ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学 url right - …...(71)...

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一橋論叢 第99巻 第1号 (ア0)

ノ .

バウアーの自己意識の哲学

   序

 へーゲル左派に思想史上の独自の位置を与えるものが

あるとすれぱ、それは二つの否定、すなわち神の否定と

哲学の否定とではないだろうか。へーゲル左派はへーゲ

ルにおいて「完結」した哲学の一つの解体として、いま

や宗教を批判し、哲学を世界のうちに実現し、かつ止揚

せんとする。人間はついに己れの普遍的にして自由なる

自己意識の真理に達したのだ、という確信。啓蒙主義の

系譜に連なるこの確信を「真理」にまで高めようとする

へーゲル左派にとって、現在は世界史上の転回点であっ

た。1だが、それにもかかわらず、へーゲル左派は現

実の実践的な成果を生むことなく、運動としては未展開

         渡  辺  憲  正

のままに終息を遂げてし支う。

 へーゲル左派は、かかる非現実性のゆえに、マルクス

の理論と対比的にのみとらえられてきた。しかし、マル

クスが一時的にもせよへーゲル左派と問題を共有し、し

かも、この問題圏からしか自己の理論を展開しえなかっ

たことを考えれば、事はマルクス自身がいうほどにも切

れてはいないはずであろう。このことは、とくにブルー

ノ・・バウアーの自己意識の哲学とマルクスの関係につい

て妥当する。バウアーは『聖家族』その他の批判ゆえに

つねにマルクスにとって否定的にしか現われていないよ

うにみえるけれども、よく知られている.ことく、バウア

ーは一八三九年-四二年にはマルクスの同行者以上の存

在であったし、一八四三年以降もマルクスの理論形成に

η

(71) プルーノ・バウアーの自己意識の哲学

重大な影を落としている。パウアーの自己意識の哲学は、

マルクスの理論と実践にとって否定的意味をもつにして

も、空無ではなかった。むしろ、それはマルクスの理論

を培養したのであって、それをただ非現実的だと決めつ

けたところで、マルクスを理解することにもならないで

あろう。

 さらにいえば、実はパウアーとマルクスの関係は、未

だに確定的とはなっていない。これにかんしては二つの

ことを指摘しなけれぱならない。1第一は、いわゆる

「ブルーノ.バウアー間題」である。現在のパウアー研

究によれぱ、バウアーは一八四四年の自己批判を経て、

自己意識の哲学をいわゆる「批判的批判」へと転ずるの

であり、マルクスが『聖家族』で批判したのは批判的批

判としてのバウアーであった、という了解が一般的であ

^1〕る

。しかし問題は、自己批判によってバウアーは原理を

転換したのかどうか、である。私見によれぱ、パウアー

はあくまでも自己意識の哲学を原理的に貫いており、そ

れゆえにこそ自己批判も可能であったように思われる。

ここにはバウアーの連続と非連続とがある。しかもマル

クスの批判もまた、たんに「批判的批判」に限定されて

はいない。研究は、こうした問題への内在をなお十分に

はなしえていない。

 第二は、バウアーを批判するマルクスとは、いかなる

 「マルクス」かという間題である。マルクスは、一八四

五年-四六年の『ドイツ・イデオロギー』において「以

前の哲学的意識の清算」をはかった、といわれる。この

哲挙的意識がとくにドイツのイデオロギー的意識をさす

として誤りでないなら、それは、フ才イエルバッハ哲学

と並んで、バウアーの自己意識の哲学もまたふくむもの

であったにちがいない。ここから、マルクスがバウアー

の自己意識の哲学を上揚していく過程は『聖家族』・『ド

イツ.イデオロギー』にはじまるかの通念も生まれてき

たように思う。しかし、顧みてみれぱ、すでにマルクス

は『経哲草稿』においてバウアーの批判的批判の批判に

及ぴ、さかのぽつては一八四三年の『ユダヤ人問題によ

せて』においてパウアー批判を開始していたのである。

あるいはバウアー批判そのものに『草稿』以前と『聖家

族』以後では断絶があるとする解釈もありえし犯が、し

かし、ここに批判の一貫性をみないわけにはいかないで

   o 〕                 〔3〕

あろう カくて『経哲草稿』のバウアー批判が本質的に

η

橋論叢 第99巻 第1号 (72)

イデオロギー批判に達していたとするなら、ここから翻

って『草稿』の評価、また『草稿』と『ドイツ.イデオ

ロギー』との関係等が全般にわたって間題とされなくて

はならなくなる。何よりも問題なのは、マルクスが自己

意識の哲学を止揚する過程が内在的に明らかにされてい

ないということである。

 かくて、マルクスーバウアー関係には、なお解明され

るべき多くの問題がある。ーとはいえ、本稿で主要に

                      ^4)

問題とするのは、マルクスーパウアー関係ではない。以

上に述べたことからして、この関係を離れて問題を設定

できないことも明らかであるが、それにしても、まずは

ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学への内在を果たし

てみなくてはならないであろう。本稿は、自己意識の哲

挙の構造と、それが一八四四年に蒙る「転換」とを再構

成すること、ここに課題を眼定する。

(1) <oq一.声津鼻P、ミ婁喜ま雨害、H臭ω9幕oq彗け6a・

 ω.冨旧ー二〇-U.旨o■o昌串自一Hざくo§竈雲恕s昌婁富ミ~宍・

 ミミき■昌o昌竃α尻鶉ざo目蜆片艮o5s一〇・胃・〔邦訳『マ

 ルクス思想の形成』ミネルヴ7書房、七九頁〕

(2) たとえぱ、バウアーとマルクスを主魑的に論じた回1

 ぜンは、『草稿』までのマルクスの概念とパウアーのそれ

 との関連をつけようとするあまり、事実上マルクスのバウ

 ァー批判に一つの断層をみとめ、かつ『聖家族』の批判は

 もっぱらパウァーの側の急旋回と係らせて論じている。

 o-N.射畠昌一専§o饒§ミ§軋宍畠ミミ昌、きHポ雪品毒

 εミ一や§uI8N・

(3) 『草稿』のパウァー批判の性裕づけは、ほとんど論じ

 られていない。例外的に、村上俊介「ブルーノ.バウアー

 批判としての『経済挙・哲学草稿』」(『尊修経済学論築』

 第ニニ巻第一号、一九七八年八月、所収)がある。私の見

 解を詳論することは別稿に譲ることとしたい。

(4) マルクスーバウァー関係にかんしては、とくに、良知

 カ「マルクスと真正理論のテロリズムーブルーノ.パウ

 ァー論1」(『初期マルクス試論』未来社、所収)、参照。

1

 バウアーへの内在は、自已意識の哲挙という構成をと

って現われざるをえないバウアー自身の問題を共有する

こと、つまりは実体と自己意識の関係をバウアーがいか

に問題としたのかを把握すること、によってしかありえ

ない。

 実体と自己意識の関係如何。問題構成そのものがすで

(73) ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学

にへーゲルの『現象学』の了解を前提しており、さしあ

たっては実体も自己意識も『現象学』の脈絡において了

解されている。問題は、へーゲルが一体性において把握

したとされる笑体と自己意識の関係は一つの矛盾だ、と

いうにある。矛盾は止揚され解体されなけれぱならない。

バウアーは実体を自己意識に還元することによって矛盾

を止揚し、自己意識の哲学を基礎づける。パウアー自身

は必ずしも系統的に論じていないこの過程を、まずは再

構成せねぱならない。

 周知のように、へーゲルは『現象学』において、真な

るものは実体としてではなく、主体としても把握されね

ぱならぬこと、あるいは実体は本質的に主体であること

を論じ、真なるもの、絶対者を直接的な実体、即自的な

普遍としてとらえるだけでなく、自己展開をとおして己

れを完成する全体として、すなわち自己を対自的に隈定

しつつ、かつ自己自身のうちに反省的に還帰する普遍的

               ↑)

実体として把握すべきことを高唱した。主体としての実

体とは精神のことであり、具体的に顕現したものとして

は共同体、人倫を意味する。へーゲルはかかる実体11精

神を以上のごとくに主体たらしめると同時に、この実体

を自己の本質・目的とする人間11自己意識をとおして実

体が具体的に精神として現われることを論じ、かくして

究極的には、普遍的実体と自己意識の和解として、絶対

精神・絶対知のエレメントを獲得せんとしたのである。

だが、バウアーは、絶対者が人間H自己意識にとっての

真理、人間の本質・実体をなし、自己意識をたんなる契

機とすることと、自己意識が実体をも創造する主体たる

            ^2〕

ことは、一つの矛盾だと考える。

 バウアーは『無神論者・反キリ.スト者へーゲルを裁く

最後の審判のラッパ』(一八四一年、以下『ラッパ』)に

おいて、みずからは敬慶主義者を装いながら、へーゲル

の秘教的な哲挙、すなわち自己意識の哲学を暴こうとす

る。『ラヅバ』によれぱこうである。-へーゲルの宗

教観の根底には実体性関係が存在する。宗教とは、真な

るものn普遍としての神という実体の存在を認め、自我

              ^3)

をこの実体と関係づける行為である。自我はこの普遍の

うちで自己を放棄し、普遍的実体の契機となる。普遍的

実体は総体性として、一切を、したがって自我をも己れ

に帰せしめ、かくて絶対精神として、有隈な精神n人閲

のうちにはじめて自己を開示し、自己の意識に達する。

一橘論叢 第99巻 第1号 (74)

それゆえへーゲルによれぱ、宗教は絶対精神の自己意識

  ^4〕

である。ここでは、普遍が有隈な意識において自己を知

ることと、有隈な意識が普遍のうちで自己の本質を知る

ことは一つの同一の行為である。-だが、実はへーゲ

ルは以上の実体性関係をも止揚してしまう。実体の自己

意識が自我・人間精神の自己意識であるとすれぱ、この

自己意識の外に実体は存立しうるのか。いまや人間の自

己意識こそが一切となり、みかけ上実体に帰せられてい

                     ^5)

た普遍性は自己意識に帰することになるであろう。つま

り秘教的へーゲルにとっては、自己意識としての自我こ

         (6〕

そ真の実体なのである。したがって-バウアーによれ

ぱ-へーゲルがシュライエルマヅハの感情神挙に反対

したのは、この理論があらゆる真理を自我のうちに引き

いれたがためではない。反対に、それが神という実体か

らも自我の有限性からも解放されていないという不徹底

          ^7)

をとがめているのである。だからへーゲルが実体性関係

を認めたというのも、自我の有限性を否定する契機とし

てのみのことであって、かくして、この過程の最終の成

           、  、  、  、  、

果として「現笑に己れを無限なものとして措定し、実体

                     ^8)

の普遍性を己れの本質としてとりこんだ自己意識」が生

成してくるのである。

 同じことは、バウアーによれぱ、へ-ゲルの世界精神

についてもいえる。世界精神が人間H自己意識の歴史に

おいてはじめて現実性を得るというなら、自己意識こそ

           ^9)

「世界と歴史の唯一の威カ」であり、歴史は自己意識の

生成と展開以外の意味をもたないであろう。

 のちに論ずるように、実体なり歴史なりを自己意識に

還元するというのは単純な過程ではないけれども、とも

かく、アダム・スミスが労働を私的所有の本質と認める

ことによって人間にとって外在的な対象としての宮を止

揚したと-マルクスがいうのと-同じ意味で、パウ

アーもまた、自己意識を一切の実体の主体的本質ととら

え、これによって自己意識から超越した威カを止揚せん

としたのである。自己意識は人間に等しい。したがって

バウアーがさしあたり確認することは、人間u自己意識

の外に真なるもの、絶対者が超越的に存在するのではな

い、ということである。

 だが、実体の自己意識への還元は、すでにバウアーの

言からも知られるように、実体をトータルに拒否して、

たとえぱシュティルナーのいう、ことき「唯一者」たる自

μ

(75) プルーノ・パウアーの自己意識の哲学

我を原理的に肯定することではありえなかった。バウア

                 、  、  、  、

-は実体を主体的本質たる自己意識に還元したのであっ

て、したがって自己意識が実体を自己のうちに引き受け

てこそ、実体は真に止揚される、とするのである。バウ

ァーの場合、この準位にあっては、実体は自己意識の本

      ^皿)

質H目的である。さきには実体を自己意識に還元するこ

とが問題であったとすれぱ、ここでは実体はあくまで自

己意識の実体たるべき本質として現われる。

 実体を自己意識の本質とする実体観は、啓蒙主義の宗

教批判、およぴへーゲル哲学の成果である。へーゲルは・

啓示宗教の三位一体としての神を、精神の概念の生成と

して解釈した。三位一体は、未だ区別の措定されていな

い抽象的普遍性としてある精神が、自己を展開し、特殊

性.区別を措定しつつ、かつこの区別において自己の許

にある、という構造を示している。つまり三位一体は、

精神n自己意識の本質ないし在り方が、宗教的表象にお

いて措定されたものにほかならない。己れの他在におい

て自己の許にあることは「自由」といわれる。自己意識

の本質は自由にある。バウアーもまた、実体において発

見される自己意識の構造を、すなわち自由を、自己意識

         ^u〕

の本質とするのである。

 還元はなによりも実体の本質論的分析にもとづいてい

る。実体そのものが二重化され、自己意識の本質と既成

の超越的現存とに批判的に分析されることによってはじ

めて、遼元は可能となる。笑体-自己意識の関係は、こ

うしてまずは自己意識の内在的関係にまで遺元されるの

である。しかも、この還元そのものも二重の過程を辿る

のであって、これまで述ぺたように実体が解体されて自

己意識の本質に還元されるとすれぱ、他方では、自己意

識そのものが自己の普遍的本質を対象とし、それを我が

ものとすることによってのみ、還元は完成されることに

なろう。自己の普遍的本質”自由を対象とする自己意識

        ^ど

は「普遍的自己意識」と規定される。あるいは自己の本

質そのものを対象とするゆえに「無限な自己意識」とも

             ^13)

「自由な自己意識」ともいわれる。バウアーの「自己意

識」概念は、したがって基本的に二義あることになる。

一つは個別的な有限な人閥個人としての自己意識、いま

一つは普遍的自己意識、である。バウアー本来の「自己

意識」は後者である。そして実体と自已意識の関係は、

いまや普遍的自己意識と個別的自己意識の関係として、

一橋諭叢 第99巻 第1号 (76)

自己意識に内在的に現われることになろう。バウアーが

多くのところで自己意識の高揚宰孟σ冒胴を語るのも、

まさしく、普遍的自己意識への高揚が、実体を自己意識

に還元することと一つであり、それが原理的に要請され

ているからにほかならない。

 近代の社会思想・哲学が、一般に、自然権と自然法、

感性と理性、傾向性と道徳性などの二元的関係のアンチ

ノミーのゆえに、両者の一体性をいわぱ「遣徳的に」要

請するほかなかったとすれぱ、この点にかんしてへーゲ

ルは一歩進んだ地点にまで達していたといいうるであろ

う。詳論するまでもなく、へーゲルは普遍的自己意識を

教養を経て獲得されるべきものとしてとらえ、アンチノ

ミーを「解決」した。バウアーにとってもこの意味での

教養⊥筒揚が成就されるべきものとしてあった。そして

バウアーは、自己意識そのものの高揚によって、実体を

、  、  、  、  、

現実的にも自己意識に還元しようとしたのである。

(1) く㎝-1崖晶具勺豪;昌彗o]晶庁ま叩O色ω冨眈・き驚-ミミぎ

 [ミミ]一一二〇霊邑畠一巨一鼻嘗ξ一望」一ω・畠-鼻

(2) 一八四五年に執筆された『フォイエルバツハの特性描

 写』の冒頭でも、同じ趣旨が繰り返される。<賦-・}彗o■

 ○宇目『印斥冨H尿F寿■目O妻耐勺里-o『げ陣o-♂}旨…ミ暗S冨乱、餉「膏ミミ.

 、畠ミ臼薯ミさ一一〇〇ま一巳Pω一ω・o0N・〔邦訳『へーゲル左派論

 叢』第一巻、一一八頁〕

(3)く。口一』彗膏一皇雨き竃§こ舳こ§蔓雨・9、一。ミ、き軸、

 ミ祭&軋§きざ受§§軋」ミミミ迂§一■o号、何畠含一ω・

 寓・〔邦訳『へーゲル左派論叢』第四巻、六六員〕

(4) <oq-。きミ一ω・S.〔邦訳、六七頁〕

(5) <o司F§}ω、a。〔邦訳、七二頁〕

(6) <o目-■き§一ω.a・〔邦訳、七四頁〕

(7) くo日一二S}ω。寒。〔邦訳、七三員〕バウァー解釈にか

 かわるので二旨しておけぱ、バウァ、はここで有隈な自己

 意識を原理とし。たのではなく、かえって、それとは対立す

                    、  、  、  、

 る実体的な自己意識を原理とする。パウァーは実体主義で

 はないが、実体的本質を否定するわけではない。

(8) き§一ω。a、〔邦訳、七三-七四頁〕

(9) §きω・き.〔邦訳、八二頁〕

(10) <県§}ω、S.〔邦訳、六八頁〕     .

(u) くo目rきミ一ω.ご9〔邦訳、一七九-一八O員〕

(12) きミ一ω.a、〔邦訳、七四頁〕

(13) 目昌貝寒味蚤卜§ミe§軋冊、昂ミ錆}§ミs、

 ■o号N掃一〇〇企“ω一Hαω・

n

床ミ§“

自己意識の哲学は、本質的に観想的な哲学ではない。

(η) プルーノ・パウアーの自已意識の哲学

さしあたって原理を構成するさいには実体を酎諭帥い自

己意識に還元したとはいえ、これを以って完結してしま

うわけではない。自己意識の哲学は、自己意識の外に存

するような一切のものが真理性をもたぬことを、実践的

にも確証しなければならない。だが、それはいかにして

可能に、否、現実的になるのであろうか。

 パウアーは『ラヅバ』において、へーゲルに仮託しつ

つ、既存のあらゆる制度、国家、宗教を批判すべきこと

を語っている。i哲学はいまや「現に存在するものと

      ^1)

存在すべきもの」とを区別する。この当為こそ真なるも

のであり、現実的妥当性をかちとるべきものである。か

くして哲学は行為に、実践的対立にまで至り、己れの高

次の現実を産出しなければならないのである。

 この脈絡で論ずるべきは、バウアーが「当為」を語っ

ているということであろう。バウアーは「当為」を止揚

したとされるへーゲルのうちから当為を立てる。したが

                      ^2)

ってたしかにバウアーはフィヒテの原理に立ち返るとは

いえ、普遍的自己を確信するにすぎない精神に、すなわ

ち道徳性に後退するわけではない。すでにへーゲルは

『現象学』において道徳性の「際限のない当為」を論じ、

普遍的自己と個別的自己との一体性を自己意識の共同性

                   ^3〕

のエレメントのうちに実現すべきことを示唆しており、

また『法哲学』にいたっては「関係と当為」としての道

                     ^4〕

徳性を人倫において止揚する理論を構想していた。バウ

アーもまた人倫を普遍的自己意識のエレメントとしてと

らえ、この共同性において当為を語るのである。

 バウアーによれぱ、個人は類なしにはありえず、類は

         ^5)

個人なしにありえない。類とは人間の普遍的実体H本質

であるとともに、それが顕現した共同体、すなわち人倫

を意味してもいよう。そして、バウアーの自己意識の哲

                   ^6〕

学は「万人の公共事にして万人の普遍的行為」たるべき

共同体を固有のエレメントとして実現されるのである。

このことをバウアーはキリスト教と関連づけて、こう述

ぺている。-キリスト教徒は、己れの魂のために、類

を否定し、すべての現世的諸関係と人類の普遍的利害と

から身を退け、人聞をはじめて人間たらしめる、ことき諸

                     ^ア)

関係をも蔑視し放棄しなけれぱならないとされる。また・

キリスト教徒はあらゆる人間的目的を犠牲にし、自己愛

    ^8〕

を否定する。だが、もはや人間を宗教的彼岸につなぎと

めることなく、人間を人間そのものに至らしめ、人間を

一橘諭鐙 第99巻 第1号 (78)

      ^9〕

人間と合一しよう、と。かくして人間の合一のなった共

       ^10)

同性が人倫であろう。普遍的自己意識はかかる人倫を己

れの現実として形成しなけれぱならないのである。

 パウアーの自己意識の哲挙は、したがって人倫の哲学

                      ^11)

である。バウアーによれば、真なるものは人倫であり、

そしてその最高形態が「国家」なのである。実体を否定

したバウアーが国家を自己意識の現実とするのは矛盾し

ているようにみえる。だが、そうではない。一八四一年

の論文『キリスト教国家と現代』においてバウアーは、

啓蒙主義が国家を「人倫的自己意識の包括的な顕現」と

          (”〕

なるように変革したことに論及し、国家が人倫の成果と

           、  、  、  、  、  、  、  、  、

して成就されるならば、実体性すら止揚され、自己意識

の内面性や創造的無隈性は最高度に認められることにな

        ^u)

るだろう、と述べた。すなわち、かかる国家においては

自己意識は己れの普遍性を突現する、というのである。

だから、すぐれた意味での国家は「普遍的自己意識の行

^u〕

為」なのであり、また「解放された自己意識の普遍性の

                  元)

客観的現存としてとらえられるときにのみ」国家は真に

概念的に把握されることになるのである。

 バウアーが人倫を普遍的自己意識の形成すべき現実性

としていた二とは明らかである。ここでバウアーは、 一

八世紀の啓蒙主義を超える。へーゲルの『現象学』が、

啓蒙主義は否定的普遍性のゆえにかえって「自己意識の

               (16)

否定」でもある、と指摘したように、バウアーもまたフ

ヲンス啓蒙主義の隈界が、人間を「人類学的にのみ、つ

まり特定の、自然によって規定された主体としてのみ」

とらえて、民族精神なる高次の規定を看過したところに

       ^η)

ある、とみている。バウアーはかかる啓蒙主義批判のゆ

えに『法哲学』にいう人倫の概念にしたがって、自己意

        ^18〕

識の哲学を構想したのである。

 このことと関連して、バウアーが国家を、つまり政治

を論ずるということ自体について;貢述べておく必要が

あろう。バウアーは周知のように一八四四年になると、

己れの理論の現実を自由な政治的制度のうちにみたこと

の「幻想的錯誤」を自己批判する。ここからバウアーが

自己意識の哲学をも原理的に否定したかにとらえる解釈

も生まれるのだが、バウアーには人倫と自由な政治的制

度の明確な区別があった。何故に人倫を自由な政治的制

度と一体的にとらえたのか、という問題そのものは、自

己意識の哲学の幻想性として論じられるべきであるが、

(ア9) プノレーノ1パウアーの自己意識の哲学

それにしてもバウアーが政治をも超えた人倫のうちに普

遍的自己意識の現実をみていたことは、やはり確認して

おかねぱならないであろうと、私は考える。

 さて、普遍的自己意識の現実性が穣極的に規定された

となれぱ、ますます現存の国家・制度と自己意識の実践

的対立は顕わになってくるであろう。パウアーにとって

の「当為」とは、この対立において現われるものである。

ここではもはや、存在するところのものを概念において

把握し、これによって「現実との和解」をもたらそうと

するへーゲルも突きくずされる。バウアーは、理性的な

ものは現実的であるとする論理を共有しつつ、現実的な

ものとの和解をしりぞけるのである。バウアーはかかる

対立をいかにして止揚するのか。

 ;冒でいえぱ、この課題を遂行する実践こそ、バウア

    、   、

1特有の批判であったといいうるであろう。-へーゲ

ルは『法哲学』において自己意識の普遍性への高揚を、

したがって人倫性を、何によって基礎づけていたか。へ

ーゲル自身がはたして国家を真に人倫的な理念の現実性

として構成しえていたかどうかは疑問であり、また単純

に述べることもできないけれども、少なくとも理論上は、

           ■

人倫は市民社会における自己意識のつくる無隈の区別と

教養として形成される普遍性によって基礎づけられてい

      ^19)

たよヶに思われる。しかし、バウアーはーもとより私

見であるが-『法哲学』に市民社会と国家の或る断絶

をみてとったのではあるまいか。へーゲルはついに市民

社会がそれ自体として人倫性にまで高揚することを構成

しえていない。だからこそ人倫的普遍性は君主と官僚制

に収救してしまったのではないのか。バウアーの論理か

らすれぱ、このような体制を認めるわけにはいかないで

あろう。碧言すれぱ、バウアーは、自己意識の哲学を万

人の普遍的仕事として実現しようとするかぎり、人倫的

自己意識を真に普遍的に創出する課題を担わなくてはな

            、   、

らない。この課題の実践が批判だったのである。

 、 、                          ^20〕

 批判とは人間に「あらためて自己を認識させること」

と規定される。それは、現存するあらゆる諸関係、宗教、

キリスト教国家等に矛先を向けるのであるが、主要な目

的はそれによって万人のうちに普遍的自己意識の高揚を

生みだすこと、にある。ここに自己意識の哲学の現実性

          ^21)

がかかっているのである。

 、  、

 批判の非現実性を云々することはたやすい。あるいは、

η

一橘論叢第99巻第1号(80)

バウアーは自己意識の普遍性をまともにとりすぎたとい

えないこともない。しかし、こうした評定はともかくと

して、いまは問題の一般性を確認しておきたい。すでに

普遍的自己意識への高揚について論じたところで指摘し

たように、近代が一つのアンチノミーをかかえている以

上、近代の哲学1-理論は、一般に、感性と理性の矛盾、

個と類の矛層をまぬがれることができず、結局、外在的

な抽象的法の普遍性のうちにかろうじて一体性を保持す

       ^警

るほかはなかった。けれどもへーゲル以後に生きるバウ

アーは、普遍的自由を、抽象的な法を超えて現実的に問

題としなけれぱならない。だからこそバウアーは『暴か

れたキリスト教』で、宗教にたいする人類の勝利ととも

                       ^23)

に来たるであろう「一切の生活諸関係の総体的な変革」

を語りもしたのである。これがバウアーのいう人間的解

放である。幻想であったにせよ、パウアーはかかる解放

 、   、

を批判によって闘いとろうとしたのである。

(1)

(2)

(3)

(4)

宙彗2,8§§一ω.oo~.〔邦訳、九八員〕

<寧&§一ω・ミ.〔邦訳、九01九一員〕

くσq-一=晶♀弔}脾目o昌艘δ-oo日庁.民ミ一田〇一μω一ミ〇一

く但一匡ooo色一〇昌目2{邑o自oo『、巨-畠oo巨o創鶉宛8冥m一

 串ミ一■pメωIN0α.

(5)く㈱一.}彗3b婁§§o申詩9§§ミき§ユ9巨邑

 奏一巨實艘冒旨お・ω・Nω・〔邦訳『へーゲル左派論叢』第四

 巻、三〇一頁〕

(6) きミ一ω。曽.〔邦訳、三一五頁〕

(7) く餉一、き§一ω.αo.Is。〔邦訳、二九三-二九七頁〕

(8) バウァーは、自己愛こそ「真の有為な人間の第一の、

 最も必要な特性」(§軋二㎝.ミーヨ.邦訳、三〇〇員)であ

 ることを認め、一八世紀のフランス人が自己愛の個値を認

 めるに至ったのは人類の巨大な進歩である、と考えている。

(9) <o目一.き這。oo,S。〔邦訳、二五六頁〕

(10) 人倫には二つの契機が存在する。一つは個人H自己意

 識という主観性の契機、もう一つは自己意識の実体をなす

 共同性という契機、である。人倫的自己意識は、莱同性を

 已れの自由の基礎H実体とみなし、それによって共同性と

 自己とを結合する。人倫的自己意識の現実としての共同体

 が人倫である。

(11) くE■ω彗鶉一、o薯ミミ一ω。-Nド〔邦訳、 一四四頁〕

1(u) く胴-.}芭■o“ 一〕0H 0チH尿叶-Oまo ω叶円凹け目■O 目自㎜^w『ONO岸-

 巨一き§塞ぎ㌧sミ§§“、さ、きミ竃ぎミ泳竃§§亀ミs軋

 宍§皐z『.ごメo.旨邑Ho。含一ω・塞9〔邦訳『資料ドイ

 ツ初期社会主義』二四一貢〕

(13) くo筥-.きミ一老『、ごo〇一-P-自己Hoo昔一ω.㎞お.〔邦訳、二

 四三員〕

(81) プルーノ・バウアーの自己意識の哲学

(14) き§一≠『。H畠一“言邑Hoo阜ピω.aN■〔邦訳、二二八

 頁〕

(15) ξ舳き老『・ごo。し9■冒二〇。ξ一〇〇.9o.〔邦訳、二四四頁〕

(16) <oq-.}晶♀巾冨冨昌竃o-ooq{耐ーミミ一}o.少ω.む㌣

 {ωα-

(ーア) <o目-.田彗耐■b§§ミSミ軸Oミ“包§§ミω1巨㎞.〔邦訳、

 三五〇頁〕

(18) このことは、概念において同一であるということであ

 って、パウアーがへーゲル的な塔主制論をいだいていたこ

 とを意味しない。

(19) <o目F国晶具市巨-畠o勺巨oo鶉射8巨m.ミミ一b旦-“ω.

 ωooo.

(20) 田彗員b註寒膏吻§ぎき、、ミき&“ミs軋§辻ミ耐暗§雨

 \ミ驚~祭雨署ざ章N饒ユo}一旨庄奉-巨宰冨膏-Oo竃一ω.N〇十

(21) ここであらかじめ述ぺておけぱ、普遍的自己意識への

              、  、

 高揚を課魎としているかぎり、批判は本質的に個別的自己

 意識との、つまり「犬衆」との対立を孕んでいるというこ

 とである。一八四四年の「大衆H敵」論は自己意識の哲学

 に内在するものである。

(22) もとより、ハーバーマス『公共性の構造転換』の指摘

 するごとき「市民的公共性」がイデーとして実質をもって

 いたことを否定するものではない。

(23) 由彗而■b§§ミ零ミ耐O¥、這§きミさω。S.〔邦訳、二

 九四貢〕

 、  、

 批判ーバウアー1はいまや、既成の「転倒せる世

界」との闘争におもむく。しかし、既成の世界にたいす

 、  、

る批判の関係は、たんに否定的であるのではない。実体

-自己意識の関係は少なくとも二重であり、そして、自

己意識の哲学が実体H本質を原理とするかぎり、この原

理の水準において再度、二重の関係を反省してみなけれ

ぱならないであろう。なぜなら、一切を自己意識に還元

し、自己意識の本質を獲得したとなれぱ、既成の世界も

また自己意識の行為としてとらえられることになるが、

同時に、それが自己意識の本質とたがうことはいかなる

根拠によるものかが問題化するだろうからである。

 この脈絡では、既成のものは「疎外」と規定される。

問題は、自己意識が何故に己れの本質に反して自己を疎

外するか、である。再三述べるように、バウアーは世界

と歴史の真の実体を自己意識としたのであるから、この

問題を自己意識の構造的本質に内在的に解かねぱならな

い。およそ一般に、疎外論は、人間本質とか人間本性と

かを前提とするかぎり、っねに本質の疎外の歴史的な発

81

一橋論叢 第99巻 第1号 (82)

生根拠への間いを避けることができない。かくしてバウ

アーは自己意識の歴史的生成に立ち返らねばならないで

あろう。これはしかし本質と係わりのない歴史的な事柄

にすぎないのではない。むしろ疎外は、自己意識の構造

の一般性において、存在論的に把握されなけれぱならな

い。つまり自己意識の展開そのもののうちに疎外という

差異の原理を措定せざるをえないであろう。

 バウアーは、疎外の生成を宗教史に即して論究してい

る。バウアーにとって宗教は、普遍的自己意識の概念を

成立させる実体根拠であった。しかし、いまや宗教は自

己意識の哲学を構成する歴史的な契機となる。シュトラ

ウス『キリスト教教義学』にたいするバウアーの書評に

                      ^1〕

よれば、宗教の歴史は自己意識の成立史なのである。

 さて、宗教は、それ自体としては自己意識の行為であ

る。しかるに宗教にあっては、普遍的本質は神として人

間に対立して現われ、したがって自己意識の行為は自己

                     ^三

意識の受動性として、他者の行為として現われる。つま

り自己意識の無限性と本質とは自己意識から疎外された

存在として現われる。だが、この宗教的疎外は、それが

いかに人間の本質と矛盾し、人間そのものの本性に惇る

ものであるとしても、バウアーによれぱ、やはり「人間

       ^3〕

本質の必然的帰結」である。バウアーは『暴かれたキリ

スト教』においてこう述べている。-人間は人間とし

ては自然の産物ではけっしてなく、人間自身が自由に形

成するものである。だから人間の本質が知られ発見され

ることにいずれはなるとしても、まずはかかる本質を人

間は疎外せざるをえなかった。このようにして歴史の展

開において自己自身と矛盾するに至ることもまた、人間

              (4)

の本性にして定めではあったのだ。

 自己意識は、世界を措定することによって区別を措定

                       ^5〕

し、自己の産出するもののうちで自己自身を産出する。

これがバウアーの描く自己意識の構造である。だが、何

故に自己意識は歴史において自己を疎外するのか、問題

はこの論理・構造であろう。

 さしあたウては宗教の成立根拠についての所論からみ

よう。バウアーは、宗教を恐怖・無知・貧困・不幸等と、

つまりはかかる事態を生みだした世界の在り方と結ぴつ

けて論じている。ドルバックの宗教論に同意しながらバ

ウアーは、宗教とは「本質にまで高められた人間の恐怖

およぴ精神の貧困・空虚」であり、世界の本質として直

(83) ブルーノ・パウアーの自己意識の哲学

                 (6)

観された「世界の不幸」なのだ、と述べる。とくにキリ

スト教は、古代国家の設落にさいして世界や歴史そのも

のに古代が感じとった嫌忌・絶望の念を表現した幻想な

         ^ア〕

のだ、ととらえている。そのかぎりで宗教は、世界の不

完全さの表現であり、完成された宗教たるキリスト教は

             ^8)

世界の完成された不幸なのである。バウアーによれぱ宗

教の存在は、人類と歴史の隈界-受動性や不自由-

      ^9)

を表現している。ところで、世界・歴史は自己意識の展

開にほかならない。したがって宗教的疎外は結局のとこ

ろ自己意識の隈界性に、未完成に根拠をもつことになる

だろう。宗教は「人間の未成熟の客体化された表現」に

すぎず、つまりは「人間が己れの本質をなお自己自身の

うちに発見しておらず、したがって疎遠な存在として考

         ^m〕

えずにはおれなかった」ことの証明なのである。

 だがしかし、これは説明になっているのだろうか。何

故に人間は己れの本質を疎外するのかと問うて、それは

己れの本質を知らなかったからだ、というのは、たんな

る同義反復の域を出ないのではなかろうか。バウアiは

『現代のユダヤ教徒とキリスト教徒の自由になりうる能

カ』(一八四三年、以下『能カ』)において、宗教の真の

                       ^11)

源泉は人間u自己意識の自已欺聴にあるとしているが、

これも詰まるところは自己意識の未完成に根拠を求める

ことと同じである。したがって一向に分明でない、とい

わなけれぱならないが、これはしかし、バウアーの自己

意識の哲学の然らしむる帰結でもあったろうと恩われる。

-自己意識の構造は、たしかに世界と自己意識の相即

を示してはいる。しかし、それはなんら歴史的な規定性

を間題としていないのであって、当然のことながら、こ

こには自己意識の形成が、したがって未形成が前提され

ている。この形成と未形成を原理として要請するかぎり、

自己意識の哲学にとって歴史は形成史、しかも自己意識

みずからの形成史として現われざるをえないであろう。

そして、歴史は自己意識の知の諸形態の歴史とならざる

をえないであろう。だからこそ、バウアーにあっては、

知のエレメントが、また創造的-偶然的-発見が、

歴史の画期を形づくりうるものとなるのである。たとえ

ぱ、自然的賜物とされる人権といえども、バウアiから

        ^12)

すれぱ「近代史の所産」にすぎない。いまや疎外の根拠

の問題は自己意識の形成史の問題となる。

 宗教史はこのような自己意識の形成史である。バウア

83

一橋論叢 第99巻 第1号 (84)

1は宗教史を基本的に、自然宗教、ユダヤ教、キリスト

教に区分し、キリスト教に「疎外の完成」をみいだして

いる。すなわち、キリスト教は、人間を人間そのものと

                    ^”〕

して疎外することによって「もっとも深い疎外」を完成

し、かくして疎外のもとで自己意識をも完成した。-

キリスト教は、人類を自然的精神から最終的に解放した

が、この解放は、偉大な人倫的利害からの自由、世界や

人間関係、、歴史からの疎外、学間・芸術からの離反、自

己愛と人類の価値の否定、人間の内奥そのものの空虚化、

   ^^)

であった。それゆえここでは人間の真の白由は没落する。

だが他方、キリスト教は、たとえ宗教的形態であろうと

1つまり神として1人間の本質の普遍的概念を、内

包している。だからキリスト教は非人間性の極みである

とともに、純粋かつ無制約的な人間性の宗教的表象にほ

    ^蝸)

かならない。キリスト教は矛盾そのものである。

      、   、

 バウアーの批判は、こうしたキリスト教観を基礎とし

ている。バウアーによれぱ、キリスト教のうちに自己意

識の本質を発見したのは一八世紀の啓蒙主義である。こ

の意味で啓蒙主義は普遍的自己意識への最後の決定的な

前進をなし遂げた。そしてバウアーは、このようにとら

えることによって、自己意識の哲学を自己意識の形成史

の真理として、歴史的に正当づけることになるのである。

自己意識の哲学はついに発見された歴史の真理である。

           、   、

したがって既成の世界と批判との対立はいまや非真理と

            ^比〕

真理の対立となって現われる。普遍的自己意識は完成さ

れた自己意識として、未完成の自己意識に必ずやとって

かわらずにはいないであろう。

                       、   、

 原理はすでに歴史的に完成されている。それゆえ批判

は、この原理の高みにおいて自己を貫徹するほかはない。

そしてそれが遂行されたときに、人類は自己を解放し、

己れの本質にしたがって自由を実現するであろう。人類

の勝利の日は近い。バウアーは一八四二年-四三年に繰

り返しこの確信を表明し、『能カ』では、「キリスト教お

よび宗教一般の解体を一つの既成事実として認め、人類

の宗教にたいする勝利を確実なものにするような歴史的

             ^η)

運動が遠からず起こるであろう」と述べもした。かくて

、  、

批判はこの運動を創出し、人間的解放を成就すべく、現

            、  、  、  、

代の「征伐」におもむく。純粋批判は、それがあえなく

潰えたときに現われたのであった。

 (1) く早民…員宛9昌色O目一冒申ω苛彗P冒o9ユ蜆一.

(85) ブルーノ・バウアーの自己意識の哲学

 5序Ω豊す昌巴島富ご-豪冨『oq窃oまg艘}竃同算色o匡昌胴

 自目ら-昌肉胆昌貝昌岸匝o『ヨooω昌耐目ミー窃o目竃-峯津一ま一

 、雨ミξざ㌧§き§¥ミさ、ミ汁竃§§意ミs軋宍s婁“2『.

 s一蟹1』鶯昌』彗Hooお一ω-o0N.

(2) くoq一.ω睾5■、o竃ミミ一ω.oolHoo。〔邦訳、 一一七-一

 一八頁〕

(3) }豊o■b§§ミs迂雨o“、室§§ミω.N00.〔邦訳、三

 〇六頁〕

(4)

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

<oq-.き迂。一ω、No.18。〔邦訳、三〇六頁〕

<o竈-.き}、。ω。Hご.〔邦訳、三四六員〕

きミ一ω.H01Hr〔邦訳、ニニ五頁〕

<o口Fき§一ω。ooい・〔邦訳、三二=頁〕

<o目-。さミ一ω.H-。〔邦訳、二二五員〕

<o司-・き§〔邦訳、二二六頁〕

}嘗自雪一b㌣味ミ軸い§ぎ軋ミ、§き&♪oo.sI{〇一

<o目F民豊o■冒o句岬巨oqぎ川Fま『5暮何昌』自ρ雪

自目o

 ○チユ黒o目一宇9 N目毛0HOω■’ぎ“、}Sミ嵩~~§昌ミ~銭 b余雨ミSミ}

 軋ミ吻き§ぎN冒一9冒O冬一鼻胃艘胃旨む一ω1筆’〔邦欲

 『資料ドイツ初期社会圭義』二八四員〕

(12) ω寧自雪一肉oS冨-o昌一2§冒PUざ9ユ㎜艘oチ仙O司■σo目眈-

 一〇耳9…一b雨ミξざ㌧s¥、§きミ一2『.N仁蟹.』嘗一=彗Hooむ一

 〇〇.oo午

(13) 札ミき乞『’N♪Noo.盲目轟『Ho。ま一ω.8.

(14) <oq-.吋彗o■b§§ミSぎ砧Oぎ註§§ミoo18ムポー軍.

 〔邦訳、二五〇、二八二、二八六員〕

(15)く。有一・霊毒一墨巨。・蚕戸一三婁ミ§蒔§§暗事帖§一

 ω。3。〔邦訳、二八四頁〕

(16) パウアーが『ユダヤ人問題』において、ユダヤ教とキ

 リスト教の対立を「根底においては人間精神の梱異なる発

 展段階の対立」とみるのも同じ論理である。<o目一・田彗員

 bミ㌧ミきミ翁♪■冨冒mgミo掃Hooむ一ω.sls.〔邦訳

 『へーゲル左派諭叢』第三巻、二九-三〇頁〕

(17)固豊貝}警耐片筆二三向“sミs§S§~蒔b売§一ω.N9

 〔邦訳、二九〇頁〕

w

 一八四四年にバウアーは一八四二年の誤謬を自己批判

し、一つの「転向」を行なう。だが、それはいかなる自

己批判なのだろうか。最後に、いわゆる「純粋批判」期

における自己意識の哲学の運命をみておかなくてはなら

ない。

 バウアーは論文『いまや何が批判の対象であるか』に

おいて、彼の「大衆1-敵」論を自己批判に重ねてこう述

べている。1理論1-批判がみせかけの同盟者、すなわ

ち政治的な啓蒙のなされた大衆と訣別すべき時期はつい

85

一橘諭鍍 第99巻 第1号 (86)

に来た。この転換はそもそも最近に生じたものではない。

しかし、理論の真の決定的発展は政治を趨えていたにも

かかわらず、理論は、一八四二年には政治を論じている

かの外見をとらざるをえず、己れの理論の実現を自由な

政治的制度のうちにみてしまった。これは、理論の幻想

的錯誤であり、一八四二年の誤謬の一つであった。だが

   、  、

いまや批判は、白己を純化し、自己批判し、己れの真に

                ^1〕

意図するところを純粋に追求するのだ。-バウアーに

    、  、

よれぱ、批判はユダヤ人問題にかんしても同じ誤謬を犯

   、  、

した。批判は理論的には政治的解放の本質と人間的解放

の本質を区別しえていたが、後者が自由な政治的制度の

うちに実現されるという幻想にとらわれた。だが、それ

                     ^2〕

は批判にとっては一つの象徴でしかなかったのだ。

 バウアーは自己意識の哲挙を自己批判したのだろうか。

たしかに一つの「転向」があり、政治的啓蒙  人権の

恩想ーによる解放という構想を棄てたとしてよいであ

ろう。したがって国家概念も国家概念としては棄てたの

かもしれない。しかし、それは自己意識の哲学の断念を

意味しはしない。むしろ自己意識の哲学は自己批判の前

提にさえなっているといえないだろうか。そもそもバウ

アーが政治的啓蒙と批判…理論とを区別しえていたとい

うのは、それ自体が幻想ではないか、といわれるかもし

れない。マルクスのなすバウアー批判も、核心は人間的

解放と政治的解放の混同、というところにあった。しか

し、バウアーは両者を区別しないのではない。バウアー

                    ^3)

にとって壮本来の政治的解放は問題にならない。批判が

「政治を超えていた」というバウアーの言は、たんなる

言いのがれではなく、それ自体としては正当な言い分と

して認めておかなくてはならぬであろう。すでに述べた

ように、自己意識の哲学は単純に啓蒙主義と等しくはな

いし、人倫もまたイデーとしては政治と等しくはないか

らである。

 へーゲルの人倫は、普遍的意志と特殊的意志の一体性

たる善の実現である。換言すれぱ、普遍的自己意識の完

全なる現実態であって、イデーとしては自由が実質的に

実現されているのでなくてはならないはずであろう。バ

ウアーもまた、へーゲルが構想したイデーを原理とし、

           、  、

この原理の高みにおいて批判を遂行したのであを。否、

バウアーはへーゲルを超えて人間の諸関係をトータルに

変革しようとしたのである。だから、バウアーはけっし

86

(8ア) ブルーノ・パウアーの自己意識の哲学

てたんなる意識の改革をめざしたのでもない。ここまで

は、自己意識の哲挙のもつ射程として確認しうることで

あろうと、私は考える。

               、  、

 しかし、それにもかかわらず、批判は「悲劇的に」現

実を離れ、幻想に帰した。それは何故なのであろうか。

1この場合に、私はバウアーを一八四一年-四三年と

一八四四年以後の二つの時期に分けて、前者を本来のバ

ウアーととらえているわけではない。すでに述べたよう

に、二つの時期を裁然と区別するような断層は存在しな

いのであって、純粋批判の幻想を語るのであれば、自己

意識の哲学そのものに根拠を求めなくてはならない。

 自己意識の哲学の非現実的本質は、二点指摘できるよ

、つこ田心、つ〇

 一つは、普遍的自己意識の基礎づけの問魑である。自

己意識の哲学は、個別的自己意識の普遍的自己意識への

高揚を前捷する。この高揚は一つの「実体転化」である

だろう。しかし、このような高揚はいったい何によって

根拠づけられていただろうか。これを論ずるさいに肝腎

    、  、     、  、

なのは、政治と人倫とを区別することである。政治と区

別される人倫は、個別化された自己の本質を止揚する実

質的な普遍性n共同性において成立する。バウアーが両

者を区別しえていたことは認めてよい。問題は、人倫が

はたして政治と異なる基礎づけをなされていたか、とい

うことである。たしかに人倫はイデーとしては政治的啓

蒙とは異なる境位に構想されており、教養によって獲得

されるともいわれるけれども、これはかの「実体転化」

を要講しただけで、現実的に基礎づけえたとは恩われな

い。何よりもバウアーが政治的啓蒙の幻想にとらわれた

というのが、それの証左となろう。人倫とは、本質的に

は政治的啓蒙の極隈のイデーでしかなかったのである。

-実はバウアーの「大衆1-敵」論はこのことをこそ示

している。バウアーが「大衆のうちにこそ精神の真の敵

         ^3〕

は求められねぱならない」というのは、大衆を精神にま

で高めなくてはならず、しかも「或る者を高めようとす

             (4)

るなら、それと闘わねぱならない」からであるが、この

ようにして大衆を敵とすることによってさらけだされる

のは、批判1-理論の根拠のなさではないか。

 もう一つ指摘すべきは、批判の在り方の問題である。

バウアーは、世界と歴史を目己意識に還元したがゆえに、

一切の問題を自己意識の形成に、したがって知の問題に

一橋論叢 第99巻 第1号(88)

帰せしめた。すでに論じたように、歴史は、自已意識み

ずからのつくりだす自己形成史として、自己知の諸形態

の展開となった。しかも自己意識の哲学に至つて自己意

識は完成を遂げた、とされた。この確信のあるかぎり、

批判は知的批判として自立していかざるをえず、かくて

現実との媒介を失ったのである。バウアーは本来、実践

的1-現実的な知をめざしていた。しかし、きわめてラデ

ィカルにみえた「自己意識への還元」ゆえに、バウアー

は自己意識の形成を自己意識の知の形成を同一ならしめ、

現実性を知の現実性と化し、知の現実性をも失わせしめ

、たのである。          .

 とこ6で、自己意識の哲学のもつ以上のような限界が、

たんにバウアー一人の個性によるものではないことは、

行論からもうかがえるところであろう。近代の啓蒙主義

のイデーたる個別と普遍の一体性も「イデオロギー」で

しかなく、へーゲルさえも自已意識の哲学の本質的な幻

想を共有していた、といわねぱならない。バウア、は、

政治的啓蒙にかんする錯誤を自己批判したときに、それ

 によってかえって近代のさらに深い共同的幻想にかえっ

た。かくして自己意識の哲学は近代の現実ーブルジヨ

ア社会-から離れて、みずから自己を疎外してしまっ

たのである。

 マルクスがバウアーを批判するに至るのも、かかる幻

想性ゆえのことであった。マルクスにとっては-『独

仏年誌』期のマルクスにとってはーへーゲルの法哲学

も本質的には近代の政治的解放の思弁的な表現でしかな

い。つまり、ル愉はせいぜいのところ政治的解放の完成、

市民社会の解放でしかない。この了解を前提すれば、た

しかにバウアーは政治的解放を人間的解放とみなしてい

る、という批判も成り立つであろう。マルクスがいかに

してこうした見解に達したか、私見を述べるべきであろ

          ^5)

うが、いまは立ち入らない。むしろここで述べておきた

いと恩うのは、自己意識の哲学の幻想性を批判したとき

に、マルクス自身もまた、バウアーと同じ問題をかかえ

ていたと。いうことである。

 マルクスは普遍的人間的解放を私的所有の止揚によっ

て基礎づけるのだが、このさいに問魑となるのは、第一

に、マルクスのいう人間的解放とは何か、ということで

あろう。イデーとして普遍的自己意識の実現と異なると

ころがあるのだろうか。マルクスの場合に現実的な媒介

88

(89) ブルーノ・パウアーの自已意識の哲学

は失われていないといってもよいが、それにしても個別

と普遍の媒介はマルクスにとっても問題としてのこされ

ていよう。第二は私的所有の止揚そのものが、人間個人、

つまりは自己意識の高揚を前提しはしないか、という間

題である。いずれもマルクスの人間的解放論の基礎づけ

にかかわる間題であって、こうした間題を解決せずして

は、バウアーの自己意識の哲学を止揚することはできな

い。要するにマルクス自身の「自己意識の哲学」を現実

的に展開せずには不可能である。こうした内的な係り抜

きに、マルクスがとくに一八三九年から一八四六年まで

ブルーノ.バウアーと接点をもちつづけたということの

意味を解き明かすことはできないだろう、と私は思う。

 ブルーノ.パウアーの自己意識の哲学は、へーゲル哲

単の一つの純粋な極隈である。純粋になった哲学が弱体

化するのはやむをえないとしても、しかしそれは、へ-

ゲルに総括される近代の理性的u普遍的自己意識の問題

性をきわだたせてもいるのである。マルクスがバウアー

を真に批判しうるとすれぱ、それは、この間題性の枠組

みそのものを止揚するときでしかないであろう。マルク

スーバウアー関係はこのような脈絡において間われなく

てはならない。

 (1) <oq一・団彗員ミ鶉ζ貢斗qoHOooq竃黒竃{o實宍鼻寿’

  ヲ一」、翁舳§良§トき§§、-N&§暑箏巨冨oq.くo自}-}芭竃i

  葭o津o。.旨旨-o。哀一ω.8-串.〔邦訳『資料ドイツ初期社会

  主義』三〇四-三〇五頁〕

 (2) <o口一・き§一ω.豊-塞一〔邦訳三〇七-三〇八頁〕

 (3) ■彗員z2鶉冨ωo亭奉o■書雪2o-邑g宇棊9仙目一

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 三一〇頁〕

(5) さしあたり、拙稿「『独仏年誌』のマルクスの理論転

 換」(二橋論叢』第九六巻第三号、一九八六年九月、所収)

 参照。

                  (一橋犬学講師)

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