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Hokkaido University of Education Title Author(s) �, �(�); �, Citation �. �, 63(2): 1-16 Issue Date 2013-02 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6881 Rights

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Hokkaido University of Education

Title日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」 -『中日対訳コーパス』

を資料として-

Author(s) 阿部, 二郎(札幌); 鄭, 玉貴

Citation 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 63(2): 1-16

Issue Date 2013-02

URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6881

Rights

北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第63巻 第2号 平 成 25 年 2 月Journal of Hokkaido University of Education (Humanities and Social Sciences) Vol. 63, No.2 February, 2013

1

日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

―『中日対訳コーパス』を資料として―

阿部 二郎†・鄭  玉貴††

†北海道教育大学札幌校日本語教育研究室

††山東師範大学日本語学部

V-kotonisuru in Japanese and Jué-dìng in Mandarin Chinese

ABE Jiro* and ZHENG Yu-gui**

*Department of Teaching Japanese as a Foreign Language, Sapporo Campus, Hokkaido University of Education

**Department of Japanese Linguistics, Shandong Normal University

概 要

 日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」は意味的に近似しており,日本語教育においても,両者が対応関係にあると説明されるのが一般的である。しかし,実際には両者が対応関係にない場合も存在する。そこで,本研究では中日の対訳コーパスを用いて,両者の異同を考察した。その結果,「Vことにする」が「ことにした」の形をとり,文脈から事態が実行に移されたことが明らかとなっている場合は「决定」に訳し得ないことが分かった。また,「决定」に行動の決定をする際の主体の心理が関与するような文脈では,「Vことにする」に訳しにくくなったり,原文とは異なる印象となったりすることも明らかとなった。

0.はじめに

 日本語において,行為主体の決意や決定を表す際に用いられる形式のひとつに,以下の下線部のようなものがある1。  (1) 「植木屋大学の方の入学式はわりと早いし,今年は家にいることにするよ。」(曾野綾子『次郎物語』)  (2)  それでは威厳は保てまいと考え,少し遠回りして数学科のオフィスに立ち寄ることにする。(藤原

正彦『若き数学者のアメリカ』) 本研究では,以上の例に見るような,動詞に接続して行為主体の決意や決定を表す「ことにする」という形式について,「Vことにする」と表記する。また,表記上は「Vことにする」で代表させているが,「こと

1  下線は筆者によるもの。以下,断り無く例文中に下線のある場合は,筆者によるものである。

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阿部 二郎・鄭  玉貴

にした」のように過去を表す形式を取るものについても本稿で扱う。 このような「Vことにする」は,中国語話者を対象とした日本語教育において,中国語の「决定」に相当するとされることが一般的である(具体例は後述)。 ところが,実際には日本語において「Vことにする」を含んだ文が中国語の「决定」を含んだ文に訳し得ない例も存在する。そこで,本稿では日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」を実際の対訳例に基づいて対照し,その異同について考察する。 本論文の構成は次の通りである。まず,1節では「Vことにする」と「决定」の基本的意味について確認する。次に,2節では中国語話者を対象とした日本語教材に見られる「Vことにする」の説明を概観する。続いて,3節では対訳コーパスを用いて,日本語と中国語の対訳の観察を,「Vことにする」の中国語訳,次いで「决定」の日本語訳の順に行う。そして,4節では,3節で得られた観察結果について考察する。最後に5節でまとめる。

1.「Vことにする」と「决定」の基本的意味

 日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」を対照するにあたり,まずは両者の基本的意味について確認しておきたい。

1.1.「Vことにする」の基本的意味

 柏崎(2001)は「Vことにする」の基本的意味を2つ挙げ,それぞれ「事態の決定」および「事態を変化させた帰結」としている。これらの内,本研究で扱う(1),(2)のように行為主体の決意や決定を表すものは,前者の意味,すなわち「事態の決定」に相当する。柏崎は「Vことにする」の持つ「事態の決定」という意味について次のように説明している。すなわち,「Vことにする」は「こと」と「する」の複合したものであり,「事態の決定」という意味は,「こと」によって示される事態と,「する」によって示される,主体が意志的に数ある選択肢の中から一つを選択するという行動,からなる2。(1)を例にしてこの説明を適用すると次のようになる。すなわち,(1)は入学式の前に取り得る種々の行動,たとえば「友人と遊びに行くこと」「旅行へ行くこと」といった事態の中から,「家にいること」という事態を,主体である話し手が意志的に選択するということを表している。本研究では「Vことにする」の基本的な意味の規定は,柏崎(2001)に倣う。ただし,柏崎は「事態の決定」という用語を用いているが,ここでは主体が事態を選ぶという点を重視して,「事態の選択」という呼称を用いることとする。

1.2.「决定」の基本的意味

 「决定」の基本的意味について,この形式だけを取り上げて研究したものは管見の限り見られなかった。そこで,辞典の記述を参考に,「决定」の基本的意味を本稿なりに規定する。 中国語辞典『現代漢語詞典(修訂版)』によると,現代語では,「决定」は主に4つの意味で使用されている(日本語訳は筆者による)。

2  「Vことにする」のもう一方の意味である「事態を変化させた帰結」については,柏崎(2001)は,「ことにする」が,名詞,無意思動詞や状態性の動詞,動詞「た形」に接続するとしており,以下のような例を挙げている.

     この条約は1991(平成3年)2月1日現在,まだ効力が発生していませんが,領海の幅については,国家は12海里をこえない範囲で定める権利をもつ,と規定しています.最大限を12海里ということにしたわけです.(『はじめての国際法』)

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

  (3) ① 对如何行动做出主张。(どのように行動するか決める)       ★领导上决定派他去学习。(リーダーたちは彼を見学に行かせることを決めた。)     ② 起决定作用。(一方が他方を決定づける)       ★存在决定意识。(存在が意識を決定づける。)     ③ 决定的事项(決定した事項。取り決め。)       ★这个问题尚未做出决定。(その問題はまだ決定をみていない。)     ④  客观规律促使事物一定向某方面发展变化。(客観的な法則が物事を必ずある方面に発展するよ

うに促す。)       ★决定因素。(決定的な要因) これら「决定」の3つの用法のうち,1.1節に見た「Vことにする」の「事態の選択」の意味に近いものは①であると思われる。このような用法の「决定」について,次のような例(筆者の作例)に説明を適用してみる。  (4) 他决定到医院去看病。(彼は病院で診てもらうことにした。) ここでは,二重下線で示した「到医院去看病」(病院で診てもらう)という行動を主体である「他」(彼)が決めたという意味になる。以上より,本研究では「决定」の各用法のうち,(4)のようなものが「事態の選択」を表す「Vことにする」に近いものであると判断し,これを研究対象とする。その上で,その基本的意味を「主体がどのように行動するか決める」と規定し,「行動の決定」と呼称する。

2.中国語話者を対象とした日本語教材に見られる「Vことにする」の説明

 前節で見た「事態の選択」を表す「Vことにする」は,中国語話者を対象とした日本語教育において,どのように説明されているであろうか。本節では中国語話者を対象とした日本語教材において「Vことにする」がどのように扱われているか概観する。 日本語教師と日本語学習者を対象とした参考資料のひとつとして『日本語文型辞典』がある。これは従来の単語ごとに項目が掲載されている辞典と異なり,文型ごとに項目が設けられており,「ことにする」も独立した項目として存在する。また,本辞典は中国語にも翻訳され,中国語話者の日本語教師や日本語学習者に広く用いられている。そこで,その中国語版である『中文版 日本语句型辞典』において,「ことにする」がどのように説明され,例文が対訳されているのかを見ることにする(解説の日本語訳は『日本語文型辞典』の日本語原文)。  【ことにする】1…ことにする<决定> 决定,决心

  (5) あしたからジョギングすることにしよう。/我决心从明天开始跑步。  (6) これからはあまりあまい物は食べないことにしよう。/我决定今后少吃甜食。  (7) きょうはどこへも行かないで勉強することにしたよ。/我决定了今天要学习,哪儿也不去。    表示对将来行为的某种决定,决心。如例(7)用作“ことにした”的形式,则表示这一决定或决心已经

形成的意思。(将来の行為についての決定,決意などを表す。(7)のように「ことにした」の形になると,その決定・決意はすでに成立しているという意味合いをつたえる。)

 このように,「Vことにする」は中国語の「决定」もしくは「决心」に相当するものと説明され,例文もそのように対訳されている3。

3  本書では「Vことにする」が(5)に見るように「决定」だけでなく「决心」にも訳されているが,(5)の対訳文中の「决心」

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阿部 二郎・鄭  玉貴

 では,日本語の教科書においてはどのように説明されているであろうか。まず,日本で出版された中国語話者を対象とした日本語教科書・参考書を概観する。 日本語の総合的な教材として出版されている『みんなの日本語 中級I』には,中国語で文法項目を解説した『みんなの日本語 中級I 翻訳・文法解説 中国語版』が副教材として用意されている。そこでは「…ことにする」の文法項目説明において以下のように解説されている(日本語訳は筆者によるもの)。   用「Vする/Vしないことにする」来表示当事人决定做或不做某件事。(「Vする/Vしないことにする」

で,当事者があることをすること又はしないことを決定することを表す。)  (8) 来年結婚することにしました。/我决定明年结婚。ここでも,(8)にみるように,「Vことにする」が「决定决定」に訳されている。 また,文型に焦点を当てた教材である『どんなときどう使う 日本語表現文型200』にも中国語の解説が見られる。そこでは「Vることにします」「Vないことにします」という文型をそれぞれ「决定…」「决定不…」と訳し,日本語の文例とともに次のように説明している。(説明の訳も原文。)  (9)  桜の木の下で拾ってきたねこだから,「さくら」と呼ぶことにしよう。  (10) 春休みには,長野の友達のうちへ行くことにしました。  (11) A:きょうからたばこをやめることにした!     B:そのこと,先月も聞いたよ。  (12) 夏休みは国へ帰らないことにしました。  (13) 3月は試験があるので,アルバイトをしないことにした。   表达由自己决定想要(不要)采取的行为时使用。(自分の意思である行為をする(しない)と決めたと

言いたい時に使う。) 次に,中国で出版された日本語の教科書を概観する。ここでも,「Vことにする」の説明や例文の訳に「决定」が用いられている。たとえば,『综合日语 修订版 第二册』(『総合日本語 改訂版 第二冊』)では,「Vことにする」について次のように説明されている(日本語訳は筆者によるもの)。   「Vことにする」接在动词谓语句的简体形式后面,用于表示动作主体决定做(或不做)某事。相当于汉

语的“决定――”等(「Vことにする」は動詞述語の普通形の後について,動作の主体が何かする(或いは何かしない)ことを決めるという意味を表す。中国語の“决定――”などに相当する。)

 また,『标准日本语(新版)初级下』(『標準日本語(新版)初級下』)には,次のような例文と中国語の対訳が見られる。  (14) 今日からお酒を飲まないことにします。(我决定从今天起戒酒。)  (15) 広州へは飛行機で行くことにしました。(我决定乘飞机去广州。)  (16) 今年の夏は旅行に行かないことにしました。(我决定今年夏天不去旅行了。) 最後に,語学辞典を参照する。『日中辞典』(小学館)では,「する」の項目に「Vことにする」の中国語訳例が見られる。こちらでも「Vことにする」は「决定」に訳されている。  (17) 会社を辞めて独立することにした。  /决定辞掉公司自己干。  (18) 来年中国に長期留学することにした。 /决定明年去中国长期留学。

を「决定」に置き換えても,同じ意味の訳となる.   あしたからジョギングすることにしよう./我决定从明天开始跑步。

  「决定」と「决心」は常に置き換えられるというわけではないため,全く同義としてしまうことには問題がある可能性があるが,少なくとも(5)においてはほぼ同義として用いられているため,ここでは「决定」が用いられている場合に準ずると考える。

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

 以上のように,中国語話者を対象とした日本語教材や参考資料においては,日本で出版されたものであっても中国で出版されたものであっても「Vことにする」の解説および対訳に「决定」が用いられていることが分かる。 では,日本語の「Vことにする」は中国語の「决定」に完全に一致する表現と見なしてよいであろうか。次節では,日本語のテクストに現れる「Vことにする」が中国語にどのように訳されているか,実際の対訳例を参照しながら,この点について検証する。

3.日本語と中国語の対訳の観察

 本研究では,日本語と中国語の実際の対訳例を『中日対訳コーパス』(北京日本学研究センター)から採取した。以下に,資料として用いる対訳コーパスの情報を提示する。  『中日対訳コーパス』(第一版公開:2003年7月)  内容:  小説,エッセイ,伝記,政治評論・白書,法律関連文書・条約文書,詩など各ジャンルの中日

対訳テクスト。2千万字余りの対訳データのうち,第一版では以下を収録。    ・文学作品:中国23篇,日本22篇とその訳本(合計 105件,約 1130.3万字)    ・文学以外:中国14篇,日本14篇,日中共同2篇とその訳本(合計 45件,約 574.6万字) 今回の調査は『中日対訳コーパス』を利用して,文学作品のみを検索して,「事態の選択」用法と思われる「Vことにする」と「行動の決定」用法の「决定」と思われる用例を抽出した。検索対象とした文学作品は日本の文学作品22篇および中国の文学作品23篇である。作品リストは巻末に記す。 文学作品のみを検索対象とする理由は2つある。まず,本コーパスにおける文学作品以外のデータはジャンル(エッセイ,伝記,政治評論・白書,法律関連文書・条約文書,詩)が多岐にわたるため,個々に用法を特定していくのが困難であると思われるからである。次に,「决定」は白書,政治評論,政府報告書などによく用いられるのに対し,「Vことにする」はこうした文書にあまり用いられないという傾向が見られるためである4。これは,「决定」と「Vことにする」の意味や用法に起因するものというより,文体的な理由によるものであると思われる。具体的には次のようである。「事態の選択」を表す「Vことにする」は1人称主語と共に用いられる傾向が強いのに対し,「决定」にはそうした人称制約が関わらないという違いが両者に見られる。ただし,物語調(ナラティブ)のテクストでは,「Vことにする」の人称制限が緩くなる。文学作品では物語調が多いため,「Vことにする」の人称制限が緩くなり,結果として「决定」と対応しやすくなると考えられる。 以下では,まず,日本の文学作品を中国語に訳したものから,「Vことにする」の現れている例を取り上げ,中国語でどのように訳されているかを観察する。次に,中国の文学作品を日本語に訳したものから,「决定」の現れている例を取り上げ,日本語でどのように訳されているかを観察していく。

3.1.「Vことにする」の中国語訳

 用例を採取するにあたっては,キーワード検索と手作業による選別で,「事態の選択」用法と判断されるものをコーパスから抽出していった。具体的には以下の通りである。 まず,「ことにし」で検索すると,「ことにします」「ことにしません」「ことにしない」「ことにした」「こ

4  実際の例を見ると,政府報告書などのジャンルに用いられる「决定」は日本語訳において「Vことにする」ではなく「決定(する)」が用いられている例が多く見られる。

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阿部 二郎・鄭  玉貴

とにしませんでした」「ことにしなかった」などの形式が出てくる。他には,「ことにしたら」「ことにしておいて」などの文中の形式も見つかる。次に,「ことにす」で検索すると,「ことにする」の形式が出てくる。ここから,後で手作業で「事態の選択」と思われる例だけ選別した。 作業する中で,文中に現れる「Vことにする」は例が少なく,かつ,「事態の選択」用法に該当しないものや,「事態の選択」用法とみなしてよいかどうか判断の難しいものが多いことが分かった。そこで,文中に現れるものは調査の対象外とし,文末に現れる「Vことにする」のみを採取した。また,「ことにしている」の形を取るものは別の用法なので,研究対象外とした。 以上の方法により「Vことにする」の中国語訳を抽出したものが以下の表1である。なお,表中の「意訳」とは「决定」もしくはそれに相当する表現を用いてはいないが,文全体から「行動の決定」という解釈が読み取れるもの,「不訳」とは,そのような解釈が無いものである5。

 この表を見ると,表面的には「Vことにする」が「决定」に訳されるケースは全体のおよそ4割ということになるが,実際には「决定」が用いられていなくても「决定」に訳し得るものもあれば,「决定」に訳し得ないものもある。以下では,それぞれの場合について観察していく。

3.1.1.「决定」に訳されているもの/「决定」に訳し得るもの

 2節に見たように,中国人学習者を対象とした日本語学習教材や辞典では,「Vことにする」が「决定」に訳されていたが,実際の文学作品においても以下のような例が見られる6。  (19) a. 今,午後一時,たいていの人は昼寝の最中である。今日は幾らか思考力が復活しかけたよう

な気がするので,六日以来の出来事を思い辿って行くことにする。(『あした来る人』)     b. 现在是下午一点钟,大部分人正在睡午觉。今天我感到思考力好象有所恢复似的,所以决定把

六天来发生的事,再回顾一下。(『情系明天』) (19a)では,「六日以来の出来事を思い辿って行く」という行動を主体が決定することを「Vことにする」で表しており,中国語訳(19b)においても,これと対応するように「六天来发生的事,再回顾一下」(六日以来のことを,再び振り返る)という行動の決定が「决定」によって示されている。こうした例は,日本語教材や辞典類の説明に符合する。 一方で,「Vことにする」が「决定」に訳されていない場合も少なからず見られる。「Vことにする」が「决定」に訳されない場合は,大きく分けて2通り見られる。まず,「Vことにする」が「决定」の類義語と考えられる表現に訳されているものがある。そして,「Vことにする」に相当する中国語の表現が用いられていない場合がある。

5  意訳される際は「想好…」「说好…」「约好…」「盘算…」「考虑…」などが用いられる傾向が見られる。これらは,「打算」

「准备」のような「决定」の類義語と異なり,行動の決定そのものより,思索の過程に焦点が当てられる。   早速,翌日から,睡眠時間をけずって,骨さがしに当てることにした。(砂の女)   咱又想好,第二天一大早,削减掉睡眠时间,去找骨头。(砂女)

6  以下,対訳コーパスからの例では,断りの無い限り,原文を「a」,訳文を「b」とする。

表1

中国語訳 「决定」 「打算」 「要」 「准备」 「想」 「决心」 意訳 不訳 計出 現 数 65 4 3 3 2 2 6 69 154割 合 42.2% 2.5% 1.9% 1.9% 1.2% 1.2% 3.9% 44.8% 100%

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

 2節において,「决定」の基本的意味は「主体がどのように行動するか決める」としたが,中国語においてこれに近似した意味を持つ表現はいくつか存在する。表1において「Vことにする」が「决定」以外の表現に訳されているケースが見られるが,こうしたものが「决定」の類義表現と考えられる。ここでは一例として「打算」(「~する心づもりである」等に相当)と「准备」(「~する予定である」等に相当)が用いられているものを挙げる。  (20) a. 朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので,僕もついていくことに

した。(『ノルウェイの森』)     b.早饭后,两人说要去鸟舍给鸟喂食,我也打算跟去。(『挪威的森林』)  (21) a.そのうちに店が混みあってきたので,我々は外を少し散歩することにした。(『黒い雨』)     b.这工夫,店里人多起来,我们便准备离开,出去稍事散步。(『黑雨』) 確かにこれらには事実として「决定」が用いられていないが,しかし,そこに用いられている「决定」の類義表現を次のように「决定」に置き換えても,文意は変わらず,特に違和感もない。  (20) b′.早饭后,两人说要去鸟舍给鸟喂食,我也决定跟去。(『挪威的森林』改変)  (21) b′.这工夫,店里人多起来,我们便决定离开,出去稍事散步。(『黑雨』改変) また,「Vことにする」に相当する中国語の表現が用いられていない場合としては,以下のようなものがある。  (22) a. 断って置きますが,私はこれから彼女の名前を片仮名で書くことにします。どうもそうしな

いと感じが出ないのです。(『痴人の愛』)     b. 预先声明一下,以下我将按发音写她的名字,不这样写总觉得体会不出它的洋味儿。(『痴人之

愛』) (22a)では二重下線で示した「これから彼女の名前を片仮名で書く」という事態を下線部「ことにします」によって決定したことが示されているが,これを訳した(22b)では,二重下線の「以下我将按发音写她的名字」(これから彼女の名前を音で書く)によって主体の行動が示されているだけで,「决定」もしくはそれに相当する類義表現が用いられていない。 しかし,この場合も,次のように「决定」を補うことは不可能ではない。  (22) b′. 预先声明一下,以下我决定将按发音写她的名字,不这样写总觉得体会不出它的洋味儿。(『痴

人之愛』改変) つまり,(20)~(22)の対訳例は必然的な理由があって「决定」の使用が避けられているというわけではなく,「决定」が用いられていたとしてもおかしくないものである。その意味では,これらも「Vことにする」が「决定」に訳されている場合に相当するものであって,日本語教材や辞典類の説明と矛盾するものではない。

3.1.2.「决定」に訳すことのできないもの

 前節では,「Vことにする」が「决定」に訳されているもの,および,「决定」に訳されていなくても,「决定」を用いた訳に置き換えることのできるものを観察した。本節では,「Vことにする」が「决定」に訳されておらず,しかも,それを「决定」を用いた訳に置き換えることのできないものについて観察する。  (23) a. そこで男も負けずに,ことさら単調な手仕事にせいを出すことにした。天井裏の砂はらいや,

米をふるいにかける仕事や,洗濯などは,すでに男の主な日課になっている。(『砂の女』)     b. 于是,男人也不落后,拼命干一些更单调地的家务活。清扫清扫天花板上的沙子啦,淘淘米啦,

外加洗衣服,都已经成了男人每天的必修课。(『沙女』)

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阿部 二郎・鄭  玉貴

  (24) a. 私は多少依怙地にもなって,前にはほんの三十分ほど浚ってやるだけだったのですが,それから後は一時間か一時間半以上,毎日必ず和文英訳と文典とを授けることにしたのでした。そしてその間は断じて遊び半分の気分を許さず,ぴしぴし叱り飛ばしました。(『痴人の愛』)

     b. 我多少有些固执起来,开始我仅让她复习三十分钟,后来每天必定教她一小时或一个半小时的

日译英和语法,而且在这段时间里不停地教训她,绝不允许她边学边玩。(『痴人之爱』) これらは,「ことさら単調な手仕事にせいを出す」「毎日必ず和文英訳と文典とを授ける」といった事態を主体である「男」や「私」が選択したという解釈となる点では,ここまで観察してきた例と変わらないようにも思われるが,その中国語訳には「决定」が用いられていない。それだけではなく,それぞれの中国語訳に対し,次のように「决定」を用いようとすると,かなり不自然な文となる。  (23) b′.?? 于是,男人也不落后,决定拼命干一些更单调地的家务活。清扫清扫天花板上的沙子啦,淘

淘米啦,外加洗衣服,都已经成了男人每天的必修课。(『沙丘之女』改変)  (24) b′.?? 我多少有些固执起来,开始我仅让她复习三十分钟,决定后来每天必定教她一小时或一个半

小时的日译英和语法,而且在这段时间里不停地教训她,绝不允许她边学边玩。(『痴人之爱』改変)

 このような「决定」に訳し得ない「Vことにする」には,形式上の傾向が見られる。すなわち,そのような場合は「ことにした」のように過去の形で用いられている。ただし,「ことにした」の形であったら常に「决定」に訳し得ないというわけではなく,(20)や(21)のように「决定」に訳されることもある。しかし,「决定」に訳し得ない場合の日本語の原文を観察すると,必ず「ことにした」の形となっている。この点については4.1節で考察することにする。 ここまでは「Vことにする」の中国語訳を観察してきたが,次に「决定」の日本語訳について観察していく。

3.2.「决定」の日本語訳

 用例採取に当たっては,まず,対訳コーパス中から「决定」を検索し,「行動の決定」用法に相当すると筆者が判断したものを抽出した。 ここで,中国語と日本語の対訳を観察する上で注意を要することがある。それは,「行動の決定」用法の「决定」であっても,構造的な理由によって日本語の「Vことにする」に対応しないものが存在するということである。具体的には次のようなものである。  (25) a.几种矛盾的思想在他的脑子里斗争。但是最后他决定了。(『家』)     b.いくつかの矛盾した考えが頭の中ではげしく闘っていたが、最後に彼は心をきめた。(『家』)  (26) a.我认为,作人还是作鬼,我们自己可以决定。(『人啊,人』)     b. おれの考えでは、 まともな人間になるか人でなしになるかは、 自分で決定できるんだよ(『あ

あ,人間よ』) いずれの例も,「几种矛盾的思想」(いくつかの矛盾した考え)「作人还是作鬼」(まともな人間になるか人でなしになるか)という選択すべき事態・行為が初めに示され,最後に「决定」によって主体が決定を下したことが示されている。この場合,意味的には「行動の決定」という用法ではあるが,その文は「决定」の直後に事態や行為の内容が示される構造になっていない。「Vことにする」は,当然ながら,選択すべき事態・行為が動詞で示されるものであり,これを省略して「ことにする」単体で用いることはできない。したがって,(25)や(26)の例は,このような構造的な違いから「Vことにする」に訳されていないのである。これらは,意味的な相違ではなく,構造的な相違があるために対応しないものであるから,調査の対象から除く。

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

 以下は,「行動の決定」用法の「决定」から上記のようなものを排除し,構造的に「Vことにする」に対応し得るものと,その実際の日本語訳を集計したものである7。

 ここで,「决定」が「Vことにする」に訳されているものが全体の3割程度であるが,先ほど見た逆の場合と同様,それ以外に訳されていても「Vことにする」に訳し得るものと,訳し得ないものがある。以下,それぞれについて観察していく。

3.2.1.「Vことにする」に訳されているもの/「Vことにする」に訳し得るもの

 表2より,中国語から日本語への翻訳においても,「决定」から「Vことにする」に訳されている例が最も多く見受けられる。  (27) a. 天色已晚,觉得再去住旅店实在不合算。--光是睡一觉也得花六毛,决定还是在车站候车室

去熬一宿。(『插队的故事』)     b. もう日が暮れているので宿屋に泊まるのは損な気がした。ただ寝るだけで六角もとられるの

で,駅の待合室に行って夜を明かすことにした。(『遙かなる大地』)  (28) a.我和妈妈商量了一下,决定暂时先把窗子糊起来……(『轮椅上的梦』)     b.パパはママと相談して,しばらく窓をふさぐことにしたよ(『車椅子の上の夢』)  (29) a. 他不能用含糊不清的东西搪塞记者,就决定采取少而精的办法,用典型实例说明全区的情况。

(『金光大道』)     b. 記者に好い加減な話でお茶もにごせないので,少数精鋭でいき,典型的な例をあげて区全体

の状況を説明することにした。(『輝ける道』) (27)を例に説明すると,「还是在车站候车室去熬一宿」(駅の待合室に行って一晩辛抱する)という行動を「决定」によって主体が決定したことを示しており,これは日本語訳と対応している。 一方,「Vことにする」に訳されていないが,「Vことにする」に置き換えられるものとしては,以下のようなものがある。  (30) a.在道上,就想起连殳的了,到后,便决定晚饭后去看他。(『彷徨』8)     b. 来る途中で,連殳のことを思い出し,着いてから、晩飯のあとで訪問することに決めた。(『彷

徨』)  (31) a.喝了两壶茶,他觉出饿来,决定在外面吃饱再回家。(『骆驼祥子』)

7  出現数と割合が同じ数値となっているのは偶然であり,誤りではない。8  本コーパスは,作品単位でなく,書籍単位でデータが編まれている。『彷徨』は魯迅の短編小説集の題名であり,文例はその中の一編からのものであるが,ここではコーパス上の表記に従う。

表2

日本語訳 Vことにする 決める 決心する 決意する Vようと思う出 現 数 27 20 14 6 7割  合 27% 20% 14% 6% 7%

Vよう 決まる Vことになる その他 不訳 計5 3 2 8 8 100

5% 3% 2% 8% 8% 100%

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阿部 二郎・鄭  玉貴

     b. 茶店で時間をつぶした。急須を二杯からにしたあと,腹がすいてきたので,外で飯をすませて帰ろうと思った。(『駱駝祥子』)

 これらは,「决定」がそれぞれ「決める」「Vようと思う」に訳されているが,これらを「Vことにする」に問題なく置き換えることが可能である。  (30) b′.来る途中で,連殳のことを思い出し,着いてから,晩飯のあとで訪問することにした。  (31) b′. 茶店で時間をつぶした。急須を二杯からにしたあと,腹がすいてきたので,外で飯をすま

せて帰ることにした。 また,「决定」が日本語に訳されていない場合としては,以下のようなものがある9。  (32) a.最后还是决定就在屋里摆三桌自馔菜肴意思意思。(『钟鼓楼』)     b.結局は自分の家で三卓設け,手料理でお義理にすませた。(『鐘鼓楼』) しかし,この場合でも,「Vことにする」を補うことは不可能ではない。  (32) b′.結局は自分の家で三卓設け,手料理でお義理にすませることにした。(『鐘鼓楼』改変) 「决定」は,構造的に「Vことにする」に訳せないもの以外にも,意味的に「Vことにする」に対応しない場合がある。以下では,そのような例について観察する。

3.2.2.「Vことにする」に訳すことのできないもの/「Vことにする」では解釈の変わるもの

 中国語から日本語に訳した際,「决定」が「Vことにする」に対応しないものとしては,以下のようなものがある。  (33) a. 虽然他决定不去的时候,从北海小山上跑下来,双腿不禁簌簌地颤抖,眼里满含着羞愧的泪珠。

(『青春之歌』)     b. いかないと決めたとき,北海公園の小山からかけおりたかれの両膝は,がくがくとふるえ,

両眼には慚愧の涙を,いっぱい溜めてはいたが。(『青春の歌』) 訳文(33b)では原文(33a)の「决定」が「決めた」に訳されている。原文では,「决定」は「いかない」という事態を単に決定したというだけでなく,そこに伴う主体の複雑な気持ちも伴った解釈となる。すなわち,

(33a)の文からは,主体が本当は行きたいが,何らかの理由で行ってはならない状況になり,「行かない」と決めるときに伴う心の葛藤や悩みも一緒に読み手に伝えられる。そのような解釈となることは,後続する「両膝は,がくがくとふるえ」,「慚愧の涙を,いっぱい溜めてはいた」などの表現を伴っていることが証左となる。ところが,(33b)における「~と決めた」を次のように「Vことにする」に置き換えると,若干不自然に感じられる。  (33) b′.? いかないことにしたとき,北海公園の小山からかけおりたかれの両膝は,がくがくとふる

え,両眼には慚愧の涙を,いっぱい溜めてはいたが。(『青春の歌』改変) 筆者が(33b′)に対して感じる違和感は次のようなものである。まず,「いかないことにした」という表現からは,主体がある事態の選択をしたことが客観的に報告されているように感じられる。しかし,それに後続する形で,その選択を下している主体の葛藤のようなものが一文内に同時に示されている。つまり,「いかないことにした」は選択の結果を示しているのに,後続文は選択の際の主体の心理状態を表している。そこに,なんらかの齟齬が感じられる。このように,事態が決定された際の主体の葛藤などの思いが読み取れ

9  日本語訳(32b)は行為が実行されたかのようにも解釈されるが,原文(32a)は「决定」があるため,そのような解釈とはならならず,あくまでもその当時の主体の視点で,そのように決意,決断したことのみ示している。つまり,厳密には(32b)の訳は原文(32a)と対応しない意訳であり,むしろ改変した(32b′)の方が決意,決断を示している分,原文に近い。

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

るような文脈に「决定」が置かれている場合は,「Vことにする」に訳しにくくなる。 また,次のような場合も,両者が対応しにくくなる。  (34) a.小姑娘决定摘一些野葡萄带回家送给乡亲们。她用葡萄藤编了一只小篮。(『轮椅上的梦』)     b. 女の子は山ブドウを摘んで帰って村人たちにも食べさせたいと思い,ブドウのつるで小さな

籠を編みました。(『車椅子の上の夢』)  (35) a. 她心里一动,这才决定了要装扮一个风流女人,甚至被人认作卖笑的“野妓”也不要紧。(『青

春之歌』)     b. かの女の頭にある考えが浮かんだ。そうだ,あだっぽい女に扮装してやろう。たとえ,「商

売女」と違えられたってかまわない。(『青春の歌』)  (36) a.他想起自己曾给英雄的妹妹写信表示过的决心,决定回去再写一封。(『轮椅上的梦』)     b. 子どものころ英雄の妹に書いた手紙の中の決意も思い出した。 帰ったら,もう一度だけ手紙

を出してみよう。(『車椅子の上の夢』) (34)~(36)では単に「决定」が「Vことにする」に訳されていないだけでなく,「たいと思う」「てやろう」など,「事態の選択」とは少し異なる表現を用いて訳されている。これらの例では,「决定」と「Vことにする」の対応関係が薄れていると考えられる。このことは,「决定」の訳に相当する箇所を「Vことにする」に置き換えることで確認できる。  (34) b′. 女の子は山ブドウを摘んで帰って村人たちにも食べさせることにして,ブドウのつるで小

さな籠を編みました。(『車椅子の上の夢』改変)  (35) b′. かの女の頭にある考えが浮かんだ。そうだ,あだっぽい女に扮装することにしよう。たとえ,

「商売女」と違えられたってかまわない。(『青春の歌』改変)  (36) b′. 子どものころ英雄の妹に書いた手紙の中の決意も思い出した。 帰ったら,もう一度だけ手

紙を出してみることにしよう。(『車椅子の上の夢』改変) (34b′)~(36b′)は,日本語の表現として容認できないほど不自然というわけではない。しかし,訳文(34b)~(36b)とは少しニュアンスが異なっている。具体的には,訳文では「たい」「よう」など,事態に対する主体の願望や意志を表す表現が用いられているのに対し,(34b′)~(36b′)では,その事態を選択する時点での主体の意志は示されない10。そして,原文の解釈は,「Vことにする」を用いた(34b′)~(36b′)よりも当初の訳文である(34b)~(36b)の方がより近いと感じられる。すなわち,原文では事態を選択した結果がただ報告されているというより,その時点での主体の意志が感じられる解釈となる。たとえば,(34b′)では「Vことにする」が用いられていることにより,「女の子」が「山ブドウを摘んで帰って村人たちにも食べさせる」という事態を選んだ結果を話者が報告するような解釈となる。これに対し,原文(34a)では,「摘一些野葡萄

带回家送给乡亲们」(山ブドウを摘んで帰って村人たちにあげる)という行為を決定する際の「女の子」の意志を示すような解釈,つまり,日本語の(34b)に近い解釈となる。 なぜ,このような対応関係のずれが生じるのか。その点については4.2節で考察したい。

4.考 察

 これまでの観察を踏まえ,まず4.1節では,「Vことにする」を中国語に訳した場合について,次に4.

10 「ことにしよう」の「よう」は事態に向けられたものではなく,「Vことにする」,つまり事態の選択行為に向けられたものである点に注意。

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阿部 二郎・鄭  玉貴

2節では,「决定」を日本語に訳した場合について,それぞれ考察していく。

4.1.事態の実現解釈をめぐる違い

 3.1.2節では,日本語で「Vことにする」が用いられていても,中国語では「决定」に訳されず,また,「决定」を用いた訳に置き換えることもできない例を見た。その場合,常に日本語の原文が「ことにした」のように過去の形となっていることも観察された。ここでは,この点について考察していきたい。 「Vことにする」の2つの形式「ことにする」「ことにした」に関しては,柏崎(2001)が言及している。それによると,まず,「事態の選択」を表す「Vことにする」は,発話時点で選択決定がなされるか或いは発話時点より先に選択決定がなされていることを示すことができる。たとえば次の例では,その2つが同一の文脈の中で「ことにする」と「ことにした」という形式によって言い分けられている。  (37)  実行は,計画を思いついてから四日目…いつも,行水用の水が配給されることになっている。土

曜の夜を選ぶことにした。その前夜は,あらかじめ風邪をよそおって,ぐっすり眠っておくことにする。(『砂の女』)

 この例では,「ことにした」が後接している「土曜の夜を選ぶ」という選択決定が,発話時点の少し前になされ,「ことにする」の後接する「ぐっすり眠っておく」が,発話時の心づもりとして語られている。 次に,「ことにした」によって選択がすでに決定され確定したことを示す文は,選択された行為・事態の実行がまだ先である解釈となる場合と,その選択が決定されて,同時に実行に移されたことを示す場合とがあるとされる。  (38)  自分の方だけならなんとか逃げ切れそうなのだが,連合艦隊参謀長の命令では仕方がない。言わ

れた通り,できるだけ一番機について行くことにした。(『山本五十六』)  (39)  「知り合いのうちで,お婆さんが中気で倒れて困っているからって,頼んできたから,そっちへ

付き合いに行くことにしたの。夜帰るのが,九時なのよ。」(『太郎物語』) いずれの例でも,「ことにした」は,過去において事態の選択が成立したことを示しているが,それだけではなく,その事態が実際に実行に移されたと解釈することが可能である。たとえば,(39)では「夜帰るのが,九時なのよ。」とあるように,事態が実行された結果が示されており,そこから,「そっちへつきあいに行く」という行為が実行されたと解釈することができる11。 一方,中国語の「决定」は,発話時点で既に実行されている行動を表すことができず,常にまだ行われていない,未然の行動しか表すことができない。以下に例(23)を再掲して,この違いについて考察する。  (23) a. そこで男も負けずに,ことさら単調な手仕事にせいを出すことにした。天井裏の砂はらいや,

米をふるいにかける仕事や,洗濯などは,すでに男の主な日課になっている。(『砂の女』)     b. 于是,男人也不落后,拼命干一些更单调地的家务活。清扫清扫天花板上的沙子啦,淘淘米啦,

外加洗衣服,都已经成了男人每天的必修课。(『砂女』) (23a)では「ことさら単調な手仕事にせいを出す」ことを「男」が決定したことに加え,その後「天井裏の砂はらいや,米をふるいにかける仕事や,洗濯などは,すでに男の主な日課になっている。」と続いており,

11 行為・事態の実行を示し得るということと,行為や事態の実行を含意するということは区別する必要がある。ここでの主張は,行為実行の含意といった強力なものではなく,「ことにした」という形式が,文脈上,結果としてその行為・事態が実行に移されたと解釈することを妨げないという程度のものである。当然ながら,「ことにした」が用いられていても,次のように,文脈によって行為・事態の実現をキャンセルすることは常に可能である。

    そこで男も負けずに,ことさら単調な手仕事にせいを出すことにした。ところが,いざ始めようとすると,既に仕事は女が片付けてしまっていて,結局何ひとつすることはできなかった。(『砂の女』に基づく作例)

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

ここから「ことさら単調な手仕事にせいを出す」ことが単なる決意に留まらず,実行されたことが読み取れる。このように,文脈から明らかに事態や行動が実行に移されたことが分かるような場合,中国語では「决定」を用いることができない。実際に,(23b)では「决定」が用いられておらず,3.1.2節で(23b′)に見たように,「决定」を用いようとすると不自然な文となる。 3.1節で得られた観察結果は,ここでの考察から,次のように説明することができる。まず,「决定」は主体による行動の決定を表し,その点においては「Vことにする」と共通している。次に,「决定」は行動の決定が行われたのが発話時現在であっても,発話時より過去であっても用いることができる。一方,「Vことにする」の場合,前者は「ことにする」の形で表され,後者は「ことにした」の形で表される。したがって,3.1.1節で見たように,「Vことにする」が「ことにする」の形であっても「ことにした」の形であっても,「决定」に訳される。しかし,「ことにした」の形の場合は,文脈次第では,決定された行動がその後実行されたような解釈も許すのに対し,「决定」はそのような解釈を許さない。したがって,そのような文脈に置かれた「Vことにする」は「决定」に訳すことができない。3.1.2節で見たように,「决定」に訳し得ない「Vことにする」が原文において常に「ことにした」の形を取っているのは,このような理由によるものであると考えられる。 なぜ,「决定」が行動の決定(という心理状態)のみを表し,行動の実現という解釈を妨げるのかということについて,現時点で十分な説明をする根拠は無い。しかし,筆者の直観に基づく主観的なものではあるが,次のような説明が予想される。「决定」は発話時現在の話者の視点から報告するものではなく,そのような決定を下した時点の主体の意識に視点を置いて述べるものであると思われる。決定を下した時点の主体の意識では,決定された事態・行為の内容は未然のものとして捉えられる。そのような視点を持った文が,発話時の話者の視点から語られ,それが実行されたと解釈されるような文脈に置かれると,「决定」の意味と齟齬を来す印象を与えることになるのではないだろうか。

4.2.事態の選択と行動の決定

 3.2.2節で観察したように,「决定」を「Vことにする」に訳そうとした場合,構造的に対応し得ない場合を除けば,明らかに不自然な表現になることは少ないものの,解釈が原文と異なったり,文脈と合わなくなったりするものがあった。そこでの観察をまとめると,次のようである。  1 )「决定」が,主体が行動を決定する際の迷いや葛藤が示されている文脈にある場合は「Vことにする」

に訳しにくい。  2 )「决定」を含む文から主体が行動を決定する際の,その行動に対する願望や意志が読み取れる場合

は,「Vことにする」に訳しにくい。 いずれの場合も,「决定」に行動の決定をする際の主体の心理が関与すると「Vことにする」に訳しにくくなるという点で共通している。この点について考察するに当たり,1.1節で見た「Vことにする」の成り立ちにいま一度光を当てたい。 すなわち,「Vことにする」は「こと」と「(に)する」の複合したものであり,「こと」によって示される事態と,「(に)する」によって示される,主体が意志的に数ある選択肢の中から一つを選択するという行動,からなる。「决定」の翻訳に見られる上記の傾向は,このような「Vことにする」の成り立ちと関係があると考えられる。 まず,「Vことにする」が示す「事態の選択」における「事態」を提示する「こと」は,その事態を客体化し,その事態に対する意志等の介入を許さない。一般的に,「こと」節は次の(41)に見るようにモダリティを示す形式の出現を許容しないことが知られている。

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阿部 二郎・鄭  玉貴

  (40) 太郎にはもう会うまい。  (41) *太郎にはもう会うまいこと また,「選択」を表す「(に)する」も,その選択に際して,どのような意志や感情が働いているかを示し得ない。以下の例を比較されたい。  (42) 「おかずはどうしようか。」    a.「ハンバーグが食べたい。」    b.「ハンバーグでいい。」    c.「ハンバーグにする。」 (42a),(42b)は,選択に際しての主体の心理(aは願望,bは妥協)を提示し,語用論的に「ハンバーグ」を選択することを伝えている。一方,(42c)は直接的に選択行為をしており,主体がどのような心理で選択しているかは分からない。 このように,「Vことにする」は,その成り立ちから見ても,「こと」によって客体化された事態を提示し,「する」によってそれを主体が選択するということを客観的に報告するものであることが分かる。その際,主体がどんな意志で事態を選択したかということは問題にしない12。 これに対し,「决定」は文脈次第で,行動を決定する際の主体の意志を読み込むことも可能である。そのような意志を読み込む場合,「决定」は主体の行動に対する思案の末の強い決心を表す。これは日本語に訳される際には,(35b),(36b)に見たように「よう」「たい」などで表されることになる。また,「と思う」「と決める」など,引用の「と」を伴うことで,引用句内に主体の意志を示し得る表現が用いられることもある。このほか,「Vことを決意する」のように,「こと」が用いられていても「決意する」自体に主体の強い決心が読み取れる表現が用いられることもある。 ところで,中国語話者の日本語学習者に見られる誤用(不適切な使用)に以下のようなものがある。  (43) (自己紹介の場面で)私はこれから日本語をしっかり勉強することにしました。 これは,以下のような中国語の直訳であると思われる。  (44) 我决定今后好好学习日语。 しかし,(43)は次のようにした方が,より自然な日本語となる。  (45) 私はこれから日本語をしっかり勉強しようと思います。 (44)は「决定」を用いることで,「日本語をしっかり勉強する」という行為に向けての主体の確かな決意や強い意志を表そうとしている。つまり,中国語としては話者の「やる気」や熱意を感じさせる文となっているのであるが,これを「Vことにする」を用いて(43)のように訳すと,そうした主体の意志は感じられず,単に「日本語をしっかり勉強する」という事態を話者が選択したという事実が客観的に報告されているような印象となる。こうした誤用も,主体による「事態の選択」を専ら客観的に示す「Vことにする」と,主体による「行動の決定」を時には主体の意志も込めて示すことのある「决定」との違いを反映するものであると思われる。 そうした違いには,両者の基本的な意味である「事態の選択」と「行動の決定」の違いも関係していると考えられる。本稿において「Vことにする」には「事態の選択」という用語を用い,「决定」には「行動の

12 ただし次のように,選択の時点ではなく,選択に至る過程で主体が思い悩んだりしている場合は,「Vことにする」が用いられていても不自然ではない。この場合は,一見選択時の葛藤を表しているようであるが,実際,その葛藤は事態の選択に至る過程で生じたものであり,最終的に選択する瞬間には解消しているものと見なされる。

    こんなことを貴方にお話するべきかどうか,ずいぶん迷いましたけど,思いきってお話することにしました。(三浦哲朗『団欒』)

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日本語の「Vことにする」と中国語の「决定」

決定」という用語を用いたのは,「選択」が所与の選択肢から主体が選ぶ行為であるのに対し,「決定」は所与の選択肢を前提とせず,ひとつの行動に対する思案の過程を経て,これを確定する行為であるという違いがあるからである13。そして,「選択」においては,選択肢が所与のものであるが故に,その選択結果の方が問題とされるのに対し,「決定」において決定の際の意志も問題となり得る14。 ただし,「決定」は常に主体の意志を伴って主観的に用いられるというわけではない。たとえば,次のように「決定」の文中に選択肢が明示されているような場合は,「事態の選択」を表すようになる。  (46) a.江华还没有决定跟他去或不去。(『青春之歌』)     b.江華はまだ,一緒についていこうか,いくまいか,決めていなかった。(『青春の歌』) この場合,主体の意志は問題となり得ない15。そのような場合は,(46)のように「決める」「決定する」といった訳が原文に近い。 また,「决定」の文に「了」が付くと,客観的な印象となる場合がある。たとえば,(44)に次のように「了」を付けると,元の文にあった主体(話者)の熱意のようなものが感じられなくなり,主体がそのような決定を下したことを単に報告しているような印象となる。  (47) 我决定了今后好好学习日语。 ただし,「了」が付いても(35a)のように主体の意志が込められた解釈となる場合もあるので,ここでは結論を急がず,現象の指摘にとどめる。いずれにしても,専ら「事態の選択」の客観的な報告に用いられる「Vことにする」に比して,「决定」が主体の意志を伴った主観的な場合と,より客観的な場合の両方で用い得る幅の広い表現であることは確かである。

5.まとめ

 一般的に対応関係にあるとされる「Vことにする」と「决定」であるが,観察の結果,対応しない場合も存在することが分かった。対応しない場合について考察したところ,「Vことにする」を中国語に訳す場合と,「决定」を日本語に訳す場合とで,それぞれの異同について次のように結論づけられた。 まず,「Vことにする」は「ことにした」の形で表されるとき,その事態が実行に移されたと解釈することも可能であるが,「决定」はそのような解釈を許さないため,文脈から事態が実行に移されたことが明らかとなっている場合は「决定」に訳し得ない。 そして,「决定」は行動の決定に際しての主体の意志も込めた解釈が可能な表現であるのに対し,「Vことにする」は所与の事態の選択結果を客観的に報告する表現であるため,「决定」に行動の決定をする際の主体の心理が関与するような文脈では,「Vことにする」に訳しにくくなったり,原文とは異なる印象となったりする。 以上が,本研究のまとめであるが,課題も残されている。まず,「决定」が事態の実行解釈を許さない原因について,主観的な予想にとどまり,根拠を提示するに至らなかった。今後,精査が求められる。次に,「决定」に「了」が付くことによって,客観的な印象が得られる場合と特に印象が変わらない場合があることを指摘したが,詳細の考察に至らなかった。アスペクトとも関連し得る興味深い現象であるが,今後のさらなる考察が必要である。また,「Vことにする」は,次のように発話時より後の事態の選択に際して「こ

13 選択肢が所与であることは,「こと」によって事態が客体化されていることも証左となり得る。14 「選択」と「決定」の違いは認知スキーマで表すこともできる可能性があるが,ここでは可能性の指摘にとどめる。15 日本語訳(46b)は「よう」「まい」と主体の意志を示したものとなっているが,原文(46a)はかなり客観的な印象を受ける。

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阿部 二郎・鄭  玉貴

とにする」「ことにした」のいずれも使用可能である。  (48) 「この後どうするの?」    a.「もう帰ることにする。」    b.「もう帰ることにした。」 こうした違いについても,発話行為論の観点から説明できる可能性がある。

【参考文献】

柏崎雅世(2000)「『ことになる』『ことにする』の意味と用法:その一『ことになる』」『東京外国語大学留学生日本語教育センター論集』26,pp.49-67.

柏崎雅世(2001)「『ことになる』『ことにする』の意味と用法:その二『ことにする』」『東京外国語大学留学生日本語教育センター論集』27,pp.33-47.

教材・辞典類『中日対訳コーパス』第1版,北京日本学研究センター 2003『どんなときどう使う 日本語表現文型200』アルク 2000『日中辞典』第2版,小学館 2001『日本語文型辞典』グループジャマシイ著,くろしお出版 1998『みんなの日本語 中級I』スリーエーネットワーク 2008『みんなの日本語 中級I 翻訳・文法解説 中国語版』スリーエーネットワーク 2009『中文版 日本语句型辞典』(『中国語版 日本語文型辞典』)グループジャマシイ著,徐一平訳,くろしお出版 2001『综合日语 修订版 第二册』(『総合日本語 改訂版 第2冊』)修訂版,北京大学出版社 2010『标准日本语(新版)初级下』(『標準日本語(新版)初級下』)人民教育出版社 2006

『中日対訳コーパス』で扱われている文学作品一覧・日本の文学作品(22篇)括弧内は訳題16

『あした来る人』(『情系明天』), 『越前竹人形』(『越前竹偶』), 『雁の寺』(『雁寺』), 『高野聖』(『高野圣僧』), 『飼育』(『饲育』), 『斜陽』(『斜阳』), 『砂の女』(『砂女』), 『痴人の愛』(『痴人之爱』), 『野火』(『野火』), 『破戒』(『破戒』), 『鼻』(『鼻子』), 『蒲団』(『棉被』), 『坊ちゃん』(『哥儿』), 『友情』(『友情』), 『雪国』(『雪国』), 『金閣寺』(『金阁寺』), 『こころ』(『心』), 『黒い雨』(『黑雨』), 『ノルウエイの森』(『挪威的森林』), 『羅生門』(『罗生门』), 『青春の蹉跌』(『青春的蹉跌』), 『死者の奢り』(『死者的奢华』)

・中国の文学作品(23篇)『插队的故事』(『遥かなる大地』), 『盖棺』(『棺を蓋いて』), 『丹凤眼』(『鳳凰の眼』), 『辘轳把胡同9号』(『轆轤把胡同九号』), 『关于女人』(『女の人について』), 『活动变人形』(『応報』), 『红高粱』(『赤い高粱』), 『金光大道』(『輝ける道』), 『家』(『家』), 『轮椅上的梦』(『車椅子の上の夢』), 『呐喊』(『吶喊』), 『彷徨』(『彷徨』), 『青

春之歌』(『青春の歌』), 『倾城之恋』(『傾城の恋』), 『棋王』(『チャンピオン(棋王)』), 『人到中年』(『人,中年に到るや』), 『人啊,人』(『ああ,人間よ』), 『上海的早晨』(『上海の朝 上巻第1部』), 『霜叶红似二月花』(『霜葉紅似二月花』), 『天云山传奇』(『天雲山伝奇』), 『小鲍庄』(『小鮑荘』), 『骆驼样子』(『駱駝祥子』), 『钟鼓楼』(『鐘

鼓楼』)

(阿部 二郎 札幌校准教授)       (鄭  玉貴 山東師範大学日本語学部講師)

16 実際には『雁の寺』は『雁之寺』,『砂の女』は『沙丘之女』と訳されるが,ここではコーパス内の表記に従った。