文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

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文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841). 大御所時代の政治・社会情勢 1. 大御所家斉の放漫政治 2. 綱紀の乱れ = 田沼時代以上の賄賂横行 ( 老中水野忠成の政治) 3. 社会の享楽的風潮の一般化 4. ロシア、イギリス船の来航 5. 社会不安増大 = 百姓一揆・打ち壊しの頻発 関東の治安混乱(無宿者、博徒の横行). 将軍・徳川家斉. 松平定信. 反対. 光格天皇が実父の 閑院宮典仁親王に 「太上天皇」の尊号. 対立. 父・一橋治済に  「大御所」の尊号を . 幕閣. 将軍=幼少. 免職. - PowerPoint PPT Presentation

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Page 1: 文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

文化・文政時代所謂「大御所時代」

家斉 (11 代将軍 )の放漫政治 (1793 ~1841)

大御所時代の政治・社会情勢1. 大御所家斉の放漫政治2. 綱紀の乱れ = 田沼時代以上の賄賂横行 ( 老中水野忠成の政治 )3. 社会の享楽的風潮の一般化4. ロシア、イギリス船の来航5. 社会不安増大 = 百姓一揆・打ち壊しの頻発 関東の治安混乱 ( 無宿者、博徒の横行 )

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爛熟した化政文化の全盛期、将軍職を退いた家斉が放漫な浪費を続け、大御所時代とも称された大量消費時代。「水野出て元の田沼となりにけり」と揶揄

寛政の改革時代に定信によって登用の老中たちが主導

寛政の遺老

父・一橋治済に 「大御所」の尊号を

 

将軍・徳川家斉 松平定信

光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に

「太上天皇」の尊号

反対

対立

免職将軍=幼少 幕閣

白河藩の藩政に専念 松平信明→死去・

牧野忠精ら老中は老齢→引退 水野忠成 ( 田沼意次派

) を老中首座に任命

遠ざける放漫

田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行

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1. 家斉将軍就任 (1787)=寛政の改革への反動的な政治 ( 松平定信を免職 1793)老中水野忠成が賄賂政治→政治が腐敗→一揆続発・社会不安 × 忠成死後→浜松藩主水野忠邦の幕政改革 → 家斉のもとでは空回り江戸中心に、化政文化が栄える⇔江戸幕府の衰退へ幕府の対策1) 治安維持=①関東取締出役 ( 八州廻り ) の設置 (1805)

  関東代官配下が関八州を巡回 ( 1月1回程 ) 領主に係ら  ず犯罪者や博徒の逮捕・取締る警察機関を設置  ②寄場組合の設置 (1827) 近隣の村々を寄せ集め、  協同して風俗や農村秩序の維持、関東取締出役  の費用負担を行う2)財政対策=豪商へ御用金、又も貨幣の改鋳 ( 改悪 )

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小領主や飛び地などが多く広域的な警察活動が難しかった関八州を私領 (諸大名旗本寺社領等 ) ・御領( 天領 ) の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりに当たった。但し御三家である水戸家領などは管轄外とされた。

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 家斉 (11 代将軍 ) の放漫政治① 将軍家斉の贅沢な生活 ② 享楽的営利的退廃的風潮の一般化  大御所付き側室40人・子供55人・女中 606 人。

  将軍付き 279 人計 885 人の大奥女中③ 天保の大飢饉 (1833 ~ 39( 天保 4 ~ 10)) :収穫は例年の半分以下、 36年は平均3~4分作 ・幕領における大規模一揆の発生 →郡内騒動約 80ヶ村1万人、加茂一揆約 240ヶ村  1万2千人参加④相次ぐ外国船の接近=ロシア船、イギリス船⑤財政難→大御所時代のつけ⑥ 1841( 天保 12)年、大御所家斉死、

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2.大塩の乱 (1837)←1. 大塩平八郎 =大坂奉行所与力、陽明学者、①私塾「洗心洞」陽明学を教授乱の原因(a) 天保の大飢饉 (1833 ~ 39) 大坂で打ちこわし 同 奥羽地 方で餓死 10万人 全国的な凶作(米1石=4両)(b) 商人の米の買い占め、幕府の米の江戸回送計画乱の経過・貧民救済を町奉行に申し出たが拒絶、平八郎は蔵書 を売った金 (660両 ) で米を施す・町奉行は商人の米買い占めを傍観、米の江戸回送を 計画する等で平八郎憤慨・富豪の襲撃、大坂城占領を計画 → 事前に漏れ、 準備不十分で蜂起→大坂の町 1/5焼失、半日で鎮圧・平八郎は1カ月間の逃避行後、追いつめられて自殺

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世直し一揆 

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乱の影響① 幕府にとって大きな衝撃( もと与力による公然の反乱 ) →天保の改革の素地② 全国へ同様な反乱の波及・ 2.生田万の乱 (1837) 大塩門弟と名乗る国学者生田万が越後柏崎の代官所を襲撃・江戸でも不穏な動き →幕府は救い小屋を設け て米・銭を施して未然に 防止

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大塩平八郎(号は中斎, 1793 ~1837)はもと大坂町奉行所の与力で,私塾洗心洞を経営する陽明学者であった。 1836(天保 7)年の飢饉に際し,自らの蔵書を売却し, 620両余りを窮民の救済にあてた。 翌年 2 月,挙兵の撒文

(ふれぶみ ) を発して乱を起こした。乱はわずか半日で鎮定され,大塩は自刃したが,幕府に大きな衝撃を与えた。同年 6 月には越後柏崎で生田万の乱が起き、不穏な動きが続いた。

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←12 代家慶就任

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3.天保の改革→1) 天保の改革の契機→家斉の死去後、将軍家慶は、老中首座の水野忠邦を重用し、家斉派を粛清して天保の改革を行なわせた。 「享保・寛政の御政治向きに相復し候様」 2) 天保の改革の方向性 →幕府財政再建と諸改革、徹底的な奢侈の取締り、緊縮財政政策の採用 ×世間は不支持。言論統制、高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧した(蛮社の獄)=寛政の改革と同方向、しかしそれ以上に反動的、強制的① 復古的理想主義②農村の維持→人返しの法など

Page 13: 文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

③商業資本の直接支配→株仲間の解散④政治力・軍事力の強化→上地令など⑤風俗の取り締まり1 ) 目標 =貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興 を目的とした質素倹約の重農主義を基本とした享 保・寛政の改革と同方向、しかしそれ以上に反動  的、強制的経済改革を中心に綱紀粛正や軍制改革 などが実施された。改革は忠邦の腹心の鳥居耀蔵 らとともに推進され、水野が退陣するまでの約 3年 間行われた。しかし姉小路ら数人の大奥女中に抵 抗され、大奥は改革の対象外とされた。

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無宿者や博徒を取り締まり,関東地方の治安維持強化のために,関東取締出役 ( 俗に八州廻りとも ) を設けたが,少人数で充分な警察任務の成果がでなかった。そこで,関東取締出役に村が全面的に協力する目的として, 1827( 文政 10)年,寄場組合を設置。

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 翌年撤回 3名の譜代大名の間で行われる転封形式である。庄内藩領民の激しい反対で中止。発令された転封令を幕府が撤回した唯一の例。川越藩は過酷な収奪で有名なうえ,庄内藩に多大な貸金・年貢の前払いをしていたので反古にされるという不安があったからである。

三方領知替え 1840年発令

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19世紀前半になると,問屋制家内工業はさらに発展し,大坂周辺や尾張の綿織物業.桐生・足利などの絹織物業ではマニュファクチュア(工場制手工業)が始まった。この新しい経済活動を取り入れたのが藩営専売制であった。

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○肥前薄の大砲製造所 (多布施公儀石火矢鋳立方図 )海防のため, 1850(嘉永 3)年,築地 (佐賀市 ) に反射炉を築造し,国内初の大砲製造所を設立した。図は多布施 )佐賀市 ) の反射炉で, 1853年築造。

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財政窮乏の要因1.参勤費用の増大・参勤交代の道中費用・江戸藩邸の維持費用 ( 大名の消費生活を含む ) とくに重い負担2.年貢以外の財源に乏しい   ・貨幣鋳造権なし→ 貨幣鋳造権は幕府が独占 →藩札の発行 ( 幕府に許認可 )・鉱山収入なし→良質な鉱山は幕府が独占

諸藩の窮乏

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藩政改革の流れ江戸中期以降、諸藩で藩政改革→財政再建、新田開発1.寛政の藩政改革 (18世紀末 ) 東北諸藩が中心:米沢藩、秋田藩など  1) 藩主自身による改革の指揮  ①細川重賢 (熊本藩 )② 上杉治憲 (米沢藩 )③佐竹義和 (秋田藩 )  2)国産奨励 (殖産興業 ) ・専売制の採用→財政再建  3) 藩学の設置2.天保の藩政改革 (19世紀前半 )  西南雄藩の出現 → 成功= ( 明治維新の原動力 )  1)西南雄藩が中心:①薩摩藩②長州藩③佐賀藩  2) 下級武士の登用→改革:① 5.調所広郷 (薩摩 )②7. 村田清風                         (長州 )  3) 専売制の強化  4) 軍制改革:洋風砲術・兵術の採用

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藩政改革と諸藩の専売品  秋田藩佐竹義宣の改革:農業では指紙制度で開墾した田畑は自己の知行地に組み入れを許し、鉱業では院内銀山で鉱脈を発見、一日に銀千枚を産したという 。林業では秋田杉を能代から江戸や大坂に大量に木材を輸送し、年貢換算で3万石以上に相当したという。藩内の殖産興業にも努め、能代春慶塗、川連漆器、角館の桜樺細工、白岩焼、秋田黄八丈などの特産品は義和時代に起源する。米沢藩上杉治憲の改革:養子の上杉治憲 (鷹山 ) は、 17歳で9代藩主となり、役人の削減、特産物の奨励、興譲館の創設などの業績を残した。鷹山は竹俣当綱らを登用し、当綱の献策で、桑、楮 (こうぞ ) 、漆の各百万本植立てを計画し、植樹費用を支弁する、成木には藩が買い上げるなどの配慮も行った。米沢織の国産化も挙げられる。

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水戸藩徳川斉昭の藩政改革:藩校・弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層からも人材の登用に勤め、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の武士を用い藩政改革を実施した。斉昭の改革は、天保の改革に示唆を与えたともいわれる。天保 8(1837)年 7 月、斉昭は、①全領検地②藩士の土着③藩校弘道館及び郷校建設④江戸定府制の廃止を掲げた。「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施、農村救済に稗倉の設置。さらに蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを幕府に提言している。

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 先代任命の家老らと対立しながら、 1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を 50人から 9人に減らすなどの倹約を行って、土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。

米沢藩上杉治憲の改革

 天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め自らも粥を食して倹約を行った。また曾祖父・綱憲( 4 代藩主)が創設し後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

Page 28: 文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

米沢は青苧(あおそ)の産地だが、織りの技法がなく原料として国外に出していた。当綱は織りの産地から職工を移住させて家中の婦女子に技術を学ばせて、米沢織を産業化させた。

千石取りから執政筆頭にのし上がった当綱だったが、鷹山の信頼と改革の功のあまりに専制が過ぎて堕落し、天明2年( 1782年)に鷹山から隠居押し込めの命を受ける。主君の命を伝えたのは、同じく菁莪社出身で改革をともに推進してきた莅戸(のぞき)善政だった。天明3年から続く凶作は東北地方に凄惨な被害をもたらした。仙台藩だけでも餓死30万人から40万人とされるが、米沢藩は餓死や離散者は格段に少なかった。このように改革の成果は明らかとなったが、天明5年に鷹山は家督を治広に譲って隠退。ときに 35歳。訓戒として治広に与えた3か条の「伝国の辞」は有名。鷹山はなお後見役として政務を指導した。やがて莅戸善政は中老職に登用され改革を推進した。中でも養蚕業、織物業の発展が著しく、財政および農村復興の基盤となった。

Page 29: 文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

福井藩松平春嶽の藩政改革中根雪江に教育を受け、天保9(1838)年に斉善が死去すると 11歳で藩主となる。同年、元服。将軍徳川家慶の一字を賜り、慶永と名乗る。正四位下、左近衛権少将・越前守に叙任。中根や由利公正、橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。嘉永 4(1851)年左近衛権中将。嘉永 6(1853)年アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬とともに海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。

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土佐藩山内容堂の藩政の改革:藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新 9.おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永 6年( 1853年)東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老

を押しのけて藩政改革を断行した。翌、安政元年( 1854年)6 月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし 3年後の安政4年( 1857年)東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用した。豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。

Page 31: 文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

細川藩細川重賢の藩政改革(宝暦の改革) 宝暦 2(1752)年、堀勝名を筆頭奉行に、蒲池正定 (蒲池崑山 ) を奉行に登用、改革断行を命じる。堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請、当時の藩財政は危機的状況にあり、鴻池は要請を拒絶。いかに熊本藩が危機的状況であったかがわかる。しかし、堀はすぐ当時新興商人の加島屋との交渉、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功。重賢もまた、質素倹約を奨励し、江戸藩邸費用に限度額を設定するなどの方針を打ち出す。また、重賢は堀ともに年貢に依存する事に限界を感じ、堀に、殖産興業を命じ、楮、生糸、櫨などを専売制に切り替え、蝋の生産を藩直営に移行し製蝋施設を設立させた。また、領内でたびたび検地を行う。藩内での製品を加島屋を通じ大量に販売させ、宝暦年間末には藩財政の好転しいく。また、宝暦年間から飢饉に備えて穀物の備蓄を行い、天明の大飢饉には私財も加えて領民救済にあたった。

Page 32: 文化・文政時代 所謂「 大御所時代 」 家斉(11代将軍)の放漫政治 (1793~1841)

○韮山の反射炉:江川太郎左衛門 (坦庵 ) は幕府の命令により,伊豆韮山で反射炉の築造に着手したが, 1855年に没した。子の英敏が受け継ぎ鉄製大砲の製造を始            めたが,成果は充分ではな            かった。鉄鉱石なとを溶か            して鉄などをつくり出す炉            が溶鉱炉で.その鉄などを            再び溶かして鋳型に流しこ            むための炉が反射炉。