2006 高度経済成長期における橋梁の技術発展とその背景 ·...

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2006 年度 修士論文概要集 高度経済成長期における橋梁の技術発展とその背景 3605F006-1 上田 嘉通 Yoshimichi Ueda 戦後,日本の橋梁技術は高度成長に支えられる形で急速な発展を成し遂げ,今や世界最高水準にある.一方で,景観や構造デ ザインの観点からは「景観に対する配慮を欠いていた」などの批判的な評価も多いが,それに至る過程を具体的に論じた上で評 価を下しているものは少ない.今後の設計方法論の方向性を考察する上で,当時の橋梁設計システムの特色を明らかにすること は意義があると考えられることから,本研究では,高度経済成長期の道路橋を対象とし,当時の文献調査やヒアリング調査を通 して,高度経済成長期に橋梁設計を取り巻いた情勢を明らかにした.また,橋梁技術発展の系譜図を作成し,重要な役割を果た した橋梁を特定すると共に,それらが新技術を導入した背景を明らかにした. Key Words:高度経済成長期,橋梁,技術発展 1.序論 1.1 研究の背景と目的 戦後,日本の橋梁技術は急速な発展を遂げ,長大橋技術で は世界最高水準にある.橋梁技術の急速な発展は高度経済成 長に支えられる形で成し遂げられたことは疑う余地がないだ ろう.しかし,景観や構造デザインの観点からの評価は「景 観に対する配慮を欠いていた」 1) ,「近代構造物としての合理 的な形態の探求が,高度成長期の標準設計の考え方の後,お ろそかになっている」 2) など批判的なものが多い.高度経済成 長期に対するこれらの批判的な評価は,景観やデザインに関 連する多数の文献に見られるが,それに至る過程を具体的に 論じた上で評価を下しているものはほとんどない. そこで,構造物の設計が従来の仕様規定型から性能照査 型へと移行しつつある現状も踏まえ今後の設計方法論の 方向性を考察する上でも,当時の社会経済情勢を背景とし た橋梁設計システムの特色を明らかにすることは意義が あると考えられる. また,高度経済成長期に建設された橋梁には戦後の橋梁技 術発展の様子を物語る重要な構造物が多々存在すると考えら れるが,橋梁建設数の急増を受けて,重要な橋梁がその中に 埋もれてしまい,価値を見出されていない 3) ように思われる. そこで,高度経済成長期の橋梁技術の発展において重要な位 置づけにあると考えられる橋梁に光を当てることは,高度経 済成長期を歴史として捉えていく上で重要であるといえる. 以上より本研究では,高度経済成長期の道路橋を対象とし 文献調査やヒアリング調査を通して,1.高度経済成長期の 橋梁を取り巻いた情勢を調査し,当時の橋梁設計システムの 特色を明らかにすること,2.当時重要な役割を果たしてい たと推察される橋梁を特定し,新技術導入の背景を明らかに することを目的とする. 1.2 既存研究・研究の位置づけ 本研究に関連のある既存研究としては.橋梁を社会経済 情勢から論じるもの,設計思想から論じるもの,設計制度 から論じたものがある. 1)橋梁の発展と社会経済との関連を論じるもの 松村 4) は,古代から現代までの橋の歴史の流れを示すと ともに,官と民が主導的に行った橋の整備事業の特性を分 類,整理している.これらを通して,橋梁建設における軍 事的条件説や政治優先説を否定し,橋は社会経済的な条件 によってその存立が規定される構造物であると試論を展 開している. 五十畑は 5) ,日本の鋼橋建設産業の発展過程の特質を欧 米と比較しながら述べている.その中で,日本の鋼橋建設 産業は,非競争主義の商取引慣行,発注者が建設実務に主 導的に関与している,上下分離発注である,橋梁製作会社 の業務範囲が狭いなどの特徴を有していることを明らか にしている. 2)高度経済成長期に関連する設計思想を論じるもの 中井 6) は,明治から昭和初期にかけて,橋梁技術の近代 化に大きく貢献した樺島正義,太田圓三,田中豊の仕事と 設計思想を調査し,日本における橋梁設計の近代化の特質 を考察している.その中で,日本においてはモダニズムが 本来備えているべき批判対象としての古典主義が存在しな いことから,日本におけるモダニズム橋梁は単なる機能主 義,合理主義へと陥る危険性を有していた,と述べている. 中嶋ら 7) は,戦後期(昭和 2039 年)における橋梁の位 置づけを明確にするため,終戦から高度成長期以前を戦後 期と定義し,その時代にエポックとしての役割を果たした と見られる事例及び,中心的な役割を担っていたエンジニ アを特定し,当時の橋梁の設計思想を概観した.その結果, 構造形式の決定や新技術導入の背景には,技術者の思想が 大きく反映していると述べ,戦後期に橋梁の一時代が存在 したことを明らかにした. 3)設計制度に関するもの 斉藤ら 8) は,コンクリート T 桁橋を対象に,標準設計の 変遷を調査している.それによると,昭和 40 年頃から出 現した「直接的・原則的利用」という標準設計の作成側の 意図と当時の実務の実態とが必ずしも一致しなかったこ ※早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻 景観・デザイン研究室

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Page 1: 2006 高度経済成長期における橋梁の技術発展とその背景 · 術発展の様子を物語る重要な構造物が多々存在すると考えら れるが,橋梁建設数の急増を受けて,重要な橋梁がその中に

2006 年度 修士論文概要集

高度経済成長期における橋梁の技術発展とその背景 3605F006-1 上田 嘉通※

Yoshimichi Ueda

戦後,日本の橋梁技術は高度成長に支えられる形で急速な発展を成し遂げ,今や世界 高水準にある.一方で,景観や構造デ

ザインの観点からは「景観に対する配慮を欠いていた」などの批判的な評価も多いが,それに至る過程を具体的に論じた上で評

価を下しているものは少ない.今後の設計方法論の方向性を考察する上で,当時の橋梁設計システムの特色を明らかにすること

は意義があると考えられることから,本研究では,高度経済成長期の道路橋を対象とし,当時の文献調査やヒアリング調査を通

して,高度経済成長期に橋梁設計を取り巻いた情勢を明らかにした.また,橋梁技術発展の系譜図を作成し,重要な役割を果た

した橋梁を特定すると共に,それらが新技術を導入した背景を明らかにした.

Key Words:高度経済成長期,橋梁,技術発展

1.序論 1.1 研究の背景と目的

戦後,日本の橋梁技術は急速な発展を遂げ,長大橋技術で

は世界 高水準にある.橋梁技術の急速な発展は高度経済成

長に支えられる形で成し遂げられたことは疑う余地がないだ

ろう.しかし,景観や構造デザインの観点からの評価は「景

観に対する配慮を欠いていた」1),「近代構造物としての合理

的な形態の探求が,高度成長期の標準設計の考え方の後,お

ろそかになっている」2)など批判的なものが多い.高度経済成

長期に対するこれらの批判的な評価は,景観やデザインに関

連する多数の文献に見られるが,それに至る過程を具体的に

論じた上で評価を下しているものはほとんどない.

そこで,構造物の設計が従来の仕様規定型から性能照査

型へと移行しつつある現状も踏まえ今後の設計方法論の

方向性を考察する上でも,当時の社会経済情勢を背景とし

た橋梁設計システムの特色を明らかにすることは意義が

あると考えられる.

また,高度経済成長期に建設された橋梁には戦後の橋梁技

術発展の様子を物語る重要な構造物が多々存在すると考えら

れるが,橋梁建設数の急増を受けて,重要な橋梁がその中に

埋もれてしまい,価値を見出されていない3)ように思われる.

そこで,高度経済成長期の橋梁技術の発展において重要な位

置づけにあると考えられる橋梁に光を当てることは,高度経

済成長期を歴史として捉えていく上で重要であるといえる.

以上より本研究では,高度経済成長期の道路橋を対象とし

文献調査やヒアリング調査を通して,1.高度経済成長期の

橋梁を取り巻いた情勢を調査し,当時の橋梁設計システムの

特色を明らかにすること,2.当時重要な役割を果たしてい

たと推察される橋梁を特定し,新技術導入の背景を明らかに

することを目的とする.

1.2 既存研究・研究の位置づけ

本研究に関連のある既存研究としては.橋梁を社会経済

情勢から論じるもの,設計思想から論じるもの,設計制度

から論じたものがある.

(1)橋梁の発展と社会経済との関連を論じるもの

松村 4)は,古代から現代までの橋の歴史の流れを示すと

ともに,官と民が主導的に行った橋の整備事業の特性を分

類,整理している.これらを通して,橋梁建設における軍

事的条件説や政治優先説を否定し,橋は社会経済的な条件

によってその存立が規定される構造物であると試論を展

開している.

五十畑は 5),日本の鋼橋建設産業の発展過程の特質を欧

米と比較しながら述べている.その中で,日本の鋼橋建設

産業は,非競争主義の商取引慣行,発注者が建設実務に主

導的に関与している,上下分離発注である,橋梁製作会社

の業務範囲が狭いなどの特徴を有していることを明らか

にしている.

(2)高度経済成長期に関連する設計思想を論じるもの

中井 6) は,明治から昭和初期にかけて,橋梁技術の近代

化に大きく貢献した樺島正義,太田圓三,田中豊の仕事と

設計思想を調査し,日本における橋梁設計の近代化の特質

を考察している.その中で,日本においてはモダニズムが

本来備えているべき批判対象としての古典主義が存在しな

いことから,日本におけるモダニズム橋梁は単なる機能主

義,合理主義へと陥る危険性を有していた,と述べている.

中嶋ら 7) は,戦後期(昭和 20~39 年)における橋梁の位

置づけを明確にするため,終戦から高度成長期以前を戦後

期と定義し,その時代にエポックとしての役割を果たした

と見られる事例及び,中心的な役割を担っていたエンジニ

アを特定し,当時の橋梁の設計思想を概観した.その結果,

構造形式の決定や新技術導入の背景には,技術者の思想が

大きく反映していると述べ,戦後期に橋梁の一時代が存在

したことを明らかにした.

(3)設計制度に関するもの

斉藤ら 8) は,コンクリートT 桁橋を対象に,標準設計の

変遷を調査している.それによると,昭和 40 年頃から出

現した「直接的・原則的利用」という標準設計の作成側の

意図と当時の実務の実態とが必ずしも一致しなかったこ

※早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻 景観・デザイン研究室

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2006 年度 修士論文概要集

と,またこの意図が橋梁架設における「責任主体」と「設

計主体」の違いに強く関係したことを指摘している.

以上より,戦後から高度経済成長期までの間に,橋梁の

一時代が存在した 7) にもかからず,高度経済成長期には標

準設計の考え方により,景観や構造美の考え方が疎かに 2)

されていることがわかる.

そこで本研究では,既存研究を踏まえつつ,高度経済成

長期の橋梁設計を取り巻いた情勢を整理し,橋梁設計シス

テムの特色を調査する.そして,そのような情勢のもとで

建設された橋梁の発展の系譜を概観し,技術発展に貢献し

た橋梁と,それらが建設された背景を調査する.

1.3 対象とする時代

本研究で対象年代は,中嶋ら 7) によって明らかにされた橋

梁の一時代といえる戦後期を一部含み,オイルショックの影

響で建設業が停滞し,景観や環境など,これまでと異なる要

素への関心が高まり始める 1970 年半ば 4) までが適切である

と考えられる.したがって本研究では,高度経済成長期とさ

れる1955~1973年を含み,高度経済成長期に計画された橋梁

を含むことも考慮した1955~1975年を研究対象とする.

1.4 研究の方法

本研究は,文献調査とヒアリング調査による.

文献調査は,対象とする時代を網羅する建設専門雑誌 9)を

はじめ,示方書および標準設計 10),建設白書 11),道路橋大鑑12),鐵骨橋梁年鑑 13),橋梁年鑑 14),かながわの橋 15),大阪の

橋 16)などを用いた.

また,ヒアリング調査は以下の5名に協力して頂いた.

1) 近藤和夫氏(元 大阪市助役)

略歴:昭和18年京都大学を卒業後,大阪市へ奉職.土木局橋

梁課長,土木部長,大阪市助役を務め,辰巳橋,新十

三大橋,千本末大橋など,戦後の大阪市の橋梁建設に

中心的な役割を果たした.

日時:2006年10月16日 13:00-13:30 電話にて調査

内容:1. 大阪市橋梁課の仕事・気風

2. 高度経済成長期の橋梁設計について

3. コンサルタント誕生後の発注者

2) 吉田 巌氏((株)吉田デザインコーナー 会長)

略歴:昭和 28 年東京大学を卒業後,建設省へ入省.西海橋,

若戸大橋の設計施工に携わった後,建設省土木研究所,

本州四国連絡橋公団で瀬戸大橋,明石海峡大橋の設計

に携わり,日本の長大橋技術の発展に貢献した.

日時:2006年11月1日 14:00-15:30

内容:1. 西海橋,若戸大橋の設計

2. 技術開発と当時の思想

3. 直営設計と発注設計の違い

3) 藤井郁夫氏(元(株)東京鐵骨橋梁)

略歴:昭和28年徳島大学を卒業後,建設省へ入省.日本道路

公団,本州四国連絡橋公団,(株)東京鐵骨橋梁で橋梁

建設に従事.土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小

委員会委員として歴史的鋼橋の調査を多数行い,橋梁

史にも詳しい.

日時:2006年11月10日 13:00-14:00

内容:1. 技術発展と当時の思想

2. 直営設計と発注設計の違い

3. 標準設計の利用

4) 松村 博氏(財団法人 阪神高速道路管理技術センター 理事)

略歴:昭和44年京都大学を卒業後,大阪市に奉職.橋梁課第

二設計係長を務め,大阪市都市工学情報センターを経

て,(財)阪神高速道路管理技術センター理事.大阪市

の橋梁史にも精通している.

日時:2006年10月25日 11:00-13:45

内容:1. 大阪市橋梁課の仕事・気風

2. 高度経済成長期の橋梁設計について

3. コンサルタント誕生後の発注者

5) 五十畑弘氏(日本大学生産工学部土木工学科教授)

略歴:昭和 46 年日本大学を卒業後,日本鋼管(株)に入社.

橋梁上部工,鋼構造物の設計および開発実務を担当.

国内および海外の鉄・鋼橋の発展過程に精通している.

日時:2006年12月8日 16:00-16:30

内容:1. 橋梁製作会社の競争設計について

2. 発注者からコンサルタントへの技術移転

1.5 論文の構成

本研究の流れを以下に示す.

(1)橋梁を取り巻いた情勢

本研究では,橋梁を取り巻いた情勢について,経済社会情

勢,技術発展,設計制度(示方書,標準設計),設計主体に着

目する.文献調査とヒアリング調査を通して,それぞれの特

徴を整理し,それらを関連付けて考察する.

(2)橋梁発展の系譜

建設専門雑誌に採り上げられる橋梁は,新技術や新形式

の採用など,雑誌に載せる価値があるものと考えられるこ

とから,建設専門雑誌の工事報告などの形で記事が掲載さ

れている橋梁を採り上げ,系譜図を作成する.建設専門雑

誌は「土木学会誌」および「道路」を用いた.

作成した系譜図をもとに,長大化に貢献した橋梁,新形

式,新工法を導入した橋梁など際立った特徴を持った橋梁

を,高度経済成長期に重要な役割を果たした橋梁として採

り上げる.

(3)新技術導入の背景

重要な役割を果たした橋梁が,その新技術を導入するに

至った背景を,文献やヒアリングを通して整理する.

(4)まとめ

新技術の発展やその背景を,当時の橋梁を取り巻いてい

た情勢と関連付け,考察する.

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2.橋梁を取り巻いた情勢 本章では,高度経済成長期の橋梁設計を取り巻いた情勢

を,経済社会情勢,技術発展,示方書および標準設計,設

計主体に分けて調査,整理を行った.調査には,建設白書,

示方書,標準設計,既存研究 22)を用いた.

2.1 示方書

昭和 27 年(1952)に道路法が改正され,道路構造令も同年

に改正第一次案,28 年(1953)に改正第二次案が作成された.

さらに昭和 29 年(1954)には第一次道路整備五箇年計画が開

始された.このような背景のもと,自動車交通量と重量の飛

躍的な増大と橋梁技術の進歩に対処するため,昭和 31 年に

「鋼道路橋設計示方書」,及び「鋼道路製作示方書」として

改訂された.その後も溶接次術の発達に対応するために「溶

接鋼道路橋示方書(1957)」,合成桁の発展に対応して「鋼道

路橋の合成桁設計施工指針(1959)」,プレストレス道路橋の

技術発展の成果を「プレストレス道路橋の設計指針(1961)」

が制定されるなど,技術の発展に対応し改正されている 24).

また,床版の破損の問題を受けて,1971 年に鋼道路橋の

鉄筋コンクリート床版の設計規定が整備され,1964 年の新

潟地震の被害を受けて,1971 年に耐震設計指針が制定され

るなど,技術的課題や災害に応じて整備されている 23)24).

高度経済成長期前半の示方書は,基準に反映されるべき

技術的知識のストックが少ないため,規定している項目数

が少なかったが,昭和 43 年の PC 道路橋示方書以降は規定

が格段に多くなっている 8).

2.2 標準設計

標準設計は高度経済成長期に2度作成されている.

昭和 33 年に作成された「道路橋標準設計図集」は,第

二次道路整備五箇年計画を円滑に遂行するため,「設計並

びに施工の単純化ないし規格化が必要」25) とされている.

しかし,経験と技術に秀でた技術者を抱えている自治体は

標準設計を真似るのではなく,優れた設計行為・手法を独

自に積極的に行ってもらいたいと考えられていた 26) .ま

た,「標準設計とは単に実用上, も多く利用される支間

と幅員とに合わせた設計図で,そのまま現場に使用するだ

けのものであってはならない.」25)とされ,強制力はなく「示

方書の活きた解説」25)であり,「参考設計」27)としての位置

づけであった.

「建設省制定土木構造物標準設計第13~17巻」の目的は,

「設計,施工,積算,契約等における業務の簡素化並びに

構造物の精度向上を図ること」28) として明文化された.ま

た,「特別な設計条件に係る構造物を除き適用する」「設計

書に図面の添付をしないでよい」28)とされ,原則的に標準設

計を適用することが意図されていた.これは,地方でも増

加した橋梁建設の品質を確保するためや,会計検査上の手

続きを容易にする意図があったと考えられる.また,発足

当時のコンサルタントは経験が不足しており,標準設計が

強制力を持った背景には,コンサルタントの経験不足を補

う意味合いもあったと考えられる.

昭和 33 年作成の「道路橋標準設計図集」と昭和 44 年作成

の「建設省制定土木構造物標準設計第13~17巻」では,利用

に対する位置づけが大きく異なる.これは標準設計に掲載さ

れている図面数からも明らかで,前者は掲載図面数 130 に対

し,後者は1173である 8).これはコンピュータ技術の発展に

より,図面作成が円滑になったことによると推察される.

2.3 設計主体

昭和 30 年代半ば頃までは,橋梁設計技術は一部の発注

者と橋梁製作会社が保有していた.橋梁製作会社は発注者

の直轄,発注者においては事業者と設計者が同一の組織に

存在する直営設計,いわゆるインハウスエンジニア体制で

設計を行っていた 18) 19) .

昭和 26 年(1951 年)に社団法人「日本技術士会」が発足

し,昭和 32 年(1957 年)にはコンサルタントの認知として

の技術士法が制定された.これにより,技術の民間への移

行が始まり,東京オリンピック,更に昭和 40 年代の列島

改造論に代表される建設ブームの中でコンサルタントも

急成長を遂げた 29) . 初期のコンサルタントは経験,技術

力に不安があったものの,橋梁製作会社から転職した技術

者などによって技術力を高めていった 20)23).

コンサルタント誕生後も,若戸大橋(1962 福岡)や関門橋

(1973 福岡-山口)など大規模な橋梁については,コンサル

タントの経験不足を理由に直営設計で設計が行われてい

る 30) 31).

また,設計における立場について「設計の段階において

も発注者側において,従来の直営設計の郷愁が捨て切れず,

コンサルタントはなかば発注者側技術者の指示指導のも

とで,そのてことして使われる場合が多い」32)との記述か

ら,発注者が未だに主導権を持っていることがわかる.

2.4 2 章のまとめ

以上の調査結果を表-1 にまとめた.尚,表中に次章の分

析結果である重要橋梁の建設年もあわせて記してある.

道路整備状況は,経済の発展に遅れをとっており,道路整

備五箇年計画をきっかけに急速に整備され始めたが,自動車

保有台数の伸びがそれを上回り,道路投資は拡大を続けた.

その道路整備五箇年計画を円滑に進めるために整備さ

れた示方書や標準設計は,高度経済成長期の前半では技術

者の裁量が大きかったが,1960 年半ばから,その規定数や

利用の位置付けに変化が見られた.また,同じ頃,設計主

体もコンサルタントが急成長しはじるなど,1960 年代が,

設計制度や主体において転換期であることがわかった.

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2006 年度 修士論文概要集

表-1 高度経済成長期の橋梁を取り巻く情勢

社会経済情勢 示方書および標準設計 技術発展 設計主体 その他 重要橋梁

1953 道路整備の財源等に関する

臨時措置法 1954 道路整備五箇年計画 1955-1957 神武景気 1956 昭和 31 年度 経済白書 「もはや戦後ではない」 1958 第二次道路整備五箇年計画 1959-1961 岩戸景気 1961 第三次道路整備五箇年計画 1962 全国総合開発計画 (池田内閣:拠点開発方式)

1956 鋼道路橋設計示方書 鋼道路橋製作示方書 1957 溶接鋼道路橋示方書 1958 道路橋標準設計図集 1959 鋼道路橋の合成桁設計 施工指針

合成桁,格子桁

鋼床版,箱桁 など研究・開発 リベット接合

から溶接接合

への移行

発注者と橋梁製

作会社が橋梁設

計技術を所有 1951 日本技術士会発

足 1957 技術士法制定 1962 若戸大橋 建設コンサルタ

ントは経験に乏

しく直営設計で

行う

1962 河野一郎 建設大臣の発

言「橋梁工事の

細分化はすべ

きでない」

1963-1964 オリンピック景気 1964 東京オリンピック 第四次道路整備五箇年計画 新潟地震 1967 第五次道路整備五箇年計画 1966-1970 いざなぎ景気 1969 新全国総合開発計画 (佐藤内閣:大規模 プロジェクト構想)

1964 道路橋下部構造設計指針 鋼道路橋設計示方書 鋼道路橋製作示方書 溶接鋼道路橋示方書 鉄筋コンクリート道路橋

示方書 1965 鋼道路橋の合成ゲタ設計

施工指針 1966 鋼道路橋高力ボルト摩擦

接合設計施工指針 1968 プレストレストコンクリ

ート道路橋示方書 1969 建設省制定土木構造物標準

設計第 13~17 巻

自動車交通量

の増大により,

各地で床版に

破損が見られ

1960~1970 年代 建設ブームに乗

り,コンサルタン

トが急成長

1962-1964 上下部一括 発注が実施 1964 日本道路橋建

設工業会(現在

の日本橋梁建

設協会)設立 橋建協や土工

協が上下分離

発注を要望 1965 上下分離発注

が決定

1971 第六次道路整備五箇年計画 1973 第一次オイルショック 1974 第七次道路整備五箇年計画 1977 第三次全国総合開発計画 (福田内閣:定住構想)

1971 道路橋耐震設計指針 鋼道路橋の RC床版の設計 1972 道路橋示方書 Ⅰ共通編,Ⅱ鋼橋編 1973 特定の道路にかかる橋, 高架の道路等の設計荷重 1978 道路橋示方書 Ⅲコンクリート橋編 道路橋鉄筋コンクリート

床版の設計施工指針

プレキャスト

ブロック工法,

押出し工法 移動支保工工

1970 土木学会誌

「発注者側に,従

来の直営設計の

郷愁が捨て切れ

ず,建設コンサル

タントは発注者

側の指示指導の

もとで,そのてこ

として使われる

場合が多い」 1973 関門橋 規模の大きさ故

に直営設計で行

1955 西海橋(長崎) 坂越橋(兵庫) 1956 白糸橋(神奈川) 1958 筏橋(兵庫) 辰巳橋(大阪) 1959 嵐山橋(神奈川) 1960 勝瀬橋(神奈川) 城ヶ島大橋 (神奈川) 米神橋(神奈川) 1961 小鳴門橋(徳島) 1962 若戸大橋(福岡) 1963 葛西橋(東京) 名田橋(徳島) 1964 花輪跨道橋(千葉)1965 阿保橋(兵庫) 江口橋(大阪) 1966 天門橋(熊本) 中の橋(熊本) 1967 新十三大橋(大阪)

安芸大橋(広島) 1968 浜名湖橋(静岡) 1970 神戸大橋(兵庫) 豊里大橋(大阪) 1973 関門橋 (福岡-山口) 千本松大橋(大阪) 1974 外津橋(佐賀) 港大橋(大阪) 1975 新荒川大橋(東京)

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図-1 高度経済成長期の橋梁発展の系譜図

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3.高度経済成長期の橋梁の発展 本章では,高度経済成長期に建設された橋梁の発展の流れを

概観し,新形式や新工法を導入し橋梁技術の発展に大きく貢献

した橋梁を特定することを目的とする.

3.1 対象橋梁の抽出 建設専門雑誌に採り上げられる橋梁は,その時代の橋梁の

先端であるなど,雑誌に載せる価値のあるものと考えられる.

そこで,建設専門雑誌の工事報告等に記載されている道路橋の

形式,特徴,建設年を整理し,対象となる橋梁を抽出した.建

設専門雑誌は 1955 年から 1975 年を網羅する建設専門雑

誌である「土木学会誌」,「道路」を用いた.

系譜図の作成の原則 採り上げられた橋梁について,以下の原則に従い系譜図を作

成した(図-1).

a)工事報告内で,計画,建設に際し参考にした橋梁名の記述

がある場合は,それを系譜図上で関連付ける.また,今後建

設される橋梁のモデルケースである等の記述があった場合

も同様とする. b)参考にした橋梁についての記述は無いが,同構造,同工法

であるものは間接的な繋がりがあると判断し建設年次順に

系譜図上で関連付ける.

3.2 橋梁技術の発展

図-2の系譜図より,同形式の橋梁の発展の流れが概観できる.

ここでは,PCラーメン橋の技術発展について述べる.図-2は,

PC ラーメン橋の系譜について,橋長と支間長をまとめたグラ

フである.

まず,特筆すべき点はDywidag工法の導入である.日本初の

Dywidag工法を用いた嵐山橋(1959,神奈川)では,設計並び

に技術指導はドイツの企業が行い,架設に当たってはドイツ人

技術者2人が直接現場指導にあたった 15).地上からの支保工無

しの架設ができ,条件の厳しい場所での架設が可能となった.

その後,名田橋(1963,徳島)では,12径間の施工を可能に

し,橋長を800mとした.一方,中の橋(1966,熊本)では支

間長が160mと,それまでのPCラーメン橋と比べ,100m近く

支間長が伸びている.その後,さらに支間を伸ばし,浦戸大橋

(1972,高知)では当時の世界 長支間の230mを実現した.

以上より,PC ラーメン橋の技術発展の流れにおいて,日

本で初めて Dywidag 工法を採用した嵐山橋,同工法におい

て多径間の施工を可能にした名田橋, 大支間長を大きく

伸ばし PC ラーメン橋の長大化に貢献した中の橋の 3 橋が,

技術発展の上で重要な橋梁と推察できる. 他の形式についても同様に,新形式および新工法を導入

した橋梁,支間の長大化に大きく貢献した橋梁を高度経済

成長期の技術発展において重要な役割を果たした橋梁と

して特定した(表-2 および表-3).

4.新技術導入の背景 本章では,3 章で採り上げた重要な役割を果たしたと考え

られる 28 橋について,それぞれの橋梁が新しい技術を取り

入れるに至った背景を整理する.

4.1 新技術導入の背景

特定した 28 橋について,それぞれ新技術の導入,または

長大化に至った背景を工事報告から調査した結果,新技術

導入の背景は「技術者の挑戦によるもの」,「架設条件の克

服によるもの」の 2 つに大別できる.

技術者の挑戦によるもの

橋梁の形式はその架設条件に拠るが,技術発展のために,

適と考えられる形式ではなく,あえて経験の少ない形式

を採用した例もある.坂越橋(1955,兵庫,支間 25.5m)

は日本で初めて格子桁として計画された橋梁であるが,架

設条件は格子桁が も不利となる場所であった.坂越橋で

の格子桁の採用は,計算方法がやや煩雑である上に,鋼重

の減少をあまり期待できない 33).しかし当時,荷重の分配

作用が著しいことが認められ,これまでの計算方法を改善

する必要性が痛感されていたため,あえてドイツで応用さ

れていた荷重分配用横桁による作用を期待する計算方法

を採用した 33).また,外津橋(1973,佐賀,支間 170m)

は日本初の長大RC アーチであるが,当初コンクリート橋

の代替案にDywidag 方式を用いる案もあった.しかし,本

格的な吊材を使用した片持ばり施工の鉄筋コンクリート

アーチ橋の採用がコンクリート技術の発展(コンクリート

橋の長大スパンへの適用)に寄与できると考えて,国内で

実績のあるDywidag 方式ではなく,鉄筋コンクリートアー

チ橋に決定した 34).

一方,今後の技術発展を期待し,比較的短い支間で実験

的に架設した橋梁もある.江口橋(1965,大阪,支間 30.8m)

は日本で 初に2主桁構造が実用化した橋梁である.江口

橋の場合,主桁数は 4~5 本とするのが一般的であるが,

主桁を 2 本として,主桁間中央に縦トラス 1 本,横桁 5 本

0

100

200

300

400

500

600

700

800

900

嵐山橋名田橋

八木山橋

中の橋(天草3)

前島橋(天草4)

新豊橋

名護屋大橋

浦戸大橋

彦島大橋

図-2 PC ラーメン橋の橋長および支間長

橋長

支間長

(m)

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2006 年度 修士論文概要集

表-2 高度経済成長期に重要な役割を果たした橋梁(その1)

西海橋 坂越橋

所在地 :長崎県佐世保市 竣工年 :1955 上部形式 :鋼ブレースドリブアーチ 橋長/支間長:316.26 / 216.00 発注者 :建設省 特徴 :長大橋の先駆的役割 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :著者撮影(2005) 備考 :大きな紙にアーチを描き,構造

合理性と構造美を同時に議論

所在地 :兵庫県赤穂市 竣工年 :1955 上部形式 :合成格子桁 橋長/支間長:194.76 / 25.5 発注者 :兵庫県 特徴 :日本初の格子桁として計画 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :遊遊快汗 HP 備考 :格子桁発展のために,不利な条

件ながらあえて採用

白糸橋 筏橋

所在地 :神奈川県小田原市 竣工年 :1956 上部形式 :鋼曲線鈑桁 橋長/支間長:25.50 / 25.00 発注者 :神奈川県 特徴 :日本初の曲線橋 評価・背景:新形式・条件的制約 写真出展 :かながわの橋 100 選 写真集 備考 :自動車の走行安定性を重視し,

橋は直線という概念を変えた

所在地 :兵庫県養父群 竣工年 :1958 上部形式 :プレストレスト合成鋼桁 橋長/支間長:25.00 / 24.50 発注者 :兵庫県 特徴 :日本初のプレストレスト合成桁 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :兵庫県 HP 備考 :

辰巳橋 嵐山橋

所在地 :大阪市西淀川区-尼崎市 竣工年 :1958 上部形式 :単純合成箱桁 橋長/支間長:104.40 / 36.00 発注者 :大阪市 特徴 :高張力鋼を初めて使用 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :大阪の橋

~大阪市における橋梁技術のあゆみ~ 備考 :

所在地 :神奈川県津久井郡 竣工年 :1959 上部形式 :Dywidag 式 PC ラーメン 橋長/支間長:75.00 発注者 :神奈川県 特徴 :日本で初めての Dywidag 工法 評価・背景:新工法・技術的関心 写真出展 :かながわの橋 100 選 写真集 備考 :ドイツの企業が設計を行い,

ドイツ人技術者が直接設計指導

勝瀬橋 城ヶ島大橋

所在地 :神奈川県津久井郡 竣工年 :1960 上部形式 :他定式斜張橋 橋長/支間長:128.00 発注者 :神奈川県 特徴 :日本初の斜張橋 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :鋼橋技術研究会 HP 備考 :「勝瀬橋設計示方書」を作成し,

設計を行う

所在地 :神奈川県三浦市 竣工年 :1960 上部形式 :3 径間連続鋼床版箱桁 橋長/支間長:575.00 / 95.00 発注者 :神奈川県 特徴 :本格的な鋼床版箱桁 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :かながわの橋 100 選 写真集 備考 :その後の溶接用高張力鋼の基準

のもととなる資料を残した

米神橋 小鳴門橋

所在地 :神奈川県小田原市 竣工年 :1960 上部形式 :PC 曲線桁 橋長/支間長:125.30 / 31.20 発注者 :神奈川県 特徴 :日本初の PC 曲線橋 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :かながわの橋 100 選 写真集 備考 :理論的に否定されながらも,技

術者の熱意で実施に至った

所在地 :徳島県鳴門市 竣工年 :1961 上部形式 :2 ヒンジ鋼補剛構吊橋 橋長/支間長:411.40 / 158.40 発注者 :徳島県 特徴 :本格的吊橋 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :探そう!徳島のたからもの HP 備考 :本州四国連絡橋建設の工事用材

料の輸送路としての位置付け

若戸大橋 葛西橋

所在地 :福岡県北九州市 竣工年 :1962 上部形式 :2 ヒンジ吊橋 橋長/支間長:680.30 / 367.00 発注者 :日本道路公団 特徴 :長大吊橋の先駆的役割 評価・背景:集大成・条件的制約 写真出展 :よかとこ BY HP 備考 :審美委員会においてアンカレイ

ジやタワーの形状を議論

所在地 :江東区南砂町 竣工年 :1963 上部形式 :突桁式吊補剛桁 橋長/支間長:727.40 / 142.00 発注者 :東京都 特徴 :変わった形式を採用 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :Wikipedia「葛西橋」 備考 :隅田川橋梁群を意識した意匠

名田橋 花輪跨道橋

所在地 :徳島県徳島市 竣工年 :1963 上部形式 :Dywidag 式 PC ラーメン 橋長/支間長:800.00 / 69.93 発注者 :徳島県 特徴 :本格的な Dywidag 工法 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :徳島県立博物館 HP 備考 :

所在地 :千葉県船橋市(移設前) 竣工年 :1964 上部形式 :下路式鈑桁 橋長/支間長:29.70 / 29.10 発注者 :日本道路公団 特徴 :日本で初めて主桁に 80 キロ鋼 評価・背景:新材料・技術的関心 写真出展 :ALA HP 備考 :本州四国連絡橋の実験橋であり,

現在本四の PA で再利用

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2006 年度 修士論文概要集

表-3 高度経済成長期に重要な役割を果たした橋梁(その2)

阿保橋 江口橋

所在地 :兵庫県姫路市 竣工年 :1965 上部形式 :トラスドランガー 橋長/支間長:249.00 / 58.99 発注者 :兵庫県 特徴 :日本初のトラスドランガー 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :兵庫県 HP 備考 :

所在地 :大阪市東淀川区 竣工年 :1965 上部形式 :2 本主桁合成鋼鈑桁 橋長/支間長:73.52 / 30.80 発注者 :大阪市 特徴 :日本で初めて 2 主桁構造を実用化 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :大阪の橋

~大阪市における橋梁技術のあゆみ~ 備考 :

天門橋 中の橋

所在地 :熊本県宇城市-上天草市 竣工年 :1966 上部形式 :下曲弦鋼 3 径間連続トラス 橋長/支間長:502.00 / 300.00 発注者 :日本道路公団 特徴 :当時日本最大のトラス橋 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :著者撮影(2005) 備考 :天草五橋の第1号橋 土木学会田中賞(昭和 41 年度)

所在地 :熊本県上天草市 竣工年 :1966 上部形式 :Dywidag 式 PC ラーメン 橋長/支間長:361.00 / 160.00 発注者 :日本道路公団 特徴 :当時日本最大の PC 橋 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :著者撮影(2005) 備考 :天草五橋の第3号橋

新十三大橋 安芸大橋

所在地 :大阪市淀川区-北区 竣工年 :1967 上部形式 :3 径間連続鋼床版桁(2 主桁) 橋長/支間長:792.80 / 90.00 発注者 :大阪市 特徴 :本格的 2 主桁構造 評価・背景:発展・技術的関心 写真出展 :大阪の橋

~大阪市における橋梁技術のあゆみ~ 備考 :江口橋の成果を活かして建設

所在地 :広島県広島市 竣工年 :1967 上部形式 :ニールセン型ローゼ桁 橋長/支間長:364.80 / 80.00 発注者 :広島県 特徴 :日本初のニールセンローゼ 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :Living Communicate Site HP 備考 :

浜名湖橋 神戸大橋

所在地 :静岡県浜松市-引佐郡 竣工年 :1968 上部形式 :4 径間連続曲線箱桁 橋長/支間長:602.900 / 140.000 発注者 :日本道路公団 特徴 :曲率が反転する連続箱桁 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :月報 KAJIMA 2000 MAY 備考 :土木学会田中賞(昭和 43 年度)

所在地 :兵庫県神戸市 竣工年 :1970 上部形式 :自定式 3 径間連続ダブルデッキアーチ 橋長/支間長:322.00 / 217.00 発注者 :神戸市 特徴 :ダブルデッキ構造の長大橋 評価・背景:集大成・条件的制約 写真出展 :神戸観光壁紙写真集 HP 備考 :土木学会田中賞(昭和 45 年度)

豊里大橋 関門橋

所在地 :大阪市東淀川区-旭区 竣工年 :1970 上部形式 :3径間連続鋼床版箱桁斜張橋 橋長/支間長:561.40 / 216.00 発注者 :大阪市 特徴 :モニュメントとなるよう塔の形

状をA字型にした 評価・背景:発展・技術的関心 写真出展 :大阪橋ものがたりHP 備考 :

所在地 :福岡県北九州市-山口県下関市 竣工年 :1973 上部形式 :3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋 橋長/支間長:1068.00 / 712.00 発注者 :日本道路公団 特徴 :本格的な長大吊橋 評価・背景:集大成・条件的制約 写真出展 :北九州市観光企業案内 HP 備考 :土木学会田中賞(昭和 48 年度)

千本松大橋 外津橋

所在地 :大阪市大正区-西成区 竣工年 :1973 上部形式 :3径間連続鋼床版箱桁 橋長/支間長:323.50 / 150.00 発注者 :大阪市 特徴 :鋼床版では当時日本最大規模 :両岸とも高架坂路構造を採用 評価・背景:発展・条件的制約 写真出展 :大阪の橋

~大阪市における橋梁技術のあゆみ~ 備考 :

所在地 :佐賀県東松浦郡 竣工年 :1974 上部形式 :2 ヒンジ RC アーチ 橋長/支間長:252.00 / 170.00 発注者 :佐賀県 特徴 :日本初の長大 RC アーチ 評価・背景:新形式・技術的関心 写真出展 :田島二郎氏橋梁写真集 備考 :今後の発展を考慮し,コンクリ

ートアーチ橋を選択

港大橋 新荒川橋梁

所在地 :大阪市港区-住之江区 竣工年 :1974 上部形式 :ダブルデッキゲルバートラス 橋長/支間長:980.00 / 510.00 発注者 :阪神高速道路公団 特徴 :当時世界第三位のトラス橋 評価・背景:集大成・条件的制約 写真出展 :撮影:石原大作(2005) 備考 :土木学会田中賞(昭和 49 年度)

所在地 :東京都墨田区 竣工年 :1975 上部形式 :V 型橋脚鋼床版立体ラーメン

ゲルバー桁 橋長/支間長: 発注者 :首都高速道路公団 特徴 :ユニークな形式 評価・背景:新形式・条件的制約 写真出展 :田島二郎氏橋梁写真集 備考 :構造デザインと周辺との色彩の調和に

配慮

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2006 年度 修士論文概要集

からなる床組構造とし,約 15%の鋼材重量の節減を可能に

した 35).この江口橋の成果を活かし,1967 年に,同じ大阪

市内に本格的な2主桁構造となる新十三大橋(1967,大阪,

支間 90m)が建設された 36).

架設条件の克服によるもの

架設地点の制約により,構造形式に制限ができたことで,

その条件を克服するために発達した技術を有する橋梁で

ある.例えば城ヶ島大橋(1960,神奈川,支間 95m)は,

本格的な鋼床版箱桁橋であるが,計画面が高く,それが重

量に直接影響を及ぼし,下部構造に決定的な差を

もたらすため,PC 橋を断念した.その結果,鋼橋とし

て技術陣と話し合い3径間連続鋼床版箱桁橋と決定した37).

また,天門橋(1966,熊本,支間 300m)では,海面距

離や航路幅の条件から中央支間長を 300m 程度とすること

を前提として検討をした.その結果,当時日本 大のトラ

ス橋となった 38).

4.2 高い技術力を有する自治体

3 章において,一部の発注者が高い技術力を持っていた

ことがわかっているが,特定された 28 橋が建設した自治

体を見ても,高い技術力を持っていたと推察される自治体

が存在したことが確認できる(表-4).中でも,神奈川県と

大阪市で,新技術を導入した橋梁が多く見られた.それぞ

れの自治体において,新技術を導入した橋梁を生み出し得

た背景を調査した.神奈川県については,「橋梁技術・開

花の跡をたどって」(土木学会誌 1971.01)をはじめ,関野

昌丈著「かながわの橋」,池田尚治著「かながわの橋 100

選写真集」を用いた.大阪市については,近藤和夫氏,松

村博氏のヒアリング調査をもとに整理している.

自治体 橋梁

神奈川県 白糸橋,城ヶ島大橋,嵐山橋,勝瀬橋,米神橋,

大阪市 辰巳橋,江口橋,新十三大橋,豊里大橋,

千本松大橋

兵庫県 坂越橋,筏橋,阿保橋

神奈川県

神奈川県で多くの新技術が導入された理由として,平地,

山岳地帯,湖,海岸など,さまざまな形式の橋梁を建設し

得る地形的特徴があることが挙げられる.また,東京に近

いが,東京ではないという地理的条件も,新しいものを取

り入れる場所として適当であった 39).

組織の内部要因としては,当時政治的に安定していた内

山知事の存在が重要な意味を持っている.長年外交官とし

て活躍され,フィーリングがよく,技術に対する理解度が

深く,新しい形式のものを積極的に支持された.その意を

受けて,事務当局者も非常に技術に好意的であった 39).

さらに,1954 年に竣工した相模大橋を建設にあたって,

全員独身の技術者の卵が集められ,昼間は現場監督,夜は

設計・製図・積算と一日中フル回転を続け,設計上の大議

論を交わしつつ,1つの家で生活をした「相模橋梁学校」

と呼ばれる事務所の存在が,多くの若い技術者を育てた 39).

それ以来の伝統として,係員が上司と設計上の議論を対等

にすることが当たり前とされ設計・施工面でよく勉強した.

また,文献その他を積極的に集め,橋梁学校卒業者全員に

伝達することを目標にしていた 39).神奈川県で経験を積ん

だ技術者は,首都高速道路公団などへ移り,その経験を活

かしていった.

こうした,場所的,地形的条件と,新技術を積極的に吸

収した技術者,新技術に好意的な上司の存在があって神奈

川県内の重要な橋梁が建設されたといえる.

大阪市

大阪市の橋梁としては,戦前の市電事業や第一次都市計

画事業による橋梁が有名である.元大阪市助役の近藤和夫

氏は「第一次都市計画事業の多くの橋梁建設に携わった堀

威夫氏以来,大阪市には『構造即美』という伝統があり,

それは戦後も変わらない」8)としている.また,「高度経済

成長期にはお金があり,経済的,合理的に自由に設計をす

ることができたため橋梁を作品として考える余裕があっ

た」8)とも述べている.3 章で明らかにした鋼重削減や標準

化という思想はなかったことが考えられ,極めて特殊な思

想を持っていたと推察される.

また,特徴のある橋をつくり,建設雑誌などへ積極的に

投稿するよう,上司から部下へ伝えられていたことも挙げ

られる.雑誌へ投稿するには,他とは異なる特徴が必要と

なるため,それが新技術への関心を高めることにも繋がっ

ていたのだろう.他の自治体と異なり,1つの橋梁を担当

したら,比較的長い間,同じ橋梁を担当できた点も,設計

上の工夫を可能にした点で重要といえる 11).

高度経済成長期の後半では,標準設計が強制力を持ち始

めたが,元大阪市橋梁課の松村博氏の「標準設計の存在は

知っていたが,見たこともない」11)との発言からも,大阪

市が極めて特別な自治体であったことがわかる.

標準設計に拠らない,特徴のある橋梁建設を進められた

のは,戦前からの伝統と高い技術力,財政面の安定だけで

なく,大阪の進取の気風も理由の1つであろう.

4.3 欧米技術の受け入れ方

4.1において,欧米から導入された技術が国内の橋梁で採用

されるに至った背景を整理した.ここでは,欧米の技術を受

け入れる日本の姿勢はどのようなものだったのか,当時の日

本の情勢を踏まえて考察を行う.

鋼床版や合成桁などの新しい理論が欧米から導入されたの

は,日本が急速な経済発展をはじめた時期と一致する.当時

の日本は経済発展と比べ,道路整備が立ち遅れており,早急

な道路および橋梁の整備が要請されていた(2章より).そう

した社会的要請と,鋼床版や合成桁がもたらした効果(鋼重

表-4 高い技術力を有すると推察される自治体

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2006 年度 修士論文概要集

削減,合理的設計)が合致し 18),日本の橋梁界に新しい技術

が急速に浸透していく.ドイツでは,橋梁技術者が建築家と

共同で設計を行い,プロポーションやオーダーを考慮して造

形を行うことが特別なことではなく,したがって,優れた構

造美を持つ橋梁が建設されてきた 40).しかし,当時の日本で

は社会的な要請を背景に,新技術の経済性,合理性ばかりが

評価され,こうした構造美に対する欧米のノウハウに目が向

けられなかったのではないかと推測される.

また,小林らは日本とヨーロッパの橋梁デザインの水準

の違いを,ヨーロッパの技術を導入する際,そのデザイン

が生まれた背景に存在する思想や文化を理解しなかった

ことが原因ではないか 41)と述べている.これは,中井 6)の

指摘とも同様で,海外から多くの技術を導入して発展して

きた日本の橋梁技術の欠点と言える.

一方で,欧米の構造美のノウハウやその背景の思想に目

を向けず,構造理論や施工法のみの技術を導入したからこ

そ,飛躍的な技術発展を可能にしたという側面もある.

5.まとめ 本研究で得られた成果は以下の 4 つである.

① 高度経済成長期の経済社会状況,技術発展,設計制度,

設計主体を文献調査,ヒアリング調査から整理し,高

度経済成長期の中頃に,設計制度および設計主体にお

いて転換期があることを明らかにした.

② 建設雑誌から橋梁を抽出し,それぞれを技術的な繋が

りに着目して関連付け,系譜図を作成した.

③ 系譜図を基に,新技術を導入した橋梁および長大化に

貢献した橋梁計 28 橋を,高度経済成長期の技術発展

において重要な役割を果たした橋梁として特定した.

④ 重要な役割を果たした橋梁が,新技術を導入するに至

った背景,および欧米の技術を日本へ導入する際の受

け入れ方の特徴について整理,考察した.

本研究では,高度経済成長期に橋梁を取り巻いた情勢を

整理し,その中で積極的に新しい技術を取り入れた事例と

その背景を明らかにした.積極的に新技術へ挑戦できた背

景は技術者個人の思想とも密接に関係すると考える.した

がって,戦後の橋梁技術の発展の系譜をより詳細に明らか

にするために,技術発展に中心的な役割を果たした技術者

についての人物研究が必要と考え,今後の課題とする.

参考文献

1)八十島義之助ら「土木技術の発展と社会資本に関する研究」1985,総合

研究開発機構,607p. 2)山下葉「戦前の橋梁景観設計の思潮に関する研究」1990,日本都市計

画学会学術研究論文集,pp697-702. 3)例えば,勝瀬橋(1960,神奈川)は日本初の斜張橋であるが,老朽化

と歩道が未整備の為,新橋が架けられ,2007年に取り壊し予定である. 4)松村博「橋の日本史試論」1999,土木史研究vol19,pp201-208. 5)五十畑弘「鋼橋建設産業の発展過程に関する史的研究」2004,建設マネ

ジメント研究論文集Vol.11,pp331-342.

6)中井祐「近代日本の橋梁デザイン思想」2005,東京大学出版,647p. 7)中嶋義全,中井祐,篠原修「戦後期における橋梁設計思想」1999,土木

計画学研究・講演集N0.22,pp43-46. 8)斉藤大輔,一丸義和,齋藤潮「設計制度としての道路橋の標準設計の

変遷~コンクリート T 桁橋を事例として~」2006,土木学会論文集

Vol.62 No.1,pp1-10. 9)土木学会誌 昭和30年~昭和50年.道路 昭和30年~50年. 10) 建設省土木研究所「道路橋標準設計図集」1959,日本道路協会,

および建設省「土木構造物標準設計 13~17 巻」1969,全日本建

設技術協会 11)建設省「建設白書 昭和28・29年版~昭和50年版」大蔵省印刷局 12)高岩虎雄「道路橋大鑑」1961,土木界通信社,408p. 13)鉄骨橋梁協会編「鐵骨橋梁年鑑 1~10巻」城南書院. 14)日本橋梁建設協会編「橋梁年鑑 昭和54年度版」1979,日本橋梁建

設協会,188p. 15)関野昌丈「かながわの橋」1981,神奈川合同出版,pp127-130. 16)松村博「大阪の橋」1987,松籟社,452p. 17)近藤和夫氏談(経歴等は本文中に記載) 18)吉田巌氏談(経歴等は本文中に記載) 19)藤井郁夫氏談(経歴等は本文中に記載) 20)松村博氏談(経歴等は本文中に記載) 21)五十畑弘氏談(経歴等は本文中に記載) 22)例えば,前掲1),8),佐伯彰一,藤原稔「道路橋示方書の変遷」1989,

道路1989-6,pp38-44,多田宏行「橋梁技術の変遷-道路保全技術

者のために」2000,鹿島出版会,244p. 23)吉田巌「橋梁技術の変遷」1991,道路1991-5,pp53-57. 24)佐伯彰一,藤原稔「道路橋示方書の変遷」1989,道路1989-6,pp38-44. 25)建設省土木研究所「道路橋標準設計図集」1959,日本道路協会. 26)前掲6)において,斉藤が多田安夫氏にヒアリングを行った結果

(多田氏は元土木研究室橋梁研究室長であり「道路橋標準設計図集」の

作成を総括担当した) 27)岩松幸雄,国広哲男,駒田敬一,杉山好信,中村博昭,宮田浩邇「座

談会:標準設計の利用と問題点」1973,橋梁と基礎73-4,pp26-35. 28)建設事務次官から各地方建設局長通「建設省制定土木構造物標準設計

取扱要領」1965,土木構造物標準設計,官技発第3号. 29)渋谷実「建設コンサルタントの動き」1987,橋梁と基礎87-1,pp37-38. 30)日本道路公団編「関門橋工事報告」1977,土木学会,pp1-10. 31)吉田巌「若戸橋・長大スパンとの闘い」1965,土木学会誌 昭和40年

6月,pp22-24. 32)田原保二「橋梁の設計から工事に関し,わが国が当面する問題

点と対策」1970,土木学会誌55-11,pp30-35. 33)成岡昌夫,岩本幸二「坂越橋の工事および載荷実験について」1956,

土木学会誌 昭和31年6月,pp15-21. 34)井上美治,宮崎雄二郎「外津橋の架橋」1974,道路 昭和49年2月,

pp11-19. 35)井上洋里,山本知弘,成岡昌夫「江口橋―2主桁構造のプレートガ

ーター橋―」1966,土木学会誌 昭和41年10月,pp38-41. 36)近藤和夫,井上洋里,加藤隆夫,佐々木茂範「新十三大橋の建設工

事」土木学会誌 昭和42年8月,pp36-42. 37)能登尚平,上前行孝,関野昌丈「城ヶ島橋梁の計画―主として箱桁

の設計について―」1957,土木学会誌 昭和32年12月,pp19-26. 38)栗原利栄「天草架橋―海を渡る橋の計画と問題点―」1964,土木学

会誌 昭和39年9月,pp16-21. 39)浅沼尭,小村敏「橋梁技術・開花の跡をたどって」土木学会誌

昭和47年1月,pp97-102. 40)F・レオンハルト「BRUCKEN F・レオンハルトの橋梁美学」1998,メイセイ出版,pp9-10. 41)馬場俊介監修「景観と意匠の歴史的展開―土木構造物・都市・ラン

ドスケープー」1998,信山社,pp232-237.