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Heinz Kohutによる「自己」の定義をめぐって

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 抄 録

Heinz Kohutによる「自己」の定義をめぐって―TheDefinitionof“Self”byHeinzKohut―

臨床心理学科 荒 井 真太郎

本稿では、“FourBasicConcepts inSelfPsychology”において、Kohutが「自己の特異的定義」として示した内容を基に、主として2つの点を論じた。第一に、自己の概念の構成をKohutの他の著作を参照しつつ考察した。第二に、Kohut以降における自己心理学における自己の概念に関わる理論的展開を概観するとともに、学派内における論争について取り上げた。「自己」の概念については、自己心理学以外の理論を含めた一般的な見方とも比較対照することが必要と考えられ、本研究では、そのための視点を提示することを意図して検討を行った。

Key Words:自己自己心理学自己愛精神分析学

1.はじめに Kohutは、1979年 の 論 文“FourBasicConceptsinSelfPsychology”(以下“Concepts”とする。)において、自己、自己対象、断片化、自己対象転移について定義をまとめている。彼は、それまでの著書、論文において、伝統的な精神分析学、自我心理学の枠組みを越える形で

「自己」の概念を提示してきたものの、その定義を系統的に示さずに、様々な文脈で「自己」という用語を用いてきたが、“Concepts”において、定義をまとめたのである。 Kohutは、精神分析学における欲動driveの概念に対抗させるために、自己という観点を強調してきた。自我心理学が優勢であった当時のアメリカでは、欲動を精神分析的治療の基軸にしており、人間の心を部分的・要素的に捉える見方がなされ、心の全体性を見過ごす傾向があっ

たとKohutは考えていたのである。 Kohut(1977)は、「自己の修復」のエピローグにおいて、個人の内的経験を観察する手段である内省と共感を用いたとしても、自己の本質を捉えることはできず、自己が存在しているという徴候を、人は知覚できるのみであると述べている。つまり、自己=「私」という体験の徴候は、内省的、共感的に知覚される様々な内的体験から構成されており、それは乳幼児期からの心理発達過程において徐々に形成されてくるが、その形成パターンの様式については個々人による観察が可能なのである。Kohutは、自己を形成するような内的体験の様式に関わって、野心ambitionと理想idealという二つの次元を想定している。その次元においてまとまりをもっている(=凝集的cohesive)内的体験が、自己として体験されるというのである。“Concepts”において基本的概念の一つとして挙げられてい

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る断片化fragmentationは、この自己としてのまとまりを脅かす体験であり、精神病理に深い関わりを持っている。Kohutの自己心理学理論では、こうして、心理発達、心理機能、精神病理、心理治療に関わる理論が、自己の概念をめぐって体系化されることになった。 現代の自己心理学派は、1980年代のアメリカで生じた関係精神分析学派による二者心理学的視点の影響を受け、自己の概念の捉え方について論争が生じているが(富樫、2011)、今日においてもKohutの定義に立ち返り検討することには意味があると筆者は考える。何故ならば、Kohutの論述には、細部にわたり、臨床上の理論として検討すべき問題が多く含まれており、現代においても理論上の展開に影響を与えうると考えるからである。また、自己の問題は、特定の学派内の問題ではなく、あらゆる臨床場面に関わっている。そのため、臨床家は理論的立場を超えて、心理療法に携わる限り、常に「自己とは何か」を問い続けるべきである。そこで本稿では、“Concepts”において、Kohutが「自己の特異的定義」として示した内容を基に検討を試みる。

2.“Concepts”における「自己」の定義 以下に“Concepts”における「自己」の定義の抄訳を示す。

a.「自己の分析」の序文「(自己心理学の枠内での狭義の意味で、ということを加えないといけないが)自己は精神分析状況で現れてくるし、精神装置の内容として、比較的低い水準の、つまり比較的体験に近い、精神分析的抽象物という様式で、概念化される。このように自己は精神の一つの審級(※イド、自我、超自我などの心的装置の構成要素のこと。以下※は筆者による注を示す。)ではなく、精

神の内部の構造なのである。それは時間の中で連続性を持ち、永続的である。さらに、自己は心的な場所を占めている。対象の表象と全く同様、自己は精神装置の内容であるが、その構成要素ではない。」(※Kohut,1971、「自己の分析」、水野信義他監訳、Ⅳ-Ⅴ頁から翻訳部分参照)

b.1975年11月のJurgenvomScheidtへの書簡「私(※Kohut)は、自己と同一性の概念は、明らかに違うものと見ている。自己は深層心理学的概念で、幼児の最早期の自己対象との相互作用における様々な構成要素から作り上げられてきたもので、パーソナリティの核にまで及ぶものである。(1)力を持つことと成功に向けた努力の発生源になるパーソナリティの基層;

(2)自己の中心にある理想化された目標;(3)野心と理想の間に介在する基本的な才能と技能、の3つの面が自己には含まれている。 これらは全て、時間と空間において一つのまとまった単位unitであること、印象の受け手であるということ、行動の起こし手であること、という(※自己)感覚に付随しているのである。一方、同一性とは、(青年期後期と成人期初期に確立される)発達した自己と、個人の社会文化的位置づけとの間の一致点のことである。 このような区別は、とても実りが多いものである。例えば、人生の早期に獲得された、強く、固く、輪郭のはっきりした自己によって特徴づけられているような人がいるが、彼らの同一性は、後の環境のためにかなり拡散してしていることがある。精神分析家のあるタイプのパーソナリティは、このようなパターンに属していると思う。同一性の拡散によって、多くの異なる人々への共感ができるようになるが、確固とした自己が断片化を防ぐのである。(パーソナリティの)組織化が正反対の人々がいる。つまり、彼らは弱い自己を持ちつつも、強い、おそらく強すぎる厳格な同一性の持ち主である。このよ

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うな人々は、自己の凝集性cohesionを強く経験させる社会的役割や、人種的あるいは宗教的な所属感などによって自己を維持している。このような人々は、彼らの同一性が取り去られると

(例えば、村から都会への移動のようにある文化から別の文化に移る時)心理的にばらばらに分解してしまう。

c.次の定義は、赤ん坊がまだ自己を所有していない、つまり、自己を体験することができない段階だが、環境(※=養育者)は最初から、赤ん坊はすでに自己を所有しているものとして体験しており、その環境(=養育者)と赤ん坊は融合している、という打ち消しを含む見方から推定されるものである。推定される定義:「自己は、空間的に凝集し時間的に連続する一つの単位であり、それは自主性initiativeの中心であり、印象の受け手である。」(※Kohut,1977、「自己の修復」、本城秀次他監訳、78頁から翻訳部分参照)

d.この定義は、自己の障害を抱えた患者の成功した分析、つまり、確固として、凝集した自己の確立が達成されたと言える成功した分析のことであるが、その分析から推定される。ここでの定義は、部分的に発生的なものであり、分析過程の間に子ども時代の過程を繰り返すことについて言及するものである。つまり、特異的に自己対象(子ども時代における親という自己対象;分析中の自己対象転移における分析家)が自己に変形transformationされるという分析過程である。ここで推定される定義:「自己(中核自己)は、人が持っている中核的野心と理想

(それらは一群の才能と技能と協動するものである)から成り立っている。これらの内的な属性は十分に強く、確固としたものでなければならない。それは、いくぶん自己促進的、自己志向的、自己支持的な一つのまとまりある単位と

して機能できるようになるためである。その単位はパーソナリティに中心的な目標を与え、人生に意味があるという感覚をもたらす。言いかえると(発生的に言うと)、自己は(分析において)次の時点で確立すると言える。つまり、

(※親、または分析家である)「自己対象(とその機能)が、(※子どもあるいは患者の)心理的構造になるように十分に変形され、それらが、自主性(野心)と内的な指針(理想)という自己発生的なパターンと一致しながら、ある程度、独立して機能するようになった時点」である(※Kohut,1977、「自己の修復」、本城秀次他監訳、108-109頁翻訳部分参照)。私(※Kohut)は、自己が「確立」しているということを文字通りに受け取ってはならない、ということをさらに付け加えた。つまり、自己対象に対する欲求needは、全ての人にとって人生全体にわたって存在し続けるということ、そして実際、ともかくも孤立して歩むことが強いられるのではなく、緊急時には、自己対象の支えを得る方向に転換できることが健康な自己の特徴である、ということである(※Kohut,1971、「自己の分析」、水野信義他監訳、250頁;Kohut,1977,「自己の修復」、本城秀次他監訳、144頁、翻訳部分参照)。

e.また、自己の発生、構造、力動(つまり自己の機能の様式)に関するより複雑な記述から推定される定義がある。例えば、「自己の連続性の感覚、つまり、身体と精神の変化、パーソナリティの成り立ちの変化、我々の生活している環境の変化にも関わらず、生涯を通じて同じ人間であるという感覚」(※Kohut,1977「自己の修復」、141頁から翻訳部分参照)について語ることによる内省を通して、私は、自己の体験について言及しているのである。そして後に、私は自己の知覚について、「時間的な限界と変化、そして究極的には無常であることに我々を向き合わせる現実の枠組みの中で、変わらず同じで

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あり続けるという感覚である」と述べた。そして、自己の構成要素(野心、理想、技能、才能)でさえ変化するかもしれないが、「同じであり続ける感覚」つまり自己を失うことはない、と結論付けている。また、我々の自己を定義するのは中核自己の構成要素の内容ではなく、それらの間の緊張勾配tensiongradientの性質、つまり「未来を指し示す、自己表現的で創造的な緊張が持っている不変的な特異性」である。(※

「自己の修復」、143頁で)私は、フロイトとプルーストの過去の想起へのアプローチを比較している。フロイトの目的は、子どもが解決できなかった葛藤を解決できるように過去を想起することである。プルーストの取組みは自己心理学により近い。つまり、少なくとも時間軸に沿って自己の連続性と単一性の感覚を再確立するために過去を捉え直そうとするのである。「あの最も初期の時代から今でも私の中に残っているものは何か?」プルーストの小説の中の語り手は問うているようだ。そして、彼は、変化(年を取ること)、不連続性、不均衡という恐ろしい感覚を自分で癒そうとしており、その感覚のもとで問題を捉えている。

f.自己は、「遺伝と環境要因の相互作用において」具現化される構造である。「(自己は)それ自身がもつ行動の特異的なプログラムの実現を目標としている。そのプログラムは、野心、目標、技能という自己の構成要素の特異的な固有のパターンと、これらの構成要素間に生じる緊張によって決定される。野心、技能、目標のパターン、それらの間の緊張、それらが創造する行動のプログラム、そしてこのプログラムの実現に向けて努力する活動はすべて、空間と時間において連続しているように体験される。つまり、それらが自己であり、独立した自主性の中心であり、独立した印象の受け手なのである」

(KohutandWolf,1978)。

g.「自己は我々の人格の核である。幼児期の最早期の環境において我々が自己対象として体験する人物との相互作用において獲得する様々な構成要素を(自己は)所有している。子どもとその自己対象との間の最適な相互作用の結果である確固とした自己は、3つの主要な構成要素から出来上がる。つまり、⑴力を持つことと成功への基本的な努力を発生させる1つの極;⑵理想化された基本的目標を留め置いているもう1つの極;⑶野心と理想の間に形作られる緊張弧tensionarcによって活性化される基本的な才能と技能という介在的な領域(KohutandWolf,1978)。

3.Kohutによる「自己」の特異的定義  についての検討 Kohutは、敢えて、彼の理論の中心である「自己」の概念を、“Concepts”に至るまで整理してこなかったが、晩年に近くなり“Concepts”において、それまでの著述を引用する形で「自己」の特異的定義として整理した。このような態度の背景には、自己が本質的に不可知であるという考えがあると思われる。哲学的考察であれば、

「自己」について体系的、網羅的に定義することを目指すことになるが、Kohutは、自身の精神分析の体験を基に、「自己」の概念を特異的に定義し整理しようと試みたのである。 ここで、上記の定義に関して、“Concepts”以外におけるKohutの論述を補足することにより、Kohutの考えた「自己」の概念の成り立ちについて検討したい。

 aの定義に関連して、“TheChicagoInstituteLectures”(Kohut、1996)(※以下、“Lectures”と示す。精神分析の訓練生を対象とする講義の記録である。)の第25回講義において、Kohutは、自己には、狭義の意味と広義の意味がある

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と説明している。狭義の意味においては、自己は心的(装置の)内容とされる。つまり、イドにおいては自己の無意識の側面を発見することができ、超自我においても自己の理想的側面、あるべき自己を発見することができる。そして、自我においては、意識的な自己を様々な形でイメージできるのである。 この狭義の意味の自己は、無意識の葛藤や防衛を理論の基軸とする伝統的な精神分析学において用いられてきた概念であり、他者表象と対になる自己表象、あるいは対象と対になる自己という意味づけができる。日常的な感覚において、自己を明確に意識できるのは、自我領域における狭義の意味の自己を意識しているからである。 それに対し、広義の意味の自己は、自己が凝集性(まとまり)などの特定の機能的様式を持ち、本質的に永続的なパターンが現れるという、自己の機能的側面に関わっているものとされる。広義の意味での自己が形成されることにより、個人の心理的世界が生まれ、そこでは個人は自由意志を持つことができる。自由意志の問題は、精神装置という心的決定論をベースとする種類の理論では捨て去られてしまうが、Kohutは、精神分析は内省と共感をベースとすべきで、個人が自由な意志を持っているという主観的体験は内省と共感によって把握される自明な事実であると述べている。“Concepts”における、a以外の定義は、いずれも広義の意味の自己について言及しているものである。

 bの定義に関連して、「自己心理学セミナー」(Kohut,1987)(3巻、195-201頁)においても、Eriksonの自我同一性概念は、社会文化的な観点を含めた青年期や成人期において形成される前意識的な自己表象であるが、Kohutの主な関心事である自己愛転移(自己対象転移)を説明するための概念ではない、と述べている。自我

同一性の観点からすると、自我同一性が拡散しているのは不適応状態として意味付けられるが、現に直面させられている社会状況によっては自我同一性は拡散状態になるものであり、それにも関わらず内面的に確固とした自己を維持し続けられる場合があることをKohutは想定している。このように自我同一性と自己を区別する観点は、臨床場面における見立ての際に有意義であると筆者は考える。クライエントの問題を自我同一性の観点で見立て、治療目標を自我同一性の確立と考えると、発達した自己と個人の社会文化的位置付けの一致点に関心が向けられ、個人の内面と外的現実のバランスに配慮することに重心が置かれる。しかし、外的現実や社会文化的位置付けは、個人の意思や努力を越えた問題であり、心理療法を経たとしても、個人が置かれている外的現実は全く変わらず、個人の内面が外的な現実と不一致な状態のまま、挫折感や絶望感を持たざるを得ない場合もある。 一方、自己の観点からの見立てや治療目標は、内面における自己理解や自己受容の治療的意義を支えるものであり、不変的な外的現実の捉え方自体が変わることに重心が置かれる。そのため、より実際的な見立てや治療目標になると考えられる。

 cの定義に関して、Kohut(1977)は、「自己の修復」(77頁)で「環境(※=養育者)は生まれたばかりの赤ん坊に対してすら、あたかも自己がすでに形づくられているかのように反応するということを強調することによって、乳児期の最早期から痕跡的自己が存在するという」見方ができると述べている。「自己は、空間的に凝集し時間的に連続する一つの単位として、それは自主性の中心であり、印象の受け手である」という自己の体験は、人にとっては自明のことであり(Kohut,1996)、養育者も赤ん坊自

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身が自己を体験していると想定して赤ん坊に反応するというのである。 また、“Lectures”第12回で、養育者が子どもの自己体験における全体性を受け入れる、またはそれに反応することにより、子どもは自己体験における全体性totalselfを喜びjoyとして体験する、とKohut(1996)は述べている。これは、cの定義では触れられていない点であるが、自己の全体性、あるいは統合性について言及しているため、自己の発達にとって重要な側面である。

 dの定義は、もともと自己愛パーソナリティ障害患者の精神分析過程において展開する自己愛転移(1977年の「自己の修復」において自己-対象転移として概念化されたもの)が、自己の修復、治癒に繋がるとする、自己心理学的治療理論の中心的内容を示している。 「分析過程の間に子ども時代の過程を繰り返す」ことに関して、Kohut(1984)は、「自己の治癒」(196頁)において「(※分析過程で)患者が欠陥をもった自己をまもるのは、自己の発達がかつて妨げられたその時点から将来再び成長し発達をつづける準備をするためである」と述べている。伝統的な精神分析理論においては、転移分析により無意識の欲動や葛藤を意識化すること、さらにはエディプス・コンプレックスの洞察が本質的な治療目標とされるが、Kohutは、分析過程で自己対象転移が展開され、そこで「自己の発達」が生じることが本質的な治療目標であるとしている。また、自己対象との関わりによる自己の発達には終わりがなく、生涯にわたり存続するという考え方も、自己心理学の独自性を示すものである。 dの定義で「中核的野心と理想」という自己に関わる2つの次元が提起されるが、Kohut

(1971)は「自己の分析」(59頁)で、2つの次元の発生過程について「蒼古的なイマーゴの理

想化と蒼古的自己の誇大性との前駆体は、何にも乱されない一次的な自己愛均衡について幼児がする体験であり、〜その心理状態のもつ完全性は、その後にできあがる完全性のカテゴリー

(つまり、力、美、徳の領域の完全性)へと向かう最も未発達な分化にすら、さらに先行するものである。〜母親の小さな共感の失敗、誤解、遅延のいずれによっても、乳児は無条件の完全さ(一次的自己愛)という蒼古的なイマーゴから自己愛的リビドーを撤収し、その代わりに母親のもつ機能を引き継いだ微細な内的心理構造を獲得する」と述べている。一次的自己愛均衡とその乱れについて、Kohut(1987)は「自己心理学セミナー」(第1巻、121頁)で「それは、簡単にいうと、自己愛が良く保たれていて、まだ何の妨害もされていない状態なのです。〜そして子どもは、自己愛の楽園にも欠陥があり、限界があることを知り、何らかの方法で自己愛を救済しようとするのです」と表現している。このように、Kohutは、S.Frued(1914)の一次的自己愛の概念に従って、発達早期において、自己が全智全能で完全性を備えていると体験される段階、あるいは自己愛の楽園のような段階を想定している。その原初的段階から、必然的に生じる自己の欠陥や環境側(養育者)の失敗を体験するにしたがって、自己も環境も完全ではないことに直面し、子どもは両者に対し失望せざるを得なくなる。それを補償するように自己に関しては誇大化したイメージが、環境(養育者などの他者)に関しては理想化のイメージが、心理的構造として発達的に形成されるというのである。原初的全能性の段階からの失望という考え方は、Winnicott(1971)の脱錯覚をめぐる発達理論に類似しているが、Winnicottは、現実とファンタジーの中間領域における遊びや移行対象などの問題に関心を向けているのに対し、Kohutは、誇大性や理想化という極の側に関心を向けていると言えよう。

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 eの定義では、自己の時間的連続性、つまり自分が同じであり続けるという感覚の発生、構造、力動的要因として、二つの側面を取り上げている。一つは、中核的野心と理想をつなぐ緊張勾配であり、もう一つは、過去の想起、記憶である。時間的連続性、同じであり続ける感覚は、自我同一性の概念と一致している。しかし、Kohutの独自性は、自己の構成要素とされる中核的野心と理想の間の緊張勾配に、時間的連続性を発生させる要因を見いだしている点である。また、「自己の修復」(142-143頁)で、プルーストが自伝的小説「失われた時を求めて」を著したことは、単に過去の記憶を取り戻したということではなく、中核自己の連続性や凝集性を回復する試みであった、とKohutは解釈している。この考え方は、臨床場面においてクライエントが過去を想起して治療者に語っている時に、その行為には自己の連続性や凝集性を強化するという治療的意味があることを示すものである。

 fの定義で「自己の行動の特異的プログラム」という概念が提起されているが、Kohut(1984)は「自己の治癒」(144頁)で以下のように述べる。「自己の全体的なプログラムに関するかぎり、〜精神分析は新しい構造を構築しない〜。実際には新しい構造が、徹底操作の過程で構築され、自己の欠陥を埋め合わせたり、自己の現存する構造を強化したり、あるいは時間的に連続し空間的に凝集している調和とバランスのとれた単位として、患者に自分自身を体験することをゆるす連結部を提供するだろう。〜それらは人生初期にアウトラインを描かれたパーソナリティの基礎プログラムを創造しはしないし、また新たな中核自己を創造しもしないのである」。さらに、「自己の治癒」においてKohutは、自己を身体組織全体に喩えて表現しており、精神分析過程において構築される心理的構

造を、食物として摂取された「外来性—蛋白質foreignprotein」というアナロジーを用いて表現している。精神分析によって、中核自己や基礎的なプログラム自体が産み出されるのではなく、食物を摂取消化することにより出来上がる、生体を構成している蛋白質レベルの微細な構造が構築されるという見方をしている。 自己がパーソナリティの基礎的プログラムの実現を目指すというKohutの考え方は、C.Rogersや、C.G.Jungの自己実現の考え方に通じており、乳幼児レベルの防衛や葛藤の分析を指向する伝統的な精神分析学とは異なる性格を示すことになる。

 gの定義において⑴野心の極、⑵理想化の極、⑶両極をつなぐ緊張弧(才能、技能)に関わる領域が自己の構成要素とされている。Kohutは、1971年の「自己の分析」において、理想化転移と鏡転移という二つの転移を軸とした理論を提唱し、1977年の「自己の修復」において双極自己bipolarselfおよび二つの極の間の緊張弧という概念を提唱した。そして遺稿となった1984年の「自己の治癒」においては、野心の極に対応した鏡転移、理想化の極に対応した理想化転移に加え、緊張弧という中間領域に対応した双子(分身)転移の3つの自己対象転移をモデル化した。このように、Kohutの理論の展開においては、2極から3極へ、という流れがあったと考えられる。Kohutの理論をS.Freudの心的構造論と対照させると、野心の極はイド、理想化の極は超自我、中間領域は自我に丁度対応している。gの定義は、Kohutが、S.Freudや自我心理学の理論から脱却しようとしながらも、逆に回帰している様相を示しているのかもしれない。

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4.Kohut以降の自己の理論的展開 Lee&Martin(1991) は、Kohut以 降 の自己の概念の展開について、Kohut、Stern、Stolorowを取り上げながら、自己を実体entityとして捉える見方からシステムとして捉える見方へ移行していると論じている。Leeらによると、Kohutは、Kantの 現 象 的phenomenal自 己や叡知的存在noumenalとしての自己という見方に影響を受けており、主体agentとしての自己と上位形態のsupraordinate自己という次元において、“Concepts”に見られるような自己の概念を展開させたとしている。そして、Kohutの後には、乳幼児期からの対人関係の発達において段階的に自己が形成されるモデルをSternが提唱し、そのモデルは発達心理学分野にも広く受け入れられている。また、Kohutの記述した自己が、具象化されたイメージで捉えられやすく、S.Freudの自我、エス、超自我と同様に機械論的に受け取られるという問題を孕んでいたため、Stolorowによってさらに理論的修正を試みられることになる。 Kohutの 後 に 間 主 観 性 理 論 を 提 唱 し たStolorowら(1987)は、Kohutの記述した自己の概念の不明確さに関し「自己という用語を、心理的構造(体験のオーガナイゼーション)と実存的発動者agent(行為を始める人)の両方の意味で使ってきたことにある」と指摘している。Stolorowの言う心理的構造とは、「自分にとっての体験の構造」であり、「それを通して自己・体験が、融和性(※cohesiveness、凝集性)と連続性を獲得するし、そのおかげで自己・体験は、独自の形状と耐久的なオーガナイゼーションを得ることができ」、「体験する主体であるとともに行為を始める発動者である人personの概念とを、鮮明に区別すること」が重要である、と記述している。 また”Concepts”の、gの定義に関わり、Kohut

の双極自己bipolarselfという概念の、具象化され「人の体験の有機的流動性を正しく伝えていない」という問題と、緊張弧という概念の、体験から隔絶した機械論的思考につながるという問題をStolorowは指摘している。これらの問題により、Stolorowは、「自己」よりも「主観性」という概念を理論の中心に据えたのである。 Stolorowは、主観的体験の次元から離れないことを徹底するアプローチを取る方向で自己の概念を位置付けようとしたが、その一方で、Basch(1988) やLichtenberg(1988) は、生物的、心理的発達の観点を組み入れる形で、Kohutの自己の概念をシステム論として展開させている。Lichtenbergは、Kohutの挙げる野心、理想(目標)、技能という3つの方向性を統合、発展させ、人間生活に関わる基本的な動機付け

(例えば、生理面での制御regulationや愛着など)が、主体としての自己の存在を支えているという見方を取っている。

5.現代自己心理学派におけるKohutの  「自己」をめぐる論争 Kohutの自己に対する見方は、すでに古典的な理論として位置付けられることもあるが、その一方で、現在においても再評価の試みがなさている。 “Concepts”におけるfの定義で「自己の中核的プログラム」という概念は、Summers(2011)によれば、Kohutの研究テーマの核の部分にあるということは明らかであるが、近年では、この概念が、一者心理学的であるとみなされるため、自己心理学派においても注目されなくなっていると述べている。Summersは、提示した成人男性の事例において、その男性の遺伝的素質に関わる自己の中核的プログラムを開花させるための空間と時間を提供する環境としての役割を、分析過程が果たしたという見解を示し

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た。「自己の中核的プログラム」という概念は、治療場面における二者の関係性の文脈から独立し、またその文脈に先行して存在しているため、関係精神分析理論に強く影響されている現代自己心理学派においても、論争が生じているのである。 イスラエル在住の自己心理学派精神分析家であるKulka(2012)は、プラグマティックな文化背景を持つアメリカでは、Kohutが1966年の論文「自己愛の諸形態とその変形FormsandTransformationofNarcissism」において提起した哲学的、超越論的側面が省みられない傾向があったとして、Kohutの理論への批判の矛先の一つである双極自己のモデルについての再評価を試みている。特に、理想化については、辛い現実に対する防衛的な否認として見なされ、超越的存在との融合という崇高な意味合いを持っていることが忘れられているとしている。Kulkaは、transformationとは、ある形態formから別の形態への運動を意味しているのではなく、形態を超えたものへの運動、ある状態astateofbeingを超えた状態への運動であるという意味付けができる概念であると述べている。自己愛的自己における理想化は、現在の自己を超越した自己に向けての運動を引き起こす様相を表しているのであり、価値道徳的に中立的な心理的機能や構造を意味しているのではないと主張している。自己の双極モデルは、生理的、機械論的構造と言うよりも、心理発達的に形成されるものの、人間としての存在論的次元での自己を表す理念上のモデルということである。Kulkaの主張は単なる思弁的なものではなく、民族的に過酷な外傷体験が繰り返されているユダヤ人社会において臨床実践を行っている治療者による真摯な人間理解として受けとる必要がある。 Videgaard(2013)は、「主観性」を理論の中心に位置付けているStolorowを批判し、「自

己」を他の概念に置き換えるべきでないとして、以下の点を強調している。つまり、1)Kohutは「自己」という言葉をいくつかの文脈で使用しており限定的に捉えることができないこと、2)Kohutの「自己」は、進行中の活動や経験の文脈から切り離せる実体ではなく、様々な経験において統合される何か、(体験に共通する)個人的であることの意味を最初に与えるものfirst-personalgivenness(Zahavi,2009) であること、3)具象化された概念であるとして批判されている双極自己は、自分自身と他者への気遣いのバランスをとるという人間の基本的ジレンマを形として表したもので、比喩的に見るべきであること、4)Kohutの自己は、自己の超越的な側面について言っているものであること、である。しかし、Stolorowら(2013)は、Videgaardの批判に対して、Kohutが「自己の修復」(248頁)において、自己は「経験的データから引き出された一般化である」と記述しているとおり、Videgaardの言うような比喩ではなく、明らかに具象化された概念であるとしている。Stolorowは、S.Freudがリビドーという具象化された概念を用いて構築した理論から、精神分析理論は脱却すべきであると考えており、Kohutに対しても、同様の批判的見方をしているのである。 以上のような現代自己心理学派の論点は、臨床事実の積み重ねと社会の変化に伴った理論的展開を単に示しているだけではなく、Kohutという人物そのものへの理想化という要因も絡まって、もともとのKohutの考え方を擁護しようという立場と、あくまでも批判すべき点は批判して新たな方向を模索すべきであるという立場の論争という側面もあると考えられる。心理療法の理論には、科学のみならず、技芸という側面もある(河合、2001)ために、所属する学派や依拠する理論家に対する理想化が生じるのは、むしろ自然なことであろう。しかし、心理

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療法理論の科学としての性格を保持するには、理想化が生じつつも、論理的整合性を指向して、臨床事実と照合する作業を積み重ねて、理論の展開を図る必要がある。自己心理学派における、自己をめぐる論争においても、その葛藤が表れていると言えよう。

6.おわりに 本稿では、Kohutによる自己の定義をめぐって、その概念の構成、理論的展開、Kohut以降の自己心理学派における論争について取り上げて検討した。Kohutの理論が自己愛パーソナリティ障害を中心に展開されたことから、現代の日本においても、臨床的価値は大きいと筆者は考えている。それは、発達早期における養育環境の問題を背景にした空虚感、自己愛的な傷付きやすさ、自己中心性の問題などがテーマとなる心理療法のケースが、現代の日本でも稀ではないと考えるからである。しかし、Kohutが自己愛の健康的な側面を強調しているのに対し、現在の日本で精神分析学派の主流になっている対象関係論では、自己愛構造体(Rosenfeld,1971)の概念のように、自己愛は病理的、倒錯的なパーソナリティの核であると意味付けられている。Kohutの理論では、自己愛パーソナリティ障害を、環境(養育者)側の反応(失敗)による外傷をその要因として重視していることも、対象関係論の立場からすると、問題の外在化を促してしまうという批判の対象である。そもそも、Kohutが自己を理論の中心に据えていることは、対象との関係を中心に据えている対象関係論と対極の関係にあることを意味しているのかもしれない。 Kohutによる自己心理学は、自己愛パーソナリティ障害の治療理論から始まり、「自己」を中心とした臨床理論として体系化されるに至り、アメリカを中心に発展が見られている。し

かし、「自己」の概念については、限られた学派内でのみ通用する考え方としてではなく、他の臨床理論も含め、広く一般的な考え方と比較対照できるものである必要があると思われる。

「自分がわからない」など「自己」が臨床場面でテーマとなる場合は稀ではなく、「自己」は、自己心理学のみが扱えるというテーマではないからである。本稿においては、その意味で、Kohutが、本来「自己」をどう捉えていたのか、ということに焦点を当て理論的考察を行ったが、臨床的態度や臨床的な関わりに対して、個々の臨床家が持っている「自己」の概念がどう影響を与えるかという点についての検討も今後の課題として必要であろう。

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Heinz Kohutによる「自己」の定義をめぐって

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