1章 バイオセンサーとは 1.1 生体のバイオセンサー -...

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1.1 生体のバイオセンサー 我々の感覚器官を代替するものを作ろうとする願望は古くから あった。感覚というと五感を思い出す人も多いと思う。視覚、聴 覚、触覚、味覚、嗅覚である。前者の三つは物理情報の光、音、 圧力を感じるものである。後者の二つはいずれも化学物質を検知 して味やにおいを感じるのであるが、メカニズムは必ずしも明確 にはなってはいない。前者の三つの感覚は一応これに対応する物 理的センサーは作られている。しかし、味覚と嗅覚に関しては多 種類の化学物質が関与しており、これを判断する脳の機能も明確 になっていないのが現状である。 味覚は我々の五感の一つで、口に入れた物の化学的性質によっ て認識される感覚である(図 1.1)。この味を検知するのは舌の表 面に分布する味蕾(みらい)という小さな器官である。その数は 成人の舌で約 10000 個ある。味蕾は味覚受容体細胞と支持細胞か ら形成されている。味覚は味覚受容体細胞の先端に分布する化学 受容体に物質が結合することで検知される。 味の要素として甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つが知ら れており、これらが化学受容体を介して膜電位の活性化を引き起 こし、その強度は化学物質によって異なる。一つの味覚受容体細 胞に複数の神経がシナプス接合しているので神経に刺激が伝達さ 1 1 章 バイオセンサーとは 1 章 バイオセンサーとは

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Page 1: 1章 バイオセンサーとは 1.1 生体のバイオセンサー - …...グルコースセンサーのGOD固定化膜への酸素の拡散速度が、 酵素反応の律速となり、特に低酸素濃度ではグルコース濃度を正

1.1 生体のバイオセンサー

 我々の感覚器官を代替するものを作ろうとする願望は古くからあった。感覚というと五感を思い出す人も多いと思う。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚である。前者の三つは物理情報の光、音、圧力を感じるものである。後者の二つはいずれも化学物質を検知して味やにおいを感じるのであるが、メカニズムは必ずしも明確にはなってはいない。前者の三つの感覚は一応これに対応する物理的センサーは作られている。しかし、味覚と嗅覚に関しては多種類の化学物質が関与しており、これを判断する脳の機能も明確になっていないのが現状である。 味覚は我々の五感の一つで、口に入れた物の化学的性質によって認識される感覚である(図 1.1)。この味を検知するのは舌の表面に分布する味蕾(みらい)という小さな器官である。その数は成人の舌で約 10000 個ある。味蕾は味覚受容体細胞と支持細胞から形成されている。味覚は味覚受容体細胞の先端に分布する化学受容体に物質が結合することで検知される。 味の要素として甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つが知られており、これらが化学受容体を介して膜電位の活性化を引き起こし、その強度は化学物質によって異なる。一つの味覚受容体細胞に複数の神経がシナプス接合しているので神経に刺激が伝達さ

11 章 バイオセンサーとは

1 章 バイオセンサーとは

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味分子(うま味、甘味)タンパク質

味分子(塩昧、酸昧、苦昧)

脂質 2重膜

単一味神経

膜電位

味細胞 微繊毛味神経の断面

味神経束

1個の味細胞は数本の味神経と接触している。単一味神経が集まって味神経束を形成している。出所:『動物のメカニズム』 (加藤一郎 編 朝倉書店)

図 1.1 �味蕾の構造(軽部征夫 著、『トコトンやさしいバイオニクスの本』p.23 日刊工業新聞社)

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れる。しかし、味覚は嗅覚、視覚や記憶の影響を受けるので、化学受容だけでこれを説明することはできない。味覚の化学物質の量(刺激量)と感覚の強度との関係は、刺激量のべき乗に比例して感覚の強度は大きくなるが、味覚の種類によって最小感度は異なる。一般に苦味が最も感度が高いといわれており、塩味、酸味、甘味の順で感度が低くなる。 一方、嗅覚であるが化学物質を受容器で受け取ることに関しては味覚と変わるものではない。しかし、味覚の場合には物を口に入れて接触して化学物質を受容するが、嗅覚の場合には空気中などに漂っている物質を受容する点が異なっている。空気中にある化学物質は鼻腔の中にある粘膜(嗅上皮)の嗅細胞(図 1.2)によって感知される。この嗅細胞の細胞膜上の嗅覚受容体(Gタンパク共役型受容体)が存在し、これに化学分子が結合するとイオンチャンネルが開き、脱分極して電気信号(膜電位)が発生する。この膜電位は嗅神経を伝わり脳へ情報が伝えられる。ヒトの場合には 300 以上の嗅覚受容体が発見されているが、これらの受容体

インパルス発生部位 嗅受容膜

嗅神経

環状電流出所:『バイオエレクトロニックス』   (栗原堅三 著、シーエムシー出版)

図 1.2 嗅細胞

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は一種類の化学物質と結合するわけではなく、いくつかの類似した化学物質も結合できると考えられている。したがってにおいの認識は活性化された受容体が示すパターンによって脳が記憶のパターンと照合することにより認知するのではないかと想像されている。また、ヒトによってにおいに対する感度が異なるが、これは遺伝子配列の違いによるのではないかと考えられている。 水生生物の場合には、水中にある化学物質を感知する機構が知られている。 筆者らはナマズのヒゲから抽出したアミノ酸受容体タンパク質(レセプター)を人工脂質膜に取り込み、これを電極に取り付けて、アミノ酸の一種フェニルアラニン(甘味)を検知する試みを行った。レセプターの安定性に問題があり、このような方法では安定な味センサーの構築は難しかった。一方で、水晶振動子の上に脂質 2重膜を形成させ、これにタンパク質などのレセプターを埋め込んでにおいセンサーを構築する研究を行った。においには多種類の化学物質が関与しており、脂質の種類、タンパク質の種類などを組み合わせるとにおい物質の吸着によって水晶振動子の周波数が変化する。このようなにおい物質による変化をパターン化してにおいを表現する試みを行った。このような仕組みを利用してにおいを検知するセンサーが実用化されている。いずれにせよ味覚、嗅覚をバイオセンサーで計測しようとする研究は盛んに行われており、将来このようなセンサーを搭載した調理ロボットが実現するかもしれない。

1.2 最初のバイオセンサー

 化学物質を選択的に認識して、これの反応を触媒する酵素は

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1940 年代から分析試薬として用いられていた。酵素の反応によって生成する化学物質か、消費される化学物質を測定することによって元の化学物質を定量しようとする方法である。例えば血液中にはタンパク質、有機化合物やイオン類など多種類の化学物質が含まれているが、この中のグルコースを測定するためには、共存するほかの化学物質を取り除くか、これらの化学物質が共存しても選択的にグルコースと反応する試薬を用いる必要がある。 グルコース酸化酵素(glucose�oxidase、GOD)やグルコース脱水素酵素(glucose�dehydrogenase、GDH)を用いれば、グルコースのみと反応するので、この反応を利用するとグルコースを定量することができる。すなわち、これらの酵素と反応で消費される化学物質か反応で生成する化学物質を吸光光度法で測定する原理を用いるとグルコース濃度を測定することができる。ここで血液中のグルコースの測定を例に取り上げたが、実はグルコース測定の臨床上の重要性はバイオセンサーの開発の原動力となった。 糖尿病という病気が知られている。糖尿病とは血糖値(血液中のグルコース濃度)が病的に高い状態を示す病名である。この病気にかかっている人の数は世界で 2億 8500 万人(2010 年)、日本でも 700 万人以上であるが、2030 年には 4億 3900 万人になると予想されている。糖尿病は 1型糖尿病と 2型糖尿病に大別されるが、約 90%の糖尿病患者は 2型糖尿病である。これを放置すると糖尿病性の網膜症、腎症などの慢性合併症を引き起こすことが知られている。この合併症を予防する有効な方法が、自己による血糖値のコントロールである。そのためにグルコースの測定が簡単にできる方法の開発が強く要望されていた。 酵素を用いるグルコースの測定器のアイデアを初めて出したの

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はアメリカの小児科病院に勤務していたClark と Lyons である。1962 年、彼らはGODと隔膜酸素電極を用いて糖尿病患者の血液中のグルコース濃度を連続的に計測する方法を提案した。しかし、この時点では酵素が水溶性のため測定器といえるものではなかった。1967 年、Updike と Hicks は GODをポリアクリルアミドと呼ばれる高分子マトリックスの中に包括して固定化し、このゲル膜をナイロンメッシュを用いて酸素電極の上に固定して酵素電極を製作し、これをグルコース溶液の中に入れるとグルコースが酵素膜に拡散し、酵素によって酸化される。この反応によって酸素が消費されるので、電極の電流値は減少する。電流値の減少値はグルコースの濃度に依存するから、濃度の異なるグルコース溶液を用意し、これに酵素電極を入れて、電流減少値を測定すればグルコース濃度と電流減少値の関係すなわち検量線(キャリブレーションカーブ)を作成することができる。このような原理を用いて、電流値として迅速にグルコース濃度を測定する酵素電極が完成した。酵素を固定するのに扱いにくいポリアクリルアミドゲルを用いたが、酵素を産業的に利用する目的で固定化酵素の研究が進展し、長期間安定に使える酵素固定膜が開発された。これは酵素電極の実用化には不可欠な技術であった。 筆者らはコラーゲン膜の中に酵素を固定化し、1972 年酵素電極を発表した。コラーゲンは繊維性タンパク質のため、酵素などの生体分子との親和性が良く、安定な酵素電極を作ることに貢献した。 グルコースセンサーのGOD固定化膜への酸素の拡散速度が、酵素反応の律速となり、特に低酸素濃度ではグルコース濃度を正確に測定できないという問題が明らかとなった。1973 年に Clark

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