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一般研究論文 「倫理的存在としての人間の社会的基盤 倫理的にふるまうために」 150 / 289 倫理的存在としての人間の社会的基盤 倫理的にふるまうために Social Basis of Human Being as Ethical Existence In Order to Behave Ethically 大倉 茂 OHKURA, Shigeru 1 はじめに 本稿の課題は,人間が倫理的存在としてあるため の社会的基盤を問うことである。市場経済がわれわ れの生活の中を覆い尽くしているかのようにも思え る現代社会において,われわれは市場経済の手段に すぎず,モノとして社会の中で扱われるといってよ い。グローバル市場経済に飲み込まれている企業, そしてその帰結としての企業による労働者の文字通 りの使い捨ての問題など,人間がモノとして扱われ ている事象は枚挙にいとまがない。人間を人「材」 として捉える物言いにも,いつしか慣れてしまって はいまいか。そんな中で,「人間は外的な論理によ って動かされるモノではなく,倫理的存在なのだ」 と声高に叫んだところで,単なるスローガンに終わ ってしまうだろう。 そこで,本稿では,人間が倫理的存在としてのあ り方を十全に発揮しうる社会的基盤を問題とする。 ただ「倫理的であれ」と叫ぶのではなく,人間が十 全に倫理的にふるまえる社会的基盤を探究する。具 体的には以下のように論を進めたい。第一に,人間 とは何かという本稿の基本的な立場を確認した上で, なぜ人間は倫理的存在でなければならないかを現代 社会の文脈からもう一度問い直してみたい(第 2 節)。第二に,人間がモノとして扱われてしまうに 至るメカニズムを市場経済の視点から説き起こした い(第 3 節)。第三に,人間がモノとして扱われて しまっているメカニズムをいかに克服するかを理論 的な次元で考えてみたい(第 4 節)。最後に,第 4 節での議論を踏まえて,人間をモノの論理から自由 な倫理的存在とする社会的基盤はいかなるものかと いう問いに関して,自由時間をてこにより具体的に 考えてみたい(第 5節)。 「自らで考え,行為する」ことが困難なこの時代, 拙速な打開策はつねに空回りするばかりか,この状 況を強める結果になってはいまいか。このような時 代だからこそ,地に足をつけた議論が求められてい るのではないだろうか。 2 本稿の問題の所在 議論の出発点として,本稿の課題に沿って,そも そも人間とはなにかについて言及しておく必要があ ろう。人間の各々のあり方については,以下で説明 することになるが,ここではごく簡単に述べたい。 そもそも人間は,物的存在であることを最下層に置 きながら,生命的存在であり,同時に社会的・共同 的存在である。そして,その上に人間の意識的存在 としてのあり方が立ち現れる。また,倫理を問わな ければならない場面は,異なる価値観が存在してい る場面であり,それを意識的活動によって調停する 場面である。したがって,意識的存在の基礎には,

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一般研究論文 「倫理的存在としての人間の社会的基盤

倫理的にふるまうために」

150 / 289

倫理的存在としての人間の社会的基盤

倫理的にふるまうために

Social Basis of Human Being as Ethical Existence

In Order to Behave Ethically

大倉 茂

OHKURA, Shigeru

1 はじめに

本稿の課題は,人間が倫理的存在としてあるため

の社会的基盤を問うことである。市場経済がわれわ

れの生活の中を覆い尽くしているかのようにも思え

る現代社会において,われわれは市場経済の手段に

すぎず,モノとして社会の中で扱われるといってよ

い。グローバル市場経済に飲み込まれている企業,

そしてその帰結としての企業による労働者の文字通

りの使い捨ての問題など,人間がモノとして扱われ

ている事象は枚挙にいとまがない。人間を人「材」

として捉える物言いにも,いつしか慣れてしまって

はいまいか。そんな中で,「人間は外的な論理によ

って動かされるモノではなく,倫理的存在なのだ」

と声高に叫んだところで,単なるスローガンに終わ

ってしまうだろう。

そこで,本稿では,人間が倫理的存在としてのあ

り方を十全に発揮しうる社会的基盤を問題とする。

ただ「倫理的であれ」と叫ぶのではなく,人間が十

全に倫理的にふるまえる社会的基盤を探究する。具

体的には以下のように論を進めたい。第一に,人間

とは何かという本稿の基本的な立場を確認した上で,

なぜ人間は倫理的存在でなければならないかを現代

社会の文脈からもう一度問い直してみたい(第 2

節)。第二に,人間がモノとして扱われてしまうに

至るメカニズムを市場経済の視点から説き起こした

い(第 3 節)。第三に,人間がモノとして扱われて

しまっているメカニズムをいかに克服するかを理論

的な次元で考えてみたい(第 4 節)。最後に,第 4

節での議論を踏まえて,人間をモノの論理から自由

な倫理的存在とする社会的基盤はいかなるものかと

いう問いに関して,自由時間をてこにより具体的に

考えてみたい(第 5節)。

「自らで考え,行為する」ことが困難なこの時代,

拙速な打開策はつねに空回りするばかりか,この状

況を強める結果になってはいまいか。このような時

代だからこそ,地に足をつけた議論が求められてい

るのではないだろうか。

2 本稿の問題の所在

議論の出発点として,本稿の課題に沿って,そも

そも人間とはなにかについて言及しておく必要があ

ろう。人間の各々のあり方については,以下で説明

することになるが,ここではごく簡単に述べたい。

そもそも人間は,物的存在であることを最下層に置

きながら,生命的存在であり,同時に社会的・共同

的存在である。そして,その上に人間の意識的存在

としてのあり方が立ち現れる。また,倫理を問わな

ければならない場面は,異なる価値観が存在してい

る場面であり,それを意識的活動によって調停する

場面である。したがって,意識的存在の基礎には,

『総合人間学』第 8号 2014年 9月

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生命的存在,そして社会的・共同的存在があること

から,物的存在のあり方を加えた,この四存在の総

体としての人間が倫理的存在であるといえる。さら

に,人間がこれらのあり方を同時に備えていること

をつねに強調しておかなければならない。どのあり

方であっても,もっぱら一つのあり方でもって人間

を論じることがあってはならない。

人間が倫理的存在であること自体に異論を挟む向

きは,人間をすべて決定論的な物理・化学法則に還

元可能であるとする,強い自然主義を唱える論者を

除いてはおそらくない。したがって,人間が倫理的

存在であることはおおよその共通理解を得られてい

ると理解される。しかしながら,そんな状況下にあ

っても,現代社会においては改めて人間が倫理的存

在であることを強調しなければならない。では,現

代社会においてなぜ人間が倫理的存在であるという

ことを強調しなければならないのか,さらにはなぜ

人間の倫理的存在としてのあり方が十全に発揮しう

る社会的基盤を構築する必要性を主張しなければな

らないのか。そのことについて,二つの視点から考

えてみたい。

第一に 3.11 をきっかけに再考が求められている

公害の問題からである。長く医師として水俣病に関

わり,2012 年に亡くなった原田正純が,その著書

『水俣が映す世界』の中で次のように主張している。

「水俣病事件の原因のうち,有機水銀は小なる原因

であり,チッソが流したということは中なる原因で

あるが大なる原因ではない。水俣病事件発生のもっ

とも根本的な,大なる原因は“人を人と思わない状

況”言い換えれば人間疎外,人権無視,差別といっ

た言葉でいいあらわされる状況の存在である。これ

が 1960 年から水俣病と付き合ってきた私の結論で

ある」(原田 1989:7),と。第 4 節にて改めて考え

直すことになるが,原田が人間疎外,人権無視,差

別と表現する「人を人と思わない状況」は,私なり

に言い換えれば,人間から尊厳を奪い,人間をあた

かもモノとして扱っている状況であると考えられる。

ここには近代社会の前提となっている「自ら考え,

行為する」人間像は後景に退き,3.11 を踏まえて

公害で起こったことが改めて起きようとしている,

あるいはすでに起きている現代社会において改めて

人間は倫理的存在であると主張しなければならない

理由がここにある。

第二に自己責任に関する議論からである。自己責

任は 2004 年のイラク人質事件を契機に社会に浸透

した表現であり,さまざまな文脈で使われているが,

一部で社会的弱者をさらに追い込む言説としても使

われている。たとえば,やむを得ず派遣労働者とな

った労働者が派遣切りにあい,その結果,ホームレ

スになってしまったとする。そのような状況にある

元労働者に対して,その元労働者がホームレスにな

ってしまったことを「自己責任」とするのである。

このように自ら考え,行為した結果でないことに関

しても責任が問われる社会状況がある。自由に倫理

的存在として行為をすれば,その結果についてたち

まち責任が負わされるべきかどうかは,社会生物学

や自然主義の反論も踏まえて,改めて考えなければ

ならないと疑義が出されている(小坂井 2008)中

で,現代社会は自ら考え,行為した結果でなくとも,

責任が問われるのである。ここで強調しておきたい

のは,例に出した元労働者に対して,「倫理的存在

たれ」と言いたいのではないということである。現

代社会は人間の倫理的存在としてのあり方を発揮し

づらい状況にあり,その状況をまず変えていくこと

が求められているのである。そのことこそが本稿の

課題である,人間の倫理的存在としてのあり方が十

全に発揮しうる社会的基盤を問うことなのである。

以上,現代社会においてなぜ人間が倫理的存在で

一般研究論文 「倫理的存在としての人間の社会的基盤

倫理的にふるまうために」

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あるということを強調しなければならないのか,さ

らにはなぜ人間の倫理的存在としてのあり方が十全

に発揮しうる社会的基盤を構築する必要性を主張し

なければならないのかについて,公害や 3.11 に通

底する問題,そして自己責任を巡る社会のあり方を

通じて考えてきた。以上のことを踏まえて,次節で

なぜ人間の倫理的存在としてのあり方を発揮しづら

い状況にあり,また人間がモノとして扱われること

になるのかについて,市場経済の側面から考えてみ

たい。

3 物的存在としての人間

市場経済が全面化している現代社会において,人

間は市場経済の手段としていわゆる商品と同じよう

にモノとして扱われている。人間は機械論的な論理

である,モノの論理のただ中にたたされ,そこにた

っている人間は物的存在として扱われる。したがっ

て,物的存在とは,機械論的な物理・化学法則に従

う存在のことを指す。あたかも物的存在として捉え

られる人間は,機械論的な物理・化学法則に従うこ

とになり,本稿の文脈から先取りしていえば,市場

経済の客体として,さらには手段として捉えられる

ことになる。

そして,前節の人間の四存在に関して思い起こす

までもなく,人間をあたかも物的存在として捉える

ことは,人間の多様なあり方をきわめて強い仕方で

制限することであり,同時に倫理的存在としてのあ

り方を制限することである。カントの「諸目的の秩

序にあって人間(それとともにあらゆる理性的存在

者)は目的自体そのものであり,すなわち同時にそ

のさい自身目的であることなしには,だんじて単な

る手段としては,だれによっても(神によってさえ

も)用いられることができない」(Ⅴ131〔a313〕)

(1)という定言命法も空虚に響くのが現代社会におけ

る人間のあり方なのである。では,市場経済が全面

化している現代社会において,人間が物的存在とし

て捉えられるということはどのようなことか,マル

クスの議論を通じて,以下で考えてみたい。

市場経済社会において,人間は労働力商品である

と同時に,商品交換者である。市場経済社会におけ

る人間の二つの側面をそれぞれ考えてみたい。第一

に,分業を前提とする商品経済社会が全面化してい

る現代社会において,人間は賃労働をすることによ

って,自らを労働力商品として市場にその身を投げ

出さなければ生きていけない。そのように人間が労

働力「商品」としてあることは,「すなわち,諸人

格が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接的に

社会的な諸関係としてではなく,むしろ諸人格の物

象的な諸関係および諸物象の社会的な諸関係として,

現れるのである」(Marx1962:87〔99〕)。前近代社

会においては,「彼ら(諸人格)の労働における人

と人との社会的関係は,どんな場合にも彼ら自身の

人格的関係として現れる」(Marx1962:91〔104〕)

のであり,市場経済の全面化過程である近代社会に

おいては,それまでひととひととの関係であったも

のがモノとモノとの関係に置き換わるのである。す

なわち,物象化である。そうなっては,人間同士の

関係は,倫理に基づく関係ではなく,機械論的な物

理・化学法則に基づく関係となってしまう。このよ

うに市場経済社会において,人間が労働力商品とし

て扱われることは,人間がモノとして捉えられるこ

とを意味し,すなわち物的存在として捉えられるこ

とを意味するのである。第二に,商品交換者として

の人間はどうだろうか。「交換者たち自身の社会的

運動が彼らにとっては諸物象の運動の形態を持つも

のであって,彼らはこの運動を制御するのではなく,

これによって制御される」(Marx1962:89〔101〕)

という事態になる。商品交換者としてもなお,モノ

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の運動によって制御されている。ここまでの議論を

まとめれば,市場経済社会において,労働力商品と

して存在すると同時に商品交換者として存在する人

間は,モノのメカニズムによってコントロールされ

ることになるのである。言い換えれば,市場経済社

会において社会関係が物象化され,あたかも人間が

物象化され,物的存在として扱われる状況が生まれ,

人間が「擬似」的な機械論的な物理・化学法則にコ

ントロールされるのである。

以上,市場経済社会において人間が物的存在とし

て扱われ,人間が倫理的存在としてのあり方を発揮

しづらい状況になるメカニズムを明らかにした。こ

のように考えれば,人間が物的存在として社会から

「扱われ」,「捉えられる」ことこそが,人間の倫理

的存在としてのあり方を発揮しづらい状況,あるい

は限定的な発揮しか許さない状況を作り出している

といえる。このことは,人間が物的存在として「あ

る」ことを意味するのではなく,そういった状況は

あくまでも物的存在として社会から「扱われ」,「捉

えられる」ことに起因するのであって,発揮しづら

い状況ではありながら限定的に発揮される,人間の

倫理的存在としてのあり方を現代社会の文脈の中で

育むと同時に,人間が倫理的存在としてのあり方を

十全に発揮しうる社会的基盤を考えなければならな

い。

これまでの議論からわかるように,人間があたか

も物的存在と扱われてしまう鍵は,人間が労働力

「商品」と捉えられることにある。したがって,人

間の「脱商品化」が人間の多様なあり方を発揮させ,

倫理的存在としてのあり方を十全に発揮しうる契機

となるのみならず,人間をあたかも物的存在と捉え,

それを統御する市場経済を縮減する契機にもなる。

次節では,人間の「脱商品化」に向けた理論的な考

察を,カントとマルクスの「二つの国」に関する議

論を踏まえて行っていきたい。

4 カントとマルクスの「二つの国」

本節では,カントとマルクスの論述を比較検討す

ることを通じて,人間をあたかも物的存在と捉えて

しまう社会的基盤を縮減させ,人間の倫理的存在と

してのあり方が十全に発揮しうる社会的基盤構築に

向けた道筋を示したい。より具体的にいえば,以下

のようになる。カントは『実践理性批判』(1788

年),『倫理の形而上学の基礎付け』(1785 年)にお

いて,「倫理(目的)の王国」と「自然の王国」を

対比的に論じている。一方,マルクスは『資本論』

において,「(真の)自由の国」と「必然性の国」を

対比的に論じている。本節では,このカントとマル

クスの「二つの国」の検討を通して,人間をもあた

かも物的存在と捉えるメカニズムを抑えると同時に,

人間が物的存在,生命的存在,そして社会的・共同

的存在,さらにその上に立ち現れる意識的存在とし

てのあり方を踏まえた,倫理的存在としてのあり方

を十全に発揮するための道筋を示したい。

カントの「二つの国」に関する論述を,人間の物

的存在としてのあり方と倫理的存在としてのあり方

から考えてみたい。カントは『倫理の形而上学の基

礎付け』の中で,「自然のあらゆる事物(Ding)は,

法則にしたがって作用する。ひとり理性的存在者の

みが,法則の表象にしたがって,すなわち原理にし

たがい行為する能力をもつ。いいかえれば,意志を

有するのである。法則から行為をみちびきだすため

には理性が要求されるから,意志とは実践理性にほ

かならない。理性が意志を不可避的に規定する場合

には,そういった存在者の行為は客観的に必然的な

ものと認識されるいっぽう,主観的にもまた必然的

である」(Ⅳ412〔2013b:103〕)と述べている。こ

れまでの記述と重複する部分もあるが改めて述べれ

一般研究論文 「倫理的存在としての人間の社会的基盤

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ば,人間は,機械論的な物理・化学法則から自由で

ないことから物的存在であるといえる。本稿では,

物的存在が従う機械論的な物理・化学法則を物的必

然性とする。また,人間は倫理的存在(カントの用

法からいえば理性的存在)でもある。そのことは,

人間が自然の事物の法則(機械論的な物理・化学法

則)に従う存在であると同時に,意志(ないしは実

践理性)を有する存在であるといえる。そのことを

さらに考えれば,以下のようになる。人間がもっぱ

ら物的存在であれば,物的必然性に従属することに

なる。言い換えれば,他律的存在であるといえる。

しかしながら,人間は物的存在であると同時に,意

志(ないしは実践理性)を有する存在(倫理的存在)

であった。倫理的存在であるとすると,物的必然性

にもっぱら従うことはなく,人間は行為の始動因た

り得る。この始動因たり得ることこそが自由なので

ある。言い換えれば,人間は物的存在であると同時

に,倫理的存在であった。物的存在として,物的必

然性から完全に逃れることはできないが,同時に倫

理的存在であることから,物的必然性から逃れて始

動因たり得え,すなわち自由であることが可能なの

である。つまり,人間は物的必然性と同時に,自由

による因果関係の作用のただ中にいる。そのことを

異なる側面からいえば,人間は物的必然性に従属す

るという意味においては客体であり,自由による因

果関係に作用されるという意味においては主体であ

る。

また,手段と目的の対比関係からいえば,人間は

決定論的な因果関係(物的必然性)に作用されると

いう意味においては手段であり,自由による因果関

係に作用されるという意味においては目的なのであ

る。ここで,「人間を単に手段としてではなく,同

時に目的として扱え」というテーゼを思い起こすこ

とができよう。「目的の王国が可能であるのは,し

たがってひとえに自然の王国との類比による。ただ

し前者はたんに準則,すなわち自分自身に課した規

則によってのみ可能であり,後者はひらすら外的に

強制的に作用する原因の法則にしたがってだけ可能

なのである」(Ⅳ438〔2013b:183〕)と述べている。

目的の王国では,理性的存在者である人間が,自分

自身に課した規則に従って行為するが,自然の王国

ではもっぱら外的な因果関係に従属するとされる。

現代社会の文脈から改めて考えてみると,人間の商

品化とは,つまるところ市場経済下においては人間

の手段化であり,モノ化であり,物的存在化であっ

た。このことを踏まえると,市場経済の手段となっ

て人間が物的存在として捉えられる現代社会は,も

っぱら自然の王国としてあることになる。さらに,

「目的の王国にあって,すべてのものは価格を有す

るか,尊厳を備えている。価格を有するものは,そ

のもののかわりにまた,等価物としての或る他のも

のが置き換えられることができる。これに対して,

あらゆる価格を越えており,かくてまたいかなる等

価物も許さないものこそが,尊厳を備えているので

ある」(Ⅳ434〔2013b:171〕)とされる。人間の多

様なあり方が捨象され,商品として等価物に,さら

には――マルクスの議論を踏まえれば――交換価値

に置き換えられ,人間があたかも物的存在として扱

われる現代社会にあっては,人間は尊厳を失い,第

2 節で原田正純の著作から引用したように「人を人

と思わない状況」が横たわっているのである。

では,どのようにして人間は自然の王国に閉じ込

められた状況を脱することが出来るのであろうか。

そのことを考えるためには,マルクスの必然性の国

と自由の国の対比から,特に労働に着目して考える

のが有効である。マルクスの「二つの国」に関する

論述を,カントの人間の二つのあり方に関する考察

を踏まえて,社会のあり方に着目してみていきたい。

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マルクスは『資本論』第三巻(1894 年)において

以下のように述べている。少し長いが引用したい。

「じっさい,自由の国は,窮乏や外的な合目的性に

迫られて労働するということがなくなったときに,

はじめて始まるのである。つまり,それは,当然の

こととして,本来の物質的生産の領域のかなたにあ

るものである。未開人は,自分の欲望をみたすため

に,自分の生活を維持し再生産するために,自然と

格闘しなければならないが,同じように文明人もそ

うしなければならないのであり,しかもどんな社会

形態のなかでも,考えられる限りのどんな生産様式

のもとでも,そうしなければならないのである。彼

の発展につれて,この自然必然性の国は拡大される。

というのは,欲望が拡大されるからである。しかし,

また同時に,この欲望を充たす生産力も拡大される。

自由はこの領域のなかではただ次のことにありうる

だけである。すなわち,社会化された人間,結合さ

れた生産者たちが,盲目的な力によって支配される

ように自分たちと自然との物質代謝によって支配さ

れることをやめて,この物質代謝を合理的に規制し

自分たちの共同的統制のもとに置くということ,つ

まり,力の最小の消費によって,自分たちの人間性

に最もふさわしく,最も適合した条件のもとでこの

物質代謝を行なうということである。しかし,これ

は や は り ま だ 必 然 性 の 国 ( Reich der

Notwendigkeit)である。この国のかなたで,自己

目的として認められるような人間の力の発展が,真

の自由の国が始まるのであるが,しかし,それはた

だかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花

を開くことができるのである。労働日の短縮こそは

根本条件である。」(Marx1962:828〔1051〕)

マルクスのいう「必然性の国」と「自由の国」と

は何だろうか。まず,ここでいう必然性の国は,カ

ントの自然の王国では物的必然性でもって語られて

いたのとは異なり,人間が生命的存在としての必然

性(生命的必然性),そして社会的・共同的存在と

して必然(社会的・共同的必然性)に迫られて労働,

ないしはコミュニケーションを行う社会であると考

えられる。人間が生命的存在であることと社会的・

共同的存在であることをここで説明を加えておくと,

まずマルクスにとって「人間はもっとも文字通りの

意味でポリス的動物である」。したがって,「動物」

であるということが強調されている。さらに,「動

物はその生命活動と直接的に一つである。動物はそ

の生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活

動だからである。人間は自分の生命活動そのものを,

自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識し

ている生命活動をもっている」( Marx1968:516

〔95〕)と述べていることから,人間も,動物であ

るという意味で,生命的存在であることを基礎にし

た意識的存在であることが理解できる。同時に,マ

ルクスが「人間がまさにひとつの類的存在であるか

らこそ,彼は意識している存在なのである」

(Marx1968:516〔95‐96〕)としていることを踏ま

えて考えてみても,人間が社会的・共同的存在であ

ることを基礎にした意識的存在であることが理解で

きる。したがって,人間の意識的存在としてのあり

方は,生命的存在,そして社会的・共同的存在とし

てのあり方の上に築かれるといえる。これまでのカ

ントの言説に関する考察,倫理的存在であるという

ことは意識的存在であることを内包している点,そ

して,人間がポリス的動物,同時に類的存在である

というマルクスの規定を合わせて考えると,改めて,

人間が物的存在としてのあり方を最下層に置きなが

ら,生命的存在と社会的・共同的存在のその上でこ

そ意識的存在でありえ,この四存在のあり方の総体

が倫理的存在であることが確認できるだろう。以上

のことを踏まえて,上記の引用で,強調しておきた

一般研究論文 「倫理的存在としての人間の社会的基盤

倫理的にふるまうために」

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いことが 3点ある。その点を踏まえて,自由の国と

は何かを考えてみたい。

第一に自由の国は,人間が集団をいとなむことか

ら生じる社会的・共同的必然性,同時に人間が生命

として生きることから生じる生命的必然性に迫られ

て労働するということがなくなったときに始まると

いう点である。第二に,そのとき自由は自由の国に

のみ存在するのではなく,必然性の国にも自由が存

在するということである。第三に,必然性の国を基

礎に自由の国が花開き,その根本条件は労働日の短

縮であるということである。そもそも労働は対象化

活動であるが,現代社会における労働が賃労働であ

る限り,その意義は見失われ,労働はもっぱら自分

以外のもののために成立することになり,労働によ

って作られた対象物も労働者から完全に切り離され

ることとなる。そういったいわば疎外された労働に

は,必然性の国における自由はない。したがって,

現代社会は必然性の国の疎外された姿であるといっ

てよい。さらに,物象化されたモノの論理が浸透し

ていることを踏まえて考えると,現代社会において

疎外された必然性の国のあり方が社会の中で拡大し

ている状況(2)は,カントの自然の国における人間の

あり方と通底しているといえよう。先のカントの言

説から導き出した,人間は物的必然性に作用される

という意味においては客体であり,自由による因果

関係の始動因であるという意味においては主体であ

るということから考えると,必然性の国を基礎に自

由の国が花開くという社会のあり方は,カントのい

う人間のあり方と合わせて考えることができる。

では,改めて,自由の国とは何かを考えてみたい。

自由の国とは,必然性の国を基礎にした,人間が自

由な個体性を発揮しうる社会である。マルクスは,

人間社会の歴史の三段階として説明する。マルクス

において,第一の段階は前資本主義段階,第二の段

階は資本主義社会の段階,そして第三の段階は将来

の共同社会であると理解される。特に第三の段階に

関しては,「諸個人の普遍的な発展の上にきずかれ

た,また諸個人の共同体的,社会的生産性を諸個人

の社会的力能として服属させることのうえにきずか

れた自由な個体性(freie Individualität)は,第

三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつ

くりだす」(Marx2006:91〔138〕),と主張している。

この主張を必然性の国と自由の国の対比と関わらせ

て考えるならば,この第二段階は資本主義社会の段

階であり,すなわち社会が必然性の国としてある段

階である。その第二段階の上に第三段階がきずかれ

るのであり,それは必然性の国を基礎に自由の国が

成立することと合わせて考えることができよう。第

三段階において初めて,人間の自由な個体性が発揮

されるのである。それは,いうまでもなく自由の国

においてである。

先の人間の尊厳に関するカントの引用を踏まえて

考えれば,人間が等価物を持たない,そして交換価

値に置き換えられない尊厳を備える倫理的存在にな

るためには,必然性の国における自由と自由の国に

おける自由を持ち合わせることが必要である。疎外

された必然性の国を統御するだけでは,必然性から

自由になったとはいえない。自由の国において自由

な個体性が発揮された人間として,自己実現につな

がる自由を合わせて獲得してこそ,人間は倫理的存

在としてのあり方を十全に発揮させることが可能と

なる(3)。必然性の国を基礎にした自由の国への地平

を開いたそののちには,カントの「きみの人格やい

っさいの他者たちの人格のうちにある人間性を,つ

ねに同時に目的として取りあつかい,けっしてたん

に手段として取りあつかわないように行為せよ」と

いう定言命法(4)がふたたび輝きを取り戻すだろう。

したがって,人間が倫理的存在としてのあり方を

『総合人間学』第 8号 2014年 9月

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十全に発揮させる社会的基盤は,必然性を主体的に,

そして自由に統御すると同時に,自由な個体性が発

揮された人間として自己実現につながる自由を担保

しうるものでなければならない。そのためには,必

然性の国を基礎に自由の国を花開かせる必要がある

が,それには労働日の短縮が根本条件であった。労

働日の短縮は,裏を返せば自由時間の創出である。

次節で,人間を物的存在とし,それを統御する市場

経済を縮減する契機にもなる人間の「脱商品化」に

向けた自由時間の創出について論じることで,人間

が倫理的存在としてのあり方を十全に発揮させるた

めの社会的基盤を具体的なかたちで描き出したい。

5 人間の「脱商品化」に向けた自由時間の創出

先の引用にもあったように,自由の国は必然性の

国を基礎に花開くことができ,その契機は労働日の

短縮,すなわち自由時間の創出にあった。この自由

時間の創出は,第 3 節の最後で述べた人間の「脱商

品化」に通じる。人間が倫理的存在としてあるため

には,疎外された必然性の国から必然性の国にかえ,

同時にそれを基礎に自由の国を花開かせることにあ

った。

自由時間に何をするか。自由時間といっても,消

費社会のただ中で市場経済活動としての余暇として

しまったら,人間の「脱商品化」と逆行してしまう。

自由時間に行うことはやはり,「労働」である。た

だ,人間の商品化を意味する賃労働ではなく,非市

場経済下における自己実現に通じる自由な個体性を

発揮しうる労働である。このような労働が社会に位

置付くならば,人間の「脱商品化」に通ずる。

そもそも人間の労働力は,人間の生命的存在(身

体性)のあり方に基づいている。従って,人間の労

働力の商品化は,生命的存在としての人間の商品化

なのである。同時に人間の労働が根源的に社会的・

共同的活動(協同労働)であることを踏まえれば,

人間の労働力の商品化は,社会的・共同的存在とし

ての人間の商品化なのである。そして,つまるとこ

ろ,人間の商品化は生命的存在,そして社会的・共

同的存在の商品化である。そのように考えるならば,

人間の脱商品化は,ただちに生命的存在,そして社

会的・共同的存在の脱商品化に向かうべきである。

より具体的にいえば,生命的存在,ならびに社会

的・共同的存在の維持に向けられる家事労働や福

祉・医療に関する労働,そして直接に生命的存在に

接し,社会的・共同的活動である家庭菜園における

労働を自由時間に行うべきだろう。

労働時間の縮減,ないしは自由時間の創出といえ

ば,トマス・モアが著した『ユートピア』(1516 年)

が思い起されるかもしれない。『ユートピア』によ

ると,ユートピア島では 1日の労働時間は 6時間で

あるという。はたまた,労働・睡眠・食事などの合

間の「空いている時間」は,「乱痴気騒ぎやぶらぶ

らしてすごしていいという意味ではない」(モア

1957:100)。「空いている時間」は,「自分の好きな

何かほかの有益な知識の習得」(モア 1957:100)

に費やす時間なのである。また,ユートピア島では

農業が男女の別なく共通の知識となっており,同時

に農業のほかに例外なく,毛織物,亜麻織業,石工

職,鍛冶職,大工職などの自分独自の技術として何

らかの特殊な知識を習得しなければならない。また

ユートピア人は庭を大切にし,「庭の中には葡萄園

を始め,あらゆる種類の果物や野菜や花が見事に丹

誠こめて栽培されている」(モア 1957:100)とい

う。この構想は現代社会を反省する上で有意義だと

考えられるが,強調しておきたいのは,トマス・モ

アは非労働時間を「空いている時間」としたが,本

稿の文脈からいえばそれは「空いている時間」では

なく,あくまで脱商品化された労働をする時間だと

一般研究論文 「倫理的存在としての人間の社会的基盤

倫理的にふるまうために」

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いうことである。そのことを踏まえれば,労働時間

を現代的な文脈から賃労働時間と解して,脱商品化

された労働をする時間を庭仕事や家事労働に男女の

別なく費やす,そのような社会のあり方をふたたび,

情報化などの進展を踏まえた上で現代社会の視点か

ら反省することは重要な示唆をわれわれに与えてく

れるのではないだろうか。

6 おわりに

以上,人間とはなにかという問いを底流に据えな

がら,人間の倫理的存在としてのあり方を発揮しづ

らい状況を踏まえて,倫理的存在としての人間のあ

り方が十全に発揮しうる社会的基盤について論じた。

本稿では,社会的基盤について脱商品化に向けた

自由時間の創出の重要性を論じたが,より具体性を

帯びた議論を進めなければならない。また,現代の

視点と本稿で論じた社会基盤を踏まえて,本稿での

倫理的存在の規定を踏まえながら,倫理的存在の具

体的なあり方や必然性の国を基礎にした自由な国に

おける倫理的存在としてのあり方が十全に発揮され

た人間同士の付き合いはどのようなものであるかを

継続して問うていかなければならない。今後の課題

としたい。

(1)欧文献と翻訳文献の頁数を併記する場合は,欧

文献の頁数を記したのちに,〔〕内に翻訳文献の頁

数を記すことにする。また,翻訳文献の翻訳を本稿

において訳し直していることもある。またカントか

らの引用は,『人類の歴史の憶測的起源』をのぞき,

アカデミー版『カント全集』に依拠し,本全集の巻

数(ローマ数字)と頁数を併記する。

(2)現代社会の中で,第 2 節で論じたような公害や

自己責任論といった問題の一部において,必ずしも

責任の所在がはっきりしないかのように捉えられる

傾向がある。特に自己責任論は,本来は企業,ある

いは国家に帰責されるはずの事柄が当事者の中で責

任の所在が必ずしも明らかではなく,そのあいまい

さの帰結として自己責任と規定してしまう側面もあ

るのではなかろうか。この傾向は,現代社会におい

て疎外された必然性の国が拡大しており,必然性の

国における自由が希薄になっていることと無関係で

はないであろう。このような状況下にあって,いか

に責任を問うかについては,本稿で展開した二つの

自由の概念を踏まえて,自由(意志)と責任の関係

を問い直すことを通じて改めて考えたい。

(3)二つの自由の存在を本稿において示したが,そ

うするとただちに以下のような問いが出てこよう。

二つの自由はそれぞれ独立しているのか,独立して

いないならばどのように関係しているのかという問

いである。そしてその問いは,疎外された必然性の

国から必然性の国への転換,そして自由の国の成立

がどのようになされていくのかという具体的な変化

のあり方を論ずることにも通ずる。疎外された必然

性の国から必然性の国に転換していく過程で,必然

性の国における自由は確保されるが,それだけでは

十全に倫理的存在になったとはいえず,自由の国に

おける自由と合わせて(ゆえに二つの自由は独立し

てはいない)はじめて「真の」自由を手中に収める

ことができるというのが本稿の立場ではあるが,必

然性の国における自由のみを備えてただちに倫理的

存在となれるか否か,言い換えれば,自由の国にお

ける自由を備えなければ倫理的存在になれないのか

も含めて,注 2の問題と合わせて改めて詳細を深め

たい。

(4)カントは『人類の歴史の憶測的起源』(1786 年)

で,以下のように述べている。「こうして人間は,

いっさいの理性的存在者――その地位の高下は問題

『総合人間学』第 8号 2014年 9月

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ではない――と平等の存在となった,すなわち彼は

目的そのものであり,他のいかなる存在者からもか

かる目的として尊重され,他のいかなる存在者によ

ってもたんに他の目的のための手段として使用され

ないという要求に関しては,すべての存在者と同等

になったのである」(Kant1999:34〔62−63〕),と。

『人類の歴史の憶測的起源』で主張されていること

から考えると,カントは「きみの人格やいっさいの

他者たちの人格のうちにある人間性を,つねに同時

に目的として取りあつかい,けっしてたんに手段と

して取りあつかわないように行為せよ」という定言

命法を倫理的な概念として呈示しつつも,それは同

時に社会的,歴史的な概念としても使用されている

ことが明らかである。

参考文献

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社会の探究」,尾関他編『環境哲学のラディカリ

ズム』学文社

尾関周二(1992)『遊びと生活の哲学』大月書店

カント(2013a)「実践理性批判」『実践理性批判・

倫理の形而上学の基礎付け』熊野純彦訳,作品社

カント(2013b)「倫理の形而上学の基礎付け」『実

践理性批判・倫理の形而上学の基礎付け』熊野純

彦訳,作品社

小坂井敏晶(2008)『責任という虚構』東京大学出

版会

桜井哲夫(1998)『〈自己責任〉とは何か』講談社

トマス・モア(1957)『ユートピア』平井正穂訳,

岩波書店

原田正純(1989)『水俣が映す世界』日本評論社

Kant ( 1999 ) Mutmaßlicher Anfang der

Menschengeschichte: Was ist Aufklärung ,

Felix Meiner Velag.(カント(1950)「人類の歴

史の憶測的起源」『啓蒙とは何か』篠田英雄訳,

岩波書店)

Marx/Engels Gesamtausgabe(MEGA),ⅡBand.1,

Akademie Verlag,2006.(マルクス(1981)『資

本論草稿集』①,大月書店)

Marx- Engels: Werke(MEW),Ergänzungsband Ⅰ,

Dietz Verlag,1968.(マルクス(1964)『経済

学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳,岩波書店)

Marx- Engels: Werke ( MEW ), Band.23 , Dietz

Verlag,1962.(マルクス(1968)『資本論』第一

巻第一分冊,大月書店)

Marx- Engels: Werke ( MEW ), Band.25 , Dietz

Verlag,1962.(マルクス(1968)『資本論』第三

巻第二分冊,大月書店)

大倉 茂(東京農工大学,茨城大学,前橋高等看護

学院非常勤講師,立教大学兼任講師)