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禅宗様伽藍配置と身体メタファー:身体投射の動機付け * The temple building layout of the Zen sect in Japan and the human body metaphor: A conceptual motivation of human body projection OKIMOTO Masanori ABSTRACT Traditionally the Zen sect temples in Japan have been composed of chief seven buildings called shichidō-garan” for the sections of a temple in Japan. The layout which was originally introduced from the Zen religious school in China includes a main gate (sammon), a Buddha hall (butsuden), a lecture hall (hattō), a meditation hall (sōdō), a temple’s office or a kitchen (kuri), a toilet room (tōsu), and a bath (yokusitsu). In Japan the layout has been sometimes regarded as a metaphor for the human body and master priests have explained the character of each building. Moreover, such a body model has been used by master temple architects to grasp the layout of a temple at a glance. It has been insisted that there is no such a model in China and that it is a unique model restricted to Japanese Zen temple architecture. Human metaphors for objects are well-known all over the world, but such a way of viewing the temple in the form of a human body is thought to be original in Japan. No variations in the form can be seen in the model of the master priests, whereas some variations can in that of the master temple architects. Although the model is known, it is not clear when and why it was introduced originally. The purpose of this paper is to investigate the motive from the viewpoints of religion and cognitive science and suggest some origins of the variations of the model. The analysis is done to look into the conceptual motivation of the projection of the human body and the influence of mandala religion on Buddhism in Japan. It should be concluded, from having examined secret initiation documents (kirigami) and architectural reference books (kiwarisho), that the temple building layout of the Zen sect in Japan has a strong connection with three-dimensional mandalas. 0.はじめに 鎌倉時代に禅宗(臨済宗,曹洞宗)とともに宋から導入された寺院建築様式に禅宗様がある。その特徴 の一つに七堂伽藍の配置がある。それは,当時の臨済宗の巨福山建長寺(1253 年創建)の伽藍図(1331を江戸時代(16031867)に書写した図にあるように,南北を基本軸として一直線上に重要な堂宇を並べ, 他の主要な堂宇をその基本軸に対して左右対称に置くという配置である。鎌倉時代から室町時代前期まで は,臨済宗と曹洞宗の伽藍配置の差異はほとんどなかったと考えられている(横山 1958: 1-3, 96-98)。臨 済宗の慧日山東福寺(1236),瑞鹿山円覚寺(1278),正法山妙心寺(1337),曹洞宗の東香山大乗寺(1289), * 文系総合学科 31

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禅宗様伽藍配置と身体メタファー:身体投射の動機付け

沖 本 正 憲*

The temple building layout of the Zen sect in Japan and the human body metaphor:

A conceptual motivation of human body projection

OKIMOTO Masanori

ABSTRACT

Traditionally the Zen sect temples in Japan have been composed of chief seven buildings called“shichidō-garan” for the sections of a temple in Japan. The layout which was originally introducedfrom the Zen religious school in China includes a main gate (sammon), a Buddha hall (butsuden), alecture hall (hattō), a meditation hall (sōdō), a temple’s office or a kitchen (kuri), a toilet room (tōsu),and a bath (yokusitsu). In Japan the layout has been sometimes regarded as a metaphor for thehuman body and master priests have explained the character of each building. Moreover, such abody model has been used by master temple architects to grasp the layout of a temple at a glance. Ithas been insisted that there is no such a model in China and that it is a unique model restricted toJapanese Zen temple architecture. Human metaphors for objects are well-known all over the world,but such a way of viewing the temple in the form of a human body is thought to be original in Japan.No variations in the form can be seen in the model of the master priests, whereas some variations canin that of the master temple architects. Although the model is known, it is not clear when and why itwas introduced originally. The purpose of this paper is to investigate the motive from the viewpointsof religion and cognitive science and suggest some origins of the variations of the model. Theanalysis is done to look into the conceptual motivation of the projection of the human body and theinfluence of mandala religion on Buddhism in Japan. It should be concluded, from having examinedsecret initiation documents (kirigami) and architectural reference books (kiwarisho), that the templebuilding layout of the Zen sect in Japan has a strong connection with three-dimensional mandalas.

0.はじめに

鎌倉時代に禅宗(臨済宗,曹洞宗)とともに宋から導入された寺院建築様式に禅宗様がある。その特徴

の一つに七堂伽藍の配置がある。それは,当時の臨済宗の巨福山建長寺(1253 年創建)の伽藍図(1331)

を江戸時代(1603~1867)に書写した図にあるように,南北を基本軸として一直線上に重要な堂宇を並べ,

他の主要な堂宇をその基本軸に対して左右対称に置くという配置である。鎌倉時代から室町時代前期まで

は,臨済宗と曹洞宗の伽藍配置の差異はほとんどなかったと考えられている(横山 1958: 1-3, 96-98)。臨

済宗の慧日山東福寺(1236),瑞鹿山円覚寺(1278),正法山妙心寺(1337),曹洞宗の東香山大乗寺(1289),

* 教 授 文系総合学科

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諸嶽山総持寺(1321)など,禅宗寺院では基本的にこの形式で七堂伽藍を構成していた。しかしながら,

当時の寺院は,一部の堂宇を除き創建時の建物のほとんどが焼失してしまい,現在見ることができる堂宇

の大多数は復元されたものである。

図 1

禅宗寺院では,伽藍配置を人体に見立てることがある。たとえば,1246 年に創建された曹洞宗の吉祥山

永平寺の七堂伽藍では,法堂が頭,仏殿が心臓,僧堂が右手,大庫院が左手,東司が右脚,浴司が左脚,

山門が腰部を表すと言われている。また,1660 年頃に完成した曹洞宗の高岡山瑞龍寺の七堂伽藍では,身

体との関連が明確に示されており,総門付近に「瑞龍寺伽藍復元図」(図 1)が設置されている。そこには

人体表相図(図 1 右)が示されており,北を上にして[方丈-頭、法堂-胸,佛殿-心,山門-隠,廚庫

-左手,僧堂-右手,浴室-左脚,西浄-右脚]とある。瑞龍寺(私信/2012 年 7 月 29 日)によると,「瑞

龍寺伽藍復元図」の人体表相図は,加賀藩御大工七代目棟梁の山上善右衛門吉順が所持した加賀建仁寺流

系本『金山寺図』(1809?)に基づくものである(河田 1990: 660)。禅宗様伽藍配置を七堂伽藍と称する最

も古い記述は,現存する資料では 1400 年代中頃のものである。また,伽藍配置を人体に見立てる最古の記

述は,筆者が本稿で確認した資料では 1500 年代前半のものである。しかし,それらの資料には,七堂伽藍

という名称および人体表相図が,どのような経緯で生まれたかについて明確にしている記述はない。

ある事物を人間の身体に見立てて,その構造や他者との関係を理解したり,その事物に対して何らかの

特別な感情を抱いたりする認知手段を,筆者は「身体投射(human body projection)」と呼んでいる(1)。身

体投射が行われる動機付けとして,人間と事物との間に見られる類似性が考えられる。しかし,筆者は七

堂伽藍を人体に見立てる動機付けを,形状の類似性だけに求めることはしない。日本の神社仏閣において,

禅宗寺院の他に伽藍を人体に見立てることをしないことから,おそらく禅宗独自の動機付けがあったので

はないかと推測する。換言すれば,宗教が人間にとって特別な意味を持つ存在であることから,人間と伽

藍との間に何らかの宗教的要因が媒介し,人体と建物を結びつけたのではないかと推測する。それを裏付

ける資料として,寺院建築に関わる棟梁たちの間で代々伝わる木割書(設計書)の人体表相図の中に,七

堂伽藍の宗教的な背景を示唆する画と記述がある。

本稿では,人体表相図が日本の禅宗寺院の伽藍形式を示す手段として用いられた動機および人体表相図

の起源について考察する。[1]では,本稿の考察に至る経緯として沖本(2013)の概要を示す。[2]で

は,人間の身体を物体に投射する認知的枠組みについて,身体部位詞を物体部分詞に比喩的に意味拡張す

る事例を見る。[3]では,七堂伽藍という名称および人体表相図の起源に関する諸説を考察する。[4]

では,身体を都市に見立てる古代中国の風水思想を考察する。仏教が中国を介して日本に渡来したという

歴史的経緯から,環境を身体との関係で捉えるという考え方を,禅宗が風水思想から伽藍構成に導入した

可能性について検討する。[5]では,東アジアにおける家屋の身体モデルの例として,インドネシアのリ

オ族の住居を考察する。文化人類学は神話を分析することで民族の歴史的事実を明らかにしてきたが,こ

こでは建物の背景に部族のルーツに関する歴史的事実が存在する事例を示す。[6]では,建築物や住居の

設計に人型の曼荼羅を用いる古代インドのヴァーストゥ・シャーストラを考察する。このヴァーストゥ・

シャーストラは,[地,水,火,風,空]の五つの要素と深い関係を持つ思想である。密教ではこれら五つ

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の要素はマクロコスモスを構成する五大原質であると考えるが,密教は禅宗と歴史的に関係がある。しか

も,仙台の朴澤家文書に見られる人体表相図には,これら五つの要素が記入されている。[7]では,切紙

の人体表相図について,石川力山の一連の研究を考察する。石川の研究は,中世曹洞宗の切紙に関する数

少ない貴重な研究であり,その資料に基づいて切紙の人体表相図の起源について検討する。[8]では,各

木割書の人体表相図を相互比較・検討する。そして,人体表相図が代々伝承されてきた中で誤謬が生ずる

様子や禅宗寺院と密教との関係について言及する。[9]では,木割書にある人体表相図の中には他の資料

と異なり,上下の向きが逆になっている人体図があるが,そのような異種の存在について身体メタファー

の観点から考察する。また,定位のメタファーが意味するところについて,認知言語学の視点から,切紙

と木割書に掲載された人体表相図の原型と成り立ちについて推定する。[10]では,七堂伽藍と曼荼羅との

関係について考察する。そして,七堂伽藍の堂宇は五大を顕現化したものであり,人体表相図には支分生

曼荼羅が当てはまることを確認する。[11]では,塔を中心に据えた飛鳥寺式伽藍様式が時代とともに大き

く変化していく中で,禅宗様伽藍配置を思想的にどのように捉えるかという問題を考察する。そして,人

体表相図は七堂伽藍を身体部位に見立てた支分生曼荼羅であり,七堂伽藍は伽藍曼荼羅であるという結論

に達する。

1.沖本(2013)

沖本(2013)では,古くから世界各地で建築や都市に人間の身体モデルを用いてきたという事実につい

て概観し,日本の禅宗寺院の伽藍構成を身体に見立てる事例について考察している。本稿はその続編にあ

たる。ここで,沖本(2013)の内容について,補足説明を加えながら要約する。

最初に,人間の身体を建築物に投射した事例として,古代ギリシア建築の柱の様式(order)を挙げ,ド

リス式を男性,イオニア式を女性,コリント式を少女に見立てたことを紹介している(ウィトルーウィウ

ス 1979)。近代では,サヴァワ邸(Villa Savoye)に見るように,ル・コルビュジェ(Le Corbusier)の建

築は身体の枠組を用いて頭部(屋上庭園)・胴体(2 階部分の主室)・脚部(ピロティ)という人体の三層

構造を垂直軸で模倣している。同様の事例として,エッフェル塔など建物に人間のニックネームをつける

ことがあると指摘している。また,ファサード(façade)の語源が顔(face)であるように,建築には人間

の身体部位から転用した用語が多く使われていることを,日本語と英語の例で示している(沖本 2010b)。

次に,19 世紀中頃のパリの都市改造事業について述べている。当時のパリでは,人体の網状組織,血液

循環などの医学的知識の影響を受け,上下水道や交通路を網状のネットワークにするという構想があった。

都市改造事業では,凱旋門から放射状に 12 本の大通りを造ることで,パリに平面幾何学的な区画整理を行

った。このような放射状の大通りに基づく区画にしたのは,古代ギリシア哲学の影響であり,古代ギリシ

アでは,幾何学的な身体モデルを神殿建築に導入することで宇宙(完結した世界体系)の秩序を表現した。

そして,幾何学的なシンメトリーを保つことが[宇宙~都市~建物~身体]の照応を意味し,マクロコス

モス(宇宙)とミクロコスモス(人間)が唱和して美しい調べを奏でると考えられていた。

続いて,日本の仏教寺院の伽藍配置の歴史について述べている。寺院の主要な建築物を伽藍というが,

その歴史は中国の後漢時代に遡る。日本には仏教の伝来に伴って,朝鮮半島の伽藍様式が入ってきた(青

木 2000)。日本最古の伽藍様式は,6 世紀末の飛鳥寺式(図 2)である。飛鳥寺では,中門から発する回廊

が塔と三金堂(東金堂,中金堂,西金堂)を囲み,回廊の外に講堂を配置していた。塔は中門・中金堂・

講堂を結ぶ一直線上に配し,左右に金堂があった。同じ頃に建立された伽藍様式に四天王寺式(図 3)が

ある。四天王寺では,中門から発する回廊が塔と金堂を囲み,講堂で閉じられており,中門・塔・金堂・

講堂が一直線上に配置されていた(内藤・藤木 1972: 19)。本来塔は,インドで生まれたものであり,仏舎

利を納め涅槃を象徴する重要な堂宇であった(武澤 2009: 60)。この後,伽藍配置は少しずつ変化する。

平安時代初期には,天台宗や真言宗が密教寺院を山奥や森林に建立し,山地伽藍と呼ばれる地形に合わせ

た堂宇の配置を行った。平安時代後半には,貴族や皇族の浄土信仰から阿弥陀堂を建立し,平等院に見る

ような池を備えた浄土庭園が造られ和様化した。

伽藍配置は,小さな寺院では本堂と鐘楼だけであるが,大きな寺院では後世に七堂伽藍と呼ばれる構成

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になっている。七堂伽藍とは,寺院として具備すべき七種の主要な堂宇のことであるが,「瑞龍寺伽藍復元

図」(図 1)のように,堂宇の数が必ずしも七つとは限らない。一般にはすべての堂宇が具備されているこ

とを指すが,単に一通りの建築物が揃っている大きな寺院の伽藍配置をいう場合もある。『太子伝古今目録

抄』(1227)によると,古くは[塔,金堂,講堂,鐘楼,経蔵,僧房,食堂]を指すが,時代や宗派によっ

てその構成は異なる(塚本 1936: 1910)。

飛鳥寺式 四天王寺式

図 2(内藤・藤木 1972: 19) 図 3(内藤・藤木 1972: 19)

鎌倉時代に,南宋で禅を学んだ二人の僧が禅宗を日本に広めた。それが 1191 年に臨済宗を開いた栄西

(1141~1215)と,1228 年に曹洞宗を開いた道元(1200~1253)である。禅宗建築では宋の様式が取り入

れられ,1253 年創建の臨済宗の建長寺に見るように,山門,仏殿,法堂を中軸線状に配し,回廊をめぐら

した左右対称の七堂伽藍を設置した。建長寺の伽藍図の書写「建長寺指図写」(1732)(図 4)にあるよう

に,その構成は[法堂,仏殿,山門,僧堂,庫裏,西浄,浴室]の七つからなっている。この構成は,鎌

倉や京都に建立された多くの寺院の原型となり,長く踏襲された(青木 2000:40, 内藤・藤木 1972: 22)。

図 4(青木 2000:40) 図 5(太田 1971: 242)

最後に,伽藍の構成と人体表相図の関係について述べている。禅宗寺院では,七堂伽藍を人ないしは仏

の身体に喩える。「瑞龍寺伽藍復元図」(図 1)と同じ人体表相図は,江戸時代(1603~1867)後期から明

治時代(1868~1912)頃の加賀建仁寺流系本『禅宗七堂之巻』に「禅宗之七堂」として掲載されており,

[方丈,法堂,佛殿,山門,廚庫,僧堂,浴室,西浄]の八つの堂宇を七堂としている。瑞龍寺の伽藍配

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置のモデルとされる径山寺(金山寺)とは,中国浙江省杭州市にある臨済宗黄竜派の径山興聖萬壽禅寺を

指す。この径山萬壽寺は,禅宗寺院で最高の寺社格である南宋五山の一つに数えられる。河田(1990: 113)

が,「「建長寺興国禅寺碑文」に「擬天下径山,為五岳之首」と径山万寿寺すなわち宋式伽藍を模したと自

負した」と記しているように,建長寺は中国の建築様式を取り入れた格式の高い寺である。この様式が,

日本禅寺七堂伽藍の基本形となった。建長寺の開山は,北条時頼(1227~1263)が招聘した南宋出身の蘭

渓道隆(1213~1278)である。この後,建長寺は鎌倉禅の一大中心と発展するが,蘭渓は栄西が開山した

臨済宗の東山建仁寺に移り,京都において禅宗の発展に尽くした(今枝 1989)。

曹洞宗では,師匠が弟子に大法を教授するときに,人体表相図を用いて七堂の性格を説明した。また,

寺院建築に関わる棟梁たちの間でも人体表相図は用いられた。江戸幕府大棟梁の平内正信の木割書『匠明』

(1608)の写本(1700 頃?)に,これと似た人体表相図(図 5)が見られる。太田(1971: 239)に「人体比

喩図」と記載されているその図は,『匠明:堂記集』の裏面に描かれており,頭を北にして[方丈-頭,鐘

楼-左耳,経蔵-右耳,法堂-胸,佛殿-腹,山門-隠,庫裏-左手,僧堂-右手,浴室-左脚,西浄-

右脚]となっている(伊藤 1971: 299-305,太田 1971: 242)。禅宗では,朝鮮半島から仏教が伝来して以来,

大陸様式にならって仏殿は伝統的に南向きとなっている。中国では古代から,宮殿は「天子南面,臣下北

面」の思想に基づいて「坐北朝南」として南向きに建てられており,寺院建築もそれに倣ったとされる(積

山 2009)。したがって,北を上位,南を下位と見なす。それにもかかわらず,人体表相図の中には,上下

が逆転して,頭が南となって山門の位置に描かれている図がある(河田 1990: 112-113)。

このように,伽藍配置を人体表相図で説明する習わしが禅宗寺院で見られるが,人体表相図の出所は不

明である。横山(1967: 71)は,「恐らく中国では七堂伽藍の称はなかったものと考えられる。要するにこ

のような説は,わが国で禅宗建築が大成し形式化するに伴って生じたものと思われるが,もちろんわが国

禅刹の伽藍配置が中国の禅林とは全く無関係の独自の様式であるはずはなかろう」と述べている。後年,

横山(1976: 140)は,「人体表相の七堂伽藍配置は日本禅林で定形化されたもの」としている。

人間の身体部位を各堂宇に見立てるという認知的な枠組みについて,認知言語学の研究では次のような

分析がある。たとえば,「テーブルの脚(the leg of a table)」という表現のように,物体の部分(物体部分

詞)を身体の部位(身体部位詞)に見立てる動機として,位置・形状・機能の類似性が知られている(松

本 2000)。「瑞龍寺伽藍復元図」(図 1)からも分かるように,七堂伽藍の形状は人の姿・形と共通点があ

る。しかしながら,古代ギリシア建築がマクロコスモスとミクロコスモスの調和を幾何学的な身体モデル

で表したように,日本の禅宗寺院の僧侶や宮大工の棟梁たちが,伽藍の構成を人体図に見立てた動機とし

て,形状の類似性の他に何らかの宗教的理由が介在していた可能性があるとしている。

2.身体部位詞の物体部分詞への比喩的意味拡張

沖本(2009)は,1999 年にテムズ川の河岸に開業した観覧車ロンドン・アイ(London Eye)の命名に見られ

るような,人間の身体部位を表す語が他の生物や無生物に比喩を介して転用される事例を考察している。こう

した転用は,対象物の理解を促したり,対象物について特別な感情を抱いたりするための認知的手段となって

いる。これが身体投射である。この身体投射は,人間の身体的経験に基づいているため,言語や文化の枠組み

を超えて見られる現象である。言語表現における身体投射について,日本語,中国語,フランス語,英語か

ら例を挙げると,山の麓は,山足也(日),山脚(中),le pied d’une montagne(仏),the foot of a mountain

(英),また,壁の表面は,壁面(日),牆面(中),surface d’un mur(仏),the face of a wall(英)と表現

できるように,人間の物体認知において物体と身体との類似性が意味拡張の動機付けとなり,比喩のカテ

ゴリーとしていくつかの言語で共通した物体部分詞を構成している(Lehrer 1974, 沖本・ノーマン 2010)。

具体的には,身体部位の位置,形状,機能の点で,物体とその部分の関係においても身体との類似性を見

いだすことができることから,人間の身体部位を物体の部分に投射することによって,物体部分詞として

身体部位詞を使用するという認知プロセスをとる(Matsumoto 1999, 松本 2000)。

もちろん,写像の方法に絶対的な規則があるわけではない。日本語と英語で,針の目(the eye of a needle),

結び目(the eye of a rope)では目(eye)を用いるが,鍵穴(a keyhole),笛の穴(a stop of a flute),

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硬貨の穴(a hole in a coin),ドーナツの穴(a hole in a doughnut)では目を用いない。また,機首(the

nose of an airplane),魚雷や砲弾の弾頭(a warhead/war nose),水差しの取っ手(the ear of a pitcher),

銃口(the nose/muzzle of a gun),パンの耳(the heel of bread)など,写像されるときでも各言語で異

なる部位を用いることがある(2)。このように,比喩的意味拡張の形式に異同があるのは,言語や文化に個

別性があるということによる一方で,人間の経験基盤に由来する事象の解釈システムに共通性があるから

だと認知言語学では考える。認知言語学では,世界を認識する基盤は人間の身体経験に根ざすという立場

を取っており(Johnson 1987, Lakoff 1987, Lakoff & Johnson 1999),人間以外の生物についても,人間

の身体認識に基づいて動物の身体部分を捉えていると考える。たとえば,私たちには,足は人間の身体を

支えて歩行する部位であるという認識から,犬・猫を 4 本足の動物と見なすが,「犬がお手をする」,「猫

が手をなめている」と言うとき,「手」とは必ず(人間の手に対応する部位である)前足を指す。

次に,身体部位詞を物体部分詞へと,比喩を介して意味拡張させる動機付けの問題について考察する。

沖本(2009)では,一つの物体の構造を身体全体に見立て,いくつかの身体部位をその物体の各部分とし

て一括転用した例をまとめている。そこでは,人間の身体と物体の部分が位置や形状の点で類似性がある

と認識され,その物体の部分が基体(base)との関係で際立ち,人間の身体部位とその部位を含む身体領

域が平行的に写像される。たとえば,座っている人間を投影した椅子の脚・肘/腕・背(the leg/arm/back of

a chair),立っている姿を写像した山の頭頂・肩・腹・背・山足也(the head/shoulder/ flank/ridge/foot of a

mountain),壺の口・首・耳・胴(the mouth/neck/ear/trunk of a pot),茶碗の口縁・胴・腰(the mouth/trunk/bottom

of a bowl)などがその例である(3)。ディーン(Earl Dean)が 1916 年にデザインしたコカ・コーラの瓶は,

この身体を写像した典型的な例であり,瓶にメイ・ウェスト(Mae West)という当時の人気があったグラ

マー女優の名が,ニックネームとしてつけられた。このように,瓶の場合,首と肩(the neck/shoulder of a bottle)

は形状と位置の類似から,口(the mouth of a bottle)は機能性に加えて,椅子と同様,身体部位(口)が接

する場所であることから写像されやすいと考えられる。このように,身体投射が起こる基盤として,身体

部位の位置,形状,機能が物体とその部分においても類似の関係を見いだすことができることが,主たる

(第一次的な)動機付けになっている。また,物体と身体が接触する場所のように,さらなる共通性があ

れば一層写像されやすい。

一方,身体投射には,愛着や親しみといった心理的要因が動機付けとなる場合がある。たとえば,ニッ

クネームとは,人の本名とは別にその人に親しみを込めて呼ぶ名前であるが,無生物に対しても人間の場

合と同様な感情を抱くとき,その対象物に適用されることがある(4)。1908 年の T 型フォードのニックネー

ム「ブリキのエリザベス(Tin Lizzy)」やエッフェル塔のニックネーム「鉄の貴婦人(La dame de fer)」が

そうである。また,玉座や社長の椅子をイメージすると分かりやすいが,椅子は古くから座る人の権威の

象徴と見なされてきた(多木 2006)。このことは,座っている人間を椅子に投影して,身体部位詞を椅子

の物体部分詞として転用しただけではなく,座る人の属性もまた椅子に投影していることを意味する。こ

こに,世界的に有名な建築家の中には椅子の設計に従事した人が多いという理由がある。たとえば,ル・

コルビュジェの「LC4(chaise longue)」,ガウディ(Antoni Gaudi i Cornet)の「バトリョ・ベンチ(Batllo bench)」,

ライト(Frank Lloyd Wright)の「バレル・チェア(Barrel chair)」,ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van

der Rohe)の「バルセロナ・チェア(Barcelona chair)」,ヤコブセン(Arne Jacobsen)の「スワン・チェア

(Swan chair)」など,非常に多くの例を挙げることができる(沖本 2010b)。そして,この椅子の例を七堂

伽藍と人体表相図との関係に当てはめてみると,人の外形(姿・形)を物体(伽藍の構成)に投影してい

るだけではなく,人の属性(能力,素性,社会的(人と寺院との)関係など)まで物体(伽藍の構成)に

投影しているということになる。

以上のような観点から,日本の禅宗寺院の七堂伽藍について考えると,人体表相図を作成した動機付け

として形状の類似性の他に,禅宗寺院と人間との特別な関係を示すようなものがあったのではないかと推

測する。つまり,「瓶の口は人間の口が接する場所でもあるように,さらなる共通性があれば一層写像され

やすい」と瓶の物体部分詞の例で述べたように,寺院と人をつなぐ特別な理由を見つけることができれば,

それがさらなる(第二次的な)動機付けとして働いたと考えるのである。そして,その特別な理由の一つ

が,[8]で示す仙台博物館所蔵の朴澤家文書『禅七堂伽藍雛形~全』に掲載された人体表相図の中に示さ

れているのである。

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3.七堂伽藍と人体表相図についての記述

横山(1958: 1-3)によれば,七堂伽藍についての記述は,一条兼良(1402~1481)の『尺素往来』が最

も古いとされる。そこには,「七堂者山門,仏殿,法堂,庫裏,僧堂,浴室,東司也。土地堂,祖師堂,方

丈,衆寮並諸寮舎,惣門,脇門,鐘楼,鼓楼,輪蔵,宝塔,月壇,雨打,明楼,廊下及延寿堂等。於塔頭

者卵塔,昭堂等荘麗無極矣。」とあり,七堂伽藍は[山門,仏殿,法堂,庫裏,僧堂,浴室,東司]から構

成されると述べられている。本稿でも,七堂伽藍ということばの最も古い記述をこの『尺素往来』とする。

一方,伽藍配置を人体の表相をもって説明することについては,曹洞宗に伝わる『禅林七堂』の切紙(諸

行法の秘伝口訣書)に記されている(5)。そこには,人体表相図(図 6)を示して「故中華禅林無七堂説。

但於此方禅林,喚上所圖者謂之七堂也。」とあり,中国の禅宗には七堂伽藍という呼び方はないが,日本の

禅宗では,人体表相図に示されている堂宇を七堂と呼ぶと述べられている。筆者が確認した最も古い人体

表相図は,[7]で示す曹洞宗の『室中切紙』(1504~1555?)の図である。

七堂伽藍と人体表相図について,横山(1958: 3)は江戸時代の工匠間に広く伝わっていたと述べ,「禅

宗の七堂伽藍説については特別な根拠は無い様であるが,志那禅刹図式所載の雲隠寺等を祖形として我国

で清規に則った行事規範の形式化に伴い自から生じたもの」と記している。張十慶(Zhang 2002: 54-55)

も中国の文献の中に七堂伽藍ということばはないと述べ,日本で室町時代(1333~1572)に作られたこと

ばだとしている。また,張は筆者の質問に対して,「(1)中国側の禅宗関係の文献の中で「禅宗伽藍と人

体図」について描かれたものは見たことが無い。私見であるが日本側の解釈である可能性もある。(2)中

国の風水関連書物の中には擬人的な表現を使うこともあり,そうした影響の可能性もある」(私信/2012

年 11 月 6 日)と回答している。人体表相図について言及した文献としては,日本最古の本格的な木割書で

ある『匠明』(1608)が知られている。しかし,『匠明』の原典には人体表相図が掲載されていなかったと

考えられている。現在,その原典は残っていないが,写本『匠明:堂記集』(1700?)の裏面に主筆以外の

筆跡で「人体比喩図」(図 5)が書き入れられていることから,原典にない人体表相図が後世に付け加えら

れたと考えられている(伊藤 1971: 2-4, 太田 1971: 242)。さらに,『洞上室内断紙揀非私記』(1749)には,

『禅林七堂図断紙』を含む多くの切紙が,このときすでに書き換えられたものであると指摘されている。

図 6(横山 1967: 69)

臨済宗については,妙心寺系霊雲派の無著道忠(1653~1744)が著した禅宗辞典の先駆的な書物『禅林

象器箋』(1741)の「第二類殿堂門」に,「忠曰。法堂。佛殿。山門。廚庫。僧堂。浴室。西浄。為七堂伽

藍。未知何據。各有表相如圖。」とあり,[法堂,佛殿,山門,廚庫,僧堂,浴室,西浄]を七堂伽藍とし

ている。また,七堂伽藍という名称の出所は不明であるとして,各堂宇と身体との関係を図で示している

ことが述べられている。その図には,[法堂-頭,佛殿-心,山門-陰,廚庫-左手,僧堂-右手,浴室-

左脚,西浄-右脚]とある(無著 1909: 12)。ただし,『望月佛教大辞典』の「シチドウガラン」の項で,

信亨は,「又禅林象器箋殿堂門にも表相圖を出せり。是れ佛體の頭と心と陰と及び四脚,又は佛面の頂と鼻

と口と両眼及び両耳を表示せるものとなすも,固より附會の説に過ぎざるべし」(1936: 1911)と記し,人

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体表相図はこじつけによる説だと述べている。しかし,口伝による誤りを避け,法を正確に伝承するため

に用いられたという切紙の本来的な役割と,石川力山の一連の研究「中世曹洞宗切紙の分類試論(1)~(23)」

(1983-1994)から考えて,曹洞宗の切紙に記載された人体表相図を単にこじつけだと見なすことには無理

がある。このことについては,[7]で述べる。

[1]で述べたように,横山(1967, 1976)は,中国では七堂伽藍の称はなかったものと考え,日本で禅

宗建築が大成し形式化するに伴って生じた名称だと推測している。河田克博は,このことについて個人的

な見解として,「人体表相図との関連ですが,これが南宋から伝わった内容なのかどうかは判りません。少

なくとも七堂伽藍と人体部位を対応させる発想は,上記(日本では「七」を完成した(=理想的な?)数

字として考える傾向があるが,中国では「九」を完成した数字として見ている傾向が強い,ということ)

のように中国では「七」を必ずしも完成した数字としていないことから見ると,日本独自の発想と察せら

れます。ただし,伽藍の建物配置の手法は,『建長寺指図』に見るように,「建長興国禅寺碑文」に「擬

天下径山,為五岳之首」と径山万寿寺すなわち宋式伽藍を模したと自負していますから,南宋の手法に倣

ったと考えられます。つまるところ,禅宗寺院における建物構成の完成した形として「七堂伽藍説」が日

本で考えられ,さらに各建物の重要性を説明する術として人体部位に対応させたものであろうと推察しま

す」(私信/2012 年 9 月 7 日)と回答している。また,筆者の同様な質問に対して,禅文化研究所は,「江

戸期臨済宗の代表的な学僧である無著道忠禅師もその根拠を見つけられなかったようですから,現代に至

って,その拠を見つけ出すのは容易なことではないようです。したがって,その動機というものもわかり

かねます」(私信/2012 年 10 月 3 日)と回答している。

このように,現在,広く受け入れられている説では,七堂伽藍という名称とその人体表相図の起源は中

国にはなく,日本固有のものだとされている。すなわち,七堂伽藍という名称および人体表相図について

は,室町時代から江戸時代の間に日本で作られたものであると考えられている。そして,今日,それ以上

の考察は行われていない。本稿では,今まで提出された資料を再検討することによって,人体表相図の起

源について推定する。人体表相図が掲載されている資料としては,曹洞宗の切紙では『禅林七堂』や『室

中切紙』,木割書では『匠明』や『金山寺図』などの他に,『長谷川家伝来目録』や朴澤家文書がある。

4.古代中国の風水思想と身体モデル

文献資料から,七堂伽藍を身体に喩えることは日本独自のものだと考えられるが,山や川などの自然環

境を身体に喩えることは,日本に禅宗が伝わる以前の中国に見られる。漢の時代(紀元前 2 世紀)に書か

れた『淮南子』には「天地宇宙は一人の身なり」という記述があり,人間が持っている気を媒介にして天

に影響を与えることができるとある(加納 2001)。これは,古代中国の風水思想の根底にある考え方であ

り,風景は身体の中で再現されるというものである。江水・淮水・河水・渭水などの中国大陸を流れる 12

本の河川「十二経水」は,身体では足太陽経・足陽明経・手小陽経・手心主経などの「十二経脈」に相当

する。「十二経脈」は,六臓六腑とそれぞれがつながっている。六臓とは,肝・心・脾・肺・腎・心包を指

し,六腑とは,胃・胆・小腸・大腸・膀胱・三焦を指すが,現代医学に対応するものではない。臓とは精

神や意志を貯える貯蔵庫のこと,腑とは食料などの運搬物の集積場のことであり,いずれも蔵の意である。

「十二経脈」は中国の四方を取り巻く(と信じられていた)海「四海」に注がれ,すべてがつながったシ

ステムとして自然界と調和しており,加納(2001: 41)は,「身体を横たえてみると,水利灌漑網の張り巡

らされた田園風景が見えてくる」と述べている。

このような風水に見られる環境と身体との照応は,たとえば,平安京を造るときの都市計画に導入され

たという説がある。風水思想では,地相から見て天の四方位の守護神である四神獣(朱雀,玄武,青龍,

白虎)に応じた最良の土地柄のことを,「四神相応」と呼ぶ。「四神相応」には日本独特の陰陽書の考え方

もあるが,東アジアの説にしたがうと,都市は北に山を背負い,東西には丘陵(砂)を備え,南に水があ

る地形を理想とする。このとき,背後(北)の山が玄武,前方(南)の水が朱雀,左側(東)の砂が青龍,

右側(西)の砂が白虎を表す。これは,「背山臨水」の土地を左右から丘陵で囲むことで,良い気ときれい

な水を取り込むという考え方に基づく。すなわち,「背山臨水」とは,天帝・天子にとって山を背後にする

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地形は,風を止めて水源を得やすい条件に合い,前方に傾斜しているため排水が良く,湖沼や河川を臨む

ことができるということを意味する(目崎 2002)。このような捉え方に基づくと,京都は「後背山として

北山,左腕にあたる青竜山としての東山三十六峰,右腕に当たる白虎山としての西山が盆地を抱え,南は

淀川へつらなっている」(山口 1986: 162-163)と見なすことができる。興味深いことに,この山口の記述

の中にある「背」,「左腕」,「右腕」,「抱え」という表現からも,都市を身体モデルとして捉えていること

が分かる。

古代中国の風水思想の根底にある考え方は,タイでも見られる。山口(1986: 162)は,幾何学型の人体

モデルに対して,「もう一方の都市の造り方は,自然的,有機的な人体モデルによるものである。この造り

方によれば,居住地は,自然条件の中でも,そういった理想型に適う地形(微地形と呼ばれる)を見出し

て,その地形を生かして都市づくりがなされる。そうした微地形を利用した集落づくりの例として,タイ

北部のヤオ族の村落が挙げられる。ヤオ族の集落は,村落の後方の後背山を人間の背骨として,村落は山

を背にして谷を眺める形で人間の胴の部位に位置する。左側の尾根(左腕と考えられる)の高い部分は青

竜山と呼ばれ,青竜神が住むと考えられる。右側の尾根(右腕)の高い部分は白虎山と呼ばれ,白虎神が

住むと考えられる」と述べている。

[3]で示した張十慶の回答に,「(2)中国の風水関連書物の中には擬人的な表現を使うこともあり,

そうした影響の可能性もある」(私信/2012 年 11 月 6 日)と述べられていたように,中国から多くの文

化を取り入れた日本が,環境を身体との関係で捉えるという考え方を導入した可能性は否定できない。現

在の京町家の造りには,風水思想が見られるという。また,建築物を山や川などの自然環境の代わりとし

て見立て,敷地全体を都市のミニチュアと見なすことは現実に行われており,禅宗庭園の枯山水はその一

種と考えられる。さらに,中国の径山万寿寺についてだが,河田(1989)の「建仁寺流堂宮雛形の史料」

の中にある加賀建仁寺流系本『金山寺図』には,「原夫大唐金山寺者四角四神相應之霊地也蓋為配則左青龍

右白虎前朱雀後玄武中央黄龍地也」(河田 1989: 634)とある。この記載は,風水の観点から金山寺の土地

柄について説明しているものであり,風水思想が寺院建築にも関係があることを示している。さらに,先

の「四神相応」の「都市は北に山を背負い……」という説明にある方角については,[1]の「中国では古

代から,宮殿は「天子南面,臣下北面」の思想に基づいて「坐北朝南」として南向きに建てられており,

寺院建築もそれに倣った」という記述と一致する。したがって,中国の建築様式を取り入れた建長寺の様

式が日本禅寺七堂伽藍の基本形となったという事実から,禅宗寺院の七堂伽藍の構成に風水思想の影響が

全くないとは言えないだけでなく,張の回答(2)にある風水思想に基づく七堂伽藍の擬人化という可能性

も否定できない。

5.家屋の身体モデル

ここでは,建物についての身体メタファーに着目しながら,建築についての文化人類学の分析について

考察する。文化人類学では,世界各地で「家屋から都市,社会,自然,宇宙(秩序ある完結した世界体系)」

に至るまで,身体モデルが使われていることが知られている(Douglas 1970, 山口 1986)。その例として,

山口(1986)はインドネシアのリオ族(Lio),コロンビアのコギ族(Kogi),マリのドゴン族(Dogon)を

挙げている。ここでは,山口が調査したリオ族について述べる。

山口(1986: 51, 138-145)によれば,インドネシアのフローレス島(Flores)の中央丘陵地帯に住むリオ

族の神話を考察すると,[身体~家屋~宇宙]に一連のつながりが見えるという。リオ族の村には,必ずガ

ジュマルの木が天に向かってそびえ立っている。村の家の中央天井からは,一本の太い綱が垂れている。

家は母親の身体と見なすことができ,天井からの太い綱は母胎と個人をつなぐへその緒を意味すると解釈

される。リオ族のルーツに関する神話に,次のような一節(要約)がある。

始祖が船に乗ってフローレス島にやって来て,レペ・ンブス山(Lépé Mbusu)に到着した。このとき,

世界中はこの山の頂上を除いてすべて海だった。その頃,天と地は一本のガジュマルの木でつながっ

ていた。始祖は畑を耕し始めた。やがて,収穫期になると赤豚という名の星が,天からガジュマルの

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木を伝って降りて来て作物を度々盗んだ。怒った始祖はこの木を伐ってしまった。そうすると,天は

天空の彼方に去り,水は引き,天地は完全に離れ,山が姿を現した。

リオ族は,社会の根幹となる原理に蛇をメタファーとして用いる。蛇の頭,へそ(爬虫類にはへそはな

いが),尾という三分割のモデルで,[人体,家屋,畑,村落,社会(親族関係など),宇宙]は,一連のつ

ながりの中で捉えられている。蛇の頭と尾は,伸縮自在のスケールとして使用される。リオ族の居住地域

は,東西に細長いフローレス島のほぼ中央部にあり,そこにはレペ・ンブス山という霊山がある。蛇の[頭

~へそ~尾]という三つの原理は,[天~地上~地下]といった宇宙から,フローレス島の[頭部(東端北

部)~中心(レペ・ンブス山)~尾(西端)]といった島全体の地理,村の[頭部(山側)~中心(石柱,

男の集合所,大きな儀礼家屋サオ・リア(sao rio/「大きな家」の意))~尾(谷川)]といったリオ族の

居住地域,居住地域の中心に位置するサオ・リアの[頭(奥の部屋)~胸(仕切り板)~中心(広間)~

両腕(左右の部屋)~両脚(二つの炉)~尾(入口)]といった間取りまでの一連の地理的空間的尺度の基

盤となっている。

儀礼家屋サオ・リア(図 7)には,母親の身体モデルが使われている。このサオ・リアの構造は,身体

モデルを通じて[家屋~社会~宇宙]が互いに照応関係にあることを意味している。サオ・リアはリオ族

の居住地域の中心に位置する。その大きな高い屋根は船の帆をイメージしており,棟には天上神である月

と太陽の子が宿ると考えられている(佐藤 2007)。建物の内部は,一番奥にある隠居部屋が頭,その手前

に設置された空間を仕切るための彫刻のある(女性の乳房が彫られることがある)板が胸,部屋中央の天

井から綱が垂れている大広間が腹,(拡張されたときに設けられる)大広間左右の部屋が両腕,入口内部の

左右にある炉が両脚,舟形の敷居がある入口が尾,という間取りになっている。また,サオ・リアは,座

って出産する女性の姿(図 8)を模倣して建てられる。年に一度,収穫後の例大祭を行う前にサオ・リア

の屋根を修理する慣習があり,このときリオ族は,「母親の身体を修理する」という意味のことばを使うと

いう(Yamaguchi 1989)。

図 7(佐藤浩司氏提供) 図 8(Yamaguchi 1989: 482)

サオ・リアは母胎のイメージと重なる。神代に天地が高い木でつながれていたと伝えられるが,その家

の中心に吊されている綱プス・アテ(pusu até/「へその緒」の意)は,始祖が切断したガジュマルの木の

なごりである。天地をつなぐ木を切るという行為は,母胎と新生児を結ぶへその緒を切るという行為と重

なる。天と地が未分化だった状態を切断するという行為は,新しい秩序の始まりを意味する。したがって,

中央の天井から垂れている 1 本の太い綱は,単に切られたへその緒を意味するだけでなく,天界と離れる

ことでリオ族が自力で社会を形成し発展して今日に至った,ということを暗示する氏族の起源的なシンボ

ルなのである。日本の神話には,天地が分かれていない時代に,天の御柱が天地をつないでいたとある(市

川 1984: 117-118, 宮家 2004: 49-50)。このリオ族の家の中心に吊されている綱は,天の御柱と同じものだ

と考えられる。

市川(1984: 127)は,「われわれは身体に棲み,家に棲み,世界に棲み,宇宙に棲む。その場合,幾何

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学型に結びつくにしろ,自然型の人体モデルに結びつくにしろ,それらのあいだにアナロジーの関係があ

り,一種の入れ子構造をつくっているというのが,伝統的な社会の大きな特徴(である)」と述べている。

横山(1976: 135)も,「建築とは人間生活の容器であり,建築の歴史はそれら建物を拠りどころとした人々

の生活の投影にほかならない」と,同様の主旨のことを述べている。ここでは,禅宗寺院の七堂伽藍を身

体に見立てた理由として,形状の類似に基づき,修行僧や寺社大工が寺院の性格や構成を覚えるための単

なる便宜的手段として考案されたものなのか,それとも,寺院という特別な存在から考えて,形状の類似

性の他に思想的な動機付けがあったのかという問題を,リオ族の家を事例として文化人類学の視点から考

察した。その結果,人体表相図は修行僧や大工が寺院の性格や構成を覚えるための手段として考案された

ものという実用的な見方には,疑問が残った。それは,建物と身体の関係を建築史や文化人類学の立場か

ら考察するとき,設計の背景には壮大な思想が見られることがあるからだ。仏教という壮大な思想と深く

関係する寺院に,しかも,禅宗の寺院に限って,そのような人体表相図があるということは,何か特別な

理由があるはずだと考える。

沖本(2013)で述べたように,ヨーロッパにおいては,古代ギリシア建築がマクロコスモスとミクロコ

スモスの調和を幾何学的な身体モデルで表現した。このような古典主義的な様式は,ルネサンス以降の 17

~18 世紀に,平面幾何学式のフランス式庭園にも見られる。ベルサイユ宮殿の庭園はその一例である。さ

らに,この幾何学的なシンメトリーを保つことが[宇宙~都市~建物~身体]の照応を意味するという思

想の流れは,19 世紀中頃のパリの都市改造事業に継承されている。このような思想の継承を考えながら東

アジアの様子に目を向けると,[宇宙~都市~建物~身体]の照応がインドネシアのリオ族の文化にも見ら

れることが分かった。さらに,リオ族のガジュマルの木に関する神話と日本の天の御柱に関する神話との

間に類似性が見られた。禅宗様伽藍配置は,寺院の建築様式が日本に伝わった後の時代に七堂伽藍という

名称を生み,伽藍配置を人体に見立てた。しかしながら,古代中国の風水思想と仏教の伝来ルートを考え

ると,朝鮮半島から伝わった禅宗様伽藍配置を人間の身体に見立てる動機付けとして,思想的な背景も考

慮せず,単に形状の類似性を挙げることには疑問が残る。つまり,古代ギリシアの幾何学的なシンメトリ

ー,リオ族の蛇のメタファーおよびサオ・リアの船の帆をイメージした高い屋根,古代中国の「背山臨水」

の土地,19 世紀パリの都市改造事業における上下水道および交通路のネットワーク構想などと同様に,人

間が社会的に大きな事業を行うときに,しばしばその背景となる思想がどこかにあるはずだと考えるので

ある。

6.古代インドのヴァーストゥ・シャーストラ

人体表相図の思想的な背景を,仏教の流れに則して中国からインドに目を転じて検討する。建築環境に

関して古代中国の風水思想と同様,吉凶を占うものにインドのヴァーストゥ・シャーストラ(Vastu Shastra)

がある。サンスクリット語でヴァーストゥは建築物や住居の設計を意味し,シャーストラは学問を意味す

る。ヴァーストゥ・シャーストラは,住居や寺院の立地・間取りを含む建築環境工学や都市工学などに関

係する古代インド発祥の思想である。この思想は,[地,水,火,風,空]の五つの要素(五大)のバラン

スの調和が良いエネルギーをもたらすという考え方に基づく。この五大思想は仏教に取り入れられ,東ア

ジアに広まった。建築工事を開始する前に,用地の上に宇宙の始まりである原人プルシャ(primeval cosmic

being, Purusha)を表すヴァーストゥ・プルシャ(Vastu Purusha)と内部を細かく格子状に分割した正方形

を重ね合わせたヴァーストゥ・プルシャ・マンダラ(Vastu purusha mandala)(図 9)の上で,地鎮祭を行

う。ヴァーストゥ・プルシャは,グリッドの北東へ頭を向けてうつ伏せに横たわっており,図の内部の区

画は身体部位に相当している。ヴァーストゥ・プルシャの中枢器官がある位置が最も脆弱な急所マルマ

(marma)であり,そこに柱,扉,壁などを設置してはならないとされる(Dangol 2011, Gray 2006, 橋本

2005, 小野 2004)。ここで登場する[地,水,火,風,空]の五つの要素は,[8]で提示する木割書の朴

澤家文書の人体表相図に見られる。この五つの要素は空海の密教と深く関連するが,このことについては

[10]で詳述する(松長 1991: 117-124)。

賴信川(私信/2012 年 10 月 12 日)は,中国の風水思想が自然界の地理的要素に基づいて吉凶を占うの

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に対して,インドのヴァーストゥ・シャーストラは人間と宇宙との関係を示す曼荼羅に基づいて占うとい

う点で,大きく異なるものだと述べている。賴は,ネパールの仏教寺院建築と日本の仏教寺院建築の類似

から,双方にはインド由来の曼荼羅の影響があると考えている。賴は,ヴァーストゥ・プルシャ・マンダ

ラの図を示して,古代インドではこの曼荼羅に基づいて建物の入口の設計や配置,室内のデザインなどを行ったと述

べている。そして,中国の禅宗もこの曼荼羅に基づいて寺院を建築したという。張十慶は日本の禅宗が保存する七堂伽

藍の人体表相図(七堂布局人體表相圖)について言及しているが(Zhang 2002: 55),賴は張が示した人体表相図(注

6 参照)も曼荼羅だと考えている。賴の考え方の基盤には,ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラが寺院の本殿

建築の指標であり,「寺院が寺院として機能するためには,マンダラに則って建築される必要がある」(橋本 2005:22)

というヴァーストゥ・シャーストラの思想がある。賴によれば,日本の禅宗寺院は寝ている人の姿のように伽藍

を建設しているという。山門は身体の下の部分(股間)に置き,寺院の中心的な堂宇は腹部に,浴室は脚部に,法堂は

胸部に置かれる。食堂と僧堂は両手の位置にある。方丈は人の頭部に,鍾楼は右耳に,経楼は左耳に置かれる。このよ

うな人体表相図は,寺院建築を担当する大工のための指針として作られた設計図であるという(Lai 2012)。

しかし,この賴(Lai 2012)の説明だけで「七堂伽藍=曼荼羅」と見なすことには,いくつか疑問があ

る。日本で曼荼羅信仰を取り入れたのは密教である。密教の金剛界曼荼羅,胎蔵界曼荼羅(たとえば,真

言宗の八幡山教王護国寺(東寺)(796))に見られる如来や仏の多くが座像であり,山上善右衛門吉順が所

持した『金山寺図』(1809?)に掲載されている人体表相図(図 11(=図 1 右))のような立像ではない。

また,立位の仏像を調べたが,このような両手両足を開いた姿勢(図 1,5,6)で,しかも,衣服を身に

つけていない姿のものは見当たらなかった。また,賴は,禅宗寺院の人体図は,ヴァーストゥ・プルシャ・

マンダラと同様に,人が寝ている姿であると捉えているが,筆者は禅寺の人体表相図に示される像は寝ている姿

ではなく,立位を平面上に捉えているものだと考える。その理由は,すべての木割書に見られる図の足の

形は,大地を踏みしめているように描かれているということに加えて,人体の各部位に,下から上へ[地,

水,火,風,空]と記されている人体表相図があるため,五大(五輪)を象徴する五輪塔のように,その

姿は上下の垂直方向を示していると考えられるからである(松長 119-120)。いわゆる地図上で「北を上,

南を下」と見なすのと同様に,立位を平面上に捉えていると考える。

図 9(Dangol 2011: 20) 図 10(瑞龍寺パンフレット) 図 11(高岡市教委 1996: 32)

また,[9]で詳述する「上下」のメタファーとの関連については,< CONSCIOUS IS UP; UNCONSCIOUS

IS DOWN(意識は上,無意識は下)>および< HEALTH AND LIFE ARE UP; SICKNESS AND DEATH ARE

DOWN(健康と生は上,病気と死は下)>という概念メタファー(conceptual metaphor)があり,英語と日

本語の両方でこの「上下」のメタファーは成立している。これらの概念メタファーは,「人間および大半の

哺乳類は寝るときは横になり,目覚めると立ち上がる」および「病気が重ければ身体を横たえ,死ぬと身

体は倒れた状態となる」という私たちの身体経験に基づくメタファーであり,「彼は昏睡状態に陥った(He

sank into a coma)」,「彼は最高に体調が良い(He’s in top shape)」などの事例を形成する(Lakoff & Johnson 1980:

15)。したがって,僧の修行の場である七堂伽藍には人間の活動が存在するため,人体表相図の姿は寝ているイ

メージよりも,立っているイメージの方が適切だと考える。本稿ではこのように考えるが,仮にそれが寝て

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いる姿勢だとしても,頭を上,足を下と認識していることには違いがなく,論の展開に問題は生じない。

人体表相図におけるヴァーストゥ・シャーストラのような建築設計図としての働きについてだが,七堂

伽藍の人体表相図には他と異なり,頭部を北ではなく南に向けている図があることから,設計図として正

しく機能していないことは明らかである。僧門の切紙と同様に,木割書の人体表相図が棟梁の間で常に文

書によって伝承されてきたものだと仮定すると,このような極端な異形は起こりえない。本稿の資料では,

切紙の人体図は姿・形および上下の方向の点ですべて同じであり,このような異形の人体図は木割書にの

み存在する。したがって,「天子南面」の思想からも,人体表相図の起源である最初の姿は,切紙の中に見

られる人体図と同じだと推定してよい。また,「瑞龍寺復元図(創建当初)」(図 10)には,「総門・山門・

仏殿・法堂を一直線に配列し,左右に禅堂と大庫裡を置き,加えて四周を回廊で結ぶなど,厳粛且つ整然

たる伽藍構成である」(パンフレット『国宝高岡山瑞龍寺』)と記載されているが,この復元図(図 10)と

『金山寺図』に掲載されたその人体表相図(図 11)を比較すると,人体図が伽藍構成の特徴をよく捉えて

いることが分かる。逆に,人体図をモデルとして堂宇の構成を考えた場合,[山門,大庫裡,禅堂,浴室,

七間浄頭(東司)]の位置関係が,復元図(図 10)とずれが生じてしまい,設計図としては機能していな

いと思われる。このような考察から,七堂伽藍の人体表相図は,ヴァーストゥ・シャーストラのような設

計図ではないと考える。すなわち,人体表相図に見られる姿は,七堂伽藍が先に建設され,後に何らかの

理由でその姿を人体に当てはめたものであり,設計図の類ではないと推定される。

横山(1967: 67-71)は,「日本の禅宗寺院では伽藍の配置を人体に見立ててきた。それは,伽藍の配置や

性格について人体図を用いて弟子に説明するというものだが,寺院建築を扱う棟梁たちもこの図を用いて

きた」と記している。寺社大工の世界では,この人体表相図を宗教的な目的ではなく,各堂宇の配置や特

徴を把握するという目的で伝承されてきたということ考えれば,伝承形式は僧門の切紙とは異なり,記憶

だけを頼りとした口伝も含まれていた可能性がある。その結果,口伝の内容に誤りが生じたと考えると,

異形の人体表相図が大工の棟梁の家に限って存在するという事実が説明できる。切紙の人体表相図がすべ

て同じ向きで,同じ姿をしていることから,方角が重要な意味を持つ寺社において,七堂伽藍の南北の基

軸と身体の垂直軸との対応を重視しないということは,切紙による伝承では起こりえないし,許されるこ

とでもない。

建築物の設計という観点から,ここまでの議論をまとめると次のようになる。パリの都市改造事業,風

水,ヴァーストゥ・シャーストラ,サオ・リア,ル・コルビュジェのサヴァワ邸やインドの都市チャンデ

ィーガル(Chandigarh)において,身体は都市・建物の設計の指針として用いられてきた。つまり,身体

モデルが建築設計の基盤となっていた。一方,河田(1990: 113)は「人体表相図に結び付けて説かれた禅

家の七堂伽藍は決して理念のみにとどまったわけではなく,具体的な伽藍設計上の規範としての性格をも

有している」と述べており,同様に賴も,人体表相図は七堂伽藍の設計の指針だと主張するが,人体表相

図はヴァーストゥ・プルシャ・マンダラと比べてあまりにも簡略すぎて,設計上の規範や指針になるかに

ついては疑問である。それは,木割書『匠明:堂記集』の「人体比喩図」(図 5)と『金山寺図』の人体表

相図(図 11)を比較すると分かるように,手足の位置に各堂宇を配置するだけの人体表相図では,手足の

開く角度(図 5,6,11)によって各堂宇の位置関係にずれが生じ,伽藍の全体構造を捉えて正しく伝承す

ることはほとんど不可能だからである(6)。また,木割書の人体表相図といえども,宗教的な厳格さが関与

していたと思われるが,それにもかかわらず人体図に異形が存在することは,人体図が簡便的に用いられ

たことの証拠だと考えられる。また,何よりもそれらの人体図が口伝によって描かれたため,身体の上下

の部位と南北の堂宇との対応を逆にしてしまったという可能性がある。風水,ヴァーストゥ・シャースト

ラ,寺院などにおいて方角は重要な意味を持つため,身体の上下が逆になっている図が存在すること自体,

極めて不思議なことである。実際,横山(1958: 3, 18)は『匠明:堂記集』の「人体比喩図」(図 5)に触

れて,「これに類するが配置を逆にする口伝図も仙台の棟梁朴澤庄蔵直好(寛政 11 年没)の「無隠図」に

載せられる」と,口伝であることを記している。ただし,口伝とは言っても現実には書や図を用いた場合

もあるだろう。さらには,木割書の人体表相図を相互比較すると,七堂伽藍は人の姿に喩えられているの

か仏の姿に喩えられているのかが判然としない。そもそも設計の指針として,なぜ,人ないしは仏という

2 通りの図案が存在するのかが説明できない。また,ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラの例のように,

七堂伽藍が仮に曼荼羅だとすると,両部曼荼羅にあるような仏の姿がふさわしいと思われる。しかし,す

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べての切紙に共通する姿は人であることから,『禅林七堂』の切紙に掲載された人体表相図(図 6)のよう

に,原型は人の姿だと推定される(7)。

7.切紙の人体表相図

人体表相図の出典の性質および用途の違いから考えて,「切紙の人体表相図」と「木割書の人体表相図」

のそれぞれの特徴について個別に考察する。最初に切紙の図について述べる。従来,禅宗の切紙資料の内

容についての研究はほとんど行われてこなかった(石川 1983)。さらに,人体表相図についての資料は極

めて乏しい状態にある。本稿では,先に示した横山(1958, 1967, 1976)の一連の研究に登場する『禅林七

堂』の切紙(図 6)に関する記述に加えて,石川(1983, 1985, 1986)から曹洞宗の切紙に関する研究内容

をまとめ,切紙における人体表相図にはどのような特徴があるかを考察する。そもそも,堂塔・伽藍に関

する切紙が極めて少なく(石川 1986),筆者が大本山クラスの禅宗寺院や禅研究機関などに直接問い合わ

せても,その存在について確かな回答は得られなかった。

資料の切紙についてであるが,全文を新たに書き写さず,伝来のものに名前だけを書き加えて伝授する

例がしばしばある。また,切紙には年記がないものもあるが,分かるものについては年記を示す。さらに,

原典の内容が書き換えられたものがあるため,その記述内容には信頼性の点で注意を要する(石川 1985)。

曹洞宗の神照山廣泰寺所蔵の切紙についてであるが,七堂伽藍を人の形に見立てると記されており,人

体表相図とともに端裏に図形式の記述(図 12)がある。また,その記述(図 12)に向かって右端にある「七

堂図」と記された箇所には,「寺ハ南面ニ立ルモノナリ,七堂ハ人形躰ニカタドリ作ルナリ,卞形容七大ナ

リ」とあり,寺院は南向きに建てるものだということと,七堂伽藍は人の形をした七大[地,水,火,風,

空,見,識]の姿であるということが述べられている。そして,伽藍と身体部位の対応関係について,[法

堂-首,仏殿-心胸,三門-元根,齋堂(または,食堂,庫裡)-左手,僧堂(または,禅堂)-右手,

浴室(または,風呂)-左脚,浄頭(または,雪隠)-右脚]と示されている。さらに,「七堂図」(図 12)

に続いて隣に,師僧と修行僧の問答体による参話(入室参禅の手引書)形式の文がある。そこには「楞厳

経七処徴心」という記述があり,大乗教典『首楞厳経』で説く七つの観行方法との関連が見られる。廣

泰寺の「七堂図」(図 12)とともに示されている人体表相図(図 13)には,[仏殿-心,山門-隠,庫裡-

左手,僧堂-右手,風呂-左脚,浄頭-右脚]とある。

図 12(石川 1985: 96) 図 13(石川 1985: 97)

廣泰寺の人体表相図(図 13)と同じものとして,臨済宗から曹洞宗に改宗して間もない頃の高根山正龍

寺六世大久寅碩(?~1628)所伝の切紙(1589)の「七堂図」(図 14)がある。ただし,廣泰寺の人体表相

図(図 13)とは一部異なり,正龍寺の「七堂図」(図 14)では右脚が西浄と記されており,頭上には丈室

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と円形の印が示されている。正龍寺の「七堂図」(図 14)には,[丈室-頭,佛殿-心,山門-隠,庫裡-

左手,僧堂-右手,風呂-左脚,西浄-右脚]と示されている。また,木割書に基づいて作成された「瑞

龍寺伽藍復元図」の姿(図 1 右)について,同じ瑞龍寺の切紙に人体表相図が残っている。それは瑞龍寺

七世無文良準(1665~1728)所伝の『禅林七堂図切紙』であり,その人体表相図(図 15)も廣泰寺の人体

図(図 13)と形は同じである。この瑞龍寺の切紙には,「或家有馬祖七堂切紙,山門切紙,門訊切紙,焼

香切紙,七堂参話等,併是後人私説,全非家伝不可信用也」(石川 1985: 98)とあり,馬祖七堂切紙,山

門切紙,門訊切紙,焼香切紙,七堂参話等は原典ではなく,後世の人の説であり信用できないと述べられ

ている。しかし,石川(1985: 99)は,「七堂伽藍に関する参話には,良準の室内には伝承されなかったも

のの,中世所伝のものが存したことは確実であり,禅林生活にとって七堂伽藍の意味が問われていたこと

を物語っている」と述べ,七堂伽藍についての切紙の存在を認めている。この石川の記述は,[3]で示し

た『望月佛教大辞典』の「シチドウガラン」の項にある「人体表相図はこじつけによる説である」という

望月信亨の主張を否定するものでもある。石川の研究の中で示された最も古い人体表相図は,曹洞宗の淵

室山長源寺六世卓眼恩朔から呑盛に伝えられた「七堂図」(図 16)である(石川 1986: 252)。これは,駒

澤大学所蔵の『室中切紙』(1504~1555?)に収録された人体表相図で,そこには,[方丈-頭,佛殿-心,

山門-隠,庫裡-左手,僧堂-右手,風呂-左脚,西浄-右脚]と示されており,正龍寺の切紙(図 14)

とほぼ同じである。

図 14(石川 1986: 252) 図 15(石川 1985: 98) 図 16(石川 1986: 252)

これらの曹洞宗寺院の人体表相図(図 13~16)の中にも,頭部には明らかな違いが見られる。正龍寺の

「七堂図」(図 14)および長源寺の「七堂図」(図 16)には,頭部に丈室ないしは方丈とあり,法堂の記述

はない。廣泰寺の人体表相図(図 13)には頭部の記述がない。瑞龍寺の人体表相図(図 15)には,頭部に

法堂とある。このような違いについては,方丈は修行僧に法を演ずる空間としても機能しており,臨済宗

五山派の中心にいた夢窓疎石(1275~1351)は方丈の法堂化を指摘している。さらに,横山(1958: 30)

は,「曹洞宗では現在法堂と称する建物は構成的には全く臨済宗に於ける方丈建築である」と記しているこ

とから,これらの人体表相図(図 13~16)では,方丈(または,丈室)と法堂は同じと見なしてよいと思

われる(横山 1958: 28-33)。

横山(1948: 43)が,「曹洞宗寺院が現在比較的古制を維持するもの」が多いと指摘するように,禅宗に

おいて,戒律の重みと伝承の方法という観点から,宗教文書である切紙の継承の方が,建築文書である木

割書の継承に比べて,最初の人体表相図の姿を保持している可能性ははるかに高いはずである。実際,本

稿で言及した切紙の各図と木割書の各図を比較すると,切紙の人体表相図(図 6,13~16)の形は同じで

あるのに対して,木割書の人体図にはこれらと似た形のものの他に,異種がいくつかあった。このため,

起源的には切紙の人体図が木割書の人体表相図の原型であると考えて間違いない。しかしながら,切紙に

記載された内容については,誤謬が指摘されている。

[3]で見た曹洞宗の切紙『禅林七堂』の一文「故中華禅林無七堂説。但於此方禅林,喚上所圖者謂之

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七堂也。」とその人体表相図(図 6)について,横山(1967: 69-70)は,七堂伽藍に関する「このような説が

いつごろ,何人によって,何を根拠として示したのか不明であるが,その所説によって七堂が日本禅林におい

て定型化された伽藍配置法であることと,その理念を明らかにしている点には意義が認められる。もっともそ

の内容には必ずしも曹洞宗祖道元の家風にそぐわないものがある。たとえば庫院または庫裡と表示されるべき

を黄檗斎堂の制とまぎらわしい食堂としているのは,古清規を重んじ,行事綿密で食堂すなわち僧堂であるべ

きはずの曹洞宗の所伝としては確かに不都合で,つとに面山瑞方(1683~1769)が寛延二年『洞上室内断紙揀

非私記』にその誤謬を指摘して,祖師相伝のものに非ずと排斥されたのももっともであるが,この縦には,師

匠から弟子へ密附に限る七堂の切紙が当時すでにこれを問題とするほど,横に,曹洞宗内にかなり広く伝承さ

れていたという事実は,たとえこの説が後世に始まる臆断の説としてもその発生が相当さかのぼることを物語

っている」と述べている。この記述にある面山は,曹洞宗の最も優れた学僧の一人であり,道元の祖風を重ん

じた。『洞上室内断紙揀非私記』(1749)の洞上とは曹洞宗を指し,断紙とは切紙を指す。『洞上室内断紙揀

非私記』に取り上げられた切紙の数は 145 であるが,その中に伽藍についての切紙『禅林七堂図断紙』が含ま

れている。面山は,当時の切紙の内容のほとんどが後世の僧によって書き換えられたものだと批判する(石川

1983)。書き換えられた内容が曹洞宗内で広く伝承されていたということを踏まえて,横山は七堂説の「発生が

相当さかのぼることを物語っている」と記している。また,ここで横山は黄檗宗に言及しているが,禅宗であ

る黄檗宗が日本に伝わったのは 1654 年の中国の高僧隠元隆琦(1592~1673)の来日による。隠元が黄檗宗の大

本山である黄檗山萬福寺を建立したのは,1661 年である。したがって,「たとえば庫院または庫裡と表示される

べきを黄檗斎堂の制とまぎらわしい食堂としているのは,……曹洞宗の所伝としては確かに不都合」という横

山の記述は,面山が人体表相図についての誤りを指摘したことに基づくと思われるが,「黄檗斎堂の制」に関わ

る誤謬は 1700 年頃に生じたものだと推定される。

この「黄檗斎堂の制」について説明すると,臨済宗である無著道忠の『禅林象器箋』には,「忠曰。齋堂即

食堂也。食堂即僧堂也。今日本黄檗山僧堂外。別設齋堂。蓋大清禅林如是。非古也。」(無著 1909: 41)と

ある。つまり,斎堂とは食堂のことであり,食堂とは僧堂のことである。現在の黄檗宗では僧堂の外に別

に斎堂を設置しているが,これは中国の禅宗に由来するものであり,日本では元々なかったものであると

述べられている。古来,僧堂は座禅・食事・睡眠をとる場所であったが,現在の臨済宗と黄檗宗では,僧

堂の代わりに禅堂と齋堂が設けられている。しかし,曹洞宗には齋堂はない。先に見た曹洞宗の廣泰寺の切

紙「七堂図」(図 12)には,[法堂,仏殿,三門,齋堂,僧堂,浴室,浄頭]とあるが,一方,同じ廣泰寺

の人体表相図(図 13)の対応する身体部位には,[( ),佛殿,山門,庫裡,僧堂,風呂,浄頭]とあ

る。面山は,たとえば,「七堂図」(図 12)の左手にある「齋堂~或名食堂云庫裡也」という記載について,

それは誤謬であり,切紙の原典が書き換えられている証拠だと指摘している。廣泰寺の二つの図(図 12・

13)には,他にも堂宇の記載に違いが見られる。このような記載や他の切紙の図(図 14~16)との比較か

ら,廣泰寺の人体表相図(図 13)は原典と同じ姿で伝承されているが,廣泰寺の「七堂図」(図 12)につ

いては,記述された内容から後世に加筆されたことは明らかである。さらに,廣泰寺の「七堂図」の最初

に「七堂ハ人形躰ニカタドリ作ルナリ,卞形容七大ナリ」という記述があることから,「楞厳経七処徴心」

に関する参話形式の文も,後世につけ加えられた可能性が高い。同様の誤謬は,瑞龍寺の『禅林七堂図切

紙』に掲載されている人体表相図(図 15)にも見られ,左手に「食堂」とある。ただし,廣泰寺の「七堂

図」(図 12)および人体表相図(図 13),瑞龍寺の人体表相図(図 15)の加筆・修正に比べて,人体表相

図の人型の姿・形には修正がないことに気づく。この人型の図は,本稿のすべての切紙資料で一定してい

る。

8.木割書の人体表相図

次に,木割書の図について述べる。木割書の人体表相図の出所を考えるとき,解決しなければならない

問題が二つある。一つは,ここまで見てきた木割書の図(図 5,11)や切紙の図(図 6,13~16)に対して,

頭を南に向けて山門とするなど,他の人体表相図と姿が大きく異なるもの(図 17~21)が木割書の図に限

って存在する理由を明らかにすることである。もう一つは,写本『匠明:堂記集』(1700?)の裏面に「人

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体比喩図」(図 5)が書き加えられたように,人体表相図が原典と同じか,それとも後から書き加えたもの

かを識別することである。しかし,これらの問題は容易に解決できる。それは,切紙の人体表相図の形と

上下の方向が基本的に同じであることから,本稿の資料の中で一番古い長源寺の『室中切紙』(1504~1555?)

にある「七堂図」(図 16)の形が,最初の木割書の形にも当てはまると推定できるという理由による。[7]

で見た瑞龍寺の無文良準(1665~1728)所伝の『禅林七堂図切紙』にある人体表相図(図 15)が,このこ

とを裏付けている。それは,『金山寺図』(1809?)に掲載されている同じ瑞龍寺の人体表相図(図 11)が

仏の姿になっているのとは違って,この人体表相図(図 15)では,後世に一部(左手に「食堂」とある)

書き換えられたが,『室中切紙』の「七堂図」(図 16)の人型と同じ姿・形をしていた。本稿では木割書の

原型に相当する資料は特定できなかったが,『金山寺図』の人体表相図(図 11)が切紙の人体表相図と同

じ形をしていることから,木割書の原型に近いと考える。ただし,原型は仏の姿ではなく人の姿である。

また,写本『匠明:堂記集』の「人体比喩図」(図 5),『禅林七堂』の人体表相図(図 6),『金山寺図』の

人体表相図(図 11),『室中切紙』の「七堂図」(図 16)の 4 種の姿を重ね合わせると,それらの形の異な

りの程度が明瞭になる。その結果,「人体比喩図」(図 5)が両腕を大きく開いているため,他と比べて最

も異なりの程度が大きく,しかも,その人型の左右の耳には鐘楼と経蔵が記されており,4 種の平均的な

像と最もかけ離れていることが分かる。したがって,[3]で,「主筆以外の筆跡で「人体比喩図」(図 5)

が書き入れられていることから,原典にない人体表相図が後で付け加えられたと考えられている」と記し

たが,そのことは正しいと認めることができる。

図 17(横山 1958: 18) 図 18(仙台市博物館所蔵)

図 19(仙台市博物館所蔵) 図 20(内藤・藤木 1972: 23)

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「瑞龍寺復元図」(図 10)の伽藍構成と『金山寺図』の人体表相図(図 11)の形を比較すると分かるよ

うに,各堂宇の位置関係はほぼ正確であるが,写本『匠明:堂記集』の「人体比喩図」(図 5)のように両

腕を左右に大きく開くと,堂宇の位置関係は少しずれてしまう。このような両腕を左右に大きく開くもの

に,「無隠図」の人体表相図(図 17)と『禅七堂雛形~全』の人体表相図(図 18)があるが,堂宇の位置

関係の不正確さの原因として文書に頼らない口伝が考えられる。一方,『金山寺図』の人体表相図(図 11)

にある仏の姿についてだが,これは後述するように,後世に七堂伽藍の宗教的な意味合いを明示したため

に生じた変種だと考える。また,人体表相図の上下が切紙の人体図と逆のもの(図 17~21)および両手で

頭上に円を描いているもの(図 19~21)については,[9]で身体メタファーの視点から誤謬であること

を明らかにする。

内藤と藤木(1972: 22)には,「たとえば,長谷川家の木割書などには「佛閣ハ法也人繪ヲ以テ左右ヲ知

ラス」と明記され,「禅宗七堂之図」が描かれている。南を上にして山門・仏殿・法堂・方丈がそれぞれ人

体の頭・心・腹・隠に相当し,両手が仏殿から山門に至る回廊を示している。曹洞宗の師が弟子に大法を

伝える際にだけ,嗣書とともに授ける行法に関する秘伝書の中には,北を上にして法堂-頭,仏殿-心,

山門-隠,僧堂-右手,庫裏-左手,東司-右脚としているという。いずれにしろ,このようにして禅宗

の七堂伽藍を人体構造によって説明しようとした考え方が,江戸中期ごろには広く伝わっていたようであ

る。禅宗伽藍の制が大陸から伝来した当初に,人体表相の七堂説がすでにあったかどうかは判明しないが,

人体の諸機能に見合った伽藍配置として,禅宗の教義とともに後のちまで伝えられていったのである。長

谷川家のものと,曹洞宗の秘伝書では人体を転倒して説明しているわけであるが,仏殿を心としている点

は両者に共通している。自己の大成を祈願し,国土の安穏を祈る場であった仏殿をして,禅宗伽藍の中心

にしているのである」と述べている(8)。内藤と藤木(1972)が説明しているのは,『長谷川家伝来目録』に

ある「禅宗七堂之図」(図 20)についてだが,長谷川家の人体表相図が曹洞宗切紙の人体図とは異なり,

上下の姿が転倒している理由には言及されていない。

図 21(仙台市博物館所蔵) 図 22(仙台市博物館所蔵)

木割書にある人体表相図が作成された時期についてだが,本稿で提示した資料の中で最も古いものは,

写本『匠明:堂記集』(1700?)ではないかと思われる。仙台市博物館所蔵の朴澤家文書『禅七堂雛形~全』

および『天台真言七堂雛形~全』については年記がないが,朴澤家五代目棟梁庄蔵直好(?~1799)が多く

の木割書類を編集したことは分かっている(河田 1990: 113, 小山 1999, 永井,飯淵,日下 1997)。『長谷

川家伝来目録』については,上巻の奥書に 1738 年と記されている(河田 1990: 112-113,129, 渡辺・内藤

1985)。

横山(1958: 3, 18)は,木割書『匠明:堂記集』の「人体比喩図」(図 5)に触れて,「これに類するが配

置を逆にする口伝図も仙台の棟梁朴澤庄蔵直好(寛政 11 年没)の「無隠図」に載せられる」(図 17)と記

している(9)。朴澤家は,江戸幕府の大棟梁平内家より四天王寺流を継承した仙台藩大工棟梁の一門である

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(永井,飯淵,日下 1997)。朴澤家文書の『禅七堂雛形~全』(署名,年記なし)には,異形の人体表相図

(図 18,19 右)が掲載されている。その一つ(図 19 左)には,「佛殿,法堂,僧堂,庫裡,三門,雪隠,

風呂屋」,「右禅宗七堂是ナリ宗旨ニ依テ替有然レトモ皆五輪五躰ヲ象レリ」という記述がある。また,『禅

七堂雛形~全』の中の両手で頭上に円を描いている人体表相図(図 19 右)と似た姿の人体図(図 21)が,

同じ朴澤家文書の『天台真言七堂雛形~全』(署名,年記なし)にある。その人体図(図 21)の次ページ

には,「天台宗~金堂,説堂,食堂,講堂,夜叉門,鐘楼,鼓楼」,「真言宗~本堂,護摩堂,宝堂,説堂,

東門,庫裡,鐘楼」,「右七堂依宗旨替有然レトモ皆五輪五躰ヲ象ルナリ」という記述がある(図 22)。五

輪塔で知られるように,密教では五大のことを五輪と呼ぶ。「無隠図」の人体表相図(図 17),朴澤家文書

の『禅七堂雛形~全』の人体表相図(図 18),『禅七堂雛形~全』および『天台真言七堂雛形~全』の記述

(図 19 左,22)が示すように,七堂は五輪五体をかたどったもの,つまり,各堂宇を表すそれぞれの身体

部位は五大[地,水,火,風,空]を象徴している(10)。本稿では,この五大についての記述に着目する。

棟梁間の木割書の継承において,五大についての記述が,特別な理由もなく付け加えられたとは考えられ

ない。先に見た廣泰寺所蔵の切紙の「七堂図」(図 12)には,「七堂ハ人形躰ニカタドリ作ルナリ,卞形容

七大ナリ」とあり,七堂伽藍の人体表相図は五大を含む七大[地,水,火,風,空,見,識]を象徴して

いる。この五大についての記述は,切紙の内容と木割書の内容との共通点である。このことは,木割書が

切紙の内容,つまり,僧門の宗教観を部分的に反映していることを意味する。

五輪五体については,二宮尊徳(1787~1856)に「佛氏以五輪象人體焉。何謂五輪。空風火水地。是也。

其聚為生。其散為死。誓之散楽。舞臺即人體也。伶人齊列楽作。是生也。楽終而伶人散。是死也。空風火。

其散也速。水地其散遅而為所擔出焉。伶人雖散。各在其家。五輪雖散。亦在両間。非倶泯滅者也。」(佐々

井 1933: 88)とある。つまり,仏教では五輪[地,水,火,風,空]によって人体をかたどり,五輪が集

まったものが生であり,散ると死を意味すると述べられている。そもそも,日本における五大[地,水,

火,風,空]の思想は,インドから 8 世紀前半に中国に伝えられた密教の根本経典『大日経』と『金剛頂

経』に由来する(末木 1996)。禅宗の歴史を調べると,密教との関係が非常に強いことが分かる。最澄に

始まる日本の天台宗では,円教・戒律・禅・密教の 4 つが総合されている。臨済宗の栄西は,始め延暦寺

で天台を学び,2 度宋へ渡った後,1202 年に将軍源頼家の帰依を受けて建仁寺を建立した。そして,建仁

寺を真言・天台・禅の三宗の兼修道場とした。栄西の後を継いだ臨済宗黄竜派の中核には,行勇(1163~

1241),栄朝(1165~1247),明全(1184~1225)などがいたが,彼らもまた禅密兼修の僧であった。この

他,臨済宗聖一派の円爾(1202~1280)も禅密兼修の僧であり,東福寺を開き,禅院本来の七堂伽藍を配

置し禅刹としての体裁を備えるが,真言八祖や天台六祖の像をかかげ台密禅三宗の混修的性格を維持して

いた(今枝 1989)。一方,曹洞宗の道元は,始め三井寺で天台を,次に建仁寺で禅を学び,宋へ渡った。

1236 年に帰国し,1244 年に永平寺を開いた。道元は混修的性格を嫌い,只管打坐を唱えた。しかし,室町

時代中期に曹洞宗の大きな勢力となった瑩山招瑾(1268~1325)は,臨済宗・天台密教・真言密教の影響

を強く受け,これらの教線に沿って地方へと発展していった。瑩山は大乗寺二世となり,白山天台宗系の

寺院を曹洞宗に次々に改宗させた。その中には総持寺と洞谷山永光寺(1312)がある。さらに,瑩山派は

真言宗寺院も吸収し,白山信仰,観音信仰山王権現信仰,熊野信仰などの在来の諸々の信仰を取り入れて

いくという総合的な宗風を作った(今枝 1989)。このように禅宗の歴史を見ると,禅宗には密教的な要素

が最初から混在していたことが分かる。

9.身体メタファーから分析した人体表相図の上下と堂宇の位置

レイコフとジョンソン(Lakoff & Johnson 1980)は,ある概念に空間的方向性を与えるメタファーを定位

のメタファー(orientational metaphor)と呼び,人間は具体的・身体的経験の構造を投射して抽象概念や心的

事象を理解しているという概念メタファー論を提唱した。ここでは,定位のメタファーの中で「上下」の方向

性に限定して述べる。

禅宗寺院では伝統的に山門・仏殿・法堂は中軸線状に配置されるが,そこには仏殿を中心として,法堂

を上,山門を下に置くという垂直軸が関係していると考える。すなわち,堂宇の重要性の優劣を示す手段

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として,「上下」という方向軸を用いていると考えるのである。「上下」をメタファーに用いた表現では,

一般に上が良いイメージ,下が悪いイメージという価値づけが見られる(市川 1984,沖本 2012b,山口

1986)。「上下」のメタファーについては,レイコフとジョンソン(Lakoff & Johnson 1980: 16-17)の先駆的な

研究が知られている。人の認知の多くがメタファーによって構造化されており,比喩的なことばで経験を

概念化しているが,レイコフとジョンソンはそのような概念メタファーの事例として,(1)~(3)を示している。

ここでは概念メタファーを< >内に示し,その英語の事例と日本語の訳例を示す。

(1) <HIGH STATUS IS UP, LOW STATUS IS DOWN(高い地位は上,低い地位は下)>

a. He has a lofty position.(彼は高い地位にある)

b. He’s climbing the ladder.(彼は出世階段を駆け上っている)

c. He’s at the bottom of the social hierarchy.(彼は社会階層の底辺にいる)

d. She fell in status.(彼女は地位が下がった)

(2) <GOOD IS UP, BAD IS DOWN(良いは上,悪いは下)>

a. Things are looking up.(情勢は上向きだ)

b. We hit a peak last year, but it’s been downhill ever since.(当社は昨年は絶頂期だったが,それ以降は下り

坂だ)

c. Things are at an all-time low.(景気は史上最低だ)

(3) <VIRTUE IS UP, DEPRAVITY IS DOWN(美徳は上,悪徳は下)>

a. She has high standards.(彼女には高い道徳観がある)

b. She is upright.(彼女は高潔な人柄だ)

c. That would be beneath me.(そんなことをしたら,私の品位を落とすことになるだろう)

d. That was a low-down thing to do.(それは堕落的行為だった)

ここで注目すべきことは,原文である英語のメタファーの事例に対する日本語の訳例すべてが,同じメタフ

ァーを用いて成立していることである。これは,「上下」のメタファーは,多くの社会や文化に共通した概念

を提供するメタファーだということを意味する。メタファーとは,類似性に基づいてある対象を別な領域の

ものごとに喩えて理解する認知能力であり,その中には,「内外」,「上下」,「前後」など,空間の方向性を用い

たメタファーが多く見られる。これは,人間の身体が肉体構造,成長過程,運動性などの点でそうした方向性

を持っていること,身体が物理的な環境と相互作用することに起因する(Lakoff & Johnson 1980)。たとえば,

私たちはどの社会や文化においても,人間や穀物の成長は私たちに有益な物事をもたらすため,それらを

好ましいと価値づけをしている。この成長は垂直方向で測ることができるため,(1)~(3)の概念メタファー

を形成する動機付けとなっている。こうして,「気持ちが舞い上がる/落ち込む(I’m feeling up/down today)」,

「所得が上がる/下がる(My income rose/fell last year)」などの表現が,(2)の<GOOD IS UP, BAD IS DOWN

(良いは上,悪いは下)>という概念メタファーの事例として存在するのである(沖本 2012b: 11-13,Grady

1997)。

様々な概念メタファーがある中で,乳幼児が運動感覚として身体を通じて直接体験したことが判断基準

となっているメタファーがある。たとえば,(4)は母親のぬくもりといった原初的体験から共起し,形成さ

れた概念メタファーだと見なされる。このような比喩を,グレイディー(Grady 1997)は原初的・第一義

的な比喩という意味でプライマリー・メタファー(primary metaphor)と呼んだ。

(4) <AFFECTION IS WARMTH(愛情は温かさ)>

レイコフとジョンソン(Lakoff & Johnson 1999: 56-57)が指摘するように,プライマリー・メタファーは私た

ちの言語習得過程において無意識かつ自然に獲得されたものであり,環境との相互作用の中で身体的経験

に基づく学習プロセスを通して獲得されたものである。このことは,プライマリー・メタファーが人間に

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とって普遍的な概念メタファーであることを意味する。よく知られたプライマリー・メタファーには,(4)の

他に(5)~(9)がある。日本語の事例もあわせて提示する。

(5) <MORE IS UP; LESS IS DOWN(多いは上,少ないは下)>

a. 塵も積もれば山となる

b. 低賃金で働く

(6) <TIME IS MOTION(時間は運動)>

a. 光陰は矢よりもすみやかなり(道元『正法眼蔵』)

b. 時間がゆっくり進む

(7) <KNOWING IS SEEING(認識は視覚)>

a. 百聞は一見にしかず

b. 話が見えない

(8) <UNDERSTANDING IS GRASPING(理解は把握)>

a. 問題を把握する

b. 要点をつかむ

(9) <HAPPY IS UP; SAD IS DOWN(幸せは上,悲しみは下)>

a. 勝者は天にも昇る気持ちである一方で,敗者はかなり落ち込んでいる

b. 嬉しくて舞い上がる

(5)は,物の量は堆積した高さから分かる。(6)は,時間の経過を自身および物体の移動により知覚する。(7)は,

視覚から情報を得る。(8)は,手に取ってみることから情報を得る。(9)は,感情と姿勢との相関関係を認識する。

(5)~(9)には幼年期の一次体験が基盤にあり,それに基づいて概念メタファーを形成している。プライマリ

ー・メタファーは人間の原初的な身体経験に基づくことから,言語の違いを超えた共通の認知的な枠組み

を人間にもたらしている可能性が高い。当然,文化的な違いもあるため,言語表現の絶対的な枠組みだと

は考えないが,日本語の表現事例(5a, b)~(9a, b)を参照すると分かるように,プライマリー・メタファーに

着目することは人間の認知枠を理解する手助けになる。

以上,私たちは上にはプラスの評価,下にはマイナスの評価という価値づけをしていることを見た。身

体メタファーについて,この価値づけに言及した山口昌男と上野千鶴子の対談の中に,次のような興味深

い発言が二つある(山口 1986: 59-72)。一つは,「……言葉においても必然的に,目とか,鼻でも,口でも,

それから胸でも,上半身の部分を指す言葉は比較的いいほうに使われる。手がよく動くとか,手先が器用

だとか,目元ぱっちりとか。そうすると大変いい表現になっていますね。下半身については,そういうこ

とがちょっと少ないんで,あいつ借金で足出したとか,勇み足,駄足とか,馬脚を露すとか,否定的に使

われることが多い」という山口の発言である。もう一つは,「……身体というものが空間を分節する仕方に

は三つの二元論的なセットがあります。右・左,上・下,前・後でしょう。そのどれも完全に非対称なん

ですね。だから,二元論というけれども,身体をモデルにとったときには,二元論が全部非対称になって,

格差のある二元論になっている。これは身体をメタファーとして考えたときには,大変おもしろい帰結で

す」という上野の発言である。

そこで,「瑞龍寺復元図」(図 10)を例に,垂直軸上に身体メタファーを堂宇の重要性の序列に当てはめ

る([高い>低い]と標示する)と,上から[法堂>大庫裏・禅堂>浴室・七間浄頭]の順になる。ここで

注意しなければならないことは,本稿では禅宗寺院の七堂伽藍の基本的な形体が完成された後の時代に,

人体を伽藍構成に見立て人体表相図を作ったと考えており,その見立ての第一次的な動機付けについて述

べていることである。大庫裏・禅堂は,調理・食事・合掌・印相などと関係があり,手をそれらのシンボ

ルと見ることができる。そのとき,手は浄と関係がある。浴室・七間浄頭が大庫裏・禅堂の下に位置する

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のは,不浄との関係が考えられる。このような見方は,先の山口の発言と一致する。そして伝統的に,中

軸上に法堂,仏殿,山門が一直線上に位置するため,これらを組み合わせると,[法堂-中軸上段(頭),

仏殿-中軸原点(心)/大庫裏・禅堂-左右中段(両手),山門-中軸下段(隠)/浴室・七間浄頭-左

右下段(両脚)]となる。繰り返すが,仏殿(または,金堂,中堂,本堂)を視点の原点(基点)と見なす

ことに注意しなければならない。すなわち,中軸上においては,[法堂を上,仏殿を中,山門を下]とい

うような全体を捉えた序列化をするのではなく,[仏殿を基点として法堂を上,山門を下]というようなあ

る視点から見て他者を序列化するのである。このような見方をする理由は,歴史的に伽藍の中心を占める

堂宇は塔であったというある事実に基づく。そして,横山(1948: 43)が,「宋代に至ると既に寺院は形式

化をたどって佛殿が伽藍の中心的な存在となっていた事が確かめられる」と記しているように,日本の禅

宗寺院の七堂伽藍の構成が,宋(960~1279)の寺院建築の影響を強く受けているという事実に基づく。

[1]で,「本来塔は,インドで生まれたものであり,仏舎利を納め涅槃を象徴する重要な堂宇であった」

と述べたように,日本の最初の伽藍様式である飛鳥寺式(図 2)では,五重塔を中心に伽藍を構成してい

た。武澤(2009: 155-156)はこの様式について,「わが国初の伽藍は,五重塔を中心としてマンダラを形成

していたのである。……マンダラの中心に塔があり,仏像を納める金堂がこれを取り囲んでいた。このこ

とから塔が金堂より,ひいては仏像より優先されていたことがわかる。塔の中心をつらぬく心柱を載せる

石(=心礎)には遺骨(=舎利)を納める孔があった」と述べている。しかし,法隆寺(607)以降,塔は

伽藍の中軸上からはずれる(青木 2000: 30-33)。東大寺(741)では,金堂(大仏殿)が伽藍の中心に置か

れた。以降,仏殿が伽藍の中心(=原点:特別な位置)となる。また,山門を下とする理由として,山門

が俗世間との境界付近に位置するということが考えられる。仏殿が特別な位置であり,堂宇間に序列があ

るとする考え方を支持する資料としては,「古代寺院において最も重視されたのは,三宝のうち,塔や金堂

といった「仏」の空間です。次いで講堂や食堂・僧坊など「法」「僧」の空間が重視されました」と記され

た発掘調査の報告書がある(枚方市教育委員会 2012: 2)。さらに,[1]で,「禅宗では,朝鮮半島から仏

教が伝来して以来,大陸様式にならって仏殿は伝統的に南向きとなっている。中国では古代から,宮殿は

「天子南面,臣下北面」の思想から「坐北朝南」として南向きに建てられており,寺院建築もそれに倣っ

たとされる。したがって,北を上位,南を下位と見なす」と述べたように,人体表相図の頭は北[法堂-

上],足は南[西浄・浴室-下]となる。

日本に直接影響を与えたとされる南宋時代の伽藍配置については,横山(1967: 72)に,「佛殿を中央に,

前に山門,後に法堂方丈,左に庫院,右に僧堂を建てて廻廊で連結するという定形的な配置法であったら

しい。ただし浴室と東司に関してはまだ禅林七堂のごとく形式的な配置をとらず,多分に実用的で最も適

所に設けられていた点に注意を要する」とある。しかし,日本では,南宋五山の一つに数えられる径山万

寿寺を模倣した建長寺の伽藍構成が,禅宗様伽藍配置の規範となった。そして,その配置を身体に見立て

ることにより,各堂宇についての価値づけ(序列)がより明確になったと推測する。

[8]で示した内藤と藤木(1972: 22)の中に,「長谷川家のものと,曹洞宗の秘伝書では人体を転倒し

て説明しているわけであるが,仏殿を心としている点は両者に共通している」とあったが,仏殿を心とし

ている点が共通しているのは,仏殿が原点であるからだと解釈する。しかし,「上下」のメタファーの含意

から,また,「天子南面,臣下北面」の思想から,俗世間との境界を意味する山門を人体表相図で頭の位置

に置くというようなことは絶対にあり得ない。換言すれば,宗教的戒律の厳格さにかかわらず人体表相図

にこのようなあり得ない異形が存在することは,人体表相図が簡便的に用いられていたという証拠である。

七堂伽藍の中心が仏殿であるということは宮大工も承知していたはずだが,何よりもそれらの図が単に口

伝のみによって描かれたため,そして,僧門ではなく俗世間の人間によって語り伝えられたため,身体の

上下の部位と南北の堂宇とを関係を知らずに,誤って逆に対応させてしまったという可能性がある。しか

も,この誤謬はさらなる誤謬を招き,伽藍構成を表現するために,両手で頭上に円を描くという一層奇妙

な姿(図 19~21)を作り出してしまった。それは,『天台真言七堂雛形~全』の人体表相図(図 21)を見

ると分かるように,両手は仏殿から山門にめぐらした回廊を示すためのものとなっており,人体図上の左

右にある堂宇(浴室,浄頭)を示していない。このことは,人体表相図の各身体部位が七堂伽藍の各堂宇

を示すという本来の役割を果たしていないだけではなく,木割書の人体表相図は単に建築構造の青写真的

な用途を目的として作成された図であることを意味する。以上が,切紙と木割書に見られる七堂伽藍の人

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体表相図の原型と成り立ちについてである。

10.人体表相図と密教との関係

ここまでの人体表相図と密教との関係について振り返ると,古代インド発祥のヴァーストゥ・シャース

トラは,五大[地,水,火,風,空]のバランスの調和が良いエネルギーをもたらすという考え方に基づ

く思想であった。そして,朴澤家文書にある人体表相図(図 17~19,21,22)は五輪五体をかたどったも

の,つまり,身体部位が五大(=五輪)[地,水,火,風,空]を象徴していた。五大思想は,インド由来

の中国密教経典『大日経』と『金剛頂経』に基づく。中国で密教を伝授されたのが空海であり,空海は『大

日経』に基づく胎蔵界と『金剛頂経』に基づく金剛界を統合して,両部曼荼羅を唱えた。日本の禅宗の歴

史は,空海(774~835)の真言密教(東密),最澄(767~822)・円仁(794~864)の天台密教(台密)と

関係が深い。以上のことを踏まえて,曼荼羅と人体表相図の関係について詳細に検討する。

武澤(2009: 35-36)によれば,曼荼羅の起源は仏教の誕生(紀元前 5 世紀頃)よりもはるかに古く,バ

ラモン教がインドを支配する時代まで遡るという。曼荼羅の最も原初的な形は,バラモン教の儀式を行う

ために土で作った壇であり,その上に白い粉で幾何学的な模様や神々の像を描いた。この壇上に神々が降

臨するが,その姿は聖なる宇宙の再現を意味する。儀礼が終わると壇は撤去される(松長 1991: 155-160)。

このような儀礼はヒンドゥー教に流入し,5 世紀頃には仏教に取り入れられた。武澤は,この 5 世紀頃に,

バラモン教のコスモロジーは仏教に入り伽藍に形象化されたと考えている。つまり,伽藍そのものを立体

曼荼羅と見なすのである。仏教寺院では伽藍の中心に塔を建築した。塔は,仏舎利を納めたストゥーパ

(stûpa/卒塔婆)を起源とする。日本に仏教が入り寺院の建築が始まると,飛鳥寺式(図 2)の建築にお

いて,五重塔を中心とした伽藍を形成した。武澤は,この寺院建築様式そのものが塔を中心とした曼荼羅

であると主張する。しかし,その後,伽藍の中心にあった塔の位置は動き,伽藍曼荼羅に大きな変化が起

こる。たとえば,法隆寺では塔と金堂が並列した伽藍,薬師寺では金堂の手前の左右に二つの塔を置く双

塔式伽藍,東大寺では中心伽藍を取り巻く回廊の外に二つの塔を置く双塔式伽藍と,次第に塔が中枢から

移動していく(青木 2000: 31-33, 武澤 2009: 216-230)。

空海は,804 年に唐に渡り長安で密教の中心人物であった青龍寺の恵果(746~805)から密教を伝授さ

れ,806 年に帰国する。塔が伽藍の中枢から移動していく中,空海は高野山に大伽藍の建設を計画し,そ

の核として,両部曼荼羅を意味する大塔二基を配置するという構想を立てた(武澤 2009: 174-182)。空海

は高野山に一大立体曼荼羅を建設することを想定していたと,武澤は考える。空海が高野山金剛峯寺(816)

を建立するにあたり,「高野建立初結界時啓白文」(819)を記しているが,その啓白文は,「沙門遍照金剛,

敬白十方諸仏,両部大曼荼羅海会衆,五類諸天,及以国中天神地祇,并此山中地水火風空諸鬼等,夫有形

有識,必具仏性。」(弘法大師空海全集編輯委員会 1984: 612,熊本 2007: 113)という文で始まっている。

この文は,「沙門遍照金剛,謹んで十方世界の諸仏,両部の大曼荼羅の諸仏諸尊,五類の諸天および国中の

天神地祇,並びに高野山中の[地,水,火,風,空]の五大の諸神に申し上げる。そもそも,形があり識

あるものは必ず仏性を具えている」という密教の擁護を誓願したものである。空海は密教経典『大日経』

にある五大に,[識]を加えた六大をマクロコスモスの象徴と考えた。そして,「六大は法界を体とするも

のよりなった身,つまり仏身であり,マクロコスモスでもある。……この六大は,仏の身体であるととも

に,行者の身体でもある。マクロの世界も,ミクロの世界も,ともに同じく六大よりなる」(松長 1991: 82)

という論を展開し,宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)が本質的に同じだと説く。この論

理に基づいて,真言宗では,修行により悟りを開けば来世を待たず今生で仏になれるという「即身成仏」

を説くのである。

五大[地,水,火,風,空]は,この順で行者の身体部位[足,へそ,心臓,首,頭]に対応する(松

長 1991: 81, 119-121)。覚鑁(1095~1144)の『五輪九字明秘密釈』によれば,五輪は,行者(図 23)を

下から[膝輪,腹輪,胸輪,面輪,頂輪]という五輪塔(図 24)と見なすことに由来する(覚鑁 2009: 270-271)。

五輪塔を人体に当てはめて考えることを,支分生曼荼羅(図 25)という(大栗 2000)。覚鑁は,密教と浄土教

との融合を図ることによって,空海の目指した教えを再興しようとした真言宗の高僧である。覚鑁のねら

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いは当時成功しなかったが,江戸時代になると,この真言宗の新義派は関東一円に勢力を拡大する。全国

各地で見ることができる五輪塔は,そもそも密教系の仏塔として最初に現れたという説があるが,資料と

しては,京都の法勝寺小塔院(1122)跡から発見されたものが最古とされる。五輪塔は,平安時代後期に

集中して見られたが,その分布範囲は小さかった。しかし,鎌倉時代末期になると分布は拡大し,江戸時

代には一般的になっていた(和田 1977)。大栗(2000: 35-37)によれば,宇宙のあらゆるものは四角と円

の組合せからなり,五輪塔の真円形は金剛界曼荼羅が物質の世界を表していることを示し,正四角形は胎

蔵界曼荼羅が精神世界を表していることを示すという。五輪塔(図 24)は下から,正四角形,真円形,三

角形(正四角形を斜めに切断した形),半円形(円を半分に切断した形),一番上に宝珠(半円形の上に三

角形を載せた形)で構成される。卒塔婆の上部の形もこのように構成されており,大日如来である宇宙の

象徴を意味する(松長 1991: 118-121)。大日如来は宇宙の永遠性,普遍性を仏としたものであり,サンス

クリット語ではマハーヴァイローチャナ・タターガタ(Mahāvairocana Tathāgata)という。教典では摩訶毘

廬遮那如来と音訳される。

図 23(覚鑁 2009: 271) 図 24(大栗 2000: 36) 図 25(大栗 2000: 37)

先に,朴澤家文書の「無隠図」にある人体表相図(図 17)と『禅七堂雛形~全』の人体表相図(図 18)

を見たが,それらの図には下から上へ[地,水,火,風,空]の文字が五輪の形で記入されていた。これ

らの人体表相図(図 17,18)は,上下の転倒という点では誤謬であるが,五輪が記入されているという点

では注目すべき資料である。つまり,これらの人体表相図には支分生曼荼羅が当てはまり,禅宗と密教の関

係を示す貴重な資料だと考える。また,人体表相図に描かれているのは人か仏かという問題についても,空

海の「即身成仏」の考え方を導入すれば,人の中に仏を見るというミクロコスモスを描いたものだと考えるこ

とができる。すなわち,「即身成仏」は行者と大日如来の一体化(人=仏)を意味するため,人体表相図は,切

紙では人の形(ミクロコスモス)で描かれ,木割書では人の形ないしは仏の形(マクロコスモス)で描かれて

いるが,それら 2 種類の姿には矛盾がないことになる。換言すれば,人と仏が同一であることが成仏を意味す

るのだから,表面上はどちらでもよいことになる。このことを支持する証拠として,正龍寺の切紙(1589)に

掲載された「七堂図」(図 14)がある。[7]で,「頭上には丈室と円形の印が示されている」と記したよ

うに,この人体表相図の頭上には「円相」が描かれていた。禅宗において,「円相」は悟りの形象とされる

ものであり,真理,仏性,宇宙を意味する。したがって,この人体図にあるのは,たとえば,悟りを開い

た人(行者)だと考えることができる。[注 7]で示した「念仏切紙」(1688)の人体表相図(図 26)も同

様である。本稿では,木割書の人体表相図は伽藍構成のあらましを把握するためのものとして,用途を中心に

捉えてきた。しかし,木割書の人体表相図は切紙を原型としており,中でも朴澤家文書の人体表相図(図 17,

18)は,木割書に僧門の影響があったことを示すという点で,宗教観が表出した貴重な資料でもある。

「即身成仏」を唱える空海の六大説を要約すると,次のようになる(松長 1991: 78-83)。

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空海は[地,水,火,風,空,識]の六大を,宇宙を構成する六種の象徴と見る。

・地大:大地がすべてのものを載せ,それらの拠り所となるような,堅固で安定感に満ちた性質。

・水大:すべてのものを清浄にし,爽快感を与え,ものを生育させるような,柔軟性に富み,復元力と

生育力に優れた性質。

・火大:すべてのものを焼き尽くす烈しさとともに,暖かさがあるという性質。

・風大:すべてのものを吹き飛ばすような活動的な性質。

・空大:虚空が無限なように,時空を超えた無限の広がりと底知れぬ包容力を持つ性質。

五大は客観的に見た宇宙の五種の性質の象徴である。これらの五大を見る主体である自分を,識大として

表す。マクロコスモスの象徴は五大つまり大日如来であり,ミクロコスモスとしての行者の身体の五カ所

に布置される。こうして,マクロコスモスとミクロコスモスの一体感が,観法を通じて獲得されるという

仕組みになっている。「即身成仏」とは,客体的な五大と主体的な識大が一つになっている状態を指す。

人体表相図と密教との関係が明らかになってきたが,[6]で指摘したように,賴(Lai 2012)に対する疑問

として,人体表相図が立位であり座禅を組んだ姿ではないということがある。また,大の字のように両手両足

を広げている仏像の存在も確認できなかった。しかも,衣服を身につけていない姿というのは奇異である。さ

らには,五輪を上から示すと,支分生曼荼羅(図 23)では[頭,顔,首・胸,腹,腰・足]とあるが,この解

釈にはゆれが見られ,[頭,首,心臓,へそ,足](松長 1991: 81)や[頭上,眉間,胸,へそ,尿道(腰下)]

(松長 1991: 120)という記述がある。しかし,廣泰寺所蔵の「七堂図」(図 12)にあるように,七堂伽藍

は人間の形をした七大[識,見,空,風,火,水,地]の姿であると仮定すると,[3]で示した無著道忠

の『禅林象器箋』の記載[法堂-頭,佛殿-心,山門-陰,廚庫-左手,僧堂-右手,浴室-左脚,西浄

-右脚](無著 1909: 12)は,七大と身体部位の数という点では適合する。しかし,それでもなお,人体表

相図を五大として捉えることは,五輪塔と比べると両腕・両脚の形の点で一致しない部分が残る。そもそ

も,大の字に立つ像と座禅の像とでは,完全に一致する捉え方はできない。そこで,支分生曼荼羅(図 25)

の[頭,顔,首・胸,腹,腰・足]を参考にして,人体表相図を[頭(法堂)-空,顔(仏殿)-風,胸に

ある両腕を三角形状に広げたときの左手(廚庫)と右手(僧堂)-火,陰(山門)-水,座位を立位に変

え両脚を開いたときの左脚(浴室)と右脚(西浄)-地]と捉え直すと,数の上では五輪五体になる。しか

し,朴澤家文書の『禅七堂雛形~全』および『天台真言七堂雛形~全』の記述(図 19 左,22)にあるよう

に,「七堂は五輪五体をかたどったもの」であり,各堂宇と五大[地,水,火,風,空]の各々が一対一の

対応を示すものではないため,このような身体部位の数と堂宇の数の厳密な一致には意味がないと考える。

ただし,大の字のような姿・形については,五大を表すシンボルとして「大の字」を連想したという説がある

かもしれないが,なぜ両手両足を開いているのかについての説得力のある説明とはならないだろう。ただし,

衣服を身につけていない姿については,切紙の人体表相図を見ると分かるように,七堂伽藍は人の外形に見立

てることができるということが人体表相図の最初の起こりであるため,この時点で着衣については問題とはな

らなかったと推測する。僧門においては,切紙の人体表相図はその使用目的から人の外形を示すだけで充分だ

った。しかし,大工の棟梁たちは,木割書の人体表相図により現実的な人ないしは仏の姿を描くことを選んだ。

そして,その姿に身体部位と堂宇の関係を明示するために,外形が最も明確になる実用的な画として裸の姿を

選んだのではないかと推測する。このような推測から,あらためて大の字のように両手両足を広げた形をして

いる理由を考えると,それは単に,人体と七堂伽藍との間に,形状の類似性に基づく身体投射があったこと

に起因するということに気づく。つまり,七堂伽藍の形状が,単に大の字の形に似ていたということであ

る。換言すれば,第一次的な身体投射の動機付けは,形状の類似性にあったということであり,宗教的な

動機付けは第二次的な動機付けだということである。

切紙の各人体表相図と木割書の各人体表相図を比較すると,切紙の図の形は基本的にすべて同一だった。

一方,木割書には切紙の図に類似したものもあれば大きく異なるものがあった。そのため,起源的には,

切紙の図は木割書の図の原型だと考えた。人体表相図の成立については,僧門において最初は,法の伝授

の際の便宜性を考えて形状の類似性から切紙の人体表相図を考案したのではないかと推測する。これが,

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身体投射の最初の(第一次的な)動機付けである。同様に,禅宗寺院の建築に関わる大工の棟梁たちも,

僧門との関係で切紙の人体表相図の存在は知っていたと推測され,伽藍構成の把握の便宜性から切紙の人

体表相図に類似した図を用いるようになったのではないかと考える。しかも,棟梁たちの社会は俗世間で

あるがために,口伝という伝承方法が原因となって人体表相図にゆれが生じたのではないかと見る。

このように考える根拠には,[8]で見た同じ瑞龍寺についての切紙の人体表相図と木割書の人体表相図

との比較がある。瑞龍寺七世無文良準(1665~1728)所伝の『禅林七堂図切紙』の人体表相図(図 15)は,

他の切紙と同じ形であった。一方,「瑞龍寺伽藍復元図」(図 1)の人体表相図(図 11(=図 1 右))は,木

割書『金山寺図』(1809?)に掲載された図であった。二つの出所が異なるにもかかわらず,瑞龍寺の切紙

の人体図(図 15)と木割書の人体図(図 11)には形の点で共通性が見られる。つまり,木割書の人体表相

図には異種があるにもかかわらず,瑞龍寺の切紙の人体図と木割書の人体図には共通性が見られたのであ

る。このことについては,[8]で,「写本『匠明:堂記集』の「人体比喩図」(図 5),『禅林七堂』の人体

表相図(図 6),『金山寺図』の人体表相図(図 11),『室中切紙』の「七堂図」(図 16)の 4 種の姿を重ね

合わせると,それらの形の異なりの程度が明瞭になる」と述べたとおりである。出所が異なるにもかかわ

らず,形に共通性が見られたことを説明するためには,『金山寺図』の人体図(図 11)は,切紙の人体図

の形を(直接,間接にかかわらず)模倣したと考えればよい。木割書の人体表相図で人が仏の形になって

いるものがあるのは,五輪五体や即身成仏など,禅宗の中にある密教的な考え方や当時の仏教観を反映し

て,棟梁たちの間で七堂伽藍に宗教的な意味づけをしたと考えることができる。これが,後世における身

体投射の(第二次的な)動機付けである。

11.人体表相図とは何か

写本『匠明:堂記集』(1700?)の「人体比喩図」(図 5)が,本稿の資料では最も古いものではないかと

述べたように,木割書の人体表相図は,少なくともそのほとんどが江戸時代に作成されたものと思われる。

横山(1958: 3)も,「伽藍名数の配置を人体の表相にかりて説くものが曹洞宗の切紙中にあり,……。尚

此の様な説が江戸時代の工匠間にひろく伝っていた事は巻末に「近世本朝黄檗山高泉和尚此図遂一覧金山

寺之図。又後世中華之五山如欺。口授耳」とある「禅林之七堂図巻」(仮名)なる伝書 2 巻の冒頭に見られ

(る)」と述べている。本稿では[10]で,「覚鑁のねらいは当時成功しなかったが,江戸時代になると,

この真言宗の新義派は関東一円に勢力を拡大する。全国各地で見ることができる五輪塔は,そもそも密教

系の仏塔として最初に現れたという説がある」と述べた。密教系に由来すると思われる五輪塔が,江戸時

代には一般的になっていたが(和田 1977),このような宗教的な背景を下に,木割書の人体表相図が仏の

形になったり,五大[地,水,火,風,空]の書き込みが加えられたりしたのではないかと推測する。

しかしながら,本稿では,五輪五体が江戸時代に人体表相図に示されたのは,当時の時代を反映した一

時的な現象だとは考えない。伽藍構成と五大との関係は江戸時代に表面化しただけのことであり,安土桃

山時代(1573~1602)の正龍寺切紙「七堂図」(図 14)に示された頭上の「円相」のように,密教思想は

禅宗寺院の七堂伽藍の基盤に脈々と流れ続けてきたと考える。飛鳥寺式と呼ばれる日本最初の伽藍構成が

時代とともに大きく形を変えていった中で,室町時代頃に禅宗寺院の伽藍様式に関する身体メタファーが

成立し,今日までずっと続いてきたということは,それが単に外形の類似性だけによるというのでは身体

投射の動機付けとしては脆弱すぎる。[7]で「曹洞宗寺院が現在比較的古制を維持するもの」が多いと記

したように,むしろ,独自の禅宗様伽藍配置をずっと維持しなければならないという,禅宗の戒律に見る

厳格さが動機付けとしてあったのではないかと考える。換言すると,その身体メタファーを支え続けてき

た宗教的背景こそが,人体表相図を長期間保持し続けた最大の動機であるに違いないと考える。人体表相

図の中に身体部位を五大と見なす図や七大と見なす図があるのは,その宗教観の現れだろう。[10]で「即

身成仏」について触れたように,人体表相図の中に,人に見える図もあれば仏に見える図もあるのも宗教

観の現れだろう。仏教の起源を考えるときに必ず登場する五大思想が,禅宗寺院の七堂伽藍の背景にあっ

たとすれば,人体表相図にそれを示すのは不思議なことではない。実際に,建物を五大と見なす記述は,

1324 年に真言宗広沢流の智円が,伊勢に参宮した際に授かった秘法についてまとめたものとされる『鼻帰

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書』の中に見られるという。宮家(2004: 53)によると,そこには,「(伊勢)神宮の建物は床は方形で地,

神座は円輪で水,屋根は三角で火,千木は半月形で風,堅魚木は円形で空を示すというように,五輪をあ

らわすとしている。また心御柱を黄・白・赤・黒・青の五色の糸でまくのは,地水火風空の五輪になぞらえて

のことである」と記されている。そうすると,[10]で「僧門において最初は,法の伝授の際の便宜性を考

えて形状の類似性から切紙の人体表相図を考案したのではないかと推測する。これが,身体投射の最初の

(第一次的な)動機付けである」と述べたが,この最初の動機付けの背景には,すでに密教思想(第二次

的動機付け)があったと考えられる。

武澤(2009: 174-230)によれば,日本初の仏教伽藍は蘇我氏による飛鳥寺であり,そこでは塔を中心とした伽

藍による立体曼荼羅を構成していた。しかし,その後,法隆寺では塔が金堂と非対称に並び,中心を失った伽

藍曼荼羅は崩れ始めたという。薬師寺においては,中心軸上にある金堂の手前に東塔と西塔を横並びとした。

以後,大安寺や東大寺のように,塔は伽藍中枢から次第に大きく離れ,伽藍の中心には金堂(または,中堂,

本堂,仏殿)が置かれるようになった。武澤はこのような伽藍の中心の様変わりを,「伽藍曼荼羅の融解」と呼

んでいる。こうした流れに対して空海は,高野山で二つの塔が金堂に取って代わり,伽藍の中枢を占める寺院

の建築を構想した。しかし,高野山に伽藍曼荼羅の再興を考案していた空海は,823 年,すでに伽藍を備えた

創建 30 年の東寺に着任することになった。着任後 2 年ほど経過して講堂が着工されたが,空海は東寺において

講堂の中に立体曼荼羅を構成した。それが,21 体の仏像からなる羯磨曼荼羅である。832 年,空海は高野山に

講堂(金堂)が完成すると,その後は高野山に隠棲した。

伽藍配置の大きな変化の要因については諸説がある。仏舎利と仏像のどちらを優位に考えるのかという教理

の問題,伽藍造営上必要とする寺地の面積の問題,景観上の問題,周辺諸国の情勢の変化に伴う朝廷の仏教観

の変化の表れなどである(森 1991)。しかし,変化の要因がいずれであれ,本稿で問題にするのは,人体表相

図が作られた時代の身体投射の動機付けについてである。人体を七堂伽藍に見立てた主たる動機は,形状の類

似性の他に宗教的な意味づけがあったのではないかという問題である。そこで,武澤が呼ぶところの「伽藍

曼荼羅の融解」については,融解ではなく変容だと見るべきなのではないかと考える。伽藍の中心に仏殿が配

置されたことで,旧来の塔(仏舎利)を中心とした伽藍曼荼羅とは異なる,日本独自の仏殿(仏像)を中心と

した伽藍曼荼羅が新たに形成されたのだと再解釈するのである。

木割書の「無隠図」にある人体表相図(図 17)と『禅七堂雛形~全』の人体表相図(図 18)には,[地,

水,火,風,空]の文字が五輪の形で記入されていた。廣泰寺所蔵の切紙にある「七堂図」(図 12)には,

七堂伽藍は人間の形をした七大[地,水,火,風,空,見,識]の姿であると記されていた。本稿では,

これらの人体表相図は原典とは異なり,後の時代に書き換えられたものと見なしたが,禅宗と密教との歴

史的なつながりの観点から再考すると,このような人体表相図を受け入れる宗教的な背景が禅宗寺院には

あったのではないかと考える。そうすると,一部の人体表相図に見られる五輪の書き込みから,人体表相

図は七堂伽藍を身体部位に見立てた支分生曼荼羅のような曼荼羅であると解釈できる。この解釈は,『長谷川

家伝来目録』にある「禅宗七堂之図」(図 20)について,内藤と藤木(1972: 22)の「長谷川家の木割書な

どには「佛閣ハ法也人繪ヲ以テ左右ヲ知ラス」と明記されて「禅宗七堂之図」が描かれている」という記

述の中にある「佛閣ハ法也」という一文と整合する。さらには,先の「伽藍の中心に仏殿が配置されたこと

で,旧来の塔(仏舎利)を中心とした伽藍曼荼羅とは異なる,日本独自の仏殿(仏像)を中心とした伽藍曼荼

羅が新たに形成された」という筆者の再解釈は,内藤と藤木(1972: 22)の「長谷川家のものと,曹洞宗の秘

伝書では人体を転倒して説明しているわけであるが,仏殿を心としている点は両者に共通している。自己

の大成を祈願し,国土の安穏を祈る場であった仏殿をして,禅宗伽藍の中心にしているのである」という

記述とも整合する。つまり,禅宗寺院の七堂伽藍は仏殿を中心に据えた立体曼荼羅であり,それ故に,朴澤家

文書の木割書に「七堂は五輪五体をかたどったもの」と記されたのであり,五輪が身体部位との関係を捉

えて人体表相図に示されたのであると考える。

12.おわりに

本稿では,人体表相図が,日本の禅宗寺院の七堂伽藍の構成を表す手段として用いられた動機および出

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所について検討した。建物を人間の身体に見立てることは,世界各地で古くから行われてきた。ここで論

じた七堂伽藍もその一つである。しかし,それは,19 世紀のパリの都市改造計画やル・コルビュジェの建

築に見るような建築の設計図としての身体モデルではなく,堂宇の並びを人の身体に見立てたものである。

つまり,宗教観を背景として形状の類似性による身体投射の結果,禅宗では伽藍を人体に見立て切紙にそ

の図を示し,師匠が弟子に大法を教授するときに便宜的に用いた。同様に,寺院建築に関わる棟梁たちの

間でも,伽藍構成を把握するための手段として切紙にある人体図と同様の図を用いた。この形状の類似性

を身体投射の第一次的な動機付けとした。

しかし,禅宗の厳格さから離れた俗世間という環境と口伝という伝承方法により,木割書の最初の人体

表相図には次第にゆれが生じた。このような主張の根拠は,本稿で確認したすべての切紙の図で人体の形

は基本的に同じであったが,木割書の図には異形が見られたということにある。このような切紙の図と木

割書の図における差異は,僧門では宗教上の戒律の厳しさに加えて切紙を用いて伝承したため,人体表相

図に原典との違いがあっても,大工の木割書の場合と比べてかなり少ないはずだという推測と一致した。

また,木割書の人体表相図に,人ないし仏の姿,五輪の書き込みの有無などのゆれが生じた原因は,後世

に伽藍の宗教的な意味づけが示されたからだと考えた。この宗教的な意味づけを身体投射の第二次的な動

機付けとした。

建築物が思想と深く関連するとき,建築物を人体に見立てる背景には明確な理由があることを,古代中

国の風水,インドネシアのリオ族の住居サオ・リア,古代インドのヴァーストゥ・シャーストラで確認し

た。このヴァーストゥ・シャーストラは,五大[地,水,火,風,空]と深く関係する思想である。密教

では,五大はマクロコスモスを構成する原質だと見なされるが,この密教と日本の禅宗は最初から関係が

あった。しかも,朴澤家文書にある人体表相図には五輪が記入されており,正龍寺六世大久寅碩所伝の切

紙の「七堂図」(図 14)には「円相」が描かれていた。このような資料の分析に加えて,伽藍様式が時代

とともに変化していく姿は,「伽藍曼荼羅の融解」ではなく「伽藍曼荼羅の変容」であると捉え直した。さ

らに,空海が高野山に伽藍曼荼羅を構想したことを踏まえ,禅宗寺院の七堂伽藍は仏殿を中心とする立体

伽藍曼荼羅であるということを,身体メタファーを用いて表したのが人体表相図だという結論に至った。

* 本稿を執筆するにあたり,次の方々のお世話になった。現在,日本の禅宗寺院の七堂伽藍を身体に見立

てた起源については不明とされているが,本稿を執筆するにあたり,賴信川氏(国立台北商業技術学院)

からネパールのサンスクリット経典に禅宗寺院の人体表相図と似ている身体図があることをご教示いただ

いた。あわせて,参考文献についてご教示いただいた。賴氏の研究を紹介していただかなかったら,七堂

伽藍についての身体投射が曼荼羅と関係があるという結論には達しなかったかもしれない。水野沙織氏(仙

台市博物館)には,仙台市博物館所蔵の朴澤家資料に関する調査の協力を依頼したばかりではなく,関係

資料の収集に際し大変ご尽力いただいた。水野氏の協力がなかったら,数少ない人体表相図の資料がさら

に乏しいものになっていただろうし,人体表相図と五輪五体との関係に気づかなかったかもしれない。河

田克博氏(名古屋工業大学)には,氏の博士論文から多くのことを学ばせていただいたばかりでなく,筆

者の質問に二度にわたってご回答くださり,七堂伽藍について多くのことをご教示いただいた。禅宗様に

ついて建築学の専門家から貴重なご意見をいただいたことは,伽藍配置についての筆者の理解を深めるの

に大変役立った。佐藤浩司氏(国立民族博物館)には,現地を調査された際のサオ・リアの写真(図 7)

の掲載を許諾していただいた。蘇氷氏(北海道文教大学)には,賴氏の中国語文の解釈についてご教示い

ただいた。張十慶氏には,筆者の質問に対してご回答をいただいた。また,杉野丞氏(愛知工業大学)に

は,張氏とコンタクトを取っていただいた。柳原敏明氏(東北大学)には,朴澤家資料について水野氏を

紹介していただいた。禅文化研究所,臨済宗の建仁寺派大本山東山建仁寺,妙心派大本山正法山妙心寺,

天龍寺派大本山霊亀山天龍寺,曹洞宗の大本山諸嶽山総持寺,東香山大乗寺,高岡山瑞龍寺には,筆者の

質問に対してご回答いただいた。ここにお名前を記し,感謝の意を表したい。

** 人体表相図の写真 4 点(図 18,19,21,22)は,仙台市博物館から本稿に限定して写真利用の承認(利

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用 No. G12157)を受けたものである。仙台市博物館の規則により,他への複写・転載等は禁ずる。

(1) 身体投射(body projection)とは,人間や動物(ただし,究極的には人間)の身体全体と部位との関係

を,類似性に基づいて事物や人間の社会的関係に写像することをいう。身体投射とは,世界を認識す

る基盤は人間の身体経験に根ざすという認知様式の一種で,人間や動物の身体を他の領域に写像する

ことで実体を把握するという人間の認知能力である。「私は会長の右腕だ(I am the president’s right-hand

man)」,「頭脳集団(the brains)」,「問題の核心に入ろう(Let’s get to the heart of the problem)」,「台風の

目(the eye of a typhoon)」,「壁面(the face of a wall)」などの例に見るような身体メタファー,物体部

分詞の他に,身体的投射(bodily projection),擬人化(anthropomorphism),相貌的知覚(physiognomic

perception)などが,身体投射に含まれる(沖本 2009: 64-70, 2010b: 30)。沖本(2009)の用語。

(2) 「銃口(the muzzle of a gun)」の muzzle とは,犬や馬などの鼻口部のことである。

(3) 「山の肩」の例として,「マッターホルンの肩」(Schulter(独))がある。

(4) 無生物に対して人間の場合と同様な感情を抱く例として,2010 年に地球へ帰還した小惑星探査機「は

やぶさ」の衛星管理室のスタッフたちの言動がある。(川口 2010, 沖本 2012a)

(5) 切紙とは,奉書紙を横二つ折りにして半分に切ったものに,嗣法三物に関する口伝,種々の儀礼,在

家法要,宗旨の秘訣等を,1 項目ごとに 1 枚の紙に記して秘密伝授されたものである。後には,冊子の

形にまとめられたものも現れた。密教や禅,修験道など,中世から近世に至るまで広く見られる(石川

1983: 339,末木 1996: 182)。

(6) 「手足の位置に各堂宇を配置するだけの人体表相図では,手足の開く角度(図 5,6,11)によって各

堂宇の位置関係にずれが生じ,伽藍の全体構造を捉えて正しく伝承することはほとんど不可能だ」と述

べたが,横山(1976: 150)が示す『匠明』の人体表相図(図 26)を見ると奇妙なことに気づく。それ

は,[1]で示した同じ『匠明』の「人体比喩図」(図 27(=図 5))と,姿・形および両腕の開く角度

に違いが見られることである。沖本(2003: 19)で示した張(Zhang 2000: 47, 2002: 55)の人体表相図は,

出典に横山秀哉(『凡匠論叢』宝文堂)とあるが,この人体表相図(図 26)と同じものである。しかし,

横山(1958: 18)には,「人体比喩図」(図 27)と同じものが掲載されている。横山秀哉は 2 種類の『匠

明』の人体表相図を示しているが,その理由は,出典が『匠明』の写本「東京大学蔵本」,「日比谷図書

館本」,「小林文次本」とは異なる別な写本から引用したからとしか考えられない。仮にそうだとすると,

『匠明』においても,人体表相図の継承にゆれがあったということになる(太田 1971: i, ix)。

図 26(横山 1976: 150) 図 27(=図 5)

(7) 筆者には,『禅林七堂』の切紙の人体表相図(図 6)は人の姿だけではなく,蛙の姿のようにも見える。

このような姿の人体表相図は切紙に限られ,木割書の人体表相図には見当たらなかった。仏・菩薩の称

号である名号関係の切紙に,「念仏切紙」がある。そこには,念仏の一語一語に六道や神道の諸神を配

する内容の文と人体表相図が示されているが,石川(1986)によれば,この内容は曹洞宗独自の解釈で

あるという。ここに示すのは,龍門山高安寺大器保禅の「念仏切紙」(1688)の人体表相図(図 28)で

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ある。その人体図には,[天道-南-頭,人道-無-心,修羅道-阿-左手,餓鬼道-弥-右手,畜生

地-陀-左脚,地獄道-佛-右脚]とある。他に,同一の人体表相図としては曹洞宗の福田山徳雲寺(徳

運寺)所蔵の「念仏切紙」(1620)がある。興味深いのは,曹洞宗の南谷山香林寺所蔵の「念仏之切紙」

(1640)の人体表相図(図 29)である。そこには,[道-南-頭,人道-無-心,修羅道-阿-左手,

餓鬼道-弥-右手,畜生道-陀-左脚,地獄-佛-右脚]とある。この人体表相図は蛙のように見える。

人体を蛙の姿に喩える例がよくあるのかどうかは分からないが,次のような話が知られている。原始

仏典のパーリ資料『小部経典(Khuddaka-Nikāya)』第 6 編の「天宮事経(Vimāna-vatthu)」には,

釈迦の説法の声に惹かれて池から出てきた蛙が不慮の事故で死ぬが,釈迦の説法の声で心が浄化され

ていた蛙は天人となったという話がある(Hornor & Gehman 2005,藤本 2011)。また,吉野にある国

軸山金峯山寺は,山岳信仰と密教などが融合した修験道の寺院であるが,そこでは毎年 7 月に「蛙飛び」

という行事が行われている。これは,昔,男が金峯山で暴言を吐いたため大鷲にさらわれ,断崖絶壁の

上に置き去りにされた。しかし,後悔した男は高僧の法力で蛙に変えられて連れ戻され,蔵王権現の前

で修法をして人間に戻されたという話に基づく行事である。人を蛙に喩える話が,故事にあるのかもし

れない。

図 28(石川 1986: 260) 図 29(石川 1993: 107)

(8) この内藤と藤木(1972: 22)の記述には,「たとえば,長谷川家の……北を上にして法堂-頭,……,

東司-右脚」と「としているという。いずれにしろ,……にしているのである」の間に「,浴室-左脚」

が脱落している。

(9) 今回の調査では,仙台市博物館所蔵の朴澤家文書の中に「無隠図」は確認できなかった。

(10) 朴澤家文書とされる「無隠図」に掲載されている人体表相図(図 17)は,『禅七堂雛形~全』に掲載

されている人体表相図(図 18)とほぼ同一に見えるが,いくつかの違いがある。たとえば,頭部につ

いては「無隠図」の人体図(図 17)では「三門」,『禅七堂雛形~全』の人体図(図 18)では「山門」

とあり,頭部左上に位置する堂宇については「無隠図」の人体図(図 17)では「浄頭」,『禅七堂雛形

~全』の人体図(図 18)では「浄頭」,「渾頭トモ」とある。

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