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立命館経済学(第十巻・第四号)
八(七一〇)
TJ・
、、、
レノ
『政治経済学綱要」
への批判的評注
マルクスの最初の経済学研究より
細 見
英
解 説
ここに訳出するのは、マルクスの最初の経済学研究のうち、
ジェイムズ・ミルの『政治経済学綱要」(寸ヨ鶉;pヨ・.
昌Oまo・○{勺○ご庄O己向OO目○ヨざポ汁Oら庄OPHO◎旨・) からの
抜輩にマルクスが付した批判的評注である。
1
マルクスは、『へーゲル国法論批判』(一八四三年春-夏)
および『へーゲル法哲学批判、序説」 (一八四三年末-四四
年初め)を執筆したのち、へーゲル法哲学にたいする体系的.
微底的な批判を意図しつ、 いわゆる「近代の国民経済学」の
批判的研究に斉手した。 この、マルクスの最初の経済学研究
の成果は、『経済学・哲学手稿』(一八四四年四月-八月頃執
筆)として残されているのであるが、この草稿のほかに、主
として経済学関係の諸文献からの抜奉を主要内容とする九冊
のノートが保存されている。 一九三二年、アドラツキイによ
って刊行された曽胃×\■暴o互○鶉p冒9自。・習ぎ(室向○>)一
■易ざ>g9巨箏oq一}彗らco.は、これらのノートが一八四四
年初めから四五年初めにかけて作成されたものと推定し、
「外見的および内容的な証拠をすべて顧慮したうえで、可能
なかぎり年代順に」配列して、 ノートの内容目録を収録して
2)い
旬。それによれぱ、これらのノートはつぎの諸文献の研究
を含んでいる。(( )内は、その文献にあてられているノー
トのぺージ数。)
ノートー
つ・享ブ葦二、9;…三・・;一;・。。ひ・;;L・。一べ・(;
寿竃ぎダブひCユC=一・。。・三嚢。・8。。・・邑婁H・。睾(N\)
・・享O;5・・;号二一、ひ・……さ勺・;一一毒勺曇ゴ、モ・
・。。ひ(一三〇一一二・。・。9(\)
ノート■
>まヨ○・三言ヨ争2。。03。・ズき・鼻↓ミ一.巾.○.○P・-
己;奏s.(匿)
ノート皿
H」2竃u・o弓;宗昌9・鶉.HH.一・。軍(m)
○・ま身ヨoぎU・。・oo8之2汁一・享(■)
ノートw
〆昌○号昌からの抜牽。(H\)
ヨ・買一9U易言目・号・。ら二.ひ8;;a宅;{・。けま
一.ぎ喜.H邑ら.干・。.O・邑;ま.心、婁まP嚢蜆・
(ミ)
盲目鶉ン…』一ぎ・まら.ひ・;;ざ三三一一言・↓;O・勺・
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ノートV
室暮2…・三づぎ§・。。。。…・-一.ひ・;;まづ・葦旦冒1↓ミ一・
J・ミル「政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
ラ○ら毫邑」・。軍(O)
冒。・巨;。弓暮ざ日ぎ・まら、豪ま。・一・・曇◎・(・。)
盲目塞;戸目ぎ・ま・(o)
エソゲルスの『国民経済学批判大綱』からの抜率が、紙片
に書いてはさんである。
ノート皿
夏己¢己巴9寄・ぎ冒ま。。。。昌5昌~冨9一、O烏三〇ま
気まぎ。・。・・?;{・.H・・一一二・■.H美昌ま・一・H・2-
くp雰9H・。◎・。.(ま)
ノートw
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寄一&ユ争■卑一〇蕩暮↑一〇;一〇〇〇壱ざ;O實勺〇一三。・;S
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○u・葦(写』ぎ二;豪己・芽害ぎマま二童ざ・.妻o.
(-)
ヨ・責一9ラ.ご一2嚢.(-)
ノート孤
一一九(七一一)
立命館経済学(第十巻・第四号)
二厚・…身麦享彗・一婁含×<目。。。雪一・、一長く.
向品ぎ・只手pH・。鼻からの抜葦、
○○旨屠;事ま一■:一伽三;二・勺曇奏二F(ま)
閉 ■○ぼ湾巨争s戸U〆。・彗汁pご昌。。…5畠~毒5。・『一1
・プ婁。。葺9・.(HO\)
C幻旨亘;事ま一弓邑汁=こ・;き;・き。・。・邑量({)
↑り7彗!メO○豪己字ま一昌。・言一c…昌ひ暮ぎoけ一c
・・昌昌竃8.(H)
紀元前七五二年から三五〇年ごろまでのローマ史年表。(o)
ノート巫
■奏?さに;c戸bc汀昌一&;(一婁〇一毒。。婁5げ一一ユQ豪婁¢目
>晶一g昌;g;写彗oc」・。き.(違)
右のうち、すくなくとも最初の五冊は、-経祈手稿」執筆
3)
以前に作成されたもののようである。 ン;o>の編集者はこ
れらを、『経哲手稿」に「直接閑連していて興味深く、その
直前一の段階のものとして、 マルクスの仕事ぶりを特徴づける
4)
実例を提供するもの」と評価して、のちのポアギュベールか
らの抜葦とともに、その内容全体をン=ら>の前一掲の巻に収
録している、
一二〇(七一二)
ン、胃○>におさめられているマルクスのノートをみれば、
その大半は諸文献からの抜牽でうずめられているが、部分的
にマルクス自身のことばで批判的評注がくわえられている。
これらの評注は、経済学批判の文字どおりの出発点におげる
マルクスの間題意識と批判の構えを探るうえできわめて興味
深いものであるが、とりわけ量的に多く、しかも注目すべき
内容を含んでいるのが、ジェイムズ・ミルの『政治経済学綱
5)
要」からの抜牽に付されている批判的評注である。
○D この点にっいては、わたしの論稿「〈疎外された労働V
の概念」(二)の第一節H「『法哲学」批判の一環として
のq経済学・哲学手稿」」(立命館経済学、第九巻第二号)
を参照されたい。
叫ン胃○>一ワ。・aき庁.二w・一二.○・.昌事.
ゆ ただし、ノートwの×;cユき目からの抜奉だけは別。
これは一八四五年、ブリュッセルで書かれたものらしい。
↓ p一一.().○○.×目-.
引 川一.2.C.○○.mN○-閉閉○.
2
右にあげたノート□録にみられるようにマルクスは、スミ
ス、リカードウの主著を読みおえたのち、ミルの一、政治経済
学綱要』の研究を、仏訳本を使ってノートwとYでおこなっ
ている。
周知のようにミルの一、綱要』は、第一章「生産」、第二章「分
配」、第三章コ父換」、篤四章「消費」の四章よりなる。マルク
スはこれら各章各節の大部分にわたって、主としてドィツ語
で抜き書きをおこなっているのであるが、とりわけ長い抜率
をおこなっているのは、第二章(「地代」 「賃金」「利潤」の
三節よりなる)全体、第三章の第三節「賃金および利潤にお
ける変動の交換価値に及ぼす影響」、および、第三章の第六節
「交換業務にとって便利な、媒介者としての特殊の一貨物」
に始まり第七節「貨幣の価値を規制するもの」、第八節「貨幣
の量を規制するもの」にいたる貨幣論の基本瓶分、ならびに
第四章第三節「消費は生産と同範囲であること」である。
このうち、第三章第八節からの抜奉の半ばと、第四章第三
節のはじめの部分の抜牽のあととに、 マルクスは比較的なが
い批判的評注を挿入している(以下、前者を第一評注、後者
を第二評注とよび、あわせて「ミル評注」と略称する)。
これらの評注におげるマルクスの論述は、一、綱嬰」の当該
J・、・・ル「政治経済学綱要」への批判的詐注(細見)
箇所におけるミルの所論の批判にとどまっているものではな
い。ここでのマルクスの主要関心は、国民経済学の基本的諸
範礒の批判的検討にある。すなわち第一評注ではマルクスは、
、・・ルによる貨幣規定 〕父換の媒介者」という規定 を
評価しつつ、貨幣のゲネシス (私的所有 (交換)1↓価
値↓貨幣)を諭理的に解明することによってその本質(人
問の相互媒介活動の物的疎外態であること)を明らかにし、
この見地から貨幣形態の必然的発展としての信用および銀行
制度に論及するとともに、交換を媒介とする私的所有の価値
への転化に対応するところの分業の発生、労働の営業労働
厚考昌芸胃gざへの転化を説いている。そして第二評注では、
私的所有ならびに労働の形態転化の契機をなす交換H「私的
所有に基礎をおく交換」の特質を、ミルの叙述から学びつつ
展開している。
右のように第一評注では貨幣に、第二評注では交換に焦点
をあわせて、国民経済学の基本的諾範鴫の検討がおこなわれ
ているのであるが、とりわげ第一評注を読むとき明らかに推
定しうることは、これらの評注においてマルクスが、貨幣本
質の概念的把握を通じてさらに資本・労働・土地所有閑係の
一二一(七二二)
立命館経済学(第十巻・第四号)
論理的演緯をおこなうことを意図していることである。 いい
かえれぼマルクスは、資本・労働・土地所有関係H近代市民
杜会の基底的諸関係の概念的把握を目標としっっ、さしあた
りここでは貨幣本質の概念的把握をおこなっている、という
ことができよう。
経済学批判要綱の草稿を執筆していた一八五八年二月、ラ
ッサールにあてた手紙のたかでマルクスは、当時著述中の仕
2)
事は「私の十五年にわたる研究」の成果であると述べている。
したがってマルクス白身、かれの経済学批判の研究の起点を
一八四三、四年ごろにおいていることは注目してよい。そし
ておなじ手紙の中で経済学批判要綱にっいて述べているっぎ
のことぱは、 マルクスの最初の経済学批判の試論的展開を示
している「ミル評注」にも、端緒的にあてはまることを認め
ることができるであろう。 「さしあたりここで間題にな
っている仕事は、経済学的諸範曉の批判である。あるいは、
お好みならぱ、批判的に叙述されたブルジヨァ経済の体制だ
といってもよい。それは同時に体制の叙述であるとともに、
3)
叙述を通じてのそれの批判でもある」。
「ミル評注」はほぽ右にのべたような内容と意義をもつ。
一二二(七一四)
だがさらに、とりわけ私が注目する点は、「、・・ル評注」と〒経
哲手稿』との関連である。この二つの草稿は、相互補完的な
意味をもっと考えることも、あるいは可能かもしれない。し
かし・「私的所有」や「疎外された労働」(マルクスはミル評
注で「営業労働」をこう呼びかえている)などの基本的範晴
の概念内容が、両草稿でかなり相異していること、 「、、、ル評
注」での展開が『経哲手稿』で生かされず、両者の展開の問
に論理的連続性が認められないことなどに着目すれぱ、この
二つの草稿は同一の立場から視角と対象を変えて書かれたも
のとは・必らずしも言えないように思われる。両者の問には、
国民経済学批判の基礎視角におげる一定の発展があるのでは
ないか。この点を究明するとき、この段階におけるマルクス
の経済学研究の成果と間題点が、とりわげ『経哲手稿』の悔
仏
済学的意義が、いっそう明らかにされうるのではなかろうか。
以下、各評注に直接関連するミルの所論とマルクスの抜奉
とを紹介し、 つづいてマルクスの評注をかかげる。
い この二つの評注のほかにマルクスはもう一箇所、第四
章第五節「地代にたいする租税」のところで、 ミルおよ
び因民経済学一般の地代にたいする租税観を皮肉った、
一〇行ばかりの短評をくわえている。
の マルクス・ニソゲルス『資本論に関する手紙』、岡崎次
郎訳上巻、七七べージ。
ゆ 同右書、七六べ-ジ。
↑○ ここに述べたような意味でも、「、、・ル評注」●は、きわめ
て注目されてよい断片であるにもかかわらず、一九三二
年峯向○>に発表されて以来、「経哲手稿」は多くの研究
者によってとりあげられてぎたのに反し、 「、、、ル評注」
に注目した研究者は長年のあいだほとんど皆無であった。
はじめてこの評注を一般に紹介したのは、皿.皿.ロー
ゼソベルク(〇一〇り曽-b9饒宙目自目曽o射◎目◎崔一冨¢o崇◎弓◎く■o目-饒
夢弓§目○胃雪§二暑・雪冒竃・着曽肖毘竃L雷{・
副島種典訳『初期マルクス経済学説の形成』)の功績とい
えよう。この評注を正面からとりあげた研究として、重田
晃一氏の「初期マルクスの一考察 経済学批判への端
緒としてのくソェームスニ・・ル評注Vを中心として 」
(関西大学経済諭集第八巻第六号)がある。なお、 「、、、
ル評注」と「経哲手稿』との関連については、近く別稿
でたちいって論ずる予定でおる。
1
第一評注は、
TJ ・
ミルの貨幣論の批判として姶まっている。
ル『政治経済学綱要』への批判的評注(細見)
ミルの貨幣論は、第三章第六節以下数節にわたって論述さ
れているが、そのうち貨幣論としての基軸をなすのは、第六
節、第七節、および第八節である。
まず第六節でミルは、貨幣は直接的な貨物の交換、すなわ
ち物々交換における諸困難を除去するために発見された.交換
の媒介者P昌O(;目○{賢争彗0q¢であると規定する。
「これらの困難〔物々交換にともなう困難〕を除去するため
には、処分すべき財貨をもっているすべての人が喜んで受げ
とり、かつかれが手に入れようと欲する物品の価値に適応す
るような量に分割することのできる貨物が発見されうれぱ、
幸いであろう。このぱあいには、羊を保有しながらバソある
いは上衣を欲している人は、それらを手に入れるためにかれ
の羊を提供するかわりに、まず羊をこの他の貨物の等価量と
交換して、その後にこれでもって、かれの必要とするパソや
その他の物を買うであろう。これがまさに、交換の媒介者の
真の概念である。それは、 二つの異なる貨物問の交換をなし
とげるために、最初一方のものと交換に受けとられ、 つぎに
他方のものと交換に与えられるある一個の貨物である」 (、、、
1)
ル九二-三、沢一一四)。
一二三(七一五)
立命館経済学(第十巻・第四号)
そして、金や銀などの貴金属が交換の媒介者い貨幣として
必要なあらゆる性質を高度にそなえていることが見いだされ
たと述べて、っぎに、貨幣の価値を規制するものにっいて論
述する(第七節)。
ここでミルの間題とする貨幣の価値とは、 「貨幣が他の貨
物と交換される比率、あるいは他の物の一定量と交換される
貨幣の量」のことである(ミル九五、訳一ニハ)。 かかる貨
幣の価値H交換比率は、 ミルによれぱ、一国に存在する貨幣
の総量によって規定される。 二国のすべての財貨が一方の
側に、すべての貨幣が他方の側にあり、しかもそれらが同時
に相互に交換されると仮定すれぱ、…貨幣の価値はまったく
貨幣の量に依存することは明らかである」 (同上)。したが
って、交換される財貨の総量と流通速度が一定であれぱ、「貨
幣の価値が騰黄するか下落するときには、つねにこの変動は、
これに比例した貨幣枯の減少もしくは増加を原困とするもの
●
にちがいなく、その他のいかなる原内によるものでもありえ
ない」 (ミル九七-八、択一一八)。
貨幣の価他を規制するものが貨幣の姓であるとすれば、後
者はなにによって姐制されるか。この閉魍を諭じているのが、
二四(七一六)
第八節である。
ここでミルは、い貨幣の増減が自由に放任されているぱあ
いと、似それが政府の統制のもとにおかれているぱあいとを
区別して、まずいのぱあいから考察する。 マルクスは、この
部分(ミル九九-一〇一、訳一二〇1一二二)をほとんど省
2)
略せずに書き写し、っづいて第一評注を記している。かれの
抜率と評注は、つぎのとおり。
い 「ミルー1」は『綱要」初版の、 「訳ll」 は渡辺輝
雄訳(春秋杜)のべ-ジを表わす、
○ ただし、 マルクスは一、綱要!の仏訳本をさらにドイッ
語に訳してノートしているために、文章のニュアソスは
ミルの原文とはかなり異なったものになっている。以下
ではマルクスの文章をそのまま邦訳し、 とくに顕著な差
異だけを注で指摘する。
「貨幣の製造は二種の事情のもとでおこなわれうる。すな
わち、政府が貨幣の増減を白由に放任するか、それとも政府
白身が貨幣最を規制して、それを思うままに蛸減させるか、
のいずれかである。
第一のぱあい、政府は逝幣肋を一般に公閑して、希菓する
は
すべての人々のために地金を貨幣に転形する。地金をもって
いる人々がこのような貨幣への転形をおこなうのは、それが
かれらの利益であるときのみ、いいかえれぱ、かれらの地金
が貨幣に転形されればもとの形におけるよりも多くの価値を
もつばあいのみである。このことは、貨幣がとくに高価であ
って、同一量の金属が鋳造された状態では地金の状態におげ
るよりもいっそう多量の他の物品と交換されるぱあいにのみ
起こりうる。貨幣の価値はその量に依存しているから、貨幣
は少量なるときにいっそう大きな価値をもつ。このときには
地金の転形がおこなわれる。しかし、まさにこれによる増加
の緒果、以前の均衡が回復される。したがって貨幣が地金の
価値より高くなれぱ、自由に放任されているときには、私人
が干渉して貨幣量を増大させることにより、均衡が回復され
るのである。」「貨幣の量がひじように多くて、貨幣が地金の
状態におげる価値以下に低下することもありうる。このとき
にはただちに鋳造貨幣が地金に変形され、以前の均衡が同様
の仕方で回復される。」
「したがって貨幣量の増減が自由におこなわれうるぼあい
、 、2)
にはいっでも、貨幣の量は金属の価値によって規制される。
J・、・・ル『政治経済学綱要一への批判的評注(細見)
)035(げだし、金属の価値が地金の状態におげるよりも貨幣形態の
3)
もとでの方が大であるか小であるかに応じて、貨幣量を増加
もしくは減少せしめることが私人の利益であるのだから。」
、、、、4、、、、
「だが、貨幣価値が金属価値によって規定されるとすれぱ、
この後者の価値はなにによって規制されるかp …金および
銀は商品である。それらは労働と資本の使用を必要とする生
産物である。それゆえ、すべての他の生産物と同様に、金お
よび銀の価値を規制するものは、生産費である。」
い 、・・ルでは「鋳貨」。以下でも、 「貨幣」 とおるのの多
くは、、・・ルでは「鋳貨」となっている。
の 強調はマルクス。以下においても同様。
ゆ マルクスは、 「貨幣形態のもとでの方が小であるか大
であるかに応じて」と書いているが、誤記である。
↑○ 、・・ルでは、 「貨幣量」。
右の、貨幣と金属価値との補喉閑係を諭じている.
ところでも、生産費が価値決定における唯一の契機だ
2)
と述べたときと同様に、ミルはつぎのような リヵ
-ドゥの学派に共通する 誤りをおかしている。す
、 、 、 、 、 、
なわち、この学派は抽象的な法則を宜言して、この法
一二五(七一七)
立命館経済学(第十巻・第四号)
則の変化や不断の止揚 これなしには法則は生成し
えない には目をつぶるのである。もし、たとえば
生産費が結局のところ というよりもむしろ、需要
3)
と供給が周期的・偶然嘗一致したばあいに--価格
、 、 、
(価値)を決定するというのが不断の法則であるとす
れば、この関係が一致しないこと、したがって価値と
生産費とはなんら必然的な関係をもたないということ
、 、 、 、 、
も、おなじく不断の法則である。事実、需要と供給が
一致するのはいつでも一瞬のことにすぎない。この直
前には需要と供給は動揺し、生産費と交換価値とのあ
いだに不釣り合いが生じている。そして需要と供給の
洲瞬問的な一致ののちにはふたたび両老は動揺して、
¢生産費と交換価値との不釣り合いが生ずるのである。
、 、 、
これが現実の運動であって、リカードウの学派のいう
法則は、この現実の運動の抽象的な、偶然的で一面的
な一契機でしかない。しかるに最近の因民経済学老た
ちはこの現実の運動を、偶然事、非本質的なことにして
しまっている。なぜか? そのわけはこうだ。かれら
- 一二六(七一八)
は国民経済学を厳密精確な諸公式に還元する。だから
かれらが右のような現実の運動を抽象的に表現しよう
とするとき、その根本公式はつぎのようになるほかな
いのである 国民経済学においては法則は、その反
対物たる無法則性によって規定されている。国民経済
、 、
学の真の法則は偶然である。この偶然の運動からわれ
われ科学老は、いくつかの契機を好き勝手にとりだし
て、それを法則のかたちで固定するのだ、と。
い マルクスの本文全体は、文章ごとあるいは段落ごとに、
色鉛筆もしくは黒鉛筆で縦に消されている。□旨向○>編
集老の注。以下でも、とくにことわらないかぎり、注は
編集者のものである。 なお欄外の数字は、前掲曽向○>
のぺ-ジを示す。〕
吻 〔訳者注〕 「生巌費が価値決定における唯一の契機だ
と述べたとき」とは、?綱要』第三章第二節「諸貨物が
相互に交換される量を決定するもの」 における論述をさ
していると思われる。そこでミルはいっている、1「諸
貨物の相対的価値、 いいかえれば、一定量の他の貨物と
交換される一貨物の最は、まず第一には需要と供給に、
しかし究極的には生産費に、したがって、正確な言い方
をすれば、 それはまったく生産費に依存していると思わ
れる。需要おるいは供給の増減は、一定量の他の貨物と
交換される一貨物の量を、 一時的には生産費の点をこえ
て増減させることがあるかもしれない。しかし競争の法
則は、それが妨害されないところではどこでも、常にそ
れ二定量の他の貨物と交換される一貨物の量〕をこの
点にもたらし、そしてこの点に維持する傾向をもつ」 と
(、・・ル六八-九、訳八一-二)。 なお、ミルは、さらに「生
産費そのものがいくぶんあいまいである」 と指摘して、
「生産において結合される二っの要具たる労働と資本」
を分析する。 そして、生産費は結局労働量に還元される
から、 「諸貨物が相互に交換される比率を決定するもの
は、最終的には労働量である」 (、・・ル七四、訳八七) と
結んでいる。
ゆ 「偶然的」 は、あとから「周期的」 のうえに書かれて
いる。
、 、 、 、 、
ミルが貨幣を交換の媒介者と特徴づけているのは卓
見で、事柄の本質を概念にもたらしている。貨幣の本
質は、さしあたり、そのうちに所有が外化されている
エントオイセルト
ことにあるのではなく、人間の生産物がそれをつうじ
、 、 、 、
て相互に補完しあうところの媒介活動ないしは運動が
、 、 、 、 、 、 、
疎外され、人問的・祉会的な行為が疎外されて、人問
エソトフレムデト
J・、ミル『政治経済学綱要』への批判的評注(細見)
、 、 、 、 、
の外に存在する物質的な物たる貨幣の属性になってい
ることにある。人問はこの媒介活動そのものを外化す
ることによって、ここでは、自己を喪失した、非人問
化された人問として活動しているにすぎない。事物の
ザツヘ
、 、
関係そのもの、事物を操作する人問的作用が、人問の
外に、しかも人問の上に存在する本質の作用になって
、 、 、 、 、 、
いる。この疎縁な仲介者 人問自身が人間の仲介者
とはならないで をつうじることによって人間は、
自分の意志、自分の活動、他人にたいする自分の関係
が、自分からも他人からも独立した力となっているの
を直観する。こうして人間の奴隷状態は頂点にたっす
、 、 、 、 、 、 、
る。この仲介老がいまや現実の神になることは明らか
だ。なぜならこの仲介者は、ン、れが私に媒介してくれ
、 、 、 、
るものを左右する現実の力なのだから。これにたいす
る礼拝が白己目的となる。この伸介老から切断された
諸対象は、その価値を喪失した。だから、最初はこの
、 、 、 、 、 、 、
仲介老が価値をもつのは、それが諸対象を代表するか
ぎりでのことに見えたのに、いまや逆に、諸対象が価値
一二七(七一九)
立命館経済学(第十巻・第四号)
、 、 、 、
をもつのは、それらがこの仲介者を代表するかぎりで
のことにすぎない。最初の関係のこの逆転は、必然で
、 、 、
ある。それゆえこの仲介者は、私的所有の本質が自已
、 、
自身を喪失して疎外された実在であり、自已自身に外
ヴェーゼソ
、 、 、 、 、
的となった、外化された私的所有である。これはちょ
、 、 、
うど、私的所有が人問的生産と人間的生産との外化さ
、 、 、 、 、 、 、 、 、
れた媒介であり、人問の外化された類的活動であるの
と対応している。だから、生産において人問の類的活
動に帰属するすべての属性が、この仲介者に移譲され
る。こうして人問は、人間としては、つまりこの仲介
、
者から切りはなされたものとしては、この仲介老が豊
、 、リ
かになればなるほどますます貧しくなる。
2)
キリストはもともと、0D仰に対する人問、四人間に
、 、 、 、 、 、
対する神、ゆ人間に対する人問、を表わしている。
) 、 、
醐 同様に貨幣は、もともとン、の概念にしたがえば、
( 価
0D私的所有に対する私的所有、四私的所有に対する杜
会、倒杜会に対する私的所有、を表わしている。
、 、 、 、 、
しかるにキリストは、外化された神てあり、かつ外
一二八(七二〇)
、 、
化された人問である。したがって神は、もはやキリス
トの代りとしてしか価値をもたず、また人問も、キリ
ストの代りとしてしか価値をもたない。貨幣について
も、これと同様である。
、 、 、
○D 「この仲介者が豊かに」のまえに、 「かれがこの仲介者
を豊かに」が消しておる。
0いのあとに、-)ざ署O易Oぎ箏オ胃;、一。。。。一コ。、一が消
してある。
3) 2)のおとに、 「人問」が消してある。
、 、 、 、
なぜ私的所有は、貨幣制度に進まねばならないか?
ゲルトヴェーゼソ
、 、
それは、人間が杜会的な動物として交換に、そして交
換は 私的所有の前提のもとでは 価値にまで進
まざるをえないからである。すなわち、交換をおこな
う人問の媒介的な運動は、なんら杜会的な運動でも人
、 、 、 、 、 、
問的な運動でもなく、また人間的な関係でもない。、!、
、 、 、 、 、 、
れは、私的所有と私的所有との抽象的な関係である。
、 、 、 、 、 、
この抽象的な関係が価値であり、そして価値の価値と
、 、
しての現実的な実存が、まさに-貨幣にほかならない。
交喚をおこなう人問は、人問として相互に関係しあう
●
、 、
のではないのだから、事物は人問的所有、人格的所有
の意味を失う。私的所有と私的所有との杜会的な関係
ということがすでに、そこにおいては私的所有が自己
自身を疎外している閑係である。この関係の向自有的
実存である貨幣は、したがって、私的所有の外在化で
、 、 、
あり、私的所有の特有の人格的本性を捨象された実在
である。
したがって、近代の国民経済学がいかに如恵をしぼ
って貨幣体制、重金主義n。。弓箒旨Oヨ○ま邑;〕に反
対しようとも、決定的勝利をおさめることは不可能
である。なぜなら、人民や政府が素朴な因民経済学的
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
迷信にとりつかれて、感性的な、手にふれ目にみえる
カネ袋に執酋し、そして、絶対的な価値をもっている
のは貴金属だ、だから占有された貴金属こそ唯一の実
在する寓だと信じこんでいるとき、 そこへ啓蒙さ
れ世事に通じた国民経済学者がやってきて、かれらに
むかって、貨幣といってもあらゆる他の商^とおなじ
く一個の商^なのだ、だからン、れの価倣は、あらゆる
J.、、、ル一一政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
q
他の商品とおなじく、需要(競争)と供給にたいする
生産費の関係、他の商品の最もしくは他の商品の競争
にたいする牛産費の関係によってきまるのだ、と証
明してみたところで、 この国民経済学者には、
つぎのような正当な反論が加えられるからである。そ
、 、 、 、 、 、 、
うはいっても、物の現実の価値はそれの交換価値であ
り、これは結局のところ貨幣のうちに、そして貨幣は
2)
貴金属のうちに実存しているのではないか。だから貨
、 、
幣こそ物の真の価値であり、それゆえもっとも望みが
いのある物だ、と。実際、国民経済学老の教説にして
も、結局落ちつくところはこれと同様な分別でしかな
い。ちがうところはただ、国民経済学者は杣象能力を
そなえていて、このような貨幣の定有をあらゆる商品
4
形態の背後に認識し、このために、貨幣の公定の金属
的定有のみに排他的な価値をみとめる迷信におちいっ
)醐ていないことだけである。 貨幣の余属的定有は、
市民礼会の作、産ヤ連動のすべての岐節にこびりついて
いる貨幣塊o、おおっびらで感覚的な表現であるにす
一二九(七二一)
立命館経済学(第十巻・第四号)
ぎない。
い 「競争」は、あとから「需要」・のうえに書かれている。
の 「そして貨幣は貴金属のうちに」 は、あとから書ぎこ
まれている。
貨幣体制にたいする近代の国民経済学者たちの反対
、 、 、 、
論は、かれらが貨幣本質を抽象性と普遍性においてと
らえており、このために、貨幣本質はもっぱら貴金属
、 、 、 、
のうちにのみ定有すると信じこむ感性的な迷信からぬ
けでていることを意味するものにすぎない。この素朴
な迷信を、かれらはお上品な迷信ととりかえる。だが
いずれにしても本質的には根は一つなのだから、啓蒙
された形をとった迷信が、素朴で感性的た形の迷信を
完全に駆逐しさることは不可能である。けだし前者が
攻撃するのはこの迷信の本質ではなく、この本質の特
定の形態にすぎないのだから。 貨幣としての貨幣
したがって、たんに諦商品相互の内的、即n布的
な、かくれた会話閑係たいしは身分関係としての貨幣
、 、 、 、
ではなく1-の人格的な定有は、拙象的であればある
一三〇(七二二)
ほどいっそう貨幣の本質にかなっている。つまりこの
、 、 、 、
定有は、他の諸商品にたいして白然的な関係をあまり
もたず、人問の生産物でありながらも他面では人問の
、 、 、 、
非生産物として現象し、その定有要素が自然生的な痕
跡をとどめていなければいないほど、つまり、この定
有が人問によって創り出されたものであればあるほど、
貨幣の本質にかなっている。これを国民経済学的に表
、 、 、 、
現すれば、貨幣としての貨幣の人格的な定有は、それ
、 、 、 、 、 、 、 、
の貨幣としての価仮と、この定有が実存するところの
、 、 、
素材の交換価値もしくは貨幣価他との反比例関係が顕
著であればあるほど、ン、れだけいっン、う貨幣の本質に
、 、
かなっているのである。この芯味で、紙幣および各枢
、 、 、 、 、 、 、 、
の紙製の貨幣代川物(たとえば、丁形、為替、債券な
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
ど)は、貨幣としてO貨幣のいっン、う完全な定有であ
り、貨幣制皮の前逃的売展における必然的な契機であ
、 、 、 、
る。この貨幣制心は、信川制皮 これの完全な表軌
、 、 、 、
が銀行制度である1;-においてひとつo仮象、すなわ
ち、疎縁な物質的な力○支剛が打例されn己疎外O閉
■
係が止揚されて、人問がふたたび人問にたいする人問
、 、
的な関係にたちかえっているかの仮象を呈する。サソ・
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
シモソ主義老たちはこの仮象にあざむかれて、貨幣か
、 、 、 、 、 、
ら手形、紙幣、紙製の貨幣代用物、信用、銀行制度に
いたる発展をば、人問と事物との、資本と労働との、
私的所有と貨幣との、また、貨幣と人問との分裂、人
問と人問との分裂が、一歩一歩止揚されてゆく過程だ
、 、 、 、
とかんがえている。だから、組織された銀行制度がか
れらの理愁なのだ。しかし、疎外がこのように止揚さ
、
れ、人問が自己自身へ、したがってまた他の人問へ還
、帰するかにみえても、それに伽蜘にすぎない・むしろ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
それは、いっそういまわしい、そしていっそう極端な
〕己疎外、非人問化を意味している。なぜなら、ここ
、 、 、 、 、
では商品や金属、紙などとちがって道徳的な定有、杜
、 、 、
、 、 、 、 、
会的な定有、人問の心情そのものという内的なものが
疎外の地盤となり、したがってこの疎外は、人閉にたい
、 、
する人問の信煩という外見をとりながら、実は蚊^の
、 、
不信と完全な疎外にほかならないからである。いった
J.、、、ル『政治経済学綱要』への批判的評注(細見)
、 、
い、信用○本質を構成するも○はなにかア ここでは
、 、
われわれは、信用の内容 それはまたもや貨幣であ
る にはまったくふれないでおこう。すなわちわれ
、 、
われは、信頼といわれているものの内容は度外視する。
) 、 、 、 、
脳信頼とはもともと、人問が他の人問を示認すること
( 、 、
だ。ところが信用制度のもとではこの凧認は、ある人
問が他○八問に価値を前貸しして、 最善のばあい
でさえ、すなわち前貸しする人問がこの信用にたいす
る支払いを要求↓ないばあい、つまりかれが高利貸し
でないばあいでさえ 同胞たるこの人問に、こいつ
は悪者ではなくて「良い」人問だという信煩を与える
ときに限られている。 「良い」人問ということをこの
ばあい、信用授与老はシャィロックと旧様に、 「支払
い能力のある」人問の意昧に解している。 信川は、
二つの閑係および二つの火なる条件のもとで考えうる。
二つの閑係というのは、こうである。第一に、企もち
が、勤勉で義〃がたいやつだとみこんだ賃乏人に信川
を与えるばあい。この枢O信川は、因火維済学のロマ
一三一(七二三)
立命館経済学(第十巻・第四号)
ソティックで感傷的な部分に属しており、国民経済学
、 、 、 、
の脱線、ゆきすぎ、例外であってその原則ではない。
だが、このような例外を想定しこのようなロマソティ
ックな可能性を認めるにしても、そのばあいでさえ、
貧乏人の生命とその才能ならびに活動が、金もちにと
、 、
っては貸した金が返却されるための保証になっている。
つまり言いかえれば、貧乏人のあらゆる杜会的美徳、
かれの生命沽動の内容、かれの定右ン、れ白体が、金も
ちには通常の利子をともなう資本の償還を意味してい
る。だから貧乏人の死は、信用授与者にとっては最悪
の事態なのだ。それは、かれの資本プラス利子の死に
ひとしい。このように、信用閑係のもとでは人問のね
、 、 、 、
うちが貨幣で評価されているのだが、思えばこれはな
んと破廉恥なことであろうか。n明のことだが信州授
、 、 、 、
与者は、ン、の相子にたいして枢々の道徳的な保証をも
、 、 、 、
つばかりでなく、法律上の強制という保証や、その他
、 、 、 、
なお多かれ少なかれ実際的な保-証をもあわせそなえて
いるのである。つざに、信州を与えられるひと白身が
一三二(七二四)
、 、
裕福であるばあい。このときには信用は、もっばら交
、 、 、
換を容場ならしめる媒介者となる。いいかえればン、れ
、 、 、 、 、 、
は、完全に観念的な形態に高められた貨幣そのものに
、 、 1 、
ほかならない。信用と向、人問の道徳性にかんする国
、 、 、 、 y2
民経済学的判断である。信用においては金属や紙にか
わって人問そのものが、ただし人問としてではなく一
、 、 、 、 、 、 、
資本およびその利子の定有として、交換の仲介者にな
っている。したがって、なるほど交換の媒介物が、物
質的な姿態をとることをヤめて人問へたちかえり、復
帰してはいる。しかしこれは、人問それn体が白己の
外へひきずりだされ、みずから一個の物質的な姿態に
なりはてているからにほかならない。信用関係O内部
では、貨幣が人問において止揚されるのではなく、人
、 、
問それ白体が貨幣に転化している、いいかえれば貨幣
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
が人問と合体している。人閉的個性、人閉の道惚が、
それn体売買物□…になるとともに、また貨幣を実作せ
、 、
しめるところの索材となっている。貨幣ヤ紙にかわっ
て私白身の人格的な定有が、私O血と肉、私の糺会的
、 、 、 、
美徳と実力が、貨幣精神の質料、そのからだになって
いる。信用は、もはや貨幣をではなく、人問の肉と人
問の心を貨幣価値の分身たらしめるのである。ごらん
のように、まちがった体制の枠内では、すべての進止少
フアルシエス ジユステーム
が実は巨大な退歩なのであり、またすべての不徹底さ
が実は徹底した破廉恥ぶレのこのうえない表現なので
)脇ある。 信用体制の内部では、右にみた信用の本
(性、すなわち、人問にたいする最高度の国民経済学的
承認をよそおいつつ人問を疎外する信用の本性は、二
重の仕方で実証されている。0D資本家と労働者との、
大資本家と小資本家との対立が、つぎの諸事情によっ
てますます大きくなる。すなわちまず、信用を与えら
れるのはすでに持てるものであって、金もちに蓄秩の
新たな機会を提供するものに眼られていること。型言
、 、 、 、
すれば貧乏人の生存は、生かすも殺すもまったくかれ
にたいする金もちの偶然的な好みや判断にまかされて、
3)
完全にこの偶然に左右されていること。四たがいに嘘
をつき、だましあい、.偽善的にふるまうことがくまな
J・、・・ル『政治経済学綱要」への批判的評江(細見)
くゆきわたる給果、いまや信用を受けていないひとび
とには、あいつは貧乏だという単純な判断にくわえて、
あいつは信頼も承認も受けていないから杜会のヵスだ、
下劣な人問なんだ、という道徳的判断がつけくわえら
れる。こうして貧乏人は、窮乏のうえにこのような屈
、 、
辱を加えられ、卑屈な態度で金もちに信用を懇請せざ
るをえない破目に追いやられる。ゆ貨幣がここではま
、 、 、 、
ったく観念的な実存となるために、人問が他の素材で
、 、
はなくほかならぬ白分自身の人格を材料として、貨幣
、 、
偽造を企てることが可能になる。人問はみずから白己
を偽造貨幣にしたてあげ、だましたり嘘をついたりし
て信用を手に入れなければならない。こうしてこの信
用関係は 信用授与者の側からも、信用を利用する
ものの側からも 収引の対象、相互脇、杵と恐川の対
、 、
象となる。ここにいたっていまや、不信こそがこの旧
民経流学的信煩O土台であることは閉六白六である。
信川を与えるべきか否かにかんする不信にみちた考虻。
信州を求めるひとの私生沽その他O秘密を探ろうとす
一三三(七二五)
立命館経済学(第十巻・第四号)
るスバイ行為。競争相手の寸時の窮状でも密告して、
かれの信用を突然揺るがせ破減させてやろうとする企
、 、
て、等人。破産の全体系、仮空事業、等六。……因家
、 、
信用においては国家が、以上の叙述における人問とま
ったくおなじ立場に立つ。…:・国廣のもてあそびをみ
れば、国家がまったく商人の遊び道具となっているこ
とが明らかである、等六.。
、 、 、 、 、 、 、 、
ゆ信用体制は、最後に、銀行制度において完成され
る。銀行家の創出、銀行の国家支配、銀行の手巾への
、 、 、 、 、 、 、
資産の集積、国民のこの国民経済学的アレオバゴス法
、院は、貨幣制度のいかめしい完成態である。信用体制
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
の中では、ある人問にたいする道徳的承認とか、因家
、 、 、 、 、 、 、 、 、
にたいする信煩とかが、信川という形態をとっている
ために、そこでぼ道徳的承認という虚構にひそむ秘密、
、 、 、 、 、
すなわちこの道徳性なるものの非道独的な破廉恥さヤ、
かの旧宋にたいする信頼のうちにひそむ偽祷とユゴイ
ズムが、則らさまに蛯呈され、以実にあるがままに示
されている。
二二四(七二六)
、 、
○D 「信用とは、」 のあとに、「道徳〔的〕」が消してある。
の 「国民経済学的」 のあとに、 「評価」が消してある。
ゆ 「別言すれぼ…左右されていること」 は、あとから書
ぎ加えられている。
生産そのものの内部における人問活動の、ならびに
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 11
人問の生産物の相互的な交換は、類的活動と類的精神
)搬に等しい。そしてこれらの現実的で意識的な、真の
(
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
定有が、祉会的な活動と杜会的な享受である。人問的
、 、 、 、 、 、 、 、 、
な本質とは、人問が真に共同的な存在であることにあ
ゲマイソヴエーゼン
、 、
るのだから、人問は、自己の本質の実証によって人問
、 、 、
的な共同体、つまり、個Aの個人に対立する抽象的・
ゲマイソヴエーゼソ
普遍的な力ではけっしてなく、ン、れ白体個六人すべて
の本質であり、かれら自身の沽動、かれら白身の生命、
かれら白身の粘仰、かれら白身の寓であるような、礼
、 、 、
会的な組織を創迭し、産出する。したがって、人閉の
ヴェーゼソ
、 、 、 、 、 、
この其の共n作在は、反省によって牛じるものではけ
、 、 、 、 、 、 、
っしてない。それは、諦個人o必要とエゴィズムによ
って、つまり、かれらO定有そOもOの実柾によって
直接に産出されたものとして現われる。この共同存在
が存在するか否かは、人間が左右しうることではない。
とはいえ、人問が自己を人間として認識し、そこから
、 、
世界を人問的に組織しおえていないうちは、この共同
、 、 、 、
存在は疎外の形態で現象するのである。なぜならこの
、 、
共同存在の主体たる人問が、自已自身を疎外された存
ヴェー
在にとどまっているのだから。抽象における人問では
ゼンな
く、現実の生きた特殊的個人としての人問は、この
、 、 、 、
ような〔疎外された〕存在である。だから、あるがま
、まの人問は、疎外された存在そのものである。したが
って・、つぎのようにいうのはすべて同一の命題にすぎ
、 、
ない。すなわち、人問が白已自身を疎外するというこ
、 、 、 、
と、また、この疎外された人問の礼会は、人問の現実
、 、 、 、 、
的共同存在の、すなわち人問の真の類的生活の、ヵリ
カチュァであること、それゆえ疎外された人問の活動
は苦悩として、かれn身の創遣物はかれには疎縁な力
として、かれの富は貧困として、かれを他の人六と結
、 、 、 、 、 、 、
びつける本質的なきずなは非本質的なきずなとして現
J二・・ル『政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
われ、むしろ他の人間からの分裂がかれの真の定有と
して現われること、また、疎外された人問の生活は自
己の生命を犠牲に供することとして、かれの本質の実
現は自己の生命の非現実化として、かれの生産は自已
2)
の無の生産として、対象にたいするかれの支配力はか
れにたいする対象の支配力として現われ、自分の創造
3)
物の主人であるかれが、この創造物の奴隷として現わ
れること、これらはいずれも、同一の命題である。
い 「と類的精神」 は、あとから書きこまれている。
〔訳者注〕 この「類的精神」○牡~品。・oq¢オ汁は、旨向.
○>の編集者が「類的享受」 ○牡ま品。noqg邑を誤読し
たものではないかと思われる。おなじ旨向○>に収録さ
れている『経哲手稿』の第三手稿の一節「私的所有と共
産主義」でマルクスは、旨■○>によれば「活動と緕一神」、
「杜会的活動と杜会的精神」、「共同的活動と共同的精神」
について論じている(○o・H冨{・)。しかしここにみられる
「精神」はすべて「享受」の誤読であったとみえて、 曽・
呂pb崇o目po目H雪}〇一自cob}}雪員目b富蜀目¢員¢■自耳Hり岬pで
は、 これらの箇所はすべて ;旨8墨目¢ となっており
(O{.岬O◎OI竃O)、また、モスクワ版英訳本では8婁自昌マ
ニニ五(七二七)
立命館経済学(第十巻・第四号)
弐昌と訳されている(勺.H富k)。、・・ル評注のこの箇所で
も、 「類的精神」が「類的活動」とたらべられ、さらに
これにっづく文章で、 「これらの現実的で意識的な、真
o o
の定有が、杜会的な活動と杜会的な享受である」 圭言わ
れているのであるから、 「類的精神」は「類的享受」 の
誤読であると断定しても、おそらく誤りではないであろう。
の このまえに、 「かれの消費は消費として現われ」 が消
してある。
ゆ 「自分の創造物の…奴隷として」は、「かれの創造物が
かれの創造者として」から訂正されたもの。
、 、 、 、 、 、 1・一 、
ところで国民経済学は、人問の共同存在すなわち人
、問本質の白已確証を、いいかえれば、人問が類的生活、
真に人間的な生活のために営む相互的補完行為をば、
、 、 、 、
交換ならびに商業という形でとらえている。デステユ
、 、 、 、 、 、 、 、 、
ツト・ド・トラッはいう、杜会とは相互的な交換の一
、 、
系列である。それはまさに、こうして相互に融合しあ
う運動にほかならない、と。アダム・スミスによれば、
、 、 、 、 、 、 、 、
杜会とは商業祉会である。その成員はすべて商人であ
る。
、 、 、
ごらんのように国民経済学は、祉会的交通o疎外さ
一三六(七二八)
、 、 、 、 、 、 、 、
醐れた形態をば、本質的で本源的な、したがって人問
(
、 、 、 、 、 、
の本分にふさわしい形態として固定している。
い 「共同存在」は、 「共同活動」から訂正されたもの。
、 、
国民経済学は 現実の運動とおなじく 、私的
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
所有老対私的所有者の関係としての人問対人間の関係
、 、 、 、 、
から出発する。人問が私的所有者として前提されれば、
すなわち、人問が排他的な占有によって白已の人格性
を確証し、またそれによって他の人問から自己を区別
1)
するとともに他の人問と関係する排他的な占有者とし
て前提されれば、 このばあい、私的所有が人問の
、 、 、 、 、 ○
人格的な、かれを特徴づける定有であり、この意味で
人問の本質的な定有となっているから 私的所有の
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
喪失ないし放棄は、私的所有そのものの外化であるば
、 、 、 、 、
かりでなく、また人問の外化でもある。ここではわれ
われは、前老〔私的所有そのものの外化〕の規定だけ
をとりあげよう。私が自分の私的所有を他の人閉に譲
、 、 、 、
渡するとき、この私的所有は私のものであることをヤ
、 、
める。それは私から独立した、私の領分の外に横たわ
、 、 、
る事物、私には外的な事物となる。こうして私は、私
ザツヘ
、 、 、 、 、 、
の私的所有を外化している。だから、私にかんするか
、 、 、 、 、
ぎりでは、私はそれを外化された私的所有として定立
しているのである。しかし、私がそれをただ私にかん
するかぎりでのみ外化するときには、私はそれを単に
、 、 、 、 、
外化された事物一般として定立しているにすぎず、私
、 、 、 、
はただそれにたいする私の人格的な関係を止揚して、
、 、 、 、
それを要素的な 白然諸力のもとに返還しているに
エレメソターリツツェ ナトウールメヒテ
、 、 、 、
すぎない。それが外化された私的所有となるのは、た
、 、
だ、それが私の私的所有であることをやめながらも、
、 、 、 、
なおかつ、そのために、そもそも私的所有であること
をやめないばあい、つまり、それが以前に私自身にた
、 、 、 、 、
いしてもっていたのと同一の関係を、私以外の他の人
間ととり緒ぶようになるばあい、 二言でいえば、それ
、 、 、 、 、 、
が他o人問の私的所有となるばあいに限られている。
、 、
暴力によるばあいを除けば、 いったい私は、どの
、 、
ようにして私の私的所有を他の人問に外化するように
J二・・ル『政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
なるであろうか? 国民経済学はこの問いに正しく答
、 、 、 、
えていっている、必要から、欲望からだ、と。この他
、 、
の人問もまた私的所有老である。だがかれは、他の事
物、すなわち私には欠けていて、しかも私がそれなし
ですますことができないとかそれなしですますことを
望まないもの、いいかえれば、私が自分の定有の完成
、 、
と白分の本質の実現にとってぜひとも必要だと思うよ
、 、
うなある他の事物の私的所有老なのである。
○O 「とともに他の人間と関係する」は、あとから書きこま
れてい.る。
この二人の私的所有者をたがいに閑係づけるきずな
、 、 、 、 、 、 、 、
は、両者の私的所有の素材をなす対象の特有の性質で
ナトウール
ある。これら双方の対象物にたいする憧倣、すなわち
それらにたいする欲望は、私的所有者のおのおのにつ
ぎのことをホし、それをかれらに意識せしめる。すな
わち、かれらは対象物にたいして、それを私的に所有
、 、 、 、
すること以外になおもうひとつの本貫的な閑係をもっ
ていること、かれらは白分でそうだと思っているよう
一三七(七二九)
立命館経済学(第十巻・第四号)
、 、 、 、
な特殊な存在ではなく全体的な存在であって、その諸
ヴ一一-ゼン トターレス ヴェーゼソ
、 、
欲望は他人の労働の生産物にたいしても内的所有の関
係にたっていること なぜならある事物にたいする
、 、
欲望は、この事物が私の本質に属していること、いい
、 、
かえれば、ン、れの存在は私に対してあり、それを所有
、 、 、 、
することは私の本質を所有すること、私の本質に固有
な属性であることの、まったく明白で反論の余地のな
い証明であるのだから 、このことを私的所右者の
酬おのおのに意識させる。 こうしてこの二人の所有者
(は、かれらの私的所有を放棄すべく駆りたてられる。
とはいってもかれらは、同時に私的所有の実を示すよ
うなやり方でそれを放棄し光ければならない。いいか
えれぱ、私的所有の関係の内部で私的所有を放棄しな
ければならない。したがっておのおのは、白分の私的
所右の一部分を他者に外化するのである。
1 、 、 、
ぢから、この二人の私的所有者の礼会的閑連ないし
、 、 、 、 、 、 、 、 、
杜会的閑係は、外化の相互関係であり、両側面で定立
、 、
された外化の閑係、二人の所有者の閑係としての外化
一三八(七三〇)
である。これにたいして単純な私的所有においては、
、 、
外化はまだ白己にかんしてのみ一面的に生じるにすぎ
ない。
い このまえに、 「交換ないし交換取引はしたがっ□て〕」が
消してある。
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
したがって交換ないし交換取引は、私的所有の枠内
タウシユ タウシユハソ一アル
での人問の杜会的行為、類的行為、共同存在、杜会的
交通ならびに融合であり、したがって外的な類的行為、
、 、 、 、 、
外化された類的行為である。まさにこのために、交換
、 、 、 、
が交換取引として現象するのである。だから交換も、
、 、 、 、
おなじく杜会的な関係の反対物である。
、
私的所有の相互的な外化ないしは疎外によって、私
、 、 、 、 、 、 、 、
的所有それ自体は、外化された私的所有という規定に
おちこんでいる。というわけは、第一に、私的所有の
占右老が白分の私的所有を外化するときには、この私
的所有はもはや占有老の労働の生産物ではなくなり、
かれの排他的で特徴的な人格性ではなくなっているか
らである。この私的所有は、ン、れを生産した占有者の
●
1
( 、 、
手をはなれて、ン、れを生産したのではないひとにたい
2)
して一定の人格的な意味をもつにいたっていケ。この
私的所有は、ン、の占有者にたいする人格的な意味を喪
失している。第二に、この私的所有は他の私的所有と
関係づけられ、これと等置されている。この私的所有
、 、
は他の性質をもつ私的所有にとって代わられ、逆にこ
、 、
の私的所有ン、れ自身は他の性質をもつ私的所有の身代
わりになっている。したがっセいずれの側でも私的所
有は、他の性質をもつ私的所有を代表するもの、他の
、 、 、 、 、 3
自然生産物と等しいものとして現象している。そして
この二つの側面の相互関係はつぎのごとくである。す
、 、
なわち、おのおのの側が自已の他老の定有を代表し、
そして両者はこもごも白已白身ならびに白已の他者の
、 、 、
代理人として閑係しあうのである。私的所有としての
、 、 、 、 、 、
私的所有の定本は、ン、れゆえ、代理物、等価物となっ
エアザツツ エクヴイヴアレソト
ている。私的所有はもはや臼己白身との直接的な統一
、 、
においてではなく、他の私的所有にたいする閑係とし
、 、 、
て存在するにすぎない。等価物としての私的所有の定
J.、・・ル「政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
有は、もはや私的所有に固有な定有ではない。こうし
、 、 、 、 、 、
て私的所有は価値に、直接には交換価値になっている。
、 、
私的所有の価値としての定有は、私的所有の直接の定
、
有とは異なった、私的所有の特有の本質に外的な、白
、 、 、 、 、 、 、 、 、
、
已自身を外化された規定であり、私的所有のたんに相
、 、 、
対的な定有である。
) 、 、
9 、
峨 ところて、この価値がさらにすすんでどのように白
、 、
己を規定するかは、ン、れがどのようにして価格となる
かということとともに、他のところで展開されるはず
である。
○○ 「それを…はなれて」は、「他の占有老の手中にはいっ
て」から訂正されたもの。
の 「それを…いたっている」は、あとからこのべージの上
の余白に書ぎ加えられている。
ゆ 「等しいもの」のまえに、 「等価物」が消してある。
、 、 、 、 、 、 、 、
交換の閑係が前提されれば、労働は直接的な営 業
エアヴエルプス
、 、
労働となる。疎外さ.れた労働のこの閑係は、つぎの事
アルバイト
ー)
情によってはじめてその頂点にたっする。すなわち■、
、 、 、 、
0D一而で常業労働、労働米の乍膝物が、労働者の欲理
一三九(七三一)
立命館経済学(第十巻・第四号)
、 、 、 、
にたいしてもまたかれの労働規定にたいしてもなんら
、 、 、 、
直接的な関係をもたなくなり、この両面から労働老に
とって疎縁な杜会的諸関連によって規定されること。
、 、
四生産物を買うひとが、白分では生産しないで他人に
、 、 、 、 、
よって生産されたものを取引すること。外化された私
、 、 、 、
的所有すなわち交換取引のさきにみた未熟な状態では、
二人の私的所有者のおのおのは、直接白分の欲望に駆
りたてられ、白分の素質と手もとの白然材料に応じた
ものを生産していた。だからおのおのの私的所有老は、
白分の生産の余剰分だけを他人と交換したのである。
、 、 、 、
労働はなるほどかれの直接の生計源泉ではあったけ
ズブジステソツクヴユレ
、 、 、 、 、
れども、同時にまた、かれの個人的実存の確証でもあ
、 、
った。ところが交換によって、かれの労働は部分的に
、 、 、 、
営業源泉となった。労働の口的と定有とは、異なる
エアヴェル。フスク、ウェレ )
、 、 2 、 、 、
ものとなったのである。生産物は価値として、交換価
、 、 、 、
値として、等価物として生産されるのであって、もは
ヤ生産着にたいする直接的・人格的な閑係のために止
産されるのではない。生産がいっそう多面的になるに
一四〇(七三二)
つれて、したがって、一方では生産者の欲望がいっそ
う多面的に、他方ではかれの作業がいっそう一面的に
、 、 、 、
なるにつれて、かれの労働はますます営業労働の範蒔
に包括され、ついにはもはや営業労働の意味しかもた
なくなる。こうして、生産者が白分の生産物にたいし
て直接的享受と人格的欲望の関係にたっているか否か
, 、 、
ということも、また、生産者にとって活動、労働行為
それ自体がn分の人格性の白己享受、白分の天分なら
びに精神的目的の実現であるか否かということも、ま
、 、 、 、 、 、 、
ったく偶然的で非本質的なこととなる。
、 、 、 、
営業労働は、つぎの諸規定を含んでいる。0D労働主
3)
体からの労働の疎外と偶然性。四労働対象からの労働
の疎外と偶然性。ゆ労働者が糺会的諦欲卑によって規
定されること。しかもこの杜会的諸欲望は、労働者に
とっては疎縁なものであり、利己的欲望や必婁のため
に甘受せざるをえない強制である。これは、労働者に
とってはn分の必要ポみたすためo源泉というな味し
かもたず、他向糺会的諸欲卑にとっては、労働者はた
だこれらの欲望につかえる奴隷として存在しているに
すぎない。ゆ労働老にとっては自分の個人的実存を維
、 、
持することが活動の目的となり、現実の行為はかれに
とっては手段の意味しかもたないこと。すなわち労働
4 、 、
者がかれの生命を活動させるのは、生活手段を獲得す
るためでしかないということ。
5)
したがって私的所有関係の枠内では、杜会的な力が
、 、 、
)脚大きく完全にたればなるほど、人問はますます利己的
で没杜会的になり、人問固有の本質からますます疎外
されるのである。
○D 「頂点」目一宇oのまえに、「絶頂」○oづ岸sが消してある。
の 「価値」のまえに、 「営業」が消してある。
ゆ 「と偶然性」は、あとから書ぎこまれている。
↑○ 「労働者が」のあとに、 「労働する」が消してある。
0 「力が」のあとに、 「…としての必要」が消しておる。
1 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
人問沽動の化産物の桐互的交換が交換取引、展利商
、売として現象するのと同様に、沽動それn体o杣九的
補完と交換は、.分業〔労働の分割〕として以象する。
J・ミル「政治経済学綱要」への批判的詐注(細見)
分業は人問をとことんまで抽象的た存在に、旋盤など
にしてしまい、そしてついには精神的ならびに肉体的
な不具者にかえてしまう。
、 、
人問労働の統一性そのものが分割とみなされるのは、.
杜会的本質がもっばらその反対物として、すなわち疎
外の形態で定有しているからにほかならない。文明の
、 、
進歩とともに分業は高度化する。
○Dこのまえに、「相互的な活動、交〔換〕」が消してある。
分業を前提すればその内部では、生産物すなわち私
、 、 、
的所有の材料は、個六人にとってますます等価物とい
う意味をもつようになる。そして個六人がもはヤかれ
、 、 、
の余剰分を交換するのではなくなって、かれの牛産の
、 、 、 、
対象がかれにとってまったく無関心なものとなりうる
のに対応して、個く人はもはやかれの牛産物をn分が
、 、 、 、 、
必要とするもoと直按には交恢しなくたる。等価物が、
、 、
停価物としての実存を、貨幣において獲得する。こう
なると貨幣は、いまヤ営業労働O直按の紺火であり、
そして交換O仲介者である。 (先い叙述をみよつ)
一四一(七三.二)
立命館経済学(第十巻・第四号)
、 、
貨幣において、すなわち、私的所有の材料の性質、
私的所有の特有の性質にたいしても、また私的所有者
、 、
の人格性にたいしても完全に無関心である貨幣におい
、 、 、 、
て、疎外された事物の人問にたいする完全少、仏支配が机
象するにいたっている。
人格にたいする人格の支配としてあったことが、い
、 、 、 、
まや人格にたいする事物の、生産者にたいする生産物
、 、
の普遍的な支配となっている。私的所有の外化という
、 、 、
規定はすでに箏価物のうちに一価値のうちにひそんで
、 、 、 、
いたが、貨幣はこの外化の感性的な、それ白体対象的
な定有である。
同民経済学はこのような発展全体を、ただ一個の事
実として、偶然的必典の所産としてしか把握しえてい
たいことは、おのずから明らかである。
労働のn己n身からの分裂11労働者の資本家からの
分裂い労働と賓本の分裂。そして資本の本源的形悠は
、 、 、 、 、 、
土地所有と動陸とに分かれる。……私的所布の本源的
な規定は独占である。それゆえ私的所有がわが身に孜
一四二(七三四)
治的憲法をあてがうや、ン、れは独占の政治的憲法であ
る。完成された独占が競争である。 因民経済学者
、 、 、 、
にとっては、生産、消費、ならびに両者の媒介者とし
、 、 、 、
ての交換ないし分配が、ばらばらになっている。別六
の個人への、ならびに同一の個人における、生産と消
、 、
費の分裂、活動と精神の分裂は、労働の対象ならびに
、 、 、 、 、
仰精神としての労働それ自体からの労働の分裂を意味
¢ 、 、
している。分配は、私的所有の力の白己確証である。
労働、資本、土地所有相互の分裂、ならびに労働
と労働との、資本と資本との、土地所有と土地所有と
の分裂、そして最後に労働と労賃との、賓本と利得お
よび利得と利子との、最後に土地所布と地代との分裂、
これらの分裂は、n己疎外を白己疎外の形でとともに、
相互疎外の形ででも理象せしめる。
皿
狐二評注が付されている第四車第三節一」おける、・・ルの主題
は、総}妥H総供袷の公式を「諭証」し、これによって一般
的過剰生産を否定することにある。。いうまでもなくマルクス
は、この主題に大きな関心をよせ、綿密な抜き書きをおこな
っているのであるが、しかし当面の第二評注にかんするかぎ
り、かれの主要な関心は、右の主題にかんするミルのいわぱ
序論的論述(ミル一八六-一八九、訳二〇〇1二〇三)にあ
る。すたわち、いかに他人の生産物を欲求しようとも、それ
にたいする等価物を保有していなけれぱこの欲求を充足しえ
ないという、 「私的所有に基礎をおく交換」 の特質をミルが
ここで摘いているのに誘発されて、 マルクスは、一面ではミ
ルの論述をありのままの事実の描写として評価し、これをあ
とづげっっ、同時に、この事態が、人問関係の自已疎外的表
現にほかならたいことを明らかにしているのである。
この節からのマルクスの抜率と、それにたいする批判的評
注は、つぎのとおり。
第三節、 「消費は、生産の程度に応じて拡大する。 人
、 、1)
問が生産するのはただ、保有したいと望むからである。生産
される客体が、かれが保有したく思っているものであるぱあ
いは、かれはn分が使うだけのものを手に入れれぱ、働くこ
J.、・・ル『政治経済学綱要』への批判的評注(細見)
とをやめる。 □だからかれの供給は、 かれの需要と正確に一
2)
致する。〕…かれがそれ以上に生産するとすれば、 それはか
れがこの余分と交換に、たにか他の客体を保有したく思って
いるからである。…かれは、他の物を占取したいという欲求
にかられて、一つの物を生産するのだ。この物の生産が、か
れにとっては他の物を獲得するための唯一の手段であり、そ
してかれは、これを白分で生産せざるをえないぱあいよりも
はるかに安く手に入れるのである。分業のもとではかれは、
特定の物あるいはさらにそれの一部分だけを生産するにとど
まって、かれ白身の生産の一小部分のみを白分で使う。そし
て残りをかれは、白分が必要とするあらゆる他の商品の購買
にあてる。しかも、人問がただ一つの物を生産するにとどま
って、かれの生産物をあらゆる他の生産物と交換するぼあい
には、各人はかれが欲するさまざまの物を、白分で生産しよ
うとしたときに獲得しうる蛙よりも、いっそう多く獲得する
ことになる。〔人問が白分の生雌したものを消費するかぎり、
正確にいえぱ供給もなけれぱ箒要もない。需要と供紛は、閉
白なことだが交換に、すなわち…^手と売子に閑連したことぼ
である。しかし〕人問がn分白身のために生産するときには、
一四三(七三五)
立命館経済学(第十巻・第四号)
亦於は起こらたい。かれはなにも買おうとしないし、またな
にも売りにださない。かれは対象物を占有している。これを
生産したのはかれであり、そしてこれを手離す意図をもたな
い。 このぱあいに比楡的に「需要と供給」ということぱを適
用すれぱ、ここでは需要と供給は完全に釣りあっている。販
売される諾対象物の需要と供給にかんしていえぱ、われわれ
は、年々の生産物のうち、生産者の各友が生産もしくは受領
したままの形で消費する部分を、まったく間題外におくこと
ができよう。」
「ここでわれわれが供給と需要というぱあい、われわれは
総体について言っているのである。われわれが一定の時代の
一定の国民について、その供給がその需要に等しいというと
き、われわれは一っや二っの商品にっいてそうだといってい
るのではたい。われわれの言わんとするところは、すべての
商品全体をひっくるめての需要が、その国民が提供しうるあ
らゆる種類の商品の総体と等しいということである。総体と
してみれば、供給と悌奥はこのようにあい等しいにもかかわ
らず、 一つあるいはいくつかの特殊の商n叩が、これらの商品
の需婁に比べて過多にもしくは過少に生産されるということ
一四四(七三六)
は、しぱしぱ生じうることである。」「需要(ま昌彗・一・)を構
成するためには、二つのものが必要である。すなわち、ある
商品を手に入れようとする欲求と、交換において与えうる等
3 、 、 、 、
価的客体の占有ど。需要とは、欲求と買うための手段とを意
味する。もし一方あるいは他方が欠けておれぱ、購買は起こ
4)
りえない。等価的対象物の占有は、あらゆる需要の欠くべか
らざる基礎である。ある人がなんらかの対象物を手に。入れた
いと思っても、それを得るために与えるべきものをなにも持
っていたけれぱ、かれの望みもむだである。ある人が提供す
る等価的客体が、需要の遣具である。かれの需要の程度は、
Eo 、
この対象物の価値で測られる。需要と等価的対象物とは、一
方を他方で代用できることばである。すでにみたところであ
るが、生産するすべての人六は、n分で苫労して化産したも
のとは火なった種々の対象物の占有を熱望しており、 この努
力、この欲求の程度は、 かれらの牛産のうち、かれらがn分
白身の消費のために留保する部分を除いた総体によって測ら
れている。ある人が、n分が牛産しながらn分で消炊しよう
と・欲しないものを、他の対象物と交換に与えうることは、き
6、、、、、、、
わめて明白なことである。それゆえ、貫おうとするかれの意
志と、それを実行するためのかれの手段とは、等しい。 いい
かえれぼ、かれの需要は、かれの生産物のうちかれが向分で
消費しようとしない部分の総額に正確に等しい。」
い 強調はマルクス。以下においても同様。
o□ 〕内は、マルクスでぱ省略されている。以下でも同
様。
ゆ 「すなわち…占有と」は、 、・・ルでは、「それらはー一
定貨物にたいする欲求と、それと交換に与えるべき等価
物とである」 (強調はミル)。
~ 「等価的対象物」一{二;一;叶20三〇奪は、 、、・ルでは
「雌価物」。以下でも同様。
向 「この対象物の価伍」は、ミルでは「かれの停価物の程
度」。
ゆ「それゆえ」以下の文章は、ミルでは、「それゆえ、購
貫しようとするかれの意志と、かれの購貫手段とは、
いいかえれば、かれの需要は、 かれが化産しながら
も消伸一しようとしないものの額にバ、確に博しい。」
堀 ミルはここで、もちまえの皮肉た謝、寸で鋭くしかも
門閉快に、私的所有に基礎をおく交拠を分析している。
人閉は これが私的所有o根本前捉てあるが
J・、・・ル一、政治経済学綱要1、一への批判的詐注(細見)
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
保有するために○み生産する。上産の目的は、保有す
ハ ー ベ ソ
、 、 、 、
、 、 、
ることである。しかも生一産は、このような功利的な目
昌 ユ ツ ツリヒ
、 、 、 、
的をもつだけではない。それは利己的な目的をももつ。
アイゲソニユツイヒ
、 、 、 、
人問は白分が保有するために○み生産する。かれが生
、 、 、 、 、 、
産する対象は、かれの直接的な、利己的な欲望の対象
化である。だから人問は、孤立しておれば 未開で
野蛮な状態では 、目分が止産した対象そのものを
、 、 、 、 、
直接に内容とするところの白分の直接的な欲望の大き
、さを、白分の生産の尺度としている。
したがって、この状態においては人問は、n分が直
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
接必奨とする以上には生産しない。かれの欲望の限界
、 、 、 、 、 、 、 、
がかれの生産の眼界である。だから需要と供給は正確
、 、 、
に合致する。かれの生産はかれの欲望によって測られ
、ている。このばあいには交拠はまったくおこらない。
あるいはこのばあ■いの交喚は、人閑の労働とこの労働
の小産物との交狭に限られている。もっともこの交換
1)
が、帆実の交換O潜在的た形態(洲芽)ではあるのだ
、が。
一四五(七三七)
立命館経済学(第十巻・第四号)
○D 「繭芽」は、おとから「形態」のうえに書かれている。
交換が生ずるやいなや、占有○直接的限界をこえる
剰余生産が姶まる。しかしこの剰余生産といえども、
けっして利己的欲望を超越しているわけではない。む
、 、
しろそれは、直接この生産のなかにではなく、他人の
生産のなかに対象的な姿をみいだしているある欲望を
、 、 、 、
充足するための、媒介的なやり方であるにすぎない。
、 、 、 、
ここでは生産は、常業源泉、営業労働になっている。
したがって、最初の関係では欲望が生産の尺度である
づにたいして、この第二の関係では生産が、というよ
、 、 、 、 、 、
りもむしろどれだけ生産物を占有しているかが、どの
程度諸欲鬼を充たしうるかの尺度である。.
舳 ぼくはぼくoために生産したのであって、君のため
(
ではない。同じく君は科のために化産したのであって
ぼくoためではない。ぼくの生産の成火は君には絶対
になんの閑係ももっていない。これと同じく君の化政
の成火は、ぼくには絶対になんの直接的な閑係ももっ
ていない。こOことは、ぼくたちの生産が人問として
一四六(七三八)
の人問のためにおこなう人問の生産ではないこと、す
、 、 、 、
なわち杜会的な生産ではないことを意味している。だ
から人問としては、ぽくたちはいずれも桐手の生産物
にたいして享受の関係をもっていない。人問としての
ぼくや君は、それぞれお互いの生産の眼中にはない。
したがってぽくたちがおこなう交換にしても、ぼくの
、 、 、
生産物が君自身の本質の、君の欲望の対象化であるの
だから、ぽくの生産物は君にとってのものであるとい
2)
うことが、そこで確証されるような媒介運動ではあり
えない。なぜたら、ぽくと村と○生産を相互に給びつ
、 、 、 、 、
けるきずなは、人間的本質ではないのだから。交換の
なしうることはただ、ぽくたちがそれぞれ臼分臼身の
生潅物にたいしてもち、したがってまた相手の生産に
、 、 、 、
たいしてもっている特質を、運動させ、実証すること
だけである。ばくたち■はいずれも、白分の生産物のな
、 、 、
かにはもっばらn分n身o対象化された利己心を見い
アイゲソヌツツ
だし、ン、して棚手O生脈物りなかには、n分には無閑
、 、 、
係で疎縁な、他人の対象的利己心を見いだすのである。
い 「ぼくは」のまえに、「交換において」が消してある。
の 「確証され」げ29ご0q汁が草稿では 「損傷され」一)易?
-犀aoq庁となっている。
なるほど君は、人間としてはぼくの生産物にたいし
て人間的な関係をもっている。なぜなら君は、ぼくの
、 、
生産物にたいする欲望をもっているから。この意味で
はぽく○生産物は、君にとって君の欲求と君の意志の
対象として現存している。しかし君の欲望も、君の欲
求も、君の意志も、ぼくの牛産物にとっては無力な欲
望、無力な欲求、無力な意志である。つまりいいかえ
、 、 、 、
れば、君の人問的な本質、したがってぼくの人問的な
生産にたいして必然的に内的な関係にたっている君の
本質といえども、ぽくの牛潅を支配する力、ぽくの生
産にたいする所有を君に与えるものではない。なぜな
、 、 、 、
ら、人閉的本質の固有性、人閉的本質の力が、ぽくの
生産のなかで承認されていないからである。むしろ、
ぼくの生産物にたいする君の欲望ヤ欲求、意志などは、
君をぽくの生産物にたいする従属へと追いこむもので
J.、、、ル「政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
、 、 、
あるから、君をぼくに従属させるきずなである。それ
、 、 、
らは、ぼくの牛産を支配する力を君に与える手段であ
るどころか、逆に君にたいする支配力をぽくに与える
、 、
手段である。
ぼくが、牛産された対象物を直接白分で使いこなし
、 、 、 、 、
うる以上に生産するばあいには、ぼくの剰余生産は君
、 、 、 、 、
の欲望をあてこんでおり、勘定にいれている。ぼくが
この対象物を余分に生産しているかにみえても、それ
、 、
、 、
は仮象にすぎない。実際にはぼくは、他の対象物を、
すなわちこの剰余分と交換しようと思っているところ
の この交換をぼくは、頭のなかではすでにやりと
1)
げている 君の生産の対象物を生産しているのだ。
、 、 、 、
したがって、ぽくが君ととり結んでいる杜会的な関係
とか、君の欲望を充たすためのぼくの労働とかは、ま
、 、
るまるの仮象である。また、ぼくと君との相互の補完
、 、
関係というのも、同様にまるまるの仮象であって、そ
の底には相互的奪取の閑係が隠れている。奪収、脇着
の意図が背後にひそんでいるのは必然だ。なぜなら、
一四七(七三九)
立命館経済学(第十巻・第四号)
州ぽくたちの交換は、君の側からもぽくの側からも利
6己的な交換であって、ン、れぞれの利已心が相手の利
己心にうち勝とうとするの1だから、ぼくたちは必然的
にだましあいを演ずることになるわけである。ぼくは
ぼくの対象物に、肴の対象物を支配する力を認める。
けれどもこの力の程度は、現実的な力となるためには
もちろん君の恥瓢を必要とする。しかし、ぼくと君と
がそれぞれの対象物相互の力をたがいに承認しあうこ
とは、ひとつの戦いであって、戦いにおいてはヨリ多
くの気力、体力、分別あるいは老練さをン、なえている
ものが勝つ。腕力が十分なら、ぼくはじかに君から奪
取する。腕力の世界が打破されておれば、ぼくたちは
たがいにだましあいを波じて、もっとも老練な方が利
子から詐収する。どちらが相丁から詐収すoかは、こ
、 、 、
の閑係心伽にとっては偶然のことにすぎない。私念O
、わも{沁か仙か詐収は、どちらの側でもおこなわれ
ているのだ。いいかえれぱ、両者はいずれも、〔分n身
○判断では、相手かし詐.収したのである。
一四八(七四〇)
い 「この交換を…やりとげている」は、おとから書ぎ加え
られている。.
したがって交換は、どちらの側からみても、、1、れぞ
、 、 、
れ相手が生産し相手が占有している対象物によって、
必然的に媒介されている。ぼくと君とのあいだでの、
相互の生産の対象物にたいする観念的な関係は、いう
までもなくぼくたち相互問の欲望である。けれどもこ
、 、 、 、
、 、
の関係が、白己を現実に定立する実在的な関係、白己
曾一徹的なもふ関係となるためには、ぼくたちはたがい
、 、 、 、 、 、
に相手の生産を排他的に占有しなければならない。ぼ
1 、 、
くの物にたいする君の欲望に、ぼくにとっての価値、
、 、 、
かヅか、伽かを与えるも○は、ぼくの対象物の等価物
、 、 、
としてO片の対象物だけである。だからぼくたち相
、 、
互の止産物は、ぼくたち柵互閉o欲削、エo千段であり、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ^
媒介、道只、水認された力である。したがって、利の
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
需.奥と村が山有している箏価物とは、ぼくにとっては
ル泰榊か、おなじな味のことばであって、秒o}奥は
まくことってO恵味と効力をもつときにはじめて、効
、 、
力をもち、それゆえまた意味をもつ。君がこの道具を
もたない素手の人問であるときには、君の需要といっ
ても君の側では充たされない望みであり、ぼくにとっ
ては現存しない気まぐれでしかない。だから人問とし
ての君は、ぼくの対象物にたいしてなんの関係ももっ
、 、 、 、
ていない。これは、ぼく白身がぽくの対象物にたいし
て人問的な関係をもっていないためである。人問では
、 、 、 、 、
なくて手段が、対象物を支配する真の力なのだ。した
がってぼくたちは、たがいに白分の生産物こそが、相
、
手を支配しまたn分白身をも支配するn分の力である
ことを直概する。いいかえれば、ぼくたち目身の生産
物が後足で立ってぼくたちにたちむかっているのだ。
それはぼくたちの所有物のようにみえたのに、実は逆
にぼくたち■がン、れに所有されているのである。ぼくた
、 、
ちn身は、ぼくたちーの所有が他の人閉を排除している
、 、
ために、其○所有からしめだされている。
い 「欲理」 はこのばあい三桁なのに、草稿では二格の形
■oら胃{己ま竃になっている。
J二・・ル一、政治経済学綱要Lへの批判的評注(細見)
ぼくたちがたがいに語りあって通じる唯一のことば
は、相互関係におかれたぼくたちの対象物である。人
問のことばは、ぼくたちのあいだでは通用せず、たと
え語られてもむだであろう。それは、一方からは、嘆
、 、 、 、 、 、 、
願だ、哀願だ、だから面目まるつぶれだと考えられ感
じられ、したがって卑屈な気分で恥ずかしげに発せら
、 、 、 、 、 、 、
瑚れる。そして他方からはそれは、恥知らず、狂気の
(、、
さたとうけとられ、はねつけられるであろう。ぼくた
ちは、たがいにすっかり人問的本質から疎外されてい
るために、人問的本質の直接のことばはぼくたちには、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
人問の尊厳を傷つけるものとおもわれ、反対に事物の
価値という疎外されたことばが、公認された、しかも
白信にみちてn已白身を承認しつつある人岬的尊厳に
みえるのである。
なるほど朴の□からみれば、君の生産物はばくの化
産物を丁にいれて、さらにはれの欲理を淋氾させるた
、 、 、 、
めO道火であり手段である。だがぼくO〕かしみれば、
、 、
それは前との交換のn的である。ぼく「トとってはむし
一四九(七四一)
立命館経済学(窮十巻・第四号)
ろ君自身が、この対象物 これは、この関係におい
てぼくの生産物が君の目的である○と同様に、ぼくに
とっての目的である を牛産するための手段ならび
に道具として○恵味をもつ。しかしながら、四ぼくた
ちはどちらも現実には、白分にたいして相手が直観し
、 、 、 、 、 、 、
ているとおり○ことをおこなっているのだ。君は現実
、
には、ぼくの対象物を手に入れるために、君を君白身
の対象物の手段、遺具、生睦老にしてしまっている。四
、 、
君自身の対象物は、君にとってはぽくの対象物の感性
、 、 、 、 、 、 、 、 1
的な外被、隠れた姿であるにすぎない。なぜなら君の
、 、 、 、 、 、
対象物の生産が意味し表現しようとしていることは、
、 、
ぼくの対象物の獲得にあるのだから。したがって君は、
、 、 、 、
実際は君白身にとっても、君の対象物の手段、道具に
、 、
なっている。君の欲求は群の対象物の奴隷であり、そ
して君は奴隷の労役を果したのであるが、しかし灯の
欲求の対象物はけっしてお返しに恩恵を施してはくれ
ない。ところで、こOようにわれわれがたがいに対象
、 、 , 、 、
物O奴隷となる閑係が、充腿のはじめには主人と奴隷
一五〇(七四二)
2)
の関係として現実に現象するとしても、それはわれわ
、 、 、 、 、 、 、 、
れの本質的な関係の赤裸六で公然たる表現であるにす
ぎない。
い 「隠れた姿」は、あとから書ぎこまれている。
似 「それは」のおとに、「相〔互〕の」が消してある。
、 、 、 、
ぼくたちの相互的な価値は、ぼくたちにとっては、
、 、
ぼくたち相互の対象物の価値である。したがって人問
、 、 、
そのものは、ぼくたちのあいだで’は無価値である。
ぼくたちが人問として生産したと仮定しよう。この
ときにはぽくたちは二人とも、白分の生産のなかで自
、 、 、 、 、
分自身と相手とを、二重に肯定したことであろう。ぼ
、 、 、 、
くは、四ぽくの生産においてぼくの個性を、ぼくの個
、 、 、
性の固有性を、対象化したことであろう。それゆえぼ
、 、 、 、
くは、活動の最中には個人的な生命発現の喜びを感じ、
、 、 、 、 、
また対象物を眺めては、n分の人格性を対象的な、感
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
性的に直概できる、それゆえまったく疑閉o余地のな
、 1
い力として如るという個人的な杵びを感じたことであ
ろう。四ぼくの生産物を君が享受1したり使ったりす
、 、
るのをみて、ぽくは直接つぎのような喜びを感ずるこ
とであろう。すなわち、ぼくは労働することによって
、 、 、 、 、 、 、 、
人問的な欲望を充たすとともに人問的な本質を対象化
、 、 D 、
し、したがってある他の人問的な本質の欲望に、それ
2)
に適合した対象物を供給したことを意識する喜び、働
) 、 、 、
即ぽくは君にとって君と類とを仲だちする仲介者とな
(り、したがってぽくが君自身の本質の補完物であり蒼
自身の不可欠の一部分であることが、君自身によって
知られ感じられており、したがって君の思惟のなかで
も君の愛のなかでもぼく自身を確証しているのを知る
2)
という喜び、ゆぽくの個人的な生命発現のなかで直接
に君の生命発現をつくりだし、したがって、ぽくの個
3 、
人的な活動のなかで直接ぼくの真の本質を、ぼくの人
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
問的な本貫を、ぼくの共同本貫を確証し実槻したとい
、 、
う幕び、こういう喜びをぽくは直抜味わうことであろ
・つ。
ぼくたちの生産行為はそのひとつひとつが、ぼくた
ちの本質を映しだす鏡となるであろう。
J.、、・ル『政治経済学綱要」への批判的評注(細見)
ぼくたちが人問的に生産するばあいにぼくの側で生
じる以上のような関係は、同時にまた君の側でも生じ
るだろう。
い 「知る」のまえに、「享受する」が消しておる。
の マルクスはまちがって、それぞれo、↑幻と書いている。
ゆ 「本質」のまえに、「生命」が消しておる。
つぎにわれわれは、右のように想定したばあいに現
われる種六の契機を考察しよう。
、 、 、 、 、 、 、 、
そのときにはぽくの労働は、白由な生命の発現とな
、 、 、 、
り、それゆえ生命の享受となるだろう。私的所有の前
、 、 、 、 、
提のもとでは、ぼくの労働は生命の外化である。なぜ
、 、 、 、 、 、
ならぽくが労働するのは生きるためであり、生活の手
、段を手に入れるためなのだから。ここではぽくの労働
、 、 、 、
は、生活ではない。
第二に、われわれが想定するばあいには、したがっ
、 、 、 、
て、労働のなかでぼくの個人的な生命が止〔定されるの
、 、 、
だから、ぼくの個性の固有性が肯定されることになる
、 、 、 、 、 、 、 、
だろう。だから労働は、其の沽動的な所有となるだろ
一五一(七四三)
立命館経済学(第十巻・第四号)
う。私的所有の前提のもとでは、ぼくの個性はとこと
、 、
んまで外化されているために、この活動はぼくにとっ
、 、 、 、 、 、
ては憎らしいもO、苦悩である。一1、れは、活動という
、 、
よりもむしろ活動○仮象にすぎず、したがってまた、
、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 、
強制された沽動にすぎない。ン、れは内的.必然的な必
、 、 、 、
婁によってではなく、もっぱら外的・・偶然的な必要に
よって、ぽくに課せられるのである。
一五二(七四四)
ぼくの労働は、現にン、れがあるがままの姿でしかぽ
くの対象物のなかに現われえない。ン、れは、ン、の本質
に迩ダプような姿で現象することはできない。だから
、 、 、 、 、 、 、
ぼくのか働は、ぼくの自己喪失とぽくの無力さとの、
対象的で感性的な、直観されたままの、それゆえまっ
たく疑間の余地のない表現として硯われるほかないの
である。