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閻魔裁判《聖徳太子の封印》

目次はじめに―閻魔様との再会……………………21、隋書俀国伝の謎……………………………52、宮中で祀られた天照大神…………………93、北極星信仰から太陽信仰へ………………164、天皇号の由来は天之御中主神か…………215、天皇号の始用は推古天皇からか…………246、三貴神の誕生………………………………317、三倭国はどこか……………………………378、受気比の差し替え…………………………409、「歴史を見るメガネ」としての歴史知…4510、「須佐之男命」とは何か?…………… 5211、磐余彦(神武天皇)東征の意義付け…… 5812、邪馬台国論争は終わったか…………… 6313、大帯彦大王の大八洲統合……………… 6714、ヤマトタケルの大冒険………………… 7215、倭国東西分裂と神功皇后新羅侵攻…… 7816、厩戸皇子のハムレットの悩み………… 86終わりに代えてー一四〇〇年の横超…………93

はじめにー閻魔様との再会

懲りもせず聖者の秘密に迫りたり、また引き出さる閻魔の裁きに

なんと私は、「イエスとマルクスのつきもの信仰」(石塚正英・やすいゆたか共著『フェティシズム論のブティック』論創社刊、所収)と同じ閻魔大王の裁きの場にまた突き出されていた。「イエスとマルクスのつきもの信仰」は一九九七年頃『月刊 状況と主体』に掲載されている。

鬼の検察官:閻魔大王様、あれから十五年はたったでしょうか、例の「やすいゆたか」が今度は聖德太子の怒りに触れて、急死したらしく、裁きの場に参りました。

閻魔:何あの日本の仏陀と呼ばれた慈悲の権化のような聖德太子に祟られるとは、とんでもない極悪非道な研究をやらかしたのだな。

鬼検事:はい、まさしくこれ以上の極悪な研究はございますまい。なんとあの歴史上最も尊敬されております聖德太子が何と、主神と皇祖神を天照大神に差し替えたと言うのでございます。

閻魔:確か『古事記』や『日本書紀』では天照大神は、父神である伊耶那岐命から高天原を治めるように命じられたのではないのか?

鬼検事:はい、そのように記されていますが、その記事を畏れ多くも、疑ってかかっているのでございます。

閻魔:何、それは生意気な、しかし奴は哲学者を自称しておる。哲学者というものは少しでも疑わしいことは、信じようとしない。結局、疑っている自分自身しか信用できないと開き直るのが性分で、それでこそアイデンティティが保てるらしい。 たとえ相手が日本のブッダと言われた聖德太子でも疑ってかかってこそ、哲学者と言えるだろう。

やすいゆたか:閻魔大王様、お久しぶりでございます。その節は大変お世話になりました。娑婆に戻していただき感謝感激雨霰でございます。

あれからもずっと崖っぷちの人生でしたが、元気に頑張ってまいりました。

イエスの聖餐復活仮説では、三一書房『キリスト教とカニバリズム』、社会評論社『イエスは食べられて復活した』を世に問いましたが、予想していたような大反響とはなりませんでした。

それが『ダヴィンチ・コード』という、イエスに妻子がいたことをテーマにしたような本が、全世界で何千万部と売れたのですよ。そんなのどう考えても枝葉末節の問題ですよね。イエスの復活を宗教心理学的に解明した拙著が増刷にもならないとは、まったく納得がいきません。

それから梅原猛先生についての評伝をミネルヴァ書房から二冊出しました。『評伝 梅原猛 哀しみのパトス』と『梅原猛 聖徳太子の夢』です。梅原猛の怨霊史観の徹底が今度の仕事に結実したわけです。そのほかに西田哲学の入門書や中国思想史の本も書きましたが、テキストとして使用しているものの、まだ出版社から出すところまでいっていません。

閻魔:ここは裁きの場じゃ、その話はもういい、お前のしてきたことはとっくにお見通しじゃから。

やすい:それにしても哲学者の立場をご理解いただけて、さすが閻魔大王さまは物分りがいい。それに私は決して聖德太子をけなしているのではなく、彼の偉業を褒め称えているわけで、聖德太子に恨まれる謂れはありません。

鬼検事:この自称哲学者の亡者は、夜中にうなされていました。夢で聖德太子がでてきまして、よくも余を大罪人に仕立てた本を書いたなと襲いかかられたようでございます。そのショックで体中が硬直しまして、心臓もストップしてしまったと思われます。

やすい:閻魔様なら、人類のファーストマンつまりバイブルのアダムみたいな存在なので、聖德太子が天照大神を主神、皇祖神に差し替えた事情をご存知でしょう?私は研究者・哲学者としての良心に従って調べたことを書いたまでです。何の罪も犯しておりません。

鬼検事:何の罪も犯していないとは、物事を根本から問い返すのが仕事の哲学者らしからぬ言い草だ。動植物を殺して食べて生命をつないで来たことがすなわち罪なのだ。ヤスパースも罪を避けられぬ限界状況に含めておる。人を恨んだり、憎んだり、人の心を傷つけずに生きてこられたものなどだれもいないのだ。先ず罪深い人生を反省して、閻魔様の裁きを心して受けよ。

やすい:これは早々に一本取られましたな。

閻魔:何しろ千四百年も前の話だろう。天照大神が初めから主神だったようにずっと言われているので、初めからそうだった気もするし、言われてみれば、始めは主神や大王家の祖先神は別の神だったような気もするな。

やすい:いやだ、知っているのに知らんふりですね。閻魔様、嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれますよ。

思わず閻魔は自分の口に手をやった。

閻魔:ワッハッハ、閻魔が閻魔の舌を抜いてどうする。聖德太子を証人に呼んでもよいが、研究者に罪があるかどうかは、それが史実に合致するかどうかではなく、正しい研究をして、合理的な論理で論証できているかどうかじゃ。それに聖德太子を呼んでも、太子には太子の立場があるから隠しておきたいことがあるかもしれない。

やすい:それは残念ですね。聖德太子も主神・皇祖神の差し替えを認められた方が成仏できるのではないでしょうか?

閻魔:それはえらい自信じゃな。それでは鬼検事は亡者の罪状を追求せよ。それから亡者は鬼弁護人を就けることができるがどうする。

やすい:いや、鬼弁護人は要りません。その代わり存分に自分に弁論の機会を提供してください。

鬼検事:まず、この亡者は聖徳太子が祟って、夢に現れ、そのせいで心臓麻痺で死んでいますので、聖徳太子の恨みを買うことをしたことはたしかです。それが『千四百年の封印ー聖徳太子の謎に迫る』です。もし亡者が真実を書いたのであれば、聖徳太子が祟る筈はないので、主神・皇祖神の差し替えというのは事実無根だったと思われます。

やすい:異議あり!鬼検事は、聖徳太子が祟ったということから、主神・皇祖神の差し替えがなかったという結論を安易に導き出そうとしています。聖徳太子の怒りは今まで封印してきた真実が暴かれることに対する怒りに起因したかもしれません。あるいは聖徳太子が怒るだろうと考えた私の心理が聖徳太子が祟り神として現れた原因かもしれません。

閻魔:そもそも聖徳太子は実在していなかったという説もあるというではないか?実在していなかったら、祟るはずもないだろう。

やすい:閻魔様はご昵懇じゃないのですか?聖徳太子は仏教を本格的に研究され、神道でも主神・皇祖神を差し替えた張本人ですから、日本における宗教的権威では最高位におられる方です。そういう方こそ、閻魔様のような存在になるのにふさわしいのでは?

閻魔:ひょっとして、おまえは吾輩が聖徳太子の死後の姿と思っているのではあるまいな。

やすい:いや、聖徳太子は七世紀始めに活躍された人物ですが、閻魔様は人類史的な最初の人間とされているので、歴史を超えた存在です。ただ宗教的には、聖徳太子が閻魔様に合体されたという信仰もあり得るかもしれませんね。

鬼検事:何しろ、亡者やすいは、梅原猛の聖徳太子怨霊説に乗っかっていますから、聖徳太子は自分が広めようとした仏教や天照大神中心の神道に従わないものは全て地獄に落としてやろうと閻魔様に合体していると邪推しているのでしょう。

閻魔:そう言えば、18年ほど前に娑婆に戻してやってから、梅原猛の評伝をミネルヴァ書房から二冊に分けて出版しておるな。

鬼検事:そうなんです、『千四百年の封印 聖徳太子の謎に迫る』では、梅原猛の怨霊史観をさらに徹底させて大国主命からさらに遡り、天照大神や月讀命まで祟り神だと決めつけております。

やすい:ちゃんと根拠を示して言っております。天照大神を祀っている伊勢神宮は、日本で最も格の高い神社なのですが、何と主神であり、かつ皇祖神でもある天照大神を天皇が参拝できなかったのです。はじめて天皇が参拝したのは明治天皇だったのです。持統天皇は壬申の乱の時に、伊勢から神風を吹かせて勝利させてくださったので、天照大神にお礼の参拝をしたかったのにできなかったわけです。

         1、隋書俀国伝の謎あけやらで日の神の意を伺うといふはまことか痴れ事ならずや

鬼検事:亡者やすいゆたかは、六世紀末まで大和政権では、天照大神を主神として祭祀していなかったと言い張っております。その最大の論拠としておりますのは、隋書俀国伝の「天未だ明けざる時、出て政(まつりごと)を聴く」という箇所です。つまり「天」というのは、亡者やすいの解釈では額田部大王(推古天皇)に当たります。推古天皇は夜明け前の最も暗い時に宮に出て、重臣たちと政治の話をしていたというわけではあるまい、とすれば星や月を祀り、お伺いを立てていたのではないかというのでございます。であるならば、大王がお祀りする相手こそ、自分より格上の主神や皇祖神に当たるという理屈で、従いまして、太陽神は主神や皇祖神ではなかったと断じているのでございます。

閻魔:そうか、鬼検事、そなたは亡者の罪を暴く役割なのに、そなたの話を聞いておると、至極もっともな解釈のように聞こえるぞ。

鬼検事:先ず、「隋書俀国伝」のこの記事は、『日本書紀』では無視されております。つまり『日本書紀』では西暦六〇〇年の遣隋使自体が存在しないのでございます。そういういい加減な「隋書俀国伝」の記事を論拠に論じていることが、第一の罪でございます。

やすいゆたか:異議があります、鬼検事。「隋書俀国伝」の記事を『日本書紀』が採用しなかった理由を吟味しないで、「隋書俀国伝」の記事が信用できないというのは納得致しかねます。つまり『日本書紀』の書き手あるいは編纂者は、この記事に触れることで、六世紀末で大和政権の主神および皇祖神が天照大神ではなかったことが露見するのが恐ろしくて、西暦六〇〇年の遣隋使自体をカットしてしまったのです。閻魔様も鬼検事も西暦六〇〇年の遣隋使があったことをご存知の筈ですよ。

閻魔:亡者やすいよ、心配致すな。そういう知識は裁判に先入見を持ち込むので、閻魔や鬼検事の記憶から一時消去してある。もっともそのことは信じてもらうしかないがな。

鬼検事:では「隋書俀国伝」の西暦六〇〇年遣隋使の記事が史料価値について検討致しましょう。

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

開皇二十年(六〇〇年)、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤 (たりしひこ)、阿輩雞彌(おほきみ)と号す、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねせしむ。使者が言はく、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けざる時、出でて政を聴けり、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねると。高祖が曰く「これははなはだ義理なし」。ここに於いて訓(さと)して、これを改めせしむ。

当時、六〇〇年は額田部大王つまり推古天皇の時代です。ところが倭王は、「アメタリシヒコ」となっており、「ヒコ」がつくので男王ですから、その時点でこの史料は信用できません。復元された遣隋使船

やすい:倭王は兄弟王になっていますから、弟厩戸王が遣隋使を遣ったのです。厩戸王は男ですから問題ありません。厩戸王は「おほきみ」ではないだろうという誤解があるかもしれませんが、厩戸王と書きまして「うまやとのおほきみ」と呼ばれておりました。元首にあたる場合は、「天の下しろしめしし大王」と呼んで区别したのです。

鬼検事:それなら、大王は女帝だったので、兄弟王でなく、姉弟王と書くはずですね。それに厩戸王は額田部大王の甥であって弟ではありません。ですからこの文書は信用できません。大八洲の別の国でなかったという解釈だとか、隋の建国、中国統合を祝って、はるか東海の未開の島国からも使いがあったとする飾り記事ではないかという解釈もございます。ですから自然のまま国なので、天は北極星、日は太陽と捉えますと、夜中は北極星が中心にあって座っています。日中は太陽が照らして支配しているのという解釈ですね。

やすい:先ず姉弟王にすべきということですが、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)という用法もありますので、兄が男性とは限りません。確かに叔母ー甥関係だったので、正確ではありませんが、遣隋使がすっかりあがって固まっていて、複雑な説明ができないので、つっこまれないように兄弟としておいたのかもしれません。

閻魔:仮にも国家の代表だ、確かに隋の都をみたら腰を抜かしたかもしれぬが、皇帝に面会してシドロモドロでは格好がつかぬな。

やすい:あるいは大王ー摂政という関係になるにあたって義兄弟になったのかもしれませんね。

閻魔:額田部大王としては叔母様と呼ばれるより、お姉様と呼んで欲しいかったかも、ワッハッハ。

やすい:次に別王朝説と未開の島国説の2つの解釈に反論しておきます。

五世紀に入って河内王朝は強盛大国化し、壱岐・対馬は住吉大神として祭祀されて取り込まれまして、任那・加羅にあたる高天原も河内王朝の出先機関とされてしまいました。それで弱体化したので、高天原は天空の国だったことにされ、宗教的なファンタジーになってしまったのです。ですから五世紀の段階で筑紫に畿内の河内王朝とは別の倭国があったとは考えられません。

閻魔:高天原というのは色々大八洲に干渉するからな、天空のファンタジーでは歴史の説明にはならぬというわけじゃな。

岩戸山古墳石人石馬像

やすい:六世紀には新羅と結んだ筑紫の「磐井の乱」が起こっていますね。これは新羅にすれば、大八洲の倭国を分断していこうということですから、筑紫に独立した倭国は六世紀にはなかったことになります。九州王朝説の古田武彦先生は、「磐井の乱」を九州王朝に対する畿内継体王朝の反乱と言われておられましたが、それを撤回されて、そもそも「磐井の乱」などなかったと言われていました。

鬼検事:磐井の石像などが破壊されているのはどう説明するのだ。

やすい:古田先生によれば、恐らく白村江以降博多に進駐した唐の郭務悰らが破壊したのだろうと言うのです。古田先生の議論は九州王朝が弥生時代から七世紀まで続いてきた事が前提です。その証明は大変ですから、簡単には乗るわけにはいきません。

鬼検事:それに亡者やすいは記紀の記述の矛盾点から、元の伝承を復元するという方法を採っております、たんなる作り話とされている大帯彦大王(景行天皇)の熊襲征伐や息長帯媛(神功皇后)の新羅侵攻と倭国再統合などを歴史知としては認めており、九州王朝説は承認できない筈です。

やすい:七世紀までの歴史は文字史料がほとんど遺っていません。記紀などの伝承からその矛盾点を精査して、元の形を復元して、元の説話を類推することで歴史の原像に迫るしかないのです。もちろんそれも説話でしかなく、科学的に実証された歴史的事実とは言いがたいものですが、矛盾点を取り除きより納得できる形になっている分だけは歴史知として有効でしょう。もちろん考古学的資料と明らかに矛盾する場合は、作り話にすぎないことになりますが。

閻魔:では亡者やすいは、「隋書俀国伝」の西暦六〇〇年の遣隋使の記事がはるか東海上の無為自然の未開国からも祝いの遣使がきたという飾り記事だという読解ではどうして納得出来ないのじゃ。

やすい:それなら道家の思想に基づく神仙問答ですから、隋の文帝が「はなはだ義理なし」など無粋にことは言わないでしょう。それに倭国は既に邪馬台国が紹介されております。そこには刺青などの未開的な風俗はあるものの、階級国家になっており、戦争なども盛んに行われています。ですから無為自然な未開国として飾り記事になる道理がありません。それに「隋書俀国伝」には「アメ」「タリシヒコ」「オホキミ」と言った倭人語があるのですから、倭人の遣いが来て語ったというリアリティがあります。

鬼検事:しかし、兄弟王の名が「天」と「日」というのは夜は北極星が中心に支配し、昼間は太陽が支配するという、自然のあるがままを示していて、いかにも無為自然の未開国ではないか?

額田部大王(推古天皇)

やすい:それは実証史学の「なかった」論に毒された解読です。『日本書紀』にないものだから、この記事はそれだけ信憑性がないとなると、じゃあ西暦六〇〇年の遣隋使などなかったことにしてしまえということで、飾り記事として読むので、「天」は北極星、「日」は太陽という読みになるのです。

そうではなく、倭国の話なのだから、当時額田部大王と厩戸摂政王の支配と考えれば、天は「天を祀る王」という意味の名で額田部大王を指し、未明に宮に出て、主神と大王家の祖先神を祭祀し、神意を伺っていたと解すべきですし、日が昇ると厩戸王が日常政務を執っていたと解釈すべきです。ですから「日」は「日中政務を執る王」という意味の名で厩戸王を指していたのです。

閻魔:なるほど、九州王朝説も飾り記事説も採らぬとなれば、大和政権の額田部大王、厩戸摂政王に当てはめて「天」と「日」を解釈すべきというのは道理じゃ。となると鬼検事、どうじゃ、やはり亡者やすいのいうように、七世紀末までは主神・皇祖神は天照大神ではなかったということになるのではないかの?確かに夜明け前は一番暗い、太陽は出てないしのう。

鬼検事:閻魔様、言いくるめられてはいけませぬぞ、それでは六世紀末までに宮中で天照大神を祭祀した例を提出いたします。

 2、宮中で祀られた天照大神

祟りにて身罷れる民半ば過ぎのみまつりしは祟り神かな

閻魔:天照大神を宮中でいつから祀るようになったかということじゃが、天照大神を祀るとは、そのご神体である「八咫(やた)の鏡」を祀ることであるとすると、それは本体は伊勢神宮に祀られておるが、それを象ったレプリカが宮中にも昔から祀られていたので、当然六世紀末以前にも祀られていると言えるのではないのか?

鬼検事:天照大神は邇邇芸命にご神体である八咫の鏡を授けた、これを磐余彦大王(神武天皇)が受け継ぎまして、大和政権では代々継承していたのですが、四世紀初め御間城入彦大王(崇神天皇)の時に宮中から出され各地を転々とした後で垂仁天皇の御世に伊勢神宮に祀られたわけです。それで宮中にはご神体の分身としてのレプリカを祀ってあります。従いまして、天照大神が主神および大王家の祖先神であったことは間違いございません。

やすい:しかし御間城入彦大王が宮中で祀ったという以外に、天照大神の祭祀を宮中で行っていたという記事は記紀には一切ありません。八咫の鏡は天照大神が河内・大和の倭国を建国されたという私の仮説によりますと、当然饒速日命に継承されていたはずです。それを大国主命の畿内侵攻の際にあるいは奪われたかもしれません。としますと、武御雷神の奇襲作戦で大国主命が倒されて、結局八咫の鏡は筑紫倭国に渡っていた可能性があります。それで熊襲征伐の際に熊襲の女王神夏磯媛が三種の神器を樹の枝にぶら下げて大帯彦大王(景行天皇)を迎えたとあるのです。

鬼検事:それは可怪しいですね。それでは御間城入彦大王はそれ以前なので、宮中で八咫の鏡を祀れないことになります。

やすい:八咫の鏡はその後も幾度も火災にあったりして鋳直していますから、大国主命に奪われたので、饒速日命一世の持っていたものはなくなったでしょうが、宇摩志麻治命が武御雷神らの奇襲軍を撃退して、饒速日王国を再建した際に、鏡は無事だったことにして、内緒で八咫の鏡を鋳直していたのでしょう。それをその後磐余彦大王が東征した際に奪ってあったわけです。磐余彦大王が筑紫から持ってきたというのはあり得ません。

鬼検事:亡者やすいの説では、磐余彦大王は筑紫倭国の王家の血を引いているとしても、あくまで分家なので、地方豪族に過ぎなかったということです。東征したのは磐余彦の一族だけで、筑紫倭国あげての東遷ではなかったというのです。

閻魔:それはまた重大な問題を孕んでいるので、後回しにして、ともかく、八咫の鏡は宮中にあったわけだな。ただし亡者やすいの説では、それを大王が日常的に祭祀していた痕跡はないということじゃな。記紀に書いていないというわけじゃ。では訊くが、天照大神以外の神を大王が宮中で日常的に祭祀していたことは記紀に記されているのか?どうじゃ、記されていないじゃろう。ならば天照大神が主神や大王家の祖先神でなかったとは断定できまい。

八柱神社

やすい:宮中八神つまり高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神をお祀りしていたとされております。ただし月次祭という形ですね。朝廷に貢献のあった神々をお祭りしていたわけです。その中に天照大神は入っていませんでした。主神や大王家の祖先神に対しては大王が自ら、日課として祭祀するのが神政政治としてはふさわしいかと。

閻魔:じゃから、日課として天照大神を祭祀するのは当たり前だから、いちいち記紀に書いていないだけだということじゃ。

やすい:ならば『隋書倭国伝』の大王の未明の祭事をどう解釈するかですね。

閻魔:『日本書紀』が取り合わなかった記事に固執するからそういう歪んだ解釈になってしまったのだ。いろいろ問題ある史料は棚上げにしておけばいい。お前も言うように古代は文字史料が極端に少ないので、つい一点突破的に自分が注目した記事だけを根拠に全て展開してしまうと、主神・皇祖神を差し替えたなどというとんでもない見当違いに陥ってしまうのじゃ。

やすい:閻魔様、一点突破はいけないということですね。それは仰るとおりです。しかし記紀に記されている天照大神の唯一の宮中での祭祀は、祟り神に対してどういう祀り方をすれば祟りが止むのかを伺う祭祀だったのです。ということは、主神であり、大王家の祖先神であった天照大神が同時に、大和政権の祟り神でもあったことになってしまいます。

鬼検事:こりゃ、亡者やすい、この期に及んで見苦しいぞ。御間城入彦大王は就任以来、祟り神に祟られて人口が半減するほどの疫病や飢饉に見舞われたという。それで宮中に祟り神を祀って、どうしたら祟りがやむか問いただした。その際に天照大神もお祭りしたが、それは天照大神も祟り神だったからではない。おそらく、祟り神が宮中で暴れださないようにお守りいただいたのだ。

やすい:では『日本書紀』崇神天皇紀を史料講読しましょう。おお、そういうと画像がすぐにでましたね。閻魔裁判所も最先端の技術を使えるのですね。

閻魔:人を裁くとなるとその時代の最先端技術を駆使しなければ、どうしても冤罪を生んだり、不正を見逃したりしてしまう。とは言っても、これは死者を裁いているのだから、物質的な文明の装置があって実際に動いているように意識しているだけであって、実体としてあるわけではないのだが。

やすい:しかし成程よく出来ています。

「五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。

笠縫邑磯堅城の神籬跡

 五年 國内に疾疫(しつえき)多くして、民、死亡(みまか)れる者有りて、且大半すぎなむ。 六年 百姓(おほみたから)流離(さすら)へぬ。或いは背叛(そむ)くあり。其の勢、德を以てこれを治むこと難し。是を以て、晨(つと)に興き夕までに惕 (おそ)りて、神祇に請罪(のみまつ)る。是より先、天照大神、倭大國魂(やまとおほくにたま)、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して、其の神の勢を畏れ、共に住に安からず。故、天照大神を以て、豐鍬入姬命(とよすきいりひめのみこと)に託け、倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祭る。仍(よ)りて、磯堅城(いそかたしろ)の神籬(ひもろぎ)を立つ。」

まだこの段階では、天照大神、倭大國魂神のいずれが、この時に祟ったのか分かっていません。これからどちらが祟ったか問い糾すところなのです。その段階で、天照大神は倭大國魂神を恐れて一緒にいたくないといったので、豐鍬入姬命に託して笠縫邑にお祀りしたわけです。もし祟り神が祟らないように監視役でつけたのなら、天照大神は主神であり、大王家の祖先神なのですから、そんなビビって恐れたようには表現しないでしょう。

それに天照大神が監視役で必要だったとすると、外に出してしまって倭大國魂神という祟り神だけになってしまったわけですから、大王も恐ろしくて逃げ出す筈です。だからそういう設定ではなくて、大王は勇敢にも国家が存亡の危機になったので、どちらが祟ったのかはっきりさせるために両方とも祀ったのです。

鬼検事:記紀によりますと、饒速日命も邇邇芸命も共に天照大神の息子忍穂耳命の子供です。つまり天孫として天降りしたわけです。そして結果的に饒速日命の子孫が邇邇芸命の子孫である磐余彦大王に臣従したわけですから、天照大神は磐余彦大王の子孫の祟り神になる謂れはありません。

やすい:ところが祟り神として祀られているということは、実は天照大神は磐余彦大王(神武天皇)の祖先神ではなかったということです。饒速日命は孫だったわけです。

閻魔:だとすると饒速日命の子孫は神武天皇に臣従したのだから、天照大神としても祟るわけにはいかないのではないか。

やすい:代々、物部氏の族長が饒速日命を継いでいきます。彼等は大和政権の中枢を担いますから祟らないのですが、天照大神は自分の作った日の食国を倒されて、「夜の食国」されてしまったのですから、ずっと怨みに思っていて祟るのではと恐れられていたのです。

鬼検事:亡者やすいの仮説は、天照大神自身が天降りして建国したというもので、高天原に上げられて主神となったのは七世紀になってからの改変だというのです。

閻魔: 天照大神の天降りとは確かに大胆仮説じゃな。それは後で検討するとして、天照大神が祟り神だったのなら、どうして倭大國魂命を恐れたのじゃ。

阿波の倭大國魂神社

やすい:倭大國魂命とは大物主神の荒魂(あらみたま)なのです。そして大物主神は三輪山のことなのです。大国主命は出雲から全国制覇に乗り出して、高志(越)つまり北陸から信濃、高山(たかやま)を経て畿内に入り、三輪山を攻め取って、そこに居付きました。とても三輪山が気に入りまして、三輪山と一体化したので、大物主神は大国主命の和魂(にぎみたま)とされたのです。三輪山は元々饒速日大王がいたので、大国主命に攻略されて、その際に饒速日大王一世は戦死したらしいのです。

鬼検事:それは全くの亡者やすいの推測に過ぎません。やすいは、大国主命を饒速日大王の遺児宇摩志麻治命の親の仇という設定にしておいて、武御雷神たちの奇襲軍が、大国主命を倒して親の仇をとってやったのに、その恩に対して、仇で報いたというのです。宇摩志麻治命があろうことか武御雷神たちを大国主命支持勢力を糾合して撃退したという筋書きにもっていきたいのです。それで宇摩志麻治命が再建した饒速日王国を筑紫勢力は打倒する大義名分があったと言いたいわけです。

閻魔: 記紀では神武東征の大義名分は、天照大神の嫡流が大八洲を支配すべきだということだけで、そのことは大義名分になっていない。だから、そういう憶測は外れているのではないのか?

やすい:では何故、御間城入彦大王が宮中に祟り神をお祀りした際、天照大神は大国主命の荒魂である倭大國魂命を拒絶したかですね。やはり孫を殺されて、太陽神の国が壊されたので恐怖心と怨念があったと考えるとよく分かります。

鬼検事:それは天照大神は女神だし、倭大國魂命のご神体は蛇ですから、女と蛇というのは生理的に受け付けないところがあるのではないですか?もっとも蛇を首に巻くのが趣味の女もいますがね。

やすい:天照大神が女神だったように記紀ではなっていますが、天照大神が女神だとされたのはどうも七世紀以降のようです。それは次のテーマにしましょう。ここで私が言いたいのは、天照大神を倭大國魂命と共に祀った理由は、決して天照大神に倭大國魂命が祟るのを押えてもらおうというような筋書きでは書かれていないということです。素直に読めば、両方共祟り神と認識されていたので、どちらが祟ったのかを調べようと両方祀ったと受け取れるということです。

鬼検事:それで亡者やすいは、天照大神が祟り神であるということは、実は磐余彦大王 (神武天皇)は天照大神の子孫ではなかったという暴論に行き着いたのであります。これは天皇家が天照大神の嫡流として万世一系であるという日本の国体を否定するものであり、天皇家および天照大神に対する名誉毀損です。

やすい:異議あり、私は天皇家が天照大神の嫡流で万世一系であるという事実関係について議論しているのではありません。あくまでも神話伝承のことです。天照大神が大王家の祖先神でありながら、御間城入彦大王は天照大神を祟り神として祀っているのは矛盾しているということを指摘しているわけです。この矛盾から実は天照大神は磐余彦大王の祖先ではなかったのではないかということが論理必然的に帰結してくるわけですね。これは論理的な必然であって、私の罪でもなく、従って私が天皇家や天照大神の名誉を疵付けたわけではないのです。もし真実に反することが名誉ならば、それは偽りの名誉であると言わざるを得ませんね。

閻魔: 時代は変化しておる。大日本帝国憲法の時代ならば、天照大神の嫡流で万世一系であることを否定するような研究は国体に反するとして治安維持法違反に問われるところであった。しかし戦後は昭和天皇が神話による天皇の権威づけを否定されて、人間宣言をされたのだから、天照大神の嫡流かどうか論じても歴史学、神話学の問題であり、決して咎められるような問題ではない。鬼検事もネトウヨ的な観点からの追求に取られないように留意せよ。

鬼検事:それでは宮中で天照大神を祀った例としてもう一つ上げましょう。宮中では沙庭というシャーマニズムの憑霊儀礼が行われました。その時に天照大神の霊がとり憑いたことがあります。それが四世紀後半の筑紫香椎宮での沙庭です。なんと息長帯媛(神功皇后)にとり憑いた天照大神の霊が、財宝がどっさりある西方の新羅を侵攻するように勧めたのですが、高いところに昇って西方を見ても国土はみえない、大海があるだけだ、嘘つきの神だなと言って、帯中彦大王(仲哀天皇)は取り合わないので、頭にきた神は「お前の支配すべき国はないから、死んでしまえ」と言ってしまったら、本当に死んでしまったということです。

沙庭が行われた筑紫香椎宮

其大后息長帶日賣命者、當時歸神。故、天皇坐筑紫之訶志比宮、將擊熊曾國之時、天皇控御琴而、建內宿禰大臣居於沙庭、請神之命。於是大后歸神、言教覺詔者、西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、多在其國、吾今歸賜其國。爾天皇答白、登高地見西方者、不見國土、唯有大海。謂爲詐神而、押退御琴不控、默坐。爾其神大忿詔、凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。於是建內宿禰大臣白、恐我天皇、猶阿蘇婆勢其大御琴。自阿至勢以音。爾稍取依其御琴而、那摩那摩邇此五字以音。控坐。故、未幾久而、不聞御琴之音。卽擧火見者、既崩訖。

 其の大后息長帶日賣命は、時に當りて神を歸(よ)せき。故、天皇、筑紫の訶志比の宮に坐しまして、將に熊曾國を撃たんとする時、天皇、御琴を控きて、建内宿禰の大臣、沙庭(さにわ)に居て神の命を請いき。是に大后、神を歸せ、言教え覺し詔らさくは「西の方に國有り。金銀を本と爲し、目の炎耀(かがや)く種種(くさぐさ)の珍しき寶、多(さわ)に其の國に在り。吾、今、其の國を歸せ賜わん」。 爾くして天皇答えて白さく「高き地に登りて西の方を見れば國土を見ず。唯だ大海のみ有り。詐(いつわり)を爲す神」と謂いて、御琴を押し退けて控かず默 (もだ)して坐しき。爾くして其の神、大いに忿(いか)りて詔らさく「凡そ茲(こ)の天の下は汝の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみち)に向へ」。是に建内宿禰の大臣白さく「恐(かしこ)し。我が天皇、猶お其の大御琴阿蘇婆勢(あそばせ)」。爾くして稍く其の御琴を取り依せて、那摩那摩邇(なまなまに)控き坐しき。故、未だ幾久しくあらずて御琴の音を聞かず。即ち火を擧げて見れば既に崩り訖んぬ。

閻魔: この場面は何という神が憑依したのか分からないので、武内宿禰が神の御名を問うておる。こういう場合は、宮中で天照大神の祭祀儀礼があった例としてはふさわしいとは言えぬぞ。

鬼検事:しかし、天照大神が高天原の主神として帯中彦大王に新羅侵攻を命じているわけですから、亡者やすいがいう六世紀末までは、天照大神は主神としては信仰されていなかったという主張への有力な反証かと思われます。

やすい:ええ、そうなのです。しかし『住吉大社神代記』では憑依した神の名前をすぐには明かしません。数日後にやむを得ず鈴鹿の社の神ということで天照大神だと認めています。つまり住吉大社としてはあまり天照大神だとは認めたくなかったということらしいのです。

鬼検事:亡者やすいは、高天原の主神が天照大神だという説話は、七世紀になってからの改変だと申すのです。それでそれまでは北極星を実体にする天之御中主神だったので、この時に憑依したのも天之御中主神だったと申しております。

やすい:実は実話だったか、つくり話だったか、どれだけ作り話だったかは、証明できません。六世末までの口誦伝承では、天之御中主神が憑依したと伝えられていたのではないかと類推しているのです。高天原の主神は元々は天極にいる北極星である天之御中主神だった思われますので。

閻魔: 憑依したのは天照大神だったと記紀には書いてあるのだから、そうではなかったというにはそれなりの有力な根拠が必要だろう。自分の主張に合わないものはみんな改変だと言って、合うものだけ採用していくのが素人史学の特徴だからな。

やすい:ええ、ご無理ごもっともです。それではこの史料の末尾の部分に注目いただくと分かります。「故(かれ)、未だ幾久しくあらずして御琴の音を聞かず。即ち火を擧げて見れば既に崩り訖(をは)んぬ。」つまり松明か提灯で顔を照らして見ているわけで、この沙庭は夜に行われている事が分かります。もし太陽神が憑依するのなら、日中と考えた方が自然でしょう。

閻魔: なるほど『隋書』倭国伝の「天未明時、出聴政」の応用じゃな。

鬼検事:憑霊というのは、事物とそこに宿る霊は、別々の実体だとする物心二元論ですから、太陽が出ていなくても太陽神の霊は憑依できるはずです。それは理由になりません。

やすい:でももし天照大神が憑依したのだったら、住吉大社は住吉三神と天照大神を本宮に祀っている筈ですね。ところが第四本宮には息長帯媛(神功皇后)を祭祀しています。これはどう考えても可怪しいです。

閻魔: 住吉大社は新羅攻めの成功を神に感謝して建立した神社だから、住吉三神と神功皇后はいずれも大活躍したからいいではないか?

住吉大社本宮配置

やすい:建立したのは実質的な大王であった息長帯媛自身ですよ。自分で自分を祀ったことになってしまいます。彼女はあくまで祀る神であって、祀られる神ではなかったわけです。彼女の戦功を讃えて、没後にでも祀るのなら摂社の形にする筈です。

鬼検事:それが住吉大社の禰宜であった津守氏の粋なはからいがあったのだ。息長帯媛は表筒之男命にぞっこんだったので、ずっと彼の側にいたいという願いを聴いて、隣に祀ったということだ。

やすい:それは大社側のいいわけですよ。それに記紀に記されている天照大神を祀らないのはやはり腑に落ちませんね。

閻魔:天照大神は、天皇の皇女が斎宮になって祀るのが原則なので、斎宮抜きで住吉大社に祀ることは許されなかったのだろう。

やすい:建立したのは実質的な大王であった息長帯媛なので、彼女が祀るのであればだれも文句は言えないでしょう。それに筑紫の住吉神社では天照大神を祀っています。

鬼検事:つまり亡者やすいによれば、実は、高天原の主神は別の神だったので、元の口誦伝承では別の神が憑依したことになっていた。それで住吉大社では別の神を第四本宮に祀っていたのだけれど、七世紀はじめに神道大改革があって、はじめから天照大神が主神・皇祖神だったように改変されたというのです。それに伴い朝廷は住吉大社に対して、第四本宮の神を天照大神に差し替えるように命じたと申します。

閻魔:それではどうして住吉大社は、差し替えに応じなかったのじゃ。

やすい:主神の座から降ろされる天之御中主神はさぞかし惨めな思いをされているだろうと思いますね。そうすると住吉大社に祟りが起きるとも考えられますね。プライドを傷つけられた天之御中主神は、天極から降りてしまい、天が中心を失って、崩落することも考えられますね。

鬼検事:だったら主神の差し替えなど土台無理な話ではないのか?

やすい:確かにどんな神の祟りがあるかもわからない、でもしないわけにはいかないものだったのです。

でも住吉大社というのは、住吉三神という海の神を祀る海洋民の神社ですから、この天照大神の主神化には精一杯抵抗したかったわけですね。そこで住吉大社は天之御中主神に伺いを立てたということにして、天照大神への差し替えは耐えられないが、朝廷の命令も無視できないので、息長帯媛に差し替えるのなら我慢するというお告げだったことにしたのでしょう。

もっとも差し替え自体はなかったことにしなければならなかったので、第四本宮を息長帯媛にしたのは、表筒之男命の側にずっといたいと言っていたから、禰宜の津守氏が気を利かしたことにしています。

3、北極星信仰から太陽神信仰へ

御中主そを祀りしは海の民、日の神祀るは土掘る民かな

鬼検事:では亡者やすいゆたかが唱えております主神差し替えの根拠を問題にすることに致しましょう。亡者やすいによれば、天照大神は七世紀になってから、天之御中主神の地位を簒奪し、高天原の主神になったいうのです。

やすいゆたか:異議あり!鬼検事の表現では天照大神が七世紀になって、高天原に行き、主神の座に座ったかに思えます。私が申しているのはあくまでも神話の内容のことであります。七世紀になって、高天原の主神が天之御中主神とされていたのが、改変されて高天原の主神は天照大神誕生以来、天照大神が主神だったように神話の内容が改変されたということであります。

二見ヶ浦の夫婦岩と太陽

鬼検事:もちろんそのつもりで説明しています。だって神話のことですから、神話の上でどうだったかは言えても、それを事実と付き合わせることは不可能ですから。つまり六世紀末までは大和政権は主神を天之御中主神とする神話体系を採用していたが、七世紀になって主神を天照大神にする神話体系に改変したという解釈を亡者やすいは打ち出したということであります。しかし記紀神話によりますと天照大神の孫の邇邇芸命の曾孫が磐余彦大王に当たり、彼が大和政権を樹立して代々大王位が直系に継承されたので、天照大神を主神とする信仰であったと言えます。

閻魔: その天照大神の嫡流が磐余彦大王だったかどうかを論じる前に、亡者やすいの仮説が正しいとするならば、何故、北極星信仰から太陽信仰に乗り換えなければならなかったのか明確にされなければならないということだ。

やすい:梅原猛・吉村作治共著『太陽の哲学を求めて』からも刺激を受けていますが、海洋や砂漠の民族は夜旅をする時に星が方角を示してくれるので、その中心にある北極星を主神にしていることが多いようです。中国の天帝もその実体は北極星だと言われます。

それに対して、農耕中心の民族は太陽神を主神にしている場合が多いといわれます。エジプトのピラミッドも最初のものは北極星を見るトンネルと太陽を見るトンネルがあるということです。それはメソポタミヤから来た通商民に侵攻されたので、北極星信仰があるのですが、エジプトは農業国なので定住していくとなると太陽神信仰に鞍替えせざるを得なくなったと言われております。それで過渡期なので最初のピラミッドには両方の信仰が残されていたということらしいです。

鬼検事:要するに、海洋民族や通商民族が農耕民族を征服するなどして、定住して農業が主産業になれば、日照時間の変動とか気になりますし、お天道さま次第ということがあり、太陽神信仰に変わっていくということですね。それは一般論として言えても倭国の場合には太陽神中心で一貫していたのではないでしょうか?

やすい:先ず倭国という場合に、縄文時代から大八洲には縄文倭人がいたように誤解されているかもしれませんね。

縄文人は古モンゴドイロがシベリアから南下して、定着し、そこに海洋からオセアニアや東南アジアから漂着した人々と混血していました。これが縄文人です。弥生時代に半島からの渡来人が来て、建国し始めるのです。その中で最も有力だったのが海洋民族だった倭人なのです。

鬼検事:亡者やすいの仮説で特徴的なのが高天原を倭人の本拠地と考えまして、その場所を天空ではなく、朝鮮半島の南端部、任那・加羅の地域だったとしたことです。つまり戦国時代や秦時代の混乱から沿海州の海洋民が半島南端部に避難してきたわけで、そこにできた倭人集落が高天原の原型だということらしいです。

やすい:ですから天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神などは高天原の倭人をまとめていたわけです。それが伊邪那岐命・伊邪那美命の時代に対馬・壱岐拠点を築き、日本海の制海権をにぎったのです。

閻魔:記紀からそこまで読み取れるのか?高天原が任那・加羅だという根拠はあるのか?

やすい:倭人は「天」と「海」を同一視しています。両方とも「あま・あめ」と呼んでいますね。ですから「高天原」というのは「高海原」のことなのです。それで対馬・壱岐を中心にした海域を「海原」と呼んでいました。それで大八洲の倭人たちから見て「高海原」は海原の向こうという意味になります。

鬼検事:海原の津(港町)の連合体を伊耶那岐命・伊邪那美命たちが率いていたというのが、亡者やすいが強調する海原倭国です。海と天との同一視から津の連合を星に見立てまして、海原倭国はオリオン星座であるということになります。対馬・壱岐はオリオン星座の三連星であるということですね。

やすい:そうなんです。オリオン三連星は『古事記』では住吉三神に当たります。壱岐が表筒之男命で対馬が中筒之男命と底筒之男命です。筒が星を意味するところから三連星だと分かり、それならオリオン三連星だということですね。そして海原倭国は半島南端や筑紫北岸の津も連合に含んでいたことが分かります。それで『後漢書』「東夷傳」の「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の奴國が筑紫の北端なのに「倭國之極南界也」と言われる意味が鮮明になるのです。

閻魔:そうなると建武中元二年は紀元後57年だから既に筑紫倭国もできていただろうから、奴国は海原倭国と筑紫倭国の両方に属していたことになるのではないか?

やすい:ええ、国家といいましても津の連合体(アソシエーション)と考えればあり得ることではないかと思われます。

鬼検事:どうして倭人は対馬・壱岐を制し、大八洲に植民するのに他の朝鮮の部族よりも優位にたてたのだ?

やすい:もちろん組織的には津の連合体を作って結束したということもありますが、それを解く鍵は饒速日命が天降りする時に虚空を翔けたという「天磐舟」にあります。もちろん磐舟が虚空を翔けるなんて、あり得ません。それは高天原を天空の国にしたからです。高千穂峰に天降りというのも高天原が天空だからです。それは五世紀以降の改変です。つまり高天原がすっかり衰退して、河内王朝の出先機関になってしまったので、神々の国としての高天原は天空にあることになってしまったということです。

鬼検事:それで磐舟というのは岩を舳先につけて相手の舟にぶつけて破壊する当時の最先端の軍艦なのか?

やすい:まさかね、それは違うでしょう。「海は荒海、向こうは佐渡よ」という『砂山』の歌の文句にもありますように、日本海は荒海なので、なかなか大八洲に辿りつけないことが多かったのです。そこで倭人たちは船底に石を敷き詰めまして、重石にしました。すると重心が低くなり転覆しにくくなったのです。

鬼検事:それでは浸水した時にすぐに沈没してしまうぞ。

やすい:そうなんです。だから当時としては、他の部族では真似のできない気密性の高い高度な造船技術を身に着けていたと言えます。それで倭人の舟に乗らないと大八洲には渡航が困難だということになったのです。それで倭人優先することで、 大八洲での植民活動で断然倭人が優位になり、各地に倭人の国を形成したということです。

閻魔:それでは倭人の国は、倭人集団が周辺の集落を従えるような倭人の征服国なのか、それとも各地の部族と交易を通して文化的に融合し、親密になったうえで、貴人(まれびと)として各地の部族に擁立されて統治する形なのかどちらなのだ。

やすい:いろんなパターンがあったので、三貴神が三倭国を形成したというような説話が作られていたと考えられます。武力で制圧するのが須佐之男命の出雲倭国ですね。高度な文化などをもたらし呪術で支配する貴人型は天照大神の河内・大和倭国です。先に半島から渡来していた物部氏に担がれて神政政治を行っていたと想像できますね。そして筑紫倭国は、また後に証明しますが月讀命の国です。対抗する熊襲の勢力が強かったので、知略を用いて、高天原や海原と強く連携し、ときには一体化しながら、和戦両用の構えを持続して辛うじて存続を図ってきたわけです。

鬼検事:筑紫を月讀命の国という断定は説得力がない。稲作農耕は筑紫が早く、筑紫の北部では紀元前千年ぐらいから農耕が行われ弥生時代に入っていたという説が有力だ。筑紫は太陽が振りそそぐので日向とか日の附く地名が多く、いかにも太陽神の国に相応しいと言えよう。

やすい:ええ、筑紫では既にかなり前から農耕が発達していて、熊襲や隼人などの先住民の文化が発達していたので、倭人たちは海洋民として海岸線を中心に津の連合を形成し、次第に内陸に広げていこうという戦略だったので、筑紫倭国の産業も通商や漁業に偏りがちでそれで北極星信仰を維持しやすかったといえますね。

閻魔:それで北極星信仰、太陽神信仰は各倭国でどうなっていたんだ。

やすい:高天原の倭人は天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三造化神を中心に運営されていました。それぞれに現人神がいて、代々引き継がれていたと思います。そして高御産巣日神はやがて筑紫倭国の外戚になって実質的な支配権を握ります。神産巣日神は出雲倭国に肩入れしていたようですね。

鬼検事:亡者やすいの仮説でびっくりさせられますのが、三貴神が自ら海(あま)降りしていることです。天照大神が河内・大和に太陽神の国を建て上げたというわけです。まあ、高天原の主神ではなかったと言い張るのですから、そういうことになるのでしょうが。それでは太陽神の国では天之御中主神信仰はどうなっていたのだ。

やすい:三貴神自身が海降りしたというのが元の口誦伝承の形で、それを七世紀になって孫の世代の天降りにずらしたという論証は重大ですので、別の章で詳しく論じます。

倭人としてのアイデンティティがありましたので、太陽神の国でも天之御中主神を祀っていたと思われます。しかし、倭人が河内・大和に行く前から、その地域は農業が盛んで太陽神信仰がメインだったので、北極星信仰の儀礼はあまり必要とされなかったでしょう。

それに比べて筑紫倭国では高天原や海原と緊密だったので、天之御中主神と月讀命そして、対馬・壱岐を象徴するオリオン星信仰が行われていたと思われます。そしてそれだけ海洋民として性格が筑紫倭国の場合強かったのでしょう。海原倭国と同様、津という港町の連合体的な性格ももっていましたから。

鬼検事:亡者やすいの罪は、筑紫倭国が月讀命の国だったことにすることによって、磐余彦大王が主神が天之御中主神、大王家の祖先神が月讀命であるという神話体系を河内・大和倭国を倒して畿内に持ち込んだとしたところです。つまり太陽神の国だった饒速日王国を倒して、「日の食国」を「夜の食国」に変えてしまったというのです。ということは神武天皇の建国を日本の建国記念にするのは間違いだということになります。なぜなら饒速日王国こそ「日ノ本国」であり、それを倒して「月ノ本国」そして天之御中主神の国にしたのだから日本国の立場からは亡国記念日だとまで言っております。

閻魔:その結論は承服は出来ないが、亡者やすいの推論に間違いがあるのなら議論したら良いのであって、悪意で天皇家が天照大神の嫡流であることを否定することで天皇家の伝統を貶めたり、天皇家を冒瀆するのが目的でなければ、研究の内容について罪を問うことはできまい。

鬼検事:恐れながら閻魔大王様、亡者やすいは、明らかに天皇家の血筋が差し替えられていて、天照大神の嫡流であるというのは、神話の改作の結果だと断定しています。その反日的性格は明白ではないでしょうか?

閻魔:鬼検事よ、そなたの気持ちはよく分かるぞ。そなたも、わしも何千年と生きておるので、天皇家の万世一系を否定したり、天照大神の嫡流であることを否定しても、罪に当たらないというのはなかなか容易には納得できまい。もう大日本帝国憲法の時代ではないので、「万世一系の天皇」は「神聖にしておかすべからす」が価値基準や真理の基準ではないのだ。天皇は日本国及び日本国統合の象徴となった。そのためには神話や、神話を真理だとすることは必要はないのだ。平和と民主主義の国である日本を愛し、それを体現して生きていただければ、それで象徴天皇としては十分なのだ。

やすい:さすが閻魔大王はコモンセンスをわきまえておられる。だから鬼検事よ、私の議論の過ちを指摘して、主神・皇祖神が七世紀になって差し替えられたのではないことを論証されればいいのです。その論証が納得できれば、私は自説を撤回します。別にわたしは差し替えられてなかっても構いません。別に政治的な意図があってのことではないのです。ただし聖徳太子の差し替えを明らかにできれば、隠された歴史の真実が明らかになることで、聖徳太子自身も封印から自由になられて、仏教的に言えば菩提を弔うことになるのではと思っているだけです。

4、天皇号の由来は天之御中主神か?

日の神に主の席を明け渡し地に降り立ちて天皇となる

鬼検事:亡者やすいは、天之御中主神を高天原の主神から下ろした代わりに、そのままでは天之御中主神が祟るのではないかと恐れて、大王の称号を天之御中主神を意味する「天皇」としたという珍説を唱えております。

天の中心、北極星

やすい:珍説などと滅相もない。天皇が道教の天皇大帝に由来するというのはむしろ常識でございます。そして盤古説話によりますと、盤古は死にまして体が様々な自然物になります。左目から太陽、右目から月という要領ですね。なんと人民は盤古の寄生虫が成ったという説もあるようです。盤古の魂は天に昇って中心に座って天皇大帝(てんこうだいてい)になったのです。だからその実体は北極星です。

閻魔:なるほど天之御中主神も実体は北極星だから、天皇は天之御中主神の中国版だな。しかし何故、中国版にしたのだ。

やすい:下につける称号ですから「~天皇」となったのでしょう。「~天之御中主神」では呼びにくいですからね。

鬼検事:しかしどうして天皇は北極星のことであると記紀などに説明がないのだ。

やすい:そりゃあ当然でしょう。だって北極星を主神から降ろして太陽を主神につけたとは言えませんね。太陽が元々主神だったことにしなければ、主神を差し替えることをしたことになります。

閻魔:己が差し替えておいてそれは畏れ多い行為だから差し替えていなかった、初めからそうだったというのか、それこそ神々を冒瀆しているではないのか?

やすい:確かにそうかもしれませんね。しかし国を保つためにはやむを得ないことだとなったのです。

鬼検事:国を保つためには神々を蔑にするのもやむを得ないと申すのか!

やすい:いゃー私に怒っても困ります。海洋や砂漠の通商民は北極星信仰で、農耕民は太陽神信仰だとしますと、いずれは太陽神信仰に乗り換えなければ権力が保てないということに気付いたわけですね。それで権力を保つためには、神々には差し替えの屈辱に耐えていただかなくてはならないということになったのです。

閻魔:なるほど当時はすでに儒教や仏教が入っていたから、儒教の論理でいけば、神々への信仰も国家の太平を祈ってのことだし、仏教でいけば、慈悲の心で人民の平安を考えれば、神々も人々の暮らしに相応しい神々を祀ることになるだろう。神々にとって不満でもそこは仏陀が神々を説得してくださるのではないかと考えたかもしれんな。

崇仏・排仏年表

やすい:ええ、蘇我氏や厩戸王はそう受け止めていたでしょう。ちょうど仏教導入を巡って強硬に反対した物部氏が丁未の乱(五八七年)で蘇我氏に敗れまして、物部宗家が滅んでおります。物部氏は太陽神信仰を仕切っていたので、その衰退で物部氏から太陽神信仰を簒奪する絶好のチャンスになったのです。

鬼検事:おいおい、物部氏は天照大神の祭司権は斎宮が握ったので、朝廷に取り上げられて、物部氏の族長が饒速日神の現人神になるという形に枠をはめられているのだろう、磐余彦大王の頃からか、遅くとも御間城入彦大王(崇神天皇)以降はそうなっていたはずだ。

やすい:ええ、でも天照大神は祟り神なので、宮の近くに置くと祟が恐ろしいですし、斎宮はあくまでも祟らないように慰めるのが仕事です。積極的に太陽神の威光で支配しようというわけではありません。それに対して物部氏の場合は饒速日神は太陽の恩恵をもたらす神ですから、畿内において物部氏が太陽神信仰を仕切っていたということができます。

閻魔:ということは七世紀初めの主神・皇祖神の差し替えによって、いよいよ朝廷が天照大神の嫡流として、天照大神の威光で支配することになり、物部氏の太陽神信仰は部族だけのものになるということだな。なのに、天皇は北極星の現人神になるというのは分かりにくいな、説得力がないように思うが。

やすい:だから閻魔様は、大王自身が天照大神の現人神になるなら納得だけどとおっしゃりたいのでしょう。そこがそれでは主神を降ろされた天之御中主神に対する思いやりに欠けますね。もし天の中心である北極星の神がいなくなったら、天の中心がなくなり、天が崩れ落ちるかもしれないわけです。天之御中主神は、中心であることによって全ての存在に位置を与えて、万物を成り立たせているわけで、全ては崩れ去り消え去るかもしれないと思われているわけです。

鬼検事:そう本当に思っていたら主神交替などしなかったはずですね。

やすい:全くその通りですが、産業が水産・水運が中心なら天之御中主神説でよかったのですが、大和河内は農業中心なので、夜中に星に祈る朝廷祭儀では説得力がなくなってきていたのです。それで隋の楊堅の「全く道理にかなっていない」という指摘もあり、神道大改革に踏み切らざるをえなくなったわけですね。

閻魔:しかし、厩戸王には慧聡・恵慈といった高僧がついていて、仏教などの教養を教えこんでいたわけですから、北極星信仰から太陽神信仰に乗り換えるのを、大王の称号を代償にしなければならないなどと教えただろうか。「なあに心配には及びません。北極星は変わらす北極にいて、天は崩れたりしませんよ。世界は倭国だけではない。こんな国は世界に幾つもあって、その一つの国が産業の変化に合わせて祀る相手を変えたからといって、いちいち怒っていては、天はいくつあってもたりません。」と諭されたはずじゃろうて。

やすい:ワッ、ハ、ハ、確かにそうですね。しかし厩戸王もかなり罪の意識に悩んだでしょう。これまで主神として崇めすべての存在を生み出す力の中心として信仰してきたものを、太陽神に乗り換えるのですから。それに中心原理は秩序を保つ上で大切ですから、主神を太陽神に乗り換えたとしても、天の中心としての北極星を信仰する心は大切にしたいわけですね。それで天之御中主神の現人神に地上の中心である大王をしたらどうかと考えて、大王の称号に採用したわけなのです。

鬼検事:しかし、それならそれで天皇は天之御中主神の現人神だという認識が記されているはずではないのか?

閻魔:それは亡者やすいによれば、天皇号を始める時期が主神差し替えの時期だったから、差し替えの代償で天皇号を始めたことになる。ところが主神差し替え自体とんでもない瀆神だということで、なかったコトにしなくてはならないから、わざわざ説明は書かなかったということらしい。

鬼検事:それは七世紀初めの差し替え期にはそういう配慮も必要だったかもしれませんが、記紀は八世紀ですから、記紀には説明があって当然ではないでしょうか?

やすい:さあ、それは言えているかもしれませんな。でも朝廷の祭祀が日中になってしまって、太陽神中心の信仰が定着してしまいますと、天皇が天之御中主神のことだということを殊更意識しなくなってしまいます。それよりむしろ天皇自身が中心として地上をまとめ、統治する現人神だということが強調されることになります。

日蓮宗霊場能勢妙見山

閻魔:神仏集合から言えば、北極星は妙見菩薩として信仰される。高い山に昇って北極星を拝む習慣から、妙見山が各地に指定されている。そして北極星信仰だということで、天之御中主神も妙見堂では祭られているらしい。

やすい:ええ、そうですね。妙見信仰は日蓮宗で盛んでして、日蓮宗の中には天皇信仰を強調する国粋主義の団体もあったようですから、天之御中主神と天皇のつながりもその辺りを探ると出てくるかもしれません。

5、天皇号の始用は推古天皇からか?天皇と呼ばれ初めにし君はたれとくかけて見よ「歴史のメガネ」で

①法隆寺薬師如来像光背銘の天皇号大王を天皇と呼ぶならはしの始まりしめせり大王天皇

法隆寺薬師如来像光背銘

鬼検事:亡者やすいは、天之御中主神を主神から降ろした代償に、大王の称号を天皇に改変したという珍説を唱えております。その時期が聖徳太子の摂政期であったために、天皇号始用は推古天皇からだと言い張っております。これは天武天皇から天皇号が始用されたとする通説を無視した議論であり、自説に都合が悪い議論を無視する傲慢な態度です。

閻魔:研究者は通説を無視してもいけないが、通説に囚われてもいけない。推古天皇の時代の史料で天皇号の入っているのは法隆寺薬師如来像の光背銘だけで、とても信用出来ないという話らしいが。

やすい:では読んでみましょう。

池辺の大宮に天の下、治しめしし天皇(すめらみこと)(=用明天皇)の大御身労(おほみいたつき)賜ひし時、歳(ほし)は丙午(ひのえうま)に次(やど)りし年に、大王(おほきみ)天皇(すめらみこと)(推古天皇)と太子(ひつぎのみ こ)(聖徳太子)を召して誓願し賜ひて、「我が大御病太平(やすら)ならんと欲し坐(ま)すが故に、将に寺を造り薬師像作り仕へ奉(まつ)らんとす」と詔りたまひき 然れどもその時に崩じ賜ひて、造り堪えざれば小治田(おはりだ)大宮に天の下治しめしし大王天皇(推古天皇)及び東宮(とうぐう)聖(ひじりの)王(おほきみ)(聖徳太子)は大命を受け賜ひて、歳は丁(ひのと)卯(う)に次し年(推古15年六〇七年)に仕え奉りき

法隆寺金堂銅造薬師如来像

要するに厩戸皇子の父橘豊日大王が五八六年に病に罹られ額田部皇女と厩戸皇子に平癒祈願に薬師像作るように頼まれたのですが、その時に亡くなられたので、後に六〇七年に薬師像を作ったという内容です。天皇号は用明天皇にもつけられていますが、これは大王の称号を天皇に変えたということですね。推古天皇については「大王天皇」と記されています。これは天皇とだけ記せばまだ良くわからないので、大王の称号だと分かるように「大王天皇」とわざわざ記したので、過渡期に相応しい表現だということで、梅原猛先生はそこに信憑性の根拠を見出しておら れます。

鬼検事:それはものは捉え方次第ということで、「大王天皇」などという称号はないから、疑わしいとも言えます。それにそもそも仏教を導入しようかどうかもめている段階で、薬師如来信仰があったのか、また薬師如来像がその時期に作られたのか疑わしいと言われます。まだ中国でも薬師如来像はなかったようですね。それに薬師如来像の特色を持っていないとされるわけです。そして決定的なのは書体が初唐風で倭国では七世紀末以降のものだそうです。

やすい:薬師経の漢訳は玄奘三蔵のものが有名なので、それ以前になかったように誤解されがちですが、四世紀には漢訳されていました。ですから倭国に渡来した僧が薬師如来像を作るように奨めた可能性があります。薬師如来像と釈迦如来像はまだ仏像の姿としては区别がなかったので、当時の中国にもなかったと言われているだけです。ただし、書体に関しましては初唐のもので倭国では七世紀末以降でないと見られないものです。

閻魔:では亡者やすいも偽作だと認めるのだな。

やすい:元の光背銘が火事で傷んだので、光背銘だけ作りなおしたことも考えられます。

鬼検事:たとえそうでも、天武朝以降に書いたとしたら天武朝始用説に有利です。

やすい:確かに推古天皇の在位の間に書かれたものでないという意味では、推古朝の天皇号始用説の確証にはなりませんが、傍証にはなります。

鬼検事:偽作に書かれた天皇号はいくらなんでも信用できないでしょう。

やすい:七世紀末から八世紀はじめに偽作したことが確かなら、仮に天武朝に天皇号が使われ始めたというのが正しいとして、彼等はつい最近から天皇号が使用されはじめたことを知っていますね。つまり推古朝では天皇号が使われていなかったことを知っていたはずです。

閻魔:それは認めざるを得ないな。

やすい:としますと、天皇号が使われていなかった時代の仏像の光背銘に天皇号が入っていれば、偽作だとバレてしまいますね。バレてもいいものだったらまだしも、薬師如来像には用明天皇、推古天皇、聖徳太子と法隆寺が深いつながりだったことを示しているのですから、薬師如来像が偽物なら、その深いつながりも怪しいことになります。つまり偽物の薬師像に深い皇室とのつながりを示して、七世紀末から八世紀初めの朝廷と天皇を欺き、国家の補助をだまし取ろうとしていたことになるのです。ですから「大王」と書いたはずです。ということは逆に偽作者は推古朝で天皇号が使用され始めたことを知っていたので、「大王天皇」と書いたことになります。

鬼検事:それでは亡者やすいは偽作とは認めるが、天皇号は七〇六年からあったというのだな。

やすい:いいえ、偽作だとする必然性はありません。元のまま書き直したから「大王天皇」という過渡期的表現も入ったということですね。光背銘は火事などで傷んだので書き直したけれどできるだけ元のまま書き直したと解釈しているのです。推古天皇の時代の文字史料がほとんどなく、別の史料に大王と書いてあって、この史料は天皇と書いてあるというのじゃないわけです。どちらが本当か分からないのじゃないのです。

 ②法隆寺釈迦三尊像光背銘について

厩戸の皇子と生まれし御仏は釋迦に戻りて久遠に微笑む

法隆寺釈迦三尊像光背銘

鬼検事:では法隆寺の釈迦三尊像光背銘を検討しましょう。これは厩戸皇子が亡くなるさいに親族が釈迦三尊像を作って、菩提を弔ったのです。これも一応読み上げてもらいましょう。

やすい:厩戸皇子が亡くなられたのは、西暦ですと六二二年の話です。

法興の元(がん)より三十一年、歳(ほし)は辛巳(かのとみ)に次(やど)る十二月 鬼、前太后(きさき)、崩ず。明年正月二十二日、上宮(じょうぐう)法皇、病に枕し、悆(こころよ)からず。干食(かしわで)王后、よりて労疾(いたつき)を以て、ならびに床に著(つ)きたまふ。時に王后・王子等、及び諸臣と與(とも)に、深く愁毒を懐(いだ)きて、共に相ひ発願す。仰ぎて三宝に依りて、当(まさ)に釈像の尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じ寿(よわひ)を延し、世間に安住す。若(も)し是れ定業にして、以て世に背かば、往(ゆ)きて浄土に登り、早く妙果に昇らむことを。二月二十一日癸酉の日、王后即世(そくせい)す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸(みずのと)未(ひつじ)年の三月中、願の如く敬(つつし)みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を造り竟(おわ)りぬ。斯(こ)の微(み)福(ふく)に乗(よ)り、信道の知識、現在には安隠(あんのん)にして、生を出でて死に入らば、三主に随ひ奉り、三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁 を脱することを得て、同じく菩提に趣かむ。司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。

現代語訳しますと次のようになります。

法隆寺釈迦三尊像

法興元年(五九一年)から31年、干支では辛巳の歳(六二一年)の12月ついたち、 前の大后が亡くなられた。明年(六二二年)正月22日上宮法皇(厩戸皇子)が病気で寝込まれ、工合悪くなられ、皇子の后膳大郎女も看病疲れで、床を並べられた。時に厩戸王の后たちや王子たち、および臣下たちが深く哀しみを懐きまして、共に願をかけました。「仏法僧に帰依して、厩戸王と同じ身の丈の釈迦像を造りましょう。この願力で病気が回復して、寿命が伸びて、この世に安らかに住まわれますようにと。でもこれがもしも定められた業で、それで世に背かれて亡くなられるのなら、浄土に往生されて、早く極楽の素晴らし境地に達せられるように」と。2月21日に癸酉の日に膳大郎女が世を去られ、翌日に法皇が(浄土に)昇っていかれた。癸未の年(六二三年)の3月に、願いのようにつつしんで釈迦の尊像並びに脇侍、及び荘厳する道具を作り終えた。このささやかな善行で 信心の道の知識を得、現在は安穏で、生を終えて、死の世界に入れば、前大后、膳大郎女、厩戸皇子の三主に従って、三宝を紹隆(先人の偉業を受け継ぎ更に発展させる)して、共に彼岸に到達し、六道世界に貫かれている無常無我の真理を悟り、苦しみの縁起を脱して、一緒に悟りの境地に到達しよう。司馬鞍首止利仏師に造らせた。

鬼検事:先ず「法興」という元号が入っていることで、この光背銘は信用できません。元号は「大化」からですからね。

法興寺跡の飛鳥寺

閻魔:寺固有の元号とか、地方で使われている私年号とかもあったようだな。さしづめ法興寺固有の年号ではないのか?

やすい:さあ、この場合、厩戸皇子は摂政ですから、その人の最後を弔うのに寺年号や私 年号を使ったというのは不自然でしょう。それより五九一年に法興寺の建立が開始されて法興年号が出来たのだが、六四五年の乙巳の変があり、蘇我宗家が滅亡したので、蘇我宗家の権勢が盛んだった時代の年号を嫌って、年号は大化からということにしたのではないでしょうか。これも偽作だとした場合に、もし法興元号がなかったのに書き入れたら、偽作とバレてしまいますので、たとえ偽作でも法興年号はあったと思われます。

鬼検事:それから発願した人々は病気平癒とともに、もしこれが定めで亡くなられるのなら、早く極楽往生をと矛盾したことを言ってますので、まさかこんな文章は書かないだろうと思われますね。だから、これも後世の偽作の根拠になると思われます。

やすい:梅原猛先生もこの解釈には苦しまれておられます。『隠された十字架』では不自然な表現だから、後世の粉飾とされていたのですが、『聖徳太子』では、病気平癒を祈りながら、もし駄目なら、一日も早く極楽に往生されて安楽になって欲しいというのは親族ならではの真情だとされて、かえて迫真性があるとされています。   これは我々でも言えますね。病気が治って一日でも長生きして欲しい、でもいずれ死ぬのだから、いまがその運命の時なら、一日も早く極楽往生して欲しいとなります。それでこの釈迦三尊像に関しましては、六二三年に造られたというのは広く認められているようです。もっとも大山誠一さんたちのように頑固に、厩戸皇子は後世の信仰で聖徳太子とされたとする人たちは、八世紀の偽作説をとっていますが。

閻魔:厩戸皇子は講経などを行って仏教での権威を認められたので法皇と俗に呼ばれていたということだろう。これは当時、女帝だったので、英才だった厩戸皇子が仏教を学問的に極めて菩薩太子になる必要があったということで、慧聡・恵慈などの協力でかなりの域まで達していただろうということだな。しかしその証拠としての『法華義疏』などはあまり評価できないようじゃないのか?

聖徳太子真筆?『法華義疏』

やすい:あれは御物になっていて聖徳太子直筆ということですが、内容的には梁の法雲(四七六年ー 五二九年)による注釈書『法華義記』と7割同文で学僧のノートのようなものです。どうして聖徳太子の書いたものとされたのかその経緯ははっきりしていません。聖徳太子の仏教思想を表す言葉としては、『天寿国繍帳』に縫い込まれていた「世間虚仮唯仏是真」があります。「世の中は仮の宿のようなはかないものであって、ただ仏だけが変わらない真実です」というものです。

鬼検事:それは「諸行無常、諸法無我」というようなもので、抽象的すぎます。やすい:そう言えばそうですね。ただ世の中にあり続けるもの、変わらないものなどなく、生じたものは皆滅び去っていくというのが真実ですが、それら儚い個々の財宝や地位や名誉などに拘らず、すべては法の現われと考えて、無心になって慈悲のこころでまごころを尽くせばいいということでしょうね。仏の慈悲を体現されて生きようとされたのです。

閻魔:仏法を深く悟られて、それで人々を慈悲の心で掬い取られるようなことをなさったのか?

やすい:そうされたからこそ聖徳太子と称えられたのではありませんか?それを大山誠一さんたちは実証史学から実証出来ないと言って、聖徳太子など死後でっちあげた業績で飾られた称号だというのです。それで冠位十二階の制、十七条の憲法、仏教経典の講読講義など太子の業績を物証が残っていないからでっち上げだろうと決めつけます。しかしそれらは絶対に不可能だと決めつけるようなことではありません。必要とあれば、皆の協力でできたのではないでしょうか。それに封印された神道大改革こそ「捨身飼虎」の自己犠牲的慈悲の実践でした。

閻魔:天照大神を主神・皇祖神に差し替えることが仏教の慈悲とどう関わるのだ。

やすい:政治は元々「まつりごと」と言いますね。何をどう祀るかはそれで人民を救い、導くことなのです。ですからその国の風土や慣習、産業などの事情に合ったものでなければ、神々に守ってもらえるような気になれません。ところが倭人は元々海洋民で朝鮮半島に避難し、そこから対馬・壱岐を橋頭堡にして大八洲に進出したので、海洋民として北極星信仰(天之御中主神信仰)が中心でした。また磐余彦大王の祖先神は月讀命とされていたので、「夜の食国」として朝廷の儀礼は夜でした。これでは河内・大和の農耕中心の風土には合いません。それで太陽神信仰に鞍替えする必要があったのですが、何しろ神々はただの自然神であるだけでなく、現人神の一面もあり、人格や感情を持ち、ご先祖として血もつながっていますので、それを差し替えるなどとんでもない忘恩であり、親不孝であると思われていたわけです。道義的にも許されないし、神罰が祟ると考えると恐ろしくてとてもできないわけです。

閻魔:しかしどうしてもしないわけにはいかないということで、太陽神信仰を仕切っていた物部氏が没落した機会を捉えて、断行したということだな。

やすい:はい、その通りです。社稷を守るために神を祀ると�