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第1回

政治学/政治学Ⅳ (2018年度第1学期第2タァム、兵藤) long version

<オォリァンティシャン(オリエンテーション)>

○ 政治一般を中心に講義する(という珍しい授業である)。政治一般という言葉は聞き慣れないかも知れない。どんな時代にも、どんな国や地域にも、どんな政治体制にも見られる政治現象を指す。従って、ディモクラシ(デモクラシー)は対象とはならない。ディモクラシは、その起源が紀元前のギリシャ地域のポリスにあるとしても、内容を異にするので、専ら現代政治に広く見られる現象である。

◯ 2007年度から、政治制度の概要部分を特殊講義「政治制度論」として独立させ、この講義を政治一般に特化させている。また2009年度から、講義内容の一部(決定、責任、リィダシプ等)を特殊講義「政治と決定」に移し、さらに2013年度より、内容を一部変更して、「政治学基礎」としている(2017年度より新カリでは政治学Ⅲ)。なお、2012年度から、全学の方針(文科省の指導?)で講義回数が1回増え、15回に変更されたため、構成の一部を変更している。2018年度から始まった新しいカリキュラムには、この科目は含まれないこともあって、懸案だった全面改訂は行わないことにした。今回は前回のプリントに多少手を入れた程度だが、簡略版を作る(予定である)。

○ 多くの大学で政治学という名称で開かれている講義に較べれば、水準が高いのかもしれないが、講義終了後に実感されるように総じて難しくない。わかり始めると本当に簡単だろう(さらに云えば、わからないことを楽しめるようになれば、大学生としては及第である)。ただ、そこに到るまでが少し大変ではある。この講義の内容は、おそらく皆さんが政治学について抱いているイミジ(イメージ)とはかなり違っていて、多岐にわたっているように見えると思う。ともあれ、大学の授業がそうであるように、よく考えることが求められる。政治現象の理解は、いわば立体のジグソォ・パズルに取り組むようなもので(立体の場合、あちこちのピースを手で持ちながら、他のピィスの置き場所を考えなければならない面倒がある。平面はその点楽である)、最初は戸惑うかも知れないが、そのうち全体像が見えてくる(はずである)。政治現象について柔軟な見方ができ、緻密に論証できれば充分であり、試験問題及び採点基準の趣旨もそこにある(過去の試験問題・講評等は、HP(http://www.jura.niigata-u.ac.jp/~mhyodoを参照のこと)。なお、過去の出題でこのプリントと関係する問題はメモゥ(メモ)しておいた(政治制度論とあるのは旧カリの政治学を指す)。自明といえる事柄はほとんど存在せず、自明にも自明の理由があることに留意すること。

○ 講義プリント(授業評価アンケートで毎年のように「レジュメ」が多いと指摘されるが、何度もいうように、これはレジュメではない。予習復習のためのプリントである。読本(リィダ(リーダー))に近い)はまだまだ完成度が高くないので(プリントの量が多いという批判も授業評価アンケートに登場するが、これでも30万字程度なので、せいぜい教科書1冊分である)、講義中に加筆修正する。政治現象を読み解くセンスに自信のある人は講義を聴くだけで、このプリントを読む必要もないが、事前にプリントを読んでおくと、少なくともわからない点がはっきりするだろう。なお、このプリントを講義の際に紙媒体で配布しないのは、配布時間の節約に加え、各自の好みのレィアゥト(レイアウト)に合わせてノゥト(ノート)を作りたいという学生の要望に応えるためである。プリントをノゥト代わりにする場合、ファイルの左側が表に来るように並べて、例えば、1頁のコメントは2頁の裏に書くようにするといい。その際、プリントの印刷は逆順にすると楽(ワード2010だと、「ファイル」タブ→「オプション」→「詳細印刷」の「印刷」オプションにある「ページの印刷順序を逆にする」をオンにする)。

○ 公務員試験向けを含め、多少なりとも「実用的な」言葉は、外国語と同様、ブロク(ブロック)体and/orイタリク(イタリック)体or下線にしてある(希語はラティン(ラテン)文字表記も書いておいた)。このプリントでの西洋系の外来語のカタカナ表記については、その一部を一般の表記とは変えている(例えば、ノートではなくノゥト、デモクラシーではなくディモクラシ。その理由については、最後の参考資料を参照のこと。なお、すでにおわかりのように、少なくとも初出で(   )内に一般の表記を書いてある。

○ 質問はe-mail ([email protected])で送ってもらってかまわない。ただ、大学の喫煙環境の変化により、毎日朝から夜まで研究室にいる生活を止めた。従って大学には毎日来ないため、返事は遅れ気味となる点を了解してほしい。オフィスアワは、金曜日12:30~14:00(事情により、シラバスに書いた火曜日から移した)だが、他の講義と兼ねているのでアポィントメントを取って欲しい。試験については7/17か7/24に世論調査を実施する予定である。今回は、同じ曜日に2コマ授業を行うという変則的な開講スタィル(スタイル)なので、早めの方がいいとは思っている。なお、試験の出題方法を2014年度では工夫した。単位取得という点では難しくないというのが学生の評判らしい。

○ 講義中の私語は厳禁。携帯電話の使用も同様(場合により没収し、「処分」する。ところで、威力業務妨害で告訴する可能性はあるのだろうか、単なるマナ(マナー)違反で処理されるのだろうか、わからない)。出席はとらないので、おしゃべり好きの人や、携帯・スマホ中毒という「心の病」人は、その種の病の伝染性が高いこともあり、出席しないでほしい。出席しなくとも、通常の理解力があり、プリントと過去問を勉強すれば、単位は取れる。大学は大人の世界です。「ガキ」のいる場所ではない。

○ 講義予定(なるべく毎回1つのテェマ(テーマ)について話すように構成したつもりだが、毎回扱う分量が相当に異なるので、必ずしも各回と予定とが対応しない場合があることを了解のこと)。しかも、今年度は、変則的なクォタ制で行うから、上手く割り振れるかやってみないとわからない。ともあれ、大きな区分としては、集団から対応までが第1部、合意から演技までが第2部、管理から体制までが第3部、統治から政治までが第4部である。何とか、この中に、スペクタクル(見世物、舞台装置)を組み込もうと考えていたが、またカリキュラムが変更されたこともあり、時間がとれずに断念した。ただ、本講義では、9.演技や12.制度の部分にその言及が多少ある。取り上げるべき項目は数多い。興味のある人は、最後の掲載している資料1に挙げる参考文献の目次と、本講の目次とを比較されたし。本講では、政治現象を分析する上で必要な概念や道具をできるだけ取り上げているつもりだが、多くの他大学のように4単位ではなく、2単位で講義しなければならないなど講義時間などの制約もあり、重要度が低いと思われる項目について省略しているか、あるいは「政治制度論・政治学1」、「政治過程論・政治学Ⅱ」「政治学基礎・政治学Ⅲ」で説明している。なお、以前、法学部1年生向けに作成したものに手を入れて、補足とした。

<講義スケジュゥル>(第11講と第12講を入れ替えた点以外は、シラバス通りである)

第1講(6/12) 1.はじめに (政治現象は難しい?、従来の説明、政治と政治学)

第2講(6/12) 2.集団(個人と集団、社会階層)

第3講(6/19) 3.状況(環境、認識、価値、問題状況)

第4講(6/19) 4.秩序(意味、コスモス、安定、中心)

第5講(6/26) 5.対応(問題への対応、問題と解決、問題の加工)

第6講(6/26) 6.合意(強制と同意、騙す)

第7講(7/03) 7.説得(正統性・正当性、政治資源)

第8講(7/03) 8.表現(修辞、言葉)

第9講(7/10) 9.演技(役割と演技、説得と演技、説得と演出)

第10講(7/10) 10.管理(おさめる技能としての管理、様々な管理)

第11講(7/17) 11.制度(制度化・状況化・伝統化、儀式と儀礼、制度化とその限界)

第12講(7/17) 12.組織(組織化、地位と序列、組織と意思形成)

第13講(7/24) 13.体制(体制と運動、運動と参加、政治変動)

第14講(7/24)  14.統治(おさめるとおさまる、統治と説明、統治と国家)

第15講(7/31) 15.政治(政治現象の特色、政治現象と政治学) 授業評価アンケェト

学期末試験(7/31)

1. はじめに

1.0 何が問題なのか、あるいは、問題とされてきたのか ~

1.1. 政治(現象)は難しい?

1.1.1 冒頭から「政治(現象)は難しい」と言えば、導入・案内としては好ましくないのかも知れない。しかし、政治学は教える教師にとっても難しい。難しいことを易しく説明するのがプロの仕事という意見はあるが、易しく説明できるものは、もともと難しくない。一般には、知識が増えるとわかった気がして、簡単に思えてくる。おそらく、答えが1つしかない場合にはそうだろう。しかし、知れば知るほど、難しくなる場合がある。大学の学問にはそういう性質がある。その意味で、政治現象の理解は簡単ではない。

例を挙げる。「安倍首相は、先週日曜日午後2時頃、銀座四丁目の交差点で行われた街頭演説で、消費税を上げると云った」とする。この発言を理解するには、どのような知識や考察が必要だろうか。思いつくまま挙げると、「首相という地位の持つ制度上の意味(政治制度論)」、「消費税増税を進める上で首相が置かれている状況(政治史)」、「安倍という政治家のパァソナリティ(政治家論、リィダ論・リィダシプ論)」、「安倍首相が発言を行った理由や動機(政治心理学)」、「この発言の持つメシジの内容(政治言語学、認知科学、コミュニケィション論)」、「消費税増税の理念や発想(政治思想、政治哲学、政治経済学)」、「消費税に関する知識(行財政学)」、「消費税増税の持つ政策上の特色(公共政策、行財政学)」、「他国の消費税(比較政治学)」、「消費税を進めるために必要な手続や手段(政治過程論、行政学)」である。

こうした論点を踏まえながら、首相の発言を総合的に判断することが求められる。しかも、同じ人間の同じ(ような)行為が聴き手によって異なる意味を生む。意味は発信者の中に発し、発信者と受信者との間に生じ、受信者の中に生まれるからである。もちろん、人が変われば、意味や効果が変わる。政治は固有名詞という。安倍首相がこの発言を行ったのは、権力(地位)を維持したいからだけかも知れない。街頭演説とテレビではメシジ(メッセージ)が異なってくる。自民党や公明党の了承を得ている場合と得ていない場合では、メシジが異なってくる。「日曜日+午後2時+銀座四丁目」と、「平日+午前8時+JR新橋駅前」では異なる。たった一つの政治的行為を理解するだけでも、考慮すべき点が相当ある。これが政治現象の特色であり、政治現象が難しい理由である。人間を総合的に理解することが絶えず求められる。厄介極まりないが、それだけに興味も尽きないし、これまで小説、テレビ・ドラァマ、映画などで多くの人を魅了してきた所以である。

1.1.2 政治は、一言で言えば、集団で起こる問題に対応すること(→1.3.1)だろう。これが政治一般の現象に見られる「幹」に当たる。しかし、現実は「ため息」が出るほど扱いづらい。

1.1.2.1 洪水は天災だろうか、人災だろうか。花粉症は天災だろうか、人災だろうか。洪水や花粉症という災害の原因を天災と人災のどちらに求めるかで、どのような違いが生まれるのだろうか(「地震により、民間企業(Y)が運営する原子力発電所の施設から、農作物の栽培に悪影響を及ぼす量の放射能が周辺地域に漏れだした。そこで、国は当該地域の土壌を除染することとした。国が税金(所得税を想定してよいが、もちろん他の税を考察に入れてもいい)を用いて施策することの是非を論ぜよ」(2013年度政治学基礎学期末試験選択問題。政治学基礎は新カリでは政治学Ⅲ)。花粉症は専ら人災なのに(国の林業政策の副産物)、誰も損害賠償を請求しないのは面白い。その理由が分かると、政治現象が見え始める。

◎ 自然と人事は対応するという考え方を天人相関説という。さらに、君主が過ちを犯すと、天は「災い」をおこして警告し、さらには異をおこすという考え方を天人災異説という。科学万能の時代でも、この種の「非科学的な」発想は残っている。身近な例では、「雨男、雨女」なんかがそうだろう。「雨男、雨女」が本当に存在するなら、特別国家公務員として採用し、砂漠地域に派遣して国際貢献できる。そんな天分や才能など存在しないが、存在するはずもないものを、存在するかのように思うこと、冗談ですよと云っている場合こそ、心底信じているものである。

1.1.2.2 貧困の原因(犯罪の原因)は、運命・宿命(犯罪遺伝子)か、本人の怠惰(悪行)か、それとも社会環境(家庭環境)によるものだろうか。あるいは、才能・努力・運不運のうちのどれだろうか。このうち、どれを原因とすることで、貧者の扱いにどのような違いが生まれるのだろうか(「貧者の救済は政府の仕事である」(2006年度政治学学期末試験選択問題)

1.1.2.3 恋人の殺害という問題は、犯人逮捕で解決されるのだろうか。どの部分が解決されて、どの部分が解決されないのだろうか。また、解決されないなら、どうするのだろうか。

◎  直接にはこの問題に関係しないが、どうしようもないことに対する心の処理とその葛藤という問題がある。例えば、湊かなえ『告白』(双葉社)はその好例だろう。自分が「失敗作」だという批判への怒り、他者に自分の価値を認められる喜びと哀れなど、である。そういえば、「リア充」という言葉がある。何とも不思議だが、何を焦るのかと思うが、どうなんだろう。

    1.1.2.4 自分の欲求や欲望を充たすために、他者の欲求や欲望を抑制してもいいのだろうか。肯定するにしても、否定するにしても、それは何故だろうか。

    1.1.2.5 羊飼いは狼から羊を守る。では、羊を見張る羊飼いが「悪人」の場合、誰が羊を守るのだろうか。すなわち、羊飼いを誰が見張るのだろうか。さらに、その羊飼いを見張る者を誰が見張るのだろうか。その羊飼いを見張る者を見張る者を誰が見張るのだろうかと、いつまでも続く(無限後退・無限遡及)。暴力団の暴力は警察の正当な暴力(権力)で抑制するとして、その警察の権力は誰が抑制するのだろうか(Cf.「権力濫用の防止には権力を必要とする」(2006年度政治学学期末試験選択問題))・。

◎ 子どもは親が守る。では、親による虐待(殺人)が多い中、親から子どもは誰が守るのだろうか。ところでよく用いられるこの例えだが、羊飼いはイエス・キリストを含意する。従って、羊飼いが悪人の場合とは何を意味するのか、そのあたり指摘が少ないかも知れないが、面白いと思ってはいる。

◎ 少し話しはズレるが、先日のテレビでこんな話があった。こちらの方が分かりやすいと思うので紹介しておく。街頭でのティッシュ・ペィパ配りのバィトがサボっていないかどうかを見張るバィトがあって、そのバィトがサボっていないかどうかを見張るバィトがあるということである。いつまでも安心は得られない。バィトを使う人の苦労も一通りではないと言うことだろう。

1.1.2.6 共存を拒否する人間と、どのように共存するのだろうか。例えば、西洋風の基本的人権の尊重が、自分たちの文化の存立を損なうと考える個人Aや集団Bが、他の個人Xや集団Yの基本的人権を侵害する場合、その個人Aや集団Bの基本的人権を、個人Xや集団Yは尊重すべきだろうか。他者の人権を平気でないがしろにするような「連中」の人権を何故守らなければならないと教えられるのだろうか(「共生を拒否する人との共生」(2013年度政治学学期末追試験問題・2014年度政治学学期末試験問題))。

1.1.3 政治現象(あるいは社会現象)を考える前提・所与の例(順不同)

1.1.3.1 個人は、通常、他者の協力を得なければ生存できない。他者との共存には各種各様の我慢が必要となり、その我慢はしばしば痩せ我慢である。例えば、自分達を殺そうとする人を生かし続けるのは立派だろう。また、困っている人を助けないのは「自由」だが、その場合、その自由を主張しながら、自分が困った時に他人の助けを求めるのは、倫理的・道徳的に反している(身勝手)と見なされやすい。「他人にしてもらいたいことを、他人にしなさい」といったような倫理ルゥルを黄金律(Golden Rule)と呼ぶ。この類いのものは、聖書や論語などに見られる。また、義務を完全義務と不完全義務に分ける(カント)ことがある。単純化すれば、やると/やらないと誉められ、やらないと/やると怒られるのが完全義務、やると/やらないと誉められるが、やらなくとも/やっても何も言われないのが不完全義務である。人助けは、その内容や立場(人間関係)にもよるが、不完全義務の代表例である。

問題) 川で溺れている人を助けるのは立派な行為である。しかし、その前提は救助する能力があることである。果たして、能力の有無によって、行為の評価は変わっていいのだろうか。また、その人に課される義務や責任は変わるだろうか。もし変わるとすれば、能力がない方が責任を問われなくなるが、それは妥当だろうか。

1.1.3.2 個人間に生じるすべての不平等を解消することはできない。少々シニカルに云えば、運不運を含め、不平等こそが自然の(すなわち、人間社会の)常態であり、摂理である。そして、人間はその摂理に抗おうとする随一(唯一)の動物だろう。

◎ 人間は1点を除き、不平等である。その1点とは死である。但し、寿命は不平等である。この死における平等こそ、人間の平等性を最終的に担保するのものなのかも知れない。戦争などの争いでは、人間の平等性が実感され、身分制の論理が崩されやすい。

◎ 映画監督の河瀨直美さんがこんなことを書いていた。「動物の中で子の面倒を見るのは当たり前でも親の面倒を見る生き物は人間だけだ。その行為自体、自然の摂理に反する、人間の思いの表れという。」、その後に「人はいつか死ぬ、けれどそうして親を思い、生かされてゆく日常に私たちは目を背けず、今を慈しんでゆかなければならない」(『毎日新聞』2017.02.05)河瀨直美のたたなづく)。落ち着いて生活・人生を見つめる、色々なことを引き受けようとする態度の大切さでもある。

1.1.3.3 人間関係から、支配や暴力、抑圧を抹消することはできない。従って、程度問題であるが、その程度が重要である。

◎ 「暴力である/暴力でない」といった単純な二分論は、裁判など白黒(黒白)をつけるのに頻繁に用いられるが、問題が明快になるように見えて、実は見失うことになる。それに、100%の暴力、100%の非暴力など滅多に存在するものではない。

◎ 人間は生まれながらにして、あるいは本来の姿として、自由でも平等でもない。差別(論)の根強さは、その自然性にある。だからこそ、自由や平等の要求が尊く見え、意味があるのだろう。

 ◎ 仮面などをつけて、自分の正体がわからないようにして集まる。不平等が当然の日常で、平等の担保にはこういう風な舞台設定や舞台装置が必要である。正体がわかっていても、社会的身分を一時放棄することはある。お祭り、銭湯・温泉、飲み会の無礼講などである。社交する上での教養としての連歌が着目される理由でもある。ただ一時ではあっても平等になるというよりは、そういう演技をするということである。裸のつきあいとなる銭湯・温泉でも部下が上司の背中を流し、「今日は無礼講だ」と宣言が出た飲み会でも、平社員のタメ口は次の日以降の社内のネタとなる。人間の根源的平等を想起する政治の舞台装置の1つは選挙であり、だから選挙はお祭りでもある。各人の投票価値の平等が強く求められる所以である。

1.1.3.4 欲求は充たされ得るが、欲望は充たされにくい。欲望は「他者の欲望」だからである。お金が欲しいのか、お金を持っていると人に見られたいのか、モテたいのか、モテる人だと思われたいのか、区別しづらいことがある。

1.1.3.5 問題解決が流行っている。しかし、問題は、必ずしも解決されない、あるいは解決されるものはそもそも大した問題ではない。正確に言えば、解決しえない問題が数多くある(→5.3.5、difficultyとpuzzleという区分)。

1.1.3.6 人間が自由かどうかは結局わからないが、人間は自由を求め、この自由の希求は相応に尊重される必要があると考えられている(良き政治の1つの指標)。

◎ 自由の強調は、政治学が価値中立ではあり得ないことを示している。尤も、そもそも社会現象に関して価値中立であることなど可能ではないと考えた方がいい。ただ、良き政治を求める政治学と政治現象を解明しようとする政治学とを分ければ(→1.2.3)、後者は価値中立を標榜できる。そうでなければ、価値中立の主張は単なる無自覚や無頓着に過ぎない。

1.1.3.7 「なべて世はこともなし」とは思い切れない。世の中、ままならない。そして、それこそが、自然や世の中の条理であっても、人間は自ら作り出した合理性あるいは道理の規準に従って、これを不条理であるとみなして、克服しようとするのだろう。ただし、その人間中心主義の態度こそが現在再検討を求められている面もある。一方で、「自然とともに生きる」という言説にも欺瞞が含まれていることは注意した方がいいだろう。そもそも「自然とともに生きる」とはどのような状態なのかもわかりづらい。それに、その主唱者が思っているほど、自然とともに生きることは、とりわけ現代人には簡単ではないというよりは、不可能である。そして、しばしば、その主唱者は東京などの都会に住んでいる。

1.2. 従来の説明

1.2.1 古今東西の「賢人」たちはこれまで政治現象の説明・解明に取り組んできたが、納得できる答えを提供できていないのは何故だろうか。政治現象のどの部分が難しいのだろうか。

1.2.2 これまでの政治の定義の例

    1.2.2.1 「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」(マックス・ウェーバー)

1.2.2.2 「紛争が権力を媒介として解決されていく社会現象」(丸山眞男)。

<紛争―解決モデル> 

・紛争-解決 → 紛争-政治-解決  ⇔  政治-紛争-解決-政治

・紛争-(支配従属関係-政治権力の正統化-政治権力の編成及び組織

-権力・利益・名誉等社会的価値の分配)-解決

「政治とは、自然においては調整されない利害や価値の闘争を権威により調整する作業といえる」(押村高)という表現も同様だろう。「権力を媒介とした紛争解決」というのは、政治の基本イミジかもしれない。しかし、解決すべき問題は紛争とは限らない。権力を媒介としない解決もある。それに、解決とは、かなり怪しい概念である。

 1.2.2.3 「(社会的)価値の権威的配分」(デイヴィド・イーストン)。これも標準的な解答であるが、価値に限定している点が政治理解をかなり狭めている。政治は意味を提供する機能(あるいは副産物として、さらにはそれを目的として生み出す役割)も持っているからである。なお、当たり前のことだが、(再)配分するためには、その前に「収奪」しておく必要がある。課税は強制である(それを国民の義務というのは、統治の必要とはいえ、物の言い様、レトリク(レトリック)である)。類似した説明に、「稀少価値の合理的配分」があるが、これも価値(財)に着目する傾向がある。また、合理的配分の「合理性」が経済的合理性だとすれば、この定義の適用範囲はかなり狭い。

1.2.2.4 「暴力の世界における自由人の最後の言葉」(どこかで読んだのだが、未だに初出未確認)。

政治と暴力とを対比すれば、こうした定義の気分は分からないでもないし、文学的な表現とは云え、相当魅力的だが、やはり気分に留まるだろう。それでも、「最後の言葉」というシニシズムは共感できる。政治現象の考察の出発点は絶望にある、あるいは政治学者に共通する出発点には大小の絶望あるいは諦念がある。このあたりが、法律学者、経済学者、社会学者など他の文系分野との違いかもしれない。

1.2.2.5 「身勝手な個人の行動と社会の安定・平安との調和」(これもどこかで読んだのだが、未だに初出未確認)。これも古典的な説明で頻繁に用いられている。個人行動と社会平和との調和となれば、射程距離は相当に広い。これを延長させれば、個人の自由を前提に、社会(集団)を運営する仕組みということになり、さらに射程範囲は拡がる。

1.2.2.6 「公的意思を形成するシステム」(これはよく使われる表現だが、初出未確認)、「国家意思を安定的に決定し運営する一般的システム」(坂本一登)、「政治という活動はある集団(典型的には国家)の目的なり利益なりに向けて自己決定し、それを実行していくことをめぐる諸活動」(佐々木毅)。2番目のものは国家には限定されているが、わかりやすいかも知れない。最初の「公的」を集団と読みかえてよければ、「公的な意思を作り出すシステム」という定義も相当に射程範囲は広いが、システムという発想への反発もあろうし、まさにその「公的」を問うのが政治だという反論もあろう。H.アレントなど、公的意思の形成と人間のあるべき姿(言葉によって他者との関係を築くこと)とを結びつける定義も多い。また、「複数の人間と単数の決定を結びつける営み」(國分功一郎)は、同書にあるように、アレントの複数性(多数性)の政治観と類似している。「およそあるべき社会の姿を構想し、そのような方向に向けて、社会の諸資源を適切に配分していくための、公的な意志決定のいとなみ全般を指す」という、幾分あちらこちらの定義をつなぎ合わせた説明が網羅的かも知れない。

1.2.2.7 「政治という現象は、荘重な資格を帯びた人物を取り捲く、象徴や強大な特権をめぐる焦点化である」(山口昌男)。文化人類学から政治を見ると、このように見えるのだろうし、学ぶところが多い。システム論などが無機的なのに対し、こちらの方は人の顔が見えるからである。

               1.2.2.8 マイケル・オークショット風の、政治とは、あるまとまりのある集団に秩序を与える一般的な取り決めに関する活動である(一般的な取り決めを作るのではない)、といった定義は扱いが難しいが、魅力的である。

           1.2.2.9 バーナード・クリックの定義はむしろ古典的だろう。「政治は、[中略]秩序問題を解決できる策の1つに過ぎない」、「[政治を単純に定義すると]、一定の支配単位内の相異なる諸利害を、全共同体の福祉と生存とにめいめいが重要な程度におうじて、権力に参加させつつ調停するところの活動」である。あるいは、同書にある福田歓一の説明をさらに簡略すれば、政治とは、統治(government)の1つの特殊な形態であり、不当な暴力を用いずに、一定領域内の、調停を必要とするほど諸利益が分化した社会を支配する方法である。政治と統治とを分けていることに加え、支配や暴力という言葉を避けていないところが、いわば「直球」だろう。

          1.2.2.10 カール・シュミットは、政治の本質を「友敵関係の峻別(Freund – Feind – Unterscheidung) 」に求めたとされることが多いが、そんなに単純な話でもないように思える。ただ、美学の美醜や道徳の善悪のような固有のカテゴリィを求めたと考える程度でいいだろう(Cf.2.1.9, 2.1.10)。その意味では、友敵関係は政治の独自な指標のようなものだろう。

    1.2.2.11  共存と関連づける定義の例。センスの良さを味わってほしい。このような何年も残る味わい深い言葉を思いつくことは本当に難しい。

1.2.2.11.1  政治とは、人間の共存と共存象徴との間に存在する矛盾の解決である(岡義達)

◎ 2016年度第1学期学期末試験課題、次の課題について、柔軟に発想し、緻密に論じなさい。講義の内容を参考資料とし、自分なりに筋道を立てて議論をまとめなさい。「人間がおのおの異なった価値をもつ以上、本能にのみ依存し本能によって規定される「自然」のままの共存は不可能である。人間社会は常に「いかに共存するか」という問題がつきまとっているために、人間は共存についてなんらかの観念をもち、これをなんらかの形式で表現する。この形式を共存象徴と呼ぶ。共存象徴は共存の表現であり、風俗、慣習、法律などさまざまな形で表わされる共存の志向をそのなかに含んでいる。したがって、共存そのものと共存象徴とは矛盾する可能性を常に持つ。政治とは、人間の共存と共存象徴との間に存在する矛盾の解決である。」)

     1.2.2.11.2  政治とは、問題との共存である(エーデルマン、資料3、永森誠一)。今の処、この定義が最も優れているように思っている(が、さらに一工夫できないかとも思っている。「政治の根は人間性よりふるい」(フランス・ドゥ・ヴァール) からである)。人間の共存ではなく、問題との共存とすることで、射程範囲が相当拡がるからである。人間の共存とすると、読み方によっては、「良き政治」の方に、さらには「正しい政治」の方に引きづらてしまいかねないからである(→1.2.5)。

1.2.3 学者の数だけ政治の定義があると云われる(「政治は○○である」。この○○の中に、言葉を入れて論じなさい。)(2003年度政治学原論Ⅱ・政治制度論学期末試験選択問題)。政治のイミジないし政治現象の中での重点の置き方が異なるのだろう。岡義達の次の説明が基本である。「いまかりに甲が政治の概念を規定して、政治はXである、といったとする。するとXでないものは政治ではない。したがってX以外のものは政治問題を構成することはないことになる。甲にたいし乙が政治とはYであると規定したとき、甲と乙との判断の差異は問題関心の差異に発し、おのおのの立場の差異の例証として用いられることになる。ここに政治の認識が政治の実践へと発展していく契機がある」。あるいは、最初に政治状況への評価と政治実践への意欲があって、それに応じた政治の認識(政治の定義)が作られる。上で出てきた鍵概念を挙げれば、権力、配分、紛争、解決、価値、権威、暴力、自由、個人、平和、社会、集団、公的意思、決定、多様性、資源、象徴、取り決め、利害、共同体、生存、調停、暴力、正当性などであるから、これを組み合わせれば定義ができそうに思える。しかし、権力なのか権威なのか暴力なのか、集団なのか社会なのか、価値なのか資源なのかなど類義語の処理の問題があり、上手く処理できてもかなりの概念が残る。それにしても、政治学を教育・研究する政治学者が、政治現象そのものの説明を探究しているとは必ずしも言えない現状の不思議がある。「政治一般」の考察の消滅、不人気かもしれない。時代や世代の問題もあろうが、「政治とは何か」、「良き政治とは何か」という容易には答えの出ない問題について、頭のどこかで考え続ける習慣が学者の世界でも廃れ始めている。あるいは、「[政治一般の問題をあまり扱わない]アメリカのケースは、ある程度自然であり、現在における種々の困乱にもかかわらず、政党は容器を異にしても内容を同じくし、またそれぞれ<希望の党>と<追憶の党>であった。しかも希望は追憶で新たにされるような形をとっている。それならば、政治問題は別として、政治一般問題がそれほど浮上することはない。政治は文化に規定されるのである」(岡義達)という指摘と同様の現象が日本やヨーロッパでも生じているのかも知れない(「政治における追憶と希望」(2013年度政治学学期末試験選択問題))。政治と同様、政治学者も文化に規定されるということかも知れない。あるいは、アメリカ化、あるいは流行った言葉でいえば「歴史の終わり」は、「政治の終わり」であり、つまり「自省の終わり」である。

◎  戦後日本の政治学会(学界)を代表する大嶽秀夫と田口富久治は、戦後日本の政治学史を描く中で、そのまとめ方に相当の違いがあるとしても、「政治とは何か」を問いかけ続けた「旧き良き時代」を描いている点で共通しているといえる。

◎  閑話休題。歴史を知るには歴史家を知れ(E.H.カー)なら、政治を知るには政治学者を知れとなる。換言すれば、政治学者の社会学(知識社会学)が必要なのだろう。これに関して、いくつか考えられる仮説がある。

(1)  ジェンダ問題でもあるが、政治学では女性研究者の数・比率が少ない・低い理由、また女性研究者の研究対象が公権力の作用(権力闘争)を直接には扱わない分野が多いという仮説は正しいか、正しいとすれば、それは何故か(私法と公法の対比を用い、前者に数が多いとすれば、法律学などにも当てはまる可能性がある)。

(2)  政治思想・政治哲学を扱う研究者の出身地は、人口比でいわゆる農村部が多いという仮説は正しいか、正しいとすれば、それは何故か(哲学研究者が同様に人口比で農村部出身者が多い可能性がある)。

(3)  政治学を政治科学として捉える研究者は、人口比で南関東などの都市部の郊外出身者であるという仮説は正しいか、正しいとすれば、それは何故か(市民や大衆という言葉で思い描く人物像の違いが関係しており、「どろどろ」した部分(=庶民生活)への嫌悪や無知が関係しているといえるか)。

   1.2.4 複雑怪奇な政治現象を扱う政治学は、1つの学問(discipline)ではありえず、法律学、経済学、経営学、社会学、心理学、言語学、歴史学、文化人類学、民俗学、宗教学、神話学、修辞学、象徴学、哲学、倫理学、文学…との連携が必要となる。政治学の分野で培われてきた様々な業績を考えると、ひょっとすると、政治学の「種類」や「分類」として、こんなことが考えられるのかも知れない。法学系政治学、経済学系政治学、経営学系政治学、社会学系政治学、哲学・倫理学系政治学、歴史学系政治学、文学系政治学、文化人類学・民俗学系政治学。この下位区分は、政治学の多様性を示すが、ここで扱うのは、奇妙な表現だが、それらをすべて網羅しようとする「政治学系政治学」、つまり政治一般を扱う「政治学」である。

1.2.5  おそらく、政治現象の探求には、「政治」、「良き政治」、「正しい政治」の問いが混在している。つまり、政治現象は単にその事実経過が記述されるだけでなく、特定の判断基準(価値観)に基づいて分析されるが、自らが依拠する判断基準を自明視して、自省する契機を欠く場合も少なくない。

1.2.5.1 「政治」と「良き政治」、「正しい政治」とは区別しづらい。「政治とは何か」を問いかけているつもりでも、いつの間にか「良き政治」や「正しい政治」の問いかけが混入する。政治の考察は政治の実践と関わるからである。本講義では、「政治」と「良き政治」とをあえて峻別して、前者を広い意味で政治一般として捉え、後者を良き「統治」の意味で用いる。もちろん、両者は密接に関係する。

◎  ここでいう政治一般の考察は、現代の政治学が、どのようなタィプのものであれ、強く影響を受けている西洋政治思想(史)風の「常識」とは距離を置くことになる。すなわち、政治とは、個人(あるいは特定の有力な集団)が単に自己の利益追求を図る営為ではなく、集団(共同体、国家)の構成員が個別の利害を超えた、その集団にとって良きことを考える営為であるという「常識」である。良き政治を考える上では、そのような西洋の遺産は貴重だが、政治一般を考える上では考察の幅を限定する側面もある。もちろん、その遺産があまりにも大きいため、政治と良き政治との峻別は相当にタフな作業である。

1.2.5.2 統治としての政治では、「良き政治」と「正しい政治」とを区別すべきだが、多くの人は「良いこと」と「正しいこと」とが一致すると考えるためか、その区別を自覚していない。「正しい政治」を考える人は、「正しい政治」が「良き政治」であると見なし、「良き政治」を考える人は、「良き政治」と「正しい政治」とを峻別する(傾向がある)。この講義では、「政治とは何か」を中心に考え、必要な範囲で3者に言及し、「正しい政治」ではなく、「良き政治」に重点を置く。「正しい政治」が「良き政治」をもたらすと断言しがたいからである。

1.2.5.3 暴力(権力)と正義(理念)が政治の構成要素かどうか判断は難しい(今のところ、暴力と正義は政治の派生物・副産物だと考えている)が、密接に関連していることは間違いない。暴力の否定の上に政治が成り立つとは簡単には言えない。「正しい政治」は正義を讃え、暴力を敵視するが、「良き政治」にとっては、正義を掲げる人が往々にして暴力的であって「敵」である。正義はしばしば暴力使用の抑制を失わせるが、勧善懲悪と隣り合わせの「デス・ノゥト」の人気は落ちないのだろう。カタルシス(希語:κάθαρσις katharsis,心の浄化、日頃の鬱積した感情の解放、さらにはスカッとした気分)を体感できるからである。正義の追求では、「何が正しいか」が問題であるはずなのに、現実には「誰が正しいか」が問題となるからである。そして、「自分が正しい」ことから、「自分だけが正しい」へと変化するのに大した時間や距離は必要ない。「みんな、それぞれに正しいよね」というのはなかなか保持されない。「自分だけが正しい」のだから、「間違っている」人は啓蒙し、場合によっては排除すべきとなる。このように、正義は(簡単に)暴走する。正義と暴力(及びそれを独占する権力)とが結合すれば、往々にして悲惨な結果を招くのは歴史の常識だろう。

◎  政治の中心的な要素とは何か。権力(暴力)、倫理(正義)、技術(丸山真男)だろうか、政治の基本イミジである権力、技術、政策(岡義達)だろうか。あるいは、権力、価値、象徴(永井陽之助)だろうか。政治をどのように定義しても、権力は入るものだろうか。これがおそらく政治一般の考察の最も重要な論点である。上述のように、この講義では、権力も正義も技術も派生物として考える。問題と集団、その対応が政治を生み出すと考えるからである。

1.3. 政治と政治学(この部分は最後にもう一度読んでもらった方がいいかも知れない。なお、法学部生の方が他学部生よりも政治がわかるとは限らない。また、本来、ここに「政治とは何か」に関する少々長めの文章を貼り付ける予定だったが、今回も省略する)

1.3.1 「政治」(この講義で用いる説明・定義)

1.3.1.1 政治とは、一言でいえば、おさめること。おさめるとは、「モノ(ゴト)を収める」(物の管理)と「ヒトを治める」(人の管理)ことを指す(「人の管理と物の管理」(1999年度政治学原論Ⅱ・政治制度論学期末試験選択問題、政治制度論は新カリの政治学Ⅰだが、この場合は政治学の問題))。もちろん、「モノを収める」ことで「ヒトを治め」、「ヒトを治める」ことで、「モノ(ゴト)を収める」こともある。政治一般の考察では、「ヒトを治める」ことが本筋(幹)である。

1.3.1.2 あるいは、政治とは、management of interests(物の管理→利益調整)を媒介にgovernment of men(人の管理→人の統治)を図る営み(この場合の利益は単なる価値の獲得ではなく、意味の充足を含むので、インタレストと表現する方が好いかもしれない)である。

1.3.1.3 あるいは、政治とは、問題(おさめるべきこと)をおさめようとすること・行為 (to manage what to be managed )である。

1.3.1.4 あるいは、政治とは、本講義の構成と対応させて表現すれば、言語・象徴を用いて環境を価値と意味が付与された状況として読み換え、状況の中の問題を、(価値と意味に沿って)組織化や制度化を通じておさめようとする行為である。

1.3.1.5 あるいは、政治とは、問題との共存を媒介に、他者との共存を図る・図ろうとする営みである。「おさめる」ことと「共存する」こととの違いは視点である。「おさめる」は、「おさめる」側と「おさめられる」側との分離を前提とするが、「共存する」ではそのような統治のニュアンスが(油断していると)消える。なお、共存が望ましいとは一概には言えないが、ひとまずおく(→1.2.2.11)。

1.3.1.6 あるいは、政治とは、その働きに着目すると、権力が社会との間で相互作用し、それに対応して象徴が選択され、選択された象徴が権力の循環に影響を及ぼす中で、闘争、ルゥルやゲィム、ドラァマの位相が交錯する営為である。

   1.3.2  政治学(politics, study of politics, political studies ⇔political science)

政治学は、政治的行為の認識(文法)と表現(象徴)と説得(修辞)に関する自省的考察の学問である。ごくごく大雑把な分類をすれば、事実は科学が、真理は哲学が、真実は文芸が扱う(言葉の組み合わせからすると、もう1つ「事理」がある。これを扱うのはどの学問領域なのだろうか)。そして、政治学には、「政治制度や政治組織の機能や役割を分析する科学的側面」、「政治現象が人間にとってどのような意味を持つのかという哲学的側面(どうあるべきかを考えれば、倫理学的側面)」、「状況における個々人の言動を叙述し、物語る文芸的側面」の3つの側面があり、それぞれ、順に政治科学(political science)、政治哲学(政治思想)、政治史が扱い、政治学はこれらを綜合する。だから、政治学は自然科学に類する意味での科学ではなく、科学の基準が緩やかな社会科学ですらない(はずである)。ところが、自然科学が学問の中心の地位を占めるにつれ、いわゆる文科系の科目も自然科学に近づこうとする傾向があり、現在もその傾向は続いている(ように思える)。科学(science)こそ学問(science)だということになり、社会に関する学問が社会科学となり、「社会科学」の中では社会学・経済学が科学性の点で数歩リードしているとその業界関係者は自慢気だが、当然ながら社会学・経済学内部からも疑問が出されている。科学主義にせよ、反科学主義にせよ、極論であって、要は、探求すべき対象に応じて説明や分析を選べばいいだけだろう。

◎  政治科学は、政治過程論(選挙学、政治経済学)や国際政治(学)、政治哲学は政治学原論や政治思想(史)、政治史は各国政治史が対応する。この3区分は、基礎法学の学問領域である、法社会学、法哲学、法史(法制史)と対応していると言えるかも知れない(資料2)。なお、世界標準となりつつあるアメリカ政治学の影響で、政治学を狭義の政治学と行政学に分ける風習が生まれつつある。その行政学は、政治制度論(学)と経営学と(公共)政策学からなる。制度、経営、政策という3点セットは、まさに権力の存在を露骨には感じさせない組み立てである。ここでいう政治学とアメリカ政治学との違いの1つは、「国民の失敗」(世論の誤謬性)を考慮するか否かにあるといっていいかもしれない。なお、立法、行政、司法という三権を考えれば、行政学と同等程度には立法学が重要ではないかと思う指摘はもっともであるが、立法学は主要な研究領域とはなっていない。

   1.3.3 補足:法律学との異同(この部分は法学部以外の学生は無視してもらっていい)

◎  戦後の政治学、憲法学を代表する京極純一と芦部信喜による対談「議員定数配分の条理と法理」は、同じ問題の見方が政治学者と憲法学者で異なっていることがわかる好例だろうと思う。

1.3.3.1 日本では、通例、政治学は法学部の専門科目として教えられる。ドイツの大学をモデルとした経緯なども関連するが、引照モデルとする近代西洋が、「すこぶる法化された政治社会」だからだろう。

問題) 政治学は政治現象を解明する学問であるから、実は関連する諸学の知見に依拠し、交差領域には独自の名称が施されている。例えば、政治経済学、政治社会学、政治地理学、政治心理学、政治言語学、政治哲学、政治思想(史)、政治史などである。この場合の政治という言葉はそれぞれ異なる意味を持っているが、それはさておき、政治学と最も密接な関係にあると考えられてきた法学と政治学とを融合した「政治法学」という学問領域が「あまり」見られない理由は何だろうか。

1.3.3.2 政治を「おさめること」のように広くとらえると、法(律)は、実は特殊な形態の政治であるともいえる。ただ、法律学(法解釈学・実定法学)は、1つの原理で全部を説明しようとする「還元主義」に基づく知識体系を運用して、問題の解決を目指そうとし、政治学はそうした解決の限界を指摘する(英知の習得を目指す)という違いは小さくない。そうだとすると、「政治とは問題との共存技術である」(Cf.末尾の資料3)という説明の仕方が魅力的になる。総じて、法律学は問題を定型化された解決トゥゥル(ツール)に当てはめて単純化しようとし、政治学は問題の複雑さや曖昧さを維持しようとする(もちろん、複雑さを曖昧さで制御し、その曖昧さが明瞭であると認識して落ち着く)。その意味で政治科学(ディモクラシ論、政治理論)は、学問の体質としては法律学に近い。

問題)  「政治としての法」と「非政治としての法」(2004年度政治学学期末試験選択問題、政治学は新カリでは政治学Ⅳ)

1.3.3.3 問題に対して特定の立場をとることを「党派性」というが、法律学は善悪・正邪の結論(白か黒かの二分法)を出すために党派性を要求し、そのためもあって、論文や答案などでは私見が求められる。これに対し、政治学は、政治思想のイミジもあるから意外かも知れないが、こうした二分法の思考や党派性を不可避であると考えても、正義主張の抑制から、善悪・正邪をどうしても嫌う傾向がある。従って、現在多くの大学で政治学や、政治学という講義題目で教えられているディモクラシ論は、実はその内容からも政治学より法律学に近い。ディモクラシという党派性は、必ずしもその中味が吟味されることなく、所与・自明とされるからである。ディモクラシが理念である限り、運動となる・ならざるを得ない(Cf.13.体制)であろうから、「ディモクラシの神聖化・タブゥ化」は、ディモクラシの自殺幇助だろう。

◎  この講義では、一般の言語慣習に従い、ディモクラシ(民主政)と民主主義とをあまり区別せず用いる(詳細は政治学基礎・政治学Ⅲ)。なお、ディモクラシの先進国を自称するアメリカは、ディモクラシ「論」ではなく、ディモクラシ「学」といえそうである。アメリカでは、ディモクラシが政治社会の成立・維持の根幹にあると考え、実際にディモクラシがどうすれば機能するか、何がその機能障害となっているのかを徹底して考察し、必要ならば制度設計を提起する傾向(あるいは使命感)があって、いわゆる1票の格差是正を例にとっても、原理原則を掲げて議論するだけで実際の制度設計を怠るように見える日本との違いが大きいという印象は拭いきれない。一方で、その意味でアメリカ政治学は比較的首尾一貫しているが、その党派性や党派性にある限界・矛盾(欺瞞)には無自覚である。なお、「学」と「論」との違いは、憲法学と憲法論という言葉の違いを考えればわかるだろう。

問題) 法の世界において最高裁判所が果たしている役割は、政治の世界ではどの機関が果たすのだろうか。もし、果たす機関がないなら、何故存在しないのだろうか。

2. 集団

2.1. 個人と集団

2.1.0 ここでは個人と集団という立て方をしている。しかし、この立て方が正しいのか、ここ何年か考えている。他の動物だと「個体と群れ」と表現されるとすれば、やはり人間は「個人と集団」だと思える。一方で、集団という言葉の「相棒(対義語)」は個体であって、個人の「相棒」は「社会」であるという気もする。このあたり、もう少し考えてから結論を出したい。

2.1.1 集団は、問題と並んで、政治が発生する基本元素である。近代以降、個人は自律して考え、合理的に行動すると考える傾向があるが、19世紀後半以降に発展した社会学や心理学(無意識の発見)が教えるように、現実の個人はそれほどには自律していないし、そもそも他律で生まれ育つ。ものごころがついても、個人の行為や行動のあり方、その価値や意味は集団の影響を受けていることが多い。集団とは、個人が多かれ少なかれ組織化(Cf.11.組織)されたものであり、人間は「群れ」から「社会」へと集団の性質をかえた(Cf.「アリの社会と人間の社会は、どこが同じで、どこが異なるのか、説明しなさい」(1999年度教養政治学学期末試験選択問題))。その「社会」のうち、構成員が統治者と被治者に分かれ、維持されると見なす社会を政治社会と呼ぶ。統治者と被治者との一致を掲げるディモクラシ論からは、統治者と被治者との区分は分業に基づく機能的分離に過ぎないという反論がありそうだが、理念への執着よりは現実社会の理解の方が重要だろう。ただ、後述するように、統治者と被治者とが区分しづらい集団や社会の形態が見られるという指摘もある。

2.1.2 集団は統合と連帯の種類や度合いで分類される(Cf.11組織、12制度)。例えば、群衆(群集)は、共通の目的・関心はあっても組織化の度合いが低く、匿名性があり、情動的な集団であるとされる。個人において観察される事象が、群集になるとまったく異なる様相を呈することも知られている。いわゆる群集心理である。その場合、個人も「群れ」の中では「非合理的」な行動をとる。パニク(パニック)は集団心理の代表だろう。非合理的かどうかはともかく、集団の中にいると、普段とは異なる、大胆で情緒的な行動を取ることは、祭りやコンサァト、あるいはディスコやクラブで経験されているだろう。「一気飲み」は詰まるところ、他者への体面保持の行動で、一人酒での「一気飲み」は、単なるやけ酒に過ぎず、非常事態だろう。

◎  言葉にはニオイがついている。国民、臣民、人民、庶民、平民、市民、公民、住民、民衆、大衆、公衆、分衆は、それぞれどのような「意味合い」や「色合い」が付けられた集団を指すのか。誰か・何かを指す概念であるということは、誰か・何かでないものを除外する概念でもあることに留意すること。この「言葉のニオイ」への敏感が、政治学に限らず、獲得すべき最も貴重な資質である。

◎  少し高度な話だが、文章あるいは文体、表現を、視覚的なもの(visual)と聴覚的なもの(acoustic)なものとに分ける習慣がある。これに加え、嗅覚的(olfactory)な表現もある気がしている。匂いは映像や音声と異なり、現在のところ伝達不可能に近く、それだけ複雑であり、強烈である。匂いの描写が巧みなら、その人の表現力は最強だろう。そういえば、インタネト(インターネット)社会におけるネトワァクが政治資源(→ 7.2 )としてどのような特色を持つのか考えていたところ、足立博がインタネト社会を「においのない社会」と指摘していた。鋭いと思う。次第に、「匂い」というより「臭い」に対し不寛容になり、自己臭が気になり始めると病気だろう。八岩まどかは、日本人は何のにおいもしないという。確かにそうである。臭いを嫌う人間は、どうしてもロボットに近づいているように思えてしまう。

2.1.3 個人は集団の中に生まれ落ちる(この場合の集団を所属集団あるいは帰属集団)と呼ぶ→2.1.7)。個人は誕生時に所属集団を選べず、集団は「個人」から構成されるにしても、所属集団が個人に先行して存在する。人間が「真っ白な状態(羅語: tabula rasa 、タブラ・ラサ)」(ジョン・ロック)」で生まれてくると想定すれば、人間や社会の改良について楽観が得られ、教育など環境の整備が重要課題となる。一方で、社会契約論のように、原初状態で個人が契約を結んで集団を作るという考え方がある。この発想は相当に「不自然」であるが、集団を個人にとって所与とはせずに、個人は集団を作ることができ、また、作らないとしても選べることを強調した考え方であり、所属集団を個人が選択できることに価値をおく個人主義的な考え方であって、実際にも「作為」の産物としての集団は多い(→2.1.7)。

◎ 社会契約論は、個人が最も大切な存在である(個人主義)という議論と似ている。社会の構成論理を個人から出発する発想だからである。しかし、価値体系としての個人の尊重と、論理構成としての個人の尊重とは異なる。従って、後者から前者が導かない論理構成も考えられる。社会契約論から独裁を導くことも可能だろう。

2.1.4 集団は個人を社会化(socialization)する。社会化とは、規範となる行動規準やそれに基づいた定型行動を習得させることである。教育や躾がその典型例で、道徳、法、躾、作法、礼儀などが規範である。論理の順番は、道徳、法、躾、作法、礼儀が先にあって、不道徳、無法(不法・違法)、不躾、不作法・無作法、失礼・無礼がある。逆では無い。集団は構成員である個人を社会化することで維持される。そして、集団は社会的規範からの逸脱行動に対して、様々な制裁(negative sanction)を課す。

◎ 社会化の過程で習得され、言葉遣いなど暗黙の内に規範となる生活習慣をハビトゥス(羅語:habitus<P.ブルディユー)と呼び、集団の構成員が共有する道徳観や行動様式をエェトス(エートス、エトスとも表記される。希語:ἦθος, ἔθος, ethos)と呼ぶ。弁論のやりとりに着目すれば、話し手のエェトスに受け手のパトス(希語:πάθος, pathos)が対応する(アリストテレス)。

2.1.5 集団は個人から構成されるのか(集団は単なる名称に過ぎない。社会名目論)、それとも個人は集団の一部分か(集団は実体である。社会実在論)で、問題の立て方が大きく変わる。個人と集団との関係については結局両方正しいとしか云いようがないが、個人の外にあって、個人の行動などを規定する集団意識(集団表象)の存在を指摘するデュルケーム社会学の影響は大きいとしても、近代以降の発想は、集団が個人から構成されると考えること(個人主義的構成)を基本とし、この約束事(フィクション)に基づく論理構成が社会問題を考える基本文法になっている。

◎ 個人と集団(社会)という対比は必ずしも自明ではない。問題を立てるために有用な約束事である。人間は社会的存在(社会的動物)だから、個人の中にすでに集団(社会)が組み込まれている。従って、個人と社会という対比は、相互に独立していない(あるいは、入れ子になっている)対義語である。

◎ ここでいうフィクションは想定であり、約束事である。フィクションというのが分かりづらければ、円を描いてみるとよい。理論上円は描けない。貴方が画いた円は実は円ではない。非常に細いとしても、幅があるドゥナツ(ドーナッツ)である。しかし、それを円と見なすのが約束事である。約束事が一旦受け入れられると、基本的人権のように、それが実在するように思えてくる点も特色である。類似事例は、「すべての地図はデフォルメである」というものだろう。地図は正確に作られていると思っている人には衝撃かも知れない。

問題) 「日本政府は決定を下した」という場合、日本政府という組織集団が意思を有しているのだろうか、それとも、反対に、これは(認識の癖としての)擬人化に過ぎず、実際には、首相や大臣などの意見の合計・集約に過ぎず、日本政府は単なる擬制(フィクション)に過ぎないのだろうか。

問題) 会社が個人の集団に過ぎないのなら、会社自体に民事責任や刑事責任を問うことはできないのだろうか。会社に対する懲役刑とはその場合何を意味するのだろうか。

2.1.6 集団が個人から構成されると考えると、集団には独自の、つまり個人の集合に還元されない意思がないことになるが、話はそれほど単純ではない。みんなの意見とは、個々人の意見の単なる足し算だとは言い切れない場合があるからである。みんなの意見の代表が民意だろう。一人一人の意思を合計すれば民意とならないところが面白い。どうしても、隣の人が何を考えているのかに影響されるからである。特に誠実な民主主義者にとって厄介な問題は、「民意」とは誰の意思を指すのかであり、またどのようにすれば、民意を確定することができるのかである。それは、民意をどれほど実体的に考えるか次第でもある(人民主権と国民主権における主権者の意思などについては、Cf.政治制度論)。

◎ 民意は、どのような方法を用いれば、知ることができるのだろうか。民意は住民投票で明らかになるものだろうか。マスコミは民意を反映し、代表していると言えるだろうか。私たちは心の中をすっきりとした形に表現するだろうか。「よそいき」の意見を述べること、すなわち芝居はないと言えるだろうか(アメリカ1982年の州知事選では、白人が黒人候補を支持するといって、実際には白人の候補に投票したことがあった。黒人候補に因んで「ブラッドリー」効果という)。「声なき声」(サィレント・マジョリティ。「自ら語り得ない存在」というサバルタン<グラムシ)をどのように吸い上げることができるだろうか。こうした素朴な疑問には答えがたい側面があるが、だからこそ、民意は明らかになるというフィクションの維持が重要である。民意はアプリオリ(羅語:a priori、先験的に、論証抜きに)に存在せず、アポステリオリ(羅語:a posteriori、後験的に、経験によって)に存在するだけである、すなわち、世論調査の結果に顕れたものが民意であると考える行き方もあるが、その場合にも計量可能な民意を想定せざるを得ないから、民意の測定を洗練することが求められる。そうでないと、民意は単なる操作(operational)概念になり、政治家や政党、マスコミの恣意から免れなくなってしまう。なお、世論調査などにおいては、少数派が自分の意見を述べる際に、多数派の意向を重視する傾向にあることが指摘されている。特に、集団による同調圧力の高い日本には、この「流されやすさ」は当てはまるのだろう。少々残念な現象ではある。

2.1.7  集団は、構成員間の関係や発生の原因を基準として様々に分類される。

2.1.7.1 第一次集団とは、家族、近隣集団のように、個人が社会化される過程で集団(社会)の基本的な行動様式や価値観を習得して集団の一員として育てられる社会環境であり、第二次集団とは、国家や政党、企業のように、目的に沿って合理的に組織化された社会環境である。これは、上述した社会化と関連する。社会化は、家庭などでの第一次社会化と、「ものごころ」がついた後での第二次社会化とに分けて考えることもできる。「第一次社会化とは個人が幼年期に経験する最初の社会化」であり、「第二次社会化とは、すでに社会化されている個人を彼が属する社会という客観的世界の新しい諸部門へと導入していく、それ以後のすべての社会化のことをいう」。第一次社会化がまずは重要で、意味ある他者に自己を同一化し、世界の中で特定の位置を獲得する。ただ、第一次社会化では、自分を社会化する他者の選択はほぼ無い(友人は選べるが、家族や生活環境はほぼ選べない)。与えられた世界がすべてであり、いつまでも懐かしい世界としてあり続ける、「自然な」世界である。これに対し、第二次社会化では、他者(仲間)を選択するという点で、自らの運命を切り拓く可能性があるから、近代主義はこちらの方を好む(尤も運命は変えられないから、運命なのではある)。ただ、第二次社会化でも、場合によっては、宗教上の改宗のように「生まれ変わる」こともある(Cf.11.2 儀式と儀礼)。この場合に、その宗教による第二次社会化は擬似的な第一次社会化を意味するのだろう。多くの宗教団体が、信者を「家族のように」受け入れる傾向があるのはその証左だろう。

◎ 集団としての友人という問題の立て方は少し特殊かもしれない。友人関係とはどのような特性を有する集団なのだろうか。これまでの学問は、血縁、身分、職業、あるいは民族などを基準とした集団を分析対象としてきたが、特に水平的な人間関係を強調する時代ならば、友人や仲間といった集団の分析こそが重要だと思うのだが、不思議なことに扱われない。その理由の1つは、外形的な特色でまとめづらいからだろう。だからといって、最も重要なはずの友人や仲間という集団を無視していいことにはならない。

2.1.7.2 テンニースの次の区分はそのわかりやすさから現在も用いられる。ゲマィンシャフト(独語:Gemeinschaft) とは、家族、村落、宗教団体のように、感情、伝統、良心などが共有されている集団を指し、ゲゼルシャフト(独語:Gesellschaft)とは、都市や近代国家のように、利害関係などが共有されている(すなわち、選択によって結びつく)集団を指す。この場合の利害関係には、地位や金銭だけでなく、名誉・生活様式などが含まれることもある。すなわち、価値だけでなく、意味と関わる(Cf.3.状況、4.秩序)。なお、テンニースが、ゲマィンシャフトは本質的に結びついている集団であり、ゲゼルシャフトは本質的に分離している集団だとするのは、結合の要因の性質によるからだろうが、適確な表現とも思えない。人間社会が前者から後者へと変わるとするのは、少々近代的過ぎるし、現実に当てはまっているとは言えない。また、似たような概念だが、マッキーヴァーのコミュニティ(村落や国家など自然発生的な地域集団)対アソシエィション(企業など特定の関心で結ばれた人為的な集団)という対比も重要だろう。さらに、パークは、コミュニティとソサィエティとを分類し、前者は共生と競争を構成原理とし、後者はコンセンサスを構成原理としてコミュニケィションで形成され、習慣・モォレスなどによるとする。これら以外にも分類があるが、多かれ少なかれ類似している。その詳細は、社会学や文化人類学・社会人類学を参照のこと。

◎ 都市論は相当に重要である。都市とは単に人が集まった場所ではない。都市という場、都市という装置の特色がポィントである。現代では人の多くが都市に住む。見知らぬ人と物理的に隣り合って(いわば一緒に)住む。満員電車で知らない人とくっつきながら乗っていられる不思議がある。距離の遠近で他者との親疎関係を調整するという生物本来のあり方があっさり否定される。相互に無関心を装わないと耐えられない。また、農村では多かれ少なかれ知り合いが多い。知り合いの中で生きること、息苦しいが安心でもある。都市では、自由だが、安心しづらい。緊張が高い。こうした状況が、本人と他人・他者との関係に大きく影響する(Cf. 3.4.2)。

◎ メンバ(メンバー)の活動を自由放任すれば、集団が自然解散してしまいそうなことがある。解散が嫌ならば参加強制や説得作業が必要となる。その際、自発性の尊重と集団の維持とがしばしば trade-off の関係になってしまう。集団の作り方では、クラブとサァクルとの違いが身近な例だろう。サァクルだと、メンバの出入りが多いから、その分、集団としての活動が維持しづらくなる。「もっと、気楽にやろうよ」、「縛りが多いから止める」なんていうセリフがサァクルではよく聞かれるだろう。

◎ イギリスではコフィハゥス(コーヒーハウス、coffee house)やこれから生まれた(会員制)クラブが政党を生み出したとされる。従って、イギリスでは政党は現在でも公的役割を果たす「私的団体」であると見なされるが、大陸諸国や日本などでは官製政党の歴史や伝統もあって、政党に対する公的資金の提供にそれほどの抵抗感はない。なお、ネトワァク論では、公式組織の中に形成される非公式の集団をクリィク(clique)と呼ぶが、日本の政党内にも、非公式(とはいえ、どう考えても半ば公式だが)組織である「派閥」がある。

2.1.7.3 先天的属性(生まれつきの属性、ascription) とは、親族血縁(kinship)、人種、性別のように生得的な属性であり、後天的属性(個人が獲得した能力に基づく業績、achievement)とは、個人の能力や活動に基づく属性をいう。この区分は社会現象を考える上での基本中の基本概念であり、汎用性は相当高い。出入り(加入と離脱)の点では、前者より後者の方が自由度は高い。前者が半ば「運命」であり、従ってこれに基づく差別は不当だという議論が近代的人権思想の基本にある。

◎ 人間は種としては1つなので、人種という区分は本来誤解を招く。細区分としての人種という意味でなら多少は妥当性がある。なお、人種概念として、色を用いるものがあるが、黒い白人や褐色の黄色人種などは普通に見られるから(日焼けではない。地肌の色である)、肌の色による人種分類(昔は、白色、黄色、黒色、赤色、褐色と習ったものである)は、現在では科学的根拠を欠くとされている。もし使う必要があるのなら、コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイド、オーストラロイドなどを用いればいいだろう。ちなみに、モンゴロイドの証明とされてきた蒙古斑は、他の人種にも比率は下がるが現れる。このように、昔の常識が今では否定されていることが結構ある。ハンガリー人やフィンランド人はモンゴロイドだと習ったが、今ではコォカソイドの分類されているのがその代表例だろう。

問題)  就職に際し、学歴が当初はachievementであったのに、就職して以降はascriptionになるという指摘がある。尤もだろう。さて、学力や才能は、生得によるものだろうか、それとも習得によるものだろうか。

◎ 知っておいて欲しいのは、有名な「である」論理と「する論理」の対比・違いであるが、日本(語)には「なる」論理が強いことである。西洋の「する」論理では、人間は行為者としての神を模倣し(西洋の考え方の基本にはいつも神があると考えるとわかることが多い)、行為の表現では行為者に比重が置かれやすいのに対し、「なる」論理では、場面や状況が中心になることが多い。それは、日本語特有の「決まる」という表現にあらわれる(Cf.政治学基礎・政治学Ⅲ)。英語だと、「決められた」とわざわざ「受動態」で表現するしかないだろう。

2.1.8 一般に集団は単独では存在しない。原理上も実際上もそうである。集団の特性は他の集団の特性との関係でも決まる点で、集団は対自的(⇔即自的)存在である。そして、他集団との間に「閾」(境界線)が設けられて、「ウチ、ソト、ヨソ」、「we / in(ner)-groupとthey / out(er)-group」、「insiderとoutsider」、「仲間、身内、よそ者」などの区分がなされる。集団が集団としてまとまるには象徴(組織象徴)が必要であり、象徴に基づく分別作業により、仲間(Ins)と非仲間(Outs)が設定される。非仲間の位置づけは、しばしばその外観や言動、生活習慣によって作り出される。分別の基準として、皮膚の色、言葉(方言)、身なり・服装などが用いられる。

◎ ウチ、ソトの区分は、集団や組織への忠誠を前提として生まれる。従って、社会のネトワァク化(レイヤァ化)が進めば、これまでの常識が崩れることになる。それがどのような社会形態なのかは、現在のところ想像を超えている。

◎ 象徴(symbol)は記号(sign)の一種である。信号が「自然な」記号であるのに対し、象徴は作為的記号である。記号は指し示すだけだが、象徴は意味を作り出す。象徴には、目に見えないものを具体的な形を通して目に見えるものとして表現する機能がある。集団に一体化や正統性を与える象徴を組織象徴(富士山、日の丸)といい、現象を命名して分析する象徴を認識象徴という。組織象徴は言葉が政治化している状態である。なお、象徴による一体化機能を物だけではまかない切れない場合には、人間が象徴機能を果たす。日本国憲法第1条では、天皇に国家象徴と国民(統合)象徴の意味があるとされる。この君主の統合機能については、スペイン憲法にも採用され(第56条1項、国王は、「'el Jefe del Estado(the Head of the State)'」で、「'simbolo de su unidad y permanencia( 英訳:the symbol of its unity and permanence)」)、またイギリスなどでもそのように理解されている。

問題)  アメリカのある女性歌手が訴えるように、何故皮膚の色が差別基準になり、目の色がならないのだろうか。

2.1.9 同じ集団に属さない人(Outs)は時に「敵」として認識される。そして、「毛唐」など「敵にふさわしい」名前(蔑称)が付けられる。集団の団結には「共通の敵」の存在が必要となるから、敵がいなくなれば困る。「狡兎(コウト)死して走狗烹(ニ)らる」(『史記』)ともいう。敵としてのtheyをweの中に見出すよりない。「内なる敵」であれば、相互不信が蔓延する。そして、敵を自分たちの中に発見しようとすることで、暴力は身近なものとなる。自分が敵でないことを証明するために誰かを敵として祭り上げることになる。「いじめ」でみられる構図である。構成員が平等であって、敵が見えづらい密閉空間では、差異化の欲求が仲間に向けられ、自分が「潔白であること」は証明しづらいから、誰かを「黒」にする告発・密告ゲィムや陰湿ないじめが生じるのだろう。あるいは、敵は身近にいるが見えない存在として表象され、各種各様の陰謀(conspiracy)説が流通する。このような友敵関係の純化運動は、正義の純化運動に似て、総じて悲劇や制御が利かない暴力をもたらす。

◎ 「陰謀」という現象は面白い。陰謀が流通する心理・社会構造の解明は重要だろう。その鍵はおそらく意味の病(→4.1.2)から生じる不安にある。個人の日常から世界政治まで陰謀説は絶えない。陰謀は自分にとって耐えがたい(深刻な)状況の発生原因が自分(達)(だけ)には分かっているとする「逆転の優越」により、「敵」の見えざる企みを告発するということなのだろう。好ましくない状況の責任は自分や自分の仲間にはないとの訴えである。世の中は複雑であり、状況の因果関係は容易には解明できないからこそ、個々の独立した事象の間に因果関係を見いだして「秘密」が暴露されたりすると、あるいは従来の価値観や世界観が揺れたりすると、単純な陰謀説に飛びつく人が多くなる。大抵の陰謀説には検討に値しないが、陰謀説の主唱者にとっては検証に先だって結論がある。「◯◯が仕掛けたのだ」という断定には、証拠不十分なども大した問題ではない。「あいつらは何かを企んでおり、それを隠すから悪いのである」、「隠していないというからかえって怪しい」などの質が悪い主張となりやすい。「何も隠していない」ことは証明しづらいから、陰謀告発側はずっと自己の正当性を主張できる。哀れでもある。

◎ 「陰謀」論を支えるのは、「自分だけが真理を知っている、見つけた」という心理なのだろうが、その背景には、自分が正義の側に立っているという自覚がある。正義追求は、what is right ではなく、who is right になりやすい。さらには、Only I (we ) are right.との主張にたどり着くにも時間はかからない。学者の論争も、何が正しいのかではなく、自分が正しいことに拘っている場合が多い。業績を上げ、名声を獲得することがやはり大切なのだろう。

2.1.10 この友敵関係(friend and foe, 独語:Freund und Feind)の中でも、「敵」は2種類に分けられる。1つは「抹殺すべき敵(enemy)」であり、鬼畜米英などが典型例で、戦時には敵の顔が人間離れしたものとして描かれることがある。もう1つは「ゲィムの相手としての敵(opponent / adversary)」であり、敵が存在するからゲィムが成り立つ。碁敵(碁仇)は「憎さも憎し懐かしさ」を醸し出す(落語の「笠碁」)。敵ながら天晴れと誉めたくなる敵である。尤もゲィムの代表であるスポォツの敵は元来試合が終われば、ラグビでいう 「ノゥ・サィド(no - side)」(もはや英語圏では死語らしい。ただ、その精神まで死んでいないことを願う) の関係にあるはずだが、ゲィム終了後も敵対関係が持続することが少なくない。米独立戦争や仏革命戦争までの、あるいは第一次世界大戦までといってもいいかもしれないが、紳士道が保たれると、救われる気分になろう(Cf.映画、『眼下の敵』(The Enemy Below)、『レッド・バロン』(独語:Der rote Baron)、『真夏のオリオン』)。「好敵手」(ラィバル)の誕生には、相手(敵)への敬意が前提となっている)。

◎ 最近、友(friend)と敵(enemy)とをあわせたフレネミィ(frenemy又はfrienemy)という言葉が流行っているらしい。使い手によってその意味が変わるようであるが、あまり良い意味では用いられない。「友だちのふり」ぐらいだろうか。新語は、それに対応した社会現象があるから普及すると考えそうになるが、新語の提示で人間関係が違って見えてくるという場合もあるだろう。言葉が世界を作るからである。

2.2 社会階層

   2.2.1 集団には通例、何らかの基準に従うと、階層がある。小さな集団であっても、個々の構成員に求められる役割(→9.1)は均一ではない。オトナとコドモ、オトコとオンナなどでは、通例期待される役割が異なる。役割以外にも�