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Title 趙友欽の天文學 Author(s) 新井, 晉司 Citation 東方學報 (2009), 84: 55-89 Issue Date 2009-03-30 URL https://doi.org/10.14989/134682 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 趙友欽の天文學

Author(s) 新井, 晉司

Citation 東方學報 (2009), 84: 55-89

Issue Date 2009-03-30

URL https://doi.org/10.14989/134682

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

Page 2: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

東方學報

京都第八四冊

(二〇〇九二

五五-八九頁

趙友欽の天文學

新 井 晉 司

はじめに

1 宇宙像

■ 大地像

皿 觀測器械

W 月の滿ち缺けと食

V 書名の意圖

おわりに

はじめに

めずらしくも、元

の道士の趙友欽を描

いた省像がある。圖1がそれであ

る。この省像は、彼

の現存する逍教著作

『仙佛

同源』

(『道範正宗五經四書大全』所收)に附された圖で、彼

の活動が宗敏と天文學

の兩分野にまたが

っていることを、まこと

に端的に表現している。

趙友欽は科學史

にお

いては、『革象新書』と

いう

ユニークな天文學書を著しており、十

四世紀前牛

の中國

で光學實験を

おこな

ったこと

でも、圓周率

の計算

でも注目されてきた。道教史

にお

いては、道教と佛教

の融合を読

いた内丹派

の道士と

して、全眞敏南北二宗

の陳致虚

の直接

の師とし

て知られて

いる。

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東 方 學 報

,h鑄

瞬F

欝諺蠶

.ー

瀬,ー

圏臨i繭r墅__肉 一=蠍 認澗日廓

人 爽 趙 百一 筍 ・場

鞴 鶯罵 置贋置 騾瀬、藤蘿

-

懿傭瀁灘海 醗

殫止〃L ノ

驤儺鑼

瓣 謬娩L、

髴鞴劉 縱

a,

騰繍饕

懃愚勿

縦嬰圖1 趙友欽(『仙佛 同源』 より)

名。世に縁督子、趙眞人と呼ばれた。右

の二句は、弟子

の陳致虚

の著述中に見えることば

でもある。

趙友欽

の左右には、佛藏經と道藏經が置かれている。さらに圖

の下部には、燭臺

の載

った圓卓であろうか、それをかこ

む四人

の人物

(弟子か?)が

いる。圓内

には

「仙佛同源」と

いう大きめ

の文字が見え

る。

いずれも、仙

11道敏と、佛

-ー佛

が同源であ

ると主張し

『仙佛同源』を著した彼

の宗教思想を示すも

のである。圓卓内

の八行にわたる文章は、右牛分

が佛教

の寶珠を読

いたも

の、左孚分が道教

の寶珠を説

いたも

のである。そ

一文を右囘り

に記す

(/は改行を示す)。

中央

に坐す人物が趙友欽

である。こ

の圖

の上部

は彼

の天文學を、下部は宗教思想を表している。

趙友欽

の背後

の家屋

の軒に

つるされた黒球に注目

してほし

い。彼

この黒球を使

った簡單な實

で、月が太陽

の光を反射して輝

いていること

や月

の滿ち缺けを、わかりやすく解詭した

(第W節參

照)。當時

の中國

にお

いては、目立

った

天文學

業績

であ

った。

黒球

の左右

の文字はそれぞれ、「以革象誨人」

「縁督

用黒漆毬

於簷下映

日」

(『革象新書』を著して

人々に敏えた。緑督は黒い漆塗りの球を軒下で日光に反

射させた)とあ

る。緑督は、趙友欽

の字。友欽

〔3)

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釋迦

之號

日牟

/尼珠

又日如

珠。牟

/尼

、龍女

所獻

也。

如/

意者

、姥

女所

配也

。/

(釋迦がこれを得て牟尼珠と呼

び、また如意珠と呼ぶ。牟尼は龍女の獻じたもの、如意は姥女の配したも

のである。)

日寶

/

日黍

。宝

/

、真

紋也

。黍

/米

、金

丹也

(元始天璽がこれを得て寶珠と呼

び、また黍米珠と呼ぶ。寶珠は眞旡…が丸く結晶したもの。黍米は金液が還流されて丹とな

ったものである。)

趙友欽の天文學

この

一文

の意味するところは、釋迦が得た寶珠を

「牟尼珠」「如意珠」と呼び、元始天隼が得たものを

「寶珠」「黍米珠」

と呼

ぶが、じ

つはどちらも本來同

一のも

のである。

つまり、兩宗教

の寶珠を同

一と見なすことで、道佛兩教

の融合を詭

た趙友欽

の宗教的主張

の要諦を表すも

のである。寶珠と佛教を練丹術

の體系に組

み入れてい

った趙友欽

の思想

ついて

は、野村英登

「趙友欽

の内丹思想」が論じている。

ところで、趙友欽

の生涯に

ついてはすでに拙稿

「趙友欽

の生涯」

で論じたので、本稿では彼

の天文學

に焦點を當てて論

じることにしよう。本稿

では、彼

の天文學を

『革象新書』

にもとづき、次

の諸點

に分けて檢討する。

(1)

趙友欽

の獨自

の宇宙構造説を、宇宙像と大地像に分けて紹介す

る。彼

の宇宙構造説は、中國

の代表的な宇宙構造

説である渾天説を

一部變更した特異な説である。大地像もまた、道敏と佛教

一致を詭

いた宗敏思想を受けて、

道佛を考慮

した折衷的な大地像とな

っている。

(2)

その獨自

の宇宙構造読に適合することを目的に彼がみずから發案した天文器械。

(3) 月の滿ち缺けと日月食にかんする彼

の考え。

(4)

『革象新書』と

いう書名を

つけた意圖。

(5) 各種

の天文現象を簡單な器具を使

って論明する模擬的な實験

(シミュレーション)を數種紹介する。

57

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東 方 學 報

趙友欽が工夫した實験とし

ては、ピ

ンホール實験

(卷五

「小罅光景」)がな

によりも有名

である。このピ

ンホール實験

かんし

てはすでに專論がある

ので本稿では言及しな

いが、かわ

って次

の數種

のシミ

ュレーシ

ョンを紹介しよう。

・透明な紙と不透明な紙を使

って、趙友欽獨自

の宇宙像

にもとづき、月

の高低

の變化を読明する。

(第-節)

・日月にたとえ

て圓く切り拔

いた紙を使

って、太陽の實直徑

は月の二倍があるが、太陽は月よりも遠くにあるために、

兩者

の見かけ

の直徑がほぼ等

しく見えることを解読する。(同前)

・月にたとえた黒

い漆塗り

の球に日光を反射させることで、月が太陽光を反射

していることや、月

の滿ち缺けの變化を

現す

る。

(第W飭)

一本

のヒ

モに、日

ぞらえ

二球を

つるし

て、

日食

の見え

を解

説す

る裝

(同前)

・木

の圓盤

二枚

を使

って月

食を

シミ

ュレ

ーシ

ョンす

る。

(同前)

これら

の器具を使

って天文現象を模擬的に再現する實験は、

一部を

のぞき前例がほとんど見られな

いことから、彼獨自

アイ

デアと考え

られ、中國科學史上高く評價

される

べき

である。同時

に、これら

のシミ

ュレーシ

ョンとピ

ンホール實

は、まぎれもなく十四世紀

の中國において、實験的方法を通じてよりよく自然を理解しようとする態度が、存在して

いた

ことを示す確かな證據でもある。

趙友欽

の天文學

にかんす

るおもな先行研究には、潘薫、李迚、中國天文學史整理研究小組編著

『中國天文學史』、薄樹

人、王立興、劉鈍などによる考察があるが、多くは數頁

の言及であ

ったり、部分的に取り上げ

るにとどま

っている。した

って、本稿

の特色

は、趙友欽

の天文學を

できるだけ總合的

に論じようと試みたことにある。

なお、

『革象新書』

には、原本

(五卷本)と節略本

(二卷本)がある。本稿

の卷數と葉數

の表示は、『文淵閣四庫全書』

(臺

灣藝文印書館、

一九八六年)第七八六冊所收

の原本によ

っておこなう

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1 宇宙像

趙友欽の天文學

宇宙はどのような構造な

のか、天地はど

のような仕組みにな

っているかを読明する宇宙構造読は中國

でも古くから發逹

しており、それにかんす

る現代

の論考もす

でに相當な數

にのぼ

っている。趙友欽もまた彼獨自

の宇宙構造読を主張してお

り、そ

の主張をおも

に卷

「天地正中」

「地域遠近」でのべている。兩篇にもとつ

いて作圖したも

のが、圖2である。彼

のこの宇宙構造読を理解するためには、最初に、彼が下敷きとした渾天読を手短

に紹介することからはじめなければなら

い。渾天説は中國

でおこなわれた複數

の宇宙構造読

のなかで、も

っとも廣くおこなわれた読である。

前漢

の時代には、天が地の上に笠

のように廣が

っているとする蓋

1

齲+〆

丶/

/

/ /

/

/

榊+

B

/

西

圖2 趙友 欽の宇 宙構 造読(筆 者畫)

A:地 中(陽 城)

B:崑 崙

C,四 海の 中心(天 竺 以北.崑 崙 以西)

天説がおこなわれていたが、まもなく渾天読が提唱されるよう

にな

る。渾天説がど

のようなものであるかを知るには、渾天諡

の代表的

著作である後漢

の張衡

『渾儀注』が最適であ

る。圖3に示したよう

に、張衡など

の渾天家

の主張

によると、天は球形で、南北極を軸と

して

一日

一囘轉している。球形

の天の内外には水があり、大地は天

の内側のち

ょうど牛分を滿たす水

の上

に載

っている。これをたとえ

て宇宙

の形状は鷄卵

のようであり、天は卵殻であり、大地はそれに

つつまれる卵黄

のよう

であ

ると

いう。天地を鷄

の卵

にたとえ

るの

は、渾天家

が常用するたとえ

である。

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東 方 學 報

圖3 渾天説(筆 者畫)

と渾天読

のあ

いだに論爭がはじまり、やが

て南北朝時代ともなると、

の諸読をもまじえ

て論爭は

つづく。宣夜読以下の諸読をまじえた論爭に

ついては、

に詳し

い。そ

の後、渾天説

の優秀

さが證明されるよう

にな

って、

る。さらに宋代

には、中國

の宇宙構造読は張載や朱熹

など宋學

の思想家たちに引き繼がれてゆく。彼らは氣

の概念を逋用

して宇宙

の生成と構造を明らかにしようと

つとめ、渾天諡を

っそう進展させた。

趙友欽は元朝

の暦

である授時暦とあわせ

て、朱熹

など宋學

の天文學

の影響を爰け

ている。も

っとも顯著

な影響と

して

は、宋學者が唱え

「日月左旋諡」、すなわち日月は天と

っし

ょに東から西

へ移るとする読を趙友欽も繼承する。これ

にた

いし、唐代以前

の渾天家

や蓋

天家、それに暦法計算に從事した暦家

「天左旋

・日月右旋読」、すなわち天は東から

一見すると、渾天説は卵黄

のたとえによ

って、大地も球形だと考

ていたように思われるが、

一般

に渾天家

「地球」、

つまり大地

を球とみなす觀念を有しておらず、傳統的に平面と考え

ている。趙

友欽もまた大地を平らであると考え

ていたことは聞違

いな

い。その

ことは、人聞世界を平面と考え

て大地を卒らな木板にたとえ

ている

ことや

(卷

一・天道左旋)、月食がなぜ起き

るかを檢討し

ている箇所

で、陽城

(河南省)の地形を觀測し

て大

の形状を平面と結論づけ

いることからも、彼がそう考え

いたこと

がわか

(卷三

・日月

薄食)。

さて、こうして漢代には、周代から存在したと考えられる蓋天説

この二論以外に宣夜論や安天諡、穹天論、听天読な

『晉書』

『隋書』

の天文志

・上

・天體

のこ

ろま

でに

は渾

が他

排除

るよう

にな

(11V

60

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趙友欽の天文學

西に進むが、日月は逆

に西から東

へ進むと

いう立場にた

っていた。趙友欽は、日月右旋読は暦家が計算を簡略化するため

に採用してきたと

いう。

二に、舊來

の唐以前

の渾天読では、そ

の構造の前提として、天を個體と見なし、日月

五星はその個體としての天

の表

に附着

していると考えた。したが

って日月五星は天の表面を移動すると考え

ていた。しかし趙友欽はおそらく朱熹ら

影響として、天の個體性を否定している。それ故くりかえし

「日月は虚空にかか

っていて、天には附着し

ていな

い」と

い、日月は天地

の氣

によ

って、天と同方向

に左旋

して地を

めぐると考えた。彼は五星に

ついても同樣

であ

ろうと

のべて

いる。

趙友欽

が日月五星が天に附着しておらず盧空

に淨かんでいると

いう認識に

いた

った點は重要

である。と

いう

のは本節

最後でのべるように、趙友欽は太陽から大地ま

での距離は、月

のそれ

の二倍あると

いう獨自

の見解を提出している。この

ような宇宙空聞における大地から太陽や月までの距離を相對化すると

いうような試みは、過去

の日月五星が天に附着

して

いると

いう認識と決別しなければ

できな

いから

である。

ひき

つづき、圖2にたいし補足的な読明を少

々加え

ておこう。圖2にお

いて、天を破綫

で描

いて

いるのは、上述

のよう

に、趙友欽

が天を固體と考え

ていなか

ったことを示すためである。また、渾天論と同樣に、趙友欽が大地を淨かべる牛球

の水

の存在を考え

ていたことは、地と水

の關係を、けまり

の孚分までに水を入れ、そ

の水に浮かぶ木片とし

てたとえ

いることからわかる

(卷

一・天道左旋)。

一方、趙友欽は張衡

いう

天の外側

に存在す

る水

ついて觸れ

ていな

いので、圖

2には天の外側

の水

は表示し

ていな

い。張衡

のいう天

の外側に存在する水とは、おそらく雨や雪や霧

のことであり、内側に存在する水とは地下水や川や海

ことを

いったも

のであ

ろうと想像

される。朱熹

はすでに張衡

のいう天の外側

の水を想定しては

いな

い。したが

って、趙友

61

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東 方 學 報

欽もまた氣

につつまれ

て大地を載せている水だけを想定していたはず

であ

る。

次に、圖中に見え

「天中」は天の中心

・宇宙

の中心

のことであり、「嵩高」は今

でいうところの天頂である。

以上で趙友欽

の宇宙構造読を檢討するための準備は整

った。それではさ

っそく、圖2の趙友欽

の宇宙構造諡と、圖3の

從來の渾天詭を比較し

てみよう。くら

べてみると、なにが

一者大きく違

っているのであ

ろう

か。圖

3の渾天詭

のなにを修

正した

のであろうか。

兩者

の大きな違

いの

一つは、大地

の位置を天の中心

(天中)より下に下げた

こと

にある。さらに二

つ目

のきわだ

った違

いは、彼

の大地像

にある。彼は大地

には、

(A)地中である陽城、

(B)崑崙、

(C)四海

の申心と

いう三

つの特徴的なポ

ントがあ

ると

いう

のであ

る。手はじめに本節

では、大地を天の中心より下に下げた彼

の宇宙像を取り上げて檢討するこ

とからはじめよう。

そもそも、彼は

いった

いなぜ、大地を天中より下げた

のであろう

か。そ

の答えを知るために、「天地正中」篇

の彼

の説

に耳を傾け

てみよう。

遠くから物を視れば小さく、近くから物を視れば大きく見写える。だから、正午

の太陽

の大きさはお盆くら

いの大きさ

しかな

いが、日出と日入

のときの太陽

の大きさは車輪ほどにも大き

いのである。正午

の太陽

のほうが人から遠く離れ

ていることは聞連

いな

い。それにもかかわらず東西

のほうが人から遠

いのではないかと

いう疑

いを持

つのは、正午

太陽が熱くて、ちょうど火が人

の近くにあることに似

ているためである。これは太陽が長時聞照

れば暖かくなること

を知らな

いから

で、遠

い近

いと

いった距離によ

って論じられること

ではな

い。星

々が高く昇

って高度が高くなれば、

の星

々の聞隔が狹く見え、低くなればそ

の星々の問隔が廣く見える。この事實

によ

って考え

れば、天頂は遠くにあ

り、東西南北方向

は近

いのである

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趙友欽の天文學

趙友欽

の主張を要約すれば、次

のごとくである。物は遠ざかれば小さく見え、近づけば大きく見え

る。日中

の太陽の大き

さの變化を觀察してみると、正午

のとき

の太陽

の大きさはお盆

の大きさしかな

いのに、朝と夕方

の太陽はそれよりもず

と大きく車輪

のよう

に見え

る。と

いう

ことは、正午

の太陽の位置は、朝夕

の太陽より、より遠くに位置しているはず

であ

る。さらに、夜間に星と星

の聞隔を觀察してみても、星

々が天頂附近にあるときはその星

々の聞隔は狹

いが、同じ星

々が

地平綫附近

にあるときは、その聞隔は廣

い。だから、わたしたちが住む大地から天までの距離は、天頂方向が遠く、地卒

綫方向が近

いのであ

る。

そう考えた趙友欽は、圖2に示したよう

に、渾天読の大地

の位置をずらずと

いう獨特

の工夫

に出た。まず大地

の位置を

天の中心である天中より下げ

ることで、大地から天頂ま

での距離を遠くした。同時

に、大地

の位置を下に下げたことで、

必然的に大地から地平綫までの距離が近くな

った

のである。こうすること

で、正午

の太陽はより小さく、地卒綫附近にあ

る太陽はより大きく見え

ることが合理的に読明

できるとした。

以上をまとめてみれば、大地

の位置を天中より下に下げた結果、天頂ま

での距離は、東西方向よりも遠くな

ったのであ

る。しかも

こうすると彼

の宇宙像

では、地上に見え

ている天の割合は、地下に隱れて見えな

い天

の割合

よりも多くなると

いう特徴がある。「天地正中」篇

で、「地上

の天は多く、地下の天は少な

い」(地上天多、地下天少)と

いっているのは、ま

にその特徴を

のべた句

である。

それでは、實際に私たちが肉眼で空を見

てみると、朝夕と正午

の太陽

の大きさは、そんな

にも違

って見え

るも

のであ

か。じ

つは、なんの工夫もなく見てみると、たしかに朝夕

の太陽

の方が大きく見えるよう

に感じる。朝燒け

や夕燒けの

ときの眞

っ赤な太陽が、普段

よりも大きく感じられて感動したと

いう經験を持

つ人は少なくあるま

い。しかし、太陽

の大

きさが異な

って見えるのは錯覺

である。實際に定規などを手

に持

って大きさをくらべてみれば、

つね

に太陽

の大きさがほ

63

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東 方 學 報

太陽

見る人

圖4 地平綫 近 くの 太陽 は大 き く見 える(鈴 木敬 信 『は じめ ての 天文

學』九 三頁 よ り)

=疋であ

ることが簡單にわかる。

朝夕と正午とで太陽

の大きさが逹

って見え

る理由は、わたしたちが空を見たとき、空

が少し平たく見えることと關係があるようである。實際に屋外に立

って空を眺めてみれ

ばわかるように、わたしたちの目には、空は完全な孚圓とは見えず、むしろ平たく見え

る。このことを、今

日では圖4のよう

に詭明して

いる天文學

の書籍もある。圖

の實綫A

BCDEは、わたしたちが感

じる見かけの空

の形

であ

る。太陽ま

での距離は晝

でも朝

も夕方

でもそれほど違わな

いので、實際

には太陽は觀測者0を中心とした牛圓上

(破綫)

を動

いている。ところが、わたしたちは無意識

のうち

に、太陽を見かけ

の空に投影し

てしまう。その見かけの太陽

の大き

さを示したのが、圖中

のBCやDEであ

る。天頂

のBCと、地平綫近く

のDEをくら

べてみれば、地平綫近く

DEのほうが太陽が大きく

見え

ることがわかるだろう。

ふたたび、趙友欽

の宇宙像

にもどろう。面白

いこと

に、趙友欽は上記で引用した

「天

地正中」篇

で自説に對立する読、すなわち地平綫までのほうが、天頂までの距離よりも

いとする読にも言及している。氣温

は正午

の頃

のほうが暖かく、朝と夕方は塞

い。そ

こで、火は、火から遠ざ

かれば塞

いが、近づけば暖

かくな

ると

いう

日常體験

の類推か

ら、正午

の太陽

のほうが朝夕

の太陽よりも人

の近くにあると考える論

である。この諡に

いして彼は、太陽が長時聞にわた

って照るために、正午頃になると氣温があがるので

って、氣温

の上昇は太陽ま

での距離とは關係がな

いと反論している。

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趙友欽の天文學

つは、

一詭が太陽

の見かけ

の大きさを根據

に、他読が

一日の内

の寒暖

の變化を根據にし

て、地罕綫方向

および天頂方

の距離を論ず

る對立

には、漢代から隋唐

まで幾度となく繰り返された論爭が下敷きとしてある。南北朝時代を

つうじ

て、この自然現象は宇宙構造詭を決定するため

の重要な根據となる現象であ

った。とりわけ傳統的な渾天詭の主張

では、

大地

の中心から上下および東西南北ま

での距離は等しくなければならなか

ったから、この問題は多く

の人物

によ

って、大

の影響や目の錯覺などさまざまな角度から論

じられてきた。そ

の論爭

の經過は、

『隋書』天文志

・上

・天體

に詳述され

ている。

『隋書』

の同じ箇所

には、後漢

の桓譚

『新論』が引用されている。その

『新論』には、趙友欽と同じく、大地から天頂

への距離

のほうが四方までの距離よりも大き

いとする読が紹介されている。趙友欽は

『隋書』

の論爭に

ついてなんら言及

をし

ていないが、この

『新論」

の記事から自詭

の着想を得たのかも知れな

い。

また、さらに

『隋書』同箇所には、朝夕と晝とで太陽の大きさに變化がな

いことを、すでに南北朝時代に姜岌

(四世紀

後牛に活躍)が、地平綫附近

にあ

るとき

の星

々の間隔と、同じ星

々が天頂附近に上

ってきたとき

の閲隔を調べ、こ

の現象

が目の錯覺

にすぎな

いことを指摘している記事も見え

る。

これら

の記事

の存在をあわせ考え

て不思議に思う

のは、ピ

ンホール實験をはじめ諸實験を考案した趙友欽が、なぜか姜

がおこな

ったよう

に、太陽

の見かけ

の大きさを實測す

ると

いう簡單な作業をしていな

いことであ

る。もし、實際

に朝夕

と晝閲

の太陽

の見かけ

の大き

さを測

っていれば、彼

の太陽

の大きさ

の變化

の詭明はも

っと違

ったも

のにな

った

であ

ろう。

いては彼

の宇宙像も異な

っていたかも知れな

い。

本節を締めくくるにあたり、彼

の模擬實験を卷三

「目輪分視」から示す

ことにしよう

(圖5)。これは彼獨自

の宇宙像

って月の位置を觀測すると、月の高度がどう變化し

て見えるかを読明す

るも

のである。

一種

の視差を諡明す

る器具と

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東 方 學 報

高頂

嵩天

圖5 大 圓(眼 輪)の 中心 を,天 中 よ り

下 にさげた ところ(筆 者畫)

が地中に重なるようにする。

こうしてふたたび大圓に投影される月

の位置を觀察すると、

ある月は位置を變えず

に天頂

にあるが、しかし地平綫近くにある月

のばあ

いは、

るのである。

このような方法

によ

って、彼

の宇宙論による月の見かけの高度愛化を諡明した

のである。

このほか同篇では、右と同じ紙を使

って、太陽

の實直徑は月

のそれより大き

いが、距離

の遠近

によ

って兩者

の見かけ

直徑が等

しく見えることを諱明して

いる。すなわち、太陽

の實直徑は月

のそれ

の二倍あり、しかも太陽―大地聞の距離

も、月ー大地聞

の距離の二倍あるために、兩者

の見かけ

の直徑が等しく見えることを読明する。そ

のやり方は、右

の模擬

實験

で使

った車輪

のような紙

の上

に、月にたとえた黒

い圓

い紙を大地の近く

に置き、

ついで太陽にたとえた黄色

い圓

い紙

を月よりも適宜遠く

に置くこと

で、兩者

の見かけ

の直徑が等しくなることを説明する。太陽

の實直徑は月

のそれ

の二倍と

いう趙友欽

の考え

は、第

W節

の月食

のシミ

ュレーシ

ョンの箇所

で、授時暦が太陽

(闇虚)の度數を

二度、月

の度數を

一度

っても

いだ

ろう

はじめに紙に車輪

のような小圓を描き、この小圓内

の邇當な場所に月を位

置させる。さらにもう

一枚、透明な紙を用意し、この透明な紙に最初に描

た圓

の直徑

二倍

の大圓を描く

(眼輪)。この大圓

の中心が、最初の小圓

の中心

(天中)に重なるよう

に、兩方

の紙を重ね

て置く。そこで、天中から透明な紙

の大圓に投影される月

の位置を觀察してみると、月

の位置すなわち高度は變

化しない。以上は、從來

の渾天読によ

ったばあ

いであ

る。

ところが、彼

の宇宙像

によれば、大地は小圓

の中心より下、

つまり圖でい

う天中より下になければならな

いから、透明な紙を下にずらして大圓

の中心

に見るように、地中

の眞上

實際の位置よりも高度が上にずれて見え

66

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いる

こと

にも

とつ

元朝と

いう時代にあ

って、太陽と月

の大きさや宇宙空聞における距離を相對化し、數値化して認識する能力

や、それら

日月

にたとえた紙を使

って諡明するやり方

は、當時にお

いてはそうとう

に知的な方法

で、趙友欽

の非凡な才能を示して

いると

いう

べき

であろう。

豆 大地像

趙友欽の天文學

次に、趙友欽

の大地像に話を移そう。圖2に示したように、趙友欽

の大地像がきわだ

って特異な

のは、地理上

の重要な

ポイントとしてあげ

いる地中、崑崙、四海

の中心

(原文は

「四海之中」「中於四海者」)の三者が、前例のな

い説明だ

から

ある。

三者

のうち

一番目は、

いうま

でもなく

「地中」として陽城である。地中とは、周知

のよう

に、文字通り世界

の眞ん中

土地

のことを

いい、中國では傳統的に河南省

の陽城がその地にあてられてきた。

『周禮』大司徒

の經文および鄭司農

の注

に見え

るよう

に、陽城は、

この地

で表

(ノーモン)の影

の長さを測ると

いう

天文知識に依據

して、傳統的

に地中と決めら

てきた。表とは地上に垂直に立

てた

一本

の棒

のこと

で、太陽によ

ってでき

る表

の影を利用して、方位

・時間

・季節など

を知ることができる。古代における重要な天文觀測

の器機

であ

った。元朝においても授時暦

の編纂

にあたり、冬至

の日時

一年

の長さを決定するために、陽城

に高さ四十尺も

の巨大な高表を建造している。陽城は中國

の天文學にお

いても、地

理學にお

いてもきわめて重要な土地であ

った。同時

に、地中は儒家

の經典

に記載されたこともあ

って、儒家が天文學を論

るときにも

一貫して重覗されてきた。

67

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東 方 學 報

ところが、趙友欽

のいう陽城は、從來

の地中とは少々意味を異

にす

る。すなわち、圖2に示すよう

に、陽城は世界

の眞

ん中であ

ること

には變わりな

いが、さらにより限定的に、天頂

(嵩高)の眞下

にあり、か

つ地と海

の兩者を通じた中心

土地だと

いう

のであ

る。

二番目

の崑崙は、大地の最高地點

である。崑崙はいうまでもなく道敏

の聖地

でもある。彼が

いう

には、崑崙は大地のな

かでも

っとも標高が高く、か

つ黄河

の源であり、そこから東西南北

へむけて萬流が流れてゆく。また、大地の大きさは、

崑崙から西海ま

では三萬餘里、東海までは二萬里に及ばな

いと

いう。

三番目

の四海

の中心は、次に引く

よう

に、天竺

(インド)以北

・崑崙以西である。彼

の読明によると、

四海

の内では、陽城を中心としな

い。四海

の中心は、天竺以北

・崑崙以西の土地

である。もし、天の覆うと

ころにつ

いて論じ、地と海を逋じて中心を

いえば、やはり陽城が中心である。

四海

の中心

ついては、右文以上に詳し

い読明がなくわかり

にく

い部分もあるが、崑崙

の西にあることや陽城との關係な

どから、四方

の海

に圍まれた陸地

の申心と解釋

できる。すなわち、四海

の中心は、實質上、大地

の中心であ

る。そして、

それがイ

ンド以北

でか

つ崑崙以西

の土地であると

いう

。追記すれば、先

の崑崙

にかんす

る記述から大地の東西距離は約五

萬里であ

るから、す

ると、四海

の中心

は崑崙

の西約

五千里の地點と

いう

ことになる。ただ殘念

なことに、「天竺以北

・崑

崙以西」

の地が具體的

にど

この地を指すかを明らかにす

るような記述はな

い。また、大地が最終的にど

のような形状

にな

るのかも明言はな

い。

以上を整理し

てみれば、圖

2に示したごとく、趙友欽

の大地像は、天頂

の眞下で大地と海

の兩者を逋じた中心が陽城

(地中)、大地

の中

で最も標高

が高

い地點が崑崙山、陸地

の中心で天竺以北

・崑崙以西にあるが四海

の中心と

いう

こと

にな

る。

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趙友欽の天文學

こう

して檢討を重ね

てくると、この前例

のな

い彼

の大地像

にはあきらかに、中國

の天文家や儒家が重要覗

してきた陽

城、道教

の聖山でもある崑崙山、佛敏

に關係

の深

い天竺を、同等に併置しようとする意圖が認められる。このような特異

な大地像を提唱するにいた

った理由は、

いうま

でもなく道佛

―致、あるいは儒敏

・道教

・佛教

「三教

―致」を読く彼

宗教的立場を、宇宙構造読ま

でに擴大したも

のに違

いな

い。

ころで、わたしがこの大地像からただちに連想するのが、趙友欽

の時代

にはるかに先立

つ南北朝時代に、道教と佛教

が表が

つくる影

の長さにもとつ

いて、インドと中國

ではどちらが世界

の中心かを爭

った論爭ー

いわゆる

「中土邊土

の論

爭」

である。

この論爭は、南北朝時代

の有名な天文學者で元嘉暦を

つく

った何承天と、佛敏僣

である慧嚴

(智嚴ともいう)

の問答に端を發している。趙友欽がこ

の論爭を知

っていたことを示す直接

の證據は

いま

のところな

いが、わたしにはこ

の論爭が趙友欽

の大地像

のひな型

にな

っていると思われるので、ここで紹介しておきた

い。

南北朝時代になり、道佛の優劣をめぐ

って、道敏と佛敏

のあ

いだ

で論爭

がはじまると、論爭

の過程

で、イ

ンドでは夏至

の南中時に表

の影

が清え

る地方

があると

いう知識が傳えられる。

つまり、北囘歸綫上

のイ

ンドのある地方

では、夏至

時、太陽が眞南

の方向に逹すると、太陽が天頂に位置するために表

の影が消えるのである。佛教側はこの天文知識を利用

して、夏至に太陽が北行して正中するとき影がなくなるのだから、天竺こそ大地

の中心であり、世界

の中心なのである、

それゆえ天竺に佛

が生まれたもうたのだと主張する。

いうまでもなく、中國

の地中は、上述のように陽城にお

いて表

の影

を測ると

いう天文知識によ

って決められたも

のである。佛教側はその天文學的手法を逆手にと

って、天竺こそ世界

の中心

であり、中國は世界

の中心から外れた

「邊土」にすぎな

いとして、佛教

の優位性を認めるよう道敏側

に迫

ったのである。

この論爭

は表

の影

にもとつく論爭以外に各種

の視點から、隋唐に

いたるま

で繰り返し論じられ、道教側にと

っても無視し

得な

った。これらのことは

『高僭傳』卷七

・慧嚴、

『廣弘明集』卷六

・蔡謨、卷十三

・辨

正論

・内

三喩など

に見え

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東 方 學 報

『革象新書』

には

この中土邊土

の論爭

に言及はな

いが、道佛

の文獻

に逋曉し、道佛

の融合を唱え

、しかも同時

に天文學

に通曉し

ていた趙友欽がこの論爭を知らな

いとは考えにく

い。知

って

いたとすれば、天文學

に造詣

の深

い彼にと

って、天

竺には表

の影が無くなる土地があ

ると

いう天文知識は無覗

できなか

った

であ

ろう。

いや、むしろ道佛同源

や三教

一致を主

張するために、より積極的に利用しようと考えたかも知れな

い。四海の中心と

いう

アイデアには、中國

の地中と崑崙を、

ンド

の地ととも

に併置することで、道敏と佛教を融合しようとした彼

の立場が見

て取れると

いえるだ

ろう。

以上、本読と前節を

ふりかえ

って趙友欽

の宇宙構造諡をまとめてみれば、大地

は平ら

で、孚球状

の水

の上に浮

いて

る。大地は宇宙

の中心

(天中)より下に位置し

ており、そ

のため地上

に見え

ている天

の割合は、地下にある天

の割合より

も多くなる

(「地上天多、地下天少)。

大地

の最高地點が崑崙

で、そ

の崑崙

の東側に海と陸を通じての中心

であ

る地中

(陽城)があり、崑崙

の西

・天竺

の北に

陸地の中心

である

「四海

の中心」がある。大地

の東西距離は約五萬里と考え

られる。崑崙は西海から三萬餘里、東海から

二萬里足らず

の位置にある。地中は天中

の眞下

にあり、大地の東寄り

に位置し、東海に近

い。四海

の中心は、西海からも

東海からもおよそ二萬五千里離

れていると考えられる。

天は固體

ではなく氣から

でき

ており、日月五惑星は虚空にかか

って

いて、天に附着しては

いな

い。したが

って、日月は

天と

いっしょに東から西

へ移るとする日月左旋詭を彼は採用する。太陽

の直徑は月の直徑

の二倍

であり、大地から太陽ま

での距離は、大地から月ま

での距離

の二倍ある。

趙友欽

は右

の獨自

の宇宙構造

説を主張しただけでなく、さらにこの諡にもとつ

いて新

い觀測器械も複數發案

してい

る。次節で、彼

のこの觀測器械を取り上げること

にしよう。

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皿 觀測器械

趙友欽の天文學

新し

い宇宙構造読には、その宇宙構造詭に適合す

る新し

い觀測器械が必要だと趙友欽が考え

ていたことは間違

いな

い。

天詭が表

(ノーモン)に、渾天読が渾儀

(渾天儀)に結び

ついているよう

に、新し

い宇宙構造論と新

い觀

測器械はしば

しば不可分の關係

である。

趙友欽

の發案

にかか

る四種

の器械を

のべた篇が、それぞれ卷四の

「經星定躔」「横度去極」「占景知交」「偏遠準則」

る。これら

の器械は、

いずれも彼

「地上の天は多く、地下の天は少な

い」と

いう

読にかなうよう

に新た

に考案され

た。彼は傳統的に天體觀測

に使用されてきた渾儀

では、彼

の宇宙構造読に封應した觀測はできな

いとして、これら四件

器械を發案

した

のである。

日から見

てこれら

の器械

のなかで注目す

べきは、恆星

の座標を測定する二件

であろう。そ

の二件を

「經星定躔」「横

度去極」

の記述にもとつ

いて、圖6、圖7として作圖して示す。圖6の

「經星定躔」は、恆星

の赤經差を求める器械。圖

7の

「横度去極」は、天の北極から任意

の恆星ま

での度數

である

「去極度數」

(北極距離)を求める器械

であ

る。

いずれも

その測定方法

のアイデア自體は理論的

に正しく首肯

でき

る部分を含

んで

いる。

現代では天體座標は、赤道座標、黄道座標、地平座標などが用

いられるが、中國

ではしばしば

二十八宿

の度數と去極度

數が使用された。

二十八宿は赤道を中心としてかなり廣

い範圍にちらば

った有名な星座からなる。二十八宿

にはそれぞれ

標準星

(距星と呼ぶ)があり、ある星宿

の距星からとなり

の星宿

の距星までの赤經差

(あるい黄經差)が、それぞれ

の星宿

相距度數となる。「經星定躔」

では、こ

の距星

の赤經差を測ることが

できる。

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東 方 學 報

圖6 經星定躔(筆 者畫)

総 4

∠ク o

謇表 慧 髪 稟O

y

/鄲

°¥¥

/ ・∠ ←

約7尺

← ― ― ― 一 杖 余 一――― ―一 一 ―一 ――引

圖7 横度去極(筆 者 晝)

72

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趙友欽の天文學

この二つの器械を最初に正しく解釋した現代

の研究者は、藩鼎氏

であ

ろう。落氏

の研究を受け

て、李迪氏が作圖して

いる。ただ、兩氏とも

これらの器械が彼

の宇宙構造論に封應するための器械であることを踏まえた論議はしていな

い。

6によりながら、「經星定躔」

の器械を読明しよう。篇名

の經星は恆星

の意味

であり、躔は星

のめぐり、やどり意

味。この篇名

の意味は恆星

の位置を定めると

いうこと

である。

この器械は、二個

の恆星

の南中する時闘差を利用して、恆星間

の赤經差を求める裝置

である。南北方向

にそ

って高さ約

五寸、幅約

二寸

の厚

みのある木材

二本を平行

に置く。その木材

の上部

には溝を作

って水を入れ、木材

の水

罕を保

つ。ま

た、そ

の二本

の木材

の閲隔を三~四分と狹くし、その隙闘

(スリット)を子午綫がま

っすぐに通るよう

にする。觀測者

その木材

の下にもぐ

って、恆星

の子午綫通過を觀測する。最初の恆星が子午綫を通過してから次

の恆星が子午綫を通過す

のに要する時聞差を、漏刻で測定して、赤經差を求める。

一囘

の觀測

では天

の牛分

の恆星しか觀測できないので、牛年したらもう

一度觀測する。また、觀測

による誤差を防ぐた

めに、この器械による觀測を複數囘おこな

って精度を高

めるよう

にすると

いう。この器械は、恆星

の子午綫逋過を利用し

て恆星

の赤經を求めるために特化した觀測機器と

いえる。

なお、このとき使う漏刻

の箭は、この觀測

にあうよう

に特別に用意したも

のを使う。箭

の目盛りを百四十六畫牛とし、

この箭を

一日に百囘浮沈させる。また、測定誤差を防ぐために、

一カ所に四つ漏壺を置

いて時刻を比較是正す

るようにす

る。さらに、趙友欽がこの器械

での觀測

にあたり、恆星日と太陽

日を區別し

ていることも注目される。

に、圖

7によりながら、「横度去極」

の使用方法を詭明しよう。この器械は、上述

のよう

に去極度數を求める器械

る。篇名

「横度」と

いう用語は、趙友欽

の造語であ

ろう。こ

の器械

の目盛り盤

に刻む目盛り

の最終的な表示

の仕方

は、趙友欽自身

の特殊な宇宙構造読に適合す

るように、天頂附近では狹く、地平綫附近では廣くなるよう

に表示すると

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東 方 學 報

う。このよう

に彼

の宇宙構造詭に對應した度數を測る器械であるため、逋常ならば經度

にた

いして緯度と

いうところを、

「緯」には

「横」の意味があることから、「緯」を

「横」に置き換え

「横度」と名づけた

のであ

ろう。

の器械は、前節

で述した

「地中」にお

いて、南北方向

にそ

って、

つまり子午綫

にそ

って設置する。そ

の構造は單純

で、觀測

のための主要部品は圖の左側

の表と呼ぶ

一本

の垂直な支柱と、その下端

に取り

つけた窺筒

(のぞきつつ)である。

窺筒は中空

の筒

で、長さ五尺以上、窺筒

の下の穴から星を觀る。

また、圖

の右

の鐵著が刺

してある平行な二枚

の板

(平木)は目盛り盤

で、鐵著

や琴綫とともに度數を讀みとる上での工

夫をほど

こしてある。下

の平木

の左側には、

一寸を

一度として、等閲隔で四分

一周天

の度數

(中國度で九+

一度餘)を刻

む。おなじ平木

の上面

の右側には、左側

の等聞隔

の度數をもとに、天頂附近は狹く、地甼綫附近

では廣くなるように度數

を刻む。しかも彼

の宇宙構造読によれば

「地上

の天は多

い」ので、四分

一周天度以上を目盛る必要があると

いう。ま

た、上側

の平木には、目盛り

にそ

って、鐵著を刺すため

の穴が點々と開けてある。窺筒と鐵著

一定

の長さの琴綫

で結ば

れているので、窺筒が角度を變え

るのにしたが

って、鐵箸も刺す位置を前後に移動させると

いう仕組

みである。

觀測は二人が組

んで行う

一人が表

の下に掘

った穴

の中

で子午綫上の星を窺筒

の中に入れると同時

に、別

一人が窺筒

と繋が

っている鐵著

の位置から目盛りを讀みとる。この時

に讀みと

った度數は、そ

の星

の天頂距離である。

あらかじめ觀測に先立

って、天の北極を窺筒に入れ、その位置を基準點として目盛り盤上

に記し

ておく。かく

て最終的

に、觀測で讀みと

った天頂距離を、目盛り盤上に基準點として記した天の北極

の位置と照合すること

で、そ

の星

「去極

度數」が求められるのである。

南天

の觀測が終

ったら、この器械を北に向けて北天

の恆星も觀測す

る。誤差が生じることに備え

て、この審械を二

使用して比較檢證する。

Page 22: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

趙友欽の天文學

この他、殘り

の二種

の器械も

一暼しておこう。「占景知交」は先端に丸

い球状

のも

のを

つけた表

(ノーモン)で、交食

ついての情報を得るための器械。「偏遠準則」は彼

の宇宙構造詭にもとつ

いて方位を正すための器械。「占景知交」と

「偏

遠準則」

の兩器械もまた、彼

の宇宙構造読

に對應するよう

に考案した器械であるが、實用に供するのは難し

いであ

ろう。

以上の四件が實際

に製作されたかどうかは不明である。殘念なことに、これらの器械による觀測結果も殘されていな

し、彼

のアイデアが後

の中國天文學に繼承された形跡も見られな

い。これら四つの器械はどちらも彼獨自

の宇宙構造読

遖合した觀測ができ

ることを目的としているために、現代から見れば奇妙な點もある。しかし、「經星定躔」

「横度去極」

に見るよう

に、測定方法

の原理自體には合理的なも

のを含んで

いる。趙友欽がこのような中國

に前例

の見られな

い獨自

恆星觀測

のため

の器械を發案

したこと

は、大

いに評價されるべき

であろう。また、新しい宇宙構造論には新し

い天文器械

が必要だと考え

た彼

の發想法はもちろん、觀測器械を生

み出したそ

のアイデア、誤差を考慮した觀測法もまた高く評價

れるべき

である。

ころで、從來、中國には

「經星定躔」「横度去極」

のような發想

の器械は見られなか

った。しかし、イ

スラムには構

造や使用目的は逹うも

のの、觀測法

の原理や裝置

一部

に共通性が見られる器械がある。それゆえ趙友欽がイ

スラム天文

學と接觸したのではないかと

いう疑

いがもたれる。たとえば、圖

7のよう

に垂直

に立てた支柱と

のぞき筒がなす角度を利

用した器械には、十三世紀に中國と交流

のあ

ったペルシャのマラガ天文臺

勺霞巴冨o叶8

居三2

(圖8)、および元代

に中國

つくられた七種

のイ

スラム器械を記載す

『元史』天文志

・西域儀象志

「哨禿朔

八臺」をあげ

ることができ

る。た

だ、趙友欽

の器械

の場合は、支柱と

のぞき筒は支柱の下端

で止められているが、イスラムのも

のは上端で止められている

など

の逹

いがあ

って、同

一器械とはいえな

い。

圖6のよう

に、ただたんにスリ

ットを使

っていると

いう器械ならば、西域儀象

「魯哈麻亦渺凹ロハ」「魯哈麻亦木思塔

Page 23: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

東 方 學 報

Wes七

圖8 Parallactic Ruier(藪 内 清 『中 國 の 天 文 暦 法 』 二 五

○頁 よ り)

わけではな

い。時代背景

や前例

のな

い天文器械などから、

實なことは明言

できな

いので、

この問題はひき

つづき註意を拂

っておきた

い課題である。

」も

装置

一部

スリ

ットを

使

って

いる。

時代背景を見

ても、元朝にはイスラム天文臺である囘囘司天

臺が設立

され、西域人が天文臺長官

になるなど人的交流もあ

た。授時暦

の編纂時に製作された天文器械にも、西方

の天文學

の影響があるとされる。しかしながら、拙稿

「趙友欽

の生涯」

で彼

の傳記資料を檢討したかぎりでは、西域人と接觸した

のは

西域

の康里國

の王族に招かれたときだけ

であ

って、囘囘司天臺

に出向

いたとか、西域の天文學を學んだと

った證據は見

いだ

せなか

った。誤解なき

よう

に斷

っておくが、ここでわたしが指

摘しているのは、目下のところ趙友欽

の器械とイスラムの器械

には部分的な共通性が見られると

いう點だけであ

って、ただち

に趙友欽がイスラムの器械から影響を受けたと結論づけている

彼がイ

スラム天文學から刺激をうけた可能性はありそうだが確

%

W 月

の滿ち缺けと食

この節では、月

の滿ち缺けと食に

ついて、趙友欽

の読明に耳を傾け

てみよう。

Page 24: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

趙友欽の天文學

月が太陽

の光を反射して輝くことは、す

でに漢代には指摘があ

った。そ

のことは遲くとも前漢に成立していたと考えら

れる

『周髀算經』

や、『爾雅』釋天

・疏

が引用する前漢

の京房

の言説

によ

って知られる。北宋

になると、沈活が銀丸を使

った邇切な比喩

でそれを読明している。

趙友欽は彼

の肯像を紹介したと

ころでのべたよう

に、月が太陽光を反射して輝くことや月

の滿ち缺けなど

の現象を読明

するために、月

にたとえた黒

い漆塗り

の球を使

ってデモンスト

レーションをおこな

っている

(卷三

・月體牛明)。晝閲、家

の軒下で、黒

い漆塗り

の球に日光を反射させると、反射した光が家の外壁

の影

の部分を明るく照らす。この時、黒球を見

ると、日光

のあた

った牛面は

つねに光

って

いるが、もう牛面は光

っていな

い。このモデルによ

って、月がみずから光

って

いるのではなく、太陽

の光を反射

してその牛面が輝

いて

いることを彼

の讀者

に示してみせた。さらにこ

の黒球

のたとえ

で、月が缺けたり滿ちたりする月相

の變化や、月本體が物理的に缺けたり丸くな

ったりしていな

いことも諡明している。

この説明は後世の人々にもわかりやす

ったと

みえ

て、いく

つか

の文獻

に引用が見え

る。

一方、日月食

がどう

して起きるか、古代にお

いてその原理を理解す

ることは、

一般的に

いえば、日食

のほうがやさし

く、月食

のほうが難しか

った。日食は太陽を月が被う

こと

によ

って起き、

)

\い 、 八

丶'・

冒 丶'、

薪揮圖9 口食(筆 者晝)

月食

は月が地球

の影に入ること

によ

って起き

る。すでに漢代

の文獻

に、

食は太陽を月が被うことで起き

ると

いう認識が見え

る。

趙友欽も日食

の原理を正しく理解

している。その上で、二個

の球を使

た日食

にか

んす

る簡單だ

がおもし

い裝置を考案

いる

(卷三

・日月

薄食)。それを圖

9に示す。これは觀測者

の觀測する地點によ

って日食

食分が變化することを読明す

るも

のである。まず

一本のヒモに、同じ大き

77

Page 25: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

東 方 學 報

さの二個

の球を邁當な聞隔を開けて

つるす。上

の球は太陽になぞらえ

て赤

い球、下の球は太陽を被う月になぞらえ

て黒

である。さ

て、こ

一本

のヒモに

つるされた二球を眞下から見れば、黒球が赤球を完全に被

っており、この場合は皆既

である。

つぎ

に、二球

の眞下から少し離れて見ると、黒球

の向こう

に赤球が少

し見えるよう

になり、

これが部分食

であ

る。さらに、見

る位置を少しず

つずらしてゆくと、黒球が赤球を隱す割合が少しず

つ減少してゆき、それが部分食

の食分

の變化を表す。

一方、月食

の誂明として漢代以降

の文獻にしばしば登場する説は、闇虚読である。闇虚は、暗虚とも書く。闇虚は、地

をはさん

で太陽とちょうど反對

の位置にある太陽

の光

が射さな

い暗

い空聞のことで、その大きさは太陽と同じ大きさであ

る。太陽

が陽

の氣からなるのに對し、闇虚

は陰

の氣

からなる。

この陰

の氣からなる闇虚

の中に、月が入ると月食

が起

り、星が入ると見え

なくな

る。闇虚諡は歴代の暦法を編纂してきた暦家

が採用しており、正史

に見える闇虚読もその多く

がこの闇盧詭である。たとえば、『隋書』

天文志

・中

・七曜が張衡

のことばとし

て読明する闇虚読

は、典型的な闇盧諡と

いえるだ

ろう。

趙友欽

の月食

にかんする考えをよりよく理解するためには、中國

の月食理論

の愛遷を理解す

る必要があるが、す

べてを

論じることはできな

いので、ここでは趙友欽

の前後

の時代を少し

一暼するにとどめよう。たとえば、宋の朱熹

にも月食

ついての考察がある。朱熹

の天文學を再構築した山田慶兒氏によると、朱熹は月食

ついてもさまざまな思索を重ね

てお

り、地影

への言及もあ

るが、最終的には太陽

の中に闇虚があ

って、その闇虚と月が眞正面

に相對するとき、月食が起きる

とする從來の暦家とは別

の闇虚読を唱え

いると

いう。

中國でも、月食は、月が地

の影

に入ることで起きるとする地影詭を提言している人々も

いる。趙友欽より遲れるが、明

末清初

の人である史伯熔は

『管窺外篇』卷上で、食

にかんする宋學者など

の詭を檢討して、暦家

のいう闇虚は地の影

であ

Page 26: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

趙友欽の天文學

る可能性を指摘するにいた

っている。また、奇しくも

『革象新書』

の篩略本

の序文を書

いた明

の宋廉も、「楚客對」と

一文で地影説に言

い及んで

いる。中國

では日食に

ついてははやくから正し

い理解

に逹して

いたが、月食となると闇虚諡

を軸としながら、地影詭を含

めさらなる解釋が試みられていた可能性が考え

られる。

趙友欽

の時代

にも地影論を主張する人が

いたことは、彼が

「日月薄食」篇

の最後

のほう

で、「或日」とし

て地影論を紹

していることからもわかる。彼はその地影説を紹介した上で同説に反對し、闇虚は地影ではな

いと主張した。彼が地影

諡を否定した根據は、月食

のときに月面に丸く映る地球

の影

であ

る。もとより今

日では、月食

のとき

に月面に映る丸

い影

は、地球が球

であることを示す

一證據として理解されている。しかし、彼

の考え

によれば、月面

の影が大地の影ならば、

その影

は地中

である陽城の周邊

の地形を反映したかたち

にな

っているはず

である。言

い換えれば、影が丸

いかたち

であ

からには、陽城

の地は牛分に切

った瓜を伏せたよう

に丸く盛り上が

っていなければらな

い。そこで、わざわざ實際

に陽城

に赴きその地

の地勢を觀察してみたと

ころ、陽城は周圍

の土地より高く盛り上が

っておらず、地平綫は北から南

へと直綫

的に低くな

って行くだけであ

った。大地を平面と考え

る彼は、月が地影によ

って食するならば、月面

に映る影も直綫でな

ければならないと考え

ていたのである。結局

のところ、趙友欽は月食を、暦家

の闇虚読を越えて理解することはできなか

ったよう

である。しかし、「日月薄食」篇

のこの月食

にかんする

一文は、正確な觀察記録とな

っているし、彼

の實地に觀

してみようとする實證的態度もよく表している。ちなみに、ここの

一文から趙友欽が考え

ていた大地

の大きさが、今

のわたしたちが知

っている地球

の大きさよりも、はるかに小さか

ったことも推察できる。

この節を終えるにあた

って、ふたたび彼

のシミ

ュレーシ

ョンを

「日月薄食」篇

(五葉裏i七葉裏)から紹介しよう。圖

10

に示すよう

に、授時暦

の月食理論を、紙と板を

つか

ってシミ

ュレーシ

ョンによ

って読明するも

のであ

る。授時暦は、元朝

下で使用された暦法

であり、中國を代表するも

っともすぐれた暦法でもあ

る。

Page 27: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

東 方 學 報

月1寸

旨―-―13度5分 一→

…交點

… 黄道

今● 1 ,

闇虚 4 4← ・度・・分十 戔 辛 影 ← ・度・・分「

:分 b分 i i 白道

既外後限(部分食)

, 4 4

8度70分 一 来 度 十 度 引←

既外前限(部分食)

35 1 35

分 b分

←8度70分 →

食甑限 (皆既食)

圖10 月食(筆 者畫)

はじめに、闇虚と月を模

して板を丸く切り拔く。ただし、闇虚と月

の大きさは同じ

ではな

い。授時暦

によると闇盧

の直徑は二度、月

の直徑は

一度な

ので、それぞれ直徑

二寸と

一寸

の圓盤を

つくる。大き

いほうは黒く塗

って闇虚とし、小さいほう

は白く塗

って月とする。次

に、紙上に闇虚

の軌道

(同時に太陽の軌道でもある)である黄道と、月

の軌道である白道を交差するよう

に描く。黄道は二度

の廣さなので二寸、白道は

一度

の廣さなので

一寸とする。これら

の準備をしたところで、二つの軌道

の上を交點

に向

けて、黒と白

の圓盤を移動

させて行く。月食が起き

る限界

であ

る食限界は、圖

のよう

に十三

・〇五度なので、その地點

で黒

い圓盤と白

い圓盤が重なれば部分食。さらに兩

圓盤を交點に向けて進め

て行き、交點から四

・三五度内に入れば皆既食がはじまる。

交點

の左右四

・三五度以内

は皆氈食

である。その際、月

の缺ける割合を表す食分の諡

明として、黄經差

・八七度ごと

に食分が

一分ず

つ増え

てゆくとして論明される。

うまでもなく食分が最大となる食甚は十五分である。食限界十三

・○五度は實際の數

値より大きすぎるが、そ

の他

の數値と同樣

にす

べて授時

の値を採用したも

のであ

る。

の月食

のシミ

ュレーシ

ョンは、

『元史』

の授時

にも、彼以前

の文獻

にも

見え

ず、出色と

ってよいだろう。もともと、中國の公的な天文學

の記録

である正史

の律

暦志

や天文志

には、右のような道具を使用したシミ

ュレーションや幾何學的な食

の読

明はそう多くは見えな

い。また、中國の暦法自體が代數學的であ

って、幾何學

モデル

80

Page 28: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

を用

いた諡明が少な

いので、そ

の暦法

の計算方法から明確な宇宙

モデルを想像するのは難しい傾向がある。このため、こ

の板

や紙を使

った詭明は、彼

の讀者

にと

って、食理論

や授時暦を理解するために大

いに役立

った

であ

ろう。

『革象新書』

の記載から總合的に見て、授時暦を越えて

いるようなことはな

いが、代數的な授時暦を幾何學的な

モデルによ

って理解し

ようとする彼

の研究態度は、注目に値すると

いえる。

V 書名

の意圖

趙友欽の天文學

『革象新書』と

いう書名は、なにを意圖して

つけられた書名

であ

ろうか。また、なぜ

「革象」と

いう名が

ついているの

か。なぜ

「新書」な

のであ

ろうか。

この著作

は、新し

い宇宙構造読や、道佛融合

の大地像、新し

い天文器械、日月食理論など從來

の天文理論

の全面的檢討

など、著作全體が新

しさを志向していることからだけでも、「新書」と名づけた意圖はじゅう

ぶんに理解できるだ

ろう。

それでは、革象とはなにか? 趙友欽は革象と

いう

ことばを選んだ理由を、なにも

のべていな

い。また、革象と

いう

とばもまた、

一見してすぐにその意味を理解できるとは言

い難

いだろう。

革象と

いうことばの由來を探

ってゆくと、このことば

『易』革卦

の大象

の文にもとつく

のではな

いかと

いう見解に行

き着く。この見解

は古くは

『四庫全書簡明目録』

に指摘があり、近人

》●<o涛o<氏もそ

の読を支持し

ている。私も

の意見がも

っとも爰當

であると思う。その革卦

の大象

の全文は、次

のとおり。

象に言う。澤

の中に火がある

のが、革

であ

る。君子は

(この革卦によつて)暦を治め四季

の推移を明らかにす

る。

さらにその正義には、そ

のまま革象と

いうことばが見え

ている。

81

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東 方 學 報

正義に言う。大象

「澤

の中に火があるのが、革である」とは、火が澤

の中に在

って、火と水

の二つの性が食

い違

ており、必ず改變が起き

る。それゆえ革卦

-革象ーとす

るのであ

る。大象

「君子は

(この卦によって)暦を治

め四季

の變化を明らか

にす

る」とは、天時が改ま

った

ので、それゆえ暦數を用

いなければならな

い。ゆえに君子はこ

の革卦の象―革象―を觀

て、暦數を修治し、天時を明らかにするのである。

革卦

の≡≡のかたちは、水

であ

る澤=―の中

に火―=があるかたちにな

っている。これは、水と火がとも

に爭

い、陰陽相克し

て、變革がもたらされる

―革象であ

る。そこで、この卦象

にの

っと

って、君子は暦法を製作し、四季

の推移を明らか

にするのである。農業國家

であ

る古代中國

では、農耕

のためには正しく季節

の變化を知らねばならず、そのために邇切な

暦法に改暦することが君子の重要任務

であ

った。しかも、中國では革命によ

って王朝が交代するたび

に、新王朝

の樹立を

天下に明らかにするために、新

しい暦法を頒布することが、新し

い王者

の務めであ

った。

いった

い、革象とは變革

の象

であり、革命

のシンボ

ルであり、大象

の文に見るよう

に改暦

に結び

ついたことばである。

このことから考えれば、趙友欽

はやはり改暦を志してこの書名を

つけたと理解

しなければなるま

い。彼は從來

の天文學を

改め、新し

い天文學を構想

しようとしたと見なすべきなのである。

だが、彼はただたんに新

しい天文學を目指しただけであ

ろうか。彼の生涯をこの書

に重ね合わせてみると、さらに積極

的な理由があ

ったと思われる。ここでわたし

の推理を示しておこう。

趙友欽は宋末

・元代

の道士だが、その出自は、元によ

って滅ぼされた南宋王朝

の宗室に連なる人物

である。しかも、幼

少時、十歳にも滿たな

いとき

に、宋元交代の戰火にあ

っていると思われる。かく

て、宋王室から

の庇護がま

ったく期待

きなくな

った幼

い彼が、征服王朝

の元朝

の支配

のもと

で生きてゆくためには、野に潛んで道士にでもなるより道はなか

たであ

ろう。それも宋王朝

の再興を期し

て野

に潛

んだことは想像に難くな

い。『仙佛同源』

の彼

の序文

で、元朝をそ

の蔑

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である

「胡元」

(異民族の元朝)と呼

んでいるテキストがある。もし

このテキストが

『仙佛同源』

のより本來

のかたちを

傳え

ているとすれば、趙友欽が元朝を恨

んでいたことは間違

いな

いだろう。異民族王朝

の元は正統な中國王朝

ではなく、

宋朝

こそ中國に再度君臨す

べき

であると彼が考えたであろうことは、おお

いにうなずけること

である。中國

では、新王朝

の君主が新し

い暦法を制定することが、新王朝

の樹立を全國に知らしめる役割を持

っていたから、王朝再建

のためには、

新王朝にふさわし

い暦法

の研究がかかせな

い。だからこそ、宋王朝

の再興を願う彼は、新王朝

の改暦に備え

て、在野にあ

っても天文學

の研究を

つづけた

のである。そう

いう祕めたる革命

の動機

のもと

に著

されたのが、

『革象新書』と

いう

ユニ

ークな書物なのであ

った。

『革象新書』と

いう書名

には、「革」と

いい、「新」と

いい、新しさを指向す

る彼

の意欲が二重

に滿ち

ている。新

天文學

を樹立しようとする趙友欽

の意欲がなみなみならぬも

のであ

ったことを、なによりも雄辨

に物語

っていると

いう

べきであ

る。

おわり

趙友欽の天文學

民聞に住

み天文學

に精通している道士。趙友欽をひと

こと

で形容すれば、そのよう

に表現

できるだ

ろう。す

でにのべた

ように、趙友欽

には

『仙佛同源』と

いう宗敏書が現存

している。また、彼

の弟子である陳致虚

の著作中にも趙友欽

への言

及や師

のことば

の引用がある。今後

は道教側から

のアプ

ローチとあわせて、彼

の科學活動、宋學

の影響、彼が後世

にあた

えた影響などに、再度、總合的に光を當てることができれば、よりあざ

やかに彼

の人生を歴史

のなか

に浮かび上がらせる

ことができ

るだ

ろう。同時に、道教と科學と

の關わりを考えるため

の新たな材料を、歴史研究に附け加えることも

でき

83

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東 方 學 報

ろう

中國天文學

は、元來、皇帚など時

の支配者

に奉仕す

る科學としての性格を強く持

っている。だからこそ歴代

の王朝

は、

王立

の天文臺を設置し、豐富な人力と財力を使

い、大型

の觀測器械を製造し、さらに民間にはな

い天文書や觀測データを

蓄積して、その發展と維持を支援

してきた。

いわば、中國

の天文學

は、國家科學とし

ての特徴をそなえ

ていると

いえ

る。

趙友欽が生きた元朝

にお

いてもその状況は同樣で、授時暦は巨大な國費と多數

の才能を投入して完成され、司天臺や太史

院、囘囘司天臺など

の國立

の天文臺

や機構が設置された。

『革象新書』

の天文學的な水準を、そのような皇蒂

や國家

のバ

ックアップを受けておこなわれた官製

の天文學とくら

べてみれば、劣る面があるのは當然である。組織と個人

の差は歴然

である。

だが、見逃

さな

いでお

こう。

『革象新書』

には、官製

の天文學にはな

い斬新な

アイ

デアがたくさん盛られ

ていること

を。宇宙構造詭における新奇な

アイデア、獨自

の模擬的な實驗、宗教と天文學、觀測器械など、既製

の概念からはなれた

自由な發想があることを、忘れな

いでおこう。このような自由な

アイデアと

ユニークさもやはり、中國天文學

の多樣性な

のである。民聞における多樣性と、道教活動ととも

に營まれた天文學、これらもまた中國天文學

の發展を支えてきた要因

とし

て、正しく評價されなければならな

いのである。

84

丁 注

稿は、當初、京都大學人文科學研究所

の共

同研究班

「中國技術

の傳

(一九

六~

〇〇

二年

・班

田中淡

敏授

)

にお

いて

一度

發表

し、研究報告に掲載する豫定

であ

った

が、諸般

の事情

により刊行

が遲

れたため班長

の承諾を得

て、改め

て今囘掲載す

るも

のであ

る。こ

の聞

に、本稿

の英譯

が次

のごと

く出版さ

れた。〉幻≧

ω三三畳.〉の霞oロo邑

.

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§

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、ミ

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§

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で、

稿

の三

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一〉■

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Page 32: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

趙友欽の天文學

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

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ヨ蝕

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団8

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団8

ρ3、ωO讐けω...

1は、國立故

宮博

物院

(臺

北)所藏

『逋

範正宗

五經

四書大

全』

(編纂者

不明)に收録

されて

いる

『仙佛同源』

に附された圖

である。

『仙佛

同源』

の他

の版本

には、同圖がな

い。同圖

の入手

には李

玉眠氏

にご協力

いただ

いた。心より謝辭を呈した

い。

陳致虚

『周易參同契分章註』卷上

・日月懸象章第三

「緑督子以革象誨

人、以黒漆毬于簷下映日」。

野村

英登

「趙友

の内丹

思想」

(「東方宗

教」第

一〇

〇號

、二〇

〇二

年)。

「玄珠

綺想-

道敏錬

金術

と寶珠信

仰ー」

(「東洋

大學

中國學會

報」第九號、東洋大學中國學會、

二〇〇二年)。

拙著

「趙友

の生涯」

(田

中淡編

『中國技術史

の研究』京都大學

人文

科學研究所、

一九九八年)。

ンホー

ル實験は、王錦光

「趙友欽及其光學研究」

(「科技史文集」第

二輯、上海科學技術出版瓧、

一九八四年)などに詳し

い。なお、趙

友欽

にと

ってピ

ンホ!ル實験はたんなる光學

の實験

ではなく、天文學

のた

の實

であ

った。「小罅光景」篇

の冒

頭で、ピ

ンホ

ール實

動機が、

日食

のとき

に部屋

の節穴を逋過し

てできる光

の像

の變化を調

べる目的

であ

ることが語られ

ている。また、光源

の形も、食

のとき

太陽

や月

の形

にな

ぞらえ

ていることがそれを物語る。

潘鼎

『中

國恆星觀

測史』

(學林出版瓧、

一九

八九年)、

(一)

元趙

友欽

《革象新書》與嶽煕載

《天文精義》、三

二七 八頁。李迚

「中國古代測

量天體赤道座標的方法」

(「内蒙古師範大學報」、

一九九

二年第三期)。

中國

天文學史整

理研究小組編著

『中國

天文學史』

(科學出

版祗、

一九

一年)

五三、

一四〇、

一七

〇頁。薄樹

「中國古

代的

恆星觀

測」

(「科學

史集刊」

一九六〇年

・第三期)

五〇頁。劉鈍

「趙友欽

(杜石

(8)

(9)

然主編

『中國古

代科學

家傳記』下集、科學出版瓧、

一九九三年)六九

一頁。王立興

「渾天読的地形觀」

(『中國天文學史文集』第四集、科學

出版杜、

一九八六年)

=二八-

九頁。天文學以外

の論文は、前掲

「趙

友欽

の生

涯」注

(10)と

「追記」を見よ。他

に次

の論文もある。祀業

『道家

文化與

科學』

(中國科學技術大學出版杜、

一九九五年)、第六

・趙友

欽及其天文物理研究、

一六六-

七三頁。蓋建民

『道教

科學思

發凡』

(杜會

科學文獻出版

、二〇〇五)九

ニー

六頁。孔國

「趙友

及其

《革象新

書》的數學成就」

(「申國科技史料

」第十九卷第

二期、

一九九八年

)。

中國

の宇宙

構造説および渾天読にかんする文獻

は各

種あるが、

ここで

は次

の諸

篇をあげ

ておく。藪

内清編著

『中國中世科學技術史

の研究』

(角川書店、

一九六三年)、D

・宇宙論

一七七-

一八五頁。愛内清編

『中國天文學

・數學集』

(朝日出版杜

一九

八〇年

)、三

・中國

の宇

構造論、

皿-

四頁。山

田慶児

『朱熹

の自

然學』

(岩

波書店、

九七

八年)、

1

・宇宙

論前史、十

三-

四六頁。中國

天文學史整

理研究

小組編著

『中国天文學史』

(科學

出版瓧

一九八

】年V、第八章

・宇宙

理論的演進、

一六

一-

七三頁。傅大爲

「論

《周髀》研究傳統的歴史發

展與轉

折」

(「清華學

報」新十

八卷第

一期、民

國七七

年六

月)。O年挙

け8げ奠

O巳

Φ戸

ム恥㌣§

o謹

§

ミ§ミ鳴§亀ミ

恥ミ

§9§

妹Oミミ

、、ミ

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鬟黛遷、§西

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恥ミ軌§

Gミ§'<o冖ω・Oロヨげユ畠

Φd三く興ω詳《甲

Φωω」

O㎝P

.b。お

I

b。b。鉾邦譯

『中

の科學と文

明』

(思索杜

」九七六年

)第

5卷、

-

六 一百ハ。 Z讐げp⇒ω一く一戸

、Ooω巨oωp昌α09βO庫けp菖o昌

一昌Φ9臣団

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一コ

一〇$

(↓qミ醤鴫黜

O ㎝㎝、い①一α①5一国.一.bu門一口).

一・天道左旋

・二葉裏

「以此觀之、天如蹴毬、内盛牛毬之水、水上

85

Page 33: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

東 方 學 報

(10)

(11)

(12)

(13)

150

140

一木板、比似人

聞地準、板上雜置微細之物、比如萬物、蹴毬雖圓轉

不已、板上之物

、倶

不覺知

」。

・日月薄食

・十葉裏

「大地卻非圓鶻」とあり、大地は球

でな

いと

いって

いる。注

(41)を

見よ。

趙友欽

の宇宙像

は、朱熹

や宋學

の天文知識を繼承した部分があ

ると思

われ

る。朱熹

の宇宙論を仔

細に檢討した山田慶児氏が、朱熹

の宇宙像

を再構成

して

いる。前掲

の同氏

『朱熹

の自然學』

一七〇頁

・圖

10を見

よ。同氏

の考察

によると朱熹

の宇宙像

でもやはり、天は氣から成り、

太陽

と月は天と

一緒

に東から

西

へ移り

(日月左旋)、しかも

の上

外側

にあ

る水

の存在も想定

して

いな

い。趙友欽が朱熹

の著作を讀

んで

いた

ことを示唆す

る事實と

して、卷四

「渾儀制度」

の記述が、朱熹が

『尚書』舜

「在溶磯

玉衡、以齊七

政」

の句

つけた注と共

逋性

があ

ることを指摘

でき

るだ

ろう

一・天周歳終

・十

一葉

「舊

云、天道

左旋、日月右轉、蓋謂日月附著

天體、

天雖

一晝夜而周、太

陽於

天止移

一度、太陰則移十三度有奇。在

後推測、却是

日月輿

天道

、相遠

而不附於天、…

(中略)…由是觀之、

日月右

旋之詭、乃暦

家用逆推

之術、取其簡

省籌策耳」。ま

た注

(13)

も參照。

卷三

・五緯距合

.十

三葉裏

「徃古

謂天道左旋、七政右轉、如蟻旋磨、

磨順蟻逆、磨疾蟻遲

、故

天引之而

西、後世考験、乃知兩曜懸虚蓮轉、

不附

天、各有

之道、恐

五緯亦

然」。

・十

八裏

「日月行

天、雖懸空而不附著

天體

、意其

必須憑托天地之氣、天體左旋而氣亦左

旋、

日月之行、以遶地而言

之、是見其左

旋矣

、以經度考之、亦可言其

憑氣而

右旋、悄

五緯

皆是懸虚

連行、其左右

旋亦獪是也」。卷

・天道

左旋

・二葉裏

「謂

天體轉旋者

、天非可見其體、因厭星出沒於東西、管

轄於兩極、有常度、無停機

、逑部

星所附麗、擬以爲天之體耳」。

(9)參照。

・天地正中

.十

五葉表

「遠

視物則微、近硯物則大、故當午之日似

(16)

(17)

(18)

(19)

盂、出沒

之日如

車輪、豈

非午

日與人

相遠

邪、然又疑

東西與

人相遠

、蓋爲午

日熱

而又似

乎火之近人也、殊不知太陽久

照則熱

、殆不可以

遠近論、星度高升者

則見其密

、低垂者則見其疏、由是觀之、天頂遠而

四傍近矣」。

鈴木

敬信

『はじ

めて

の天文學』

(誠文堂新

光肚、

一九

八三年)九

ニー

三頁

長文

ので全文

引用

しな

いが、

『隋書』

天文志

・上

・天體

「舊

読渾天

、以日月

星辰、不

問春秋

參夏

、晝夜晨

昏、上

下去地

中皆同

、無

近」

以下

の文を參

照。ちな

みに、

『列子』湯

問篇にも、

この太

の見

の大き

さと

寒暖

の愛

にか

んす

る詭話

が載

って

いる。「孔

子東

遊、見兩小児辨鬪

、問其故

一兒日、我以日始出時去人近、而日中時

遠也、

一兒以

日初出遠

、而日中時近也、

一兒日、日初出大如車蓋、及

日中則如盤盂、此

不爲遠者小

而近者大乎、

一兒日、

日初出滄滄涼涼、

及其

日中如探湯

、此不爲

近者

熱而蓮者涼乎、孔子不能決也、兩小兒笑

日、孰爲

汝多知乎」。湯

問篇

では、二人

の子ども

が孔子を揶揄

する読

話と

って

いる。道士

の趙友

欽は、こ

の湯問篇

の設話をな

んらか

の形

で意識

して

いた

かも

しれな

い。

『隋書』

天文志

.上

.天體

「桓譚新論

云、漢長水

校尉平陵關

子陽、以

日之去

人、上方遠

四傍近、何

以知

之、星宿

昏時出

東方、其

聞甚

疎、相離丈餘、

及夜牟在

上方

、硯之甚數、相離

一二尺、以準度望之、

逾盆明白、故知

天上之遠

於傍

也、日爲天陽、火爲地陽、地陽上升、天

下降、今

置火於

地、從傍

與上

、診其

熱、遠近殊

同焉

、日中

正在

上、覆蓋人

、人當

天陽之衝

、故

熱於始出時、又新從太陰中來、故復涼

於其西在桑楡聞也

、桓君

山日、子陽之言、豈其然乎」。

『隋

書』

天文

・上

・天體

「姜

云、餘

以爲

陽言

下降、

日下

熱、束皙言

天體存於

目、則日大

、頗近之矣、渾天之體、圓周之徑、詳

之於

天度

、験之於畧影

、而紛然

之読、由人目也、三伐初出、在旁則其

間疎

、在上則其

間數

、以渾檢

之、度

則均也、旁之與上、理無有殊也、

86

Page 34: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

趙友欽の天文學

(20)

(21

)

(22)

(23)

(24)

日者純陽之精也、光明外曜、以眩人

目、故人硯

日如小、

及其初出、

地有遊氣、以厭

日光

、不眩人目、師

日赤而大也、無遊氣則色白、大

甚矣

、地氣

不及天、故

一日之中、晨夕

日色赤、而中時

日色白

、地氣上

、蒙蒙

四合

、與

天連者

、雖中時亦赤矣

、日與火相類

、火則體赤而炎

黄色

、日赤宜矣

、然

日色赤者

、獪火無炎也、光衰失常

、則爲異矣」。

『周禮』

地官

・大司徒

「日至之景、尺有

五寸、謂之地

中、

天地之所合

也、四時之所交

也、風雨之所會

也、陰陽之所和也

」、注

「鄭司農

云、

土圭之長尺有五寸、以夏至之日、立八寸

之表

、其景逋與土圭等

、謂之

地中、今穎川陽城地爲然」。

趙友欽

の陽城にかんする記逋は次のとおり。卷

・地域遠近

・十

六葉

裏-

十八葉裏

「古

者測得陽城爲

地中、然非四海

之中

、乃天頂

之下、故

日地

中也」

「如

陽城

距東海

近、天下

之地多

地中

以西、地

東、必皆水矣」「若論天之所覆、遞地與海

而言中、却是

中於陽城」。こ

れらから趙友欽

の陽城に

ついての読明は、次

の諸點にまとめられる。

陽城は四海

の中心

(四海之中)

ではな

い。陽城は天頂の眞

下にある。

陽城は東海

にた

へん近

い。したが

って、大

地は陽城

の東

側よりも、

西側

のほう

により多く廣が

っている。陽城は地と海

の兩者

を通じた中

である。

・地

域遠近

・十七葉裏

「黄河

之源、爲崑

崙、乃是

下地罕最

處、東則萬水流東、西則萬水流西、南北亦然、彼處名悶毋黎山

(案、

唐書作悶

摩黎山)、蓋西蕃

語也、其山距西海

三萬餘里、距東海

不及二

萬里」。悶摩黎山

の名は、

『新唐書』卷

一六下

・吐蕃下

に見える。

・地域遠近

・十八葉

「四海之内、不中於陽城、中於四海者、天竺

以北、崑崙以西也、若論天之所覆、通地與海而言中、却是中於陽城」。

『高僭傳』卷七

・慧嚴

(大正新修大藏經

・五十卷

・三六八頁

a)「東海

何承

天以博物著名

、乃問嚴、佛國將用何暦、嚴云、天竺夏至之日、方

中無影

、所謂天中

、於

五行土徳、色尚黄、數街五、

八寸爲

一尺、十兩

此土十

二兩、建辰之月爲歳首

、及討覈分至、推校薄蝕、顧歩光影其

(25)

(26)

(27)

法甚

詳、宿度

年紀咸

有條

例、承天無

所暦

難、後婆

利国人

來、果同嚴

読」。

『廣弘明集』卷六

・歳謨

(大正新修大藏經

・五二卷

・一二六

cI

七頁

a)「謨

之諷議、

局據

神州

一域、以

此爲

中國也、佛

則通據閻浮

洲、以此爲邊地也

、即

目而敘

、斯国東據海岸、三方則無、無則

不可謂

無邊

可見

也、此洲而

四周環海、

天竺地之

中心、夏

至北行

、方中無

影、則天地之正國也、故佛生焉、況復陛封所及、

三千

日月

・萬

億天地

之中央也、惟佛所統、非謨能曉

、且庸度生常保局氷

、執自

以古

同、謂

家自爲我土樂、

人自以爲我民良

、不足怪也、中原嵩洛土圭

、測影以爲

中也

、乃是禪州

之別中耳、至時餘

分、不能定

之」。同書

.卷十

.辨

正論

・内

三喩

(大

正新

修大藏經

・五二卷

・一七六

頁b)「按法

苑傳

.

高僭傳

・永初記等

云、宋何承

天與智嚴法師共爭邊

中、法

師云、中天竺

、夏至之

日、

日正

中時、

竪木無影

、漢國影

臺、至

期立

表、獪

餘陰

、依算經

、天上

一寸

、地下千里、何

乃悟焉

、中邊

始定

、約事爲論、

天竺國

則地之中心、方

別拒海

五萬餘

里、若

准此土、東約海濱、便可

旦本自居東、迦

維未肯爲西、其

里験矣

」。

この中

土邊土

の論爭

いては、吉

川忠

『六朝精碗史

研究』

(同朋舍

一九八

四年)第

・中土邊

の論爭

を參

照。

・經星定躔

・六葉裏

「但

地李不當

天牛

、地上天多

、地下天少、世

人與天之高處相遠、四傍之低天則相近、天高

處望

度差於密、天低處望

度差於疏

、渾儀不可以

測」。同卷

・横

度去極

・八葉

「渾儀

不可測經

度、亦不可測横度、今既別立測經度法、亦當別立測横度法」。

「渾儀不

可測經度、亦不可測横度」とあ

ることから、趙友欽が經度と横度を封

にし

ている

ことが分か

る。

(7)

の潘薫と李迚

の論文を參照。李氏は潘氏

の考察をもと

に作圖

ている。當初、李氏

の論文は入手

できなか

ったが、最近、イ

ンター

ット

で檢索し

て論文を直接ダ

ウンロード

できるよう

にな

って作圖

ていた

ことを知

った。

・經星定躔

・六葉裏

の漏刻

の箭

の読明

の箇所

「毎

日天體繞地

87

Page 35: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

東 方 學 報

(28)

3029

(31)

(32)

周、

則是連

行三

百六十

六度餘

四之

]」とあ

り、さ

らに卷

一・天周歳

.十

二葉裏

「古

人又云、天與日會者、天鱧毎

日遶地而行

三百六十

度餘

四之

一、太陽毎

日遶

一周、計三百六十五度餘四之

一、天不可知

其體、但以經星言

之、天速

日遲

、毎日不及

】度、

一年而不及

一周、則

日復舊

躔」

とある。すなわち、

一日

に、天は地をめぐ

ること

三百六十

六と

四分の

一度、太

陽は地をめぐ

ること三百六十五と

四分

一度と

べて

いること

から、趙友

欽が現代

でいうと

ころの恆星

日と太陽

日を區

別し

いることが分かる。彼は、現代と異なり、地

ではなく天

の方が

囘轉す

ると考え

いる點

に注意。

お、中國

天文學

では周天

の度數を三六〇度

ではなく、

三百六十

度有餘

に分

つ。三百六十五度有餘に分か

つのは、周天度數を

一年

日數

に封應

させて

いるから

である。中國度

一度は、現行度

の○

.九

八五六度と

ほぼみなすことができる。藪内清

『増補改訂

・中國

の天文

暦法』

(平

凡瓧

一九

九〇年

)、二九四頁を參

照。

中國天

文學

では、周

天を三百六十五度有餘とす

る。

したが

って、

四分

一周

天は九

一度餘となる。注

(27)を見

よ。

前掲

『増補改

.中國

の天文暦法』、

二五〇頁。

西域

儀象

ついては次を參

照。宮島

一彦

「『元史』天文志

記載

のイ

ラム天文儀器

ついて」

(藪内清

先生頌壽

記念論文集

『東洋

の科學と

術』同

朋合、

和五

七年)、四

〇七-

二七

頁。前

『中

國天文

史』、四

・西域

儀象

一九九ー

二〇

二頁。

『周

髀算經』卷

「日兆月

、月光

乃出、故成明

月」。

『爾雅』釋天

・疏

「京

房云、月與

星辰、陰者也、有形無光、

日照之

乃有光

(略)

…」。

ョセ

.二iダム

『中國

の科學と文明』卷

五、六

〇頁參照

『夢溪

筆談』

卷七

・象

一・一三

〇條

「日

月之形

如丸、何

以知

之、以月盈虧可験也、月本無光、獪銀丸

、日耀

之乃光

耳、光

之初

生、

日在其

傍、故光

側而

所見纔

如鉤、

日漸遠、則

斜照、而

光稍滿

一彈

丸、以粉塗其

孚、側硯之

、則粉處如

鉤、對視之

、則正圜」。邦譯

は、

(33)

(34)

(35)

(36)

(37)

梅原郁譯注

『夢溪筆談』

(東

洋文

庫)第

一册、

一八六頁。

・月體牛

「以黒

漆毬

於簷

下映

日、則其毬

必有光

、可以轉

射暗

壁、太

陰圓

體、即黒漆

毬也

、得

日映處、則

有光、常

一邊

光而

一邊

暗、若遇望夜、則

日月躔度相封

一邊光處、全向於地、普照人間、

邊暗處、全向於

天、人所

不見、以後漸相近、而側相映、則向地之邊、

光漸少矣、至於晦朔

、則日月同經、爲其日與天相近、月輿天相遠、故

一邊光處、全向於

天、

一邊暗處

、卻向

於地、以後漸相遠、而側相映、

則向地之邊、光漸多矣

、由是觀

之、月體本無圓缺、乃是月體之光暗、

牛輪轉旋、人目不能盡察

、故

言其圓缺耳、至於日月封望、爲地所隔、

獪能受

日之光者

、蓋陰

陽精氣

、隔礙潛通、如吸鐵之石

・感霜之鐘、理

不難曉、

日月

不全瑩而似

瑕映

於内者、如明鏡映水之處則瑩、照地之處

則瑕

、以爲山河所印之景者

、是也」。

.陳致虚

『周易參同契

分章註』

卷上

.日月懸象章第三、同

『元始無

量度

人上品妙經

註解』卷

・六葉表

(『正統

道藏』第三

.縮

刷本

二〇〇三頁)、明

・屠隆

『鴻苞集』卷

一・二儀詭、明

・章漢

『圖書編』

卷十

・月變總敍

『開元占經』卷九

・日薄蝕

三に引く劉向

『五經通義』「日蝕者、月徃蔽

之」。

王充

『論衡』読

「或読

日、日食者、月

掩之也、日在

上、月在

下、障於

日之形也

」。前掲

『中國

天文學史』

一二

一頁、前掲

『中國

科學

と文明』第

五卷

・ω食

理論、二九〇1

八頁參照。

の二球

を使

って日食

を再

現す

るアイ

アは、明

の朱載埼

『律

暦融

通』卷

・日食

にも

「日如大

赤丸、月如小黒丸、共懸

一索、日上而月

下、師其

下、正望之

、黒丸

必掩赤

丸、似

食之

既、及傍

觀、有遠

近之

、則食數有多寡矣」

と見え

る。

『隋

書』

天文

・中

・七

「張

云、對

日之

衝、其

大如

日、日光

照、謂之闇盧、闇虚逢月則食月、値星則星亡

、今暦家月望行黄道

、則

闇虚矣、値闇

虚有表裏深

淺、故食南

北多少」。闇盧と

いう

ことば、

に引く

『靈憲』

に初出す

る。

『續漢書』

天文志

・上

・劉

昭註

所引張

88

Page 36: Title 趙友欽の天文學 東方學報 (2009), 84: 55-89 …...東 方 學 報 趙 友 欽 が 工 夫 し た 實 験 と し て は 、 ピ ン ホ ー ル 實 験 (卷 五 「小

趙友欽の天文學

3938410

400

『靈憲』

「當

之衝、光

不合

者、蔽

地也

、是

闇虚

、在星

微、月過

則食」。こ

『靈憲』

に見える闇虚

が、後

の闇虚

読と同

かどうかは微妙なと

ころで、む

しろ張衡は地影諡

に氣つ

いていた可能

性もある。

前指

の山田慶児

『朱子

の自然學』、

二六四頁。

史伯穃

『管窺外篇』卷上

.十

五葉表ー十六葉裏

「…

(略)

…愚竊、以

意揣度

、恐暗虚是

大地

之影、非有

物也、蓋

地在天

之中、

日度

天而

、雖

天大地小

、地遮

日之光、

不盡

日光、散出遍於

四外、而月常得受

、以爲明然

、凡物有形者莫

不有影

、地雖小於天、而不得爲無影、既

日有影、則影之所在、不得不在封月之衝矣、蓋地正當天之中、

日則附

天體而行、故

日在東、則地之影必在西、

日在

下、則地之影必在上、月

既受

日之光

以爲光

、若行値地影

、則無

日光可爰、而月亦無以爲光矣、

有不食

者乎、如

此則暗虚

只是地

影可見

、既

是地影

、則其大

不止如

日、又可見矣

、不然則

日光無所

不照

、暗虚既

日在封

日之衝

、何故獨不

日所照乎

、臆度之言、無所依據、姑記于此、將就有道而正焉」。

宋濂

『文憲集』卷

二八

・楚客封

・日月薄食

・十葉

「或

日、天鱧之内、大地在大虚之中

、亦爲大、

月望而緯

度不封

者、可偏受

日光

之全、大地

不可傍障

、若

望而

經緯倶

對、則大

地正當

其聞、所以相障

而月食

、食

不盡者

、稍有參差也

、愚卻

以爲

不然

、推歩闇虚者

、以比圓體而求月食、今大地卻非圓體、大地邊

四圍與

夫地平

之下、

不可見其

圓與不圓

、夜

牛前後

月食、難

以辨論

、悄食

於晨昏

出入之際、則須大地

之上如覆牛瓜

、今陽

城在地中

、非

(42)

(43)

(44

)46 45

m48 47

0

(49)

高於四遠、又且地平之北高南下、但見其平斜、地形非似孚瓜、則闇虚

不可言地景矣」。

卷三

.日月薄食

・五葉裏

「交前

四度三十五分、井交後

四度

三十

五分、

八度七十分、逋爲

「段、爲既外後限」

「既外後限」は、正しくは

「食既限」

の誤りである。

趙友欽以前

の文獻

に見えな

いと

いう

だけで、ただち

にこれら

のシミ

レー

ションが趙友欽

の獨創だと即斷するわけ

には

いかな

い。歴代

の暦

の編纂

にと

っては、こ

のよう

な方法

はす

でによく知

ていた

が、文獻

に記載

され

ていな

いと

いう

可能性も

ある。

『四庫全書簡

明目録』卷十

一・子部六

・天文算法

・原本革象

新書

「元趙友欽撰、舊題趙緑督者、其號也。原本久佚、今從永樂大典録

出。其名

日革象

、蓋

取革卦

大象之

文。」。注

(1)

}

<o涛o<樋.QQ♀

穹8

⇔民

U口o凶ω日

一〉口ぎ肓o臼

&o戸.、燭P

G。㊤ムO。

象日、澤中有火、革、君子以治麻明時。

正義日、澤中有火、革者、火在澤中、

二性相連、必相改變、故爲革象

也、君子以治麻明時者、天時變改、故須暦數、所以君子觀茲革象

、脩

治麻數、以明天時也。

前掲

「趙友欽

の生涯」、八三

一I

二頁參

照。

日本

・京都

大學附屬

圖書館所藏

『道書

全集』

(本館

・書

庫内圖書)

に收

録す

『仙佛同

源』

の趙友

の序

「胡

元江左散

・今

四明入

・金陽縁督子趙友欽序」とあ

る。

たとえば、陳致虚

『元始无量度人上品妙經註解』を見よ。

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The ToM GakuM Journal of Oriental Studies (Kyoto) No. 84 (2009) 55 ~ 89

Astronomical Studies by Zhao Y ouqin

Shinji ARAI

Zhao Youqin iE!!!bl&J;: was a Daoist priest of the lindan-dao ~ftili School who saw

his best days in the first half of the 14th century. He was also the master of the

noted Daoist priest Chen Zhixu ~*3'J:m. But he wrote an astronomical book entitled

Gexiang Xinshu :if!: ~ %'Jf!t. a unique book in the history of Chinese astronomy. This

paper. based on this book. deals with (1) his cosmological theory. (2) astronomical

instruments devised by him. (3) his views of eclipses and (4) the meaning of the ti­

tle of his book. In addition. simulations contrived by him to explain astronomical

phenomena by using pieces of paper and wood are also introduced in the paper.

His simulations are evidence which shows that an approach to a better understand­

ing of nature through experiment already existed in China in the 14th century.

The ToM GakuM Journal of Oriental Studies (Kyoto) No. 84 (2009) 91 ~ 138

On the Regulations concerning the Use of 'Phags-pa Letters

in Yuan Administrative Documents

Gakusho NAKAJIMA

In this paper. the author re-examines regulations on the use of 'Phags-pa letters

III the official document system in the Yuan period. by analyzing basic legal sources

such as Yuandianzhang:IT; $ ~ and original administrative documents found at

Qaraqota. When 'Phags-pa letters were promulgated by Khubilai Khan in 1269.

their use was limited to Imperial edicts issued by the Khan and imperial clans by

the Mongolian language. But through the later reign of Khubilai, the use of 'Phags­

pa letters was gradually extended to various official documents such as the Imperial

307