よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博...

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西 西 西 いが、幾千年来我等の祖先を孕み来った東洋文化の根柢には、 を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を与へて見 西 西 西

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Page 1: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

〈記念講演「日本思

想の再評価」2〉

場 

所 

の 

論 

ご存

知のとおり西田

幾多郎はこの百年間に日本の生み

だした最

の哲学者で

あり

、なおかつ世界に誇る思想家である。彼は私達

の根本的

哲学的概念

の枠組を見直し作り

直し、新

しい論理学

を見

した。西田は彼

の『働く者から見る者へ』

の序論において次の

うに語

ってい

る。

形相

を有

となし形

成を善となす泰西文化

の絢爛たる発展に

は、尚ぶ

べきも

の、学ぶ

べきものの許多なるは云

ふまでもな

いが、幾千年来我等の祖先を孕み来った東洋文化の根柢には、

なきも

のの形

を見

、声なきものの声を聞く

と云

った様なも

のが潜

んで居

るので

はなからうか。我

々の

心は此

の如

きもの

を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を与へて見

いと思ふのであ

る。

これ

を一読す

ると

、西田博士

は神

秘主義

の論理

を築き

あげよう

バート

ワ1

’コ

としているように見えるが、あくまでも彼のいわんとす

ることは

秘主義で

はなく、哲学である。西

洋哲学

におい

て解決不可能と

われる問題(自

覚の問題

など)は、以下のように考えること

出来

る。解決不可

能と見える理由は。その問題の立て方にある。

ち、前提条件

がその問題の解決を不可能

にしてい

るのである。

唯物論にせよ、唯

心論にせよ、他の伝統的立場は、皆、知るもの

と知られ

るも

のの区別、つまり

主客の対立

を前提

とする。その前

提の裏にはアリ

ストテレ

ス以

来の論理学

があ

る。その論理学は西

洋の伝統的形而上学と密接な関係があ

って、主語を重んじて、主

語と

なるものだけ

を実体とする。アリ

ストテレスは実体を主語と

なる

が述語となら

ないものという定義

を出した。それは印度

ヨー

ッパ語族においては、文体

が必ず主語を必要

とすることから出

るのではないか……。その意味

においては日本語を母国

語とした

Page 2: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

西

田博士は、新しい論理学

を考え出した時に、述語を重んじる論

理学

を造り出したと考えられる。今日の私のテ

ーマは、西

田博士

の新しくつくり上げた場所の論理(述語の論理)というものであ

が、その論理をつくり

だす理由は、あ

る特殊で重大

な問題であ

った。その問題とは、次のようなことである。

人間の経験全体を解釈しようとする認識論的、あるいは形而上

学的理論は、もし主客の対立を前提とするならば、必ず行きづま

る。そうならば、主客の対

立を前提とし

ない包括的哲学理論

がな

たつことはあり

得るだろうか。西田博士はそれに対

し肯定的な

見方

を提出

した。彼

の場所

の論

理はそういう包括的理論で

ある。

仏教においても『中論』

は同

じような答えを出す。もちろん西

博士

はそれを知って

いた。そして

、その影響をうけて

いると思わ

れるのであるが、彼

の場所

の論理は単

なる仏教ではなく独

立した

哲学理論で

ある。

しかしながち、その背景

を理解するた

めには、十九世

紀の井上

了・井上哲次郎のこ

の問題に対する考えにふれておいた方

が、

西田

博士の場所の論理がなおわかりやすく

なるのではないかと思

う。両

者は現象と現実の根本的

な同一性

を唱える現象即実在論と

いうような理論を出

した。つまり彼らは、今までの現象と実在の

立は偽造的対立であると考えた。例え

ば、ふだんにはこの机

堅いも

のであるように見えるが、本当はそうで

なくて

、原子

の配

列があ

るだけなので

ある。ふつう、堅い机は現象で

って

、つま

り二

次的なもの、そして

原子

の配列は実在とされて

いる。

しかし

両者の考えでは、この中

には優劣の関

係があるので

なく、ただ違

った観点から同

じものを見たというだけのことで

ある。

主観と客観の対立もこれと同じように、見方の相違にすぎない。

根本的・実在論的な区別ではないのであ

る。

従来の哲学の目

的としては、こういうような区別

があれば、ど

ちらかを優とし、どちらかを劣としようとした。そのため、唯心

論者は主観を現実

とし、あらゆる物体

は現象にす

ぎないと論じた。

唯物論者は、その逆を論じた。

しかし、その

ようなこ

とをしても、私達人間としての

経験を納

得できるような形で

説明

するこ

とは出来

ない。唯心論者

と唯物論

が論じ合って

も、そして相手

の欠点

を指摘するこ

とが出

来たと

しても、自分

の立場を論証できたこ

とは一度もなかった。

井上達から見ると、それは当然のこ

とである。何故ならば、現

象と実在、主と客などの対立は、どちらかを選択す

べきというよ

うな対立ではない。つまり、実在という概念

がなければ現

象とい

う概念も出ない。主観という概念がなければ客観という概念もな

い。い

ずれの対立も概念的な対立として

何かによって統一されて

る。というのは、同じ範疇の枠に入

ってい

なけれ

ば、どちらも無

意味である。我

々の生きている現実世界は主観的に見るこ

とも出

来、客観的に見ることも出来る。経験によ

ってのみ現実を知る。

Page 3: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

- 之

その経験は根本的

にはただ単に主観的・客観

的というので

もな

い。現実、あ

るいは実在

は特殊なもの、個物で

はない

。客観

と主

観、両方

の概念

が妥当

的で

あるというこ

とは、現実の

本性を直観

するこ

とであ

る。し

かし、井

上円

了と井

上哲次郎は、こ

のこ

とを

直観して

主張

したにとどまって

いた。その必然性

をはっきり表

すこ

とは出来

なかった

。つ

まり

、彼らは現実

に対して

いろいろな

見方をとるこ

とができ

る、そして

、その見方の中で絶対

的な優

の相違がないと言

って

いるだけであ

る。

であ

るから

、この二人の

哲学は折衷主義

にす

ぎない

西田博士

はその必然性

を表

わす

論理をつくり

だすこ

とに一生を

した。

『善の研究』においでは、このい

わゆ

る見方・観点の問題に対

る答え

を出している。純粋経験

という概念をも

って経験の統一

を見出そうとするのである。認識論者においては。純粋経験は

のそのものの直観である。経験の内容と経験という作用の区別

がまだなされていない直接理解、"知・情・意"の分化がない状

態にとどまっている。

一例を見た方

がいいかもしれない。西田博士の純粋経験はけ

して珍しいことで

はなく、ごく日常的である。例えば、自分の好

きな音楽を聞いて

いる時、自分とその音楽とを区別

しない。聞く

私と聞かれて

いる音

楽を二

つのものと意識しないので

ある。つま

り、思惟規定も主客の対

立もその経験の中

に存在しない。分析は

後で行

なわれるこ

とであり、その経験の一部ではない。こ

れは純

粋経験である。

かし『善の研究』はけ

っきょく不十分であ

った。純粋経験の

認識論的根拠

がとぽしくて、あまりにも心理学的であ

った。なお

各種

の経験界(物理学的

など)と純粋経験との関係も十分明

らか

にされてい

ない。論証よりも。この本は一種の

ピジョンを描くの

であ

る。

それでも、『善の研究』は西田哲学の重要な考えを示す。1主

客の対立の否定超越、2徹底的な主観性の強調、3自覚が中心で

あること、4各種の経験界の階級配列(物理的世界から芸術の世

界)、そして5宗教的側面の重大性。

西田博士はここで

止めたのでは

なかった。『自覚における直観

と反省』においてまた取

り組んだのである。こ

の書物

においては、

かい論理

が並

べられて

いて読む者の気持ちを苦しいものにす

る。

各経験を描写してそれぞれ自覚的世界

として

解釈し、各世界

が統

一する直観によ

って裏づけられている。しかし、こ

の本の中でも

相互的統一

がなか

なか得られていない。彼

が統一をなすためには、

絶対自由意志の自覚という

ようなも

のを持ち出

して統

一しよ

うと

する。しかし、この絶対

自由意志の自覚は明

らかに神

秘主義にす

ぎないのである。その最

後の総合的統一はどうしても自己反射的

性格を持たなければならないのであるが、絶対自由意志の自覚の

みでは成り

立たないのであ

る。つまり

根拠がは

っきりあらわされ

Page 4: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

いないのであ

る。

西田

博士はこ

れを自分でも

認めて

、その本の

序論の

中で

、「

よく

闘ったが、神

秘主義

という敵に降服しなければならなかっ

。」

と書いた。こ

れは西田哲学

解する上で

重要

なこ

とで

ると思

う。彼

はあくまでも神

秘主

義を避けようとして

いたので

る。勿

論、西田

博士

は信仰心

の厚

い方で

あったが、し

かし哲学者

として神

秘主義

を認

めること

は出来

なかった。哲学の

役目は構

造、

構成

を表

わすこ

とであ

って、それ

を論理的

にし

っかりし

た形で表

じなけ

ればならない。

神秘主義に訴えるのは哲学者として失敗す

るこ

とである。その

め西田博士は生涯幾度も自分の研究方法

を修正

したのである。

それゆえ

、この時点において西田氏

はま

た意識の問題に取り組

でいた。

失敗の

もとは知ることを作用として考え

るこ

とにあるとわ

かっ

てきた。

そのた

めに、作用の重要性

を否定

して場所という概念

考え出し

たことは、西

田博士の哲学上

、画

期的

な推移であ

った。

問題は自覚の説明ということであ

った。

いか

なる論理学でも、もしそれ

が主語

を重

んじ

るような論理学

あれ

ば、つまり対

象を扱うような論理学であれ

ば、その論理学

は自覚の再帰性、自己反射性を論じることは出来

ない。どうして

、存在するものは、あくまでも対

象であ

って、文章の主語とな

うるもので

なければなら

ない。それがために自覚を説明す

るに

は、西田

哲学において

述語を重

んじ

る論理学を見出

さなけれ

ぱな

らない。

しかし、述語論理

というものを見出すためには、新しい概念

必要

であ

る。す

なわち

その述語論理

というものは、いったい何で

るか。西田博士

は場所

という概念

によってこの答え

を得た。ふ

つう、知るというこ

とは、ある主語

が対象を知る、つまり主観的

なものと客観的

なものにわかれていて、知られてい

るもの

が対象

、文章の

主語

、命題

の主語に

なりうるようなも

のである。普段

のときに

は、別に問題は

おこら

ない

が、自覚の問題になってくる

といろいろ困難

が生じてくる。

自覚においては知る自己と知られる対象、つまり自己は同

じで

る。し

かし、これでは矛盾に陥る。主語になりうるのは、対象

つまり知ら

れている自己である。知る自己

はどうしても対象にな

ないし、主語にもなれ

ない。それをもって

、西田博士は場所と

う概念

を用いて知るということの再

検討

をした。

日常言語的には、場所とは「ところ」を意味する。"もの”が

"ところ’においてある。その観点から西田博士は知るというこ

とを解釈しようとした。つまり

、知られるというこ

とは、ある範

疇表(範疇の枠)

におかれているこ

とであ

る。知られている対

がある世界の中

に存在するというこ

とになる。この範疇表

に含ま

れていないと、物

にならないという考え方は、トーマス・

クーン

の『科学革命の構造』の中にある。パラダイムという考え方と同じ

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である。つまり

、事実が事実として

認めら

れるには、パラ

ダイム

ないし範疇

がルールでなければならないので

ある。

これで認識論と実在論

が結ばれてしまう。しかし、同

時に忘れ

てはならないこ

とは、この範疇は意識の生み

出したものであると

いうことである。さらにその知識と枠

が意識に存在する。また各

所に、こういうもの

がおいてあるという個所では場所の意味

がは

っきり出てくる。

範疇という考え方はある観点

を提示する。その観点は

、場所

考えれ

ば、場所は世界

を決定す

るこ

とに

なる。つまり

、その世界

に存在しうるも

のの種類

を設定す

る。場所に於いて繋辞〔であ

る〕

としてあることと存在

〔がある〕

としてあること

とを結

びつけ

とが出来る。さらに気

をつけなけ

ればならないのは、場所

は単

なるその場所自体に存在す

るものではないということである。も

そう

なら自己矛盾に陥るこ

とに

なる。

そのた

め場所は場所

に於

いてあ

るものに対して

は無であ

ると西

博士

はいう。こ

れをはっきり

させるために一例

を挙

げてみ

たい。

色の世界のこ

とを考えて頂

きたい。色の世界

には色

だけが存在

する。その中では

、赤

は色であ

るというこ

とと

、赤

が存

在す

ると

いうこ

ととは、全く同

じであ

る。

場所

を語る時

、西田

博士

。無’という言葉

をよく用

いる。こ

とに、彼

によ

れば、場

所は場所に於いてある物

に対

七て無で

ある

ということをよく言うし、さらに無という概念は、有る。"ある"

ということに対しての無、″ない″というこ

とと同じでは

い。

無という言葉だけで褝の無心、無常というこ

とを思いうか

べるか

もしれ

ない

が、西田

哲学においては。その関係はあるとしても、

あくまでも論理的・

哲学的

な根拠を示

さなけ

ればなら

ないのであ

る。そ

れがためにもう一度色の世

界を例え

に使

ってみたい。

にいったように、赤

が存在するというこ

とは赤

が色であると

いうこ

とを意味す

る。し

かし、そうならば、色自体というものは

その世界

に存在していない。だ

が、この「色

は存在

してい

ない」

というこ

とは、どういう意味であろうか。

その色の世

界を考えてみ

る上で、まったく新

しい色を想像して

みよう。例え

ば、″ムラカ”という色、赤と紫

属性

皆持

って

いる色と考えることにする。つまり、赤と紫のミックスしたもの、

新しい色で

ある。次には、その

″ムラカ″という色は存在するか

という質問

は出

来るというこ

とに注意してもらいたい。勿論この

世界の中

には

″ムラカ″という色

はない。

しかし、その質問―

″ムラカという色はあるか″という質問

―は、立派な意味のある問いである。調べてみてその色がない

という結論

を出す

だけなのである。し

かし、例えば、その世界の

中で色というも

のは存在するかどうかという問いを出そうとして

も出しえ

ない。

その質問そのも

のが無意味である。色自体

が色の世界の中

に物

として存在

しない。し

かし、その

存在し

ない

理由は、″ムラカ″

Page 6: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

のような矛盾的な色

と違って、ただ、その属性

が相合

わないとか、

満たされていないから

、存

在して

いない、というこ

とで

はない。

色そのものが存

在す

る、あ

るいは、色そのものが存在し

ないI

両方

の命題がこ

の世界

においては無意味である。

本当

は、そういう質問さえつくり出すこ

とが出来

ない。もしそ

の世界

の範疇に忠実に従え

ば、そう

なのである。

これ

をもって、場

所というものは

どういう意味で無の性格を持

っているかというこ

とを、分

って

いただけると思う。

しかし、こ

の無がふつうの意味

″ない″と違った意味

を持

いるというこ

とで

あっても

、決

して不思議

なも

のでも神秘的

ので

もない。

場所

″於いて

ある″ものに対し

て無で

あり

ながら、その

″於

いてあ

る″もの

を設定することもあ

る。その

″於いてある″もの

が無の限定

として考えられる。色の世界

を考えれ

ば、赤、青、緑

が色であるから、それぞれ

が色制度の特殊化されたもの

であると考えられる。こ

れも重要な事である。なぜなち

、知ると

いうことを検討するために判

断ということを考え

なければならな

いからである。西田博士

は場所

をもって判断

を分

析す

るのであ

る。

断の主語と述

語を統

一す

るようなものはただも

う一つの対象で

ない。そのもの

が、判断の

主語にならない

。し

かし、その主語

も述

語も設定しなけれ

ぱなら

ないとい

うことである。

判断は何であれ統一性

がなけれ

ばならない。

その統一性は直観によ

って成しえたと思

われる。西田博士によ

ば、判断の統一性は、直観によって

得ら

れるもので、直観は主

語論理に見られるものでなく、述語論理に求められるもので

ある。

そのため述語の論理を彼はもち出す。

その直観というものは、

もともと主語と述語という独

立した二つの違ったものを結び合

せるというもので

はなく

、もともと

が主語と述語が直観の中でひ

とつで

あったもの

が分解

されたものなのであ

る。つまり赤は色だ

とい

うことは、赤

は色の

システ

ムの中に含まれている

ということ

だけである。根源的なものは各色でなくて

、色の

システムそのも

のである。

つまり、色の

システムという観念がなけれ

ば、赤という概念は

得られない。それ故

、色についての命題は皆、色

システムそのも

のの特殊化

、分

析化

したもので

あるとい

うふうに解釈でき

る。に

もかかわらず、その色

システムそのもの

が命題の中

、分析

の中に

らないのであ

る。

まり色

システ

ムの直

観そのもの

が、色について

の命題の裏

けになるが、その直観

が命

題に働きかけるということ

はない。

システ

ムモのもの

を場所として考え

れば、色の命題そ0。もの

が場所の自己限定ということも出

来る。さらに場所

が主語となり

えないものとして

考えると、命題が主語

になりえないものの自己

限定

として捉え

‘るこ

とができる。

かし、色の命題

そのも

のに

は、色

システムの直観

が、本当の

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r ° ミ

主語に

なっている。

もちろん文法的な主語にはなり得

ない

が、各種の色について語

るときは、色制度そのものについて語

っているということに

なる。

(華厳の事

々無礙)

この例は単純なものであるが、場所という概念

が論理的、実在

的、認識論的側面

があるということを明ら

かにすると思う。

では、西田

博士はどういうふうにしてこの場所の論理という概

を使って哲学的体系をつくり

うるか。

それには二

つの側面

がある。ひとつは体系そのもの。もうひと

つはその方法

論であ

る。

ず体系そのものの概要

について説明

しておきたい。その体系

おい

ては場所

はいろ

いろの

役割

を果す

。認識論的には、場所

経験とい

うもの

を理解する上での枠

になる。

より根本的

な解釈の枠であれ

ば、より豊富

な経験

の側面

を取り

入れるこ

とが出来る。

実在論的には場所

というものは個

々の

物が

″於

いてあ

る″、い

かす力

の場であ

る。その個物は置

かれて

いる場所

に存在す

る。論

理学的に

は、その場所は個々

の物の間の関

係を表

わし

、あ

るいは

規定する。場所

と場所の関係も表わす

のであ

る。

三つの場所、すなわち

″有の場所″と

″相対的無の場所″そ

″絶対的無

の場所″

がある。その有の場所は自然界にあたるよ

うなものである。相対

的無の場所

とは意識界、あるいは自覚的意

識界に相当する。"絶対無の世界″とは理想の世界、即ち叡智的

る自

の世

妥当

もの

ある

には

るも

が存

る。

の自

ント

経験

(empirical

ego)

とい

もの

のは

価値

、理

。絶

の対

・善

の三

の場

、あ

るい

とし

、西

哲学

があ

い。

なこ

は、

が各

々の

って

然性

を表

、こ

生き

えら

は、

かに

て西

博士

その

然性

を見

か。

西

形而

もの

、私

経験

るこ

が出

る。

の方

のは

っぱ

と、

いう

一に

々の

、ミ

ムの

疇表

を持

け単

な範

をも

って

ど経

が出

を試

一番

″包

″、

つま

いう

ば、

だけ

って

、世

とそ

般者

とそ

Page 8: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

といえる。

そのような場では、″赤は色の一つである″と

える。あるい

″Xは赤であ

る(

ピンクは赤である)″と言え

る。

しかし

、″X

は赤くて重い″

とは言え

ない。な

ぜなら、モの場

では一般概念

特殊化

の関係し

か言え

ないのである

から。(同

じ系列

でない

びつか

ない

のであ

る。)

違った種類の特殊

をひ

とつのもの

の属性

とす

るこ

とは出来

ない。

一つのもの

が二

つの違

った種類の属性

を持

たない。

しかし

、そう

いうこ

とを言えなけれ

ば、我

々の

経験

を言い表

ことはでき

ないのである。包摂の関係だけに限

って

″Xは赤であり

重い″とい

うのは、矛盾

になってしまう。し

かし、

包摂以外

に論理

的関

係がなければ、その命

題自体

を作るこ

とさえ

ない

。だ

が、我

々は実際

そのよ

うな命

題を作り

、結局、その

包摂

の’関

係だけに縛

られていないというこ

とが証明

される。こ

は西田博

士の方法

論の鍵である。つまり

、ある範疇の限定をその

まにして、忠

実に守るこ

と、そうす

れば矛盾が起こらないとこ

ろに矛

盾が起こ

るというのは、私

達がモ

の範疇に縛られていない

いう証明

になる。

盾を見出

すことによって、どうしても次の(高次の)レ

ベル

に行

かなければならない。こ

れは西田

博士の論理の進行のパター

ンであ

る。

れを深めてゆくと、自然界モ

のものを解釈する唯物論者の唱

る範疇

をそのままあて

はめると、物理的世

界に在

るべき個物と

いう本来の意味を見出すこ

とは出来ない。

どうしてかというと、物理的

な個物であるならば、他のものと

働きかけなければならないとい

うこ

とに

なる。その働

―因果関係において行動する―ということは、意識のことを

背景に考えなけれ

ばならない。そうで

なけれ

ば、働きかけるとい

うような概念は出てこない。つ

まり

、物理的個物

が完全な物理的

個物になるために必要とするのは、その世界に当てはめら

れない

範疇である。我

々が考えなければなら

ない物体

の性格を矛盾と認

めなければならない。もし自然界

の範疇

に限

って考えれば。

しかし、本当に自然界の範疇

に限ら

れて

いるなら

ば、矛

盾とい

うものは出てこ

ない。そのため、意識の世界

、つまり自己

という

ものを認めなければならない。また、この世界においては自己と

いうもの

を深く考えれ

ば、その自

己が意志を出

して

、行動するに

は、現在存

在し

ないもの

を考えなければならない。つまり、理念

るいは理想的

なもの

を考えて、それを実現させるた

めに行動す

るのであ

る。自分

を変え

るという行動をとらなければなら

ない。

かしま

た、西田

博士

はいろいろな例を用い、意識界

においては

れらは矛盾した事柄であることを説いた。

れで

、理想

の世界へ移

る。″意志を出して

自分を

変え

る″と

うこ

とは

″理念

″をもってそれを実現させようという行動

をと

というこ

とであ

る。

Page 9: よ れ た を求めて已まない、私はかゝる要求に哲学的根拠を ......西 田 博 士 は 、 新 し い 論 理 学 を 考 え 出 し た 時 に 、 述 語

しかし、これは意識界の範疇にあてはまらないから、その理想

″叡

″叡

ふり返ってみると、有の場所においてあるものは客観的に存在

″於

しかし、その世界の中に矛盾があるということは何かに裏づけ

れ以

るこ

。そ

ため

西田

博士

、そ

を裏

づけ

るも

と言

った

。絶

るな

あり

まり

あり

なり

ない

をあ

なり

つい

って

て述

るこ

でき

。こ

れは褝や他の仏教において無ということになってしまう。それに

つい

るこ

ので

ろい

は神

秘主

私に

って

。少

なく

とも西田博士は絶対無をたどる道を、論理的な、しかも、経験に

づい

わす

がで

ので

る。

西田

主義

の論

くり

ので

る。

西田

の対

を前

ない

との

た哲

くりえたのである。

(Robert War go’

哲学

ーク

ンド

学)