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Page 1: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討

門田誠一

魏志倭人伝には倭人社会の宗教的側面を示す記事がありそのなかには卑弥呼の用いたという鬼道がある鬼道に関

しては多くの言及があるが本論では基本的な方法に立ち戻って近来の中国における考古学的知見と中国史書文

献の用例と用法を参照し『三国志』編纂時点での鬼道の認識を検討したその結果中国の鬼道としての五斗米道そ

のものかあるいは同時期に中国で展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていた考古学的痕跡は顕著ではないが

伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられていることから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭

祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否定するものとされていたという同時代的認識を示した

〔抄

録〕

日本列島の宗教文化に関して列島外の人士による具体的な記述は『三国志』魏書東夷伝倭人条すなわち魏志

1

倭人伝を嚆矢とする魏志倭人伝には倭人社会の宗教的側面を示す記事がありそのなかには卑弥呼の用いたと

いう鬼道があるすなわち倭人伝に「其の国本亦男子を以って王と為し住(とど)まるところ七八十年倭

国乱れ相攻伐すること歴年乃ち一女子を以って王と為す名づけて卑弥呼と曰う鬼道に事(つか)え能く

衆を惑わす年已に長大なるも夫壻なく男弟有り佐(たす)けて国を治む」とある(1)倭国には元々は男王が

置かれておりその状態で七八十年を経た漢の霊帝の光和年間の頃に倭国は乱れて歴年におよぶ戦乱の後

女子を共立し王としその名は卑弥呼であり女王は鬼道によって人心を掌握し既に高齢で夫は持たず弟が

国の支配を補佐したという内容である

この後にも政治体制や居所の記述が続いているが倭人伝では卑弥呼が鬼道を用いたことが女王国の政治宗

教的行為として特記されているこの鬼道に関しては多くの言及があるがそれらのすべてが実証的な考察によ

るものではなく予断や推定に基づく論もまた少なくないよって本論では基本的な方法に立ち戻って同時代

の中国史書文献の用例と用法を参照し『三国志』編纂時点での鬼道の認識を確認するあわせて近来の中

国における考古学的知見の蓄積によって鬼道に比定される宗教や信仰の営為である可能性を示す考古資料を抽出

し文献史料と対照検討する

本論では史書文献と考古資料の両面からできるかぎり中国における同時代の鬼道について復原的な考察を

行うことによって卑弥呼の用いたとされる鬼道を同時代の中国の認識から接近することを目的とする

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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魏志倭人伝の鬼道とその解釈

魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道について論ずる前提としてこれまでの研究における解釈とその変遷につ

いて主要な論考を中心として整理し後段の考察に資することとしたい

卑弥呼と鬼道に関する研究のなかで近代以降ではまず内藤湖南の言及をとりあげねばならない内藤は『日

本書紀』『延暦儀式帳』などにみえる事績と対照して卑弥呼を倭姫命に擬し鬼道はそれらにみえる天照大神の

教えに随い大和近江美濃伊勢などの諸国を遍歴し神戸神田神地を徴して神領としたことなどが魏

の側からみれば鬼神をして衆を惑わしたこととみえたと論じた(2)この他にも卑弥呼を在来信仰とくに神道の巫女

とみる説が出されている(3)

鬼道そのものについての関説ではないがこの語を含む魏志倭人伝の文意について卑弥呼はシャーマンであ

り男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする見方があり(4)このような見方はその後検証を経るこ

となく広く支持されることとなる

魏志倭人伝の鬼道についての詳細な考察としては三品彰英氏の『邪馬台国研究総覧』の説明がありそれに

よると鬼道に事(つか)えるとは神霊と直接に交わることを意味し卑弥呼がシャーマンであることを最もよく伝

える語であるとするそして文化人類学的な視点から現代のさまざまな民族にもみられるような一定の儀礼を

通して憑依の状態になったシャーマンが神霊と直接に交融し種々の神託を伝える宗教的様態であるとみて卑

弥呼は倭国大乱に際して共立され狗奴国との抗争にあたってその神託が重大な役割を果たしたと結論してい

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

3

る(5)牧健二氏は鬼道について鬼神が人間界を支配する道すなわちその原理と方法を指すものとし魏志倭人伝に

は記述はないが倭国と女王国では鬼神と天神の祭祀がともに行われ鬼神が国中の災いをはらって福を祈りも

のであり天神は太陽崇拝であり国家の安泰のために行われたとみるまた卑弥呼の鬼道はシャーマニズム

における神の教えであり卑弥呼は倭国の最高司祭者であり巫女王であったと結論づける(6)

いっぽう中国史料との関連では『三国志』魏書張魯伝や同じく蜀書劉焉伝にみえる五斗米道の張魯と鬼道に

ついての記述を根拠としてこのような鬼道が邪馬台国に移入されたとする説がだされた(7)

鬼道が道教と関わりを認めながらも道教そのものとは結論しない見解もある(8)文化人類学の方面からは道教

的要素を取り入れながら土着的な南方憑依型シャーマニズムを再組織した新興宗教とする見方も出されている(9)

論法は異なるがこのほかにも鬼道が巫覡による祭祀すなわちシャーマニズムとする説が示されている(10)さらに

これを受けて鬼道は陳寿が倭の女王の宗儀に五斗米道と類似した巫術シャーマニズムの要素があると判断し

たからであるとし三角縁神獣鏡が中国から出土しないのは倭国の鬼道のために特別に鋳造されたためであると

断ずる説もある(11)

いっぽう鈴木靖民氏は鬼道が五斗米道あるいは太平道そのものとみることは当時の史的状況から難しいとして

『三国志』魏書高句麗伝や韓伝にみえる「鬼神」を祭る習俗に着目しこれらは地域種族等によって多種多様

な内容と性格を有する自然神であるとし農耕を基盤とする祭祀であるとした(12)

山尾幸久氏は「鬼道」に関して多岐にわたって論じているが本論に関する内容として魏志倭人伝の鬼道

に関する記述は祭神との交霊による神遺の媒介祭主の隔離と非日常性祭器としての銅鏡および五斗米道か

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ら類推した祭式や儀礼の存在などをあげ中国の民俗的信仰をそのままとりいれることはないが神仙思想の影

響で弥生時代に行われたものとは異なる新たな信仰であったとするまた『三国志』では儒教の価値観からは

否定される邪教妖術俗信を「鬼」と表現しているとする(13)

また日本古代の道教的信仰を論じたなかで卑弥呼の鬼道は張魯が行ったものと同じく精霊死霊によって

惹起される病気の治療を行うものとする見解がある(14)

これらに対して『三国志』に現れる鬼道の語は儒教の儀礼や仏教ではないことが確実なだけであり為政者

の意に反する俗信邪教に類するものをすべてを鬼道と表記したとし教団組織をもった道教の成立は北魏代の

五世紀で『三国志』の著者である陳寿の時代には五斗米道のような原始道教と他の俗信とを比較して明確に鬼

道として弁別しがたいとする見方もある(15)同様に卑弥呼の鬼道を張魯の鬼道の影響を受けた道教的宗教とする見

方に対して両者を結びつけることに慎重さを求め卑弥呼の鬼道を原始的宗教の範疇で考えるべきとする意見

もある(16)

中国古典や史料にみえる鬼道については福永光司氏による言及があるそれによると道教の教理学宗教学的

展開を儒教や仏教と相関させてとらえ鬼道神道真道聖道へと道教の属性を示す語が変化し展開して

いくなかで相対的に鬼道を位置づけているそして南北朝期の僧である梁玄光『弁惑論』や北周道安『二

教論』で鬼道として非難していることを引いて後漢代の二世紀に成立した初期の道教である三張道教が鬼道と

しての性格を有しているとした鬼道の本来的な意味については『国語』魯語上などに人道に対立するものと

して用いられており鬼神の道理や理法を意味し前漢代の紀元前二世紀になると『史記』封禅書や『漢書』郊

祀志に記されているように鬼神を駆使する道術を意味するようになりシャーマニズム的な内容と性格を有する

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ようになるとするそしてその典型として『三国志』魏書張魯伝や蜀書劉焉伝にみえる鬼道の用例をあげてい

る(17)以上のように日本における鬼道の研究においては『三国志』を中心とした文献を典拠として示された鬼神を駆

使する道術としての鬼道と説明されることが多いただし語義的な面からは鬼道と関係するとみられる鬼神祭

祀と鬼道とは道教研究においては区別されており鬼神祭祀は民間で行われた死霊祭祀を中心として巫覡が関与

する祭祀であって体系的で教団によってたつ道教はむしろこのような俗信に意識的に対立する普遍的な信仰を

形成しようとする宗教運動であるとする見方があり(18)鬼神祭祀を鬼道とする単純な捉え方には注意を要する

いっぽうで鬼道は儒教的礼俗とは乖離した信仰の実修であるとする指摘は重視すべきであろう

中国の研究者の説を示すと王明氏は『抱朴子内篇校釋』の序文で民間道教と貴族道教に区分し民間道教

を鬼道あるいは巫鬼道とし貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとした鬼道あ

るいは巫鬼道の典型としては五斗米道の張魯が鬼道をもって民を教したことをあげた(19)

同様の見解として方詩銘氏は鬼道が巫鬼道であると結論し(20)段玉明氏は鬼道について初期道教の巫術的で鬼神

を祭祀する宗教的特色を反映した呼称であるとした(21)

李遠国氏は鬼道に関して漢代から晋代の文献にみえその多くは張陵の開いた道教を鬼道と称しその信徒

が鬼卒であることを基本として鬼神についての史的考察を行った(22)

王永平氏は唐代の鬼道に関して神仙道教を仙道民間道教を鬼道と位置づけ唐代にはこれらの双方が展開

したとする鬼道すなわち民間道教は初期道教の五斗米道の特徴をいっそう発展させたもので巫術や迷信と結

びつき符や水で病を治し鬼を駆使して福を祈り災いを滅するという性格を有し一般民衆に大きな吸引力

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 2: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

倭人伝を嚆矢とする魏志倭人伝には倭人社会の宗教的側面を示す記事がありそのなかには卑弥呼の用いたと

いう鬼道があるすなわち倭人伝に「其の国本亦男子を以って王と為し住(とど)まるところ七八十年倭

国乱れ相攻伐すること歴年乃ち一女子を以って王と為す名づけて卑弥呼と曰う鬼道に事(つか)え能く

衆を惑わす年已に長大なるも夫壻なく男弟有り佐(たす)けて国を治む」とある(1)倭国には元々は男王が

置かれておりその状態で七八十年を経た漢の霊帝の光和年間の頃に倭国は乱れて歴年におよぶ戦乱の後

女子を共立し王としその名は卑弥呼であり女王は鬼道によって人心を掌握し既に高齢で夫は持たず弟が

国の支配を補佐したという内容である

この後にも政治体制や居所の記述が続いているが倭人伝では卑弥呼が鬼道を用いたことが女王国の政治宗

教的行為として特記されているこの鬼道に関しては多くの言及があるがそれらのすべてが実証的な考察によ

るものではなく予断や推定に基づく論もまた少なくないよって本論では基本的な方法に立ち戻って同時代

の中国史書文献の用例と用法を参照し『三国志』編纂時点での鬼道の認識を確認するあわせて近来の中

国における考古学的知見の蓄積によって鬼道に比定される宗教や信仰の営為である可能性を示す考古資料を抽出

し文献史料と対照検討する

本論では史書文献と考古資料の両面からできるかぎり中国における同時代の鬼道について復原的な考察を

行うことによって卑弥呼の用いたとされる鬼道を同時代の中国の認識から接近することを目的とする

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

2

魏志倭人伝の鬼道とその解釈

魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道について論ずる前提としてこれまでの研究における解釈とその変遷につ

いて主要な論考を中心として整理し後段の考察に資することとしたい

卑弥呼と鬼道に関する研究のなかで近代以降ではまず内藤湖南の言及をとりあげねばならない内藤は『日

本書紀』『延暦儀式帳』などにみえる事績と対照して卑弥呼を倭姫命に擬し鬼道はそれらにみえる天照大神の

教えに随い大和近江美濃伊勢などの諸国を遍歴し神戸神田神地を徴して神領としたことなどが魏

の側からみれば鬼神をして衆を惑わしたこととみえたと論じた(2)この他にも卑弥呼を在来信仰とくに神道の巫女

とみる説が出されている(3)

鬼道そのものについての関説ではないがこの語を含む魏志倭人伝の文意について卑弥呼はシャーマンであ

り男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする見方があり(4)このような見方はその後検証を経るこ

となく広く支持されることとなる

魏志倭人伝の鬼道についての詳細な考察としては三品彰英氏の『邪馬台国研究総覧』の説明がありそれに

よると鬼道に事(つか)えるとは神霊と直接に交わることを意味し卑弥呼がシャーマンであることを最もよく伝

える語であるとするそして文化人類学的な視点から現代のさまざまな民族にもみられるような一定の儀礼を

通して憑依の状態になったシャーマンが神霊と直接に交融し種々の神託を伝える宗教的様態であるとみて卑

弥呼は倭国大乱に際して共立され狗奴国との抗争にあたってその神託が重大な役割を果たしたと結論してい

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

3

る(5)牧健二氏は鬼道について鬼神が人間界を支配する道すなわちその原理と方法を指すものとし魏志倭人伝に

は記述はないが倭国と女王国では鬼神と天神の祭祀がともに行われ鬼神が国中の災いをはらって福を祈りも

のであり天神は太陽崇拝であり国家の安泰のために行われたとみるまた卑弥呼の鬼道はシャーマニズム

における神の教えであり卑弥呼は倭国の最高司祭者であり巫女王であったと結論づける(6)

いっぽう中国史料との関連では『三国志』魏書張魯伝や同じく蜀書劉焉伝にみえる五斗米道の張魯と鬼道に

ついての記述を根拠としてこのような鬼道が邪馬台国に移入されたとする説がだされた(7)

鬼道が道教と関わりを認めながらも道教そのものとは結論しない見解もある(8)文化人類学の方面からは道教

的要素を取り入れながら土着的な南方憑依型シャーマニズムを再組織した新興宗教とする見方も出されている(9)

論法は異なるがこのほかにも鬼道が巫覡による祭祀すなわちシャーマニズムとする説が示されている(10)さらに

これを受けて鬼道は陳寿が倭の女王の宗儀に五斗米道と類似した巫術シャーマニズムの要素があると判断し

たからであるとし三角縁神獣鏡が中国から出土しないのは倭国の鬼道のために特別に鋳造されたためであると

断ずる説もある(11)

いっぽう鈴木靖民氏は鬼道が五斗米道あるいは太平道そのものとみることは当時の史的状況から難しいとして

『三国志』魏書高句麗伝や韓伝にみえる「鬼神」を祭る習俗に着目しこれらは地域種族等によって多種多様

な内容と性格を有する自然神であるとし農耕を基盤とする祭祀であるとした(12)

山尾幸久氏は「鬼道」に関して多岐にわたって論じているが本論に関する内容として魏志倭人伝の鬼道

に関する記述は祭神との交霊による神遺の媒介祭主の隔離と非日常性祭器としての銅鏡および五斗米道か

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ら類推した祭式や儀礼の存在などをあげ中国の民俗的信仰をそのままとりいれることはないが神仙思想の影

響で弥生時代に行われたものとは異なる新たな信仰であったとするまた『三国志』では儒教の価値観からは

否定される邪教妖術俗信を「鬼」と表現しているとする(13)

また日本古代の道教的信仰を論じたなかで卑弥呼の鬼道は張魯が行ったものと同じく精霊死霊によって

惹起される病気の治療を行うものとする見解がある(14)

これらに対して『三国志』に現れる鬼道の語は儒教の儀礼や仏教ではないことが確実なだけであり為政者

の意に反する俗信邪教に類するものをすべてを鬼道と表記したとし教団組織をもった道教の成立は北魏代の

五世紀で『三国志』の著者である陳寿の時代には五斗米道のような原始道教と他の俗信とを比較して明確に鬼

道として弁別しがたいとする見方もある(15)同様に卑弥呼の鬼道を張魯の鬼道の影響を受けた道教的宗教とする見

方に対して両者を結びつけることに慎重さを求め卑弥呼の鬼道を原始的宗教の範疇で考えるべきとする意見

もある(16)

中国古典や史料にみえる鬼道については福永光司氏による言及があるそれによると道教の教理学宗教学的

展開を儒教や仏教と相関させてとらえ鬼道神道真道聖道へと道教の属性を示す語が変化し展開して

いくなかで相対的に鬼道を位置づけているそして南北朝期の僧である梁玄光『弁惑論』や北周道安『二

教論』で鬼道として非難していることを引いて後漢代の二世紀に成立した初期の道教である三張道教が鬼道と

しての性格を有しているとした鬼道の本来的な意味については『国語』魯語上などに人道に対立するものと

して用いられており鬼神の道理や理法を意味し前漢代の紀元前二世紀になると『史記』封禅書や『漢書』郊

祀志に記されているように鬼神を駆使する道術を意味するようになりシャーマニズム的な内容と性格を有する

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ようになるとするそしてその典型として『三国志』魏書張魯伝や蜀書劉焉伝にみえる鬼道の用例をあげてい

る(17)以上のように日本における鬼道の研究においては『三国志』を中心とした文献を典拠として示された鬼神を駆

使する道術としての鬼道と説明されることが多いただし語義的な面からは鬼道と関係するとみられる鬼神祭

祀と鬼道とは道教研究においては区別されており鬼神祭祀は民間で行われた死霊祭祀を中心として巫覡が関与

する祭祀であって体系的で教団によってたつ道教はむしろこのような俗信に意識的に対立する普遍的な信仰を

形成しようとする宗教運動であるとする見方があり(18)鬼神祭祀を鬼道とする単純な捉え方には注意を要する

いっぽうで鬼道は儒教的礼俗とは乖離した信仰の実修であるとする指摘は重視すべきであろう

中国の研究者の説を示すと王明氏は『抱朴子内篇校釋』の序文で民間道教と貴族道教に区分し民間道教

を鬼道あるいは巫鬼道とし貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとした鬼道あ

るいは巫鬼道の典型としては五斗米道の張魯が鬼道をもって民を教したことをあげた(19)

同様の見解として方詩銘氏は鬼道が巫鬼道であると結論し(20)段玉明氏は鬼道について初期道教の巫術的で鬼神

を祭祀する宗教的特色を反映した呼称であるとした(21)

李遠国氏は鬼道に関して漢代から晋代の文献にみえその多くは張陵の開いた道教を鬼道と称しその信徒

が鬼卒であることを基本として鬼神についての史的考察を行った(22)

王永平氏は唐代の鬼道に関して神仙道教を仙道民間道教を鬼道と位置づけ唐代にはこれらの双方が展開

したとする鬼道すなわち民間道教は初期道教の五斗米道の特徴をいっそう発展させたもので巫術や迷信と結

びつき符や水で病を治し鬼を駆使して福を祈り災いを滅するという性格を有し一般民衆に大きな吸引力

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をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

36

思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 3: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

魏志倭人伝の鬼道とその解釈

魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道について論ずる前提としてこれまでの研究における解釈とその変遷につ

いて主要な論考を中心として整理し後段の考察に資することとしたい

卑弥呼と鬼道に関する研究のなかで近代以降ではまず内藤湖南の言及をとりあげねばならない内藤は『日

本書紀』『延暦儀式帳』などにみえる事績と対照して卑弥呼を倭姫命に擬し鬼道はそれらにみえる天照大神の

教えに随い大和近江美濃伊勢などの諸国を遍歴し神戸神田神地を徴して神領としたことなどが魏

の側からみれば鬼神をして衆を惑わしたこととみえたと論じた(2)この他にも卑弥呼を在来信仰とくに神道の巫女

とみる説が出されている(3)

鬼道そのものについての関説ではないがこの語を含む魏志倭人伝の文意について卑弥呼はシャーマンであ

り男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする見方があり(4)このような見方はその後検証を経るこ

となく広く支持されることとなる

魏志倭人伝の鬼道についての詳細な考察としては三品彰英氏の『邪馬台国研究総覧』の説明がありそれに

よると鬼道に事(つか)えるとは神霊と直接に交わることを意味し卑弥呼がシャーマンであることを最もよく伝

える語であるとするそして文化人類学的な視点から現代のさまざまな民族にもみられるような一定の儀礼を

通して憑依の状態になったシャーマンが神霊と直接に交融し種々の神託を伝える宗教的様態であるとみて卑

弥呼は倭国大乱に際して共立され狗奴国との抗争にあたってその神託が重大な役割を果たしたと結論してい

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

3

る(5)牧健二氏は鬼道について鬼神が人間界を支配する道すなわちその原理と方法を指すものとし魏志倭人伝に

は記述はないが倭国と女王国では鬼神と天神の祭祀がともに行われ鬼神が国中の災いをはらって福を祈りも

のであり天神は太陽崇拝であり国家の安泰のために行われたとみるまた卑弥呼の鬼道はシャーマニズム

における神の教えであり卑弥呼は倭国の最高司祭者であり巫女王であったと結論づける(6)

いっぽう中国史料との関連では『三国志』魏書張魯伝や同じく蜀書劉焉伝にみえる五斗米道の張魯と鬼道に

ついての記述を根拠としてこのような鬼道が邪馬台国に移入されたとする説がだされた(7)

鬼道が道教と関わりを認めながらも道教そのものとは結論しない見解もある(8)文化人類学の方面からは道教

的要素を取り入れながら土着的な南方憑依型シャーマニズムを再組織した新興宗教とする見方も出されている(9)

論法は異なるがこのほかにも鬼道が巫覡による祭祀すなわちシャーマニズムとする説が示されている(10)さらに

これを受けて鬼道は陳寿が倭の女王の宗儀に五斗米道と類似した巫術シャーマニズムの要素があると判断し

たからであるとし三角縁神獣鏡が中国から出土しないのは倭国の鬼道のために特別に鋳造されたためであると

断ずる説もある(11)

いっぽう鈴木靖民氏は鬼道が五斗米道あるいは太平道そのものとみることは当時の史的状況から難しいとして

『三国志』魏書高句麗伝や韓伝にみえる「鬼神」を祭る習俗に着目しこれらは地域種族等によって多種多様

な内容と性格を有する自然神であるとし農耕を基盤とする祭祀であるとした(12)

山尾幸久氏は「鬼道」に関して多岐にわたって論じているが本論に関する内容として魏志倭人伝の鬼道

に関する記述は祭神との交霊による神遺の媒介祭主の隔離と非日常性祭器としての銅鏡および五斗米道か

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

4

ら類推した祭式や儀礼の存在などをあげ中国の民俗的信仰をそのままとりいれることはないが神仙思想の影

響で弥生時代に行われたものとは異なる新たな信仰であったとするまた『三国志』では儒教の価値観からは

否定される邪教妖術俗信を「鬼」と表現しているとする(13)

また日本古代の道教的信仰を論じたなかで卑弥呼の鬼道は張魯が行ったものと同じく精霊死霊によって

惹起される病気の治療を行うものとする見解がある(14)

これらに対して『三国志』に現れる鬼道の語は儒教の儀礼や仏教ではないことが確実なだけであり為政者

の意に反する俗信邪教に類するものをすべてを鬼道と表記したとし教団組織をもった道教の成立は北魏代の

五世紀で『三国志』の著者である陳寿の時代には五斗米道のような原始道教と他の俗信とを比較して明確に鬼

道として弁別しがたいとする見方もある(15)同様に卑弥呼の鬼道を張魯の鬼道の影響を受けた道教的宗教とする見

方に対して両者を結びつけることに慎重さを求め卑弥呼の鬼道を原始的宗教の範疇で考えるべきとする意見

もある(16)

中国古典や史料にみえる鬼道については福永光司氏による言及があるそれによると道教の教理学宗教学的

展開を儒教や仏教と相関させてとらえ鬼道神道真道聖道へと道教の属性を示す語が変化し展開して

いくなかで相対的に鬼道を位置づけているそして南北朝期の僧である梁玄光『弁惑論』や北周道安『二

教論』で鬼道として非難していることを引いて後漢代の二世紀に成立した初期の道教である三張道教が鬼道と

しての性格を有しているとした鬼道の本来的な意味については『国語』魯語上などに人道に対立するものと

して用いられており鬼神の道理や理法を意味し前漢代の紀元前二世紀になると『史記』封禅書や『漢書』郊

祀志に記されているように鬼神を駆使する道術を意味するようになりシャーマニズム的な内容と性格を有する

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

5

ようになるとするそしてその典型として『三国志』魏書張魯伝や蜀書劉焉伝にみえる鬼道の用例をあげてい

る(17)以上のように日本における鬼道の研究においては『三国志』を中心とした文献を典拠として示された鬼神を駆

使する道術としての鬼道と説明されることが多いただし語義的な面からは鬼道と関係するとみられる鬼神祭

祀と鬼道とは道教研究においては区別されており鬼神祭祀は民間で行われた死霊祭祀を中心として巫覡が関与

する祭祀であって体系的で教団によってたつ道教はむしろこのような俗信に意識的に対立する普遍的な信仰を

形成しようとする宗教運動であるとする見方があり(18)鬼神祭祀を鬼道とする単純な捉え方には注意を要する

いっぽうで鬼道は儒教的礼俗とは乖離した信仰の実修であるとする指摘は重視すべきであろう

中国の研究者の説を示すと王明氏は『抱朴子内篇校釋』の序文で民間道教と貴族道教に区分し民間道教

を鬼道あるいは巫鬼道とし貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとした鬼道あ

るいは巫鬼道の典型としては五斗米道の張魯が鬼道をもって民を教したことをあげた(19)

同様の見解として方詩銘氏は鬼道が巫鬼道であると結論し(20)段玉明氏は鬼道について初期道教の巫術的で鬼神

を祭祀する宗教的特色を反映した呼称であるとした(21)

李遠国氏は鬼道に関して漢代から晋代の文献にみえその多くは張陵の開いた道教を鬼道と称しその信徒

が鬼卒であることを基本として鬼神についての史的考察を行った(22)

王永平氏は唐代の鬼道に関して神仙道教を仙道民間道教を鬼道と位置づけ唐代にはこれらの双方が展開

したとする鬼道すなわち民間道教は初期道教の五斗米道の特徴をいっそう発展させたもので巫術や迷信と結

びつき符や水で病を治し鬼を駆使して福を祈り災いを滅するという性格を有し一般民衆に大きな吸引力

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

6

をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

7

立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 4: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

る(5)牧健二氏は鬼道について鬼神が人間界を支配する道すなわちその原理と方法を指すものとし魏志倭人伝に

は記述はないが倭国と女王国では鬼神と天神の祭祀がともに行われ鬼神が国中の災いをはらって福を祈りも

のであり天神は太陽崇拝であり国家の安泰のために行われたとみるまた卑弥呼の鬼道はシャーマニズム

における神の教えであり卑弥呼は倭国の最高司祭者であり巫女王であったと結論づける(6)

いっぽう中国史料との関連では『三国志』魏書張魯伝や同じく蜀書劉焉伝にみえる五斗米道の張魯と鬼道に

ついての記述を根拠としてこのような鬼道が邪馬台国に移入されたとする説がだされた(7)

鬼道が道教と関わりを認めながらも道教そのものとは結論しない見解もある(8)文化人類学の方面からは道教

的要素を取り入れながら土着的な南方憑依型シャーマニズムを再組織した新興宗教とする見方も出されている(9)

論法は異なるがこのほかにも鬼道が巫覡による祭祀すなわちシャーマニズムとする説が示されている(10)さらに

これを受けて鬼道は陳寿が倭の女王の宗儀に五斗米道と類似した巫術シャーマニズムの要素があると判断し

たからであるとし三角縁神獣鏡が中国から出土しないのは倭国の鬼道のために特別に鋳造されたためであると

断ずる説もある(11)

いっぽう鈴木靖民氏は鬼道が五斗米道あるいは太平道そのものとみることは当時の史的状況から難しいとして

『三国志』魏書高句麗伝や韓伝にみえる「鬼神」を祭る習俗に着目しこれらは地域種族等によって多種多様

な内容と性格を有する自然神であるとし農耕を基盤とする祭祀であるとした(12)

山尾幸久氏は「鬼道」に関して多岐にわたって論じているが本論に関する内容として魏志倭人伝の鬼道

に関する記述は祭神との交霊による神遺の媒介祭主の隔離と非日常性祭器としての銅鏡および五斗米道か

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ら類推した祭式や儀礼の存在などをあげ中国の民俗的信仰をそのままとりいれることはないが神仙思想の影

響で弥生時代に行われたものとは異なる新たな信仰であったとするまた『三国志』では儒教の価値観からは

否定される邪教妖術俗信を「鬼」と表現しているとする(13)

また日本古代の道教的信仰を論じたなかで卑弥呼の鬼道は張魯が行ったものと同じく精霊死霊によって

惹起される病気の治療を行うものとする見解がある(14)

これらに対して『三国志』に現れる鬼道の語は儒教の儀礼や仏教ではないことが確実なだけであり為政者

の意に反する俗信邪教に類するものをすべてを鬼道と表記したとし教団組織をもった道教の成立は北魏代の

五世紀で『三国志』の著者である陳寿の時代には五斗米道のような原始道教と他の俗信とを比較して明確に鬼

道として弁別しがたいとする見方もある(15)同様に卑弥呼の鬼道を張魯の鬼道の影響を受けた道教的宗教とする見

方に対して両者を結びつけることに慎重さを求め卑弥呼の鬼道を原始的宗教の範疇で考えるべきとする意見

もある(16)

中国古典や史料にみえる鬼道については福永光司氏による言及があるそれによると道教の教理学宗教学的

展開を儒教や仏教と相関させてとらえ鬼道神道真道聖道へと道教の属性を示す語が変化し展開して

いくなかで相対的に鬼道を位置づけているそして南北朝期の僧である梁玄光『弁惑論』や北周道安『二

教論』で鬼道として非難していることを引いて後漢代の二世紀に成立した初期の道教である三張道教が鬼道と

しての性格を有しているとした鬼道の本来的な意味については『国語』魯語上などに人道に対立するものと

して用いられており鬼神の道理や理法を意味し前漢代の紀元前二世紀になると『史記』封禅書や『漢書』郊

祀志に記されているように鬼神を駆使する道術を意味するようになりシャーマニズム的な内容と性格を有する

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

5

ようになるとするそしてその典型として『三国志』魏書張魯伝や蜀書劉焉伝にみえる鬼道の用例をあげてい

る(17)以上のように日本における鬼道の研究においては『三国志』を中心とした文献を典拠として示された鬼神を駆

使する道術としての鬼道と説明されることが多いただし語義的な面からは鬼道と関係するとみられる鬼神祭

祀と鬼道とは道教研究においては区別されており鬼神祭祀は民間で行われた死霊祭祀を中心として巫覡が関与

する祭祀であって体系的で教団によってたつ道教はむしろこのような俗信に意識的に対立する普遍的な信仰を

形成しようとする宗教運動であるとする見方があり(18)鬼神祭祀を鬼道とする単純な捉え方には注意を要する

いっぽうで鬼道は儒教的礼俗とは乖離した信仰の実修であるとする指摘は重視すべきであろう

中国の研究者の説を示すと王明氏は『抱朴子内篇校釋』の序文で民間道教と貴族道教に区分し民間道教

を鬼道あるいは巫鬼道とし貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとした鬼道あ

るいは巫鬼道の典型としては五斗米道の張魯が鬼道をもって民を教したことをあげた(19)

同様の見解として方詩銘氏は鬼道が巫鬼道であると結論し(20)段玉明氏は鬼道について初期道教の巫術的で鬼神

を祭祀する宗教的特色を反映した呼称であるとした(21)

李遠国氏は鬼道に関して漢代から晋代の文献にみえその多くは張陵の開いた道教を鬼道と称しその信徒

が鬼卒であることを基本として鬼神についての史的考察を行った(22)

王永平氏は唐代の鬼道に関して神仙道教を仙道民間道教を鬼道と位置づけ唐代にはこれらの双方が展開

したとする鬼道すなわち民間道教は初期道教の五斗米道の特徴をいっそう発展させたもので巫術や迷信と結

びつき符や水で病を治し鬼を駆使して福を祈り災いを滅するという性格を有し一般民衆に大きな吸引力

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

6

をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

7

立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

9

い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

28

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 5: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

ら類推した祭式や儀礼の存在などをあげ中国の民俗的信仰をそのままとりいれることはないが神仙思想の影

響で弥生時代に行われたものとは異なる新たな信仰であったとするまた『三国志』では儒教の価値観からは

否定される邪教妖術俗信を「鬼」と表現しているとする(13)

また日本古代の道教的信仰を論じたなかで卑弥呼の鬼道は張魯が行ったものと同じく精霊死霊によって

惹起される病気の治療を行うものとする見解がある(14)

これらに対して『三国志』に現れる鬼道の語は儒教の儀礼や仏教ではないことが確実なだけであり為政者

の意に反する俗信邪教に類するものをすべてを鬼道と表記したとし教団組織をもった道教の成立は北魏代の

五世紀で『三国志』の著者である陳寿の時代には五斗米道のような原始道教と他の俗信とを比較して明確に鬼

道として弁別しがたいとする見方もある(15)同様に卑弥呼の鬼道を張魯の鬼道の影響を受けた道教的宗教とする見

方に対して両者を結びつけることに慎重さを求め卑弥呼の鬼道を原始的宗教の範疇で考えるべきとする意見

もある(16)

中国古典や史料にみえる鬼道については福永光司氏による言及があるそれによると道教の教理学宗教学的

展開を儒教や仏教と相関させてとらえ鬼道神道真道聖道へと道教の属性を示す語が変化し展開して

いくなかで相対的に鬼道を位置づけているそして南北朝期の僧である梁玄光『弁惑論』や北周道安『二

教論』で鬼道として非難していることを引いて後漢代の二世紀に成立した初期の道教である三張道教が鬼道と

しての性格を有しているとした鬼道の本来的な意味については『国語』魯語上などに人道に対立するものと

して用いられており鬼神の道理や理法を意味し前漢代の紀元前二世紀になると『史記』封禅書や『漢書』郊

祀志に記されているように鬼神を駆使する道術を意味するようになりシャーマニズム的な内容と性格を有する

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

5

ようになるとするそしてその典型として『三国志』魏書張魯伝や蜀書劉焉伝にみえる鬼道の用例をあげてい

る(17)以上のように日本における鬼道の研究においては『三国志』を中心とした文献を典拠として示された鬼神を駆

使する道術としての鬼道と説明されることが多いただし語義的な面からは鬼道と関係するとみられる鬼神祭

祀と鬼道とは道教研究においては区別されており鬼神祭祀は民間で行われた死霊祭祀を中心として巫覡が関与

する祭祀であって体系的で教団によってたつ道教はむしろこのような俗信に意識的に対立する普遍的な信仰を

形成しようとする宗教運動であるとする見方があり(18)鬼神祭祀を鬼道とする単純な捉え方には注意を要する

いっぽうで鬼道は儒教的礼俗とは乖離した信仰の実修であるとする指摘は重視すべきであろう

中国の研究者の説を示すと王明氏は『抱朴子内篇校釋』の序文で民間道教と貴族道教に区分し民間道教

を鬼道あるいは巫鬼道とし貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとした鬼道あ

るいは巫鬼道の典型としては五斗米道の張魯が鬼道をもって民を教したことをあげた(19)

同様の見解として方詩銘氏は鬼道が巫鬼道であると結論し(20)段玉明氏は鬼道について初期道教の巫術的で鬼神

を祭祀する宗教的特色を反映した呼称であるとした(21)

李遠国氏は鬼道に関して漢代から晋代の文献にみえその多くは張陵の開いた道教を鬼道と称しその信徒

が鬼卒であることを基本として鬼神についての史的考察を行った(22)

王永平氏は唐代の鬼道に関して神仙道教を仙道民間道教を鬼道と位置づけ唐代にはこれらの双方が展開

したとする鬼道すなわち民間道教は初期道教の五斗米道の特徴をいっそう発展させたもので巫術や迷信と結

びつき符や水で病を治し鬼を駆使して福を祈り災いを滅するという性格を有し一般民衆に大きな吸引力

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

11

俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

13

ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

17

4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 6: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

ようになるとするそしてその典型として『三国志』魏書張魯伝や蜀書劉焉伝にみえる鬼道の用例をあげてい

る(17)以上のように日本における鬼道の研究においては『三国志』を中心とした文献を典拠として示された鬼神を駆

使する道術としての鬼道と説明されることが多いただし語義的な面からは鬼道と関係するとみられる鬼神祭

祀と鬼道とは道教研究においては区別されており鬼神祭祀は民間で行われた死霊祭祀を中心として巫覡が関与

する祭祀であって体系的で教団によってたつ道教はむしろこのような俗信に意識的に対立する普遍的な信仰を

形成しようとする宗教運動であるとする見方があり(18)鬼神祭祀を鬼道とする単純な捉え方には注意を要する

いっぽうで鬼道は儒教的礼俗とは乖離した信仰の実修であるとする指摘は重視すべきであろう

中国の研究者の説を示すと王明氏は『抱朴子内篇校釋』の序文で民間道教と貴族道教に区分し民間道教

を鬼道あるいは巫鬼道とし貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとした鬼道あ

るいは巫鬼道の典型としては五斗米道の張魯が鬼道をもって民を教したことをあげた(19)

同様の見解として方詩銘氏は鬼道が巫鬼道であると結論し(20)段玉明氏は鬼道について初期道教の巫術的で鬼神

を祭祀する宗教的特色を反映した呼称であるとした(21)

李遠国氏は鬼道に関して漢代から晋代の文献にみえその多くは張陵の開いた道教を鬼道と称しその信徒

が鬼卒であることを基本として鬼神についての史的考察を行った(22)

王永平氏は唐代の鬼道に関して神仙道教を仙道民間道教を鬼道と位置づけ唐代にはこれらの双方が展開

したとする鬼道すなわち民間道教は初期道教の五斗米道の特徴をいっそう発展させたもので巫術や迷信と結

びつき符や水で病を治し鬼を駆使して福を祈り災いを滅するという性格を有し一般民衆に大きな吸引力

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

6

をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

7

立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

9

い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 7: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

をもち民衆の暴動を惹起し徐々に上層社会や皇帝の一族にも浸透していき唐代の政治や社会に多大な影響

を与えたと説きその具体的な事例をあげた(23)

以上のように二〇世紀の後半にはこのように道教の文化史的あるいは思想的研究のなかで鬼道に関する研

究が進められており鬼道はおおむね五斗米道で行われた符水を用い鬼神を駆使するような巫術的迷信的な

側面をもつ民間道教であると位置づけられている

これを踏まえつつあくまでも政治的社会的背景を含む『三国志』編者の認識を同時代的に検討することが

魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であることを確認して次に中国古代の史書文献にみえる鬼道の事

例を検討したい

鬼道の文献的検討

鬼道の語については編纂時期のさかのぼる記述として『史記』『漢書』には太一神を祭祀するための祠壇に関

して「八通鬼道」「八通之鬼道」とあり(24)祭壇における鬼神の通路の意味とされるこれが前項でふれた『三国

志』張魯伝にみえるような鬼神を使役する道術としての鬼道と変容していくとみられている(25)

ただし魏志倭人伝にみえる鬼道を検討する際には『三国志』にみえる意味や用法用例を参照して考定する

ことが基本となろう「鬼」の語やそれを含む語句は史書等に散見されるが『三国志』にみえる鬼道については

前項でふれたように先学の研究がありそれによって魏書張魯伝の記述が端的にその内容を示すことされている

張魯はいうまでもなく五斗米道の創始者である張陵の子孫であるが益州牧の劉焉が死んで子の劉璋が代わって

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

7

立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

9

い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

11

俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 8: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

立つと張魯が従わないことをもって張魯の母と家族をことごとく殺した張魯は漢中に拠って鬼道をもっ

て民を教し自ら師君と号したそして「其来学道者初皆名鬼卒受本道已信号祭酒」すなわちこの道

すなわち鬼道を学びに来た者は初めはみな鬼卒と名づけ本格的に鬼道を信ずるようになった者は祭酒と号した

とある(26)ここにみえる「其来学道者」の「道」については道術や道教とする見方もあろうがその前文で鬼道の

語が示されていることからこれも鬼道とみてよかろう

魏書張魯伝には続けて各地の祭酒はみな義舎という建物を造りそれはあたかも魏の亭伝すなわち駅制のよ

うであり一定の距離をおいて設置されていたらしいそこでは飢えた通行人のために肉と米が置かれており

空腹の者は腹を満たすだけの分は自由に食べることができたようであるがそれ以上に食べると「鬼道すなわち

これを病ましむ」とある(27)この鬼道の意味はここまでみてきた用法と語義からみて五斗米道の本質的な信仰と

みてよかろう

張魯の記事は『晋書』載記にもあり後漢末に張魯が漢中に拠って鬼道をもって百姓を教し賨人すなわち

張魯を拝する人は巫覡を信じ多くが行ってこれを奉ったとある(28)ここでは明確に「巫覡を信ずる」とあるよ

うに張魯の用いた鬼道は巫術の一種ととらえられていた

張魯に関しては蜀書劉焉伝にも張魯の母は鬼道を用い容姿は若々しく常に劉焉の家と行き来していた

とあり(29)ここでも鬼道は張魯と同じくその母が鬼道を用いることが述べられている張魯の時代の三十年間は魏

書張魯伝に「雄據巴漢垂三十年」とあり蜀の地は五斗米道の勢力が占拠していたと記されている

五斗米道で実修された行為については『三国志』魏書張魯伝の裴註に引く典略には以下のように示されてい

る光和(一七八〜一八三)中に東方に張角あり漢中に張修ありとして張角が太平道を始め張修は五斗米道

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

8

を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 9: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

を始めたとして太平道の師は九節杖を持ち符祝を為し病人に教えさとして叩頭させ過ちを思いださせ

因って符水を以って之を飲ませた病を得てある者が日浅くして癒えるとその人は道を信じたためだといい

ある人が癒えないとその人は道を信じなかったためだという五斗米道の張修の法はほぼ張角と同じであって静

かな部屋を作り病者をそのなかに入れて考えさせる姦令祭酒という役に任じた人のうち祭酒は主に『老

子』を信徒に習わせる信徒を号して鬼吏という祭酒は主に病者のために祈祷しその方法は病人の姓名を書

き服罪の意を説くこれを三通作りその一はこれを天に上らせ山上に著(お)くその一はこれを地に埋め

その一はこれを水に沈めるこれを三官手書という病者の家をして米五斗を出させこれを常とすしそのた

めに号して五斗米道師というが実は治病に益はなくただ淫妄であるのに民衆は昏愚であるため競ってこ

れにつかえると記されている(30)これによって五斗米道と太平道とは同様の呪術的実修を行っていたとみられてい

る『

晋書』にみえる鬼道の記述として道士の李脱という者がいて妖術によって衆を惑わし自ら八百歳であ

るといいそれがために李八百と号したという彼は中州より建鄴に行き鬼道をもって病を療しまた人を

官位につけたのでその時の人々はこれを信じつかえたとある(31)ここでも八百歳という神仙のような道士に

よって鬼道が行われ病気の治癒や出世などの現生利益的を目的とした呪術的な内容であったことがわかる

他にも晋代の鬼道としては次のような記述があげられる司馬睿すなわち東晋の元帝が江東に出鎮した際に

軍司に招いて散騎常侍を加えた顧栄にすべてのはかりごとに対して意見を求めた帝が鄭貴嬪のところに行幸

したところ貴嬪に病があり祈禱して万機を廃そうした時に顧栄が帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ

九合の勤を弘め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などの鬼道淫祀にたよらず多くの人々の勤めを合わせて正し

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

9

い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

11

俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

36

思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 10: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

い政治判断を行うことを述べている(32)

後代の史料にも同様の用例と用法がみられ『宋書』周朗伝にみえる彼の献策のなかには当時の社会風俗と

して鬼道によって衆を惑わし妖巫が風俗を乱し木に触れただけで怪しげな言を弄する者が数えられないほ

どおり地方に拠って神と称する者は数えられないとあり(33)後漢以来の信仰習俗が引き続き行われていたこと

を示している

ただし南北朝時代には巫覡が鬼神を駆使する鬼道とは異なる用法もみられる『魏書』釈老志にみえる北魏

の太武帝の廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ鬼道が盛んと

なって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ詔勅の前段に

ある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を「天常」すなわち天の常道であるといっているのと対比的に

仏教のことをさして鬼道といっており伝統的な礼義による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられている(34)こ

のような用法からは『三国志』にみえる鬼道の語義としても同様の意味が包含されると思われる

先学の指摘した部分も含めて以上のように鬼道の用例と用法を瞥見してみると『三国志』にみえる鬼道は

基本的に五斗米道や太平道を典型とするように巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰としてよかろう(35)その

後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している

用法が出てくるといえよう

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

11

俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 11: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

鬼道と同時期の宗教関係考古資料

『三国志』『晋書』等で鬼道とされた五斗米道や太平道を含めた民間宗教に対しては道教史のなかでその位

置づけが分かれるとくに教団組織によっている点からは五斗米道をもって道教の始源とする見方がありその

後の体系的かつ教団によって運営された道教と対比的に原始道教(36)早期道教あるいは初期道教(37)と呼ばれることが

あるこれに対し教会の整備を基準として北魏の寇謙之をもって道教の成立とする説や道教の語が仏教と対比

して特定の宗教を指す名称として用いられるのは南朝宋からでありこの時期に天師道が道教という宗教とその

名を形成したとして五斗米道や太平道を道教とは認めず神仙道とする見方がある(38)また五斗米道と太平道

の関係については五斗米道の教法とされるものには太平道の教法に端を発してそれが展開したものとして太平

道をもって中国における民族的宗教としての成立とする説もある(39)

いっぽう近年の考古学研究の状況としては五斗米道や太平道の展開と並行する時期の祭祀信仰を示す遺物

の知見が蓄積をみておりこれらは初期道教と関係する物質してとらえられる場合が多い(40)当然ながら宗教学に

暗い筆者がこのような道教の概念規定や道教史の根幹に関わる議論に加わることそのものが適当を欠くのであっ

てまた道教史的位置づけとは異なり祭祀や習俗の実修を考古資料の次元で参照するにあたって本論では原

報告等で用いられている五斗米道と太平道の語をそのまま用い後代の道教と関連した内容については道教的習

俗や道教的信仰の語を用いることとしたい

とりわけ五斗米道を典型とする呪術的な側面をもつ信仰が展開していった時期の考古資料のなかで儒教的礼

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 12: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

俗に象徴される在来の思想とは明らかに異なる特徴を示す遺物があるそのうち呪的文言が記された朱書陶瓶な

どは相当な数量が知られており数多くの研究が発表されている(41)ただし本論は中国における道教的遺物その

ものを対象とした研究ではないため西王母に象徴される基本的な道教的表徴などではなく民間信仰的な側面

を知るべく近年知られた遺物のなかでも五斗米道や太平道と関連する習俗の実修を示す墳墓などの出土遺物

の典型的な事例を参照するそのことによって後漢代後半期以降に民間に浸透していったとされる信仰習俗の

実態を把握することによって『三国志』編纂時点での鬼道を同時代的に認識し把握する拠り所としたい

(一)木簡や陶器に記された記号字句

複文

道教で用いられた符籙のなかでもとくに『三国志』編纂と時代的に近くかつ鬼道および鬼神との関連

するものとして五斗米道や太平道で用いられたとされる複文という一種の符号があげられるこれらについて

は一九九〇年代以降の集成と研究がある(42)そのなかで太平道の経典の系譜を引くとされる『太平経』では「重

複之字」(巻九二)としてみえ(図

1右)例があげられている複文と類似する意匠的な字句があげられる考古

資料にみえる複文のなかで年代的に早い事例をあげると河南洛陽西花壇二四号墓で出土した陶罐の体部外

面には「延光元年」(一二二)年銘とともに意匠的な文字が朱書されており『太平経』にみえる複文と類似する

ことが指摘されている(図1

1左(43))また陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶にも

複文とされる記号がある(44)(図

2)後漢代の道符とされる事例に関しては王育成氏が六類型に分けているほど

数多いが(45)同時代的に鬼道と認識された太平道の経典である『太平経』所載の複文の字種と類似する早い時期の

資料として上記の事例があげられる

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

13

ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

21

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 13: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

墓に関する例としては四川長寧七個洞一号崖墓の墓門部分に刻された符号的文字があげられる(図1

3)

これは「入門妻見」の四字であり通有の文字ではなく複文によって表現されているとみられているこの崖墓

は熹平元年(一七二)の紀年があり造墓年代の一端が後漢末に求められることが判明している墓門の図像には

これ以外にも「趙氏天門」の刻書傍題がありさきの複文と勘案してこれらの符号的文字は墓主が天門に入

り昇仙して死んだ妻子とあいまみえることを祈ったことを意味するとされている(46)

黄神越章その他

鬼道の信仰対象とされる鬼神に関する語はすでに一九六〇年の時点で報告されている後漢末

頃の江蘇高郵邵家溝遺跡から道教的文言のある封泥と木牘があげられているそのうち封泥には「天帝使者」

の語があり木牘には「乙巳日死者鬼名為天光天帝神師已知汝名疾去三千里汝不即去南山給令来

食汝急如律令」の墨書がみられる(図1

4(47))これらの双方ともに漢代の鎮墓文との類似が指摘され方士あ

るいは巫覡が術を施したことを示すとする説が出された(48)また封泥の「天帝使者」の語についても『太平経』

などの初期道教経典にみえる語句や文章との類似が指摘されている(49)いっぽうで木牘に関しては後世の道教経

典の内容との類似は認めつつも道士が使用したことまでは実証できないとする見方もある(50)

同じく後漢代を中心とした木簡や土器の鎮墓文に頻出する語として「黄神越章」が知られる(51)これは「黄神越

章天帝神之印」その他の同義の語句も含めて道教の法印名号印などとも呼ばれることがあり鬼神を駆逐し

邪を鎮めるとされているその根拠として『抱朴子』登渉にみええる昔の人は山に入る場合みな黄神越章

の印を身に帯びその幅は四寸文字は百二十でこの印を粘土に押して住居の四方百歩のところに貼ってお

くと虎も狼もその中に入ってこないという記述があげられる(52)時代は下るが道教の愚昧さを笑った内容であ

る北周甄鸞の『笑道論』には「三張の術」すなわち五斗米道の張陵張衡張魯の術として「黄神越章を造れ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

13

ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

21

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

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Page 14: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

ば鬼を殺し朱章は人を殺す」と端的に記されており(53)道教に対する否定的認識に基づく著述のなかで「黄神

越章」が鬼と関連するという認識を反映しているまた『淮南子』覧冥訓に「黄神は嘯吟し飛鳥は翼を鎩(さ

い)し」とあり(54)高誘注の注では黄神は「黄帝之神」とあることなどからここにみえる「黄神」は「黄帝」の

ことであるとされるこの「黄神」は「天帝」と置き換えられることも多く木簡や鎮墓瓶にみえる「黄神使

者」「天帝使者」などの語は同義であると考えられている

また「黄神」は黄巾の乱を起こした太平道の教祖である張角が蜂起の際に述べた「蒼天すでに死す黄天ま

さに立つべし歳は甲子天下大吉」の語と関連するとみられている(55)既述のように太平道や五斗米道が同時代

的に鬼道と認識されていたとすると「黄神越章」はその一端を示すものとなる

石薬

このような符書と関連する文言や記号が記されているのがいわゆる朱書陶瓶に記された鎮墓文と呼ばれる

文章にみえる語句や内容であるそのなかでもっともさかのぼる紀年銘資料の一つとして陝西咸陽市教育学

院の敷地内で発見された一号後漢墓で出土した朱書陶瓶には「黄神使者」の語を含む文章が朱書されており

「永平三年」の紀年銘から西暦六〇年という後漢でも早い時期の年代が知られた(図1

5)さらにこの鎮墓

文には「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」という部分があり慈礜雄黄曽青丹砂の五石すなわち五種類の鉱

物性の石薬を指している陶瓶内部からは実際に雄黄と曽青とみられる鉱物が出土している(56)

鎮墓文にみえる石薬を含めた神薬という記載に関しては先行研究があり(57)これによりながら主な類例とその

意味を整理しておきたいさきにふれた陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶の文章に

は「何以為信神薬圧鎮封黄神越章之印」とある(図2

1)また同時に出土した陝西戸県県城医院後漢墓出土

朱書陶瓶には「太陽之精随日為徳利以丹砂百福得如律令」と記されており(図2

2)これらを勘案する

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

21

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 15: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

5 陝西咸陽市教育学院1号後漢墓

1複文(左洛陽西花檀 右『太平経』)) 2陝西戸県朱家堡後漢墓

3四川長箇洞1号崖墓

4江蘇邵家溝

図1 鬼道関係資料 図はスケールアウト

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

15

と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

21

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 16: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

と丹砂を含む石薬は「神薬」と認識されていたことがわかる(58)文章にみえる丹砂は『抱朴子』内篇の中で「丹砂

は加熱すると水銀になりまた再び丹砂に戻る」などとあり(59)また仙人になるための薬である仙薬のなかで最上

のものとされ(60)服用すれば不死や仙人なれるとある錬(練)丹術に用いられる各種の丹薬の材料の一つとして知ら

れる(61)また既述のように陝西戸県朱家堡後漢墓出土「陽嘉二年」(一三三)銘朱書陶瓶には複文とされる記号が

あり神薬の語と複文が組み合わされていることからこれらの存在によって道教的習俗を示す例とされている(62)

同様の語は洛陽李屯後漢墓から出土した「元嘉二年」(一五二)銘鎮墓文にも「神薬鎮冢宅hellip(中略)hellip為

治五石hellip(後略)」とあり五種類の石薬すなわち五石が「神薬」と認識されていたことがわかる(63)(図2

4)こ

の語は無紀年の張氏鎮墓文にも「奉勝神薬主辟不祥百禍皆自肖亡張氏之家大富柾昌如律令」とあるように神薬は

不祥を避けて禍をなくし家が富み繁栄するために利すると考えられていた

(二)図像表現

石薬丹薬などとの関連で図像表現として鬼道としての初期道教的要素が認められる資料としては表現され

た器物との関係から仙人や道士とされる図像が知られているこのような図像に着目した研究は四川省の事例を

中心として行われているためこれらを中心として典型的な例をあげてみたい

神仙

後漢中頃とされる四川瀘州大駅坡一号石棺の練丹術を表したとされる図があげられる(図2

3)この

図像には脚のついた円形容器の横に杖を携えた人物が表現されておりこれを仙者とみて練丹を示すと報告され

ている(64)

四川楽山麻浩一号崖墓は後漢代末の仏像の要素をもった人物像で知られるがこの他に右手に手に節のある

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

21

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 17: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

杖を持ち左手には袋を持った人物図がある(図3

1)この袋のなかに丹丸すなわち丸薬状の丹薬が入ってい

ることを推定する見方があり神仙思想に基づく図像とされている(65)

同様の持物をもつ図像としては南京中華門外長崗村五号墓で出土した仙人仏像文青磁盤口壺があげられる(66)

(図3

2)この土器は形態的には通有の孫呉(東呉)代の青磁盤口壺であるが体部には粘土を貼り付けて円形

の光背をもち蓮華座の上に座った人物表現があり仏像と考えられている仏像の周囲には複数の節のある杖

上の器物をもって立ち背中には羽毛状のものがついた人物図像が何体も彩色によって表現されておりその周

りには雲気文と仙界の草とされる霊芝のような文様が描かれているこれらの図像から羽化登仙すなわち羽が生

えて仙界(天上界)へ登ることができるようになった者としての仙人とその世界を象徴する雲気と霊芝を表現した

と考えられているそしてこのような仙界を象徴する仙人や雲気霊芝などによって不老不死の世界たる仙

界を表現しようとした推定されているこの青磁盤口壺は仏像と仙人を在来信仰において同じ次元で認識したこ

とを意味するものとして仏教の初期的な理解を示すものと位置づけられている(67)

道士

後漢末頃とされる四川長寧長個洞五号崖墓の墓門外部の上方に描かれている立位の人物は頭頂部に先端

が尖った冠を被り両手には円形の玉状のものを持っている(図3

3)冠の形状からこの人物は道士であり

手に持った玉状のものは道教でいう金液九丹であるとする見方がある(68)この図像そのものが素朴な描写であるた

めこのような見方が成り立つかどうかは傍証が求められるがすでにふれたように同じ墓群の長寧七個洞一号

崖墓には道教的記号とみられる複文が記されていることから五号崖墓の図像に道教的要素が存在する可能性が

たかいことは肯定できようなお長寧七個洞崖墓群の被葬者についての分析では人物像表現の衣服の形態や

騎馬像がある点記載のない題記があることなどから無官の民衆を含むと考えられていることに示されるように

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

17

4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

19

4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

28

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 18: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

4 洛陽李屯元嘉二年後漢墓鎮墓文

1陝西戸県朱家堡陶瓶朱書

2陝西戸県県城医院陶瓶朱書3四川瀘州大駅坡一号石棺

図2 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

19

4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

30

いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 19: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

必ずしも上位階層とはいえない階層を含めた被葬者が想定されている(69)

(三)

葬送に関する遺物

複文文字と符書にみえる石薬や丹薬を用いる道士などの図像と関連する鬼道としての初期道教の要素としては

墳墓などから出土する墓底などから発見される雲母や陶器土器の内容物があげられるこれらは石薬の実物資

料を含みそのうち墳墓から出土する雲母に関してかつて筆者は主として日本の古墳と朝鮮三国時代の墳墓の

例および中国の漢代から南北朝の墳墓をとりあげ神仙思想を淵源とした道教的信仰の実修であることを論じた(70)

ここでは鬼道の展開と関連する後漢から三国時代にかけての事例を主としてその後の知見も含めて本論に関わ

る事実関係を記しておきたい

雲母

中国における雲母が出土した墳墓は漢代から南北朝にかけて数多いがそのうち後漢代にさかのぼりか

つ墓内から出土し葬送儀礼にともなうと推定される事例をあげ副葬された容器の内部から出土した場合は次

項であげた

陝西咸陽師範学院科技苑工地楼基內一号漢墓は大型の多室墓で東西方向に築かれ平面形は「甲」字形を

呈する墓道耳室墓室と陪葬坑から構成され南側に三室と北側に二室の耳室があり車馬を中心とした大

量の遺物が出土した墓道の西側に近接して一基の陪葬坑が発見されておりすでに盗掘を受けていたがこ

こから陶耳杯片や獣骨ととともに大量の青緑色の雲母片が出土した墓内からの出土品としては鉄釜五銖銭

銅製四葉座形金具陶罐陶製奩などがありこれらの出土遺物から後漢晩期頃と推定されている(71)

陝西西安長延堡瓦胡洞三三号墓では雲母片五片が出土しそのうちのもっとも大きい一片は長さ一六五セ

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

19

4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 20: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

4 陝西西安初平四年(一九四)朱書陶瓶(口径8 高さ148)と白色石塊

2南京中華門外長崗村五号墓口径126 底径136  高さ321

3 四川長寧長個洞五号崖墓

1四川楽山麻浩一号崖

図3 鬼道関係資料 図はスケールアウト

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

21

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 21: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

ンチメートルであったこの墓からは朱書陶瓶が出土したことから時期としては後漢代と推定されている出

土品には玉含や蓋弓帽を含む多数の副葬品がみられ墓群のなかでは相対的に上位の階層に該当する被葬者が埋

葬されたと考えられる(72)

河北定州三五号漢墓は磚築の多室墓であり出土遺物としては陶器類のほかに鎏金銀飾銅製車馬具その他

の銅器類があったその他に前室と中室の堆積土を除いた底面から大理石製玉衣片および鎏金銅糸の残片瑪瑙

製玉類朱砂とともに水滴状を呈する薄い雲母片数片が出土しているこの墓は中山靖王の墓と伝承されていた

が実際の中山靖王劉勝の墓である満城漢墓の発見によってそれが誤伝であることがわかったよって被葬者

は不明とするほかないが出土遺物からみて後漢晩期頃の墓と推定されている(73)

河南泌陽板橋三一号墓は複室の磚室墓でとくに甬道部分に多数の副葬遺物が残存しており甬道に置かれ

た陶器や陶製明器とともに雲母片が出土していることが平面図と遺物の出土位置図および出土遺物一覧表に

よって知られる報告書ではこの三一号墓の築造時期は同時に発見された墓の墳墓とともに後漢晩期とされて

いる(74)出土遺物の詳細が報告されていないため時期推定は難しいが三一号墓が複雑な構造の複室墓であるこ

とからみると後漢代でも後半期に属することは推定してよかろうこの事例は漢代の墳墓から雲母片が出土す

ることを報じた早い時期の報告でありその点で重要であるとともに雲母片の出土位置が図示されている点で

も一九五〇年代の報告としては貴重であるこれによって後漢代の墳墓では甬道に陶器などの副葬品とと

もに雲母片が置かれることが知られた

三国時代以降の墳墓からも雲母の出土例は多いが史上に名高い人物の墓からも雲母が出土している「太和

七年」(二三三)「陳王陵」の語のある銘文磚の出土によって『三国志』陳思王植伝に太和六年(二三二)一一月

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

28

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 22: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

に死んだとされる曹魏の東阿王曹植の墓として知られる山東曹植墓は甬道前室及び後室の三つで構成される

磚室墓で後室には棺が置かれていた出土遺物としては主体は陶器や陶製明器であるがその他には瑪瑙製

垂飾などの装飾品も出土している棺の内部は三層の堆積物が認められた底層は厚さ約三センチメートルの厚

さで木炭の灰を敷きつめ中間層には大きさが豆粒ほどの朱砂を敷き上層は薄く切られ日月星辰の模様に

造った雲母片を置いてその上に遺体が安置されていた雲母片の上に置かれていた遺骸は発掘時点では一部を

除いて腐朽していた(75)

江蘇宜興二号晋墓では雲母片二点が出土したと報告されているこの雲母片についての記述としては色調

が白色透明であり「朱砂」が付着しており長さが二二センチメートルで平面形が「半月形」とあるのみで

出土位置や出土状態などについての記載はないただしこの記載から雲母には穿孔などはされておらずまた

漆なども施されていないため雲母片として副葬されたものと考えられる同じ墓群の一号墓は「元康七年九月廿

日陽羨所作周前将軍磚」「元康七年九月廿日前将軍」などの有銘磚の出土によって呉から西晋にかけての武将

であり元康七年(二九七)に死んだ周処の墓であることが判明している雲母片が出土した二号墓は盗掘を受け

ていたが小児の人骨が出土したことから夭折したとされている第四子である周靖を含めた周処の一族と推定

されている(76)よって二号墓の築造年代も周処墓とほぼ同時期であり三世紀後半から末頃と推定してよくこの

時期における埋葬に際する雲母の使用を具体的に示す事例である

時期が下り東晋代の事例になるが南京仙鶴観六号墓は単室の磚室墓で墓室内からは東西に配置された二

基の木棺の痕跡が確認され細金粒細工の蝉形冠や銀鼎をはじめとする多数の金銀製品漆器青磁玉器

カットグラス碗水晶玉銀鈴金鈴などの秀麗な遺物とともに雲母片が出土している年代は東晋前期頃の四

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 23: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

世紀前半〜中頃と推定されているこの墓は東晋の名臣である高悝とその妻の合葬墓と推定されており王氏一

族の象山墳墓群と並び南朝墓では最も充実した内容を示しているこの墓では雲母片は二箇所で発見されてお

りその一つは副葬された鎏金の施された蓋付の銀製鼎の内部からであるこの鼎は(口径二三センチメー

トル高さ二七センチメートル)極めて小型でありおそらく雲母片を納めるために副葬されたと考えられ

る(図4

1左)内部から出土した雲母片はごく少量であり砕片となっていたと報告されているまたこ

れとは別に西棺内の本来は遺骸が置かれていた周辺から雲母片が出土している(図4

1右(77))銀製鼎の内部から

出土した雲母は砕片の状態であることから後にふれる文献記載にみえる雲母粉に該当するとみられ仙薬とし

て副葬された可能性がたかいまた西棺の内部から出土した雲母は装飾として器物か有機質の布や皮などの製

品に付けられたものと考えられる

敦煌仏爺廟湾三号墓は東晋の「咸安五年」(三七五年ただし実際には咸安の元号は二年まで)の紀年を朱書

した陶罐などとともに雲母片の出土が報じられている墓室は方形を呈し甬道側の二つの隅が円形にふくらみ

をもつことがこの墓の平面形の特色である東西に二つの木棺が置かれ東側棺内では被葬者の胸にあたる部

分から雲母片が三片出土したと報告されている雲母片は平面形が円形を呈し直径二センチメートルで円孔

が穿たれていた(78)このことによって雲母が被葬者の服飾品や遺骸を覆うための繊維製品や革製品などの有機質

の素材に付けられていた装飾であることが推定されるこの例は東晋代に併行する前涼から後涼の時期には西域

においても葬送に際する雲母の利用が存在したことを示している

このほかにも南朝墓北朝墓からも雲母片は出土しているが三国時代とは時期的には懸隔するので省略する

以上の例によって漢代から雲母片の埋納が行われており南北朝時代にいたるまで引き続き行われたことが知ら

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

23

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 24: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

れる

副葬容器の内容物

墓に副葬された陶器や土器の容器の内容物のうち葬送祭祀に関わると推定される事例につい

ては劉衛鵬程羲の両氏による研究がある両氏は漢代から晋代にかけての墓から出土する陶器の内容物をa天

然鉱物およびその製品b金属および金属製品類c動物類d五穀ではない植物類e五穀に類別して検討し

た(79)この研究によりつつ本論で論じている後漢から三国時代頃の道教的信仰の実修と関連するとされている

abcについて筆者が知りえた資料を追加して以下にそれらの典型となる事例をあげておく

aの例としては前項でふれた雲母があるがこの場合も雲母とその他の鉱物や動物骨が納入された場合もある

副葬容器のなかから雲母が出土した例をあげると敦煌祁家湾三六六号墓では後漢建初五年(一八〇)の朱書

のある陶瓶から雲母片が発見された(80)後述する朱書の内容からみてこの遺物は朱書陶瓶であって内容物であ

る雲母についても鎮墓文にしばしばみえる「神薬」の一つと考えられている(81)

三国時代以降の墳墓ではさきにふれた雲母片が出土した曹植墓から出土した陶器のなかには肩の部分に「丹

薬」銘の印刻のある四耳罐があり(図4

4)この墓の葬送思想には神仙思想および道教的信仰が存在したこと

がわかる(82)これによって棺の内部に敷き置かれた雲母も遺骸保存の目的があったと考えられるがその行為は

陶罐の「丹薬」銘に示されるような神仙思想とおよび道教的信仰によるものであることが類推され魏志倭人伝

の同時代資料として重要である

bの容器に金属ないしは鉱物が埋納された例としては朱書陶瓶の語句として示した五石(石薬)の一種が出土し

た事例があるたとえばすでにふれた陝西咸陽市教育学院一号後漢墓で出土の永平三年(六〇)銘朱書陶瓶に

は「慈礜雄黄曽青丹砂五石会精」の文章があり内部には雄黄の塊と曽青十粒余りとみられる物質と

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 25: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

貝殻が入れられていた(83)河南洛陽出土永寿二年(一五六)銘朱書陶瓶の内部には大量の緑色の丸薬状の物質が

入っていた(84)陝西潼関吊橋二号後漢墓では朱書陶瓶が五個体出土しそれらのなかには雄黄が充填されており

縄目文の瓦片で蓋をされていた(85)

陝西西安出土初平四年(一九四)朱書陶瓶の内部には長さ三五センチメートル幅二センチメートル厚さ

一〜二センチメートルの白色石塊が入れられておりこれは五石の一つである礐石とみられている(86)(図3

4)

陝西西安北郊西飛の後漢中期頃と推定される二号墓から出土した陶瓶には石英の塊が五個体入れられており(87)

これも石薬の一種かとみられている

以上にあげた出土遺物のうち雲母に関しては後漢代の末頃から副葬が開始されるとみられ鬼道とされる初

期的な道教が展開する時期と一致しており両者の直接的な関係は現状の史資料の状況では不明とするほかは

ないが葬送に際して神仙的ないしは道教的習俗が普遍的に行われていたことがわかる

これらのなかで副葬される雲母の意味については劉衛鵬程羲の両氏が天然鉱物類およびその製品の一種と

して道教の丹薬たる五石とともにあげており古代より二つの効用があったとする雲母の効用の一つは『神

農本草経』などを引いて古代において精神を沈定させるために常用された薬物であるとするもう一つの効用

としては『淮南子』『東園秘記』『西京雑記』等の記載を引いて古代には遺骸を腐朽させないという認識があっ

たという点をあげているさらに五石雲母などは総じて道士の法物であるとともにそれがために死者と共存し

道教の法術を永遠に保障する存在であると意味づけた(88)

仙薬としての雲母について整理すると敦煌祁家湾三三六号墓で出土した後漢建初五年(一八〇)の朱書陶

瓶の内容物であった雲母片が例証としてあげられる(図3

2)朱書陶瓶に記された銘文である鎮墓文は「如律

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

25

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

28

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 26: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

3 山東曹植墓 左「丹薬」印刻銘のある陶罐(口径45 高さ198) 右「丹薬」印刻銘(一辺25)

2 敦煌祁家湾三三六号墓陶瓶朱書

1南京仙鶴観六号墓 左鎏金帯蓋銀鼎(口径23 高さ27) 右西棺雲母(上は長さ74 幅27下は径6)

図4 鬼道関係資料 図はスケールアウト(数値の単位は)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 27: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

令」などの語句から早い段階の道教的信仰に基づくものと認識されている(89)すでにふれたように鎮墓文のなかに

は「神薬」という語がみえることもありその一つとして雲母が納められていたことから雲母は早い時点での

道教的信仰に基づく仙薬ないしは丹薬として認識されていたことは疑いをいれない同様に山東曹植墓から出

土した「丹薬」印刻銘のある陶罐と墓底に敷き詰められていた雲母片はともに一種の仙薬丹薬であるとみら

れるこれらの墓は葬送思想に神仙思想および道教的信仰が存在したことを示す類例であるまた五石とされ

る石薬については朱書陶瓶の語として記されかつ上述のように実際に陶瓶の納入物としても出土することから

信仰習俗としての実修が証されている

以上魏志倭人伝とほぼ同時代に鬼道と解された五斗米道を媒介としてそれに関係するとみられる遺物に関

して後漢代を中心とした信仰習俗を示す典型的な出土事例を示しみたこれらはいずれも現状では魏志倭人伝

に並行する弥生末から古墳時代初頭の日本列島では出土しておらずこの点において考古学的には『三国志』編

纂時点で鬼道とされていた五斗米道やあるいは太平道などを含む初期道教的な習俗の痕跡はみられないただし

魏志倭人伝にみえる魏の卑弥呼に対する賜物にみえる「鉛丹五十斤」に関しては倭における「鬼道」の実修を

認識した魏が丹薬として下賜した可能性が考えられる(90)

いっぽう『三国志』編纂時点を含めた中国における鬼道の認識はたんに五斗米道などを指すのみならず

文化史思想史的な側面がありこれについては上述の考古資料を媒介として論じることとする

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

27

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

28

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

30

いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 28: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

鬼道に関する歴史考古学的検討

後漢代を中心とした祭祀宗教関係遺物の典型例をあげて習俗の実修の側面をみてきたがこれらによって

鬼道たる五斗米道が展開した時期の信仰行為の物理的側面について整理することによって『三国志』編纂側の

魏志倭人伝の鬼道の認識を考えたい

その前提として鬼道の語についてはすでにふれたように『三国志』では原則的に五斗米道を指していること

と教法の特質は病人に自らの過ちを反省させまた符書を用いて病の治癒を図るなどの呪術的行為の実修があげ

られるこのような五斗米道の呪術的習俗の典型である符書の実物は発見されておらず同時期に盛行した呪的

文言や複文などの記号を参照する以外には当時の信仰の実修を知る手立てはない

これらのうち複文などの道教的記号は五斗米道で病の治療に用いた符を類推する際に参考となる資料である

まず複文が記された墓の属性としては四川長個洞崖墓の被葬者が無官の民衆を含むと考えられていること

に示されるように必ずしも上位階層とはいえない類型の墓を主体としている

朱書陶瓶を副葬する墓に関しても鎮墓券作成者としての巫者方士の民間の葬送における活動が論じられ

ているように特定の階層に限定されるのではなく一般階層で流行した習俗とみられている(91)

同様に錬丹とみられる図像や道士かとされる人物像の表現に関してもこれまでの報告例では崖墓に代表され

る群構成をとる墓制において知られ地域的特色はあるが漢代墓制のなかでは一般的に崖墓の被葬者の階層とし

ては高位とはいえないとみられている

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

28

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

30

いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 29: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

いっぽう陶器や土器の内容物として雲母の鉱物や丸薬が出土する墓の特色としては墓主の属性がとして上

位階層を含むことがあげられるその典型は曹植墓でありいうまでもなく墓主の曹植は魏の曹操の子であり

建安の傑として詩作に名高いまた呉から西晋にかけての将軍であった周処の一族とみられる宜興二号晋墓で

も雲母が出土しているまた時期が東晋に下るが南京南京仙鶴観六号墓の被葬者は東晋の名臣である高悝

夫妻とみられているこれらの例から雲母や石薬を埋納する墓の墓主は高位階層を含むことがわかる

鬼道に関する研究史でふれたように中国の道教研究では民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし上位階層の信

仰した道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質をもつとする見方がある宗教的な類型化は専門

研究者の検討をまちたいが前項でふれた宗教習俗を示す出土遺物の観点からは一定の傾向がみえるこのよう

に複文や朱書陶瓶の埋納と雲母や石薬の埋納などは同時期ではあるがそれぞれの遺物が出土する墓の階層性に

関してみるととくに雲母を含む石薬としての丹薬が副葬されている墓は高位階層の被葬者を含むことは明らか

である

このような後漢末から三国時代にかけての祭祀信仰を示す遺物の埋納する墓の階層性について参考となる

同時代の文献記載として魏の曹植の「説疫気」(『陳思王集』)には「或いはもって疫は鬼神のなす所となし」

(或以為疫者鬼神所)「而して愚民符を懸けてこれを厭う」(而愚民懸符厭之)とあり民衆が疫病の流行に対し

て家に符を懸けて防ごうとしたという習俗があったことが知られるこれは同じ文章に「建安二十二年癘気

流行し家々僵尸の痛あり室々号泣の哀あり」とあるように建安(一九六〜二二〇)年間の疫病の流行を背景と

し直接的には建安二二年(二一七)のことを原因としている(92)五斗米道や太平道などの盛行の背景にも後漢末の

疫病の蔓延があるとするのが一般的である(93)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

29

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 30: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

いっぽう葛洪は『抱朴子』のなかで「長生の道は祭祀して鬼神に事(つか)えるにあらざるなり」とし(94)また

「昇仙の要は神丹にあり(95)」として鬼道とされた五斗米道を含めた呪術的な祭祀によって治病や長生福祥を求めん

とする民間信仰を否定し昇仙への道は煉丹術のみであることを強調しているまた別に「曩(さき)に張角

柳根王歆李申の徒ありて或いは千歳と称し小術に仮託し(中略)群愚を糾合し進みては年を延べ

寿を益すを以て務となさず退きては災いを消し病を治すを以て業となさずついに以て奸党を招集し逆乱

を称合す」とあり(96)太平道の張角らをあげて延年益寿消災治病を唱えて愚民を惑わして糾合し逆乱を謀った

として非難しここでも彼らの説く教説を否定している葛洪の言説によって後漢末期に民間で流行した含め

た呪術的な信仰習俗の実態が知られるのでありこれらのうちとくに考古資料としては先述の神薬の語と複文の

組みあわせのみられる朱書陶瓶等によってその実修の一端が知られるのである

これに対して考古資料から知られる神仙思想の影響を受けた雲母や丹薬などの埋納は呪術的ではありながら

も不老長生や昇仙を目的とする正当な方法として葛洪は宣揚しているのでありこれは丹薬や石薬などの副葬

が高位階層にみられることと整合する

最後に文献と考古資料の両面から知られる後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実態を総合して鬼道と

された卑弥呼の祭祀と宗教を位置づけるならば『三国志』編纂者側の認識としては符書などを用いた治病や消

災を目的として民衆に働きかける巫術的な実修をともなう呪術的な宗教行為を想定していたとみてよかろうこ

のような信仰習俗の展開のなかで皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想に基づく信仰に対して

複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在が背景となっていることは明らか

である

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 31: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

いっぽう後漢末から三国時代にかけての信仰習俗の実修を示す考古学的証左である複文錬丹等の図像雲

母神薬とされる五石などはいずれも弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島ではその出土が知られ

ておらずこのことから卑弥呼の時代の日本列島で鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で

展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていたことには否定的にならざるをえないかつて指摘したよう

に考古資料としてこのような宗教的習俗の一端を示す雲母の出土は古墳時代後期に散見されるのであって(97)そ

れ以前の例は寡聞にして知らないこれに示されるように弥生時代から古墳時代にかけての日本列島で並行する

時期の中国で行われていた信仰習俗が実修されていたことを考古学資料によって証することは難しい(98)

このようにみてくると卑弥呼の行ったとされる鬼道は邪馬台国の信仰の実態そのものの直接的な描写ではな

くおそらく『三国志』編纂者が同時代の鬼道の認識を敷衍し援用して用いた語句でありむしろ中国における

鬼道に対する同時代的意識を反映したものとみたほうがよかろうまた文献の用例として儒教を根幹とする中

国古代以来の思想や礼俗に基づく規範とは異なる信仰や社会体制を「鬼道」と表現している用法があることから

知られるように当然ながら鬼道は天子や為政者が行うべきではない宗教的実践であったそれについては葛洪

が「淫祀妖邪は礼律の禁ずる所なり」と端的に述べておりただし「然れども凡夫はついに悟らすべからず」

として民衆のなかの淫祀の流行にふれているそして「ただ宜しく王者更にその法制を峻(きびしく)し犯

すものは軽重となくこれを大いなる辟(つみ)に致し」とあり古来の礼俗の体現者たる王道をもって天下を治め

る君主は法によって淫祀を行う者を厳しく裁くべきことを説いていることからもわかる(99)

またすでにふれた例では『晋書』で顧栄が東晋の元帝を諌めた言葉のなかに鬼道淫祀を塞ぎ九合の勤を弘

め天下の恥を雪ぐとあり祈祷などにたよらず多くの人々の勤めを合わせて正しい政治判断を行うことを

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

31

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 32: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

述べているここにも天子が鬼道や淫祀をたよることに対する否定の姿勢が表れている『魏書』釈老志にみえ

る北魏太武帝のいわゆる廃仏に際する詔勅のなかに仏教によって国家の政教が行われず礼儀が大いに乱れ

鬼道が盛んとなって王者の法をみてもこれを蔑むごとくであるとして鬼道が用いられているここでは同じ

詔勅の前段にある後漢の明帝の時に伝えられた仏教以前の状態を天の常道であるとしこれと対比的に仏教のこ

とをさして鬼道といっており伝統的な礼制としての儒教的体制に対置して鬼道の語が用いられている

このように鬼道は中華社会の在来的礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己

の存立を否定するものとされていた卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが『三国志』編

纂時点における同時代的な認識であった

ここまで魏志倭人伝に記された卑弥呼の鬼道についてできるかぎり同時代の史書文献と考古資料から『三

国志』編纂時点での認識を復原的に考察してきた以下では行論にしたがって内容を整理することによって結語

としたい

まず魏志倭人伝の鬼道についての研究史を整理しシャーマニズムとして位置づけられあるいは民間道教

ないしは五斗米道との関連が説かれてきたことを瞥見するとともにあくまでも政治的社会的背景を含む『三

国志』編者の認識を同時代的に検討することが歴史学として魏志倭人伝を考察する際の基本的な立脚点であるこ

とを確認した

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

32

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 33: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

これをうけて次に漢代から魏晋南北朝頃までの史書文献にみえる鬼道の用例と用法を検討した結果『三国

志』にみえる鬼道は基本的に五斗米道を典型とする巫術を含めた呪術的な実修を伴う民間信仰として同時代的

に認識されているとみられその後このような意味から転じて儒教的礼法に基づく規範とは異なる信仰や社

会体制を「鬼道」と表現している用法が出てくることを指摘した

次に鬼道と同時期の典型的な宗教関係考古資料を(一)木簡や陶器に記された記号字句(二)図像表現(三)葬送

に関する遺物に大別して整理し民間における道教的信仰の具体的実修の様相を参照したそしてこのような

信仰習俗の展開のなかで埋葬に際する雲母の使用のように皇帝や官人層のような上位階層で行われた神仙思想

に基づく信仰がある一方で複文や朱書陶瓶に象徴される民間における呪的実修をともなう信仰習俗の存在を示

したこのような遺物が弥生時代から古墳時代の初め頃にかけて日本列島では出土しないことから卑弥呼の時

代の日本列島で中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいはその時期の中国で展開した呪術的習俗をともな

う信仰が実修されていた考古学的痕跡は知られないいっぽうでは倭における「鬼道」の実修を認識した魏が丹

薬としての「鉛丹」を下賜品とした可能性がある

このような知見を総合的に検討すると伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられているこ

とから鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗でありとくに統治する者にとっては自己の存立を否

定するものとされていた

卑弥呼はこのような鬼道によってたつとみられていたことが中華社会における同時代的な認識であったことを

史書文献と考古資料から示した本論では卑弥呼の鬼道が初期的な民間の道教や五斗米道などの宗教と類似す

るかどうかという観点よりも鬼道の実修の痕跡としての考古資料とあわせて同時代資料から検討するとともに

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

33

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

34

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

36

思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

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李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 34: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

これによって魏志倭人伝研究の基本的な方法と視点を示したこれを日本列島の考古資料の解釈に敷衍するなら

ば邪馬台国比定地から出土する単発的な個々の遺物のみから卑弥呼の鬼道が論じられる場合が多いのに対し

中華社会における儒教的な在来の礼俗との相対化のなかで検討しあくまでも『三国志』編纂時点の認識を基本

とする視点が生じることになろう

キーワード卑弥呼魏志倭人伝鬼道邪馬台国道教

〈注〉(1

)『三国志』魏書三〇烏丸鮮卑東夷伝第三〇東夷倭

其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼事鬼道能惑衆年已長大

無夫壻有男弟佐治国

なお読み下しは和田清石原道博編訳『魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝隋書倭国伝』(岩波書店一九五

一年)を底本とした

(2)内藤湖南「読史叢録卑弥呼考」『内藤湖南全集』第七巻(筑摩書房一九七〇年)〔初出は一九二九年〕

(3)赤松清和「魏志倭人伝の持衰及び鬼道に就て」(『史学』二〇

二一九四一年)

(4)井上光貞『日本の歴史』一神話から歴史へ(中央公論社一九六五年)二〇六〜二〇九頁

(5)三品彰英編著『邪馬台国研究総覧』(創元社一九七〇年)一二八〜一二九頁

(6)牧健二『日本の原始国家』(有斐閣一九六八年)四七八〜四八七頁

(7)重松明久「邪馬台国の宗教の実態」『古代国家と道教』(吉川弘文館一九八五年)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 35: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

(8)上田正昭『倭国の世界』(一九七六年講談社)七九〜八〇頁

(9)大林太良『邪馬台国』(中央公論社一九七七年)

(10)東山勝也「卑弥呼の鬼道とその体制」(『東アジアの古代文化』一三三二〇〇七年)

(11)大和岩雄「卑弥呼の鬼道と神仙思想」(『東アジアの古代文化』一一六二〇〇三年)

(12)鈴木靖民「『魏志』倭人伝にみえる倭国邪馬台国」『倭国史の展開と東アジア』(岩波書店二〇一二年)〔初出は一九

八二年〕

(13)山尾幸久『古代の近江

史的探求

』(サンライズ出版二〇一六年)三三〜三八頁

(14)和田萃「日本古代の道教的信仰」『日本古代の儀礼と祭祀

信仰(中)』(塙書房一九九五年)

(15)下出積與『日本古代の道教陰陽道と神祇』(吉川弘文館一九九七年)とくに「神祇信仰と道教儒教

日本古代思想

史の再検討

」を参照

(16)佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下(吉川弘文館二〇〇〇年)三八〜三九頁

(17)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」『道教思想史研究』(岩波書店一九八七年)

(18)ロルフスタン著川勝義雄訳「宗教的な組織をもった道教と民間宗教との関係」酒井忠夫編『道教の総合的研究』

(国書刊行会一九七七年)

小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」(『近世儒学研究の方法と課題』汲古書院二〇

〇六年)

(19)王明『抱朴子内篇校釈』(中華書局一九八〇年)

(20)方詩銘「釈〝張角李弘毒劉漢季〞」(『歴史研究』一九九五年第二期)〔中国語文献〕

(21)段玉明「五斗米道入滇考」(『中国史研究』一九九三年第四期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

35

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

36

思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 36: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

(22)李遠国「〝鬼道〞〝仙道〞与〝正一盟威之道〞」(『宗教学研究』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

(23)王永平「論唐代〝鬼道〞」(『首都師範大学学報(社会科学版)』二〇〇一年第六期)〔中国語文献〕

(24)『史記』本紀巻一二孝武本紀元年

古者天子以春秋祭泰一東南郊用太牢具七日為壇開八通之鬼道helliphellip令祠官寬舒等具泰一祠壇壇放薄忌泰一壇

壇三垓五帝壇環居其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

『漢書』巻二十五上郊祀志第五上

古者天子以春秋祭泰一東南郊日一太牢七日為壇開八通之鬼道hellip(中略)hellip祠壇放亳忌泰一壇三陔五帝壇環居

其下各如其方黄帝西南除八通鬼道

(25)福永光司「鬼道と神道と真道と聖道

道教の思想史的研究

」(前掲注(17))

(26)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

焉死子璋代立以魯不順尽殺魯母家室魯遂拠漢中以鬼道教民自号師君其来学道者初皆名鬼卒受本道已

信号祭酒

(27)『三国志』巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯

諸祭酒皆作義舎如今之亭伝又置義米肉県於義舎行路者量腹取足若過多鬼道輒病之

(28)『晋書』巻一二〇載記第二〇李特

漢末張魯居漢中以鬼道教百姓賨人敬信巫覡多往奉之

(29)『三国志』巻三一蜀書一劉二牧伝第一劉焉

張魯母始以鬼道又有少容常往来焉家hellip(後略)

(30)『三国志』魏書巻八魏書八二公孫陶四張伝第八張魯裵松之注所引典略

光和中東方有張角漢中有張脩hellip(中略)hellip角為太平道脩為五斗米道太平道者師持九節杖為符祝教病人叩頭

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

36

思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 37: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

思過因以符水飲之得病或日淺而愈者則云此人信道其或不愈則為不信道脩法略與角同加施静室使病者処

其中思過又使人為姦令祭酒祭酒主以老子五千文使都習号為姦令為鬼吏主為病者請禱請禱之法書病人姓

名説服罪之意作三通其一上之天著山上其一埋之地其一沉之水謂之三官手書使病者家出米五斗以為常

故号曰五斗米師

(31)『晋書』巻五八列伝第二八周処

時有道士李脱者妖術惑衆自言八百歲故号李八百自中州至建鄴以鬼道療病又署人官位時人多信事之

(32)『晋書』巻六八列伝第三八顧栄

願沖虚納下広延儁彥思画今日之要塞鬼道淫祀弘九合之勤雪天下之恥hellip(後略)

(33)『宋書』巻八二列伝第四二周朗兄嶠

凡鬼道惑衆妖巫破俗觸木而言怪者不可数寓采而稱神者非可算

(34)『魏書』巻一一四釈老志一〇第二〇釈

昔後漢荒君信惑邪偽妄仮睡夢事胡妖鬼以乱天常hellip(中略)hellip由是政教不行礼義大壊鬼道熾盛視王者之法

蔑如也

(35)これに対し五世紀代の道教経典では鬼神に対して規制することなどによってより上位の儀礼体系を与えることが企

図されたとする見方がある森由利亜「鬼神祭祀と道教儒教

対比のための印象批評的補助線

」土田健次郎編『近

世儒学研究の方法と課題』(汲古書院二〇〇六年)

(36)原始道教としての把握は下記参照

大淵忍爾「太平道の発生と五斗米道」加藤博士還暦記念論文集刊行会編『東洋史集説』加藤博士還暦記念(冨山房一

九四一年)

石島快隆「原始道教教義考」(『駒澤大学文学部研究紀要』二一一九六二年)

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

37

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 38: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

福井康順『道教の基礎的研究』福井康順著作集第一巻(法蔵館一九八七年)〔初版は一九五二年〕

(37)中国側では早期道教の語を用いる場合が多いこれは端的には日本語の初期の意味が中国語では早期になることによる

ものであり原始道教初期道教の語が指し示す信仰などの内容は共通する部分が多いこれらを論じた文献は数多い

が代表的なもののみをあげた

李養正「道教概述」(『道協会刊』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

李養正「従《太平経》看早期道教的信仰与特点」(『道協会刊』一九八二年第二期)〔中国語文献〕

蕭登福『周秦兩漢早期道教』(文津出版社一九九八年)〔中国語文献〕など

(38)小林正美『中国の道教』(創文社一九九八年)

(39)大淵忍爾『道教史の研究』(岡山大学共済会書籍部一九六四年)

(40)張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)および以下でふれる各種遺物に関する論考参照

(41)陶器の瓶などの体部に朱書によって銘文が記されている遺物については鎮墓瓶や解注瓶などの呼称がある鎮墓瓶は

葬送に際する祭祀文であることを根拠とするが文章にはそれ以外の要素もある解注瓶は朱書文にみえる語であり

解注は一種の逐疫の祭祀儀礼とされるがこの語が記された遺物は寡少でありすべての属性を代表するとはいいきれ

ない遺物の名称には客観性を担保するのが考古学的な方法の基本であることからすれば遺物そのものの特徴によっ

て本論では朱書陶瓶と呼んでおきたい

鎮墓瓶については本論であげた論考を参照解注瓶の朱書陶瓶は下記報告参照

郭宝鈞等「一九五四年春洛陽西郊発掘報告」(『考古学報』一九五六年第二期)〔中国語文献〕

解注瓶の意味については下記論考を参照

坂出祥伸「冥界の道教的神格「急急如律令」をめぐって」(『東洋史研究』六二

一二〇〇三年)

張勛燎白彬編『中国道教考古』第一巻(綫装書局二〇〇六年)一〜五頁

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

38

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 39: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

(42)連劭名「考古発現与早期道符」(『考古』一九九五年第一二期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお以下にあげる考古資料に関しては説明のみで図写真がなくあるいは写真等が極めて不鮮明なものが多いた

め確実に図示されているもののみ図を掲載した

(43)王育成「洛陽延光元年朱書陶罐考釈」(『中原文物』一九九三年第一期)〔中国語文献〕

連劭名「洛陽延光元年神瓶朱書解除文述略」(『中原文物』一九九六年第四期)〔中国語文献〕

王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(44)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(『考古与文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(45)王育成「略論考古発現的早期道符」(前掲注(42))

(46)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(『考古学報』二〇〇五年第三期)〔中国語文献〕

(47)江蘇省文物管理委員会「江蘇高郵邵家溝漢代遺址的清理」(『考古』一九六〇年第一〇期)〔中国語文献〕

(48)呉栄曽「鎮墓文中所見的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

(49)劉昭瑞「《太平経》与考古発現的東漢鎮墓文」(『世界宗教研究』一九九二年第四期)〔中国語文献〕

(50)劉樂賢「邵家溝漢代木牘上符呪及相関問題」陳文豪主編『簡帛研究彙刊』第一二〇〇三年〔中国語文献〕

(51)ここでふれた「黄神越章」の概括的な説明には下記文献を参考とした

呉栄曽「鎮墓文中所見到的東漢道巫関係」(『文物』一九八一年第三期)〔中国語文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(『歴史研究』一九九六年第一期)〔中国語文献〕

趙振華「洛陽出土〝黄神〞〝治都総摂〞道教法印考」(『中原文物』二〇〇七年第一期)〔中国語文献〕

孟凱「道教法印初探」(『中国道教』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

39

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 40: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

李瑞振「浅談漢代宗教印」(『中国宗教』二〇一一年第一期)〔中国語文献〕

(52)『抱朴子』内篇登渉

古之人人山者皆佩黄神越章之印其広四寸其字百二十以卦泥著所住之四方各百步則虎狼不敢近其内也

(53)『笑道論』

(前略)又造黄神越章殺鬼朱章殺人hellip(後略)

『広弘明集』巻第九(大正新修大蔵経五二巻一四九頁下段)

「六朝隋唐時代の道佛論争」研究班編著「「笑道論」訳注」(『東方學報』六〇一九八八年)参照

(54)『淮南子』覧冥訓

(前略)hellip黃神嘯吟飛鳥鎩翼hellip(後略)

(55)方詩銘「黄巾起義先駆与巫及原始道教的関係

兼論〝黄巾〞与〝黄神越章〞」(『歴史研究』一九九三年第三期)〔中国語

文献〕

劉昭瑞「論〝黄神越章〞

兼談黄巾口号的意義及相関問題」(前掲注(48))

(56)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(三秦出版社二〇〇〇年)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(57)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(58)禚振西「陝西戸県的両座漢墓」(注(44))

(59)『抱朴子』内篇巻四金丹

而丹砂焼之成水銀積変又還成丹砂

(60)『抱朴子』内篇巻一一仙薬

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

40

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 41: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

仙薬之上者丹砂hellip

(61)丹薬およびこれを含む外丹については下記論文を参照

坂出祥伸編『中国古代養生思想の総合的研究』(平河出版社一九八八年)

坂出祥伸『道教と養生思想』(ぺりかん社一九九二年)

なお後代の丹薬に比して四世紀の『抱朴子』以前の丹薬の特徴は内丹外丹の区別がみられず煉丹術とは鉱物の

化合服用であり一つの丹薬に多数の材料を用いる点であるとされる

長澤志穂「内丹と外丹

中国における煉丹術の分化と内的動機

」(『南山宗教文化研究所報』一九二〇〇九年)

(62)王育成「略論考古発現的早期道符」(『考古』一九九八年第一期)〔中国語文献〕

(63)洛陽市文物工作隊「洛陽李屯東漢元嘉二年清理簡報」(『考古与文物』一九九七年第二期)〔中国語文献〕

(64)羅二虎著渡部武訳『中国漢代的画像と画像石墓

本文編

』(慶友社二〇〇二年)図三五五八九頁

(65)楽山市文化局「四川楽山麻浩一号崖墓」(『考古』一九九〇年第二期)〔中国語文献〕

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(『文芸研究』二〇〇七年第二期)〔中国語文献〕

なお上記論文はここであげた神仙思想の要素のある図像表現の挙例にも参照した

(66)南京市博物館「南京長崗村五号墓発掘簡報」(『文物』二〇〇二年第七期)〔中国語文献〕

(67)李紹斌陳永「青瓷釉下彩絵的宗教色彩」(『文物鑑定与鑑賞』二〇一一年第七期)〔中国語文献〕

王志高賈維勇「南京発現的孫呉釉下彩絵瓷器及其相関問題」(『文物』二〇〇五年第五期)〔中国語文献〕

(68)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

羅二虎「東漢画像中所見的早期民間道教」(前掲注(65))

王明麗「試析漢画像中的早期民間道教」(『中原文物』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(69)羅二虎「長寧七個洞崖墓群漢画像研究」(前掲注(46))

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

41

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 42: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

(70)門田誠一「古墳出土の雲母片に関する基礎的考察

東アジアにおける相関的理解と道教的要素

」『古代東アジア地域

相の考古学的研究』(学生社二〇〇六年)〔初出は一九九九年〕

門田誠一「中国古代墳墓出土の雲母片略論」王維坤宇野隆夫編『古代東アジア交流の総合的研究』(国際日本文化研

究センター二〇〇八年)

(71)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(72)西安市文物保護考古所「西安財政干部培訓中心漢後趙墓発掘簡報」(『文博』一九九七年第六期)〔中国語文献〕

(73)定州市文物管理所「定州市三五号漢墓清理簡報」(『文物春秋』一九九七年第三期)〔中国語文献〕

(74)河南省文化局文物工作隊「河南泌陽板橋古墓葬及古井的発掘」(『考古学報』一九五八年第四期)〔中国語文献〕

(75)護善煥「曹植墓磚銘釈読浅議」『文物』(一九九六

年第一〇期)〔中国語文献〕

劉玉新「山東省東阿県曹植墓的発掘」(『華夏考古』一九九九年第一期)〔中国語文献〕

(76)羅宗真「江蘇宜興晋墓発掘報告」(『考古学報』一九五七年第四期)〔中国語文献〕

(77)南京市博物館「江蘇南京仙鶴観東晋墓」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

王志高周裕興華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」(『文物』二〇〇一年第三期)〔中国語文献〕

(78)甘粛省敦煌県博物館「敦煌仏爺廟湾五涼時期的墓葬発掘簡報」(『文物』一九八三年第一〇期)〔中国語文献〕

(79)劉衛鵬程羲「漢晋墓葬中随葬陶瓶内盛物的初歩研究」(『江漢考古』二〇〇八年第三期)〔中国語文献〕

劉衛鵬「漢代朱書鎮墓瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

(80)戴春陽張瓏『敦煌祁家湾

西晋十六国墓葬発掘報告

』(文物出版社一九九四年)〔中国語文献〕

(81)劉衛鵬「漢代朱書陶瓶所見〝神薬〞考」(『宗教学研究』二〇〇九年第三期)〔中国語文献〕

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

42

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

44

Page 43: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

(82)注(75)に同じ

(83)咸陽市文物考古研究所編「咸陽教育学院東漢墓清理簡報告」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』

(前掲注(56))

劉衛鵬「漢永平三年朱書陶瓶考釈」『文物考古論集咸陽市文物考古研究所成立十周年紀念』(上掲)

(84)蔡運章「東漢永寿二年鎮墓瓶陶文考略」(『考古』一九八九年第七期)〔中国語文献〕

(85)陝西省文物管理委員会「潼関吊橋漢代楊氏墓群発掘簡記」(『文物』一九六一年第一期)〔中国語文献〕

(86)唐金裕「漢初平四年王氏朱書陶瓶」(『文物』一九八〇年第一期)〔中国語文献〕

(87)陝西省考古研究所「西安北郊西飛東漢墓発掘簡報」(『考古与文物』増刊二〇〇二年)〔中国語文献〕

(88)注(61)に同じ

(89)鎮墓文と道教との関わりを説く論著は多いが近年の論考として下記をあげておく

江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(『鷹陵史学』二九二〇〇三年)

昌志峰「東漢鎮墓文考述」(『東南文化』二〇〇六年第六期)〔中国語文献〕

(90)これに関しては別稿で詳述する予定である

門田誠一「魏志倭人伝にみえる丹と鉛丹

倭に対する魏の宗教民俗的認識

」(発表予定)

(91)江優子「漢墓出土の朱書陶瓶について

銘文と墓内配置に見える死生観」(前掲注(89))

關尾史郎「敦煌の古墓群と出土鎮墓文(上)」(『資料学研究』四二〇〇七年)

(92)『陳思王集』説疫気

建安二十二年癘気流行家家有僵尸之痛室室有号泣之哀

(93)秋月観暎「黄巾の乱の宗教性

太平道教法との関連を中心として

」(『東洋史研究』一五

一一九五六年)

大淵忍爾「黄巾の乱と五斗米道」『岩波講座世界史』五(岩波書店一九七〇年)他

卑弥呼の鬼道に関する歴史考古学的検討(門田 誠一)

43

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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Page 44: づ 王 す て け と 記 国 て 為 事 を 卑 し が 治 弥 あ む 呼 住 ......た(2。) こ の 他 に も 卑 弥 呼 を 在 来 信 仰 と く に 神 道 の 巫

(94)『抱朴子』内篇巻四金丹

長生之道不在祭祀事鬼神也

(95)『抱朴子』内篇巻四金丹

昇仙之要在神丹也

(96)『抱朴子』内篇巻九道意

曩者有張角柳根王歆李申之徒或称千歳仮託小術hellip(中略)hellip糾合群愚進不以延年益寿為務退不以消滅治病為業

遂以招集奸党称合逆乱

(97)注(70)に同じ

(98)唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)で空洞のある褐鉄鉱にヒスイ製勾玉が入った遺物が神仙思想で禹余粮(糧)とか太一余粮

とよばれた仙薬であり不老長寿を理想とする神仙思想の薬でありこれをもって神仙思想や道教の存在が説かれるこ

とがあるしかしながらこれを傍証する史資料が不足しておりこの単発的な例のみをもって弥生時代に神仙思想

や道教信仰の実修を説くのは難しいむしろ生駒山麓で算出する鳴石と呼ばれる特徴的な石を珍重した可能性があり

地理的にも唐古鍵遺跡とは遠隔地とはいえずその移入そのものは当然想定される

西宮克彦「生駒産鳴石の成因について(1)結核体の研究(その2)」(『地質学雑誌』七一

八四〇一九六五年)

(99)『抱朴子』内篇巻九道意

淫祀妖邪礼律所禁然而凡夫終不可悟唯宜王者更峻其法制犯无軽重致之大辟hellip(後略)

佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第13号(2017年 3月)

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