第4章「オスロ合意」の破綻(~2000 年)0a2b3c.sakura.ne.jp/p2-ls4.pdf4...

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1 summit meeting at Camp David between United States president Bill Clinton, Israeli prime minister Ehud Barak and Palestinian Authority chairman Yasser Arafat. The summit took place between 11 and 25 July 2000 第4章「オスロ合意」の破綻(~2000 年) ネタニヤフの敗北とバラク政権の登場 1998年12月のクリントン大統領のイスラエル・パレスチナ自治区訪問後、イスラエル軍の追加 撤退の約束(12月18日)もネタニヤフ首相は果たさなかった。ネタニヤフは、クリントン演説も気 に入らなかった。「父親がイスラエルに囚われているパレスチナの子供、父親をテロで殺されたイ スラエルの子供との出会いに涙を誘われた。どちらにも生活を取り戻してやらなければならない」 などのクリントンの話もネタニヤフは、イスラエル人犠牲者の遺児とパレスチナ服役囚の子供を 「同列に扱った」として、オルブライト国務長官に抗議した。 又「ワイリバー合意」に次々と新しい条件を付けては撤退を拒んでいた。その上、ネタニヤフはより 右派の連立内閣の不和から、12月23日クネセト(国会)に解散総選挙提案を行い、80対30で 解散総選挙を決定した。その一方で、選挙を意識し和平を凍結し、エルサレムのパール・ホマの 入植地拡大ばかりか、増大する旧ソ連圏からのユダヤ移民を理由に、西岸地区の土地の接収、 入植地の住宅増設、入植地間を結ぶ道路建設を更に加速させた。

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summit meeting at Camp David between United States president Bill Clinton, Israeli

prime minister Ehud Barak and Palestinian Authority chairman Yasser Arafat. The

summit took place between 11 and 25 July 2000

第4章「オスロ合意」の破綻(~2000年) 1 ネタニヤフの敗北とバラク政権の登場

1998年12月のクリントン大統領のイスラエル・パレスチナ自治区訪問後、イスラエル軍の追加

撤退の約束(12月18日)もネタニヤフ首相は果たさなかった。ネタニヤフは、クリントン演説も気

に入らなかった。「父親がイスラエルに囚われているパレスチナの子供、父親をテロで殺されたイ

スラエルの子供との出会いに涙を誘われた。どちらにも生活を取り戻してやらなければならない」

などのクリントンの話もネタニヤフは、イスラエル人犠牲者の遺児とパレスチナ服役囚の子供を

「同列に扱った」として、オルブライト国務長官に抗議した。

又「ワイリバー合意」に次々と新しい条件を付けては撤退を拒んでいた。その上、ネタニヤフはより

右派の連立内閣の不和から、12月23日クネセト(国会)に解散総選挙提案を行い、80対30で

解散総選挙を決定した。その一方で、選挙を意識し和平を凍結し、エルサレムのパール・ホマの

入植地拡大ばかりか、増大する旧ソ連圏からのユダヤ移民を理由に、西岸地区の土地の接収、

入植地の住宅増設、入植地間を結ぶ道路建設を更に加速させた。

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1999 Israeli general election 17 May 1999/ Prime ministerial elections

Candidate Ehud Barak Benjamin Netanyahu

Party One Israel Likud

Popular vote 1,791,020 1,402,474

Percentage 56.1% 43.9%

Knesset election

Party Leader % Seats ±

One Israel Ehud Barak 20.3% 26 -11

Likud Benjamin Netanyahu 14.1% 19 -8

Shas Aryeh Deri 13.0% 17 +7

Meretz Yossi Sarid 7.6% 10 +1

Yisrael BaAliyah Natan Sharansky 5.1% 6 -1

Shinui Yosef Lapid 5.0% 6 New

Centre Party Yitzhak Mordechai 5.0% 6 New

Mafdal Yitzhak Levi 4.2% 5 -4

UTJ Meir Porush 3.7% 5 +1

United Arab List Abdulmalik Dehamshe 3.4% 5 -1

National Union Benny Begin 3.0% 4 New

Hadash Mohammad Barakeh 2.6% 3 -1

Yisrael Beiteinu Avigdor Lieberman 2.6% 4 New

Balad Azmi Bishara 1.9% 2 +1

One Nation Amir Peretz 1.9% 2 New

This lists parties that won seats. See the complete results below.

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Ehud Barak(Israel Democratic Party/Prime Minister of Israel 1999– 2001)

99年5月17日に実施されたイスラエル総選挙は、リクードの閣僚の中からもネタニヤフの人格

批判まで出て、リクードを離党して首相候補の対抗馬エクード・バラク支持に変わる者も出た。結

局、首相直接選挙では、バラクがネタニヤフに勝利した。(バラク56%、ネタニヤフ44%)リクード

は32議席から19議席に減り、バラクを党首とする労働党は減尐したが27議席で最大政党に留

まった。ベンジャミン・ネタニヤフの退陣は、米国務省、アラブ諸国にとっても、又イスラエル人にと

っても朗報と言えただろう。ただし、次の労働党右派のバラクが良いと言いう事は一概に言えな

い。

6月6日、首相就任所信演説でバラクは述べた。シリア、エジプト、ヨルダン、パレスチナ夫々と

の和平合意は、どれも同じ様に重要だとし、「四本の脚が無ければ、和平は安定することが出来

ない」と述べ、これからの交渉でシリア優先策を明らかにした。バラクのパレスチナに対する考え

は、「パレスチナの要求が、パレスチナ主権国家では我々との合意の可能性は難しい」「二つの民

族に、二つの国をと言うのは簡単には行かない。ヨルダン川の西に二つの本物の国家と言うのが

問題なのだ。私の意見では我々の要求は、国家より小さいパレスチナ共同体とならざるを得ず、

そして、この共同体が時とともに自然な形で、ヨルダンとの連邦国家を形成すべきなのだ」と述べ

ている。

Israeli Prime Minister Ehud Barak, left, and Arafat shake hands

after signing an agreement on September 4, 1999

The Sharm El Sheikh Memorandum on Implementation Timeline

of Outstanding Commitments of Agreements Signed and the

Resumption of Permanent Status Negotiations/a memorandum

signed on September 4, 1999 by Prime Minister of Israel Ehud

Barak and PLO Chairman Yasser Arafat at Sharm el Sheikh in Egypt overseen by the United States

represented by Secretary of State Madeleine Albright. The memorandum was witnessed and

co-signed by President Hosni Mubarak of Egypt and King Abdullah of Jordan

バラクは、「ワイリバー合意」よりも西岸地区のユダヤ人入植地の安全の為には、最終地位交渉

の中で一挙にけりを付ける方が良いと考えていた。アラファトとの会談で説得したが、アラファトは

「ワイリバー合意」の義務の未履行のものの実行の上でしか、最終地位交渉に入るべきでは無い

と主張した。結局、それをある程度実行する為、言わば「ワイリバー合意」の仕切り直しとして、99

年9月4日エジプトのシャルム・エルシェイクで、エジプト・ムバラク大統領、ヨルダン・アブドウッラ

ー国王、マデレーン・オルブライト国務長官が同席した。そこでは、これまでのネタニヤフ時代の停

滞に終止符を打つべく、バラクとアラファトとの間で、「シャルム・エルシェイク議定書」の調印式が

行われた。これを、「シャルム・エルシェイク合意」又は「ワイリバーⅡ合意」と言う。

Sharm El Sheikh Memorandum

主な内容は、第1に停滞し凍結されていた、イスラエル軍の

撤退を再開し、三段階で更に西岸地区の10%からイスラエル

軍を引き揚げる。第2に99年9月13日から、これまで延び延

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びになっていた「最終地位交渉」を開始し、2000年2月13日までに結果を出す。第3にパレスチ

ナ政治犯の釈放などである。実際パレスチナ側の自治区は40%で、それもB地域(イスラエル軍

の治安展開する地域)も含んだままであり、そのまま最終地位交渉に入る事は危険であるとする、

カドウミ政治局長たちの反対意見もあったが、「シャルム・エルシェイク合意」は新しい和平交渉の

出発点を作り上げた。そして、99年9月12日に最終地位交渉に入った。

2 パレスチナ自治政府(PA)-批判への弾圧

エフード・バラク首相になっても、入植地拡大は続いた。彼はイツハク・ラビンの「オスロ合意」に

よる占領地の一部返還さえ反対した人物である。西岸自治区のラマッラー西部のディルカディス

村では、新たな入植地拡大が準備されているのに、抗議したパレスチナ人デモ隊は、イスラエル

軍がガス弾を発射して怪我を負わせた。最終地位交渉に向けて、PLO反主流派のPFLPは、進

行する政治的現実を直視し、「オスロⅡ合意」以降それに歯止めをかける役割を負い、PLO内で

討議をして来た。そして、パレスチナ中央評議会(PCC)参加を経て、当面は武装闘争を停止する

道を取る事にした。「オスロ合意」反対でハマースと一致しても、ハマースの路線、イスラーム国家

建設に同調している訳ではない。アラファト批判は、武装闘争を通じてハマースが中心を成すよう

になり、PFLPとしてはより有効な批判勢力を育成すべく別個に被占領地で政治的活動の強化を

目指すとした。

George Habash, Abu Ali Mustafa・Yasser Arafat

Abu Ali Mustafa(Secretary-General of the Popular Front for the Liberation of Palestine July

2000– 27 August 2001)

Mustafa returned in 1999 after 32 years in exile

Mustafa was killed by two rockets fired from two Israeli Apache helicopters through his two office

windows, as he sat at his desk in his office in Al-Bireh city, in a targeted killing on 27 August 2001.

ハバッシュ議長は「情勢の変化から、パレスチナ人の国家建設の権利を確かなものにする為に、

各方面と対話を始める必要がある」と、7月22日イスラエル新聞のインタビューに答えている。こ

の頃私は、ハバッシュ議長に代わってPFLP議長を実質担って来た、アブアリ・ムスタファたち主

要PFLP幹部たちが、自治区ラマッラーで活動を開始する為の送別会に加わった。その席で暗殺

の危険を語り合った。「イスラエルは、パレスチナ革命に有為で手強い人材を意図的に暗殺して

来た事は皆知っている。ラマッラーでの活動は、命がけの闘い、しかも政治闘争で命がけの闘い

を闘いぬかねばならない。」とアブアリ副議長が語っていた。

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8月1日、アラファト議長とアブアリは、カイロで会談した。PFLPとのこうした会談は93年「オス

ロ合意」以来である。PFLPは、政治的現実を認め、それをどう有利なパレスチナ建国へと変革し

て行くか、その為にはPLOの機能の強化としても、被占領地の活動を目指そうとした。だからと言

って、PFLPは「オスロ合意」に賛成している訳では無いし、事に「パレスチナ民族憲章」から「イス

ラエル破壊条項」を削減した事は、重大な誤りとして認めていない。それでもアラファトとしては、

ハマースとの対立が厳しく、イスラエルとの最終地位交渉が本格化する前に、PLOの歴史を共に

するPFLPを再結集させたい。会談後、PFLPは「PLO主流派との対話を通じて、PLOの結束を

復活させ、パレスチナ側の権利を守る為に活路を見出したい」と語った。

Abed Rabbo (left) with Prime Minister Yasser Arafat and cabinet

minister Nabil Shaath in a meeting in Copenhagen,

Denmark 1999

Yasser Abed Rabbo

Information Minister of the Palestinian National Authority

1994–2003

Secretary-General of Palestinian Democratic Union(FIDA)

1993–2002

「オスロ合意」から6年、「カイロ合意」による自治政府発足から5年を経て、再びイスラエル労働

党政権の下で、最終地位交渉に入る事になる。米国クリントン政権は、自らの歴史的功績と引き

続き民主党政権の継続を狙って、最終地位交渉での成果を求めて、パレスチナ問題解決とイスラ

エル・シリアの和平交渉に注力した。「オスロ合意」6周年の式典の前に、イスラエル軍の第一次

撤退を行い(C地域から9%をB地域に編入)、10月28日から最終地位に関する実務者協議が

エルサレムで始まった。PLO側からは、ヤーセル・アベド・ラボ自治政府情報相(元DFLP)を代表

とする交渉団である。

African National Congress Leader

Nelson Mandela (1918 - 2013) at

Wembley with his wife Winnie and

ANC activist Adelaide Tambo in

occasion of the 'Nelson Mandela: An

International Tribute for a Free

South Africa' concert, shortly after his release from prison, London, UK, 16th April 1990

Mandela Speaks to Palestinians October 20, 1999

African National Congress(ANC) Founded 1912/

Nelson Mandela(1st President of South Africa 1991-1997)

この頃、パレスチナに賓客が訪れている。99年10月20日、ネルソン・マンデラ前南アフリカ共

和国大統領が、自治区ガザに入った。長い間、PLOと南アフリカのアフリカ民族会議(ANC)は相

互に助け合って活動をして来た。南アフリカのアパルトヘイト政策とシオニストの人種差別主義の

共通性に加え、イスラエルと南アフリカが核開発でも協力し合っていたので、共通の敵として南ア

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フリカ政府とイスラエル政府が存在していた為である。アラファト議長の招きでガザを訪問したマン

デラは、パレスチナ立法評議会(PNC)議員たちや住民を前に講演し、自らの黒人解放運動の経

験を踏まえ、最後の手段として暴力を容認すると発言した。そして「復讐の代わりに許しを、暴力

の代わりに平和を選んだパレスチナ人に感銘を受けた」と語り、パレスチナと南アフリカの非白人

にとって和平は共通の選択だったと述べ「和平が達成不可能で暴力以外に手段が無い時、暴力

を選ぶのだ」と語った事は、パレスチナの人々に大きな励ましと力になったと言う。

Persian Gulf Impact on Palestinians

Mayor Bassam Shakaa addressed Foreign Correspondents

Association on the impact of the Persian Gulf crisis on

Palestinians. He is mayor of the Israeli-occupied West Bank.

September 21, 1990

アラファトは、10ヵ月以内にパレスチナ国家独立宣言を発すると表明し、最終地位交渉の準備

を促した。その一方で、自治政府(PA)に対する批判を封じる強権を深めていった。11月29日、

自治政府(PA)の腐敗を批判し、署名したパレスチナ民族評議会(PLC)議員9名の議員特権を

奪う様、アラファト議長が評議会に提案したと言う。又28日までに署名した西岸地区ナズルスの

大学教授、知識人たち5人を逮捕し、バッサム・シャカー元ナブルス市長たち2人を自宅監禁にし

た。自治政府(PA)の強権的専制は深まり、言論弾圧が始まった。29日には、更に学者3人を逮

捕した。署名者は20人だったという。

Force 17 members in training

Force 17/ a commando and special operations unit of the

Palestinian Fatah movement and later of the Office of the

Chairman of the Palestinian Authority. It was formed in the early

1970s by Ali Hassan Salameh (Abu Hassan)Initially, the group

was housed in building 17 of Al-Fakhani Street in Beirut

このニュースを聞いた時、私と一緒に居たPFLPの友人は、

「バッサム・シャカー元ナブルス市長、あの反占領闘争の英雄まで自宅監禁にするなんて、アラフ

ァト派は、サバターシュを使って暗殺もしかねない・・・」。イスラエルの暗殺攻撃で、両足を失って

も反占領闘争を貫いて来たバッサム・シャカーは、ナブルス市民の人望を一身に集めて来た。そ

んな先輩にまで・・・。アラファトの危機感の現れであろう。サバターシュとは、「フォース 17」治安部

隊で、アラファト警護親衛隊で「汚れ仕事」、政敵の恫喝、暗殺までやると知られていた。解放闘争

のそうした部隊は温存され、アラファトへの批判者たちへの脅迫にも加わっていると、友人は断言

した。直ぐに又12月1日、バッサム・シャカーを慕うパレスチナ立法評議会(PLC)議員ムアーウイ

ヤ・アルマスリが、マスクをした一団に襲われて脚を撃ち抜かれる事件が起きた。PLC議員は逮

捕出来ない特権がある為だろう。

権威ある人々の署名入りリーフレットは、真っ直ぐに自治政府を非難していた。エルサレムを首

都とするパレスチナ建国、難民の帰還の権利、入植地解体など、アラファトが主張して来た事が、

現実とかけ離れている事。引き続きイスラエル軍政によって、土地は没収され、ユダヤ人入植地

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は拡大し続けていると批判した。そして、パレスチナ政治犯に対しても、イスラエルばかりか自治

政府下のパレスチナ刑務所で拷問が行われている事を告発した。自治政府の腐敗、それにはア

ラファト自身の関りを指摘し、専制と腐敗に対決し、共に立ち上がるように訴えたものであった。

28日直ぐに自治政府は「社会不安を引き起こす扇動だ」と非難し、呼びかけの署名人を次々と

逮捕監禁した。9人のPLC議員に対しては、29日PLO特別会議でPLC議員の訴追が可能となる、

被逮捕特別権利剥奪が審議された。こうした脅迫と弾圧に、署名者のうち署名を取り消して謝罪

する者も居た。12月1日PLCは特別会議で、署名者への非難とアラファトへの名誉毀損に対する

非難決議を33対8で可決した。そしてPLCのみが議員の意見表明の唯一の場であるとして、PL

C議員をモニターする特別委員会設立を決めた。そしてPLC議長で「オスロ合意」の立役者でアラ

ファトの腹心のアハマド・クレイにその設立の責任を与える事を決定した。自治政府(PA)は、被

占領地人民の信頼を大きく損ねていた。その分保身の為にも、これ以上、イスラエルの要求、米

国の要求に従う訳には行かないとする考えも、又頭を擡げる訳である。

3 最終地位交渉の決裂

最終地位交渉の実務者協議では、その交渉中も入植地建設は続けられた。その上、バラク政

権が第2次イスラエル軍の撤退を遅らせた事で、パレスチナ側は抗議として12月6日交渉を一時

中断したが、並行してアラファト・バラク会談は非公式に続けた。「シャルム・エルシェイク合意」で

決定した、イスラエル軍の撤退タイムテーブル実施期限の2000年2月13日には撤退は不可能

となった。12月13日、パレスチナ側はイスラエルとパレスチナ国家の境界線についての文書をイ

スラエル側に提出したが、それは49年の停戦協定が元になったものらしい。

Nabil Shaath(Palestinian International Co-operation Minister)

Mohammad Zuhdi Nashashibi(Ministry of Finance (Palestine))

Bashar Masri(Chairman of the Board of Massar International, since its establishment in 1994)

Mohamad Rashid(economic adviser)

2000年1月4日、バラク政権はイスラエル軍の5%撤退に合意し、1月5日から西岸地区のラマ

ッラー、ベツレヘム、ナブルス、ヘブロンでの第2次撤退(再配置)を行った。この撤退では、西岸

地区のC地域3%をB地区、つまり自治政府(PA)の行政が及ぶ地域に移管し、B地域のうち2%

を行政・治安共に自治政府下の自治区となるA地域に移管した。これで、西岸地区のA地区10 .

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1%から12.1%へ、B地区25.9%から26.9%になった。又1月6日にはパレスチナ支援国会議

から財政の透明性が求められていた問題で、財務政策を監督する機関として、高等開発委員会

を創設したと発表したが、委員長はアラファト議長で、ナビール・シャス国際協力相、モハマド・ナ

シャビ大蔵相、バシャール・マスリ経済相、ムハマンド・ラシードト経済顧問たちアラファト側近で固

めた。結局、アラファトたち自治政府(PA)の経済活動を監督する人材とは言えない構成である。

At the PFLP Sixth National Conference in July 2000, Abu Ali was

elected Secretary-General

Abu Ali Mustafa

( Secretary-General of the Popular Front for Liberation of

Palestine July 2000– 27 August 2001)

2月3日、パレスチナ中央評議会(PCC)は、イスラエルと最終

地位交渉が9月までに合意に至らない場合でも、パレスチナ独立宣言を行うと決議した。このPC

Cを機に、PFLPアブアリ・ムスタファ副議長は、PFLPはPLO執行委員会に戻る事を表明した。

後の7月8日、PFLPスポークスマンは、PFLPの新議長にアブアリ・ムスタファが就任したと発表

した。80年代から実質的議長のように活動して来たアブアリである。ラマッラー自治区での活動

体制を本格化して行く事になる。

最終地位交渉は、内容的には進展の無いまま、米国政府の仲介で3月21日から、ワシントン近

郊で交渉が再会された。この日、第3次イスラエル軍撤退(再配備)が開始された。西岸地区の6 .

1%がB地域からA地域になった。その結果、A地域が18.2%に、B地域が21.8%になった。つ

まり西岸地区の40%に自治政府の行政権がいきわたる事になった。一方新聞「ハアレツ」の報道

によると、99年のガザ・西岸地区へのユダヤ人入植者は19万3 .680人となり、98年から12.

5%も増加した。うち6万5.000人が、パレスチナの首都となるエルサレム周辺の入植地に住んで

居ると言う。最終地位交渉の先行きは暗いものである。

4月の交渉再開後、5月19日にイスラエル側が行った最終地位交渉の提案では、西岸地区の

66%がパレスチナ領土となり、20%をイスラエルに併合し、残り14%を暫定的にイスラエルが管

理した上で、交渉により、将来的にその地位を決めると言う内容に変わった。バラク提案は、パレ

スチナ側の信用を失い、6月にはオルブライト国務長官とデニス・ロス中東特使が中東地域を訪

問しては、最終地位交渉の3者首脳会談をアラファトに迫った。これはバラクの意向で、クリントン

政権はこれまでと同じ様に、イスラエルの望むように従った。

Palestinian spokesperson Hanan Ashrawi shares her

perspective on the upcoming summit with Israel and the

United States at Camp David.

アラファトは、首脳会談は時期尚早で失敗すれば事態は悪化すると

して、実務者協議の必要を訴えた。失敗の責任は問わないからと言う

クリントン大統領の説得で、アラファトは7月6日、米国の説得を受け

入れた。その時アラファトは、交渉の成否に関わらず、「オスロ合意」締

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結から7年目に当たる2000年9月13日には、国家独立宣言を行う事、又会談では、如何なる妥

協も行わないと、PFLPたちに約束している。7月上旬「アラファトは、PLO各派に交渉への参加を

呼びかけたが、PFLP,DFLPは拒否し、パレスチナ人民党(PCC)のみが参加の意向を示した。

要請を受けてハナン・アシュラウイはスポークスパーソンとして加わる事になった。

President Bill Clinton meets with Israeli Prime Minister Ehud

Barak and Palestinian leader Yasser Arafat on July 25, 2000

at Camp David, Maryland

2000 Camp David Summit

7月11日から25日までの1週間、メリーランド州の大統領

の別荘、キャンプデービッドで正式に最終地位交渉首脳会

談が開催された。ここは78年夏、エジプト・サダト大統領、イ

スラエル・ベギン首相が招かれ、イスラエル・エジプトの「キャ

ンプデービッド(CD)合意」が締結された場所として良く知られていた。初日、アラファト・クリントン、

バラク・クリントンの2者会談、続いて3者会談が行われた。報道人を排し、会議議題毎に委員会

を設置し実務的議論が始まった。

アヴィ・シュライムによると、バラクは基本的に、ガザ・西岸地区のほぼ全域にまたがる独立パレ

スチナ国家をイメージしつつ、67年境界線に隣接した大入植地群は、イスラエルに併合する。イ

スラエルの安全保障上の国境であるヨルダン渓谷も最終的には、パレスチナの独自支配となる。

西岸地区の20.5%をイスラエルの領土として残す。内訳としては10.5%が完全にイスラエルに

併合され、10%が20年間イスラエルの軍事占領に置く、パレスチナ難民の帰還には合意するが、

パレスチナ国への帰還でイスラエルへの入国は、家族の再会という形で年間500人に限るとした。

エルサレム問題に関しては、これまでのイスラエル首相より踏み込んで、エルサレム市の分割に

同意した。しかしそれは、パレスチナ側の求めるエルサレムのアラブ人地区とイスラーム教聖地

ハラム・アルシャーリフ主権には全く及ばない譲歩でしかなかった。その上バラクは、自分の一括

提案に対する合意によってパレスチナ人が、これ以上イスラエル国に対して文句を付けなくなり紛

争が完全に終結したと宣言する事に拘ったと、アヴィ・シュライムは述べている。

(「鉄の壁」(下)(アヴィ・シュライム)緑風出版 2013年)

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Palestinian View of Proposal/Israeli Offer Prior to Summit/Israeli Offer for Final Map

2000 Camp David Summit map

又シュライムは、「アラファトの最大の過ちは、彼自身の対案を何も提起しないで出された多くの

提案を拒否した事だ」と述べているが、パレスチナ側提案は、入植地の撤去、東エルサレムの主

権、パレスチナ人の帰還の権利など、既に示されて来たので、それが対案であり、バラク提案は、

受け入れ難いものであったに過ぎない。クリントンは、首脳会談7日目に匙を投げたと言う。バラク

はクリントンに文書を渡し、パレスチナ人に打診して欲しいと頼んだ内容が、まるでパレスチナ人

を試験するような質問やこれまでの併合を更に増やしたものに変わった内容だったので、クリント

ンは爆発したと言う。「あなたはこの提案を直接アラファトに、パレスチナ人に手渡そうと言うのか。

いいだろう。やって見るが良い。こんなものが通用するかどうか。いい加減にしてくれ。こんなのは

あり得ない。冗談じゃない。まるで木偶の坊見たいにあなたの言うとおりにしたではないか」とクリ

ントンは大声で顔面真赤にして怒鳴ったらしい。「こんな事は許さん。それだけだ」と。こう言うやり

取りを経て、最終的に既に述べたバラクから出された提案に沿って話し合われたようだ。

American Offer at Camp David

それに加える形で米国案として、エルサレム市郊外のアラブ・

パレスチナ人居住区をパレスチナの主権として認め、東エル

サレムの市内などのアラブ居住区は民生に関わる自治を認め、

旧市街地の帰属については、棚上げにして協議を継続し、そ

れまで現状のままとして、東エルサレムの一部を共同管理す

る提案が出された。しかし、東エルサレムの主権が明記されな

いままの暫定的地位が固定される恐れがあり、パレスチナ側

は拒否した。難民問題は、国連決議194によるパレスチナ人

の帰還の権利の問題討議は、イスラエル側が拒否し、パレス

チナ自治区への帰還と補償問題のみで、48年難民の故郷エ

Page 11: 第4章「オスロ合意」の破綻(~2000 年)0a2b3c.sakura.ne.jp/p2-ls4.pdf4 びになっていた「最終地位交渉」を開始し、2000年2月13日までに結果を出す。第3にパレスチ

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ルサレム、ハイファ、ジャファ、ガリラヤなどのイスラエル国内への帰還は拒否した。しかも、帰還

しない難民の補償については、イスラエルは自己資金では無く、国際社会からの出資を念頭に置

いており、パレスチナ側にとって受け入れ難いものであった。

入植地を含む領土問題、国境、安全保障は一つの委員会で討議された。イスラエル側が提示し

た地図では、西岸地区の大規模入植地など10%~13.5%が、イスラエルに併合される事が示さ

れた。パレスチナ側は認められないとした。何故ならそれらの入植地には、西岸地区の水資源や

軍事的要衝として、イスラエルの西岸地区支配を行うもので、エルサレムと西岸地区を分断する

もの、つまりイスラエル側はエルサレムを併合し、西岸地区の主な入植地も併合し、ヨルダンとの

国境となるヨダン渓谷は、引き続きイスラエルが管理し、難民の帰還の権利も認められないまま

「完全におしまいとする」考えにあった。これに合意出来ないのは道理であった。

7月25日、アラファトはこれ以上交渉しても合意は見込めないとして、クリントン大統領に伝え、

クリントンは「双方は合意に達することは出来なかった」と声明した。バラクは、サミット終了直後の

会見で「我々は紛争を終わらせる用意があったが、アラファトは歴史的な決断をためらった」とアラ

ファトに責任を転嫁した。バラクは、「西岸・ガザの90%以上と東エルサレム返還を提案したが、

アラファトがこれを拒否し、妥協の機会が失われた」と述べた。「イスラエルの寛大な申し出をアラ

ファトが蹴った」と言った米国メディアが、世界に伝えられ、バラクとクリントンは、全責任をアラファ

トに押し付けた。

山内昌之東京大学教授(中

東研究者で小泉首相のブレ

ーン)は、「アラファトは、バラ

ク首相との妥協の機会を放擲

した」と責任はアラファトにあ

ると述べている。アヴィ・シュ

ライムは、バラクの一括提案

に問題があったと述べている。

その一括提案すらバラクが宣

伝するような代物では無かった。実際には90%以上などでは無く、ヨルダン国境はイスラエルが

引き続き握り続ける計画で、本当に手離すかも不明であった。

「オスロ合意」で、全パレスチナの22%のみの領土をパレスチナのものとする事で合意したのに、

実はその内の86%で合意せよと、アラファト・パレスチナ側は求められた。入植地も西岸地区に

残したまま、難民の帰還も許さない。イスラエルがパレスチナ国家の領空、水資源の支配権を持

ち続けるものだったのである。拒否し、パレスチナに戻ったアラファト一行は、バラク提案に合意し

なかったことで、英雄として迎えられた。93年の時点「オスロ合意」の時から、アラファトが語った

パレスチナ国家は実現されなかった。アラファトの語って来た希望的観測を責めるより、頑強に占

領を続けるイスラエル政府こそ、責められるべきだろう。

93年9月13日「オスロ合意」から暫定自治期間(94年5月「カイロ合意」の実施で開始)の5年

を過ぎたが、アラファトのエルサレムを首都とするパレスチナ国家の建設は更に遠のいた。イスラ

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エルには、パレスチナの民族自決権に基づく政治的権利、パレスチナ国家建設を認める考えは

無かった。この現実は、やはり自らの力で闘い解放するしか無いのか・・と、言う考えが再びパレ

スチナ人民の中に広がった。又一方、解放とパレスチナ国家独立を諦めないパレスチナ人を、叩

きのめすべきだとする動きも再び、イスラエルの中で大声で語られるようにうなった。ジャボチンス

キーの教えたように、ユダヤ国家を強化し、パレスチナ人が服従するしかないと言う段階になって

交渉すれば良しとする、大イスラエル主義の征服主義が、再び暗躍する危険をも生んだ。アラファ

トたちPLOの思惑とイスラエルの思惑は、あまりにも掛け離れたものであった事は、当初から多く

の人々が批判した通りであった。「オスロ合意」の破綻は、「オスロ合意」自身の帰結である。

4 「オスロ合意」破綻の中で

Palestinian leader Yasser Arafat, left, chats with

Japanese Prime Minister Yoshiro Mori prior to their

talks at the premier's official residence August 18, 2000

in Tokyo, Japan. Arafat arrived here August 17, 2000 for

a two-day visit as part of a worldwide tour seeking

support for his plan to declare a Palestinian state.

2000年7月、キャンプデービッドでの最終地位交渉は纏ま

らなかったが、クリントンは既に大統領二期目の最後の歴史的業績としても、更に中東和平の成

功を目指した。アラファト議長は、その後20ヵ国を訪問し、パレスチナ側の立場を説明した。アラフ

ァトは8月17日には日本も訪問し今後の経済支援を要請した。9月2日カイロで開催されたアラブ

連盟外相会議に出席したアラファトは、国連決議を履行しない東エルサレム問題解決は拒否する

と表明し、外相会議はパレスチナの立場を支持した。

At the Palestinian Central Council held on 9 and 10 September, the Palestine Liberation

Organization (PLO), decided to continue to commit itself to the peace process, postponing its

declaration of statehood. The Government of Japan highly appreciates the decision made by the

Palestinian side to persistently continue negotiations at this time when the peace process has

started to deal with essential issues since the Camp David Summit Meeting held in July.

Palestinian Central Council(PCC)

9月6日には、ニューヨークでアラファト・バラクとクリントンは個別に会談をした。10日から開催

されたパレスチナ中央評議会(PCC)では、クリントンの要請を受けて9月13日「オスロ合意」記

念日に予定していた、「パレスチナ独立宣言」の表明を再び延期を決定した。PCC議長が発表し

た声明によると、PCCはPLO執行委員会に基本法(憲法)や選挙制度、経済問題など、独立に向

けた準備を行う権限を与える事を表明した。そして、11月15日までに、PCC特別会合を開き検

討する事を決定した。既に97年10月に、パレスチナ立法評議会(PLC)は基本法を採択したが、

アラファト議長が承認を棚上げにしたままにあり、パレスチナ国家独立に向けて、再度準備が進

められて来た。

The Basic Law was passed by the Palestinian Legislative Council in 1997 and ratified by President

Yasser Arafat in 2002 It has subsequently been amended twice; in 2003 the political system was

changed to introduce a prime minister. In 2005

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The Palestinian Basic Law

1994 Basic Law draft by PLO (not passed)/1995 Basic Law draft by PLO (not passed)

2002 Basic Law (previous)/2003 Permanent Constitution draft (not passed)

2003 Amended Basic Law (current)/2005 Proposals to amend the Basic Law (not passed)

2005 Amendment to the Basic Law (current)

基本法草案は、9月にパレスチナ中央評議会(PCC)の際明らかにされたが、もっとも議論にな

ったのは、その63条にあるパレスチナ国家の立法評議会についてであったと言う。「立法議会」

の第一院はガザ・西岸地区のパレスチナ国家から選出される150人で構成される。第二院はパ

レスチナ国外の150人で構成され「民族議会」として「パレスチナの基本的な民族的権利」をもっ

ぱらの役割とし、「パレスチナ国家とPLO」双方の義務を負うとされているが、結局二院制の一方

がPLC,他方がPLOの発展形態としてあるのだろう。「民族議会」は、パレスチナ国外のメンバー

150人で構成される為、これまでのPNCと共通するものがある。PLCとPNCが全パレスチナ人

民の「国会」として機能する為には、権利を奪われて来たパレスチナ国外の大多数を占めるパレ

スチナ人の帰還、補償など前提的に解決されねばならない。

Education in the State of Palestine/Education in the

Palestinian Territories refers to the educational system in Gaza and

the West Bank administered by the Palestinian Ministry of

Education and Higher Education/Palestinian Ministry of Education

and Higher Education

Education Minister/①Hanan Ashrawi(Independent)1996-1998

②Nasser al-Shaer(Hamas)

March 2006-June 2007/③Lamis al-Alami(Independent)June 2007-

April 11, 2013 /④Ali zaidan/ abu zuhri(Independent)June 6, 2013- June 2, 2014/⑤khawla al-

shakshier(Independent)June 2, 2014- August 2, 2015/⑥Sabri Saidam(Fatah)August 2, 2015-

April 14, 2019/⑦Marwan Awartani(Independent)April 14, 2019- present

自治政府(PA)が暫定自治を開始した、94年5月4日から既に6年目を迎えた。パレスチナの多

くの友人たちに聴いてみた。自治政府が出来て良かった事は、教育の権限がイスラエルからパレ

スチナ側に移管された事だと言う。占領下では許されなかった国旗、国歌を自由に掲げ歌え、禁

止されていたパレスチナの歴史、地理も教える事が出来る。それでも、各種のイスラエル・パレス

チナ合同委員会の監視があり、自由に教えると言う事は出来ない。暫定自治協定で「教育制度は、

イスラエル・パレスチナ間の和平に貢献するものとす」と言う規定があり、「規定に反する」と、イス

ラエルがクレームを付ければ教えられない。

Poster showing Yasser Arafat on the wall of a

Palestinian Police Station in Bethlehem

Jabali is unpopular with Gazans tired of

corruption

Palestinian Civil Police Force/The Civil Police

was formally established with the May 1994

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signing of the Gaza–Jericho Agreement, a chapter in the Oslo Accords process

Ghazi al-Jabali/(been a police commander and chief of the Gaza police since the early 1990s.)

大きく変わったのは、元イスラエル軍駐屯地にパレスチナ警察官が居る事である。当初はイスラ

エル軍の為の高い有刺鉄線や車の突入を防ぐコンクリート防御壁などが撤去されただけで変化を

実感出来、パレスチナ警察も歓迎された。警察は、イスラエルへの憎悪と恐怖の場所から同胞の

警察署となったからである。しかし、1年もしない内に反占領闘争への逮捕、連行、弾圧を繰り返

し、アラファト忠誠の部隊となった。アラファトは、ファタハを再編成して行くような、これまでの仕方

を止めなかった。

Tanzim/Palestinian members of the Fatah movement

take part in a military parade marking the 55th

anniversary of the founding of Fatah, in Gaza City, on

Dec. 29, 2019The Tanzim militia, founded in 1995 by Yasser

Arafat and other Fatah leaders to counter Palestinian Islamism,is

widely considered to be an armed offshoot of Fatah with its own

leadership structure. The acknowledged head of the Tanzim is

Marwan Barghouti

アラファトは、ファタハの強化、ことにファタハの中枢組織「タン

ジーム」の強化を行う様にファタハ指導部に指示したと言う。フ

ァタハのメンバーの多くは海外から家族毎帰還し、新しい自治

政府行政機構の職に就いていった。かつて、77年に初のPLO

東京事務所を開設した代表のアブドル・ハミードも「オスロ合意」

に反対した一人だが、結局アラファト帰還の中で乞われて、そ

れに従って自治政府内での活動を続けた。ファタハ民兵組織

の多くは、警察治安機関に雇用されファタハの強固な支持基盤を築いて来た。それとは別に、住

民の中からファタハに学生、若者を中心にしてタンジームを強化拡大した。

Marwan Barghouti (left) with the late Yasser Arafat

Fatah Hawks/YasserAbu Samahdaneh

Marwan Barghouti/Barghouti joined Fatah at age 15,and he was a co-founder of the Fatah Youth

Movement (Shabiba) on the West Bank. By the age of 18 in 1976, Barghouti was arrested by Israel

for his involvement with Palestinian militant groups. He completed his secondary education and

received a high school diploma while serving a four-year term in jail, where he gained fluency in

Hebrew

「ファタハの鷹」-被占領地のファタハの武装部隊は、解散させられて来たが、その後続組織と

して「タンジーム」が強化された。警察や治安を担う予備軍として強化され、武装訓練を定期的に

行って組織力を鍛えた。第1次インティファーダで活躍したマルワン・バルグーディはがタンジーム

拡大のその影響力を行使した。59年生まれのバルグーディは、78年から6年間反占領闘争で拘

束され、その後87年イスラエル軍政によってヨルダンに追放されるまでファタハのリーダーとして

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闘った。その後チュニスとヨルダンで第1次インティファーダの被占領地闘争を支え、94年パレス

チナ帰還の第一陣としてパレスチナに戻った。以来、他タンジームを育てて来たリーダーの一人で

ある。

自治政府(PA)は、批判される様に権威主義的専制的支配、縁故主義による雇用、経済、腐敗

など、かつて解放闘争機関として、秘密的に自分の組織の都合でやり取りして来た文化(体質)を、

そのまま増殖させた側面があった。民主主義はそのプロセスに於ける民主的、公開的実施として、

人民に対して透明性が担保される必要があった。反対派に対するやり方も弾圧、拷問、秘密主義

などファタハのやり方を、そのまま自治政府(PA)の方法としてしまったようだ。その分、路線的な

対立勢力ばかりで無く、和平に賛成する勢力からも厳しい批判は増すばかりであった。

アラファト派にとってはイスラエル・米欧相手に、パレスチナ国家建設の最善の為に闘っている

のに足を引っ張る者たち、と言うのが、反対派に対する考えであっただろう。ハマースの闘いは、

イスラエルに対する非妥協的な反占領・反和平交渉の立場にある。イスラエルとの治安協定によ

って、逮捕、弾圧する分、イスラエルはこれまで通りの弾圧者に過ぎず、自治政府(PA)も人民の

闘争に敵対する位置に置かれていった。

On 28 September 2000, Sharon and an escort of over 1,000

Israeli police officers visited the Temple Mount complex, site

of the Dome of the Rock and al-Aqsa Mosque

Ariel Sharon

9月25日、アラファト議長は、イスラエル北西部にあるバラ

ク首相の私邸で会談をした。継続して「最終地位」の実務者

協議を続ける事を確認した。その折、アラファト議長は、シャ

ロン・リクード党首が、28日に東エルサレムのパレスチナの

聖地、アルアクサー・モスクのある「神殿の丘」を視察する計画を知り、止めさせるよう、バラクに

要請した。挑発が一触即発に暴発するのは目に見えていた。シャロンは、騒乱を起こし次の総選

挙、首相公選でトップに就くための計画的行動である事は明らかであった。しかし、バラクは、シャ

ロンの計画を止めなかった。出来なかったのだろう。9月27日、イスラエル軍司令官は東エルサ

レムの聖地を管理するイスラームのワクフ管理関係者と28日のシャロン訪問について協議した。

ワタフ側は衝突の懸念を表明し、イスラエル側に自制を求めた。しかし、まだその調整中に無視し

て9月28日、シャロンは計画を強行した。その結果、第2次インティファーダが始まる。

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5 90年代をふりかえって

Looking back on Palestine's Liberation struggle 1990s―Arab socialism

Revolutions of 1989 Dissolution of the Soviet Union1990 Gulf War1990

90年代を振り返る時、何よりも世界を変えた要因は、ソ連・東欧の社会主義国の崩壊であった。

「冷戦終了」の結果、資本主義は世界体制に変って行く90年代であった。グローバル資本主義の

弊害は、既に知られているのでここでは述べないが、「社会主義」について触れて置きたい。

かって全世界の人々から人間解放の砦として希望の力となった、ロシア革命が成し遂げた、ソビ

エト社会主義共和国連邦(ソ連 Soviet Union, Union of Soviet Socialist Republics(USSR))。

世界中からソ連へ亡命する時代もあった。第2次大戦後は、第三世界の有能な人々が、ソ連・東

欧に留学することで、自国に戻って医療、技術、教育者などとなって、国を創り上げ活躍した。アラ

ブ地域でも、「社会主義」は、宗教共同体に代わって生まれて来たアラブ民族主義の理想となって

いった。

中東の民族解放運動は、「リベラル・ブルジョア民主主義」と結合しなかったが、その理由は、先

ずもって、第1に西欧諸国が軍事力と異文化によって植民地支配を企てた事に起因する。第2に

中間層が形成されていないこと、第3に運動のリーダーが宗教、封建王、留学帰り、貧農出身の

軍人たちで、侵略(文化的、経済的、軍事的)を否定する運動に成らざるを得なかったのである。

第4にイスラームの伝統・慣習であり、生活規範である「神の前の平等」の精神である。その考え

は、リベラルなブルジョア民主主義よりも「社会主義」が、特にインテリゲンチャ、貧農出身の軍人

の目標になり易かったと思う。シオニズムに基づくイスラエルは、もともと西欧文化に集団的に帰

属し、世俗的西欧文化の鋳型の中に「ユダヤ国」を描いて来たので、「ブルジョア民主主義」をアシ

ュケナジーム中心に持ち込んで社会規範として来た。もちろん、パレスチナ・アラブ人はその「民

主主義」の対象からも人種差別され続けた。

アラブの共産党は、どの国の共産党もコミンテルン・コミンフォルム、その後のソ連の国家外交

から自由で無かった分、共産党は、大多数を包摂する民族解放運動から排除されたり、敵対され

る傾向が強かった。それは主にソ連の国家外交第一の政策に原因があった。とくに、パレスチナ

分割決議181に米国と一緒になって実現を促した。ソ連の当時のグロムイコ外相演説は、「第2

のバルフォア宣言」と言われる程ですが、人民に憤りを与えた。

フルシチョフ登場の1960年「モスクワ声明」以前の彼ら共産党は、「階級主義」で民族解放闘

争に敵対する傾向が続いた。ベトナム解放闘争のように、共産党のイニシアティブによる運動で

は無く、ナセルの革命も当初は批判したように「封建的勢力」「アラブ反動」がリーダーシップを持

っていた為だろう。ナセルの評価を含めて、民族解放闘争を革命運動として評価、提起していた

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のは、パレスチナやレバノン共産党、イラク共産党の尐数民族に属する人々だったと言われてい

るが事実関係は良く分からない。

Gamal Abdel Nasser(1918-1970)

Abd al-Karim Qasim(1914-1963)

Ahmed Ben Bella(1918-2012)

Michel Aflaq(1910-1989)

Zaki al-Arsuzi(1899-1968)

私が、アラブに就く前の「アラブ社会主義」は、50年代から60年代の全盛から変化していった時

代であったと思う。ナセルのアラブ民族主義から社会主義、イラクのカシム将軍による革命、更に

アルジェリアのベンベラや、イラク、シリア・バース党の急進的社会主義路線が行き詰まりを見せ

ている時代であった。アルジェリアのブーメディエン国防相のクーデターや、シリアのアサド国防相

の70年クーデターのように、「穏健な」社会主義政策に70年代に変化していった。

「急進的社会主義」と批判されていたのは、国有化の拡大、分配の人民主義の無計画、中小商

工業者やプチブル中間層の排除で、財政的にも行き詰まったと言われている。はっきり言えること

は、ことごとく、どこのアラブ社会主義国もソ連・東欧型の社会主義制度が目指されていた事であ

る。そこには、貧しい人々の生活を向上させ、国力を上げて社会発展を目指すと言うビジョンがあ

った。もちろん、戦後の米・ソ冷戦下、イスラエルとの戦争を強いられた構図は必然的に、ソ連・東

欧の支援を必要とした事情もあった。「一党独裁」「国有化」「情報機関による国民支配」、外交路

線は、冷戦とイスラエルとの戦時下の軍事力による抑止政策にあった。が教育、医療などを無償

化し、貧しい者への補助政策など社会主義の積極面としても、民衆は一定支持した。

He began a lifetime involvement with revolutionary politics in the late 1930s in

Greece. Drawn into the "Spartacus" faction, he represented Greek Trotskyists

at the founding conference of the Fourth International in Paris in 1938

Michel Pablo(Michalis N. Raptis 1911-1996)

こうしたアラブ社会主義経済政策には、トロツキー派潮流も貢献してい

た。ギリシア人で、仏を拠点に活動したミッシェル・パブロはその一人であ

る。アルジェリアのベンベラと共に自主管理社会主義を目指し、アルジェ

リア民族解放戦線(Front de Libération Nationale:FLN)の閣僚とし

て活躍した。パブロは、アルジェリアの FLNの解放闘争に欧州中心に行

動して、贋金造り、銃の密輸など兵站で支えた。オランダで逮捕されると、ジャンポール・サルトル

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らによる解放キャンペーンで釈放されている。その後勝利した FLNの閣僚として、ベンベラ失脚ま

で社会主義経済政策を担った。

ベンベラ失脚後はチリのアジェンデ政権の社会主義への平和的移行を展望して顧問を務めた

のも、ミッシェル・パブロである。彼は、スペイン人民戦線でも兵站面で活動し、第4インターナショ

ナルの結成にも参加した人物として知られる。70年のPFLPのライラ・ハリドと一緒にエルアルハ

イジャック闘争を敢行し、飛行機内で射殺されたパトリック・アルグレロは、自分の同志だと、私は

パブロから聴いた。パブロは、スペイン人民戦線の総括の継承として、世界革命を熱く語り、世界

党・世界赤軍・世界反帝統一戦線、国際根拠地論に興味を示した数尐ない友人の一人であった。

70年代に、こうした人々と、アラブ社会主義、ソ連・東欧の社会主義を話し合った事がある。「社

会主義」とは何か?と。人間を解放する過渡期社会主義とは、どんな実態から生まれるのか?私

も中東で、理論的よりも現実的に、それを実感しつつ問うて来た。目に見えるのは、政府公務員の

「労働者並賃金」(かってマルクスが語った)は食べられない分、汚職を生んでいた。地位と特権を

持つ者が、その利益を分け与えるという「共同体」感覚は、縁故主義を育てている。ユーゴスラビ

アの自主管理社会主義も「各共和国対等」が、人口の最多数のセルビア共和国にとっては不平

等でしかない事や、「自主管理」は、素晴らしい試みであるが、分配は更に欲望を生み、「必要」と

「欲望」の問題が解決されずにあること、社会関係の中で必要の側から欲望を理性的に制御出来

た貧しい時代から尐し豊かになると、「もっと欲しい」という欲望が欲望を生むことなど、人間の問

題に行き着くと語り合った。社会主義の制度的統制の中で、人間らしい創造性と自由が活かされ

るような過渡期社会はどう可能なのか?

Muammar Gaddafi(1942-2011)

当時リビアでは「人民の社会主義」を目指し、トロツキー主義や毛沢東

主義を含む左派を招いては協議と試行錯誤の社会主義建設中であった。

カダフィの「緑の書」を基本に協議会を積み重ねることによる直接民主主

義の社会主義を目指していた。この原型は、イスラーム共同体ウンマの

会議、シューラー(協議の意味)であった。80年代には社会主義の様々

な試みがなされた。空港やあちこちには「我々は労働者ではなくパートナ

ーである」とか「必要と欲望の統一」などのスローガンが掲げられていた。

しかし、社会的に人々は部族社会から新しい社会主義への教育が行き

届かない分、人民議会は無政府的で収拾がつかず、カダフィが裁定する結果となる。結局、カダ

フィの「超法規的采配」に依存する事になる構造が固定化していった。専制政治が続くことにな

る。

Andreas Papandreou(1919-1996)/Prime Minister of Greece(1981―

1985・1993-1996)The Panhellenic Socialist Movement(PASOK)

パブロやその友人たち、欧州の新左翼やユーゴスラビアの政権批判勢力

などとフランクに話し合った。パブロは、かってのトロツキー派潮流の同志だ

ったアンドレアス・パパンドレウを語り、若い新左翼の戦略の無さを嘆いてい

た。(パパンドレウは、パンヘレニック全ギリシャ社会主義運動PASOKのリ

ーダーとなり、1981年から政権を担当する。この時、パブロは招かれて、パ

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パンドレウ内閣の経済顧問につき、後に1996年死去に際して、ギリシアは国葬で彼を追悼して

いる。)

当時共通に私たちが考えていたのは、「民主主義のない社会主義は、人間の解放をもたらさな

い」と言う点であった。この民主主義とは、ブルジョア・民主主義と違うものを描いて批判・言論・思

想信条の自由と、政治の透明性、説明責任などで、今から考えると。後にミハイル・ゴルバチョフ

(ソ連初代大統領で最後の)が示したことと似ていた。「自由」が平等を犠牲にする資本主義、「平

等」が自由を犠牲にする社会主義を超える自由・平等を求め社会民主主義を再学習すると言う者

もいた。

私は彼らと話していて、アラブ各国の民族、社会主義を人間らしい過渡期社会へと復権させ得

ないものかと考えつつ、その難しさばかり実感した。どの国も中東の共産党や社会主義勢力は貧

しく、日本共産党もかって昔、そうであったように、財政・武器・教育・訓練も含めて大きな力を既存

のソ連・東欧・中国などの社会主義国家に依存せざるを得ない現実を見て来た。又、社会主義を

名乗る政権も、戦争下軍人の専制であり、それも又、ソ連・東欧の支援が大きい。

社会主義は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(カール・マルクス「ゴータ綱領批判」)

では、間違いではないのか・・・と言う思いを抱いていた。権力と結び付いた層が、その恩恵を受け、

格差を生み、世襲を生んでいる現実。生産力が低い以上、困難だが、不完全であれ資本主義も

社会主義も、目的意識性として「能力に応じて働き、必要に応じて受け取れるような社会」を目指

すべきではないか?再配分能力は、国によって、もちろん不均等でも不十分でも、必要な人々へ

の分配を重視する事こそ、社会主義では依り大切ではないか?と提起してみたこともある。

Alexander Dubček(First Secretary

of the Communist Party of

Czechoslovakia 1968-1969)

Prague Spring/5 January – 21

August 1968/"socialism with a

human face".

チェコスロバキアのアレクサン

デル・ドゥプチェクの実体は知らな

いが、「人間の顔をした社会主義」、

ヒューマニズムが貫かれなければ真の人類史に向かわないし、例外なく社会成員を解放する労

働者階級の意味が無いのではないか。「ソ連型の社会主義は、政治的自由・透明性・代表制プロ

セスの民主化などが無い分、いつか自滅せざるを得ないだろう」と、パブロも語っていた。そのソ

連の形態をロールモデルとして戦時下統治をせざるを得ないアラブ社会主義は「民族社会主義」

と言う国家統制社会に成らざるを得なかった。

民主主義は、米欧の介入の前で育ちようが無いと言うのが、パレスチナ・アラブの友人たちの

声でもあった。しかし彼らは、この民主主義なしにはアラブの社会主義は、現存のような人民抑圧

機関に成らざるを得ないと友人たちは語っていた。そうであっても、民主主義の方法を制度として、

やはり「民主国家」建設から社会主義を目標とすべきだという考えである。「オスロ合意」以降、ア

ラブ社会主義と一線を画して、PLOアラファト指導部は、西欧型の民主国家を描きつつ、その主

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体はアラブ民族主義運動の習慣化した体質のまま、権威主義・専制の指導体系しか作り得なか

った。それを批判する勢力も又、難民たち抑圧された労働者・農民の立場に立って批判する事は

出来たが、それ以上の政治的物質的イニシアティブを持てずに来た。

ソ連・東欧の物質的、制度的崩壊は、90年代に入るとイデオロギー的求心力を失っていった。

その分、どの勢力も問われたのである。反比例して、イラン・イスラーム革命とアフガニスタンの反

ソ解放戦士ムジャヘディーンの「勝利的帰還」は、逆に90年代アラブにイスラーム政治運動を増

大させた。90年代の米国一極支配の中で、アラブ社会主義諸国は、ソ連・東欧に次ぐ攻撃対象と

される分、権力維持の諸政策は、益々人民抑圧装置と化し、「社会主義」は、益々魅力の無いも

のになっていった。

それでも、PFLP、DFLPや欧州の左翼潮流は、「民主主義なしの社会主義はない」としつつ、

「民主主義は、中東ではやはり国有化と分配の仕方を含めて社会主義によってしか創り得ない」

と語っていた。もしかしたら、こうした上からの社会主義政策が民主主義を法制的にまず育てうる

のではないか?「民族主義」を超える努力も語られた。「民族主義」は、ベトナム・カンボジア問題

でも示されたように、民族の全肯定の上に、権力奪取までは進み得るが、権力奪取の段階から、

どれだけ民族主義の自己否定をし得るのか、つまり階級化、民主化を求めなければ、社会主義も

民主主義も反動化すると言う考えを持っていたと思う。

PFLPは「同時革命論」、DFLPは「段階論」(権力奪取までは、ファタハのプチブルジョア勢力と

共同して、それ以降は階級闘争とすると言う)の違う方法はあったと思う。しかし「オスロ合意」以

降は「全民族的危機」として、より民族的スタンスを取る傾向が強くなった。これはファタハの米欧

と協調するブルジョア・リベラリズム化に対抗した措置の傾向であったと思う。アラブ民族主義が

目指した社会主義とその制度は、ソ連・東欧同様全社会の民主化を、目指し育て得なかった。社

会主義は、民主主義無しには根付かないし、今だ、社会主義の展望を再形成し得なかった90年

代であった。

この章の1990年代は、私たちー日本赤軍にとっても困難な時代であった。冷戦崩壊後、どの

各国政権、各勢力も何処に依拠して、誰と同盟し、どう次の展望を開くのか?生存を賭けた闘い

の道が問われた。中東地域では、ソ連・東欧崩壊から湾岸戦争がその画期であった。最早、米

国・ソ連の狭間で武装闘争を手段とする革命は、圧倒的な人民の協力無しには闘えないし、政治

的解決こそが次の展開を可能にする時代となった。82年イスラエル軍のベイルート包囲の時から、

その見通しに立ったのはアラファトであった。他のパレスチナ・リーダーも、情勢を直視する政治的

現実の前で、政治解決へと転じて行こうとしていた。イスラエルと同盟をする米国との協調からPL

Oは、更にイスラエルと「パートナー」として和解へと飛躍する。

93年9月9日のアラファトの書簡は、しかし左派や急進派ばかりか、エドワード・サイードまで

「どのようにアラファトが譲っても、イスラエルが譲ることは無い」と言っていた批判の通りの現実を

突きつける90年代であった。アラファトとしては、イスラーム主義の台頭を先取りして、米国・イス

ラエルと協調して世俗的パレスチナ独立国家建設を求めたのだろう。本質的内容や入植活動凍

結などの「マドリッド会議」の入り口議論を棚に上げして、「最終地位交渉」として括ってしまい、先

延ばしを許した失敗は、結局より大きな敗北に至ってしまった。パレスチナの人々は、「パレスチナ

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独立国家」と言う名のどんな「パレスチナ」に成るのかを90年代の各合意の遅滞とイスラエルの

強欲な占領維持で注視し、落胆しつつ実感した。

Japanese Red Army(JRA) 1990s

19th Palestinian National Council November 1988

Palestinian Declaration of Independence

私たちはー日本赤軍は、アラファトが82年イスラエルによ

るレバノン侵略、ベイルート包囲からPLO追放の時を経て、

「二国家解決」共存、被占領地中心に再編成する事には、現

実的選択として反対しなかった。それ故第19回パレスチナ

民族評議会(PNC)に、日本赤軍代表がオブザーバー参加し、「パレスチナ国家独立宣言」に支

持声明を発して来た。ファタハとの共同や協力も含めて友好的に交流していた。湾岸戦争時のア

ラファト PLO議長のイラク支持には、大反対し、アブイヤードの姿勢を支持した。概して友好的に

ファタハと交流して来たが、「オスロ秘密合意」から、その戦略では無く、手法に対して批判して来

た。

PFLP、DFLPたちのボイコット戦術には、賛成出来ない事もあったが支持した。「オスロ合意」

以降のアラファトは、米・日・欧州政権との約定に沿って自治区と自治政府(PA)創りに進んだ事

は、賛成出来なかった。ファタハの友人たちも、当初は反対しつつ、自治区へと帰還して行く者も

多かった。「アラファトを信じるしかない。アラファトなら何とか切り拓いてくれるのではないか」と言

いつつ「イスラエルを友とすることは、アラブ占領地を返してくれてから考えたい」と言っていた。

人民の意志、民族と言っても良いが、歴史的にイスラエルを敵として認識し、未だ闘わざるを得

ない時に、「オスロ秘密合意」し、不意打ちのように「友好」を「9・9書簡」で宣言した事は、民衆に

対する背信であったと思う。「秘密合意」は、最前線で交渉していたパレスチナ代表団を裏切った

ばかりか、パレスチナの分裂と同時に、他のアラブ交渉団との分断を和解出来ないものにしてし

まったと言える。特に「パレスチナ民族憲章」の「イスラエル破壊条項」の削除については、時期尚

早であったと思う。人民は準備が出来て居ないし、現実に眼前に占領し弾圧し続けているイスラエ

ルの現実を考えれば、敵視するなと言う方が無理であろう。「オスロ合意と矛盾する条項を削除」

と言っても、全体を貫いているのが、反シオニズム・反イスラエルであり、不可分にある。「二国家

解決」案と矛盾する条文のみの削除と明確にすべき所、「オスロ合意と矛盾するところ」と言う曖

昧なままに、PNC決定を行った事も、新しい「パレスチナ民族憲章」改定版を作れないまま現在に

至った原因である。

98年1月22日、ヤーセル・アラファトからクリントン大統領に宛てた手紙では、「敵視」そのもの

まで削除を伝えている。「96年のPNC決議『オスロ合意と両立しない民族憲章の条項は無効で

ある』従って、以下の条項は効力を失っている」として、条項の第6条から10条、15条、19条から

23条と30条は全条文、第1条から5条、第11条から14条、16条から18条、25条から27条、2

9条の一部分がそれに当たると記している。本文中でも触れたが、アラファトの指摘ではほぼ全て

の条文に当たっている。「PLOの自爆行為」と非難されて当然である。因みに、98年12月第22

回パレスチナ民族評議会(PNC)に列席したクリントンは“I thank you for your rejection - fully,

finally and forever - of the passages in the Palestinian Charter calling for the Dstruction

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of Israel”(Remarks by President Clinton to the Palestinian National Council and other

Palestinian organizations, Gaza, 14 December 1998)と演説しており、アラファトより限定した

「破壊条項」として、捉えているように読み取れる。

Yasser Arafat(Born 24 August 1929―Died 11 November 2004 (aged75)

ピンチをプラグマチズムで潜り抜けて来たアラファトとしては、あまりに無策と言える。これまでの

民族憲章を「歴史的文書」として終了させ、シオニズムの拡張主義の危惧を記し、「二国家解決」

共存の政治交渉によって解決すると記した、パレスチナ「新民族憲章」こそ、必要だったのである。

しかし、「アラファト批判よりも問われるべきは、イスラエルの占領だ」として、団結を保とうと努力し

ていた人々が、アラファト派にも反アラファト派にも大勢いた。パレスチナ革命の対立は常に一時

的である。実際、イスラエルにとって最良の解決「オスロ合意」の道を破壊したのは、シオニスト・イ

スラエル右派勢力であった事は言うまでもない。

こうした変化の時代、ファタハ、PFLPなどのボランティアとして参加活動して来た人々も、政治

戦の中で闘い続けたし、レバノンから自治区、ヨルダン・アンマンへと活動を移す者も居た。自治

区中心シフトをどの組織も開始していた90年代であった。結局、アラファトを批判しつつ彼を超え

る策謀、掌握力、説得力、人望を凌ぐリーダーは現れなかった。左派は、アラファト批判をしつつも、

資本主義諸国、イスラーム諸国の元首とも上手くやって行く才覚は無いし、いわば無原則さを厭

わないプラグマチズムも無い。「政治家」にはなれない革命家たちであった。アラファト派に限らず、

パレスチナ革命の相互に対立しつつ又共同する精神は、ある時にはプラスに作用し、又マイナス

に作用する。

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Palestinian people

Mahmoud Darwish, Palestinian poet

Palestinian novelist and non-fiction writer Susan Abulhawa

Samah Sabawi is a Palestinian dramatist, writer and journalist

American radio personality and record producer DJ Khaled, of Palestinian descent

最終地位交渉(於キャンプデービッド・2000)で、合意に至らず米国から自治区に戻った時、ア

ラファトは対立はありつつも英雄として迎えられた。こう言う精神は、アラブ人の寛大で楽天的感

性であり、私がアラブ人気質の好感を持つところでもある。「オスロ合意」自身が、元々無理強で

あり、纏まらない物なのだから、最終地位交渉も決裂は当然であり「そら見たことか」と言うような

事ではあるが、そうは言わないのがアラブ気質である。「良くやった!」なのである。米国・イスラエ

ルの一方的押し付けの最終地位を妥協せず、跳ね除けたと言う事で英雄視された。日本の感覚

ではなかなか理解しにくいところだが、反対派も含めて皆、歓迎する所がアラブ風であろう。

又パレスチナ組織のゲリラ・リーダーたちは、いつも冠婚葬祭で忙しい。私は、当初は「リーダーの

仕事って冠婚葬祭?!」と驚いたものだった。会議が終了すると必ず、誰それが被占領地から祖

母が来たとか、何処どこの結婚式と、とにかく多い。しかも、地縁、血縁を大切にするので、対立す

る組織であっても、特に葬式は参列する。そして、それによって新しい関係を結ぶ。そんな事をき

っちり小まめにやるのはアラファトである。あの忙しい中で、リッダ闘争の戦士たちへの勝利の祝

賀と追悼を、私たちにわざわざ述べに来た。又ハマースの「エンジニア」と仇名のヤヒア・アヤーシ

ュの葬式にも、又精神的指導者ヤシーン師の息子の結婚式にもアラファトは出席する。無名の戦

士でも都合の付く限り参列する。住民は近しい組織のリーダーが来ないと怒り出したりする。そん

な姿を見ていると、アラファトの人望も又納得出来る。

パレスチナ全体に民主国家を築く為には、ハマースの宗教的国家では無く、左翼の社会主義で

も無く、平和に暮らせる国として、民主パレスチナ国家の世俗的未来をアラファト路線に人々は託

したと言える。その破産は、アラファトの限界では無く、それは在ったとしてもイスラエルの占領に

問題が在る以上、闘いは続かざるを得ない。パレスチナ革命は、反対派と対立しつつ共同する。

米国・イスラエルと同盟し、反対勢力をイスラエルに代わってパレスチナ自治政府(PA)が弾圧す

るのは、人民が許さないからである。

Red Army Faction/German: Rote Armee

Fraktion, pronounced also known as the

Baader–Meinhof Group or Baader–Meinhof Gang,

was a West German far-left militant organization

founded in 1970.

*Dissolution/On 20 April 1998, an eight-page

typewritten letter in German was faxed to the

Reuters news agency, signed "RAF" with the

machine-gun red star, declaring the group

dissolved: Almost 28 years ago, on 14 May 1970, the RAF arose in a campaign of liberation. Today we

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end this project. The urban guerrilla in the shape of the RAF is now history (German Vor fast 28

Jahren, am 14. Mai 1970, entstand in einer Befreiungsaktion die RAF. Heute beenden wir dieses

Projekt. Die Stadtguerilla in Form der RAF ist nun Geschichte.)

又この時期、公然と表明しなかったが、東欧・ソ連の

崩壊を踏まえて幾つかの在欧州の武装グループが

非公然に解散を表明し、パレスチナの友人たちの中

で解散式を行った。私も、その席に立ち会った事があ

る。ドイツ赤軍も「歴史的使命を終えた」として98年

解散を表明した。

叉私たちー日本赤軍も91年同様の改組を行った。又、レバノン政府が、日本政府の繰り返しの

要請を受けて、これまでの政策を転換して、日本赤軍メンバーの逮捕に踏み切ったのもこの時期

97年2月の事である。

目次 http://0a2b3c.sakura.ne.jp/p2-mokuji.pdf

第 5 章 http://0a2b3c.sakura.ne.jp/p2-ls5.pdf