さようなら伊藤忠本町ビル - itochu-tex.net · 2011 vol.617 committed to the global good...

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2011 vol.617 Committed to the global good 発行:伊藤忠商事株式会社 繊維経営企画部 大阪市北区梅田3-1-3 TEL06-7638-2027 FAX06-7638-2008 URLhttp://www.itochu-tex.net 本紙に関するご意見・ご感想をお寄せ下さい。[email protected] 9 ITOCHU Mission since 1960 Vol.617 CONTENTS 毎月1回発行 Special Feature / さようなら伊藤忠本町ビル 1 - 4 World Report / 大阪ステーションシティ 「駅」と「まち」が変わる (下) 5 Fashion Report / ニューヨークと東京のコネクション 6 どうして本町なのか 「御堂さん」の鐘を聞きたい 林 まずは上 林さんから、このビルにつ いての思い出などをお話いただきたいと思い ます。 上林 伊藤忠本町ビル最後の日に、こうし た機会を設けていただき、出席者を代表して 感謝を申し上げたいと思います。本題に入る 前に、どうして伊藤忠商事が本町の地を本 拠に選んだのか、ご存知の方も多いとは思い ますが、ご紹介したいと思います。 先日、所用があって北御堂さん(浄土真 宗本願寺派本願寺津村別院)を訪れたとこ ろ、伊藤忠の梅田移転が話題となりました。 御坊のお話によると 北御堂さんのホーム ページでも紹介されていますが、織田信長 との争いで本願寺は大坂(大阪)を離れな ければならなくなり、大坂の門徒は天満辺り それで、自分も結婚式を南御堂さんで挙げさ せていただきました(笑)。 本所 わたしは1972年の入社ですが、当 時は青田刈りの時代で、1970年頃からこの 活気にあふれるビルに出入りしていた記憶が あります。当時の伊藤忠は「野武士集団」「自 由闊達」「創意工夫」「挑戦」など若者を鼓 舞する言葉にあふれていました。当時ガール フレンドと、今の家内ですが、デートでビルの 前を通りかかると、内定ももらってないのに、 「俺はここに入社するんだ」と宣言した記憶 があります(笑)。伊藤忠に入社したというよ り「伊藤忠本町ビル」に入社した、という思 いが強いですね。 に新しい坊舎を建立。その後、「津村郷」 と呼ばれていた現在の地に移り、津村御坊 は「北御堂」と称されるようになったというこ とです。 南御堂さん(真宗大谷派難波別院)を含 め、この御堂さんの近くに、篤信な門徒(近 江出身の商人など)が集まり、大坂の商業 の中心「船場」の町を築いたといいます。こ こで働く商人たちは、「ひときわ大きな屋根を 誇らしげにしている『御堂さん』の鐘の聞こ えるところで商売を……」を合い言葉に商い に精を出した。初代伊藤忠兵衛もそうしたひ とりだったのでしょう。 林 兼崎さんは1961年のご入社で、まだ 安土町に本社があった頃ですね。 兼崎 そうです。1967年にニューヨークに 赴任し6年間駐在しましたから、このビルが誕 生した1969年は残念ながら海外で過ごして いたことになります。 1973年に帰国して新しいビルを見上げる と、なにかしら清々しい気分になったことを昨 日のことのように思い出します。ぜいたくな玄 関で、ビル内に入るときに緊 張しましたね。 お客さんも同じような感想を漏らしておられま した。 林 小寺さんは1970年のご入社です。新 築のビルに入られたわけですが。 小寺 入社以来、繊維カンパニーには海 外18年、国内14年の合計32年間お世話に なりました。会社訪問のときに、「なんて素晴 らしいビルなんだ」と思った記憶があります。 役員面接会場の11階の役員室は赤いじゅう たんが敷かれ、そのふわふわとした感触がい まだに足裏に残っています。外観は華麗、 内部は荘厳なイメージでした。 このビルが好きでした。ある日曜日に仕事を 片付けるために出勤して、一服となにげなく 南御堂さんを見ると、結婚式をやっている。 恥ずかしながら「お寺は葬式」のイメージし かなく、結婚式もやるのかと初めて知りました。 OBが語る“あの日あのとき” Special Feature さようなら伊藤忠本町ビル 伊藤忠商事大阪本社は2011年8月15日、大阪市中央区・本町の地からJR大阪駅北のノースゲートビルディングに移転しました。7月26日には大阪市中 央区長をはじめ、隣接する坐摩神社、南御堂、本町伊藤忠ビル建設に携った竹中工務店、そして近隣の飲食店、ビル内事業会社などから約60人の方々 をご招待し伊藤忠ビル感謝の夕べを催しました。また、8月11日には大阪本社在勤の社員約160人が岡藤正広社長、桑山信雄専務執行役員、岡本均常 務執行役員繊維カンパニープレジデントらとともに坐摩神社、南御堂などにお礼のお参りのあと、手分けして周辺店舗へのごあいさつと本社周辺の清掃を行 い、近隣への感謝の意を表しました。そして本町最終日である翌12日には伊藤忠OB・OG・現役社員など約750人を招き、「伊藤忠本町ビルさよならセレモニー」 を開催しました。同最終日に、繊維経営企画部長(1996年まで繊維企画統轄室長)経験者の皆様にご参集いただき、それぞれの時代の出来事を振り返っ ていただくとともに、新しい本社に集う繊維カンパニーへの期待の言葉を寄せていただきました。 上林 孝典氏(伊藤忠商事 元副社長) 兼崎 勝行氏(伊藤忠商事 元常務) 小寺  明氏(伊藤忠商事 元常務) 本所 良太氏(伊藤忠商事 元執行役員) 出席者 (順不同) 林  史郎(伊藤忠商事 繊維経営企画部長) 司 会 写真左から:本所良太氏、兼崎勝行氏、上林孝典氏、小寺明氏、林史郎

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2011vol.617

Committed to the global good

■ 発行:伊藤忠商事株式会社 繊維経営企画部     大阪市北区梅田3-1-3

■ TEL:06-7638-2027 ■ FAX:06-7638-2008

■ URL:http://www.itochu-tex.net

本紙に関するご意見・ご感想をお寄せ下さい。[email protected]

9豊 か さ を 担 う 責 任

─ ITOCHU Mission ─

since 1960

Vol.617 CONTENTS

毎月1回発行

Special Feature / さようなら伊藤忠本町ビル 1 - 4 面

World Report / 大阪ステーションシティ 「駅」と「まち」が変わる (下) 5 面

Fashion Report / ニューヨークと東京のコネクション 6 面

どうして本町なのか「御堂さん」の鐘を聞きたい

 林 まずは上林さんから、このビルについての思い出などをお話いただきたいと思います。 上林 伊藤忠本町ビル最後の日に、こうした機会を設けていただき、出席者を代表して感謝を申し上げたいと思います。本題に入る前に、どうして伊藤忠商事が本町の地を本拠に選んだのか、ご存知の方も多いとは思いますが、ご紹介したいと思います。 先日、所用があって北御堂さん(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)を訪れたところ、伊藤忠の梅田移転が話題となりました。御坊のお話によると─北御堂さんのホームページでも紹介されていますが、織田信長との争いで本願寺は大坂(大阪)を離れなければならなくなり、大坂の門徒は天満辺り

それで、自分も結婚式を南御堂さんで挙げさせていただきました(笑)。 本所 わたしは1972年の入社ですが、当時は青田刈りの時代で、1970年頃からこの活気にあふれるビルに出入りしていた記憶があります。当時の伊藤忠は「野武士集団」「自由闊達」「創意工夫」「挑戦」など若者を鼓

舞する言葉にあふれていました。当時ガールフレンドと、今の家内ですが、デートでビルの前を通りかかると、内定ももらってないのに、「俺はここに入社するんだ」と宣言した記憶があります(笑)。伊藤忠に入社したというより「伊藤忠本町ビル」に入社した、という思いが強いですね。

に新しい坊舎を建立。その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り、津村御坊は「北御堂」と称されるようになったということです。 南御堂さん(真宗大谷派難波別院)を含め、この御堂さんの近くに、篤信な門徒(近江出身の商人など)が集まり、大坂の商業の中心「船場」の町を築いたといいます。ここで働く商人たちは、「ひときわ大きな屋根を誇らしげにしている『御堂さん』の鐘の聞こえるところで商売を……」を合い言葉に商いに精を出した。初代伊藤忠兵衛もそうしたひとりだったのでしょう。 林 兼崎さんは1961年のご入社で、まだ安土町に本社があった頃ですね。 兼崎 そうです。1967年にニューヨークに赴任し6年間駐在しましたから、このビルが誕生した1969年は残念ながら海外で過ごしていたことになります。 1973年に帰国して新しいビルを見上げると、なにかしら清 し々い気分になったことを昨日のことのように思い出します。ぜいたくな玄関で、ビル内に入るときに緊張しましたね。お客さんも同じような感想を漏らしておられました。 林 小寺さんは1970年のご入社です。新築のビルに入られたわけですが。 小寺 入社以来、繊維カンパニーには海外18年、国内14年の合計32年間お世話になりました。会社訪問のときに、「なんて素晴らしいビルなんだ」と思った記憶があります。役員面接会場の11階の役員室は赤いじゅうたんが敷かれ、そのふわふわとした感触がいまだに足裏に残っています。外観は華麗、内部は荘厳なイメージでした。 このビルが好きでした。ある日曜日に仕事を片付けるために出勤して、一服となにげなく南御堂さんを見ると、結婚式をやっている。恥ずかしながら「お寺は葬式」のイメージしかなく、結婚式もやるのかと初めて知りました。

OBが語る“あの日あのとき”

SpecialFeature

さようなら伊藤忠本町ビル 伊藤忠商事大阪本社は2011年8月15日、大阪市中央区・本町の地からJR大阪駅北のノースゲートビルディングに移転しました。7月26日には大阪市中央区長をはじめ、隣接する坐摩神社、南御堂、本町伊藤忠ビル建設に携った竹中工務店、そして近隣の飲食店、ビル内事業会社などから約60人の方々をご招待し伊藤忠ビル感謝の夕べを催しました。また、8月11日には大阪本社在勤の社員約160人が岡藤正広社長、桑山信雄専務執行役員、岡本均常務執行役員繊維カンパニープレジデントらとともに坐摩神社、南御堂などにお礼のお参りのあと、手分けして周辺店舗へのごあいさつと本社周辺の清掃を行い、近隣への感謝の意を表しました。そして本町最終日である翌12日には伊藤忠OB・OG・現役社員など約750人を招き、「伊藤忠本町ビルさよならセレモニー」を開催しました。同最終日に、繊維経営企画部長(1996年まで繊維企画統轄室長)経験者の皆様にご参集いただき、それぞれの時代の出来事を振り返っていただくとともに、新しい本社に集う繊維カンパニーへの期待の言葉を寄せていただきました。

上林 孝典氏(伊藤忠商事 元副社長)

兼崎 勝行氏(伊藤忠商事 元常務)

小寺  明氏(伊藤忠商事 元常務)

本所 良太氏(伊藤忠商事 元執行役員)出席者(順不同)

林  史郎(伊藤忠商事 繊維経営企画部長)司 会

写真左から:本所良太氏、兼崎勝行氏、上林孝典氏、小寺明氏、林史郎

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2 さようなら伊藤忠本町ビル2011年9月号

 林 先日、ビルの建設に携わった竹中工務店の方から、このビルの建設時の話をうかがうことができました。外壁のアルキャストパネルは当時としては大変レベルの高い技術で、ツインタワー形式のデザインも画期的だったようです。設計されたのは当時30代前半の気鋭の若手で、竹中工務店としても力を注いだ建物ということでした。 本所 このビルは私達にいろんなことを教えてくれました。現在は千葉で食品関連の会社を経営する立場にあります。毎朝、朝礼で社員を前にしていろんな話をするのですが、社員から「よくネタ切れになりませんね」と言われます。しかし、「茹でガエルになるな」とか「顧客に対する接し方」など、このビルで、繊維カンパニーで32年間学んだイロハがいまだに私の中に生きています。朝8時から真夜中まで、また土日の出勤などそれこそ自宅で過ごす時間よりも長くこのビルにお世話になり

ました。このビルの中で過ごした時間は、わたしの青春そのものでした。 わたしには「CI(C.ITOH)」「伊藤忠本町ビル」「野武士集団」の思い出が数え切れないほど残っています。時代の流れといえばそれまでですが、そのうち2つが消えました。あとは野武士集団が残るのみです。現役世代の方にはこの野武士集団の凄み、迫力を引き継いでいってほしいですね。

悪戦苦闘の連続平坦な道のりではなかった 上林 この伊藤忠本町ビルは1969年に建設され、新築だったころ、わたしはソウル支店に勤務していました。現在の繊維カンパニーは日本一の商社繊維部隊であり、我々OBにとって誇らしい存在です。これは諸先輩の努力の蓄積、現役世代のご苦労の結晶であり、今後も発展されることを確信しています。 しかし、ここへ至る道のりは平坦ではなく、悪戦苦闘の連続でした。山あり谷ありですが、しんどい時のほうが多かった。こんなに立派な繊維カンパニーになるとは正直思いませんでした(苦笑)。 兼崎 当時のことを思い出すと、上林さんと同様、苦しいことばかり思い出されます。1965年前後でしたか、お金がないことで苦労しました。織物輸出を担当していましたが、インド商に織物を販売し、「前払いでお金を支払ってくれ」とお願いする始末。彼らも呆れていました(苦笑)。本当にお金がなく、そのお金で仕入れ代金ほか当座をしのぐわけです。 上林 1973年に為替が変動相場制に移行し、その後、為替相場は円高傾向を続けていました。「円高だ、輸入せよ」「これからは円高で輸出は苦しくなる。海外事業の時代だ」という号令がかかり、まさに“狂信的”といえるほどの輸入、海外進出ラッシュとなりました。 兼崎 「5大陸に生産拠点を設けよ」と指示された記憶があります。 上林 「とにかく輸入せよ」ということで在庫が積み上がり、「海外事業だ」ということで北米、東南アジアはもちろんのこと、遠くアフリカや南米にまで沢山の合弁会社が設立されていきました。それらの多くが失敗した(苦笑)。当時の社員は商社マンとしては優秀だったとしても生産会社の経営者としては素人でした。 1976年にわたしはソウルから戻って一時「繊維海外プロジェクト室長」を拝命しましたが、仕事の中身は事業の整理でした。過去のプロジェクトを一件一件整理していく作業です。「全社がしっかりしているときに繊維の損失処理をしておこう」との気持ちでした。とはいえ、後ろ向きの仕事の連続で、毎日叱られてばかりでした。 兼崎 1974年から1979年まで、繊維部門分掌役員(現在の繊維カンパニープレジデント職に相当)でした野村福之助副社長の秘書役を務めた時代も大変でした。1973年の第一次石油ショック後の狂乱物価で、商社に対する「買い占め」批判が強まり、当時の越後正一社長が国会に召致される事態となりました。徹夜で答弁資料作りをした思い出があります。会社がつぶれるのではないか、と当時は本当に思っていました。 上林 1981~1985年の石油事業の損失問題も忘れることのできない出来事です。当時、業務部長を拝命し、この問題にかかわりましたが、収入よりも支出が多く、売り食いの生活。「均衡経営」を標榜しましたが「もは

やこれまで」と思ったことは一度や二度ではありません。 「この問題は上層部で責任を持つ」として切り離し、各部門はそれぞれの業績向上に全精力を注げと指示し、業績が浮上したときにはホッとしました。中でも繊維は本当に頑張ってくれました。それも伝統の蓄積があったればこそだったと思います。 その後、繊維部門分掌役員を務めましたが、単体経常利益で100億円に乗せてすごく喜んだことを思い出します。それが現在では税後利益ベースで連結200億円を稼ぐカンパニーになったわけですから、たいしたものだと思います。しかも、繊維産業が長きにわたってその規模を小さくしてきた中でのことですから。

繊維のDNA「損の先送りはするな」1998年度を底に成長軌道に 林 小寺さんが繊維部門企画統轄室長、組織変更後の繊維経営企画部長のご在任期間もご苦労が多かったのではないですか? 小寺 1996年4月から1998年6月までの2年2カ月ですが、全社ベースで言うと最悪の時代でした。1997年には山一證券、北海道拓殖銀行が倒産する金融危機で、会社は厳しい経営環境にありました。 なかでもつらい記憶の一つが早期退職者の募集でした。繊維以外でも実施したのですが、これほど苦しい仕事はないと今でも思います。繊維では100人以上が職場を去りました。割増退職金の一部で当社の株を購入した方から「転職のいいチャンスをいただいた。さらに株価上昇まで感謝」と言われ、面映いですが、正直ホッとしたことを覚えています。自分も会社を辞めるときは「会社が

好き」という気持ちで辞めたいと考えるようになりました。 本所 小寺さんのあとを引き継ぎ、繊維経営企画部長を2000年7月まで務めました。在任期間の思い出はなんといっても丹羽宇一郎社長の時代、全社で3950億円もの多額の特別損失を一気に処理し、その後V字回復を成し遂げたことです。当時から繊維は先に触れられていたように「常に損失を早め早めに出すように」ということが徹底されていました。

 こでら・あきら 1970年伊藤忠商事入社。1996年繊維グループ企画統轄室長、1998年テキスタイル貿易部長、2000年執行役員、2002年常務執行役員・繊維カンパニーEVP、2004年常務金融・不動産・保険・物流カンパニープレジデント。2006年から伊藤忠エネクス社長。64歳。

伊藤忠商事 元常務

小寺 明 氏

 かんばやし・たかすけ 1953年伊藤忠商事入社。1979年繊維部門企画統轄室長、1981年取締役。常務業務本部長などを経て1989年副社長繊維部門分掌。1992年タキロン会長、1996年同社取締役相談役。現在、伊藤忠商事理事、タキロン名誉顧問。81歳。

伊藤忠商事 元副社長

上林 孝典 氏

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平成20年

平成21年

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平成23年

「アポロ11号」月面着陸

大阪万博開催

ニクソンショック

日中国交回復、札幌冬季オリンピック、浅間山荘事件

変動相場制移行、第四次中東戦争、オイルショック

ウォーターゲート事件

沖縄海洋博開催

ロッキード事件

成田空港開業、日中平和友好条約調印

第二次オイルショック

イラン・イラク戦争開戦

神戸ポートアイランド博覧会開催

フォークランド紛争

東京ディズニーランド開園、おしんブーム

つくば科学博開催、プラザ合意、円高へ

チェルノブイリ原発事故

ブラックマンデー、国鉄分割・民営化

リクルート事件

天安門事件、ベルリン壁崩壊、消費税導入

東西ドイツ統一、バルト3国ソ連邦から独立

湾岸戦争勃発、バブル崩壊・平成不況始まる

関西国際空港開港

阪神大震災

香港が中国に返還、山一證券、北海道拓殖銀行倒産

長野冬季オリンピック

欧州統一通貨「ユーロ」誕生

米国同時多発テロ、中国WTO加盟

2002FIFAワールドカップ日韓同時開催

日本郵政公社発足

愛・地球博開催

会社法施行

米サブプライム問題

リーマン・ブラザーズ経営破綻

政権交代 鳩山内閣誕生

尖閣諸島問題

東日本大震災

大阪本社新社屋完成

いすずGM全面提携、伊藤忠ファッションシステム㈱設立

中国から友好商社に指定

越後会長、戸崎社長就任

安宅産業と合併、資本金372億円余に

アルジェリア向けLPGプラント受注

サウジ向け海水淡水化プラント受注

東京本社新社屋完成

シーアイ繊維貿易サービス㈱設立

戸崎会長、米倉社長就任

JCSAT-1打ち上げ成功

米倉会長、室伏社長就任、地球環境室設置

新英文社名、新企業理念発表、上海伊藤忠商事有限公司設立

中国でビール生産事業に進出

ハンティングワールドジャパン㈱設立

ディビジョンカンパニー制導入

室伏会長、丹羽社長就任、ファミリーマートの株取得

eビジネス(マガシーク、ファミマドットコム)創生

雪印乳業・雪印アクセスへの出資、エキサイト筆頭株主へ

生活消費関連ビジネス(DEAN&DELUCAの店舗展開、ブランド展開など)の推進

丹羽会長、小林社長就任

オリエントコーポレーションとの資本・業務提携

レスポートサック社買収

中国中糧集団有限公司と包括戦略提携、中国頂新グループ持株会社へ出資

中国杉杉集団へ出資、ユニーと資本・業務提携

小林会長、岡藤社長、岡本プレジデント就任

中国中信集団公司(CITIC)との包括戦略提携、大阪本社移転

世の中の動き 伊藤忠の動き

 はやし・しろう 1983年伊藤忠商事入社。2002年機能衣料・テキスタイル事業部テキスタイル貿易課長、2007年伊藤忠繊維貿易(中国)総経理(上海駐在)、2010年同董事長。2011年4月から繊維経営企画部長。50歳。

伊藤忠商事 繊維経営企画部長

林 史郎

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3さようなら伊藤忠本町ビル 2011年9月号

 繊維カンパニーは、1998年に損失を処理し、1999年から「攻めの経営」を打ち出しました。「大ぐくり/フラット化」の名のもとに「3部門・16営業部」の体制を「7事業部」に再編、カンパニープレジデントのもとにフラットな7事業部が並ぶという組織に移行しました。全社に先駆けて行ったもので、攻めの姿勢を社内外に示すことができました。関係会社の整理、持ち合い株式の含み損の整理などを早めに処理できたのは、現在のブランドマーケティング部門が大きく稼いでいたからこそできたといえます。 また「GREATER-PAL」構想も思い出の一つです。香港のPAL(プロミネントアパレル)を核に欧州、米国の衣料部門を再編するもので、他カンパニーに比して労働集約性の高い繊維独自の組織体による構想を総本社にきちんと説明し、粛 と々構想を進められたのは印象深い思い出です。 小寺 当時の住江漠副社長は「損の先送りはするな」と口をすっぱくして言われてい

ましたね。 本所 繊維の過去の蹉跌を踏まえて、そうした考え方が今もDNAとして受け継がれていると思います。 上林 丹羽社長の時代に「A&P」(Att- ractive & Powerful)分野をより強化する方針を打ち出され、その中に食料などとともに繊維も柱分野として加わったことはOBとして大きな喜びでした。

「早過ぎる」が欠点?顧客本位のDNA継承を 上林 戦後のモノ不足の時代、作ればいくらでも売れました。外貨がない時代で、稼ぐための手っ取り早い方法が繊維の輸出でした。伊藤忠は繊維輸出に積極的に取り組み、業界ナンバーワンの立場を築いたわけです。 その後、輸出をし過ぎた結果、米国と摩擦が置き、対米自主規制となって輸出が後退、今度は輸入の出番となっていきます。ここでも伊藤忠はガンガンやって在庫の山を作る(苦笑)。なんでも「早過ぎる」のが欠点なんです。 しかし、この勇み足もただでは起きない(笑)。輸入への取り組みは岡藤社長の率先垂範で現在のブランドマーケティング部門に発展していきました。さてこれからどうするか、現役の諸君に期待したいと思いますね。 小寺 繊維の強さ、DNAを保持していけば発展確実です。わたしたちは貿易部隊の出身です。思うに貿易の人間はLC(信用状)決済という貿易方式のせいか、淡白なんですね。売れば終わりで、ねちっこさが足りない。その点、近江商人の伝統を引き継いだのか、昔の内地織物部出身、今では衣料部隊になるかもしれませんが、彼ら国内市場で揉まれた人たちは当初は拒まれてもいつの間にか相手の懐に入り、商売を組み立てていく。 まずは顧客ありきで、顧客とのつながりを大事にすることがDNAとして刷り込まれています。ブランドビジネスも見かけは派手ですが、実際は顧客を相手に地道に組み立てていく点で内地織物のビジネスと類似点が多いと思います。顧客とのつながりを大事にすることは、商いにおける普遍的なことですので、現役の皆さんにはその点をしっかり踏まえてビジネスを創造されることを期待します。

ねちっこい繊維商い面白いビジネス創造を 兼崎 繊維カンパニーのいい意味での“ねちっこさ”は当時から全社的に評価されていました。わたしが企画統轄室長の時代、人事担当役員に呼び出されまして、「新人を全員繊維に預けたい。3年間みっちり教育して、それから全社に回したい」と言われました。わたしは即座に断りました。3年間鍛えて他所に取られるなら誰も新人をまともに鍛えるわけがない、と思ったからです。忠兵衛翁は「三方よし」「見切り千両、損切り万両」を実践された。「人に先駆けてやれ」とも。そのことを実践してきたのは繊維カンパニーでした。 人もモノもサービスも同質化してはいけません。伊藤忠ならではの商人道、商いがあるはずです。 JR大阪駅の新しいビルに移っても同じです。新本社は大阪の北の玄関口に当たります。この移転をきっかけに大阪の地位を見直し、東京一極集中を是正して西日本の中心地として大阪の伊藤忠がリードしていけるよう、大きな気構えでビジネスに取り組んでいただけたらと思います。 上林 そのためにも面白い商売をしないとだめ。面白ければお客さんは寄ってきます。商売には魅力、特徴がないといけません。 先日、テレビ関係者の話を聞いていて、なるほどと思ったことがあります。テレビの立ち上げ時、既存のメディア─ラジオや新聞、映画、そしてライバル会社に負けずに視聴率を取るために「なんでもいいから面白いものをやれ」と言われたそうです。それが活気を呼んだ。 ところがテレビの地位が上がってくると行儀良くさせられて、番組が面白くなくなったと言うのです。知らず知らずのうちに「官僚化」「同質化」が進んだとの指摘でした。「伊藤忠の繊維は面白い」の伝統を忘れずにおれば、お客さんはついてきてくれます。そのことを現役の諸君に申し上げたいですね。 本所 そのためには人が入りやすいオフィスを目指してほしいですね。思えば本町ビルはどこからでも入れる不思議な建物でした(笑)。地下に入り口が数カ所ある。1階も表と裏に出入口、さらに5カ所の階段がある珍しいビルです。セキュリティーの問題はあるでしょう。でも、できるだけオープンにしてほしい。そこが東京にはない大阪の良さだと思うのですが……。

 上林 伊藤忠には盗られるような大事なものはないよ(笑)。それよりお客さんに愛される伊藤忠を大事にしてほしい。この宝物は泥棒にも盗めません。そんな伊藤忠に期待したいですね。 林 数々の参考になるエピソードを聞かせていただき、ありがとうございました。2代目忠兵衛翁が1969年に当時の越後社長から新ビル移転の報告を受けたときも、先代が本町に居をすすめてから100年になる土地を離れることにかなりショックを受けられたと聞きます。しかし、業容拡大に伴う前向きな話に最後は納得され、「歴史のある土地を離れるという、この決断こそ事業の精神だと思う」と新ビルへの移転の決断を評価されたとうかがっています。我 も々梅田の新ビルに移りますが、引き続きオープンマインドの伊藤忠の伝統を絶やさずに、本町で形成された繊維のDNAを引き継いで常に皆さんから「面白い」と思われる商いにまい進したいと思います。本日はありがとうございました。

 かねさき・かつゆき 1961年伊藤忠商事入社。1989

年繊維部門企画統轄室長。1992年取締役アパレル第2部門長、1995年常務。1997年金融・保険・物流カンパニープレジデント。1999年西野商事社長、2002年同社会長。現在、伊藤忠商事理事。72歳。

伊藤忠商事 元常務

兼崎 勝行 氏

 ほんじょ・りょうた 1972年伊藤忠商事入社。タイTTL

副社長などを経て1998年繊維経営企画部長。2000年アパレル事業部長、2001年アジア総代表、2002年執行役員。2004年伊藤忠マネジメントコンサルティング社長。2005年からジャパンフーズ社長。63歳。

伊藤忠商事 元執行役員

本所 良太 氏

① 8月12日の伊藤忠本町ビル最終営業日を前に、近隣へのあいさつ回り。11日には同ビルの土地所有者である南御堂(真宗大谷派難波別院)で感謝の意を表しました

② 坐摩神社は伊藤忠商事の前身である「紅忠」が本町に産声をあげたときからの氏神さまでした③、④ 11日夕刻、伊藤忠本町ビル前に集合し記念撮影。このあと近隣へのごあいさつと周辺の清掃奉仕を行いました⑤ セレモニーであいさつする岡藤社長⑥ セレモニー会場は多くのOB・OGであふれました

伊藤忠本町ビルさよならセレモニー

① ②

③ ④

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 伊藤忠商事大阪本社は2011年8月15日、大阪市中央区・本町の地からJR大阪駅北のノースゲートビルディングに移転しました。移転に際し、1969年(昭和44年)4月25日の完工以来42年余、伊藤忠本町ビルでお世話になった皆様へ感謝の意を表すべく、様 な々催しが行われました。 7月26日には大阪市中央区区長の高見昭三様をはじめ、官公庁、近隣施設、店舗など約60人を招き、「伊藤忠ビル感謝の夕べ」を開催しました。移転前日の8月11日には大阪本社在勤の社員約160人が岡藤正広社長、桑山信雄専務執行役員、岡本均常務執行役員繊維カンパニープレジデントらとともに南御堂、坐摩神社などにお礼のお参りのあと、手分けして周辺店舗へのあいさつと、本社周辺の清掃を行いました。 本町ビル最終日となる12日には伊藤忠OB・OG・現役社員など約750人を招き「伊藤忠本町ビルさよならセレモニー」を開催し、名残ある本町ビルに別れを告げました。さようなら、そして、ありがとう本町ビル……。

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4 さようなら伊藤忠本町ビル2011年9月号

Data

 ドル/円は、8月1日に76円台前半まで下落したが、8月4日の日本政府・日銀によるドル買い/円売り介入を受けて80円25銭まで急反発。しかし、欧州財政不安や米国の景気減速懸念を背景としたリスク回避姿勢の強まりから円が消去法的に買われる流れが続き、8月19日に震災後につけた史上最安値(76円25銭)を更新して75円95銭まで下落した。目先のドル/円相場は、米国をはじめとした世界的な景気の先行き不透明感や根深い欧州財政不安などを背景としたリスク回避的な動きが継続すると予想され、上値の重い展開を予想する。ただし、下値では本邦金融当局からの介入には警戒が必要である。(8/22)

6/10 7/1 7/29

為替(円/US$)

 全体では2カ月ぶりの前年同月比マイナスだが、減少幅は小さくほぼ前年並み(0.1%減)。7月は震災による経済への影響が薄らぎ、景気の持ち直しと消費マインドの回復が続いたことを背景に、宝飾品や特選衣料雑貨など高額商材が前年を上回る動きを見せた。また、中旬までの猛暑と節電意識の高まりで、クールビズや涼感寝具など暑さ対策商材が引き続き活況だった。しかし、台風の上陸とそれに続く気温低下の影響を受けて、月の後半は入店客数が伸び悩むとともに、衣料品を中心に盛夏商材が苦戦したことなどから、最終的には前年実績をわずかに下回る結果となった。衣料品全体では2029億円で同0.9%減(調整後)。婦人服・洋品は0.8%減、紳士服・洋品は0.2%減だった。

百貨店衣料品売上高の推移(億円)

 前半は猛暑により夏物商品や暑さ対策商品を中心に動きが良く、後半は台風6号による大雨、その後の低気温により失速したものの、総販売額の前年同月比は2カ月連続のプラスとなった。衣料品売り上げは0.5%減の1267億円だった。紳士衣料はクールビズ対応のドレスシャツ、半袖シャツ、スラックス、カジュアルパンツ、ショートパンツは好調だがスーツ、カットソーは不調。婦人衣料はフォーマル、ジーンズは好調だがジャケット、パンツは不調。その他では機能性肌着が好調だがホームウエア、子供は不調だった。寝具・インテリアは、寝具・寝装品はクール敷パッド、枕カバーなど涼感寝具は好調。インテリアはカーテン、カーペット、スダレは好調。

チェーン店衣料品売上高の推移(億円)

出所:日本チェーンストア協会出所:日本百貨店協会

3,000

2,000

1,000

0

75.00

80.00

85.00

90.00

3,000

2,000

1,000

05/20 8/19 2010.72009.7 2011.7 2010.72009.7 2011.7

船場商人のあこがれの地

 伊藤忠商事さんと南御堂との関係は、境内の一部を地上権として貸与した昭和41年(1966年)にさかのぼります。それ以来、隣組として親しくさせていただきました。境内に建物が少なかった頃は、お昼休みにバレーボールやバドミントンに興じる伊藤忠さんの社員の皆さんの明るい声がこだましたものでした。お昼休みに開いているステレオコンサートには、クラシック好きの方がよくお見えでした。梅田へ移転されたのは本当に寂しい思いがします。 南御堂の歴史を簡単に申し上げると、本願寺は織田信長との石山合戦の後、豊臣秀吉によって京都(現在の西本願寺)に移りますが、秀吉に隠居を命じられた本願寺第12代の教如上人は大坂・渡辺村(現在の天満橋の西方から道修町付近。「渡辺姓」

の発祥地として知られる)に「大谷本願寺」(東本願寺の濫觴)を建立します。その後、慶長3年(1598年)に大坂城の拡張と城下の町制改革などで現在地に移転しました。徳川家康から慶長7年(1603年)に京都の東本願寺の地を寄進されるまで南御堂は真宗大谷派の本山でもありました。伊藤忠ビルは戦災で焼け落ちた本堂の跡地に建てられました。 北御堂さんもそうですが、大阪の商人の間では「御堂さんの屋根の見える所で、鐘の聞こえる所で商売するのが夢」とされ、御堂周辺が商人にとって一種ステータスシンボルであったようです。南御堂周辺は糸へんを中心に近江商人が多く集い、北御堂周辺は越中、越後の人たちが多かったといい、それが道修町の発展につながったと聞きます。 渡辺村からはお隣の坐摩神社も同時に移転しました。伊藤忠ビルの地下駐車場に向かう通路にはその昔、穴門(あなもん)と呼ばれる洞窟状の通路がありました。南御堂を取り巻く石垣の北西角にうがたれたもので、ひんやりと風通しも良かったため、涼を求める人々や西瓜(スイカ)売りが集まり「穴門の西瓜」が名物になったといいます。上方落語にここを舞台にした『穴門の西瓜売り』というのがあると桂米朝さんにうかがいました。 この通路を御堂筋側から抜けると坐摩神社に出るわけですが、伊藤忠ビルが出来上がって穴門があったところに再びトンネルができた、と不思議な感覚にとらわれました。 伊藤忠さんは近江で生まれ、大阪で発展を遂げられました。南御堂と坐摩さんに囲まれた地が良かったのではないか、と自画自賛しています(笑)。梅田に移られてもたまにはお参り下さい。いつでも歓迎します。(談)

神様のご縁はいつまでも

 伊藤忠商事さんの前身の「紅忠」が大阪に誕生して139年。創業地の本町二丁目(当時)は坐摩神社の氏地でしたから、創業以来、氏神・氏子の関係が続いています。昭和40年代頃まで、当社の夏祭りの7月22日は、船場界隈の商社は皆さん休日でして、お参りにいらっしゃったことを昨日のことのように思い出します。 坐摩と書いて「いかすり」と読みます(通称「ざまじんじゃ」)。3世紀頃に活躍した神功皇后が新羅出兵から帰還された折、淀川南岸の後に「渡辺の地」と称される所に坐摩神を奉祀されたのが始まりとされています。天正10年(1582年)に豊臣秀吉の大坂城築城に当たり、替地を命ぜられ、寛永年間に現在地に移転したという歴史があります。地名は「渡辺」「渡部」などの姓の発祥地として知られ、現在でも住所表記は大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺三号と、渡辺の名称を残しています。当社の宮司職は累代渡辺家が奉仕しており、わたしで58代目に当たります。 明治天皇が明治元年(1968年)に大阪に行幸された際には、当社を訪ねられ、相撲を観覧されました。これが天覧相撲の最初とされています。坐摩神社の正面、今の伊藤忠ビルがある辺りに御物見が新築され、ご覧になられたと伝えられています。 昭和20年3月の戦災で本殿、拝殿などすべてが焼失。戦後は昭和34年(1959年)に再建されるまでの十数年間、それこそバラック仕立ての仮本殿、仮社務所の時代でした。その後、南御堂さんも本堂を再建され、伊藤忠ビルの敷地は建設資材置き場となりま

したが、それ以前は草野球のグランドとして活用されていたことを記憶しています。 北浜にあった旧の三越さんも当社の氏子さんで、NHK大阪放送局の最初のラジオ放送は、三越さんの屋上から坐摩神社の神官による祝詞奏上の音声だったとうかがっています(編集部注:大正14年〈1925年〉)。その三越の流れをくむJR大阪三越伊勢丹の上部に伊藤忠さんの新しいオフィスが誕生したと聞き、ご神縁かなと感慨深いものがあります。 神様のご加護というのは目には見えないものでありますが、139年という長い期間、神様はいつも伊藤忠さんを護って下さっていたことと思います。こういう時代になりましたが、こうした神様とのご縁を発展の歴史の中で見失ってほしくないと考えています。今後も伊藤忠さんに神様のご加護がありますように、いつまでもお祈りしています。本町にお立ち寄りの際は、どうぞご参拝ください。(談)

お隣さんから一言

神仏のご加護をお祈りします

坐摩神社 宮司 渡邉 紘一 氏 南御堂 真宗大谷派難波別院 教務部長事務管掌 総務部長 墨林 浩 氏

1961年、再建された南御堂の本堂。その建設資材置き場となった隣接地に伊藤忠ビルが建つことになる。坐摩神社は1959年に再建された

坐摩神社の拝殿 御堂筋の南北に南御堂と伊藤忠本町ビルが隣り合わせに

 伊藤忠本町ビルは、西側に坐摩神社、南側に南御堂という神様、仏様に守られる形で建設されました。坐摩神社は歴史をたどれば3世紀にまでさかのぼることができる由緒ある神社です。また、南御堂(真宗大谷派難波別院)は1602年に京都に東本願寺が建立されるまで、 真宗大谷派の本山でした。いずれも大阪市民に坐摩さん、南御堂さんと呼び親しまれる存在として歴史を重ねてきました。それぞれの関係者に伊藤忠商事との思い出を語っていただきました。

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新しいモノを生み出すのが都市

 ─キタ、ミナミともに常に街の表情を変えてきました。これからどう変わるべきなのでしょうか。 街は生き物です。必要とされる機能は時代とともに変遷する。ある役割を終えたとき街は衰退し、そして違う意味合いでまた蘇る。絶えず新陳代謝しないと衰えていきます。近年、世界各都市で、再開発から30年、50年を経過した街を再び開発し直す、いわば「再再開発」の動きが活発です。 大阪の場合、キタは北摂、京都、神戸からの、ミナミは泉州・堺、奈良、和歌山などからの玄関口の役割を果たしています。大阪の両輪として今後とも大きな役割を果たすことになります。とくにキタは近年、茶屋町、西梅田など東西方向に広がり、新しいJR大阪駅の誕生で北への広がりが今後予想されます。北ヤード(うめきた)の開発で、次世代に求められるオフィス・商業・文化をいかに創造し、新しいライフスタイルを切り開いていくのかが注目されます。 多様な価値が出会い、混じりあうことで、新しいモノ・コトを生み出す機能が都市の本質です。都市は停滞すると活力を失います。経済・文化を問わず、さまざまな価値が集まり交流するところに新たな発展があります。絶えず新陳代謝をはかる場と機会を確保する、これはキタ、ミナミに限らず、大阪という都市に必要なことです。       (おわり)

5大阪ステーションシティ 2011年9月号

古代にさかのぼる「水の都」

 ─「水都再生」「大阪ミュージアム構想」など大阪のまちづくりに関わっておられます。大阪のキタの顔ともいえる大阪ステーションシティの誕生などどんどん姿を変える中で、大阪の街をどのように変えていくべきなのか、そのあたりからお話し下さい。 大阪の都市としてのブランドを高めなければいけないと考えています。かつて大阪では、わが郷土を誇らしげに語るとき、「水の都」という言葉がキーワードになっていました。「○○の都」というように一言で地域を表現できる街はそうは多くありません。例えば「花の都パリ」「杜の都仙台」などは分かりやすい。しかし、例えばパリの場合でも、都市ができた当初から「花の都」と言わていた訳ではありません。衛生的にも問題のあった都市を大改造し、芸術性の高い街というブランドづくりを果たし、花の都に恥ずかしくない景観を整えていったわけです。 大阪が「水の都」と言われ出したのは明治の30年代とされます。水路が多くある風景

をたとえて「東洋のベニス」、あるいは中之島界隈の雰囲気を「東洋のパリ」などと、世界的な都市と比較された。しかしそれ以降、大阪の人たちは、「いやいや江戸時代から水の都だった」といったように都市の物語を書き換えた。日本中の物資が大阪に集まり、全国に散っていく集散地としての大阪は「天下の台所」と言われました。この一大物流拠点を支えたのが縦横に発達した水路でした。 「いや、古代から大阪は水の都だった」という意見もでてくる。確かに遣隋使の時代、飛鳥の都の外港の役割を担ったのも大阪でした。また、江戸の八百八町に対して、大阪は八百八橋とうたわれました。西日本の方々がお伊勢参りをする際は瀬戸内から船で、東日本の人々が金毘羅参りをする時には京・伏見から淀川を下り、大阪に滞在、風を待って旅立つ。大阪は滞在型の観光都市であったという歴史を持っています。 加えて大正から昭和初期には中之島、堂島、北浜にかけての川沿いに、モダンなビルディングが林立、日本のシカゴ、ニューヨークと称された時期もあります。「水の都」

というブランドは、さまざまな物語を加味し、歴史的な重みをあとで積層させることで、時間をかけて育まれ、広く用いられるようになりました。

いま「光の都」へ再生

 ─また、大阪は「煙の都」とも称されました。 第一次世界大戦以降、紡績を中心とする繊維産業をけん引役に産業が発達、大阪は「東洋のマンチェスター」という異名を取るようになります。「煙の都」の物語も熟成し、深められます。はるか昔、仁徳天皇が「高き屋に/のぼりて見れば煙立つ/民のかまどは賑わいにけり」と歌われた高津宮の歴史を見るまでもなく、古代にまでさかのぼることができると、当時の人たちは理解しました。「水の都/煙の都」という形容が、美しく力強い産業都市である近代大阪のアイデンティティー形成にあって、重要なブランドとなったのです。もっとも繁栄のシンボルであった「煙」は、高度経済成長時代に表面化した公害問題以降、あまり語られなくなりました。同時に、汚れた川や水路も順次、埋め立てられ、「水」というブランド力もみずから捨て去りました。 ただ都市の物語を捨て去ることはできません。私は都市のブランディングにとって、「○○の都」と言い切る姿勢が重要であると思います。そこで近年、「水の都」そして「光の都」の大阪を実現したいと提言するようになりました。もう一度、大阪の物語を作り直すことが大事だと考えたからです。 ─光の都の背景は。 大阪は日本における映画発祥の地です。また日本で最初の本格的なイルミネーションを明治時代の博覧会で実践するなど、夜景に関して意識が高い。道頓堀の夜景も大阪らしいにぎわいを示す。大正時代には、「赤い灯/青い灯/道頓堀の♪」と歌われるほど、にぎわいを産む景観でした。 一方で近年、中央公会堂に代表される中之島界隈のモダンな建築物に、光をあてて美しい景観を取り戻す試みもさかんです。川沿いにレストランを設けたり、川床でライトアップした建物を眺めながら、料理やお茶を楽しむ。官民挙げて取り組むべき課題ですが、徐 に々理解が深まってきたと思っています。 本来大阪は都会的な暮らしを行なってきた街です。ミナミ的=大衆的な大阪がややもすればメディアに注目されるわけですが、もうひとつの大阪の感性、要は上質で素敵な美観を創造することで大阪人の美意識や感性を、再度、磨く機会を設けていきたいと考え、夜景づくりに力を入れています。

Topics

活力生み出すには絶えず新陳代謝が必要だ

大阪ステーションシティ 「駅」と「まち」が変わる (下)

 連載最終回の今月号は、都市の再生に積極的に発言、行動されている橋爪紳也大阪府立大学教授に、都市の果たすべき役割、大阪のまちづくりへの提言などをお聞きしました。

都市の再生を提言する 橋爪 紳也 大阪府大教授に聞く

大阪に誕生した常設の川床“北浜テラス” 毎年3月に行われる“川開き”

大阪中心部の中之島は文字通り水路に挟まれた中の島

同時に3つの船が停泊可能な八軒家浜船着場 大川の桜並木を楽しむナイトクルーズ

※ 写真は水都大阪推進委員会事務局提供

 橋爪 紳也氏(はしづめ・しんや)1984年京都大学工学部建築学科卒、1990年大阪大学大学院工学研究科博士課程修了(環境工学専攻)。現在、大阪府立大学特別教授。建築史・都市文化論専攻。大阪府特別顧問など行政の審議会や地域のまちづくりに関わる委員を多数務める。『「水都」大阪物語』(藤原書店、2011年)など著書多数。50歳。

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 ヨーロッパ以外で唯一世界4大ファッションウィークが開催されるニューヨークは「どこか東京に似ている」と感じる人が多い。ビジネスのスピード感なのか、それとも高層ビルが並び直線的な空が見える街並みに惹かれるからか、ニューヨークに移り住んで仕事を始める若手クリエイターも多い。そんな、日本人にとっても魅力的な街ニューヨークを東京とのコネクションの視点からレポートしたい。

ニューヨークと東京のコネクション伊藤忠ファッションシステム(株) ブランディング第1グループ コミュニケーションプランニングビジネスユニット 今城 薫 [email protected]

FashionReportNo.573

6 ファッションリポート2011年9月号

東京ファッションとニューヨークファッションの違い 毎年2月と9月の中旬に開催されるニューヨークのランウェイショーは「ルックブックがそのまま歩いている」と表現されるほど、リアルクローズに近い形でのプレゼンテーションが特徴である。 ニューヨークのリアルクローズの代表格、シルクドレスをニューヨークの女性は特にボールドなカラーリングのものを好んで日常的に着用する。対して日本ではシルクドレスを、日常的に着ている人は少なく、結婚式やパーティーなど特別なオケージョンでなければ見かけることは少ない。日本は梅雨や高温多湿な夏といった、クリーニングが大変なシルクドレスを着るに適さない気候であるということもあるが、それ以上に生活環境の違いが大きい。 そうやって日本と違った人気商品を売るニューヨークブランドは毎月の様に新しいコレクションを発表し、ランウェイショーを日本同様、年2回発表する。そこで発表されるアイテムは1年を10程のシーズンのコレクションに分けたうちの(それぞれFALL、WINTER、DECEMBER、RESORTなどのネーミングを付けられている)1部のみ。日本でコレクションを発表するブランドの多くは春夏・秋冬と1年を2つのシーズンに分け、年2回発表するランウェイショーと展示会でそれぞれのシーズンでほとんどのアイテムを発表している。また、RESORTというあまり日本では馴染みの無いシーズンは、余暇を過ごすファッションシーンを想定した内容で、本格的に季節が変わる前にその後の商売を占う内容として重要視されている。 PRの面でも違いはある。ニューヨークのファッション雑誌は以前まではモデルが表紙を飾っていたが、数年前からアーティストや女優など、所謂セレブが表紙を飾り、誌面には必ずセレブがどのパーティーに何を着てきたかをチェックするコーナーがある。ブランドのPR担当者はターゲット層に合うセレブに新作を必ず贈るなどして戦略的にいかに良い形で、ブランド露出を図るかを競う。

日本でも話題のサーフショップ

 2009年にオープンしたニューヨークのサーフライフを提案するショップSATURDAYS SURF NYC(http://www.saturdaysnyc. com/)は店内のサーフロック系のBGM、オリジナルのアパレルやセレクトされた小物のセンスが注目を集めている。店内ではコーヒーも売っていて、奥の中庭で店員と談笑したりゆっくりと商品の購入の検討ができるのも人気の理由。 店のロゴが入ったT シャツは最近日本でも着ている人を良く見かけたり、メンズファッション雑誌で3人のディレクターの来日特集が組まれていたりと日本での人気も非常に高い。逆に彼ら自身も吉田鞄やビームスとコラボレーション商品や震災チャリティーTシャツを制作したり、店の地下スペースを日本チャリティイベントに提供したりするなど非常に親日的である。ニューヨークに行かれる際は是非ニューヨークならではの都市型サーフライフスタイルを味わいに店頭に行っていただきたい。

ニューヨークのファーストフード

 ニューヨークの交差点や道路脇には名物のベンダーと呼ばれるフードトラックが様々なところに並ぶ。夏はアイスクリームトラックが多く、他にもホットドッグやプレッツェル、カップケーキといった定番的なアメリカンフードから東南アジア系料理、中華料理、ベルギーワッフルまで種類は豊富である。同じ料理でもトラックによって味が違うらしく、人気店のランキングがネットにも掲載されている。このフードトラックは街角のみならず、フリーマーケット会場やライブ会場、パーティー会場にも登場し、広い会場にはトラックそのままで乗りつけ、狭い会場にも屋台風のワゴンを並べケータリングを実施している。もちろん、有名ファーストフードやコーヒーショップもニューヨークには多数店舗があるが、忙しいニューヨーカーのためにこのフードトラックシステムが一役かっている。 最近は日本人のたこ焼きトラックもフリーマーケット会場などに登場して人気を博しているらしく、中身はソーセージやチーズだったりアメリカ人に合うようアレンジを加えて様々な場所に出店している。日本のイベント会場でもフードトラックがケータリングとして並ぶのもエンターテインメント性があり人気が出るかもしれない。 フードトラックではないが、日本的ファーストフードの代表、ラーメンも非常に人気でマンハッタン内だけでも多数店舗があり、日本からチェーン展開出店して、大成功している店の週末の夜などは予約していても並ばされるという程だ。店内に入ればアメリカ人の団体が上手にラーメンを箸で啜っているという珍しい光景が見られる。ラーメンのフードトラックが街中で並ぶのもそう遠くないのかもしれない。

メンズファッションの展示会

 6月のフィレンツェ、ミラノ、パリ、から7月にニューヨークへと移るメンズの展示会シーズンで、日本からの出展者やバイヤーも多くがニューヨークを訪れる。特にCapsuleという展示会には今の日本のメンズストリートファッションのトレンドとマッチするブランドが多く出展するため、会場内では多くの日本人も見受けられ、盛り上がる。AppointmentはパリのRENDEZ-VOUSの運営チームの2人が始めた展示会でこちらもヨーロッパやニューヨークの実力派ブランドが集まる。その他の展示会でも「新人コーナー」などが設けられ、そこには今のストリートトレンドにマッチしたブランドがピックアップされていたり、展示会場の中に無料サービスが受けられるヘアサロンや撮影スタジオが設けられているユニークな展示会もあった。

ニューヨークでのジャパンブランド 東日本大震災による「ジャパンブランド」の風評被害が懸念されたが、ニューヨークではすでにどこに行っても日本食が売られているくらいその影響は感じられない。食だけではなく、日本の舞台公演にも人気は集まる。そういった

「ジャパンブランド」の勢いの中、大手アパレルメーカーは路面店を今年度内に複数店追加でオープンしたり、ニューヨークの公園でのイベントにも協賛とPRに力を入れている。まだまだ本格的なニューヨーク進出が出来ていないところが多いコレクションブランドも特にメンズブランドは非常にニューヨークのストリートファッションに合うという意見が多く、ニューヨーク州立ファッション工科大学で開催された日本ファッションの展示イベント「JAPAN FASHION NOW」も会期を延長するくらい人気で来場者から展示ブランドのニューヨークでの購入場所を聞かれるほど。「ジャパンブランド」に対する興味が改めて高まっている今こそ、ニューヨーク進出のいいタイミングなのかもしれない。

展示会MRket会場内風景

展示会内のヘアサロンブースニューヨークのフードトラック

主なニューヨークのメンズ展示会スーツカジュアル系MRket NY ▶ http://www.mrketshow.com/

カジュアル全般ENK NYC ▶ http://www.enkshows.com/

Project ▶ http://project.magiconline.com/

ストリート系AGENDA ▶ http://agendashow.com/nyc/

ストリートカジュアル系Capsule ▶ http://www.capsuleshow.com/

Appointment ▶ http://www.appointment-nyc.   com/