはな

い拠点

三箇所、西

から

204

Page 16: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

に列挙

てく

れて

いる

(】×.ω・声ω)。

00

オピ

スト

マラトス

(O巳ω汗o日曽馨庁oω-

「極小都市

ミ隷ミ§

」)

0

ァリ

ュギオ

ン岬

(①ζ

①㊥庁①qσq-§-

ここには停泊地

 §

§

あり)

ω

ュコス港

(一]日雪

冨署SoT

フォキ

ス地方最

東端

の港。

のあだ名

ュコスは同港

「奥

の隅

んづ

まり

鳶ぎ句)」に所在す

る事実

に由

来。

ヘリ

コン山

とア

スク

ラの南

に所在

)。このミ

ュコス港

はストラボ

ンの別

(一×.N・田)には、同港

からク

レウ

シスま

での海岸線

は全長九

スタデ

ィオ

ン(約

一六粁

)とあ

り、距離

の点

だけを見れば、古代都

コルシアイ

(×o区

①{)の外

港で、現在名

サラ

ンデ

ィ湾

(o目8ωQo曽①巳Φ)の北端

どんづま

りを占

る拠点

のほうが適合

的だが、

これはボイオテ

ィア地方

に属

して

いた。

ォキ

ス地方

最東端

いう点

最重視

すればザリ

ァ湾

(O「§OωhN①一」⇔N①◎力)に求

めざるを得ず、

この場合

はパウサ

ニア

スの語

るブ

ウリスの外港

05

(すなわ

ち、上記

一覧

の③番)と同

一としな

ければ

ならな

い。

2

以上

がナウパクト

ス以東

のコリ

ント湾北岸

ついて、

パウサ

ニア

スと

ストラボ

ンから知

られる港湾都市

もしく

港湾拠点

であ

る。本稿

の主題

「スキ

ステ街道

」と

の絡

みでは㈲番

のア

ンテ

ィキ

ュラが最も注目

に値

するが、

これ

最後

の締

めくく

に回す

とし

て、先ず

コリ

ント湾

海上交通

の重要性

を示唆す

る史料

や遺跡

の検討

から始

める

こと

にした

い。

先ず

地名

で問題

になる

のは②

のティフ

ァであるが、前

四二四年

のアテネ

の将軍デ

モステネ

スの

コリ

ント湾内

にお

ける軍事

行動を叙述す

ツキジデ

ス(一く三

〇・ω)が

「テ

スピアイ領

に属

して

いて、

クリサ湾

(1ー

コリ

ント湾)にある沿

岸拠点

」と解説

ているシフ

ァイ

(o力甘庁邑

にほかならず、

とき

にはティファイ

(↓」菩

巴)とも表記

された。他

方、現

⌒12

)

のリヴ

ァゾ

ストリ湾

(o「日oω円く&

oω庄

o¢)奥

の北西端

を占

め、城砦遺構

の残

るω

のク

レウ

シスに

ついて、

ストラ

Page 17: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

ン(一×.N

戸戸

田)もパウ

ニアス

(一×・ωN.一)も

口を

そろえて、

「テ

スピアイ

の外港」

と言

明し

いるので、ω

と②

はそう

隔た

って

いるとは考

えられな

い。

レウ

シスの西

は屏風

のよう

にそそり立

つコ

ロンビ

(](O〔O§ぴ{旨)山塊

たる岩

で仕

られ

いるが、実

は、

これ

を越

えたゾ

ンヴ

ニ湾

の東

を占

める入

に面

した

小村

アリ

(≧

Φ11

「塩田

の村」の意)に港湾施

と城壁

を備

えた古代集落

の遺跡が残

っており、

これがパ

ウサ

ニアス

の言

うテ

(13

)

イフ

ァ、

すなわち他

の史料

に言う

シフ

ァイ/

ティフ

ァイと推定

され

いる。ω

のク

レウ

シスに

ついてはパウサ

ニア

スは、「ペ

ロポネ

ソ方面

からク

レウ

シス

への航海

は蛇行

したも

のにならざるを得

ず、ともかく穏

かな航海

ではな

い。

海上

の直

進を阻

むよう

に岬

があち

こち海

に突

き出

いて、しかも激し

い風が山

々から吹

きおろしてくる

のだ」

と語

って

いる。キタイ

ロン山

に当

った北寄

りの風

がオ

エロ

エ川

(Oo「oΦ‖現在

のリヴ

ァゾ

スト

ラ川)の渓

谷を吹

き抜

コロンビリ山

の岩肌

に跳

ね返る

ことを考

えると、

パウサ

ニアスのこの言葉はよく理解

できる。ω

が良

とは言

いのに対し

て、②

のテ

ィフ

ァ(シフ

ァイ/

ティ

ファイ)は太古

のギ

シア人

の積極

的な海

上活動

を物語

る有名

な「ア

(14

)

ルゴ船遠

征語」に所

の地

とされて

いる。

ルゴ船

の舵取

りティ

ユス(弓甘ξ

。・)はシフ

ァイ出身者

とされ

ており、

パウサ

ニアス当時

の同地住

民は

コルキ

(民o一△巨ω)か

ら帰

したア

ルゴ船

が実

は同地

の沖

に停

した

のだ

と主張

(15

)

て、そ

の場所

さえ案内

て見

せたほどであ

った。パウ

ニアスは同地

の住民

を評

して、「自分

たちは古来

ボイオ

ティ

ア随

一の海事練達

者な

りと自負

ている」

と、彼

の自慢振

りを紹介し

ている。

コリ

ント湾北岸

の港

では⑥

のキ

ラが最も重要

であ

った

ことには誰

しも異論がな

い。スト

ラボ

ン(】×・ω.ω)は

キラを

湾岸

の古

都市

と呼び、デ

ルフォイま

では約

八〇

スタデ

ィオ

ン(一四粁強

)とし

ているのだ

が、

その途中

に別

の都市

リサ

(田

尻①)が存在

したとし

いる。そしてこれ

つづ

いて、「クリサ住

民は

シケリ

アとイタリ

ア方面

から

の(商品

課す)関税収入によ

って繁栄し、(デ

ルフォイの)聖所に参詣する人びとに対して、隣保同盟の決議

に反してまで苛酷

206

Page 18: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

な税を課したので」、クリサ戦争(尽

§

§

∀富

§8)で叩き潰されたと解説している。確

かに湾岸のキラ遺跡とデル

ォイと

の中

間、現在

のプリン村

(0ゴ昌ωo)南

はず

れのプ

レイ

スト

ス(コ江。。9ω)渓

の絶壁

に面す

る丘

の上

にミケネ

時代

の長大

な城壁

の残

る集落拠点

が発掘

によ

って確認

され

ては

いるが、

この遺跡

には歴史時代古代

の集落

跡は発見

されて

いな(ぽ)・滅多

に現地

を踏

まず・

ひた

すら机

で文献

ひも

とく地理学者

ストラボ

ンとは異

って、意欲的

に現

を訪

ては建造物

や遺構

を観

し、碑文

を読

み、

現地

住民

からの

「聞

き込

み」

を行

なうパウサ

ニア

スのほう

は、

キラとクリサ

は同

一都市

の名

であ

って、本来

はホメ

ロスのよう

にクリ

サ、新

しく

はキラと呼ん

でいた

とす

る見解

をと

っている(柏》①Cω・)(・ωべ・切)。

ストラボ

ンの説く

よう

なクリサは

おそらく幻

の都市

であ

って、湾岸

都市

クリサ/

ラが

アルカイ

ク期

に西方世

との交易活動

に直接的

、間接的

に関与

して、

ストラボ

ンが語

るような関税収

入を得

いたも

のと思

われる。現在

の通称

「コリ

ント湾

(民Oユ算法①汁Oo。WO■O切)」よりも、古代

ではむしろ「クリ

サ湾

(民「富巴o。・

汁o■oω)」のほう

が通

りがよか

った

のも、往古

のクリサ/

キラ

の繁栄を偲ば

せる。前

六世紀

初め

の第

一次神聖戦争

クリサ/

キラは独

立を失

い、以後、隣保同

盟管理下

のデ

ルフ

ォイ外港

と化

した

のであろう。

最後

に旧

のア

ンテ

ィキ

ュラとそ

の周辺

の湾岸都市

いし港湾拠点

について見

ておきた

い。古代

ンテ

ィキ

ュラの

よび

ュゴ

ル(>o菅

〉§へ)方

の城

一部

が最

近、ケ

ァリ

(ぽ

O訂

の丘

ロス

(ω宮oω)の南東麓

で発掘

されて

いる事

実を今回

の旅行

で初

めて知

った。港湾施設

の遺構

は確

され

いな

いが、少な

くともパウサ

ニア

スの時代

には同市

には港

(へ"§§

)があ

ったほ

か、港湾

付属

のポ

セイド

ンの聖所、広場、それ

に新旧

二基

の体育

所があ

って、新体

育所

のほう

には浴場

(合ミ§)が付属

し、広場

の上手

には日除

け屋根

を施

した湧水井戸が

った

という

(㊥①己ω・×・ωO・。。山O)。

また、全山

が岩山

のケ

ファリ半島北縁中央辺り

のところで、

われわれ

はパ

ウサ

 ロ 

ニア

ス(×・ωS-)の語る通

に天然

の岩

壁を利用

した

「磨崖聖

所」の遺構を探

し出

すことに成功

した。パ

ウサ

ニアス

207

Page 19: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

によれば

この聖所

のア

ルテ

ミス祭

神像

は前

四世紀

アテネ彫刻

の巨匠プ

ラク

シテ

レス(㊥『①∨n-⇔O-Φo力)の作

ひと

つに数

えられ

るも

のであ

った。、遺跡

の状況

とパウサ

ニア

スの記事

はあ

いま

って、古代

を通

じてのア

ンテ

ィキ

ュラ市

の繁栄振

りを教え

いる。

さら

に、パウ

ニアスが現地住

民から聴取

したと

ころ

によれば、広場近傍

の上

の井戸

のさらに上手

のところにある他愛

もな

い墓

が、実

はト

ロイア遠征ギ

シア軍

のフォキ

ス勢

を率

いたスケデ

ィオ

ス(ト

ロイアで戦

死)とそ

の兄弟

エピ

スト

ロボ

ス(無事帰還

)の両者

を弔

った墓と

の主張

でなされ

た。これも

ティフ

ァ住民

の場合

と同様、後代

の繁栄

っての主張

と解

される。

アンデ

ィキラ湾

(白目oω》日

日ω)対岸

のメデ

オン市

は前

世紀

に内

陸都

ステイリ

スの主導

で同市

と合併後、急速

に衰

えて、

パウサ

ニアスの時代

には廃

と化

して

いたが、

同所

の城壁遺構

は前

四世紀当

の同市

の健在

を証

明し、

さらに同市

アク

ロポ

リス頂上部

に発掘

され

いるミケネ時

代末期

のト

ロス墓

は、先史

時代

におけ

るア

ンデ

ィキ

ラ湾岸

一帯

の重要性

を示唆

するも

のと受け取

られる。

スケデ

スの墓云

々の古代

ンティキ

ュラ住民

の主張

は、

つてのメデ

ン住民

の向

こうを張

った自己宣伝

とも解釈

でき

よう。

として

のア

ンテ

ィキ

ュラの重要性

は、パウ

ニアスがブ

ウリ

スとそ

の外

のことを語

るなかで、何気

なく吐露

され

る。ブ

ウリ

スは

「ア

ンテ

ィキ

ュラから対岸

コリ

ント

レカイオ

ン港

(いo合

巴o昌)に渡

る船人

の通路

に当

って

(噂①自oり.)n・ωべ・ω)と

いう

る。

ウリ

の外

とす

ュラー

コリ

ント

の航

が定着

して

いた

ことを示唆

する点

で貴

であ

る。

コリ

ント湾内海

の南

北を結

ぶ航

は、

コリ

ントな

いし

シキ

ュオ

レウ

シス間

のあ

の難

い航

路を含

めて、

ほかにも

いく

つもあ

ったであ

ろうが、

パウサ

ニア

スが

ふと洩ら

した

このア

ンテ

ィキ

ュラー

コリ

ント間

の航路

は極ごく

日常

的な、よく利用

される交易

ルートとして確立し

いたと推

(18

)

して大

過な

いも

のと思

われる。ア

ンティキ

ュラ

から北上す

る内陸路

は最初

はかなり

の上り道だが。、ア

ンブ

ロソ

Page 20: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

を経由

してあ

「スキステ街道

に接続

し、

パノ

ペウス

に至る本

によ

って中

部ギリ

シア以北

の地

とも結ばれ

るの

であ

る。前

三三八年

のカイ

ロネイ

アの戦

いに至

る直前

にテー

ベ軍は

アンブ

ロソスに二重

の城壁

をめぐら

せて防備

固め

たが

(】叩③已む力●】(.ωO.ω・恥)、

この予防措

はスキ

ステ街道

から分岐

て南方

コリ

ント湾岸

のア

ンテ

ィキ

ュラに達す

る通路

の重要性

を裏書きす

にほかならな

い。

ただし、

このとき

マケド

ニア軍

はア

ンブ

ロソ

スを突破

して、

ティキ

ュラ市

を破

壊し

てしま

った

のではあ

るが

(㊥芦

ω.×・ωひ・Φ)。

今夏

の旅行

を通し

て、

コリ

ント湾

を含

む中部ギ

シア

の南

北交通

の問題

の重要性

「スキ

ステ街

道」

の意義

を改

めて認識

させられた

ので、未整理

ながら手元

の史料

をまとめ

てみた

のである

が、オイデ

ィプ

ス伝

の舞台設定

背景

にあ

る地誌的

現実

に多少

とも関

心を誘う

ことができれば幸

いである。

注(1)

(2

)

     543

)))

(6

)

ュー

マン

の重

いて

].ぴ力5

△ωoq①自

↓昌

昌ωぎ

§

8

》口江o馨

○苫

08

法口×巽

(me

"ぎ

句合ミ

へ肉8§

へぴ

§

○宮

廷§

~』ミ

へ禽ミせ

(戸O。。。。);

-。。Φを

の成

町目

口9

国.<①コムo白

ooゲ

↓庁Φ

憎ゴo×只

o月

恥弐災

ωN(お

Φω)、

℃U』

一ω・N路

§

S

陪Φω∩O・Φωを

」.間日

Nm5

S

§"慧

b禽へ是

是§

○さ災㌻

<(一。。㊤Φ)も

."。ω㍍

ロひ

、ω・

7

勺①富

むり●曽

§

(o是

合式8

注嚢

<(-qっ◎。戸)"勺ふ

。。《ロ

(Oさ斜

)・

「ト

ロイアの木馬」

の製作者。彼の姿

はデ

ルフォイの聖域最上段

にあ

った

「ク

ニド

ス人のレスケ」のポリ

ュグ

ノトス筆

絵画にも描かれていた

(】叩①口ω.)(.NΦ.N)。

明治大学大学院後期博士課程在籍で、

この二年間、専門調査員として在アテネ

・日本大使館

に勤務している古代ギリシア

史専攻

の古山夕城君所有

の四輪駆動ジ

ープ型の

む。》旨ご問〉丁

×国Z吋〉<痴Oo。号に搭乗。運転は古山君と、ギリシア政府留

学生としてここ三年間アテネに滞在の東京大学大学院後期博士課程在籍のギリシア先史考古学専攻の周藤芳幸君が交替

し、私は助手席でのうのうと地形の観察やビデオ撮影に専念できた。この日はアテネを早朝に発ち、オルコメノス遺跡訪

問を手始めにカイ

ロネイアを経

て、パ

ノペウス遺跡ー

ダウリス遺跡ー

フォキ

コン遺跡ー

アンブ

ロソス(デ

ィストモ)

209

Page 21: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

(7

)

(8

)

 12)

     11109)))

(13

)

(14

)

 

17)

   

1615))

メデオン遺跡をめぐ

ったのち、

ンティキ

ュラ(アンデ

ィキラ)で

一泊。真

っ赤

な満月がメデオン背後

の山から突然現

われ、山火事

ではな

いかと

一瞬ドキリとさせられたのが懐

かしい。古山、周藤両君

には遺跡観察と意見交換の点

でも大変

お世話

にな

った。この場を借りて両君

に国§

§

"ミ◎

塙o柵Φと言わせてもらいたい。

パウサ

ニアス(×.ふ

や切)によれば、こ

のカラドラの縁にはプ

ロメテウスが人類を創

造した原料の岩の残りとパノペウスの

巨漢ティテ

ユオスの塚があ

ったという。パウサ

ニアスがこの塚について傍証に挙げ

るホメ

ロス

『オデ

ュッセイア』

一節

(×一.㎝ミ)は、-呉茂

一訳岩波文庫版では奇妙な解釈

の誤訳にな

っている。

Qカ一目

oP

吉良§

○さ㌻災

(品

。。一)"掌

べΦ

(百

〉ペ一〇む力

<↑>Q力誘

…》宕○田

Z

勺>ZO旬間qむ障ご

O.↑oΦ江

q

Z.

国古切耳①江o亡

』ミ

§巴

へ§

~恒

§

§

叉§

ひoミ

§~§

>Sミ

宮§

口さ㌻ミ

(一〇。。O)も

]

。。h

ュテ

ス派

いて

0力冨知ぴo員

H×』

.戸戸を見

よ。

の要

の重

いて

o臼含③げo見

】×`ω心Nを

よ。

2

・勺p暮

NΦμ

・☆ご

O.NOO〔.昌.戸参

の城

O・○窪

く宮

S

司自

ζ

<①ムロoω耳『

ご昌

苫げ〈Φ9

00鴨

①U宮口広両全Φ。・{o詳庄8

江○づω

△Φ一コ昌巳o§

民「o窪ω筑

o誉

』ミ

避§

§

§

咋』

畿§

」令NO

」§

(お

o。O)C

℃・ミ

ー。。N参

S

司8NΦ50>

へ畏

くも

・一〇吟ロ

ωN《.参照。

アリキの北方内陸部の高原台地にも塔

(せ§

句)をめぐらした城砦風

の遺跡があ

西

く残

って

港湾

スピ

の外

であ

った

の内

の城

に含

いた

と考

えざ

い。

・↑o-一日ぬ・㌔§

§

息合§

亀嵩

○ミ民意

ボミボ魁

』◎。ぶ

§

」句Nべ

(↑q⊃◎。qっ)、カO・。。はひ

〉勺o=o法

力庁o合

已。力"』§

§亀ミSへ§

⌒OPω.な

〉巳

言合o日

ω、㎏導§

S寒

〔一らq⊃・戸Φの

ゴ船

者二

ス(パグ

ニアスの子)の名

が最初

に挙が

っている。

㊥①⊆ω.]×・ωN・ふ

Z.㊥①U旬6庁曽誌ρ

魯・へ苦

く、唱.㌫O昌.』ミへ■

めσq◆まΦ.

ケファリ半島付け根の丘ソ

ロスは表土

に覆われているので対象から外し、ケファリ半島北縁の岩壁に狙

いをつけたが、同

所でボーキサイトの採掘に従事している労働者たちに訊ねても、古代遺跡などはここにはないと言うだけで何の情報も得

られなかったが、われわれ三人はついにみごとな

「磨崖聖所」

の遺構を発見することに成功した。写真

とビデオの記録を

とって引き上げる途中、向

こうから警官

と村

の顔役

の二人連れがや

って来て、先頭

の私は簡単な尋問を受け、すぐ下の軍

事基地(無ミ喜

o合

ボ)は撮らなか

ったかどうかの点を確

かめられたが、「磨崖聖所」のことを教えると二人はいそ

いそとそち

210

Page 22: スキステ街道(Schistê Hodos)-オイディプウス伝説と URL DOI

(18)

へ向

かい、われわれは

つぎ

の目的地ゼ

スフィナ(】)伶むoUゲ」口知)に向か

って走り去

った。

アンティキ

ュラとアンブ

ロソスを結

ぶ古代道路は現在

の道とは異な

って、渓谷

の西側を縫

っていたと思われる。

211