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Title ヘーゲルの有用性論 Author(s) 竹内, 章郎 Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[25] p.[14]-[32] Issue Date 1989 Rights Version 岐阜大学教養部人文科学 (哲学) (Faculty of General Education, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47791 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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Page 1: Title ヘーゲルの有用性論 [岐阜大学教養部研究報告] …...竹 内 岐阜大学教養部人文科学(哲学) (1989年10月17日受理) 章 郎 17 ヘ ー ゲ ル の有

Title ヘーゲルの有用性論

Author(s) 竹内, 章郎

Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[25] p.[14]-[32]

Issue Date 1989

Rights

Version 岐阜大学教養部人文科学 (哲学) (Faculty of General Education,Gifu University)

URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47791

※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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竹 内

岐阜大学教養部人文科学 (哲学)

( 1989年10月17日受理)

章 郎

17

ヘ ー ゲ ル の 有 用 性 論

I . は じ めに

II . 有用なものの相互依存関係

III . 信仰主義の刻印

IV. 関係自体としての有用性と共同性

V. 有用性の世界の分裂性

VI. 結びにかえて

I は じ め に

哲学史ないし思想史上で功利主義といえば, フランス啓蒙思想の中でも最も明確に最大幸福論を

主張したエルヴェシウスや, 彼の 『精神論』 を座右の書とし, イギリス市民社会= 国家の構造的安

定を計るための統治= 法制論の基礎を構想したベンタム, 更には, ベンタムの構想の道徳主義化を

めざした J. S. ミル等の議論を挙げ, これらの議論を通じて功利主義を論ずるのが妥当であろ う。

しかし, 現在に至るまでの功利主義研究にあっては殆ど無視されてきたことだが1), フランス啓蒙思

想の政治的表現でもあったフランス革命の理念と実態の洞察, 及び「市民社会」への内在とその「国

家」 への 「止揚」 の志向を自らの哲学的営為の重要な契機としていたヘーゲル哲学にあっても, 功

利主義論は有用性論として無視しえない位置を占めている2)。 この点で, 功利主義研究自体において

もヘーゲル有用性論は無視されてはならないと思われる。 しかも, 自らを功利主義者と規定したイ

ギリスやフランスの論者に比べると, 功利主義を (歴史的に3)」把握したヘーゲルにあっては, 功利

主義が相対化されているが故に, 上述の論者にはない独自の功利主義把握がみられるのである。本小

稿は, 『精神現象学』において有用性論4)として知られる箇所(111391-441) を主要な対象として, ヘー

ゲル独自の功利主義把握の論理を論じつつ5), この論理の現代的意義を示唆し よ う とするものであ

る。

II 有 用 な も の相互依存 関係

ヘーゲルは 『精神現象学』 の精神の章において, 近世の啓蒙主義が分裂的且つ相互補完的な理神

論と唯物論とを自らの内に孕んでいる点を論じつつ, この啓蒙主義が中世的な信仰主義6)に対して

持った歴史的意義, 即ち, 現世主義的人間主義を, この信仰主義との相互連関を踏まえて確定して

Die Theorie der NUtzlichkeit bei H egel

Akir6 TAKEUCH I

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竹 内18

いる。 そして更に, この啓蒙主義を有用性論として論じながら, 有用性の論理構造を詳細に描写す

るだけでな く , 有用性論を近代の人権思想の一原型たるフランス革命思想の抽象的な自由論へと「止

揚」する叙述様式を通じて, 有用性の世界が乗 り越えられるべき世界であることを示七ている。 『精

神現象学』 に収斂するイェ ナ期初期以来のヘーゲル哲学の展開という点からしても, ヘーゲル有用

性論は, 観察する理性の節の結論及び良心の章の結論と並んで 『精神現象学』 全体の意識一対象関

係論, 即ち, 社会哲学ないし実践哲学に開かれた認識論7)を支える中軸的論点と して重要である(Vgl.

111576ff.) 。 が更に, 有用性論は, 自らの哲学は 「下位の欲求」 から始まると宣言したヘーゲルが哲

学の要求の源泉として位置づけた時代の不自由な教養(Vgl. 1120) , 即ち疎外された精神における理

想的世界と現実的世界との分裂及びこれを総括する議論 (Vgl. Ⅲ430f.) と して も枢軸的なものと

なってお り, それ故に, 功利主義論自体としても極めて興味深い。 『ラモーの甥』を援用した対立諸

規定の相互転倒が有用性論の展開に大きく影響している点 (Vgl. H1383ff.) や, 感覚論を理神論と唯

物論との媒介論と して位置づけている点からも判るよ うに, ヘーゲル有用性論は, ディ ドロやエル

ヴェシウスに代表される18世紀のフランス啓蒙思想の功利主義を直接の対象としている。 しかしま

た, 諸個人の相互的な利用の普遍的な相互承認を描いている (Vgl. 111415ff.) 点からすれば, 特殊的

欲求ないし利己的目的の 「全面的依存性の体系」 としての 「市民社会」 (Vgl. V11339f.) の論理の根幹

をも示している。 従って, 自らの統治= 法制論め基盤と して 「人は有用性の原理を攻撃しよ う とす

る場合にも, 自覚することな く , 有用性の原理自身から導出された理由に基づいている8)」 と述べ,

市民社会= 国家における功利主義の普遍性を説いたベンタ ムの功利主義を, 事実上把握してもいる。

ところでレヘーゲル有用性論がそのよ うに 「市民社会」 の論理の根幹を示しているとすれば, 従

来のヘーゲル社会哲学の研究の在り方に関して, 一つの疑問が生じると思われる。 それは, イェ ナ

期の所謂実在哲学論稿との関連をも踏まえた 『法の哲学』 の研究を中心として, 「市民社会」 及びこ

れの 「国家」 への 「止揚」 の論理についての莫大な研究成果がある一方で, 「市民社会」 の基礎をな

す論理としての 『精神現象学』 の有用性論自体の研究が殆ど見られない, とい うこ とである。 尤も,

このことの理由は極めて単純である。 というのも, 既に示唆し, また後に詳論するよ うに, 『精神現

象学』 の有用性論では, 相互に利用しあ うこ との普遍性や欲求の全面的依存性といった現世主義的ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

人間主義の論理が, 中世的で彼岸的な信仰主義の論理との連関において捉えられてお り, この点で,

『法の哲学』 等の 「市民社会」 論の論理を越える内容が含まれているからである。 逆に言えば, 既

存の諸研究においては, 有用性論は, 対立諸規定の相互転倒の論理や相互的利用の普遍性の論理と

してのみ 「市民社会」 論の基礎だ りえたのであるが, そ う した有用性論の把握は, 既に 『法の哲学』

の欲求の全面的依存性の把握に席捲されてお り, 『精神現象学』の有用性論全体を射程に納めたもの

とはならないからである。 また, 「市民社会」 論への展開を意図しない 『精神現象学』 の解釈を意図

する議論にあっても, 有用性論自体の解釈としては, 上記のよ うな意味での 「市民社会」 論重視の

研究と大同小異だった と思われる9)。

さて, ヘーゲル有用性論には周知の次の叙述がある。 「有限な現実態は, 実際に, 人間がまさに必

要とするのに応じて受け取られうる」 (H1415) 。 「人間は自分のために配慮するのと丁度同じだけ他

者のために尽力せねばならず, そ して他者のために尽力するのと同じだけ自分自身のために配慮す

るのである。 つま り, 一方の手は他方の手を洗 うのである。 ……人間は他者を利用すると共に利用

されている」 (H1416) 。 「一切のものは, 即自的に存在するのと同じ く一つの他者に対して存在する。一

即ち, 一切のものは有用なのである」 (H1415) 。 以上の有用性論の叙述は, 確かに, 欲求の全面的依一

存性としての 「市民社会」 の論理と等置される有用なものの相互依存関係とい う現世主義的な論理

を示している。 こ こには, 人間を もこ う した相互依存(関係を意識している物lO)」 (Ⅲ415) にしてし

ま うよ うな謂わば非人間的な論理があるが, このこと も, 下位の欲求を無視することな く現世主義

章 郎

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ヘーゲルの有用性論 19

的に人間を肯定するための前提なのである。 こ うしたA. ス ミス的な予定調和の世界の内実は, フ

ランス啓蒙主義者, 例えば, ディ ドロによっても, 「我々全員は, 我々が我々自身を支配しているよ

うな社会の幸福のために働かねばな らぬ。 つまり, 社会の幸福は, 他人の満足を犠牲にして我々がゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

満足するといったことが絶対にない ということに帰着する11)」という形で描かれており, 上述の有用

性論は, ヘーゲルによる, 周知のイ ェナ期初期のイギリス古典派経済学研究と共に, フ ランス啓蒙

思想研究に裏づけられた確固とした ものではある。 しかし, 『精神現象学』 の展開に則するならば,

そ う した有用なものの相互依存関係 としての現世主義的人間主義を描く こ とだけに収斂する有用性

論の把握は, 有用性論の半面の把握, 誤解を恐れずに言えば, 有用性論の表層の把握でしかない。

III 信 仰 主義 の刻 印

というのも, ヘーゲルによれば, 啓蒙主義によって成就される有用性の世界は, 一面では, 中世

的で彼岸的な信仰主義と徹底的に対立している人間主義的現世主義たる近代的な功利主義の世界で

はあるが, 他面ではこの信仰主義の論理を殆ど受容した ところに成立している世界だからである。ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

換言すれば, ヘーゲル有用性論の論理自体には, 信仰主義における絶対的存在と感覚的な物との,ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ・ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

また この双方への信仰という絶対的に対立するものの分裂的結合関係が刻印されているのである。

そ して↓ この分裂的結合関係が即自 (Ansich) と対他 (FUr einAnderes) との関係 と して純粋抽

象化12)されることが, 同時にまた, 現実態 [現実世界Dこおける「一切が, 人間の満足と快楽のため

にある」 (H1415) よ うな事態, つま り, 現世主義的人間主義の集約的表現と しての欲望自然主義及

びこれに基づ く有用なものの相互依存関係の成立を意味するのである。

ヘーゲルによれば, 有用性の世界の成立の前提には, 啓蒙主義が信仰主義との闘争に勝利すると

いうこ とがある。 この勝利の内実は, 啓蒙主義の精神を体現し 「人間の権利」 (111417) を代表する

純粋透見とい う自己意識が, 「実在を実在と して知るのではな く , 絶対的自己として知 り, ……自己

意識にとっては他者となる自立的な もの一切を廃棄して」 (H1397) , 自己自身以外の対象を無化し,

こ うした 「自己の実現 [つまり現実化]」 として 「純粋透見自身が自分にとって内容として生成して」

(H1405) , 或は「他者なる存在ないし規定態を自らにおいて定立して」 (Ⅲ424) , 教養の世界を新た

に創ることに他ならない。 これは, 一般的な啓蒙主義の言葉と考え方に係わって言えば, 人間の理

性にさえ依拠すれば世界が革命的に新たに創造され, 創造された世界はこの理性の自己実現である

からして, 信仰主義を担保していた封建主義的ないし絶対主義的秩序 [アンシャン ・ レジーム] で

ないのは無論のこと, 理性の 「自己」 とい う規定以外の何物でもない, とい う主張である。

ところが更に, ヘーゲルによれば, 自己以外の一切の自立的実在を空虚なものと見る純粋透見は,

この空虚さを知る自己自身の空虚さに典型的に現れるよ うに, 「いかなる固有の活動性も内容も持つ

ことはできず」 (111399) , 謂わば世界について無内容で空疎な 「判断」 「論評」 「理屈付け」 をなすも

のに留ま りかねない。 純粋透見たる自己意識が, 実際に, 「自己」の実現として世界を創 り変え うる

ためには, 世界についての内容が純粋透見自身とは別に, 外から与えられな くてはならないのであ

る。 この内容を与えるものこそ, 例え, 単なる 「純粋思考物」 (111394) と してではあれ, 自らの対

象を自らとは異なる絶対実在として持っている対象意識としての信仰する意識なのである。 それは,

歴史的にいえば, 迷信と先入観によって蒙昧の極致にあったとはいえ, 大衆の無邪気な信仰心を基

盤に, 僧侶階層と専制君主との結託によって維持されていた現実的なアンシャンレジームと, これ

の精神的内容としての信仰主義 (Vgl. 111401) なのである。 それ故, こ う言われる。 「純粋透見は,

自らの現実化においては, こ うした [自己実現という媒介的運動としての] 自らの本質的契機を展

開しはするが, この契機は自らにと っては信仰に属するものとして, また自らにとっては外的なも

のであるとい う規定性において現れる」 ( 111410) 。 従って, 一方では, 自己意識たる純粋透見が「自

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己」 の実現と して有用性の世界を創 りだすには, 純粋透見には, 対象意識たる信仰する意識を通じ

て, つま り, 信仰主義の受容を通じて世界についての内容が与えられていなければならない。 他方

では, 自らに内容を与える信仰主義との闘争を通じて信仰主義に勝利することによってのみ, 有用

性の世界は実現し啓蒙主義の本領が発揮されるのである。 しかも, 勝利とは, 「一方の党派が攻撃し

ていた原理を, この党派が自分自身において持つことを示す」 (111425) こ とである13)ので, 信仰主義

に対する啓蒙主義の勝利の内自体にこの両者の媒介があって初めて, 有用性の世界が成立すること

にな る。

この媒介の端緒に関して留意すべきことは, 信仰主義においても既に, 意識の彼岸としての絶対

実在 [即ち神] という超感覚的なものが信仰されていると同時に, 謂わばこの神の化体とされる木

石や擬人的なものといった意識の此岸として感覚的なものもが信仰されている, とい うこ とである。

ヘーゲルの言を挙げる と, 「信仰する意識は, 現実態の彼岸とこの彼岸とは異なる全くの此岸とを持一

つとい う分裂した意識であるので, 信仰する意識においては, 感覚的な物が絶対的に妥当するとい

う見解もまたある。 しかし, 信仰する意識は, 即且つー に存在するものについて, これが自ら

20 竹 内 章 郎

にとって一方では純粋実在 [即ち絶対実在] であり, 他方では平凡な感覚的な物であるという二つ

の思想を統合しはしないのである] (H1420) 。啓蒙主義, 従って純粋透見は, こ うした分裂した信仰

主義と闘いこの分裂を架橋することによって信仰主義に対して勝利を納めるが, この勝利は, 啓蒙

主義が, 上記のよ うなそれ自体としての信仰主義の内実は解体しつつも, 信仰主義の論理自体は自

らに謂わば内化してゆ く過程なのである。

迷信と先入観に囚われた信仰主義に対して, 人間の権利を代表する啓蒙主義や純粋透見は, 信仰

主義の中では最も自己意識的である大衆の信仰する意識と自らとが共通の基盤に立っている こ と

(Vgl. Ⅲ401f.) に依拠 して, 次のよ うに信仰主義を解体する。 まず第一に, 彼岸として信仰されて

いる絶対実在について, 「一切の規定態を, 即ち, この絶対実在の一切の内容と内実を, 有限態としー

述語も付与されえない真空」 (m413) で しかないことを透見して。 第二に, 「絶対実在から排除されー

だ意識及び一切の存在の個別態一般が絶対的な即且つ対自的な存在と して」 (Ⅲ413) 存在することー

を把握し, 「感覚的確信の一切の彼岸の……空無性」 (111414) を透見し, 絶対実在と取 り違えられも

するが実際には感覚的な物でしかないものを, その本来の姿において, つま り, 感覚的確信に照応

するが故の絶対的なものだと透見して。 結局, 信仰主義の解体を通じて, 啓蒙主義は, 信仰主義の

内実一切を, 謂わば人間性を体現している限りの純粋透見 [つまり自己意識] の同一の 「自己」 の

内に還元して, これを抱え込むこ とになるのである14)。

こ う して, 啓蒙主義は, 信仰主義から内容を受け取 りながら, 迷信と先入観に支配されていた信

仰主義の実態を謂わば人間の立場から明らかにして, 信仰主義を解体しこれに勝利するが, この勝

利は, 同時に, 既に触れたよ うに, 啓蒙主義が自らの内に信仰主義を受容することでもある。 とい

うのも, 有用性の世界自体においても, 一方では, 絶対実在は, 例え信仰主義との関連では空虚な

真空になったと しても, 疎外された精神としての啓蒙主義の教養が生みだす 「純粋存在」 - これ

は, 理神論の 「至高存在」 と唯物論の 「純粋物質」 として区別されるが, 純粋透見とい う自己意識

の産物としては同一概念である として存続するからである(Vgl. Ⅲ426f.) 。 また他方で, 中心的

間的な実在ないし として把握するこ とによって」, 絶対実在それ自体が「いかなる規定もて ,

には彼岸を志向する信仰主義においては謂わば影の存在でしかなかった感覚的な物やこれに照応す

る感覚的意識 (確信) が, 有用性の世界においては 「自然的」 で,あるが故の絶対的なものとして表

出するからである。 そ して, 以上のよ うにして, 絶対実在と感覚的なものの両者が関係するという

信仰主義の基本図式は有用性の世界においてもそのまま残る結果, 有用性の世界自体にも, 信仰主

義における絶対的存在と感覚的な物との, またこの双方への信仰とい う絶対的に対立するものの分

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の [であるが絶対実在] を持っており, 純粋透見が感覚的現実態をこの空虚なものに関係づける」-

のであるが, 「この関係の形態という規定には即自的なもの [である絶対実在] という側面が加勢しー

ているのであって……, 感覚的なものは, まずは, 即自なものとしての絶対的なもの [という絶対

実在] に肯定的に関係づけられ, 感覚的現実態がそれ自身即自的に存在し, 絶対的なものがこの感

覚的現実態を創 り, 保護し, 養育するのである。 他方では, 感覚的なものは, また, その反対のも

のとしての, つまり感覚的なものの非存在としての絶対的なもの[という絶対実在]に関係づけられる

ヘーゲルの有用性論 21

裂的結合関係が刻印されることになるわけである。 こ うしたヘーゲルの啓蒙主義及び有用性の把握

は, 直接には, フランス啓蒙思想のヘーゲル的受容に他ならない。 ともいうのも, 例えば, ディ ド

ロは, (物質的宇宙の外部に置かれたなんらかの存在とい う仮定は不可能である15)」 と述べることに

よって, 神とい う存在を否定しながらも, 他方 『百科全書』 の 「社会」 の項目では, 「宗教の権威

が, たんに, 社会に多 く の平穏さ と楽しみとを もた らす為にだけでな く , 義務の遵守の保証と政府

の維持の為にも絶対に必要であることが明らかになる16)」, と主張して, 有用性の世界における宗教

の存続を積極的に肯定しているからである。

さて, 上記のよ うな信仰主義における絶対的に対立するものの分裂的結合関係は, 啓蒙主義ない

し有用性の世界においては, いかなる姿を とるのか。 一方に 「至高存在」 としてにせよ 「純粋物質」

としてにせよ, 絶対実在の絶対性があり, 他方に 「絶対的真理」 (111414) とまで言われる感覚的な

物ないし感覚的意識の絶対性があるとすれば, この対立する両者は対等に関係するよ うに思われる。

しかし, ヘーゲルによればそ うではない。 しかも, 対等でないとすれば, 欲望自然主義をも想起さ

せる有用性の世界においては, 感覚的現実といった自然的規定に重きがあるのが当然のよ うに思わ

れるかもしれないが, そ うでもない。逆なのである。 「純粋透見は, 対他存在の彼岸として空虚なも

に対して存在する [ という対他存在にすぎない]」 (Vgl. 111414f.) 。 つまり, 有用性の世界において

は, 即自的に存在するにせよ, 対他的に存在するにせよ, 感覚的なものといった自然的規定一切は,

必ず, 啓蒙主義が生みだした教養の産物にすぎないにも拘らず理神論の「至高存在」や唯物論の「純

粋物質」 として絶対化されている絶対実在に規定されてのみ, 存立し うるのである18)。

それ故, ヘーゲルは, 有用性の世界における意識の 「自然」 性についても, 慎重に, 「自然的」 意

識が 「存在する」 とは言わず, 『精神現象学』 の展開の中での経験の結果として, と りわけて, 疎外

された精神における教養の結果として 「自然的」意識が形成されることを強調し, 「意識は, ここで

は, 無媒介の自然的意識ではな く , 自らに対して自然的意識へと生成してきたのである (gewoydeu

iSt) 」 (111414) , と述べる。 通常の功利主義把握が, 有用なものの相互依存関係ないし諸個人の相互

利用関係の普遍性といったことの基礎に, 有用性の基準として欲求その他の感覚的規定ないし 「自

然的」 規定の全面肯定を位置づけていることを省みる時, こ うしたヘーゲルの把握は, 極めて興味

深い。 とい うのも, ヘーゲルによれば, 有用性の世界が唱揚する 「自然」 及び 「自然とされること」

の一切は, 普通の言葉でいう ところの 「あるがまま」 の 「自然」 で 「自明」 なものなどではな く ,

理神論の 「至高存在」 及び唯物論の 「純粋物質」 を絶対実在として 「信仰する」, 時代の啓蒙主義イ

デオロギーに貫通された限りでの 「自然」 でしかない。 従って, 現世主義的人間主義としての功利ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

主義の最内奥の根拠として 「自然」 を持ち出すことは, 全 く の誤 りとい うこ とになるからである。

例えば, ベンタ ムは, 「人間の構造の自然的構成によって, 人は, その生涯のたいていの場合に考え

ることもなく , この [有用性の] 原理を奉じている19)」 と述べ, この点を功利主義の普遍性の最終的

根拠として位置づけたが, ヘーゲルからすれば, 功利主義者ベンタムは功利主義を捉え損ねたこと

になるのである。

のであ り, この相関関係17)からして, 感覚的なものは即自的に存在するのではな く , 単に一つの他者

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IV 関係 自体 と し て の有用性 と共 同性

では, 前節で述べた有用性論の内に刻印されている信仰主義における対立するものの分裂的結合

関係の論理と, 既にII節で触れたよ うな有用なものの相互依存関係の論理或は即自的規定と対自的

規定との相互転換を示す論理とはどのよ うに関連しているのか。 しかし, この点を明らかにするた

めにはけ

の独自性を検討してお く必要がある。

有用なものの相互依存関係を意識している物と しての人間を含めて, 有用なものは, 欲求の全面

的依存性といったことに典型的に現れるよ うに, 相互依存関係の内に存在している有限な現実態で

ある。 しかし, 有用なものとい う表現自体には, 有用なものが, 従ってまた, 有用性が個別実体的

に捉えられるかのような響きがある。 実際, ヘーゲルも 「有用なものは, 一つの即自的に [つまり

絶対的に] 存立しているもの或は物である」 (111. 429) と述べ, 有用性自体の個別実体的把握を示

すことがある。 有用性のこ うした把握に留まっていれば, それは, ベンタム的な有用性自体の把握

と何ら変わるところがない。 ベンタムは, こ う述べているからである。 「有用性が意味するこ とは,

何らかの対象に固有の性質であって, この固有り性質によって対象が, その利益が考慮されている

当事者に, ……’決楽を産んだ り……, 苦痛の生起を妨げた りする傾向を もつこ とである20)」。 しか

し, ヘーゲルは先の引用に続けて次のようにも述べる。「こ うした即自的存在[としての有用なもの]

は同時に単なる純然たる契機にすぎないものである。 従って, 即自的存在は, 全 く一つの他者に対

こ [つまり対他的に] 存在しているのである。 しかし [まとめて言えば] , 有用なものは即自的に

存在しているのと同じようにもっぱら一つの他者に対して存在しているのであり, こ うした [即自

と対他という] 対立する諸契機は対自的存在という [それ自身として存在する意味での] 不可分の

統一へと還帰してしまっている」 (111429) 。 また, 「即自的存在, 一つの他者に対する [という対他

章 郎竹 内22

と も言われる。

以上のヘーゲルの言を敷行して明かになることは, 一言で言えば, 有用性自体が関係自体, 即ち,

即自一対他一対自とい う諸規定の相互依存関係自体であるとい う こ とである。 もっ とも, この関係

性については, 上記の引用からすれば, 諸契機の不可分の統一とい う関係と諸契機の自らの内に還

帰しない交替とい う関係との違いがある21)。この違いは次節で論ずることにして, この違いを捨象し

ても語 り うることは, 有用性自体が, ベンタム的に対象の性質等々として個別実体的に把握できな

い, というこ とである。 即ち, いかなるものについても有用性とい う規定が把握されるとすれば,

この有用性はこのものの即自的な絶対的な存在性による事柄ではな く , 必ず, 他のものに対する関

係, このものの対他性と即自性との媒介によって規定されているというこ とであ り, 逆に言えば,

このものがそれ自身として対自的に有用なものとして把握されるとすれば, この対自性の内には,

既に, 対他的な存在性と即自的な存在性との媒介が含み込まれている, というこ とである。 つまり

は, 有用性自体が相互依存関係とい う関係自体なのであって, この有用性= 相互依存関係自体は有ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

用なものの相互依存関係とは区別されな く てはならないのである。

ところで, 有用性の世界が利己的目的や主観的欲求等々の偶然的恣意の全面的依存性としての「市

民社会」であるならば, 有用性の世界の実際は, 「諸対立とその錯綜において, 放蕩と困窮の光景及

びこの二つに共通する肉体的且つ倫理的な退廃の光景を示し」 (V11341) , 「富の過剰にあって十分にー

は富んでない」 (Ⅶ390) 社会にすぎない。 こ うした点及び相互に利用し合 う とい う典型的な言葉の

響きからすれば, 有用性の世界に共同性といった要素が入り込む余地は全 く ないよ うに思われる。

しかし, 『法の哲学』 が描 くそ うした 「市民社会」= 有用性の世界においても, 「私的人格が利己的で

替……, 即ち有用性」 (H1428) ,的] 存在及び対自的存在という諸契機の自らの内にはー

帰しない

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ヘーゲルの有用性論 23

同性を産みもするのである。 換言すれば, 「人間が他者を利用すると共に利用されている」 (H1416ブ

とい う世界は, 同時に, 「人間の使命が, 人間自らを, 諸組織の共同的に有用で普遍的に使用されう

る構成員にすることにある」 (Ⅲ416) 世界として, 共同体を も構成するのである。 利己的目的とか

相互に利用し合 うといった言葉にのみ依拠した有用性概念の把握と, 共同性をある種の極めて麗し

いものとして捉える共同性概念の把握からすれば, このよ うな有用性の世界が同時に共同性の世界

でもあるといった把握は, 矛盾そのものでしかないことになる。 にも拘らず, ベンタ ムの功利主義

論も, 最大多数の最大幸福を主張するものとしては, 公共善としての共同性概念を含みうるのであっゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ・ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

て, こ う した点からしてもレ相互依存関係を媒介にして有用なものの相互的利用の内に共同性概念

が把握されても22)不思議ではないのである。

しかし, ベンタム的に, 以上のように有用性の世界の中で共同性概念を把握する場合, 共同性概

念は, 有用なものが確定された後に, この有用なものによって構成される概念という域をでない。

つま り, 共同性概念は, 個別実体的な有用なものの相互依存関係においてのみ成立するのであるが,

こ う した把握にあっては有用性の確定と共同性の成立とは, 関連する とはいっても, さ しあた りは

別次元の事柄となるので, 有用性と共同性とが背反することも十分にあるのである。 例えば, ベン

タム的伝統の内にある功利主義においては, 有用なものの相互依存関係を反映する快楽計算が公共

善= 共同性の実現のために必須となるが, この快楽計算を実質化する場合には, 本来的には相互依

存関係によって内在的に結合されるべきであるに゙も拘らず個別実体的に特定される快苦と, 所有の

安全等々といった公共善とが外的に対置される, といった事態が生じるのである。 ここには, 個別

実体的な有用なものの確定と公共善= 共同性 [という有用なもの] の実現との間に乖離が存在する

ことが見られ, この両者の間に, 例えばベンタ ム的な, 立法者ないし統治者による快楽計算と して

の当為的連関が挿入されることにもなる23)24)。 ところが, 既に見たヘーゲルの場合のように, 相互依

存関係が有用なものの相互依存関係としてだけでな く , 有用性自体の成立要件としても把握されれ

ば, 事態は変わって く る。 即ち, 有用性自体が当のものの即自一対他―対自の相互依存関係自

体であ り, この相互依存関係自体として共同性が成立するとすれば, 有用性と共同性とが乖離せず,

この両者を当為によって外的に結合する必要はな く なるのである。 つまり, 有用性概念の側からみゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ 。ゝ ゝ ゝ ゝ

れば, 有用性が確定するとい うこ とは, 同時に共同性の成立を意味し, 共同性概念の側からみれば,ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

共同性の成立につながらない有用性はありえない, とい うこ とになるのである。

以上の点は, 相互に利用し合 う といった言葉の響きからしても, また, ベンタム的な功利主義論

からしても, 共同性論とは背反しかねない有用性論を, その最内奥から共同性論として基礎付け,

共同性論自体を一切の諸規定の端緒において, 存在的に一 当為的にではな く25)一 基礎づけたこ

とを意味するであろ う。 欲求にせよ, 特殊的目的にせよ, 有用性の世界を構成する端緒的規定とし

ての有用なもの自体が共同的なものであることを論証したことこそ, 相互依存関係とい う関係自体

としての有用性の把握だったからである。 とすれば, ヘーゲルは, 有用性の世界を共同的な世界と

してのみ位置づけたのであろ うか。無論そ うではない。 この点は, 既に見たよ うに, ヘーゲルにあっ

ては, 「市民社会」としての有用性の世界が, 富と貧困を初めとする諸対立と紛糾の世界であったこ

とからも推測されることである。 しかし更に, ヘーゲルは, そ う した現象レヴェルでの共同性の否

定を論じているだけではない。 つま り, ヘーゲルは, 一切の諸規定の端緒において共同性論を基礎

付ける有用性の議論の只中において, 同時に, 共同性を否定する謂わば分裂性と弧立性の論理を示

し, 有用性の世界が共同的でありながら, 同時に, 非共同的な世界でもあるこ とを論じているので

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24 竹 内 章 郎

ある。 この点を明らかにすることは, また, 既に触れた, 有用性論の内に刻印されている信仰主義

における対立するものの分裂的結合関係の論理と, 有用なものの相互依存関係の論理及びその根幹

にある有用性自体の相互依存関係性を示す論理との関連を明らかにすることになるはずである。

V 有用性 の世界 の分裂性

人間をも含む感覚的なものの有用性が即自一対他一対自という諸契機の相互依存関係自体である

場合, 感覚的な当のものの対他存在性を担保するのは, 感覚的な他のものであり, この感覚的な他

のものに対しては当初の感覚的な当のもののみならず感覚的な第三の他のものが対他存在性を担保

する(H1428f.) 。 従って, 有用性は, 現実的世界における感覚的な他のものの謂わば無限の連鎖に基

づ く対他存在性によって こそ存立する, と も言える。 しかし, ヘーゲルは, 相互依存関係自体とし

ての有用性を論ずる中で, 無限の連鎖の中にあれば究極的なものとしては出現しえないはずの感覚

的な他のものを, 「他のもの」 とい う規定の同一性を媒介に, 「絶対実在」 と しての究極的な他のも

のにも結びつけている。 このことは, 現世主義的人間主義を示す有用性の世界が感覚的なものを基

盤とする現実的世界としてのみ存立していることからすれば, 了解され難いことかもしれない。 し

かし, 既に述べたよ うに, 有用性の世界にあっては, 感覚的ないし自然的な当のもの一切も, それ

らが有用なものである限りは, 理神論の 「至高存在」 や唯物論の 「純粋物質」 等の絶対実在 [とい

う他のもの] に規定されてのみ, 存立し うるのであって, この点からすれば, 相互依存関係自体と

しての有用性といった規定を最も大きな枠組みにおいて担保することが, 感覚的なもの[当のもの]

と絶対実在 [他のもの] との間に成立する即自性と対他性との関連であるのは, 不思議なことでは 。

ないのである。

実際ヘーゲルは, 感覚的なものが即自存在でないことを主張するために, 「こ うした[感覚的現実

態と絶対実在との] 相関関係からして, 感覚的現実態は即自的に存在するのではなく, 単に一つの

或は, 絶対実在の規定力につらなる 「他のもの」 であることは明らかであろ う。 しかし, この引用

文を論拠とする箇所では, 「それ故, 一切のものは即自的に存在すると同時に, 一つの他のものに対-

に対して冷淡に振る舞い, 自らのために存在し, 自分の方で他のものを使 うのである」 (Vgl. 111

414) , と言われる。 ここでの 「他のものども」 ないし 「他のもの」 が人間をも含めた感覚的なもの

といった現実態でもあることも, また明らかであろ う。つまり, 「かの否定的彼岸が必然的に移行し

てゆく この感覚的存在」 (H1426) とも言われて, 彼岸 (絶対実在) と感覚的存在との謂わば連続性

が示されているこ とから判るように, 「絶対実在」としての彼岸の究極的な他のものが, 「他のもの」

とい う規定の同一性を媒介にして, 無限の連鎖の中にあれば究極的なものと しては出現しえない此

岸の感覚的な他のものにも結び付けられるのである。 このよ うにして, 信仰主義に根を持つ絶対実

在と感覚的なものとの分裂的な結合関係が, 現実的世界における有用性自体の規定の内にも浸透す

ることになる。 では, この分裂的な結合関係に浸透された有用性自体の規定, しかも相互依存関係

自体としての有用性の規定はいかなる構造をもつのか。

前節で, 有用性自体は即自一対他一対自とい う諸契機の相互依存関係自体であると述べた際に,

即自と対他とい う対立する諸契機が対自存在とい う不可分の統一に還帰するとい うヘーゲルの叙述

を引用しておいた。 確かに所謂 『大論理学初版』 等では, 対自存在という契機は, 即自存在及び対

他存在という契機に対しては, これらを統一した包括的契機ないし規定であり26), 諸契機の不可分の

統一としての対自存在とい う, 先の引用文とも整合するこの点に依拠すれば, 相互依存関係自体とし

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25ヘーゲルの有用性論

とを表現しているわけである。

有用性の世界における非共同性, 弧立性, 分裂性は, ア ト ミズムを示していると言ってよいし,

関係性を否定する個別実体性を示していると言ってもよい。 しかし, このア ト ミズムないし個別実

体性は, ベンタ ム的に有用なものを個別実体的に把握するが故に生じるア ト ミズムではない。 といゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

うのも, 個別実体性の正反対に位置するといってよい関係性と しての共同性を実現すること自体がゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

惹起するア ト ミズムであ り, 個別実体性だからである28)。こ う した共同性の実現の中にあるア ト ミズ

ム, つま り, 関係性の内にある個別実体性を, ヘーゲルはまた, かの諸契機の相互依存関係が, 「諸

契機の自らの内に還帰しない交替」 (H1428) , 「諸契機の単なる休みなぎ交替」 (111429) でbかない

こと と しても把握している。 つま り, この 「休みなぎ交替」 は, 諸契機の弧立性の否定という点で

は相互依存関係を示し, ここから共同性に接続してゆくが, 諸契機の謂わば分立の連鎖にすぎない

とい う点では諸契機の統一性を否定したア ト ミズムの絶えざる交錯に他ならないからである29)。

既に述べたように, 有用性の世界にあっては, 感覚的で自然的な当のものたる有用なもの一切が,

「至高存在」 や 「純粋物質」 等の絶対実在 [という他のもの] に規定されているのだが, 即自一対

他―対自の相互依存関係としての有用性自体にも, 感覚的なものと絶対実在との分裂的結合関係が

刻印されることになる。 換言すれば, こ うした分裂的な彼岸一此岸関係が, 此岸自身における即自

ての有用性を, 従ってまた, 有用性がまた共同性でもあるとい う ことの総括的規定を, 対自存在に

求めることも可能である。 つま り, 対自存在は, それ自身で存在するという意味では個別ではある

が, 共同性とい う普遍を内在化したものとしては, それ自体として包括的契機た り うるからである。

しかし, 有用性論自体においては, この対自存在の [というそれ自身で存在するという意味の]

契機に関するヘーゲルの叙述は極めて微妙である。 というのも, ヘーゲルは上記の不可分の統一と

しての対自存在という把握に続けて, 次の様に述べているからである。 有用なものの 「諸契機の一

つは, なる程 [即自存在及び対他存在という対立する契機を不可分に統一した対自存在という契機

として] 自らの内へ還帰した存在ではあるが, しかしこの契機は単なる対自存在として, 即ち, [即

自存在及び対他存在という] 他の二つの契機に対立して側面的に登場する抽象的な契機として存在

しているのである。 有用なもの自身が, [即自, 対他, 対自という] これらの諸契機をその対立にお

いてと同時に同一の観点において不可分に持っている否定的実在ではない……。 成る程, 対自存在

とい う契機ゆ有用なものにおいて存在しているが, しかし, このことは, 対自存在とい う契機が即一

自と対他存在という他の諸契機を包括している……ようにではない」(111429) 。換言すれば, 即自一対一

他一対自とい う諸契機の相互依存関係自体としての有用性は, これら諸契機の統一的包括的規定と

して, 対自的に [それ自身において] 有用なものという規定を備えているようにみえるが, 有用性

の世界においては, 対自存在という契機すらも, 従って当然に私 即自及び対他という契機も, 他

の諸契機と対立する抽象的で弧立的な契機, この意味で分裂性を表現する規定に留まるのである。

有用性の世界の一切は純粋透見 ( 自己意識) の自己が実現したものに他ならないが, この自己であ

る有用性= 共同性を包括的に表現するはずの 「対自存在が, 有用なものを直ちに [純粋透見という

自己] 意識の自己以外のなにものでもないとするような……残余の契機の実体としては, 自らを示

していない」 (Ⅲ431) のである27)。 それ故, 有用性の世界においては, あるものが個別実体的にそれ

自身として [対自的に] 有用なものであるとされるようなことが, 例えあったとしても, それは,

相互依存関係自体としての有用性を表現してないのである。 有用性の世界においては, 対自存在に

おいてすらみられる諸契機の抽象性, 弧立性, 分裂性が必然化するのである。 有用性= 共同性は自

らが相互依存関係自体である点を媒介にして成立しているとい う, 先に述べたことを省みるならば,

こ う した対自存在という契機は, 共同性を総括的に表現する規定でありながら, 同時に, 共同性のゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

否定を も表現しているのであり, 有用性の世界がその最内奥において共同的かっ非共同的であるこ

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26 竹 内 章 郎

一対他一対自の相互依存関係と しての有用性自体に内在するが故に, この相互依存関係と しての共

同性を最も統一的に表現するはずの対自存在の契機ですらが非共同性, 分裂性, ア ト ミズムを示さ

ざるをえな く なる。 有用性の世界がその最内奥において, 共同的でありながら同時に非共同的でもゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

あるのは, 分裂的な彼岸一此岸関係が, 有用性の世界とい う此岸自体の内に, この分裂性の間に当̄ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ , ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

為的関連すら生ぜしめない程に内化しているからなのである。 純粋透見 ( 自己意識) の自己実現で

あるはずの有用性の世界としての此岸は, この自己を表示するはずの対自存在の契機ですらが抽象

的で分裂的である点において, 「純粋透見が自ら とは区別する一つの世界」 (m429) であるに留ま

り, この純粋透見と対象的世界との区別に, かの信仰主義に由来する分裂的な彼岸一此岸関係が現

れるのである。 それ故, 啓蒙主義や有用性の世界は, いうほどには現世主義的でも人間主義的でも

ない。 つまり, 「啓蒙自身は, [彼岸と此岸との対立に基づく即自存在と対他存在という] 二つの契

機の対立の内に存在しており……, 信仰が行うのと全 く 同じよ うに, 一方の契機を他方の契機から

分裂させ, 従って, 啓蒙は二つの契機の統一を両者の統一 [そのもの] としてはもたらさない」 (HIゝ ゝ ゝ s ・ ゝ ゝ ・ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

418)。 「啓蒙自身は, [信仰と] 同じ く , 自ら自身については啓蒙されてない」 (111418) のである。

vI 結 ぴ にか え て

有用性の世界では, 一切が有用性という観点から把握されるが故に, 人間自体が有用性関係を意

識している物として扱われる (vgl. 111415) のみならず, 「理性 [も] が有用な道具である」 (111416)

ものとしてしか捉えられな く なる。 しかし, 本小稿で強調してきたよう’に, そ う した, 謂わば有用

性の 「独裁」 の成立自体が, 相互依存関係自体としての有用性の規定そのものにまで内化している

彼岸一此岸関係に負っているのである。 信仰主義に端を発するこの彼岸一此岸関係は, 有用性の世

界の精神的支柱である啓蒙主義の内部では, 既に見たように, 理神論の 「至高存在」 及び唯物論の

「純粋物質」 と, 感覚的で 「自然的な」 ものとの関係に, その原型をみることになる30)。 しかし, こ

うした彼岸‐ 此岸関係にも拘らず, 現世主義的人間主義の世界を標榜する有用性の世界にあっては,

有用性が有用性と して現われるのは, あ く まで, 対象的で実在的な世界自体においてであ り, それ

故にこそ, ヘーゲルは, 「一切の実在的存在の述語であるところの有用性の意義」 (Ⅲ433) とい う言

い方をするのである。 だが, この言い方でヘーゲル有用性論が総括できると考えるならば, それは,

有用性論の単なる現世主義的な相互依存関係としての把握を裏書するものにすぎないわけである。

以上を若干角度を変えて述べれば, 有用性の世界を成立は, 彼岸一此岸関係を自らの内に含んだ

啓蒙主義イデオロギーの典型的担い手たる自己意識 (純粋透見) が自己を実現 [現実化] すること

に他ならないが, この自己の実現は実在的で対象的世界において完結するわけではない, とい うこ

とになる。 何故なら, 有用性の世界の 「起源」 は, あ く まで啓蒙主義イデオロギー自体, 即ち, 純

粋透見たる自己意識の 「自己」 であるからであって, この 「自己」 の実現 [現実化] による有用性

の世界という対象的世界の成立自体は, 有用性の世界の 「起源」 自身の存続を意味するものではな

いからである。 この世界が有用性の世界であるためには, この 「起源」 が, つま り, 現実化されざ

る純粋透見の 「自己」 自身がそれ自体と して残存してな く てはならないのである。 このあた りの事

情をヘーゲルは, 次のよう に述べる。 「[純粋透見である自己] 意識は, 自己の概念 [という本来の

姿] を有用性において見いだした。 しかし, この概念は, 一方ではまだ対象であり, 他方ではまさ

純粋透見と夕

X

にそれ故にまだ目的であり, 意識はこの目的を直接にはまだ所有してないのである。 有用性は, まー

だ対象の述語であって, [純粋透見という] 主体自身ではない」 (111431)。

つま り, 純粋透見という啓蒙主義イデオロギー自体にその 「起源」 をもつ有用性は

いう自己意識の実在化において成立しながらも, この実在化 [つまり対象化] が純粋透見の 「自己」ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ’ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

自体を表示するものではないとい う点では, 成立していないのである31)。有用性は成立していると同

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ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

因みに, 日常経験的に把握された有用性の世界にあっても, それ自身としての [対自 有用ゝ ゝ

共同

的な]

ヘーゲルの有用性論 27

時に成立していないという, この我々からすれば明らかな 「矛盾」 を, しかし, ヘーゲルは 「止揚」

とい うより, 「有用なものの対象性という形態の却下」 (111431) として 「解消」 する。 この 「解消」

は, ヘーゲル哲学一般のレヴェルでは, ( 思弁的人間主義32)」 とい う意味での 「観念論上者ヘーゲル

昿 人間主体の主体性の最終根拠を外化= 疎外一切の廃棄に求めたことに照応する。 が, ここ, 有

用性論においては, かの 「解消」 は, 『精神現象学』 の有用性論の章の次が, 絶対自由と題されたフ

ランス革命におけるルソー= ジャコバン的自由論の章であることからも判るように, 啓蒙主義にお

ける純粋透見としての自己意識が, 全ての個々人の意志そのものとしての普遍意志(volont696n6r-

ale) へと謂わば転生するとい う歴史認識によって担保されている。 つま り, この絶対自由とは, 「各

人が常に分割することな く一切を為し, 全体の行為として登場することも無媒介に各人の意識的な一

行為である」 (111433) 点において成立しているのであるが, こ う した絶対自由は, つまる ところ,

「実在及び現実が意識自らの知であり」, 「一切の実在性が, 専ら精神的なものである」 (H1432) こ

とにその成立基盤を持っている。 そして, このことは, 例えば, 「最高存在の典礼」が現実政治から

のジャコバンの総退却の象徴となったよ うに, 現実には, 自己意識から対象的世界の一切を剥奪し

てしま うこ とになる。 しかし, ヘーゲルからすれば, こ う した事態こそが, 有用性の世界を, 「思弁

的人間主義」 的に 「対象性の却下」 として 「解消」 するこ とでもあるのである。

有用性論= 功利主義を, 人間の自然性を含めて此岸の対象的な現実態の内で生存のための有用性

を追求する議論とい うよ うに, 日常経験的に理解するならば, 有用性の論理の「止揚」のための転回

点を, 上記のように 「有用なものの対象性という形態の却下」 (H1431) に求めるこ とは, ヘーゲル

の意に反して, 有用性の世界の止揚の不可能性の傍証となるであろ う。 何故なら, 簡略に言えば,

生存のためというレヴェルでの有用性から対象性を剥奪することは凡そ一切不可能だからである。

しかし, にも拘らず, 「対象性の却下」という主張に留保をつければ, ヘーゲル的な有用性の世界の

「止揚」 はその有用性の論理の把握と関連させるこ とによって, 現代的な意義を持ち得るのではな

かろ うか。 一言でいえば, いかなる意味における有用性でも, 相対的なものであって, ヘーゲルの

場合は, この相対性が, 啓蒙主義イデオロギーの下にあった有用性の世界とジャコバン的な絶対自

由との関連によって示された, とい うこ との意義である。

また ,ゝ ・ ゝ ゝ ゝ 1 ・ ・ ゝ ● ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ・ ・ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ・ ゝ

性の実現が惹起する非共同性やア ト ミズムが看過されがちではなかろ うか。 こ うした こ とは, ヘーゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

ゲル有用性論の場合とは事情が異なると しても, 常識化しているが故に絶対的彼岸ともなっている

観念等33)の介在を通じて, 分裂的な彼岸一此岸関係が此岸において固定されているこ とを意味する

のではなかろ うか。 有用性の世界の止揚が不可能であるにしても, 彼岸として絶対化されている観

念等の相対化を通じて上記の固定化が流動化されれば, 時々の有用性の世界, 有用性概念, 共同性

の論理等々の在り方の不断の変容と改造にはつながるはずである。 ヘーゲルの場合は, この改造の

処方が, 有用性の 「止揚」= 「解消」 として求められ, それは, テロルにまで至るよ うな抽象的な絶

対的自由34)だったわけだが, こ う したこ とは, 「至高存在」 や 「純粋物質」 を絶対化する当時の有用

性の論理の改造の志向が, 歴史必然的に纒わざるをえなかった形態と して把握されるべきであろ

う35)。 繰 り返しにはなるが, 翻って, 我々の日常意識ないし 日常経験のレヴェルでも, 「自明」で「自

然」とされているような有用性の基準を, ある種のイデオロギー的転換を通じて一 勿論, これには

物質的基礎の転換が伴なわな くてはならないが一 大胆に改造し, このことによって, 有用性や有

用なものの内実の変容を, 従ってまた, 相互依存関係自体としての有用性の内にある共同性の内実

の変容を展望36)するこ とが出来るのではなかろ うか。

ゝ ゝ ゝ

更には,ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

なるものが自明視され,ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ S S ゝ ゝ

有用性の基準としての 「自然的」 規定が絶対化され,

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竹 内28 章 郎

1) 筆者は, 莫大な功利主義研究文献に精通しているわけではないが, 以下に示すような功利主義の抱える難点を指

摘する文献においても, ヘーゲルに関説するものは全く ない。 ハートは, 功利主義の基礎概念の選好概念化をも

射程に納めた上で, 「功利主義は人格の間の区別を真剣陽捉ええない」 (J. Rawls, A Theoryof μstice, 1971, p.

187) という ロールスの主張を支持しつつ, 人格の個別性の無視を功利主義の主要な問題点だ とする (H. L. Hart,

小林公 ・森村進訳 『権利 ・功利 ・自由』 木鐸社, 1987年, 第 6章を参照)。 ヘッフエは, 功利主義の快楽計算に現

れる, 所謂功利主義的パラ ドックスを指摘して, 功利主義の自己破綻を示唆している (vgl. 0 . H6ffe, Etk怯 RRd

POlitik, Suhrkamp Verlag, 1979, S. 120ff.) 。 ラ イ オ ンズは, 行為功利主義の難点を克服 し て義務論を も射程に

納めたとされた規則功利主義も,個別的行為の功利性への還元をもってして, 道徳的価値を担保しえないとする(cf.

D. Lyons, Foyms皿 d Limits of Util漉 河皿 ism, Oxford at theClarendonPress, 1965, pp n 9-160) 。 因に, そ

の詳細は割愛せざるをえないが, こ う した論者の指摘する難点の大半は, 本小稿で論じるよ うなヘーゲル有用性

論, 即ち, 相互依存関係と しての有用性= 共同性の成立自体の内にア ト ミズムとい う個別実体性を位置付けると

共に, 有用性概念を現世主義としては完結しないとする, ヘーゲル有用性論の論理及びその援用によって明らか

になる論点である。

2) ヘーゲル哲学における有用性論及びフランス啓蒙主義の位置を, 「現代唯物論」との関係で興味深 く扱ったものと

して, 佐藤和夫 「近代市民社会における弁証法と唯物論」 東京唯物論研究会編 『現代の唯物論研究』 合同出版,

1977年を参照。 しかし, この論文は, 信仰及び啓蒙主義イデオロギー自体の位置づけという点で, 筆者のヘーゲ

ル有用性論把握とは異なっており, この相違は本小稿全体で示されるはずである。

3) この 「歴史的に」 とい う こ との意味は, ヘーゲル的に言えば, Historieと してではな く , Geschichteと しての事

柄の把握 (vgl. X1183 u.s.w.) とい う点にある。

4) 有用性と功利性とは同一概念であり, 本稿では通常の功利 [性] という訳語を, ヘーゲル 『精神現象学』 の邦訳

の慣例に揃えて有用性に統一する。 但し, ベンタ ムの議論との係わ りでは, 功利主義とい う用語は併用する。

5) 従って, 本小稿では, ヘーゲルの哲学体系や 『精神現象学』 の構築に際して, 有用性論が果たした意義について

の本格的論究は割愛せざるをえない。 ’

6) この言葉は, ヘーゲルが 「信仰」 概念の下で展開したこと (vgl. 111391ff.) を啓蒙主義と対比して表現した私の造

語である。 その内容につき, 本文の3 ̃ 4頁も参照。

7) ヘーゲルのこの認識論の筆者な りの把握については, 竹内章郎 「ヘーゲルにおける主体一客体の同一性と概念判

断の論理」 日本哲学会編 『哲学』 第32号, 法政大学出版局, 1982年を参照。

8) J. Bentham, “AnlntroductiontothePrinciplesof MoralsandLegislation,” inJ. BowringedoTk WOyh

of J. Be戒k m, New York, 1962, vol. 1, p. 2.

9) 特に念頭にある研究は, J. RitteT, Md呻肪sik 14,1d Polia , FrankfurtamMain, 1977, S. 209ff. 及び, 全体を

通じての M . RiedeX, Bii曙eγlicheGesJ sck ft ltud Staαt bd H昭d, NeuwiedundBerlin, 1970 である。 既存の

ヘーゲル 「市民社会」 論研究は, 自由概念の下にある 「国家」 に対置して, 「市民社会」 を 「自然」 概念の下にの

み位置づける (vgl. Riedel, a. a. 0 ., 38ff.) 傾向があま りにも強すぎたため, 「市民社会」 自体がイデオロギー的ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

に, また 「非自然」 と して存立している側面一 有用性論で言えば, 大小稿で主張するように, 有用性の世界と

しての 「市民社会」 が, 単に欲望自然主義的な利己的目的の相互依存関係によってのみ成 り立っているのではな

く , 此岸としての 「市民社会」 からすれば, 信仰主義とい う彼岸的な内容によっても規定されているこ とー を,

;王

* 本小稿におけるヘーゲル哲学からの引用文ないし参照文は, 『大論理学初版』を除く と, 全て, G. W . F. HegelWerke

in zwanzig Banden, Suhrkamp Verlag, 1970 に よ り , 引用文 な い し参照文 の直後の ( ) 内 に , ロ ーマ数字 に よ る

この選集の巻数とアラビア数字による頁数のみを記す。 因に, 本小稿執筆に際して, このズールカップ版に依って使

用した文献の邦語慣用名は, 「民族宗教とキリス ト教についての断片」, 「哲学的批判一般の本質について」, 『フ ィ ヒテ

哲学とシェ リング哲学との差異』, 『精神現象学』, 『大論理学二版』, 『エンチク ロペディー (ハイデッベルク時代を初

版とするものの第三版) 』, 『法の哲学』, 『歴史哲学』である。 また, 傍線は原著者による強調であり, 傍点は筆者によ

る強調であり, 引用文中その他の [ ] 内は筆者による補足である。

Page 14: Title ヘーゲルの有用性論 [岐阜大学教養部研究報告] …...竹 内 岐阜大学教養部人文科学(哲学) (1989年10月17日受理) 章 郎 17 ヘ ー ゲ ル の有

ヘーゲルの有用性論 29

あまりにも看過しすぎている。 それ故, そ う した 「市民社会」 論研究は, ヘーゲル有用性論自体とは切断されて

いたのである。 『精神現象学』 の詳細な解釈も, 有用性論自体の把握については, そ うした 「市民社会」 論研究 と

同様である (J. Hyppolite, 市倉宏祐訳 『ヘーゲル精神現象学の生成と構造 下』 岩波書店, 1973年, 180̃ 189頁

を参照)。

付言すれば, 『法の哲学』 が重視される場合, 欲求の全面的依存性や人間の欲求本性 [「自然」] についての謂わ

ば国民経済学的な議論が人間社会の歴史的精神的諸連関全体から切断されているこ とに対するヘーゲルの批判,

この点への研究が主要なものとなり, その際には, 欲求の全面的依存性の把握と密接不可分の関係の内にある有

用性自体に関するヘーゲルの議論については, かの全体的諸連関の中で限定的に取 り扱 う こ とを もってよし とす

るに留まり (J. Ritter, 出口純夫訳 『ヘーゲルとフランス革命』 理想社, 1966年, 63̃ 81頁を参照) , 有用性論の

論理自体を追求するこ とにつながらない。 また, こ う した扱いにあっては, 『精神現象学』の疎外された精神の箇

所全体は, 『法の哲学』が富のカテゴリーによって叙述したこ との独自の哲学的形式による別表現とみなされるに

留まり, やはり, 『精神現象学』 において固有に問われた有用性の論理が省みられな く なる (vg1. Riedel, a. a. 0 .,

S. 40ff.) 。 更に, 『精神現象学』 の有用性論の解釈自体においては, 有用性論は社会道徳が功利主義によって表現

される箇所, 自然的エゴイズム論として論じ られながらも, 「市民社会」論の展開に接続する方向性を持だないた

め, 有用性論は, ヘーゲルがフランス百科全書派の世界観を自らの弁証法的な言葉に翻訳した箇所とされるに留

まり, そ うした有用性論の把握と有用性論の前後の 『精神現象学』 の議論とが整合的に把握されないうらみがあ

り, それ故に, ヘーゲル有用性論の論理の把握としては大きな難点を孕んでいるように思われる (Hyppolite, 前

掲邦訳書, 181頁を参照) 。 管見の限り, ヘーゲル有用性論の論理自体を総括した研究はな く , 僅かに, エソザク

トが, ヘーゲル有用性論の論理を, 「市民社会」 と国家との混同, 「市民社会」 的有能さ, 「市民社会」 における人

格の自由といった観点から整理し, 以上の諸解釈においては正面から扱われることのなかった 「諸契機の交替」,

「有用なものの対象性という形態の却下」 等といった論点にまで立ち入り, これらを 「市民社会」 の本質と係わ

らせて論じている (vgl. R. Ensakt, Dieh暗証scheThe(函edes加禎tisde箆Bmltsstsd肴s, VittorioKlostermann

Frankfurt am M ain, 1986, S. 87ff.) 。 し か し , こ の論稿 は, 有 用性論 にお け る絶対実在の問題性を 一切無視 し て

いる故に, 若干の興味深い提起をしているものの, 上記の論点の解釈その他において, 極めて不十分なものに留

まっている。 エソザク トの議論については, 本小稿のヘーゲル有用性論解釈と対置させながら, 後出の注21) ,

29) , 35) で触れる。

10) この「関係を意識している物」 という表現は, 『資本論』第一巻第三編第六章において, 使用価値との関連で, 「人

間自身も, 労働力の単なる定在としてみれば……, 例え, 生命ある, 自己意識のある物だとはいえ, 一つの物で

ある」 (Mα惣 E肴涙ls We池e, Bd. 23-1, DietzVerlag, S. 217. 以下, この全集は μ£叩̀ と略記する) とい う形

でマルクスに受容されている, と思われるが, このこ とは, 注36) に略記するような, 有用性概念, 使用価値,

価値, を巡るヘーゲルーマルクス関係に示唆するところが大きい。

11) OewyesComl)lates deDideγot, ed. par J. Ass6zatetM . Tourneux, rpt. KrausReprint Ltd., Liechtenstein,

1966, tom. 17, p. 137. 以下, この全集は, 0Cj Z) と略記する。

12) この純粋抽象化の問題, 言い換えれば, 有用性の世界が抽象的でカテゴ リーが主導する世界でもあるこ と(vgl. Ⅲ

404f・, 415) は, 有用性という述語が一切の対象の述語となるという論点 (vgl. Ⅲ433) と密接に関係してお り,

ヘーゲルのカテゴ リー ・概念論の根幹に係わる議論と して極めて重要である。 有用性の世界と抽象性との関連の

具体的内実を含めて詳細は別稿に譲らざるをえないが, 一言しておく と, ア リス トテ レス以来の, 述語としての

カテゴリー・概念の把握を受容するヘーゲルにあっては, 純粋抽象たるカテゴリー・概念が精神 [人間社会] の

把握を支配すること, 換言すれば, 『論理学』が学の頂点に位置することと, 述語が有用性という単一なものに還

元されることとは, 同一事態の表裏なのである。 この点でヘーゲル哲学体系の基幹に 『論理学』 が位置付けられ

たことについては, ヘーゲル『論理学』が, 一面で 「自然と有限精神の誕生以前の神の叙述」 ( V44) という弁神論

的色彩に彩られてはいても, 有用性の世界の成立ないしは 「市民社会」 論の成立と密接な関連がある点が忘却さ

れてはな らない。

13) ヘーゲルのこの勝利観ないし闘争観は, 「批判自身が一面的な観点を他の同様な一面的な観点に対して妥当せしめ

よう とするならば, その批判は論難であり, 党派的なものである」 ( 11186) と述べたイェナ期初期の批判観 と密

接な関連があり一 但し, この 「哲学的批判一般の本質について」 という論文と本文中の 『精神現象学』 とは,

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竹 内30 章 郎

念性」 を持つこ とを根拠に直接結びつけて (vgl. Ensakt, a. a. 0 ., S. 92) , 有用性概念の限定的意義を見失 う結

果となっている。

22) この把握は, 公正や正義としてではな く , 幸福の観点から相互扶助とい う共同性を把握することと共通する。 n.

A. KponoTI(HH, 大 沢正道訳 「相 互扶 助 論 」 『ク ロ ポ ト キ ン 1 』 三 一 書 房 , 1970年 , 483頁 以下 を 参 照 。 こ れ は ま た ,

功利主義の極致をナザレのイエスの黄金律にみる主張とも重なる。 Cf. J. S. M111, “Utilitarianism,” in J. M .

Smith and E. Sosa ed・, Mm’s U眼i砥石α戒sm, Califomia, 1969, p. 45.

23) 功利主義自身の分裂の表現でもあるこの乖離と当為的関連とを, 予め回避するために, ベンタムは, その功利主

義の端緒を議論している 『道徳と立法の諸原理序説』 において, whatweshall do とwhatweoughttodo と

を, 「自然」 規定としての快苦によって支配されるものとして同一視しよ う としている (cf. Bentham, 01). dt., p・

1) 。 尤も, 長いベンタム解釈の歴史においては, この同一視志向よ りも当為的関連の保持こそが, 立法の原理と

しての功利主義理論の構築というベンタムの本来の意図であるとい う説も有力ではある (cf. R. Harrison, Be址k-

α肌 Routledge and Kegan Paul, 1983, pp. 108-109) 。 こ の辺 り事情の一端 の筆者 な りの把握 につ いて は, 竹内

章郎 「功利主義の論理 (上)」 『和光大学人文学部紀要』 第23号, 1989年を参照。 因に, 本小稿では, 全く論tl ら

れていない 「有用なものの相互依存関係を反映する快楽計算」, 「当為的連関としての快楽計算」, 「相互依存関係

自体としての有用性」 といった諸論点の区別と関連については, 功利主義的パラ ドックスとい う論点と関連させ

て準備中の続稿 「功利主義の論理 (下) 」 で詳論する。

24) なお, ディ ドロの有用性の把握にあっては, 以下の 『百科全書』 の 「奢侈」 の項目に見られるように, 統治者の

当為的行為自体が, 各市民の財産といった個別実体的な有用なものと共同体の精神といった共同性= 有用性の双

「党派」 の意味合いを若干異にするがー , 謂わば 「永続闘争観」 という点で, 現代における闘争論や批判論に

それ自体とし,て も示唆するところが大き く , この点と係わって, 本小稿の末尾で触れるよ うな有用性の世界及び

有用性概念自体の不断の変容と改造を担保するものにつながる, と思われる。

14) この同一の 「自己」 への還元とい う点では, 「区別された各々のものが……直ちに区別されない」 (111428) こ とに

なるが, これは, 通常の啓蒙主義の言葉でいうところの, 一切が理性の支配下に置かれるということのヘーゲル

的表現である。 この同一の 「自己」 は, 更に, 「自ら自身における純粋な震動とい う抽象」 (H1428) に留ま り批判

的に言及される。

15) D. Diderot, 小場瀬卓三訳 「物質と運動に関する哲学的諸原理」 『ディ ドロ著作集第一巻』, 法政大学出版局, 1980

年, 273頁。

16) OCdD, tom. 17, p. 144. ディ ドロは, また, 「宗教は, 混乱を止めるたに必要な歯止めであるから, 宗教が, 社一

会の幸福を保証するために, 道徳と結合するに違いないとい うこ とは明らかである」 (Ol), Cit., p. 141) , と述べてー

もいる。

17) ヘーゲル哲学における相関関係 (Verhaltnis) は, 「両側面の自立性と, その中では両側面が止揚されている両側

面の同一性との矛盾」 ( X201) であ り, 単純な相互規定性のレヴェルで捉えられるべきではない。 別稿 (竹内章一

郎 「相関 (Verhaltnis) 規定と主一客問題」 共著 『ヘーゲルの思想と現代』 汐文社, 1982年) で詳論したこ とだ

が, 「相関関係」 は, 関係の自立性とい う関係主義的議論の内に両関係項の自立性を位置づける論理を示してお

り, この有用性論においては, 啓蒙主義における絶対実在 [即ち, 理神論の「至高存在」 と唯物論の「純粋物質」]

と感覚的で 「自然的」 な規定という両関係項が, 相互の関係の内にありながら, 自立性を保っている事態として

具体化されている。

18) この点が, 注 9 ) で りーデルの論稿について述べたような, 有用性の世界としての 「市民社会」 を 「自然」 概念

の下にのみ位置づける従来の研究の誤りを端的に証明するのである。

19) Bentham, ゆ. Cit、, p. 2.

20) Bentham, O匁 dt., pp. 1-2.

21) エソザク トは, この違いを看過し, 「諸契機の不可分の統一」 とい う側面に留意せず, 「諸契機の交替」 という側

面のみを取り挙げ, この側面に, 有用性が関係自̀体として成立する点一 尤も, エソザク トの場合は, この関係

自体= 有用性も, 人間が自らの係わる有用性を判断するための基準としてのみ位置付けられているだけであるが

(vgl. Ensakt, a. a. 0., S. 94f.) - を代表させるため, 有用なものと有用性との区別と連関を捉え損なってい

るだけでなく , 注35) で指摘するよ うな 「抽象的自由」 とこの 「諸契機の交替」 とを, 関係自体がある種の 「観

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31ヘーゲルの有用性論

理路』 勁草書房, 1974年, 89- 90頁を参照) では, 共同性自体の内にある非共同性といった深刻な問題が捉えら

れない。

29) エソザク トが, 「各人格が諸対象の有用性についての自らの判断をそこに依存させるところの, 諸契機の交替とい

う有用なものが実践的に顕在化し うる領域」は, 「ヘーゲルの成熟した実践哲学においては, 市民社会なのである」

(Ensakt, a. a. 0 ., S. 92) と述べていることは首肯されるべきだが, この領域を 「市民社会」 だとすることの真

の理由は, エソザク トが一切看過している点, 即ち, この 「諸契機の交替」 が関係性自体の内にある分裂性とア

ト ミズムを示すとい う, 本小稿が強調している点にある。

30) ヘーゲルが 「一切の有用なものの中で, 宗教が最も有用なものである」 (111416) と発言するめは, さ しあた り,

注16) のディ ドロの引用文に示された, 社会の維持にとっての宗教の有用性という論点を受容しているからであ

るが, それだけではない。 とい うのも, 彼岸となっているイデオロギーに自らが規定されながらも, 現世主義を

標榜すると どによってこのイデオロギーに無自覚となっている啓蒙主義及び有用性の世界に比べると, 宗教にお

いては, 彼岸- 此岸関係における彼岸としての 「絶対実在」 のまさに絶対性が自覚されており, それ故に, 有用

性の謂わば最終根拠自体を も対自化し うる可能性が単純な現世主義よ りも理論的にはあるからである。 従って,

ヘーゲルの上記の発言を, 啓蒙主義の内に時代錯誤的な宗教イデオロギーを持ち込んだものだとか, 野放図な宗

教イデオロギーを肯定したものだ等と言うことはできない。

31) この論理は, 疎外を対象化= 外化として再把握し, その限りでは両者を同一視するという周知のヘーゲルの論理

の, 有用性論における表明でもある。 ヘーゲルにおける疎外と外化との関連については, 経験的意識が経験する

疎外を, 哲学的考察者が外化として捉えなおすとする, 宮本十蔵 『哲学の理性』 合同出版, 1974年, 49- 70頁を

参照。

32) これは, 細見英 『マルクス ・ コメ ソタールII 』 の表現を, 佐藤, 前掲論文, 72頁の示唆も得て使った。

33) この種の現代的問題については, 教育哲学ないし教育社会学的側面からではあるが, B. Bemsteinr階級と教育方

法」, J. Karabel andA. H. Halsey, ed., 潮木 ・天野 ・藤田編訳 『教育と社会変動 上』 東京大学出版会, 1980年

方を促進する, という形でかの乖離が処理されている。 「統治者は, 全ての人々の保護, 最大多数の利益を目的と

すべきなので, 市民の内で, 財産への愛や自らの財産を増やし これを享受する欲望を維持し刺激しながらも, し

かも, 共同体の精神や愛国の精神を維持し刺激しなく てはならない」 (OCdD, tom. 16, p. 14)。

25) 『精神現象学』 全体では320回以上登場する sollen及びその変化形が, 有用性論の叙述 (111391̃ 441) には, 単

なる未来形 (111408) , 信仰主義の説明 ( I11402, 412, 421) , 啓蒙主義における sonenの否定 (Ⅲ393, 425) , 絶

対自由の説明 (111433) の計 7回しか登場せず, 有用性論自体を特徴づける内容としては一切使用されていない。

既に此岸と彼岸との分裂として示唆し, また, 後述する様に, ヘーゲルの把握する有用性の論理にも分裂は残っ

ているが, ヘーゲルは, この論理の内に当為的連関を提示しないのである。 このことは, 別角度から言うと, ヘー

ゲルの把握する有用性の世界においては, 共同性を否定する分裂性が, 当為的連関自体を も生ぜしめない程に自

明で無自覚的なものになっている, というこ とになる。 ・

26) Vgl. G. W . F. Hegeχ, Wisse筒sch可tdeyLog挽, Bd. 1, ErstesBuch, FaksimilendrucknachderErstausgabevon

1812, G6ttingen, 1966, S. 92f. 第二版 との異同について は割愛。

27) この点を対自存在の典型的事例が自己意識に求められるこ と (vgl. V175) と重ねてみると, ヘーゲル自己意識論

を社会哲学的により一層豊富化する視点につながると思われる。 とい うのも, これまでのヘーゲル自己意識論研

究は, 相互承認に相即させた自己意識の成立を説 く ものー これについての秀作としては, 松村健吾 「ヘーゲル,

イェ ナ期における自己意識の概念の生成と労働の弁証法」 日本哲学会編 『哲学』 第30号, 法政大学出版局, 1980

年を参照- に典型的に見られるように, 自己意識自体における分裂性の問題を主要には扱ってこず, それ故,

「市民社会」 の否定面と自己意識論とが殆ど関連づけられなかったが, 有用性論における対自存在の契機の議論

を踏まえることによって, この難点を克服し うるからである。

28) 先に第m節であげた, 「有用なものは, 一つの即自的に存立しているもの或は物である」とい う個別実体主義的な

有用なものの把握も, 謂わばこ うした個別実体主義と関係主義との弱選言による結合とい うレヴェルにある。 な

お, こ う した結合によって近世 ・近代哲学史において要素還元主義と全体主義との対抗として把握されてきた論

点の位相を転換させて, ア ト ミズムを より深 く把握するこ とが可能になると思われる。 因に, 関係主義自体の内

に生起するア ト ミズムを把握するこ とな く , 単なる関係主義を標榜するだけ (例えば, 広松渉 『マルクス主義の

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この展望を精緻化するためには, 現代功利主義の展開の他に, 少な36) なお, 今後の研究課題となるこ とであるが,

を参照。 そこでは, 新中産階級が母体となった教育目的が, 曖昧なものでありながら, 絶対化され, その意味で

彼岸化されるこ とが提示されている。 この点につき, また, 竹内章郎 「能力の 『共同性』 と 『有用性』」 共著 『競

争の教育から共同の教育へ』 青木書店, 1988年, 125-128頁を参照。 なお, この拙稿の130-154頁は, 本小稿で述

べてきたヘーゲル有用性論の論理の一部を現代における能力問題に援用しつつ, 有用性や共同性の改造の方向性

をやや具体的に展開したものである。

34) ヘーゲルが, テ ロルの様な否定的内容に満ちた絶対自由の論理に依拠してまで有用性の 「止揚」 を論じた こ との

背景には, 絶対自由の体現たるジャコバン派が崩壊し, 更には総裁政府も倒れた後に登場したナポレオン体制へ

の高い評価があった(vgl. 111438) からである。が更に, 啓蒙主義的発想一般に対する忌避が, ベルン時代よ りヘー

ゲルには強かったからであろ う と思われる (vgl. 121̃ 27) 。

35) 従って, また, 前注も考え合わせると, エソザク トのよ うに, 例え端緒としてにせよ, この抽象的な絶対自由を,

直ちに, ヘーゲル的 「国家」 における人倫的関係の始ま りとみなすこ と (Ensakt, a. a. 0 ., S. 102ff.) はで きな

χ, %

章 郎竹 内32

くゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ・ ・ ゝ ・ ・ ゝ ゝ ゝ ・ ・ - ・ ・ ゝ ゝ ・ ゝ ゝ ゝ ・ ・ ゝ

下の六つの議論どの関連を明らかにしな く てはならない。 第一は, 個人と自然との関係自体として使用価値が把

握され (vgl. K . Marx, Gn411drissedeyK治決 心γ1)oatisck R Ok皿omie, DietzVerlag, 1953, S. 899) , この使

用価値が有用性とされていることと, 有用性が物の属性というレヴェルで把握されている (vgl. 肛E叱 Bd. 23-1,

S. 50) こ ととを, 人間の関係行為の側面と物の存在の側面とい う二側面からの並存的規定を越えて問う とい う問

題である。 第二は, マルクス自身は使用価値とは区別できるとした価値= 抽象的人間労働= 社会的実体といった

レヴェルでの関係自体やその物象化 (vgl. j拓 叱 Bd. 3, S. 432, u. s. w.) が, 上記の個人と自然との関係自体と

しての使用価値自体を規定している点を解明する問題である。 第三に, 物象化の成立と係わり, また本小稿の注

10) で有用性の世界の成立に係わって留意したカテゴリー ・概念の謂わば 「支配」 の内実を解明する問題がある

(なお, 以上の三点に係わるマルクス解釈については, 真田哲也 「マルクスの実体概念と物象化論」 社会思想史

学会年報 『社会思想史研究』第 9号, 1985年を参照)。 第四に, マルクスの功利主義および有用性概念自体の把握

の問題性がある。 周知のよ うに, マルクスはエルヴェシウス等のフランス唯物論者の功利主義を 「闘っている未

だ発展のブルジ ョアジー」 の議論とし, ベンタムらのそれを 「支配している発展したブルジ ョアジー」 の議論と

した (vgl. 訂E叱 Bd. 3, S. 397) が, こ う したマルクスによる功利主義の評価自身は, 例えば, ベンタムが直面

したのが名誉革命体制の動揺にすぎなかったという事実 ( この点では, 金子勝 「産業革命期における教区制度の

動揺」 東京大学社会科学研究所 『社会科学研究』 第35巻第6号, 1984年を参照) 等に照らして見直す必要がある。

第五に, 功利ないし有用性概念が, 様々な現実的諸関係それ自体にとっては, 余分な「第三の関係」であり, 現実

的な諸関係からの抽象でありながら現実態と称されるものでしかない, とされている点 (vg1. 趾E叱 Bd. 3, S.

394f.) を , 上記の第一点及び第二点と関連づけて把握し直す必要がある。 第六に, エングルスが, ベンタ ム功利

主義の直系としてのオーエンの一時期の理論を, 商人的打算から生じた共産主義とし, 端的には, 功利主義から

共産主義への道程を, オーエン共産主義についてにせよ論じた点 (Vgl. j拓 凪 ,Bd. 20, S. 245f.) をいかに把握

し直すか, とい う論点がある。

と も,ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ

ヘーゲルの有用性の論理と, マルクス的論理に係わって最終的には生産力規定と交差するこ とになる以