私塾・義塾の時代 -内田樹blog;「学校教育の終わり」- class on cloud

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Class On Cloud Skype @schunske [email protected] http://www.classoncloud.jp/m/ -内田樹blog:学校教育の終わりから 私塾・義塾の時代 (http ://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.p hp ) <若年層の使い捨て・受験エリートも例外な し・ ノブレス・オブリージュを身につけ豊かになろ う>

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@schunske [email protected]://www.classoncloud.jp/m/

-内田樹blog:学校教育の終わりから

私塾・義塾の時代(http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php)<若年層の使い捨て・受験エリートも例外なし・ノブレス・オブリージュを身につけ豊かになろう>

Page 2: 私塾・義塾の時代 -内田樹blog;「学校教育の終わり」- Class On Cloud

①あまりにスマートであるために、学校に通って付加価値を高めるというような遠回りを「かったるい」と思う子どもたちにも利益誘導は無効である。彼らは学校に通う時間があったら、起業したり、ネットで株を売買したりして、若くして巨富を積む生き方を選ぶだろう。学校に通う目的が最終的に「金をたくさん手に入れるため」であるなら、自分の才覚で今すぐ金が手にできる子どもがどうして学校に通うだろう。「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする戦略はこうして破綻する。①「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。

引きこもりは、社会的な行動。

参照: http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php

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米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。

ノブレス・オブリージュ

参照: http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php

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・国民国家の形成と人材育成の基本方針・共同体の利益から、個人の利益へ・グローバル化「教育」が引き金を引く国民国家の破綻・グローバル化の正体・経済成長の上策としての内需拡大のシナリオ破綻・公教育(≒公的教育制度)の崩壊と対照的な、私塾・義塾の再興

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日本の近代学校教育システムは「国民形成」という国家的プロジェクトの要請に応えるかたちで制度設計された。つまり、①学校の社会的責務は「国家須要の人材を育成すること」、「国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」ことに存したのである。サラリーマンになるにしても兵士になるにしても学者や政治家であっても、教育の目的はあくまで「国家須要の人士」の育成である。成否は措いて、この目的そのものは揺るぎないものだった。

①「お国のため」という言葉には語弊があり、今捉え直すならば、官と公を分けて考える必要がある。公の安定性を確保するための必要悪が官僚機構であり、公=お国と考えるのがより妥当。

1945年の敗戦でも、学校教育の目的が国民国家の未来の担い手を育てることであるという目的そのものに疑いは挟まれなかった。戦後生まれの私たちの世代は「民主的で平和な日本の担い手」たるべく教育された。明治維新以来、①学校教育は「国民国家を維持存続させるため」のものであり、教育の受益者がいるとすれば(そういう言葉は使われていなかったが)、端的に共同体それ自身だったのである。

①つまり学校教育の受益者は本人だけではなく、地域社会そのものを底上げするためのものであったのが当初から意図されていた教育だった。Ex.)自分の周辺に良い影響をもたらす優秀な人材と、自分のためにしか生きられない「優秀な」人材。

国民国家と国家須要の人材

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この合意が崩れたのは①一九七〇年代以降のことである。

①アメリカではニクソン・ショックに見まわれ、貿易赤字が拡大、国内の富が失われた状態で、外需を取りに行くため、価格競争力を確保する必要が生じ、ひたすら競争を促進し、強者が富を他国から引っ張ってくるとするイデオロギー(新自由主義)が浸透した(今もその方針は基本的に変わっていない)。新自由主義のモデルでは、個人が利潤最大化行動を取ることが最善であるとする仮定を置く。

歴史的理由については贅言を要すまい。歴史上例外的な平和と繁栄である。私たちは「平和と繁栄のコスト」をいろいろなかたちで支払うことになったが、学校教育の目的変更もそのひとつである。このとき、学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力・財貨・文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。②教育の受益者が「共同体」から「個人」に移ったのである。もちろん、明治に近代学制が整備されたときから、②人々は自己利益のために教育を受けた。ほとんどの場合はそれが「本音」だった。だが、「おのれひとりの立身出世のために教育を受ける」という生々しい本音を口に出すことは自制された。あくまで学校教育の目的は「世のため人のため」という公共的なレベルに維持されていたのである。七〇年代以降、それが変わった。人々はついに平然と学校教育を「自己の付加価値を高め、自己利益を増大するための機会」だと公言するようになった。教育の受益者が「共同体」から「個人」にはっきりと切り替わったのである。

②前述

新自由主義(neoliberalism)の台頭

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その後、教育はつねに「教育を通じてどうやって個人の利益を増大させるか?」という問いをめぐって論じられた。教育改革も教育批判もその点では同じだった。①その前提そのものが設定の間違いではないかという反問をなす人はいなかった。もちろん文科省の発令する文書には依然として「愛国心」や「滅私奉公」的な言辞がちりばめられていた。②だが、そこで言われる「愛国心」は実際には単に「上位者の命令に従うこと」しか求めていなかった。「滅私奉公」してまで何をするかというと、「グローバルな経済競争に勝ち残ること」つまり「金儲け」なのである。このとき、国民国家はほぼまるごと「営利企業モデル」に縮減されたのである。上司の言うことを黙って聞いて、血尿が出るまで働いて、売り上げノルマを達成すること、それが学校教育の事実上の目標に掲げられる時代になったのである。

①非常に重要な論点。日本人は世界観(イデオロギー)レベルでの議論がまるでできない。自立した個人の核になるものとして認識されていないため、これが主な原因となり国民国家なり内需拡大の重要性を認識できない。→「海外逃亡すればいい」という安易で極端な発想に飛躍する。脱グローバル化の議論も消化することが出来ない。②市場取引でしか意思決定ができなくなっている。国家に支えられている個人という自覚もなく、宙に浮いた「自立した個人」をなんとなくイメージし、「自由」だと感じている(?)

学教教育の劣化と市場原理主義化、その国際版であるグローバル化

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貴重なる公金を支出するなら、学校は目に見えるかたちで、今すぐにその「見返り」を示さねばならぬ。それは①とりあえず能力が高いが、安い賃金と長時間労働を受け入、上司の命令に従順な労働者を量産して、納税者の金儲けを支援させよというものである。

①例えば日本の「ベンチャー」は、短期的に結果を出せとすぐに迫られることで有名。スケールしているひまがない。グローバル化による世代間経済格差の加速で、世界的に若年層の所得減と失業率の上昇が加速している。受験エリートも例外なし。初任給は低下。

短期的利益の極端な優先と若年層の使い捨て(受験エリートも例外なし)

ほとんど進歩なし→大失敗

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ここには「次世代の共同体を担う成熟した公民を育成する」という長期的な国益への配慮はもう見られない。企業の収益が今すぐに増大するような教育的アウトカムばかりが求められている。そして、「短期の損得を先にして、共同体が瓦解するリスクを冒すな」とそれを抑制する対抗的なロジックを語る人はもはやメディアにはほとんど登場しないのである。①近代の学校教育が「国民国家内部的」な制度である以上、学校教育の衰退が国民国家の衰退と歩調を揃えるのは当然のことである。経済のグローバル化に伴って、いま世界中で国民国家はその解体過程にある。領土があり、官僚組織と常備軍を整え、その土地と文化につよい帰属意識をもつ「国民」を成員とするこの統治システムそのものが終わりつつある。

①ピケティ「21世紀の資本論」を論拠とするEUでの大規模なデモ・国際協調による法人税課税運動の激化

②グローバル資本主義は人、資本、商品、情報が超高速でクロスボーダーに移動することを要求する。この要求は不可逆的に亢進し続ける。クロスボーダーな運動にとって最大の障害は国境、ローカルな国語、ローカルな法律、ローカルな商習慣である。これらすべてをすみやかに排除することをグローバル資本主義は求める。③経済のグローバル化を強力に牽引しているのはアメリカという国家だが、アメリカの国家戦略を実質的にコントロールしているのはすでに政治家ではなく、グローバル企業である。

②グローバル資本主義≠資本主義③グローバリゼーション=アメリカナイゼーション.覇権国であるアメリカの戦略を飲まされている形。しかしその地位もいつまで持つか…?基軸通貨の地位が危ない。アメリカのグローバル企業に「高く売り込めた」としても、果たしていつまで持つか?

短期的利益の極端な優先と若年層の使い捨て(受験エリートも例外なし)

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国民国家はグローバル資本主義にとって、クロスボーダーな経済活動を妨害するローカルな障壁だが、利用価値がある限りは利用される。国家資源は、政治家も官僚組織も軍隊もメディアも、もちろん学校教育も総動員される。だから、①グローバル化の進行過程で「国民国家の次世代の成員を育成する」といった迂遠な目的を掲げる公教育機関が存続できるはずがない。

だから、「グローバル化に最適化した学校教育」はもう学校教育の体をなさない。教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない。

だが、不思議なことだが、「正直なところ、日本なんかどうなってもいい」と思っている人間しか社会的上昇が遂げられないように今の社会の仕組みそのものが再編されつつあるのである。だから、まことに絶望的なことを申し上げなければならないのだが、今の日本では学校教育を再生させるために打つ手はないのである。

グローバル化による公教育制度の解体

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①あまりにスマートであるために、学校に通って付加価値を高めるというような遠回りを「かったるい」と思う子どもたちにも利益誘導は無効である。彼らは学校に通う時間があったら、起業したり、ネットで株を売買したりして、若くして巨富を積む生き方を選ぶだろう。学校に通う目的が最終的に「金をたくさん手に入れるため」であるなら、自分の才覚で今すぐ金が手にできる子どもがどうして学校に通うだろう。「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする戦略はこうして破綻する。①「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。

引きこもりは、社会的な行動。

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米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。

ノブレス・オブリージュ

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もう一つだけ救いがある。それは崩壊しているのが「公教育」だということである。国民国家が解体する過程で、公教育は解体する。だが、「私塾」はそうではない。もともと私塾は公教育以前から、つまり国民国家以前から存在した。①懐徳堂や適塾や松下村塾が近代日本で最も成功した教育機関であることに異議を唱える人はいないだろうが、これらはいずれも篤志家が「身銭を切って」創建した教育機関である。①このような私塾はそれぞれ固有の教育目的を掲げていた。「国家須要の人材」というような生硬な言葉ではなく、もっと漠然と「世のため人のために生きる」ことのできる公共性の高い人士を育てようとしていた。それがまた蘇るだろうと私は思っている。隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。私はそう考えている。そして、おそらく、私と思いを同じくしている人の数は想像されているよりずっと多い。

①少人数制・24h体制・コミュニケーション重視・実学重視・全国に散在 と言った共通点が、COCにはあります。

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