日本的スピンオフ・ベンチャー創出論 - jaba.jp ·...

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【経営学論集第 84 集】日本経営学会賞受賞報告〈著書部門〉 91 1.はじめに 拙著『日本的スピンオフ・ベンチャー創出論 ─新しい産業集積と実践コミュニティを事例と する実証研究』 (同友館,2012 年 2 月,A5 版 443 ページ)は,平成 24 年度日本経営学会賞(著書 部門)をいただいた。学会賞の受賞式は,第 87 回大会(関西学院大学)の会員総会の際に実 施され,審査委員長より審査プロセスと受賞理 由が報告された。学会賞の審査にあたっては, 多くの審査委員の先生が長い時間をかけて慎重 に行ったとの報告があり,その苦労を推しはか ることができた。審査委員長の小阪隆秀先生を はじめとする審査委員の先生には,改めてこの 場を借りて御礼を申し上げたい。 また,第87回大会では,「学会賞記念シンポ ジウム」が設けられ,受賞著書に関する講演を 行う機会に恵まれた。以下では,記念講演の内 容をベースに,本書の概要を紹介したい。 2 .本書の概要 2 1構 成 本書の構成は,以下のとおりである。 序章 新しい産業集積の形成とスピンオフ・ベ ンチャーの創出に関する日本発の理論 的・実証的な研究をめざして 〈第Ⅰ部〉先行研究のレビュー 第1章 新しい産業集積とスピンオフ・ベンチ ャーに関する先行研究レビュー 第2章 スピンオフ企業家の学習コミュニティ に関する先行研究のレビュー 〈第Ⅱ部〉 事例研究 第3章 事例研究にあたって 第4章 浜松地域のソフトウェア集積とスピン オフ連鎖の実態 第5章 札幌地域のソフトウェア集積とスピン オフ連鎖の実態 第6章 浜松地域の光電子集積とスピンオフ連 鎖の実態 補論 1 浜松市産業連関表から見たソフトウェ ア・光電子集積の経済波及効果 補論 2 中国北京中関村地域のソフトウェア集 日本的スピンオフ・ベンチャー創出論 新しい産業集積と実践コミュニティを事例とする実証研究 駒澤大学 長 山 宗 広 【キーワード】ベンチャービジネス(newtechnology-basedfirm),産業集積(industrialcluster),オー プン・イノベーション(openinnovation),実践コミュニティ(communitiesofpractice),スピンオフ企 業家(spin-offentrepreneur) 【要約】平成 24 年度日本経営学会賞の受賞作である『日本的スピンオフ・ベンチャー創出論─新しい産 業集積と実践コミュニティを事例とする実証研究』について概要を紹介する。

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【経営学論集第 84集】日本経営学会賞受賞報告〈著書部門〉 91

1.はじめに

 拙著『日本的スピンオフ・ベンチャー創出論─新しい産業集積と実践コミュニティを事例とする実証研究』(同友館,2012 年 2 月,A5版 443ページ)は,平成 24 年度日本経営学会賞(著書部門)をいただいた。学会賞の受賞式は,第87 回大会(関西学院大学)の会員総会の際に実施され,審査委員長より審査プロセスと受賞理由が報告された。学会賞の審査にあたっては,多くの審査委員の先生が長い時間をかけて慎重に行ったとの報告があり,その苦労を推しはかることができた。審査委員長の小阪隆秀先生をはじめとする審査委員の先生には,改めてこの場を借りて御礼を申し上げたい。 また,第 87 回大会では,「学会賞記念シンポジウム」が設けられ,受賞著書に関する講演を行う機会に恵まれた。以下では,記念講演の内容をベースに,本書の概要を紹介したい。

2.本書の概要

2 ─1.構 成 本書の構成は,以下のとおりである。序章 ‌‌新しい産業集積の形成とスピンオフ・ベ

ンチャーの創出に関する日本発の理論的・実証的な研究をめざして

〈第Ⅰ部〉先行研究のレビュー第 1章 ‌‌新しい産業集積とスピンオフ・ベンチ

ャーに関する先行研究レビュー第 2章 ‌‌スピンオフ企業家の学習コミュニティ

に関する先行研究のレビュー〈第Ⅱ部〉‌‌事例研究第 3章 ‌‌事例研究にあたって第 4章 ‌‌浜松地域のソフトウェア集積とスピン

オフ連鎖の実態第 5章 ‌‌札幌地域のソフトウェア集積とスピン

オフ連鎖の実態第 6章 ‌‌浜松地域の光電子集積とスピンオフ連

鎖の実態補論 1 ‌‌浜松市産業連関表から見たソフトウェ

ア・光電子集積の経済波及効果補論 2 ‌‌中国北京中関村地域のソフトウェア集

日本的スピンオフ・ベンチャー創出論─ 新しい産業集積と実践コミュニティを事例とする実証研究 ─

駒澤大学 長 山 宗 広

【キーワード】ベンチャービジネス(new‌technology-based‌firm),産業集積(industrial‌cluster),オープン・イノベーション(open‌innovation),実践コミュニティ(communities‌of‌practice),スピンオフ企業家(spin-off‌entrepreneur)

【要約】平成 24 年度日本経営学会賞の受賞作である『日本的スピンオフ・ベンチャー創出論─新しい産業集積と実践コミュニティを事例とする実証研究』について概要を紹介する。

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積とスピンオフ連鎖の実態〈第Ⅲ部〉‌‌分析結果第 7章 ‌‌3 つの事例の比較分析第 8章 ‌‌発見事実の整理とインプリケーションおわりに ‌‌本研究の積み残しの課題と今後の展

2 ─ 2.序章と第Ⅰ部「本研究の問題意識」 序章と第Ⅰ部では,先行研究をレビューした上で,本研究の問題意識を明らかにしている。本研究では,ソフトウェア・光電子分野の新しい産業集積の形成プロセスを事例に取り上げ,特に創業前と創業後のスピンオフ企業家の学習コミュニティに着目し,「日本的スピンオフ・ベンチャー創出論」を実証研究により導出していくことを目的としている。〈研究対象(新しい産業集積とスピンオフ・ベンチ

ャー)に関する問題意識〉

 ここでいう「新しい産業集積」とは,繊維や

機械金属工業等のものづくりをベースとした「既存の産業集積」と対置した概念である。工業化時代における既存の産業集積論は,集積の経済性(立地メリット)として,規模の経済や範囲の経済による生産コストの削減を重視する。ただ,グローバル化と IT化が進み,世界中から経営資源を最適に調達することが容易になってくると,輸送費や労働費などの生産コスト削減の場としての既存の産業集積の意義は薄らぐ。市場と技術のスピードが速く,不確実性の高い先端分野における「新しい産業集積」は,集積内立地企業間の競争,その競争を通じたプロダクト・イノベーション(新しい製品やサービスの開発)の創出に立地メリットがある。特に,1990 年代以降,ポスト工業化・知識経済の進展した時代においては,プロダクト・イノベーションの創出拠点,ハイテク型の「新しい産業集積」に注目が集まっている。新しい産業集積の典型として,「シリコンバレー・モデ

本書の構成

序章新しい産業集積とスピンオフ連鎖に関する

理論的・実証的な研究をめざして

第1章先行研究のレビュー(その1)

第2章先行研究のレビュー(その2)

第Ⅰ部

第3章事例研究にあたって

補論1浜松市産業連関表からみたソフトウェア・光電子集積の経済波及効果

補論2北京中関村地域のソフトウェア集積

とスピンオフ連鎖の実態

第4章浜松地域のソフトウェア集積とスピンオフ連鎖の実態

第5章札幌地域のソフトウェア集積とスピンオフ連鎖の実態

第6章浜松地域の光電子集積とスピンオフ連鎖の実態

第Ⅱ部

第8章発見事実の整理とインプリケーション

第7章3つの事例の比較分析

第Ⅲ部

【経営学論集第 84集】日本経営学会賞受賞報告〈著書部門〉 93

ル(Saxenian,‌1994 など)」が挙げられるが,その集積形成プロセスは,フェアチャイルド・セミコンダクターを母体組織とする「スピンオフ連鎖」と換言できる。既存の産業集積論では集積を前提に議論を進めるが,本研究では,集積が進む前の段階である集積形成プロセスとしてのスピンオフ連鎖を事例に取り上げる。 本研究では,スピンオフ連鎖について,稲垣(2003)を援用し,「一つの母体組織を出発点として,樹形図状にスピンオフ・ベンチャーが多数繰り返し発生する現象」と定義する。本書でのメインな研究対象であるスピンオフ・ベンチャーとは,「ベンチャービジネス」と「スピンオフ創業」の用語を組み合わせた造語である。先行研究では共通して,ベンチャービジネスについて,リスクをとった企業家がイノベーションを実現する存在と捉えている。本研究では,イノベーションの概念を狭義に捉え,「プロダクト・イノベーションに取り組む研究開発型の中小企業」をベンチャービジネスと呼ぶ。本研究の対象とするベンチャービジネスとは,「high‌technology‌firm」「new‌technology-based‌firm(NTBF)」と称されるハイテク・ベンチャー企業と同義であり,具体的なハイテク分野としては,ソフトウェア,バイオテクノロジー,メカトロニクス・オプトロニクスなどを想定している。また,リスクをとる企業家は「技術者」を想定し,スピンオフ・ベンチャーの創業経営者について,「スピンオフ企業家」と呼ぶこととする。したがって,本研究では,「スピンオフ創業」について,スピンオフ企業家(技術者)がリスクをとって母体組織から自発的に飛び出してベンチャーを創業するものと捉える。 スピンオフ・ベンチャーは,創業一般に見られる課題(資金調達・人材確保・販路開拓)のほか,「ベンチャービジネス」と「スピンオフ創業」を組み合わせた造語らしく,二面の固有の課題を抱えている。一つは,ハイテク分野でのベンチャー創業後,持続的にプロダクト・イノ

ベーションを実現していくことにあり,スピンオフ企業家(技術者)がその源泉となる製品開発力をいかにして獲得するのかという学習にポイントがある。もう一つは,スピンオフ元の母体組織との関係性にある。日本の場合,母体組織は,長期的見通しに立つ雇用制度を堅持する大企業であることが多い。そのため,日本の大企業では,組織メンバーの離脱(特に優秀な技術者の流出)を伴うスピンオフに対して寛容な姿勢を取りにくい。したがって,日本の場合,母体組織の支援を受けることなく全くの無関係で独立創業する「スピンアウト型」が最も多い(スピンオフ研究会,2003)。日本の場合,スピンオフ・ベンチャーの持続的な創出において,母体組織となる大企業との友好的な関係性の構築がポイントになる。そこで,本研究では,スピンオフ・ベンチャーの創業前と創業後におけるスピンオフ企業家の学習について,母体組織の大企業との関係性を軸に考察している。また,本研究では,スピンオフ・ベンチャーが日本の特定地域で持続的・連鎖的に創出される条件を明らかにしていくため,新しい産業集積の形成プロセスとしてのスピンオフ連鎖を事例とする実証研究を行っている。 前田(2002)によれば,「バブル崩壊後の失われた 10 年間(1990 年代),日本の大企業から研究開発型ベンチャーが誕生する新しい波,スピンオフ革命が起きた」という。スピンオフ・ベンチャーの定量的把握は統計データの制約から困難であるものの,1990 年代には「研究開発型ベンチャーの創業が確かに見受けられ,その創業者の多くは大企業をスピンオフした技術者が多い」といったレポート(科学技術政策研究所,1999)もある。ただ,1990 年以降現在に至るまで,日本では,廃業率が開業率を上回り,開業率が低迷している。日本では,依然としてアントレプレナーシップに欠け,垂直統合モデルの大企業体制が支配している感がある。実際,研究人材の 8割が大企業に所属しており,依然としてスピンオフ・ベンチャーは少な

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い(研究産業協会,2002)といった見方も根強い。長期的見通しに立つ雇用制度,流動性の低い知識労働市場といった日本の制度的制約を前提として,日本的スピンオフ・ベンチャーの創出条件を考えていく必要がある。つまり,日本の大企業において技術者・企業家が製品開発力を形成する制度的条件と,母体組織の内外において製品開発力を活かす経路とは何か,といった点が問題となるのである。〈本研究の鍵概念(実践コミュニティ/人的資本論

の知識類型)と 3つのリサーチ・クエスチョン〉

 振り返ってみれば,1970 年~80 年代の日本の大企業は,日本的経営システム(林,1998)のもとでの,組織的知識創造モデル(Nonaka‌&‌Takeuchi,‌1995)によって競争優位性を確立していた。組織的知識創造モデルの特徴は,社内での情報共有化をベースとした組織横断的なグループでの知識創造であり,自動車の製品開発のような,数多くの要素技術を組み合わせる複雑なアーキテクチャの革新にアドバンテージがあった。1990 年代,インターネットなど ICT革命が起こり,本格的な知識経済社会の到来があった。その際,日本企業の組織的知識創造モデルは十分に適応できず,一方で,シリコンバレー・モデルを典型とする西洋型知識創造が競争優位性を高めた。西洋型知識創造の特徴は,アイデンティティの確立した従業員個人(技術者)主導による要素技術そのものの知識創造であり,バイオ・医薬品やソフトウェア分野のように,市場と技術における革新性と変化速度が高い製品開発にアドバンテージがある。そこでの前提には,知識労働市場の流動性の高さと,組織の境界を超えた企業家(技術者)個人の多様性とアントレプレナーシップがあった。 2000 年 以 降 現 在 の 日 本 は,Nonaka‌&‌Takeuchi(1995)の指摘のとおり,「組織と個人」「日本型知識創造と西洋型知識創造」といったダイコトミーの対立項を乗り越える必要がある。シリコンバレー・モデルやその進化形である「オープン・イノベーション・モデル

(Chesbrough,‌2003)」の安易な輸入にすがるのではなく,組織と個人の相互作用を目指した「組織的知識創造モデルの進化」が今こそ求められる。組織的知識創造モデルの構造的な弱点は,社内の従業員の情報に偏重し,組織の外の多様な情報を十分に取り込めない点にあった。したがって,組織的知識創造モデルを採用し続けた日本の大企業は,知識経済時代の先端分野における潜在的顧客の多様なニーズに即応できず,「イノベーションのジレンマ(Christensen,‌1997)」に陥ってしまった。2000 年以降の現在,日本で先端分野でのプロダクト・イノベーションを実現するためには,大企業とスピンオフ企業家のWin-Win 関係をベースとした,オープンな組織的知識創造モデル,組織的知識創造モデルの進化を目指す必要があろう。 以上のような日本の歴史性と時代的背景を踏まえた上で,本研究では,新しい産業集積の形成プロセスとしてのスピンオフ連鎖,特定地域におけるスピンオフ・ベンチャーの持続的・連鎖的な創出条件を明らかにしている。中でも,本研究では,流動性の低い知識労働市場といった制度的制約を前提とした,スピンオフ企業家(技術者)の製品開発力の習得と,スピンオフ元の母体組織(大企業)との関係性について問題意識を絞り込む。その際,本研究では,スピンオフ企業家の創業前と創業後の学習について,Wenger(1998) お よ び Wenger‌et‌al.‌(2002)が提示した「実践コミュニティ」の概念を導入して考察する。 実践コミュニティの概念を導入する理由は,スピンオフ・ベンチャーの起業プロセスについて,スピンオフ企業家の学習サイクル,すなわちスピンオフ企業家のアイデンティティの形成と再形成のプロセスとして捉えることができるからである。また,何よりも,日本的経営システムと知識創造経営の両立,日本型の組織的知識創造と西洋型知識創造,組織と個人といったダイコトミーの対立項を相互作用する「第三の道」を描くには,「コミュニティ」という概念

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が鍵になる。実践コミュニティの概念は,学習者自身が内的に構築するものであり,外的に規定される「組織」とは意味合いが異なる。実践コミュニティの境界は,組織のように明確ではなく,曖昧であって,ビジネスユニットの内部に完全に収まるものもあれば,部門間の境界をまたぐもの,企業間の境界さえ超えるものもある。つまり,実践コミュニティは,個人,グループ,組織,組織間といった組織的知識創造論でいうところの存在的次元を超えて,容易に生まれ作り出すことができるのである。 そもそも,「コミュニティ」には外部へのオープン性と内部での共同性といった二重性があり,その意味でも,実践コミュニティの概念は組織と個人の相互作用といった論点をクリアし,日本的経営システムの再構築モデルを示す可能性を秘めている。日本の現場学習・職業訓練の歴史で示された「共同体」といえば,職人共同体,職場共同体,会社共同体であったが,実践コミュニティの概念は,こうした歴史性を超越し,知識経済時代における「新しいコミュニティ」の再構築モデルを描くものと思われる。このような実践コミュニティの概念を「認識利得」として取り入れることによって,スピンオフ企業家の創業前と創業後の学習について,個人,グループ,組織,組織間の各次元における技術者・スピンオフ企業家の相互学習として考察できる。 本研究では,スピンオフ企業家の学習に関して,実践コミュニティの概念を導入して考察するが,そのままでは「日本的スピンオフ・ベンチャー創出論」へと直結し難い。組織的知識創造の理論と実践コミュニティの理論は,どちらも知識の本質を個人の経験により内在されたものと捉えた上で,共同的にグループで相互学習して知識創造を生み出す組織学習の理論といえる。個人のアイデンティティを前提に置く実践コミュニティ論であるが,組織的知識創造論と同様,グループ学習による知識創造の果実は企業組織内にもたらされるシナリオとなってい

る。つまり,実践コミュニティ論では,従業員個人が社外でも通用する知識を習得して自律しスピンオフ創業する,といったストーリーまでを想定していないのである。 中村(2008)は,人的資本論(Becker,‌1975)の知識類型の応用と国民的比較制度分析により,「なぜ日本でスピンオフ・ベンチャーが少ないのか」を論じている。それは,自由主義的な市場経済体制の知識労働市場のもとにあるシリコンバレーのナレッジ・ワーカー(知識労働者)と,日本のような終身雇用や年功制を残す労働市場のもとでのナレッジ・ワーカーの比較検討である。シリコンバレーのナレッジ・ワーカーは,企業内特殊的知識よりもむしろ専門分野の一般的知識の強化を指向し,企業組織を超えた人的ネットワークの形成を重視する。対照的に,日本のナレッジワーカーは,企業内部での知識交流にとどまって企業内特殊的知識を増やすが,新しい創造的な製品の開発力や,他の企業で通用する本質的概念的な新しい知識を創造する能力の形成が弱い。その結果,日本の大企業のナレッジワーカーはスピンオフすることが少なく,研究開発型ベンチャーも創出されてこないといった仮説を出している。この仮説を踏まえて,本研究では,実践コミュニティ(=学習環境)における学習内容,すなわち製品開発力を構成する知識の内実について,人的資本論の知識類型を応用する。本研究では,人的資本論の知識類型を中間媒介項として用いることで,「実践コミュニティ論」から「日本的スピンオフ・ベンチャー創出論」までをつなげていく。 人的資本論や知的熟練論(小池,1991)においては,一般的知識は当該企業以外でも役立つポータビリティの高い知識であり,その訓練費用は従業員が主に負担する一方,企業内特殊的知識は当該企業においてのみ役立つ知識でありポータビリティが低く,その訓練費用は企業も負担する,というように両極の対置した概念として捉えていた。ただ,スピンオフ企業家の製

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品開発力をキャリア形成として見ていく場合は,こうしたスタティックな知識類型を再検討し,一般的知識と企業内特殊的知識の二分法を超えて,さらには産業内特殊的知識(Hall‌&‌Soskice,‌2001)を加えた三分法を超えて,それぞれの知識の相互関係性を見ていく必要がある(図 1)。 創業前の技術者のキャリア形成として製品開発力を捉えれば,それは親元の大企業組織の所属グループ内でこそ発揮される企業内特殊的知識といえる。他方で,その技術者が習得した製品開発力は,スピンオフ・ベンチャー創業後のプロダクト・イノベーションの実現にコアな形で直結する点からいえば,ポータビリティの高い一般的知識とも捉えられる。この点から考えてみても,スピンオフ企業家が習得する製品開発力とは,一般的知識,産業内特殊的知識,企業内特殊的知識から成る相互作用の重層的な統合知識といえるだろう。スピンオフ企業家が製品開発力を習得する学習環境としては,学校での知識と職場での経験を相互作用できるような,実践コミュニティという学習単位が相応しい。実践コミュニティという概念は,人的資本論の知識類型を中間媒介させることによって,スピンオフ企業家の学習環境のみならず,その学習内容も検討できるようになり,さらには日本的スピンオフ・ベンチャー創出論までも上手

く分析していく鍵概念となり得る。 以上の点を踏まえて,本研究では,①スピンオフ・ベンチャーの創業前,日本的な大企業(母体組織)内の実践コミュニティにおいて,技術者がベンチャー創業に必要な製品開発力をどのように習得するのか,②創業後,スピンオフ・ベンチャーの組織の境界を超えた実践コミュニティはどのように形成され,そこで企業家がどのような学習を行うのか,また,新しい産業集積の形成プロセスとしてのスピンオフ連鎖とはどのようなメカニズムで生じるのか,③大企業が日本的経営システムとプロダクト・イノベーション志向の知識創造経営を両立することのジレンマを抱える中,大企業とスピンオフ企業家のWin-Win 関係をベースとした実践コミュニティがどのような条件のもとで形成されるのか,日本的スピンオフ・ベンチャーの持続的な創出モデルとはどのようなものか,といった3つのリサーチ・クエスチョンを立てた。

2 ─ 3.第Ⅱ部「事例研究」と�第Ⅲ部「分析結果」

 本研究では,この 3つの問いに対する実証研究として,①浜松地域のソフトウェア集積(ヤマハ発動機を母体組織とするスピンオフ連鎖),②札幌地域のソフトウェア集積(マイコン研究会/BUGとデービーソフトを母体組織とするスピン

図1 製品開発のための知識(人的資本論の知識類型の応用)

専門分野の一般的知識

産業特殊知識

企業内特殊知識

製品開発のための知識

組織的知識創造モデル

暗黙的知識

形式的知識

形式的知識

暗黙的知識

共同化 表出化

内面化 連結化

ポータビリティ

職場

OJT

学習環境

(CO

P

学校

OFFJT

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オフ連鎖),③浜松地域の光電子集積(浜松ホトニクスを母体組織とするスピンオフ連鎖)といった 3つの事例を取り上げた。スピンオフ連鎖図(図 2,図 3)は,著者のヒアリング調査の積み重ねによって新たに描いたものであり,本研究における事実発見の一つとなっている。 新しい産業集積とスピンオフ・ベンチャーに関する実態調査では,①地域の社会文化・制度の視点,②産業の視点,③母体組織の視点,④企業家の視点,といった 4つの視点から見ていった。その中でも特に,母体組織と企業家の両面の視点,すなわち,組織と個人の対立項を相互作用する「実践コミュニティ」を意識して実態調査を行った。そして,スピンオフ連鎖図を表面的に描くだけにとどまらず,その担い手であるスピンオフ・ベンチャーの事例を分厚く記述している。特に,スピンオフ企業家のライフヒストリーについて丹念にヒアリング調査して

いき,創業前と創業後の企業家の学習コミュニティの実態を詳しく捉えている。 実態調査の結果,スピンオフ企業家の学習環境は,① 1970 年~80 年代における大企業組織内の技術者コミュニティ,② 90 年代におけるスピンオフ・ベンチャーの組織の境界を超えた企業家コミュニティ,③ 2000 年以降現在における母体組織(大企業)とスピンオフ企業家のWin-Win 関係をベースとした地域での企業家コミュニティ,といった実践コミュニティの発展 3段階として捉えることができた(表 1)。そして,3つの実践コミュニティの事例を分析した結果,3つのリサーチ・クエスチョンに対する発見事実を次のとおり見出すことができた。 1点目のリサーチ・クエスチョンは,スピンオフ前の母体組織における技術者の学習,その学習環境と学習内容に関する問いであった。この問いに対する発見事実は,1970 年~80 年代,

図2 ヤマハ発動機(株)からのスピンオフ連鎖図(浜松地域のソフトウェア集積)

ヤマハ発動機1995(梶川)

設立年

(備考)スピンオフ企業家に対するヒアリングより作成

プロス(00)

太田和宏

1980年

1985年

1990年

1995年

2000年

2005年

ミネルバ(86)

松野本祐司

スペースクリエイション(87)

青木邦章

奥津光博

(清野室長)技術電算委員会

アルテア(93)

鈴木智工田北暁

アミック(92)

光分野(2001)

日本楽器製造(現ヤマハ)1887

舟艇事業部出身

アメリオ(96)

三浦曜

小寺敏正

ゾディアック(03)

堀田淳

エリジオン(99)

小寺敏正秋山雅弘

(堀内部長)

アルモニコス(84)

三浦曜

鈴木忠雄アールテック(98)

小杉隆司

エムシースクウェアド(99)

大野敏則

YEC1980

インテグラ技術研究所(91)

ソフテス(97)

98 【経営学論集第 84集】日本経営学会賞受賞報告〈著書部門〉

パルステック工業1969(木下)

コーア電子工業

1960

システム事業部出身(倉沢部長)

浜松ホトニクス1953(晝馬)

静岡大学工学部

日本コンピュータ

1993

プレサイスゲージ1999(小石)

遠山システム2002(飯田)

シナジーオプトシステムズ

2007(安川)ゼータフォトン

2005(吉門)ホト・アグリ2005(岩井)

システムエッジ2005(田中)

パイフォトニクス2006(池田) …

パパラボ2001(加藤)

TAKシステムイニシアティブ

2007(瀧口)

光産業創成大学院大学2004(晝馬)

珠電子1997(竹島)

テクソル1997(鈴木)

ソフトワークス

1991(塩見)

セプロテック1990(福田)

サイエンテックス1993(井上)

1980年

1985年

1990年

1995年

2000年

2005年

設立年

 (注)( )は社長名,敬称略 (備考)各社に対するヒアリングより作成

図 3 浜松ホトニクスからのスピンオフ連鎖図(浜松地域の光電子集積)

表 1 実践コミュニティの発展 3段階

ステップ 1 ステップ 2 ステップ 3

形成時期 70 年代~80 年代 90 年代 2000 年以降~現在

タイプ大企業の組織内の技術者コミュニティ

スピンオフ・ベンチャーの組織の境界を越えた企業家コミュニティ

大企業とスピンオフ企業家のWin-Win 関係をベースとした地域での企業家コミュニティ

コミュニティメンバー

大企業の技術者スピンオフ企業家ベンチャーの技術者

大企業(母体組織)スピンオフ企業家地域の既存産業の企業家

テーマ学習内容

製品開発(特に,専門分野の一般的知識)

製品開発創業一般

製品開発創業一般

形成状況 自然的発生 自然的発生大企業による戦略的育成と地域支援機関の支援

組織・制度

日本経営システム組織的知識創造モデル(研究開発型組織は会社共同体の例外)

ベンチャー企業家主体の知識創造

シリコンバレー・モデル

大企業によるスピンオフ制度の拡張日本型のオープンな組織的知識創造モデル

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日本的経営システムのもとの大企業において,特に研究開発型部門に所属する技術者が相互に学習する実践コミュニティを形成していたこと,その実践コミュニティに参加する技術者は製品開発力を習得してアイデンティティを確立していた,という点である。また,大企業で技術者が製品開発力を習得する際,一般的知識─産業内特殊的知識─企業内特殊的知識(特定企業内の暗黙的知識と形式的知識の双方を包む)の三層から成る相互作用の重層的な統合知識を習得していることも明らかにした。 市場と技術のスピードが速く不確実性の高い先端分野の新製品開発に取り組むにあたっては,日本的経営システムのもとで重視した企業内特殊的知識の情報共有よりもむしろ,当該専門分野の一般的知識の創造が求められる。なぜならば,先端分野の場合,一般的知識の創造が,直接,製品開発に結びつきやすいからだ。そのために,技術者は,専門分野の原理・法則や理論・構造といった一般的知識まで深く学ぶ必要がある。先端分野の新製品開発を担う技術者は,製品開発テーマ(大企業から見れば企業内特殊的知識)の課題意識を持ちながら,そのベースとなる一般的知識を学ぶ。また,技術者はそうした一般的知識を相互に学び合い,さらに新たな一般的知識を創造するための学習環境(=実践コミュニティ)を自発的に作っていく。日本的経営システムを支持する大企業においても,先端分野の新製品開発に関しては例外的に技術者個人のアイデンティティを認め,社外でも役立つ一般的知識を学ぶこと,そうした自律的な技術者が相互学習する実践コミュニティの存在も許容してきたのである。1970 年~80 年代,大企業は技術者の実践コミュニティを許容する余裕があり,それが図らずも日本的経営システムと知識創造経営のジレンマに上手く対応できていたものと捉えられる。 2点目は,スピンオフ後の企業家相互の学習に関わる問いであった。この問いに対する発見事実は,スピンオフ・ベンチャーの組織の境界

を超えた実践コミュニティが再形成されていた点にある。その実践コミュニティでは,先発のスピンオフ企業家と後発のスピンオフ企業家(起業家予備軍を含む)が参加者となり,前者はスキルの陳腐化に対応するための製品開発力に関わる知識を学び,後者は創業一般の課題に関する起業学習を行っていた。そこに参加するスピンオフ企業家は,第 1の母体組織(大企業)における実践コミュニティをルーツとするために多義性を減じることができ,一方で,それぞれのスピンオフ・ベンチャーの持つ異質性によって先端分野での製品開発力を高めることができていた。 また,実態調査の結果,1990 年代に特定地域で見受けられたスピンオフ連鎖の発生には,スピンオフ企業家における実践コミュニティの形成・消滅・再形成,その実践コミュニティの多様性と拡張にポイントがあった(図 4)。具体的には,スピンオフ連鎖の発生条件として,①第 1の母体組織(大企業)内の実践コミュニティの多様性,第 2の母体組織(スピンオフ・ベンチャー)の数の多さ,②コーディネーター役となるスピンオフ企業家の発生,先発企業家と後発企業家の相互作用(相互学習と相互支援)をもたらす実践コミュニティの再形成,③後発スピンオフ企業家による実践コミュニティの拡張と再形成,特定地域における実践コミュニティの集積とそれに伴っての新しい産業集積における創業促進の経済性(新たな立地メリット)の発生,といった点を挙げた。したがって,90年代の「スピンオフ革命」と称されるムーブメントが終息し,スピンオフ連鎖とベンチャー叢生が終了した場合,その理由は実践コミュニティの再形成が途絶えたからと答えられる。 3点目は,長期的見通しに立つ雇用制度,流動性の低い知識労働者市場といった日本の制度的制約を前提とした,日本的スピンオフ・ベンチャーの持続的な創出条件に関わる問いであった。この問いに対する発見事実としては,2000年以降現在の日本における大企業のオープンな

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組織的知識創造モデルへの進化(スピンオフ制度の拡張),大企業とスピンオフ企業家のWin-Win 関係にもとづく地域での実践コミュニティの再形成モデルが挙げられる。大企業によるスピンオフ制度の拡張とは,まず,1970 年~80 年代の日本的経営システムのもと,研究開発型組織において例外的・自然発生的に形成された技術者の実践コミュニティを再評価して,戦略的にそれを育成するものである。加えて,スピンオフ制度を拡張した大企業は,1990 年代に見受けられたスピンオフ企業家によるベンチャー組織の境界を超えた実践コミュニティを社内に取り込んでいく。 2000 年以降の浜松ホトニクスの事例に見られるように,従来型の「社内ベンチャー制度」を発展させてスピンオフ制度を整備・拡張した大企業では,先端分野の優秀な技術者,流行遅れの技術者に対しても,意識的に彼らの学習環境を作っている。たとえば,前者に対してはスピンオフ・ベンチャーの創業後も元の職場に復帰できる制度の導入,後者に対しては,市場化・商業化まで見据えた製品開発力を習得できるような再教育制度の導入などが挙げられる。

こうして,スピンオフ制度を整備・拡張した大企業は,長期的見通しに立つ雇用制度・日本的経営システムを堅持しながらも,先端分野でのプロダクト・イノベーションのジレンマを乗り越えることができる。また,意図せざる技術者の流出問題を防ぐことができるばかりか,流動性の低い社内の知識労働市場を大幅に改善することができる。一方,大企業に所属する技術者(スピンオフ企業家)から見た場合,長期的な見通しを持って自らのキャリアを組み立てやすくなるばかりか,技術者としてのアイデンティティを確立し,ベンチャー創業に必要不可欠な製品開発力を習得することができる。また,スピンオフ・ベンチャーの創業時においては,母体組織の大企業からの有形・無形の支援を期待できるので,創業に伴う一般的なリスクも低減することができる。まさしく,このことが母体組織の大企業とスピンオフ企業家のWin-Win 関係であり,その関係をバランス良く構築することによって,日本におけるスピンオフ・ベンチャーの持続的な創出条件が整ってくることを提示した。

サプライヤー

潜在的顧客

次世代企業家

第 1の母体組織 幅の広いテーマ,メンバーの多様性

テーマとメンバーの専門化

a) 2人以上の技術者仲間が一緒にスピンオフb)第 1の母体組織内の実践コミュニティに参加c)創業時に製品や顧客を獲得していないd)創業後のプロダクト・イノベーションの意志

a) 1人でスピンオフb)第 1・第 2の母体組織の実践コミュニティに参加c)創業時に製品や顧客を獲得していないd) 創業後のプロダクト・イノベーションの意志

ベンチャー企業間の組織境界を越えた実践コミュニティ

実践コミュニティの拡張,メンバーの多様性

スピンオフ連鎖の起点となるスピンオフ企業家のコーディネート

子(第 2の母体組織)

90年代の日本

孫 孫

実践コミュニティ

必要条件A

必要条件A

必要条件B

組織の管理強化

実践コミュニティ

実践コミュニティ

スピンオフが継続

スピンオフが継続

十分条件Ca)起業家文化b)既存産業集積の厚みc)地域支援機関の充実

組織の管理強化

図 4 スピンオフ連鎖の流れとポイント

【経営学論集第 84集】日本経営学会賞受賞報告〈著書部門〉 101

3.本書の評価と今後の展開

 すでに本書に対しては,いくつかの書評が出されている。 たとえば,渡辺(2012)では,「本書の特徴は,シリコンバレーのベンチャー創出での有効さを踏まえると同時に,それが一定の環境下で可能になったとし,日本での形式的な模倣による支援策では,先端産業での産業集積形成,シリコンバレー的な存在の再現不能といった認識下で議論していることである。その上で,日本で実際に先端産業でベンチャー企業が簇生し,産業集積が新たに形成された 3事例を取り上げ,その集積形成論理を実態調査をもとに追求する。実態紹介にとどまらず,その論理を追求し,分析概念としての実践コミュニティを軸に一貫した論理で集積形成を論じる。事例を踏まえた日本の状況についての説明は,実践コミュニティの概念が活かされ,納得的である。従来の日本のベンチャー論にはなかった,本来的な意味での実証的なベンチャー簇生論,日本での先端産業でのベンチャー形成の論理を,日本の創業環境を踏まえて解明した著作といえる」と評している。 関(2012)によれば,「本書はスピンオフ・ベンチャーによる産業集積の形成プロセスを事例から具体的に記述するだけでなく,それを学習・能力構築と実践コミュニティとの関わりから説明するに最大の貢献がある。つまり,本書は,現実に起こっている現象面に基づいた問題設定を,丹念なインタビュー調査によって収集された事例情報から紐解き,かつ周辺の議論との整合性を図り,筆者なりの分析フレームワークを構築しようとしている。この意味で,本書は細切れとなっていた諸議論,すなわち,ベンチャー論,起業学習論,産業集積論,スピンオフ連鎖論,オープン・イノベーション論,組織的知識創造論を筆者なりに整理し,事例からフレームを構築する理論構築の研究の一翼を担う

ものと評価することができる」とある。 大西(2013)においては,「本著は,日本的スピンオフ・ベンチャー創出研究に重要な理論的貢献をするものと考えられる。実践コミュニティの概念を導入し,日本的スピンオフ・ベンチャーの創出過程,創業前と創業後のスピンオフ企業家の行動,新しい産業集積の形成プロセスについての論理的,実証的な検証に成功している」と評している。また,寺岡(2013)では,「日本的スピンオフ・ベンチャー創出論(=スピンオフ企業家の学習サイクル・モデル)は,実践コミュニティの発展三段階において,学習者がその実践コミュニティ間を移動できるかどうか,そして,技術者から企業家へとステップアップできるかが問われる。長山の問題整理は分かりやすいモデルとなっている。その応用性において評価したい」とある。 以上のように,書評では一定の評価が示されているものの,「事例選定の妥当性」や「事例の特殊性」といった点から本書の主張に限界があるといった指摘も見られた。その点は著者も本研究の積み残しの課題として十分認識している。特に,本研究では,3点目のリサーチ・クエスチョンに関して,浜松ホトニクスが光産業創成大学院大学を創設してまでも試みようとしているグローバルなイノベーション競争への対応を知識経済時代を生きる企業の先端的動きと捉えて分析したが,他の日本企業における同様の動きを十分に示していない。とはいえ,本書では,日本経済の制度的構造のもとでクローズドな経営システムを指向してきた日本企業においても,グローバルなイノベーション競争時代への対応として,スピンオフを前提にした知識創造経営の導入が必然的な潮流となってきたこと,そして,大企業とスピンオフ企業家とのWin-Win 関係モデルによる「起業の新時代ストーリー」の扉が開こうとしていることを,実証研究を通じて明らかにしようと試みたのである。 本書の出版後,著者は,「大手電機メーカー8

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社とスピンオフ企業家に関する実態調査」を行い,積み残しの研究課題に答えるための準備を進めている。現時点で,ソニーや富士通など大手電機メーカー出身のスピンオフ企業家 30 名のライフヒストリーを調査したが,本書の研究結果とほぼ一致する内容であった。加えて,新しい事実発見が次々と出てきたので,次回作でまとめていきたい。

〈参考文献〉稲垣京輔(2003)『イタリアの起業家ネットワーク』白桃書房。

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寺岡 寛(2013)「書評 日本的スピンオフ・ベンチャー創出論」『中京経営研究』第 22 巻‌第 1・2 号。

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