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Title 戦前の資料にみるオオコウモリの記述 Author(s) 城間, 恒宏; 中本, 敦 Citation 沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 1-20 Issue Date 2016-03-25 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/20465 Rights 沖縄県教育委員会

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  • Title 戦前の資料にみるオオコウモリの記述

    Author(s) 城間, 恒宏; 中本, 敦

    Citation 沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THEHISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 1-20

    Issue Date 2016-03-25

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/20465

    Rights 沖縄県教育委員会

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    戦前の資料にみるオオコウモリの記述

    城間 恒宏・中本 敦

    はじめに

    クビワオオコウモリ Pteropus dasymallus は琉球諸島(1)

    、台湾の緑島・亀山島、フィリピ

    ン北部の小島嶼群にかけて分布し、生息域によって5亜種に分類されている(Kinjo and

    Nakamoto, 2015)。そのうち国内には4亜種が生息し、近年の生息域を示すと口永良部島・

    トカラ列島にエラブオオコウモリ P. d. dasymallus、沖縄諸島にオリイオオコウモリ P. d.

    inopinatus、大東諸島にダイトウオオコウモリ P. d. daitoensis、宮古・八重山諸島にヤエヤ

    マオオコウモリ P. d. yayeyamae が確認されている(中本ら,2009)。また沖縄島からはク

    ビワオオコウモリとは別種の絶滅種オキナワオオコウモリ P. loochoensis(2)

    の記録がある。

    クビワオオコウモリの生息域は一部の亜種で拡大傾向が見られる。例えば、ヤエヤマオ

    オコウモリは以前は八重山諸島に生息が限られていたが、1975 年頃に多良間島(池原・下

    謝名,1975:当山,1981)、1992 年に宮古島で確認され(前田・丸山,1993)、1994 年に

    伊良部島(岡,1994)と来間島(橋本,1997)、2012 年には池間島、大神島、下地島で生

    息が確認され(大沢・大沢,2013a)、40 年弱のうちに水納島を除く宮古諸島のすべての島

    に分布を広げた。また、中本ら(2009)は沖縄島の周辺離島(奄美諸島の沖永良部島、与

    論島を含む)でオリイオオコウモリの生息調査を行い、これまで生息が確認された島に新

    たに8島を加え 19 島での生息を明らかにし、本亜種の分布が沖縄島を中心に周辺離島に

    拡大している傾向を指摘した。単に生息の見落としであった可能性も含め、この傾向がい

    つ頃から始まったのか詳細は明らかでないが、その後も沖永良部島(船越ら,2012)、渡

    嘉敷島(米田,2012)、久米島(大沢・大沢,2013b)、粟国島(大沢ら,2013)、座間味島(中

    本,未発表)でも姿が目撃されるなど、その生息域の拡大は続いているようである。この

    ように、1970 年代以降のクビワオオコウモリの生息域やその変化は明らかになりつつある

    ものの、それ以前、とりわけ戦前における分布情報はほとんど知られていない。

    SHIROMA Tsunehiro and NAKAMOTO Atsushi: A Report on Pre-war Documents concerning the Flying Fox, Pteropodidae, in the Ryukyu Archipelago(1) 当山(2015)に従い、九州の南から台湾に至る琉球列島と尖閣諸島、大東諸島を含む範囲を琉球諸島

    とした。(2) 本種をマリアナオオコウモリ P. mariannus のシノニムまたは亜種 P. marianus loochoensis とする見方

    もある(黒田,1940)。本種の絶滅の原因は不明である。

  • - 2 -

    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    本稿では、戦前の新聞記事や研究者の採集日記等にみられるオオコウモリ類(3)

    に関する

    記述を紹介し、過去における本種の分布の一端を明らかにする。

    1.方 法

    調査は、戦前に沖縄で発行された新聞を中心に行った他、戦前の文書や日記等で確認さ

    れた記述を掲載した。

    新聞の調査は、『沖縄県史 資料編 24 自然環境新聞資料』(沖縄県教育委員会,2014:

    以下『資料編 24』と略す)を使用した。本稿における、新聞記事の掲載要領は『資料編

    24』に従った。主要なものを以下に示す。

    ○記事は、発行年月日、新聞頁(面)、掲載新聞紙名、みだし、記事内容の順で掲載した。

    ○旧漢字はなるべく新漢字に直した。ただし人名・固有名詞・漢数字については原則として

    原文のとおりとした。

    ○送り仮名、仮名遣いは、原文のとおりとした。ただし、変体仮名は平仮名に書きかえ、

    「ゐ」「ゑ」はそれぞれ「い」「え」に改めた。

    ○誤字・脱字は基本的に原文のとおりとし、できるだけ行間に「ママ」を並記した。なお、

    内容によっては、行間に「*」を付して修正等を行った。

    ○新聞の活字が抜けているものや不鮮明で読めないものは□であらわした。なお、内容等か

    ら判断されるものについては行間に「*」を付して文字を補った。

    ○編者による注記などは[ ]に入れて表記した。

    また新聞以外の他の文書の掲載は、【本文中の文書通し番号】、発行年月日(日記につい

    ては執筆年月日)、文書名、文書内容の順で掲載した。旧漢字、誤字脱字等は原則として『資

    料編 24』と同様に扱ったが、原資料の翻刻本に依る場合はそれに従った。筆者による注記

    などは[ ]に入れて表記した。なお、本論で使用した翻刻本は以下の通りである。

     『南島雑話』:國分直一・恵良宏 校注(1984)南島雑話2〔全2巻〕.243pp. 平凡社,東京.

     『折居彪二郎採集日誌』:揚妻−柳原芳美・大畑孝二・加藤 克・齊藤郁子・説田健一・嵩原建二・

    平岡考・正富宏之・三谷康則・鷲田善幸(2013)鳥獣採集家 折居彪二郎採集日誌〜鳥学・

    哺乳類学を支えた男〜.609pp. 折居彪二郎研究会,北海道.

     『伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記』:当山昌直・小野まさ子(1997)伊藤篤太郎琉球八

    重山列島動植物採集雑記の翻刻と解題.沖縄県史研究紀要 (3): 55-64.

    2.結 果

    今回、オオコウモリに関する記事 35 件を確認した(表1)。諸島別にみると、①大隅諸

    島1件、②奄美諸島1件、③沖縄諸島8件、④宮古諸島1件、⑤八重山諸島 23 件、そし

    て⑥大東諸島5件であった(4)

    (3) 小笠原諸島に生息するオガサワラオオコウモリ P. pselaphon を除く。(4) 一つの記事に、複数の島に関する分布情報が掲載されている場合があるため、記事数と諸島別合計は

    一致しない。

  • - 3 -

    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    表1.戦前の沖縄の新聞または文書に見られたオオコウモリの記述

    No.

    記事年月日紙名

    見出し

    地域

    11850〜

    1855年

    南島雑話

    奄美大島

    21893年(明治

    26) 動物学雑誌

    5(54): 123-126

    球陽雑譚(第三稿)  黒岩 恒

    沖縄島・八重山

    3[1894年(明治

    27)7月〜

    9月]

    伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記

    沖縄島・慶良間・八重山

    41898年(明治

    31) 動物学雑誌 10(111): 28-30

    球陽雑爼(第九巻第四八二頁の続き)  黒岩 恒

    沖縄島・石垣島・西表島・鳩間島

    51899年(明治

    32)10月

    3日

    1面 琉球新報

    石垣島

    (前承

    )  黒岩恒誌

    石垣島

    61903年(明治

    36)7月

    3日

    2面 琉球新報

    南大東島の農業

    (続き

    )  (那覇税務署技手玉那覇徹氏調査

    )南大東島

    71903年(明治

    36)7月

    17日

    3面 琉球新報

    大東島  大東島探撿隊の一人某

    大東島

    81905年(明治

    38)11月

    23日

    2面 琉球新報

    予が観たる大東島  半白漁郞

    大東島

    91906年(明治

    39)9月

    18日

    2面 琉球新報

    国頭旅行  飄々生

    沖縄島国頭

    10

    1909年(明治

    42)6月

    9日

    1面 琉球新報

    南大東島の近況  松月

    南大東島

    11

    1912年(明治

    45)3月

    16日

    2面 沖縄毎日新聞

    林務課の大蝙蝠

    沖縄島国頭

    12

    1921年(大正

    10)8月

    30日

    折居彪二郎採集日誌

    石垣島

    13

    1921年(大正

    10)9月

    8日

    折居彪二郎採集日誌

    与那国島

    14

    1921年(大正

    10)9月

    9日

    折居彪二郎採集日誌

    与那国島

    15

    1921年(大正

    10)9月

    12日

    折居彪二郎採集日誌

    与那国島

    16

    1921年(大正

    10)9月

    16日

    折居彪二郎採集日誌

    与那国島

    17

    1921年(大正

    10)10月

    16日

    折居彪二郎採集日誌

    西表島

    18

    1921年(大正

    10)10月

    17日

    折居彪二郎採集日誌

    西表島

    19

    1921年(大正

    10)11月

    7日

    折居彪二郎採集日誌

    西表島

    20

    1921年(大正

    10)11月

    8日

    折居彪二郎採集日誌

    西表島

    21

    1921年(大正

    10)11月

    19日

    折居彪二郎採集日誌

    石垣島

    22

    1921年(大正

    10)11月

    20日

    折居彪二郎採集日誌

    石垣島

    23

    1921年(大正

    10)11月

    23日

    折居彪二郎採集日誌

    石垣島

    24

    1921年(大正

    10)12月

    15日

    折居彪二郎採集日誌

    宮古(伊良部島)

    25

    1922年(大正

    11)1月?日

    折居彪二郎採集日誌

    沖縄島

    26

    1930年(昭和

    5)2月□日□面 [紙名不明

    ]沖縄本島産大蝙蝠

    /国頭安富祖で発見さる

    沖縄島

    27

    1932年(昭和

    7)11月

    [7日

    ]□面 沖縄日日新聞

    動物分布に於ける 沖縄の自然的位置

    (三

    )  兼城校 玻座眞忠直

    八重山

    28

    [1932]年(昭和

    [7])□月□日□面 [紙名不明

    ]農林省が「沖縄大コウモリ」の研究調査のため

    /県警察部に捕獲を

    依頼

    沖縄島・八重山

    29

    1936年(昭和

    11)6月

    18日

    折居彪二郎採集日誌

    与那国島

    30

    1936年(昭和

    11)6月

    21日

    折居彪二郎採集日誌

    与那国島

    31

    1936年(昭和

    11)7月

    9日

    折居彪二郎採集日誌

    西表島

    32

    1936年(昭和

    11)7月

    13日

    折居彪二郎採集日誌

    西表島

    33

    1936年(昭和

    11)11月

    12~

    17日□面 沖縄日報

    本県動物分布の特異牲と興味

    八重山

    34

    1936年(昭和

    11)11月

    24日

    折居彪二郎採集日誌

    南大東島

    35

    1940年(昭和

    15)3月

    10日

    3面 沖縄日報

    採集南北行

    /林農林技師対談会

    /林義三氏 岸田久吉氏対談会

    (5)

    屋久島・口永良部島

  • - 4 -

    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    以下に、諸島別に記事を掲載し、若干の考察を加えた。

    (1)大隅諸島(屋久島・口永良部島)

    【1】1940 年(昭和 15)3 月 10 日 3 面 沖縄日報

    採集南北行 /林農林技師対談会 /林義三氏 岸田久吉氏対談会 (5)

    [前略]

    岸田 [中略]実は琉球で御承知の屋久島に、昔から大形の蝙蝠がをる、やくしま蝙蝠といふ

    名前であつたが、実物が現在ないために分らないでをるこの屋久島のすぐ西隣りの口永良部で、

    今から十年程前に大蝙蝠が発見されたのです。恐らくこれが屋久島に残つた種類だらうといふ

    のですがね、えらぶ大蝙蝠といふ名前を私が付けましたが

    考 察

    岸田久吉(5)

    は、1929 年(昭和4)に Pteropus yamagatai(エラブオオコウモリ)(6)

    を新種記

    載した人物である(岸田,1929)。この記事中で岸田は、オオコウモリの仲間が以前、屋

    久島に生息していたとされていたことに触れている。このことは、岡田(1891)や Kuroda

    (1933)など当時の学会論文にも見られ、ヤクカワホリ(7)

    と称された。屋久島のオオコウモ

    リは、1842 年に Temminck がオオコウモリ(8)

    (Pteropus dasymallus)の産地に九州島南部の薩

    摩と甚だ稀に屋久島で産するとしたことに端を発するとされる(岸田,1929)。しかし岸

    田(1929)は、当時、屋久島からはオオコウモリの標本が得られなかったことから、ヤク

    シマコウモリ(ヤクカワホリ)は屋久島には分布しないとした。鳥獣標本採集家の折居彪

    二郎は、1921 年(大正 10)から翌年にかけて琉球列島を訪れ、鳥類の採集とともに石垣

    島や与那国島などでオオコウモリを精力的に採集したが、折居の採集日誌を見る限り種子

    島や屋久島ではオオコウモリを確認していない。また、エラブオオコウモリを発見した山

    形賴治も屋久島にはオオコウモリは生息していないと結論づけている(9)

    (山形,1929)。岸

    田(1929)は、ヤクシマコウモリは屋久島から約 12km 離れた口永良部島のエラブオオコ

    ウモリの誤りであるとした。なお、近年、屋久島でエラブオオコウモリの死体発見が報告

    されている(國崎・船越,1996;山田島,2013)。

    (5) 岸田久吉は、当時、農商務省農事試験場の嘱託であった(河田,1968)。(6) 現在ではエラブオオコウモリはクビワオオコウモリの一亜種(P. dasymallus dasymallus)に分類されて

    いる(Yoshiyuki, 1989 ; Kinjo and Nakamoto, 2015)。(7) 和名の初出は岡田(1891)とされる(岸田,1929)。国内のオオコウモリの和名については、前田(1997)

    により整理・再検討がなされている。(8) Temminck(1842)は、和名を Liukiu-komuli として紹介している。(9) 山形賴治は当時、鹿児島県警察部保安課に勤務しており、農林省鳥獣調査室の依頼により県内の警察

    署に照会、または実地調査を行っている(山形,1929)。この調査により、種子島・喜界島・奄美大島・徳之島・沖永良部島にオオコウモリが生息しない一方、悪石島・宝島には生息することを報告している(山形,1929)。オオコウモリの宝島における生息情報は永井(1929)にも見られる。

  • - 5 -

    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    (2)奄美大島

    【2】1850 〜 1855 年 『南島雑話』

    大蝙蝠(大島第一の高山、深山途に多し。木の枝に下り居る形、常の蝙蝠にことならず。大き

    さいたちのごとし)

    八重山蝙蝠 大さ如レ鼬。

    考 察

    『南島雑話』は、1850 〜 1855 年にかけて奄美大島に配流された薩摩藩士の名越左源太

    によって記された史料で、奄美大島の当時の民俗をはじめ、動植物などが記録されている。

    その中に、オオコウモリに関する記録および絵図(10)

    が見られる。奄美大島には現在、オオ

    コウモリの仲間は生息していないとされているが(11)

    (Kinjo and Nakamoto, 2015)、1850 年

    代前半には分布していた可能性が示唆される(12)

    。ここでは、奄美大島の最高峰(湯湾岳か?)

    および山地奥深くに多いとあり、飼養されていたものではないと考えられる。波江元吉

    は、1909 年(明治 42)に沖縄島や奄美大島を訪れ、奄美大島で「ヤクガワホリ」(13)

    の標本

    を購入しているが、この標本の産地は奄美大島ではないことを記している(波江,1909)。

    折居彪二郎は 1922 年(大正 11)に鳥獣標本採集のために奄美大島を訪れているが、5月

    2日〜5月 20 日の滞在期間中にオオコウモリの採集はもとより目撃の記録もない。また、

    山形(1929)は奄美大島でオオコウモリが確認されなかったことを報告している。このこ

    とから、『南島雑話』の記述を信頼するのであれば、奄美大島には以前オオコウモリが生

    息していたものの、何らかの原因で減少し、遅くとも 1900 年代初頭以降には絶滅したと

    考えられる。ここで参考までに記しておくと、奄美大島には「ユシキョ」と呼ばれる想像

    上の怪鳥がいる(酒井,2002)。この生き物はコウモリのように枝から逆さにぶらさがっ

    ており、この鳥を見た人は不幸に見舞われるという。これらの口承は奄美大島におけるオ

    オコウモリの過去の生息の可能性とその希少性をうかがわせているようにもみえる。

    一方、『南島雑話』の「八重山蝙蝠」について、今日先島諸島に分布する亜種ヤエヤマ

    オオコウモリを含め、周辺に分布するクビワオオコウモリの他の亜種や絶滅種のオキナワ

    オオコウモリとの関係は不明である。「八重山蝙蝠」と記され、おそらく当時、奄美大島

    でそのように呼ばれていたと考えられることから、飼養目的で八重山諸島から持ち込まれ

    逸出または放逐された個体に由来する小個体群が生息していた可能性も考えられよう。

    (10) 前述した翻刻本等を参照されたい。(11) ただし 1983 年に安間(1985)による目撃記録がある。(12) 奄美諸島沖永良部島では、縄文期の貝塚などからオオコウモリの半化石が見つかっている

    (Nishinakagawa et al., 1994)。(13) 学名を P. dasymallus としている。

  • - 6 -

    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    (3)沖縄諸島

    【3】1893 年(明治 26) 動物学雑誌 5(54):123-126

    ●球陽雑譚(第三稿)  黒岩 恒

    [前略]

    石垣島ノ主邑ヲ四箇村ト称ス西部ノ沿海ニアリ戸数大凡一千二百、八重山島役所警察署等アリ

    民居ハ尽ク茅屋ナレドモ衢路井然トシテ大ニ見ルベキモノアリ緑榕深キ処時ニ咿唔ノ声ヲ漏シ

    来ル皇化ノ僻陬ニ洽キ以テ知ルベキナリ先四箇村ノ見聞ヨリ説キ起サンニ本村ニテハ当時万

    寿木(Papaw)福木等ノ果実黄熟セルヲ以テ琉球蝙蝠(Pteropus keraudrenii, Peters. var.

    loochooenis, Gray.)ハ薄暮ノ頃ヨリ樹間ニ群集シ騒然トシテ熟果ヲ味ヘリ散弾銃ヲ用イタラ

    ンニハ幾疋ニテモ打落ス可キニ如何セン日没後ナルヲ土人ハ竹竿モテ之ヲ乱打シ或ハ竿黐モテ

    之ニ粘ス左レド福木ノ如キハ枝椏ノ密生セルヲ以テ之ヲ獲ル実ニ容易ナラズ良好ナル標品ヲ得

    ント欲セバ昼間於茂登岳(海抜一千六百八十尺)ノ幽林ニ入ルニ如カズ

    此食果蝙蝠ノ琉球諸島ニ於ル分布ヲ伝ンニ余カ知ル所ニテハ沖縄島、石垣島及西表島是ナリ宮

    古ハ島ノ大ナルニモ拘ラス之ヲ産セズ又沖縄島ニテハ北部国頭ノ地方ニ多ク南部島尻ノ如キハ

    全ク棲息セズ久米島ハ未ダ捜索セズト雖モ恐クハ棲息スルナランニハ追テ披露スル所アルベシ

    之ヲ要スルニ此類ノ棲息地ハ山谷ノ幽深ナル島地ニ限ルモノニシテ低平ナル島嶼ニハ決シテ産

    スルコトナシ(琉球ニテハ)

    [後略]

    【4】[1894 年(明治 27)7月〜9月] 『伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記』

    八重山カハホリ

    (一)沖縄本島ニテハ Jêmakâbuja ト称シ八重山ニテハ単ニ Kâburu (カハホリ)ト云フ 

    沖縄列島ニテハ沖縄本島中国頭地方ニ時ニ之ヲ産シ亦慶良間ニ生息ス 八重山列島ハ到ル処之

    ヲ産セザルナシト雖モ石垣島及西表島ハ其生息ノ本営トナリ常ニ群集シテ山林ノ樹木ニ懸垂シ

    殊ニ夜ニ至レバ食餌ニ奔走シテ東西ニ横翻シ憂々声ヲ発シ二月下旬ヨリ九月上旬ノ間ハ村落ニ

    来ル事甚多し蓋シ二月下旬ヨリ九月上旬ノ間ハ村落之家々ノ周囲ニ植エタル榕樹実福木実ノ熟

    シタル相柄ナレバナリ

    [後略]

    【5】1906 年(明治 39)9 月 18 日 2 面 琉球新報

    〇国頭旅行  飄々生

    第四信/山林の設計/樹下の演説

    [前略]

    福樹の垣根を行けば黄熟の樹実落ちて声あり樹上数尺の蝙蝠夜陰に乗して奇声を弄し福樹の上

    に止まる

    [後略]

    【6】1912 年(明治 45)3 月 16 日 2 面 沖縄毎日新聞

    ●林務課の大蝙蝠

    県庁林務課□柱に一疋の大蝙蝠□皮を剝がれ竹串にて突張られたる儘ぶら下れるを訝□みて聞

  • - 7 -

    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    けばこは阪井技手□去る七□国頭□造林地に於て捕獲し*

    たるものにて土産として眞境名属に贈

    りたる者なりと云ふ阪井技手の*

    談に依れば同技手が偶々アカオ林□の椎茸を検分に行きし時ア

    カオ□樹上に青鳩の群□せるを見*

    丁□猟銃を携へ来たればよき獲物ござ*

    んなれと銃を構へ一発

    の下に*

    鳩を打落し*

    たる*

    に其時何処ともなく鳩よりも大なる□鳥飛ひ来りしアカオの枝に止るを

    見る其の飛行至つて軽鋭なるを何ならんと疑ひ乍ら先づ一発を試みたるに手応ありて旨く適中

    したるが枝を握んだまゝブラリと下り頑固にも落ちて来ず又一発を放つて漸く打落せるを見れ

    ば鳥ではなく鳥無き里の件の大蝙なりしと云ふ斯かる大蝙蝠は兎ても内地では見られずと阪井

    氏も云へる程にて翼を拡ぐれば二尺余に達□重量一斤はあらん皮は堅く毛は軟かにして密生し

    毛色は赭白□斑にして一寸美麗なり二本の足には五本宛鷹□爪の如き黒き鋭利なる爪を有し翼

    の下にも一本づゝの鈎が四本もあり肉は食はるれど美ならずと云へど皮は上等にて革細工* *

    に利

    用されさうなり阪井技手の談では此奴多分鳩を狙ひし来りしと覚しく遂に鉄砲□狙ひの的とな

    りしは運が悪かりしと

    【7】1922 年(大正 11)1月?日 『折居彪二郎採集日誌』[沖縄島]

    河原鳩に就て Kinmu

    [前略]1月21日に辺土名を出発し名護を経て当金武に着いたのは1月 22 日の午後1時半頃

    であった。[中略]翌1月 23 日金武岬方面に向かい、専らこの鳩を探険した。[中略]蝙蝠は目

    下南方に去ったものか、また、土中深い穴に潜っているものか一向に見当らない。尤も彼等の

    糞粒の嵩は高くて地面の色を黒く見せているところもあって、最近の糞も見当たる。大蝙蝠は

    極めて小類で時々福木に来ている様子で、昨夜も旅舎の付近の森中で鳴き声を聞いた。確実に

    存在を確かめた。

    [後略]

    【8】1930 年(昭和 5)2月□日□面 [紙名不明]

    沖縄本島産大蝙蝠/国頭安富祖で発見さる

    「既報」沖縄本島産大蝙蝠を学術的に研究する目的で農林省西ケ原農事試験場鳥獣調査部が県当

    局へ捕獲依頼してきた本島産大蝙蝠は昨日国頭郡安富祖小学校からアルコール漬けの大きな奴

    を寄贈してきたが、当局では直ちに農林省へ送ることゝなつた

    尚ほ各町村に於て発見次第送附ありたしと

    【9】昭和[7年]□月□日□面 [紙名不明]

    農林省が「沖縄大コウモリ」の研究調査のため/県警察部に捕獲を依頼

    農林省畜産局では本県下に棲息する「沖縄大蝙蝠」の研究調査を遂げるため数日前県警察部保

    安課に右大蝙蝠牝、牡各五匹宛採取の上送附されたしと依頼して来たので県保安課では昨日沖

    縄大コウモリの産地たる八重山 名護 渡久地署*

    を始め県下各署並びに県下各小学校宛採取又

    は標本類の至急送附方を左記要項に依り依頼通牒をした

    捕獲採集品は腐敗せぜる様塩漬又は酒精液に浸し又は剝製となし棲息地の状況及び捕獲場

    所捕獲年月日その他参考となるべき資料

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    考 察

    ①明治期の記録について

     生息情報

    沖縄島におけるオオコウモリの生息情報について、本稿において最も古い記録が 1893

    年(明治 26)に動物学雑誌に掲載された黒岩恒の記述【3】である(14)

    。これは黒岩が石垣島

    を訪れた際のオオコウモリの採集について書いたもので、琉球諸島内(特に沖縄島、宮古島、

    石垣島、西表島)での生息について示されている。これによると沖縄島では北部の国頭地

    方に多く、南部の島尻には全く生息しないという。同様の記述は 1894 年(明治 27)に八

    重山諸島を訪れた伊藤篤太郎の採集雑記【4】にも見られる(15)

    。現在、沖縄島中南部におい

    て非常に多くのオオコウモリが日常的に見られることからすると(中本ら,2011)、過去

    に南部には生息していなかったということは本研究で明らかになった特筆すべき結果であ

    る。

    伊藤はまた、当時オオコウモリが慶良間諸島にも生息していたとしている。折居彪二郎

    は 1922 年(大正 11)2月5日〜に2月 17 日に慶良間諸島座間味島で鳥獣の採集をしてい

    るが、オオコウモリに関する記録はない。前述したように、近年、慶良間諸島の一部島嶼(阿

    嘉島、渡嘉敷島、座間味島)でオオコウモリが目撃されるようになったことから、オオコ

    ウモリの分布が時代によって変化していることが推測される。

     琉球蝙蝠について

    黒岩は【3】でこのオオコウモリを琉球蝙蝠 Pteropus keraudrenii var. loochooenis とし

    ている。この学名は、現在絶滅種として知られるオキナワオオコウモリ P. loochoensis の異

    名である(岡田,1891)。本種は 1870 年に Gray によって記載され(Gray, 1870)、現在は

    ロンドン自然史博物館に所蔵される2標本が唯一知られており、分布記録は沖縄島のみと

    なっている(16)

    (Kinjo, 2015)。

    先述したように、この記事は黒岩が石垣を訪れたときのもので、P. loochoensis が石垣島、

    西表島にも生息していたと受け取れる。本種の分布に南琉球をあげているものに、この黒

    岩(1893)以降に発表された Andersen(1912)やそれを引用したと思われる黒田(1920)

    がある。しかし、これは当時、国内におけるオオコウモリの分類がまだ明確でなかった

    ためとも考えられる。琉球列島に分布し記載されていたオオコウモリは 1825 年記載の P.

    dasymallus と、1870 年記載の P. loochoensis の2種があったが、前者については、多くの文

    (14) 学術雑誌への掲載であるにも関わらず、管見によれば本論文がオオコウモリに関するその後の研究で引用された事例は見当たらない。

    (15) その後の明治期の新聞記事からもオオコウモリが国頭地域に生息していたことがわかる。(16) ただし、本種を記載した Gray(1870)は本種の分布について Loochoo とのみ記し、具体的な島嶼名

    は示していない。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    献で生息地が江戸や長崎、九州、屋久島となっており(17)

    、後者は琉球(18)

    とされていた。した

    がって、【3】(黒岩,1893)の当時県内でみられたオオコウモリをすべて P. loochoensis(琉

    球蝙蝠)とみなしていたとも考えられる。

     オオコウモリの古称について

    黒岩(1893)の翌年に書かれた『伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記』【4】(以

    後、『伊藤雑記』とよぶ)には、沖縄島におけるオオコウモリの方言名を<エーマカーブ

    ヤ(Jêmakâbuja)>としている。これはヤエヤマコウモリの意と思われるが、当山・小野

    (1997)はこの方言が、現八重山亜種のヤエヤマオオコウモリが生息せず、沖縄諸島亜種

    のオリイオオコウモリの生息する沖縄島南部にもみられることから、八重山のオオコウモ

    リを指すものではないとしている。

    ヤエヤマコウモリの名称は先に示した『南島雑話』【2】や 1719 年の新井白石の『南島

    志(19)

    』にも見られ、「八重山産の蝙蝠は、その形がきわめて大きい<俗に八重山蝙蝠という>」

    (原田,1996)と記録されている(20)

    。八重山の方言ではオオコウモリのことを単にコウモリ

    を意味する<カーブル(Kâburu)>と呼んでいることから、「ヤエヤマコウモリ」の呼称

    は八重山諸島を除く琉球で、特に使用されていたと考えられよう。

    一方、「リュウキュウコウモリ」の名称は、【3】(黒岩,1893)以前の Temminck(1842)に P.

    dasymallus の和名「Liukiu-komuli」(21)

    として見られ、「琉球のコウモリ」の意と紹介されて

    いる(22)

    。Temminck(1842)は、その生息地を南九州の一部、薩摩地域とし、まれに屋久島

    で発見されるとしている。すなわち琉球(王国)に属していなかったこれらの地域で、オ

    オコウモリのことを「琉球のコウモリ」と呼んでいたこととなる。さらに Temminck(1842)は、

    「日本人は、好奇の対象としてこれを重んじ、籠に入れて飼育する」と記している。岸田

    (1929)は「大蝙蝠は愛玩動物とてマ マ

    し飼養されるもので、サツマイモやリンゴ・カキ・ナツメ・

    ミカン等の果実を与へておげママ

    ば割合長く生きて居るものであり、又、能く馴れるものであ

    (17) Andersen(1912)に掲載の P. dasymallus の学名リストをみると、本種の産地で最初に「Liu-Kius」がみられるのは 1892 年で、【3】(黒岩,1893)の直前である。また Bangs(1901)は採集地に Ishigaki を示した上で、本種は元来日本に産するとされていたが、恐らくそれは琉球に限定されたものであると述べている。

    (18) ただし、Peters の亜種名を掲載した岡田(1891)には沖縄諸島、1894 年の Fritze は、“Okinawa”としている(Andersen, 1912)。筆者は原著を確認できなかった。

    (19) 新井は実際に琉球に赴いたことは無く、江戸を訪れた琉球使節に確認した情報や薩摩藩から聴取した情報、中国の文献などから考察を加えて琉球についてまとめたという(原田,1996)。

    (20) また、1811 年(文化8)作成の図譜『千蟲譜』にはオオコウモリの絵図と解説が示され、その中に「琉球属島八重山ニ産ス 中山ノ西南海中ニアリ隔ルコト二百里ト云 俗ニ八重山コウモリト云」(国立国会図書館 HP,2016a)と書かれている。

    (21) このことは、P. dasymallus を記載した Temminck(1927)には示されておらず、和名に「Sobaosiki」が挙げられている。Temminck(1842)では「Liukiu-komuli」の別名に「Sabaosiki」が示され、Gray(1870)では「Sobaosiki」のみ見られる。黒田(1920)は、これはムササビ類の古名の誤りとしている。

    (22) 江戸末期の本草学書『百品考』(国立国会図書館 HP,2016b)にはリウキウカハホリについて、「琉球ニ産ス故ニリウキウカハホリト云稀ニ鳥店ニ畜ヘリ」と記されている。なお、「鳥店ニ畜ヘリ」は、当時オオコウモリの販売が商売として存在したことを示唆するものとして興味深い。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    るから、八重山地方や口之永良部あたりの大蝙蝠が長崎・鹿児島などにもたらされ飼養さ

    れて居たことに不思議はない。口之永良部を屋久島と云つたところで、此も少しく離れた

    地方の人としては無理もない誤であらう。」としている。さらに飼養について、山形(1929)

    は悪石島で「此島にて捕獲したるものを口永良部島に持参せることあり」、宝島で「奄美

    大島名瀬港在住の者にて以前、宝島より捕へ来りしオホカウモリを飼養せしことある者あ

    りと云ふ。此人は其のオホカウモリの斃れし後は口之永良部島産のオホカウモリを飼養し

    居る由なり」、奄美大島で「他島産を飼養せる者あれとも、本島にはオホカウモリを天産

    せず」とし、波江(1909)は「此標本(ヤクガワホリ)は(奄美)大島に於て購入す併し

    本島産にあらず」とする報告をしている。また、『猿猴庵文化日記』には 1815 年(文化

    12)9 月に名古屋大須で「寒号虫(クビワオオコウモリ)」の芸を見せたことが記されてお

    り(磯野、2005)、オオコウモリが古くから飼養されていたことがわかる。

    あくまで推測の域を出ないが、これらの名称は、オオコウモリがそれぞれの地域に在来

    で生息していたのではなく外から伝わった事に起因するのではないかと考えられる。つま

    り、もともと奄美諸島を版図としていた琉球王国に属していたため(23)

    、奄美大島では八重

    山から持ち込まれたオオコウモリをヤエヤマコウモリと呼称し(24)

    、鹿児島・屋久島におい

    ては国外である琉球から伝わったことでリュウキュウコウモリと称したのではないだろう

    か(25)

    。しかし、南九州で使用されていたと思われる P. dasymallus の和名リュウキュウコウ

    モリはその後消失したのか、岡田(1891)によりヤクカハホリの名がつけられた。

    一方、【3】(黒岩,1893)は和名「リュウキュウコウモリ」を、P. loochoensis(現在の学名)

    に使用している。P. loochoensis の和名は岡田(1891)に「ヲキナハカハホリ」で示されて

    おり、別名としてリュウキュウコウモリが存在していたのかもしれない。Andersen(1912)

    は Liu-kiu kōmoli を、現地で呼ばれる P. dasymallus の和名の一つであるとしていること

    から、当時の沖縄では P. loochoensis か P. dasymallus かの区別なく和名「リュウキュウコ

    ウモリ」を使用していたと考えられる。Andersen は同論文において、P. dasymallus が当時、

    南琉球でのみ捕獲できることから、江戸(26)

    や長崎などとした本種の生息地は誤りで、南琉

    球が本来の生息地であろうと述べるとともに(27)

    、P. loochoensis の生息地もまた南琉球と記(23) 奄美諸島は 1609 年(慶長 14)の島津侵攻により琉球王国から切り離され薩摩藩に属していた。(24) ただし、沖縄島におけるオオコウモリの方言には、カーブイやカーブヤーがあるため(高良,1969)、『伊

    藤雑記』に記された沖縄島の方言のみから、八重山より移入されたものと考えるのは早計かも知れない。特に当時、オオコウモリの生息していなかった南部の人にとって、八重山に生息する大型のコウモリは大変印象的であったため、その名称が広く知られていたのかも知れない。

    (25) 口永良部島(サンプル数 n=4)と沖縄島(n=11)、北大東島(n=1)のオオコウモリは mtDNA の比較において遺伝的な差違が認められず、この数十万年の間に遺伝的交流があったとする報告が提出されている(土屋ら,1995)

    (26) 1642年(寛永19)に、将軍家光が紀伊藩の世子徳川光貞に琉球八重山蝙蝠を下賜した記録が『徳川実紀』に見られ(磯野、2005)、オオコウモリが当時江戸に送られていたことがわかる。

    (27) 黒田(1920)はこれに従い、P. dasymallus の和名を「ヤエヤマカハホリ」とした。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    載しており、これら2種のオオコウモリに対する和名「リュウキュウコウモリ」や分布に

    ついて混乱が見られる。

    ②大正・昭和期の記録について

    鳥獣採集家の折居彪二郎は著名な鳥類学者である黒田長礼の依頼により、1921 年(大正

    10)8月から約1年間、琉球列島の各島嶼をめぐり採集を行った。沖縄島には 12 月 30 日

    から翌 1922 年(大正 11)2月5日にかけて塩屋、辺土名、金武、恩納を訪れ山地等で採

    集を行っている。【7】によると、折居は1月 22 日に金武を訪れ、はっきりした日付は示

    されていないが、1月 23 日または 24 日に金武でオオコウモリの鳴き声を聞き、存在を確

    認したと記録している。

    昭和期に入り、当時の農林省によって実施された沖縄県下のオオコウモリの調査の記事

    が見られる【8,9】。農林省は、1925 年(大正 14)の農商務省の分割改組によりできた省庁で、

    西ケ原農事試験場はその前身が農商務省農事試験場にあたり、先述の岸田久吉が嘱託とし

    て在籍した組織である。岸田は 1932 年(昭和7)にも、西ヶ原農事試験場に在籍してい

    たことから(岸田,1932)、この記事が新聞に掲載された 1930 年(昭和5)にも恐らく本

    所に在籍していたと思われ、沖縄県下のオオコウモリ調査に関わっていたと考えられる。

    掲載の記事【8,9】は、いずれも喜久里教達氏の新聞切り抜き集に収載されているもので、

    新聞紙名が不明である。また、記事【9】は発行時期も不明である。この記事の発行時期は[昭

    和7年]と推測されているが、これは新聞切り抜き集の中でこれと同一の頁に収載された

    他の記事の「昭和7年」を根拠としている。しかしその内容を考えると、【9】は正しくは

    1930 年(昭和5)の記事【8】が示す“既報”と考えて良さそうである。

    記事によると、昭和初期に、沖縄県下のオオコウモリについて、生息調査と標本の採集

    が行われたことが分かる。1930 年(昭和5)には国頭郡安富祖(現恩納村)から標本1点

    が農林省に送付されたと考えられる【8】。なお当時、農林省が収集した標本のその後は他

    の文献等により確認する必要があり、本論では検証しなかった。

    沖縄諸島に生息する P. dasymallus は、Kuroda(1933)により初めて亜種オリイオオコウ

    モリ P. dasymallus inopinatus として記載された。これにより、沖縄島では2種のオオコウ

    モリが記載されたこととなる。Kuroda(1933)に記載された本亜種のタイプ標本は 1922

    年(大正 11)2月に折居彪二郎によって採集されたオスの成獣(28)

    で、タイプ産地は名護と

    されている。前掲の折居の採集日誌にあるように、1922 年(大正 11)2月に折居は沖縄

    島を訪れ約1ヶ月滞在している。その間、恩納以北で採集を行っているが、折居の日誌に

    (28) Kuroda(1933)の外部形態計測値には、これとは別のオス亜成獣の計測値も記載されている。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    は金武で鳴き声を確認したとする以外、オオコウモリを採集したことを示す具体的な記述

    は見られない。また、同日誌には各採集地ごとに収集標本の目録がまとめられているが、

    そのうちの沖縄島の目録にはオオコウモリの記録はない(29)

    。さらに日誌を見る限り、名護

    を経由することはあってもそこで採集を行った記載がみられない。これらは Kuroda(1933)

    に示されるオリイオオコウモリのタイプ標本の採集情報と一致しない。ただし、目録の中

    でも採集日が記されている鳥類の標本目録の中には、日記で休猟したと記される1月1

    日(30)

    の採集標本も存在することから、折居の記録もれや地元民から買い取った可能性も考

    えられ、これ以上の検証はできないが、先の記述の不整合を指摘しておきたい。

    (4)宮古諸島

    【10】1921 年(大正 10) 『折居彪二郎採集日誌』[宮古島]

    12 月 15 日

    [前略]聞くところによれば伊良部島には大蝙蝠がいるそうである。

    [後略]

    考 察

    折居は 1921 年(大正 10)12 月 15 〜 28 日まで採集のため宮古島に滞在した。大変興味

    深いことに、(おそらく島民からの)伝聞として、伊良部島のオオコウモリの生息につい

    て記している。しかし、折居はこのときの宮古滞在でオオコウモリの採集はおろか目撃も

    しておらず、伊良部島にも渡っていない。また、折居は 1936 年(昭和 11)5月1〜 15 日

    にも宮古島に採集に訪れているが、その際もオオコウモリの記録はなく、伊良部島にも渡っ

    ていないため、真偽は定かではない。

    なお、宮古のオオコウモリについては、前掲の 1893 年(明治 26)、黒岩恒の『球陽雑譚』【2】

    に「宮古ハ島ノ大ナルニモ拘ラス之ヲ産セズ」と生息していなかったことが示されている。

    (5)八重山諸島

    八重山諸島のオオコウモリに関する記事は、石垣島、西表島そして与那国島におよぶ。

    折居彪二郎の採集旅行の行程とも関連するので、島を前後するが時系列で掲載する。

    【11】1898 年(明治 31) 動物学雑誌 10(111):28-30

    球陽雑爼(第九巻第四八二頁の続き)  黒岩 恒

    (29) 翼手類は黒褐色小蝙蝠、唐小菊頭のみが記されている。また採集はしていないが、生息を確認した猪やマングースは△印が付され掲載されている。

    (30) この数日間、折居は名護に滞在している。1月 20 日の日記にはリュウキュウヤマガメを“本日も1頭を買取った”と記されており、採集だけでなく購入による収集も行ったことがわかる。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    [前略]扨て山林猟中興味多きは寒号虫(オホカハホリ)の採集なり此もの沖縄島石垣島西表島

    等に産すれども余が知る所にては八重山列島中の鳩間島を以つて最好猟地となすべし[後略]

    【12】1899 年(明治 32)10 月 3 日 1 面 琉球新報

    ●石垣島 (前承 )  黒岩恒誌

    [前略]伊野田に於ては沙丘の後面に沖積層あり喬木之を蔽ふて昼尚暗く試みに林中に入らんか

    猫兒大の蝙蝠榕樹の枝上に倒懸し林枝聳ゆる処山藤攀つる辺人をして坐に熱帯圏裡に在るの思

    あらしむ之を本島沿海林の真相となす

    [後略]

    【13】1921 年(大正 10) 『折居彪二郎採集日誌』[石垣島]

    8 月 30 日 石垣八重山

    [前略]

    石垣大蝙蝠

    右は昔日相当にいたものであるが今はいなくなっているそうである。これは私等は実見しなかっ

    た。

    [後略]

    1921 年(大正 10) 『折居彪二郎採集日誌』[与那国島]

    【14】9 月 8 日

    本日南方最高所をまわって深い渓谷に入る。[中略]これより先、黒鳩と思い大蝙蝠を打つ。第

    一号は与那国コーモリである。[後略]

    【15】9 月 9 日 本日 9日出帆の竹富丸で帰る。

    [前略]渓は深くして林薮密茂し暗いほどである。しかれば蝙蝠等は最も安心してこの近くにぶ

    らさがっているのを見る。[後略]

    【16】9 月 12 日 朝大水土鼠 ジャコウ鼠

    [前略]

    大蝙蝠は♂♀によって各毛色が異るか、または別種であるかは不明である。♀は白くて白色部

    が広く、かつ頸頭部及び中腹部まで白く、♂は頸巻の部分のみにして茶縞白色である。今後の

    標本数多くの採集により決定すべきものである。採集できるかどうかはわからない。

    【17】9 月 16 日 2種の大蝙蝠

    [前略]本日は大蝙蝠に2種あるのを確かめた。毛色は大抵1頭互いに異っているがその主腕の

    長さは

     1種は 137.8 ミリであるのに

     1種は 110 ミリ以内であることによりまた頭骨の太さも相当に異っている。即ち約 30 ミリ

    前後の相異であることを知った。

    1921 年(大正 10) 『折居彪二郎採集日誌』[西表島]

    【18】10 月 16 日 朝 68 度、日中 85 度、夜 80 度である

    [前略]大蝙蝠は毎夜飛び回っている。小さいものはあまり実見せず、私は地鼠はいるであろう

    と思っている。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    【19】10 月 17 日 半日雨東京大音氏より来電

    [前略]この頃丁度満月であるので大蝙蝠が飛廻っているのを月明りにより見ることができた。

    穴洞には小蝙蝠が多数いるそうである。猪は多数いるようで土が掘られている。

    【20】11 月 7 日

    [前略]

    大雨であったため一向に獲物が無く、大蝙蝠1羽、ヒワ等を得、すぐに帰り警察に赴く。[後略]

    【21】11 月 8 日

    大風に変った。南方の高地に赴いたが鳥は少なく、蝙蝠2羽を打落した。これで西表の大蝙蝠

    は2種6頭となる。

    1921 年(大正 10) 『折居彪二郎採集日誌』[石垣島]

    【22】11 月 19 日 雨降り

    [前略]

    八重山大蝙蝠は小形なものである。 FA,113 である。色彩は鮮明でない。

    【23】11 月 20 日

    [前略]大蝙蝠は2種で八重山大蝙蝠と称するのは前肢 130 ミリ以上で八重山蝙蝠と称するのは

    110 ミリ前後の2種である。

    【24】11 月 23 日

    [前略]八重山大蝙蝠3羽を見て2羽を得た。[後略]

    【25】1932 年(昭和 7)11 月[7日]□面 沖縄日日新聞

    動物分布に於ける 沖縄の自然的位置(三)  兼城校 玻座眞忠直

    [前略]

    (三)八重山大カウモリ=哺乳類の翼手類(八重山方言=カブル)

    日本では八重山群島と小笠原に産し、南洋方面に分布している。食物はガヂマルやフク木の実

    等の果実類で月夜によく飛翔する。

    [後略]

    1936 年(昭和 11) 『折居彪二郎採集日誌』[与那国島]

    【26】6 月 18 日 日中 90 度

    本日も昨日のように東方の山林に大蝙蝠を探して行ったところ、1頭がちょっと飛ぶのを見たが、

    木が茂っていて射撃不能であった。鼠は自家にて2頭を得た。大小2亜種である。

    【27】6 月 21 日 2時 90 度

    本日も東方の山林に行ったが、変った鳥を見なかった。大蝙蝠1頭を見たが逸した。

    1936 年(昭和 11) 『折居彪二郎採集日誌』[西表島]

    【28】7 月 9 日 89 度、

    [前略]早く帰る途中、大蝙蝠が高処の樹に垂れ下っているのを見付けて5号弾で射落す。

    【29】7 月 13 日 正午過ぎ 95 度

    大蝙蝠を獲るため長竿を携えさせビロー樹の上を隈無く探したが、遂に1頭も見えず、[後略]

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    【30】1936 年(昭和 11)11 月 12 ~ 17 日□面 沖縄日報

    本県動物分布の 特異牲と興味/(最近になされた研究調査の考察として)  那覇 はざま忠直

    [前略]

    (三)八重山大カウモリ―(八重山方言―カプル)哺乳類中翼手類

    [後略]

    考 察

    先の【2】(黒岩,1893)や 1894 年の『伊藤雑記』【3】を含めたこれらの記事から、石垣島、

    西表島、与那国島のオオコウモリの生息が確認される。これは今日のヤエヤマオオコウモ

    リの分布範囲に含まれる。

    折居は 1921 年(大正 10)の採集旅行で8月 30 日に石垣島に立ち寄った際、“石垣大蝙蝠”

    の情報を得ている【13】。そのオオコウモリは以前は多数生息していたようだが、当時は

    既に見ることができなかったとしている。今日のヤエヤマオオコウモリとの関係は不明で

    あるが、与那国島で捕らえたオオコウモリを“与那国コーモリ”としたり【14】、後日の

    石垣島での採集で石垣大蝙蝠に特に言及していないことを見ると、折居自身がその後、こ

    のオオコウモリの名称(折居が便宜的に付した可能性もある)や生息情報について、誤り

    であったととらえていたのかも知れない。

    折居はまた、この時の採集旅行において、毛の色や主腕の長さなどの差違に注目

    し、与那国島と西表島で2種のオオコウモリが生息しているとしている【17,21,23】。折

    居が八重山を訪れた当時、Andersen(1912)や黒田(1920)は2種のオオコウモリ(P.

    dasymallus と P. loochoensis)の分布を南琉球としており、黒田の依頼で琉球を訪れた折居

    にその情報があったか、もしくは滞在中に黒田によってもたらされたことは想像に難くな

    い。折居は 11 月 20 日の日記【23】で1種の主腕(おそらく前腕長の意味)を 130mm 以

    上、もう一方を 110mm 前後であるとしている。計測方法が異なる可能性は否定できない

    が、参考に当該種の計測値を示すとヤエヤマオオコウモリのオスの前腕長は 130 ± 6.02mm

    (サンプル数 n=3)、メスは 134.3 ± 4.55mm(n=5)、オキナワオオコウモリのオス亜成獣

    は 135.0mm、メス成獣は 142.5mm(何れも n=1)で(各々、Kinjo and Nakamoto, 2015:

    Kinjo, 2015)、折居の示した種とするものの一方はこれらより約 20mm ほど小さい。経験

    豊かな優れた採集家である折居がこのような間違いを犯すとも考えにくいが、記述には色

    彩が鮮明でないとあり、また目撃や採集の時期が 9 ~ 11 月であることから、ここでの 2

    種のオオコウモリとは単にヤエヤマオオコウモリの成獣と独立直後の幼獣ではないかと思

    われる。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    (6)大東諸島

    【31】1903 年(明治 36)7 月 3 日 2 面 琉球新報

    〇南大東島の農業(続き)  (那覇税務署技手玉那覇徹氏調査)

    △山林 南大東島の樹種は少くとも参拾種位ありてコバ樹は其主なるものにして全樹木の七割

    を占む高さ三四丈のもの多く恰も杉の如く直立し該島第一等の建築材にして其葉は瓦の代りに

    屋根を葺き可なりに強しと云ふ然れとも薪木用の樹木としては劣等なるべし其の他の樹種には

    カズマル、ヤマクス、カキ、ツゲ、ミカン、エノキ、キリ、ヤマキリ、クチナシ、センダン、

    等八九尺廻りの樹木少しとせす

    鳥類にはカラス、ヒヨドリ、メジロ、クロバト、ウグヒス、ホトヽギス等あり

    獣類には山羊と(之れは兼て県庁より放ちたるものが蕃殖せり)蝙蝠あるのみなり蛇へび

    と鼠ねずみ

    とは

    全く居らずと云ふ山林の副産物として輸出するはきくらげのみなり

    [後略]

    【32】1903 年(明治 36)7 月 17 日 3 面 琉球新報

    〇大東島  大東島探撿隊の一人某

    [前略]

    獣類は野羊の外蝙蝠あるのみ

    [後略]

    【33】1905 年(明治 38)11 月 23 日 2 面 琉球新報

    ◎予が観たる大東島(上)  半白漁郞

    [前略]

    ◎抑も此の遠き絶海の孤島を開たのは何人であるか[略]天然の動物は蝙蝠と「アンマク」の

    外は何も居ない特に鼠さへ全く居ないから甘蔗に害を為さない併し曾て探検者の放ちし山羊は

    山中に沢山潜伏せして居るとの事である

    【34】1909 年(明治 42)6 月 9 日 1 面 琉球新報

    〇南大東島の近況  松月

    [前略]

    ▲赤児の泣声と間違ふ鳥の鳴き声 仝島の山中には赤児の泣声と同し音声を発するカワオドリ

    と云ふ鳥あり又た猫の如き蝙蝠に大蟹等ありて夜中襲撃せらるゝことありと云ふ蝙蝠の両翼は

    長三尺六七寸大蟹の大なるものは一貫目位にて仝島へ始めて上陸せし当時は大蟹をウワバミと

    間違ひ居たりと

    [後略]

    1936 年(昭和 11) 『折居彪二郎採集日誌』[南大東島]

    【35】11 月 24 日 加能丸入る

    タカブシキ、大蝙蝠と眉白タヒバリを得た。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    考 察

    大東諸島に生息するオオコウモリの新聞記事について、本調査を行った中でもっとも古

    い記事は【31】の 1903 年(明治 36)である。これは玉置半右衛門が 1900 年(明治 33)

    に南大東島に入植し開拓を始めた3年後にあたる。大東諸島のオオコウモリは、1885 年(明

    治 18)に海軍水路局によって初めて行われた同諸島の調査報告の「獣ハ大蝙蝠ニ止リ」に

    見られ(海軍水路局,1885)、入植以前から生息していたことがわかる。ダイトウオオコ

    ウモリの記載は 30 数年後の 1921 年(大正 10)である(Kuroda,1921)。

    おわりに

    今回、琉球列島におけるオオコウモリの戦前の分布について明らかになった。1850 年代

    前半に奄美大島に生息していた可能性や 1893 年頃に沖縄島南部に生息していなかったこ

    と、1894 年頃に慶良間諸島に生息していた可能性など、クビワオオコウモリの過去の分布

    が近年の分布や生息状況と大きく異なる可能性が示唆された。現在見られるクビワオオコ

    ウモリの分布に関しては、分散や局所絶滅による分布の自然な拡大・縮小に加え、人為的

    な移入の可能性を含めて議論する必要があるだろう。また、オオコウモリの分類や分布に

    関する学会での混乱が、当時の沖縄の学識経験者などに少なからず影響を与えていたこと

    が見てとれる。

    謝 辞

    本稿をまとめるにあたり、インテムコンサルティング株式会社の樋野芳樹氏には一部の

    文献に見られるフランス語の解釈に際してご助力いただいた。森林総合研究所の安田雅俊

    博士には入手困難であった岸田久吉の文献のコピーをいただいた。琉球大学熱帯生物圏研

    究センターの戸田守准教授には奄美のユシキョに関する情報を教えていただいた。また沖

    縄県教育庁文化財課史料編集班の主査当山昌直氏、指導主事の小野まさ子氏、旧嘱託員の

    仲地明氏には有益な情報を提供していただいた。記して謝辞といたします。

    引用文献(※は資料を閲覧したウェブサイト。発行年は筆者が確認した年とした)

    Andersen, K. (1912) Catalogue of the Chiroptera in the Collection of the British Museum. Vol. I. Megachiroptera. 854pp. British Museum, London.

       (※ Biodiversity Heritage Library [http://www.biodiversitylibrary.org/bibliography/8322#/summary] 2015.11 確認)Bangs, O. (1901) Notes on a small collection of mammals from the Liu Kiu Islands. The American Naturalist 35: 561-562.船越公威・大沢夕志・大沢啓子(2012)沖永良部島におけるオリイオオコウモリ Pteropus dasymallus inopinatus

    の初記録と生息確認 . 哺乳類科学 52:179–184.

    Gray, J. E. (1870) Catalogue of Monkeys, Lemurs, and Fruit-eating Bats in the Collection of the British Museum. 137pp. British Museum, London.

       (※ Biodiversity Heritage Library [http://www.biodiversitylibrary.org/bibliography/9434#/summary] 2015.11 確認)

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    原田禹雄 訳注(1996)新井白石 南島志 現代語訳. 293pp. 榕樹社,沖縄.

    橋本信宏(1997)東アジア地域におけるオオコウモリの生態と農業におよぼす影響.東京農業大学修士論文.

    88pp.

    池原貞雄・下謝名松栄(1975)沖縄の陸の動物.143pp. 風土記社,沖縄.

    磯野直秀(2005)珍禽異獣奇魚の古記録.慶應義塾大学日吉紀要・自然科学 (37): 33-59.

    海軍水路局(1885)沖縄県官大東島渡航記事抄録.水路雑誌 (103): 1-8.

    河田党(1968)岸田久吉博士をいたむ.日本応用動物昆虫学会誌 12(3): 177-178.

    Kinjo, K. (2015) Pteropus loochoensis Grey, 1870. p.54, In: The wild mammals of Japan. 2nd ed. (Ohdachi, S. D., Y. Ishibashi, M. A. Iwasa, D. Fukui and T. Saitoh eds.). Shoukadoh, Kyoto.

    Kinjo, K and A. Nakamoto (2015) Pteropus dasymallus Temminck, 1825. pp.52-53, In: The wild mammals of Japan. 2nd ed. (Ohdachi, S. D., Y. Ishibashi, M. A. Iwasa, D. Fukui and T. Saitoh eds.). Shoukadoh, Kyoto.

    岸田久吉(1929)所謂ヤクカウモリの本體に就て.Lansania 1(9): 135-142.

    岸田久吉(1932)シシザルとは何か.動物学雑誌 44(529): 440-441.※国立国会図書館 HP(2016a)国立国会図書館デジタルコレクション/千蟲譜3巻[3](http://dl.ndl.go.jp/

    info:ndljp/pid/2576063?tocOpened=1)2016.2 確認※国立国会図書館 HP(2016b)国立国会図書館デジタルコレクション/百品考3編6巻(http://dl.ndl.go.jp/

    info:ndljp/pid/2555279)2016.2 確認

    國崎敏廣・船越公威(1996)屋久島で発見されたエラブオオコウモリ Pteropus dasymallus dasymallus について.哺乳類科学 35(2): 187-191.

    黒田長礼(1920)籾山氏採集南洋産哺乳類.動物学雑誌 (380): 199-208.

    Kuroda, N (1921) On three new mammals from Japan. Journal of Mammalogy 2(4): 208-211.Kuroda, N (1933) A revision of the genus Pteropus found in the islands of the Riu Kiu chain, Japan. Journal of Mammalogy

    14(4): 312-316.黒田長礼(1940)原色日本哺乳類図説.311pp. 三省堂,東京.

    黒岩恒(1893)球陽雑譚(第三稿).動物学雑誌 5(54): 123-126.

    黒岩恒(1898)球陽雑爼(第九巻第四八二頁の続き).動物学雑誌 10(111): 28-30.

    前田喜四雄(1997)日本産翼手目(コウモリ類)の和名再検討.哺乳類科学 36(2): 237-256.

    前田喜四雄・丸山勝彦(1993)ヤエヤマオオコウモリの宮古島からの記録.沖縄生物学会誌 (31): 63-65.

    永井亀彦(1929)宝島のオホカウモリ.Lansania 1(10): 146.

    中本敦・佐藤亜希子・金城和三・伊澤雅子(2009)沖縄諸島におけるオリイオオコウモリの分布と生息状況.哺

    乳類科学 49(1): 53-60.

    中本敦・佐藤亜希子・金城和三・伊澤雅子(2011)沖縄島で近年見られるオリイオオコウモリ Pteropus dasymallus inopinatus の個体数の増加について . 保全生態学研究 16:45-53.

    波江元吉(1909)沖縄及奄美大島の小獣類に就て.動物学雑誌 252:452-457.

    Nishinakagawa, H., M. Matsumoto, J. Otsuka and S. Kawaguchi (1994) Mammals from archaeological sites of the Jomon period in Kagoshima prefecture. J. Mamm. Soc. Japan 19(1): 57-66.

    岡徹(1994)コウモリ2種を伊良部島から記録.沖縄生物教育研究会誌 (26): 9-11.

    岡田信利(1891)日本動物總目録 有脊椎部.125pp. 金港堂,東京.

    大沢啓子・大沢夕志(2013a)宮古諸島におけるヤエヤマオオコウモリ Pteropus dasymallus yaeyamae Kuroda, 1933(翼手目:オオコウモリ科)の分布について.Fauna Ryukyuana 4: 1-3.

    大沢啓子・大沢夕志(2013b)久米島におけるクビワオオコウモリ Pteropus dasymallus Temminck, 1825 ( 翼手目: オオコウモリ科 ) の分布について . Fauna Ryukyuana 4: 9–11.

    大沢啓子・嵩原建二・山城正邦・四方正良・大沢夕志(2013)粟国島におけるクビワオオコウモリ Pteropus dasymallus Temminck, 1825 ( 翼手目 : オオコウモリ科 ) の初記録 . Fauna Ryukyuana 4: 5–7.

    酒井卯作(2002)琉球列島民俗語彙.627pp. 第一書房,東京.

    高良鉄夫(1969)琉球の自然と風物―特殊動物を探る.206pp. 琉球文教図書,沖縄.

    Temminck, C. J. (1827) Monographies de Mammalogie, ou description de quelques genres de mammiferes, dont les especes ont ete observes dans les differens musees de I'Europe. I. 268pp.

    Temminck, C. J. (1842) Mammiferes. 1-59. In: Siebold's Fauna Japonica. Leyden.   (※京都大学電子図書館 貴重資料画像/京都大学所蔵資料でみる博物学の時代/日本動物誌 [http://edb.

    kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/index.html] 2016.1 確認)

    土屋公幸・鈴木仁・原田正史・宗近功(1995)オオコウモリ類の遺伝的変異(クビワオオコウモリ・オガサワラ

    オオコウモリ).pp.71-85. 平成6年度希少野生動物の遺伝的多様性とその保存に関する研究(1)希

    少野生動物の遺伝的多様性に関する研究 希少野生動物の遺伝的多様性の現状把握報告書.自然環境

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    研究センター,東京.

    当山昌直(1981)宮古群島の哺乳類について.沖縄生物教育研究会誌 (14): 12-14.

    当山昌直(2015)琉球と琉球列島.pp.16-26.沖縄県教育庁文化財課史料編集班編,沖縄県史 各論編1 自然環境.

    沖縄県教育委員会,沖縄.

    当山昌直・小野まさ子(1997)伊藤篤太郎琉球八重山列島動植物採集雑記の翻刻と解題.沖縄県史研究紀要

    (3): 55-64.

    山田島崇文(2013)2011 年2月の屋久島におけるエラブオオコウモリの記録.鹿児島県立博物館研究報告 (32):

    51-52.

    山形賴治(1929)鹿児島縣下のオホカウモリ.Lansania 1(9): 130-132.

    安間繁樹(1985)アニマル・ウォッチング―日本の野生動物.271pp. 晶文社,東京.

    米田英明(2012)渡嘉敷島におけるクビワオオコウモリの初記録 . 沖縄生物学会誌 50: 99.

    Yoshiyuki, M (1989) A systematic study of the Japanese Chiroptera. National Science Museum monographs 7: 1-242.

    追 記

    本論を脱稿後、以下の重要文書が見つかったので紹介する。

    1830 年(天保元)〜?年編纂 『山海庶品』(水戸市立図書館 HP,2016)

    白蝙蝠 述異記

    八重山被

    成裕曰白蝙蝠別ニ一種ナリ薩州ノ南嶋八ヤヤヤマ[ママ]

    重山ニ出ツ琉球ノ諸嶋ニ多ク産ス薩州ノ人彼ノ嶋中ヨ

    リ携来テ畜フ其大サ六七寸首大シテ目猿ノ如ク両翼蝙蝠ノ如ク脚モ亦相同シ歯牙ハ鼠ノ如ク好

    テ甘藷ヲ噛テ汁ヲ吸テ其滓ヲ吐ス蝙蝠ト大ニ異リ琉球ニ在テハ古度子ヲ食ス薩藩ノ伊集院與市

    掌テ被ママ

    ノ嶋中ヨリ得ル雌ニシテ二児アリ両乳ヲ含テ倒掛テ母ヲ不離其児ヲ畜□□ク馴染シテ不

    去予カ親識芝門ノ櫟翁モ黒斑□□求得テ畜フ冬中ハ籠内ニ藁ヲ以テ巣ヲ造リ常ニ火炉ヲ置テ火

    気ヲ以テ温煖ナラシム久ク活ス冬中モ甘藷ヲ与フ純白者稀ニアリ黒白相雑ルモアリ案ルニ諸家

    ノ説皆山洞石屈者如鴉大ナリ皆人家簷間ノ蝙蝠ト大ニ異リ近来ハ稀ニ有之八ヤヤマカウムリ[ママ]

    重山被ト云

    [後略]

    考 察

    水戸市立図書館ウェブサイトによると、『山海庶品』は、本草学者であった佐藤中陵(名

    は成裕)によって 1830 年(天保元)に編纂が始められたもので、植物、動物、金石を図

    に示し、その性質や効用が詳しく記されたものである(水戸市立図書館 HP,2016)。

    『山海庶品』に八重山被(ヤエヤマコウモリ)のことが記されており、薩州人が飼養の

    目的で琉球諸島から持ち込んだことがわかる。文書には飼養の様子も記され、さつまいも

    を餌としたことや冬期に藁や火炉を用いて暖をとらせていたことがわかる(31)

    記述の内容がいつ頃の様子かは不明だが、佐藤中陵は 1781 年(天明元)に薩州侯に招かれ、

    薩摩に2年間滞在したことから(水戸市立図書館 HP,2016)、その時の見聞である可能性

    は高いと思われる。これは、Temminck が Pteropus dasymallus の分布地に薩摩や屋久島を示した 1842 年以前にあたる

    (32)

    (31) 永井(1929)は、宝島で捕獲したオオコウモリを(おそらく)鹿児島に持ち帰り(永井は、鹿児島県立第一鹿児島中学校に所属)飼養したが、1月初旬の寒気で斃死したとした。また、「オホカウモリの寒気に対する抵抗力より見るも口之永良部島以北には生息せざるものと想像せらる」としている。

    (32) それ以前に示された分布地は、「長崎・江戸」、「日本」がある(Andersen,1912 の学名リストより)。

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    沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

    先に示したように、オオコウモリは奄美以北の地域で飼養の記録があり、1900 年代初期

    の研究者には飼養やそれに伴う移入の可能性に言及しているものもいる(33)

    。『山海庶品』の

    記録から、薩摩の P. dasymallus は飼養目的の移入に由来するものであったことは確実であろう。採集地は具体的に示されていないものの、「琉球ノ諸嶋」

    (34)

    とあり、これには薩摩藩

    の版図であった大隅諸島やトカラ列島は含まれない(35)

    。このことは、屋久島や口永良部島

    には当時またはそれ以前からオオコウモリが生息していなかったことを示唆するものとも

    考えられる。オオコウモリが在来であったならば、琉球から取り寄せる必要も無く(36)

    、何

    らかの記録が存在するのではないだろうか。また、オオコウモリの生息していなかったこ

    れらの地域へ鹿児島本土から人為的に伝わった可能性も否定できない(37)

    以上のことから、鹿児島県下のクビワオオコウモリ(エラブオオコウモリ)について、

    今後人為的移入の可能性も視野に入れた検討が必要である。

    資料閲覧および引用(※は資料を閲覧したウェブサイト。発行年は筆者が確認した年とした)

    船越公威・國崎敏廣(2003)エラブオオコウモリの測定形質と分類学的位置づけ.pp.7-11. 鹿児島県上屋久町教

    育委員会編,エラブオオコウモリ天然記念物緊急調査報告.鹿児島県上屋久町教育委員会,鹿児島.※水戸市立図書館 HP(2016)水戸市立図書館/貴重資料コレクション [http://www.library-mito.jp/contents/

    kityou/] 2016.2 確認※沖縄県立図書館 HP(2016)沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫 [http://archive.library.pref.okinawa.

    jp/?type=book&articleId=61113] 2016.2 確認

    土屋公幸・篠原明男・船越公威・國崎敏廣(2003)エラブオオコウモリの遺伝的多様性について.pp.12-17.鹿

    児島県上屋久町教育委員会編,エラブオオコウモリ天然記念物緊急調査報告.鹿児島県上屋久町教育

    委員会,鹿児島.

    (33) 岸田(1929)は、「八重山地方や口之永良部あたりの大蝙蝠が長崎・鹿児島などにもたらされ飼養されて居たことに不思議はない。」としている。

    (34) 今日、「琉球諸島」は国土地理院の区分では沖縄県域の島嶼を指し、大隅〜奄美諸島は薩南諸島に区分される。一方、1897 年以降、科学系の文献に大隅・トカラ・奄美諸島を「琉球弧島」や「琉球列島」に含める区分が見られる。当山(2015)は、歴史的および自然科学的な視点からこれらを整理し、大隅諸島以南から台湾に至る島々(大東・尖閣諸島を含む)を琉球諸島とすることを提唱している。

    (35) 1873 年(明治6)に大槻文彦が著した『琉球新誌 上』に「琉球諸島ハ、九州南海諸島ノ南ヨリ起リ」とし、トカラ列島の宝島と奄美大島の間を薩摩と琉球の境としている(沖縄県立図書館 HP,2016)。また、1867 年(慶応3)に作成された最も古い官製地図『官板実測日本地図』も奄美諸島以南を琉球諸島に区分している(当山,2015)。したがって、『山海庶品』の編纂が始まった 1830 年(天保元)、またはそれ以前にもこの区分に従っていたことは確実であろう。なお、『琉球新誌 上』は、琉球諸島のうち、北部(奄美諸島)は鹿児島県に含まれるとしている。

    (36) 『山海庶品』や『南島志』など江戸時代の記録には八重山蝙蝠の大きさに関することが示されている。これはオオコウモリの形態が初めて見る人に強いインパクトを与えたためであろう。大隅諸島に在来で生息していたのであれば薩摩藩に何らかの記録が残っているはずである。なお、船越・國崎(2003)は、前腕長の比較結果に基づき、国内のオオコウモリは北に生息する亜種ほど体サイズが大きくベルクマンの規則が成立すると指摘しており、エラブオオコウモリが最も大きいとする結果を報告している。

    (37) ミトコンドリア DNA(D-loop 前半部 429 塩基対)の比較では、エラブオオコウモリ(サンプル数n=6)とヤエヤマオオコウモリ(n=1)には 1.4%の遺伝的な変異が認められるものの、エラブオオコウモリの個体間では変異が認められないことが報告されている(土屋ら,2003)。エラブオオコウモリの遺伝的多様性の低さは、本亜種の起源が移入によることに起因する可能性も議論される必要があろう。