物理学:統計力学の初歩 - nms.ac.jp物理学:統計力学の初歩 藤崎弘士∗...

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学: 25 2 13 1 イントロダクション 1.1 なぜ統計力学を学ぶか? 学を 1 、それ よう ミクロ えて、そ するこ きる。 に多くある 、ニュートン れる るにせよ、 えて きる。そ して、 から きているタンパク をフェムト 10 -15 スケール いかけるこ きる 1 。一 して マクロ 体、 )を し、マクロ りを する学 ある。しかし、そこ われており、エントロピー エネルギー する「 」について るに まっている 2 そこ して、 ミクロ マクロ うつ がっている ミクロにみる ういう マクロ ダイナミクス すれ いった 題が われる。これに えよう する が、統計力学 (statistical mechanics) れる ある。 * [email protected], http://nonad.zouri.jp 1 たように、 にタンパク きを かける 、コンピュータを う。 い! 2 エントロピー える に、 エネルギー する。 学に する平衡 (equilibrium statistical mechanics) からずれた する非平衡 (nonequilibrium statistical mechanics) があり、 ある。 19 にボルツマン 3 によってほぼ確 されたが、 んに されており、まだ ある。 ノート 、そ する 4 1.2 何と関係があるか?どんな役に立つか? われわれが にする 、大 マクロ あり、それをミクロ から しよう する するために、そ 位に 割して、そ 位を し、そ する いうデカルト )から って ある。 きから きる あり、 学、 いった がある っている。 DNA タンパク レベル が、 さまざま 患を引き こすこ から えて、 3 ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann, 1844 2 20 - 1906 9 5 ) オースト リア・ ィーン ィーン大学 るエントロピーに対するボルツマン れている。 4 3 くらいか ら、 1 かけて される ある。しか 学にほ 多い。ここ しよう がけるが、 あるこ っておく。 わかり すい、 れられている して [1, 2, 3] がある。 1

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Page 1: 物理学:統計力学の初歩 - nms.ac.jp物理学:統計力学の初歩 藤崎弘士∗ 平成25 年2 月13 日 1 イントロダクション 1.1 なぜ統計力学を学ぶか?古典力学や電磁気学を使うと、1

物理学:統計力学の初歩

藤崎弘士∗

平成 25 年 2 月 13 日

1 イントロダクション

1.1 なぜ統計力学を学ぶか?

古典力学や電磁気学を使うと、1個の粒子、それも原子や電子のようなミクロな粒子を考えて、その

運動を解析することができる。原子などの粒子が非

常に多くある場合は、ニュートン方程式の右辺に現

れる力が複雑になるにせよ、同様に考えて解析・計

算ができる。その結果として、例えば、数万個の原

子からできているタンパク質の動きなどをフェムト

秒(10−15 秒)の時間スケールで追いかけることが

できる1。一方、熱力学は、原子や分子の集団として

のマクロな物質(気体、固体など)を考察の対象と

し、マクロな物質間の熱のやりとりを議論する学問

体系である。しかし、そこでは基本的に時間の情報

は失われており、エントロピーや自由エネルギーの

変化する「傾向」について述べるにとどまっている2。

そこで、当然の疑問として、

• ミクロとマクロはどうつながっているのか

• 熱とはミクロにみるとどういうものなのか

• マクロな系のダイナミクスはどう記述すればいいのか

といった問題が現われる。これに答えようとするの

が、統計力学 (statistical mechanics) と呼ばれる

物理の一分野である。

[email protected], http://nonad.zouri.jp1力学の授業で述べたように、実際にタンパク質の動きを追い

かけるときは、コンピュータを使う。手計算では到底できない!2エントロピーは増える方向に、自由エネルギーは減る方向に

変化する。

統計力学には平衡系のことを議論する平衡統計

力学 (equilibrium statistical mechanics) と平衡系からずれた系のことを議論する非平衡統計力学

(nonequilibrium statistical mechanics) とがあり、ともに重要である。前者は、19世紀にボルツマン3ら

によってほぼ確立されたが、後者は現在も盛んに研

究されており、まだ未完成である。本ノートでは、そ

の両者の初歩的な部分を説明する4。

1.2 何と関係があるか?どんな役に立つか?

われわれが普段目にするのは、大抵マクロな現象

であり、それをミクロな立場から理解しようとする

のは、還元論的な立場(ものを理解するために、そ

のものを小さな単位に分割して、その各単位を明瞭

に理解し、その後で統合するというデカルトの考え

方)から言って非常に自然である。例えば、生命現

象も結局は原子・分子の動きから理解できるはずで

あり、分子生物学、構造生物学といった分野がある

ことが還元論の有用性を物語っている。実際、DNAやタンパク質などの生体分子の分子レベルでの変化

が、病気やさまざまな疾患を引き起こすことから考

えて、生命現象の統計力学的な理解は非常に重要に

3ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン(Ludwig EduardBoltzmann, 1844年 2月 20日 - 1906年 9月 5日)はオーストリア・ウィーン出身の物理学者、哲学者でウィーン大学教授。後で述べるエントロピーに対するボルツマンの公式が墓碑には刻まれている。

4通常は、統計力学は理工系の物理学科などの 3学年くらいから、最低でも 1 年はかけて講義されるのが普通である。しかも、非平衡統計力学にほとんど触れない場合も多い。ここでは最低限の本質的な部分を説明しようと心がけるが、分量的には不十分であることを断っておく。初学者にもわかりやすい、生物学や化学への応用も触れられている本としては [1, 2, 3] などがある。

1

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なることが分かる5。

また、以下で出てくる拡散、ブラウン運動といっ

た概念は生理学 (physiology) [4, 5] で運動を考えるときにもっとも基本的なものである。薬がタンパ

ク質に結合するときも、水中を拡散してから結合部

位にくっつくので、拡散のことを考えることは重要

である。ミオシンのようなモータータンパク質の一

方向性(平均的にある方向にだけ運動してその逆向

きに運動しない)の運動も非平衡な拡散現象として

理解できる。本ノートの最後に、そういった生体内

の現象にも触れる。

2 物理における確率

2.1 確率とは何か

統計力学を学ぶ上で基本となるのは、確率の考え

方である(数学の授業参照)。サイコロ投げを考え

ると、1から 6までの目が均一な確率で生じているとすると、

Pi =16

(1)

となる。これの実際的な意味は N 回サイコロを振っ

て、そのうちに iの目がNi回出たとすると、N → ∞の極限で

Pi =Ni

N→ Pi =

16

(2)

となるということである。これは離散的な確率の典

型的な例である6。Pi が確率であるためには、Pi ≥ 0(確率は正である),

∑i Pi = 1(すべての事象に対

する確率を足すと 1になる)でなければならない。さて、サイコロの場合は 6個の事象からなってい

たが、事象の数が大きくなると、もしくは連続的な

数に対して確率を割り振るときは、連続的な変数 x

に対する確率を考えることが多い。それを確率密度

もしくは確率分布 ρ(x) と呼ぶ。例えば、ある学年の学生の身長のデータを集めると、身長は実数であ

り連続的に分布しているので、身長に対する確率密

5例えば、薬が効くか効かないか、ということは薬の分子レベルの詳細が重要であるが、それと同時に、薬とタンパク質の間の結合自由エネルギーというマクロな量が重要になってくる。

6もっとも簡単なものは、コイン投げに対する確率だろう。

度を考えることができる。また、値 x を観測し続け

ると、それは確率的に振る舞っている(あっちが出

たり、こっちが出たりする)が、この x のことを確

率変数と呼ぶ。

問い¶ ³重要なことは、確率密度はその名の通り密度を

表し、確率そのものではないということである。

xi から xi + ∆x の間に存在する確率「的」な

量は

Pi =∫ xi+∆xi

xi

ρ(x)dx (3)

となる。これが確率になるための条件を考えて

みよ。µ ´確率密度は確率と同様に、ρ(x) ≥ 0,

∫ρ(x)dx = 1

という性質を満たす必要がある。

また、確率密度から計算される重要な量として、

平均と分散がある。関数 f(x) の平均は

〈f(x)〉 =∫

dxf(x)ρ(x) (4)

と定義される。また、これは関数 f(x)の期待値 (ex-

pectation value) であるという言い方もする。

一方、関数 f(x) の分散は

〈(∆f(x))2〉 = 〈f(x)2〉 − 〈f(x)〉2 (5)

と定義される。ただし、

〈f(x)2〉 =∫

dxf(x)2ρ(x) (6)

と定義した。つまり、これは f(x)2 の期待値である。簡単な場合として、変数 x そのものの平均と分

散は

〈x〉 =∫

dxxρ(x) (7)

〈∆x2〉 = 〈x2〉 − 〈x〉2 (8)

となる。これらは大雑把に言って、分布の山の位置

と分布の広がりを意味する。

2

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2.2 正規分布、もしくはガウス分布

確率密度に関して、もっと具体的に考えるために、

ここでは典型的な確率密度である正規分布 (normal

distribution)について考える。これはガウス関数と

呼ばれるものと同じなので、ガウス分布 (Gaussian

distribution)と呼ばれることも多い。

ガウス分布は以下で与えられる:

ρ(x) =1√

2πσ2exp

(− x2

2σ2

)(9)

問い¶ ³ガウス分布が確率分布の条件を満たすことを確

かめよ。µ ´この関数をグラフとしてプロットすると、図 1 の

µ = 0 の場合となる。

図 1: ガウス分布のグラフ。

また、この分布から xの平均、分散を計算すると、

〈x〉 = 0, 〈∆x2〉 = σ2 となる。つまり、ガウス分布に

入っているパラメータ σ は分布の幅を表す。

また、この分布を右に µ だけシフトさせた分布

ρ(x) =1√

2πσ2exp

(− (x − µ)2

2σ2

)(10)

を考えると、この場合の平均と分散はそれぞれ 〈x〉 =µ, 〈∆x2〉 = σ2 となる。

問い¶ ³〈x〉 = µ, 〈∆x2〉 = σ2 となることを直接、積分

して確かめよ。µ ´2.3 なぜガウス分布は重要か?

ガウス分布(ガウス関数)は数学や物理で非常に

よく出てくる。その理由としては以下が挙げられる。

• 独立でランダムな事象がいくつもあるとき、その和の分布はガウス分布に近づく。(これを中心

極限定理と呼ぶ。)その例として、拡散方程式

の解もガウス分布になる。

• 理想気体の運動量に関する分布であるマックスウェル分布はガウス分布になる。また、基本的

な力学系である、調和振動子のボルツマン分布

もガウス分布になる(後述)。

• ガウス関数は非常にきれいな性質をもっており、また多重積分をするときも解析的に楽にできる。

2.4 多次元の分布関数、相関、条件付け確率

本講義では、簡単のために 1変数の確率分布について主に論じるが、現実には多変数(多次元)の確

率分布を考えることが多いので、そのことについて

触れておく。

そのためには、複数の事象に対する確率について

まず考える必要がある。例えば、サイコロとコイン

を同時に振ることを考えよう。サイコロの目が i で

あり、コインが表か裏であることを j で表す(例え

ば、1 が表で、2が裏とする)と、サイコロとコインの目が (i, j) である確率は

Pij =112

(11)

と与えられる。これはサイコロとコインの目の出る

可能性を枚挙することで算出できるが、以下のよう

3

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に確率の積としても計算できる。

Pij = Pi × Pj =16× 1

2(12)

ただし、この場合はサイコロとコインは独立した存

在であり、お互いに影響を与えないと仮定している。

これを一般化して、事象 A,B が同時に起こる確

率を P (A,B) と書こう。もし A と B が独立な事象

であれば、

P (A, B) = P (A)P (B) (13)

が成り立つ。これを独立性 (independence)の条件

と呼ぶ。

ただし、一般的には異なる事象は独立ではない。

例えば、身長と体重を確率的に考えると、身長が高

い人ほど体重も重くなるので、これらは関係性があ

る。これを相関 (correlation)と言う。そのときは

P (A, B) 6= P (A)P (B) (14)

となる。

このときは以下のように、条件付け確率 (condi-

tional probability)を定義できる。

P (A|B) =P (A,B)P (B)

(15)

この左辺は B が起こったときに、Aが起こる確率と

いうことを意味している。P (B) を両辺にかけると、

P (A,B) = P (A|B)P (B) (16)

となるので、もし

P (A|B) = P (A) (17)

であれば、これは独立性の条件と同じになる。つま

り、 B が起こったときに、A が起こる確率(左辺)

が、B によらない(右辺)ということである。

この条件付け確率を系統的に使うことで、情報理

論 (information theory) [6]、ベイズ統計(推定)(Bayesian statistics) [7]への道が開けるが、高度な話題なのでここでは割愛する。ただし、ともに(後

に学ぶ)統計学の基礎となる概念であることを強調

しておく。

3 平衡系の統計力学

3.1 カノニカル分布

さて、ここで物理に戻ろう。熱力学では温度が定

義できるような大きな系を複数用意し、それらを接

触させて熱のやりとりを議論した。そこでここでも

同様に、温度 T の熱浴を用意し、それに系を接触さ

せる。ただし、この場合の系はなんでもよく、1つ

の粒子(電子、原子)でも構わない。簡単のために、

1自由度の系とし、その全エネルギーが

H(x, p) =p2

2m+ V (x) (18)

と与えられるとする。これは一般に位置 x と運動量

p の関数であり、それをハミルトニアン (Hamilto-

nian)と呼ぶ。孤立した系であれば、ハミルトニア

ンは一定の値 E になる(エネルギー保存則)。

さて、この系が熱浴に接触し、平衡状態に達した

ときを考える。しかし、平衡状態といっても完全に

すべてが静止しているわけではなく、系は熱浴とエ

ネルギーのやりとりをしており、そのために H は保

存量ではなくなる。同様に、x, pも揺らいでおり、こ

れらを確率変数と考えることができる。では、その

確率分布はどのように与えられるのか?それがカノ

ニカル分布 (canonical distribution)であり、以

下で与えられる:

ρ(x, p) ∝ e−βH(x,p) (19)

真ん中の記号は比例しているという意味である。ま

た、β は逆温度と呼ばれ、

β =1

kBT(20)

で定義される。T は熱力学でも出てきた絶対温度、

kB はボルツマン定数と呼ばれる定数である7。

問い¶ ³この分布が確率分布の条件を満たすようにする

ためには、どういう定数をかける必要があるか?µ ´7ボルツマン定数にアボガドロ数 NA = 6.0 × 1023 をかけた

ものが気体定数 R になる。つまり、R = kBNA である。

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ただし、ハミルトニアンの形を見ると分かるよう

に、これは x と p に関する確率分布の積として書け

ている。

ρ(x, p) = ρX(x)ρP (p) (21)

ρX(x) ∝ e−βV (x) (22)

ρP (p) ∝ e−βp2/2m (23)

よって、x と p に関しては独立に考えることがで

きる。

3.2 マックスウェル分布

運動量の分布 ρP (p) は歴史的にマックスウェル分布と呼ばれる8。これは例えば、理想気体のような、

相互作用が非常に小さくなるような状況の気体の運

動を表している。ρP (p) が確率分布になるためには、

ZP =∫ ∞

−∞dpe−βp2/2m (24)

で割っておく必要がある。

問い¶ ³これはなぜか?µ ´

よって、1自由度のマックスウェル分布は

ρP (p) =1

ZPe−βp2/2m (25)

となる。これは

σ2 =m

β(26)

と置けば、変数 pに対するガウス分布になっている。

これから運動量の平均と分散を計算すると

〈p〉 = 0, 〈∆p2〉 = mkBT (27)

となる。

問い¶ ³これを確かめよ。µ ´8ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell、

1831 年 6 月 13 日 - 1879 年 11 月 5日)はイギリス(スコットランド)の理論物理学者。電気現象と磁気現象をマックスウェルの方程式という形で統一的に扱ったことがあまりにも有名。

さて、この「気体」のエネルギーは運動エネルギー

だけなので、その期待値を計算すると、⟨p2

2m

⟩=

12kBT (28)

となる。ここで重要なことは、平均のエネルギーは気

体の性質(質量)によらないということである。この

気体の 1自由度あたりの平均エネルギーが kBT/2になることをエネルギーの等分配則 (law of equipar-

tition of energy)という。

この結果から気体の比熱を計算することができる。

例えば 1原子分子(アルゴンのような貴ガス)であれば、それは 3つの自由度をもっている(3次元方向に動くから!)ので、温度 T のときの 1個の 1原子分子の平均のエネルギーは⟨

p2x

2m+

p2y

2m+

p2z

2m

⟩=

32kBT (29)

となる。これが 1 モル NA = 6.0 × 1023 個あれば32NAkBT のエネルギーになる。比熱は内部エネル

ギーを T で微分したものなので、

CV =32NAkB =

32R (30)

となる。2原子分子の場合は 6個の自由度があるが、そのうちの 1個は硬いボンドになって「死んで」いるとみなせるので、有効な自由度の数は 5個である。すると、上と同じ理屈で比熱は

CV =52NAkB =

52R (31)

となる。これらは実測される値に近い。

3.3 ボルツマン分布

位置の分布 ρX(x)のほうはボルツマン分布と呼ばれる(他の呼び方もあるが、ここではカノニカル分

布、マックスウェル分布と区別する意味でこう呼ん

でおく)。

ボルツマン分布をきちんと書くと

ρX(p) =1

ZXe−βV (x) (32)

5

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となる。ただし、

ZX =∫ ∞

−∞dxe−βV (x) (33)

であり、これは分配関数 (partition function)と

呼ばれる9。

ここでは具体的なイメージをつかむために、系が

調和振動子である場合を考えてみよう。つまり、ポ

テンシャルエネルギーが

V (x) =12mω2x2 (34)

と与えられる場合である。m は質量であり、ω は振

動数である。ニュートン方程式を解くと、振動する

解が得られた(1学期の授業参照)。いまは温度 T

の熱浴にこの調和振動子(ばね)がくっつている場

合を考えており、そのとき熱浴からエネルギーをも

らって、ばねは伸びたり縮んだりする。つまり、xは

ある分布をもつが、それがボルツマン分布になると

いうわけである。つまり、

ρX(p) =1

ZXexp

(−βmω2x2

2

)(35)

となる。これは

σ2 =1

βmω2(36)

と置けば、これもマックスウェル分布の場合と同様、

ガウス分布に他ならない。

これから調和振動子のエネルギーの期待値を計算

すると、 ⟨12mω2x2

⟩=

12kBT (37)

となり、これも調和振動子の性質(質量と振動数)に

よらない結果となる。しかも興味深いことに、理想

気体の運動エネルギーの期待値とも同じ値 ( 12kBT )

になっている!

9平衡系の統計力学の研究の大部分は、この分配関数をどのように計算するかということに費やされる。1 自由度の系なら簡単だが、実際は大自由度の系を対象にし、その間の相互作用も複雑なので、この計算は一筋縄ではいかない。

次に、N 個の相互作用する粒子が存在する場合を

考えよう。この場合、ハミルトニアンは

H =N∑

i=1

(p2

x,i

2mi+

p2y,i

2mi+

p2z,i

2mi

)+

∑i

∑j

V (rij)

(38)となる。もし、ポテンシャルが 2次関数で書けている場合、もしくはそう近似できる場合は、相互作用

していても、相互作用のないような座標に変換する

ことで、独立な調和振動子の和として書き表すこと

ができる(基準振動の方法、1学期の授業参照)。

H =N∑

i=1

(P 2

x,i

2+

P 2y,i

2+

P 2z,i

2

+Ω2

x,i

2Q2

x,i +Ω2

y,i

2Q2

y,i +Ω2

z,i

2Q2

z,i

)(39)

すると、これには 6N 自由度あるので、エネルギー

(ハミルトニアン)の期待値を計算すると、

6N × 12kBT = 3NkBT (40)

となり、N = NA のときは 3NAkBT = 3RT とな

る。よって、固体の比熱は 3Rになるという、デュロ

ン・プチの法則 (Dulong-Petit law)が出てくる。

この法則は常温の金属であればだいたい成り立つ法

則である10。

3.4 統計力学的な自由エネルギーとエントロピー

3.4.1 統計力学的な自由エネルギー

では次に単純な調和振動子ではなく、図 2 のような 2重井戸のエネルギーランドスケープを考えてみよう。ここで、左の井戸にいるとき、状態 Aにいる、右の井戸にいるとき、状態 B にいる、と呼ぶことにしよう。

この場合は、力学的に考えてみると、系は A か Bの状態に留まっていることが多く、ときどき A から

10ただし、低温(デバイ温度と呼ばれる温度以下)では成り立たず、量子効果を取り入れなければならない。

6

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図 2: 1次元 2重井戸のポテンシャル。左の井戸を状態 A、右の井戸を状態 B と定義する。

B、もしくは B から A に遷移すると考えてよい。このとき、状態 A にいる確率は

PA =1

ZX

∫VA

dxe−βV (x) (41)

と考えていいだろう。ここで VA は状態 A を定義する区間であり、図 2 の場合なら (−∞, 3.2] である。同様に B にいる確率は

PB =1

ZX

∫VB

dxe−βV (x) (42)

となる。ここで VB は状態 B を定義する区間であり、図 2 の場合なら [3.2,∞) である。いま考えている空間が VA, VB によって過不足な

く「貼られる」場合、つまり、全空間を M として、

M = VA ∪ VB , VA ∩ VB = φ となる場合、

PA + PB = 1 (43)

となる。

問い¶ ³これを確かめよ。µ ´このとき、この確率の比は

PA

PB=

∫VA

dxe−βV (x)∫VB

dxe−βV (x)(44)

となる。ここで重要な概念である、自由エネルギー

(free energy)を導入しよう。それは上の比を使っ

て、PA

PB=

e−βFA

e−βFB= e−β(FA−FB) (45)

と定義される。

つまり、

Fi = −kBT log Pi

= −kBT log∫

Vi

dxe−βV (x) (46)

となる11。これから、自由エネルギーとは確率の対数

(に絶対温度をかけたもの)であることが分かる12。

3.4.2 ボルツマンのエントロピー

実はこの自由エネルギーは熱力学で出てくる自由

エネルギーと等価なものである。(そのために同じ言

葉を使っている。)そのことを理解するために、図 2よりさらに簡単な系(図 3)について考えよう。

図 3: 1次元 2重井戸のポテンシャルを簡略化したもの。

このとき、式 (46) の計算を実行すると、

FA = UA − kBT log(b − a) (47)

となる。

11ただし、定数がこれに加わっていてもよい。便宜上、ここではそれを 0 に選ぶ。

12(無次元の)確率とエネルギーを結びつけるものが自由エネルギーであると思ってよい。

7

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問い¶ ³これを確かめよ。µ ´

これはよく見ると、熱力学の関係式

F = U − TS (48)

に似ている。これが等価になるためには、エントロ

ピーは

S = kB log(b − a) (49)

で定義されなければならない。つまり、統計力学で

はエントロピーは、状態を定義する井戸の幅の対数

(かけるボルツマン定数)で定義される13。

これを一般化したもの

S = kB log W (50)

をボルツマンのエントロピーの公式と呼ぶ。ここで、

W は状態数と呼ばれる量であり、あるマクロな状態

に対応するミクロな状態の数を表す。いまの場合で

あれば、状態 A というのは x = a から b までのミ

クロな状態を取りうるので、その状態数は b − a に

比例する14。つまり W ∝ b− a である。よって、エ

ントロピーの式を使うと、S = kB log(b− a) + C と

なる。ここで、C は何かの定数である。このボルツ

マンの公式から統計力学を始めることもできるので、

これは非常に重要な公式である。このノートでは、

カノニカル(ボルツマン)分布を認めてから、ボル

ツマンのエントロピーの公式が出てきたが、逆にボ

ルツマンのエントロピーの公式を認めて(公理にし

て)、カノニカル分布を導出することもできる。そ

のやり方に関しては、[2, 3, 8, 9] などを見よ。また、熱力学との整合性から、熱力学で出てくる

エントロピー(クラウジウスのエントロピー、熱力

学の授業参照)

dS =d′Q

T(51)

13つまり、ボルツマン定数とは、対数をエントロピーに変換するための、変換定数である。

14もうちょっと具体的に言うと、∆x という区間に区切ると、b − a の中には (b − a)/∆x 個の状態があると考えることができる。つまり、状態数は b − a に比例する。

はボルツマンのエントロピーと等価でなければなら

ない。これから分かることは、熱 Q は W と関係し

ている、つまり、系のポテンシャルの幅と関係して

いるということである。ポテンシャルの幅が大きい

ほど、熱も大きいということになる。ポテンシャル

の幅が大きいほど、ミクロな状態はたくさんある、

もしくはミクロな状態を特定できにくいということ

になるので、熱とはミクロな状態の特定のしにくさ

と思うこともできる。

3.4.3 エントロピー変化の具体的な計算

例えば、理想気体を使ったカルノーサイクルの等

温膨張過程のエントロピー変化を 2つのやり方(熱力学と統計力学)で計算してみよう。

まず熱力学を使うほうから計算してみよう。クラ

ウジウスのエントロピーの式と、理想気体の状態方

程式 PV = nRT から、A から B へ状態が変化するとき、そのエントロピー差 ∆S は

∆S =∫

d′Q

T= −

∫dW

T=

∫PdV

T

= nR

∫ VB

VA

dV

V= nR log

VB

VA(52)

と計算できる。

問い¶ ³この計算を確かめよ。µ ´このエントロピー差を統計力学を使って計算する

とどうなるか?その計算は結局、N 個の粒子が体積

VA の中にあるときに状態の数 WA はどうなるか、

ということに帰着する。連続体のままだと考えにく

いので、たとえば、V0 という小さい体積で VA を

分割して、その中のどこに粒子がいるかということ

を考えよう。1個の粒子の場合は VA/V0 個の箱の中

のどこかに粒子はいるので、その状態の数は VA に

比例する。2個の粒子の場合は、重なる場合も許せば、(VA/V0)2 個の可能性のうちのどこかにいる。つまり、状態の数は V 2

A に比例する。同様に考えると、

N 個の粒子の場合は、状態の数は V NA に比例する。

8

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すると、状態 A にいるときの統計力学的なエントロピーは

SA = kB log V NA + C = kBN log VA + C (53)

となる。よって、エントロピー差は

∆S = kBN logVB

VA(54)

となる。ボルツマン定数は

kA =R

NA(55)

とも書けるので、これを使うと熱力学で計算したエ

ントロピー差と統計力学で計算したエントロピー差

は同じであることが分かる。

3.5 平衡系の統計力学の応用例

平衡系の統計力学はカノニカル分布を認める、も

しくは導いた後に、さまざまな応用の問題を考える

ことができる。高度な内容になるので、このノート

では取り上げないが、重要なものとして以下のトピッ

クスがある。

• 量子統計力学(電子や光子の集団を考えるときは、それらを量子化して考えなければならない。

その結果として、レーザー光や半導体の中の電

子などの議論が可能になる。)[3, 9]

• 相転移(例えば、水が気相から液相に変わるときに、ミクロにどういうことが起こっているの

かということを調べることができる。)[3, 8]

• 繰り込み(相転移や素粒子の場の理論を理解するための強力な数学的枠組みである。)[10]

• 表面張力、吸着、液体、高分子、化学反応の質量作用の法則などに対する統計力学 [8]

• 情報処理の統計力学 [7]

4 非平衡系の統計力学

イントロで述べたように、非平衡系の統計力学は

完成したものではない15が、100年ほど前から知られている拡散現象などを扱う非平衡統計力学はかな

り確立しているので、その簡単な部分をここでは扱

うことにする。

4.1 拡散現象

拡散 (diffusion)現象とは、例えば 1滴のインクを容器に入った水に滴らしたときに見ることのでき

るような現象である。最初はインクは 1ヶ所に固まっているが、時間とともにインクは広がり、薄くなっ

ていく。容器が有限であれば、最終的には均一な濃

度になる。

われわれの普段目にするスケールでは、大抵の運

動はニュートン力学(か電磁気学)によって記述さ

れるが、この拡散現象はニュートン力学には従わな

い。これには 2重の意味がある。

• インクを構成する粒子はブラウン運動と呼ばれるジグザグした運動をしている。

• インクの密度が広がっていくことを記述するために、密度に関する方程式を考えないといけない。

以下、これらについて説明する。

4.1.1 ブラウン運動

ブラウン運動 (Brownian motion) [11, 12] とは 19世紀に水中の花粉の運動を観察していたブラウン16 見出された現象であり、非常にランダムに見

えるジグザグ運動のことを指す(図 4)。最初、ブラ

15その意味は、カノニカル分布、もしくはボルツマンのエントロピーの式のようなものが、一般の非平衡状態に対して見つかっていないということ。

16ロバート・ブラウン (Robert Brown, 1733 年 12 月 21 日-1858年 6月 10日) はスコットランド生まれのイギリスの植物学者。ブラウン運動の原因を突き止めるための試行錯誤については[11] に詳しい。ブラウン運動の問題は理論的にはアインシュタインが、実験的にはペランが最終的な結論を出した [11]。

9

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ウンはこの運動が花粉の生命現象であると推測した

が、その後の様々な実験や理論的な発展により、こ

れは水の粒子によって花粉が「小突き回されて」起

こる物理現象であるということが分かった。

図 4: 2次元ブラウン運動の軌跡の例。

これをモデル化して調べてみよう。簡単のために

1次元の格子上で、確率的に運動する粒子を考える。ある時刻に格子点 n にいる粒子が、確率 p で左右の

どちらかに一歩踏み出すとする。ただし、粒子は以

前の記憶を一切持たず、一歩踏み出したら、以前ど

こにいたかということは忘れているとする。こうい

う粒子の運動を酔歩 (random walk)ともいう17。

これを実際にシミュレートしたければ、サイコロ

を振って、(例えば)偶数が出れば左、奇数が出たら

右、と言う風にすればよい。その結果、得られる運

動がブラウン運動であり、左右にジグザクな運動を

する18。

さて、これを式を使って表現してみよう [12]。それぞれの酔歩による変位を ei で表そう。ただし、

|ei| = a であり、歩幅 a は一定であるとする。する

17英語の random walk より、日本語の酔歩のほうが味わいがある。

182 次元のブラウン運動のシミュレーションがしたければ、以下のようにすればよい:2次元平面を 3角格子で埋め尽くし、ある点の回りに 6つのサイトができるようにする。それからサイコロを振り、出た目の方向(例えば 1は北東、2は東、3は南東、4は南西、5 は西、6 は北西)に進む [13]。

と、N 歩目は

x(t) = e1 + e2 + · · · + eN (56)

とかける。ただし、ei は確率変数と呼ばれ、確率 p

で −a か a に移動するという運動をする。このと

き、この確率変数の平均は

〈ei〉 = a × p + (−a) × p + 0 × (1 − 2p) = 0 (57)

となり、分散は 2乗平均になるので、

〈e2i 〉 = a2×p+(−a)2×p+0×(1−2p) = 2pa2 (58)

となる。

以上の性質を使って、x(t) の平均と分散を計算しよう。個々の平均が 0なので、x(t) の平均も明らかに 0である。分散を計算すると、

〈∆x(t)2〉 =N∑

i=1

〈e2i 〉 +

N∑i=1

N∑j=1

〈eiej〉 (59)

となり19、粒子は過去のことを忘れているので

〈eiej〉 = 0 となることを使うと

〈∆x(t)2〉 =N∑

i=1

〈e2i 〉 = 2pa2N (60)

となる。ここで定数 D を

D =pa2

τ(61)

で定義すると、

〈∆x(t)2〉 = 2Dt (62)

となる。ただし、t = Nτ となること使った。ここで

τ は一歩にかかる時間である。この分散が時間に比

例するという現象が拡散の法則 (law of diffusion)

である20。19平均が 0 なので、分散はただの 2 乗平均になる。20これはニュートンの法則では理解しずらい運動である。というのも、たとえば等速直線運動をしていれば(これはニュートンの方程式から出てくる)、変位は ∆x = vt となって、分散は t2

に比例するはずだからである。実際、この現象を数学的に記述するためには、以下に述べるランジェバン方程式のような確率微分方程式 (stochastic differential equation) を用いなければならない。

10

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4.1.2 拡散方程式

では次に密度の観点から拡散現象を考えてみよう。

密度の方程式を立てるときは 2つの法則が必要である。一つは物質は消えたり、生じたりしないという、

質量保存の法則(もしくは連続の方程式と呼ばれる)

である。もう一つは現象論的なフィックの法則と呼

ばれる、密度の勾配と流れを関係づける式である。

これらを組み合わせることで、拡散方程式と呼ばれ

る式が出てくる。

まず、図 5 のような 1次元的な流れを考えよう。ρ(x, t) は位置と時間の関数としての密度であり、J(x, t) は流束 (flux)と呼ばれる流れを表す量であ

る。これは図 5 にあるように、密度 × 速度で定義される量であり、単位面積あたりにどれくらいの数

の粒子が流れるかということを表す。

図 5: 流束の定義。図の中の c は本ノートの ρ のこ

とである。

さて、図 6のような、ある面積をもった直方体の領域を考え、左から右に粒子の流れがあるとする。する

と、流束の定義から、左からはJ(x, t)Aの数の粒子が単位時間あたりに流れ込み、右からは J(x+∆x, t)Aの数の粒子が単位時間あたりに出ていく。そのとき

に直方体内の粒子数 ρ(x, t)A∆x の時間変化はこれ

を時間微分したものである。粒子数(質量)が保存

するということから、この 2つのやり方で計算した粒子数の変化は一致しなければならない。

これを式で表すと

∂t(ρ(x, t)A∆x) = J(x, t)A − J(x + ∆x, t)A (63)

となり、両辺を A∆x で割って、極限をとると、

∂ρ(x, t)∂t

= −∂J(x, t)∂x

(64)

となる。これが質量保存の式である。

図 6: 質量保存の法則を出すための仮想的な直方体。

次にフィックの法則 (Fick’s law)21 は以下のよう

に書ける。

J(x, t) = −D∂ρ(x, t)

∂x(65)

ここで、D は拡散定数と呼ばれる定数である。密度

に勾配がある場合、たとえば、ρ(xA) < ρ(xB) (xA <

xB) の場合を考えてみよう。つまり、左より右のほうが密度が濃い。このとき、フィックの法則の差分

版を使うと、

J(x) = −Dρ(xB) − ρ(xA)

xB − xA< 0 (66)

となるが、これは流束が負の方向(右から左)に発生

するということである。つまり、密度が高い方(右)

から低い方(左)に流れが発生するということであ

り、非常にもっともらしい。これは実験でも確かめ

られている22。

式 (64) と (65) をまとめて一つの式にすると

∂ρ(x, t)∂t

= D∂2ρ(x, t)

∂x2(67)

となる。これが拡散方程式 (diffusion equation)

である。式だけを見ると、これは振動波動の授業で21アドルフ・オイゲン・フィック(Adolf Eugen Fick, 1829年

9月 3日 - 1901年 8月 21日)はドイツの生理学者、物理学者、医師。

22歴史的には、フィックがこの式の検証実験を行っている(1855)[14]。

11

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取り上げた波動方程式 (wave equation)

∂2ρ(x, t)∂t2

= v2 ∂2ρ(x, t)∂x2

(68)

に似ている。しかし、これらの間には大きな違いが

ある。波動方程式は基本的にニュートン方程式から

導けるが、拡散方程式はそうではない。また、その

結果として、波動方程式は可逆な方程式だが、拡散

方程式は不可逆な方程式になっている。可逆な方程

式の場合は、時間反転した現象も反転する前の現象

と等しく起こるが、不可逆な方程式の場合、時間反

転した現象はまず起こらない。たとえば、容器の中

で均一になったインクが(なにもしないで)一ヶ所

に集まるような現象があるかどうかを考えてみよ!

4.2 拡散方程式の解と解法

4.2.1 拡散方程式の解

インクを水中にたらすときのように、密度が非常

に局所的に分布している状態を初期状態として与え

た場合を考えよう。その場所を x = 0 としたとき、拡散方程式の解は実は

ρ(x, t) =1√

4πDtexp

(− x2

4Dt

)(69)

となる。

問い¶ ³これを拡散方程式に代入してみて、解になって

いることを確かめよ。µ ´これはまた、

σ2 = 2Dt (70)

のときのガウス分布でもある。よって、分散(分布

の幅の 2乗)は時間に比例する。これとブラウン運

動の議論 (4.1.1節) とを比べると、D = D となるこ

とが分かる。つまり、ブラウン運動で出てきた定数

D と、拡散方程式の拡散定数 D は等しく、ブラウ

ン運動の解と拡散方程式の解も実は等価である23。23このことを数学的に示すにはかなりの準備がいるので、ここではやらない。

4.2.2 拡散方程式の解法*

では拡散方程式を解いてみよう。いろんな解き方

があるが、ここでは振動・波動の授業でやったフー

リエ変換を説明した解き方を説明する。ただし、こ

れは逆フーリエ変換や複素積分の知識がいるので、

読み飛ばしてよい。

まず、密度を以下のようにフーリエ変換を使って

表す。

ρ(x, t) =1√2π

∫ ∞

−∞C(k, t)eikxdk (71)

これをもとの拡散方程式に入れると∫ ∞

−∞

(dC(k, t)

dt+ Dk2C(k, t)

)eikxdk = 0 (72)

となるので、

dC(k, t)dt

+ Dk2C(k, t) = 0 (73)

を意味する。これは指数関数を解にもつ方程式なの

で、

C(k, t) = A(k)e−Dk2t (74)

が解になることが簡単に分かる。これを密度の式に

入れ直すと

ρ(x, t) =1√2π

∫ ∞

−∞A(k)eikx−Dk2tdk (75)

となる。

初期条件もフーリエ変換を使って表すと

ρ(x, 0) = ρ0(x) =1√2π

∫ ∞

−∞A(k)eikxdk (76)

であるので、A(k) は ρ0(x) を使って、

A(k) =1√2π

∫ ∞

−∞ρ0(x)e−ikxdx (77)

と表すことができる(逆フーリエ変換)。これを密

度の式に代入すると

ρ(x, t) =12π

∫ ∞

−∞dk

∫ ∞

−∞dx′

×ρ0(x′)eik(x−x′)−Dk2t (78)

12

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となる。ここで、k に対する積分は実行できて、

ρ(x, t) =1√

4πDt

∫ ∞

−∞dx′ρ0(x′)

× exp(− (x − x′)2

4Dt

)(79)

となる24。これが拡散方程式の一般解である。

ここで、初期の密度分布が x = 0 付近で非常にシャープに立ち上がる関数であるとき、x′ に関する

積分は、x′ = 0 での値だけで評価すればよく25、

ρ(x, t) =1√

4πDtexp

(− x2

4Dt

)(80)

となる。これは最初に仮定した解と同じである。

4.3 力の働く状況下での拡散現象

拡散方程式は重要な方程式だが、現象として起こ

ることは比較的単純であった(分散が時間に比例し

て大きくなる)。しかし、現実には拡散にプラスし

て別の現象が加わることが多い。例えば、水中のイ

ンクの拡散を考えると、インクは拡散するだけでな

く、インクを構成する個々の粒子は重力も感じてい

る。では一般に、力が働く状況下での拡散はどうなっ

ているのか?これから述べるように、これは非常に

重要な問題である。

力が働いているところのでブラウン運動を調べる

ためには、以下のランジェバン方程式 (Langevin

equation)を考える26。簡単のために 1次元系で考える。

md2x

dt2= F (x, t) − ζ

dx

dt+ ξ(t) (81)

この左辺と右辺第一項はニュートン方程式である。

右辺第二項は速度に比例する摩擦力であり、これは

振動波動の授業で取り扱っている。重要なのは、さ

らに ξ(t) という力が加わっていることである。これ24ただし、この k に関する積分をするためには少々、複素積分の知識がいる。

25積分の中の e−(x−x′)2/4Dt を x′ = 0 のところで評価すると、e−x2/4Dt となり、それを積分の外に出せる。すると、残りは ρ0(x′) の積分になり、これは確率の規格化から 1 となる。

26ポール・ランジュヴァン(Paul Langevin、1872年 1月 23日-1946 年 12 月 19 日)は、フランスの物理学者。

はランダム力 (random force)と呼ばれ、ブラウン

運動を引き起こすもとになる力である。この力は図

7 にあるように非常に「ランダムな」変化をする力であり、これは水分子のような小さな粒子が注目し

ている粒子をいろんな方向から小突くことによって

生じる力である。

図 7: ランダム力の模式図。

ただし、このランダム力はブラウン運動と同じよ

うに、何回も実験を繰り返すと、平均で 0になるような力である。つまり、統計平均を 〈∗〉 で表すと

〈ξ(t)〉 = 0 (82)

となる。よって、ランジェバン方程式の平均的な挙

動を考えると、

m

⟨d2x

dt2

⟩= F (x, t) − ζ

⟨dx

dt

⟩(83)

としてよい。これは振動・波動の授業で既に出てき

た形である。

さて、ここでさらに摩擦が大きい極限を考えよう。

つまり、ζ が大きくなるような状況である。そのと

きには、ランジェバン方程式の左辺を無視できる:

つまり、

0 ' F (x, t) − ζ

⟨dx

dt

⟩(84)

よって、速度の平均は⟨dx

dt

⟩=

1ζF (x, t) (85)

となる。

さて、ここまでは 1粒子のことを考えてきたが、多くの粒子がある場合を考えよう。密度が ρ(x, t) であるときの流束 J(x, t) は

J(x, t) = ρ(x, t)⟨

dx

dt

⟩(86)

13

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であるので、上の式を使うと

J(x, t) =F (x, t)

ζρ(x, t) (87)

となる。密度の勾配がある場合は、これにさらにフ

ィックの法則を付け加えて、最終的に流束は

J(x, t) =F (x, t)

ζρ(x, t) − D

∂ρ(x, t)∂x

(88)

となる。これは非常に重要な公式であり、生理学で

重要となるネルンスト・プランクの式やネルンスト

の電位の式はここから出てくる。

さて、拡散方程式のときと同様に、このときも質

量保存の式 (64) が成り立っているから、それにこの流束の式を代入すると、以下の式が得られる:

∂ρ(x)∂t

= − ∂

∂x

(F

ζρ(x)

)+ D

∂2ρ(x)∂x2

(89)

これはスモルコフスキー方程式 (Smoluchowski

equation)と呼ばれる重要な式である27。この右辺

第一項はドリフト項、第二項は拡散項と呼ばれる。

拡散項は拡散を引き起こすということだが、ドリフ

トとは力 F によって、密度がその力の方向に動くと

いうことを意味する。つまり、スモルコフスキー方

程式は拡散しながら、力によって動いていくような

状況を記述する式であるということである。

スモルコフスキー方程式は非平衡な状況を記述す

る際にもっとも基本となる式だが、では平衡の状況

を記述できるか?実はそのためにはある条件が満た

されていなければならない。そのことを調べるため

に、平衡の状況だと密度の時間変化がないので、

∂ρ(x, t)∂t

= 0 (90)

となることから出発しよう。よって、ρ(x, t) が t に

よらない関数 ρ(x) となる。力に時間依存性がなければ、流束は x のみの関数 J(x) となるので、質量保存の式から

∂J(x)∂x

= 0 (91)

27マリアン・スモルコフスキー (Marian Smoluchowski、1872年 5 月 28 日 - 1917 年 9 月 5 日) はポーランドの物理学者。

とならなければならない。つまり、流束は定数である

必要がある。一定の流束がある場合はやはり非平衡の

状況になってしまうので、ここでは流束が 0 (J = 0)の場合を考えよう。すると、式 (88) から、

F (x)ζ

ρ(x) − Ddρ(x)dx

= 0 (92)

となる。さて、これは ρ(x) に関する微分方程式であり、以下のように解ける。

log ρ(x) =∫

dxF (x)ζD

+ C0 (93)

ここで力はポテンシャルによって引き起こされると

すると、

F (x) = −dV (x)dx

(94)

であるので、右辺は積分すると、−V (x)/(ζD) + C0

となる。よって、

ρ(x) = C1 exp(−V (x)

ζD

)(95)

となる (C1 = eC0)。これは

ζD = kBT (96)

のときにボルツマン分布

ρ(x) ∝ exp(−V (x)

kBT

)(97)

となる!よって、拡散定数 D と摩擦定数 ζ の間に

D =kBT

ζ(98)

という関係のあるときに、スモルコフスキー方程式

は平衡な状況を内包するような式になっているとい

うことである。これは Einstein28によって初めて見

出されたものであり、Einstein の関係式 (Einstein

relation)と呼ばれる。

この関係式を使って拡散定数を消去すると、流束は

J =F

ζρ − kBT

ζ

dx(99)

28アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 、1879年3月 14日 - 1955年 4月 18日)は、ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者。相対性理論、光電効果などの量子現象の理論であまりにも有名だが、ブラウン運動や統計力学の基礎づけに関しても重要な論文をいくつも書いている。

14

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と書ける。ここで右辺を ρ/ζ でくくると、

J =ρ

ζ

(F − kBT

dx

)(100)

となり、F = −dV/dx であるから、

µ(x) = V (x) + kBT log ρ(x) (101)

によって新たなポテンシャルを定義すると、流束は

J = −ρ

ζ

dx(102)

と書ける。

問い¶ ³これを確かめよ。µ ´

ここで出てきた µ(x) は 1個の粒子に対して定義されるものではなく(密度に関係しているから!)、熱

力学的な量であり、ある種の自由エネルギーである。

実際、µ(x) の密度に依存する項は位置に依存する化学ポテンシャルである。流束はこのように定義され

る自由エネルギー µ(x) の勾配を小さくするように流れると言える。

4.4 生体現象での例

さて、以下では拡散方程式やスモルコフスキー方

程式の、生命現象への応用に関して簡単に説明して

いこう。

4.4.1 イオン・チャネルとネルンスト・プランク

の式

細胞膜には多くの膜タンパク質が埋まっており、

それらが膜内外のイオンや情報などのやりとりを制

御している。ここではもっとも基本的な膜タンパク

質である、イオン・チャネルについて考えよう(図

8)。イオン・チャネルには穴が開いており、その間を

ナトリウムやカリウム、カルシウムといったイオン

が通過する。イオンは電荷をもっているので、イオ

図 8: イオン・チャネルの模式図。

ンが通過すると、膜間の電位は変化することになる。

そこで、膜間の電位(静電ポテンシャル)を φ(x)、イオンの電荷を Zeとすると、電場によるポテンシャ

ルエネルギーは

V (x) = Zeφ(x) (103)

となり、上の流束の式に入れると、

J = −Ze

ζ

dφ(x)dx

ρ − kBT

ζ

dx(104)

となる。ネルンスト・プランクの式 (Nernst-Planck

equation)29はこれを拡散定数D = kBT/ζ でくくっ

たものとして書かれることが多い。

J = −D

(dρ

dx+

ZF

RT

dφ(x)dx

ρ

)(105)

ここで、R = NAkB = 8.31 [J K−1 mol−1] は気体定数、F = NAe = 9.65 × 104 [C mol−1] はファラデー定数と呼ばれる定数である。

問い¶ ³これを確かめよ。µ ´さて、平衡状態で流束が 0のときは (105) の括弧の中を 0とおいて、電位は

φ(x) = −RT

ZFln ρ(x) + C (106)

と求まる。これが(生理学でも出てくる)有名なネ

ルンストの電位の式である。29ヴァルター・ヘルマン・ネルンスト(Walther Hermann

Nernst、1864 年 6 月 25 日 1941 年 11 月 18 日)はドイツの化学者、物理化学者。ネルンストの式や、熱力学第三法則を発見した。マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck, 1858 年 4 月 23 日 - 1947年 10 月 4 日)はドイツの物理学者で量子論の創始者の一人。

15

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問い¶ ³これを確かめよ。µ ´

これは物理的に解釈すると、イオンの密度の勾配が

あるときは、それを小さくするように流れが発生す

るわけだが、しかし、流れすぎると、電荷の偏りが

生じて、電位差が大きくなってしまうので、どこか

でバランスをとらなければいけない。バランスがと

れているときにネルンストの電位が発生していると

いうことである。

骨格筋の膜電位¶ ³哺乳類の骨格筋の膜電位について考えよう。細胞

の内外のカリウムイオンK+の密度は ρin = 155mM, ρout = 4 mM であることが分かっている。よってネルンストの式から電位差は φin−φout =−98 mV と計算できる。このことを確かめよ。µ ´イオン・チャネルではこの流束が一定となっている

場合もある。そのときは流れがある状態なので、状

態はボルツマン分布になっておらず、非平衡定常状

態 (nonequilibrium steady state)と呼ばれる状

態になっている。非平衡定常状態の一例として、以

下でミオシンの運動について調べよう。

4.4.2 モータータンパク質ミオシンの運動

ミオシンは図 9 にあるような巨大なタンパク質であり、ATP を加水分解することによって開始される構造変化によって、アクチン繊維上を「歩く」。驚

くべきことに、最近は 1つのミオシン分子のこの運動を「見る」ことが可能であり、ミオシンの運動に

関する理解が深まった。ATP の加水分解からどのようにこの運動が生じるのか、というこの一連の因果

関係についてはまだ分からないことも多いが、ミオ

シンがなぜ平均として一方向に動くかということに

関しては、いくつかの確からしいモデルが提案され

ている。ここではそのうちの一つを取り上げて説明

する。

ミオシンとアクチンは静電気力で相互作用してい

るが、その詳細を考えると複雑なので、ここではこ

図 9: ミオシンとアクチンの模式図。

れらのタンパク質の間の相互作用は、図 10のようなポテンシャルで表せると近似してみよう。このノコ

ギリの歯のようなポテンシャルをラチェット型ポテン

シャルと呼ぶ。ミオシンはこのポテンシャル上を熱

揺らぎしながら運動する。しかし、この場合、ブラ

ウン運動によって右に行ったり、左に行ったりする

が、平均的な運動はポテンシャルがない場合の拡散

と同じで 0になってしまう。これはポテンシャルの底にバイアスがかかっていないので、どちらに行く

確率も同じになってしまうからである。しかし、実

際はこのポテンシャル上をミオシンは一方向(実際

は右方向)に平均として動く。さて、それはなぜか?

図 10: ミオシンの運動のラチェット・モデル [8]。

ここで、ATP の働きを取り入れよう。ミオシンは水中にある ATP を加水分解することで構造変化するが、そのときに一旦、アクチンから(ある程度遠

く)離れてしまう。すると、そのときはポテンシャ

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ルを感じなくなる。つまり、ATP 加水分解後は運

動は純粋な拡散で記述できる。ミオシンが多数あり、

その密度の変化を考えると、その時間変化は拡散方

程式の解から

ρ(x, t) =1√

4πDtexp

(− x2

4Dt

)(107)

となる。ただし、ここで x = 0 は図 10 にあるように、加水分解の前にミオシンが安定にいた状態の位

置である(と仮定する)。

すると、時間 t が経つとミオシンは左右に拡散し

ていくが、ある時刻が経つと、またアクチンに結合

する。そのときに、またノコギリ型のポテンシャル

を感じることになる。すると、図 10 からも分かるように、右に進む確率 PR は

PR =∫ ∞

a

dxρ(x, t) (108)

であり、左に進む確率 PL は

PL =∫ −b

−∞dxρ(x, t) (109)

で与えられるが、ポテンシャルがノコギリ型のせい

で右に進む確率のほうが大きい (PR > PL)。

問い¶ ³このことを確かめよ。µ ´そのために、ミオシンは平均として(密度で考え

ると)右に進む。このモデルに関するより詳細な議

論に関しては、[8] を参照。また、これとは異なる、自由エネルギーランドスケープ描像による説明(や

や難しい)は [2] に与えられている。

4.4.3 拡散後捕獲 (diffusion to capture)

タンパク質や小さなシグナル分子などは細胞中で

拡散していると考えることが多い。実際は、かなり細

胞内は混み合っており、そういった混み合い (crowd-

ing)の効果を調べることも重要だが、物理的にシン

プルに考えて、まず混み合いの効果を無視する。

ここでは、図 11 のように、細胞の膜にある受容体 (receptor) にリガンド (ligand) と呼ばれる分

子が結合するような場合を考えよう。(また、これは

タンパク質に薬が結合するときのモデルにもなって

いる。)状況としては、細胞が 1個だけあり、その周りはリガンドが(もちろん)水中で一様に分布し

ているとする。すると、個々のリガンドはブラウン

運動しているが、細胞膜付近に来ると受容体と結合

する。リガンドは受容体と結合すると、別の分子に

変わる(もしくは 2つの分子に別れる)と仮定しよう。すると、細胞膜ではリガンドの密度は 0になっているはずである。これは拡散方程式に対する境界

条件を与える。

図 11: 細胞膜での拡散後捕獲のモデル [2]。

また、ここでは簡単のために細胞膜が球であり、

拡散方程式の解も球対称であると仮定しよう。する

と、もともとの 3次元の拡散方程式は

∂ρ(r, t)∂t

= D

(∂2ρ(r, t)

∂x2+

∂2ρ(r, t)∂y2

+∂2ρ(r, t)

∂z2

)(110)

となっているが、これは動径変数 r だけを用いて、

∂ρ(r, t)∂t

= D1r2

∂r

(r2 ∂ρ(r, t)

∂r

)(111)

と書けることが知られている30。30これはまじめにやろうとすると、相当長い偏微分の計算をしなければならない。ガウスの法則を使って「さくっと」出すやり方は、http://www2.kobe-u.ac.jp/ lerl2/laplacian.pdf 参照。

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また、細胞膜でリガンドが消滅しても、リガンド

は遠方から常に供給されるものとし、定常状態を考

えると、その時間変化は 0だから解くべき方程式は

D1r2

∂r

(r2 ∂ρ

∂r

)= 0 (112)

となる。これから簡単に

ρ(r) = −A

r+ B (113)

が解となることが分かる。

問い¶ ³これを確かめよ。µ ´細胞膜の半径を a とし、無限遠でのリガンドの密

度を ρ0 とすると、

ρ(r) = ρ0

(1 − a

r

)(114)

となる。ここには拡散定数などの情報が入っていな

いことに注意。

フィックの法則を使うと流束が計算できるが、細

胞膜上の r の沿った流束は、

j(a) = −D∂ρ

∂r

∣∣∣∣a

= −Daρ0

a2(115)

となる。流速は単位面積あたりの粒子の流れなので、

これに細胞の表面積 4πa2 をかけると、それは細胞膜

に吸着するリガンドのレートを表す。それは 4πDaρ0

となる。

この式を用いることで、細胞膜の表面積の 0.1 %しか受容体が占めていなくても、オーダーとして完

全にリガンドを吸着することができるという驚くべ

き結果が出てくるが、そのことに関しては [2] 参照。

4.4.4 がん細胞のモデル化

最後に、がん細胞のような腫瘍のダイナミクスも

ある程度拡散方程式でモデル化できるということを

見ていこう。

ただし、この場合はがん細胞は増殖し、その個数

が一定というわけではないので、いままでと異なり、∫dxdydzρ(r, t) = 1 (116)

図 12: 脳のがん細胞の増殖モデル [15]。

という関係は成り立たない。そのことをモデル化す

るために、指数的な増殖を仮定すると、拡散方程式

は以下のように拡張されたものになる。

∂ρ(r, t)∂t

= D∂2

∂r2ρ(r, t) + kρ(r, t) (117)

これを反応拡散方程式 (reaction-diffusion equa-

tion)と呼ぶ。右辺第 2項が新しい項であり、この項のために、例えば拡散定数が 0に場合であれば、

ρ(t) = ρ(0)ekt (118)

という風に密度は指数関数的に変化する。実際は、

細胞が無限に増え続けるということはないので、こ

の式をもっと穏やかな変化を示す式、たとえば、

∂ρ(r, t)∂t

= D∂2

∂r2ρ(r, t) + kρ(r, t)

(1 − ρ(r, t)

ρ0

)(119)

に置き換えてもよい。ただし、短時間であればどち

らを使っても結果はあまり変わらない。

このような反応拡散方程式を使って、例えば脳の

がん(グリオーマ)の進行をモデル化するような計

算がなされている(図 12)。そのときに、

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• 脳の形状が複雑である

• 白い部分と灰色の部分で拡散定数が異なる

• k も場所によって異なる

といった現実の効果を考慮しなければならない。具

体的な計算例や、どのように薬の効果を見積もるか

ということに関しては、[15] 参照。

5 まとめの問題

• 平均、分散の定義を述べよ。

• ガウス分布とは何か。なぜそれが重要か。

• 条件付け確率とは何か。

• カノニカル分布、マックスウェル分布、ボルツマン分布の違いについて述べよ。

• エネルギー等分配則とは何か。

• 自由エネルギーと確率の関係を述べよ。

• エントロピーのボルツマンの公式について説明せよ。

• ブラウン運動とは何か。拡散の法則とは何か。

• 力が働く状況下での拡散方程式(つまり、スモルコフスキー方程式)を書け。その第 1項と第2項が何を表すか述べよ。

• ランジェバン方程式とは何を記述するための式か。

• 生体内における拡散現象について具体例を述べよ。

参考文献

[1] Daniel M. Zuckerman, Statistical Physics ofBiomolecules: An Introduction, CRC Press(2010).

[2] Rob Phillips, Jane Kondev, Julie Theriot, Her-nan Garcia, Physical Biology of the Cell, 2nded. Garland Science (2012); 翻訳本は、笹井理生, 伊藤一仁, 千見寺浄慈, 寺田智樹(共訳), 細胞の物理生物学, 共立出版 (2011).

[3] 田崎晴明, 統計力学 1,2 (新物理学シリーズ), 培風館 (2008).

[4] 岡田泰伸 (監訳), ギャノング生理学 原書 23版,丸善 (2011).

[5] 佐久間康夫 (監訳), カラー図解 よくわかる生理学の基礎, メディカル・サイエンス・インターナショナル (2005).

[6] 甘利俊一, 情報理論, 筑摩書房 (2011).

[7] 伊庭幸人, ベイズ統計と統計物理, 岩波書店(2003).

[8] Ken Dill and Sarina Bromberg, Molecu-lar Driving Forces: Statistical Thermody-namics in Biology, Chemistry, Physics, andNanoscience (2nd edition), Garland Science(2011).

[9] Charles Kittel, Elementary Statistical Physics,Dover Publications (2004).

[10] 大野克嗣,非線形な世界,東京大学出版会 (2009).

[11] 米沢富美子, ブラウン運動 (物理学 One Point27), 共立出版 (1986).

[12] 田崎晴明, ブラウン運動と非平衡統計力学, アインシュタインと 21世紀の物理学, 日本評論社(2005).

[13] 大沢文夫, 大沢流手作り統計力学, 名古屋大学出版会 (2011).

[14] 深井有, 拡散現象の物理, 朝倉書店 (1988).

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[15] K.R. Swanson, C. Bridge, J.D. Murray, andE.C. Alvord Jr, Virtual and real brain tu-mors: using mathematical modeling to quan-tify glioma growth and invasion, J. Neuro. Sci.216 (2003) 1-10.

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