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  • 一 

    はじめに

    在原業平による「ちはやぶる神代も聞かず竜田河唐紅に水くくる

    とは」(以下、当該歌)は、『百人一首』中の一首として現代でも広く

    親しまれている。『古今和歌集』(秋下・二九四)には、「二条の后の

    春宮の御息所と申しける時に、御屛風に竜田河に紅葉流れたるかた

    をかけりけるを題にて詠める」の詞書のもと、素性による「もみぢ

    葉の流れてとまるみなとには紅深き波や立つらむ」(秋下・二九三)

    に続いて配列される。

    さて、当該歌の解釈には古来さまざまな問題があるが、本稿では

    結句に焦点を当てたい。この結句は、現在一般的に「水くくるとは」

    と読まれ、和歌全体は「竜田河の水を深紅の括り染めにするとは、

    神代にも聞いたことがない」などと解釈されている。しかし、平安

    後期以降に成立した『古今集』『百人一首』『伊勢物語』の古注釈に

    おいて、結句は長く「水くぐるとは」と読まれていた。「水くくる」

    の読みは、現存資料を見る限り、江戸時代中期頃に至って初めて呈

    されたものである。

    こうした注釈史の流れを鑑みれば、現在はあまり目を止められて

    いない「水くぐる」説も軽視すべきではないだろう。本稿では、改

    めて諸注釈を精査し直し、さらに日本の染織史における括り染めの

    価値の変遷なども勘案して、結句の清濁問題を再検討したい。

    二 「くぐる」から「くくる」へ

    さて、平安後期から近世中期頃までの「水くぐる」説の継承と、

    近世中期以降、「水くくる」説が優位性を強めていく過程は、すで

    に野中春水氏、小町谷照彦氏をはじめ、先学によって詳細にまとめ

    (1)

    (2)

    敗あああああ 

    (1)

    水は括られたのか 

    ―在原業平「唐紅に水くくるとは」の清濁―

    A Reconsideration of Narihira A

    RIW

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    A'S Waka in Ogura H

    yakunin Isshu

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    ( 9 )

    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3 月)The Tsuru University Review , No.89(March, 2019)

  • られている。それらの先行研究に重なるところも多いが、まずは主

    だった古注釈を通じて、この過程を再確認していきたい。

    当該歌の結句について述べた古注釈の早い例としては、次の顕昭

    『古今集註』の注釈が挙げられる。

    水くぐるとは、紅の木の葉の下を水のくぐりて流るるといふ

    也。潜の字をくぐると読めり。

    寛平宮滝の御幸に、在原友于歌に「時雨には竜田の河も染みに

    けり唐紅に木の葉くぐれり」。此歌は河を落葉くぐるとよめり。

    顕昭は「くぐる」に「潜」の字をあて、これを「川面の紅葉の下

    を、水が潜って流れる様子」と捉えている。さらに、寛平宮滝御幸

    で在原友于が詠んだ歌を、同時期の類例として示した。

    次に、藤原定家『顕注密勘』においても基本的に顕昭説は踏襲さ

    れ、前掲した『古今集註』本文に続けて以下のように記されている。

    今案に、業平は紅葉の散りつみたるを紅の水になして竜田河を

    紅の水くぐる事は昔も聞かずとよめる歟。此友于、時雨に竜田

    の河を染めさせつれば、唐紅に木の葉をなして河をくぐらせた

    れば、ただ同じことにて侍歟。

    この箇所からは、「唐紅に水くぐるとは」は、川に紅葉が散り積

    もった光景を「紅の水」に見なし、「竜田河に紅の水が流れるとは、

    昔も聞いたことがないと詠んだものだろうか」と、思案する様子も

    見て取れる。この逡巡については、本稿の後半で再度触れる。ここ

    ではひとまず、顕昭、定家が結句を「水くぐる」と捉えていたこと

    を確認し、先に進みたい。

    中世期には、例えば一条兼良『伊勢物語愚見抄』が「唐紅に水く

    ぐるとは川に散り敷きたる紅葉の下を水の潜りて流るるを紅潜ると

    は言ふ也」とし、また、飛鳥井雅俊『栄雅抄』が「川に散り敷きた

    る紅葉の下を、水の潜りて流るるを、紅に潜ると言ふ」と記すなど、

    顕昭説が脈々と受け継がれている様相を看取できる。他に、宗祇『伊

    勢物語山口記』は「竜田河に神無月ばかり、三室の山の嵐激しき頃、

    紅葉は悉く散り敷きてこの川埋もれ果てたる時、水はただ紅を潜る

    やうに見ゆるを」とし、肖柏『伊勢物語肖聞抄』では「竜田河に紅

    葉散り敷きて川のおもても見えぬばかりなるに、水はただ紅を潜る

    やうに見えたる」とする。この二書は、「紅葉が川面を埋め尽くし、

    その下を水が潜っているように見える」と、詠まれた情景をより詳

    しく想像しているが、これらも顕昭説を推し進めたものと見て差し

    支えないだろう。

    そして近世前期に至っても、北村季吟『百人一首拾穂抄』などは

    「秋の末神無月ばかりに、流れもあへず散り敷ける紅葉に水は紅葉

    を潜るやうなる興」と述べ、「水くぐる」説を引き継いでいる。一方、

    下河辺長流『百人一首三奥抄』、およびこれを増補した契沖『百人

    一首改観抄』は、「竜田河に紅葉の満ちて流るるさまをひとへに唐

    錦を流せるごとくにして錦の中より水の潜ると見ゆる」と、「密集

    する紅葉を錦と見て、それを水が潜る」と解釈する点に新味がうか

    がえる。しかし、いずれにせよ結句を「水くぐる」と読んでいる点

    については先行する注釈と相違ない。

    このような流れに対し、新たに「水くくる」説を提唱したのは賀

    茂真淵である。真淵は『百人一首うひまなび』(以下、『うひまなび』)

    に、以下のように述べている。

    紅葉のむらむら流るるかたにて、白波もひまひま立ちまじりつ

    つ見ゆらんを、紅の纐ゆ

    はだ纈と見なして、いとめづらしければ、行

    (3)

    (4)

    ( 10 )

    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • く水を纐纈にする事よ、神代よりかかる事はいまだ聞かざりけ

    るといふ也。是は或家の古き説に此くくるは泳

    くぐるにはあらで絞

    くくる

    也とあるによれり。

    ここで真淵の言う「或家の古き説」が何を指すのかは判然としな

    いが、これ以降、真淵の新説は広く世に浸透していった。まず近世

    後期、本居宣長『遠鏡』が「これ竜田河へしげう紅葉の流れるとこ

    ろを見れば、とんと紅鹿子紅しぼりと見えるわい」という解釈を呈

    し、香川景樹『古今和歌集正義』が「流るる水をしも、かく纐纈染

    めに括りなすは、紅葉流るるを賞して詠めり」と記すなど、「水く

    くる」説が比較的早い段階で支持されていることがうかがえる。一

    方、景樹は『百人一首異見』では、「うひまなびに、紅葉のむらむ

    ら流るるかたにて、白波もひまひまたち交りつつ見ゆらんを紅の纐

    纈と見なせりと言へるは非也」と、真淵の説を批判している。しか

    しこの批判は、「まづ此画のさまを思ふに、いとも青く描き流した

    らん水の上に、いと大きやかなるもみぢ葉の、しかも濃き紅なるが

    赤々としたたかに浮かびたるなるべし」と、屛風絵の彩色を想像し

    て異を唱えたものである。つまり、結句を「水くくる」と読む点に

    ついては、賛同していることが分かる。

    さらに近代に至ると、金子元臣氏や窪田空穂氏をはじめ、「水く

    くる」説を採る注釈が大勢を占めるようになる。そして現代では、

    大方の『古今集』『百人一首』『伊勢物語』の注釈が「水くくる」説

    を採り、ほぼ定説化していると言って過言ではないだろう。

    以上、主要な注釈によって確認してきたとおり、近世中期頃まで

    は、解釈内容に多少の相違は認められるものの、読みという点にお

    いては疑いなく「水くぐる」説が継承されてきた。しかし、真淵が

    「水くくる」説を呈して以降は、この解釈が着実に優位性を強め、

    現在は同説に疑問を呈す向きは僅かという状況である。

    ただし、少数ではあるものの、「水くぐる」説を尊重する現代の

    注釈も認められるため、その内容を確認しておきたい。たとえば、

    新潮日本古典集成『古今和歌集』は、結句を「水くくる」とすると、

    括り染めをする主語が定まらないことを理由に、「水くぐる」説を

    採っている。また長谷川哲夫氏は、古代の絞り染めの実態が明らか

    でないことなどを「不確実な要素」とし、「水くくる」説が定説と

    は言えないと論じている。これらの注釈には、「水くくる」説の問

    題点が的確に指摘されており、結句の清濁問題には未だ検討の余地

    があることを知らされる。

    三 

    中世・近世期における本歌取り

    では続いて、中世から近世に至るまでの本歌取りの例を概観し、

    やはり「水くぐる」から「水くくる」への転換点が、近世中期頃に

    あることを確認したい。

    中世期には、同時期の古注釈の解釈同様、大方において結句を「水

    くぐる」と読んで本歌取りしていることがうかがえる。

      

    河落葉 

    承久二

    紅の錦にくぐる竜田河みむろの木の葉色も残らじ

    (為家・八三三)

    水の面に岸の紅葉やうつるらん紅くぐる池の鳰鳥

    (正治後度百首・五三八

    源家長)

      

    正平十七年内裏百首歌中に

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    (6)

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    (8)

    (9)

    ( 11 )

    水は括られたのか

  • 紅葉散る山のすそのの花薄紅くぐる波かとぞ見る

    (新葉・秋下・四〇六

    公夏)

    また、近世前期においても、「水くぐる」による本歌取りの例が

    見受けられる。

    花さかぬよその庭まで匂ふらし紅くぐる梅の下風

    (逍遊(貞徳)・七二)

    なごの海や夕日かすめる波の上に紅くぐる海人の釣舟

    (林葉累塵・七五 

    吉浦信常)

    これに対し、近世前期頃までの和歌に、当該歌の結句を「水くく

    る」として本歌取りしている例は、管見の限り確認できない。しか

    し近世後期に至ると、「水くくる」説に拠って本歌取りした例が、

    僅かではあるが確認される。

    苔深き庭は紅葉の散りしきて紅くくる冬の山里

    (藤簍冊子(秋成)・六八一)

    上田秋成は、苔むした庭に紅葉が散り敷く様子を「紅の括り染め

    のごとき庭」と表現している。秋成は真淵の『古今和歌集打聴』の

    修訂に携わっており、真淵の説をいち早く取り入れているのであ

    る。

    四 

    二首の証歌の不確かさ

    ここまで、真淵が呈した説が以後の多くの注釈に受け入れられ、

    現代ではほぼ定説化していることを確認してきた。ここからは、真

    淵、およびそれに続く注釈を再見し、「水くくる」説の蓋然性につ

    いて改めて考えていきたい。

    さて、真淵は『うひまなび』に、前掲した本文に続けて二首の証

    歌を挙げている。

    六帖に「木葉みな唐紅にくくるとて霜のあやにもおきまさる

    哉」とよめるも絞染なればこそ霜のあやにもといへ、且此歌く

    ぐるにあらぬ証は、水と云詞も見えず、よてくくり染てふこと

    をよめると思定むべし。(中略)在原友于の歌に「時雨には竜田

    の河も染にけり唐紅に木葉くくれば」。是も上に染にけりと云

    て、下にくくり染を聞せたり。かかれば纈のことならで何なら

    ん。

    この真淵の指摘以降、現代の注釈に至るまで、ここに挙げられた

    二首以外に、当該歌に先行する和歌、および同時代和歌に「水くく

    る」の類例は示されていない。私にも調査し直したが、平安中期頃

    までの和歌に、紅葉を括り染めと見立てた可能性があると思しき和

    歌は、他には見出せなかった。つまり「水くくる」説は、僅か二首

    を大きな根拠にしてきたのだと言える。しかしこれらは、「水くく

    る」説の確かな裏付けとし得るだろうか。まず、この点について再

    検討したい。

    一首目の『古今六帖』歌を、真淵の記した本文で解釈すると、「木

    の葉をみな深紅の括り染めにすべく、霜がむやみに置きまさること

    だ」などとなろう。真淵は、第四句の「霜のあやにも」を「奇に」

    と「綾に」の掛詞と取り、「上句の括り染めと、下句の綾を響かせ

    ている」と主張している。

    しかし、真淵が「霜のあやにも」と引いた第四句は、出典である

    『古今六帖』(六七五・「霜」)では、「霜のあとにも置きまさるかな」

    と異同があり、この場合、「括り染め」と「綾」という染織関連の

    (10)

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    (12)

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    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • 語句を響かせたと読むことはできない。『古今和歌六帖全注釈』で

    は、第四句を特に校訂せず、「木の葉は皆真っ赤に括り染めにしよ

    うとして、真っ白な霜の跡に置き、一層際だたせていることだ」と

    現代語訳している。

    また他に、この歌には以下の異文も確認される。

      

    樹紅霜更置

    木の葉みな唐紅にしぐるとて霜のさらにも置きまさるかな

    (千里・五〇)

    木の葉みな唐紅につくるとて霜のさらにも置きまさるかな

    (赤人・七三)

    第一次資料の『千里集』が掲げる句題「樹紅霜更置」との整合性

    を重視すれば、第四句は「霜のさらにも」であった可能性が高いと

    も考えられよう。とすれば、「霜のあやにも」と引用する真淵の本

    文や、「括り染めと綾が響き合っている」という解釈は成り立たな

    くなる。

    また、この歌を「水くくる」の類例と捉える上で、第三句にも異

    同が見えることはより大きな問題である。大谷雅夫氏は、『千里集』

    『赤人集』の第三句について、「「つくる」「しぐる」では意味が通ら

    ない。元来は「くくる」であったに違いない」と論じている。しか

    し、これらを「意味が通らない」と断じてしまうのは、あまりにも

    早計ではないだろうか。

    確かに「つくる」の場合、解釈が難しいことは否めない。だが、「し

    ぐる」の場合は、「時雨が木の葉の色づきを促して」の意と見るこ

    とができよう。『千里集全釈』においても、この第三句を校訂する

    ことなく、「木の葉の紅葉が時雨によって皆深い紅色になり」と現

    代語訳している。

    以下に平安前期の例から三首ほど挙げるが、秋の草木と時雨を一

    首に詠み込み、時雨が木々を紅葉させると表現する歌は枚挙にいと

    まがない。

      

    もる山のほとりにてよめる

    白露も時雨もいたくもる山は下葉残らず色づきにけり

    (古今・秋下・二六〇

    貫之)

      

    散る紅葉

    風に散る紅葉の色は神無月唐紅のしぐれこそすれ

    (躬恒・一三九)

    しぐるれば色まさりけり奥山の紅葉の錦濡れば濡れなん

    (清正・三五)

    『千里集』の「唐紅にしぐる」という表現は、やや言葉足らずの

    感があるが、同時代の和歌表現によって歌意を補完しつつ解釈する

    ことは可能だろう。よって、「「しぐる」では意味が通らない」とし、

    「くくるとて」が本来的だと、安易に決定づけることはできないの

    である。

    以上、真淵は『古今六帖』の例について、「此歌くぐるにあらぬ

    証は、水と云詞も見えず、よてくくり染てふことをよめると思定む

    べし」と述べているが、そもそもこの歌の本来の形が「唐紅にくく

    るとて」であった確証がない。この歌の本文には多くの揺れがあり、

    本来的な形を容易に見定めることができない。つまりこの歌は、「水

    くくる」説の証左とするには非常に心許ない例なのである。

    では次に、二首目の在原友于による「時雨には竜田の河も染みに

    けり唐紅に木の葉くくれば」を検討したい。友于は業平の甥であり、

    (13)

    (14)

    (15)

    (16)

    ( 13 )

    水は括られたのか

  • 詠みぶりから当該歌に強い影響を受けたと察せられるため、この歌

    の解釈は重要である。

    真淵はここでも、「是も上に染にけりと云て、下にくくり染を聞

    せたり」と述べ、上句の「染」と下句の「くくれば」が、染織で関

    連づけられていると説明している。確かに平安期には、

    神無月時雨に染めて紅葉ばを錦におれる神奈備の森

    (貫之・五一七)

    見る毎に秋にもあるかな竜田姫紅葉染むとや山もきるらん

    (友則・二七)

    紅にちしほや染めし山姫の紅葉がさねの衣手の森

    (俊成女・一一七)

    など、木々が色づくことを「染む」と表現し、染織や衣服に関わる

    ものを詠み合わせる歌は少なくない。しかし、そのような例ばかり

    ではなく、以下に挙げるように、「染む」を「色づく」「もみぢす」

    などとほぼ同義で用いている場合も多い。よって、この点をもって

    「水くくる」説を肯定するのは難しいだろう。

      

    秋の歌とて詠める

    雨降れど露ももらじを笠取の山はいかでか紅葉染めけむ

    (古今・秋下・二六一 在原元方)

      

    正月檀の紅葉につけて、大納言

    時雨をば待ちもつけでや山の葉のおのれまだきに紅葉染めけむ

    (中務・一六〇)

      

    秋、滝のもとにゐて、紅葉を見はべり

    流れくる滝は時雨の雨なれや積もる紅葉の色を染むらむ

    (能宣・二七)

    そして、この歌の解釈という点でも、真淵の説には従いがたい。

    おそらく、友于が「竜田の河も0染みにけり」と詠んだのは、「時雨

    によって木の葉が紅に染まり、それが散り流れると竜田河も0染ま

    る」という歌の筋立てによるものだろう。ならば、この歌は「木の

    葉くぐれば」とした方が自然ではないだろうか。実際、前掲した顕

    昭『古今集註』や『顕注密勘』などにも、友于の歌は「水くぐる」

    に類する例として挙げられている。つまり、「水くぐる」と読んで

    も何ら問題がなく、むしろその方が歌意からして自然だと思われる

    友于の歌も、「水くくる」説の確証とは見なせないのである。

    五 

    漢籍の影響に関する問題、主語の問題

    ここまで、真淵が自説の論拠として挙げた二首は、証歌としては

    心許なく、これによって「水くくる」説を是とはしがたいことを述

    べてきた。では次に、現代の論考や注釈の中で指摘されている日中

    漢詩文の影響について、および「水くくる」説を採った場合の主語

    の問題についても、再検討しておきたい。

    竹岡正夫氏は、『千載佳句』などが収める白居易「泛太湖書事寄

    微之」の一節、「黄纐纈林寒有葉 

    碧瑠璃水浄無風」を挙げ、業平

    の歌を「その和歌版と言えよう」と論じている。つまり、紅葉を括

    り染めに喩える表現は、「黄纐纈林」のような漢籍の表現に着想を

    得たものと捉えたのである。そして久保瑞代氏は、竹岡氏の注釈を

    受け、白居易の詩句だけではなく、『全唐詩』に見える薛濤「海棠渓」

    の、「人世不思霊卉異 

    競将紅纈染軽沙」など、日中漢詩文の影響

    を広く考慮すべきだと論じた。大谷雅夫氏も、久保氏と同様に、島

    (17)(

    18)

    (19)

    ( 14 )

    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • 田忠臣「禁中瞿麦詩三十韻」の「乍訝簪投地 

    那知纈曝場」(『田氏

    家集』下巻)などといった表現も、自然の景色が括り染めに喩えら

    れた例として目をとめるべきだとしている。これらの論は、「水く

    くる」説が定説化していく上での、有力な補強材料になったと推察

    される。

    竹岡氏、久保氏、大谷氏の論が示すように、確かに日中漢詩文に

    は、花や紅葉を括り染めに喩える例が確認される。しかし、特に久

    保氏、大谷氏が挙げている例の多くは、紅葉ではなく花の表現であ

    る。それらの影響を全く視野に入れられないわけではないが、やは

    り秋景を詠む当該歌とは、やや関連性が薄いと言わざるをえない。

    さらに、日中漢詩文に、山野ではなく、水面に浮かぶ紅葉や花を括

    り染めに見立てた例も、管見の限り確認することができない。この

    ことも、当該歌が本当に漢籍の影響を受け、紅葉を括り染めに見立

    てたのかどうかを判断する上で、不利に感じられる点である。

    加えて、真淵の二首の証歌について再検討し、「これらを「水く

    くる」の類例とは断じられない」という結論に至った今、少なくと

    も平安中期頃までの和歌には、花や紅葉を括り染めに見立てた例を

    挙げることができない。これほど例が見当たらなければ、「黄纐纈

    林」等の表現は、和歌には摂取されにくかったと考えた方が穏当で

    はないだろうか。

    また他に、新潮日本古典集成『古今和歌集』が指摘する主語の問

    題も看過することはできない。当該歌を「水くくる」と読んだ場合、

    受動(「括り染めにされる))ではなく能動(「括り染めにする」)として、

    主語を定める必要がある。しかし、この主語の確定が非常に困難な

    のである。

    例えば、竹岡正夫氏、片桐洋一氏らは「竜田河が、深紅の色に水

    をくくり染めにするとは」など、竜田河を主語としている。確かに

    歌の構成要素を考えた場合、主語に置くことができそうなのは竜田

    河以外にないが、神格化された竜田姫などならばともかく、川の擬

    人化と見て訳出するのは少々無理があるだろう。金子元臣氏や新編

    日本古典文学全集『古今和歌集』では、下句を単に「竜田河の水を

    韓紅色に絞り染めにするとは」などとして主語を示していない。こ

    れらの訳からは、竜田河を主語としがたい苦しさが読み取れる。

    一方、当該歌を「水くぐる」と読んだ場合には、主語の問題は生

    じない。無論、その点だけで「水くぐる」と読むのが妥当と結論づ

    けることはできないが、真淵の説を考える上で、従来この点が深慮

    されなかったのは、注釈史のひとつの問題だろう。

    以上、真淵の説の蓋然性について、改めて検討してきた。近世中

    期に突如呈された「水くくる」説を支持するには相応の根拠が必要

    だが、ここまでの検討では、確かな根拠を見出すことができなかっ

    た。逆に、「水くくる」説を積極的には受け容れられない理由とし

    ては、二首の証歌の不確かさや、漢籍表現の摂取という説への疑念、

    主語が不確定という問題が挙げられる。そうであるならば、より早

    い時代の人々が疑いなく継承してきた「水くぐる」説を軽視するこ

    とは、やはりできない。少なくとも、「水くくる」がほぼ定説化し

    ている現状は、見直されるべきではないだろうか。

    六 「水くくる」説の出現と括り染めの隆盛

    さて、真淵の説は、確認してきたような不確かさを孕みながら、

    (20)

    (21)

    ( 15 )

    水は括られたのか

  • なぜ近世中期以降広く支持されてきたのだろうか。そもそも、なぜ

    当該歌が詠まれて何世紀も経った時期に、突如「水くくる」説が現

    れたのか。以下、その要因の一端を探るべく、括り染めの社会的位

    置づけの変遷に注目する。江戸期以降の括り染めの価値の向上が、

    「水くくる」説の出現と浸透に影響しているのではないかと考える

    ためである。また、括り染めの時代的・社会的趨勢を見ることは、

    当該歌の清濁問題を考える一材料にもなるだろう。

    ではまず、日本の染織史における括り染めの流行の変遷について

    概説した、江馬務氏の論を引用することから始めたい。

    絞り染めの流行の状態を日本服飾史上から打算し、若し数字を

    以て表示するならば、上古一、奈良朝三、藤原時代二、鎌倉時

    代より室町時代三、桃山時代四、江戸時代初期四、中期五、後

    期六、明治以後四といふやうな割合の帰結になりはしまいか。

    江馬氏は括り染めの流行度合を、右のような数値で表した。これ

    によれば、括り染めは奈良時代から鎌倉・室町時代あたりまでは、

    あまり人々の関心を集めるものではなく、桃山時代から徐々に流行

    し始め、江戸中期から後期に最盛期を迎えている。江馬氏はこのよ

    うに論じる理由を、おおよそ以下のようにまとめている。

    ・ 

    奈良時代には、夾纈・﨟纈・纐纈の三つの技法による遺品

    が確認されている。これを天平の三纈と呼ぶ。主に仏具や、

    宮廷女官の装束に用いられていた。

    ・ �

    平安時代には、夾纈と﨟纈は行われなくなり、以後、鎌倉

    期までは技術も人々の関心もやや停滞する。

    ・ �

    室町後期から安土桃山時代にかけ、「辻が花染め」が流行。

    ・ �

    江戸時代初期、京鹿の子の小袖が非常に流行し、江戸中

    期・後期に向け、括り染めは最盛期に向かう。

    この概説を踏まえ、以下、染織史において括り染めが辿った価値

    変化の流れを、今少し詳しく見ていきたい。

    まず奈良時代については、括り染めに関して詳述した文献は確認

    できないものの、正倉院に多くの裂が納められている。いずれも単

    純な図案で技術的にも拙いが、所蔵される多量の遺品は、当時の

    人々の関心を窺わせる。しかし安藤宏子氏は、「絞り染めは、他の

    染織物の裏地として用いられる程度のもので、奈良時代の染織の中

    での位置は低いものであった」と論じている。つまり、豊富な遺品

    などから関心の高さは看取できるものの、使用される場や対象か

    ら、染織品、服飾品としての価値は低かったと捉えているのである。

    続く平安期、中でも特に貴族の間では、前時代に比して括り染め

    への関心そのものが薄かった。遠藤靖夫氏は、この点について以下

    のように論じている。

    平安時代中期以後には「天平の三纈」のうち、纐纈を除いて

    﨟纈と夾纈は姿を消してしまった。それというのも貴族社会に

    織物を好む傾向が生じてきたためで、染物の中心は地紋のある

    「綾」を単色で後染めしたものだった。しかし、圧倒的に織物

    が多かったのである。

    そうしたなかにあって、纐纈だけが絞り染めとして残ったの

    は技術がもっとも簡単であり、しかも麻布に染めることができ

    たからだ。このため、庶民の間で盛んに行われるようになった

    のである。

    また安藤宏子氏も同様に、平安の貴族社会では織物が貴重視さ

    れ、括り染めをはじめとした染め物は、下層階級の衣服などに多く

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    (25)

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    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • 見られるとしている。

    平安時代において、括り染めは珍重されるものではなかったとい

    う遠藤・安藤両氏の説は、以下に挙げるような平安期の文献によっ

    て裏付けることができる。

    『西宮記』臨時四 女装束

    采女、纐纈唐衣、比礼、同裳簪如常、旬日、及尋常、青麹塵唐

    衣、裳、比礼等也

    執はとり翳、摺唐衣、比礼、目染裳、簪如常

    藤原資房『春記』(《 》内は割注)

    長暦三年十一月七日甲午、今日初御《○後朱雀》南殿(中略)

    女房八人在御後、《今日内侍已下不簪只著目染裳是例事也》

    『西宮記』は、采女や執翳の女嬬といった、決して身分が高くは

    ない女官たちの装束に、括り染めを施すと記している。また、『春記』

    には、天皇に侍す女房たちの裳の模様として、括り染めが記されて

    いる。

    他に、『大和物語』『源氏物語』といった物語作品にも、「めとり

    くくり」「くくりもの」と、括り染めについて記した箇所がある。

    『大和物語』第六九段

    忠文が陸奥の国の将軍になりて下りける時、それがむすこなり

    ける人を、監の命婦、しのびてあひ語らひけり。うまのはなむ

    けに、めとりくくりの狩衣・袿・幣などやりたりける。

    『源氏物語』関屋巻

    長月晦日なれば、紅葉のいろいろこきまぜ、霜枯れの草むらむ

    らをかしう見えわたるに、関屋よりさとはづれ出でたる旅姿ど

    もの、いろいろの襖のつきづきし縫物、括り染めのさまもさる

    方にをかしう見ゆ。

    これらは、地方官に贈る狩衣や、旅路での着衣といった、比較的

    質素な日常着に括り染めが施されていると分かる例である。

    以上のような有職書や漢文日記、物語類の記述から、平安時代に

    おいて主に括り染めが用いられるのは、女官装束の一部や、野外な

    どでの簡素な装いであることを確認できる。特に関屋巻の「さる方

    にをかしう見ゆ」という一文からは、括り染めは旅路などで見れば

    こそ趣深いもので、上流貴族が日常生活の中で愛好する類のもので

    はなかったことが察せられる。

    そして、このような括り染めの位置づけは、室町末期頃までは大

    きく変化していない。しかし江戸期には、非常に人気が高く、豪華

    な打掛などにも施されるものとなっていた。以下、中世から近世期

    の括り染めに関して記された、安藤宏子氏の論を要約する。

    ・ 

    小袖の地位向上に伴い、小袖の主要な文様であった括り染

    めが次第に注目されはじめた。染織史は「織の時代」から

    「染の時代」へ移行する。

    ・ �

    室町末期から安土・桃山時代にかけて開花した「辻が花染

    め」は多色の括り染めを特徴とし、描絵、刺繍などを附加

    した豪華なものとなっていった。

    ・ �

    江戸時代に入ると、絹を主体とした高級染織「京鹿の子」

    と、藍染めの木綿に絞った庶民的な「地方絞り」が流行し

    た。

    このように、室町末期以降、徐々に括り染めの価値が向上し、江

    戸期には貴重性・大衆性ともに大きく前進したと考えられている。

    以上、日本の染織史研究の成果を踏まえ、鎌倉・室町期以前の括

    (26)

    (27)

    (28)

    (29)

    ( 17 )

    水は括られたのか

  • り染めへの関心や価値意識の低さと、桃山時代、さらに江戸時代以

    降の隆盛を確認してきた。この流れに「水くくる」説の提唱を照ら

    し合わせると、この説が括り染め最流行期に現れたことが分かる。

    その時期的な一致を単なる偶然と見るのではなく、括り染めの貴重

    性・大衆性の変化に、注釈が間接的な影響を受けたと考えることは

    できないだろうか。以下、寛文年間以降に多く刊行された小袖雛形

    本から竜田河の意匠を数例掲出し、この考えを深めていきたい。

    さて、次の図は、寛文七(一六六七)年に刊行された『新撰御ひ

    いなかた

    上』に収載された図案である。

    小袖の左に「たつた川のもやう」と記され、右肩から裾にかけて

    流水と紅葉が描かれている。注目したいのは、描かれた紅葉の内の

    二枚に鹿の子絞りが施されていることである。

    また、次の図は、上が延宝五(一六七八)年刊行『新板小袖御ひ

    いなかた』、下が天和四(一六八四)年刊行『当風御ひいなかた』に

    見える竜田河の図案である。

    上図は右肩から袖にかけて流水と紅葉が描かれ、背と裾に「龍田」

    の文字が配されている。右端に「地くろべに

    縫かのこ

    うわへ」と

    記され、これは「地色は黒紅とし、鹿の子模様を縫いとり、上絵を

    描く」という指示書きである。下図にも、「綸子

    地あさぎに

    たつ

    た川にもみぢ

    水白く

    ふちを金ばくにてくくり

    もみぢを紅かのこし

    (以下略)」などと記されている。これは「生地は綸子、地色は浅葱、

    竜田河と紅葉を描き、水は白、縁を金箔で括り、紅葉は紅鹿の子」

    という指示である。

    以上の例はほんの一部だが、括り染めが最盛期へと向かいつつあ

    る近世前期、竜田河が意匠化される際に、括り模様が用いられる図

    案例は少なくない。また、竜田河を表現する小袖図案の中に、指示

    書きとして、「くくる」「かのこ」といった語が散見することにも目

    をとめておきたい。

    では更に、これらと同時期に刊行された、『百人一首』をモチー

    フとした小袖雛形本も見ていきたい。なお、佐藤了子氏は、このよ

    うな文学意匠の染織品や文献資料が豊富に見られるようになるの

    は、江戸時代以降と論じている。

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    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • 次の図は、上は貞享五(一六八八)年刊行『拾遺雛形』、下は元禄

    二(一六八九)年刊行『色紙御雛形』から引用した、当該歌の意匠

    である。

    上図は、肩に山の木々と紅葉、袖から裾にかけて流水と紅葉が描

    かれ、「龍多河」の文字が配されている。また下図は、袖と背に流水、

    紅葉、枕屛風が描かれている。

    このような例から、当該歌を意匠化する際には、前掲した竜田河

    の場合と同じく、主に流水と紅葉が描かれる場合が多かったと察せ

    られる。この二図の紅葉には、括り染めの模様は描かれず、指示書

    き等もない。しかし、前の竜田河の雛形の場合から察するに、仮に

    実作の機会があれば、模様に絞りが用いられた可能性は十分に考え

    られるだろう。そのことは、次に挙げる実作例からも推察される。

    次の小袖は十八世紀に製作されたものである。上部に紅葉と枝、

    下部に流水と紅葉が描かれている。前掲した『拾遺雛形』の絵柄に

    通じ、仮に和歌に引きつければ当該歌が想起されよう。そしてやは

    り、下に拡大した背の部分などに見えるように、所々の紅葉に鹿の

    子絞りが施されている。

    以上のように、真淵の活躍期である十八世紀頃には、括り染めは

    広く世の中に普及していた。竜田河をモチーフとした小袖雛形に、

    括り染めが描かれる場合も多い。人々は、それを日常的に目にする

    機会があったのである。だからこそ、真淵は当該歌を「括り染めの

    見立て」と発想することができ、同時代、後代の人々も、それを肯

    定的に受け止められたのではないだろうか。無論、真淵の説に直接

    的に影響を及ぼしたと断じられる雛形本等の文献が確認できない以

    上、この考えは推測の域を出で得ない。しかし、「水くくる」説が

    現れた時期と、括り染めの価値・大衆性の向上、さらには小袖雛形

    本の流行、文学意匠の隆盛が、まさに軌を一にしているのも事実で

    ある。

    そして反対に、鎌倉・室町期以前の人々は、未だ括り染めに対す

    る馴染みや価値意識が薄く、文学意匠に括り染めが用いられる様子

    を目の当たりにする機会も、ほとんどなかったのではないかと考え

    られる。すなわち、「水くくる」説を唱える環境や感覚が乏しかっ

    たのである。

    (32)

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    水は括られたのか

  • では、さらに遡り、業平自身は「紅葉を括り染めに喩える」とい

    う趣向を発想し得ただろうか。仮に発想したとしても、それを二条

    后の屛風の料として詠むだろうか。その可能性は、極めて低いと考

    えられるのではないか。

    「水くくる」説を採るためには、屛風に描かれた壮麗な秋景を、

    当時としては比較的質素な括り染めに喩える意図が説明されなくて

    はならない。当該歌は、「豪華絢爛な情景」「華やかな表現」などと

    評されることも多いが、平安期において、括り染めは決して豪華絢

    爛なものではなかったのである。

    平安期における括り染めが、高雅で華やいだ印象をもたらすもの

    ではなかったとしても、和歌に詠まれる可能性が全くないわけでは

    ない。しかし、この歌が呈されたのは、二条后の屛風の料という晴

    の場である。加えて、仮にこの歌を「水くくる」と詠むと、紅葉を

    括り染めに見なした見立て歌、ということになる。この点からして

    も、当時の括り染めの価値の低さは問題となるのではないだろう

    か。鈴

    木宏子氏は、「見立て」という修辞について、「AをBに見立て

    る場合、実在するAだけではなく、ことばによって描き出された非

    実在のBのイメージも、同じだけの重みをもって働きかけてくる」

    と解説している。この点を裏返すと、和歌の詠み手や享受者が、A

    とBに対して同等の価値観や美意識、情緒を感じられることが、歌

    材選定の前提条件となるのではないだろうか。

    平安朝和歌において、秋の美景を象徴する紅葉と、錦の見立てが

    常套表現として広く浸透したのも、(漢詩文による影響は無論だが、)唐

    錦を代表とする織物を平安貴族が愛好し、珍重していたからに他な

    らない。対して平安当時の括り染めは、紅葉の見立てとし得るよう

    な美的価値を感じさせるものだったとは考えられない。だからこ

    そ、括り染めの価値の低さは、「水くくる」説を是としがたい理由

    のひとつと考えるのである。

    七 「水くぐる」で読む業平の歌

    ここまでの検討では、業平が竜田河の紅葉を括り染めに見立てた

    と考える積極的な根拠を見出すことができなかった。反対に、近世

    中期に突如「水くくる」説が唱えられ、世に容れられた理由は、括

    り染めの価値の変遷に照らし合わせてある程度納得することができ

    る。では、当該歌の本来の形を「水くぐる」と措定した場合、それ

    をどう解釈するのが妥当なのだろうか。以下、この点について試案

    を示したい。

    ここで再度振り返りたいのは、本稿の前半に挙げた『顕注密勘』

    である。同書では「唐紅に水くぐる」を、「紅葉の下を水が潜りぬ

    ける」とすべきか、「紅葉が流れる竜田河を「紅の水」に見なした」

    とすべきか、逡巡する様子が見て取れた。以後の古注釈の多くは前

    者で解釈しているが、後者を支持するものも、少数ながら確認でき

    る。例えば、『毘沙門堂本古今集註』は「河水に紅葉流れて水の唐

    紅とは聞かずと云なり」とし、『後水尾院御講釈百人一首鈔』は「立

    田川に唐紅の水潜る事はなしと也」と記している。また、細川幽斎

    『百人一首幽斎抄』では、「業平歌は紅葉の散つみたるを、紅の水に

    なして立田川の紅の水の潜る事は昔も聞かずと也」と述べている。

    この二案のどちらがより穏当な解釈かを考える上で、検討すべき

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    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • なのは、「唐紅に」の「に」と、「くぐる」の捉え方だろう。

    一点目の「に」について、野中春水氏は、次の平安前期の「唐紅

    に」の例が、いずれも下に続く語を修飾していることから、「紅葉

    の下を」と解すのは無理があると論じている。

    白玉と見えし涙も年ふれば唐紅にうつろひにけり

    (古今・恋二・五九九

    貫之)

    いかばかり物思ふ時の涙川唐紅に袖のそむらむ

    (古今六帖・二〇八三「涙川」)

    神無月紅葉の時はやまとにて唐紅に見ゆる佐保山

    (躬恒・四九)

    野中氏が挙げた例の他に、以下のような「紅に」の例にも目をと

    めておきたい。

    紅に涙うつると聞きしをばなどいつはりと我思ひけむ

    (伊勢・二八一)

      

    水上落葉

    水上に紅葉散るらし神南備の岩瀬のさ波紅に立つ

    (散木・五八九)

    これらもそれぞれ、「紅色に変わる」「紅色に立つ」と解釈される

    ものである。また、『源氏物語』総角巻の薫の哀傷歌に、紅の涙を

    詠んだ、「紅に落つる涙も甲斐なきはかたみの色を染めぬなりけり」

    がある。最愛の大君の死後、喪服を着られない我が身を嘆き、「紅

    色に落ちる涙も、墨染色を染めないのでは甲斐がない」と詠ったの

    である。

    以上のような例を参考とし、加えて、「紅」という語だけで紅葉

    を表している例が容易に見出せないことなども考え合わせると、

    「唐紅に」の「に」を「動作や状態が生じる場所」を表す格助詞と

    捉えるのは難しいと思われる。「桐の木の花、紫に咲きたるはなほ

    をかしきに」(『枕草子』「木の花は」)などの場合と同様に、「動作・作

    用の行われ方、その状態のあり方を」表す格助詞と考えるのが穏当

    ではないだろうか。よってここでは、当該歌の「唐紅に水くぐる」

    を、「深紅の水がくぐる」、すなわち、多くの紅葉が流れる様子を紅

    の水と見なしたのだと捉えたい。

    また、二点目の「くぐる」は、平安中期頃までの用例から察する

    に、「潜る」ではなく、単に「流れる」と解すべきではないだろうか。

    『類聚名義抄』には、「クゝル」に対して、「水流貌」と記されており、

    また、上代から平安期の和歌用例からも、その解釈が穏当と感じら

    れる。

    まず上代の例から見ていくと、『万葉集』には(上代では「くくる」

    と清音)用例自体が少ないが、次の二例が挙げられる。

    しきたへの枕ゆくくる涙にそ浮き寝をしける恋の繁きに

    (巻四・五〇七

    駿河采女)

    水くくる玉に交じれる磯貝の片恋のみに年は経につつ

    (巻十一・二七九六

    読人不知)

    一首目は「涙が枕を漏れ流れる」の意であり、二首目は「水底に

    沈む玉」の意ととれる。つまり『万葉集』では、「流れる」「潜る」

    のいずれの意味での使用も認められるということになる。

    しかし、平安期和歌の「くぐる」は、「岩」「石」の語を伴い、水

    がその合間を縫って流れる様子を表現する例が圧倒的に多い。

    岩くぐる山井の水を掬びあげて誰がため惜しき命とか知る

    (伊勢・四二四)

    (38)

    ( 21 )

    水は括られたのか

  • せき河の石間をくぐる水を浅みたえぬべくのみ見ゆる心を

    (元良・一三四)

    春霞たつや遅きと山河の岩間をくぐる音聞こゆなり

    (和泉式部・一)

    岩くぐる滝の上辺は凍るとも轟き落ちんほどはたえせじ

    (散木奇歌・一〇四七)

    ただし、平安前期から中期頃には次のような歌もあり、「潜る」

    の意で使用された「くぐる」の例とする見解も予想される。

    あしひきの山下水の下くぐり行くほどしらぬ恋もするかな

    (古今六帖・「水」・一四五四

    よみ人しらず)

      

    下くぐる水に秋こそ通ふらし掬ぶ泉の手さへ涼しき

    (中務(書陵部本)・五五)

      

    於源亜相六条水閣、対泉忘夏

    下くぐる岩間の水のあたりには扇の風をかる人もなし

    (家経・一〇〇)

    しかし、これらの例は全て「下」の語を伴い、「潜る」というよ

    りも、「地下や水底を流れる」という意識で「くぐる」が使用され

    ていると見るべきではないだろうか。

    確実に「潜る」と解釈できる「くぐる」の例は、

    下にのみ鳰の通ひのみなくぐり入りぬる磯はみらく少なし

    (新撰六帖・「鳰」・九四四

    よみ人しらず)

    鴛鴦もくぐる岩根の薄氷今朝や上毛にとぢかさぬらん

    (永久百首・三九五

    忠房)

    など、水鳥の様子を詠む場合が大半で、しかもこうした用例が散見

    されるようになるのは、平安後期以降である。

    また、前の『万葉集』の一例を含めて、「くぐる」を「潜る」の

    意で用いているのは、「水に0何かが潜る」場合で、「水が0何かの下を

    潜る」と表現した例は、少なくとも平安中期頃までには、管見の限

    り確認しがたい。平安後期以降鎌倉期に、

      

    建久五年夏左大将家歌合、竜田河夏

    夕暮は山蔭涼し竜田河緑の影をくぐる白浪

    (拾遺愚草下・二二二二)

    冬河の氷をくぐる岩波の下むせぶとも人はしらじな

    (隣女・六一六)

    などがあるが、それらは大方、当該歌を「紅葉の下に水が潜る」と

    解釈した上での本歌取り、または「氷の下の水」を詠むものである。

    このように見てくると、平安期の和歌において、「くぐる」は大

    方「流れる」の意で詠まれ、特に用例の多さから察するに、「岩や

    石の間を縫って水が流れる様子」を想起させる語だと考えられる。

    当該歌には、石や岩が詠みこまれていないが、これが屛風歌である

    ことを勘案すると、画中の竜田河が岩間を蛇行する様を表現した

    か、などと想像される。

    以上、一点目の「に」、二点目の「くぐる」の検討を踏まえ、本

    稿では試みに、当該歌を「神代にも聞いたことがない。竜田河に深

    紅の水が(岩間をすり抜けて)流れるとは」と解釈したい。

    八 

    おわりに

    おそらく、近世後期以降、真淵説が広く支持されたのは、その解

    ( 22 )

    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • 釈が「ちはやぶる神代も聞かず」と大仰に詠み出される当該歌にふ

    さわしいと考えられたためでもあるだろう。他に用例が乏しい「水

    くくる」という表現の斬新さも、「放縦不拘」と評された業平であ

    ればこそ、似つかわしく感じられたのかもしれない。

    それに対して、当該歌を「深紅の水が流れる」と捉えた場合、平

    安前期には類似した発想の歌が多数見受けられる。

    紅葉ばの流るる時は白波の立ちにし名こそかはるべらなれ

    (貫之・二六五)

    紅葉ばの流るる滝は紅に染めたる糸を繰るかとぞみる

    (忠岑・三三)

    竜田河色紅になりにけり山の紅葉ぞ今は散るらし

    (後撰・秋下・四一三

    よみ人しらず)

      

    大井の戸無瀬に、紅葉の流るるを見て

    水上に紅葉散るらし風をいたみ唐紅の波高く見ゆ

    (高遠・一四八)

    また、本稿の冒頭に掲出した、同時屛風詠である素性の歌も、「紅

    深き波や立つらむ」と、水門に留まる紅葉を深紅の波と表現してい

    る。つまり、本稿が呈した試訳は、当該歌が発想としては平安前期

    において常套的であることを示した解釈ということになる。

    「平安前期において常套的」な試訳は、「ちはやぶる神代も聞かず」

    と大胆に詠み出される和歌の解釈として、違和感を覚えるという見

    解も予想される。しかしここで注意したいのは、素性や業平の歌は、

    紅葉を紅の水(紅の波)に見なした、時代的に早い例と位置づけら

    れることである。つまり、六歌仙時代あたりに生み出された表現が、

    以後の歌人たちに引き継がれ、広く浸透していったものと考えられ

    る。こ

    の点を勘案すると、「紅葉を紅の水に見立てる表現」は、六歌

    仙時代においては、かなり新奇なものだったと推測される。よって

    本稿が示した試訳も、業平の時代においては、外連味に満ちた上句

    「神代も聞かず」を受けるにふさわしい、目新しい詠みぶりと見る

    ことができるのである。

    資料出典

    ※ 

    いずれの資料も引用に際し、読解の便宜上、一部私に表記を改

    め、句読点、傍線、鍵括弧等を施した。

    ・ 

    『万葉集』を除く和歌の引用は、すべて新編国歌大観CD―R

    OMによる。

    ・ �

    新編日本古典文学全集『万葉集』

    ・ �

    顕昭『古今集註』(国文学研究資料館マイクロフィルム20-

    253-

    10(書

    陵部蔵本))

    ・ �『顕註密勘』(『日本古典文学影印叢刊22』財団法人日本古典文学会、一

    九八七年。底本は中央大学図書館本)

    ・ �

    武井和人・木下美佳編『一条兼良筆伊勢物語愚見抄影印・翻

    刻・研究』(笠間書院二〇一一年)

    ・ �

    片桐洋一、山本登朗編集『伊勢物語古注釈大成

    第一巻、第三巻』

    (笠間書院二〇〇四年)

    ・ �大坪利絹編『百人一首拾穂抄』(百人一首注釈書叢刊9、和泉書院一

    九九五年)

    ( 23 )

    水は括られたのか

  • ・ �『百人一首うひまなび』(『賀茂真淵全集』続群書類従完成会)

    ・ �

    今西祐一郎氏校注『古今集遠鏡』(平凡社二〇〇八年)

    ・ �滝沢貞夫校訂解説『古今和歌集正義』(勉誠社一九七八年)

    ・ �大久保利絹編『百人一首異見 

    百人一首要解』(百人一首注釈書

    叢刊19、和泉書院一九九九年)

    ・ �

    鈴木健一・鈴木淳編 

    百人一首注釈書叢刊10『百人一首三奥抄 

    百人一首改観抄』(和泉書院一九九五年)

    ・ �

    新訂増補故実叢書『西宮記』(明治図書出版、一九五二年)

    ・ �

    増補史料大成『春記 

    春記脱漏及補遺』(臨川書店、一九七五年)

    ・ �

    小学館

    新編日本古典文学全集『大和物語』『源氏物語』

    ・ �

    荒木尚編 『百人一首三注・百人一首(幽斎抄)』(百人一首注釈書

    叢刊3、和泉書院一九九一年)

    (1)『伊勢物語』百六段では、逍遥の際の詠とされている。

    (2)

    当該歌の問題点に関する論考は枚挙にいとまがないが、特に近年では、

    吉海直人氏によって論じられた初句の清濁問題などが注目される(「「ち

    はやぶる」幻想―清濁をめぐって―」(『同志社女子大学大学院 文学研

    究科紀要』第一七号、二〇一七年三月)」)。「初句は「ちはやふる」と

    読むべき」という吉海氏の見解は傾聴すべきだが、本稿ではひとまず

    国歌大観CD―ROMに従い、濁音で本文を掲出した。

    (3)

    野中春水氏「異釋による本歌取―「水くくる」をめぐって―」(『神戸

    大学国語国文学会

    国文論叢』第三号、一九五四年一一月)、小町谷照彦

    氏「古今和歌集評釈・二百三十九 

    名編の新しい評釈 

    龍田川唐紅に

    水くくるとは」(『国文学

    解釈と教材の研究』第四七巻一四号、二〇〇

    二年一二月)など。

    (4) 『古今和歌集打聴』にも、同様の見解を記している。

    (5)

    金子元臣氏『古今和歌集評釋』(明治書院、一九二七年)、窪田空穂氏『古

    今和歌集評釈』(『窪田空穂全集第二〇巻』所収、角川書店、一九六五年)

    など。

    (6) 「水くくる」説を採る現代の注釈は枚挙にいとまがない。数例を挙げれ

    ば、前掲注3の野中氏、小町谷氏の論、片桐洋一氏『古今和歌集全評釈』

    (講談社、一九九八年)など。竹岡正夫氏『古今和歌集全評釈

    古注七種

    集成』(右文書院、一九七六年)は、「水くぐる」説が正しい解釈であ

    るかもしれないという疑念も示しているが、注釈全体としては「水く

    くる」説を採っている。

    (7)

    奥村恒哉校注『新潮日本古典集成

    古今和歌集』(新潮社、一九七八年)。

    (8)

    長谷川哲夫氏『百人一首私注』(風間書房、二〇一五年)。他に、島津

    忠夫氏『新板百人一首』(角川ソフィア文庫、一九九九年)、吉海直人

    氏『百人一首の新研究―定家の再解釈論―』(和泉書院、二〇〇一年)

    『百人一首への招待』(『別冊太陽』、平凡社、二〇一三年)などでは、『百

    人一首』の歌としては定家の解釈を尊重すべきとし、「水くぐる」で本

    文を呈している。

    (9)

    以下に挙げる本歌取りの例の内、『正治後度百首』『林葉累塵』の歌以

    外は、新編国歌大観CD―ROMでは「くくる」と表記されている。

    しかし歌意から見て、「くぐる」とすべきだろう。本歌取りの清濁問題

    は、すでに前掲注3野中氏論に指摘がある。

    (10) ただし、近世中期以降は本歌取り例自体が非常に少ない。

    (11) 大谷雅夫氏(「唐紅に水くくるとは―業平の和魂漢才―」(『京都大学

    ( 24 )

    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)

  • 文學論叢』第一七号、二〇〇七年三月))は、千里、友于の歌だけが類

    似の例であることを確認し、「この二首の類作の他は、空前絶後の表現」

    と論じている。ただし、平安末期の「紅葉よる網代の布の色染めてひ

    をくくりとは見えぬなりけり」(山家・五〇四)には注意したい。この

    「ひをくくり」、を『和歌文学大系

    山家集』(明治書院、二〇〇三年)で

    は「緋を括り」と「氷魚括り」の掛詞と解釈している。本稿が主眼と

    する検討には直接関わらないが、平安期に括り染めが詠まれた可能性

    のある例として、別稿にて論じたい。

    (12)

    前掲注8長谷川氏私注でも、『古今六帖』の歌に異文があることから、

    本文の信頼性に疑念を呈している。

    (13)

    古今和歌六帖輪読会(代表 平野由紀子氏)『古今六帖全注釈

    第一帖』(お

    茶の水女子大学E―BOOKサービス、二〇一三年)。ただし、解釈が

    不可能という程ではないものの、この『古今六帖』本文にも、何らか

    の不備が疑われる。「霜のあと」と言えば、「霜の上に跡踏みとむる浜

    千鳥行方もなしとなきのみぞする」(興風・三九)、「通ひこし宿の道芝

    かれがれに跡なき霜のむすぼほれつつ」(俊成女・二〇五)など、霜の

    上に残る人の足跡や動植物の形跡を指す場合が多く、他の用例を見る

    限り、「霜の痕跡」といった意味では取りにくい。

    (14)

    前掲注11大谷氏論。

    (15)

    ただし、「窮」「尽」と取って、「木の葉がみなことごとく鮮やかな紅に

    なったといって」などと解す可能性も皆無とは言えないだろう。

    (16)

    平野由紀子氏、千里集輪読会『千里集全釈』(風間書房、二〇〇七年)。

    (17)

    前掲注6竹岡氏全評釈。

    (18)

    久保瑞代氏「在原業平の「韓紅に水くくる」と中唐詩―白居易と薛濤

    の比喩「纈」の受容をめぐる一考察―」(『言語表現研究』第二三号、

    兵庫教育大学言語表現学会、二〇〇七年三月)。

    (19)

    前掲注11大谷氏論。

    (20)

    前掲注6竹岡氏全評釈、片桐氏全評釈。

    (21)

    前掲注5金子氏評釋。

    (22)

    江馬務氏「絞り染め流行の変遷」(『服飾の諸相』(江馬務著作集第三巻)

    所収、中央公論社、一九七六年)。

    (23)

    松本包夫氏『正倉院裂と飛鳥天平の染織』(紫紅社、一九八四年)などに、

    正倉院が所蔵する括り染めの裂が数多く掲載されている。

    (24)

    安藤宏子氏「「織の時代」から「染の時代」」(『絞り染め大全―日本の

    絞り染めの歴史から技術まですべてがわかる―』所収、誠文堂新光社、

    二〇一三年)。

    (25)

    遠藤靖夫氏「絞り染の歴史」(『絞り染め 

    古代から続く優美な染め』

    所収、泰流社、一九七六年)。

    (26)

    前掲注24安藤氏論。

    (27)

    以下に挙げる例の他、『御堂関白記』長和元(一〇一二)年一二月一九

    日条や、源雅亮『満佐須計装束抄』第一巻「五節所御装束事 

    姫君装

    束事」などにも、括り染めが用いられた例がある。

    (28)

    他に、『枕草子』一五三段「とくゆかしきもの」や、『源氏物語』鈴虫

    巻にも記述がある。

    (29)

    前掲注24安藤氏論。

    (30)

    これ以降に挙げる小袖雛形は、特に断りのない限り、上野佐江子氏編『小

    袖模様雛形本集成』(学習研究社、一九七四年)から引用した。

    (31)

    佐藤了子氏「小袖模様雛形本にみられる古典文学を主題とした意匠に

    ついて」(『聖霊女子短期大学紀要』第一九号、一九九一年三月)。ただし、

    一部の上流貴族の間での流行ではあるが、衣服などに文学意匠が展開

    ( 25 )

    水は括られたのか

  • される例自体は、平安中期頃にも確認できる(拙稿「平安中・後期の

    女房装束に見る「歌絵意匠」考」(『和歌文学研究』第一〇七号、二〇

    一三年一二月))。

    (32) この図案は、『拾遺雛形』所収「歌ひながた」(武雄鍋島家資料

    武雄市蔵)

    から引用した。

    (33)

    腰から下には雀と笹、鳴子の絵があるが、これは当該歌には直接関わ

    らない図案が取り合わされたと考えられる。

    (34)

    徴古裳所蔵。画像は、特別展『うた・ものがたりのデザイン』図録(大

    阪市立美術館、二〇一四年)から転載。

    (35)

    前掲注34『うた・ものがたりのデザイン』図録の解説では、「竜田河紅

    葉乱れて流るめり渡れば錦なかやたえなむ」(古今・秋下・二八三

    よみ

    人しらず)の意匠とされている(執筆担当は切畑健氏)。しかし、前掲

    した『拾遺雛形』の図案との類似を踏まえると、当該歌の方が相応し

    いと考えられよう。

    (36)

    たとえば、前掲注6竹岡氏全注釈では、「括り染めの見立てと見た方が

    豪華絢爛な表現となる」と解説され、鈴木日出夫氏『伊勢物語評解』(筑

    摩書房、二〇一三年)は、「実際にもまさる華やかな美を描き出す」と

    記している。

    (37)

    鈴木宏子氏「見立て―風景をありえないものに一変させる、言葉の力」

    (渡部泰明編『和歌のルール』所収、笠間書院、二〇一四年)。

    (38)

    前掲注3野中氏論。ただし野中氏は、当該歌は括り染めの喩えと捉え

    るのが妥当と結論づけている。

    [付記]本稿は、和歌文学会二〇一七年七月例会(於

    立正大学)で

    の口頭発表に基づく。また、成稿にあたり、吉海直人氏よりご教示

    を頂いた。貴重なご意見を賜った諸先生方に、厚く御礼申し上げる。

    受領日 

    二〇一八年九月二九日 

    改訂日 

    二〇一八年一一月一三日

    受理日 

    二〇一八年一二月五日 

    ( 26 )

    都留文科大学研究紀要 第89集(2019年 3月)