花びらのような命 自由律俳人 松尾あつゆき 全俳句と長崎被爆体験
DESCRIPTION
荻原井泉水を師とし、種田山頭火を兄弟子とした自由律俳人・松尾あつゆき。彼は、長崎原爆で最愛の妻と我が子三人を一瞬にして喪い、絶望の戦後を歩む。しかし、慟哭の淵から立ち上がり、その人生を支えたのは、自由律俳句であった。 核戦争の恐怖とその無惨さを俳句に託し、心の奥底から絞り出した被爆俳人の叫びこそ、いま危うい時代に生きる私たちの魂に突き刺さる! <はじめに>TRANSCRIPT
龍鳳書房
竹村あつお 編
自由律俳人
松尾あつゆき
全俳句と長崎被爆体験
被爆俳人、
慟哭の叫び!!
荻原井泉水を師とし、種田
山頭火を兄弟子とした自由律
俳人・松尾あつゆき。
彼は、長崎原爆で最愛の妻
と我が子三人を一瞬にして喪
い、絶望の戦後を歩む。しかし、
慟哭の淵から立ち上がり、そ
の人生を支えたのは、自由律
俳句であった。
核戦争の恐怖とその無惨さ
を俳句に託し、心の奥底から
絞り出した被爆俳人の叫びこ
そ、いま危うい時代に生きる
私たちの魂に突き刺さる!!
─二〇─
第二編 松尾あつゆき遺草
一
日記・原爆前後�
三五五
二
原爆療養記�
三七一
三
信州在住時代�
三七九
四
長崎新聞等への寄稿文
自署�
三九九
五
松尾敦之から竹村昌男あての手紙�
四三五
第三編 追悼・松尾敦之
ふきのとう�
竹村
昌男
四四五
松尾あつゆきの原爆句碑設立趣意書�
四四七
敦之の思い出�
富岡
草児
四四九
「何くわぬ顔」の笑い�
阿野
露團
四五〇
あつゆきと遂にお別れ�
富岡
草児
四五一
松尾あつゆき略歴�
四五五
おわりに�
竹村あつお
四六九
─一九─
花びらのような命
自由律俳人松尾あつゆき全俳句と長崎被爆体験
目 次
はじめに�
竹村あつお
三
序にかえて�
吉岡
憲生
六
敦之との生活�
松尾とみ子
一〇
「ならんで雪のせてしなののちいさい墓達」�
山下
昭子
一五
第一編 松尾敦之句集
一
層雲誌より
昭和6年から昭和21年1月まで�
二五
二
層雲句稿
昭和21年2月から昭和22年11月まで�
八一
三
層雲句稿
昭和24年から昭和27年まで�
一一五
四
層雲句稿
昭和40年2月から昭和42年7月まで�
一五一
五
層雲句稿
昭和42年8月から昭和45年8月まで�
二〇三
六
層雲句稿
昭和45年9月から昭和47年9月まで�
二五七
七
層雲句稿
昭和48年3月から昭和50年11月まで�
二九一
八
層雲誌より
昭和51年2月号から昭和58年1月号まで�
三三五
─一八─
をかけて被爆の実相をどう後世に伝えるか精神世界を通して問い続けたといえよう。
空にはとんぼういつまでも年とらぬ子が瞼の中
とんぼう一つ空をゆく死におくれたるなり
(「原爆句抄」)
(取材後、同年八月、長崎新聞、原爆・平和企画「とんぼう一つ空をゆく」のタイトルで長野での教師生活や原
水爆禁止運動とのかかわりなど通して、遠く離れた信州は被爆俳人・あつゆきの目にどう映ったのか、未発表
作をちりばめながら十三回にわたり連載した)
─一七─
空には日がいなくなったあめんぼう
信州生活十二年のうち四年間は句誌・層雲に毎月投句、その後信州を去るまでの八年間、層雲社や人
間関係の複雑さからか投句はぷっつり途絶えている。
春の雨となり信濃の小さな墓ぬれる
信州で子どもたちの事を忘れていたわけではない。一方で同じ境遇で被爆という十字架にあえぐ人た
ちを見逃すことができなかったあつゆきは、ここで迎えた六回目の夏、被爆者のために何か自分にでき
ることはないかと立ち上がる。四五年、広島、長崎に投下された二発の原爆で死者二十数万人、負傷者
数十万人。この悲惨な事実をここ長野ではほとんど知られていないことに驚愕。新聞やラジオを通して
実情を伝えることに力を注ぐ傍ら、「爆死証明書」と題し自身の被爆体験を執筆。その後は中央公論(五
五年八月号)に同名の手記が掲載された。
各地で戦争と原爆に反対する闘いが続く中、五四年三月、ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で日
本国民の怒りは爆発。これに端を発して原水爆禁止運動は全国の津々浦々にまで広がっていく。五五年
八月、第一回原水爆禁止世界大会が広島、長崎で開催。次いで開かれた第一回原水禁長野県大会にあつ
ゆきが長崎の被爆者代表として招かれたことがきっかけとなり、同県に組織された反原水爆団体のあっ
せんにより結成された「被爆者の会」の初代会長に就いた。
地獄の思いを逃れて長野へ逃れてきたはずのあつゆきだったが、六一年春、松代高校を定年退職して
長崎に帰郷するまで、奇しくも原爆の残虐さ、平和の願いを文学と運動の両面から告発する結果となっ
た。帰郷してからは「遠くにいたはずの子」の呪文から「あの日」に呼び戻されてしまいつつも、生涯
─一六─
授業の終わりには人生観など心に触れる話を丁寧にしてくれ、自分の人生に大きく影響を及ぼした」。
その教え子たちはあつゆきが亡くなるまで交流が続き、あつゆきが名付けた同級会「野鳩の会」は現在
も継続していると言う。
竹村さんに案内を請うた夫妻旧居。同町、大英寺の土蔵。松代高から歩いて一五分ほど。風呂敷き包
みを小脇に抱え、下駄の鳴る音にも心を寄せた。「住まいはみそ蔵を半分、仕切って改造した部屋。蔵
の小さな窓から鹿島槍ヶ岳がくっきり見えた」(とみ子さん)。当時のまま蔵の前の池には水面の木陰に
コイの影が揺れる。原爆で受けた苦しみ、不条理、そのすべてを受け入れ難く長崎から遠く信州に逃れ
てきたあつゆき。朝夕ここにたたずみ、仰いだ信州の空にどんな思いをめぐらせたのだろうか。
山国の星がくらのひさしから春になる
ともかくも年がこせてしなののくらいゆぶね
☆
原爆にさいなまれた心の痛手は癒えがたく、再婚して新しい生活に入るには被爆地を遠く離れるしか
ないと逃れるように転居したはずの夫妻に、見知らぬ土地と人情は生々流転の信濃の暮らしだった。
見知らぬ土地と人情の異なる土地に住んでみると、亡き子どもたちはどこか遠い土地で元気で暮らし
ている錯覚にあつゆきはとらわれつつも切実ではない。新しい環境になじもうと懸命で、信州の風物に
引かれ、自然に溶け込むように詠んだ句はたくさん得たが、子どもを思う句は不思議と生まれていな
い。自然と向き合った句の世界が束の間、あつゆきの心を潤したのだろう。が、半面ではこうした自分
に「慙ざん
愧き
の念がひしひしと胸に迫り、子にすまないと思う一方、自分が哀れでならない」(「爆死証明書」)。
─一五─
「ならんで雪のせてしなののちいさい墓達」
山下
昭子
�
(長崎新聞文化部記者)
長崎原爆で妻子四人を失い、その苦しみと肉親としての無念を、抑制した筆致で描き社会に衝撃を与
えた『原爆句抄』で知られる自由律俳人、松尾あつゆき(一九〇四~八三年)の未発表作品を含めた大量
の句稿が、保存されていることが公になったのは二〇〇四年六月。
「これまでのあつゆきの魂の証明として大切に保存してきました。未発表の作品が平和のお役に立つ
なら夫も喜ぶでしょう」。
あつゆきの妻、とみ子さん(八八)=長崎県西彼杵郡長与町在住=から、遺稿の詰まった一抱えもあ
る箱を託されたのは、五十九回目の〝あの日〟が巡ってくる初夏だった。それは奇しくもあつゆき生誕
百年の節目。原爆にさいなまれた心の痛手に耐え難く長崎を逃れ、再婚した妻・とみ子さんのふる里、
信州長野に転居したのは、終戦後四年を経た一九四九(昭和二十四)年。そして長崎に戻るまでの十二
年間。あまり知られることのなかった長野時代のあつゆきの姿を追ってその夏、長野に向かった。
長野県長野市南部の松代町。当時、あつゆきが教鞭をとった一九〇六年創立の県立松代高を訪ねる道
すがら、青々とした皆み
な
神かみ
山やま
が眼前に懐を広げ、下りてくる風から濃い緑の風がにおう。目を閉じるとあ
たかも風の中を漂泊する山頭火のように、自然に身をまかせたあつゆきの姿がほうふつした。
屋代東高校時代、英語を習った同市の竹村昌男さんは「物静かで大声を出すことは一度もなかった。
─一四─
平成三年に層雲社と富岡さんのご協力で『ケロイド』を出版してくださいました。富岡さんには本当
に感謝をしております。
全部片付きました。
誰に相談するでもなく、今日まで頑張ってこられたナーと思います。荻原の姉が「とみ子が五十まで
生きることができれば逆立ちして飛んで歩く」というように弱虫、病気もちの私、八十八歳を迎えまし
た。今後とも頑張れそうです。
最後にこのたびの出版にあたり、竹村君に厚く御礼申し上げます。また吉岡さん、小﨑さん、長崎新
聞の山下さん、阿野さん、富岡未知子さんの皆様方のお力添えで出来上がることができました。
地下の松尾もさぞ喜んでいることと思います。本当に本当に有難うございました。
�
(平成十九年十月三十一日)
�
註 〈
〉はとみ子夫人の注釈 (
)は竹村の注釈
─一三─
荻原の義兄がトビラ、サックの方は内島の義兄とそれぞれ手を貸してもらって出来上がりました。
出来上がった時に御礼〈記念〉として皆さんに荻原(荻原井泉水)の筆で「和」という字を色紙に書い
てお渡ししました。家にそのようなことが出来る財力はありませんので感謝しております。
昭和五十一年荻原の義兄が死亡し、内島に層雲の代表がまわってきました。内島の義兄もやはり年に
はかてず、選者を松尾がすることになりました。これまた、義兄に色目をつかっているように見える方
達も出てきましたので段々しりぞいたようでした。
選者荻原が亡くなったせいもあり、句作もとどこおりがちになりました。その頃から松尾の身体も肝
炎にもなり、少しづつ悪くなってきました。パーキンソン病〈歩くことも不自由になり、箸をもつ手が震え
てきました〉にもなり、顔も変わってきました。
私はこまねずみのように病院で薬をいただき、家に帰ってかたずけ、それから昼食〈九時に出て薬をも
らって帰るのが二時〉をしました。よう身体が続いたと思うほどでした。
昭和五十八年十月十日に松尾は原爆病院にて肺炎でなくなりました。パーキンソン病になってから四
年間病院通い等で大変でした。
十月九日病院の先生から最後ですよと言われた折りに、先生に私が頼んだことは「先生今日連れて行
かないでください。十日の朝までもたせてください」と頼んだこと、いまだに忘れません。夜中にトイ
レに立つ折りには手に紐を結んで引っぱるようにしたのに。それを九日の皆の命日に(原爆で子どもが亡
くなったのが八月九日)連れて行かれては私はどうなるのと言いたくなりました。
先生は私の気持ちをわかってくださって、十月十日午前二時五十分死亡といってくださいました。
平成元年十月十日に松尾の句碑が建ちました。中学校からの同級生で、句友でもある富岡草児さんが
一生懸命奔走してくださいました。私も除幕式には出席しました。
─一二─
長崎に帰って駅前にあった予備校の非常勤講師を勤めるかたわら、自宅(本河内町)で塾のようなも
のをしていました。二人ぐらいの生徒さんが毎日見えていました。これらの収入では苦しかったです。
たまたま、長崎商業の教え子である結城一雄さんが自分の子供に教えていただきたいと言われ、自動
車で迎えに来てくれました。それを聞きつけて家の子も家の子もと六、七名を教えることになり、結城
さん宅の二階が教室になりました。収入も増えて大助かり、どんなに助けていただいたかわかりません。
なお、自宅(本河内町)は同級生であった坂ばん
勘かん
さんが見つけてくださいました。私にとって長崎の生活
ははじめてで夢中で過ごしました。
昭和三十六年に原爆合同句碑が長崎市の下之川橋に建ちました。下村ひろし先生や穴井太さん達と一
緒に大きなのが、一番先に松尾の句があります。句碑の二行めにある下村先生(長崎市の産婦人科医、馬
酔木系俳人)は中学時代の同級生で私も自宅へ伺ったことがあります。奥様ともども良くしてください
ました。月に一回〈銀レイという店〉長崎近辺にいる同級生が集まって昼食会をしていました。なごやか
な古話が次から次にでて楽しんでいたようです。それから下村先生は松尾の葬儀に来ていただきまし
た。昭
和四十二年に層雲の選者になったものの、やっぱり頭を持ち上げたい方々がいましたので、やだや
だといいながら選者をやっていました。
日常生活では愛犬ロロと三人暮らしで、松尾もロロを連れて散歩をしておりました。いっとき平穏な
生活が続いておりました。
昭和四十七年五月自然気胸〈どのように説明してよいかわかりませんが、肺に孔があき空気がもれて、イキが
出来なくなる病気〉で入院しました。教え子達が見舞ってくれました折、見舞いとして本の出版をするよ
うにしてくださいました。嬉しかったようです。それが『原爆句抄』として世にでるきっかけでした。
─一一─
になりました。特に信濃の雪には興味をもったようです。
昭和二十五年森村(現千曲市)の農家の離れへ転居しました。二年生のクラス担任をもちました。竹
村君達で、松尾の教師生活では最後の担任でした。
昭和二十六年松代町(現長野市松代町)にある長野県松代高校へ教頭として赴任しました。松代高校で
は外部者が教頭になったということで、いろいろトラブルがあったようです。こまかいことは話してく
れませんでしたから、投句もそんなわけで遠のいたのでしょう。私にはわかりません(昭和二十七年三月
から昭和四十年一月まで投稿なし)。
松代町では二十六年から十年間にわたって大英寺の土蔵を借りて生活することになります。
毎年お正月二日に屋代東高校の教え子である竹村君、真島君、田中君、宮坂君達が見えるので一番楽
しかったのではないでしょうか。私焼きモチ、僕はお茶漬けと、下手くそな煮しめが一晩でカラッポに
なりました。わたくしにとってもいい思い出です。
古い城下町で封建的な、因習的な部分が色濃く残っていました。原爆によって家財道具をすべてなく
したことなどがわからず、家具類などもない貧乏人が教頭職についていたのですから面白くなかったで
しょうね。私にも面とむかってではありませんが色々言う方がいました。貧乏とは切ないものです。
定年になって昭和三十六年三月長崎に帰ってきました。
長野では定年になった時、私立高校の校長、長野吉田高校の校長や市内の予備校からも是非にとお誘
いの話がありました。私にすれば考えてくれないかと思っていました。が、やっぱり松尾の胸の中には
原爆で亡くなった人達、千代子さん(前の奥さん)、子供達のことが忘れかねていたのでしょう。
前年の夏休みを利用して、同級生が県会議員をしていることから、就職を頼みに長崎に行きました。
しかし定年になった人を受け入れてくれるところはありませんでした。
─一〇─
松尾敦之との生活
松尾とみ子
松尾敦之と私は昭和二十三年五月に結婚しました。敦之と私はともに再婚でした。戦後とはいえ食べ
るものはなく、みな闇市で買わなければなりませんでした。当時お米は一升三十五円、お金もないので
松尾のモーニングと私の着物を質屋に持っていき、給料が入れば出し、質屋さんとは顔なじみになりま
した。学校の宿直をするのに小使いさんにご飯を炊いていただくのですが、そのお米がありませんでし
た。親戚の叔父が「汽車賃がなければ貸すから、鎌倉へ帰れ」とまでいってくれました。当時松尾は佐
世保市の県立佐世保第二中学校(現佐世保高校)の英語教師でした。
昭和二十四年内島の義兄に(内島北朗・陶芸家、層雲同人、当時信州長野の安茂里に在住)相談したのでし
ょうか、私の知らぬところで、移住するようになっていきました。長野県屋代町(現千曲市)にある屋
代東高校(現屋代高校)に九月から担当科目英語・商業で勤務することになりました。
当時の校長新田稔先生とは内島の義兄が知り合いであった関係で話がはずんだようです。
稲荷山町(現千曲市)に居を構えました。生活は土蔵の家で台所、トイレがなく不自由でした。
雪が降る日母屋のトイレに行ったのを思いだします。
どこかで古い長靴をもらったものを履き雪の中、千曲川にかかっているアワサ橋〈手すりがない〉を
渡って学校へ歩いて行ったと話してくれました。しかし松尾は信州の自然に関心をもち句作に励むよう
─九─
坂の長崎
唐梅の余韻もほろ酔いで長い坂
暮色坂
譜面にはない雨音になります
些細な諍いした坂道や花の雨となる
核の矛盾
じりじりと坂道を灼く炎天
八ツ手の白い花悔恨もなしにしぐれ坂
坂の東山手黒揚羽とみえて雪の解けざま
─八─
て、「あつゆき版画」の真髄を伺うことが出来たのも収穫であった。
運命的な出会い、竹村あつお氏とは初対面、恩師に同じ教えをうけた者同志、永年の知己のように打
ち解けて話し合いが出来たことは喜ばしく有意義なことであった。
長崎商業学校では主に英語を学び、被爆者として『原爆句抄』に深悼し感動、自由律俳句を志して「層
雲」に入門した。温厚篤実、寡黙で其と無く茶目気な恩師に親しく教示をいただき、これは大変恵まれ
ていたと感謝の気持ちは一生忘却することはない。
このたび、幸いにも待望の全句集が上梓されることとなった。心から敬意を表したい。
猶、この句集が自由律俳句を志し研究する人達の最良の「浮燈臺」であってほしいと願うものである。
長崎の人々
吉岡
憲生
恩師の逝去を悼む
訃報きく石つ
蕗わ
の花に同色の蝶が秋風
縋るものなくして通夜の暗い石段
蒼い空へ柩車発ちもうとんぼう飛ばない
蝋涙哀しく遺影となってしまわれた
─七─
副碑の句
すべなし地に置けばむらがる蠅�
かぜ、子らに火をつけてたばこ一本�
朝霧きょうだいよりそうたなりの骨で�
まくらもと子を骨にしてあわれちちがはる�
炎
天、
妻
に
火
を
つ
け
て
水
の
む�
なにもかもなくした手に四まいの爆死証明�
涙かくさなくともよい暗さにして泣く
衝撃的な『原爆句抄』は衆人共感、周知の作品群だが、苦難の道を共に歩いて来られた、松尾とみ子
夫人が大切に保存されていた、未発表の句稿が発見され、長崎新聞社の山下昭子さんの熱意と尽力によ
り、「被爆俳人・松尾あつゆき
とんぼう一つ空をゆく
生誕百年に寄せて」として平成十六年八月七
日から九月六日まで連載され広く紹介された。
竹村あつお氏はこれを機に長年の願望であった全句集の発刊を決断されたという。
その莫大な句稿と資料の選択に粒粒辛苦の思いをされたと聞く。
平成十八年六月、句集出版の資料蒐集のために竹村夫妻が来崎、松尾とみ子夫人、阿野露団さん、山
下昭子さん、恩師の思い出話に時間は瞬く間に経過していった。それから、版画家の小﨑侃さんを訪ね
─六─
序にかえて
吉岡
憲生
自由律という優れた表現法をもって世に問う、「松尾あつゆき全句集」が長野県屋代高校時代の教え
子で卒業後も親戚同様の交際をしておられた、竹村あつお氏(本名・昌男)(俳誌・「層雲」所属)が意欲的
に取組まれ、ここに開花し結実の運びとなった。
平成元年、十月十日、無二の親友であり理解者であった、故富岡草児先生を中心とした善意の人等の
願いが通い、長崎市松山町の爆心地公園内に、原爆被災者を偲び反核と平和に祈りをこめて句碑が建立
された。
主碑の句
降伏のみことのり、妻を焼く火いまぞ熾さ
か
りつ
─五─
人の人間として「被爆の子への供養塔、ひろくは戦火の犠牲となった子供達への供養塔」(あつゆき、朝
日新聞)としての句を基調におきながら、「私の『生きる』とは常に胸の中に俳句をもつことである」と
して生きたあつゆき七九年の生涯の句を世に問うことであると考えた。
昭和四十七(一九七二)年『原爆句抄』の最後の句は「句帖ふところに心に秘めたるものあり」とし、
再出版にあたり追加した二〇句の最後に据えたのは「一つ生きのこるつくつくぼうし声長くなく」で
あった。
あつゆきの句集『花びらの命』の声である。
平成十九年十二月
竹村あつお
─四─
そして、敦之の(以後「あつゆき」とする)信州における活躍を知るため、資料の蒐集に励んだ。
平成十三年の秋、あつゆき夫人来長のみぎり、恩師の信州でのあゆみを出版するつもりであることを
話し、自宅に資料があれば提供していただくようお願いした。とみ子夫人からは早速「信濃句帳」と記
したノートと「随筆」が記載されたノートの二冊が送られてきた。
平成十六年長崎新聞に「被爆俳人
松尾あつゆき
とんぼうひとつ空をゆく生誕百年によせて」の特
別企画が掲載され、その中で大量の句稿が、とみ子夫人のもとに保存されていることを知った。
とみ子夫人からは特別企画終了後直ちにその原稿を私に送り、あつゆき句集出版の一助になればとの
あたたかい言葉をいただいた。
送られた大量の資料を見て、あつゆきの俳句に対する真摯さに圧倒され愕然とした。『原爆句抄』の
原稿はもとより昭和二十一年二月からの層雲句稿が整理され、昭和二十一年十二月『層雲冬季号』に掲
載された「原子ばくだんの跡」の句稿や、昭和二十一年九月ガリ版による「火を継ぐ」等貴重な資料が、
昭和五十年十一月までの一八年間にわたって保存されていた。
信州で過ごしたあつゆきの句集を考えていた私にとって、この句稿から昭和二十四年から三十六年ま
での期間だけでなく、あつゆき生涯の句集をつくることが私に与えられた責務かと痛感した。
しかし、層雲入会後、年月が経ない私にとって、単なる師弟関係だけで作品集を作ることはあまりに
も浅薄な行為であると逡巡した。その迷いを取り去ったのが、とみ子夫人の「もう私には時間がないん
です」という言葉であった。苦慮の中で得た結論は、全ての句を網羅し、あつゆき研究の資料集とした
ならば自由律俳句を志す人々の一助になるのではないかということであった。
それならば、私のようなものにも可能であると熟慮のうえ刊行することにした。
そのために、あつゆきの戦前の句と戦後の句稿の全てを掲載し、原爆俳人という名声だけでなく、一
─三─
はじめに
松尾あつゆきは私の高校時代の恩師である。
昭和二十五年四月長野県屋代東高校(現屋代高校)二年次の担任が松尾敦之であった。
先生の字あ
ざなは当時NHKの「とんち教室」に出演していた長崎ばってん氏とあつゆきが長崎出身である
ことから「ばってんさん」と呼ばれた。
沈着さと強い意志が交錯し、にこっと笑う口もとに生徒をひきつける魅力があり、学校では名物教師
のひとりであった。長崎で原爆にあい被爆者であること、俳人であることなどが知られるようになった。
昭和二十六年長野県松代高校教頭として転任。一年間だけの担任であったが、不思議な魅力をもち、生
徒から慕われた。
昭和三十六年松尾敦之は退職し、長崎に帰った。昭和四十七年敦之から『原爆句抄』が送られてきて、
はじめて、厳しい人生を歩んだこと、句の深い悲しさと憤りを知り、敦之との交流がさらに深まった。
そして自由律俳句がいかに真実を吐露し、文学作品として適しているかにふれたのである。が、俳句の
教えは直接受けなかった。
昭和五十八年十月敦之の訃報を知った。
平成三年旧制中学校の級友であり、層雲同人である富岡草児氏編集の『ケロイド』が送られてくる。
私も遅ればせながら平成十三年層雲の誌友となり、敦之が生涯をかけた自由律俳句を知ることによ
り、少しでも恩師に近づくことが出来ればと思い至った。