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発行日 編集者 2010.9.27 西村 WEB: http://todai-kunstturnen.net 2010 Summer No. 111 東大体操部部報

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Summer Report

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Page 1: UT Kunstturnen

発行日 編集者

2010.9.27 西村 海 WEB: http://todai-kunstturnen.net

2010 SummerNo. 111

東大体操部部報

Page 2: UT Kunstturnen
Page 3: UT Kunstturnen

巻頭の辞

春合宿、グループ予選、東日本グループ予選、新入生歓迎会、七大戦、全日本インカレなど

の春夏の大きな大会が終わり一段落し、得られた課題を克服する時期になりました。今年は一年

生も多数入部したので、東大体操部のレベルアップにつなげられるように部員一同一生懸命練習

していきたいです。OB・OGの皆様、どうかこれからも指導・応援よろしくお願いいたします。

2010 年 9 月

主将 那珂将人

Page 4: UT Kunstturnen

2

目次

巻頭の辞

目次

グループ予選

東インカレ

七大戦

全日本インカレ

春合宿

近況報告

自己紹介

卒部論文

会計報告

部員名簿

1

2

3

9

15

24

26

28

34

65

118

119

那珂

遠藤・中桐

茂木・西塚

孫・西塚

那珂

ビートル

馬場・中桐

一年生

大木さん・山本さん

山路さん・山路さん

佐野

Page 5: UT Kunstturnen

3

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

第 26回東日本学生体操競技グループ選手権大会

2010 年 4 月 17,18 日

栃木県体育館

文責:遠藤徹 ( 主客混合 )

氏名 床 あん馬 つり輪 跳馬 平行棒 鉄棒 合計甲斐亘 11,350 9,200 10,650 9,850 11,600 9,550 62,200鈴木真志 11,750 9,450 10,300 11,000 10,250 9,000 61,750茂木隼 8,800 5,400 9,650 9,600 3,700 1,950 39,100菅原壮 1,900 棄権 棄権 5,600 6,200 棄権那珂将人 12,200 10,800 10,900 12,150 11,350 10,850 68,250遠藤徹 10,600 6,250 9,250 11,950 10,450 6,600 55,100ベスト5 54,700 41,100 50,750 54,550 49,250 42,200 292,550

 4 月 17 日 ( 土 ) 午前、関東各地で季節外れの積雪が観測される。宇都宮もまた然り。東日本

大学体操界は 2010 年のシーズンに突入した。

 同日夜、会場練を終えた団体+餃子の有志一行は宇都宮駅前の餃子屋にて宇都宮人のソウル

フード=餃子を貪り食う。ただひたすら食う。その後某ドーナツチェーンで翌日の作戦会議が開

かれた。主な議題は 2 つ。新技申請された技を使うか否か、演技順の決定、である。今大会の

目標は言うまでもなく東日本インカレ出場権獲得、すなわち団体 7 位以内。つまりは、茂木さ

んを今大会で引退させないこと。そのためには権謀術数を用いるかと思いきや、新技で技数稼ぐ

よりも練習通りの演技をしっかりこなそうという方針にかたまった。前評判では 7 位ギリギリ

じゃないかと囁かれていただけに、失敗が許されないと思うと私はひどく不安で緊張していた。

もっとも、その不安は通し不足に所以するのであるが。

ともあれ、各自好みの夜食をコンビニで買い、ホテルに戻った。

 翌18日(日)、晴天。ホテルで朝食をとり、会場へ。グダグダしつつも気持ちを作り、アップ開始。

班別会場練を経、いよいよ演技開始!

一種目目<ゆか>

 茂木:転回 倒立移行 半ひねり伏臥 カット 飛び前転 抱え込み前宙

 遠藤:ロンダート バク転 後方抱え込み宙返り アラビアン側宙 倒立移行 

    伏臥 転回 抱え込み前宙

 菅原:ロンダート バク転 側方屈伸宙返り ( 着地時に負傷し、演技中断 )

 甲斐:ロンダート 後方抱え込み宙返り ロンダート 側方屈伸宙返り

    閉脚しんぴ倒立 脚上挙 前後開脚座 開脚しんぴ倒立

    抱え込み前宙 抱え込み前宙 1/2 ひねり

 鈴木:伸身前宙 1 回ひねり ロンダート 後方伸身宙返り 半ひねり伏臥 前後開脚座

    脚上挙 ロンダート 側方屈伸宙返り 抱え込み前宙 1/2 ひねり

卒部論文

Page 6: UT Kunstturnen

4

試合結果

 那珂:伸身前宙 ロンダート バク転 後方伸身宙返り アラビアン側宙 伏臥

    脚上挙 前方抱え込み宙返り一回ひねり

  

  一種目で菅原さんがまさかの負傷。どうやら重傷の模様。菅原さんに無理をさせないように

これからの種目失敗はできないな、と思った遠藤であったが、自信はなかった。

二種目目<あん馬>

 菅原:棄権 

遠藤:交差 飛び交差 逆交差 交差ひねり ( 停滞 ) 旋回 横移動 ( 失敗 ) 

中向き旋回 ( 失敗 ) 中向き旋回 下向き転向下り

 茂木:旋回 交差 逆交差 交差ひねり 飛び交差 旋回 横移動 ( 失敗 ) ×2 

中向き旋回 下向き転向下り

 甲斐:交差 交差ひねり 逆交差 飛び交差 旋回 横移動 下向き転向下り

 鈴木:旋回 馬端伏臥 

 那珂:旋回 馬端伏臥 交差 飛び交差 逆交差 旋回 横移動 中向き旋回 

下向き転向下り

  

  遠藤、茂木さんはいつも通り?数回の落下。甲斐さん、鈴木さん、那珂さんはしっかり通

した。那珂さんは B シテ、伏臥、倒立下りを封印してきた。

三種目目<つり輪>

 茂木:ゆっくりと肩転移 クーゲル けあがり 脚前挙 前回り懸垂 ディスロー

    後方宙返り下り

 遠藤:クーゲル 後ろ振りあがり 脚前挙 前回り懸垂 けあがり ディスロー

    後方宙返り下り

菅原:棄権 

鈴木:後ろ振りあがり十字懸垂 後ろ振りあがり 脚前挙 前回り懸垂 背面水平

   ディスロー 後方宙返り下り

甲斐:ゆっくりと肩転移 後ろ振りあがり十字懸垂 後ろ振りあがり 脚前挙 

   屈腕屈伸力倒立 十字懸垂 ディスロー 後方二回宙返り下り

那珂:クーゲル 後ろ振りあがり倒立 後ろ振りあがり十字懸垂 後ろ振りあがり

   脚前挙 十字懸垂 ディスロー 後方宙返り下り

 

 全員無難に通す。那珂さんの後ろ振りあがり倒立は試合ではお初。それにしても遠藤の構

成はつまらない。甲斐さんは最近2回宙返り下りが安定してきた。

四種目目<跳馬>

 茂木:転回跳び

Page 7: UT Kunstturnen

5

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

 甲斐:転回跳び

鈴木:抱え込みツカハラ

遠藤:転回 1 回ひねり

 那珂:転回 1 回ひねり

 菅原:棄権

 遠藤は早くツカハラを跳べ。菅原さんの屈伸ツカハラが見られなかったのが残念。

 

五種目目<平行棒>

遠藤:けあがり 脚前挙 しんぴ倒立 移行 ピンコ 後ろひりあがり w     前振

りあがり w スイング倒立

茂木:けあがり 脚前挙 閉脚しんぴ倒立 ( 失敗 ) 開脚しんぴ倒立 ( 失敗 )       ス

イング倒立 ピンコ w 後ろ振りあがり 1/2 ひねり下り

菅原:けあがり 脚前挙 しんぴ倒立 ( 失敗 ) ピンコ w 後ろ振りあがり w 

   前振りあがり スイング倒立 ( 失敗 ) 後方宙返り下り

鈴木:けあがり カット 脚前挙 ピンコ アームカット しんぴ倒立

   後方宙返り下り

甲斐:けあがり 脚前挙 閉脚しんぴ倒立 ピンコ アームカット カット

   開脚しんぴ倒立 後方宙返り下り

那珂:けあがり 脚前挙 しんぴ倒立 ピンコ アームカット スイング倒立

   後方宙返り下り

 後ろ振りあがり、1/2 ひねり下り、が新技申請。茂木さんが前振りあがりを忘れまさかの 6

技。菅原さんは足の負傷をかえりみず執念の宙下り。今大会でも抜群の安定感をみせる那珂

さんの、唯一大きなミスはピンコ後の中間振動か。

六種目目<鉄棒>

茂木:w けあがり 後ろ回り 前回り ( 失敗 )

菅原:車輪 けあがり 前回り 逆車 移行

遠藤:飛び越し ( 失敗 ) ×2 w けあがり 逆車 ヒーリー 移行 車輪 

後方伸身宙返り下り

鈴木:飛び越し チューリップカット けあがり 逆車 移行 車輪 

後方抱え込み宙返り下り

甲斐:飛び越し けあがり 逆車 エンドー 移行 車輪 後方抱え込み宙返り下り

那珂:飛び越し けあがり 逆車 エンドー 移行 車輪 後方抱え込み宙返り下り

  飛び越しを二回も失敗する遠藤には閉口である。練習不足は否めないが、いかんせん彼は肝っ

玉の小さな男、なのである。菅原さんは泣く泣く 2 回宙返り下りを封印。鈴木さん、甲斐さん、

卒部論文

Page 8: UT Kunstturnen

6

試合結果

那珂さんはしっかり通してくる。あたり前だと言われるだろうが、流石である。

得点

 菅原さんのケガが響いたが、なんとか団体6位で東日本への切符を手に入れた。一安心である。

後日談だが、菅原さんは前十字靱帯が切れていたそうだ。その足で平行棒で宙返り下りを決め、

東京まで車を運転したとは驚きである。一刻も早い回復を願います。

 今大会では改めてチームリーダーがついてくれる心強さを痛感した。お忙しい中チームリー

ダーを引き受けてくださった福田さん、桑村さんにはこの場を借りて感謝申し上げます。ありが

とうございました。

Page 9: UT Kunstturnen

7

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

グループ予選(個人女子)

文責:中桐成美

氏名 跳馬 段違い平行棒 平均台 床 合計

西塚 あすか 8.900 1.600 2.450 6.500 19.450

ミラ・ヴァクホヴァ 6.750 2.050 1.650 5.100 15.550

4月にグループ予選がありました。西塚さんとミラが出ました。金曜日が会場練習、土曜日が本

番となっていましたので、金曜日はミラと連絡係の夏目だけが行きました。

ミラさん曰く、「金曜日は超寒かった。4月のくせに雪が降ってた。会場に着いたらセットが遅

れていて、最初はみんな一緒にセッティングをやった。寒かった。会場練習は苦手な跳馬から始

めて、最初はなかなか跳べなくて、台上前転だけをやってた。」とのことでした。

次の日は、応援に行きました。その日も非常に寒かったです。チームリーダーと曲を桑村さん、

西村にお願いしました。私も下に降りていたのですが、人多すぎですと怒られました。跳馬入り

でした。ミラは本当は頭がついてしまったそうですが、初めて試合で転回としてとってもらえま

した。おめでとう!次、段違い平行棒はいつも通りと言った感じでしょうか。平均台では、大会

前にミラは焦っていて乗りができなくなってしまっていたのですが,本番はちゃんときめること

ができました。床もいつも通りでしたね。西塚さんはどの種目も安定した演技でした。

最後に、「大きな大会で跳馬の転回をとってもらったことは私にたくさんインスピレーションを

くれた。七大戦までいろいろ計画を立てて(だんちのフットサークルと宙降り、後ろ片足ブリッ

ジなど)、初めて試合の後でやる気が出た。初めて試合が楽しかった。」byミラ。ということなので、

本当に、本当に、良かったと思います。

[ 演技構成 ]

* 西塚あすか

跳馬 :転回、転回

段違い平行棒 :低棒けあがり、後ろ回り、フット移行、ダブルスイング、ともえ水平以下、

高棒けあがり、後方抱え込み宙返り下り

平均台 :かけ上がり乗り、側方回転、1回転ターン、前後開脚ジャンプ〜ウルフジャ

ンプ、交差ジャンプ、後方抱え込み宙返り下り

ゆか :ロンダート〜バク転、1回転ターン、ウルフジャンプ1回ひねり、大ジャ

ンプ〜交差ジャンプ、前方抱え込み宙返り

* ミラ・ヴァクホヴァ

卒部論文

Page 10: UT Kunstturnen

8

試合結果

跳馬 :転回、台上前転

段違い平行棒 :低棒けあがり、前回り、後ろ回り、高棒けあがり

平均台 :かけ上がりのり、伸身ジャンプ、1回転ターン、猫ジャンプ半ひねり、シ

ソンヌ、抱え込みジャンプ、前転、ロンダートおり

ゆか :1回転ターン、側転、抱え込みジャンプ1回ひねり、大ジャンプ、猫ジャ

ンプ1回ひねり、転回、ロンダート、抱え込み前宙

Page 11: UT Kunstturnen

9

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

東日本インカレ

2010 年5月 15 日

栃木県体育館

文責:茂木 隼

氏名 床 あん馬 つり輪 跳馬 平行棒 鉄棒 合計甲斐 亘 10.700 9.950 11.000 10.950 11.050 10.500 64.150(122)鈴木 真志 10.800 8.500 10.400 11.000 11.350 9.400 61.450(118)茂木 隼 9.300 3.300 9.650 10.600 2.400 1.400 36.650(146)権 賢人 9.600 7.350 9.050 9.800 8.800 2.400 47.000(141)那珂 将人 11.700 10.950 11.450 12.200 11.500 11.250 69.050(98)遠藤 徹 10.700 3.550 9.450 12.300 10.300 9.650 55.950(136/150)ベスト5 53.500 40.300 51.950 57.050 53.000 43.200 299.000(17/19)

5 月 15 日、ギョーザの街宇都宮のギョーザ体育館にて行われた東日本インカレについて報告

します。選手は遠藤 (2 年 )、権 (3)、那珂 (3)、鈴木 (4)、甲斐 (4)、茂木 (4) の草食系 6 名。チー

ムリーダーとして福田さん ( 肉食 ) と桑村さんについてもらいました。

 今回の東日本インカレ、各選手とも様々な思いを抱いて試合に臨んだことでしょう。権にとっ

ては初めてのレギュラーでの大舞台。那珂には全日本の期待もかかります。4 年生の 3 人は最後

の公式戦。遠藤にも、たぶんなんかあったに違いありません。

緊張、不安、憎悪、嫉妬、虚栄、欺瞞、肉欲、尿意、便意… 容赦なく襲いかかってくる感情の嵐。

そんな僕たちを嘲笑うかのような内村航平くんのやる気ゼロの選手宣誓によって、戦いの火蓋は

落とされたのでした。

東大は平行棒入り。演技順は想像に過ぎません。

権 :蹴上がり脚前挙ピンコアームカット前振りあがり倒立宙おり

遠藤:けあがり きゃくぜんきょ しんぴ 移行 ピンコ 前フリあがり スイング倒立

茂木:蹴上がり 脚前挙 しんぴ 前振り上がり スイング倒立 前に倒れる 

ピンコ 失敗 ピンコ 失敗 ピンコ 成功! 前振り上がり  

鈴木:け上がり カット ピンコ アームカット 脚前挙 しんぴ 後宙返り下り

那珂:けあがり カット 客前挙 ピン子(ママ) アームカッ

ト ( 客前挙)神秘 宙おり

甲斐:けあがり 脚前挙閉脚しんぴぴんこアームカットカット開脚しんぴ宙返り

権と遠藤はいつになく素晴らしい実施。2人のこの後の活躍を予期させるものでした。僕も

卒部論文

Page 12: UT Kunstturnen

10

試合結果

流れに乗りたいところでしたが、倒立で倒れピンコで二度も落下。観客席から聞こえる小川さん

のガンバの声で、不意に僕は初めての試技会での鉄棒の演技を思い出していました。あれからも

う3年も経ったのか ・・・

平行棒では高い評価を得ている甲斐ですが、得点はあまり伸びず。下駄を履いていたのは、

鈴木ではなく甲斐だったのかも知れませんね。

鉄棒

茂木:蹴上がり

権 :蹴上がり逆車移行車輪宙おり

遠藤:飛び越し けあがり ぎゃくしゃ ヒーリー 移行 車輪宙

鈴木:上向き飛び越し チューリップカット け上がり 逆車 移行 車輪 抱え込み宙

甲斐:上向きとびこしけあがり逆車エンドー逆車移行車輪伸身宙返り

那珂:飛び越し ケアがり 逆車 エンドー 移行 車輪 宙おり

最初の演技者は権賢人。入部当初は蹴上がりすらやっとこさだった彼ですが、たゆまぬ努力

の賜物でしょう、着実に技を増やしてきました。僕には移行なんて恐ろしい技、逆立ちしたって

出来る気がしません。あとはとび越しと車輪宙がんばれ。

続いて山形が産んだチェリーボーイ、遠藤徹がマンを辞しての登場。不安だった飛び越しと

ヒーリーを成功させ、演技前は固唾を飲んで見守っていた会場の女性たちも、すっかり心を奪わ

れていたことでしょう。今がチャンスだ遠藤!

那珂の演技はエコポイントをあげてもいいほど無駄のない省エネな構成でした。

ゆか

茂木:転回 倒立 移行 半ひねり伏せ カット とび前転 前宙

権 :ロンバク宙前宙ふせ移行バランス前宙ハーフ

遠藤:ロンバク宙 アラビアン 倒立移行 伏臥 転回ぜんちゅう

鈴木:前宙 ロンダート→後宙 半ひねり伏せ 前後開脚座 脚上挙、

ロンダート→側屈伸宙返り、前方抱え込み宙返り 1/2 ひねり

甲斐:ロン宙ロンダート側宙閉脚しんぴころりん脚上挙前後開脚

開脚座からのしんぴころりん前宙前宙ハーフ

那珂:伸身前宙、ロンバク転後方伸身、アラビアン、ふせ、客じょうきょ、前宙一回捻り

床は全員無難な演技。良くも悪くも草食な感じでした。

あん馬

Page 13: UT Kunstturnen

11

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

権 :旋回セアセアひねり逆セア飛びセア中向き降り

遠藤:交差 飛び交差 逆交差 交差ひねり 旋回 よこいどう 落下 なかむき おり

茂木:馬端伏臥 とびセア 逆セア セア 旋回 落下 横移動 下向き転向下り

甲斐:馬端下向き転向逆交差正交差正交差とび旋回正面横移動旋回下向き転向おり

鈴木:旋回、馬端伏臥 とびセア セア 逆セア 横移動 ( 落下 ) 中向き 下向転向下り

那珂:旋回、ふくが、セア、飛びセア、バックセア、旋回、横移動、那珂向き、おり。

鞍馬は僕が唯一きちんと練習してきた種目。有終の美を飾りたいところでしたが、伏臥が認

められず技数減点に。でも全体的には満足できる内容でした。

那珂は最後の那珂向き旋回のあたりがヒヤヒヤしましたが、きっちり通しました。流石。

つり輪

権 :蹴上がり脚前挙前回り後ろ振りあがり十字ディスロー宙おり

遠藤:クーゲル 後ろ振り上がり 脚前挙 前回り けあがりディスロー おり

茂木:肩転移 クーゲル けあがり 脚前挙 まえまわり ディスロ 宙下り

鈴木:後ろ振り上がり十字懸垂、クーゲル、後ろ振り上がり、脚前挙、前回り、

背面水平、

ディスロー、後方伸身宙返り下り

甲斐:ゆっくりと肩転移うしろ振上がり十字うしろ振上がり脚前挙屈腕屈身力倒立

十字懸垂ディスロー二回宙

那珂:クーゲル 後ろ振りあがり倒立 振りあがり十字 後ろ振りあがり 客前挙  

十字 ディスロー、宙おり

「二回宙はほとんど唯一点数の収支を無視して組み入れている技である。目を回しながらも

立って着地できたのでよかった。」と甲斐くん自身も言っていますが、これまでの試合で何度も

二回宙すってんころりんを見てきた僕にとっても、本当に自分のことのように嬉しかったです。

栄光へのラストラン跳馬。

権 :転回 www

茂木:転回

甲斐:転回

鈴木:転回

遠藤:転回一回ひねり

那珂:転回一回ひねり

ここまで 5 種目、見違えるような活躍を見せてきた権でしたが、最後の最後に見事転回尻着

卒部論文

Page 14: UT Kunstturnen

12

試合結果

をやってのけました。七大で同じく尻餅をついて 9.00 点をたたき出したあの甲斐亘氏が正式に

後継者と認めるという事態にまで発展しました。ゴンがゴンたる所以ここにあり。

鈴木はツカハラを回避し転回とび。足を痛めていたのかしら。いつもは地味に活躍し派手に

ミスる鈴木ですが、今回は終始地味な感じでした。残り少ない現役生活ですが、最後にすっごい

濃いやつを一発ぶちまけてくれることを願ってやみません。

 さて無事 6 種目を終え、気になるのは那珂が全日本へ行けるのか否かです。あの時の那珂の

期待と不安の入り混じった表情は今でも忘れられません。僕は先輩として君に何もしてやれな

かったけど、僕は君を後輩として誇りに思っています。とにかく、おめでとう。

試合後の打ち上げはラ・パウザで食べ放題。引退のお祝いに、お花とコン◯◯◯をもらいま

した。今でも大事に引き出しにしまってあります。使う機会がないわけじゃないですよ。かわい

い後輩からの贈り物。世界にひとつだけのコン◯◯◯。おいそれと使うわけにもいきません。そ

れに昔からこう言うじゃないですか。備えあれば憂いなし。備えあってもプレイなし、って。

 最後に。私事になりますが、この試合をもって僕は現役を引退しました。東大体操部に入って

ちょうど 3 年間、楽しいことあれば辛いこともありました。僕は体操を必ずしも好きだったと

は言えないかも知れません。でもこれだけは言えます。僕は東大体操部が大好きでした。すべて、

この文章を読んでくださっているあなたと、この文章を読んでいないあなたのおかげです。本当

にありがとうございました。

Page 15: UT Kunstturnen

13

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

第 44回東日本体操選手権 女子個人開催日:2010 年 5月 15,16 日 場所:栃木県体育館

西塚あすか(4年)

氏名 跳馬 段違い平行棒 平均台 床 合計西塚 あすか 8.900 1.600 2.450 6.500 19.450(101/109)

〜出場までの経緯〜

 2年ぶりに女子個人の部に出場して参りました。東日本出場が決まったとき、本当に各方面の

皆さんがお祝いしてくださり大変感激しました。

今回、「4年までに予選突破」という目標をやっと達成できたわけですが、やってきたことと言

えば、「部活を続けてきた、練習してきた、予選にちゃんと出た、予選でいつもどおりの力を出

した、怪我をしなかった」と、ごくごく当たり前のことだけでした。ですので、今回の出場は、「当

たり前のことをしっかりやってきた分、ご褒美をもらえた」と考えることにしました。他大の4

年生の事情をかんがみるに、出場しないという選択もある中で、4月の中旬にグループ予選に出

るというのも、実は大変な部分でした。

〜出場にあたって〜

 平均台で萎縮せずに演技することと、ロンバクを構成に入れることの2つに焦点を絞って調整

しました。補助は、菅原が怪我をしているにもかかわらず引き受けてくれて、心強く本番に臨む

ことができました。

1種目目:平均台 

(かけ上がり、側転、ターン、前後開脚J ~ ウルフJ、交差J、後宙下り)

いきなり、一番気がかりな平均台からのスタートでした。平均台の出来=今日の出来ぐらい、

大事にしていたので、大変緊張しました。いつもは緊張すると集中できなくなったり、足が震え

てしまうのですが、今回は違いました。苦手だった柔らかい平均台も克服して、落下なしの、の

びのびとした演技ができました!!成功の秘訣は、OG1年目の茜さんから戴いたアドバイスで

した。大会までに、緊張に慣れるまで通しこんだ上で、大会本番は「いつも+αで攻める気持ち

で!」というアドバイスをいただいていました。「攻める、攻める、攻める・・・」と念じなが

ら演技したところ、ばっちりでした!

2種目目:ゆか 

(ロンバク、ロン宙、ターン、ウルフJ1捻り、大J〜交差J、前宙)

 昨年の秋に入れていた前宙ハーフは練習不足と怪我が怖いので封印しましたが、ロンバクが本

日のもう一つの山場でした。こちらは、頭真っ白気味、ビビって、潰れそうでした。この大会以

降、「せっかく体操部に入ったのに、バク転をうやむやにしたまま終えられん!」という思いを

卒部論文

Page 16: UT Kunstturnen

14

試合結果

強くして、バク転の練習を大事にするようになりました。

3種目目:跳馬 

(転回、転回)最近になってようやく、環境が変わっても、いつもと同じように思い切って跳べ

るようになりました。以前はふとしたきっかけで全く跳べなくなり、本気でやってるのかと注意

されていました。

 

4種目目:段違い平行棒 

(け上がり、後ろ回り、フット移行(2回目で成功)ダブルスイング、ともえ水平以下、高棒け上がり、

後宙下り)

フット移行では、高さを出そうと攻めた結果、高棒をキャッチできず、失敗してしました。ですが、

挑戦した結果の失敗なので、モヤモヤは残りませんでした。

〜結果〜

 今回は、後で言われて気づいたのですが、段違い以外ミスがなく、安定した演技ができました。

(新技にチャレンジしなかったからなのですが…)

 個人的には、久しぶりに入賞など気にせずチャレンジャーとして演技ができ、一種目一種目に

集中できました。今まで全く克服できなかった柔らかい平均台を克服できたのが何より嬉しかっ

たです!!また、以前大きい大会で萎縮し、満足のいく結果を出せず非常に悔しかったことがあ

るので、今回は、萎縮しないよう、本当に「楽しむ気持ちで試合に臨む」ことを心がけました。

これは十分達成でき、初出場など気にせず余裕をもって演技できました。

 何はともあれ、最初で最後の東日本選手権は、自分の力も発揮できましたし、初めて味わう大

会の雰囲気もありましたし、良い経験になりました!

 最後に、今回私が出場できた外因の一つに、予選通過ボーダーラインの低下があると思ってい

ます。また、この傾向は今後も続くと見ています。ですので、これからの後輩たちには、当たり

前のことをしっかりこなして、「東日本選手権、女子全員出場!」を狙ってほしいと思います!

(4年 西塚あすか)

Page 17: UT Kunstturnen

15

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

2010年度七大戦男子個人

文責   孫 登昊

団体名前 ( 学年 ) ゆか 鞍馬 つり輪 跳馬 平行棒 鉄棒 合計 順位甲斐 亘(4) 12.05 10.8 11.4 10.8 11.7 11.2 67.95 14鈴木 真志(4) 11.6 10.85 11.2 11.4 12.25 10.5 67.8 15権 賢人(3) 10.5 8.45 10.1 10.55 9.9 3.6 53.1 44那珂 将人(3) 12.7 11.9 12.05 12.3 12.25 11.35 72.55 5遠藤 徹(2) 11.25 9.85 9.9 11.8 11.4 10.6 64.8 24秀島 朋樹(1) 11.3 10.1 10.9 11.8 12.35 10.7 67.15 19チーム得点( ベスト 5)

58.9 53.5 55.65 58.1 59.95 54.35 340.45 4

個人名前 (学年 ) ゆか あん馬 吊り輪 跳馬 平行棒 鉄棒 合計滝川 寛之 (4) 10.25 4.35 9.40 11.45 5.05 1.75 42.25 孫 登昊 (3) 10.45 4.50 8.85 10.70 5.15 1.40 41.05 ビートル バイシ ハダット (3)

0.00 3.10 9.15 0.00 5.20 1.90 19.35

佐野 淳一 (2) 9.30 3.15 0.00 0.00 2.20 0.00 14.65 西村 海 (2) 9.35 1.55 4.95 10.55 3.05 1.60 31.05 馬場 祥伍 (2) 0.00 4.40 0.00 0.00 0.00 0.00 4.40 宇郷 将道 (1) 10.95 1.70 2.35 9.80 2.85 1.55 29.20 緒方 善政 (1) 3.85 1.05 1.40 10.45 2.30 1.20 20.25 栗林 熙樹 (1) 9.00 1.10 4.20 11.05 2.00 1.40 28.75 小林 隆貴 (1) 9.65 0.00 3.20 9.95 2.40 1.50 26.70 杉浦 正幸 (1) 10.30 9.30 9.80 11.60 7.35 5.15 53.50 中島 勇裕 (1) 9.55 1.75 1.85 10.85 2.10 1.10 27.20 仁科 寛 (1) 8.40 1.45 2.30 10.75 2.35 1.30 26.55 松本 陸 (3) 0.00 9.20 10.30 キケン 10.50 1.90 31.90 島田 皓一 13.05 11.20 12.65 13.95 12.45 12.75 76.05

 みなさん、こんにちは。本日はお日柄もよくこのような素晴らしい日にみなさんが私めの文面

に目を通していると思うと非常に興ふ光栄かつうれしく感じます。思えば(略)。

 では、長い前置きはこの辺にしてみなさんが楽しみにしてやまない男子個人の結果を下に示し

ましょう。そう急かさないでください。         

以下、名前(敬称略)、種目、技名、得点でお送りします。なお、特に指定のない宙返りは抱え

込みととらえてください m(__)m。

1年

宇郷将道 床   • 前宙 • 胸受け • 倒立 • 移行 • バク宙 • 側宙 

   • 水平バランス • 前宙1回ひねり 10.95 

 鞍馬  • 四つ足 • セア  1.70

卒部論文

Page 18: UT Kunstturnen

16

試合結果

 吊り輪 • け上がり • 脚前挙 • 前回り • 宙降り  2.35

 跳馬  • 転回  9.8

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • 前振り上がり  2.85

 鉄棒  • け上がり • 前回り • 後ろ回り  1.55

 総合  29.20

緒方善政 床  • ハンドスプリング • 飛び込み前転 • 跳ね起き • 胸受け

 • 倒立 • 水平バランス • ハンドスプリング  3.85

 鞍馬  • 四つ足 • セア  1.05

 吊り輪 • 逆上がり • 脚前挙 • 宙降り  1.40

 跳馬  • 転回  10.45

 平行棒 • 前振り上がり • 脚前挙  2.30

 鉄棒  • け上がり • 前回り • 後ろ回り  1.20

 総合  20.25

栗林煕樹 床  • ロンバク • ハンドスプリング • 胸受け • 倒立 

 • 飛び込み前転 • 水平バランス • 前宙  9.00

 鞍馬  • セア  1.10

 吊り輪 • 逆上がり • 前回り • 脚前挙 • 前振り出し • 宙降り

          4.20

 跳馬  • 転回  11.05

 平行棒 • け上がり • 前振り上がり • 脚前挙  2.00

 鉄棒  • け上がり  1.40

 総合  28.75

小林隆貴 床  • 飛び込み前転 • 胸受け • 前後開脚 • 倒立 • バク転

 • 水平バランス • 前宙  9.65

 鞍馬  棄権 0.00

 吊り輪 • 方転位 • クーゲル • 脚前挙 • 背面水平 • 宙降り 3.20

 跳馬  • 台上前転  9.95

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • 前振り上がり  2.40

 鉄棒  • 逆上がり • 前回り • 後ろ回り  1.50

 総合  26.70

杉浦正幸 床   • ハンドスプリング • 飛び込み前転 • 倒立 • 前宙 

     • 胸受け • 閉脚旋回 • 移行 • バク転 • バク宙  10.30

 鞍馬  • セア • 跳びセア • 逆セア • 旋回 • 逆跳びセア

 (落下)• 中向き旋回 • 下向き転向降り  9.30

Page 19: UT Kunstturnen

17

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

 吊り輪 • クーゲル • け上がり • 脚前挙 • 前回り • 背面水平 

   • ディスロー • 後方伸身宙返り降り 9.80

 跳馬  • 転回  11.60

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • ピンコ • 前振り上がり 

 • 倒立  7.35

 鉄棒  • 後ろ振り上がり • け上がり • 前回り • 後ろ回り

 • グライダー降り 5.15

     総合  53.50

中島勇祐 床  • ハンドスプリング • 胸受け • しんぴ倒立 • 倒立

 • 飛び込み前転 • 水平バランス • 前宙 9.55

 鞍馬  • 四つ足 • セア • 逆セア 1.75

 吊り輪 • 脚前挙 • 宙降り  1.85

 跳馬  • 転回  10.85

 平行棒 • 前振り上がり • 脚前挙  2.10

   鉄棒  • け上がり • 後ろ回り  1.10

 総合  27.20

仁科 寛 床  • 飛び込み前転 • ハンドスプリング • 胸受け • 倒立

     • 跳ね起き • ロンダート • 水平バランス • 前宙 8.40

 鞍馬  • 四つ足 • セア  1.45

 吊り輪 • 脚前挙 • 宙降り  2.30

 跳馬  • 転回  10.75

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • 前振り上がり  2.35

 鉄棒  • け上がり • 前回り • 後ろ回り  1.30

 総合  26.55

2年

佐野淳一 床  • ロンバク • 胸受け • カット • 倒立 • ハンドスプリング

     • バク転伏せ • 水平バランス • 前宙 9.30

 鞍馬  • 旋回 • セア • 跳びセア • セアひねり • 逆セア 3.15

 吊り輪 棄権 0.00

 跳馬  棄権 0.00

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • 前振り上がり  2.20

 鉄棒  棄権 0.00

 総合  14.65

西村 海 床  • 伸身前宙 • 抱え込み前宙 • ハンドスプリング • 逆移行

     • バク転 • バク宙 • 水平バランス • 伸身バク宙 9.35

卒部論文

Page 20: UT Kunstturnen

18

試合結果

 鞍馬  • セア • 跳びセア  1.55

 吊り輪 • ディスロー • 逆上がり • 脚前挙 • 十字懸垂 

 • ディスロー→宙降り  4.95

 跳馬  • 転回 10.55

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • ピンコ • 前振り上がり  3.05

 鉄棒  • 大振り出し • 逆上がり • 大車輪  1.60

 総合  31.05

馬場祥伍 床   棄権 0.00

 鞍馬  • 旋回 • セア • セアひねり • 逆セア • 跳びセア 4.40

 吊り輪 棄権 0.00

 跳馬  棄権 0.00

 平行棒 棄権 0.00

 鉄棒  棄権 0.00

 総合  4.40

3年

孫 登昊 床   • ロン宙 • 前宙 • ハンドスプリング • 胸受け • カット

     • 倒立 • 移行 • 水平バランス • 前宙半ひねり 10.45

 鞍馬  • 旋回 • セア • 跳びセア • 逆セア • セアひねり 4.50

 吊り輪 • け上がり • 脚前挙 • 前回り • クーゲル • 後ろ振り上

 • ディスロー • 宙降り 8.85

 跳馬  • 転回 10.70

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • ピンコ • 前振り上がり • スイング倒立  5.15

 鉄棒  • け上がり • 大車輪(失敗) • 宙降り 1.40

 総合  41.05

ビートル 床   棄権 0.00

鞍馬 • 横向き旋回 • 逆セア • セア • 跳びセア •(四つ足)

• セアひねり (落下)• 縦向き旋回  3.10

吊り輪 • 肩転位 • クーゲル • 後ろ振り上がり • 脚前挙 • 背面水平

• ディスロー • 宙降り  9.15

跳馬 棄権 0.00

平行棒 • け上がり • スイング倒立 • 前振り上がり • 脚前挙 • ピンコ

• アームカット(失敗) 5.20

鉄棒 • け上がり • 大車輪 (停止)• 後方宙返り降り 1.90

総合 19.35

Page 21: UT Kunstturnen

19

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

松本 陸 床   棄権 0.00

 鞍馬  • 四つ足 • セア • 跳びセア • 逆セア • 旋回 • 移行

   • 中向き旋回 • 下向き転向降り 9.20

 吊り輪 • クーゲル • 後ろ振り上がり • 脚前挙 • 倒立 • け上がり

 • 十字懸垂 • 宙降り 10.30

 跳馬  棄権 0.00

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • 伸腕屈伸力倒立 • 移行 • 前カット

   • 倒立 • 前振り上がり • スイング倒立 • ピンコ

    • 後ろ振りカット •(倒立降り) 10.50

 鉄棒  • け上がり • 逆車輪 1.90

 総合  31.90

4年

滝川筧之 床  • 前宙 • 移行 • 転回 • バク転 • 半ひねり伏せ • 前後開脚

 • バランス • 前宙半ひねり 10.25

 鞍馬  • 旋回 • 逆セア • セアひねり • 跳びセア • セア 4.35

 吊り輪 • ディスロー • 逆上がり • 脚前挙 • クーゲル • 後ろ振り上がり

 • 十字懸垂 • 背面水平 • 伸身宙返り降り 9.40

 跳馬  • 転回半ひねり 11.45

 平行棒 • け上がり • 脚前挙 • カット • ピンコ • アームカット

 • 前振り上がり 5.05

 鉄棒  • け上がり • 大車輪 • 宙降り 1.75

 総合  42.25

 演技構成書き終わって思ったことはあれですね,簡単にページが稼げることですね。今もう5

枚目ですよ。文字のサイズちょっと小さめで。学科のレポートでいつもページ稼ぎをしている自

分は何だったんだろう。そんな愚痴を残して選手の演技を見ていきましょう。

上記した 1 年生は杉浦君以外全員大学始めですが、やはり、技数はゆか以外少ないですね。各

種目に消費している行数を見れば明らかだと思います。今回の大会を契機にして,技を増やして

いってほしいです。なんか、解説役うまくできそうにないので、適当に興味のあったところをピッ

クアップしていきます。宇郷くん恐ろしいですね,ゆかでⅠひねりしてますよ,本番で尻餅つい

てましたが。それでも、4月にはじめて、8月の演技に入れられるというのはすごいと思います。

褒めて挙げください,と言いたいところですが,彼の跳馬の点数を見てください。転回して10

点切ってます。またも尻餅をついてしまったんです。本人反省しているようですが,皆さん、是

非彼をいぢめてやってください。杉浦君はすごいですね、時期レギュラーはほぼ確実でしょう。

ただ、鉄棒の点数が技数に対して未だに信じられません。どんな奇跡が起きたんだか。中島君の

ゆかでのしんぴもすごいと思います。この次期でできるって,才能って恐ろしいですね。羨ましい。

 次は2年を見ていきましょう。見ていきたいところですが,みなさん見てわかる通り今2年生

は調子が悪いんですよ。棄権した種目が目立ちますね。「全く,2年は何をやっているんだ,」と

卒部論文

Page 22: UT Kunstturnen

20

試合結果

憤慨している方,その怒りをぜひ本人たちにぶつけてください。ぼくは止めません。はたでにや

にやして見守ってます ( 笑 )。

 続いて3年にいきましょう。僕ひどいですね。鞍馬、平行棒、鉄棒は技があまり増えてなく,

跳馬は点数があまり増えていない。今度見かけたら,いぢめてやってください。

ビートルは膝のせいで今年も床と跳馬ができなかったようです。七大戦は未だ,まともに出てい

ないらしい。9月の手術で直して,来年にはフル出場してほしいです。

松本君も足のせいでゆかと跳馬出ていませんが,得点を見ると,3種目で30点とっています。

完全状態の彼の演技が見たい、というのは部活のみんなが思っています。

 最後に、現役最後の大会おつかれさまでした、滝川さん。トレ体に練習にくる時は,また、指

導おねがいします。

 コメントがぐだぐだになってしまいましたが、みなさんまたどこかで会いましょう。

Page 23: UT Kunstturnen

21

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

第 49回七大戦 女子団体・女子個人2010 年 8月 13~ 14日 日本ガイシホールプラザ

西塚あすか

名前 ( 学年 ) 跳馬 段違い平行棒 平均台 ゆか 合計 順位西塚 あすか(4) 10.35 7.85 6.20 9.65 34.05 6中桐 成美(3) 10.30 4.85 6.50 7.55 29.20 9谷田 桜子(1) 10.20 5.30 7.00 9.55 32.05 7早瀬 朝子(1) 9.05 1.75 0.00 7.65 18.45 15ヴァクホヴァミラ(3) 9.50 3.95 5.55 6.00 25.00 12

 本年度の七大戦は、名古屋大学主管のもと、開催されました。今年の女子団体の出場校は、昨

年より増えて4校!

 東大と対するは、全員が大学はじめ、3 年生以下の若いチームながら、ロンバク宙や伸身後方

宙を取得しているという大阪大学。1 年生が3名入部し悲願の団体出場を果たした北海道大学。

そして、全日本出場のエース鷲田さんを擁する 3 連覇を目指す覇者、名古屋大学の3校であり

ました。

 本大会は、1年生にとっては大学デビュー戦、私にとっては引退試合となる大会でした。皆の

コンディションは、朝子が少々不調だったのが残念でした。4 月から1番の練習量をこなしてき

た期待のルーキーの実力をお披露目するのは、秋に持ち越しです。一方、今まで怪我で泣くこと

も多かった成美は、無事にこの日を迎えることができ、幸いでした。怪我との付き合い方を分か

ってきたように見えます。もう、怪我は完全に克服してくれたことでしょう!

〜大会前日〜

七大戦は、女子の前日練習が毎年恒例で「4時間フリー練習」です。そして、毎年恒例で、他大

の皆さんは4時間ガッツリ練習していました。東大勢は、4時間とまでは行かないまでも、たっ

ぷり調整しました。那珂、菅原などが、自分の練習、他の男子の補助の合間に駆けつけ、補助や

アドバイスをしてくれたおかげで、不安要素を大方取り除くことができました。

 練習後、夕食をかねて決起会をしました。何の縁か、名古屋名物が食べられるお店を探して辿

り着いたのは、東京でも毎度お世話になっている「素材屋」さんでありました。

〜大会当日〜

 チームリーダーを快諾してくれた那珂と共に、いざ、演技開始!東大は段違い平行棒からです。

段違い平行棒(「△」は失敗や停滞)

~出場選手~個人:ミラ・ヴァクホヴァ (3)団体:谷田桜子 (1)、早瀬朝子 (1)、中桐成美 (3)、西塚あすか (4)

卒部論文

Page 24: UT Kunstturnen

22

試合結果

朝子:けあがり、前回り、後ろ回り、高棒けあがり△

成美:けあがり、前回り、後ろ回り、ともえ、高棒けあがり、宙返り下り

桜子:けあがり、前回り、後ろ回り、足裏支持回転、フット移行△、高棒けあがり、 

   グライダー下りハーフ

西塚:けあがり、後ろ回り、フット移行△、ともえ、高棒けあがり、宙返り下り

ミラ:けあがり、後ろ回り、前回り、足裏支持回転△、高棒けあがり、

   宙返り下り△(再チャレンジで成功)

 個人的に、東大の苦手種目だと思っている段違い平行棒。結果について、ミラが「呪われた」

と表現していましたが、確かに、朝子のけあがり、桜子のフット移行など、できる技がなかなかス

ムーズに行かず残念。

 一方、成美の振り出しからの宙返り下りや、ミラの宙返り下りは、ここ数週間で、習得したも

のでした。成功して良かった!ミラは1回目失敗した下りを再チャレンジし、2回目でしっかり

成功させたのは立派です!

平均台(「↓」は落下)

成美:かけあがり、抱え込みJ、手なし前転、大J→ウルフJ、後方ブリ↓、

   ターン↓、後宙下り

桜子:浮き腰乗り、1回転半ターン、側転、大J→シソンヌ、前方ブリ、前宙下り

西塚:浮き腰乗り、側転↓、ターン↓、前後開脚J→ウルフJ、交差J、後宙下り

ミラ:かけあがり、伸身J、ターン、猫J半捻り、大J、シソンヌ、抱え込みJ、

   前転

 足の指の負傷で、残念ながら朝子は棄権です。成美は、落下してしまったのものの、冬からず

っと練習してきた後方ブリッジを構成に入れました!なかなかか見ない桜子の1回転半ターンの精

度もこれからに期待です。一方、私は本番に弱い平均台で、落下してしまいました。少しでも自

信が無いと、たちまち平均台さんに迷いを見抜かれ、落とされてしまうようです。苦手ではある

ものの、緊張と戦い自分を律しながら演技をするという意味で、一番体操の醍醐味を味わえたの

は、平均台(の特に試合)だったと思います。

ゆか

成美:ターン、ロンバク、抱え込みJ1捻り、転回、交差J→大J、側宙△、前宙

朝子:転回、交差J→大J、足上げターン、羊とび、ポパ、前宙△

桜子:ロン宙、交差J→大J、ロンダート→左右開脚J、後方ブリ→後転、

   2回転ターン、伸身J2捻り△、前宙→転回

西塚:ロンバク、ロン宙、ターン、ウルフJ1捻り、大J〜交差J、前宙

ミラ:ターン、側転、抱え込みJ1捻り、大J、猫J1捻り、転回、

   ロンダート、前宙

Page 25: UT Kunstturnen

23

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

3種目目はゆかです。1年生2人の演技(柔軟性を活かした独自性の高い朝子のゆかと、スピー

ド感あふれる桜子のゆか)は他大の皆さんからも好評でした。

 私は、この日の一番の不安要素のロンバクを控えていました。福田さんや、菅原やビートルや、

いろんな人のアドバイスや補助を受け、直前になって何とかコツを掴めましたが当日、「焦って

真っ白」気味でした。ですが迎えた本番、成功したのが自分でも分かるくらい「いいロンバク」

ができました!これだけでも、今日1日の出来を「合格点」と言えるくらい気持ち良かったです。

跳馬

朝子:台上前転 ( 判定は転回 )、 成美、桜子、西塚、ミラ:転回

休憩を挟み、最終種目の跳馬、東大勢はほぼ転回です。成美は、満足のいく出来だったようで、

何よりです!ミラも、苦労しながらも、大会を経るごとに着実に上達しているのが見えます。も

う補助はいなくても大丈夫。他校に比べて勢いのある転回をみんな跳べているので、これからは

新技チャレンジかな。

〜結果〜

 皆がしっかり自分の力を出し切った結果、団体は2位は入賞することができました。私などは、

他校の選手の様子を見ながら、今年は厳しい争いになるなと思っていたので、2位を守れただけ

でもほっとしていましたが、同期から「2位で喜んでちゃいけない」と言われ、はっとしたとこ

ろでした。

 一方、はるばる駆けつけてくださった監督や西川先生、まっほいさん、茜さん、加保里さん、

大木さん、出場した島田さん等、長い時間お世話になってきた方々に、団体2位と個人6位入賞

をすぐに報告できたのが感慨深かったです。 

 このたび私は、無事に引退という区切りをつけることが出来ました。何とかここまで来れたの

は、東大に充実した設備を提供してくださっている歴代OBの皆様はもちろんのこと、不出来な

部員にもかかわらず、私のことを少しでも気にかけ、愛想を尽かすことなく、関わりを持ってく

ださった全ての皆様がいたからこそだと感じています。

 体操の楽しさを教えてくださった全ての皆様、今まで本当にありがとうございました。 卒

部論文

Page 26: UT Kunstturnen

24

試合結果

全日本インカレ

文責 那珂将人

2010 年 8 月 20 - 23 日に秋田県立体育館にて行われました。

私、那珂将人一人の個人出場でした。2部個人選手の演技は 8 月 20 日金曜日に行われました。

得点表

那珂将人床 鞍馬 吊り輪 跳馬 平行棒 鉄棒 合計11.85 10.95 11.05 12.30 11.15 10.75 68.05

*全日本インカレにいたるまでの簡単な流れ

大学に入って体操を続けることになり目標は 4 年生までにインカレ出場というものでした。2 年

の春は足を痛め、グループ、東日本にも出場できずに、インカレ出場ということを考える土台に

すら乗れませんでした。今年に入り、腰が痛く、慶応大学との練習のときもほとんど何もしない

という状況でした。3 月に入ってようやく腰が良くなってきて、調子のいい状況が数カ月ぶりに

やってきました。しかし、その体調のいい状況は 1 週間と続きませんでした。今度は、肩が痛

くなりました。これは、腰が痛い間に、トレーニングできていなかった状況でしたが、腰が回復

して他の部分も弱くなっていたのに練習をした結果であり、よくあることです。今、けがしてい

る部員が多いですが、ある怪我が治ってきたときに他の部位が痛み始めることはよくあるから気

をつけてほしいと思います。話をもどすと、なんとか、だましだまし練習を続け、グループ予選

を迎えることになりました。幸いにも、我慢して練習を抑えていたためか、単にあったかくなっ

たからか、グループの 1 週間前くらいから体調は上がっていてグループではまあまあの演技が

できました。意外にも今年もう少しでインカレを狙えるのかもしれないという思いも出てきたた

め、いろいろ東日本への作戦を考えていました。グループの方針は、どのくらい点数が出るかわ

からないので失敗しない守りに入った演技でした。そのため、東日本では少しDスコアをあげて

点数をあげていこうと考えていました。しかし、ここで、小川さんからの指摘が入り、今の演技

を完璧にする前に新しい技を入れるなんて、攻めでもなんでもないぞ。まず自分のやっている技

の減点減らして完璧やればいいんだ。と言われました。確かにそうでした。今の技に練習の余地

があるのに次の技に行ったところで何も攻めにはならないのです。よって、東のために入れる新

しい技と言えば、唯一要求のとれていないアドラーでした。これを馬鹿みたいに練習しました。

1 日 20 回もやったりもしました。鬼の一カ月と呼んで自分を追い込んでいたためでした。しか

し、過ぎたるがなお及ばざるがごとしという言葉があるように当然のごとく、肩が痛くなりまし

た。このせいでほかの種目にも影響するようになり、鬼の一カ月から一気にさぼりの一週間とい

う期間にはいることになりました。東日本の 1 週間前ぐらいになんとか吊り輪など肩を酷使す

る種目もなんとかできるようになってきました。もうあとは、頑張って自分の演技をだすだけで

した。東日本では失敗は平行棒のピンコくらいに抑え、69.05 をだしてやりきった感がありまし

Page 27: UT Kunstturnen

25

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

た。演技を終わった時点ではまだまだわからない状況でした。でも感じたのは、もう自分のでき

ることをやりきったからインカレにいけてもいけなくても、もうすっきりしました。いけたとし

たらラッキーでいけなかったら素直に技術が足りなかったと受け取る準備ができていました。そ

してここからが周り(福田さんをはじめとする人たち)にはうっとうしくなっていきました。そ

れは、午前班が終わって、午後班の東日本団体通過が予定通り慶応がいけば、私の個人 12 位で

インカレ出場がきまり、一方、もしも慶応が団体通過せずに、私より高い点数を 5 人が出した

場合は、僕のインカレが消えるという状況でした。しかし、後者の条件には、私より点数の高い

人が 5 人いる場合は、慶応には一人 80 点を取る人がいるのでその人がいる時点で団体通過がほ

ぼ確実となるという、ほぼ 99 パーセントインカレが決まった状況でした。しかし、インカレ出

場を喜んでからやはり計算間違いでちがったというのが一番自分にショックとなるのが分かって

いた一方で、確実にいけたことにしたい気持ちがあり、周りの人に、「慶応が69が 5 枚なった

ら。。。」「いやでもだいきさん(慶応の 80 点はとる方)がいるからありえない」などと一人で「行

けない」「行ける」のやり取りをしていて周りに非常に不愉快であったように感じました。しか

し、そのくらい自分にとって大きなことだった気がします。そして、打ち上げ会場で結果をしり、

通過を聞きやっと安心できました。心から感謝の気持ちがわいてきました。一緒に練習してきた

現役を始めとして、指導・応援してくださったOBOGさんのみなさんに本当に感謝の気持ちを

あらわしたいです。ありがとうございました。そして、さらにインカレおめでとう。よかったな。

とみんなが素直に祝ってくれたことで、インカレに個人で出場するとしても、個人でなくみんな

に後押しされて頑張れるんだなと心から感じました。こんなにみんなが祝福してくれるとは思っ

てもみませんでした。今まで目標にしていたところにはなにか期待していたものとは違った何か

を発見できたと思います。

そこから、インカレにかけて練習を頑張ろうとしていた矢先、東日本の 1 週間後から本当に練

習ができないくらい肩が痛くなってしまいました。もう、5 月の後半から 7 月の後半までほんと

うにほとんど何も練習しなかったような気がします。飛ぶと肩に響いていたいので床跳馬がなく

なり、吊り輪鉄棒などもってのほか、支持系の鞍馬や平行棒ですら痛いので、もう締め筋すると

かしかありませんでした。でも、ここで落胆してはいけないと思っていました。今までも何度も

怪我を重ねてきて満足に練習できないことは多かったためでした。それを乗り越えてこそ自分は

強くなれることを知っていました。今回はそんな経験もあったためか全く落ち込みませんでした。

なにか無駄に時間が流れるように見えて、でも後から考えると必要だった時間かもしれないと楽

観的に考えできることをやりました。何か周りの成長を見て自分ももっと成長したいと思いまし

たが、我慢する大事さも知っていたので無理はしませんでした。そして、あっという間に 8 月

に入りました。肩も徐々に回復して鉄棒の車輪などを解禁していきました。すぐそこに七大戦が

きました。8 月の 1 週目には新横浜の練習がありました。そこで、2 か月半ぶりくらいに吊り輪

の通しをして、結構回復していました。そして七大でなんとかぎりぎりで東日本の演技に戻すこ

とができました。東日本のあとあんなに、いっぱい入れたかった技はすべて消え、東日本の演技

に戻すことが精いっぱいでした。さらにインカレは七大戦の 6 日後なので、正直この週は練習

はほとんどできませんでした。疲れが全然取れず体が動きませんでした。会場練習でも 30 パー

セントくらいまだ七大の疲れが残っていました。福田さんも「変だなあ」と言っていました。そ

卒部論文

Page 28: UT Kunstturnen

26

試合結果

んな状況で本番を迎えました。

*当日

1種目目

5 番手。

伸身前宙B、着地でほんの少し動く。ここ最近着ピタが多かったため悔しかった。

ロンダート、バク転A、後方伸身宙B。いつも通り着地を止める。

アラビアンA。これもおなじみ過ぎて見あきた。着地は確実にとまるので可。

客上挙B。ここしか減点されずにできるところがないと思うくらい頑張って見せつけた(つもり)。

終末の前宙一回ひねりC。これはなぜか着地でコサックダンス(片足スクワットのような形)を

してしまうが、即座に立ち上がりなんとかなった。

一種目目が終わり、無難に 2 種目目に入った。正直演技をしてしまえば緊張とか全くなかった。

床はコサックダンス以外はいつも通りで自分の精いっぱいをやったが点数はあまりのびなかっ

た。今後構成の再考慮が必要と考えられた。

2 種目目

鞍馬

鞍馬は同じグループで回っている人たちがどんどん落ちた。

旋回Aの 3 週目で伏臥Bに行くが少し浮いてしまい、福田さんは少し焦った。しかし浮いても

大丈夫なので、そのまま旋回を一周回し、セアA、飛びセアBから 4 つ足をしてバックセアA。

前半は自分の人生で一番よいのより大分小さかった。バックセアは大きく振り上げを頑張った。

そこから旋回を回し、この時点で通ったことを確信する。それは、横移動の後に中向き旋回を入

れないという作戦からくる自身だった。そのまま横移動Aをして下向き転向おりAで降りた。七

大前から倒立おりを練習していたためか横移動中向き旋回オリが安定していなかったため中向き

旋回をなくしておりた。( 実際、七大戦では団体の圧力により倒立おりは封印させられた )

全体として、自分のできることを精いっぱいやった。

3 種目目

吊り輪

クーゲルA、後ろ振りあがり倒立Cは倒立にいつの間にかはめていくのが目標で今回はぺこぺこ

せずに自然に上がれたほうだった。

振りあがり十字Cはすこし高いところから下ろしたため減点されてしまっているだろう。後ろ振

りあがりA、客前挙A、十字B、ディスローA、伸身宙返りA着ピタ。

全体的には振動倒立に不安があったがうまくいったのでよかった。

Page 29: UT Kunstturnen

27

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

試合結果

4 種目目

跳馬

いつまでたってもツカハラを跳ばない。

転回一回ひねりを結構よく跳んだ。角度も結構良かったと思う。着地は少し動いたが。

5 種目目

平行棒

お決まりの東大のカットばかりのつまらない演技。

なぜか、七大のあとに宙オリが怖かったので練習でやるのが嫌だったが一回やって大丈夫とわ

かった。

け上がりAカットAピンコAアームカットB客前挙AしんぴB宙オリA着ピタ

福田さんいわく 2 か所位危ないところがあったと言われたが、自分的には満足のでき。これか

らはDスコアを上げていくことが課題かと。。。

6 種目目

最終演技者となってしまった。周りでは伸身コスミックや伸身ドッペルを跳んでいるのに最終演

技者は大逆手もなくただの宙オリかよという感じだった。やはり鉄棒もはやく大逆手とダブルく

らいはほしいものである。

飛び越しB。け上がりAのあとの持ち替えで予定より気持ち悪くなってしまった。逆車A、エン

ドーBは倒立に納められたのでよかった。移行A車輪A宙オリA着ピタ。宙オリは少し流れてい

た感じがした。

全種目通しては、自分は自分の演技をできたので満足した一方、同じ班で回った選手たちとのレ

ベルの差を感じ、来年は完成度を落とさずにもっとDスコアの高い演技でのぞみたいと思った。

最後になってしまいましたが、チームリーダについてくださった福田さん、秋田まではるばるい

らして応援していただいた方々、メールを下さった方、応援してくださった方々ほんとうにあり

がとうございました。卒部論文

Page 30: UT Kunstturnen

28

春合宿

2010 年春合宿文責:ビートル

春合宿が 2 月 20 日 ( 土 ) 〜 23 日 ( 火 ) でした。そのうち、1、3日目(土

月)は新横浜体育館で、2,4日目(日火)は慶應義塾大学日吉キャンパス蝮谷体育

館にて行われました。

まず新横浜から語りますと、決して理想な練習状況ではありませんでした。

時間の制限の上(1 日目 6 時間、3 日目 3 時間!)、ジュニアが多くて互いに邪魔し

ていた気がします。まあ、新横の良い所を取り上げますと、器具自体は個人的に気

に入り、鞍馬がすべすべしていて交差がしやすく、吊輪も立てる吊輪だけあってス

ムーズなスィングが出来ます。

練習について…実は各部員が何をやっていたかはもう記憶から薄れていま

すが、菅原に補助された権の綺麗な逆車が記憶に顕著に残っています。

自分は悔しい所を記憶に留める、ネガティブな人です m{ __ } m

そして練習後、桑村さん指導で初めてダウンをしました。

ダウンと言う習慣は以前東大体操部にはなく、桑村さんが導入してきたもの…だと思います。

練習以外の時間が長く、部員それぞれが暇をつぶす方法を探していました。

特に三日目が暇すぎて、新横浜ラーメン博物館を観光した人もいれば、合宿中なの

に恋人と密かに会っていた人もいました。

実に駅付近で目撃しましたが、敢えて名前を公開致しません。

以上、新横でした。次は慶應の練習です。慶應義塾大学が素晴らしい体育

館を新築し、我々東大体操部が(我々にとっての)合宿のために(彼らにとっての)

合同練習に誘って頂きました。

Page 31: UT Kunstturnen

29

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

春合宿

慶應の体育館は NTC 並みの施設となっているが、それ以上に良かったのは

首藤先生と慶應生の親切さでした。何時もの綺麗な体操とその練習の仕方を見せて

頂き、凄く活気づけられたと思います。

新入生が知らないかもしれませんが、慶應の体操部が東大にとって理想であり、歴代の主将も

慶應のような体操部を目指してきたのです。【西岡さん(2009 年)の卒部論文を参照して下さい】

練習について、午前中が皆でアップし、午後は体操歴又は年齢に分け、器

具に入りました。我が班には権、孫などがいて、平行棒で中野智君に色々教えても

らい、井坂建君と一緒に鞍馬で汗を垂らすことが印象的でした。

井坂君が印象的だったのは、(当時は)敬語を上手く使わない一年生でした。一緒に円馬で旋回

していて、こちらが「腕が痛くなるね」と言ったらついに「だろう?!」と言われました。まあ、自分

自身は外人だけあって気にしないですが…

四日目の練習が終わったら、慶應生との打ち上げがありました。焼肉を食

べながら、小川雄大君のジュニアのころの話を聴いて感動しました。滅茶苦茶な先

生に殴られたり蹴られたりしたそうで大分辛い道を歩んできた小川君がよく体操を

諦めなかったな、と。

それにしても、ド M の僕は実は小川君の話に憧れ、自分もその苦しさを経験したかったです。

ドМじゃない人は僕の気持を理解できないかもしれません。

以上春合宿でした。

卒部論文

Page 32: UT Kunstturnen

近況報告

近況報告

文責:馬場 祥伍

【4 年生】

甲斐 亘

先日京大の院試に順当に合格し、本命・東大の院試を控える甲斐さん。

受験界で伝説を残したように、いずれ数学界でも名を轟かせることになるのでしょう。

今回の七大戦までは団体優勝を目指して、目の色を変え練習に励んでいました。やはり床とか鉄

棒がキレイで上手いです。

今年の残りの試合でも、主力として活躍してくれることと思います。

鈴木 真志

我らが鈴木さんは、少しずつ「普通」の人になりつつあります。

名言「僕はゲイじゃない、おっ〇い星人だ!」のような発言が最近は聞かれなくなりました。

どうやら年々「普通」になりゆくようです。あと数年もすると、何とか星人でなく人間になって

しまうんでしょうか。少し寂しい気もします。

そんな鈴木さんですが、実習などで忙しくなりながらも残りの試合には出るそうです。

皆頼りにしています、頑張りましょう!

滝川寛之

春ごろから実習で全国の森林をあちこちとび回ったり調査や研究したりしていて、忙しそうです。

七大戦を現役最後の試合とするそうですが、練習には来られ続けるそうです。

他の部員にはマッサージをしたり怪我をみたりとケアをしてくれるのですが、ご自分は大丈夫で

しょうか。6 月ぐらいから不意に膝ががくっと抜けることがあったりして、無理していそうなの

もあって少し心配です。

お互い怪我のないように、これからも一緒に練習しましょう。

茂木 隼

最後までとてもマイペースな感じだった先輩。この人の演技や発言にはどこか美学が感じられま

す。

東日本インカレを期に引退してからしばらく経ち、今は院試が終わったばかりの頃でしょうか。

受かってるといいですね!

そろそろ恋しくなってきたので、久しぶりに練習でお会いしたいです。

【3 年生】

権 賢人

ラサール出身の部員の中で一番「普通」な人かと思いきや、ワールドカップのときに街中で「ヒ

Page 33: UT Kunstturnen

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試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

近況報告

ョーー!」と叫ぶなど、内に秘める何かを持っているようです。部活への想いも熱く、普段の練

習から七大戦に向けての士気上げまで、影で部活を支える存在です。

七大戦前は団体メンバーの一員として新技の通し練に励み、今後も伸びが期待される一人です。

菅原 壯

不運なことに春のグループ予選で右膝の前十字靭帯を切ってしまい、6 月の手術を経て現在長い

リハビリ期間中です。加えて最近は面接やインターンなど、就職活動で忙しそうです。

にもかかわらず、部活では相変わらず面倒見がよく、頼れる先輩です。床や鉄棒の難しい補助、

1 年生の演技構成指導をしたり、後輩に無茶振りしたり恥ずかしいあだ名をつけたり・・・

また選手として復帰して、ダイナミックな演技をする菅原さんを早く見たいです。

孫 登昊

初めは寡黙な感じでしたが、前回の夏部報での自己紹介で個性が炸裂して以来、練習中の発言や

Twitter でのつぶやきからユーモアが溢れています。気づくと微笑を浮かべています。

体操は去年から始めたものの、大きな怪我なくまさに順調に実力を伸ばし続けており、見習うべ

き部分も多い先輩です。学部の勉強もハードだそうですが、高い練習参加率を保ち続け、その私

生活はいまだ謎に包まれています。

那珂 将人

相変わらずトレ体で一番元気かつ一番体操熱心な主将です。「100 回 100 回〜」とか「鍛えに鍛

える!」とか仁科の真似とか、トレ体での流行はいつも那珂さんから発信します。

七大戦では日ごろの成果をカタチにすべく、演技でも精神面でもチームを引っぱりました。その

後のレセプションでは何度も表彰台に呼ばれ、場の空気を沸かせていました。

また今年はみんなの期待通り全日本インカレに出場し、健闘していました。今後もとどまること

のなさそうな那珂さんの体操熱は、皆を刺激し続けるでしょう。

ビートル バイジ ハダッド

語学堪能、マッチョ、ユーモア抜群と、マルチな才能の持ち主ビートルさん。努力家で指導熱心

なのも皆が知るところです。

ところが、たびたび膝を痛めていて、なんと今までしばらく膝の前十字靭帯が切れたまま練習を

続けていたそうです。9 月に手術をする予定ですが、相変わらず人一倍熱心に、できる範囲での

練習に励んでいます。

手術したらしばらく治療に専念して、来年には元気に体操する姿を見せてくださいね。

松本 陸

とにかくガタイがいいです。穏やかな性格とは裏腹に、その肉体に秘められた力は未知数で、松

本さんが本気で練習したら「器具が壊れるのでは」と恐れられるほどです。

ただ、去年たびたび断裂したアキレス腱はまだ完治しておらず、今も怪我の様子を見ながら少し

卒部論文

Page 34: UT Kunstturnen

近況報告

ずつ体操をやっているところです。それでもたった数回の練習でいつのまにか新技を習得してい

たり、ポテンシャルは誰もが認めています。

得意な床は本調子をトレ体で見せたことはなく、また頭はオトナな思考で溢れているのも最近明

らかになったばかり。これからも注目の人物です。

【2 年生】

遠藤 徹

基本的に発言はテキトーで、気まぐれマイペースです。が、実は繊細な心を持つ野心家で、やる

ときはやります。コンスタントに実力を伸ばし続けている一人です。

おじさんと呼ばれた去年とは打って変わって、いまやマッチョな 2 年のエースになりました。

童顔とモリモリ筋肉を併せ持った中学生の頃の彼を取り戻しつつあるのかもしれません。

試合では演技に安定感が出てきて、安心してみていられるようになりました。

これからも期待してるよ、おじさん!

佐野 淳一

同期の中で最も真面目でマトモと言われていた彼ですが、どういうことか最近はいやらしい発言・

暴言などが増えてきました。それだけ僕らが気の置けない関係になってきたということでしょう

か ( はあと )

体操に関してはやはり鞍馬の上達に目を見張るものがありますが、一方で長い間肩を痛めており

吊り輪と鉄棒はご無沙汰しているようです。

早く全種目できるようになるといいね。

夏目 和人

高校からの坐骨神経痛をこじらせ、今春にはヘルニアを患い辛そうでした。夜中に救急車を呼ぶ

ほどだったそうです。

最近ではだいぶよくなってきたようで、気ままにトランポリンや鞍馬をやっています。実はトレ

体の前宙ひねりブームの前からやっていたという 1 回ひねりも復活しつつあります。

一方、腰痛が大変な中でも大会連絡係・トレ体係としての仕事はきちんとこなしており、重要な

存在です。

腰のことは慎重に様子見つつ、気長に体操しよう。

西村 海

これまたマイペースな、ユーモアたっぷり関西人。

ただでさえ怖そうに見える ( 初対面では「この人絶対何人か病院送りにしてる!」と思ったもの

です ) のに、モヒカンを経て今は坊主頭に。グラサンも似合います。

床ではいつも積極的に新技に取り組み、センスを感じさせます。大学始めながら前宙・バク宙は

伸身ででき、ひねりも研究中です。

あとパソコンが強くて頼りになります。将来は何かと大物になりそう。

Page 35: UT Kunstturnen

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試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

近況報告

馬場 祥伍

部活想いで頼りになる、先輩にも後輩にも愛される存在!のはずが・・・

先輩や同輩が若手芸人のように扱うため、1 年生にまで新歓期から早々ネタキャラとして認識さ

れてしまいました。残念!

体操への情熱はあるも、去年からつねにどこかしら怪我をしている状態。特に床で腰、吊り輪で

肩を傷めたことが何度かあり、そのせいで今年の七大戦は鞍馬のみの出場となりとても悔しい思

いをしました。

怪我をするとできる練習がしばらく大きく限られ、精神的にも辛いです。

思えば現役生はどうも怪我が多いので、皆で怪我予防の意識を高め、気をつけていきましょう!

【1 年生】

緒方 善政

高身長と老成した振る舞いで、どこからどう見ても年上にしか見えません。

体操に関しては、今期は諸事情によりあまり練習に参加できなかったようですが、密かな特訓と

持ち前の身体能力の高さで、七大戦までには ( いつの間にか ) いくつかの技を完成させていまし

た。

そんな彼は理 3 で将来有望。どう考えても馬場より優秀なので、いろんな意味で期待されてい

ます。

小林 隆貴

体操は大学はじめで、努力家であると同時にそれ以上のビッグマウスの持ち主。

そのあたかも大御所であるかのような大きな態度と、少しルーズな振る舞いはすっかり有名にな

ってしまいました。

しかし、最近は心を改めて態度で示そうと頑張っているようです。人知れず哲学する一面もある

彼。

有言実行のビッグマウスになってくれることを期待しておきましょう。

秀島 朋樹

体操はインターハイ出場経験もある実力者。美しい演技に定評があり、67 点を出した七大戦で

は将来を感じさせました。

一方、普段は愛想のいい好青年で、ちょいちょいお茶目さを見せてくれます。そのギャップに「可

愛い」という声が挙がると、少し目がいやらしくなる彼なのでした。

栗林 熙樹

新歓イベントがすっかり終わったあとにひょっこり顔を出した関西人。元ラグビー部とは思えな

い小さめの体格ですが、体操に向いていそうで期待が寄せられています。

卒部論文

Page 36: UT Kunstturnen

近況報告

ノリのよさはトレ体の中でもトップレベルで、最近の体操熱も相まって、良きムードメーカーに

なりそうです。ゲイに好かれそう ( 爆 )

目指せ、笑顔の似合うダンディージムナスト!

中島 勇祐

体操は大学はじめですが、締めの強さと倒立の美しさには定評があり、もうしんぴが上がります。

新歓コンパで下ネタ全開のネタをやり女性陣をドン引きさせた彼は、それを期に「僕変態じゃな

いです!」と叫びながら初期の真面目なイメージを崩壊させていきました。

でも振られたネタへの対応とつまらないギャグでスベった先輩のフォローは全力でしてくれるの

で、今のトレ体にはなくてはならない存在です。

仁科 寛

テニサーを掛け持ちしながらも練習参加率は高く、影で筋トレやランニングをしたりと根性漲る

漢 ( オトコ ) です。体操は大学はじめ。

K-1 の山本キッドを髣髴とさせる坊主頭に、「ああ っ゙」と頭を抱えるコミカルな仕草と特徴的な

しゃべり方が有名。トレ体では彼の真似を上手くやれることがステータスの一つになっていて、

有名なセリフに「チーズケーキが焼けたので、帰ってもいいですか!?」等があります。

杉浦 正幸

2 年生の夏目と高校の同級生で、体操経験者。軽やかな身のこなしには定評があります。つかみ

所がない性格で、非常に人懐っこいです。

しかしあまりに人懐っこすぎて、七大戦のレセプション時にはそのスキンシップが「セクハラで

はないか」と、全国の体操界に物議を醸しました。本人に悪気はないようなので、皆様思う存分

触らせてあげてください。

宇郷 将道

街中をアクロバティックに走り回る「パルクール」界からの刺客。そのため床が得意で、体操は

大学はじめにして終末技に前宙一回ひねりを入れ周りを驚かせました。日ごろの振る舞いからも

妙に余裕を漂わせる、キザな 1 年生です。

しかし最近「合コンに連れてってください」という彼の餓えた眼に、本性が垣間見られるのでした。

Page 37: UT Kunstturnen

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試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

近況報告

近況報告(女子)

文責:中桐成美

激烈に暑い日が続いておりますが、みなさんお元気でいらっしゃいますか。トレ体に出入りする

者たちはだいたいにおいて元気です。マットを平時より 1kg ぐらい重くするほど汗をかきつつ

練習に励んでいます。最近は蚊も元気です。1 回の練習で平均4匹ほど捕まえます。しかし相手

も倒立中を狙うなどと巧妙な手口を使ってくるのですね。東大生 vs 蚊の頭脳戦が日々繰り広げ

られます。蚊取り線香などおいてみると風流かつ実害も減って良いかもしれないですね。

さて、最近の女子の様子ですね。出席率が高いです。意欲が高いです。仲が良いです。七大戦で

は団体2位と健闘しました。今後も怪我することなく張り切ってまいりましょう!

・ 西塚あすか(4年)

最近は院試の勉強などとても忙しそうでした。しかし練習に来たときには待ち時間にも補強をや

っていたり、人一倍がんばっていらっしゃいました。その甲斐あって七大戦では個人6位入賞と

有終の美を飾ってくださいました。七大戦をもって引退なさいましたが、今後も是非トレ体に遊

びにいらしてください!

・ 中桐成美(3年)

怪我が多かったもので、全種目に出ることができたのは今年の七大戦で実に1年ぶりでした。か

わいい後輩ができて練習も思いっきりできて最近楽しいです。誰も見ていないとついついさぼり

がちな補強もしっかりやろうと思います。車輪が回りたいです。

・ ミラ・ヴァクホヴァ(3年)

今年度に入ってから急激に新技が増えました。七大戦では初めて段ちの宙降りを入れました。フ

ットサークルもあと一歩のところまできています。床では後方ブリッチができるようになりまし

た。補強もさぼらず、海合宿では見事な腹筋を披露してくれました。

・ 青木彩(1年)

サンディエゴからやってきた帰国子女です。できるかなーと言いつつも何だかんだで一発ででき

てしまう器用な方です。体幹がしっかりしているのですぐに上達しそうです。貧血がひどく休部

中です。はやく戻ってこられるといいですね。

・ 谷田桜子(1年)

ジャズダンスを習っていて動きがきれいです。スタイルもよく見栄えがします。前宙が得意です

が後方系は苦手意識があるようです。それでも初めての試合でロン宙をばっちり決めてくれまし

た。七大戦では床で入賞した期待の新人です。しかし発言・行動が謎です。

・ 早瀬朝子(1年)

新体操をやっていて体が柔らかいです。ターンやジャンプなどは高難度のものを入れています。

しかし筋肉がないというわけではありません。触ってびっくりな筋肉っぷり、素敵です。補強大

好きですね。驚くべきはその上達スピードです。男子と比べてもこの上達はすごいです。

卒部論文

Page 38: UT Kunstturnen

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自己紹介

宇郷 将道

理科 1 類

 まずは簡単なプロフィールです。

改めまして、東京大学体操部 1 年の宇郷将道です。ちなみに将道という名前は僕の祖母がつ

けたらしく、「将来自分の道をまっすぐ進むように」という意味があるそうです。そして「宇郷」

という苗字は、確か日本全国の苗字の中で 17387 位の珍しさだったと思います。1 位はもちろ

ん鈴木さんです。

ここからは自分の歴史をつらつらとつづっていきたいと思います。生まれた場所は神奈川県

川崎市高津区にある高津中央病院です。その後、神奈川県川崎市宮前区野川に引越し、小学校は

南野川小学校に通いました。当時の記憶はあまりはっきりしませんが、最初に友達になったのは

隣の席に座っていた新井君だったことははっきり覚えています。小学校のクラブ活動は、カラー

野球をやっていました。あとは将棋クラブにも入っていました。まあまあ強かったです。

その後、中学受験をしましたがことごとく不合格となり、最後の最後に唯一合格した世田谷

学園という中学に入学することになりました。中学に入ってからは、何を思ったのか、ワンダー

フォーゲルを始めました。一応ワンダーフォーゲルについて説明しておきますと、一言で言えば

アウトドアです。詳しく解説すれば、文明の利器を極力使わずに山に登ったり、川や海で自給自

足をしたりします。大会とかは特になく、日常の活動といえば筋トレがメインでした。そして夏

には 1 週間ほどかけて合宿をし、秋の文化祭でその内容を発表しました。周りの友達からはよ

く「何が楽しいの?」みたいなことを言われていました。そんな部活で、高2のときに僕は部長

を務め、その年の合宿は東京都にある学校から富士山の頂上まで 1 週間かけて徒歩で行くとい

うものでした。普通の人からしたら馬鹿みたいな話です。今から思えば自分でも馬鹿みたいだと

思います。でもそれなりに達成感もあり、いい思い出となっていますし、何より、一人では決し

てやらないような貴重な体験ができたと思います。貴重な体験といえば、僕の学校は仏教だった

ため、授業科目に「生き方」というものがありました。キリスト教の学校で言う「宗教」の授業

みたいなものです。その授業の中で、座禅をするのですが、これは普通に暮らしていたらなかな

名前:宇郷将道(うごう まさみち)性別:男生年月日:1992 年 1 月 6 日血液型:A星座:山羊座(僕の星は土星だそうです)出身地:神奈川県川崎市高津区家族構成:父、母、弟、犬 ( チワワ )学歴:洗足幼稚園→南野川小学校→世田谷学園中学校→世田谷学園高等

学校→東京大学教養学部理科 1 類スポーツ歴:水泳(小 1 〜小 6)、ワンダーフォーゲル(中 1 〜高3)、

パルクール(中 3 〜)、体操は大学からその他:書道(小 2 〜)

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試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

自己紹介

卒部論文

か経験できないことだったのではないかと思います。他にも、実際にお寺に泊まってお坊さんと

同じ生活を体験したりしました。まあ、なんだかんだだいぶ変わった学校だったように思います。

でも、今の僕がいるのも世田谷学園のおかげなので、感謝しないといけませんね。

そして高 3 の春、僕はS台予備校に通い始めました。そこで出会った先生方はみんな一風変

わった人ばかりでした。英語の先生は、一人がオカマでもう一人は小人でした。国語の先生は軽

くオカマで少し挙動不審な人で、カツラをかぶっているのがバレバレの先生でした。それでもさす

がS台の講師だけあって、教えるのはとても上手で、国語の先生にはとてもお世話になりました。

あと、その塾で重大な出来事があったのですが、ここで話すべきことではないと思うので伏せて

おきます。

そしてもう一つ僕の自己紹介に欠かせないのは、最初のプロフィールのスポーツ歴の欄で紹

介した「パルクール」です。おそらく「パルクール」という言葉を聞いた事のある人は少ないと

思います。なので簡単に紹介したいと思います。

パルクールとは、20 年ほど前にフランス人のダヴィッド・ベルとセバスチャン・フォーカン

という人によって作られたスポーツです。フリーランニングとも呼ばれています。何をするかと

いいますと、自分の身体のみで時には宙返りを交えながら街中の障害物や壁などを乗り越えたり、

ビルからビルへ飛び移ったりするスポーツです。最近では徐々に注目を浴びてきており、海外で

は映画やCMにも多く利用されています。

パルクールの紹介はここら辺にして、パルクールと僕の関係について話していきたいと思い

ます。僕がパルクールに出会ったのは、中学 3 年生のころです。きっかけは、母が「ヤマカシ」

という映画を見つけてきてそれを僕に見せたことです。そのときは、パルクールという言葉は知

りませんでした。その後、同じワンダーフォーゲル部だった友達に「ヤマカシ」を紹介したところ、

その友達がいろいろ調べてくれて、パルクールという言葉を知りました。そして、本格的にパル

クールやろうぜって話になり仲の良かった友達 3 人を集めてチーム「蝸牛の尻尾」を作りました。

それが 2006 年 12 月 26 年のことです。ちなみにチーム名を考案したのは部活の先輩で、おそ

らく由来はなく、完全な思いつきだと思います。それ以降、チームで練習したり動画をとったり

して、かなりパルクールに夢中になっていました。障害物を飛び越えたりする練習は屋外でない

とできなかったのですが、宙返りの練習は、学校の柔道場を昼休みに使わせてもらい、そこで練

習していました。高 3 の冬で学校が休みになるまでほぼ毎日、柔道場で様々な宙返りをみんな

で練習していました。YOUTUBEで「蝸牛の尻尾」と検索すると僕たちの動画が出てきます

のでぜひ見てみてください。結構本格的なパルクールをしているので、面白いと思います。

そしてこのパルクールが、大学に入ってから体操を始めるきっかけとなったのです。もとも

と大学に入ってからはパルクールサークルを作ろうと考えていたのですが、宙返りの練習を高校

のころからやっていたということもあり体操部にも興味がありました。できれば大学では体操部

とパルクールの両方をやりたかったのですが、かなりスケジュール的に忙しく、練習時間を確保

するのが難しくなってしまいパルクールサークルを作るのは断念して体操をやることの決めたの

です。パルクールは、高校のときの友達とたまに集まってやることにしました。以上が体操部に

入るにいたった経緯です。

これで自己紹介を終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

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自己紹介

緒方善政

理科三類

はじめまして。新入部員の緒方善政と申します。これからしばらく自己紹介をいたします。

まず生い立ちというか運動関係の略歴を。1991年10月16日に生まれました。東に三歩倒

立で歩いて 「天上天下唯我独尊」 と言いました。(嘘です。)親の熱心さによりしばらくしてスイ

ミングスクールに入ります。結局1級まで行きました。25級から。小学生くらいの頃にこのス

イミングスクールはやめました。スイミングスクールに入るのと大体時を同じくして体操教室に

も入りました。ただ、前転とか逆上がりとかをできるようにする程度の教室でありましたので、

小3のときにやめる辺りには空中逆上がり、ハンドスプリング補助付きとかいった程度のことを

やっていました。練習終わった後のバレーボールが楽しかったのを覚えています。そして練習終

わった後の自販機のココアがおいしかったのを覚えています。小学校に入学すると友達に誘われ

ルールも知らない野球をするうちに野球を知り、小3の終わりにリトルリーグに入ります。入り

たての頃の上達の速さはすごかったです。しばらくして下手になります。なぜか知りませんが。

体のあちこちをけがして一年間結局ほとんど練習できなかったこともありました。この経験あっ

てか、けがとかに対しては慎重になりました。図体が出かかったせいでファーストとかピッチャー

とかやっていました。リトルリーグは牽制球がないのでファーストの守備はだいぶ楽です。ピッ

チャーとしてはまともな投球は結局2,3回しかできなかった気がします。登板回数はもっと多

いのですが。練習が半端じゃなくきつかったです。硬球なので肩の筋肉の付き方が違ってきます。

自分の体格の基本はこの時期に作られたと思います。中高でもきつい練習はあったのですが、こ

の練習と比べたらそれほどでもないものでした。自分の根底にある泥臭さもこの時期に作られた

のでしょう。その後中学受験をして巣鴨中学 ( 中高一貫 ) に入ります。佐藤 OB は先輩です。軟

式野球部に入りセンターとかピッチャーとかやってました。コントロールが悪いのでまたしても

ピッチャーとしては迷惑かけてばかりだった気がします。ここでコツコツ練習することとかいろ

いろ教えていただきました。高校では、そのまま仲間と一緒に硬式野球部に進むと練習を休みに

くくなるので陸上部に入りました。走るフォームを良くしたかったという理由もあるのですが。

とはいえ投げるのが得意ということを生かし、部室の奥からやりをひっぱり出してきて練習を始

めます。槍を教えて下さる方がコーチの中にいらっしゃったことも幸運でした。高一の頃は都大

会に出るのがやっとでした。記録は大体45mくらい。高二の秋の新人戦で都で2位になること

ができ、関東大会に出ることができました。大体50m くらい。高3ではインターハイ予選で

関東までは進むことができました。関東ではボロボロでした。この時都大会決勝で奇跡の56m

を投げました。54mも55mも投げたことがなかったのに。とはいえ、都の一年上の先輩方が

普通に60m投げていたのに都2位の自分が結局56mしか投げられなかったことは微妙な気分

でもあるのですが。でも、やり投げが自分に自信を与えてくれたのは間違いがないようです。投

擲に逃げたせいで結局走り方はよくなりませんでした。ちなみに走り高跳びのベストは170c

mです。それでなんだかんだで東大に入学します。

Page 41: UT Kunstturnen

39

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

自己紹介

卒部論文

大学の話です。高校時代から 「バク転てどんな感じなんだろう」「開脚旋回したいなあ」とつね

づね思っていたので、体操部に入部しました。高校にも体操部は無かったことは無いのですが、

佐藤先輩の卒業後、存在するけれども部員もいなくて活動もしていないよく分からない状態でし

た。陸上と別れるのが寂しかったので医学部陸上部にも入っておりますが、基本的に体操部中心

で行動しています。素晴らしい先輩方、同級生と練習できて幸せです。不束者ではありますが、

精一杯活動していきたいと思いますのでよろしくお願いします。

プロフィール

<名前>緒方善政(おがたよしまさ)

<生年月日>1991年10月16日 (ミラさんの次の日!)

<科類>理科三類     (馬場さんの後輩です。盛り上げ役には向いてませんが)

<性質>常に何かと悩んでいる   

<趣味>やり投げ        

<好きな動物>ネコ

<好きな本>老子

<欲しいもの>答え

<体操部の目標>部内最多技数

<好きな科目>数学

<学歴?>井荻聖母幼稚園→星美小学校→巣鴨中学校→巣鴨高校→東京大学

<資格?>英検二級、数検準一級、漢検準一級、豊島区春季大会やり投げ大会記録、東京大学新

潟大学医学部陸上部交流戦大会記録(59m自己ベスト)

<好きな体操選手>すごすぎて違いがまだよく分かりません

<好きな陸上選手>室伏浩二、ピトカマキ

<大学にいる間にやっておきたいこと ( 体操以外 ) >少林寺拳法

<好きな言葉>(こたつで)ぬくぬく

<好きな光景>ネコが何か見ながら尻尾をゆっくり横に振っている様子。

<座右の銘>(よく考えたら特にないな)

<口癖>あ、はい、えーと。/わからん。

以上で自己紹介を終わります。ありがとうございました。

Page 42: UT Kunstturnen

40

自己紹介

栗林熙樹

理科一類

 1 年栗林熙樹と申します。よろしくお願いします。

 自己紹介ということですが、難しいものですね。まず一つ言えるのはギリギリになるまで動け

ないってことです。実際、これを書き始めた時刻が締め切りまで4時間切ってたりします。ちな

みに絶賛テスト中でもあります。もちろん明日の勉強も終わっていません。長い休みがあったに

も関わらず前日、いや、当日まで引き延ばしてしまうのです。そんな僕ですから毎年8/ 31は

修羅場ですね。小1のころからそうだった記憶があります。お盆が終わるころから段々焦り始め、

あと一週間というときにはがっつり落ち込みつつも、結局最終日まで宿題を残してしまう可愛い

少年時代を送りました。そしてその習慣は変わらず中学、高校、と12回の8/ 31を過ごして

きました。しかしまさか大学生になってまでこんな夏の終わりを迎えるとは思ってもいませんで

した。

 次に言えることはすごく朝に弱いです。しょっちゅう遅刻してます。1限の授業なんて月より

も遠いです。下手すりゃ3限も…なんてこともたまにあったりなかったり。と、このままではた

だのダメ人間アピールで終わってしまいそうなのでそろそろプラス面、というか非負な面の紹介

に移っていきたいと思います。最初に悪いとこを言ってしまえばギャップでいい人に見られるか

も、なんて計算はしてません。女子がギャップに弱いなんて情報は知りません。

 さて、出身地およびこれまでの生息地ですが、1991年に神戸に生まれ、18年間神戸に住

んでいました。いいところです。海も山もあります。そしておしゃれです、街は。ぼくについて

はノーコメントでお願いしたいところです。そんなわけで長い間慣れ親しんだ地を離れ、「絶対

標準語なんかしゃべらんわ。」と東京へ飛び込んできたわけですが、まあ喋っちゃうじゃん(標

準語)。最近は再び関西弁を取り戻したいとジレンマに苦しんでいる日々です。普通に東京の人

にも関西弁で喋れる人はすごいな、と思うのです。別にどこかのサークルの新歓で女の子に関西

弁がウケたからとかそういうわけではないです。決して。

 そんな神戸での生活ですが、高校時代はラグビーをやっていました。明らかに体格にあってな

いだろ、と思われると思いますが、なんとか3年間やりとおしました。ラグビーについて説明し

ておくと、2 つのチームに分かれて行われ、楕円形のボールを奪い合って相手陣のインゴールま

で運ぶ、あるいは H 型のゴール上部に蹴り入れて得点を競うスポーツである。Wikipedia より。

さすがですね、Wikipedia。どう短く説明しようか悩んでいたぼくに颯爽と答えをくれました。

そんなスポーツのラグビーですが、すり傷切り傷は年中できていました。今も結構傷跡が残って

います。ただぶつかりあう激しさなどなかなか他には見られない魅力もありますので、ぜひ興味

を持っていただきたいと思います。2019 年には日本でワールドカップが開催されます!ちなみ

になぜ大学でラグビーを続けなかったかといえば、もう怖かったからです。体格的に。というわ

けで体操を頑張りたいと思います。

 そこで何故体操部に入ったのか、という理由についてお話します。中学時代は名ばかりの陸上

部で、たまに練習にいっては高跳びのマットで遊ぶ。というような素晴らしい活動を行っていた

Page 43: UT Kunstturnen

41

試合結果

春合宿

近況報告

自己紹介

自己紹介

卒部論文

のですが、そこで友達がバク転をしたりしていて、そのころから体操というものに憧れていまし

た。ただ体操部は中高と無かったため、大学から始めるはこびとなったのでした。

 以上、拙い文章ですが自己紹介とさせていただきます。これからもよろしくお願いいたします。

Page 44: UT Kunstturnen

42

自己紹介

小林隆貴

理科一類

●まずは軽く自己紹介を

はじめまして。小林隆貴(こばやしりゅうき)と申します。そうです、史上おそらく初めて

ハンガーをトレタイに持ち込み、次から次へと着替えているあの怪しい男です。

 兵庫県の神戸市出身なのですが、大学生になり東京に上京するまで、自分が関西人だという自

覚が全くありませんでした。つまり自分がしゃべっているのが関西弁だと知りませんでした。も

ちろん大阪の人ほど濃くはないですけどね。東京に来てからというもの、関西人だから面白いん

だろ?当然そうだよね?といった周囲からの無言の圧力がかかってくるような重圧に日々追わ

れ、一人で勝手に辟易しております。関西人だからって、みんながみんな明るくて気さくな奴ばっ

かじゃないんだからね!プンスカ

●近況など

 最近はと言えば・・・あまり勉強が手に付かない毎日です。現に1学期は、午前の授業にはほ

ぼまったく出ず、体操の練習前についでに4限や5限だけ受けに来るという、きわめて自堕落な

生活を送りました。みなさんからすれば、小林は東大にまで来てなんで勉強しないんだ?単位と

か心配じゃないのか?よくそんなんで平気でいられるなぁ・・・・ってかお前本当に東大生なの

か?wwなどといった疑問で頭がいっぱいだと思います。もちろん、そう思うあなた方は正しい

です。(注:自分でも不安になって学生証を今探しましたが、どうやら東大生で間違いないです。)

 理由を考えるに、東大に受かるまでにいかんせんエネルギーを使い果たしたんでしょうね。も

う心も体もズタボロ。ちょっと頑張りすぎたんでしょうね。「オレァやりゃあできるんだ、ちょっ

とくらい休ませてくんねぇかなぁ」と体が言ってるみたいです。本当は勉強するのは大好きなん

です(たぶん)。数学の難しい本だって今後たくさん読みたいですし、語学なんかも結構好きで

す。ただ体がダルい。おまけに、大学という場所は、自分の成績状況を親身になって心配してく

れる担任もいないし、誰かから勉強を強要されることもないし、一緒に暮らしていた家族とも離

れ、叱ってくれる人もいない。正直言ってここまでさぼれる要因が重なったらさぼらないほうが

おかしいです。1年遅れて入ってくる奴がいるんだから、1年踏みとどまるやつがいてもいいは

ずです。・・・なんて留年予備軍をにおわせるような書き方をしていますが、実はそんなつもり

は毛頭ありません。つい最近になってやっと「楽だ」と「楽しい」というのはまったく違うこと

に気がつきまして(漢字は一緒ですが)、堕落した生活は確かに楽ではあったものの、楽しいと

は少し言い難かったです。東大に入学して約5カ月間が経ちましたが、その間に十分さぼって精

神的にも回復したと思うので、今後は、学べることに感謝しつつ、主体的に学んで「楽しい」日々

を送っていきたいと思います。

●好きなことなど

 無類の歌好きで、カラオケが大好きです。高校時代は高2の10月1日から3月26日までの

Page 45: UT Kunstturnen

43

試合結果

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卒部論文

約半年間合唱部に属していました。一体感を重んじ、個性を発揮できない場所は僕にとって少し

苦痛で、すぐにやめてしまいました。合唱で一人一人が個性を発揮しようとしたら大変なことに

なります(笑)ちなみにそれまではテニスをやっていましたが、もうほとんど忘れていて0にも

どったと思います(涙)

歌ってるときと、ご飯をがつがつ食べてるときと、汗を大量にかくときと、大声で笑ってい

るときに、なんだか心を開放できるような気がします。

 

●人生観など

 僕には特技がたくさんあります。でも思い返してみると、どれもこれも「そりゃちょっと練習

したらそんぐらいできて当然だろーよ」といわれてもいいようなレベルなのです。一芸を極める

前にいつも投げ出してしまう根性無しの自分にとって、体操は「体操楽しいなう」といった、一

時的な興味の対象ではないと言い切ることができません。だから、そんな邪念を振り払うかのよ

うに、僕は今、一心不乱に体操と向き合っていようと思います。ただ、「もう体操(笑)とか飽

きたからいーや」とか言ってる自分が想像でき過ぎて困ります。つまり飽きっぽいんです、僕。

 だから中学からずっと体操をやってる人だとか、20年近く活動し続けてるバンドだとか、高

校時代から継続して勉強をつづけられてる人だとか、同じ人と何年間も付き合えてるカップルだ

とか、そういう人たちには、尊敬・・・とはちょっと違うんですけど、「ほぇ〜よぅやるわぁ。

かなわんのぅ」みたいな感情が湧き起こってしまいます。

 

●最後に

こんなこともいいつつも、集団スポーツが大嫌いで(協調性が著しく欠如している)、Mで、筋

トレ好きな僕にとって、体操はうってつけだと思ってます。

 もし僕の情熱の灯が消えそうになったら、みなさん、キャンドルの灯をかばうように暖かく見

守ってください。一生懸命やっていきたいと思います。

それでは自己紹介を終わります。うだうだと自分の書きたいことばかり書いてしまって申し訳あ

りません。本当に自己紹介になったでしょうか?「知ってほしい自分」しかかきませんでしたが、

自己紹介なんてそんなもんですよね。

読んでくださってありがとうございました!!!!

Page 46: UT Kunstturnen

44

自己紹介

杉浦正幸

理科二類

こんばんは!私は杉浦正幸です!

自己紹介ということで私に関するいろんなことを書いていきます。これを読んで杉浦正幸という

人物を今後どう攻略していくか考えてみてください。

まずは大体の情報を

なまえ  杉浦正幸

生年月日 1990 年 4 月 14 日

星座   牡羊座

血液型  A 型

干支   午

性別   男

家族構成 父、母、妹× 3  (2009 年時)

出身地  愛知県岡崎市

出身高校 愛知県立岡崎高等学校

科類   理科二類

クラス  理二三 8 組

第二言語 スペイン語

住んでるところ 三河寮(夏目和人、中島ゆうすけと同じ寮)

よく聞く歌  aiko

好きな髪型  ポニーテール(黒髪)

好きな食べ物 

青りんご、青リンゴガム、ハンバーグ、梨、その他

別に好きじゃないけど嫌いでもない食べ物

カレーライス、トマト、かに、うなぎ、その他

嫌いな食べもの

なっとう、ナス、大根おろし、ポン酢、その他

結構好きな漫画

  スラムダンク ドラゴンボール、ガンバ !Flyhigh

こんなもんですかね。

次はどんな過去を持っているかを記しましょう。

0 歳〜幼稚園前

愛知県岡崎市で生まれました。割と早く言葉を話すようになったらしいです。あとはほとんど覚

えていません。

Page 47: UT Kunstturnen

45

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自己紹介

卒部論文

幼稚園〜小学校前

みやこ幼稚園に通っていました。みやこ幼稚園は自宅を出て左に歩いて十字路を渡ったところに

ある坂の途中にあります。徒歩 90 秒といったところでしょうか。近いといっても当時幼かった

僕には幼稚園に行く途中いろんな冒険がありました。十字路の手前にある防火用の池みたいなと

ころで亀や恋を探したり、十字路の先のちっさい木でテントウムシを探したり、その木の向かい

側にある小さな塀っぽいところを歩いたりしました。ああ懐かしい。

幼稚園は普通 4 歳になる年度から入園するのですが、僕は 1 年早く入園しました。つまり僕は

同世代のやつらよりも一年早く社会に出たわけですよ。理由は確か嫁姑問題に関わるあんまりよ

くない理由だった気がします。そんなわけで僕は赤組さん(年少組)を 2 回やったのです。こ

のときの僕と先生の会話を再現してみましょう。

先生「ちょっとお話があるの」

とか言われました。当時幼かった僕は(まさかこれは告白されるパターン!?)などと思うこと

もなく、ピアノの椅子の上に誘導されました。

先生「ほかのおともだちはつぎはみどり組になってまさゆきくんはまた赤組になるんだけど、そ

れでもいい?」

当時幼かった僕は(え?!告白じゃないの!?)などと思うこともなく、その言葉の意味がよく

わからないまま

「うん!!」

と答えてしまったのです。なんて大人はひどいんでしょう。これで小さい子供から了承を得たつ

もりなんでしょうか。もしも僕がここで嫌だと言っていたらどうなっていたんでしょうか。もし

そうしていたらこの先の同学年がすべて変わってしまっていたかもしれないのです。まあそんな

感じでこの出来事が後の僕の人生にちょっとだけ影響します。どのように影響するかはご想像に

お任せします。

ある日僕がみどり組(年中組)だったころ母親が電話でなにやら話していて

母親「○○君といっしょに水泳教室いく?」

「うん!!」

その返事が後の僕の人生で後悔を生むとも知らずに僕は答えてしまったのです。このときはべつ

に水泳教室は嫌じゃありませんでした。

幼稚園を卒業するときに文集みたいなのつくるじゃないですか。あれには誰がどこの小学校にい

くか書かれていました。当時僕が好きだった女の子の名前が僕が行く小学校と同じ福岡小学校の

ところにあったんです。「やったぜ!」と思ってたんですが、数日後幼稚園の先生から悲しいお

知らせがありました。その情報は誤りでその子の行く小学校は福岡小学校ではないと言われまし

た。このお知らせで僕のテンションは下がりました。なんて大人はひどいんでしょう。今その情

報を誤って記した幼稚園の先生に会えるならピコピコハンマーで殴ってやりたい。もう名前も顔

Page 48: UT Kunstturnen

46

自己紹介

も忘れてしまったあの子は今どうしているんだろうか。会ってみたいものです。

小学校時代

岡崎市立福岡小学校に通っていました。一年一組でした。まずはみぎとひだりどっちがどっちな

のかを覚えました。右手はおはしを持つほうです。

小学校のときはたくさん習い事をしていました。日曜以外は毎日習い事があるときもありました。

学研とか水泳教室とか英語教室とか体操教室とか。英語はただ遊んでるだけでなにも身に付きま

せんでした。お父さんお母さんごめんなさい。体操教室は幼稚園の体育館でやっているもので、

体操と言ってもマット運動と鉄棒で逆上がりするくらいでした。それは小 3 までやってました。

小4からは水泳をやっていたサンスポーツクラブ竜城というところが水泳教室と体操教室をやっ

ていたのでそのクラブの体操のほうにも入りました。こっちの体操はマット、跳び箱、鉄棒をけっ

こう体操っぽくやってました。といってもA難度にもならない技ばかりですが。しかしここで倒

立だけはきれいにやるよう仕込まれました。

小学校のときは水泳部でした。水泳クラブに入っていたからですね。小 4 のときには、クロー

ル背泳ぎ平泳ぎバタフライをマスターし終えて100メートル個人メドレーをやってました。小

学校6年の冬に僕は水泳クラブの選手コースになったんですよ。選手コースっていうくらいだか

ら練習が月〜土に毎日あって2時間泳ぎます。200メートル個人メドレーってのはバタフラ

イ背泳ぎ平泳ぎクロールの順に50メートルづつ泳いでタイムを競うんですよ。バタフライ50

メートルだけでもきついのにそのあと150メートルも泳ぐんですね。そのタイムを縮めるため

のつらい練習が毎日あるわけですからもうやばいです。泣きながらも頑張ってました。

中学校時代

岡崎市立福岡中学校に通っていました。福岡中学校は田んぼの真ん中にあるといっても過言では

ないところにありました。テニスコートは7面はれましたが体育の授業でテニスはありませんで

した。僕の嫌いな柔道ばっかりやってました。あの中学校は馬鹿です。僕は福岡町の一番北に住

んでいたんですが中学校は町の一番南にありました。遠かったですがやはり友達との登下校はく

そ楽しかったです(そういえば道にう○こが多かったので結構踏んでしまった気がする)。季節

によって稲が姿を変えるのでそれもまたおもしろかったです。稲が無くてぐちゃぐちゃしてたと

きは友達を落としました。そして落とされました。

部活は水泳部でした。別に女の子の水着姿が見たいからとかじゃないですよ。実際かわいい女の

子なんていませんでしたチクショウ。水泳クラブに入っていたからですよ。あのころは毎日部活

で泳いだあとクラブで泳いでそのあとたくさんの宿題をやっていたので睡眠時間はあまりありま

せんでした。あのころはつらかったです。それでも成績は良かったのでそのころの僕を褒めてあ

げてください。しかしそんな生活でネグレクトしないはずもなく、途中からなにかと言い訳をし

て水泳クラブをさぼりました。2年生からはクラブをやめて普通の男の子に戻りました。部活終

わって帰った後にテレビ見ながら宿題をやることがとても幸せに感じられました。そして成績も

良くなるわけですよ。受験校はどこにしようかってなった時に県で一番偏差値の高い岡崎高校に

しました。まあ僕の学力からして余裕で受かりましたよ。でも小田くんには落ちてほしくなかっ

たな。

高校時代

Page 49: UT Kunstturnen

47

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卒部論文

高校時代、それは僕が人生で一番楽しかった時。

岡崎高校に入って僕がまずしたこと。

それは恋をしたこと。

名前もクラスも知らないけど階段に立っていたその子を好きになりました。

高校では部活に入らないで勉強しようと馬鹿なことを考えていたのですが、まわりのみんなが部

活にはいるというので僕も入ることにしました。球技は苦手だし新しいことをやるのは僕には無

理だろうと思って昔習っていた水泳か体操で迷いました。体育館に体操部の練習を見に行きまし

た。するとなんとあの子が体育館にいるではありませんか。雰囲気的にバレーっぽい感じでした。

体操部の練習に参加してみました。その時一年生は4人くらいいたでしょうか。その中に一人、

技か何かをやって先輩に褒められて照れていた変なやつがいた。そう、夏目和人である。おそら

く彼はこの時のことを覚えていないだろうが、これが僕と夏目和人との最初の出会いであった。

岡高の水泳部は強いと聞いたのでつらい練習を避けて体操部にしました。練習は月水金で勉強と

両立しやすいと言われたこともありました。

部登録という正式入部をするための集まりに行きました。するとあの子が教室にいるではありま

せんか。なんとバレーではなく体操部に入ったのです。まさに運命というべきもの。神様ありが

とう。まあその後僕が彼女とどうなったかはご想像にお任せするとして、体操は楽しかったです。

いや待て、そうでもなかった。平行棒はアームがくっそ痛かったしあん馬は意味がわからなかっ

た。平行棒とあん馬なしで頑張っていこうと思ったくらいだった。でも床は楽しかったです。恐

怖を乗り越え集中してやるバク天とバク宙の練習は良いものでした。

順調に技を増やしていった1年生の夏休み、ここで僕は跳躍のやりすぎで両足が脛骨骨膜炎に

なりました。痛くて宙返りも思うようにできませんでした。その後骨膜炎は慢性的になり、タン

ブリングを足を痛めないようにやろうとして変な癖がつきました。おそらくこのときに骨膜炎に

なっていなかったら高校の間に後方抱え込み2回宙返りくらいできていたでしょう。

岡高の器具はけっして良いとは言えませんでした。何十年使っているかわからないやたらとしな

る平行棒(最近ついに折れた)、高さが 120 センチメートルくらいの振動系の練習のできない吊

り輪、滑らないあん馬、そして豆腐とよばれていたやわらかい台を 2 つ積んだやつを僕らは跳

馬と呼んでいました。鉄棒だけは普通あったんですが、鉄棒を立てれるあまり機会がありません

でした。さらに怖いからといって逃げていたのが僕が未だに車輪ができない理由です。

体操部は練習も楽しかったのですが、やはり同学年で遊びに行くのが一番楽しかったです。31

アイスクリームに行ったこと、おいでん祭りに参加したこと、マクドナルドで勉強したこと、ど

れももう一度体験できるならしたいです。

浪人時代

受験が残念な結果に終わった僕は河合塾名駅校で浪人をしました。同じ高校の友達がたくさんい

たのでけっこう楽しく浪人していました。浪人というのは勉強以外することがないんですね。文

化祭とか部活とかなんもないんですよ。このときは人生で一番勉強しました。毎日、今日も勉強

できなかったとか思っていましたが、今に比べたら授業だけでも相当勉強していました。いい経

験だったと思います。でも東大に受かったのは僕の運がいいからだと思います。そして大都会東

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48

自己紹介

京での暮らしが始まるのです。しかし東京に来てもまだ宮崎あおいに会えていません。いったい

僕はなんのために東京に出てきたのか。どこへ行ったら宮崎あおいに会えるのか。

過去はこんなもんですかね

ここからは僕の体操のやりたい技を記しましょう。

Y字バランス、上手な転回、転回→伸身前宙→抱え込み前宙、トンフェイ、ゴゴラーゼ、伸身で

ひねりまくる、2回宙

平行棒

旋回、モリスエ、ティッペルト、ディアミドフ

鉄棒

後方車輪、後方2回宙返り降り、トカチェフ前宙

吊り輪

グチョギー、背面水平から引き揚げて中水平、懸垂から引き揚げて十字懸垂

麻雀

大三元、国士無双十三面待ち、四暗刻単騎待ち

トレ体で僕がぼーっとしてたらどうぞみなさん僕と絡んでくださいおねがいします!!

でも痛いことは嫌いです!!

無茶ぶりにはこたえられませんが精進していきたいです!

食事はご飯がないとだめです

カレーは甘口がいいです

よろしくお願いします!

Page 51: UT Kunstturnen

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中島勇祐と申します

自己紹介させていただきます、というより生い立ちを

先輩方のものを参考に僕の成長とともに書き進めていくことにします

誕生日は 1991 年 9 月 19 日、1 と 9 ばっかりなことは僕のささやかな自慢です

気づけば先輩の佐野さんと誕生日が一緒なのです

出身:愛知県豊田市の五ヶ丘という団地に住む中島家の三男として生を受けました

ここはトヨタ自動車の城下町です、名付け親は母方のじいちゃんです

家族構成:父はトヨタ自動車、母は専業主婦のかたわらパートで働いたりします

9歳上の姉、6歳上の兄、5歳上のアニーがいます

いぬとねこもいます、そしてぼくがいます

僕の幼稚園卒業は姉の中学卒業、兄の小学卒業とかぶり、僕の小学入学は姉の高校入学、兄の中

学入学とかぶりました、父と母は大変でした、みなさんも参考にしてください

アニーとは何もかぶりませんでしたが、小5くらいから二段ベッドを分かち合いました

下段の僕はアニーの寝ている上段をよく蹴りました、アニーはそろそろイビキをかきだしたので

二段ベッド時代(小5くらい〜中3):よくアニーとしゃべりました

僕は寝たいのに寝付きの悪いアニーが延々としゃべりかけてくるので

眠たい僕は途中から相槌を打つだけでした

アニーは割と愚痴とかネガティブ思考な話を僕の眠たい頭の上からしてきたので

(そして僕は機械のように “ うんうん ” うなづいていたので)

僕はネガティブシンキングを身につけてしまいました

これは立派な洗脳ですね(笑)今書いてて気づきました

幼稚園時代:年中組から入りました

最初に声をかけた子と一番の仲になり

ミエナイチカラによってその子とは小6までずっと同じクラスになりました

が中学校入学の日のマジでささいな僕の勘違いによりその後思わしくないことになっていきまし

た、後悔しています、まだ年賀状は出しあってますけれど

習いごとは剣道でした、えいっえいっ、って竹刀を振りおろすだけでオッケーな級の賞状貰った

だけでやめてしまいました

剣道では毎回の練習の初めに、先生の前で身につけるもの一式をきれいに畳んで正座しないと「不

合格!」って先生に言われるのですが

僕は「“ ふごうかく ” って “ ごうかく ” より一個文字が多いから不合格のほうがいーじゃーん」

とか先生に言って困らせました←鮮明な記憶です

はじめてやったサッカー、ルールのよく分からないサッカー(ルールというものの存在意義すら

Page 52: UT Kunstturnen

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分かってなかったけど)、僕はキーパーをやることになりました

「なんだこのアミアミ、そしてあのボール、、、分かったぞ、きっとそういうことか!」

そしてボールは僕の立ちはだかるゴールの前に、、、次の瞬間、僕はゴール、自分が守るべきゴー

ルにシュートを決めました(ボールに道を譲っただけです)

こんな感じでアタマ悪かったです

ときどき柱に向かってアタマをごんごんぶつけて遊んで笑ってた記憶もあります、親は心配した

でしょう、そうアタマ悪かったんです

遠足に行くバスで吐いたことは人生の汚点です、乗り物酔いは世界一メンドクサイものだと思っ

ていました

小学校時代:この頃はなんでも一番になることがすばらしいのだって思ってました

だから通学班も本当は8丁目5班なのに初めは8丁目1班にいました(勘違い)

みんなが自分ちと全く違う方向に歩いて行くのが不思議でしたがこの勘違いにはなかなか気づき

ませんでした

しかしこの思想が打ち砕かれたのはそう、朝顔です

朝顔を一年生のクラスみんなでそれぞれ育てていたとき、、、芽吹くのって本当に待ち遠しいのに、

なのによりによって僕の朝顔は全く芽吹かず、、、毎朝毎朝僕はそのことに落胆し、ついにクラス

で一番芽吹くのが遅いと分かると泣き出しました、なんか悔しくて

こんな厄介な子供だったんですね、別になにをするでもないのに1位になりたがるなんて

でも算数だけは譲りませんでした(褒められたものではないけれど)

小学校時代はゲームに取り憑かれました

運動もせずだらしなくすごしたことを今ではかなり後悔するとともに

子供をダメにするテレビゲーム業界を憎み恨んでいます

(でもゲームは面白いですよね)

このままではいけないと急に思い立ったのが小5の冬、子供会のソフトボールを始めました、こ

れは兄とアニーがやっていた少年野球を小さいころ頻繁に見に行っていたからです

(野球人生はここから(高校まで)始まっていくのですがここでは書ききれないし中途半端には

書きたくないので書きません、ですが今の僕を成しているものは野球に負う面ばかりということ

は確かです、中高の友人も親しいのはほとんど野球部ですし、今のところ子供にやってもらいた

いスポーツはやはり野球です)

習いごとは水泳(だいっきらい)と公文(苦悶って変換が出ましたがまさにそんなとこでした)

水泳はほんとに、イヤイヤイヤイヤイヤーー…Sparking!!! って感じでした、嫌々でした

「やっててよかった公文式」のキャッチフレーズはあながち(というより全く)間違ってないで

公文は子供にやってもらいたいなって思います、苦悶の表情を浮かべながらも

Page 53: UT Kunstturnen

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中学時代:早寝早起きでした

一年時の生徒番号が1111だったこと以外特筆することはない気がしますが、野球部の顧問で

あった先生(コワかった)のおかげで

ひねくれて、不真面目な性格は治りました、僕の人格の形成期です

しかし深いところではやはり幼い時のだらしない性格が根付いています、これを取り除けたらど

んなにいいことかと常々思います

、、、コンプレックスはおっきい耳と口の近くのほくろでした(中学ではニキビも)、なんとかも

がいていましたが、詳細はいいです、傷をえぐらないでください

高校時代:(今気づいたのですが、いろんなことがあった(というか思い出せる)時代というの

は逆に書きづらいんですね)

地味に生活してましたが、振り返れば、ささやかでも僕なりの立派な青春だったと思います

アイデンティティの危機は迎えませんでした→高3ではとうとう顔がデカイ人(あくまで親しげ

な意味ですよ)っていう位置づけになりました、あらたなコンプレックス=アイデンティティの

芽生えですね、しかしこの芽はなかなか手ごわいです

お笑い芸人 FUJIWARA の藤本が「顔がデカイからや―!!」ってやるのをよくやらされました

しっかし高3のクラスが人生最高のクラスだったって思います、いいやつばっかりでした、そし

て楽しかった、クラス長だったせいで幹事とかにもなりました

ひざの故障時代(暗黒時代)と受験時代は語れないです、総じて苦痛と我慢の時代でした

(緑いっぱいで川沿いの通学路を)自転車で駆け抜けたひんやりした冬の朝の情景は思い出すと

胸がきゅうっとなります、なぜだか知らないけど通学路を自転車で走るのを回想するとうまく言

い表せないような、穏やかで、暖かい気持ちになります、「あぁおれの青春」って、、、そういえ

ば感傷に浸るのが好きな僕です、大学入ってからはあまりないですけど

感傷に浸るなんてカッコつけようとしてるカッコ悪い人みたいです、それに “ 前に進めない人 ”

とも言えますし、、、でもあの気分はなんか好きなんです、こんなんじゃだめだなぁとも思うんで

すが

体操部に入ろうと思ったのは

熱いものを探していた先のトレ体でした

…大学に入って、理想とのギャップに落胆する人は少なくないと思いますが、四月、僕は大きく

打ちひしがれていました

授業はつまらないし周りの人から覇気を感じないし

「トウダイって言ったらもう、刺激にあふれる毎日しか想像してなかったのに…まさかその逆な

Page 54: UT Kunstturnen

52

自己紹介

んて」

大学という組織が中途半端人間製造工場のように思えました(今でも)、そして自分までもそん

な感じになっていくことを非常に恐れました

というより小学校時代以前の自分に戻りたくなかったんです

短く言うとこんなところです、もっといろんな要素もありますけど

言い方は悪いし失礼ですが、熱いとこならなんでもよかったのです

それがたまたま寮に一個先輩の夏目さんや杉浦がいたことなどが相まって、トレ体に行き、体操

部の方々の雰囲気に魅かれて、体操部に入りました

100パーセント自分で決断したことのようには思えません(野球の選択も進路の選択も然り)

僕は自分でピュアに望んだ人生を切り開く力を持っていないように思います

というよりもどんな人生を望めばいいのか自分では分かんないです、今までの人生も辿った後で、

美化したり誤魔化してる面も多々あります

しかし流されるままに漂いついた場所も答えの一つなんだと思いますし

後付けであっても、努力することで素晴らしい答えにできると思います、そうしてきたつもりで

すし、これからもそうします

初心者ですし、自分でセンスを感じませんが、

体操、頑張ります、誇りが持てるくらい

そして野球と同じくらい体操のことを好きになりたいです、なります!

憧れの技をカッコよく演技できるようになりたいです、なります!

ずっとできる限りのひたむきでありたいですが、調子悪いときなどもあると思います

そんなときまで含めて、これから東京大学体操部の一員として、よろしくお願いします!

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卒部論文

仁科 寛

プロフィール

生年月日 1991年8月22日

血液型 B型

出身校 静岡県立沼津東高校

科類 文科一類

趣味 読書

家族 両親と兄一人の4人

進学したい学部 教養学部

初めまして。仁科 寛と申します。体操は全くの初心者である自分が、伝統ある東京大学体操部

の一員となれたことを、有難く光栄なことであると日々痛感しております。先日部室にあったO

B会報を拝見したところでは、自分の母校である沼津東高校出身者が東大体操部に入部するのは、

三島先生と同期の先輩以来のことのようです。沼津東高校卒業生のネットワークは社会の多くの

場所に展開している、という話は高校のときから伺っていましたが、この部活にもそれが存在す

るとは思いもよりませんでした。数十年の時を経て自分がその一翼を担うことになると思うと、

不思議な心地がします。上記の通り、自分は大学から体操を始めた人間であるので、それ以外の

話しか書けませんでした。それをご理解のうえでご覧になってくださったら幸いです。

高校について話したいと思います。沼津東高校は、現在は削除されたようですが、以前はウェブ

上の百科事典との名高いウィキペディアで検索すると、「日本三大バンカラ校」との記述が掲載

されているような、猛々しい校風の学校でした(この記述がどの程度客観的な指標に基づいて

いるのかは定かではありません)。というのも、この高校には、創設当時からの厳格な戒律を墨

守しながら現在まで代々気骨のある団員により継承されている、応援団運営委員会なるものが

存在するからです。応援団の手により、新入生は入学から1週間の内に校歌と応援歌合わせて7

曲を覚えることを徹底されます(東大に入学してから友達に尋ねたところ、同様に、一種の通

過儀礼のようなものを新入生に課す苛烈な応援団は、特に地方の進学校において散見されるよう

です)。応援団の怒号の中、大声を張り上げて 7 曲を完璧に歌いきることができるようになるま

で、この指導は実施されます。あまりに前時代的な伝統であるという批判の声も出ているようで

すが、卒業生の方々からの継続の声が根強く、途絶することなく現在に至ります。応援団はこれ

以外にも、体育祭の応援を率いたり、部活の対外試合を壮行したり、応援したりします。毎年校

歌・応援歌練習の時期になると、新入生の顔からは生気が消失しているのをしばしば目にしまし

た。この時期が過ぎると、応援団員の選出に入ります。入団する機会は後にも先にもこの一回の

みであり、これ以降の入団は認められないと同時に、一度退団すると再び入団することは認めら

Page 56: UT Kunstturnen

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自己紹介

れません。そして、自分は1ヶ月半ほど応援団員でした。新入生を恫喝する仕事には関与してい

ないという事実を除き、詳細な活動内容は伏せますが、僅かな期間の間に様々な非日常的体験を

し、省みると非常に貴重な日々でした。この経験は自分の高校生活における財産の1つとなりま

した。この時に養われた応援に対する姿勢は、高校生活を通じて涵養され、現在の自分の人間

性の素地となっている気がします。前述した応援練習の件にもある通り、沼津東高校は卒業生が

強い母校愛を持っています。卒業生の皆様の寄付金によって、蔵書約5万冊の図書館が敷設され

たりしています(全国でも屈指の規模であるという話を耳にしたことがあります)。著名な卒業

生の名を挙げさせていただくと、「しらばんば」などで知られる井上 靖、詩人の大岡 信を始

め、NHK教育「ピタゴラスイッチ」の監修などを務め、慶応義塾大学の教授でもある佐藤 雅

彦、第2代大昭和製紙社長である齊藤 了英(以上、敬称略)などがいます。このうち、斎藤 

了英氏に関しては、以前ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの『ガシュ博士の肖像』(医師ガシェの

肖像)を 125 億円で、ピエール・オーギュスト・ルノアールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』

を 119 億円で落札して話題になりましたが、ゴッホの絵を沼津東高校に寄付しようと提案して、

管理体制の不備を理由に高校側から断られたという話があるそうです。

部活は中高テニスをやっていました(中学で軟式、高校で硬式)。中学の時は部員に恵まれず、

テニス部のくせにラケットでボールを打つことを嫌う輩ばかりで救いようがなく、高校のときは

1年生の間中そのことを変にひきずってしまい、2年生からは何とか持ち直したものの、なんと

も言えない部活でした。その上、ある程度思うとおりに打てるようになったのが、高校で部活を

引退した後であるという奇妙な状況でした。体操に関しても、もしかしたら同じような道をたど

るのかもしれません。あとは、部活を現役でやっていたときに切れなかった 1500 m走5分の壁

を、引退した高3の秋に切った、というのがあります。半年間で23秒早くなりました。前述し

た部活に関してもやもやしたものが残ってしまったので、よりによって受験期に入ってから筋ト

レと走りこみを本格的に開始しました。そのためその当時は(部活を引退して筋力が落ちてきた

周りの生徒と比較して相対的に)運動能力が高めでした。今から考えるとだいぶイカれたことを

していたと思います。それもまた良い思い出です。

坊主についてです。自分は坊主頭です。高2の終わりに「雑念を捨てる」という名目で、それま

で目元にかかるくらいに長かった髪を剃りあげました(それによって雑念が捨てられた気配は、

当時も今も微塵も感じられません)。周囲の「お前気でも違ったか!?」の声もお構いなしに坊

主でした。そして現在に至ります。坊主だと何かと楽なことが多いので、さしあたり続ける所存

です。高3の間はずっと1mm に剃り上げていたこともあり、友達からは「仏 ほとけ」という

あだ名で呼ばれていました。体操部に入ってからは、那珂さんに「キッド」(格闘家の山本 kid

に似ているということです)と命名され、それが定着しつつあります。一年の内に、あだ名の意

味するところが覚者から格闘家に変わるというのも神妙な心持ちがします。大学でテニスをして

いる人たちの多くは、髪を長くして染めていて、それでなくても華美な身なりをしている一方で、

自分は坊主頭でテニスをやっているため、傍からみれば際立って奇妙な組み合わせであるようで

す(入学してから「高校球児だったの?」としか尋ねられたことがありません)。実際、剃髪し

Page 57: UT Kunstturnen

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卒部論文

たテニスプレイヤーは自分とアンドレ・アガシくらいしか見たことがありません。最近体操部の

先輩方や同学年の間でも坊主頭が増加傾向にあり、何だか嬉しいです。

体操と無縁の事柄を書き連ねるのも無粋なことと思われますので、簡潔ですがこれで自己紹介と

させていただきます。これからよろしくお願いします。

Page 58: UT Kunstturnen

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秀島朋樹

理科二類

 こんにちは、秀島朋樹です。まずはこのような文章に目を通してくださり、ありがとうござい

ます。体操は高校始めで、インターハイに出場したという話が尾びれ背びれをつけて伝わってい

るようで、少々困惑しております。好きな種目は、順に、床>鞍馬>平行棒≧跳馬>つり輪>鉄

棒です。鉄棒は手が痛くならなければ 3 番手くらいに来るはずなんですが…。高校時代鉄棒を

サボっていたせいか、今でもすぐ手の皮が剥けます。一刻も早く、手の皮が剥けないようにした

いです。それでは生い立ちを書いて行きます。

 育ちは三重県桑名市ですが、実は神奈川県川崎市生まれで、3歳くらいまで川崎で暮らしてい

たそうです。が、川崎での記憶は全くと言って良いほど無く、根っからの三重県人です。しかし、

親が標準語を話すので、方言はあまり強くありません。川崎ですぎのこ保育園、親の転勤で桑名

に来た後は大山田東保育園、途中で転園して桑陽保育園と、3つの保育園を経験した強者 (?) で

す。桑名に来てからは、今の自分からはとても想像できないほどやんちゃな幼少時代を過ごしま

した。どこでも走り回るし、けんかではすぐに手が出るし…。ここではあまり詳しくは書きませ

んが、火遊びで自宅を全焼させた (!) のもこのころです。今となってはいい思い出です。嘘です。

馬鹿なことをやったものだと今でも後悔します。それにしても、家一軒が燃える光景というのは

幼い秀島君には非常にショックが大きく、ただ呆然とするしかありませんでした。幸い ( ? ) そ

の他に大きな事件は無く、ドッジボール、ブンブン独楽、レゴ、折り紙、独楽回しなどなど、い

ろいろな遊びをしながらのびのびと過ごしました。

 小学校に入学してからも、低学年のうちはやんちゃ坊主のままでした。しょっちゅう授業中に

立ち歩いては、先生から注意を受ける秀島少年。通信簿には「落ち着きが無い」の文字。それで

も成績は良い方 ( 三重丸が 25 個くらい ) で、三者面談では「本人はわかっているから立ち歩い

ていても大丈夫なんですけど、まわりのわかっていない子達にも被害が及ぶんですよね」と言わ

れてしまいました。そしてこの直後から、授業中に立ち歩かなくなったそうです。おそらく「本

人はわかっている」という言葉を褒め言葉と捉えたのでしょう。褒められると伸びる子だったよ

うです。休み時間には、もちろん友達とドッジボールやサッカーをして遊ぶことも多かったので

すが、よく 1 人で鉄棒をしていました。前回りを 81 回回り続けるという暇な行動をとったりも

しました。体育の時間にもらった「鉄棒技カード」に書かれている技のうち、け上がりとえびあ

がりだけがどうしてもができなかったのを覚えています。この辺りから、徐々に体操に対する興

味がわいてきたように思います。また、小さい頃から算数が大好きで、先生が「小さい数から大

きい数を引くことはできませんよね」と授業を進めていたところを手を挙げて遮り、「マイナス

は考えないんですか?」と言って困らせたこともあります。ちなみに、ここまでで登場した「先

生」は同一人物で、1,2,6 年生の時の担任でした。この先生がとてもいい先生で、今の私がある

Page 59: UT Kunstturnen

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のはこの人のおかげだといっても過言ではありません。ただ、「どんなことをされても、先に手

を出したほうが悪い」という理論だけはどうしても納得できませんでしたが…。小学校高学年に

なってからは少し落ち着きましたが、基本的に遊んでばかりで、勉強や成績を意識したことはあ

りませんでした。

 中学では体操部に入りたかったのですが、私が通っていた陵成中学校には体操部がなかったの

で、消去法で残ったバスケットボール部に入りました。消去法で残ったと書きましたが、当時そ

う思っていただけで、おそらくスラムダンクに思い切り影響されていたのだと思います。幼い頃

からずっと背が低かった私は、宮城リョータを目指すべく練習に励みましたが、特に動きが素早

いわけでも無く、所詮身長が物を言う世界だと悟りました。それでも練習には真面目に参加して

いたので、週7で練習+朝練というバスケット漬けの中学校生活を送りました。勉強面では、定

期テストで9割得点という目標を掲げ、何故かやたらとライバル意識をあらわにしていた友人の

おかげで、真面目で負けず嫌いな私はかなり勉強していたと思います。…と言っても部活動が無

くなるテスト前1週間だけの話ですが。高校でデキてるんじゃないかとからかわれるにまで至っ

た親友 ( ♂ ) の存在を知ったのは、会心の出来と思われた保健体育のテストで3点差で負け、学

年2位に終わった中2の夏でした。高校受験では、家に近く、体操部がある、という理由で桑名

高校理数科を受験しました。自分にとって特にレベルが高いわけでもなく、落ちてもエスカレー

ター方式で普通科には受かるだろうということで、それほど一生懸命勉強はしませんでした。と

にかく社会が苦手 ( 嫌い ) だったので、歴史と地理の参考書をひたすら読んでいました。結局本

番の点数は芳しくなく、高校の同級生に「お前入学した時俺より頭悪かったの !?」と言われてし

まうような点数を取ってしまいました。

 それでも運悪く桑名高校理数科に合格してしまった私は、入学後 1 年経って、理数科に落ち

ていればよかったと強く後悔しました。実は理数科は 1 クラスしかなく、クラス替えがありま

せん。受験前からわかっていたことなのですが、その恐ろしさを侮っていました。おかげで高校

には同学年でも顔も見たことのない人が大勢いますし、体操部という人数の少ない ( 同学年は男

女計 4 人 ) 部に入ってしまったことがこれに拍車をかけました。しかし、基本的に成績が上位だ

ったことや、インターハイに出場したことなどで、高校内での知名度は無駄に高く、知らない人

から声をかけられることが多々ありました。体操部は週6で練習があり、今思えば、中、高と、

放課後は部活ばかりで友達と遊びに行くということがほとんどありませんでした。

 高校3年生になるまでは、東京大学を受験しようなどとは夢にも思っていませんでした。名古

屋大学も近いし、名大理学部でいいかな、などと適当に考えていました。しかし、段々と受験が

近づいてくるにつれて、薬学部に魅力を感じるようになりました。ここで大きな問題が生じまし

た。名古屋大学には薬学部が存在しないのです。そうしてどの大学を受けるか決めあぐねていた

私に、高校教師という名の悪魔が囁きました。「東大受けてみる気はあらへんか?」未だに学部

を迷っていた私は、進振りという都合の良い制度にも肩を押され、東京大学の受験を決めました。

それまでの第一志望が中期日程だったこともあり、当初は「滑り止めもあるし、東大は受かれば

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自己紹介

ラッキー」程度にしか考えていませんでした。しかし、実際に受験してみて、東大はあと 10 点

足りず、逆に中期は余裕過ぎ、後期は苦手な小論文と面接でみごとに撃沈、という結果が出た時、

どうしても「妥協」「敗北」という言葉が頭をよぎりました。親友 ( ♂ ) が医学部医学科に合格

したこともあり、わたしはプライドを優先することに決めました。

 こうして空白の 1 年を経て東京大学に入学したわけですが、高校の部活を引退してから大学

入学まで、約 1 年半のブランクは相当なもので、最近ようやく高校時代よりも多くのことが出

来るようになってきたように感じます。あまり目標を立てて頑張るというタイプではないので微

妙ですが、「最低でもインカレ出場」を目指して日々の練習に励んで行きたいと思います。お読

みいただきありがとうございました。

Page 61: UT Kunstturnen

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青木 彩

分科一類

はじめまして。文科一類20組の 青木彩 といいます。

生まれ〜小学校

私は1992年 3 月 21 日にドイツのニュルンベルグで生まれました。ドイツ時代の記憶は

ほとんどなく、ドイツ語ももちろん話せません。いろんな人に「ドイツ語はなせる?」って聞か

れて「話せない」と言うのが嫌なので大学でドイツ語を選択しました。でもかなりカオスなので

今は後悔してます。(泣)ドイツに生まれてから 3 年間住んだ後、イギリスのロンドンに引越し

しました。ロンドンは2年間しか住んでいなかったため、あまりこれといった記憶がありません。

その後日本の埼玉県に戻り小学校を日本で過ごしました。つまり、海外10年、日本約8年とい

うことになりますね。私の中では日本が一番長い感覚なので、この数字を見ると不思議な気分に

なります。小学校のとき、書道とピアノをずっと習ってました。習字では 5 段とか持ってます。

ピアノは先生が鬼のように怖かったのであまりいい思い出がありません。でもたまに卒業式で演

奏を頼まれたりしてました。器械体操を始めたのは小学校 3 年のときからです。サトエ・スポー

ツクラブというところで練習をしてました。実は私の父も体操をやっていたので、いろいろ教え

てもらい、すぐに選手コースに選抜されました。練習も毎日、埼玉栄高校という設備が整った学

校で何時間も練習させられたのを覚えています。ハードな練習に加え、コーチの怖さもありこの

頃は正直体操は嫌いでした。結局、6 年を卒業と同時にアメリカに引っ越すことが決まったので、

体操はやめてしまいました。

中学・高校

私は、中学・高校とアメリカのカリフォルニア州で過ごしました。カリフォルニアは気候が

よく、夏は毎日のようにビーチに通い、真っ黒になってました。日本では雨が降ると憂鬱になり

ますが、カリフォルニアの人々は雨が珍しいため、雨が降るとテンションが高くなり大はしゃぎ

します。また、雪を一度も見たことがないと言う人は珍しくありません。そんな土地柄の州で育っ

た私ですが、溶け込むには時間がかなりかかりました。近所の人に「ハーイ」と声をかけられた

だけで家に逃げ込むこともよくありました。今ではそんなこと絶対にありませんが。体操を再開

したのは高校のときです。たまたま体操部があったため、もう一度やってみようという気になり

ました。この時に私は体操が大好きになりました。クルクル回る感じとか、楽しいです。ここで

少しアメリカの体操制度(?)について触れたいと思います。アメリカでは、1 から10まで詳

しくレベル分けがされています。1から6までは規定の演技をして10点までの点数を従来の減

点方式で競います。7以上では自由に構成するのですが、それぞれのレベルで行っていい技が決

まっているので、自由とは言いがたい感じになっています。結局自分で選べるのはゆかの曲目ぐ

Page 62: UT Kunstturnen

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自己紹介

らいでしょうか。アメリカの全米大会に出たり、オリンピックに出ているような人は、10以上

という分類になっているそうです。(よく知りませんが)高校や地区によっても違うのですが、

私の所では、選抜メンバーはレベル6の規定、準選抜メンバーはレベル4の規定をやることになっ

ていました。わたしはレベル6をやっていました。曲も振りもすごくダサイので、大学では新し

いのを構成したいと思っています。そういえば東大の体操部って理系の方が多い気がします。一

年の文系は2人しかいないみたいです。文系にも体操ブームが来ればなと思っています。

ここで少しアメリカの高校について説明を加えたいと思います。アメリカの高校は基本的に

「自由」です。校則はもちろんありますが、日本と比べればゆるいと思います。制服もありません。

そして授業も大学のように自由に選択して自分で時間割をうめていきます。クラスも自分の能力

に合う選択を可能とするために、レベル分けされていました。一部の優秀な生徒たちは大学の授

業を受講していたりしてました。さらに、年に3回ほどダンスパーティが学校主催で開かれてい

ました。私も気分が乗ったときに参加したことがありますが、一言で表すと「カオス」です。NGワー

ドが出てきちゃいそうなので、ここではやめときましょう。まとめると、アメリカの高校は大変

でもありましたが、かなり充実してました。

大学

次は将来の展望について語りたいとおもいます。私は高校時代から弁護士になるのが目標で

した。だから東大でも絶対文一に入りたいと思い、受験勉強に励みました。私のクラスでは法曹

を目指す人が多く非常によい環境に恵まれているなと思いました。弁護士になるからには人権な

どを取り扱う仕事をしたいと思っています。このような目標があるため、体操部のほかに法律勉

強会や自主ゼミの法と社会と人権ゼミのパートリーダーをやっています。また、行政書士試験に

も挑戦しようと考えています。

現在、(この自己紹介を書いている、現在)私は体調の問題で体操部の練習に参加できていな

い状況です。退部しようと思ったこともあり真剣に悩みました。だけど先輩方や同期のみんなに

支えられて、まだ続けていくことが出来そうです。私はやっぱり体操が一番好きなスポーツだし、

体操部員に出会えたことを本当に幸せに感じています。これからも迷惑をおかけすることがある

と思います。でも、初心に戻って頑張りたいと思っているので、よろしくお願いします。

一年

青木彩

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谷田桜子

文科ニ類  

プロフィール

名前 谷田桜子

学部 理科二類 4 組(ロシア語) 

生年月日 1991 年 5 月 1 日

血液型 O 型

身長 162㎝

出身高校 私立豊島岡女子学園高等学校(東京都)

体操歴 中学から

スポーツ歴 ジャズダンス(3 歳から高校まで)/水泳(小学校時代)/空手(小学校時代)

趣味 美術館めぐり(現代美術が好きです)

高校生の弟がひとりいます。彼は身長が 184㎝と大きいですが、スポーツをしていません。

生き物が好きで生物部に所属しているために、家にはいろいろな生き物がいます。現在はハムス

ター、ツノガエル、ヒョウモントカゲモドキ、ピラニアなどがいます。ゲテモノばっかりですね。

数年前は水槽がたくさんあり、熱帯魚を飼っていました。これらは弟が世話をしていますが、小

学校から高校の 10 年間飼っていたブンチョウは私が世話をしていました。彼の影響で生き物に

割と興味があります。

幼少のときから「ちゃー」と呼ばれていました。なぜそうなのかというとですね、沢田研二

がジュリーと呼ばれるようなものですよ。あえて言うと、名前の「さくらこ」が「ちゃくらこ」

に変化し、略して「ちゃー」というのが由来です。小中高の友達はみんな「ちゃー」と呼ぶので

大学に入って「さくらこ」と呼ばれるのが新鮮です。

略歴

〜幼少時代〜

 1991 年 5 月 1 日、岩手県内の病院で生まれました。生まれて数時間後、肺に羊水が入ってい

たためチアノーゼになり、親を泣かせました。

1 歳とちょっとで数字が、2 歳 2 カ月くらいでひらがな・アルファベットが読めるようになっ

たため、親は天才児かと思ったらしいです。

3 歳の誕生日に腕時計を買ってもらいましたが、その後はさっぱりで時計はなかなか読めるよ

うになりませんでした(今でも苦手)。たまたま地元のジャズダンスのステージを見て「わたし

も舞台でお花もらいたい」と言い、ジャズダンスをはじめました。

幼稚園入園の前に MRSA(耐性ブドウ球菌)にかかり、しばらく幼稚園に行くことができず

卒部論文

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入園式にも出られませんでした。幼稚園では泣かない子で評判でした。先生には「おさるこちゃ

ん」と呼ばれており、高いとこから飛び降り足をくじいて、翌日の遠足は先生におんぶしてもら

って行ったことがありました。また、燃えた後の花火の温度を確認するために自分の唇につけて

やけどするような子どもでした。

〜小学校時代〜

 1997 年、豊島区立文成小学校に入学。

低学年から中学年のときは目立ちたがり屋で、学芸会の主役など立候補できるものはすべて

立候補していました。先生の「やりたい人いますかー?」に反射的に手を上げるようになってい

たので、歌が苦手なのに「文成音頭を運動会で歌う人」につい手を挙げてしまったことがありま

した。立候補者が複数いたためオーディションとなり運動会でさらすことはありませんでした。

高学年になるとほとんど立候補することはなくなりました。基本的にまじめでしたが、算数

の時間には毎回 Qoo の絵を描いていました。5 年生のときに仲良くなった 3 人の友達(自分た

ちを「歩く金魚隊」と言っていた)とは現在でも定期的に会っています。とても良い友達に恵ま

れました。4 年、5 年、6 年と毎年林間学校がありましたが、3 回とも具合が悪くなり、おでこ

に冷えピタをはった写真ばっかり残っています。

小学校時代で印象的なことは、運動会で一度も勝ったことがないことです。赤組と白組の二

組にわかれており、一学年 60 人位なので一度も勝ってないのは私だけだったでしょう。

よく忘れ物をするが動じない忘れ物クイーンでした。上履きを忘れ、一日中校内を長靴で過

ごしたことがありました。

 

〜中学・高校時代〜

中学受験をし、2005 年に中高一貫の私立豊島岡女子学園中学に入学。入学前はバスケ部に入

部するつもりでしたが、体操部を見学して「こんなことができるなら私もやりたい」と思い入部、

器械体操をはじめました。非常に狭く、柱が邪魔な地下体育館でしたが、器具は一通りそろって

いました。全部員は中高あわせて 20 人程度の部活でした。

はじめのころはブリッジをひたすらやっていため、部活中よく頭が痛くなっていました。入

部した当初は指導者がおらず、中学2年の夏に勢いでバク転をやったら左手中指を骨折しました。

よく足首、膝、腰など痛めていましたが部活がたのしく、特に中学時代は部活人間でした。

わたしの出身校では運動会の昼休みに体操部が全校生徒の前で踊って技をやって組み体操を

する体操部の演技発表というのがありました。部では試合と同じぐらい重要なイベントでしたが、

最後の高校 2 年のときマイコプラズマ肺炎にかかった状態で演技をしたところ途中でものすご

く気持ち悪くなるという失敗を犯してしまいました。高校 3 年の 5 月に引退試合があり腰を痛

めていたので痛み止めを飲んでやりました。

部活以外では中学二年のときにゴリエ杯(ダンス大会)、高校一年のときに気象予報士試験、

高校三年のときに全国高校化学グランプリなどにチャレンジしました。

わたしの出身校は割と厳しい学校のようでしたが、まったく気にならず女子校の気楽さを満

喫しました。制服はセーラー服で、気に入っていたため高校三年の後半では毎日定点で写真を撮

Page 65: UT Kunstturnen

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りました。その写真を見ると高校時代に戻りたくなります。変わった友達もでき、とても楽しい

中高時代でした。

〜大学入学から現在〜

受かると思っていなかった東京大学に入学。運動はしたかったし、体操またやりたいなぁと

思っていましたが、だらだらした大学生活を想像していたため体操部に入部するとは思っていま

せんでした。

運動会に入ろうと思ってからフィギュアスケート部と若干迷いましたが、高校三年の引退試

合ぶりにやった前宙が楽しすぎたので入部を決意しました。当初は楽しければいいやと思ってい

ましたが、七大戦に向けた練習を経てもっといろいろな技をやって上手くなりたいと思うように

なりました。大学入学前に想像していたふらふらした生活と異なり、体操部のおかげで充実した

生活を送っています。

以上のような人生を経ていま体操部にいます。あまり自分のことを話したことがありません

でしたので、こうして振り返ってみるのは自分にとっていい機会でした。この自己紹介文で谷田

桜子という人間が分かっていただけたでしょうか。みなさん、今後ともよろしくお願いします。

卒部論文

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早瀬 朝子

理科ニ類

初めまして☺ 早瀬朝子です

私は 1990 年 6 月 20 日にアメリカのニューヨークで生まれました。それで、普段は忘れているのですが、実はミドルネームを持っていて、クリスといいます。当時母が好きだったテニスプレーヤー、クリス・エバートの名前をとったと言われてきました。が、しかしたった今父が言ったひとこと。「あれ、本当のこと言ってなかったっけ?」……What ?そうです、クリスティーヌで届けたはずなのに、間違ってクリスで登録されていたのです。でも私、~ヌで終わる名前好きじゃないし ( ワタクシ嫌ですワ、みたいな喋り方してそう。あ、偏見ですね、ごめんなさい )。長いし。今の方がいいや~。「朝子」という名前も結構気に入っているのですが、東大体操部に入るまであまり呼ばれた経験がなく、小学校では朝ピー ( これは普通か )、みけ、セヤなどと呼ばれ、中高ではずっとチップと呼ばれていました。今でも同クラの子にはチップと呼ばれます。ところで、私には同い年の兄がいます。本当は、「剛 ( ごう )」という名前になるはずだったけれど、母が無理矢理読まされた姓名判断で、災難ばかり降りかかる、みたいなことが書いてあったため「雄一」になったそうです。「夕一」じゃないのが残念ですよね。彼もまたミドルネームをジェイムズで届けたはずが勝手にジミーにされていました。でも、サルっぽくてお似合いじゃないか…ってあれはジョージか。だいぶ違った。因みに、NHK の福岡放送局に兄と同姓同名のアナウンサーがいるのですが、全くの別人なので念のため。双子と言うと大抵羨ましがられますが、想像してください、同い年、ということはつまり喧嘩をしても一切手加減が無いということ。幼いころは噛む、蹴る、殴るの取っ組み合いは日常茶飯事で、なかなか壮絶な毎日でした。危ないから挑発に乗らないで、と母に泣いて頼まれたこともありましたが、売られた喧嘩を買わない人がどこにいるのでしょう。( それに、家族で一番挑発に乗りやすいのは他でもない母だったりする ) 今でも右手中指には、戦いの痕が残っています。とはいえ、兄はある意味凄い人なので、将来大物になるのではないかと密かに期待しています。新興宗教の教祖なんかぴったりです。これだけだと誤解されそうですが、兄も私も凶暴な人間には育っていませんから、安心してください。 さて、ここからは少しばかり私の生い立ちを紹介します。まず、幼稚園の頃。両親の都合で一時期神戸の祖母の家で暮らしていました。幼稚園の体操教室に通っていたのですが、2人いる先生のうち男の方は鬼で、二列に分かれて平均台をやるときに鬼の方にはほとんど誰も寄り付かないので、さらに怒って怖くなるという悪循環。でも私は昔から怖い先生が好みなので、迷わず鬼の方に並んだものです。幼稚園の頃はセーラームーンになることを夢見ていました。セーラームーンのサインだって持っています。いいでしょう?しかし結局セーラームーンにはなれなかったので、将来何をすべきか悩む羽目に陥っているのですが。 小学生の頃。高いところから飛び降りるのと木登りが流行りました。今こんなに背が低いのは毎日のように飛び降りていたからかもしれません。階段の一番上からでも余裕でした。おてんばだったので年中生傷が絶えなかったです。あと、バレエとピアノを習っていました。じっと座っ

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ているのが性に合わなかったので、ピアノはあまり積極的に練習しませんでしたが、バレエは大好きでした。小学三年生か四年生の時には牧阿佐美バレエ団のくるみ割り人形に出演させて頂いたこともあります。しかも、たまたま草刈民代さんと同じ出演日で、練習の時に草刈さんが脇を通って大喜びしたのを覚えています。中学受験の時にやめていなければ結構いい線いっていたのではないかと後悔しています。小学生の頃の私は、国語に限って神がかっていて、塾にいる時以外は一切勉強しなかったのに ( 過去問も問題文だけ読んで、問題なんか解かなかった )、テストでは全国順位一桁も普通でした。読書が好きだったのと、塾の先生が良かったからかもしれません。今まで出会った中で一番好きな先生に薦められた、阿川佐和子作『ウメ子』は今でも一番のお気に入りです。みなさんも是非読んで下さい♪ ( 因みに漫画はほとんど読みませんが、友達のお母さんに借りた『キャンディキャンディ』は夢中で読みました ) 塾の授業前には、一階から八階までを使った贅沢な鬼ごっこが繰り広げられました。一番大きな教室の黒板を使ったお絵かき大会もありましたが、これは途中で下の学年のガキが校舎長に言いつけたので出来なくなってしまいました。 中学、高校の頃。突然ですが、私は大の方向音痴です。祖母からの隔世遺伝だと思っているのですが、方向音痴って遺伝するんですか?フェリスの合格発表の日のことです。一度祖母と掲示を見て喜んだ後、ご飯を食べてから再び学校に行って母と合流することになりました。しかし、フェリスが見つかりません。さっき行ったのに。しばらくうろちょろした後、たまたま車で通りかかった母に救出されました。二人があらぬ方向に歩いて行くのが見えた、と言われました。そして、授業初日。校門が見つかりません。さっきまでフェリス生が沢山いたのに、気付いたらみんな横雙 ( フェリスの近くの女子校 ) 生になっていました。こんな感じです。私が右だと思ったら大抵左が正解なんです。でも最近はGPSがありますからね、地図さえ読めない私でも安心です。中学に入ったら絶対バスケ部に入ろうと決めていました。それなのに、塾で一番仲良かった子がバスケ部に入ると言い、私も、と答えるとなんだか真似をしたみたいで嫌だと思ったのと、新しくできた友達に流されたのとで結局化学部と料理部に入りました。化学部は先輩 ( 特に一つ上の ) と同学年の友達に恵まれ、最高に楽しかったです。部活から帰ると「先輩大好き~」とでれでれしていたそう。化学部はお金持なので、合宿で昼間から噴水や彫刻のあるホテルでステーキを頂く…なんてこともしていました。何の不満も無いかのような生活でしたが、中2の終わり頃、スポーツをやらないとあんまり青春っぽくないなとふと思い、化学部をやめて体操部に入ることに。思い立ってから一週間も経たないうちに入部したので、親も友達もびっくりしていました。中一の春に演技発表会を見た際には、体操部に入るとしたら器械だよね、まあ絶対入らないけどね、みたいな会話を友達としたのですが、結局新体操に入ったので、なんだか人生って面白いなあと思ってしまいます。運動系の先輩はやはり文化系と種類が違って新鮮でした。ここでも好きな先輩が何人かいて、また、新しいことを覚えるのが楽しかったこともあり、同学年の誰よりも情熱を持って部活に励んでいた自信があります。しかし、本当に楽しかったのは最初の一年だけで、その後は先輩を含めたいざこざがあってすっかり萎えてしまいました。あの頃の自分に叱ってやりたいこともいっぱいです。( もう新体操はいいや、と思っていたのですが、やっぱりたまにやりたくなるのでとうとうマイボールを買ってしまいました ) 一心不乱に勉強したのにも拘わらず現役時代の入試結果は散々で、浪人が決定しました。息

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抜きを全くしなかったのがいけなかったのではないかという反省のもと、今年は友達を沢山作ろう、と決意。春から夏休み前にかけては毎週日曜を「中華の日」と称して自習室の近くの中華料理屋に食べに行ったり(多い時で 14 人いた)、路上でキャッチボールしたり、それはそれは楽しかったです。秋以降も様々な出会いがあって、今でも私の支えになっています。そして、浪人時代の通学ソングといえば Nickel Back の Savin’ Me と Someday。だから、この曲を聴くと東急ハンズの脇の道 ( 通学路 ) を連想します。因みに Photograph から連想するのはドミノピザ。この曲は高 3 の時、卒業するのが嬉しくて仕方なかったので、少しでも悲しいなとか切ないなという気分を盛り上げるために聴きました。他にも Paramore の Crushcrushcrush, When It Rains、Stacie Orrico の Stuck、 More To Life、 Rooster( 解散してしまった ) の One Of Those Days などなど好きな曲は沢山あります。高校生の頃はCDショップを一日に三軒ハシゴすることもザラでした。 さて、ようやく大学に合格し、片っ端から新歓イベントに参加しました。入りたいサークル&部活の候補は Wish、ダブルダッチ、チア (Youtube で見たのがそれはもう凄かったのです )、体操部。女子新入生のためのイベントでミラさんと初めてお会いし、「一生体操部にいたい。1 年の時から入っていれば良かった」 とおっしゃるのを聞いて、なんだか体操部に入れば間違いが無いような気がしました。結局、Wish の雰囲気が近寄りがたくて話を聞きに行けなかったのと、東大のチアは全然 Youtube のみたいではないと知ってがっかりしたこと、諸手続の日に体操部の練習に参加させて頂いて凄く楽しかったのとで体操部とダブルダッチに入り、今に至ります。もし、時間と体力とお金が 4 倍くらいあれば、スキー部とヨット部にも入っていただろうし、ずっと憧れだったドラムにも挑戦していたかもしれません。和太鼓やダンスも習ってみたかったです。でも、体操部は温かくて面白い先輩や同期の仲間が沢山いるので、本当に入って良かったと思っています。毎日が楽しくてたまりません。こんな私ですが、これからも宜しくお願いします。

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大木 健輔~体操と法律の対話~

はしがき

想定される読者諸氏(東京大学体操部 OBOG、現役部員)は、本稿のタイトルをみて面食らったかもしれないが、本稿は東大体操部 2006 年度入学の大木健輔による「卒部論文」である。しかし、「論文」との名に値するほど、何か一つのテーマについて真剣に考察を加えるものではない。以下では、「体操君」と「法律君」という、筆者の持ついくつかの人格の内の 2 つの人格があたかも独立した人間であるかのようにふるまい、その 2 人の対話を通じて、筆者の東京大学体操部における 4 年間の思い出を振り返ってくことになる。

思い出を振り返る前に大きく分けて 2 つのことを述べておく必要がある。まず、想定される読者諸氏に対する感謝の言葉である。東大体操部での 4 年間の競技生活を

無事に終了し、今こうして感慨深く 4 年間を振り返ることができる立場にあるというは、ひとえに体操部の先輩方、同期のみなさん、後輩のみなさんの支えがあったからである。4 年という月日を通じて、どれほどお世話になったことか計り知れない。謹んで感謝の気持ちを申し上げる。

次に、本稿が書く上で筆者が定めた「ルール」や、実際に書かれた経緯について述べておく。前述したとおり、本稿では「体操君」と「法律君」が対話をするという形式になっている。このような形式を採用した理由は、正に筆者の大学生活がこの 2 つの要素を中核にしており、しかもこの 2 つは時には協力し合い、時には離反するなど、対面関係にあったからである。つまり、両者を実際に対面させて自由気ままにしゃべらせるという対話形式は、大学生活 4 年間を振り返るという作業と最も適合的であった。事実、以下の対話では、お互いがお互いの真意をえぐり出すということに成功しているように思われる。また、2 人による対話は、合計 9 つのテーマから成り立っており、1 日 1 テーマと言うことで計 9 回の対談が行われている。実際に執筆する際も、1 日で 1 テーマを書き切るというルールを自分に課した。ただ、途中から、執筆のペースが乱れ、最後の方のテーマになると、1 日では書ききれず、複数日にわたって書かれたものもある。その結果、1 つテーマの中で叙述の姿勢がぶれていたりと、読者には読みにくくなってしまっているかもしれない。また、驚くべきことに、初回の対談から最終回の対談まで 6 カ月もの期間が経過してしまったため、一つの物事についての筆者の見解もあるときと別のときとではずれてしまっているかもしれない。このために、読者諸氏は結局何が言いたいのかといぶかしむかもしれない。この点は、広い心でご容赦いただきたいとお願いするしかない。そして、対話のライブ感を保つために、基本的には、明白な誤記を除いては、後日推敲を加えるということはしていない。後日談を付することがどうしても必要な場合には、注を利用することにし、後日談であることを明記するようにした。なお、本稿では注が頻出するが、これは筆者の性格上仕方のないことであり、これまた読者諸氏においては寛容な心で読み進めていただけるよう期待している。さらに、読者は、ところどころ対話としての性格から逸脱しているような記述があることに気付くだろう。妙に説明臭い箇所があるはずである。これは、筆者が自らは東京大学体操部の 2006 年か

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ら 2009 年までの歴史を後世に語り継ぐ使命を帯びていると(勝手に)自負したことによる。「生きて歴史の証人になれ」

1

と言うほど大げさなものではないが、なるべく客観的に歴史的事実を伝えようとした結果、対話の形式にそぐわない記述が散見されることになった。最後に、本稿のタイトルの由来であるが、ご存知の方はご存知であろうが、佐伯仁志=道垣内弘人共著の「刑法と民法の対話」(有斐閣)から拝借したものである。佐伯仁志教授は筆者の恩師であり、(教授が本稿に目を通される可能性はゼロであろうが、)佐伯教授にも本稿を捧げたい。

最後に、改めて東京大学体操部関係者の皆様にお礼を申し上げたく思います。本稿は、4 年間お世話になったすべての人たちに向けて書いたものです。皆様から受けた数々のご恩には到底及ぶべくもないでしょうが、本稿がささやかながらも感謝の気持ちをお伝えすることになればいいなと思います。また、まだお目にかかっていない 2010 年度以降入部の部員の方々にも、本稿を読んで大木健輔というジムナストがかつて東大体操部にいたことを知っていただけるならば、筆者にとってはこれ以上ない幸せです。

2010 年 7 月 七夕祭りに湧く杜の都にて 大木健輔

1  山崎豊子「不毛地帯」(新潮文庫)より。主人公壱岐正に、シベリアで自決をせず、凄惨なシベリア

抑留を生き抜き、日本へ帰還することを決意させた、谷川上官のセリフ。

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*対話の中では、話が行ったり来たりし、時間関係が分かりにくい。ここでは、大まかな読者の便宜のために大まかな年表を付しておく。適宜参照されたい

2006.4 東京大学文科一類入学、東京大学体操部入部同期 山本一久君、原加保里さん、山路茜さん当時の 4 年 佐藤丈太郎先輩、梁田将志先輩、与那嶺圭司先輩当時の 3 年 西岡賢一郎先輩、西川泰弘先輩、柳田絢加先輩当時の 2 年 小川和久先輩、榊原良介先輩、佐藤達之先輩、中村洋平先輩、森本明先輩、松本真歩先輩、西山枝里先輩

8 06 七大戦@大阪11 06 しもつき杯@玉川大学12 06 三校戦@東京大学2007.4 鈴木真志君、甲斐亘君、滝川寛之君、茂木隼君、西塚あすかさんが入部

島田皓一君(亜細亜大学)が帰国4 07 グループ予選@善行5 07 東日本インカレ@弘前6.16 ミーティング みんくる練誕生6 07 国体予選@滝野川体育館8 07 七大戦@京都(正確には大阪府の体育館にて)9 07 全日本インカレ@北九州(小川和久先輩が出場)10 07 新人交流戦@千葉商科大学11 07 しもつき杯@明星大学12 07 三校戦@京都12 主将に就任2008.2 民法第 1 部の試験で不可をとる4 那珂将人君、権賢人君、菅原壮君、ビートルバイジハダト君が入部4 08 グループ予選@東海村5 08 東日本インカレ@宇都宮 リザーブ 1 位となる6 練習せず7.12 二部練導入 ~ 9.14 まで8 08 全日本インカレ@熊谷(小川和久先輩が出場)8 08 七大戦@仙台11 08 しもつき杯@首都大学東京12 08 三校戦@横浜国立大学12 主将の任を終える2009.1 ~ 2 法学部定期試験。練習せず4 孫登昊君、松本陸君、中桐成美さん、魅良ヴァクホヴァさんが入部(以上 4 名は入部時点で

2 年生)、遠藤徹君、佐野淳一君、西村海君、夏目和人君、馬場祥吾君、桑村明佳さんが入部4 09 グループ予選@東海村5 09 東日本インカレ@宇都宮6 09 国体予選@東京工科大学8.29 09 七大戦@熊谷 競技規則作成の任にあたる11 東北大学法科大学院入試11 09 しもつき杯@慶応義塾大学12 09 三校戦@京都大学2010.3.6 追いコン4 10 グループ予選@宇都宮5 10 東日本インカレ@宇都宮

那珂将人君が全日本インカレ進出を決める

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1 日目 学生の raison d’etre について ―大上段に構えた議論

体操君 「こんにちは、法律君。今日から何回かにわたる対談で 4 年間の思い出について色々聞かせてくれるというので楽しみにしているよ。もちろん、こちらも言いたいことはたくさんあるから、きっと盛り上がることになるでしょう。実際何回かかるかは分からないけど、よろしく。」

法律君 「こんにちは、体操君。こちらこそよろしく。私の場合、実質をいうと、法学部 3 年生と 4 年生の二年間しか付き合っていないから、そちらが入学時から 4 年生の夏までというほぼ大学生活のすべてを通じて付き合いがあったのと比べると、時間的にはとても短い。」

体操君 「しかし、その二年間の密度たるや中々のものがあったんじゃないかな。大学生活 4年間を終えて、『自分は法律の専門家である』という矜持をもつようになったのも事実だろう?」

法律君 「それは間違いないね。法学部では定期試験が年に 2 回あるのだけど、その試験勉強は本当によく頑張ったと思う。もちろん大学院の入学試験に向けての勉強もね。ずっと法律の勉強をしていると確かに自分の中で何かが芽生えてくるという感覚はあった。それが、大学受験の勉強等では得ることができなかった、『法律的な物の考え方』というものなのかねえ…。そういう意味で、大学で法律を学んだことは確実に自分の中でブレイクスルーを引き起こしたというべきであり、その結果『自分は法律の専門家である』という矜持が生まれたのかなあ、と。」

体操君 「なるほどね。大学院の話が出てきたけど、君が法律の専門家=法律家として今後どういう風に法律と付き合っていくか、というのも今回の対話テーマの一つだから、その点についてはまた話そう

2

。」法律君 「せっかくの対話だから、一つのテーマについてそれぞれが対照をなすように語り合っ

ていこう。『法律家』の矜持についてはさっき話したから、『ジムナスト』の方はどうだろうか?」

体操君 「その前に一つ。言い訳するわけじゃないけど、この対話においては君より僕の方が圧倒的に不利な立場にあるということを説明する必要があると思う。それは、この対話が行われている時期のことだ。現在は 2010 年の 2 月。そして、僕が体操選手として現役だったのは、2009 年の 8 月 29 日(七大戦)までのことなんだ。この間、5 か月強の時間差があり、しかもその月日はほぼ法律の勉強にあてられていたと来ている。これじゃあ、体操より法律寄りな発言が多くなってきても致し方ないというわけだ。」

法律君 「ごもっとも。決して、私たちは論争をしているわけではないから、有利不利というのも違う気がするが、まあ、読者諸氏には、ある程度バイアスがかかっていることを差

2  今回の対話では、結局、話されることはなかった。他日を期す。

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し引きながら、双方の発言を汲み取ってもらいたいところだね。そうそう、この対話がどのような読者を相手にしているのかも冒頭で明らかにしておく必要がある。さしあたり、体操部OB会報に載せられるのだから、体操部OB・OG並びに現役部員のみなさんということにしておこう。よかったじゃないか、読者がそういう人たちである以上、その視線が気になって君に『不利な』発言はあまり出てこないと思うよ。」

体操君 「そうであるといいけど。で、『ジムナスト』の矜持だったね。もちろん、東大体操部の一員であったこと、そして曲がりなりにもインカレという全国の舞台を目指して練習に励んだこと、は今も昔も誇りに思っているよ。ただ、今現在の心境について言えば、やはり現役時代と比べると若干その評価は弱くなってきているかな。原因は何と言っても君の存在があまりにも大きいことだと思う。当然現役時代から感じていたことではあるけれども、『法律家』を名乗ることとは違い、大学生が『ジムナスト』を名乗ることには大義名分はないわけだからね。この点については第一の対話テーマと通ずるところがあるから、そろそろそちらに移ることにしよう。」

法律君 「学生の raison d’etre というテーマだね。面倒くさいので以下、レゾンデートルと読もう。フランス語だからアクサンを表記したいんだがワードだと方法がわからない。それはさておき、レゾンデートルの意味は、『存在理由』。学生のレゾンデートル何処という文脈で用いるときは、『存在意義』の方が個人的にしっくりくるから、必要に応じて使い分けていこう。」

体操君 「学生のレゾンデートルというのは、中々古めかしい議論だよね。私見によると、戦後から学生運動の時期にかけての大学生がよく議論してきたところと聞くけど、当然その議論の中に直接身を置いたわけではないから、詳細はよくわからない。便宜上整理するならば、なぜ学生であるのか、というよりは、学生とはどうあるべきなのか、何をなすべきなのか、国家・社会はたまた歴史に対してどのように関与していくべきなのか、というように学生の行動原理を追求していく議論であったように思う。念のためにもう一度言っておくと、21 世紀の一大学生が勝手にまとめたものだから、当時が実際にどうであったのかを正確に描出したものではないので悪しからず。

 しかし、学生のレゾンデートルから話を始めようとは、君は本当に頭でっかちなんだな。で、どういう筋合いなんだい?」

法律君 「頭でっかちなのは間違いないな、あと妙なところで細かい。そんな気質が体操の現役時代、とりわけ主将時代にどういう影響を及ぼしていたのかについては、また後で君に話してもらうとするよ。

 さて、学生のレゾンデートルはどこにあるのか?これは大学生活中絶えず頭の中を離れなかった疑問だった。もう少し正確な形で疑問文にすると、『大学生かくあるべしという見地に立ったとき、果たして運動会体操部で 4 年間を過ごすという大学生活のあり方は正当化されうるのか?』というものになるだろう。考えるヒントとして念頭に置いている大学生のモデルが 3 つほどある。これも私見による勝手な整理なのであまり本気にされると困る。

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 まず一方に①アメリカン・ロースクール型 3

、②旧制一高型 4

、というのがある。アメリカのロースクールの学生は本当によく勉強する(らしい)。そして、かつての旧制一高の学生も日本の将来を案じて日夜議論に熱中していたという(らしい)。おそらく目指す方向がスペシャリストか、ジェネラリストかで両者は異なっているものの、頭脳中心的な学生生活を送っていた点では共通する。ここが重要である。大学生のレゾンデートル何処、という問いに①か②をもって答えるならば、運動会体操部で4 年間を過ごすというタイプが正当化されうる余地は存在しないように思われるのである。

 しかし他方に③ケンブリッジ・オックスフォード型、言い換えるならば、文武両道型というのもある。成績優秀であるのを前提に、さらにラグビーやらボートやらに精進する姿が、正に学生のあるべき姿である、という主張も世間的には十分承認されるものだろう。

 ①・②と③のいずれかが理想形であるのかは、容易には答えが出せない。ただ私が、①あるいは②にシンパシーを抱いていたのは事実だった。それゆえ自分を正当化するために③という類型を作り出したという面もあるのかもしれない。対話なのに少々口数が過ぎてしまったが君はどう思うんだ?」

体操君 「まず、やっぱり類型化がテキトーだよね(笑)。よく考えるとわかるけど、①はグラデュエイトスクール、②は教養前期課程、③は学部専門課程、というように想定されている学生像はバラバラだ。だから、君の好きな学問的厳密さには欠けると思う。もっとも、学問的厳密さなんてここでは問題ではないよね。要するに、自分の日々の送り方に自信が持てなかったというのが重要なこと。それが、冒頭で僕の言った『大学生がジムナストを名乗ることに大義名分はない』ということに繋がってくるんだと思う。単純化かつ陳腐化して言うと、法律の勉強に熱心でも親から怒られることはないが、体操の練習に熱心だと『誰が学費を払っているのか』と怒られることがあり得るということだ。実際には、僕は親からそんなこと言われたことはないけどね。ちなみに同じような議論がなされるのが学生のアルバイト

5

。これも『わざわざ学費を払っているんだから、バイトなんてしなくても…』という親の心情につながる。」

3  ロバート・ルケティック監督「キューティ・ブロンド」(米国、2001 年)、ジェームズ・ブリッジス

監督「ペーパー・チェイス」(米国、?年)などが、アメリカのロースクールの様子を知るのに有益であ

る。ただ、「キューティ・ブロンド」はご存知の通り、ラブコメであるため、リアリティには欠ける(と

いうか、全く真実味がない)。

4  北杜夫「ドクトル・マンボウ青春記」(新潮文庫)、立花隆「東大生はバカになったか」(文春文庫)、

三日月章「一法学徒の歩み」(有斐閣)。「ドクトル・マンボウ青春期」は、一高ではないが、旧制高校の

雰囲気は伝わってくる。ちなみに、「一法学との歩み」によると、旧制一高の大講堂(現在の 900 番教

室?)には、菅原道真と坂上田村麻呂の肖像が左右に飾られていたらしい。これは、文武両道の精神を

表す。一高生に文武両道の精神が備わっていたとすると、本文のような類型化には、早くも綻びが見ら

れると言わなければならない(笑)。

5  中谷彰宏「大学時代 しなければならない 50 のこと」(PHP 文庫)は、アルバイトするな、と言う。

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法律君 「何の迷いもなかったわけではないことは確認できた。しかし、学業を理由に部を去る部員は結構いたけど、君はそうは考えなかったのかな?」

体操君 「正直、体操部をやめようと思ったことは一度もない。その代わり引退した瞬間に部には顔を出さなくなったけど。迷いを感じつつもやめようとは思わなかった理由はなんだろうね、ただ勇気がなかったからなのか、気づいたら主将に就いていたからなのか、あるいは結局のところ実は体操を続けることに積極的な意義を見出していたからなのか…。法律の勉強に邁進している人を見ると、とてもうらやましく感じていたのは事実だ。でもそういうときは『隣の芝は青い』と自分に言い聞かせて、自分を無理やり正当化していた節はある。法律君、君は本当に強敵だった(笑)。」

法律君 「今の評価はどう?」体操君 「問題はそこなんだ。曲がりなりにも体操に熱中していたころはどうにか正当化に成功

していたかもしれないけれど、その熱も冷めた現在から振り返ると、果たして大学生活 4 年間正しい過ごし方であったのか。悲しいことかもしれないが、胸を張って引退・卒部できるという感じではない…。もっとも、それは人が自分の人生を振り返るときに避けては通れない疑念のような類のものかもしれないし、結局どのように 4 年間を過ごしていても同様の疑問に突き当たった可能性は高いだろうね。そういう意味では結局、『隣の芝は青い』と言って自分を励ますしかないのかも。

 レゾンデートルの議論からは少し離れるけど、体操と法律の二足のわらじというのは格別辛いものだったかもしれない。東京大学法学部に身を置き、法律ないし頭脳で将来飯を食っていこうとする以上、レゾンデートル以前の問題として、事実上勉強はしていかなければならない。体操も勉強もとなると、僕の体は一つしかなく、時間も有限である以上、それぞれ中途半端になるおそれは常にあるわけだ。試験前に練習を休んだりすると、まじめに練習している後輩の視線が痛かったよ。僕は休むとなると徹底的に休んでいたからね。特に 2009 年の 2 月の試験前は、同時に 4 月・5 月の公式戦に向けての準備期間でもあったわけで、年末年始にかけてがっつり休んだのは、自分としてはベストな調整だったんだけど、客観的にはただただ中途半端に終わってしまっていたのかもしれない。ちなみにしつこいけど、今でもこの時期の休み方は、体操と勉強の間でのベストな調整方法であったと思っている。」

法律君 「あの 2 月の試験で一定の成績を収められてからこそ、法律に自信を持てた、そして、東大法学部でやっていく最低限の自信が持てた、ということだよね。後輩の視線が痛かったという話だけど、法学部生の視線も痛かったな…(笑)。被害妄想の可能性が高いけど、何をやっても『ま、運動会だし、しょうがないな』みたいなね。法学部でも『異端』、体操部でも『異端』、そういう 4 年間だったのかもしれない。私たちは不器用なんだよね、両者の間をうまくとっていくということができない。まるで、高倉健みたいだ。」

体操君 「高倉健ね…。最近ハマっているようだね。君がまじめでいけないのは、高倉健に憧れるのは大いに結構なんだけど、高倉健のような男が『本当に』実在していて、そして自分もそれになれる、と心の奥底で信じ込んでいるところなんだよな。映画の見過ぎっ

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てのも考えもので、いつの間にか自分の人生を歩めなくなってしまうかもよ。」法律君 「耳が痛い。映画については意外と大学生活の重要なファクターかもしれないから、今

度映画君も交えた対話をすることにしよう。」

2 日目 体操/法律を始めた理由

体操君 「対話テーマは山ほどあるから、一日一テーマくらいにしておいて、気長に数日かけて消化していくことにしよう。」

法律君 「急な決定だね(笑)。まあ、その日その日によって考えていることは違うから、文章上もそれぞれ別の日になされた対話であることを示しておく方が実態に即していていいかもね。今日以降の対話テーマだけど、とりあえず、時系列に沿っていこう。まず、

『なぜ、法律/体操を始めることになったのか』。」体操君 「昨日の対話で確認したことは、大学生のレゾンデートルという議論から出発した場

合、貴重な 4 年間を体操競技に費やすことには大義名分がなさそうで、法律の勉強に費やすことには大義名分がありそうだ、ということだったね。」

法律君 「うん。あくまでも『…なさそう、…ありそう』という言い方にとどまるのは、結局レゾンデートル何処という問いに確固とした答えを与えるに至っていないから、しょうがないことだろう。この議論を詰めていくには、きっと学生の歴史についての歴史的考察や、社会が学生に何を期待しているかという社会学的考察が不可欠だな、という風に今後の展望だけを示して終わりにしておこう

6

。」体操君 「レゾンデートルに絡む問いかけは、大学生活 4 年間の通奏底音をなしていたことは

間違いないけど、実は大学生活をどう過ごすべきかを決める決定的瞬間とは入学前ないし入学直後の時期に他ならない。したがって、この時期に大学生のレゾンデートル何処という問いかけが最も先鋭化するはずだった。しかし、入学当時、体操部入部を決めたときを振り返ると、そのような問いかけがなされた形跡すらないように思う。大した熟慮もなしに、体操を始めた

7

っていうのが本当のところだろうね。このときに、いやしくも熟慮を経たうえで体操という道を選んでいたのであれば、4 年間の過ごしかたは変わっていたのかもしれない。つまり、事前に、大学生活の大半を体操競技に注ぎ込むことに何らかの大義名分・正当化根拠を付与できていれば、迷いのない 4 年

6  実は、当初の論文テーマでは、正にこのような歴史的考察、社会学的考察を真正面から試みようと

目論んでいたが、いかんせん専門でないので、どうやって論文にまとめてよいのかわからなかった。次

善の策として、エッセイ風の対話から自分の思うところだけを述べるというスタイルに変更した。

7  正確には、筆者が体操というスポーツに初めて触れたのは、小学 4 年生である。教義として取り組

んだのは、大学からである。

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間を送ることができたかもしれない。もっとも迷いのないことがいいとも言えないし、そもそもおよそ大学生活の初めに何かを決定するという時に十分な大義名分を与えることなど果たして可能なのか、という疑問もある。」

法律君 「18 歳の男の子・女の子にこれから先 4 年間を確実に見通した上で予定を立てろ、というのも酷だよね。君の場合、とりわけ『隣の芝』に惑わされやすい人間だから、どんな熟慮を経ていても、日々迷いに打ちひしがれていただろうね。」

体操君 「ただね、何の問いかけも持たないまま安穏と大学生活を始め、そして過ごしてしまうよりは、やっぱり何か常に自分を反省する契機をもっていてほしいんだよね。急にお説教っぽくなるけど、東大体操部に入ってくる新入生にはできれば大学生のレゾンデートルにまで遡った問いかけをしてみてほしい。」

法律君 「あらら、私たちがお説教できる立場にいるとは思えないけど、まあ言ってしまったものはしょうがない。レゾンデートル云々を考えるヒントは、色々な映画や書物にあるように思う。この対話では参考文献として注の中でなるべく多く紹介していくことにしましょう。

 さて、体操を始めた理由だけど、全く理由がないってことはないだろう?」体操君 「熟慮がなかったことはさっきも言ったけど、それでも何か理由があるとしたら、まず

動作が単純に面白かったこと、それと上手くなれそうな予感がしたこと、かな。」法律君 「昨日から今日にかけて色々理屈ばかりこねまわしてきたけど、ここに至って随分普通

な発言がでてきたね(笑)。上手くなれそうな予感がしたこと、っていうのはそんなに大事だったのかな?」

体操君 「ときどき思っていたんだけど、もし試合でレギュラーになれない状況が長く続いていたならば、僕は体操をやめていたかもしれない。えらくわがままに聞こえるだろうが、僕が体操をやっていて一番幸せを感じたのは、試合でいい結果を収めたときだ。究極的に言うと、ある試合で前の試合よりもいい得点を出すこと、前の試合よりも高い順位にいること、が最高の幸せを得るための必要にして十分な条件だったと言える。」

法律君 「まず必要条件ということだけど、よく言われる『技ができた時の喜び』というのでは、最高の幸せを得るには足りなかったのかい?」

体操君 「やっぱり試合でいい結果を出さなければダメだったのかなあ…。そう言われると自信がないね。確かに、アドラーができたとき、ピンコが上手く収まるようになったときの喜びは格別だった

8

。でも…、現役当時は『インカレに出場』という一つの物語を完成させることが、体操競技生活・大学生活のゴールであるように思っていた節もある。結局ハッピーエンド・バッドエンドを決めるのは、試合の良し悪しに係っていたのか

8  できて嬉しかった技ランキング(ここでいう「できた」の基準はすごく甘い)

 1 位 アドラー

 2 位 ホンマ(ね、甘いでしょ)

 3 位 ホップターン(激甘)

 4 位 鉄棒のダブル

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もしれない。」法律君 「『物語』という表現が意味深だね。これについては私の方も言いたいことはあるから、

また後日話をすることにしよう。で、十分条件と言うのはどういうことなんだい?」体操君 「当然のことながら必要条件についての議論と裏腹になるわけだけど、『試合の結果さ

えよければそれでよい』という短絡的な思考に、気づくと陥っていた。さらに踏み込んで正確に言うならば、『この試合の結果さえよければそれでよい』ということになる。こういう考えが無意識的にせよ持たれていると、まず目先の技ばかりに囚われるようになる。とりあえず技数を増やす、とりあえず特別要求をとる、という風にね。気づくと、発展的な技を覚えるのに必要な『基礎』というものはどこかに行ってしまっている。」

法律君 「ただ、それが点をとるためには最短距離であるとも言えるよね?」体操君 「その通り。実際に、技数・特別要求をそろえることでかなりの点が出るようになり、

当然結果もついてきた。全種目で 8 技(現在の国内規則だと 7 技)そろえるというのも決して容易ではない、点を踏まえれば十分誉められてもいいかもしれない。ただしかし、ここで一人の体操部員の存在を挙げなければならない…。」

法律君 「この対話で私たち以外の人物を出すのは初めてだね。とにかく悪く言わないように気をつけてくれよ。こんなところで陰口をたたかれた場合、彼には反論の自由がないのだから全くフェアじゃない。」

体操君 「陰口を言う気なんて毛頭ない(笑)。その部員とは、僕が 3 年になったときに入部してきた那珂将人君のことだ。彼は本当によく練習していたし、何より僕と違って基礎をちゃんと固めようとしていた。彼は自分がいつ発展的な練習に取り組んでいくのかもしっかり計画しているようだった。徒に技の習得に向かっていった僕とは全く対照的な姿だったと言えるだろう。他方当時 3 年生の僕はと言うと、ローマクラブじゃないけど『成長の限界』(笑)。ツカハラが伸身にならない、吊り輪の翻転の肘が伸びない

9

、鉄棒の下りがひどい、あん馬の旋回はもっとひどい(そのくせ、リアが構成に入っていたというのがここでのポイント)。要するに、那珂君の体操にどんどん上手くなりそうな可能性を見るにつけて、僕は急速に自らの体操に対する自信を失っていったというわけだ。3 年生の後半は、このまま基礎なきところにごまかしを積み上げていっても何にもなりそうもない、しかし基礎に戻るというのは時間的にもそして何より心情的にも許されそうにない、という陥穽に見事にはまってしまったようだった。もう御承知かもしれないけど、僕は何かの概念、状況、心情等を表現するとき、象徴的にキーワードを多用する。当時僕が自分のおかれた状況を表象するのに用いていたのは『Point of No Return』。偶然、ケミストリーの名曲の一つに同じタイトルのものがある

10

が、意味は『帰還不能点』。良い結果が出ないことはわかっているけど、もう引き返せない、

9  ツカハラが伸身にならない、吊り輪の翻転の肘が伸びないというのは、いつか小川和久先輩が言っ

ていたところによると、結構よくある「壁」らしい。

10  「な〜つくさが〜、な〜がれて〜く〜♪」の曲である。

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そういう状況を表象するにはピッタリだったのではないかな。」法律君 「時期的に言うと、2008 年七大戦、しもつき杯、三校戦のあたりかね。けど、2008

年しもつき杯は 4 年間で最高の大会だったと評価しているんだろう?」体操君 「キャリアのピークだったように思う。しもつき杯を境にツカハラ跳びを失うというエ

ピソードもあるのだけど、これは先ほど来話してきたこととは別の原因だね。4 年目は惰性になってしまったというのが正しい評価な気がするなあ…。」

法律君 「時系列に沿っていこうという話だったけど大分先走ってしまったね。ツカハラ跳びを失うというエピソードについてはまた今度。

 さて、今度は法律を始めた理由という話だな。今日の最初の整理によれば、法律を始めることには大義名分がありそうだ。まあしかし、入学した段階で法律を専門にしようと思っていたかと言うと、必ずしもそうとは言えなそうだね。漠然とした進路には定められていたけど、ちゃんと勉強をしていたわけではなかった。やはり法律が出てくるのは 3 年生夏学期あるいは少し前の 2 年生冬学期専門科目試験からかねえ。そちらと違ってこっちはあまり話すことはないな。多分、学生のレゾンデートルをめぐる議論で君の相手を演じる以外に、私の出る幕はこれから先はあまりなさそうだ。体操部の卒部論文だから、それで大いに結構ということでしょう。」

体操君 「聞き手に回ってもらうことが多くなるだろうけど、よろしく。」

3 日目 2006 年・2007 年 ―教養学部とみんくる練

法律君 「さて、今日は 2006 年 2007 年の活動状況について話してもらおうかな。ちなみにこの 2 年間は大学のスケジュール上は教養前期にあたる時期だから、当然私の方は何もないよ(笑)。」

体操君 「教養時代は何を勉強していたんだろうね?いわゆる『教養』は身についた?」法律君 「総じて言うと、特に勉強していなかったようだね。色々な授業に出てはみたけど、教

養学部の授業を消化するだけでは、『教養』は身につかない、というのが僕なりの結論だ。そもそも、『教養』の意味も明らかにされないままに、教養学部やリベラルアーツの名前だけが独り歩きしている感さえある。まあ、少なくとも『惑星地球科学(文科生)』を 2 単位履修したところで、惑星地球科学の『知見』が身につくということはあり得ないね。ある分野について最低限の理解を得るのにも、体系的で反復的で十分な長さをもった学習過程を経る必要があるだろう。したがって、『教養』にいかなる意味を与えるとしても、教養前期課程で『教養』を身につけるのはとても困難なことだと思うよ。」

体操君 「なるほどね。『教養』の意味を、『自分の専門分野の研究をしているときに、ふと昔学んだ他分野の知見が思い浮かんで、それが何かのアイデアの素となる』程度にまで薄めれば、ひょっとすると別の理解が可能かもしれないね。」

卒部論文

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卒部論文

法律君 「一応、この対話の読者には、まだ教養前期にいる体操部員も想定されているから、教養前期の身の処し方についてアドバイスしておこう。」

体操君 「体操について語るときの僕の控えめな態度とは違って、随分上から目線だね(笑)。」法律君 「こっちはある意味学生の『プロ』だからね。大学院に進学することになったから、少

なくとも 25 歳まで学生であることが確定したし、司法試験まで数えると 4 回も大きな受験を経験した/することになる。試験でいい成績を収めることで何とかここまでやって来れたといっていい

11

。  で、アドバイスだけど、まずさっさと自分の専門を決めてしまうことだろう。何を

学ぶにしても、自分の中に、雑多な知識を秩序立てる何らかのシステムが用意されている必要があるように思う。そのシステムは暫定的なものでもよく、必要に応じて変えていってもいいのだけど。何にせよ、何か知識を受け入れようとするとき、それを受け止める秩序がなければ、知識はすぐに忘却されてしまうだろう。私の場合は、法律学が専門だったので、法律を学ぶときはもちろんのこと、経済、社会等々を眺めるときには常に法律的な見方をすることになる。」

体操君 「法律的な見方、っていうのはどうもピンとこないね。まだ、あまり煮詰まっていないんじゃないか?」

法律君 「そうかもしれない。ただ、教養前期のカリキュラムが決して体系的に秩序立てられたものではない以上、そのカリキュラムを受ける学生自身が独力で自分の中に秩序を作らなければならないというのは真実である気がする。自分の経験に基づいて言うんだけどね。

 あとは、大学の内に読みたいと思っている本は、悪いこと言わないから今すぐ買って読んだ方がいいということかな。今すぐね。3 年生、4 年生になると読んでいる時間はないからね

12

。」体操君 「どうもありがとう。さて、体操の方に話を移そう。  2006 年というのは 1 年生のときで、2007 年は 2 年生のときだった。まず、1 年生

のときだが、毎日をしのぐのに必死だったようだ。鉄棒でしょっちゅう手の皮がむけていたと記憶している。しんぴも上がらなかったし。当時の体操ノート

13

を読んでみると、ひたすらやりたい技が書いてある。ただ具体的な練習方法についての記述は驚くほど薄い。当時から、大きな目標は立てられるが、具体的なレベルだと目標を設定できない、という傾向はあったみたいだ。

11  とりわけ記憶力の良さで生きてきたという自負がある。筆者と同じような自負を持つ人にお勧めな

のが、堤幸彦監督「明日の記憶」(2006 年、日本)である。若年性アルツハイマーを発症したやり手の

中年広告マンの話だが、記憶を失うということの戦慄がまざまざと伝わってくる。このような戦慄を味

わうプチ体験として、飲みすぎて記憶をなくす、というものがある。これはお勧めできない。

12  大学院まで来てしまうと、なお時間がない。

13  現役部員であられる後輩のみなさんには、体操ノートをつけることを勧める。卒部論文が書くのが

楽になる(笑)。

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 で、2 年生のときなんだが、グループ予選@善行、東日本インカレ@弘前は飛ばして、2007 年 6 月 16 日という日を振り返らずにはいられないだろう。この日、ミーティングを行うはずだった東大体操部

14

は、当時流行していた麻疹の影響で駒場キャンパスではミーティングを行うことができず、農学部は弥生キャンパスのとある研究室でミーティングを行うことになった

15

。2007 年以前に入学した当時の現役部員においては、この日をある種のターニングポイントと位置付ける人も多いのではないだろうか。」

法律君 「いわゆる『みんくる練』 16

が始まった日だね。その呼称はともかく、『みん』なが練習に『くる』そしてみんなで練習する、という全体練習が導入されたというわけだ

17

。ただ、あ

14  当時の主将は、小川和久先輩。

15  当時の全部員がそれぞれ「よりよい部にするには?」について意見を言った。面白く、ひょっとし

たら後世の部員の参考になるかもしれないので、ここに掲載する。なお、内容は私のメモによるものな

ので、記述の信頼性については注意を要する。敬称略

 佐藤 ( 達 )・みんなで補強がイイ!!・みんなで飯食いたい

 榊原 ・間延び、メニューを決める・ミニ試技会を頻繁に

 中村 ・新技への姿勢が目標モチベーションを生む(例:ツイスト)

 茂木 ・1 年生で女子がほしい

 鈴木 ・声出し、ダメ出し、指導ほしい(1 年生)

 西塚 ・あいさつ

 山路 ・全体補強の復活

 甲斐 ・カメラを積極的に

 西川 ・聞きにきてほしい、「見ててください」とか

 森本 ・時間厳守、礼儀、マナー

 小谷野・8:00 くらいに来て何かやりたい

 滝川 ・人の顔と名前が覚えられない、みんなで補強

 松本 ・時間厳守、締切厳守、大会のゴミ、技の美しさをみんなで求める

 山本 ・ビデオを使う、通し(ビデオ)

 原  ・目標設定、紙を貼る、共有しその報告会

 西岡 ・柔軟、下の学年からもダメ出ししてほしい

 柳田 ・間延びしないメニューを、セットカットの指示出し

 西山 ・床を長めに

 *小川先輩は司会のため、記載なし。筆者の意見は注 18 に記載あり。

16  2010 年現在、いまだにこの呼称が現役部員に用いられていることには驚きを隠せない。実はこの

呼称を最初に用いたのは他ならぬ筆者であるのだが、当初はその響きの拙さゆえに人前(特に他大学体

操部員の前)で口にするのは憚れた。しかし、「みんくる練」が 3 年目を迎えようとしている今は、かえっ

て末永くこの呼称を引き継いでいってほしいとの思いを抱くようになっている。なお、みんくる練の誕

生につき興味のある方には、小川和久「卒部論文」(東大体操部報 109 号 83 頁以下の「主将と構造改革

〜みんくる練の作られ方」の一読を勧める。

17  当時は男子限定スタート。女子は 2008 年 1 月から。それゆえ、制度開始時には、「お」とこがい「っ

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まりその画期性を強調するのも、東大体操部の長い歴史からみると考えものかもしれない。2007 年当時から見たときに、数年間全体練習の制度がなかったというだけで、決して創部以来全体練習がなかったというわけではないし、2007 年付近を見ても導入の動きはあったようではある。」

体操君 「それはおっしゃる通り。6 月 16 日のミーティングでは、全体練習の導入もさることながら、長期休暇の午前練の導入、JISS(国立スポーツ科学センター)練習の導入、器具セットの見直し、がなされるなど、東大体操部のありかたについて色々考えさせられるきっかけになったように思うよ。」

法律君 「君は、そのミーティングにどう関わったのかな?」体操君 「当時の小川和久主将から申しつけられて、色々と提案事項を考えてみた

18

。ただ、当時の幹部学年の方たちが本当に真剣に取り組んでいて、僕の出る幕はあまりなかったかな。ミーティングで決定された各事項については僕は全面的に賛成の立場で、幹部の方たちが実現しようとしたことについては、大きく力を貸すことができたと自負している。午前練のときは、いつも鍵を開ける係だったしね(笑)。」

法律君 「当時の幹部学年は、幹部に上がるときに、とことん部のことを真剣に考えたようだったから、頼もしく見えたのだろうね。」

体操君 「今思うと、あのミーティングがああもドラスティックかつスムーズな変化をもたらすことに成功したのは、事前に濃密な議論が積み重ねられてきたことに負っているのではないかな。僕が主将になったとき、小川先輩に教え込まれた重要なことの一つに、

『根回し』『政治』の重要性というのがある。事前に、あらゆる部員の忌憚のない意見を引き出しておくこと、そして利害の調整がうまくゆくように落とし所をさぐっておくことは、正に『根回し』『政治』というにふさわしいだろう。小川先輩はその点に卓越した能力を持っていたように思う。だから、6 月 16 日という日が一つのターニングポイントになり得たのかな、と。」

法律君 「『根回し』『政治』だけど、君はどうだったの?」体操君 「僕は全く駄目だったね(笑)。ある政策を打ち出そうとするとき、抽象的にはどうい

うメリットがあり、どういうデメリットがある、ということは理解できるんだけど、現実の部員の『声』を聞いていたとは思えないな。ここで具体的に念頭に置いているケースは、2008 年夏の『二部練』導入の際の話だけど、このことはまた今度話すよ。『二

ぱい」練習にくるから「おっぱい」練だ、という呼称案もあった。しかし、「みんくる」練という対立候

補に敗れたことは本文のとおりである。

18  私が提案する予定だった事項は以下の通り(実際に提案されたかはノートからは不明)

  ・レスポンスが遅い・全体補強柔軟(個人の時間が減るというジレンマ)・OB との関係(OB は現役の指導者であるべき)・合宿のあとの打ち上げは必要か?・なぜ合宿は栗東になったのか?・大前提として良い部活とは勝つ部活であり、勝つために努力をする部活である、それを共有してさえいれば、あとは個人の判断に委ねられる 私の人格が浮かび上がってくるようだが、評価はみなさんに委ねる。

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部練』の評価については、今まで目を背けてきた節があるけど、卒部という段階に至って、ちゃんと清算はしておくつもりだ。

 東大体操部員は、そんなに人数も多くない。全員の『声』を聞くことは十分可能だと思う。僕以降の主将にはその点を踏まえた部の運営をしてもらえると嬉しいな。」

法律君 「また、先走ることになるかもしれないけど、君が考える主将の条件とは何だろうか?」体操君 「いや、主将になったのは 2007 年の 12 月で、十分今日の対話の範囲だから話してし

まおう。まず、僕は自分から主将に立候補したわけだけど、それは、主将は一番体操の上手い人間がなるべきで、手前みそだが僕の学年では僕が一番体操の上手い人間であろう、と判断したことによる。なぜ上手い人間がなるべきかと言うと、僕が考えていたところを端的に表現すると、『主将がレギュラーじゃないのはまずいだろう』ということ。何がまずいかっていうと、他大学から見た『体裁』ということなんだろうか…。

 しかし、およその物事について言えることだけど、多くの場合、見てくれより中身の方が大事だろうね。そうすると、主将たるには、さっき言った『根回し』『政治』の力が、体操が上手いことよりも、ヨリ重要ということになるだろう。そのことには、主将を数カ月経験してからやっと気づくことになったよ。」

法律君 「なるほど。対話の内容はもう 2007 年の終わりにまで来てしまったようだけど、言い残したことはない?」

体操君 「2008 年東日本インカレの重要な伏線となった、07 東日本、07 国体予選、07 七大戦、07 全日本(インターンシップ

19

)、07 新人戦、07 しもつき杯、07 三校戦があった。完全に時間軸に沿って話すより、項目ごとに分けた方が話しやすいから、試合関係はまた今度別にまとめて話すよ。」

法律君 「『また今度』が多くて、どんどん借金が膨らんでいるような気がするけど…。」

4 日目 2008 年―「リザーブ 1 位」まで

体操君 「今日の対話テーマは 2008 年と銘打っているけど、2008 年の東日本インカレを中心として、僕の競技選手としてのキャリアの推移を見ていこうと思う。」

法律君 「2009 年にも東日本インカレはあるけど、あえて 2008 年が中心になるというところが興味深いね。では、どうぞ。」

体操君 「話の始まりとなるのは、2007 年の東日本インカレ@弘前だった。一か月前のグループ予選で、僕は初めてレギュラー入りを果たし、団体としても平穏無事

20

に東日本への

19  小川和久先輩の補助について、全日本インカレの空気を体験することになったため、翌年に備えた

「インターンシップ」であった。

20  あまり平穏無事ではなかったかもしれない。資料がないので正確な点数は分からないが、東大は午

前班で、午前班の演技を終えた段階で、午後班の内一つのチームに勝てれば通過という状況だった。そ

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通過が決まっていた。2006 年に東大体操部は東行きを逃していたから、2 年ぶりの東日本ということになる。まあ、この東日本の演技自体にはこれと言って思い出はなく、小川先輩が順当に全日本出場を決めた、というくらいだろう。しかし、試合終了後東京へ戻る夜行バス待ちの時間に、小川先輩に全日本での得点計画表を作成する作業を覗かせてもらったことが、今振り返ると運命的な瞬間だった。    

彼のやっていた作業とは、まず目標を達成するためのスコアを設定し、そこから減点済みのBスコア

21

を控除する、そして残った点数が目標達成に必要なAスコア 22

(価値点)ということになる。あとはこのAスコアを達成できるように、技の練習プランを立て、それを消化していく。

 大体Bスコアは演技構成によらず計算できるもの、という前提が必要になるものの、考え方としては誠に理にかなっているように感じられた。『審判にこんなに点もらっちゃった、ラッキー』ではなく、『はい、こういう演技だから、このくらいの点をちょうだい』というのが体操競技なのだ、という体操競技の根本原理を叩き込まれたのであった。」

法律君 「それまでの君からすると、コペルニクス的転回だったわけだ。もっと言うと、コペルニクス的転回一回ひねりかな(笑)。」

体操君 「何にせよ、その日僕は何かしらの目標を達成するための手段を獲得した。あとは、肝心の目標を定めるだけだ。」

法律君 「それが全日本インカレ出場というわけだ。目標とするなら公式戦がいいし、東日本はすでに出場していた、となるとその時点での成績はともかくとして、全日本出場が目標になるのは当然の成り行きだったのだろね。」

体操君 「そういう経緯で、全日本出場のスコアを計算し始めた。ノートによると、設定してた目標スコアは、68 点。内訳は、床 12.5、あん馬 10、吊り輪 11.5、跳馬 13、平行棒11、鉄棒 10 で、吊り輪と跳馬が結構非現実的だったかな。ちなみに結局翌年 2008年東日本インカレの通過ラインは 66.2(北海道大学寺岡選手)だったから、そんなに大外しはしていなかった。

 2007 年東日本の得点は 56.45 だった。とにかくその時点では技数、要求がなかったので技数、要求を揃えることが必須で、ある意味練習計画は立てやすかった。」

法律君 「技数、要求の取得にまっしぐらだったようだけど、その功罪については以前の対談で少し触れられたところだね。続けて。」

体操君 「2007 年東日本以降も試合は続いていった。6 月の国体予選@滝野川体育館ではネコ宙を試し、9 月の七大戦@大阪では屈身ツカハラで立つ。試合のたびにちょっとずつ技を増やして、その都度全日本出場計画にも微修正を加えていった。10 月には新人

して、ふと午後班を見ると文教大学が団体割れしていて、そのおかげで東大の通過が決定した、という

経緯だったと思う。当時、既に復帰していた西川泰弘先輩いわく「あまりにも感動的でない通過の仕方だ」。

21  現行ルールでは、Eスコア

22  現行ルールでは、Dスコア

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戦@千葉商科大学があったが、これは公式戦の審判の目の前で演技を行い、かつ、出場選手も翌年の東日本に出てくるようなメンバーが揃っていたから、東日本インカレの『プレ模試』のような気持ちで臨んだ。結果は 60.95。全日本インカレの個人の出場枠は 12 人だけど、新人戦の時点では自分の上にもっと点の取れる選手がいた。小川先輩の評価によると模試の結果は、『E判定』であった。そして、試合はしもつき杯、三校戦へと続いていく…、リアなしであん馬は通りそうになってきたし、鉄棒もツイスト・車輪宙を入れて技数が揃った。アドラー、吊り輪の翻転倒立が出てくるのは 2008 年に入ってからだね。リアは結局東日本に間に合わなかったけど、一年間で順当に技数、要求を揃えてきた感じではあった。」

法律君 「2 点指摘しておきたいことがある。一つは、君に有利な方向で、もう一つは君に不利な方向で。

 まず、有利な方向だけど、今の話だと君は完全に自分のことしか考えていなくて、団体戦の結果にはてんで無関心だったかのような印象を受ける。けど、そんなことはないだろう?弁解のチャンスをあげるよ。」

体操君 「どうも(笑)。もちろん、どんな試合にも団体の目標というのはあった。七大戦、しもつき杯、三校戦はもちろんすべて団体優勝を目標にしていた。そもそもは、2007年の東日本インカレの演技前夜に当時弘前に来ていた男子部員で集まって、『全日本インカレ団体出場』の目標を掲げ、どうすれば目標を達成できるか話し合ったのが2007 年・2008 年の東大体操部の原動力であったと言っていい。2010 年現在、東日本各大学の戦力を見ると、とてもおそれ多い目標のように感じられる

23

が、2007 年当時はその目標を本気で信じられる素地があった

24

。東大体操部員の当時の実力は、小川先輩、西川先輩の順で、次に森本先輩・大木が並んで続くというような感じだったが、大木が全日本に個人出場できるレベルになれば、団体出場も計算上は達成できるはずだ、というように僕個人の目標は東大体操部全体の目標達成と連動するものであった。

 どうしてかくも巨大な目標を信じられたかというと、他ならぬ主将の小川先輩が『団体出場』に固い信念を抱いていて、しかも緻密な計算によってその信念を形あるものにしてくれたのが大きいだろう。理論的には、先程述べた目標スコアの計算をそのまま団体戦に応用すれば、確かに団体出場のために各部員が何をすればいいかということが出てくる。しかし、実際に計算してみようとすると、まず通過ラインが計算しにくいし、各部員の潜在能力をどこまで計算していいかわからず、並大抵のことではない。それを可能にしたのは、小川先輩の情報力、競技経験、部員の潜在能力を適切に見極める分析力、であったのだろう。」

法律君 「随分長い弁解だ。まあせっかくそこまで語ってもらったからついでに聞くと、『団体出場』の火は、2008 年以降も引き継がれることはなかったのかな?」

23  2009 年東日本インカレで慶応義塾大学が青森大学を上回ったため、2010 年全日本インカレに団

体出場するためには青森大学に勝たなければならない。

24  慶應義塾大学に田中大基選手が入部したのは、大きな誤算であった。

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体操君 「残念ながら、まず 2008 年で西川先輩 25

、小川先輩、森本先輩が抜けてしまい、戦力ダウンは否めなかった。それでも僕が主将として声高に『団体出場』を叫ぶことは可能であったが、客観的な数字を前に全くトーンダウンしてしまう。『団体出場』の火を伝えていくことができなかったのは、先輩に対しても後輩に対しても申し訳なく思う。

大分脇道にそれてしまったが、もう一つの僕に不利な方向での指摘というのは?」法律君 「不利な指摘をせざるを得ないのは、しゃべっているうちに盛り上がってしまったの

か、若干君の記憶が美化されていたことだね。すべて計画通りで 08 東日本インカレを迎えられたように言っているけど、本当はどうだろうか。君の話にはまだ出てきていないけど、08 東日本以降の話をすると、2008 年 6 月、2009 年 1 月、2 月と君は大きく練習を休んでいる。そしてその期間に相当程度の技を失っているのも事実だ。さらに別の観点から指摘すると、08 東日本、09 東日本を通過できなかったのは、『結局本質的にあん馬が上手くならなかったからだ』というまっとうな批判がある。綿密に計画を立てていたようで、あん馬の存在を見落としている節はなかっただろうか?鉄鞍均の練習時間に、ついつい鉄棒に時間を割いてしまうとかね。」

体操君 「痛い指摘だ。特に 2008 年の東日本以降にあてはまる。これから 2008 年東日本の結果とそこから 2009 年東日本に至るまでを話すけれど、あまり美化しすぎないように気をつけるよ。」

法律君 「では、08 東日本インカレの結果を聞こう。」体操君 「忘れもしない 65.75 点。通過ラインは先ほども言ったように 66.2 点。順位でいうと、

個人通過枠が 12 人に対し、13 番だった。いわゆる『リザーブ 1 位』ってやつだ。ここまで善戦できたのは正直を言うと意外で、2007 年から 2008 年にかけての勢いそのままに出した得点という感じがする。だから、悔しいとかそういう感情はないはずなんだが、これだけの僅差だとついつい『平行棒の移行で足が割れなければ』と思ったり(本当は大過失が一つだけということも自分には中々ないことなのにその 1 つの大過失が気になりだす)、しまいには『リアが入っていれば』とないものねだりを始める始末であった。結局、宇都宮の街中で号泣してしまった。」

法律君 「その夜は色々大変だったね。西川先輩も惜しくも全日本出場を逃し、そのまま引退することになったわけだが、カラオケで大暴れしていらっしゃった(笑)。」

体操君 「カラオケでまだ打ちひしがれていた僕に向けて(そう、きっと僕に向けて)、佐藤達之先輩が歌って下さった『栄光の架け橋』を聞いて、感動のあまり翌年に向けての決意を固め奮起した僕は金も払わずカラオケからホテルに帰ってしまった。」

法律君 「感動的な光景ではあったけど、金を払わないのはまずいよね。」体操君 「リザーブ 1 位という結果があまりにも劇的すぎて、これより先一年間、僕は何か自

分が『物語』の渦中にいるような感覚に包まれ続けることになる。仮に、リザーブ 1位からの逆転劇が果たされれば、『物語』としてはこれ以上ないハッピーエンドだろう。きっと最後は『全日本出場』を果たせるはずだ、というどこか危うい楽観気分が僕に

25  留年しておられるため、引退試合とされた 2008 年東日本インカレの時点では、5 年生であった。

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試合結果

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はあったのだった。それがどうなるかは、結果を見ればわかるだろう…。  今日は大分話したから、08 東日本から 09 東日本までの話はまた次回にしよう。」法律君 「この対話は決してストーリー仕立てではない。だから君が 09 東日本の結果を『To

be continued…』にしようとするのは許さないぜ。結果を言ってしまうと、09 東日本も全日本通過はならなかった、しかも 12 人の枠に対して 18 番くらいだったか前年より大きく後退する形で。」

体操君 「うーん、一応謎めかしておこうとしたのに、やられてしまった(笑)。次回は、結論が分かっている以上、なぜそうなったかという分析を中心にみていこう。」

5 日目 2009 年―リザーブ 1 位から

法律君 「さて、前回の対話から大分日が経ってしまったね。っていても読者諸氏にはまるっきりわからないだろうけど。せっかく前回はスムーズに次回へ続けられるような終わり方をしたのに残念だ。」

体操君 「どうしても対話ばかりしているわけにはいかないからね。君は君で勉強が忙しいだろう。現在僕なんかは多くても週一回しか役割を与えられていないのだが、最近は僕の代わりに荷造り君

26

というのが出てきて困る。」法律君 「では、2009 年東日本インカレ@宇都宮(前年と同じ会場)の結果を分析してもらお

うか。2009 年は大学の制度上でいうと、3 年生の冬学期から 4 年生に至る時期であり、そろそろ私の出番が増えてくるかもしれない。」

体操君 「ようやく勉強し始めた時期だものね。3 年生の夏学期試験は結局、ほとんど受けなかったし、受けたとしても全日本インカレの打ち上げでオールした後、試験会場に行くとかそんな始末だった。まあ、一年後につけが回ってくるわけだが。

 さて、前置きとしてやはり 08 シーズンから話さなければならない。08 東日本@宇都宮以降、何をしていたかというと、まず休んだ。シーズン中に休むなよ、という批判を浴びながらも 3 週間ほど休んだ。東日本の前は、講義の合間にNTCで練習して、夕方からはトレ体で練習したりしていた

27

から、反動で体操のことを忘れたくなったのかもしれないし、あるいは別の理由かもしれず、よくわからない。僕は一見まじめに見えるから意外に聞こえるかもしれないが、実に気分屋な人間で長期の計画を立ててそれに忠実に行動していくというのは大の苦手なのだ。今思うとこの東日本直後の『理

26  筆者は 2010 年 4 月より東北大学法科大学院にて学ぶことになったため、杜の都への移転を計画実

行中である(2010 年 3 月現在)

27  NTCとは、NationalTrainingCenter の略称。ちなみに、トレ体の練習の前にNTCで練習したり、

本来講義の時間中にNTCで練習したりするのは、最近の東大体操部員にはよくある行動である。(後注)

2010 年 7 月現在、日本代表長期合宿のため、NTC は使用できないようである。

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由なき休養』が全日本インカレ出場への躓きを象徴していたのかもしれない。当時の本人としては、全日本の出場ラインから演技構成を計算したり、出場のためにライバルになる人間をマークしたりしていて、もっともらしい計画を作ってはいたから、なんとなく大丈夫と思っていたけど、落ち着いてみてみると無計画性の綻びがいたるところに存在していたのだろう

28

。」法律君 「気分屋っていうのは、こちらの耳が痛くなるほどよくわかる(笑)。朝起きて気分が

乗らなければ勉強はしないしね。その代わり、勉強するときはとことん集中してできるという自負があるから、ぎりぎり平均点を超えているのかな。」

体操君 「君が気分屋っていうのは人生において障害になりそうだから、是非直してほしい。無計画性という『隠れた瑕疵』を抱えながらの、『危うい楽観主義』

29

、それでも公の場では『インカレに行きたい』と堂々と言ってのける。しかし実は、試合の成績それ自体は目標を語るにふさわしいものであったかもしれない。08 七大戦@仙台での個人総合入賞、08 しもつき杯での個人総合入賞。特に後者は、翌年の東日本インカレに出場する選手も多い中での入賞であったから、インカレ出場レースで割といい位置にいることがわかった

30

。そしてしもつき杯では伸身ツカハラを初めて決めるという収穫もあった。成績自体を見ていくと、それぞれの試合で自分の限界を突き破り、徐々に目標へと近づいていくように見えなくもない、というより『物語』はハッピーエンドに向かって一直進していたと言ってよいだろう。」

法律君 「そして迎えた 08 三校戦@横浜国立大学。小さな大事件が起きる。」体操君 「そう。ツカハラ跳びが跳べなくなる、怖くて。実は、すでに一度飛べないことはあった。

08 七大戦の試技会だ。跳べずに空中で歪んで着地の際に肘を痛めてしまう。結局そのときは試技会を途中で抜けることになる。その試技会以降の試合(七大戦、しもつき杯)では、前述したように屈身ツカハラないし伸身ツカハラを跳べているから、試技会でのミスは一過性のものにすぎないと思っていたが、三校戦で急に問題が表面化してくる。結局三校戦ではツカハラ跳びを諦め、前転跳びで終わる。」

法律君 「そのままグループ予選も前転跳びになり、東日本では屈身ツカハラに戻すのが精いっぱいという感じか。三校戦で一体何があったのだろうか?」

体操君 「さあ…。三校戦で急に跳べなくなる理由は分からないけど、さすがにそのあとの対処がまずかった。折しも法学部の定期試験が間近に控えていて生活の重心は体操から法

28  この点に初めて気付いたのは、お恥ずかしいことだが、小川和久「卒部論文」東大体操部報 109

号 90 頁以下を読んでからである。全日本インカレの出場計画を最も間近で見てきてくれた他ならぬ小

川和久先輩のご指摘だから、身に応える(もっとも、文中では筆者を名指ししているわけではなく、また、

小川先輩本人に真意をただしたわけでもないから、「『目標はインカレ』とか言ってるやつ」が誰なのか

は厳密には不明である。しかし、筆者であることは疑いないように思われる)

29  前日の対話を参照

30  しかし、これも今思い返せば相当な計算違いに思える。しもつき杯に出場していない有力選手(東

京経済大学、岩手大学、日本工業大学などに属する選手)の存在を曇らせる結果になっただけである

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試合結果

春合宿

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卒部論文

律へと移っていく。ツカハラが跳べないなんて異常事態に対処するには、じっくり時間をかけて恐怖心を取り除いていかねばならないのに、また体操から離れることによりかえって恐怖心を飼い太らせる結果になってしまった。体操とちゃんと向き合わなければならないことは分かっていたんだが、『わかっちゃいるけどやめられない』んだよ。」

法律君 「法律が悪者みたいになるのは看過できないね。全く同じように『わかっちゃいるけどやめられない』だの何だの言われて、こちらはずっと避けられてきた。2008 年冬学期は、むしろ法律とちゃんと向き合わなければならないときであった、という方が正しい。当時はまだ大学の試験での成績/単位取得状況は芳しくなく、特に冬学期はいわゆる『駒バック』

31

もあったからね。」体操君 「我々双方が話し合った結果、試験前はとにかく法律の勉強に全力を傾けるという協定

が結ばれた。それまでの経緯をみると、たまりにたまった借りを僕が君に返したのだ、ということなのだろう。」

法律君 「おかげで、その試験期間でなんとなく法律学の考え方というものがわかった気がする。正確には、法解釈の考え方かな。よく言われる『まずは条文』だとか、定義・原則の重要性とかね。成績もそれまでよりははるかに良くなった。試験でいい成績を取れたからといって、『良い法律家』なわけではないし、『優秀な法律家』かどうかも怪しいけど、試験でいい成績を取るのは少なくとも必要条件だ、というのが持論だ。」

体操君 「体操の話に戻させてもらおう。試験から復帰するのが、2 月 20 日ごろだったかな。NTCでの合宿がすぐ後に控えていて、少しでも体力を取り戻さなければならなかった。たまったツケは支払わなければならない。こうやって見ると、僕たちはお互いに借金をしては返し、また借りるというのを繰り返してきたんだな。消費貸借『契約』

32

の関係だ。この卒部論文なる文章が対話という対立構造になっていることも『契約』関係の反映なのかもね。もし僕たちが利害を共通する『団体』関係にあったならば、一緒に手を取り合って大学生活頑張っていこうね、というように別の構造の文章になっていたかもしれない

33

。」法律君 「君の口から法律めいた単語が出てくるのはルール違反(笑)。」体操君 「すまん。で、春合宿だけど、僕自身事前に十分な練習ができていない状態で臨むこと

になり、それだけでもいわくつきの合宿だったのだが、小川先輩と鈴木真志君と僕の間ではまたもう一つ大きな問題があった。僕らの問題というか部の問題だったのだけれど、これについてはまた後日話すかもしれないし、話さないかもしれない。」

31  駒場の教養前期課程で単位取得すべき専門科目を、本郷に進学してから履修すること。これも東

大体操部員の常道…というと何人かに怒られそうだ。ちなみにこのときの「駒バック」は、民法第一部。

前年の民法第一部で不可をとったのは、筆者を含めて受験者 398 人中 26 人

32  民法 587 条以下参照

33  本文では、「契約」はは当事者の利害関係が対立し、「団体」はは対立しないことを前提にしている

が、その前提自体疑わしい。まあレトリックなのでお気になさらず

卒部論文

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卒部論文

法律君 「話さないかもしれないのに、ここであえて問題の所在だけ示すというのは…。」体操君 「備忘録だね。卒部論文に書いておけば忘れないかなと。」法律君 「読者はどこに言ってしまったのだろう…。この文章が君のメモであってはならない。」体操君 「すまん、以後気をつけよう。春合宿でも結局ツカハラ跳びは帰って来なかった。そ

れどころか、筋力が落ちていたのは歴然としていたし、空中感覚が乱れに乱れていた。床のひねりも失ったしね。その状態で迎えたのが 4 月のグループ予選@東海村。個人的に何もいいところはなかったし、チームのメンバーにはとても迷惑をかけたと思う。さっきも言ったけど結局前転跳びを跳ぶことになるのだが、悪いことに跳馬の最終演技者であった。一人(ひとり)前に 2 年生の菅原壮君がツカハラ跳びを跳んでいたのに、前転跳びで難度を下げてしまうことは、裏切り行為に他ならない

34

。今でもチームメイトには申し訳なく思う。前年まで主力だった学年が卒業してしまったため、団体での東日本通過も危ぶまれていたが、これは何とか通過することができた。」

法律君 「7 団体通過できて、その 7 番目だったんだっけ。」体操君 「唐突に聞こえるかも知れないが、やっぱり強調しておきたいのは、この時点において

もなお結局全日本インカレに出場するのだろうという『楽観』は存在した。たとえ東日本インカレ 1 か月前の試合がぼろぼろだったとしてもね。それは、『絶対にあきらめない』とかいう心の持ちようではなくて、『この物語の主人公は俺であって、この物語がハッピーエンドでないわけがない』というような心理であったと表現するのがいちばん近い気がする

35

。この対話でも何回か触れてきた『物語』というのはそういったたぐいのものだ。」

法律君 「そして、なぜ君が『物語』のようなものを信じ込むことができたかというと、その根拠は過去の成功体験なのかもしれないね。もちろん過去に体操で成功したことなどないわけだが、高校受験や大学受験など人生のターニングポイント(たった 22 年間の人生においてのターニングポイント)では、必ず最終的に成功を収めてきた。だから、体操においてもそうだと。」

体操君 「しかし、迎えた 2009 年 5 月 16 日、東日本インカレは全く感動的でない終わり方で幕を閉じる。それは同時に、体操競技生活と大学生活の終了でもあった。インカレ出場を目標にした日から、僕の日々の生活は『全日本インカレ出場』へと向かう流れにおいてのみ意味を与えられていた(物語におけるすべての伏線が最後のページへと向かうように)。しかし、すべてを終えてみると、過ぎ去った日々は決して目標へ続く一直線の流れであったのではなく、流れのはけ口を見いだせないまま渦を巻いているだ

34  事の経緯は、菅原壮「グループ予選報告(男子)」東大体操部報 109 号 8 頁を参照。

35  筆者がこの心境と最も近いと思ったのは、「物語の中にけん銃が出てきたら、それは発射されなく

てはならない」というチェーホフの言葉である(村上春樹「1Q84BOOK2」(新潮社)の 33 頁で紹介さ

れている)。もっとも、どの辺が近いのか読者には理解しがたいとも思われるが。ちなみに、「1Q84」では、

以上のチェーホフの言葉が紹介された後に、ヒロイン青豆が「でもこれは物語じゃない。現実の世界の

話よ」と述べる。これより先の本文から分かるように、筆者としては、耳が痛い限りである。

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卒部論文

けであった。  東日本インカレで敗れ去ったことは、単に目標を達成できなかったということだけ

を意味するにとどまらない。僕達の人生において長々と維持されてきた楽観的な『物語』が虚構にすぎなかったということをも意味せざるを得なかった。『俺が主人公だから、ハッピーエンドだろう』というのは、とんでもない思い違いだったのである。そうではなく、『人生は思った通りにはいかない』が正解である。ただ、これはごくごく当たり前のことである。『物語』が虚構であるということも、同語反復と言っていいほどに自明のことである。そうであるのに、僕達は純粋に『物語』を信じ込んでいた(believe in)。2009 年 5 月 16 日、ようやく僕達は虚構の世界から抜け出せることができたのだろう。」

法律君 「全く感動的でない試合だったが、それだけにかえって、私達の人生においては画期的な出来事であったということだね。」

体操君 「もう一回話を戻すことになるが、崩壊する前の僕の『物語』は実は複層構造になっていた。先行する『全日本インカレ出場の物語』を下敷きにして、その上に僕の生きる後行の『物語』は存在していたのだった。」

法律君 「その先行する『物語』というのは、もちろん…。」体操君 「そう、小川先輩のことだね。小川先輩は常に先を行っていて、しかも本当に淀みのな

い流れに乗っていた。そして 2008 年、小川先輩はあまりにも感動的な全日本インカレを実現し、ご自身の『物語』をハッピーエンドで仕上げるのであった。

一周遅れで全日本の舞台に立つ、つまり先行する『物語』を完全にコピーする、それが複層構造における二段目の僕の『物語』だった。」

法律君 「しかし、君は全日本の舞台に立つことはできない。」体操君 「そこで悟る。自分は『安永透』

36

なんだと。」法律君 「やっぱりか(笑)。劣化コピー

37

ということね、小川先輩の。複層構造の話あたりから、そういうオチになるような気はしていたけど、『安永透』ねえ。ということは、先輩は『松枝清顕』になるのか、多分顔は似てないけど。しかし、結局三島由紀夫の小説のキャラクターとして自分を意味づけるあたり、君はいまだ別の『物語』から抜け出せていないのかもしれないね

38

。」体操君 「現実は厳しい。思うようにはいかない。そんな当然のことを骨の髄から理解できたの

36  三島由紀夫「豊饒の海」4 部作(新潮文庫)は、輪廻転生の物語である。各巻の主人公は、松枝清

顕、飯沼勲、月光姫(ジン=ジャン)、安永透であり、彼(女)らは、みな一様に脇下に 3 点の黒子を持ち、

それぞれが一人(ひとり)前の人間の生まれ変わりである。つまり、「豊饒の海」4 部作は、4 段階の複

層構造になっている。安永透は一番最後にやって来る物語の主人公である。

37  4 部作の最後を締めくくる「天人五衰」では、確か「贋物」との表現が用いられていた。なぜ、そ

のような表現が用いられるかと言うと、見るも無残な物語のラストを読めばわかる。特に、松枝清顕と

のコントラストが著しい。

38  ヒトは、「物語」なくしては生きていけないのではないか?

卒部論文

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卒部論文

はこの 4 年間における大きな収穫の一つだと思う。」

6 日目 ちょっと脇道―七大戦のルール

法律君 「大分対話も終わりに近づいてきた、そんな予感がするよ 39

。」体操君 「前回の対話テーマは大学生活の中核をなすものだったからね。思ってきたことを形に

することができて、大変晴れやかな気分だ。」法律君 「例によって、前回から日が空いてしまった。まあこれまた例によって読者にとっては

そんなことどうでもいいことなのだろうが。この期間中に、バンクーバー五輪においてフィギュアの浅田真央選手が銀メダルを獲得するというニュースがあったね。ライバルのキム・ヨナ選手(韓国)に惜しくも敗れてしまったが、浅田選手はよく健闘してくれたと思う。

 で、このフィギュアスケートというやつなんだが、採点ルールがよくわからない。体操と比べるとどうなのだろうか

40

?」体操君 「勝つべき者が勝つ、そういうゴールを目標とするならば、採点ルールは内容自体客

観的でなければならず、かつ、審判によって客観的に運用されなければならない。その 2 点の保証があって初めて、選手は試合で勝つための準備ができるし、誰もが納得できる試合結果というものが出力され得ることになる。手前みそだが、体操競技における現行の採点ルールは、その 2 点を保証するに十分な水準を保っていると考えている。どうすれば点が増え、点が減るのか、いくら点が増えるのか、減るのか、すべて明確に定めてあるし、そして審判の裁量の余地が入らないようになっている。もっとも、少なくともルール上はということで、現実に人間が採点する以上、運用面で審判の主観が介入する可能性は否定できない。究極的にはコンピュータが採点するのが望ましいが、今のところそうはなっていない。

 対して、フィギュアスケートは、ルール上においてもなお審判の裁量の余地を残しているように感じる。これが何を意味するかというと、どんなに点を取るための努力を重ねてきても、最終的には『会場のノリ』だとか『審判の好み』によって競技の結果が左右されるという事態が容認されるということだ。」

法律君 「フィギュアは音楽もつかっていて、会場全体が一人の選手に注目するから、そういう『ノリ』の部分を結果に反映させることがむしろ望ましいのかもしれない。そうすると、体操競技と同列に論じようとすることに無理があるのだろうね。」

体操君 「個人的には、審判だとか観客だとかの『ノリ』に、選手の生殺与奪が握られているな

39  この予感が見事に外れることは、この先を読めばわかる。まだ道半ばである。

40  大村敦志「ルールはなぜあるのだろう―スポーツから法を考える 」(岩波ジュニア新書)を読んで、

本章のようなことを書きたくなった。

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んてことは、到底容認しがたいように感じるけど。体操競技においては決してそんな事態はあって欲しくない。

 バンクーバー五輪の話をしていたのに、急に話のレベルを変えてしまうことになるけど、2009 年七大戦@熊谷で僕は『競技規則』及び『競技規則注釈』を作成する任務にあたったことがある。一番苦心したのが、体操初心者の演技をどう評価するか、という点。まず、基本的な思想の対立として、初心者に対しても日本体操協会による

『採点規則 2009 年版』を機械的に適用するのか、それとも初心者に対しては柔軟に救済を与えていくのか、という対立がある。僕は当初前者に与していた。なぜなら、そっちのほうが客観的だし、審判もラクだろうから。しかし、七大戦には数多くの大学はじめの初心者選手が出場することをも考慮すると、『採点規則』に無い技だからといって全く評価を拒絶するということは妥当ではないのかな、という思いを抱いた。きっかけは、西岡賢一郎先輩や菅原壮君のコメントだった。結局、僕も基本的な立場としては、七大戦では『採点規則』では評価しつくせないような初心者的な演技にも評価を与えるべきであるという立場に与することにした。

 で、次に問題となるのが、果たして又はいかにして以上の基本的指針を具体的準則に映し出していくべきなのか。基本的指針だけ固めて、あとは初心者的な動きについての評価はすべて審判に委ねてしまう、というのもあり得たが、これだと選手の生殺与奪が審判に握られることになってしまい、僕としてはこれだけは避けたかった。だから、初心者的な動きについての具体的な評価指針を真正面から明文化するという道を選んだ

41

。さっきのフィギュアに関する話と状況は全然違うけど、問題意識としては通じるものがあるのかな。

 まあ、この明文化作業というのは中々困難だったし、結局いかほどの実益があったのかも今となっては検証できないが、筋は通せたんじゃないかな。」

法律君 「ルールを言葉にするというのは中々難しいよね。冗長を避けようとすると、条文の文言はどうしても簡潔にすぎてしまうから、条文だけでは伝えたいことを伝えきれない。そこで登場するのが注釈という方式だね。」

体操君 「そう。09 七大戦の競技規則の勘所は何と言っても『競技規則注釈』 42

にあった。それは、条文の趣旨や具体的な適用例を示すことで、条文上だけからは伝わりきらない意味を参加者に伝えることを目的としていた。また手前みそだけどその目的は成功したと思

41  具体例をあげよう。鉄棒でけ上がりだけを実施した選手と、け上がりと前回りを実施した選手とで

得点において差をつけようという趣旨である。

42  「競技規則注釈」の性質については、実はよくわからないものがあった。「競技規則」の下位にあり、

いわば法律に対するコンメンタールのような位置づけを与えていた。しかし、一般にコンメンタールに

書いてあることが司法の場で拘束力を持つということはない。そうすると、「競技規則注釈」も拘束力は

ないということになるのか。しかし、そもそも七大戦における司法の場とは何か、選手と審判の間で紛

争があったとき紛争解決を図る第三者的機関があったのか。考え出すと、粗のある「競技規則」「競技規

則注釈」であったなあ、と振り返りながら思う。

卒部論文

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卒部論文

うよ。この対話でも注が活用されているけど、注釈好きはぶれていないね。」法律君 「ルールを作る、ということに対する関心は、君の影響を受けて法律の勉強にも波及す

ることになったよ。こちらの分野の言葉を使えば『立法論』に対する興味関心ということになるかな。2009 年度冬学期の佐伯仁志教授の刑法演習で『児童ポルノ規制の立法論的検討-立法の背後にあるダイナミズムを示す 1 つの例として』という発表をした

43

。」体操君 「いつも対立ばかりしていた僕らだけど、初めての共同作業かもね(笑)。」

7 日目 主将時代

体操君 「今日は、主将を務めていた時代(2007 年 12 月~ 2008 年 12 月)を中心に、主将というものについて話そう。」

法律君 「ここ数回の対話はもはや時間軸がめちゃくちゃ(笑)。まあ、選手の目線から体操について語るときと、主将の目線から体操部を語るときとでは頭の使い方が違うだろうからしょうがないのかな。」

体操君 「まず、言っておかなければならないのは、確かに僕は体操部主将という職にはあったけれども、大したことは言えそうにないということ。主将経験者の一人である小川和久先輩の『主将は自分が部の鑑だなんて思わない。むしろ、目の前の部の練習風景や、部員の仕事の状態が、自分の鏡なんだと思うようにする。自分がかわれば部が変わるのが、主将の醍醐味なんだから。そしてこれは主将だけじゃなく、部員全員にあてはまる。』

44

のような箴言を残すこともできない。自分なりに主将とはと考えたこともあったけど、言語化できるほど明確なアイディアを持つには、結局至らなかった。一人(ひとり)前の主将が他ならぬ小川和久先輩であったのだが、常に小川主将と自分との距離を測ることでしか、自分の主将としての仕事を眺めることができなかった。『彼ならどう考えるか。では、自分はどうか』などと。もっとも、誰かを手本に物事を考えるというのは、特別なことではないのだけど、僕の例ではちょっと小川主将の影が強すぎたかな。」

法律君 「いつぞやか、君のノートに『小川和久を殺さなければならない』という記載がミーティング中に発見されて、大騒ぎになったことがあったっけ(笑)。」

体操君 「もちろん、『殺す』というのは、精神的に、ということね(笑)。何よりまずかったのは、ひょっとすると東大体操部の制度の根幹に関わることなのかもしれないけど、3 年生

43  ゼミの指導教官であった、佐伯仁志教授のことは心から尊敬申し上げている。お気づきの方も多い

かもしれないが、この対話のタイトル「体操と法律の対話」は、佐伯仁志教授と道垣内弘人教授の共著「刑

法と民法の対話」(有斐閣)から拝借したものである。

44  東大体操部部報 109 号 91 頁(2009 年度夏部報)

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が主将を務めるという制度を取っている結果、前主将が 4 年生として部に残っているという状況だった。僕が主将のとき、小川先輩も当然部員として健在であったわけだ。そのことの功罪について考えてみよう。もちろん、4 年生は進路のことで忙しいのが常であり、3 年生が幹部学年を担うという制度には一定の合理性がある。また、僕個人にしても、主将として部を運営していく上で、上級生が現場で見守っていてくれるという安心感は何物にも代えがたかった。しかし、同時に前主将の存在を常に意識せざるを得なかったのは事実だろう。もはや『影』というより、目の前にある実体そのものだった。最後まで『小川和久を殺す』ことはできず、むしろ彼の言うことは今まで正しかったからこれからもそうだろう、という経験的推論により、小川先輩の意見には無条件で『真である』との推定を与えていた節がある。

 そういう状況で、どうしても上の方ばかりに目が行ってしまい、下級生に目をかけてやることができなかったのかな、と思う。それゆえに、やはり主将としてやることをやったかと言えば、中々そうは言いきれず、今となってもあまり偉そうなことを言う資格はない。」

法律君 「中々厳しい自己評価だけど、そもそも主将になった経緯は?」体操君 「その点は以前にも述べたから重複になるけど、まあ一番うまい人間が主将になればよ

いだろう、くらいに考えていた。一つ補足したいのだけど、どんなに先人が偉大であっても、僕しか持っていない、

主将としての最大の武器というものがあった。佐藤丈太郎先輩、西岡賢一郎先輩、小川和久先輩ら歴代のリーダー

45

たちが持っていなかったもの…。それは、当たり前のことだけど、歴代のリーダーたちの中で、2008 年当時に幹部学年だったのは僕だけだということ。主将が毎年交代する以上、同じ学年の人間が 2 年間にわたって主将を経験するということはできない。前の年にどんなに優秀な主将がいても、今年に主将を務めることはできない。だから、今年に幹部学年(3 年生)であるということは、それだけで価値をもつと思う。僕の例で言うと、常に小川先輩の影は念頭にあったけれども、それでも 2008 年に主将を務められるのは僕だけなんだ、というのが励みになった。寸でのところで『じゃあ、小川先輩が全部決めればいいじゃん。俺いらないじゃん。』と腐らずにいられたのはこういう武器を懐に隠し持っていたからだと思う。

ところで、いざ幹部学年になろうとするときに、小川先輩から『7 つの宿題』というものをいただいた。小川先輩自身が幹部学年になるときに自ら考えたことを、次の幹部学年にも考えてほしいという趣旨によるものである。僕は、これを次の幹部学年に受け継いでいく義務があったのかもしれないが、残念ながら鈴木真志君らの代には伝えることができなかった。歴史の証人として、注にその要旨を書いておきたいと思う

46

。」

45  「リーダー」というのは、佐藤丈太郎先輩はトレ体の現場での指導者に違いなかったものの、形式

上は主将ではなかったことを汲んだ表現である。2005 年の主将は梁田将志先輩である。

46  7 つの宿題

卒部論文

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卒部論文

法律君 「偉そうなことを言えないというのはよくわかったよ。では、主将時代の具体的な仕事だとか、エピソードだとかを聞かせてもらえないかな?」

体操君 「まず最初に手をつけたのは、器具のセッティングかな… 47

。種目間で練習量にばらつきが出ないようにバランスをとったり、どうすれば部員のニーズに合ったセッティングを実現できるか。高々一種目 30 分程度しか時間はとれないのだから、今思うと些細な、というかあまり本質的でない問題のような気がするけど、こういう事務的なことを考えるのは好きだったかもしれない。あとは、全体補強を取り入れたりね。正直これも何が正しい補強なのかよくわからなかったなあ。」

法律君 「体操のことはよくわからない、という認識が君の行動の前提となっているのは今までの対話からもよく伝わってきているよ

48

。」体操君 「素人だからしょうがないと言えばしょうがない。ただちょっとナイーブ過ぎたのか

な。常に自分の体操が正しいのかどうか自身を持てなかったから、後輩にアドバイスするときもついつい躊躇ってしまっていたのは事実だ。しかし、後輩も馬鹿じゃないから僕が素人なのを引き算したうえでアドバイスを聞き入れてくれたかもしれない。だったら、自分がアドバイスしてもかえって間違った道に導いてしまうだけだなどとは思わず、間違いかもしれないということを恐れずにアドバイスしてやるべきだったのだろうね。いや、単純に何もアドバイスが出てこないということも多々あったのだけどね。 主将として他に担っていたことは、試合のたびにチーム得点の予算を立てることか

1.どんな部にしたいか

2.現在の部の問題点は何か

3.どうしたらもっとよい部になるか

4.どうしたら部員がもっと上手くなるか

5.これからの自分の役割

6.現在のルールで良いか、改善点はないか

7.なんで部はあるのか

以下は私の回答要旨

1.1 つの目標に向かって全部員が団結し、協力し合える部

2. 目標を共有できていない

3. 以上の達成。各部員が練習場で会える機会が増えるとよい

4. 自分で考えて練習。互いに何を練習しているかの把握

5. 色々

6. 火曜・水曜の参加人数の少なさ

7. 体操は 1 人ではできない。

47  当然ながら、私一人の仕事ではない。同期の山本一久君、原加保里さん、山路茜さんには、部の運

営にあたって大変お世話になった。

48  2010 年 3 月 6 日に行われた追い出しコンパにおいて、私は、このような認識を抱いていることを

枕に、あえて「体操と学業との関係」などと傍流に属するテーマで挨拶させていただいた。

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試合結果

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な。もともと自分個人の予算を立てるのは慣れていたから、それを団体に応用するという感じだろうか。」

法律君 「さて、主将時代の 1 つのハイライトと言えば、かねてから話題に上りながらも先送りにしてきた、いわゆる『二部練』だね。当時部員だった人たちもその存在をすっかり忘れているけど、君にとっては忘れがたいものだろう。」

体操君 「2008 年 7 月 12 日から 9 月 14 日にかけて、トレ体における土曜日の練習は、①OB・OG が練習する時間帯、②現役部員が練習する時間帯に分けて行われることになった。この制度を『二部練』という。通常土曜日の練習は、現役・OB・OG がごっちゃで一通り器具を出すというように行われているが、この期間だけは、14:00 ~ 17:30 に一部の現役部員と OB・OG が練習できるように全種目出し、17:30 ~ 21:00に現役部員が独占的に使用するという条件でもう一度器具を全種目出す、という運用がなされることとなった。

 そもそもなぜこのような制度を取ることになったかと言うと、土曜日の練習の混雑が甚だしく、練習効率が著しく低下していた

49

という事情があった。そこで、混雑の緩和のために何らかの対策が必要であるとの問題意識が生まれる。部全体としては 9 月14 日に七大戦を控えていたため、主将として喫緊に解決しなければならない問題だと考えていたし、8 月 31 日に全日本インカレを控える小川先輩の強く要望するところでもあった。そこで、我々現役部員から要望を発信し、OB・OG との話し合いで了解を得た上で、二部練を導入するという運びとなった

50

。」法律君 「なるほど。しかし、混雑を緩和すると言うなら他にも方策はあったはずだ。一度に出

せる器具を増やすとかね。そもそも土曜日の練習はそのままにしておき、日曜日に練習時間を設けるなど(トレ体でやるにしろ、他大学へ出稽古に行くにしろ)の策もあり得た。」

体操君 「もちろんそれらについては考えた。しかし、直接的かつ効果的に混雑緩和という効果を享受するには、二部練という道しかないと考えたわけだ。」

法律君 「混雑を緩和したいという問題意識はトレ体で練習するすべての人たちが共有していたとは思うけど、一筋縄ではいかなそうな話だな。」

体操君 「二部練導入の過程では、想像以上に混乱を招いてしまった。以下で述べるのはあくま

49  鉄棒については、一回の練習で 3 回触れるか触れないかくらいであった。

50  現実の経緯はもっと複雑であった。まず、トレ体における練習方法の決定権は現役部員の長たる主

将にあるとの認識のもとに、私が体操部 OB メーリスで「二部練導入のお知らせ」という形で告知をした。

今となっては当然だがこのメールは一部の OB の方から強い反発を招くことになる。そこで上述の認識

を改めて、トレ体における練習方法の最終決定権は現役部員、OB、OG の総意(多数決)に帰すると考

えた。新たな認識の下、遅ればせながら三島駿一郎監督に助力を求め、ついに 7 月 5 日トレ体において、

土曜日の練習をどうするかを話し合う現役部員、OB、OG の会合が実現した。この会合で、現役部員が

提案する二部練が是認されたことにより、二部練は晴れて公式の制度となったのであった。

(後注)注ではうまく表現できていなかったが、現役部員とて、二部練導入については一枚岩ではなかっ

た。当たり前だが、OBOG との練習時間が共有できなくなるということへの抵抗感はあった。

卒部論文

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卒部論文

でも僕個人の見解だけど、理念としては正しいと今でも思っている。  すなわち、トレーニング体育館は歴代の東大体操部員の共有財産である。だから、

歴代の東大体操部員各人にトレ体を使用し練習する権利はある。しかし、そもそもトレ体に器具を備え練習環境を整えるのは、東大体操部の現役部員が体操の技術を向上させ、競技において良い結果を残せるようにするためである。したがって、トレ体に空間的余裕がある場合は格別、混雑をきたしている場合においては、現役部員がその他の部員に優先してトレ体を使用し練習する権利があるはずである。

 この理念を具体化すれば、現役部員が独占的にトレ体を使用できる時間帯があってもよいと思っていた。しかも、OBOG の練習時間が全くなくなるというわけではなく、一定の練習時間(14:00 ~ 17:30)は確保されていたのだから、二部練導入過程での混乱は若干想定外であった。」

法律君 「まず、君の理念にそもそも共鳴できないという意見はあり得るだろう。あくまでも現役と OBOG 間で差はない、と考えれば、およそ現役の独占使用という事態は看過できない。ただ、混乱を招いた原因は他にもあるのではないかな?」

体操君 「現役と OBOG が分かれて練習するという光景が、それまでの伝統的なトレ体の姿からかけ離れていたということも原因だったのかもしれない。現役部員と OBOG が同じ時間に同じ場所で練習するというのは、年長者による指導という効用もあるが、それに尽きない価値があるだろう。他大学の体操部では見られないような、トレ体におけるこういう人的な『交流』は、それ自体保護に値する価値があるのかもしれない

51

。僕もそこに一定の価値を認めてはいたが、二部練導入を踏み止めさせる程ではなかった。しかし、人によってはそこに何物にも代えがたい価値を見出すのであろう。確かに、全国津々浦々を探しても、トレ体のように多様なジムナストが集まる体操部はないと思う。そのことにとてつもない価値があったとしても不思議な話ではない。しかし、僕にはその価値を測りかねたということだろうか…。」

法律君 「では、二部練を総括してもらおうか?」体操君 「理念の部分では私見を改める気はないが、対立する考え方もあり得ることは認めざ

るを得ない。そして、対立する考え方が有力であることも否定できない。だとすれば、現在のトレ体で二部練を実施することは現実的ではないだろう。現実的ではないという理由は他にもある。大学の施設である以上、トレ体に OBOG しかいないという状況は許されない。となると、どうしても 14:00 ~ 21:00 の間出ずっぱりの部員が必要になる。2008 年は真正面から当番制を敷いて現役部員が常に何人かトレ体にいるようにしたが、これは非常に面倒くさかった。

 以上から、後輩にアドバイスするなら、二部練はやめたほうがいい、としか言いようがない。」

法律君 「この対話には珍しく、断言調だね。もしまた混雑があったらどうしようか?」体操君 「諦めるしかないんじゃないかな(笑)。一人の OB として僕個人の意見を言わせても

51  久保木浩功先輩のメールが印象的である。東大体操部の伝統を諭していただいた。

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らうと、OBOG が現役部員の練習を尊重してあげること、節度をもって練習することが大事だと思うよ。」

8 日目 2009 年東日本インカレ後、七大戦まで

体操君 「さて、前回の対話からまた日が空いてしまったね。毎度毎度読者にとってはどうでもいいことを言うようだけど、今回ばかりはちょっと深刻なので、メンションしておこう。前回の対話が 2010 年 3 月 17 日だったけど、今回は何と 5 月 5 日と 1 カ月以上空いてしまった。日数もさることながら、2010年4月から身辺が大きく変化してしまっていることが重要だ。」

法律君 「つまり、2010 年 4 月から、長く親しんだ東京の地を離れて、仙台にやってきたということだね。東北大学法科大学院への進学だ。おめでとう。」

体操君 「どちらかというと、こちらが法律君におめでとうと言うべきのような(笑)。まあつまり、しばらくこの卒部論文のことも忘れ去られていた結果、ちょっと文章の運びが今までと違う部分が出てくるかもしれないということで、読者のみなさんにおいてもその点に注意して読んでいただきたいということだ。」

法律君 「さて、といっても、この対談も残りは少ない。残されたテーマは、09 東日本インカレが終わって、09 七大戦までの話だ。09 東日本インカレは、いやしくも大学 4 年間の間に全日本インカレに出場することを目標としていた君にとっては、(実際にそれにふさわしい準備ができていたかはともかく)大きな意味を持っていた試合だった。しかし、残念ながら、全日本インカレ出場と言う目標は儚く散り、形式的には君の競技生活は一つのピリオドを迎えざるを得なかった。それが 5 月のことだったが、8 月 29日には 09 七大戦@熊谷が控えている。一般的には、こういう状況に置かれた場合、『気持ちの切り替え』のようなものが必要になるだろうが、君のケースではどうだったんだい?」

体操君 「うーん・・・いまいち思い出せない(笑)。もう一年近く前の話だしね。しょうがないので、その点については、過去の日記からの引用で済ませてもらうよ

52

。むしろ、おぼろげな記憶をたどるより、こちらの方が正確に叙述することができるだろう。以下は、2009 年 6 月 14 日に書かれた日記である。内容のうちいくらかはすでにこの対談で述べたところと重複しているが、リフレインのようなものだと思って、読んでいただきたい。なお、日記の一部に注が付してあるが、これは 6 月 14 日当時のものではなく、この対話が書かれている現在のものである。

52  松本真歩「卒部論文」東大体操部報 109 号 108 頁は、「技の悩み、掴んだコツ等の記述からは、

技術的な軌跡が読み取れる。何気ない覚書からは当時の空気が伝わってくる」と、日記の有用性を得が、

筆者はその見解に全面的に賛同するものである。

卒部論文

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卒部論文

『(前略)4月の半ばにグループ予選があった。

先ほど東日本云々って書いたからグループを突破したのは論理上必然なのだが(前提としてグループ予選は東日本インカレの予選である)、問題は個人通過なのか団体通過なのか。凄く重要。 どうなったかというと、通過枠7校中7位というギリギリで団体通過を達成。  山本とか、茂木とか、菅原とか今まで団体で一緒に回ったことないやつらと団体を組んでギリギリだけど目標を達成できたのは嬉しかったし、誇るべきだと思った。

(同期の山本とは何とはじめて一緒になったのである)  まあ、個人としては全く誇れる試合内容ではなかったのだけど。床は11点台であん馬は落ちて吊り輪は手ついて跳馬は転回とびで平行棒は下り技ひどくて。

(中略、以下グループ予選後の話)  とにかく、後悔しないようにと練習した5月であった。なお、このころから早くも一部の授業には行かなくなる。しかし、これはいい兆候なのだ。授業に行かなかったのは体操に気をとられていたからで、つまりようやく体操に集中できたのだった。毎年5月を中心として夏学期間中は中々勉強に身が入らない。4年目もまた然りであった。ただ、適性試験の金の振込みを忘れたのは本来笑い事では済まされないが

(笑)  迎えた東日本では、何度も言っているように結果はだめだった。  あん馬で落ちたけど、落ちてなくてもダメだったというほどの点差でダメだった。  あんまり惜しくないともう泣かないのだろうか。昨年はリザーブ1位で泣きに泣いたが今年は普通に打ち上げて普通に東北大の2人と朝まで飲み明かしていた。  そのとき今年リザーブ2位だった晋平

53

はとても悔しがっていて今にも泣き出しそうだった。  昨年からどれだけ点数を上げてきたか、そして今年の結果をどのように受け止めたか。何が自分と晋平を分けたのだろうか。この点については、まだ自分でも解明しきれていない部分がある。インカレにいけなかった場合の人生たるや無残なものだろう、とかつては思い抱いていたものの、今のところ何か人生が変わった気配もない。普通に体操も続けてしまっている。いつか片付けねばならぬ問題だ。  そして、東日本インカレが終了した直後から(本当に直後から)、七大戦「団体」優勝をいう明確な目標が自分の中で浮かび上がってきた。  後輩たちを招集し、優勝への思いを伝えた。彼らは自分が予想した以上に自分の気持ちを真摯に受け止めてくれた

54

53  当時東北大学体操部 4 年の森田晋平君である。2010 年現在、一緒に練習している。

54  そういう場が 2 回あった。まずは、6 月のいつかに、渋谷の「大戸屋」で。鈴木真志君、滝川寛之

君、菅原壮君、那珂将人君がいたのを覚えている。次が、7 月 2 日である。これは男子部員全員にあつまっ

てもらったミーティングである。その内容については、本文で改めて触れる。

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 この夏は七大戦優勝に捧げると決めた。  これは何と言うか今の自分と未来の自分の契約みたいなもので、つまりロースクールやら学部試験やらを言い訳に体操を疎かにすることはしないという義務だ。義務なのだ。ともすれば流されてしまいがちだった自分を律するための義務なのだ。  近況報告的ないい回しに戻ると、今は体操を頑張っているところだよと。  6月はNHK杯のセクレタリー補助役員なるものをしてみた。  これはかなり勉強になったし、ゆくゆくは1種資格をとって審判業に携わってみたいとも思った。  あとは、今日ロースクールの適性試験があった。まあ、そこそこできた気がする。適性あるかないかで言ったらあるのかなあ。 』以上が引用だ。」

法律君 「長い・・・。ただでさえ冗長な対談がヨリ長くなってしまうよ。」体操君 「先程の話題との関係で重要なのは、僕のケースでは、『気持ちの切り替え』はあまり

問題にならなかったということだろう。そのことが何を意味しているのかはよくわからないがね。単に七大戦が引退の花道を飾るにふさわしい魅力的な試合であったということか、はたまた実は全日本インカレがそんなに真剣な目標ではなかったということか・・・。」

法律君 「なるほどねえ。で、東日本から七大戦までの約 3 ヵ月間、君はどのように体操に取り組んだんだ?」

体操君 「僕は東日本インカレが終わった時点で、七大戦を自らの引退試合にすることを決めた。なので、七大戦では、今までやり残したことをやりたいと考えていた。具体的には、鉄棒をダブルで下りること、あん馬の旋回をきれいに回すこと、平行棒できれいなピンコをし、後方宙返りで下りること、跳馬で伸身ツカハラを跳ぶこと、吊り輪のほん転倒立を伸腕にすること、だった。あとは、吊り輪のホンマ、鉄棒のホップターンを練習していたかな。」

法律君 「『きれいに』というのは、評価概念なので、実際に目標が達成できたかの判定は難しい。実際にできたのは・・・。」

体操君 「鉄棒のダブルと跳馬の伸ツカだけだね。今思い返せば、引退試合で鉄棒のダブルをやるというのは、西岡賢一郎先輩も同じだったなあ

55

、と。おそれ多いが、引退試合でようやく先輩と同じ領域にまで踏み込めたのだとしたら、光栄なことだ。

そして、伸身ツカハラは、これは既に 08 年のしもつき杯で使っていた技だから、何としても逃げることはできなかった。というか、09 年の公式戦で使えなかったこと自体が異常だから、できないはずがなかった。」

法律君 「で、個人総合が 70 点で、6 位入賞か・・・。」体操君 「2 年の那珂将人君が 7 位でギリギリ勝てた。しかし、那珂君の急成長ぶりには、舌を

55  2007 年のしもつき杯である。一緒に試合を回った筆者は、先輩の鉄棒のダブルに賭ける熱い思い

を感じた。

卒部論文

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卒部論文

巻くものがあった。最終種目あん馬での最終演技者が那珂君だったのだが、演技から伝わるあの安心感には、エースの風格さえ感じた。那珂君の話が出てきたので、団体戦の方を話そう。

 もちろんこの年の七大戦も団体優勝を目指していた。男子団体の方にだけ絞って話をすると、7 月 2 日に、部室に男子部員を招集し、一体何点取れば勝てるのかという予算を立てた。試合前に目標スコアを定め、そこから逆算して最終的な演技構成を想定し、さらに現在の実力と理想との距離を図り、その距離を埋めるにはどうすればいいかを考える。これはいつものことだった。結局、その日に僕が算出した目標スコア、つまり優勝のラインは 320 点。僕と山本君と鈴木君と甲斐君と那珂君とあと団体もう一人でこのスコアというのは十分達成できるものと考えていた。そして、実際に本番で 320 点は達成したのだが・・・」

法律君 「団体 3 位に終わったというわけね。」体操君 「そう。そもそも 320 点がラインだというのが計算ミスだった。もっと具体的には、1

位の大阪大学と 2 位の東北大学の実力を見誤っていた。特に東北大学は、メンバーのほとんどが当時の 4 年生であったが、引退試合における彼らの奮起は僕の想定を大きく上回るものだった。こういう 4 年生の頑張りというのは、七大戦ではおなじみのことだと思う。

 ただ、できることはやったのだから 3 位という結果はしょうがなかったのではないかな。」

法律君 「しかし、そもそも目標スコアを立てて云々という手法は、いかがなものかね? 7 月 2日のミーティングについては、『獲らぬ狸の皮算用』にすぎなかった、との痛烈な批判もありそうだが。」

体操君 「批判は要するに、いくら得点を計算したところで、選手がうまくならなければしょうがない、得点を計算している暇があったら技術を提供してくれ、という至極もっともな感情に基づいている。これは本当にその通りで、振り返ってみると、七大戦に向けて、僕はチームメイトたる同期後輩たちに何かを授けるということ、あるいは何かを引き出すということにおいては、非常に不十分なことしかできず、その責任は免れないと思う。みんなが跳馬のツカハラを跳べるよう、熱心に指導したかといえば、決してそうとは言えなかった。

 ただ、やはり、試合を戦ううえではまず何より勝利のラインを見極めなければならないと言うことは最低限の要請であり、そのことは強調されていいと思う。若干自己弁護が入ってきているが。」

法律君 「ある種、試験勉強と同じだよね。前年の合格平均点を見たりだとか模試を受けたりで、一体何点とれれば試験に受かるのか。」

体操君 「うまくまとめてくれたってことで(笑)。  さて、09 七大戦の話ももう終わるけど、最後に僕個人のごくごく私的な話をしてお

きたい。実は七大戦の前日練で、足首の靭帯を負傷していた。もともと左足首にひねり癖があって、たびたびひねってきたのだが、まさかこのタイミングでというところ

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でまたひねってしまった。しかも、このときは床の前宙 1 回半ひねりの着地でバウンドしてひねってしまったのだが、そばにいた人にはブチッという音が聞こえるほどの重傷であった。その日は一日中アイシングして、決戦の朝を迎えることになるのだが、あんなに不安な夜はなかった。朝起きて足首の痛みが取れていなかったらどうしよう、と果たして試合に出ることができるのかすら自分としては怪しかった。」

法律君 「あと、あのときは、新型インフルエンザが流行していた頃で、実際にある参加大学の体操部から発症者が出てしまったんだよな。」

体操君 「そう。それも深刻で、本当に大会を行うことができるのかどうか、試合前日の夜に幹部学年の 3 年生と僕ら 4 年生で話し合いがもたれた。そして、全く何故だが分からんけど、その話し合いの最中に僕も熱を測ってみたところ、37.5 度という表示(笑)」

法律君 「いや、笑えないんだろうけど(笑)。インフルエンザだったのかな?」体操君 「わからないねえ。翌朝には熱が引いていたしね。ただ、ひねった足首を冷やしながら、

しかもインフルエンザ感染の疑いがあるまま眠りにつくと言うのは本当に不安だった。当時の体操ノートには『こんなに不安な夜はあっていいのか?(中略)中々楽には引退させてくれないのか?』と書いてある。

 朝起きてみると、確かに熱は引いていた。しかし、足首はまだ腫れあがっていた。」法律君 「その足首で試合に臨んだわけだ。」体操君 「ここで一言声を大にしてお礼を言わなければならないのが、当時 1 年生でマネー

ジャーの仕事をしてくれていた桑村明佳さんだ。大会当日は、彼女が痛み止めを処方してくれ、テーピングもしてくれた。そのおかげで、試合本番では痛みを感じることなく、演技することができた。床も跳馬も。心境としては、彼女のおかげで体操人生を全うすることができた。死に切ることができた。本当に感謝している。ありがとう。」

法律君 「何だか、私が言われているみたいで照れるね。引退試合の話が終わったことだし、今日はここまでにしよう。」

9 日目 その後

法律君 「09 七大戦の後の近況を報告しようか。」体操君 「体操にはほぼ関わらなかったな。OB 戦も出なかったし、しもつき杯と三校戦は後

輩たちのチームリーダーをさせてもらったけど。君の方は中々充実していたんじゃない?」

法律君 「おかげさまでね。七大戦が終わった後は、大学院の試験が控えていたため、そのための勉強をしていたのと、あとは佐伯先生の刑法演習ゼミの発表の準備をしていた。後者は院試の勉強の合間を縫ってという感じだったので、中々最後まで切羽詰まっていた。三校戦は京都だったけど、京都滞在中もずっと準備をしていた。」

体操君 「発表内容が、『児童ポルノ規制の立法論的検討』だね。」

卒部論文

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卒部論文

法律君 「そう。実はこのときの発表が意外と重要で、自分の興味関心が法律学の中のどのあたりにあるのかがこのときから徐々に明らかになってきた。つまり、精緻な基礎理論を組み立てたりする学者の仕事や所与の法律を道具として使いこなしていく実務家の仕事ではなく、法律というインフラを整備していく立法者の仕事に魅力を感じているのだなと。」

体操君 「公務員にでもなるのか?」法律君 「そこまでは、分からないねえ。思い描いたレールの通りには、人生は進んでいかない。

というのは、体操競技を通じて君が一番よく知っていることだろう。」体操君 「ははは。ところで、実は今日が最後の対談なんだけど、最後に 2010 年の東日本イン

カレ@宇都宮の話をしておこう。」法律君 「現在の時点では、それが一番新しい東大体操部の試合だ。」体操君 「僕は、もう 4 月から仙台に来てしまったから、後輩たちの仕上がりがいかほどのも

のか全く知らなかった。ただ、4 月の時点で、グループ予選を見たときは、那珂将人君はケガをしていて、あまり調子は良さそうではなかった。

 しかし、さすがは那珂君、というか、僕には全くできなかったことなのでただただ感心のまなざしを送ることしかできなかったのだが、彼は、完璧に東日本インカレにコンディションを合わせてきていた。完璧に。そして、完璧な演技をしてくれた。結果は、全日本インカレ個人出場達成。決めるべくして決めた、という完璧な『物語』がそこにはあった。そのときに僕が感じたのは、素晴らしい体操を見せてもらったという感動と、一人取り残されてしまったなという気持ちだった。那珂君の演技は、08全日本インカレでの小川和久先輩の演技に重なるものがあった

56

。この二人は、体操の中で各自の『物語』を完成させることができた(もちろん、那珂君の『物語』はこれからも続いて行くだろう)。僕のようになるに任せるのではなく、自分の力で引き寄せたということだ。そして、その二人に取り残された自分、という寂しさがあったわけだ。」

法律君 「何がその二人と君を分けたのかな?」体操君 「色々あるとは思うが(それこそセンスだとか言い出すときりがない)、僕は競技生活

を通じて近視眼的だったね。いつも目先の目標に囚われていた。その点、あの二人は常に長期間の展望をもって体操に打ち込んでいた気がする。

 あと、僕は色々体操に持ち込みすぎていたかもね、頭でっかちというか。それを思い知らされたのは、先日の 10 東日本インカレでの那珂君の跳馬の演技だ。演技というか助走だ。その助走からして僕は自分と彼との決定的な違いを頭にたたきつけられた。主審の旗が上がって『はい』と言い、走り出す。昨年の東日本インカレでの僕はというと、ただのツカハラ跳びに不安があるという有様だった。走り出す前のその姿には言いようのない不安感があり、中々走り出せない。そして、その不安感は観客に

56  演技の完成度は自ずから異なっていたが、それは、夢の舞台全日本インカレとその前段階としての

東日本インカレという、試合の性質上の違いからして仕方がないこととである。

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試合結果

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卒部論文

も伝わってしまったはずだ。対して、那珂君はどうか。彼は転回一回ひねりを跳ぶのだが、その助走には微塵の不安も感じられなかった。手を挙げて走り出し、跳ぶ。その一連の流れは、いつも通りにいつもやっていることをやるだけ、という職人の作業のように感じられた。もちろん観客としては、こいつなら大丈夫、と肩の力を抜いて彼の演技に見入ることができる。ここで気付く。ああ、これが体操の本質なんだなと。いつも通りのことをやるだけ。試合に不安を持ちこむな。オリンピック金メダリストの冨田洋之選手の言葉を借りるならば『難しいことを難しく見せるのがサーカス。難しいことを簡単に見せるのが体操』。那珂君の演技は、正に体操の演技として備えるべきものを備えていた。ツカハラが跳べないかもしれないという不安を試合に持ち込んだ時点で、僕の演技が真に体操の演技になることはなかった。」

法律君 「それは、後悔?」体操君 「よくわからんが、後悔とは違うと思う。今は那珂君の七大戦での演技、全日本インカ

レでの演技が楽しみでしょうがない。」法律君 「さて、いよいよ最後。最後の言葉をお願いします。なんか、結局対談というより私が

君にインタビューするという形になってしまったな(笑)。」体操君 「では、最後に改めて謝辞を述べさせていただきたいと思います。

東大体操部の歴史を支えて下さった OBOG の皆様、二部練の際はご迷惑をおかけいたしましたが、本当にどうもありがとうございました。体操生活を共にした先輩方、いつも親切に指導をしてくださり、どうもありがとうございました。4 年間一緒だった、同期のみなさん、特に幹部学年のときは大変でしたが、支えて下さりありがとうございました。そして後輩のみなさん、僕は体操というものを教えてあげることができなかった、それについて詫びるとともに、それでも体操を続けてくれたことに感謝します、ありがとうございました。

 また、トレーニング体育館に現れたときに、温かく迎えてくれればうれしく思います。それでは、みなさんごきげんよう。」

―了―

卒部論文

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卒部論文

山本 一久

 東大体操部の皆様、こんにちは。あっという間に4年が過ぎ、早くも OB の仲間入りをした山

本です。卒部論文ということで、この4年間を振り返ってみようと思います。

■入部

まず、体操部入部のきっかけですが、追いコンで卒部のあいさつをさせていただいたときに

も言ったかもしれませんが、正直な所酔っぱらって何を話したのか自分でよく覚えていないので、

ここでもう一度書きます。小学校2年生から高校までは空手をやっていた私ですが、ひそかに体

操へのあこがれをもっていました。私が小学校のころに「筋肉番付」というテレビ番組があり、

そのなかでバク転50M 走(100M だったかも)や、ハンドウォーク(倒立歩行で障害物を

越えながらゴールを目指す)といったコーナーがありました。それをみてすごいと思った私は、

両親に体操をやりたいとお願いしました。しかし「身長が伸びなくなってもいいのか」と言われ、

あきらめてしまいました。(結局身長はあまり伸びませんでしたが・・・)その時は父親に勧め

られて空手を始め、高校生まで主に「形」をやっていました。きれいに、そして力強くみせると

いう点では体操と似ていたと思います。

 大学に入学してからは10年続けた空手に別れを告げ、あこがれの体操部に入部することにし

ました。初めて行ったトレ体では床での連続の前宙や後宙をやっている人がいたり、先輩方の筋

肉がすごくてびっくりしました。

 さて、ここからはそれぞれの種目ごとの思い出でも書いていきたいと思います。

■床

 入部したばかりのころ一番好きだったのは床の時間で、特にミニトラが楽しくて仕方なかった

です。楽しすぎてタンブリングのほうであんまり練習しなかったのは失敗でしたけど。ミニトラ

ではひねりなどもかなり練習しました。前宙の抱え込みのハーフから始まって、前宙一回ひねり、

後宙ハーフ、後宙一回ひねり、前宙一回半ひねりのような感じでどんどん挑戦していきました。

合宿などでピットが使えるときは、後宙二回ひねりや二回半ひねりも練習しました。二回を超え

ると自分がどこにいるかわからなくなって技としてはめちゃくちゃで、とても試合で使えるよう

なものではありませんでしたが、それでもひねっている時の何とも言えない空中感覚が好きでひ

たすらに練習していました。

 宙返り以外については、まず開脚は小学生の時からやっていたというかやらされていたので、

すぐに技として使えるようになりました。しかし、倒立に関しては「筋肉番付」にあこがれて我

流で倒立歩行の練習をやっていたのですが、本格的な体操の倒立は全然ちがって、まず壁倒立の

辛さにびっくりでした。2分なんてとてももちません。壁倒立は大嫌いでした。でもそんな大嫌

いな壁倒立のおかげで筋肉がつき、倒立が止まるようになっていきました。「筋肉は裏切らない」

んですね。伸肘なども最初はどこに力をいれていいのかわかりませんでしたが、わからないなが

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試合結果

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卒部論文

らも練習していくと筋肉はそれに応えてくれるんですよね。筋肉ってすばらしいですね。

■鞍馬

 鞍馬は・・・そうですね、嫌いでした(笑)。最初からうまくいくわけないということはわかっ

ていても、旋回がなかなか回らないのが悔しくてたまりませんでした。回らない上に手首がすご

く痛くて練習できなくなったり、なんとか回るようになると今度は下手なせいで鞍馬に足の同じ

所を何度もぶつけて悶絶したりしていました。鉄棒みたいに大けがをすることはあまりない種目

だと思うのですが、小さなケガは多いですよね。地味に痛いし。そんなこんなで苦労した鞍馬で

すが、苦労した分技ができたときは嬉しかったです。旋回が3周ほど回って大喜びしたり、横移

動ができて大喜びしたり、馬端旋回が回って大喜びしたり・・・そうしているうちにだんだん鞍

馬も楽しいな〜と思えるようになっていきました。なぜか OB になってからは鞍馬の調子がいい

気がします。もう少しはやくこうなっていれば・・・というのは言ってもしかたないですけどね。

■吊り輪

 吊り輪は好きです。大好きです。もう吊り輪だけ、特に力技だけやってたいです・・・すいません、

つい興奮してしまいました。まあこんな感じで私は吊り輪が好きです。初めて吊り輪の練習をし

た日はあまりに疲れて腕が上がらなくなりました。当時は寮に住んでいたのですが、寮の脱衣所

で腕が上がらずに服がなかなか脱げなかったことをよく覚えています。練習では支持なんかまと

もにできないし、スイングはうまく体が使えずに大きく振ることができなくて、毎回大した成果

もなく疲れ果てて帰っていました。しばらくして筋肉が付き出すと、支持、脚前挙、根性上がり

としだいにできることは増えていきました。しかし、吊り輪はここからが長かったように思いま

す。床で倒立ができるようになっても、吊り輪でやるとまず倒立の姿勢になることすらできなく

て、足を使って頑張って倒立姿勢までもっていっても、足を離した瞬間に倒れてしまいます。吊

り輪での倒立はいまだに肘が伸びないです。あと、十字懸垂との付き合いも長いですね。十字懸

垂は一年の時から少しずつ練習をしていましたが、ほんとにこれはもうできる気がまったくしな

かったです。十字の補強の時は「力入らなくてもいいから肘だけは伸ばすように意識しろ」と言

われ、とにかく肘を曲げないようにしました。補助してもらうのはもちろん、よくチューブを使っ

てひとりで補強していました。二年生になってからは、少しずつ力がついてきて、「できる気が

しない」から「いつかできそうだ」と気持ちが変化していきました。しかし、肘、肩、鎖骨とあ

ちこちを痛め、思い通りに練習ができない時期もありました。せっかく「いつかできそうだ」と

思い始めたのに、気持があせるばかりで体がついてきてくれませんでした。二年生の三校戦のこ

とですが、どうしても試合で十字をやりたくて、まだできないのに肘を曲げて無理やり十字をやっ

たことがあります。でも、うまくいかず、試合が終わってから反省しました。それまで肘を曲げ

ずに練習してきたのに、その努力を自分で台無しにしてどうするんだと。やはり時間がかかって

も自分が満足できる十字懸垂がしたい。それからはまた補強の日々です。十字の補強に加え、ケ

ガを防ぐためにチューブでインナーマッスルを鍛えるようにもしました。ある時先輩に「なんか

今日は十字が止まりそうな気がするって日がいつかくるよ」と言われたことがあるのですが、あ

る土曜日、ほんとに「あ、なんか今日は十字がとまりそうだな」と思えて、やってみると肩が下

卒部論文

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卒部論文

がりすぎだけど肘が伸びて静止しているといえるような十字ができたことがあります。このとき

に肩をひっかけるという感覚をつかんだのだと思います。その時はめちゃくちゃ嬉しくて、ます

ます十字の補強に励むようになりました。結局私が初めて試合で十字懸垂を止めたのは、三年生

の七大戦でした。試合筋のおかげでもあるとは思いますが、その時はあれだけきつかった十字懸

垂が、「楽だな」と思えたことを覚えています。練習を始めて約2年、ついに満足のいく十字懸

垂ができました。・・・なんだか十字のことばっかり書いてしまいましたが、それだけ私にとっ

ては思い入れがある技ということです。

■跳馬

 跳馬は転回からほとんど進歩しませんでした・・・。ピットを使ってツカハラの練習もやって

はいましたが、まず怖くてなかなか飛べなくて、思い切って飛んでもピットじゃなかったら顔面

着地で鼻血確実という段階から進んでくれませんでした。う〜ん、跳馬に関しては他に書くこと

がない・・・

■平行棒

 平行棒は技が増えていくのがおもしろくて好きでした。もちろん最初は支持がつらかったり、

アームスイングで腕にあざができて痛かったりしましたが。アームスイングは今でも苦手です。

練習しなきゃ・・・そういえば平行棒には大失敗した思い出があります。エバーを積んで宙返り

下りの練習をしていたときに、一瞬躊躇してしまって回転が止まり、首から落ちてしまいまし

た。その後数日間首が動かせませんでした。うわー思い出したらなんだか首がムズムズしてきま

した・・・とまあ失敗はありましたが、平行棒は床に次いで特別要求がそろった種目ですね。要

求がそろうと得点もそれなりに上がるのでうれしかったです。

■鉄棒

 鉄棒はもう手の皮がむけるのが痛くて大嫌いでした(笑)。私の住んでいた寮では一年生は掃

除当番があり、水周りの掃除もやらないといけないのですが、手の皮がむけた日に掃除当番があ

ると最悪でしたね。痛いし汚いしもう鉄棒のばかやろー!って感じでした。あと、鉄棒はことあ

るごとに「怖えー!」って言ってた気がします(笑)。怖いので車輪の練習から逃げてばっかで

した。車輪ができてもうれしいというよりは怖えー!という気持ちのほうが大きかった気がしま

す。宙返り下りも怖えー!って言いながら回して、移行も怖えー!って言いながらつかんでまし

た。まあ怖えー!とかいいながらも少しずつ技ができるようになっていったからよかったのです

が、ある時大失敗しました。いつもは怖えー!とか言って鉄棒から逃げてるのに、その日はなぜ

かやる気があって、車輪がまだ安定していないのに車輪宙の練習をいきなりやってしまい、手を

離すタイミングが遅れて真上に飛び、バーに脛をぶつけたあげく首から落ちて大変に痛い思いを

しました。落ちた瞬間に目の前に星が飛びました。うわーこれも思い出したら首がムズムズして

きました・・・あと鉄棒で苦労したのは飛び越しですね。飛び越しはまずなかなかバーをこえる

ことができなかったです。振り出しが小さいのと、例のごとく怖えー!という気持ちが邪魔をし

ていました。私は四年生の七大戦で引退したのですが、その引退試合に飛び越しを間に合わせた

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くて怖いながらも練習しました。でも直前まで満足するものができず、その上院試も近くて情け

ないですが弱気になっていて、もうあきらめようと思っていました。しかし、会場練習の時、他

の大学の人が飛び越しを練習しているのを見て、やっぱり最後の試合だし、だめでもともと悔い

なく終わらせたいと思い、やることを決意しました。試合がはじまり、鉄棒の自分の番になりま

した。審判にあいさつをし、いざ演技開始。片逆手から思いっきり振り出して、下で抜いて、バー

を越え、そして・・・・・その時両手に感じたバーのしなりは忘れられません。低いし、膝は曲

がっているし、とてもほめられた飛び越しではなかったけど、自分にとっては最高の瞬間でした。

■最後に

私が4年間体操を続けることができたのは、たくさんの先輩方、OB・OG の方々の丁寧なご

指導があり、後輩のみなが補強につきあってくれて、そしてなにより一緒に練習してきた同期の

皆のおかげです。本当にありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いします。短

いですが、これで私の卒部論文は終わりです。それではまたトレ体で。

平成 22 年 8 月

山本一久

卒部論文

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卒部論文

原 加保里

はじめに

大学生活 4 年間は本当にあっという間に過ぎたような気がします。その中でも体操部で過ごし

た時間はかなり大きな割合を占めていました。体操部を通じて、様々なことを経験し、成長する

こともとても多かったです。つたない文章ですが、体操部での 4 年間を振り返ってみたいと思

います。

体操部に入るまで

私は浪人時代に勉強以外に何もしていなかったため、大学に合格したときは、夢の大学生活!と

ばかりに色んなことに挑戦してみようと決意していました。それで色々なサークルを見て、最終

的に体操部と、他に 2 つのサークルに入りました。

体操部に入るかどうかは迷っていたのですが、高校の部活でもやっていたし、やっぱり好きだか

ら、大学でもやろうと決めました。武道系にも興味はあったのですが、結局見学にも行きません

でした。また、知っている人も多いと思うのですが、私の双子の姉も名古屋大学体操部に入った

ため、七大戦で勝負する!ということが体操を続ける理由の1つとなっていたとも思います。

でも、新学期早々に、包丁で指を切って血が止まらなくなるというアホなことをして、しばらく

倒立もできないために、練習にはなかなかいけなかったです。はじめて練習に行って体操をした

らやっぱり楽しくて、しかもすごく上手な先輩もいるし、器具も全部そろっているし、こんな良

い環境があるのだから、大学4年間続けるしかないだろうと確信しました。

同期との出会い

包丁ざっくり事件のせいで、練習にいけなかったりしたのもあって、同期との出会いはちょ

と遅かった気がします。

茜ちゃん(山路茜)とはじめて会ったのは、4月の中頃のグループ予選の応援のときだった

と思います。それまでに真歩さんから、もう一人練習に来ていて、入部するって言ってる女の子

がいるよーと聞いていたので、この子か!という感じでした。山本(山本一久)は、1年生の男

子も何人か練習に来ているよ、と先輩に言われて話したうちの一人だったと思います。大学はじ

めだと聞いていたのに気がついたらロンバクもロン宙もやっていて、かなりびっくりしました。

そして一応経験者として悔しかったのと、うらやましかったです。最後の一人、大木と初めて会

ったときというのは、なぜか覚えていません…。最初からOBみたいだったのでしょうか。大木(大

木健輔)については、新歓コンパですごく酔っ払い、アイクさんに日本とドイツ人の国民性の違

いについて話し続けていた(しかも意味がよくわからなかった)ことをよく覚えています。そし

て気がついたら2人とも筋肉ムキムキになっていました。あと、忘れてはいけないのが島田です。

亜細亜大学ですが、体操はダントツに上手く、気がついたらトレ体に来ていました。初めの頃は、

あんなキャラではなく、あまり話したこともなかったと思うのですが、3 年生くらいから、今の

ようないじられ (?) キャラになっていました。

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試合結果

春合宿

近況報告

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卒部論文

体操部に入部して

体操部自体にすぐなじんだかというと、どうだったのでしょうか…。私は元々あまりしゃべ

る性質じゃないのと、はじめのほうは人見知りが発動して、特に男性の先輩とはあまり話さなか

ったような気がします。女性の先輩方とは一緒に練習して和気あいあいとしてました。西岡さん

と柳田さんは帰る方向が一緒だったので、帰り道に結構話したりしたのですが、初めのほうは結

構固く ( ? ) なっていて、受け答えが変だったようです。今でも西岡さんに「へー、そうですね

ー」ばっかり言ってたと言われますが、あの時はちょっと人見知りで緊張してて頭が回ってなか

ったんですよ!と主張しておきます。今はもうちょっとまともに受けこたえできますよ。さすが

に。初めの頃は、ほんとにしゃべらないキャラだったと思うので、傍から見て浮いていたかもし

れないのですが、私にとって体操部は結構すぐに居心地のいい場所となっていました。

はじめの頃の練習では

筋肉痛がひどいものでした。高校までのそう大したことのない蓄積も、一年間まったく運動

しなかったことでなくなってしまい、初心者同然になっていました。そのためはじめの頃は、毎

日が筋肉痛だったと思います。また、高校までと違い、段違い平行棒の低バーと高バーの間隔が

広くて、はじめは高バーを摑みに行くのすら恐怖でした。しかもプロテクターも着けたことがな

かったため(高校までは素手でした)、ちゃんと握れないような気もして、段ちに関してははじ

めは怖いことばかりでした。高バーへの移行に関しても、何度か摑みが甘くて吹っ飛んだりしま

したし、しばらくやりたくないくらい怖かったです。この移行に関しては、茜ちゃんが先にでき

てたことで、うおっ!と思って、茜ちゃんに負けないようにやったるぜ!と気合が入りました。

おかげでしばらくしたらちゃんと移行できるようになりましたし、プロテにもなれて色々と技の

練習ができるようになりました。

茜ちゃんとは、そんな感じにいいライバルでした。できないこともほとんど同じだったので、

抜きつ抜かれつ色んな技を身に付けられたと思います。けあがりもそのうちの1つで、茜ちゃん

が低バーけあがりを先に、しかもきれいにできるようになり、高バーけあがりは私の方が先にで

きるようになったなどということがありました。

また初めの頃は本当に筋肉がなくて、特に腹筋が足りませんでした。この頃主将だった西岡

さんの指揮の下やっていた、しめの補強でいつもひーひー言ってた気がします。でも入った当初

は 1 分半も維持できなかったのが、半年後くらいには何とか維持できるようになっていて、そ

の頃にけあがりもできるようになりうれしかったです。本当に補強は大事だと思いました。この

頃から自分のアップメニューにゆりかごや V 字腹筋など補強をするように心がけるようになっ

たと思います。

大会と言えば ・・・ 七大戦

色々とある大会のなかで、私はいちばん七大戦が好きです。帰省の度に練習させてもらって

いる名大もいるし、女子は少ないけど、その分仲良くなれるし、男子団体の応援はすごく盛り上

がるし。同じくらいのレベルだった人が次の年にはすごくうまくなっていたりして、私もがんば

卒部論文

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卒部論文

ろうと言う気持ちになれますので、七大戦に限らず、大会の度に他大の人と仲良くなっておくの

は本当にいいと思います。

私の場合、前述したように大会のライバルとして双子の姉(以下、由香里)がいました。毎

年七大戦の度に勝負していて、4 年間、4 回の勝負で、結果はといいますと ・・・

2 勝 2 敗でした。引き分けです。負けるのは負けるので悔しいですが、引き分けも悔しいです。

内訳を見ますと、1,2年生と姉が勝ち、3,4年生で私が勝ってます。後半で挽回した形なので

すが、技の難易度はほとんど変わらなかったので、ほとんど僅差でした。しかも体操の技の成長

率とかを見ると、私の方が負けている気がします…。

技はいつも競い合っていたのですが、常に一歩先を行かれていて、たとえば、1 年の七大戦、

由香里はなんと、段違い平行棒で「低棒のスイングからけあがり」をしました。(注:高校のと

きはできませんでした。)私はまだ練習中で、できなかったのに!!とかなり悔しかったです。

このため、七大戦後から気合を新たに練習に参加していたのですが、すぐに段ちで低棒のスイン

グからのけあがりができるようになりました。他には、2 年のときに私が練習中のロン宙をし

たり、3 年のときには同じく私が練習中であった、平均台でのバックブリッチをしたりと、相手

の方が先に技ができていたため、大会後の練習によりいっそう気合はいるということが多かった

です。やっぱりライバルは重要です。

ちなみに1年生のときの七大戦は、大会の次の日がテストだったので、レセプションに参加

できず、東京に帰るという、これまた残念な思い出があります。

七大戦、大会自体も好きですが、レセプションも好きです。1 年目の無念の不参加を取り戻す勢

いで、2年目以降はカラオケオールしたり、いろんな人としゃべったりした覚えがあります。北

大の人たちが大いに盛り上がって、大騒ぎしているなかでの表彰や、筋肉比べとか、七大戦のレ

セプションは本当にいいですよね。ちゃっかり今年(OB1 年目)の七大戦のレセプションも参

加してしまいました。

秋の大会

新人交流戦、OB 戦、しもつき杯、三校戦と秋から冬にかけては大会ラッシュです。

七大戦では茜ちゃんに勝てたけど、OB 戦、しもつき杯では負けたり、その逆もあったりと茜ち

ゃんに勝ったり負けたりしていたと思います。結局4年間ではどっちの成績が良かったのでしょ

うか?茜ちゃんのような気がしますが。

幸せなことに、私はほとんど怪我をしなかったので、大会に出られなくなると言うことがな

かったです。だからほぼ全ての大会に出たのですが、特に思い出深いものは 2 年生のときのし

もつき杯と、3 年のときの三校戦です。2 年生のときのしもつき杯は、床が絶好調で、初めて賞

をもらうことができました。特に難しい技をせず、減点が少なかったのが良かったと思います。

新しい技が増えていなかった時期で伸び悩んでいたのですが、少しでも成長していると分かって、

その後の練習にとても励みになりました。個人総合も入賞したかと思いきや、実は1人ずれてて、

入ってなかったため、ちょっとがっくりもしましたが。でも床で入賞できたのはとても嬉しかっ

たです。3 年のときの三校戦は、ものすごく寒かったのを覚えています。この大会で 1 つ上の学

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試合結果

春合宿

近況報告

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卒部論文

年のまっほいさんたちは引退だったので、目に焼き付けるようにして応援しました。

後輩

2年生のときにオリ合宿にいったら、体操部に入ります!と宣言してくれた、なんだか面白

い人がいたり(鈴木君)、高校の時にクロスカントリーでインターハイ出場!という元気な子が

いたり、笑いのつぼがおかしい人がいたり…と体操部は相変わらず面白い人ばかり入ってきます。

後輩といっても、私が新しい技に挑戦するときに補助をしてもらったり、アドバイスをもらった

りと本当に沢山お世話になりました。先輩にも後輩にも、沢山の人に補助してもらったことで、

ロンバク、ロン宙、平均台の宙降りなどなどいろんな技ができるようになりました。特にロン宙

は 2 年生の七大戦のときに危なっかしいロン宙をやって以来、3 年の春までやってなかったので

すが、やっぱりやりたいと思って、色んな人に補助してもらい練習をしました。抱え込みが半端

で、高さは回転がないとか色んな人からアドバイスをもらって、4 年の大会では演技に入れるこ

とができるようになったのは本当にうれしかったです。ありがとうございました。

4 年生になって

4 年生になり、今まで結構おろそかにしてきた学業と真剣に向き合わないといけなくなってい

ました。将来の展望として、研究者と言うものも考えていたので、研究室でかなり頑張らないと

という気持ちがあったのが大きいです。そのため、1 つ上の学年の先輩方みたいに三校戦まで部

活に出つづけると言うことが厳しくて、色々と悩んだ結果、一番思い出深い七大戦で引退するこ

とにしました。由香里との最後の勝負と言うのもありましたし。運が良いのか悪いのか、七大戦

の直前に院試も終わるので、これを期に一気に研究室生活に入ろうと思っていました。

現役最後の試合、ということで、七大戦の一週間前にある院試がかなり負担になりつつも、

ロン宙をなんとかきれいにやりたくて、床のときは毎回3,4回はやるようにしたり、減点を減

らすために、指先までいつも以上に意識するようにしたりと(普段からもっと意識しろよと言う

話ですが)色々と気合を入れて練習しました。同時に七大戦の主管であったため、大会開場下見

とかレセプション幹事の手伝いなどもしました。こういう祭りの実行委員みたいなことは結構好

きなので、かなり楽しかったです。

現役最後の試合は、気合を入れていた床でのロン宙も、前宙もちゃんと着地ができ、全体と

して大きなミスもない演技だったので、本当に良かったです。合宿のときに肩を痛める原因とな

った段ちでのフット移行も成功することができ、嬉しかったです。茜ちゃんには負けてしまいま

したけど、由香里には勝つことができましたし、おしくも 7 位で入賞できませんでしたが、レ

セプションではなぜか祝ってもらったりと、色々と嬉しいこともあり、最高の引退試合になった

と思います。

体操を引退した後は、ちょっと足が遠のきつつも、ちょこちょこと顔は出して、いつもマイ

ペースに練習させてもらっていました。4 年生のときの三校戦は京都で行われたため、京都観光

と応援のために着いていって、前日の会場練習もノリノリで練習してしまいました。そしたらな

ぜか京大の同期の子が参加登録しといたから!と笑顔で言ってきてくれて、翌日の試合にも選手

として参加することになりました。さすがに週 2 日も練習に行ってないのに、順位に組み込ま

卒部論文

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卒部論文

れるのは毎日練習している現役に失礼だと思ったので、オープン参加にしていただきましたが、

結局三校戦に出場したのが大学生活最後の試合と言うことになりました。でもこれを引退試合に

した京大と横国の同期と一緒に試合をすることができて、参加してよかったと思いました。

最後に

私はサークルを掛け持ちしていたことで、あまり練習にいけないこともあって、体操部の一

員としてこれでいいのだろうか、と負い目に感じていたことがありました。時間が空いていたら、

いつも練習に行くようにしていたのですが、どうしても他の人に比べて練習時間が短くなって、

いつの間にか追い抜かされており、悔しい思いをしたこともあります。

でも 2 年の終わり、幹部になるときのミーティングで、小川さんに、お前は練習頑張ってい

るから、サークル掛け持ちとかで負い目に感じることはない、と言ってもらえたことが、とても

嬉しかったです。幹部学年のときは他の先輩にも叱咤激励を受け、精神的にも成長できたと思い

ます。ここに書ききれないことはまだまだたくさんありますが、本当に沢山のものを体操を通じ

て得ることができたと思います。体操は個人競技ではありますが、1人では何もできません。ト

レ体の OB,OG さん、先輩や同期、後輩、他大の体操部の方々、多くの皆様にお世話になり体操

を続けることができました。この場を借りて厚く御礼申し上げたいと思います。本当にありがと

うございました。

2010 年 原加保里卒部論文

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試合結果

春合宿

近況報告

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山路 茜

序章 はじめに

東大体操部に入部したのは 2006 年 4 月でした。そこから長かったような短かったような充

実した4年間が過ぎ、卒部も終えてしまいした。ふと振り返ってみると、楽しかった思い出、嬉

しかった思い出、辛かった思い出、悩んでいた思い出が次から次へと浮かんできます。私にとっ

てトレ体での思い出はそのまま大学生活の思い出であって、どれも思い入れの強いものばかりで

す。体操部を通じて成長させられたと感じています。

今改めてその思い出を見つめていると、何をどう書けばいいかわからないのが正直なところ

です。選んでこの場に記すことは非常に難しいことですし、あまりに自分の全てであって恥ずか

しいという感情もあります。しかし、節目としてしっかり記しておきたいと思います。

第1章 自分にとっての体操

私は最初からほぼ入部を心に決めてトレ体に行きました。体操は(一応)中学の時からやっ

ていました。しかし、あまり自分に向いている競技ではないことを薄々感じていました。という

のも、筋肉がつきにくく、補強を重ねてつけた筋肉も少食の為ふと気を抜くと大して食べられな

い時期を迎え、筋肉は侵食され振り出しに戻るというスパイラルにはまるからです。食べればい

いと考えましたが、胃を壊すという結果に終わりました。

そんな私ですが、体操以外の競技をやる自分を想像した時にどうしてもしっくり来ず、自然

と体操部へ足が向きました。経験者を名乗るにも関わらず大した技もできない私を歓迎してくれ

て嬉しかったのを覚えています。OB・OGさんもおられるし、ゲストの方もおられるし、トレ

体の懐の深さに胸を打たれ、ここなら悩みながらでも体操をできそうだと思いました。

ただ、経験者ということで跳馬・平均台・床の時間にあまりかまってもらえず、自分の練習

方法でいいのか心細かったという懐かしい記憶もあります。段ちだけは初めてだったので、一か

ら教えてもらうことができ、5秒ぶら下がっては落ちていたくせに入部当初は一番好きな種目で

した。この頃、同期で入部した原加保里(かほりちゃん)とスケジュールが合わなかったのか練

習で一緒になることが少なかった気がします。心細かった気持ちは、同じ境遇のかほりちゃんが

一人で頑張っているのだから私も頑張らなければと思って乗り越えていたのですが、後にかほり

ちゃんも私を見て同じことを考えていたと聞いた時は驚きました。新しい環境に慣れるまでに時

間のかかる私も夏休みを迎えてようやく一員に慣れた気がして安心したのを覚えています。

こうして結局トレ体は私の居場所となりました。以後、補強で筋肉を痛めるとか、練習で捻

挫するなどの怪我を繰り返しました。練習を一部控えることとなり、その度に衰えていました。

何度「なぜ体操を続けるのか?」と考えては体操をやめようと思ったか知れません。悩みだらけ

の体操生活でした。それでも、こうして体操を続けることができたのは、体操をしないと思うと

卒部論文

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卒部論文

違和感が生じる、トレ体の人たちが恋しくてたまらない、という思いでした。試合に出て点数を

伸ばして予選を通過しようという大事な欲を私は実は強く持つことができず、そうやって頑張る

部員たちに引け目を感じていた部分はありました。尊敬していました。そんなコンプレックスと

闘いながら、図々しい私は体操を自分のペースで楽しませてもらいました。自分なりに十分熱く

体操と向き合えたのは事実です。こうして体操を続けさせてもらえたことは、トレ体に関係して

いる皆様のおかげだと、常々から感じております。心から楽しんで上を目指して体操している姿

を見せてくれること、あたたかく迎えて励ましてくれること、全てが私の支えとなっていました。

振り返っても感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。

第2章 体操の成長

大学に入ってからできるようになった技の思い出の一部を振り返っておきたいと思います。

嫌な記憶は割と忘れる性質なので、技の完成度については今更触れないことにします。試合は自

分の成長を試す場だと考えていたので、印象深い試合ごとに書き留めます。

1 節 七大戦

デビュー戦であり、引退試合でもあり、4 回出場した試合はこの七大戦のみです。それだけに

とても思い入れのある試合です。

1年でデビューした当時、跳馬の転回跳びは背中を打つか打たないかのぎりぎりの出来栄え

でした。チームリーダーに本番でも補助していただいたのを覚えています。段ちでは、逆上がり・

前回り・後ろ回り、そんきょした後高バーを握っておりるという内容でした。平均台では久々の

試合に足が震え、駆け上がりのり、前転、ターンの 3 回と、ことごとく落ちました。降りもこ

の頃は側宙降りで、終末技はありませんでした。床もロンダートと転回がメインでした。これが

私の出発点でした。また、松本真歩さん(まっほいさん)が個人で連覇をし、おかげさまで以後

私まで団体優勝の味をしめることとなりました。

ロン宙デビューを果たしたのが3年の七大戦でした。ロン宙記念日は2008年7月22日です。

私の当時の手帳にはロン宙に夢中になっていた様子がたくさん記されています。体操を始めてか

らロン宙にたどりつくまで随分時間がかかりましたが、自分の演技がやっと体操らしくなった気

がして嬉しく思ったのをよく覚えています。あとこの試合では、前年度に団体優勝していたため、

僭越ながら私が選手宣誓をやらせていただいたのも思い出の一つです。なかなか得られない貴重

な体験で、緊張しましたが楽しさを味わうことができました。まっほいさんをはじめとするメン

バーのおかげです。ただ、試合結果は強敵の入った名古屋大に敗北となり、まっほいさんが最後

の七大を団体優勝で飾れなかったのを悔しそうにしていた顔が忘れられません。

なんといっても一番印象深いのは 4 年の引退試合です。このときの演技はどの種目でも私自

身のこれまでで最高の演技をすることができたと思っています。特に思い入れが強かったのは平

均台です。私の好きな種目です。思い起こせば新歓の自己紹介の場で野望を聞かれた時に「平均

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試合結果

春合宿

近況報告

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卒部論文

台のスペシャリストになる」と私はこたえました。スペシャリストには程遠い腕前なのでここで

蒸し返すのは恐縮ですが、平均台に愛着があったのは事実です。何か最後に挑戦したい気持ちが

あり、夢だったバックブリッチの練習に直前の合宿からはげみました。肩がかたく、手を閉じて

ブリッチするのは恐怖でした。しかし、西川先生をはじめ、たくさんの方に激励していただき、

試合で実施できるまでとなりました。実施するかしないかでは相当悩み、周囲に心配をかけまし

た。私の葛藤に付き合ってくれた方々には感謝しています。本番では両足のせたものの落下して

しまった点が残念ですが、全力で挑んだ結果なので満足に思っています。

2 節 OB戦

トレ体でOB・OGさん方と試合ができて、新しい技に思う存分挑戦できる試合として好き

な試合でした。

1年のOB戦の直前が体操の伸び期でした。ロンバクと前宙が一気に床の構成に入りました。

体操が楽しくて仕方がない時期で、絶えず体操のことを考えていたような気がします。

ところで、ロンバクは私にとってトラウマとなっていた技です。高校 2 年で体操部を引退す

る試合で痛い目に遭いました。それ以来の挑戦でした。過剰に怖がり、補助してくれていた方々

をあきれさせていたと思います。補助者の根気強い指導と励ましのおかげでOB戦にてついに構

成に入れられるまでとなり、とても達成感を得たのをよく覚えています。春にはロンバク宙をす

ると胸に誓ったのもこの頃でした。しかし、その後試合で必ずロンバクを実施してきたものの、

苦戦する技となりました。結局、普段補助にお世話にならないとロンバクをやれず、胸に誓った

はずのロンバク宙の道は結局閉ざしてしまいました。

2年のときのOB戦では、段ちでフットサークル、平均台で側転、床で側宙が入りました。

フットサークルはその後できたりできなかったりをくり返し、最終的に失ってしまったのは反省

するところです。平均台の側転も、中高時代に痛い思い出があって逃げていた技でした。こわか

ったので練習をさぼり、未完成でした。恐怖心が薄れたのは4年になってからでした。

3年では平均台のウルフとび 1/2 ひねりが増えたりしました。

3 節 しもつき杯

しもつき杯は涙あり笑いありの試合でした。しもつき杯が行われる頃は練習のしすぎでたい

てい体に疲れがたまり、いつも気持ちだけが先走って体が付いていかないとやきもきして迎えて

いました。

特に2年のとき、足首の怪我を引きずっていたのか、気持ちが弱かったのか、平均台で4回

も落下するなどの不甲斐ない演技をしました。今考えると恥ずかしいのですが、当時は非常に悔

しくて激しく泣いたことを忘れられません。

一方、3年で迎えたしもつき杯もやはり怪我に悩まされていました。腰痛と足首の捻挫を抱え、

出場をも迷っていました。事前に相談をし、練習を控え、本番集中で当日を迎えることとしまし

た。結果は、段ちでは私の段ち歴の中で最大の技数を実施することができ、平均台ではノーミス

卒部論文

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卒部論文

の演技をしました。女子団体優勝まで味わうことができたのはおいしいおまけです。文教が強い

人ぞろいで自分たちにはいくらまっほいさんがいても届かないと思っていた優勝でしたが、文教

が主幹で練習不足だったこともあり、団体メンバー(まっほいさん・かほりちゃん・西塚あすか

(あすかちゃん)・私)の地道な努力によって運をつかんだ体験でした。怪我をしていても、気持

ちの作り方次第で何か得るものがある演技をできるものだし、チームで力を出し合って戦う楽し

さをこの時鮮烈に感じました。

4 節 グループ予選

公式戦なので、採点も厳しく空気も張り詰めていること、さらに4月の学期初めには決まっ

て体調をくずすという体質の為に、満足のいく演技をした思い出はありません。しかし、2年の

グループ予選は印象に残っています。初めて東大女子で公式戦に団体出場(柳田さん・まっほい

さん・小谷野さん・西山枝里さん・かほりちゃん・私)した試合でしたし、新技に果敢に挑戦し

た試合でした。

まず、1年の 2007 年 1 月 22 日のことでした。けあがりが初めてあがりました。柳田さんや

まっほいさんがタンマを撒き散らして手をたたいて喜んでくれた瞬間が忘れられません。あがる

ようになったその日の内に足の指を捻挫して練習を控える目に遭い、一喜一憂したのも思い出で

す。しかし怪我の功名とはこのことで、低バーで練習できないなら高バーで練習、ということで

高バーけあがりもまもなく習得することができました。

また、その後の春合宿で、平均台の前宙降り、段ちの宙降りをマスターしました。段ちの宙

降りは合宿初日に練習を開始し、その日の内に手を離しました。こわいと思う間もなくピットに

とび込んでいました。最終日には陸地にあがり、その後トレ体に持ち帰ることができました。2

年のグループ予選でけあがり2つ、降り出し宙が盛り込まれ、段ちにやっと親近感を得ることが

できました。

3年では、段ちでともえ、平均台で後宙降りが新たに加わっていました。後宙降りを獲得し

たのは 2008 年 3 月 14 日のやはり春合宿中でした。それまでの前宙降りと比べると着地がとり

やすくなったし、当時は側転からつなげて降りられるようになりたいと夢に見ていました。叶え

ずに終えてしまったのは後悔です。

また、3年のときには試合直後に 39℃を超える熱を出し、帰路でダウンしていましたが、と

うとう4年で事前の体調管理に失敗しました。4年のグループは、咳風邪と胃腸炎に悩まされ、

案の定情けない演技をしたという忘れてしまいたい記憶もあります。

第3章 運営の思い出

体操部の思い出には体操の思い出だけでなく、運営にも思い出があります。書こうかどうか

迷うところでしたが、私なりに力を注いだ経験だったので、触れておこうと思います。

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試合結果

春合宿

近況報告

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卒部論文

1 節 合宿係

運営とも多少違うような気もしますが、記しておきます。1 年夏合宿は新横浜でしたが、ピッ

トが十分に使えないということで、一から新しく合宿所を探しました。NTCの前身であるJI

SS、長野のホワイトリンク、徳島の鳴門体操場、福井の鯖江体育館、そして滋賀県立栗東体育

館を候補として探し出しました。交通の便と費用面、合宿らしさを考慮して、その時やメンバー

に応じた判断で栗東にて合宿を行うこととしました。栗東はいい施設で私は好きですが、遠かっ

たため部員に不便な思いもさせてしまったような気もします。日程やら場所やらで何かと悩みま

した。力量不足からか苦労したり失敗したりした思い出がいっぱいです。今の部員を見ていると、

各自の仕事を当たり前のようにてきぱきとこなしているように見えて立派だと思います。しかし、

当たり前のように何かを準備しますが、それはそれなりの努力があって行われているはずです。

役割は分担しているので当然と言えば当然ですが、感謝の気持ちを忘れてはいけないと私は常々

感じています。

2 節 女子主将

私は女子主将を務めさせていただきました。葛藤が多すぎて当時の手帳に綴られているのは

悩みごとだらけです。いまだ、自分のやってきたことに自信を持てずにもてあましている経験の

数々です。当時の前小川主将から新大木主将とともに引き継ぎをした時、男女のバランスをうま

くとるよう指令を受けたのをずっと胸に刻んで 1 年過ごしました。詳細をここに記すのは、辞

めていった部員のことなど思い出して辛いのでできません。簡単に言えば、当時試合で結果を残

すことに燃えチームとして盛り上がり着実に上昇していた男子と、部員確保が第一の目標で体操

は各自のペースでやりたいことを楽しくやろうという女子の間で若干の溝があり、私は僭越なが

らそれを埋めようとしていました。

女子にみんくる練を導入したのは私です。先に男子だけが始めていました。男子は週1から

2へと増やし、一度消えていた全体補強も既に復活させていました。小川主将と大木主将により

男子がチームとして成長していたのを横で見ていました。せっかく女子も学年が埋まったのに(柳

田さん以下東大女子が4学年揃いそれが続いたのは初のはず)、男女で温度差ができている気が

するし、部員なのに顔を合わせない人がいるというのもさびしかったので、なんとかならないか

と無理やり行動した結果が女子のみんくる導入でした。ばらけた方が器具は混まなくて効率的と

か予定を合わせるのが困難とか様々な意見が当時はありましたが、週1、週2と徐々に決行しま

した。それが結果としてよかったのかどうかは皆さんの判断に任せるしかありません。自己満足

かもしれなくても、たくさん不備があっても、私はこのようにできたことを今は誇りに思うこと

としています。

その他ここに記すことはしませんが、女子主将として様々な経験をさせていただくことがで

きました。引っ張ってくれた方々、支えてくださった方々に感謝いたします。

卒部論文

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卒部論文

終章 おわりに

最後に、東大体操部で出会った全ての人たちに感謝の意を表したいと思います。上ではあえ

てお世話になった方々のお名前をあまり明記しませんでした。それは、きりがないからです。こ

こでは、普段改めてお礼を言える機会がない同期に絞って一言ずつ述べておきたいと思います。

かほりちゃん。私の体操の成長に欠かすことのできない存在です。一人では続けてこられな

かったかもしれないし、同志でありライバルでした。常に抜きつ抜かれつの関係でした。かほり

ちゃんの度胸に私は尊敬の念を抱き、頑張る原動力をもらっていました。忙しいかほりちゃんで

したが、私が体調をくずしたり何かピンチだったりした時にはいつも代わって活躍してくれまし

た。優柔不断な私にビシッと言ってくれるのもかほりちゃんでした。ありがとう。

山本くん。縁の下の力持ちです。忙しく、また大木くんが目立つだけに前面に出てくれるこ

とは少なかった気がしますが、話していると内に熱い思いを秘め強い向上心を持っているのを感

じました。大学はじめなのに体操の覚えが早く、経験者の割に上達の遅い私はすごいと思ってい

ました。新歓係を一緒にやった時とても頼りになり、幹部の時にもサポートが非常に力強かった

です。ありがとう。

大木くん。我が同期のリーダーです。体操も人一倍頑張りメキメキと上達し、主将としても

部を引っ張り、東大体操部の顔となっていました。女子主将として大木主将とは共に仕事させて

もらったりしました。ことなかれ主義だという大木くんですが、様々な改革をトレ体に持ち込ん

だのも彼です。お互い迷惑もかけあいましたが、共に試行錯誤して取り組んだ幹部としての経験

は私の糧となっています。ありがとう。

東大体操部には属していませんでしたが、島田くん。我が同期には大事な存在です。4年間

の半分くらいは同期だと知らずに過ごしたのも事実ですが、それ程体操がうまくてみんなに刺激

を与えていたと思います。周りを明るくする人物で、女子部員の練習にも気を配り悩み相談を引

き受けていました。ありがとう。

本当に最後になりますが、同期をはじめ、監督、西川先生、OB・OGの皆様、先輩、後輩、

トレ体関係の全ての皆様のおかげで、体操を続けることができ、今の自分があると思っています。

心より御礼申し上げます。

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会計報告

 平成21年度会計報告

会計担当 佐野 淳一

 ・収入

前年度繰り越し - 280179部費 490000運動会援助 47000学友会援助 140000学友会高額援助 200000OB の方々からの寄付 301650

 ・支出大会参加費 628910学連加盟料 149630選手登録費 62500用具費 238290Web 代 3235印刷代 860その他 9980

 ・残高- 194934 円

 以上を報告いたします。寄付をくださった OB さん方ありがとうございました。

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部員名簿

部員名簿

文責:孫 登昊

4年

甲斐 亘   理学部数学科 05090509

鈴木 真志  農学部応用生命科学課程水圏生命科学専修 06090117

滝川 寛之  農学部応用生命科学課程森林生物科学専修 06090107

西塚 あすか  経済学部経済学科 07090118

茂木 隼   工学部計数工学科数理情報工学コ-ス 03090599

3年

ヴァクホヴァ 魅良(ミラ) 教養学部地域文化研究学科ラテンアメリカ文化 830489

権 賢人   農学部農業資源経済学 850086

菅原 壮   経済学部経営学科 820046

孫 登昊   工学部航空宇宙工学科 840941

那珂 将人  教養学部広域科学科広域システム 840349

中桐 成美  理学部化学科 850468

ビートル ハダッド  教養学部総合社会科学科国際関係論文科 830490

松本 陸   日本大学文理学部

2年

遠藤 徹   文科Ⅲ類930130

桑村 明佳  実践女子短期大学食物栄養学科

佐野 淳一  文科Ⅱ類920041

夏目 和人  理科Ⅰ類940320

西村 海   理科Ⅱ類950534

馬場 祥伍  理科Ⅲ類960090

 1年

宇郷 将道  理科Ⅰ類041135

緒方 善政  理科Ⅲ類060038

栗林 煕樹  理科Ⅰ類040893

小林 隆貴  理科Ⅰ類041141

杉浦 正幸  理科Ⅱ類050102

中島 勇祐  理科Ⅱ類050165

仁科 寛   文科Ⅰ類010368

秀島 朋樹  理科Ⅱ類050234

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青木 彩   文科Ⅰ類 010242

谷田 桜子  理科Ⅱ類 050015

早瀬 朝子  理科Ⅱ類 050058

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おわりに

OB・G の皆様、部報の発行が遅れてしまい申し訳ありませんでした。今回の夏部報は、一年生の人数が多いのに合わせ、大木先輩の卒部論文が大作であるため読み応えのある分量となりました。その分読みやすさを編集者なりに工夫して体裁を整えたつもりです。しかし、なにぶんこういったことは素人であるため色々と見難い点もあるかと思います。今後、部報をより良いものにするためにも皆様のご意見、ご感想をいただけるとありがたく思っております。お気づきの点などございましたら部のメールアドレス([email protected])又はホームページ(http://todai-kunstturnen.net)まで投稿のほど宜しくお願い致します。今回部報を作成するにあたって、各記事を執筆していただいた部員、卒部生の方々、さらに部報印刷、製本を手伝っていただいた部員の皆様、ご協力ありがとうございました。

西村 海