· pdf filecreated date: 10/29/2012 5:17:08 pm
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1上|
初秋
の昼下がり―
。東京
都
台東
区
の谷中
霊園
を訪
れ
た。
ひとき
わ
大き
い墓
所
で、日を
開
じ
、直
立不
動
のまま
何
事か
つぶやく
。本
降り
の気
配が
あ
った折から
の小
雨は
、不思
議
とや
ん
でいた
。
墓
碑名は
、活版印刷
を
世
に
広めた
こと
で知
られ
る平
野
冨
二
(18
46
~18
9
2
)。
総合重
機大手
IH
I
の源流
と
な
る石川
島
平野造船
一所の創始
者
でもあ
る
。時は
江一F期。
「ペ
リ
ー来航
」
に慌
てた徳川
幕府
は
、水
戸藩
に命じ
て隅
田川
河
口沿
い
に
官
営
造
船
所
を
建
て
た
。そ
の後
、
これを
引き
継ぎ
「日本
初
の民間
の洋式造
船
所
」
を設立
し
た実
業家だ
。明
・壺
初
期
、文
明開
化
のころ
であ
る
。
造船業か
,堕菫工業
へと業
容
を広げ
、
日本
の近代
化
の
一翼
を
担
った
平
野
は
長
崎
市
の出
身
。ち
ょう
ど今
年が
没
後
1
2
0年
の節
目に当
た
る
。
釜
の大
先輩
であ
る。
□
知
つ 財(翻
紀
京
豊洲
にあ
る本社
25階
で、
社
長
の伊藤
源
嗣
1当時
(70
)―
と向き
合
っていた
。
「次
^の社
長
)を
君
にや
っ
ても
ら
いた
い」
「他
に適
任者が
いら
っし
ゃ
ると
思
います
」
「いや
、ぜ
ひに
。猶
予は
1
日だ
けだ
」
饉国の丸造船鰺思い熱く
IH
Iは
、産業界
の名門
企
業
であ
る
。196
0
(昭和禍
)
年
、石川
島重
工業と
播磨
造船
所が合併
し
て、現在
の母体
の
石川島播
磨重
工業が
でき
た
。
歴史
とも
のづ
くり
へのこだわ
り
に加え
、政財界
に発言力
を
持
つ個性
派ト
ップ
を霊
出
し
て
き
た
ことも
名
門た
る由
縁だ
。
筆頭
は石川
島播磨
薫工業
の
初代
社
長
で元経
団連
会
長
の故
土光
敏夫
。
「土
光臨
調
」と
評
され
た政府
の行財
政改
革を
仕
切
った
。そ
の柱
の
一つとな
る
日
本
電
信
電
話
公
社
の民
営
化
は
、後進
の社
長故真藤恒
が引
き
継ぎ
、公社
の最
後
の総裁と
NT
T初代社
長
に座
った
。5
代
目
の故稲
葉興
作
は
日本
商
エ
会
議所
会頭
を務
めた
。
重責
を老〓え抜
いた
。
「断れ
ば
即
、
会
社
を
去
る
こ
と
に
な
る
」。帰宅
後
、遼巡
(し
ゅんじ
ゅ
ん
)す
る気
持
ち
を打
ち
明
け
た
妻
は
、背
中
を
押
し
た
。「や
って
みられた
ら
いか
が
ですか
」
年
長
の取
締役
7人
を飛
び越
す抜
てき
人事
。関
係会社
1
9
1社
、全
従業
員
2
万人超
を率
いる8代
目に
就
いた
。
コ畢栞看動
の成
果と課
題は
財
務
の数
値
に
集
中
し
て表
れ
る
。課題も
、解決
のた
め
の対
策
も十
分
に把握
し
て
いる
つも
りだ
」
o07年
4
月
の就任
時
、
社内
外
に強
い
メ
ッセ
ージを
発
した
。バブ
ル経済崩
壊後
、業
績は伸
び悩
み
、社
内
には
成
長
への期待
感
が充満
し
て
いた
。
出勢惚型出身の新トーンプ
に求め
られ
た
のは
、特
定
の事業や
商
品群
にと
らわ
れ
な
い経営
のバ
ラ
ンス感覚
だ
った
。
し
かし
、
そ
の年
の冬
、足元
をす
くわ
れ
る厳
し
い試練
に直
面した
。
「ポ
ト
ム
(底
)だ
っ
た」と
いう危
機
であ
る
。
「エネ
ルギ
ー
プ
ラ
ント事
業
で巨額
損失
過去
の決算
を
赤字
に
訂正」
。国内
有数
の企
業が
、有価
証券報告
書
を
大幅
訂
正す
る
のは
異例
の事態
。 一
気
に
、上場維持
の瀬
戸際
に立
たされ
た
。株主
総
会
では
罵
声
が
飛び
、市
場
と取引
先
の信
任
を失
った社
員たち
は悲痛な
表
情を
隠
さな
か
った
。
選
択肢は
二
つ。引責辞
任か
、
続投か
。周囲
の支え
を受け
「ト
ップを
続け
る
のが
役割
。は
い
上が
る」と
腹を決
めた
。国内
外
の事
塞
所を行
脚
し
、幹部
、
現場
従塞
員と対
話
を続
けた
。
報酬は
半
年間
返上した
。多
岐
にわた
る事業
単位
ごと
の業
務
を
見直し
、内
部
管
理体制
を
再
構築
し
て
い
った
。
結
果は
、持論
の
「数値
」に
表れ
た
。H年3
月期
決算
で過
去
最高
益
をた
たき出し
、事態
は
反転
。世界
経
済
が落
ち
込
ん
だ
リ
ー
マン
シ
ョック
、福島県
にあ
る航空
エンジ
ン部門
の主
力
工場
か被
災じ
た
東
日本
本
晨
災と相次
ぐ
危機
にも
対
処
し
、
成
長路線
への道筋
を引
いた
。
「私
の顔は
明
るく見え
ます
か」
。常
に、秘書
に
問う
てき
た
。
「経営
者は
ど
んな
難
局
で
も
明
スγ
n理]きに。空
一番
刈で
も
い
いん
です
」
。全
てを注
い
だ社
長在
任
5年だ
った
。
園
[
蜆
愕
旧森山村
で生まれ
、そ
の後長
崎
市
に転
居
。高校卒業ま
で
の
多感
な時期を同市
で過ごした
。
学校
の遠
足
では
稲佐
山
の頂き
を
目指し
た
。道すが
ら
、大型
ク
レー
ンの重低音
が
うな
る方
向
に目をや
ると
、パ
ッと広
が
る独特
の港
の景色
があ
る
。
こ
菱重
工長崎造船所
のド
ックだ。
今
日よ
り
明
日、明
日より
未
来―
。高度
経済
成
長
で国
民が
豊かな
暮
らし
を実
感
し
て
いた
ころ
であ
る
。合
同選
抜
で県立
長崎
西高
に入り
、勉強
はよく
でき
た
。
「いわば
田舎
の優等
生だ
った
」
。東大
にも現
役
で
9
合
格した
。高校
、大学
とそれ
ぞれ赤
士
τ
壺
勁、一峯
サ
ーク
ル
で奉
仕
の精神
にも
触れ
た
。
た
だ
、将
来
の姿は
明確
に描
け
ず
、教
師か
、学
者
にな
う
つと
漠然
と考
え
ていた
。
「読
ん
でいる本か
らし
て全
然違
っていた
。
これは
かな
わ
な
いな
あ
と感
じ
ていた
」
と
い
う友
人
たち
に囲まれ
た東京碁¨
ら
し
の中
で、職業観
は大
きく
揺
ら
い
でい
った
。時
代
の花
形
は
金融
、繊維
、鉄鋼
、そし
て
造船だ
った
。
友人
から
紹介
され
た東
大
0
B
の社
員
のひと
言が
、入社
の
き
っか
けだ
。
「新進
の気
質
が
あ
る、い
い会社だ
よ
」と
。
「長
崎出身だから、三菱を志望し
て長崎造船所へ、とは思わな
かった。せっかく東京に出て
きたんですから」。 一方で、
「実業に就く、という思いだ
けは強く残った。就職先はメ
ーカーかな、と。おそらく、
小さいころから造船を見てき
たからでしょう」。
鳳
鯰
雲
合本十との間で造船事業を統
〈Fして、新会社
「ジャバン
マリンユナイテッド」が誕生
する。ここで、自社の名は消
えることになる。
「歴史も、技術も、プライ
ドもある。
『悲しい』という
人がいるが、造船を続けるに
は有力な選択肢だ」
社員らの心情はよく分か
る.1970年代、当時の呉
造船所
(広島県呉市)に勤務
していたとき、
「世界を目の
当
たり
にし
た
」と
いう体
験を
得
る
。世
界最大
だ
った
50万ナ
級
タ
ンカ
ー
「グ
ロプ
テ
ィ
ック
ト
ーキ
ョー」の建造
、引き
渡
し
であ
る。世
の中に先駆
けたも
のづくり、新進
の精神
に身震
い
し
た
。そし
て、誇り
を感
じた
。
いま
、国内造
船業は
岐路
に
立
つ。韓
国
中
国勢
と
の最簗
ロ
激
化
、円高
、世界的な
設備過
多
に
よ
る
実
需
と
のギ
ャ
ップ
‥。事業
統
合
で規
模
を大き
く
し
、交渉力
を高
め
る戦
略を
選
んだ
。
「日本
で
一番
、世界
で
有数
の造
船会社
を
目指
す
。勝
ち
抜
い
て、勝ち
組
にな
る」
。
熱
い思
いは
よど
みなく
続く
。
「何
とし
ても造
船
を続け
る
こ
と
自
体
が
日
本
のプ
ラ
ス
に
な
る
。
″日
の丸造
船
″が
これか
ら
も勝ち
残
るため
の
一つの方
法
だ
と判断
した
」
国内
の主
力造
船会社
で組織
す
る
日本造
船
工業会
の会
長も
任
され
ている
。
創始
者
の平
野富
二の遺志
を
連
綿
と継ぎ
、
IHlは
陸海空
と
宇宙
の4分
野
で国
の成
長を
支
え
る産業
基盤
を創
り出
し
て
き
た
。日本
の重
工業史
とも
重
な
る
そ
の営
みが
危機
に
ひんじ
た
とき
、巡
ってきた
経営ト
ッ
プは
平野
冨
二以来と
な
る長崎
出
身
の釜
であ
った
。企
業
の
″誕
生
と
再生
″
で脈
を
つな
いだ
同
郷
の2人
。奇
縁
であ
る
。
I
HIは時
に
、社
風や
旧財
閥
系企業と
比
し
て
「野武士
集
団
」
と評され
る
。
「常
に新し
い
こと
に挑
み
、
い最後ま
でや
り遂げ
る企
業家精
神
。そ
のD
N
Aをもう
一度
活
性
化し
ていき
た
い。わ
れわ
れ
に欠け
ている
のは
事業
のスピ
ード
、ビジネ
ス感覚
。新し
い
野武
士
塞
団を追
い求め
る」
基
前
に誓
った
のは
、
こ
の思
いだ
った
のか
も
しれ
な
い。
(河
野隆之
)
かま
・かずあき 1948
(昭和23)年12月26日、旧
北高来郡森山村
(現諌早市森山町)生まれ。長崎市立稲
株不、回堕甲、日立長崎酉高、古李〈経済室雪午。7‐年、
石川島播磨重工業
(2007年7月1日かりヽ
「IHI」
に商号変更)入社。04年6月以降、本社役員に就き、取
締役質蒸銘舜狙賢昌墜楊郡長など
を
経
て、07年
4月
、代表
取締律社長兼量員盤冨勢⊆昇‐■者。今年4月から代表取
締役
会
長
。日本
造
船
工業本基ハ長
、
日本
航空
機
エンジ
ン協
会
代表
理事
、
日本
経
済
団体連
〈只
広日本
ト
ル
コ経
済委
員会
委
員長1
など業
界
、経一重団体
の要職
にあ
る
。
0 9
ながさきたにな題字は大浦澄泉 県美術協会名誉会長
:Hl代 表取締役会長 釜 和明さん(63)
「新しい野武士集団」追求
次回はかとうフィーリングアートパレエ主宰 ・加藤久邦さんく11月3日 掲載予定>
躍麟購戯蠅湖濾
でもある平野の葉前に立ち、感慨を込める
|11,111
一一一一・ 中蝉‐,000円̈
一・¨
●
一.¨「ッ
¨
一”‐,一.̈■∴鞭蹴̈繊駐車芳妥示の方や智サ生
およびシニア(60歳ツ_F,の方13割:1致しま, 1-部 の劇場を摯ぐ
一日
)
長崎映画案内
櫻Jiiイド蝙,11,健|liギ'