究極の アスリートを育む...

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30 土地改良 284号 11 10 調駿調Kazuko Kitamuro

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Page 1: 究極の アスリートを育む 土づくりdokaikyo.or.jp/back_number/kaishi_new/284t_06.pdfジティブ・シンキングを信条に邁進してみよう。 ... だよ」と誇らしげに見えた。のイメージ。馬たちも「ここが僕らの地元なんしたナチュラルなデザインで、欧州の地方競馬る広場やグリルハウスは芝

30土地改良 284号

午年の人の特徴は、活発で行動力があり、人

生に対して前向きなのだとか。ああ、私もそん

な性格だったらどんなによかっただろう。せめ

て今年1年は午年の善男善女にあやかって、ポ

ジティブ・シンキングを信条に邁進してみよう。

そんな午年への願いを込めて、昨年11月、北

海道日高地方にあるホッカイドウ競馬門別競馬

場で、生涯初の馬券を買った。門別競馬場はナ

イトレースが大半。照明塔の青白い光がコース

をまぶしく浮かび上がらせている。第10レース

でピンときたのは、3枠ウイッチワンドと4枠

レッドハピネス。3着までに入る馬を2頭当て

ればいいという、初心者にもハードルの低い普

通馬複という馬券を薦められ、券売機で購入し、

席につく。

緊張しすぎてスタートの瞬間を見逃したが、

サラブレッドの一群が、地方競馬最大規模の4

00m直線コースに入るや、突然、心臓をつか

まれたように体がぐらっとした。鳴り響く蹄の

音がドップラー効果のように迫ってきて、あっ

という間に遠ざかっていく。スタンドからでも、

薄い繊細な皮膚の下でしなやかに脈動する筋肉

がありありと見えた。

1着レッドハピネス、2着ウイッチワンド。

なんと、私が買った2頭が1、2着となった。

とはいえ、小心者なので100円の馬券の配当

は330円だったけれど。

それにしても、直線コースであれほど心揺さ

ぶられたのはなぜだろう。それは、生命の塊が、

全存在を駆けて走る美しさへの驚きだったので

はないか。私が日高に来るたびに見ていたのん

びり草を食む馬たちは、この一瞬のためにアス

リートとして鍛えられていたのだ。

道営ホッカイドウ競馬が、中央競馬とも他の

地方競馬とも異なるのは、馬産地で行われる競

馬である点だ。馬は6カ月で乳ばなれし、1歳

で調教開始、2歳で競走馬デビューするそうだ

が、ホッカイドウ競馬を走る馬の多くが2歳馬。

ここで初めてのレースを経験し、地方競馬や中

央競馬に転厩して厳しい勝負の世界の階段を

上っていく。また、市場で売り切れなかった馬

を、生産者自ら活用もする。だから馬主の約半

数が生産者だという。ここは若い駿馬が故郷に

抱かれながら競い合う場なのだ。観戦エリアの

ドームは清潔で近代的、ジンギスカンも味わえ

る広場やグリルハウスは芝生の緑と木を基調に

したナチュラルなデザインで、欧州の地方競馬

のイメージ。馬たちも「ここが僕らの地元なん

だよ」と誇らしげに見えた。

日高地方の馬産の歴史は、明治5年にできた

新冠御料牧場に遡る。日高は雪が少ないので、

冬の間も放牧してミヤコザサなどを食べさせら

れる利点があった。やがて軍馬の生産拠点のひ

とつともなったが、戦後しばらくまで、日高農

業の中心は、大豆、小豆、あわ、そば、馬鈴薯

などの畑作と水田であった。素焼きの管で暗渠

排水も施され、河川の沖積地で良質米が生産さ

れていたという。太平洋岸の海霧のために最初

究極の

 アスリートを育む

     土づくり

ノンフィクションライター

北室 

かず子

Kazuko K

itamuro

シリーズ❶

Page 2: 究極の アスリートを育む 土づくりdokaikyo.or.jp/back_number/kaishi_new/284t_06.pdfジティブ・シンキングを信条に邁進してみよう。 ... だよ」と誇らしげに見えた。のイメージ。馬たちも「ここが僕らの地元なんしたナチュラルなデザインで、欧州の地方競馬る広場やグリルハウスは芝

31 土地改良 284号

から牧草しか育たなかったのかと思っていた

が、そうではなかったのだ。

転機となったのは1970年からの米の生産

調整で、ちょうどその頃、競馬ブームが起こっ

た。あっという間に水田は牧草地に変わった。

牧草地への転換にあたっては国の事業としての

後押しもあった。日高地方は、米から馬へ、劇

的な構造転換を遂げた地だったのだ。

現在、全国で約1000戸の競走馬生産農家

のうち、実に8割が日高地方に集中。年間約6

800頭が生まれるなか、日高生まれは約54

00頭を占める。そんな日本の馬産を担う地で

真剣に取り組まれているのが、アスリートとし

ての馬を育てる草づくり、土づくりだ。

牧草地の7割近くは火山灰土のため、排水が

良好で酸性・リン酸固定力は弱く、施肥成分は

流失しやすい。そこで褐色森林土を牧草地に散

布する客土が行われている。その効果は、マグ

ネシウムなど不足している土壌養分を補給し、

粘土の持つ保肥力の補充をし、粗粒火山灰や膨

軟な土壌を抑えること。それが、馬の蹄に対す

る耐踏性を高めることにもつながるそうだ。

では、アスリートを育てる草とはどんな草だ

ろう。それはさまざまな牧草を栄養バランス良

く、安定的に食べさせることに尽きるという。

放牧草の栄養価は、チモシー、ペレニアルライ

グラス、ケンタッキーブルーグラスなどのイネ

科植物とマメ科植物の割合、土壌の養分バラン

ス、利用する季節、草の高さによって異なる。

サラブレッドは草の選り好みが激しいので味の

優れたものであることも不可欠だ。

北海道日高振興局日高農業改良普及センター

では、日本軽種馬協会が中心となって行った土

壌分析に基づき、窒素、リン酸、カリ、マグネ

シウムのバランスを考慮した施肥の方法、圃場

の草の構成を農家にアドバイスしている。造成

したばかりの牧草地は牧草の割合が多いが、数

年で雑草が増えてくると除草剤で枯れさせて牧

草の種を蒔き直し、牧草地を更新することも必

要だそうだ。牧草地は半永久的なものかと思っ

ていたが、大胆なリセットまで行われていると

は驚いた。

現在、日高地方では、馬の精神力を鍛えるた

め、夜も牧草地で過ごす昼夜放牧が行われてお

り、1頭が1日に生草で40〜50㎏を食べる。最

も利用されているチモシーは1haで3〜5頭分

の牧草が生産されるが、牧草をすみずみまで食

べられるわけではないので、1haに1頭放牧が

理想らしい。なんとゆったりした居住環境だろ

う。広大な大地ならではの贅沢ではないだろう

か。日

高振興局によると、競走馬のために公共事

業で土地改良が行われることはないという。そ

れは競走馬という特殊な「農産物」は、土地改

良の成果が直接見えにくく、事業としてなじま

ないためだ。しかし営々と築かれてきた農業基

盤の上にサラブレッドの故郷があることは間違

いない。「よい草は、よい馬に」が日高の常識で、

有名牧場は、欧米の先進地から土壌や草地の専

門家を招いているそうだ。

これまで無数の名馬が誕生した日高だが、

ホッカイドウ競馬に所属しながら中央競馬や海

外のレースに挑戦し、国際G1レースに勝利した

「コスモバルク」と

いう土着のエースも

いる。午年の今年、

新しい地元密着のス

ターが誕生すること

を夢みて過ごしてみ

たいものだ。

日高地方

門別競馬場1コーナー付近(写真提供=北海道軽種馬振興公社)