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8
134号 134号 1990年 3月 15日 発行先 福岡県遠賀郡遠賀町浅木 東和苑 6-4(〒 81143) 究会 TEL(093)293-424 振替 福岡 423260 古代文化研究会会報 西 32 JR 西 西 鹿

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第134号紫筑

第 134号

1990年 3月 15日

発行先 福岡県遠賀郡遠賀町浅木

東和苑 6-4(〒 81143)

筑 紫 古 代 文 化 研 究 会

TEL(093)293-4244振替 福岡 423260

奥 野 正 男

古代文化研究会会報

二月例会案内

日 時 一二月二十五日

(日曜日)

見学地 粕屋郡宇美町の遺跡

集合地 博多駅

・福岡バスセンター

午前十時集合

西鉄バス宇美行32番、午前十

時八分発乗車、宇美八幡宮前

下車

コース 宇美町立歴史民俗資料舘宇

美八幡宮――神領古墳群――

浦尻古墳群――光正寺古墳――

七夕池古墳

交 通 帰路のバスは、田富バス停

より三時五十七分発福岡行乗

車四月例会

(バス)

日 時 四月二十二日

(日曜日)

見学地 唐津市の遺跡

集合地 JR博多駅筑紫口

(午前八

時半出発)

コース

ッ釜――歴史民俗資料舘――唐

津城――菜畑遺跡――桜馬場遺跡

――久里双水古墳――宇木汲田

柏崎遺跡――葉山尻支石墓――古

代の森会舘――島田塚古墳――恵

日寺――鏡山

参加費 一ハ千円

(バス代、入場料

資料代)

表粕屋の河川

博多湾東部に流入する河川は、北

から多々良川とその支流の猪野川、

久原川、篠栗川、須恵川、宇美川な

ど五つの流れがあり、この流域を江

戸時代から表

粕屋とよんでいる。

表粕屋に対する裏粕屋は、多々良

川、猪野川より北側で、香椎

・和白

新宮

・古賀

。西戸崎

・志賀島など、

現在の福岡市東区をもふくむ地域で

ある

(図1)。

表粕屋の西南側は、月隈丘陵を境

に、御笠川、那珂川、室見川が博多

湾に注ぎ、その流域は福岡平野の中

心部にな

っている。

多々良川流域

の弥生遺跡

福岡

・粕屋地区では、近年、旧石

その他、弁当持参

・参加申込みは、

四月十日までに。費用は振込または

現金封筒でお送り下さ

い。

・縄文時代の遺跡も漸増している

が、ここでは表粕屋の弥生時代の遺

跡を中心にみていきたい。

弥生時代の表粕屋は、遺跡の分布

が多々良川南岸の平野部と宇美川流

域との二つの地域に集ま

っており、

これにつづく古墳時代もまた、同じ

地域に前期古墳が出現している。

両地域が弥生

。古墳時代をつうじ

て発展の中心にな

ったのは、稲作農

耕に適した河川と沖積地に恵まれた

ためである。

多々良流域では、稲作農耕のはじ

まりをしめす板付遺跡のような遺跡

の発見はまだないが、一暴粕屋では新

宮町の夜臼遺跡、古賀町の鹿部遺跡

が知られている。

む称生前期になると、江辻、森江山、

蒲田の三遺跡が、多々良川流域に出

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(2)紫筑第134号

図 1 粕屋平野遺跡分布図

ン・

、「こ算

. e /

日 宇美 ′

\ ヽ ニイタ・

先\//

う。

1多 々 良 跡

2 大牟 田遺跡 (銅 オ・自開膝絶)

3 内 橋 坪 見 廃 寺

4戸 原 遺 跡

5名 子 道 遺 跡

6江 辻 遺 跡

7 部木八幡古墳群(1'轟l■)

8 原 古 墳 群

9部 木 古 墳 群

10大 隈 古 墳 群

11丸 山 古 墳 群

12 焼地山古墳群 (薔け酸円墳)

13賀 与 丁 廃 寺

14 L宇 美 古 墳 群

15平 塚 古 墳

16酒 殿 古 墳

17庄 古 墳 群

18宇 美 八 幡 宮

19神 領 古 墳 群

20光 正 寺 古 墳

21七 夕 池 古 墳

22 川原田。供田遺跡

科“

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第134号紫筑(3)

現する。江辻遺跡は、久原川と篠栗

川に狭まれた沖積地上の古い自然堤

防にあり、戦前、中山平次郎氏の採

集遺物に、前期の石包丁や柳葉形磨

製石鏃

(図2)が知られている。

蒲田遺跡は、久原川南岸の和田、

へ 

部木の台地先端部にあり、前期の土

器や、土坑墓から柳葉形磨製石鏃二

本が出土している。

弥生中期には、前期からひきつづ

いて蒲田

・和田

・部木の台地上に集

落と甕棺墓群が拡大し、さらに標高

五メートル前後の河岸低地に遺跡が

ひろが

つている。部木、花ケ浦遺跡

には甕棺の出土が知られ、標高五メー

ムn‐―‐‐―‐ⅢⅢuy=「 

ω

図 2 江辻遺跡の遺物(福岡市立歴史資料館研究報告第一集によ

トルよりやや低い多々良込田遺跡か

ら中期後半の土器や前

。中期の石器

(図3)、終末期、庄内式平行期の土

器群が出土している。

弥生後期には、低地

への進出

・定

着とともに、戸原B地点、九大農場

遺跡など扇状地中央部

への進出もす

すみ、終末期には、多々良込田遺跡

例のように低地での集落がみられる“

同遺跡の庄内式平行期の土器

(図

4)には、吉備系の土器が伴

ってい

zつ。弥

生終末期から古墳時代初頭期に

かけて、粕屋町上大隈の平塚、福岡

¶鰺▽図 3 多々羅込田遺跡の石器

縄臨こπ不平平不 靡1/

図 4 多々羅込田遺跡の外来系土器

市東区名子道などに、この地域を支

配する首長の墳丘墓が出現する。

平塚墳丘墓は、長軸

一六メートル、

短軸十二メートルの楕円形状の低い

墳丘をもち、大形の蓋石を用いた主

体部の箱式石棺の

一端に、大形の石

を立てている。盗掘後の土中から長

宣子孫内行花文鏡

一面と、棺内から

弥生タイプの管玉

一七個が出土して

いる。

また、墳丘裾や付近には、石棺の

石材が散乱し、小形の箱式石棺二基

が近年まで残

っていた。墳丘盛土(現

在はない)のなかには、調査当時弥

生土器片がみられた、という。

名子道2号墳丘墓は、多々良川北

岸の江辻山の尾根上にあ

つた箱式石

棺墓で、盗掘のため遺物はなかった

が、大形箱式石棺の囲りに径約五メー

トルの大きさで環状の列石をめぐら

していた。石棺は長さ二

。○メート

ル、幅〇

・六七メートルで、上に三

枚の蓋石をかぶせている。中央の蓋

石は長さ

一。八メートルという大き

なものである。石棺周辺に供えられ

ていた高不は弥生終末とみられる。

このほか台地上の蒲田水ケ本遺跡

から方格規矩鏡片が出土している。

出土の石器

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紫筑第134号

宇美川流域

の弥生遺跡

宇美川流域と篠栗川南岸の範囲を

ふくめても弥生遺跡はあまり知られ

ていない。

国道二〇

一号線と須恵川が交叉す

る仲原から門松にかけての丘陵地に

は、古大間池池、駕与丁池など四つ

の潅漑用池があり、この池の周辺か

らは、縄文時代の黒曜石製の石鏃や

弥生土器が採集されている。古大間

池の改修工事のさいの調査では、弥

生中期前半の円形住居跡から土器、

石器

(図5)とともに袋状鉄斧と板

状鉄斧が各

一点出土している。

賀与丁池の周辺には正式な発掘は

おこなわれていないが、縄文、弥生

古墳

。古代中世にわたる遺跡群があ

るとみられ、中原志外顕氏

(板付遺

跡の発見者)が多くの遺物を採集し

ている。この池の南にある酒殿あた

りは、池の提が作られる以前、浅い

谷間で、小川が須恵川に注ぐ周辺の

台地にあたる。

この酒殿宮崎には、か

つて甕棺墓

七基と箱式石棺四基が調査され、石

棺の

一つから獣首鏡

一面と管玉

・勾

。小玉などが出土した。鏡の種類

などからみて、前記の平塚墳丘墓な

どと同時期の小首長墓と思われる。

宇美川の南にある月隈丘陵の西端

の独立丘陵上には、「亀山古墳」と呼

ばれているものは、主体部が大形箱

式石棺で、墳丘裾部にも半壊状態で

小形の箱式石棺が露出している。中

央の大形箱式石棺も半壊し、高さ二

メートル近い墳丘も半分ほど削られ

ている。蓋石も大形であり、前記の

平塚などと同じ時期の小首長墓であ

る可能性がある。

このほか弥生時代の遺物散布地と

して、須恵町域では次の遺跡が知ら

れている。

柿本池遺跡

(紡錘車

・土器)

旅石遺跡

(甕棺墓

・土坑墓群)

古野遺跡

(甕棺墓)

天神畑遺跡

(甕棺墓群)

松ケ浦遺跡

(土器散布地)

また、粕屋町域では、岩崎神社境

(甕棺墓群)が知られている

宇美町域では、宇美川流域の台地

や徴高上の七夕池南、光正寺、坂本、

耳取池、下原、浦尻池、下宇美、苔

牟田、木川

(宇美中学校)、赤井手、

川原田、 ハスワなどで弥生土器の散

布地が知られている。

七夕池南遺跡では、弥生時代後期

から古墳時代前期にわたる方形周溝

墓、土坑墓、木棺墓、甕棺墓

(庄内

期併行)、などが調査されている。

粕屋地域

の青銅器生産

表粕屋地域では青銅器の鋳型が次

のようなところから出土している。

福岡市東区多々羅大牟田

(広形銅

・図6のⅢ)

福岡市東区多々羅大牟田

(有鉤銅

釧)伝

・福岡市東区八田(中広形銅剣

図6のI、中細形銅文

。図6のⅡ)

一暴粕屋地域では、

粕屋郡古賀町久保長崎

(中広形銅

丈)からの出土が知られている。

表粕屋の鋳型出土地は、多々良川

の下流域の北岸に集中している。こ

の地域は低丘陵地である蒲田・和田・

部木の台地とくらべると農耕の条件

式鋳型がいちじるしく劣

っている。

このことは、古墳時代に入ってから

も、この地域に古式の名島前方後円

墳や部木前方後方墳、三角縁神獣鏡

図6

I、中細形銅剣鋳型

(伝)福岡市

東区八田

Ⅱ、中細形銅式鋳型

(同)

Ⅲ、広形銅丈鋳型 福岡市東区大

牟田

を出した天神森古墳

(実態不明)など

が出現することとあわせて検討しなけ

ればならない。

表粕屋の終末期墳丘墓

粕屋平野には、以上のべたように、

多々良川流域を中心として、北岸に名

子道墳丘墓、南岸に平塚墳丘墓が出現

する。

また宇美川流域には、亀山箱式石棺

墓、酒殿箱式

石棺墓が出現してい

zつ。こ

れらの墳墓は、盗掘によつて副

葬品を欠いたものもあるが、酒殿と

平塚では後漢式鏡をも

つており、玉

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第134号紫筑(5)

類を伴な

っている。また名子道では

隣接する1号墳の小形竪穴式石室の

残存部から鉄剣、勾玉、小玉が出て

いる。

この四基の小首長墓は、それぞれ

約ニキロメートルほどはなれてあり、

下条信行氏が指摘する早良平野での

宮の前C地点墳墓と同じように、小

地域単位に成立した政治圏の範囲を

うかがうことができる。

弥生時代後期後半から終末期にか

けて、いわゆる墳丘墓に葬られた

小首長の政治支配の範囲は平野全域

に及んでいないのである。このこと

は、次の時代の前期前方後円

(方)

墳の出現を考えるうえでも、重要な

視点である。

表粕屋の前期前方後(方)墳

宇美川

・須恵川流域では、いまの

ところ確実に時期のわかる前期の前

方後円墳はない。

しかし、七夕池南方の宇美川流域

を見おろす段丘上にある光正寺前方

後円墳が、末調査であるがこの流域

に最初に出現する。この前方後円墳

は、全長約二五メートル、後円部径

約二〇メトトルで、幅の狭い前方部

が撥形にひらく形をしている(図7)。

主体部は後円部頂上に箱式石棺があっ

たといわれるが不明。三段築成の後

円部の側面には、築造当時のものと

みられる玉石による石垣状のはり石

が施されている、特異な古墳である。

こうした石垣状のはり石は、佐賀市

金立に所在の茶臼山前方後円墳にも

みられる。

多々良川南岸では、蒲田

・和田

部木の台地先端部に、これも末調査

であるが、部木前方後方墳が出現す

る。全長三〇メートル前後の古墳で

あるが、その形状から前期にさかの

ぼる可能性が指摘されている。

一方、多々良川北岸では、採土工

事中の採集で古墳の実態はよくわか

らないが、三角縁神獣鏡や盤龍鏡の

出土が、次のところで知られている。

福岡市東区蒲田天神森

①天王日月獣文帯三

神三獣鏡

(径三二

六センチ図8)

一面

②盤龍鏡

(径九

・九

センチ)

一面

同東区松崎 ③吾作三神三獣鏡

(径二

一 ・八センチ)

一面

同東区香椎

・香住ケ丘

④天王日月獣文帯三

神獣鏡

(径二

一・〇

センチ)

一面

また、東区の名島古墳は、墳丘の

大半を失

った前方後円墳であるが、

調査の結果、前方部先端が撥形にひ

らく古式タイプの墳形をしているこ

とが判明している。

多々良川北岸地区は、ア」うしてみ

ると、実態は十分明らかではないが

農耕地としての条件をもたない狭い

地域に、小形とはいえ、三角緑神獣

鏡をもつ古式古墳が

一基あ

ったこと

になる。

三角緑獣鏡などを所有

する前期の首長墓は、かっ

て、旧郡域に

一基程度と

いわれていたことがあ

た。しかし、これまでの

べてきた前期古墳の分布

からみれば、四世紀代の

粕屋地域の首長は、弥生

時代終末期の小首長の政

治支配圏をあまり大きく

出ない範囲で、平野を分

割支配していたとみるこ

とができる。

川原

・供

田遺跡

昭和六十三年に、宇美

町大字井野字川原田。供田

両地区の宅地化にともな

図 7 光正寺前方後円墳 1/250

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第134号 (6)紫

う発掘調査がおこなわれ、宇美川流

域では初めての、集落にともなうと

みられる大溝が検出され、弥生中期

中ごろから後期初めの多量の祭祀上

器群が出土した^

遺跡は宇美川とその支流の井野川

に狭まれた平野部で、光正寺古墳の

南約八〇〇屑の位置にある,この辺

りは、昭和三十年代に炭鉱跡地の陥

没で弥生遺跡が消滅したといわれて

いるが、今回の調査で、南北方向に

のびる最大幅二

・五済の大溝と土墳

柱穴群が出ている 溝の深さは約六

図 8

○考、底幅で

一四〇~

一五〇考の幅

ひろいビ字形をしている^

溝のなかからは、壺、甕、高郎、

鉢、蓋、支脚など多量にのぼる土器

類が出十しているさとくに壺のなか

にはいわゆる瓢

形土器といわれてい

る中期中ごろの丹塗り上器がまとまっ

て出土している。この種の土器は、

粕屋平野では初めての出土である。

石器類は、石包丁、紡錘車、石剣、

石ぞく、石斧、砥石などがある。石

庖丁は、輝緑凝灰岩製のほか頁岩

粘板岩

・片岩製があり、未製品もふ

くむ。石斧は、今山

一産の玄武岩製のほか

一に頁岩

・安山岩質の

一ものをふくむcほか

一に土製投弾、鉄器片

一も出ている。調査範

一囲が限られているた

一め柱穴群は建物に関

一連するかどうか不明

一であるが、川に狭ま

¨れた平野に、大溝と

一関連する中期中ごろ

一から後半の集落が存

一在するものとみられ

一る。

第4回国際シンポジウムの案内

mテーマ 

「東アジアからみた日本の稲作の起源」

②主 催 福岡県教育委員会

0後 援 九州国立博物館誘致推進本部

四会 場 都久志会館

(福岡市中央区天神418110)皿

(慨)78112151

同日 時 平成2年3月17日

(土)10‥00~16 30

(受付開始9‥30)

0講 師

帰国報告 ・高倉洋彰

(九州歴史資料館技術主査)

「長江下流域を中心とした戦国~漢代の文化」

。橋口達也

(福岡県教育庁福岡教育事務所技術主査)

「弥生文化成立期の日本と韓国」

特別講演

 ・全栄来

(大韓民国園光大学客員教授)

「稲作の起源と磨製石器の系譜」

 

〈ム ・西谷 正

(九州大学文学部教授)

問題提起 。田村晃

(青山学院大学文学部教授)

「東アジアにおける稲作の起源」

・岡内三員

(徳島大学総合科学部助教授」

「稲作開始期の農耕技術」

・渡部 武

(東海大学文学部助教授)

「漢代資料からみた水稲栽培技術」

0聴講申込法

往復

ハガキ

(複数併記可)による事前の申込が必要。

平成2年3月12日

(月)の消印まで有効。

宛先  一T

8‐2 福岡市博多区東公園7番7号

福岡県教育庁指導第二部文化課皿(092)65■11111(内線509)

0聴講料

缶( 料

蒲田大神森出上の三角緑神獣鏡

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第134号紫筑(7)

建国記念の日と日本の紀元

「建国記念日」が制定されて、今

年で二十四年になる。今年も、例年

のように賛成二派

(内

一つは、紀元

節復活と、八紘

一字を理念とする、

神社本庁主導のグループで、去る六

十二年に政府主導の

「国民祝典」か

ら決別したもの)反対二派の四つ巴

の分裂行事になるだろう。

かりそめにも、独立国なら

「建国

記念の日」は、 一番大切な祝日のは

ずである。しかも九年がかりで、日

の目を見た祝日が、この態では

「サ

ラリーマンに有給休暇をふやした」

以外に、何の意義があるだろう。

では、何故このような、ゴタゴタ

が起こるのか、祝日が決まるまでの

経緯や、紛争の問題点を記してみよ

】nノ。この記念日を、 一般の祝日と同時

に決めようとしたのは、昭和二十二

年である。この時は、期日を

「二月

一日」(旧紀元節)としたことで、

占領軍から禁じられた。

その後、二十六年に、平和条約を

締結、独立宣言をし、国力も回復し

たことから、一二十二年に

「敬老の日」

「体育の日」とともに

「建国の日」

を設ける法案が、自民党から出され

た。今

回もまた、期日の

「二月十

一日」

をめぐって、野党との折り合いがつ

かず、廃案とな

った。

(注)当時の各党の案は自民

「二

月十

一日」に固執

。社会「五月二日」o

民社

「四月二日」(旧神武天皇祭)

学者グループ

「一月

一日」などであ

′υ。以

後、毎年のように、提出、廃案

を繰り返し、九年目の四十

一年に、

自民党の強行採決で成立した。

このように、与党が、強引に押し

った背景には、「二月十

一日」なら、

伝統やなじみがあり、国民の大多数

が支持するとの思惑があ

ったからだ

と思う。ちなみに、支持率は、二十

二年八〇%、三十二年六〇%で下降

気味であ

つた。

そこで、問題なのは、当時はすで

に、内外の歴史学者のすべてが

「日

本書紀」が記す日本の紀元

(皇紀)

に、大幅な

「かさ上げ」があること

を認めていた。なのに政府は、「皇紀」

の使用を中止しただけで、国民には

「ほおかむり」してきた。

一方、「マスコさヽ

は、天皇の存在

ぬきの

「邪馬台国」論には熱心だが、

「日本書紀」の虚構には、ふれよう

としない。

理由は簡単、「紀元節」の起因であ

「神武天皇即位」

つまり、皇統に

かかわること、いわば

「菊のタブー」

に、さわらない方が無難ということ

だろう。

ところで、昭和三十二年から二十

四年にかけて

「紀元節」復活論が、

社会問題になり、当局と、学者グルー

プとの意見が対立した。

一方では、いわれのない過去の歴

史を信奉する人たちから、とかく「左

翼文化人」などと

「ピンク」ラベル

で色分けされる

「学者グループ」に

「菊のカーテン」の内部から、意外

に強力な助

っ人

「三笠宮さま」のお

出ましである。

宮さまは、日本史の研究にご熱心

で、歴史的に根拠のない

「紀元節」

が復活することを憂慮され、三十四

年二月に

「日本のあけぼの」(建国と

紀元をめぐつて)と題して東大の井

上光貞教授ほか二十

一人の執筆協力

で、著作

(光文社)を発表された。

内容の

一部を紹介すると―。

「もしも、二月十

一日が紀元節と

国できめたら、小学校の先生は、生

徒に何と説明するでしょう。せっか

く考古学者や、歴史学者がいのちが

けでつみあげてきた、日本古代史の

年代体系はどうなることでしょう。

ほんとうに恐ろしいことだと思いま

す」と

(原文のまま)注

・戦後の教

科書には神武天皇の記事はない。

このような、宮さまのご言動に対

し、 一部の人から宮さまは、皇位継

承問題に関係があり、選挙権も、被

選挙権もない、特殊な立場の方だか

ら、政治的には中立でなければ、と

批判し、官邸に押しかけ、ビラをま

き、塀にのぼるなど、デモをした。

とか―。

歴史上の

「紀元節」そのものは、

天皇家にかかわることなのに、この

ことで、宮さまのご発言を封じるこ

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(8)紫筑第134号

とが、正しいかどうか?

要するに、「開かれた皇室」といわ

れる時代に、たとえ皇統に関する歴

史であ

っても信疑を論ずるに「タブー」

を介在させるべきではないと思う。

「菊のタブー」は、時として、皇

室のご意志に反することがある。本

件の場合がこれにあたるのではない

か。い

ずれにしても「覆水盆に返らず」

とか、 一度、国が決めた

「建国記念

の日」は、消費税のように、やり直

しはきかないだろう。

そうであれば、なおさら虚構の歴

史から生まれた

「紀元節」を復活さ

せ、日本を再び戦前に逆戻りさせて

はならな

い。

日本の国が、いつごろ統

一された

かは、既述のように、いまだ掴めて

いない。このような状況下で、「建国

記念の日」を、先に決めるのは、本

筋ではない。

しかし、そんな理く

つを言わず「と

にかく」現に、立派な

「独立国日本」

があるのだから、「記念の日」があ

てもよいではないか、と、これも

理ある。

「兎に角」とは、うさざにつの、

と書く、兎には角が無いから、理く

つの合わないことを、こじ

つけると

きの言葉である。とすれば差詰めJ一

月十

一日」は、「兎に角記念日」とい

うことか?

ところで、去る十二日の新聞を読

んで驚

いた。

県内の某市長さんは、地元の建国

記念奉祝会で、次のようなあいさ

をされている。

「先祖が築いた、二千六百五十年

の歴史をふり返り、我々の進むべき

道を考えよう」と、これは、明らか

に、紀元節を意識した、公人として

の発言である。

また、テレビでお馴じみの某堅物

評論家や、某私大のゴ

マスリ教授ま

でが、「皇紀信仰的」な発言をしてい

Zつ。こ

のことは、私がこれまで書いた

ことと、予盾するので、今

一度、詳

しく説明し、後は、諸賢の判断に任

せよう。

▼皇紀は、ご承知のように「神武

天皇

(天皇の構号は、七世紀代から

使われたものだから、単に王という

べきだろう)が、 一族と共に、日向

の国から舟出し、大和地方

へ「東征」

し、地元の王族を苦戦の末、平定し

た。そして

「日本統

一」の初代の天

皇として橿原の地で

「即位の式」を

あげられた。この年が、紀元前六百

六十年で

「皇紀元年」とし、今年が、

二千六百五十年にあたるというもの

である。

▼当時の、日本人の生活状態を記

すと、米作をはじめた頃より、四百

年も前だから、「食べ物」は、木の実

や魚介類が主で、 一部の地方で、焼

畑農法で、アフ

。キビ

。ヒエなどを

っていたらしい。「鉄や青銅」が無

いから、渡海は、丸木舟か筏を使用

・争乱が起きても、弓には、石の

矢じりを

つけた矢を使い、棒で叩き、

石を投げる程度であろう。

こんな状況の中で、宮崎から遠い

奈良まで改め上

って、何んの「メリッ

ト」があるのだろう。

「日本に文字」が、正式に伝わ

たのが西紀四〇〇年ごろ、年代を現

す暦が入

ったのが六〇

一年、日本書

紀の成立が七二〇年だから、神武即

位から

一、一二八〇年後に

「東征物語」

を書いたことになる。文字の無い時

代に、こんな大昔のことの語り継ぎ

は、不可能だろう。

古代研通信

○…二月例会は粕屋平野の遺跡を回

ります。当日の見学は宇美町内に限

られますが、弥生終末の墳丘墓から

前期古墳の発生をたどれる好フィー

ルドです。光正寺古墳は前方部が撥

形にひらく前方後円墳ではないか、

という問題について現地でじっくり

検討したいと考えてます。

o…奥野の旧著『邪馬台国はここだ』

(一九八

一年、毎日新聞社刊)が、

この二月、徳間書店から文庫本で刊

行されます

(定価五八〇円)。邪馬台

国論争に、初めて鉄と鏡の分野から

切り込んだ九州説です。巻末の解説

は折居正勝さんに書いていただきま

した。乞う、ご期待―

○…

『サンデー毎日』に連載の

「奥

野正男の邪馬台国紀行」がアッとい

う間に半年目に入りました。対馬

壱岐

。松浦と邪馬台国に近づくにつ

れて、日本文化の源が海に根ざす性

格のつよいことを感じています。

○…二月十七日の国際シンポジウム

(福岡市

・都久志会館)は、例会な

みの参加を希望しています。四月例

会は唐津

(バス)、五月二十七日は飯

塚市の立岩を予定しています。