る し い し こ 唯 た 実 道 悟 明 の 一 今 践 綽 二 教 の 時 そ す は … ·...

20
) ( ( ) 調 U

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)(

道綽

(五六二~六四五)における仏教観の基調は、教法が時機に相応

するというところにあ

った。曇鸞も道綽も仏教をただ学解理論の対象 

とはせず、現実の人間の救済されるべき実践的な宗教とし、自己の機

を痛烈に反省し、機と教法が相

応して初めて修行も可能になるど確信

した。こうした態度は三階教の信行とも

一致する態度であって、いわ

ば北地仏教の根本的性格ともいえるものである。

仏の所説の法と所修

の行とは、いうまでもなく仏道実践者の素質、

能力を考慮した適応を必須

の条件とする。したがって機は法と行との

内容をも規定し、仏教は機と法と行との関係において統合することが

できる。仏教が人に対する教えであるとするなら、その対象としての

人の機は、仏教学

の中核的な問

題といえる。

一般に仏教は「対機説法」

であるといわれ、また

「応病与薬的説法」とされる。したがって経典

においても機に対して細心の注意がはらわれ、随所に関

てい

る。しかし中国において機

の自覚が、その教学の上に重要な地位を占

めるのは隋唐時代になってから

で、しかも浄土教と三階教においてそ

れは顕著である。

道綽禅師の聖浄二門判について

隋代仏教界の三大思想家として、法華教学の智頻と三論の吉蔵、地

の慧遠を挙げることができる。彼らがあつかうのはいずれも仏教学

の最高位を標榜する経論であるから、これらの法に適応する機はも

とより最優秀でなくてはならなかった。智皷は円頓の妙機を標榜し、

慧遠は頓悟

の菩薩を説き、吉蔵は大乗人中でも有所得大乗を斥けて方

広を主張した。しかし彼らは概して機教の相関関係については、あま

り深く追求しなかったし、機の本質については多くを論Uていない。

いわば形式的な教相分別の域をでないのである。

これに対して、道綽は浄土往生こそが末代の凡夫に最適なる教法と

確く信じ、法の優劣を問題とせず、必ず機を標準どして法の適否を判

定し、も

っぱら機と教との相応を力説した。機教相応は現実の自己を

いかにするかという点から出発し、ことに現在末法という述懐とあい

まって著しく高潮するのである。それはまさに機の宗教的な自覚とで

もいうことができる。以下道綽

における聖浄二門判を中心に道綽の機

教相応、時機相応説の意義と、時と機の宗教的自覚の成立過程を

『安

楽集』を通して考察することにより、聖浄二門判の特異性を明らかに

したい。

六七

二 

道綽は現在を末法時と見定め、この時代観に立脚して、教法を頂戴

し実践するにあたって、特に時

と機とが相応しなければならないと説

いた。そして彼は独自に佛の教法を、聖道門と浄土門の二門

に分

し、今時、末法時においてはただ浄土の法門のみ通入することのでき

る唯

一の道であると主張するのである。

この教法の時機相応について、彼は

『安楽集』第

一大門に、

明二教興所レ由約レ時被ワ機勸帰二浄土一者、若教赴二時機一易レ修易レ

悟、若機教時乖難レ修難レ入。

(浄全

一、六七三、下)

と、機教時の相応をま

っ先に要求するのである。つまり仏道を修道実

践しようと欲するものは、まず時と機をよく観察しなければならない

ことを示すものである。

この経証として彼は

「正法念経云」として

行者

一心求レ道時、常當レ觀二察時方便一。若不レ得レ時無二方便一。

是名爲レ失、不レ名レ利。何者如攅ご淫木一以求レ火火不レ可レ得、

非レ時故、若折二乾薪一以覓

レ火火不レ可レ得、無レ智故。

(浄全一、六七三、下)

どのべている。仏教の修行にはその時が、いかなる時であるかを観察

することが必要であり、この用意を欠くときは、ま

ったく無益となる

という経文を示している。この方便というのは、時と機に即応しては

たらく、大慈悲の活動をいうもので、時と機に応じて自由に変応して

はたらく真知を指すものであるといえる。

六八

このように道綽は、時と機の相応をもって教法の主体的

し、浄土往生を時機相応の教法という観点より力説するのである。教

法それ自体は普遍的に時と教の相応を説くものにほかならないであろ

うが、道綽がその教法を体験を通して主体的に把握したところに、時

機相応説の意義を認めようとするものである。

それでは道綽における時機の主体的把握とはいかなるものであろう

か。ま

ず道綽において時

の主体的把握の基盤となるのは、なんといって

「現在末法」という、末法到来

の意識の確立であるといえる。

末法思想は、釈尊の滅後五〇〇年間は、仏教が正しく理解され実践

される

「正法」の時代がつづくが、その後には、法に対する理解も実

践も次第に本義よりはずれ正法に似た

「相似の法」の行なわれる

「像

法」の時代になる。この時代は仏法に対する正しい理解がされず実践

からはずれて教義解釈に偏向が生じ、固執対立が生じるのみならず、

教団も腐敗堕落して、沙門は衣、食、住に執着し、部派の利益や自己

の利益のみにとらわれて、仏教が全人類の教えであることを忘れるの

みならず、外部よりは反仏教的な運動も起るし、さらに悪王や侵入蛮

族による仏教破壊もおこるといった時代である。そしてやがて正法に

つぐ像法の仏教も

一〇〇〇年にして滅び、最悪の末法をむかえるとい

うのが末法思想である。こうした仏教の三時という歴史観は仏滅後の

仏教徒の自粛を要請する意味において、多くの大乗仏教経典に説かれ

 

ている。中国では北周武帝

の廃仏

(五七四~五七七)を契機として、仏

法滅亡の自覚が深刻にうながされたと考えられる。

道綽が生まれた北斉の都では、五五六年に北インドより、

エフタル

の仏教迫害により逃亡してきたという那連提耶舎

(五一六~六一六)

0

が新しい経典を訳出したが、そ

の中でも

『大悲経』『大集月蔵経』等に

は、特に仏教の衰頽、時代

の悪化、そして仏教

の滅尽を強く説き当時

の北斉仏教界に与えた影響は大

きい。

こういった経曲ハの訳出とあいまって、北周武帝の廃仏が行われ、ま

たインドにおける仏教追害

の悲惨な事実を知

った仏道求法者は、やが

て像法時代

の終結に予想される末法時代の到来を自覚しなければなら

なかった。事実、法上

(四九三-五八〇)は釈尊の入滅を、周夷王

一四

年庚辰、すなわち紀元前八九〇年に設定している。この入滅説より算

定すれば隋

の大業七年

(六=

)が仏滅

一五〇

一年にあたり

『大

蔵経』で説く、正像

一五〇〇年説に従えぼ、大業七年以後は末法の時

代になる。

道綽における末法意識は、こういった北斉仏教界のも

った末法思想

に基因するものといえる。道綽が

『安楽集』第三大門に聖浄二門を明

し、

大集月藏経云。我末法時中億億衆生、起レ行修レ道未レ有二一人得

者一。當今末法、現是五濁悪世。(浄全一、六九三、上)

と、

「當今末法」という自覚に道綽自身がたっていたこと

から

0

ば、

『大集月蔵経』の説く、五固の五百年説を

『大乗同性経』に説く

0 

正法、像法、末法という三時説

にあてはめて、

「當今末法」という意

識を深めたものと推測することができる。彼が第

一大門に阿弥陀仏の

浄土が報土なることを明すのにこの

『大乗同性経』を経証としている

道綽禅師の聖浄ご門判について

ことからすれぼ

『大集月蔵経』と

『大乗同性経』との関連づけも、ま

ったく根拠のないこととはいえない。先に少しのべたように、もし道

綽が法上の仏滅年代説をとるとすれば、道綽五〇歳の時に末法に入っ

たことになる。道綽が六大徳の

一人に法上を挙げていることからすれ

ば、法上の仏滅説によ

ったとも考えられる。

この

『大集月蔵経』が特に中国において、仏道修業者に影響をあた

えたと思われるのは

「分布閻浮提品」と

「法滅尽品」とであり、前品

には後にのべるが五堅固説、後品には法滅思想が示され、末法到来を

示唆してはいるが、『大乗同性経』

のような三時説は明らかではない。

また道綽が第五大門に、念仏三昧の行徳を明かすのに

『大悲経』の文

を引いていることからすれば

『大悲経』の説く末法観の影響もうけて

いるかもしれない。

また道綽自身が北周廃仏の体験者であるだけでなく、北斉、隋、唐

という三代の政権の交替を体験している。さらに当時、天災、地変も

 

頻発したことを歴史書は伝えている。これらのことも彼をして、まさ

に末法との意識を身をも

って体得させたものであろう。.

しかし彼が現在を規定するのに経証として提示する経典は、やはり

『大集月蔵経』である。すなわち第

一大門に

「大集月蔵

云」

て、

仏滅度後第

一五百年、我諸弟子学レ慧得二堅固一。第二五百年、学レ定

得二堅固一。第三五百年、学二多聞讃誦一得二堅固一。第四五百年、

造二立塔寺一修レ福懺悔得二堅固一。第五五百年、白法隠滞多有二諍

訟一。微有二善

法一得二堅固一(浄全一、六七三、下)

六九

と、のべている。この引用文で注意を要するのは、第四の五百年、第

五の五百年における

「修福懺悔」と

「善法」という言葉である。これ

らの言葉は、

『大集月蔵経』の本文にはなく、おそらく道綽が新たに

付け加えたものと思われる。善法はともかく彼が経典にない

「修福懺

悔」という言葉を第四の五百年

の文に挿入した背景には、この五固

五百年説を、単に仏教の衰退を示す歴史観として彼が受けとめたので

はなく、そこには凡夫としての時機に関する深い省察による、自責の

念のあ

ったことを知ることができる。こうした態度は道綽の教えをう

つぎ、『安楽集』を再編成したとされる迦才の

『浄土論』においても

同様である。

『浄土論』

の第

一、第八、第九章には、「修福懺悔」「懺

悔念仏」

「発菩提心慚愧懺悔」

というように、懺悔という言葉がしき

りにのべられている。

慧を学んで堅固なるを得る第

一の五百年も定を学んで堅固なるを得

る第

二の五百年も多聞讀誦を学

んで堅固なるを得る第三の五百年も、

みなすでに過ぎ去って、今はまさしく塔寺を造立し、ただひたすらに

修福懺悔して堅固なるを得る第

四の五百年である。定慧という無相の

善根を修めて、煩悩を断

つということはとてもできずわずかに伽藍を

建立するという有相の福徳を修

して、自身の罪障を慚愧懺悔すること

だけが、われわれに残された唯

一の道となったのである。

道綽は

『大集月蔵経』

の説く五五百年の経過を適確に認識し、しか

もそれを自己の問題として内的

反省を加え、主体的に現在を生きる人

を次のように規定するのである。

計今時衆生即當二佛去レ世後第四五百年一。正是懺悔修福応レ稱二

七〇

佛名號一時者。若

一念稱二阿弥陀仏一、即能除二卻八十億劫生死之

罪一。

一念既爾、況修二常念

一即是恆懺悔人也。

(浄全

一、六七四、上)

といい、今はまさしく仏滅後

一五〇〇年を経過した、第四の五百年で

ある。次

の第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟が起るとある。

この第五の五百年という危機を目前にして、今こそ仏道修業者にとっ

ては最後の時であると自覚したのである。曇鸞は単に

「無仏

の時」と

いった。曇鸞は

「無仏の時」が好時より悪時

へ向

って漸進的に堕落す

るかどうかは考えなかった。しかし道綽においては、まさに瀬戸際に

っているのである。この

「恆懺悔の人」という

「人」の規定は、彼

自身の求道の過程において体験されたものかも知れない。それを彼は

教法の衰退を段階的に示す、五五百年の第四の五百年において懺悔の

功が仏により認められていると説くのである。懺悔法は、仏教

一般に

説くところであるが、彼はこの懺悔を新たな体験として、今の人は、

常に懺悔の生活

(実践)を忘れてはならぬと警[告する。しかもそれは

単なる客観的な人の規定ではなく、主体的に自覚された自己

への叱陀

でもあるといえる。

道綽を信憑した迦才もその著

『浄土論』に

『大集月蔵経』の五固説

を引用して、

今是第四五百年餘。既無定慧之分。唯須修福懺悔。

⑯とのべ、道綽と同じように、今時の仏道実践者は、菩提に趣向すべき

定慧の分別もなくただ懺悔念仏す

べき時に遭遇したとの見解に立

って

いる。迦才は

「無定慧分」といっているが、

『安楽集』にはこの言葉

はみあたらない。道綽は定慧と称名との関係を

寔由二衆生去レ聖遙遠、機解浮浅暗鈍一故也

(浄全

一、六七四、上)

といい、聖を去ることが近ければ修定、修慧が正学となり稱名は兼学

であるが、聖を去ることすでに遠ければ、稱名が正学となり、定慧学

は兼学となるとのべている。

つまりここでも明らかに時の経過に対す

る痛切な自覚ど、機が時に左右されることに対する確固たる信念を表

明している。しかし道綽においては、たとえ第四の五百年といっても、

定慧は兼として存続している。この点、迦才における「自知無定慧分」

の表明は、その自覚において

一層深く徹底しているといえる。道綽よ

りやや先輩にあたり彼と同様に末法意識を強調し、時機相応の法を主

張した人物に三階教の信行がある。彼は

『大集経』

の五五百年説に基

準を求め、三階仏法を説いた。そして彼も第三階の機根に相応した行

法として普法普行をすすめはするが、「対根七法」「無尽共法」

「七階

礼懺」などを説いている.

「七階礼懺」とは昼夜六時に行ずる礼礎

懺悔法であ

って彼も懺悔を主要なものとしている点では同様である。

また道綽をして

「浮浅暗鈍」と言わしめたものは、真如法性をさと

ることに対して、今時、凡夫

の認識能力

の浮浅暗鈍なることをいうも

ので、人間相互間におけるような能力の深浅、世間的明暗をいうもの

でない。

彼はまた第三大門に聖浄二門

を分判して今時の凡夫が聖道を修する

ことの困難な理由を二つあげている。

つまり、

一由四下去二大聖一遙遠上。

二由[二理深解微一。

(浄全

一、六九三、上)

というものである。

道綽禅師の聖浄二門判について

この

「理深解微」は、さとるべき真理は高遠深妙であるのに、さとろ

うとする今時の人の知解は微劣であり、浅薄であることをいうもので

ある。道綽は

「去大聖遙遠」と

「理深解微」とを

一応切り離して、二

理由としているが

「去大聖遙遠」というのは、人格仏としての釈尊在

世時における教化力の断絶

の自覚、しかも、正法、像法を経過した末

法到来時の自覚より

「理深解微」と体認されたもので、両者は相待的

に認識されるものといえる。

以上、教法の時機相応ということについてとくに道綽における時

自覚、

つまり今時の把握を中心にのべてきた。

つぎに機を中心に道綽

の見解を考察してみよう。

C-)

道綽

の凡夫観について広く考察してみれば、彼は第

一大門において、

今此無量壽国是其報浄土。由二佛願一故、乃該二通上下一致レ令三凡

夫之善竝得ご往生一。

(浄全

一、六七八、上)

とのべ。阿弥陀仏の浄土は凡夫、聖者通往

の浄土であるという見解を

示している。しかし彼

によれば、その土が凡聖通往

の浄土であるとい

っても、機類によってま

ったく差別を設けないというのではない。

ぎに問答を設けて、無相善を修して生を得るのか、また凡夫の有相善

も生を得ることが可能

であるかという問をおこし、

凡夫智浅多依レ相求決得二往生一。然以二相善力微

一但生二相土一唯

覩二報化佛一也。

(浄全

一、六七八、上)

と、答えている。この見解よりすれば、聖者は無相善を修することに

七一

よって報土に往生するが、凡夫

は有相善によ

って相土に生ずとしてい

る。道綽は浄土を凡聖通往のも

のであると明しながらも、その凡聖通

往の浄土を修相によって

一応分別して考え、凡夫

の往生する浄土をす

ぐに報土とせず、相土とし、それは凡夫

の有相善は力微であるからと

している。このことは裏を返せば聖者

の往生のほうが、凡夫の往生よ

りも優れており、よりこのましいという見解を示すものといえる。こ

こで道綽において

一切衆生を聖者と、凡夫に二大別する人間把握の態

度を知ることができる。しかもそれは有相善、無相善という善根を基

準とするものである。

それでは彼

がいうところの聖者とはどのような者をいうのであろう

か。彼は第

一大門に、

若知二無相離念爲7體、而縁中求レ往者多應二上輩生一也。

(浄全一、六七九、上)

というように、聖者を無相の往生を求める上輩生の者

のこととしてい

る。さきに阿弥陀仏の浄土が報浄土であり、しかも凡夫、聖者通往

土であり、それは佛願によるゆえに上下を該通するとの彼

の見解を示

したが、この見解をうけて、

由レ該レ上故、天親、龍樹及上地菩薩亦皆生也。

(浄全一、六七八、上)

とのべ、聖者の浄土往生の且ハ体的な例として天親

(世親)、

龍樹およ

び上地の菩薩を挙げている。そうすれば彼

のいう聖者は上輩生の者で

あり、八地以上の上地の菩薩であるといえる。さらに彼が

今之行者無レ問二緇素

一、但能知二生無生一不レ違三一諦一者多應レ落二在

七二

輩・生

一也。

(浄全

一、六七九、下)

べて

こち

ば、

の行

にお

て、

生無

を知

ったく

はな

上輩

の往

のあ

でき

る。

のよ

道綽

の見

ば、

は努

て修

こと

によ

生無

を知

って往

り、

しも

凡夫

の往

のみ

法唯

一の往

は考

とも

る。

しろ

の願

も、

を修

が、

のま

いう

いた

こと

を指

る。

「凡

「上

の言

り、

土ハ通

に往

可能

の浄

を表

こと

り、

の浄

の性

であ

いえ

る。

一方

は有

って往

生す

る凡

つい

て、

二大

に、

二中下

之輩

一。

レ能

レ破

レ相

二信

一求

レ生

二浄

レ至

二彼

一還

二相

(浄全

一、六八三、上)

べて

る。

は凡

の者

、相

を破

、有

のま

で浄

によ

でき

いる

に道

は聖

の菩

の見

に対

て、

の生

は上

の聖

のみ

ころ

で、

下輩

の凡夫

の堪

でな

とを

『大

レ言

二発

一多

レ生

二浄

一。

下嬰

レ近

二父

恩養

一或

レ院落

レ井

(浄全

一、六八三、上)

い・

つづいて

有二新発意菩薩一聞二此無相波羅蜜門一所有清浄善根悉當二滅没一也。

又来但至二彼国一即

一切事畢、何用諍二此深浅理一也。

(浄全

一、六八三、下)

⑲といっている。彼がこうした文

を経証としたのは、新発意の菩薩は無

相を修することができず、浄土

を願生す

べきであるとの意向をあらわ

そうとしたものにほかならない。

つまり新発意の菩薩も中下輩のもの

と同様に相土に往生するものと規定しているものといえる。この新発

意の菩薩

の位について、彼は第

七大門に

『十地経云』どして、

初地菩薩徇自別二觀二諦一勵

心作意。先依レ相求、終則無相。以漸

増進體二大菩提一。蠱二七地終心一相心始息。入二其八地一繦二於相

求一。方名二無功用一也。

(浄全

一、七〇三、下)

い・またさらに

『+地経論』を引いて・

七地己還惡貪爲レ障善貪爲レ治。八地已上善貪爲レ障無貧爲レ治。

(浄全

一、七〇三、下)

 と、のべていることより考察すれば、菩薩が有相によってさとりを求

めるのは、七地までであ

って、ここで相心をはなれ、八地以上は無相

を修すということである。

つまり新発意の菩薩どは七地已還の菩薩で

あり、この菩薩は中下輩

の者と同様に有相

の願生をするという見解で

ある。さらに彼は第二大門においては、

若始學者、未レ能レ破レ相、但能依レ相專至、無レ不二往生一。不レ須レ

疑也。

(浄全

一、六八八、上)

といい、始学

の者は無相を修することができないので、有相善を修す

べきであるといっている。また第五大門においては、

『大乗起信論』

道綽禅師の聖浄二門判について

を引き、

亦有二始発菩薩一、其心輹弱自謂レ不レ能下常値二諸佛一親承供養上、

意欲レ退者、當レ知、如來有二勝方便一攝ご護信心一。謂以二專意念佛因

縁一隨レ願往生。

(浄全一、七〇〇、上)

⑱と、始発意の菩薩も、新発意の菩薩と同じように無相を修することが

不可能であ

って、浄土に願生す

べきことを示している。

このように道綽が、有相の願生をする凡夫を七地已還の新発意の菩

(始発意の菩薩)、また中下輩者、あるいは始学者と諸経論を引用し

て、度々示すのは、願生者の層が広く、またそこにおこなわれる願生

行が多種多様にわたることを予測させるものである。彼は有相の願生

をする者を多角的に、多種示すことにより、浄土願生を多くの機類に

およぼそうとの意図をもっていたということができる。

一方道綽は、機根の劣性、罪悪性を次のように明す。第二大門に

一切衆生從二曠大劫一來備造二有漏之業一繋二屬三界一。

(浄全一、六八六、上)

といい、また第三大門には、

明下從二無始世劫已來、處二此三界五道一乘二善惡二業一受二苦樂兩

報一、輪廻無窮受生無數上。

(浄全一、六九〇、上)

と、無始劫より今にいたるまで、えんえんと三界に輪廻して生死をく

りかえし、

つねに有漏

の業に繋縛されている凡夫相を示すのである。

また

『五苦章句経』の文を引いて、

衆生等是流轉恆三悪道爲ゴ常家一。人天暫來印去、名爲二客舍一故

也。

(浄全一、六九ご、下)

七三

と、三悪道をもって常家となすという意識にまで達している。

さらに注目すべきことは、彼自身が罪悪生死という自覚に立ってい

るということである。

つまり、

余既自居二火界一實想懷レ怖。仰惟大聖三車招慰、且羊鹿之蓮、權

息未レ達。佛訶三邪執鄲二上求菩提一。縱後遡向仍名二迂迴一。若徑攀二

大車一亦是

一途。只恐現居二退位一嶮徑遙長。自徳未レ立難レ可二昇

進一。

(浄全一、六九〇、上)

と、自身を告白している。単に経典

の説く凡夫

の罪悪性を検出するだ

けでなく、彼自身が主体的に凡夫

の自覚に達していることを表明する

ものといえる。

また注意す

べきことは、彼が大乗無相を修することが不可能である

ことをいうだけでなく、小乗の修道にも現在の衆生は堪え得ないとし

ている。すなわち、

一切

二大

一義

、曾

レ心。

二小

一修

二入

一、

二五下

二五

一、

レ問

二道

一、

レ有

二其

一。

一一人

一、

皆爲

一能

二此

一。

二起

造罪

一、

一。

(浄全

一、

六九三、上)

と、

る。

の文

のま

に、

「依

一一大

て、

二種

は浄

のみ

であ

る。

「大

云」

て、

二衆

一縱

一生

レ悪

二命終

一十

二我

↓若

レ生者

レ取

二正覺

一。

(浄全

一、

六九三、上)

七四

 と、のべている。

これらのことから考察すれば、彼は大乗

の聖教に依るという視点よ

り聖道、浄土の二門を分判しながら、小乗における修道体系にもふれ

ていることに注意しなけれぼならない。小乗では、三賢、四善根等の

準備的修業を修めたものが、はじめて無漏智を生じて四諦をみる見道

に入るとされ

(この段階をもって聖者とされる)、見道に入ったものが、

さらに且ハ体的なことがらに対処して、何度も修錬、修習する位を修道と

いう。そしてさらに修道がすすみ究極的なさとりに入

って、もはや学

ぶべきものがない位を無学道という。修道において事象

にまよう煩悩

を滅して、須陀疸果、斯陀含果を経て、五下分結

(欲界に結縛する煩悩)

を断

って阿那含果に入り、

五上分結

(色界、無色界に結縛する煩悩)

って、阿羅漢果に入り、やがて無学道をさとるという。彼はこうし

た小乗の修道の過程は、とうてい現在

の衆生には望めない

る。っまり大乗における真如実相第

一義空を体得するのと対応して、

小乗の阿羅漢果

への修道も、現在

の衆生には適応しないことを指摘し

ている。

つまり彼が大乗聖教により聖浄を分別するとしながらも、こ

こで小乗

の修道も不可能であるとするのは、聖道門中に、大乗と小乗

を認めていたと考えることができる。そして大乗の修道にも、小乗の

修道にも堪え得ないと見定めた彼は、まったく別

の立場より浄土往生

をすすめるのである。すなわち、

是以諸佛大慈勸歸二淨土一縱使

一形造レ惡、但能繋レ意專精常能念

佛、

一切諸障自然漕除、定得二往生一、何不二思量一都無二去心一也。

(浄全一、六九三、上)

といい、念佛三昧により、

一切

の諸障が自然にのぞかれ往生ができる

という、浄土の法門を主張する

のである。道綽がここで大

の修

法、小乗の修道法を合せ説き、ともに現代のわれわれにと

って不相応

とするのは、まさにさきにのべた

『大経』の念仏往生の説示をより鮮

明にせんがためであるといえる。

また修道の延促ということに着目すれば、先にものべたように、大

 

乗において無相を修するこどができるのは、七地沈空の難を超えなく

てはならず、長時を要することはいうまでもない。

一方小乗において

も、さきにのべたように、三賢

位、四善根位、須陀沍向、須陀滬果、

阿那含果、阿羅漢果といった階位を経なければならず、凡夫にと

って

は、はるかに遠い道といえる。道綽は第五大門に

「修道の延促」を明

して、但

一切衆生莫レ不ご厭レ苦求レ樂畏レ縛求ワ解皆欲三早證二無上菩提一者、

先須下發二菩提心一爲う首此心難レ識難レ起縦令發一一得此心一依レ經終須レ

修t1十種行一謂信進念戒定慧捨護法發願廻向進詣一一菩提一、然修道之

身相續不レ繦逕一二

萬劫一始證二不退位一(浄全一、六九九、上)

と、一万劫を経てはじめて不退位に至るとあかしている。それに対して

信二佛經一願レ生二淨土一隨ご壽長短二

形師至位階ゴ不退壷ハニ此修道

萬劫一齊レ功。

(浄全一、六九九、下)

と、

のべている。これらのことから考察すれば、道綽には時機をも

て修道を規定する見解

の他に、修道

の延促という基準でもって修道を

規定しようとする見解

のあったことを知ることができる。こうした思

想の背景には彼に仏教を頓漸という形式で分別する考え方があ

ったと

道綽禅師の聖浄二門判について

いえる。

たとえば、隋代三代思想家

の一人とされる慧遠は

『無量寿経義疏』

巻上において、彼はこの経典が菩薩藏

に収められ、しかも根熟

の人の

ための頓教法輪なる所以を説いて、

云何知レ頓、此經正爲下凡夫人中厭二畏生死一求二正定一者上、教令三發

心生二干淨土一。不レ從レ小大故、知是頓。

(浄全五、一、下)

という。もちろん慧遠が

『大経』を凡夫のためとしても、凡夫が下根

なるを認めていたかは疑問である。彼においてはすでに頓教たる理由

が凡夫より、直接菩薩となる法を説くもので、それは根熟

の人のため

に説いたものとするからである。

いずれにしても道綽がか

って

『湟槃経』の講説者であ

ったことを思

い起せば、たとえ彼が涅槃の講説をやめ、浄土門に廻心し

え、この頓漸という思想を充分にふんまえての主張であるといえる。

さらに命終時における凡夫を、彼は

『大智度論』の文を引いて、

一切衆生臨終之時、刀風解レ形、死苦來逼生二大怖畏一。

(浄全

一、六八七、下)

 とのべ、臨終の十念をすすめる

一つの理由としている。

また凡夫

の心の状態について、彼は、

諸凡夫、心如二野馬一、識劇二獲猴一、馳一一騁六塵一何曾停息。

(浄全

一、六八八、上)

とのべ、凡夫の心識のつねに散乱してやまないこどを示し、十念相続

を強調するのである。

道綽はさらに第三大門において、

『正法念経』

の文を引き、

七五

凡人經二此百千生一著樂放逸不レ修レ道。不レ覺下往幅侵已盡還墮三二

塗一受中衆苦上。

(浄全一、六九一、下)

 とのべ、また

『涅槃経』を引いて、

此身苦所レ集、

一切皆不淨。軛縛擁瘡等根本無レ有二義利一。上至二

諸天身一皆亦復如レ是。

(浄全一、六九

一、下)

 と、その身を

「苦」、

「不浄」

と規定している。さらに、

今時但看二現在衆生一、若得二富貴一唯事二放逸破戒一。天中印復著樂

者多。

(浄全

一、六九ご、下)

と、

「放逸破戒」を体となす凡夫性を主張している。また注意を要す

るのは、彼は曇鸞をも凡夫とみていたことである。第四大門に彼は六

大徳を列挙し、その中に曇鸞の行徳を記すにあたり、

吾(曇鸞)既凡夫智慧淺短。未レ入二地位一、念力須レ均。如三似置レ艸引レ

牛恆須レ繋二心槽櫪一。豈得三縱放全無二所歸一。(浄全

一、六九五、上)

とのべている。曇鸞を智慧浅短な凡夫と規定するのは、さきに彼が天

親、龍樹菩薩などを聖者の類に入れたのと比較すれば、注目される点

である。

このように道綽は、

一方において今日の衆生を、罪悪生死、放逸破

戒、散心、苦、不浄と規定する。しかもそのことは多くの経論の説く

ところである。しかしこれらの規定は、今時末法という時代の適切な

る把握により、彼自身が自己の問題として主体的にとらえたものであ

り、単に善悪、苦楽といったような分別的な機根の劣悪性をいおうと

するものではない。

「去大聖遙遠」という時の経過をも

って、今時無

仏という感は

一層深まり。自己

のおかれた時代

への深い反省が、彼

七六

凡夫観を形成するものといえる。それはもはや凡聖といったような相

対的な凡夫ではなく、主体的な自覚よりうながされた絶対的な凡夫で

あるといえる。ここにおいて、教法の時機相応ということは、単なる

対機説法、応病与薬ではなく、まさに主体的に自覚された時が主体的

に自覚された機と相応するというこどで、時と機

の相応をも

って教法

の実践のあることをあかすものにほかならない。

四 

さて道綽は末法意識に立脚して、教法の時機相応しなければならな

いことを主張するのであるが、この観点より彼は第三大門において、

仏教を聖道門と浄土門に分類するのである。すなわち、

依二大乘聖教一良由レ不下得三一種勝法一以排下生死上。是以不レ出二火

宅一。何者爲レニ。

一謂聖道、二謂往生淨土。其聖道

一種今時難レ

證。

一由下去二大聖一遙遠上。二由二理深解微一。

(浄全

一、六九三、上)

と、判別するものである。大乗仏教を二種

の勝法に分別することは、

その教説の内容、形式になんらかの意図をみいだし、体系づけ、そこ

に価値判断をおこない、仏の真実の意図を明すことにほかならない。

彼が大乗仏教思想に立脚して、聖道、浄土の二種勝法にて、・その体系

化を試み、現代的価値づけをしたことは中国

における浄土

の展

上、きわめて意義のあることといえる。

それでは道綽が現代的価値判断をするにあたり、その判断の基準は

なんであろうか。先にものべたように彼は第

一大門において

明ご教興所レ由約レ時被ワ機勸歸二淨土一者、若教赴一一時機一易レ修易レ

悟、若機教時乖難レ修難レ入。

(浄全一、六七三、下)

と、いうことからすれば、教説

の価値判断の基準を

「時」と

「機」に

おいて.決定しようとする見解があ

ったといえる。このことは衆生の実

の場、いわぼ行縁において教法の価値判断をするということを意味

するゆ

「聖道」

「浄土」はいず

れも勝法であり、行体からすれば同U

価値を有するものである。同価値を有するものであれぼ二種分別は成

立しないのである。彼が

「其

一種今時難證」と示すのは、正しく教説

の示す行を、衆生が実践の場

とかかわりをも

つところに基因すること

を明確

に示すものである。したがってこの二種勝法は教説の深浅を直

接分別するものでないことは明らかである。

道綽がこの教相判釈をしなければならなか

った外的要因はどこに求

めることができるであろうか。

釈尊

一生涯において説かれたとする諸経典に体系をもうけ、価値を

定めるという教相判釈は、す

でに経典自体において、

『法華経』に大

乗と小乗の別を示し、

『楞伽経』に頓漸、

『華厳経』に三照、

『涅槃

経』に五味、

『解深密経』に三時の別が説かれており、インドにおい

ても

『十住毘婆沙論』に難行道、易行道などが説かれている。

中国においては、特に教相判釈が発達したのはインドにおいて歴史

的に発達した諸経論が、その成

立順序とは無関係に、かつ同時に飜訳

され、研究されることにな

った

のに基因すると考えられる。諸経の多

種な教説の中から、それぞれ自己の信奉する教

の教義的立場を明確に

するたあ、教説の体系化が要請されたもので、事実、南北朝時代にお

いては諸師により教判が立てられたのである。その中でも天台宗智顕

道綽禅師の聖浄二門判について

の五時八教、三論宗吉蔵の三蔵三論、法相宗法蔵の五教十宗などは顕

著なものである。

こうした当時の仏教界の傾向は道綽においても、浄土教義を宣揚す

るにあたり、対仏教界という見地からも、当然無視することができな

かった問題であ

つたといえる。もちろん道綽に

一宗を開創しようとい

った意図があ

ったというようなことは

『安楽集』には直接明していな

いが、彼が第

二大門に摂論家

の別時意説を会通したり、また三身三土

説を主張するにあたり、摂論家

の説く身土説を批判し、真義

の究明に

つとめていることより推測すれば、充分、当時の聖道諸宗を意識し、

そうした外的要請

に答えていこうとする意図のあ

ったことは明白であ

る。一

方内的な要因としてはいうまでもなく末法思想による、時機

の主

体的自覚

であるといえる。

つまり今時

の衆生

の機根に対する適確な把

である。彼は第三大門において、

一切衆生皆有二佛性一。遠劫以來應値二多佛一、何因至レ今仍自輪二

迴生死一不レ出二火宅一。

(浄全

一、六九二、下)

とのべている。

「値多仏」と

「不出火宅」との認識は、同

一自

に、同時にまったく矛盾する自己をみることに他ならない。前者は当

然救われなければならない自「巳を見、後者は逆にまったく救われるこ

とのない自己を見る。道綽

の時機

の主体的自覚とは、正しくこの二律

背反する二つの自己を同

一自己の中に認め、しかも同時にその二者

成立を許容するというものである。したがって彼においては仏性

の有

無が閥題となるのではなく、二律背反する自己にめざめること、また

七七

一自己内に相矛盾する自己を許容することに、より重点がおかれた

とみるべきである。したが

って

切衆生悉有仏性、如来常住無有変

易」という普遍的真理は厳然

として存しても、そこにその開発される

べき仏性が衆生の実践

(救済)行に、今直接かかわりをもたな

れば

その効力を得ることができな

いのである。彼はこの二つの自己を

『安

楽集』の各所においてのべている。たとえぼ、第

一大門に聞経の宿縁

を説き、

『涅槃経』を引いて、

佛告二迦葉菩薩一。若有二衆生一於二熙連河沙等諸佛所一發二菩提心一、

然後乃能於二惡世中一聞二是大乘教典一不レ生二,1L11111。若有下衆生於二

一恆河沙等佛所一發南菩提心上、然後乃能於二惡世中一聞レ經不レ起二誹

謗一、深生二愛樂一。

(浄全

一、六七四、下)

 とのべ、前生において発心供仏

のいかに多いかを示している。

つまり

これは

「聞経」に仏性

の開発

を示そうとするものに他ならない。ここ

に自己の肯定的な

一面を観取す

ることができる。

しかし道綽は自己の限定的、否定的な面を強調するのに、より注意

をはら

っていたことを知ることができる。さきにも引用したところで

あるが、やはり

『涅槃経』を引

いて、

此身苦所レ集、

一切皆不淨。軛縛擁瘡等根本無レ有二義利一。上至二

諸天身

一皆亦復如レ是。

(浄全

一、六九一、下)

とのべ、自己を

「苦所集」と示

し、また、

取̀二三千大千世界草木一截爲二四寸籌一、以數二一劫之申所レ受身父母

頭數一、獪自不レ漸。

(申略)如レ是遠劫已來徒受二生死一至二於今日一

獪作二凡夫之身一何曾思量傷歎不レ己。

(浄全

一、六九二、上)

七八

0 と

べ、

り,

の受

の数

の多

どを

る。

『大

て、

の劣

二迴

一受

二苦

二報

一生死

レ窮

生翫

生亦

レ是

(浄全

一、六九

一、下)

 と、凡夫の流転性を

一切衆生に普遍化しようという意図をみいだすこ

とができる。

道綽はさらに、この同

一自己における二面性を

「仏性」の見地より

劣性

の否定

への試みとするのである。再び

『涅槃経』を引いて、

勸修二不放逸一。何以故、夫放逸者是衆惡之本、不放逸者乃是衆善

之源。

(浄全一、六九一、下)

膕・放逸なるがゆえに不出火宅であるとしている・また

『大荘厳論』

を引いて、

盛年無レ患時懈怠不二精準

。貪二營衆事務ネ

二施戒禪一。

(浄

一、

六九

二、下

)

 とのべ、六波羅蜜行を実践しないが故に、輪廻無窮なるとしている。

これらは大乗仏教のもつ基本的な立場より、その解決にあたろうとす

るものである。

しかし道綽が真に主張する解決法は、劣性の否定によるものではな

い。いってみれぼそれは、同

一自己において相反する二つの自己は、

その劣性を否定することにおいて成立した自己

(肯定的自己)つまり仏

性を、さらに否定的自己において解決しようとするものである。

こうい

った論理は道綽においては明瞭には展開されていないが、「無

始劫」の思想にその

一端をみることができる。彼は輪廻無窮なること

を時間的に拡大することにより、普遍化しようとした。彼は時劫の大

小を腸す

のに、

『智度論』を引

いて、時劫に三種あることを示し、

小劫をのべ、

如ゴ方四十里城一、高下然。滿二中芥子一有二長壽諸天一三年去レ一乃

至芥子盡名二一小劫一。

(浄全

一、六九一、上)

 どいう。したがって

「無始劫来、在此輪廻無窮」の無始劫は、すでに

尺度

の範躊を脱したものといえ

る。

つまり本来有限的な尺度でも

って

計りがたきものを、尺度にて規定しようとするのである。このことは

劣性的自己を否定することによ

って、解決しようとするも

く、劣性としてしか存しない自己を普遍化しようとする意図にもとつ

くものといえる。

しかし劣性なる自己を普遍化することは究極的な問題を解決したこ

とにはならない。そこに聖道、浄土の質的転換、次元の相異を知るこ

とができる。

道綽は聖道、浄土の二門を分判し、聖道門の

一種は今時証し難しと

断定している。ここで注意しなければならないのは、彼は行縁とのか

かわりにおいて二門を判別するのであるが、

「今時難証」という。決

して

「今時難修」とはしていない点である。彼は直接究極の目的とし

ての証を難とする点に注目しなければならない。彼は難証の理由とし

て、

「去大聖遙遠」と

「理深解微」の二理由をあげている。この二理

由は、すでに第

一大門において今時の衆生を規定して、その行に関し

「懺悔修福」と

「称仏名号」を正学とし、

「定慧」を兼学とする理

由どして示したものと同

一の基調に立

つものといえる。称名正学、定

道綽禅師の聖浄二冊判について

慧兼学の見解においては、

「去大聖遙遠」は称名と定慧を決定的に判

別するにはいた

っていない。

つまりいまだ兼学としての定慧は存する

のである。このことは大聖を去ることが近ければ定慧が正学という地

位をもち、大聖を去ることが遙遠であるという理由で、その地位が入

れかわ

ったにすぎない。したが

ってここでいう「去大聖遙遠」は、遠近

という尺度の対照として

一応とらえられているとみることができる。

それでは第三大門であかす

「去大聖遙遠」もやはり時間的な尺度の

みにて理解するこどができるであろうか。ここでいう

「去大聖遙遠」

もやはり仏滅

一五〇〇年という歴史的時間

の経過を自覚させ、

『大集

月蔵経』の説くような教法の衰退を基盤として、時

の自覚をうながす

ものであることは明らかである。また、無相善を修することのできる

聖者を、今時においても全面的に否定するものでない点からすると、

聖道門の勝法としての地位を認めることはできる。しかしそれにもま

して彼が主体的に自覚した

「去大聖遙遠」は、彼

の求道体験よりもた

らされた、さらに深刻な人間性

の反省にあ

ったといえる。いかに勝法

といっても現実の人間に適応しないものでは効果がないという彼の基

本的な仏教観によるものである。今すこし

「去大聖遙遠」

の思想的展

開を考察してみよう。

「去大聖遙遠」の基点はいうまでもなく、釈尊

の入滅にある。釈尊

入滅は仏道求法者にとってきわめて大きな意味をも

つものといえる。

釈尊が在世中に人格ある仏として、われわれに直接、あるいは間接に

およぼした教化力は、はかり知れないものである。しかし今は人格を

った釈尊を目でみることも、その説法を直接耳で聞くことも不可能

七九

である。

つまり釈尊

の入滅は、すなわち無仏

の世としての自覚をわれ

われに与える毛のである。この無仏観が主体的

に自覚される時、そこ

にはとうてい近づきがたい断絶

をみいだすことになる。それは

一方仏

格を甚深甚妙な如来法性

へと発展するものである。この点からすれば

「大聖遙遠」は時閭的経過

(連続)において仏をみようとするの

なく、われわれの世界とは次元

を異にする世界に仏を設定することで

あり、仏と衆生との断絶を明確

にあかすこととなる。この意味

におい

「理深解微」は衆生問におけ

る相対的深浅をいうのではなく、真如

法性に対して衆生の認識力の微劣微少なることを反省させることに他

ならない。

この無仏の主体的な把握はわれわれにとうてい救われ難

い人間を発

見させるものである。そこに有仏

への期待

と、同時に阿弥陀仏

の常住

する浄土

(彼土)に願生すると

いう、往生思想

への展開がある

いえ

る。道綽に

「其聖道

一種今時難証」と断定させたものは、曇鸞

の場合

と同様にこの

「無仏観」によるものであるといえる。そして彼は、今

時無仏の世の最適の法門として浄土門を提唱するのである。すなわち

唯有二淨土

一門一可二通入一路。

(浄全一、六九三、上)

という。

「唯有」はその絶対独立価値たることを示すものである。

「今時難証」という聖道の絶対的な否定は、浄土をも

って

「唯有」

道と自覚させたのである。したが

って聖道、浄土の二門

の分判は、教

判的意図をもちながらも、単

に聖道を否定し、浄土を肯定するといっ

た平面的な判釈

ではなく、時機相応を根底とする、主体的に自覚され

た立体的判釈であるどいえる。

八〇

それでは道綽の主張する聖道、浄土の二門判は道綽の創唱によるも

のであろうか。それともその思想的淵源があるのであろうか。もしあ

るとすれば、どこにそれを求あることができるのであろうか。

阿弥陀仏の浄土へ生ずるという往生思想は唐すでに阿弥陀仏経典の

成立においてみることができるっしかし

一大仏教教説を聖道、浄土に

判別し、浄土門にその現代的価値を認め、浄土門の独立性を明瞭

にし

たのは、正しく道綽の創唱であるといえる。この二門判釈が後世の浄

土教

の展開において、多く影響するところは周知のとおりである。、

その思想の淵源を考察してみると、彼の問題意識としての

切衆

生皆有仏性。遠劫以来応値多仏、何因至今仍自輪迴生死不出火宅。」

という疑問は、

『大乗起信論』に真如内熏を論じ、

「真如は

一切諸仏

の根本であり、仏性ともいう。したが

って何人も真如の顕現でないも

のはないのであるから、同時に発心し、同時

に成仏すべき

る。しかし釈尊などはすでに成仏したのに、われわれが成仏しないの

CD

はどうしてか」と、いう問題を提起している。問題

の発想としては同

じもので、道綽が

『安楽集』に

『起信論』

の文を引用していることか

らすれば、この疑問は

『起信論』から示唆されたものかも知れない。

しかしその問題の解決にあた

っては、何といっても曇鸞

の思想を強

く受けるものである。それは

『往生論註』

の難行道、易行道

の見解を

うけるものといえる。彼は聖浄二門判を明すにあたって、『往生論註』

の文を引いて、

求ユ阿眦跋致一有三一種道一。

一者難行道、

二者易行道。

(浄全

一、六九〇、上)

と、難、易の二道を示し、

つづいて、

11111二難行道一者、謂在二五濁之世於無佛時

一、求二阿毘跋致一爲レ難。

此難乃有二多途一。略述有レ五。何者

一者外道相善亂圭口薩法一。

者聲聞自利郵二大慈悲一。三者無顧惡人破二他勝徳一。四者所有人

天顛倒善果壞二人梵行一。五者唯有二自力一無二他力持一。如レ斯等事

觸レ目皆是。譬如二陸路歩行則苦一、故日二難行道一。ljll�.二易行道一

者、謂以二信佛因縁一願レ生二淨土一起レ心立レ徳修二諸行業一佛願力故

師便往生、以二佛力住持

一師入二大乘正定聚一。正定聚者師是阿眦跋

致不退位也。譬如二水路乘船則樂一、故名二易行道一也。

(浄全

一、六九〇、上)

と、

のべている。この文は

『往生論註』の冒頭にある

『十

婆沙

 

論』

の難易二道の見解を示す文と

一致する。したが

って道綽が、この

曇鸞

の難易二道説の影響をうけていることは明らかである。

今、曇鸞が

『易行品』に示された難易二道を受容し、展開する過程

を明らかにすることによって、道綽の主張する聖道二門判の思想的系

譜を考えてみよう。

『易行品』に示す龍樹の難易二道説とは、

汝言阿惟越致地是法甚難、久乃可得、若有易行道疾得至阿惟越致

地者、是乃怯弱下劣之言、非是大人志幹之説。汝若必

便、今當説之。佛法有無量門、如世間道有難易、陸道歩行則苦、

水道乘船則樂。菩薩道亦如是。或有勤行精進、或有以信方便易行

疾至阿惟越致地者。

 と、いうものである。この二者

の思想的展開に関しては、すでに藤堂

恭俊氏が

『無量寿経論註

の研究』

「易行思想とその展開」において

道綽禅師の聖浄二門判について

考察されている。今、その見解を参考にしながら論をすすめることに

する。『易

行品』の難易二道説は、阿惟越致を体得するのを究極

の目的と

するのであるが、難易は対立的な概念である。すなわち阿惟越致を求

める主体としてのその機根に関して、

「怯弱下劣」と

「大人志幹」と

のべ、またその行に関しては陸道の歩行は苦という

「勤行精進」に対

して、水道の乗船は楽という

「信方便」、そしてその行

の得果として

「久乃可得」と

「疾得至」というように、すべて相対概念により示さ

れている。いってみれぼこれらの概念は、われわれが日常体験する大

小、苦楽、久疾という相対的な概念である。われわれがこれらの概念

を認識するには、当然そこにその概念を規定する基準をもたなければ

ならない。単に難易とい

っても、何を基準として難となし、何を基準

として易となすかということである。

龍樹の難易二道説においては、阿惟越致を求めること、すなわち真

如実相第

一義空を体得することは、むしろわれわれがも

つところの相

対的概念を否定しようとするところに生ずるものであり、相対的概念

をも

っては表現できないということにある。しかしこの空の実践を、

われわれが認識することの可能な難易という実践行をも

って示すとこ

ろに、易行道

のもつ意義をみいだすことができる。したが

って龍樹

いう二道は、単に難易相対の難行、易行ではなく、空の実践が相対的

概念の否定に立

つところのものであるから難であり、相対的立場に立

つ限り難行道と認識せざるを得ないものである。こういった点から龍

樹においては、難易二道説は教判的意図にもとずくものではなく、あ

八一

くまで行自体、行そのものに対

して難易を分別したものである。した

がってそこには怯弱下劣といわれるような低い機根のものを、阿惟越

致地という仏道の実践

へ導き入れようとする大乗仏教的な意図をも

ものであり、易行としての実践

はわれわれがもつ相対的概念における

場、いわば日常経験としての易行がそのまま仏道実践の基調となる点

において、普遍性をもつものである。

一方曇鸞は、この龍樹におけ

る難易二道説を継承しながらも、彼は

独自に行体としての易行観を行縁という視点において把握し、さらに

行者の実践的態度を示す、自他

二力の問題に展開させたところに重要

な意義があるといえる。曇鸞は難行、易行を「五濁之世、無仏之時」ど

いう実践

の場に視点をおくことに注目している。

つまり現実の今、こ

の時代、この世にあって不退転

への道を行ずることが、はたして有効

であるかどうかという点に立脚

している。いわば実践の場に難易を分

別する基準をおくものである。曇鸞は五濁

の世、無仏の時において阿

毘婆致を求めることを難とする理由として、五つの理由

てい

る。そのうち前四の理由は彼

の経験上、難ど分別するものであるが、

第五番目の

「唯有是自力無他力持」というのは、当時、仏教界内部に

おいて

一般に行なわれていた実践的態度を示すもので、それらはす

て時と教法との不相応という点より難行道であると断定している。

つまり曇鸞の示す易行道とは、

「但以信仏因縁願生浄土。乗仏願力

便得往生彼清浄土。仏力住持即

入大乗正定之聚。正定即是阿毘跋致。」

(浄全

一、二一九、上)と、のべるように、

阿弥陀仏の本願力の強調と

あいまって、それを増上縁として受け入れる受動的な実践態度におい

八二

て、阿毘跋致に入る他力易行をいうもので、龍樹との問には明らかに

展開のあることを知ることができる。

要するに龍樹の難易二道説は行そのもの、行体について難易を分別

したものであり、それを継承した曇鸞は、仏道が実践される実践

の場

とのかかわり

(行縁)において難易を分別し、

自力、

他力

へと展開し

たものである。

それでは道綽

の提唱する聖浄二門判は、この二者の思想的展開をい

かに受容し、どこまで許容するものであろうか。彼は第二大門におい

「菩提是

一。修因亦応不一こ

という点より、難易二行に対する疑義

を示している。すなわち

何故在レ此修レ因向二佛果一名爲二難行一、往二生淨土一期二大菩提一乃

名二易行道一也。

(浄全

一、六九〇、下)

とのべている。この疑問は真如実相第

一義空というような法身の菩提

という視点からすれば、行体そのものが菩提であり、行体としての難

易といったものはあり得ないのである。

これは

『易行品』において難

易を行体として分別したことに基因するものである。また「此土入聖」

を難行道とし、

「往生浄土」を易行道とする見解は、曇鸞の難行道、

易行道に対する考えを継承するものといえる。この疑問に対して道綽

は、

諸大乘經所レ辨

一切行法皆有二自力、他力、自攝、他攝一。

(浄全

一、六九〇、下)

と答えている。難行、易行は

『易行品』において説くとこ

が、自力、他力は大乗経典

の広く説くところであるとしている。さら

に彼はこの例証として

『薩遮尼乾子経』

『地持経』を挙げている。

また彼は第五大門に、

『倶舎釈論』の説く難行道に関する見解を示

している。すなわち、

於二三大阿僭祗劫

一一劫中一皆且ハ三碣智資糧六波羅蜜

一切諸行一。

一一行業皆有二百萬難行之道

一始充二一位一。是難行道也

(浄全

一、六九九、下)

⑳と、六波羅蜜行を修するのは、修道の延促という点より難行道と判断

している。

一方易行道を明すに、同釈論を引いて

若由三別有二方便一有二解脱一者名易行道一也。

(浄全

一、六九九、下)

とのべている。これらの文は

『倶舎釈論』、

「中分別世間品」四の取

意文であり、本文には

「由六波羅蜜百万難行道」

「何用久修此大難行

道」と、難行道は示されているが、易行道という言葉はない。彼は本

文に

「若由別方便。有解脱」とあるのを易行道とみたのである。そし

て彼はこの修道の延促という見解

より、

若能明信二佛經一願レ生二淨土

一、隨一一壽長短二

形師至位階二不退一。

與二此修道

一萬劫一齊レ功。諸

佛子等何不ご思量一不二捨レ難求ワ易也。

(浄全

一、六九九、下)

と、断ずるのである。この道綽

の延促の見解は、

『易行品』において

「久乃可得」

「疾得」どして示されたものではあるが、寿命の長短

に基準を置くのは、人間のもつ日常経験の最も基本的な現象にその解

答を求めようとするもので、より

一層

「疾得」の明確さを示すものと

いえる。また

「不思量不捨難求易也」というのは、人間の思量を超え

た絶対的易行としての願生行を示すものである。これは曇鸞が他力

道綽禅師の聖浄二門判について

信を勧めて

「勿二自局分一」

(浄全、一、ご五六、上)

といったのに帰

するものといえる。さらに道綽における他力の見解も、その多くは曇

鸞の見解を継承するものである。しかし彼が他力に対する見解を

臨二命絡時一阿彌陀如來光臺迎接途得二往生一部爲二他力一。

(浄全

一、六九〇、下)

とのべるのは、さきにものべたように曇鸞の

「但以信仏因

土。乗仏願力便得往生彼清浄浄土。仏力住持即入大乗正定之聚。」と

いう見解に基因するものであろうが、道綽が

『観経』下下品の臨終

十念往生に直接結び

つけて、しかも阿弥陀如来

の来迎に対して他力と

名づけたのは、単

に仏願力に乗ずる行をも

って他力どする

く、その上にさらに阿弥陀仏

の来迎という他力を認めるもので、

『観

経』に即して他力義を顕出しようとするものといえる。

(五)

以上、道綽の聖道、浄土の二門判は、単なる教判というわくをこえ

るもので、それは曇鸞の易行思想の展開においてみられた自力、他力

の二力説を基礎

とするものであるといえる。また曇鸞が

「無仏之時」

「五濁之世」という行縁において難易を定めとったのは、道綽におい

ても同様で、彼においては

「去大聖遙遠」

「理深解微」という実践の

場にて聖浄を判別しようとするものである。曇鸞においては

「無仏之

時」というのみで、仏

の入滅を去る時

の遠近まで問題にするには至ら

なか

ったが、道綽は仏滅後

の第四の五百年という明確な時代観をふま

えて、時機に対する新たな体験としたのである。道綽が時を強調した

八三

のは、時が機を左右する決定力

があるとみたからであろう。いずれに

しても、道綽における時の主張

は、末法思想とあいま

って、仏道修行

者に強烈な教化力をおよぼすごどとなったのである。曇鸞のいう

「無

仏時求阿眦婆致為難」と道綽の

「其聖道

一種今時難証」という文を対

比すれば、道綽において時機に対する省察の

一層の深まりを感じる。

今時において、もはや聖道は絶対的に否定されるものであり、聖道的

自己のあり方に深い反省をうながすものである。この絶対的な否定を

とおして、浄土往生という他力道

がうかびあがってくるのである。

南北朝より隋

・唐

の変遷において、北地に展開した機の主体的な自

覚は、道綽において時

の自覚を加えることにより、一層明確とな

った。

それは、教法の勝義を競う学解中

心の仏教に対して特異な地位を占め

るものといえる。そして曇鸞、道綽、善導

へと展開する浄土教の流れ

の中で、ことに道綽の聖浄二門判のも

つ意義は大きいといえる。

(一九七五、七、ご七)

(註)

仏教における機

の思想

の歴史的展開を論じたも

ので、まとま

ったも

のに

は横超慧日氏

「仏教

における宗教的自覚」ー機

の思想

の歴史的研究i

いう論文がある。

この論文は道綽にもふれ、参考

とす

べき点が多

(横

超慧日著

『申国仏教

の研究』第

二所収)。

横超慧日氏は前掲論文

にお

いて

「三階教

の信行禅師は、所為

の衆生と所

の処と説

の時節

ついて験

すべしといい、機

と処

と時とを並列してい

る。信行よりす

れば、機と処と時

との相関を認めたためにかく並列した

のである。」

(五九頁)とし

ている。

『正法念経』という

のは、元魏

、瞿曇般若流支訳

『正法念処経』七〇

八四

巻のことである。しかしこの経

には道綽

が引用し

ているよう

い。ただし、巻三八

「観天品」

の偈

「行二放逸道

一者、則不レ見二賢善

一、

猶三如鑚二氷

一者、火則

不レ可レ得、離レ因則無レ果

、無二因果

一匱レ得

、放逸

求二功徳

一、究意

不レ可レ獲」

(正蔵、

一七、二二三、b)と

いう文

がある。

た火薪

の崘はいたると

ころにでている。また

『坐禅三昧経

』下巻

には

「行者定

心求道時、常当観察時方便、若不得無方便

、是

応為失不為利、

如檀未生殻串牛乳、乳不可得非時故、若犢生

已難

牛角、乳不可得無智故、

如鑚湿木求出火

、火不可得非時故

」(正蔵

一五、

二八五、

c)とある。

末法思想に

ついては、高雄義

堅氏

「末法思想と諸家

の態度」

(『支那仏

教史学』

一巻

一号、三号)、結城

令聞氏

「支那

における末法思想

の興起」

(『東方学報東京』第

六冊)などの論文

がある。最

のも

のとしては野

上俊静氏

「中国

における末法思想

の展開

ついて」

(『山崎先生退宮記

念東洋史学論集

』所収)等がある。

北周

の廃仏

については、塚本善隆氏

「北周

の廃仏」

(『塚本善隆著作集』

二巻

、北朝仏教史研究

、所収)参照。

那連提耶舎

の伝記は

『続

高僧伝』巻

(正蔵

、五〇、四三二、

a~四三

三、b)にあり、僧

伝どしては長文である。

一七歳で出家

し、各地を遊

し、修業をする。たびたび危難

に遭遇したが、観音

の呪を誦してその

のがれたどいう。天

保七年

(五五六)北斉

の帝都

に入り、文宣帝

のも

とに、天平寺

にお

いて、経典

の翻訳

に従事す

る。

この他

那連提耶舎訳出

の経典

には、仏滅後

の教法

の衰退していく

ことが

のべられている。たとえば

『月燈三昧

経』巻九

には

「在於末代悪世中、

正戒正法

毀壊時、顕説如是修多羅、童子非号

而起

(申略)我於如来滅

度後、在於末代悪世時棄

捨身命不幣惜、広弘如是修多羅」(正蔵、

一五、

五七三、

c)とあり、また巻

九の偈頌

には

「吾般涅槃去世己、於後正法

滅盡時、比

丘楽於外典籍、彼便

毀謗我勝法

(申略

)彼人末世謗空法」

(正蔵、

一五、六

一一、

a)とある。なお、塚本善隆氏

「道綽の迴

心」

には、那連提

耶舎

の訳出経典

に関す

る詳細な論考

がある。

那連提耶舎訳出

の経典

の訳出年代は次

のとおりである。

『月燈三昧経』

⑨O O ⑫⑱⑮ ⑭

=

巻、天保八年

(五五七)

『大悲経』五巻、天保九年

(五五八)

『須

弥蔵

経』ご巻、同上、

『然燈経』

一巻、同上、

『法勝阿毘曇論』

七巻、

河清

二年

(五六三)、

『月蔵経』

=

一巻、天統

二年

(五六六)、

『菩薩

見実

三昧経』

一四巻、天統

四年

(五六八)。

道宣の

『続高僧伝』巻八法上伝

には

「仏

以二姫周昭王

ご十四年甲寅歳

一生

(中略

)当二穆王

二十四年癸未之歳

一、穆王聞下西方有二化人一出上、便即西

入而竟不レ還、以レ此為レ験

(中略)滅度

已来至二今斉代武平七年丙申

一、

凡経

四百

六十五年

一」

(正蔵、五〇、四八五、b)とある。

『大方等大集経』第

五十五、月蔵分第

一ご

「分布閻浮提品」

一七

「於我滅後

五百年申

。諸比丘等。猶於我法解脱堅固。次

五百年我之正法

禅定

三昧得住堅固。次

五百年読誦多聞得住堅固。次五百年於我法中多造

塔寺得住堅固。次

五百年於我法申闘諍言頌白法隠没損減堅固。」

(正蔵

二二、三六三、

a~b)とある。

『大乗同性経』巻下には

「穢濁世申

現成仏者当成仏者

。如来顕現従兜率

下。乃至住持

一切正法

一切像法

一切末法善丈夫。汝今

当知。如是化事皆

是応身。」

(正蔵、

一六、六五

一、

c)とある。

高雄義堅

「道綽禅師とそ

の時代」

(『宗学院論輯』第

一輯)

には、

『安楽集』巻下

に六大徳をあげ、そ

の中

「有二斉朝上統

という

のほ法

のことと推測して

いる。

たとえば

『大集月

蔵経』

日蔵分法滅尽品

には

「是王多

二詐偽

一、

速滅二己

国土

一、苗稼不二成熟

一、亢旱及水

潦、瞭鼠悪象暴。」

(正蔵、

二二、三

七六、b)

といい、ま

「自他国兵起、曜入非二常宿

一、大地普震動、白

虹妖星

堕、時気多疫レ病

、梵二焼諸聚落

一、速壊二国城邑

(正蔵

一三、

三七六、b)とある。

このことに

ついては、野

上俊静氏

『申国

浄土三祖伝』

(道綽伝)参照。

彼が懺悔を強調する

のは、禅定と戒律

の実践行を申

心とす

る慧瑙教団で

の彼

の修道

に基因するも

のと考えられる。野上俊静氏『申国浄土三祖伝』

(道綽伝)

によると、道綽が涅槃経

の講説

から転U

て慧贋教団

に入団し

のは、彼

の求道過程におけ

一つの重要

な転

廻であ

ったといい、学解

道綽禅師の聖浄二門判について

⑯ ⑱2019⑳ ⑳

から実践者

への転身

であると

いう。慧蹟は北周武帝

の廃

後、

(河北、趙県)

の山間

に持戒堅固

の教団を結成

し、原

始教

団に帰る

べく

頭陀行、半月布薩の法を行

ったと

いう。ま

た道綽が

この教

団に入

ってい

たのは、三〇歳をすぎてから

で、しかも

その後

一〇数年間

であろうと推

測され

ている

(九六頁~

一〇二頁)。

迦才

『浄土論』巻下

(正蔵

、四

七、

一〇〇、

c)

にある。ま

た彼

「今

既約時約根。行者無定慧分者。唯須専念阿弥陀仏。」

(正蔵

、四七、

一、

a)とも

いい、

「若自知

無定慧分者。則須修浄

土行。就浄土申求

無上菩提

。」

(正蔵、四七、

lo

l、

a)とも

っている。

三階教に関しては、矢吹慶輝氏

『三階教

之研究』がある。こ

の中

で浄土

教と三階教と

の同異

ついて、矢吹氏

は六同四異をあげている。

六同と

は、ω末

法仏教

である。ω濁悪世界

の得道を難

とする。㈲罪悪観

の自覚

に立脚すること。ω特殊な仏法を必須

どする

こと。㈲往生浄土を勧

める

こと。㈲対根起行を主眼とする

ことである。また四異とはω普仏普法と

専信弥陀

、ω専念否定と普念拒否、㈲此土入聖を許す

と彼土入聖、ω求

心と遠心とである。と

のべて

いる

(五七

一頁~

五七七頁)。

鳩摩羅什訳

『大智度論

』巻

二九

(正蔵、二五、二七五、

c)、巻六七(正

蔵、二五、五三〇、b)の取意。

鳩摩羅什訳

『大智度論』、巻六六

(正蔵

、二五、五二四、

c)の取意。

『十地経』九巻は、申央

アジア

の干闡

の僧、尸羅達摩

の訳出

で、

『華厳経』十地品

の別本。

この文は、巻第

五の初地菩薩、

七地終心、

入八地

の行相

ついて取意するも

の。(正蔵

一〇、五

五六、c~五五七、c)

の取意。

世親著、菩提流支訳

『十地経論』巻

一〇

(正蔵

、二六、

一八

一、b

c)。

真諦訳

『大乗起信論』修行信心分

には、信

心の修行を困難

とする

心的素

質をも

つ人

のために、阿弥陀仏を念ずる

ことによ

って西方浄土に往生

べき方法を説

き、

「復次衆生初学二是法

一。欲レ求

二正信

一、其

心怯弱。以レ

住二於此娑婆

世界

一。自畏レ不レ能下常

値二諸仏

一親承供養上、懼下謂信

心難レ可

成就

一意欲若退者。

当レ知如来有一一勝方便

一摂二護信心一。

謂以二専意念仏因

八五

N   ⑳

一。隨レ願得レ生二他方仏土

一。常見

二於仏

一永離二悪道

一。如

二修多羅説

一。若

人専念

二西方極楽世界阿弥陀仏

一。所

レ修善根廻向願三求

生二彼世界

一。即得二

往生

一。常見レ仏故終

無レ有レ退。若観二彼仏真如法身

一。常勤修習畢竟得レ生

二正定故」

(正蔵三

二、五八三、

a)と

いう。

道綽

『大経』

に云くとしているが、

『大経』

にはそ

のまま

く、すで

に指摘されているように

『大経』第十

八願

「設我得レ仏、十

方衆生至

心信楽、欲レ生二我国

一。乃至十念

、若不レ生者不レ取正覚

一、唯

除二五逆誹謗正法

(浄全

一、

七)と

『観無量寿経』下下品

「或有二

衆生

一作

二不善業五逆十悪

一具二諸不善

一、如

レ此愚人以二悪業

一故、応下墮二

悪道

一経二歴多劫

一、受レ苦無う窮、如レ此愚人臨

二命終時

一遇下善知識種種安

慰為説

二妙法

一教令申念仏上此人苦逼不レ達

二念仏

一善友告言汝若不レ能レ念者

一称二無量寿仏一如

レ是至

心令下声不夢絶具二足十念

一称一一南無阿弥陀仏

一」

(浄全

一、五〇)とある文とを取意し合せたも

のである。

たとえば小乗

の修道体系

ついては、慧遠

『大乗義章』第

一七本

「浄

法聚因中

、賢聖義

二門

分別」

(正蔵、四四、七八八、

b以下)

に詳しく

のべられている。また五上分結、五下分

結に

ついても、同じく第五末

「五下分結義」

「五上分結義

(正蔵、四四、五七

一、

C以下)

にのべ

られている。

念仏

三昧が

一切

の諸障を断除すると

いう

ことは、

『安楽集

』には、諸経

をも

って随所

に示している。たとえば、第

四大門

には

「若能常修二念

三昧

一、無レ問二現在

過去未来

切諸障

悉皆除也」

(浄全

一、

六九八、

上)といい、また

「若人菩提

心中行

二念仏

三眛者、

一切煩悩

一切諸障悉

皆断滅。」

(浄全

一、六七六、上)とある。

慧遠

『大乗義章』巻

一四に、十地を解釈

して、第七遠行釶

は無相行を

し、心のはたらきが世間を

こえはなれる位

で、

この位では上

に求める

べき菩提もなく、下

に救う

べき衆生も

なしとみ

て、無相寂滅

の理

に沈み、

修行

ができなくなるお

それがあると

いう。

これを七地沈空

の難と

いう。

『大智度論』巻

一三に

「持戒之人寿終之時。刀風解身

。筋脈断絶。自知

持戒清浄

心不怖畏

(正蔵

ご五、

一五三、

c)どある。

『正法念処経』巻ご八(正蔵、

一七、

一六〇、

a)、巻六三(正蔵、

一七、

⑳ ⑳ ⑭ ⑳ ⑫ ⑳ ⑳ ⑳⑳ ⑳ ⑳

八六

三七四、

c)

の取意。

北本

『浬槃経』巻二

(正蔵

=

一、三七三、b)

の取意。

北本

『涅槃経』巻六

(正蔵

=

一、三九八、

c、~三九九、

a)の取意

北本

『浬槃経』巻

二二

(正蔵

一二、四九六、b)

の取意。

『大智度論』巻

一六

(正蔵

、二五、

一七五、b)の取意。

北本

『浬槃経』巻ご四

(正蔵、

=

一、五〇六、

a~

b)

の取意。

『大荘厳論

』巻

三の

(正蔵

、四、二七

一、

c)取意

『大智度論』巻

(正蔵、二五、

loo、

c)

の取意。

真諦訳

『大乗起信論』解釈分

には

「若如レ是義

者。

一切衆生悉有二真如

等皆熏習。云何有信無信。無量前後差別。皆

応下一時自知レ有二真

如法

一。

勤修方便等入中涅槃上。」

(正蔵

、三二、五七八、b)と、もし

一切衆

が等しく真如を具有するなら、真如

の熏習もまた同

一のわけだから、衆

生は

一時

に成道す

るはずではないかという問をおこし、

それ

「真如本

一。而有二無量

無辺無明

一。従レ本

已来自性差別厚薄不レ同故。

過二恒沙

一等上煩悩依二無明

一起差別。我見愛染

煩悩依

二無明

一起差別。如

一切煩悩

。依

二於無明

一所レ起。前後無量差別。唯如来能知故。」(正蔵

三二、五七八、

b)と衆生

の現

心には無量

の無明

があり、無量

の差別を

生ずるとしている。さらに仏法

においては因

と縁

とが相俟

ってはUめて

正覚が成就

することを

「又諸仏法有レ因有レ縁。因縁具足乃得二成弁

一。

如下木中火性是火正因

。若無二人知

一不レ仮二方便

一能自焼レ木。無夢有

二是

一。衆生亦爾。雖レ有

一正因

熏習之力

一。若不下値二遇諸仏菩薩善

知識等

以レ之

為吾縁。能自断二煩悩

一入二浬槃

一者。則無二是處

一。」

(正蔵

、三二、

五七八、

c)と

のべている。

『往

生論註』巻上

(浄全

一、二

一九、上)

『十住毘婆沙論』易行品

(正蔵、

二六、四

一、

a)

真諦訳

『阿毘達磨倶舎釈論

』第

九には、「故説三阿僧

祇。非

一切方便所

不能数。故名阿僧

祇。衆生先

已発願云何復須此最長時修行。方得無上菩

提。如此事

云何不

応有。何以故。由大福徳智慧資糧行

。由

六波羅蜜百万

難行道。於大

劫三阿僧

祇中。無上正覚果諸菩薩方得。若由別方便。有解

脱理何用久修此大難行道。」

(正蔵

、二九、

二二

一、b、

c)とある。