大石橋 大山街道 二子の渡し⇒ 溝口の大略図 - …ryori-nocty/yokohama2018.pdf図1...

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図1 大山街道 二子の渡し⇒ 溝口の大略図 1 二子玉川駅 多摩川 二子神社 光明寺 溝口緑地 府中街道 二子橋 府中街道 至 川崎 至 たまプラザ 浜田庄司橋 大石橋 ハカリ田中 灰吹屋 宗隆寺 二子の渡し 溝口神社 JR南武線 大山ふる さと館 栄橋 大山街道 二子の渡し⇒溝口(みぞのくち)(2018.05.02) 今回、大山街道を二子の渡しから溝口まで歩きました。 大山街道・R246地域間ネットワーク交流会/ウォークマップ作成実行委員会発行の「大山街道」によれば、『大山街道(正式名称:矢倉沢 往還)は、江戸の赤坂御門から青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、多摩丘陵、相模野の中央部を横切り、足柄 峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道です。江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣りの道として盛んに利用され、矢倉沢往還は「大山街 道」、「大山道」と呼ばれるようになりました。この他、大山へ向う道を総称して「大山道」と呼んでいました。』との説明が有りました。

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図1 大山街道 二子の渡し⇒ 溝口の大略図

1

二子玉川駅

多摩川

二子神社

光明寺

溝口緑地

府中街道

二子橋

府中街道

至 川崎 至 たまプラザ

浜田庄司橋

大石橋

ハカリ田中

灰吹屋

宗隆寺

二子の渡し

溝口神社

JR南武線

大山ふる さと館

栄橋

大山街道 二子の渡し⇒溝口(みぞのくち)(2018.05.02)

今回、大山街道を二子の渡しから溝口まで歩きました。

大山街道・R246地域間ネットワーク交流会/ウォークマップ作成実行委員会発行の「大山街道」によれば、『大山街道(正式名称:矢倉沢

往還)は、江戸の赤坂御門から青山、渋谷、三軒茶屋より瀬田を経て、多摩川を二子で渡り、多摩丘陵、相模野の中央部を横切り、足柄

峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道です。江戸時代中期以後、江戸庶民の大山詣りの道として盛んに利用され、矢倉沢往還は「大山街

道」、「大山道」と呼ばれるようになりました。この他、大山へ向う道を総称して「大山道」と呼んでいました。』との説明が有りました。

写真1

二子の渡しは多摩川を瀬田村(現東京都世田谷区瀬田、東急田園都市線二子玉川駅)

から二子村(現川崎市高津区二子、東急田園都市線二子新地駅)間の渡船場の事です。

写真1は川崎側の堤防から二子玉川駅方向を見た写真です。現在は野球グラウンドに

なっていますが、渡船場が有った場所です。岡本太郎の父親である漫画家の岡本一

平が、将来の妻となる大貫カノ(後の岡本かの子)に会いに来るべく、増水した多摩川を

泳いで渡ったということを、岡本太郎がその著「一平かの子」(チクマ秀版社、1995.12)

で書いていました。渡しの位置は固定ではなく、多摩川の季節的水量変動により、変

わっていたみたいで、冬は仮橋が架かっていたと言われています。尚、大正14年(1925)

7月14日に二子橋が完成して、その役目を終了しました。

写真2

この渡船場から街道を南に足を進めますと、約

150mの所に、村社である二子神社の鳥居が在

り、本殿は100m程奥まった所に有ります(写真2)。

渡船の権利を二子村(後に瀬田村も)が持ってお

りましたので、子々孫々渡船業務の繁栄と渡航

安全を村社に願ったとの思いもあったものと思

います。

この二子神社の境内の一角に、 「誇り」と題する

モーニュメントが在ります(写真3)。これは岡本

太郎が、父母を誇りに思う念から昭和37年に作

成されたもので、台座と築山の設計はかの有名

な丹下健三氏によるものです。 写真3

2

モーニュメントの傍に、「かの子碑」が有ります(写真4)。文は亀井勝一郎

氏、字はノーベル文学賞の川端康成氏によるものです。かの子が小説に

取り組み始めた時に、川端康成に師事した縁で、氏が揮毫したと言われ

ています。小生が解読した内容は以下です。

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何故ここに「かの子碑」が有るかは「かの子碑」に記載の通り、太郎の母「大貫カノ」の実家は、二子村の名主の大貫家で、「カノ」はこの二子村で育ったからです。太郎は母の実家で生を受け、子供の頃に何度か実家で遊んだものと想像されます。

大貫家には「カノ」の他に二人の兄と一人の弟と妹がいました。長兄正一郎は旧制中学校の器械鉄棒事故で夭逝し、次兄が後述する雪之助です。直ぐ下の弟は喜久三と言い、溝口で「大貫病院」の院長をしていた人です。妹については調べましたが詳細は分らなかったです。「カノ」は名主の娘として、何不自由無く蝶よ花よと育てられましたが、残念な事に、明治四十四年1911)、日露戦争後の金融恐慌によりその余波で高津銀行の倒産が発生し、銀行の重役をしていた大貫家はその財を失ってしまいました。(一部「高津物語(上)」鈴木穆(あつし)、タウンニュース社、平成27年11月より引用)

申し遅れました。既にご存知の事と存じますが、「岡本かの子」及び関連の人について、簡単にご紹介致します。彼女は明治22年(1889) 3月1日、大貫寅吉の長女として東京府東京市赤坂区(現東京都港区)青山南町の大和屋(大貫家)別邸にて生まれました。彼

女は虚弱体質であったため、本宅の高津村二子で育てられ、幼少から少女時代を過ごしました。その間、養育母から万葉集、古今和歌集、源氏物語等の手ほどきを受けたと言われていますから、早い時点で文学への下地が出来上がっていたのです。長じて敬愛していた兄雪之助の影響も有り、歌人として活動をしました。

その後、漫画家岡本一平と結婚し、岡本太郎を産みました。一平との間で結婚生活は上手く行っているとは言えず、三角関係の様な生活を営んでいたことは、前著の中で太郎が述べていました。作風は、耽美妖艶の作風を特徴と言われていますが、生活そのものが文となって出ていたのでしょうか。代表作に、「わが最終歌集」、「鶴は病みき」、「老妓抄」が有ります。1939(昭和14)年2月18日、病死、49歳でした。

写真4

岡本かの子は、明治二十二年三月一日誕生し多摩河畔二子の郷家にて成長せり祖先代代武蔵相模に栄えし旧家の血脈と多摩川の清流とはかの子の生命に深く愛染し作品のうちに多様なるすがたをもって表現されたりかの子は若くして和歌を学び長じて佛道を修めあるひは東西の藝文にひろく接して昭和十四年二月十八日眠去の日なむ華麗なるいのちを燃えあがらせつつ幽玄にしてまた絢爛たる文学の道を辿れりここに川崎市有志ならびに友人知己その業績を讃え故人をしのびてかの子文学碑を建立す 昭和三十七年十一月一日 亀井勝一郎文 川端康成書

大貫雪之助 (ペンネーム 晶川) 高津観光協会の説明書に拠れば、『「雪之助」は明治20(1887)年2月22日、橘樹郡高津村二子の大貫寅吉の次男として生まれ、旧制第一高等学校在学中に文才を認められ、妹カノと共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新詩社」に参加し、東京帝国大学英文科*在学中、第二次「新思潮」が主宰する創刊に当たり、谷崎潤一郎、和辻哲郎、木村壮太、後藤末雄などと共に同人として活躍し、その前途を期待されたが、大学卒業の年の大正元年(1912)11月2日丹毒の病で急逝しました』と有りました。 彼は、旧制第一高等学校在学中の明治43年(1910)に第20回紀念祭寄贈歌として、「藝文(げいぶん)の花咲きみだれ」と言う寮歌を作詞しています。下記に2番までを記載します。(*:郷土史家の鈴木穆氏の資料「高津物語(上)」では仏文科となっています。)

藝文の花咲きみだれ 思想(おもひ)の潮湧きめぐる 京(みやこ)に出でゝ向陵に 學ぶもうれし、武蔵野の 秋の入日(いりひ)はうたふべく 万巻の書は庫(くら)にあり 降りつむ雪にうづもれて 春を營む若草の わかき心を誰か知る なべての眠さめぬとき 眞闇(まやみ)の中に人知れず 鳴く鷄(くだかけ)を誰か知る

4

岡本太郎は説明を待つまでも無く、日本を代表する芸術家でした。明治44年(1911) 2月26日、神奈川県橘樹郡高津村大字二子で生まれました。両親との渡欧を機に昭和4年(1929)から10年間、若くしてパリで芸術活動を続けました。その間、パブロ・ピカソの作品に深く影響されたと言っています。彼の代表的な作品は、大阪万博の「太陽の塔」、「明日の神話」、「坐る事を拒否する椅子」等、1996(平成8)年1月7日、84歳にて亡くなりました。

年配の方には岡本一平の漫画は、懐かしく思い出されるのではないでしょうか。彼は明治19年(1886)6月の生まれで、昭和23年(1948)没、62歳でした。東京美術学校(後の東京芸術大学)に入学し、藤島武二に師事して西洋画を学び、卒業後、朝日新聞に

入社して漫画記事を書いたと言われています。その間、「一平塾」を作り、近藤日出造、杉浦幸雄、清水昆らを育てています。

5

写真5

鳥居から道を進めると200m程で光明寺(写真5)に着きます。光明寺は真宗大谷派大悲山光明寺と言い、大貫家の菩提寺です。墓石は楠の大木の傍に建ってあり、格式高い名主家の墓石であることが分ります(写真6)。

縁起に拠れば、光明寺は慶長6年(1601)に二子塚光明寺として創建され、その後、幕府の命により二子本村から矢倉沢往還筋に7軒百姓と共に移って来たとのことです。明治に入って七~九年に本堂に「二子学舎」が設けられ、近代小学教育の場となったとのことです。

写真6

光明寺を出て道を溝口方面に400m程進みますと、溝口緑地公園(写真8)が右手に見え、奥に川崎市立高津図書館が見えます。ここは隣に高津小学校が有ります。

写真6

写真7

彼は、明治43年(1910)、「初子」婦人と結婚しています。寅吉は雪之助に大貫家を託したのでしょうが、病に勝てず、25歳で夭逝しました。 彼の墓石は「大貫宗家」の墓石(写真6)の横に、大貫鈴子名により「文学士大貫雪之助之墓」として建立されました(写真7)。 「初子」婦人は事情により、弟の喜久三氏と再婚することになりました。大貫鈴子婦人は雪之助の忘れ形見だったのです。

写真8

6

この緑地の入口に島崎藤村の揮毫に拠る「国木田独歩碑」が有ります(写真9)。 石には「昭和九年之夏 国木田独歩尓ささぐ 歴遊之地を紀念志て」と彫って有ります。この碑は元々溝口の旅館「亀屋」の敷地に有ったもので、旅館の閉店に伴い、ここに移されたものです。独歩はこの旅館の主人を、「忘れ得ぬ人々」の一人に加えて、書いています。 郷土史家の鈴木穆氏の言に拠れば、『冒頭で独歩は「多摩川の二子の渡しを渡って、すこしばかり行くと溝口という宿場がある」と書くが、本当は二子の宿場が黙殺されていることに気付いた地元の方は多いはずだ。しかも「その中程に亀屋という旅人宿がある」とくると「二子の亀屋はどうした?」と考える人も多かろう。 』と言っています。「亀屋」は二軒ほど有りましたが、小

説に出てくる亀屋は、溝口に有った方です。 高津観光協会の説明に拠れば、『明治30年(1897)みぞれまじりの春に、国木田独歩が溝口を訪れたとき、当時旅館であった溝口の亀屋に一泊しました。このことは独歩の作品「忘れ得ぬ人々」 のモデルとなり、この作品によって明治文壇に不動の地位を築きました。独歩と亀屋の関係を後世に記念するため、当時の亀屋主人、鈴木久吉が建碑を計画しましたが、志なかばで世を去りました。彼の俳友達が意思を継ぎ、独歩27回忌を記念し昭和9年(1934)夏、亀屋の前に碑を建てました。題字は島崎藤村が書いたものです。』と有りました。

写真9

写真10

この緑地には又、図書館の建物の近くに、岡本かの子の歌碑が有ります。かの子は桜花が好きで138首の歌を詠んだと言われています。その中の一首を息子の岡本太郎の撰で、「桜花」が素材の水晶石に彫られています。見づらいので以下に記載します。( )内は小生の老婆心で付け足しました。 さ倶ら百首乃うち 岡本かの子 「宇徒良ヽ わが夢むらく 遠方能 水晶山尓 散類 さ倶ら花」 (うつらうつら わがゆめむらく おちかたの すいしょうやまに ちるさくらばな) 前述鈴木穆氏の言に拠れば、『かの子は、晴れた日二子玉川から遠望する箱根や富士山、雪を戴いた甲斐の山々の神々しきに、子供の頃から遠くの山々は「水晶」で出来上がっていると信じていた。水清き多摩川は生涯、川の心をその文学の源泉として生成発展させもした』と「高津物語(上)」で書いています。 又、『敬愛する兄、雪之助の水晶にちなむペンネーム-”晶川”の追慕の意味からも 』と書いています。精神的に病み始めたかの子にとって、救いの一つは兄であり、

歌の中に兄の形見を入れることにより、安心を求めたのではないかと、小生は勝手に思いました。

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以上説明しました様に、高津の知的水準は、二子の大貫家に拠って支えられたものと言えると思います。そんな気持ちで足を進めると、緑地の直ぐ傍に、高津の大地主であった田中家の面影を残す建物が有ります(写真11)。

写真の建物は、蔵作りの「呉服・寝具」のタナカで、現役で営業しています。後述「大山ふるさと館」の明治末の地図には、田中呉服店は乗っていませんので、恐らく田中家の蔵として作られていたものを後年、「呉服」店として開業したものと思います。 また真向かいには地元で有名な「写真のタナカヤ」が有ります。この一角は、田中家の広大な土地だったのです。 そう言えば、大地主の田中家はどうなったのでしょうか。先程、高津銀行の倒産により、大貫家は財を失ったと書きました。「高津物語(上)」に拠れば、『高津銀行の頭取をしていたのが本家の田中清助氏でした。屋号を「油田中」と言い、菜種油を扱っていたとのことです。 油田中の菜種油搾りは、幕府への冥加金が他業者より少なく、経済的に有利であったことと、横浜の開港で外国貿易が始まり、生糸に次いで菜種油が歓迎され、高価な値がついたため、油田中は使用人を雇い入れて輸出用の菜種油を生産した。』と有ります。

人間まじめ一筋に生きていれば、良いものを、そうは問屋が卸さないのが世の常・人の常です。その田中清助氏は「相場」を遣っていて、銀行業務とは関係ない投機の失敗により銀行がこげつき・倒産したとのことです。

高津物語(上)は更に『高津の発展に大きく貢献した高津銀行は、富裕な旧家が合資した銀行のため、倒産によって高津村は一転して衰退し、田中屋本家は一家離散した。このため、田中屋分家のハカリ田中が営々として宗隆寺の墓守りをする運命となった。 』 と続けています。

ハカリ田中は大山街道と府中街道の角に立っており、ハカリの他にお茶も販売しています(写真12)。 付け足しですが、ハカリ田中の前を通っている府中街道(R409:明治の終わり頃までは「川崎新道」と呼ばれていた)は、大正10年頃は、このハカリ田中の

所で終わっていたみたいです。「旧府中街道」は、この所より溝口側へ寄った細い道だったそうです。

写真12

写真11

8

土地・財産等を失ったことについて、大貫家は財政的に窮乏に陥りました。その時の事

を雪之助の弟の喜久三氏(写真13)は「杏林蟲語」 (きょうりんちゅうご)(1995年、大貫誠)

の中で以下の様に述べています。

『 四月に父の無限責任社員をしてをりました銀行が破産致しました。原因は頭取が父等

の銀行法に暗く人まかせにしておいたのをよいことにして、相場に手を出して預金を消

費して仕舞ったのでござゐます。頭取はなかなかの資産家で、これを提供すれば事は

治まるのでござゐますが、非常に破廉恥な男で、自分の非を悔ゆることもなく、預金者を

瞞着しやうとしてをります。父は律義一途な気質から預金者の損失に対しての気配りを

重んじて事を治め様として仲間割れが出来たり、親類が関係したりする事柄は錯雑紛糾

して只今もまだ形がつかない有様でござゐます。この頃では慣れも致しましたが、起っ

た当時は父も家族も危倶と不安の念に悩まされました。 』 写真13 (杏林蟲語より引用)

栄枯盛衰は世の常ながら、何故か悲しくなってきます。道を溝口方面に進めましょう。

写真14

川崎歴史ガイド 大山街道ルートの説明に拠れば、江戸時代からの薬屋として

この蔵作りの「灰吹屋」(はいふきや:写真14)を紹介しています。

『江戸期、この辺りで唯一つの薬屋だった「灰吹屋」。街道をゆく旅人はもちろ

ん、小杉、登戸方面からも買いに来たという。今に残る蔵は、昭和35年まで店

として使われていた。』との説明です。

隣が現在??も薬局を営んでいる「灰吹屋」で、創業明和2年(1765)とシャッター

に書いてあります。溝口には「灰吹屋」が3軒程あり、地元に根付いた薬局と

なっています。

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灰吹屋の近くに、大山街道ふるさと館(写真15)が有ります。ここは大山街道に

ついての全般を説明する博物館で、特に高津村に焦点を当てた資料を展示し

ています。ここは、元、高津町役場が有った場所です。

展示内容を少しご紹介致します。

入ると直ぐの所に大山阿夫利の神に奉納する木で出来た大きな細長い剣が

有ります。その傍に「近世神奈川の主要道と矢倉沢往還(大山街道)」の地図

が有り、東海道、中原街道、大山街道、甲州街道の主要街道・脇街道とそれ

らに直交する品川道、八王道、稲毛道、神奈川道、柏尾通大山道、伊勢原道、

蓑毛通大山道の関係が分る地図となっています。

次に二子・溝口を中心とした大山街道の町並みの地図が3枚続きで掲載され、

町の規模が分る様になっています。「明治終わり頃の家並みの様子」と副題

が付いていますので、当時の生活を知る貴重な資料と言えます。

その他に、生活必需品についての数多くの展示品が有ります。

写真15

大山街道ふるさと館の隣に、人間国宝の陶芸家「濱田庄司」が育った「大和

屋」の建物が有ります(写真16)。 3年位前まで「ケーキの大和」と言う名で商

売し、品の良い調度と落ち着いた雰囲気のカフェでした。小生もその雰囲気を

数度楽しんだことが有りました。

現在は代が変わったのでしょうか、規模を縮小し、「ANDY GARDEN 」と言う名

前でケーキとカフェを提供しています。

高津観光協会の説明に拠れば、『のちに栃木県益子(ましこ)に住み、益子焼

の名を高めた浜田庄司は、わが国最初の人間国宝でもある。溝口で生まれ*、

少年期を祖父の家「大和屋」で過ごした庄司は今、この近く、宗隆寺に眠る。』

と説明が有りました。 (*:高津物語(上)では、「芝三田の生まれ」と有ります)

写真16

10

足を進めましょう。 溝口と言えば歴史的に有名な「溝口水騒動」が有りました。

稲毛領(現在の久地、溝口、新城、小杉等)と川崎領(現在の下平間、小向、川崎、大師

等):の二カ領の農民達は田に水を引くため、久地(くじ)に分量樋を設け、そこに4堀を作

りました。根方13ケ村堀、川辺6ケ村堀、久地溝口二子村堀と川崎掘です。この内、一

番大きいのが川崎掘です。川崎掘は市ノ坪、木月、平間、鹿島田、小向、川崎、大師等

に給水していました。このため、溝口を流れている用水を二カ領用水と言います。

時は文政4年(1821)、春以来の旱魃で水不足が発生し、稲毛領と川崎領:の二カ領の

農民達、特に二カ領用水の下流に当る川崎領には殆ど水が流されず田植が困難と

なっていました。このため、管轄奉行に川崎領の農民は水を下流に流してくれるように

打開策を依頼して、一時的に解決を見ましたが、旱魃は解決せず、益々田植が困難と

なりました。少しでも水を引きたいのは、上流・下流を問いません。

同年7月に、当時溝口の名主をしていた鈴木七右衛門配下の農民が、久地分量樋の

川崎掘を「雨乞い」の名目で草筵で堰き止め、溝口側の堀に水を引き入れました。この

ため、死活が掛かっている川崎領の農民達は、溝口に幟、鳶口等を持って押し寄せ、

名主の鈴木七右衛門宅及び隣家を打ち壊したのです。古文書では、打ち壊しに参加し

た川崎領の農民達は一万人と記載されていますが、道が整備されていなかった当時の

畦道を一万人が短時間で溝口まで押し寄せることは不可能だったと思います。

写真17

写真17は、二カ領用水に架かる大石橋の燈籠と、その奥、シートの掛かっている建物の場所が鈴木七右衛門宅が有った所です。

この騒動により、川崎領の首謀者と目された粂七(くめしち)は江戸十里四方追放、川崎宿・その他の19ケ村の名主・年寄は急度

(きっと)お叱り、又村高に応じて過料が科せられました。

当の鈴木七右衛門は、度々の堰き止めの行為により、所払い、久地村・溝口村の名主・年寄は過料、又村高に応じて過料が科せ

られました。

江戸時代、全国各地で日照りに起因する水騒動が起こりました。

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二カ領用水の大石橋を上流に100 m 行った所に写真18に示す「濱田橋」が有ります。先程触れました

が、この橋は「濱田庄司」を記念して命名された橋です。

濱田庄司は説明を待つまでも無い世界的に著名な陶芸家です。彼は東京府芝三田の生まれで、四歳

の時に病弱で空気のきれいな多摩川河畔の溝口の祖父の家で育ったと言われています。その時に大

貫雪之助や大貫カノの知的レベルの高さに強く影響を受けたと高津物語(上)は述べています。

更に、『漬田庄司の父方の実家「和菓子大和屋」、現在の”:ケーキ大和” の裏手には、橋本邦三という親戚の美校生(現在の東京芸大美術学部)で、洋画を学んでいたハイカラなアトリエがあり、いつも絵画の手ほどきを受け、将来は自分も画家になることを強く希望してもいたのである。 』と有ります。 『画家志望の濱田が陶芸に転じる最終決断をさせたのは、その昔、大貫雪之助を訪れた木村荘太の

八番目の弟、荘八の家のルノアlルの一言葉” フランスには、大変多くの美術志望者がいる筈だが、な

ぜそのほとんどが絵だけを描きたがるのだろう。半分でも三分の一でも、工芸の道に入ってくれれば、

工芸の質も大きく向上するだろうし、画家同志の過当競争も緩和されるであろうに”であったことは、運

命の偶然である。 』と結んでいます。

写真18

写真19

写真20

濱田庄司

明治27年溝口に生まれる 本名象二

高津小学校に学び東工大を卒業 英国

人陶芸家バーナード・リーチと共に陶芸

にめざめ栃木県益子で作陶に入るや

益子焼を芸術に○て高めた奥に高津

の心があった 柳・河井らと民芸運動を

興し沖縄文化等に注目する 日本民藝

館二代目館長 昭和30年第一回人間

国宝 昭和43年文化勲章

昭和51年川崎市文化賞を受賞 昭和53年死去 83歳 少年時代親しんだ七面山麓 宗

隆寺に眠る この濱田先生の偉大な業績を讃え濱田橋と命名した 平成四年六月吉日

写真19に濱田橋に関する撰が有ります。

写真20は、欄干に嵌めてある濱田庄司による陶芸タイルです。「暮去春来」と読むのでしょうか、「春去春来」と読むのでしょうか

12

少し急ぎましょう、日が暮れそうです。

大石橋を 150 m ばかり歩くと、溝口神社が見えます(写真21)。 御祭神は天照皇大神と日本武尊です。

写真21

神社の縁起に拠れば、『創立年代は定かでないが、神社が保存している棟札

に拠れば宝永5年(1709)、武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造

営を僧・修禅院日清が修行したと記されている古社で…』の説明が有りました。

兎に角、ここは溝口村の鎮守で赤木社と呼ばれていたとのことです。そう言え

ば、ここには勝海舟揮毫の大幟が二流れ有ると聞きました。「一郷咸神明零

蒙」と「萬家奉祝太平和」です。元々は文化十一年(1814)に、名主鈴木七右衛

門(水騒動で所払いを受けた人物とは別人)が江戸後期の儒者で能書家の亀

田鵬斎に依頼して書いても貰った物だそうです。その痛みが酷くなったので、

廻り回って勝海舟に依頼したとのことです。

最後に日蓮宗の宗隆寺(写真22)を紹介して今回は終

わりとしましょう。

以上述べてきた事より推察される様に、この寺には著

名人が葬られています。大地主の田中家の人々、名

主の鈴木七右衛門の一族、濱田庄司等です。

写真22

写真23

写真23は濱田庄司の書に拠る

「昨日在庵 今日不在 明日他行」の詩

です。

『陶芸家として世に出た先生は栃木県

益子に窯を築き「世界の濱田」と称えら

れる活動をされましたが本籍地は生涯

「溝ノ口672」のままでした』とお寺の看

板に彼を称賛する辞が有りました。

行雲流水の心を持つ芸術家にしても、

故郷忘れがたしだったのでしょうか。