空襲対策としての防疫活動 ―防空法と伝染病予防法の関係を中心...

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空襲対策としての防疫活動 ―防空法と伝染病予防法の関係を中心に― 防衛大学校紀要(社会科学分冊) 109輯(26.9)別刷

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空襲対策としての防疫活動

―防空法と伝染病予防法の関係を中心に―

大 井 昌 靖

防衛大学校紀要(社会科学分冊) 第109輯(26.9)別刷

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空襲対策における防疫活動

―防空法と伝染病予防法の関係を中心に―

大井昌靖

はじめに

 太平洋戦争開戦4年前の1937年、日本では本土空襲に備えて「防空法」(1937

年4月5日法律第47号、1941年及び1943年改正)が成立し、この法律に基づ

き民防空といわれる施策がとられていた。防空法の目的は、「戦時又は事変に

際し航空機の来襲に因り生ずべき危害を防止し又は之に因る被害を軽減する」

ことであり、そのために市民が実施すべき項目が「監視、通信、警報、燈火管

制、分散疎開、転換、偽装、消防、防火、防弾、防毒、避難、救護、防疫、非

常用物資の配給、応急復旧その他勅令を以て定むる事項」(防空法第1条)であっ

た(1)。なお、「防疫」の項目は、1943年の改正により追加された。

 防疫の対象となる伝染病は、我が国において、古くから流行を繰り返したこ

とは史実にも明らかで、明治維新後の防疫対策としては、1871年にとられた

種痘対策が最初とされている (2)。その後、死者十万人を超える1879年のコレ

ラの全国的な大流行などを経験し、その予防措置がとられ、1901年には「伝

染病予防法」が制定された(3)。また、伝染病の対策には、抵抗力を養成するこ

とも重要とされ、戦争の進展とともに、健兵健民の政策のもと、国民保健衛生

に関する諸施策が強化された(4)。

 1943年9月に発生した鳥取地震において、鳥取県は、防空法を準用した災害

対処を実施した(5)。二度目の防空法改正前であり「防疫」の項目は、まだ追加

されていなかったにもかかわらず、鳥取県は、防疫にかかわる処置を実施し成

果を収めている。震災後、上下水道の破壊により、汚物の処置ができなくなり、

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それが、井戸や破裂した水道管の飲料水に浸透するといった伝染病の発生を防

止するために、軍官民合同の鳥取震災防疫委員会を設けた。そして、①防疫の

ための給水と井戸等の消毒、②共同便所の設置、③防疫指導の巡回、④予防注

射、⑤市内の清掃などが実施された。その結果、疫病の発生は前年同期間に比

べ三倍弱程度に食い止めたと記録されている(6)。これらの処置は、もともとあっ

た伝染病予防法の市町村・道府県に義務付けられた広汎にわたる予防措置の一

部が採られたものと考えることができる。

 防空法がなくとも処置できる体制が確立されていたにもかかわらず、1943

年の法改正により「防疫」は追加された。では、それによって、何がかわった

のか。戦時下の空襲対策における防疫を見た場合、既存の伝染病予防法を基本

とした防疫行政・衛生行政に対して、あとから制定された防空法はどのように

関係し、また機能していたのか。

 また、防空法の項目をみていくと、「防疫」に限らず、「防毒」も防疫効果が

期待でき、さらに水に対する保護を防疫として見た場合には、水源地の「偽装」

や、空襲後の水道の復旧を担った「応急復旧」もまた、防疫効果に寄与したこ

とが考えられる。このようなことから、防空法及び防疫行政・衛生行政におい

て、空襲への対策として防疫効果を期待できる施策を「空襲対策における防疫

活動」と定義し、この実態を調査していくことで、防空法と防疫行政・衛生行

政の関係を明らかにすることができるものと考える。

1 防空法と防疫行政

 日本の空襲認識は、水野広徳(海軍中佐)が第一次世界大戦中、ヨーロッパ

に私費留学し、帰国後、そこで見聞したドイツによるロンドン空襲について、

東京朝日新聞に連載したのが始まりとされる。そこでは、将来の航空機の発達

と日本の都市の火災に対する脆弱性に鑑みて、国土防空の必要性が指摘されて

いた(7)。

 極東ソ連軍航空兵力の急速な増強により、空襲への現実味が拍車をかけ、内

務省と陸軍省との調整の結果、内務省の主管により、1937年に防空法は成立

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した。成立当時、極東ソ連軍の大型爆撃機による焼夷弾及び毒ガス弾による脅

威に対し、防空法に定められたのは、「燈火管制、消防、防毒、避難、救護並

びにこれらに関し必要な監視、通信、警報」の8項目であった (8)。そして、

1941年の改正で、「偽装、防火、防弾、応急復旧」の4項目が追加された(9)。

 戦局の悪化にともなって、本土空襲の危険が高まってきた1943年10月、防

空法は再々度改正され、「分散疎開、転換、防疫、非常用物資の配給、及びそ

の他勅令を以て定むる事項」が追加された(10)。そして「防空法施行令」(1944

年1月7日改正 勅令第21号)により、勅令を以て定むる事項として、「被害

現場の後片付けその他の清掃(清掃)、気球等による阻塞(阻塞)、飲料水の供

給(給水)、応急運輸及び応急労務の調整」が定められた(11)。

 法律の運用にあたっては、法律の規定に則り、陸軍大臣・海軍大臣が、

1942年5月、1943年2月及び1944年1月に「防空計画設定上の基準」を示し

た (12)。この「防空計画設定上の基準」を受け、1943年は内務省によって、翌

1944年は内務省・厚生省・軍需省・農商省・運輸通信省により「中央防空計画」

が定められた(13)。さらに、軍司令官、鎮守府司令長官及び警備司令長官が「防

空計画設定上の基準」を提示した上で、これらを受けて地方長官(府県知事を

指す)による防空計画が制定され、さらに市町村の防空計画が制定された(14)。

 防空法は、1943年10月の改正で「防疫」という項目が加わったものの、そ

の条文の中に防疫を具体的に示した規定はない。あえていえば、第6条の「地

方長官は特殊技能を有する者をして、防毒、救護その他防空の実施に従事させ

ることができる」という規定のみであった。この条文によれば、特殊技能を有

する医師等を、空襲対策における防疫のために従事させることは可能といえる。

そして、具体的な規定は、中央防空計画に示されていた。中央防空計画では、

防疫として、①伝染病発生を未然に防止するための措置を講ずること、②防疫

組織を確立して機動活動を為さしめ、かつ、衛生組合又は伝染病予防法に基づ

く予防委員等下部組織を活用する様計画準備すること、③伝染病多発に備え都

市周辺に収容施設を計画準備すること(中央防空計画第108条、109条) (15)と

されていた。

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 一方、防疫行政として、我が国では、種痘対策が明治維新後の最初の防疫と

され、1871年に実施された(16)。その後、1877年に中国で流行したコレラ菌が

長崎から入り、横浜経由で東京に拡大し、1879年に全国的な大流行となった。

死者十万余人を数え、内務省は、虎列刺予防仮規則、検疫停船規則を制定し、

その予防措置をはかった(17)。その後内閣制度や府県制などが制定されるなかで、

1901年に伝染病予防法(法律第36号)が制定された。伝染病予防法は、コレラ、

腸チフス、赤痢、ジフテリア、発しんチフス、痘そう(天然痘)、ペスト、しょ

う紅熱を対象として、広汎な予防措置を規定し、これらの措置を市町村、道府

県に義務づけた (18)。伝染病予防法の施行にともなって、たとえば東京府は、

伝染病院ならびに消毒所、隔離所を設置することを東京市に命じた (19)。この

ように、この法律の制定に伴い、伝染病予防法施行規則、伝染病予防法に依る

清潔方法並消毒方法等の関係省令がそれぞれ制定されたことで、わが国の防疫

制度は画期的な進展を遂げたとされる(20)。

 さらに1922年までに4回の改正を経て、ペスト予防が加えられ、パラチフス、

流行性脳髄骨膜炎が法定伝染病に加えられ、細菌学を中心とする医学の進歩を

反映して、病原体保有者に関する規定、患者の就業禁止に関する規定、こん虫

駆除に関する規定等が加えられ、伝染病予防の基礎が完成したとされている(21)。

 冒頭で述べたとおり鳥取地震の際には、防空法制定前であったにもかかわら

ず必要な処置がとられていたということから、中央防空計画の規定にある、①

「伝染病発生を未然に防止するための措置」を講ずることは、伝染病予防法によっ

て、すでに伝染病対策として確立していたと考えられる。次に、②「防疫組織

を確立して機動活動を為さしめ、かつ、衛生組合又は伝染病予防法に基づく予

防委員等下部組織を活用する様計画準備する」ことについては、すでに確立さ

れた衛生組合及び伝染病予防法に基づく下部組織を活用して、防疫組織を確立

すること、及びその組織を「機動活動」するとことが示されたと考えることが

できる。そして、③「伝染病多発に備え都市周辺に収容施設を計画準備するこ

と」については、東京の例にあったように、すでに伝染病院、消毒所、隔離所

の設置がなされていたといえる。このなかから、「防疫組織を確立して機動活動」

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については、さらに考察を加えてみたい。

 また、防空法の「防疫」以外の項目でも「空襲対策における防疫活動」とし

て考えることができるものがある。それは、敵の細菌戦への対策でもある「防

毒」、空襲被害から水源地を保護するための「偽装」、空襲被害にあった水道を

復旧させるための「応急復旧」、さらには空襲を受けた後に飲料水を確保する

ための「給水」、といった防空法及び防空法施行令に示された項目である。

 これらの防疫活動を考察するにあたっては、陸軍の増田知貞(軍医中佐)が、

防空法改正前に『防空事情』に寄稿した論文「空襲下の防疫」を一つの尺度と

してみたい。増田は陸軍軍医学校の教官という職にあったことから、この論文

は陸軍の見解と大きく異なることはないと解釈できる。その論文のなかで、空

襲に対する防疫対策としては、敵が細菌戦を行うと否とに拘わらず、その原則

は同じで、「衛生施設の完備すること、及び一般防疫の原則をそのまま実地に

応用すれば足りる」と結論づけられた。そして、一般防疫の原則としては、「伝

染病の病原体の排除掃滅」、「伝搬経路を遮断」及び「個人予防の徹底」が示さ

れていた。

 「伝染病の病原体の排除掃滅」については、患者・保菌者の発見隔離と病原

体を含む排泄物の迅速で完全な掃滅(消毒)により、成すものとされ、「伝搬

経路の遮断」については、接触感染、空気感染、水によるもの、飲食物による

もの、動物によるものの5つを挙げ、この中で「水によるもの」を重要として

いる。さらに、「個人予防の徹底」については、民族としての疾病に対する抵

抗力を養成することを重要視し、栄養面、衣食住に対する諸政策は、充分な科

学的検討により実施されるべきであると述べ、加えて防毒マスクが必要と述べ

ている(22)。防毒マスクは、毒ガス攻撃への対処と思われがちであるが、増田は、

砒素系瓦斯に対応できる防毒マスクであれば、普通の細菌は通さないと述べて

おり、防毒マスクは細菌戦にも有効であるとされていた(23)。

 以上のことから、「空襲対策における防疫活動」を考えるにあたって、組織

という面から、中央防空計画の規定にある、「①防疫組織を確立して機動活動」

を考察する。そして、増田が空襲対策の中の具体的な防疫対策として挙げた、「②

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衛生施設の完備」、「③病原体の排除掃滅」、「④伝搬経路の遮断」、「⑤個人予防」

について考察していくことで、防空法に規定された項目(偽装、防毒、防疫、

応急復旧、給水、清掃)と防疫行政・衛生行政のかかわりを明確にすることが

できるものと考える。

2 「空襲対策における防疫活動」の実態

 前項で述べた5つの項目、①防疫組織を確立して機動活動、②衛生施設の完

備、③病原体の排除掃滅、④伝搬経路の遮断、⑤個人予防について、具体的に

述べ、防空法と防疫行政・衛生行政のかかわりについて明らかにしていく。

(1)防疫組織を確立して機動活動

 中央防空計画には、「防疫組織を確立して機動活動すること」、かつ、「衛生

組合又は伝染病予防法に基づく予防委員等下部組織を活用する様計画準備する

こと」とされ、既存の組織を活用するように定めている。1943年9月から都

政が開始された東京都では、1944年3月に東京都庁防衛本部を設置した。その

組織構成は、本部室のほかに防備、救護、物資、工作等の九部からなり、本部

長に都長官があたり、民政局が救護部を担当した。そして、防毒に関する事項、

防疫に関する事項は、救護部の所轄事項とされ、ここに防疫組織は確立されて

いたとみることができる (24)。また、伝染病予防法には、「地方長官は衛生組合

を設け、清潔方法其の他伝染病の予防救治に関し規約を定め」(伝染病予防法

第23条)と規定され、伝染病予防に対する協力組織として、地方長官は命令

によって「衛生組合」の設立を強制できることになっていた。その衛生組合の

活動内容は、狭い意味での伝染病予防だけでなく、衛生思想の宣伝、春秋二季

の清潔方法の督励、飲料水の改善、はえの駆除、腸チフス予防接種、種痘の督

励、市街地の散水などを行っており、広く保健衛生の諸問題を対象としつつ全

国的に普及していった(25)。

 「伝染病予防法に基づく予防委員」とは、東京都では伝染病予防委員を指し

ている。1942年、行政機構の簡素化に伴い、警視庁保安衛生部で所管してい

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た衛生事務は、一部を除き東京府に移った。これにより従来警察署で処理して

いた防疫業務は区に移り、末端行政機構が弱体化したので、その充実強化をは

かるためと、伝染病の発生状況による予防上の必要から、伝染病予防委員を設

置することにし、1944年都告示をもって東京都伝染病予防委員規定を制定した。

しかし、戦局により、予防委員の任命は遅れ、1945年7月になってようやく3,000

人の委員を委嘱した(26)。

 このように東京都の場合、東京都庁防衛本部をはじめ、衛生組合、予防委員

によって防疫組織が確立されたと考えられる。そして、その「機動活動」につ

いては、いくつかの記録が残されている。『東京都戦災誌』によれば、空襲後

の焼け野原で簡易生活を営む人々に対し伝染病対策の上からも手を打つ必要が

あり、地域的移動診療を行ったと記されている (27)。そして、その細部は、『東

京都衛生行政史』に次のような記載がある。

 焼跡に壕舎生活する人の悩みの種は、湿気による冷えや排泄物の処理で、罹

災者の健康上からも防疫上からも手を差し伸べる必要に迫られ、「戦災地区移

動診療に関する件」を民政局衛生課(筆者注:民政局は、東京都庁防衛本部の

組織としては救護部を担当)において決定し、日本医療団支部、都医師会、戦

災援護東京都支部などの協力を得て、さらに各区や保健所などと協議の上、壕

舎生活を送る人々に対して、トラックによる地域的移動診療を行った(28)。

 神奈川県では、県の防空計画において、「県防衛本部に直轄防疫班を設置し

防疫の指導連絡にあたる」(防空医療救護実施要綱第37条)となっていた。

1945年5月29日の横浜空襲の際には、6月1日以降、国防衛生隊員が罹災民収容

所を巡回視察して市民の保健防疫にあたったと記録されている(29)。

 これらの活動は、前述の鳥取地震の際に鳥取県がとった行動と大きな差異は

ない。すなわち、空襲後の伝染病予防に関しては、防空法に基づき定められた

各自治体の防空計画によって、「空襲対策における防疫活動」が行われたものの、

内容的には、従来の伝染病予防法による防疫を大きく変えるものではなかった。

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しかし、防空法によって、組織を再定義することで、空襲後の防疫組織による

機動活動を容易にしたということができる。

(2)衛生施設の完備(保健所)

 1937年に設立された日本の保健所は、健康相談事業を中心とした保健衛生

指導の第一線機関とされている (30)が、業務内容は、健兵健民政策に資する公

衆衛生行政であったともいわれている(31)。

 保健所設立の第一義的な目的は、国力(経済・軍事・文化)発展の基礎とし

ての国民体力の向上だった。保健所法第1条には「保健所は国民の体位を向上

せしむる為地方に於て保健上必要なる指導を為す所とす」とされ、具体的には、

次の業務に関する指導を行うこととされた。それは、衛生思想の涵養、栄養の

改善及び食物衛生に関する事項、衣服・住宅その他の環境衛生に関する事項、

妊産婦・乳幼児の衛生に関する事項、疾病の予防に関する事項、その他の健康

増進に関する事項である。都道府県においては、だいたい人口12、3万人につ

き一か所、6大都市においては20万人につき一か所設けることとし、必要に

応じて支所を置くものとした。人員は、医師、薬剤師、保健婦、指導員などか

らなっていた(32)。

 1941年、太平洋戦争開戦に伴い、兵力・労働力の確保と青年男性に対する

結核予防施策の強化が急務となり、翌年に国民体力法が改正され、保健所長に、

事業主や学校長などの行う体力検査への指揮監督権、国民体力管理医への指揮、

検査を受けた者への療養に関する処置命令等の行政権限が与えられることになっ

た。1942年6月には、厚生省の基本政策として、「国民保健指導方策要綱」が

定められ、保健指導業務の内容として、保健並びに結核予防に主力を注ぎ、体

力錬成、栄養改善に特段の留意をすること、結核、トラホーム、寄生虫病の予

防に必要な措置を行うこと、国民体力の管理を徹底することとされた(33)。

 東京都においては、1943年7月の都政開始に伴い、それまでの東京府、東

京市及び通信院所管の簡易保険相談所を引き継ぎ、5、6カ所が東京都保健所

として、1944年10月に一斉に業務を開始した。これによって初めて保健所網

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整備が完成され、同時に保健所の運営を刷新して、保健所を単なる健康相談施

設に止めることなく、事実上行政庁としての機能を発揮することとなった。保

健所長は検疫委員に任命され、また町村及び国民健康保険組合の保健衛生事業

の指導監督も行うようになった (34)。このような一連の措置によって、保健所

が国民の保健指導機関として十分な活動ができるような仕組みを目指し、保健

所を整備しようとした。しかし、それが完成する前に敗戦を迎え、保健所網の

整備は中断し (35)、相次ぐ空襲のため、保健所は本来の使命達成よりも防空救

護が主たる目的となっていったといわれている(36)。

 すなわち、衛生施設の完備(保健所)は、防空法ではなく、衛生行政により

整備され、保健所網は完成にはいたらなかったが、防疫を担うための衛生施設

は、整備されていたといえる。また、その衛生施設である保健所は、通常は、

国民体力の管理と伝染病予防のための業務を実施していた。

(3)病原体の排除掃滅

 1943年の改正で、防空法に追加された「その他勅令を以て定むる事項」と

して (37)、防空法施行令(1944年1月改正 勅令第20号)によって、「被害現

場の後片付けその他の清掃(清掃)」が規定された。中央防空計画には、「清掃」

として、①一般汚物の処理等に関し、計画準備、②被害地・避難所に共同便所

の仮設と円滑処理に関し計画準備する(中央防空計画第137条)こととされた(38)。

さらに神奈川県防空計画では、市町村長は、避難所の便所増設、消毒、飲料適

水の配給、炊事場の清潔保持、患者の早期発見、隔離等伝染病予防に留意する

(神奈川県防空計画第39条)とされた(39)。

 伝染病予防法では、患者の収容、汚染地区の交通遮断、患者の移動制限、死

体の処理、伝染病院隔離病舎消毒所等の設置、列車船舶の検疫、予防検疫委員

の設置、流行時における健康診断、死体検案、集会制限、物品の出入り売買等

の制限といった広汎な予防措置を規定し、また、これらの措置を市町村、道府

県に義務づけるとともに国庫負担等の規定を設けた(40)。

 伝染病の病原体の排除掃滅という視点でみた場合、具体的な措置のほとんど

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は伝染病予防法によるものであり、防空法に根拠をおく中央防空計画には、清

掃と共同便所といった空襲に特化した規定がもうけられていた。

(4)伝搬経路の遮断(水にかかわる処置)

 増田によれば、伝搬経路の遮断については、水にかかわるものが重要とされ

ている。そのとおり、防疫に対しての水道の重要性は、早くから指摘されてい

る。上水協議会が発展し、1932年に社団法人となった水道協会(41)の機関誌、『水

道協会雑誌』(1934年)にその一部をみることができる。そこでは、都会での

水道敷設の目的は、飲料水、使用水の欠乏を補うのが主であるが、井戸水の不

良のために起こる疾病、伝染病を予防するという防疫から出発した面も少なく

ない。しかし、水道水の汚染が原因で伝染病(チフス)を拡大させ数千人の患

者をだし、さらに数万の赤痢患者を流行させた事例もあった。このため水道の

水源地に対し衛生的な取り締まりを厳重になすことはよく理解されていると述

べられている(42)。

 「空襲対策における防疫活動」として水にかかわる処置は、空襲被害から水

源地を保護するための「偽装」、空襲被害にあった水道を復旧させるための「応

急復旧」、さらには空襲を受けた後に飲料水を確保するための「給水」、といっ

た項目が、防空法及び防空法施行令に規定されていた。これら、偽装、応急復

旧及び給水について述べる。

 偽 装

 中央防空計画では、偽装は、「空襲目標となり易き工場、事業場、倉庫、官

公庁、学校、高層建築、港湾施設、橋梁、飛行場、競技場、上水道施設等にし

て、視程10キロ以上より発見容易なるものを対象に行う」(中央防空計画第

79条)とされていた (43)。当時の厚生省衛生局長は、国防国家の一面として

上下水道が担当する役割は非常に重大で、非常時局下に於て生産力の拡充都市

防空の見地より一層その整備拡充の必要があると述べた(44)。さらに同局長から、

内務省国土局長あてに「水道の防空対策に関する件」として、水道協会が作成

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した「水道防空施設要綱」により、実施するよう関係企業に速やかに実施させ

るようとの通牒がなされた(45)。

 「水道防空施設要綱」では、防空の一般的事項、分散、耐弾措置、防護及び

応急処置、さらに水面の偽装などが示された(46)。偽装は、偽装(迷彩)、遮蔽(池

面、建物)に分けられていた。そのうち池面遮蔽は、丸太材を井桁に組みて水

面上に浮かし、その上に樹枝を載せたもの、板又は竹筏を浮かべたものなどで

あった (47)。また、空襲の目標となるのを避けるため建物の迷彩をほどこすこ

ととされた (48)。これらの内容は、『水道協会雑誌』に掲載され、全国の水道局

等に広められた(49)。

 横浜市水道局では、1944年から1945年の水道事業にあっては、国土防衛、

生産力増強以外の新規事業は全て見送られ、防空体制強化を目的とした水道施

設の偽装や防備工事に追われたと記録されている(50)。

 浄法寺朝美『日本防空史』によれば、上水道施設では、給水栓や枝管に被害

があったが、水源施設、浄水場・配水場・ポンプ場施設、動力施設で大きな被

害を受けたものはなかった。水面偽装や建物の迷彩もよかったとされている(51)。

 『水道協会雑誌』によれば、水道施設戦災状況として、名古屋市からの報告で、

浄水場に被害を受け、急速濾過池が14面のうち11面が被害を受け、その他変

電所の被害もあって給水能力は三分の一になったとある (52)。しかし、名古屋

市以外に水源地の被害を報告した自治体はなかった。

 

 応急復旧

 1941年に改正された防空法において、「応急復旧」は、瓦斯、電気、水道、

交通機関その他の重要施設が空襲されて破壊された場合に、これを応急的に修

理、処置し、機能の回復を目的として追加された(53)。

 主務大臣は、応急復旧に「必要な設備又は資材を整備」させ、地方長官(都

道府県知事)は、「必要な設備又は資材を供用せしむる」(1941年改正防空法

第5条)とされた (54)。そして、水道は応急復旧に関し必要なものを整備すべ

き設備として示された(1941年改正防空法施行令第3条)(55)。

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 中央防空計画には、「運輸通信施設、電気、水道、瓦斯等の応急復旧に従事

するため、その施設の管理者が応急復旧(工作)隊を設置する」(中央防空計

画第24条)と定められていた(56)。

 神奈川県防空計画では、「重要生産工場及港湾、交通、運輸、通信、電気、

水道、瓦斯施設等の管理者は速に応急工作隊の充実を図り所要の機材を準備す

ると共に被害に対する具体的復旧計画を樹立し之が演練に努む」(神奈川県防

空計画第55条)とされ、官営、民営に関係なく管理者が応急復旧のための準

備をするように定められていた (57)。そして、東京都では、水道局に水道局工

作隊が組織され(58)、川崎市では、水道局に水道部防護団が組織された(59)。

 『戦災復興誌』では、戦災都市とされた112都市のうち36都市で水道の応急

復旧に関する記述があった。それは、横浜市、根室市、函館市、布施市、下関

市などであり (60)、(いずれも当時の市町村)、これに加え東京都及び横浜市の

戦災誌(61)から整理した水道の応急復旧の概況を次に述べる。

 水道は、水面偽装等の効果もあって、大きな被害を受けたケースは少なく、

被害のほとんどは、市内配水管であった。市内配水管の被害により漏水がおき、

供給圧力が上がらなくなった。このため漏水している鉛管開放口をたたきつぶ

して漏水を止める作業が多くの市町村で行われた。浄水場からの水の供給は、

ポンプによって圧力をかけて市内の配水管へと送水されるが、市内の配水管か

らの漏水が至るところで続いた場合には、送水圧力が下がるためにポンプから

遠いところや、標高の高い場所には水が送水されなくなる。このため、軍隊、

国民義勇隊、警防団員及び学徒の支援を受けて応急復旧すなわち漏水箇所のた

たきつぶしに努めていた。

 水道は、生産力の基礎、飲料水、消火水としての重要性からも、応急復旧が

重視され、送水への復旧は迅速で翌日もしくは3、4日後には応急的な送水が

開始された。その後、漏水箇所を潰して、水圧を維持するという作業に移行し

ていた。漏水防止作業は、さほど技術を要するものではないことから、警防団

や学徒によって行われていた都市もあった。それは、送水を確保するために最

優先で実施された。その後の復旧は、叩き潰した漏水箇所を新しい水道管と交

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換する作業が生ずるが、技術的な訓練不足のため、警防団、学徒等では効率が

悪かった。

 戦災112都市のうち、36都市で記録があり、いずれも応急復旧活動に尽力し

たことが記載されている。

 給 水

 水にかかわる処置は、防空法施行令(1944年1月改正 勅令第20号)によっ

て、勅命の定める事項として、前述した「被害現場の後片付けその他の清掃(清

掃)」の他に「飲料水の供給(給水)」が規定された (62)。さらに中央防空計画

において、「給水」として、「水道の水質保全と水質汚染時の浄化、配水に関し

て計画準備すること」(中央防空計画第111条)が規定された(63)。

 川崎市では、陸軍衛生隊の濾過器自動車の派遣を乞い、大師地区は大師プー

ルの水を、大島地区は防火貯水池の水を、それぞれ現場で浄化し給水を続けた。

さらに戸手浄水場から運搬給水した (64)。本庄村では、阪神上水道組合、警防

団員の協力を得て自動車による給水したという記録が残されている (65)。さら

に桑名市では、軍部の応援を得て、河水を濾過し、四斗樽に詰め、トラックに

て市内要所数カ所に配置、暫定的給水を実施した (66)。このように空襲時、す

ぐに給水ができない場合は給水車により実施したり、現場で濾過もしくは浄化

して給水するという防疫上の措置がとられていた。

 これまで述べたように、偽装にあっては、水面が反射しないよう、若しくは

田畑に見えるよう偽装をしてあったことが、被害を軽減する効果があったと考

えられ、給水にあっては、軍の支援も受けつつ、給水に努力していたことが、

記録されており、さらに、水道を復旧させるための努力は、応急復旧のための

必要な組織を確立したうえで、なされていた。すなわち、伝搬経路の遮断(水

にかかわる処置)については、防空法に根拠をなす「空襲対策における防疫活

動」がなされていたということができる。

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(5)個人予防

 疾病に対する抵抗力の養成

 疾病に対する抵抗力の養成は、衛生行政に関わるものであり、これについて

は、『東京都衛生行政史』からの引用によりまとめる。

 1875年内務省に衛生局が設けられて以来、衛生行政は、取り締まりを主と

した警察行政の一部門として発展してきた。そして、戦争の進展とともに衛生

行政によって、健兵健民の政策のもとに国民保健衛生に関する諸施策が強化さ

れた。まず1940年に国民体力法が制定された。国民体力法は、従来未成年者

の心身保護が民法による親権者の監視義務に一任されていたのに対し、これを

ある程度まで公法上の義務とし、もし親権を行う者がこの義務を履行し得ない

場合には国家自らの手によってこれを果たし、未成年者の死亡を防ぎ、体力向

上を目的をするものであった。これに要する費用は一切国費でまかなわれ、道

府県衛生課の衛生行政官吏はもとより全国医師の大部分は国民体力管理医とし

て、この体力管理事業に動員された。1942年に改正され、乳幼児に対しても

体力検査を実施することとなり、その指導の徹底が期せられた(67)。

 衛生教育は、内務省、地方警察部衛生課、警察署を中心に急性伝染病の取り

締まりを主軸として行われてきた。疫病が流行するたびに、一般市民の間に迷

信や流言が乱れ飛び、迷信の多くは医学的に根拠のないもので、伝染病に対す

る療法をきらう者もあり、取り締まりを主とした衛生行政は行き詰まり、市民

の理解と協力を必要とするようになった。この結果、警察官その他によって衛

生講話が行われた。また、1897年の伝染病予防法によって、伝染病予防に対

する協力組織として、前述した衛生組合が全国的に結成された(68)。

 公衆衛生の面においては、1907年らい予防法、1913年精神病院法、同1919

年結核予防法、トラホーム予防法、1927年花柳予防法、1931年寄生虫予防法

が制定され、従来の急性伝染病を対象とした防疫から、慢性疾患の予防へと発

展した。そして、その早期発見、早期治療についての保健指導が必要と考えら

れるにいたった。大正から昭和初期にかけて衛生教育の必要性がだんだん認識

され、講習衛生の中に衛生教育が大きく取り上げられるようになった(69)。

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 警視庁衛生部では防疫講習会を大規模に行った。対象は、各町内会、町村等

の自治団体の指導者で、教材として「防疫講習会読本」を作成し、使用した。

講習会の内容は、腸チフス、赤痢予防を主眼点とし、原因、伝染経路、症状、

予防方法等のほか、調理場の改善、飲食物と最近の関係、食品の保存及び調理

の要領、防疫と栄養、呼吸器系伝染病の予防等であった。実施状況は、1926

年から1929年までに187回、聴講人員2万5千人、1930年には、117回、

2万2千余人、1931年以降も継続実施した(70)。

 このように、個人予防における疾病に対する抵抗力の養成については、衛生

行政のなかで行われたといってよい。

 防毒面(防毒マスク)の配布

 「中央防空計画」では、「防毒」に関して、①防空重要都市については、満3

歳以上の市民に対し防空用防毒面甲型を整備、3歳未満の乳幼児に対しては、

防毒施設を整備する、②防空重要都市及び防空上重用な事業・施設の防空要員

には防空用防毒面乙型を整備するとされた(71)(中央防空計画第103条、第104条)。

 防毒面(防毒マスク)には2種類あり、防空用防毒面甲型と乙型があった。

甲型は市民用とされる一般向けの防毒マスクであり、マスクのみであった。一

方、乙型とは、服務用(防空従事者用)とされ、マスクだけでなく、ゴム製の

面、手袋、袴、長靴さらにガス吸収かんも装備され完全能力とされていた(72)。

 当時、市民の空襲対処のマニュアル的な存在であった『時局防空必携』では、

毒ガスに気がつくか、毒ガス警報を聞いたら防毒マスクを直ちにつける。防毒

マスクのないものは、濡れ手ぬぐいを口と鼻に当て、風上と直角の方に逃げる

とされていた(73)。日本国内の防毒マスクの大規模な生産は1938年に開始され、

軍人がもつ以上に民間人にも防毒マスクをもつことが奨励された。1940年4

月に内務省は26の主要都市の各個人に防毒マスクを供給する計画をたて、約1,600

万人に対し、1945年3月までに供給を完了する予定であった。最終的に防毒

マスクは約965万個が生産され、当初予定の半分以上の個人に割り当てる分を

準備したとされている(74)。配布の状況は、1944年5月現在で、甲型(市民用)

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が約877万個、乙型(防空従事者用)が約76.6万個配布された。甲型(市民用)

の配布先は、各都市であり、府県庁を通じて、市民に配布されたもの考えられ

る。また、防空従事者用は、中央官庁、府県庁、各都市及び特設防護団に配布

されたことが記録されている(75)。

 このように、個人防護である「防毒マスクの配布」は防空法に根拠をおくも

のであり相当数の防毒マスクを製造、配布した。前述したように、防毒マスク

は、細菌に対しても有効であることが、増田によって述べられている。

 ただし、実際の空襲においては、今でいう生物化学兵器(毒ガス、細菌)な

どは使用されなかったので、機能的に有効であったかどうかは測れない。

3 まとめ

 「空襲対策における防疫活動」について、5つの項目、①防疫組織を確立し

て機動活動、②衛生施設の完備、③病原体の排除掃滅、④伝搬経路の遮断、⑤

個人予防について、具体的に述べた。そして、①「防疫組織を確立して機動活

動」については、もともと伝染病予防のための組織は確立されていたが、防空

法によって、組織を再定義することで、空襲対策としての防疫組織による機動

活動を可能にした。

 ②「衛生施設の完備」にあっては、防疫行政によって保健所が整備されてい

たが、空襲に対しては、救護任務が主となっていった。

 空襲後の③「伝染病の病原体の排除掃滅」については、空襲に特化した対策

である清掃、共同便所の設立といった措置が、防空法に基づいてとられたが、

患者の収容、汚染地区の交通遮断、患者の移動制限、死体の処理などの伝染病

予防の具体的な手段は、伝染病予防法の規定によりなされたと考えられる。

 ④「伝搬経路の遮断」として、偽装、給水、応急復旧といった「水にかかわ

る処置」は、防空法の規定によりとられた。偽装による効果もあって、水源地

がほとんど被害を受けなかったことが幸いした。ところによっては給水車を派

出したが、水道の復旧作業は、漏水管の叩き潰しから始まり、これに軍隊を含

む多くの人員が支援したことで、比較的短期間で水道は復旧された。これらの

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努力は、空襲を受けた多くの都市でなされていた。

 ⑤「個人予防」については、防疫行政・衛生行政としての防疫講習会などを

通じて、「疾病に対する抵抗力の養成」の必要性が、個人に浸透した。防空法

に基づく「防毒マスク」については、目標の半分の個数である約954万個が製造、

配布された。

 これらのことから、「空襲対策における防疫活動」は、伝染病予防法に加えて、

防空法の規定が追加されたものであり、従来の防疫を大きく変えるものではな

かった。しかし、空襲に特化した状況にあっては、防空法に基づく処置がなさ

れ、強化されていたということができる。

 

 そして、「空襲対策における防疫活動」の成果は、第二次世界大戦後、米国は、

ルーズベルト大統領が1944年に発した指令に基づき設置された米国戦略爆撃

調査団の調査報告『THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING

SURVEY』(以下「USSBS報告」と称す。)にみることができる。この調査団は、

大統領に直属する臨時独立機関で、その目的は航空攻撃の効果を公正かつ専門

的見地から研究し、軍事戦略の要として空軍力の重要性と将来性を見きわめ、

軍の進歩発展と軍事政策の立案に役立てるものとされた(76)。このUSSBS報告

の医療部門においては、1941年1月から1945年10月の日本の6都市(東京、

大阪、名古屋、横浜、神戸、京都)における8つの伝染病(赤痢、腸チフス、

パラチフス熱、ジフテリア、脳膜炎、しょう紅熱、天然痘、発疹チフス)の発

生についての調査と分析結果が報告されている。その結論を要約すると、次の

とおりである。

 赤痢、腸チフス及びパラチフス熱の発生は、戦略爆撃の効果を大きく反映した。たと

えば、名古屋における赤痢伝染及び神戸におけるパラチフス熱伝染の状況は戦略爆撃の

効果である。1945年夏の名古屋、横浜、京都の腸チフスとパラチフス熱の高い発生数に

も注目すべきである。これらの4つの都市(名古屋、神戸、横浜、京都)での赤痢、腸

チフス及びパラチフス熱の発生は、日本の空襲を受けた全ての都市においても同様の可

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能性があるとされている。しかし、日本全体の1945年夏の赤痢の高い発生数については、

戦略爆撃との関連性は薄い。さらにジフテリア、脳膜炎、しょう紅熱、天然痘、発疹チ

フスについては、爆撃と直接の関連性はないであろう。なお、ジフテリアとしょう紅熱

の発生数については、子供への栄養不足や薬品不足という点で、爆撃と関連性を考える

ことができる(77)。

 USSBS報告では、戦略爆撃と関連性のあった点のみを取りだして評価して

いるが、関連性がなかったとされる部分は多々あり、名古屋の赤痢や神戸のパ

ラチフスの伝染が、戦略爆撃の大きな効果であるならば、その他の都市がその

ようにならなかったこと、及び、ジフテリア、脳膜炎、しょう紅熱、天然痘、

発疹チフスの発生は、爆撃との関連性が薄いということは、空襲下の防疫活動

が功を奏したということができる。

 

 日本における防疫は、もともと明治のころに始まり、防疫行政・衛生行政に

よって確立されたもので、増田が『防空事情』で書いたとおり、防疫の一般原

則を実地に応用すれば足りるというとおりであった。伝染病の予防措置は、健

兵健民の政策のもとに国民保健衛生に関する諸施策が強化されており (78)、防

空法は、この防疫行政・衛生行政の一部を取り込み、かつ、空襲に特化した部

分についての対策を追加したものであった。そして、伝染病等の発生について

は、USSBS報告を読む限りでは、空襲による大きな影響があったとはいえない。

それは、日本のもともとの防疫行政・衛生行政が整備されていたことに加えて、

防空法によってサポートされ、強化されていたからであるといえる。

 しかし、終戦後、戦時中からの労働の過重と生活水準の切り下げにより、国

民の健康状態は悪化し、医薬品その他衛生資材の不足、衛生諸施設の荒廃と相

まって、さらには、外地からの引揚者、復員者の帰国、疎開者などの帰京や都

会と地方の騒然たる人の往来によって、伝染病が大流行することとなった。

1946年には、発しんチフス、痘そう(天然痘)が流行し、過去十数年の合計

を超える死者が発生する事態となった。これらの防疫対策は、連合国の積極的

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な協力により、DDT薬剤及び発しんチフスワクチンが供給され、DDTの撒

布や、予防接種が実施された(79)。

 戦後、外地からの引き上げ者によって、多くの病気がもちこまれ、爆発的に

伝染病が増加したことからも、それまでは、伝染病は抑制されていたというこ

とができる。しかし、爆発的に増加した伝染病と、さらに、その伝染病を連合

国との協力によって、収束させたという皮肉な結果に隠され、伝染病予防に効

果をもたらせていた防空法の存在は、これまで評価されることがなかった。防

空法には、まだまだ評価されるべき面があるのではないかという思いのもと、

さらなる研究を進めたいと思う。

引用・参考文献

(1) 内閣印刷局『昭和年間 法令全書 昭和18年(第17巻2)』(原書房、2004年)290-

294頁。

(2) 東京都『東京都衛生行政史』(東京都、1961年)327頁。

(3) 同上、328、332頁。

(4) 同上、22頁。

(5) 大井昌靖「昭和期の軍隊による災害・戦災救援活動」『軍事史学』第48巻第1号(2012

年6月) 75頁。当時は、災害対処の法律が制定されていなかったため、防空法が実

行的に準用されていた。

(6) 『鳥取県震災小誌』(鳥取県知事武島一義、1944年9月3日) 52-53頁。当該小誌は、

米子工業高等専門学校『鳥取地震災害資料』(1983年)に複製されて収められている。

(7) 土田宏成『近代日本の「国民防空」体制』(神田外語大学出版局、2010年)42頁。

(8) 内閣印刷局『昭和年間 法令全書 昭和12年(第11巻2)』(原書房、1997年)62-65

頁。

(9) 内閣印刷局『昭和年間 法令全書 昭和16年(第15巻1)』(原書房、2001年)201-

207頁、内務省「改正された防空法」『週報』第272号(1941年12月24日)9頁。

(10) 『昭和年間 法令全書 昭和18年(第17巻12)』290-294頁。

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(11) 内閣印刷局『昭和年間 法令全書 昭和19年(第18巻12』(原書房、2005年)14-21

頁。

(12) 「防空計画ノ設定上ノ基準」陸軍大臣・海軍大臣、1942年5月(国立公文書館所蔵「防

空ニ関スル件(三)」)、「昭和十八年度防空計画設定上ノ基準」陸軍省・海軍省、

1943年2月(国立公文書館所蔵「防空ニ関スル件(四)」)、「緊急防空計画設定上の

基準」陸軍省・海軍省、1944年1月(国立公文書館所蔵「防空ニ関スル件(五)」)。

(13) 「中央防空計画」内務省、1943年7月(国立公文書館所蔵「防空に関する件(五)」)、

「中央防空計画」内務省・厚生省・軍需省・農商省・運輸通信省、1944年7月(国立

公文書館所蔵「防空に関する件(六)」)。

(14) 氏家康裕「国民保護の視点からの有事法制の史的考察―民防空を中心として」『戦史

研究年報』第8号(防衛省防衛研究所、2005年3月)6-7頁。

(15) 「中央防空計画」内務省等、1944年7月。

(16) 東京都『東京都衛生行政史』327頁。

(17) 同上、328頁。

(18) 伝染病対策法には、患者の収容、汚染地区の交通遮断、患者の移動制限、死体の処理、

伝染病院隔離病舎消毒所等の設置、列車船舶の検疫、予防検疫委員の設置、流行時

における健康診断、死体検案、集会制限、物品の出入り売買等の制限などの規定が

もうけられていた。

(19) 東京都政は1943年9月に開始された。それまでは、東京府と東京市が存在した。

(20) 東京都『東京都衛生行政史』332-333頁。

(21) 同上。

(22) 増田知貞「空襲下の防疫」『防空事情』第4巻第10号(1942年10月)5-11頁。

(23) 同上、23頁。

(24) 東京都『東京都衛生行政史』1002-1003頁。

(25) 同上。

(26) 同上、341-342頁。

(27) 東京都編『東京都戦災誌』(東京都、1953年)468頁。

(28) 東京都『東京都衛生行政史』1009頁。

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(29) 横浜市・横浜の空襲を記録する会『横浜の空襲と戦災 3 ―公式記録編―』(横浜

の空襲を記録する会、1975年)202頁。

(30) 東京都『東京都衛生行政史』206頁。

(31) 金子雅彦「公衆衛生の危機管理―保健所の変遷」『戦後日本のなかの「戦争」』(中久

郎編、世界思想社、2004年)131頁。

(32) 同上、134-135頁。

(33) 同上。

(34) 東京都『東京都衛生行政史』210頁。

(35) 金子雅彦「公衆衛生の危機管理―保健所の変遷」135-136頁。

(36) 東京都『東京都衛生行政史』210頁。

(37) 『昭和年間 法令全書 昭和18年(第17巻2)』290-294頁。

(38) 「中央防空計画」内務省等、1944年7月。

(39) 横浜市・横浜の空襲を記録する会『横浜の空襲と戦災 3 ―公式記録編―』202頁。

(40) 東京都『東京都衛生行政史』333頁。

(41) 社団法人日本水道協会ホームページhttp://www.jwwa.or.jp/about/index.html(2012

年7月28日アクセス)。

(42) 井口乗海「防疫上より観たる水道問題の考察」『水道協会雑誌』第10号(1943年3月)

15-17頁。

(43) 「中央防空計画」内務省等、1944年7月。

(44) 厚生省衛生局長 加藤於兎丸「時局下に於ける上下水道の使命」『水道協会雑誌』第

92号(1941年1月)3頁。

(45) 厚生省衛星局長から内務省国土局長あて「水道ノ防空対策ニ関スル件」衛発第360号、

1941年1月27日(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。

(46) 浄法寺朝美『日本防空史』(原書房、1981年)115頁。

(47) 水道協会『水道防空施設要綱』1941年9月(国立公文書館デジタルアーカイブ)。

(48) 横浜市水道局『横浜水道百年の歩み』(横浜市水道局、1987年)349頁。

(49) 島崎孝彦「防空と水道」『水道協会雑誌』第100号(1941年9月)40頁。

(50) 横浜市水道局『横浜水道百年の歩み』349頁。

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(51) 浄法寺『日本防空史』405頁。

(52) 「水道施設戦災状況一覧表」『水道協会雑誌』第140号(1945年12月)45頁。

(53) 内務省「改正された防空法」『週報』5頁。

(54) 内閣印刷局『昭和年間 法令全書 昭和16年(第15巻11)』201-207頁。

(55) 内閣印刷局『昭和年間 法令全書 昭和16年(第15巻4)』(原書房、2001年)890-

896頁。

(56) 「中央防空計画」内務省等、1944年7月。

(57) 「昭和十八年度神奈川県防空計画」(横浜市・横浜の空襲を記録する会『横浜の空襲

と戦災 3 -公式記録偏-』140頁)。

(58) 東京都『東京都戦災誌』493-498頁。

(59) 川崎市『川崎空襲・戦災の記録 資料編』(川崎市、1977年)442-443頁。

(60) その他に、岩国市、若松市、日南市、郡山市、本庄村、住吉町、鳴尾町、岐阜市、

宇部市、徳山市、久留米市、大分市、宮崎市、銚子市、一宮市、堺市、高松市、徳

島市、水戸市、宇都宮市、八王子市、静岡市、尼崎市、和歌山市、八幡市、佐世保市、

川崎市、甲府市、明石市、広島市、福岡市などの都市で記述がみられた(建設省編『戦

災復興誌 第4巻-第9巻』都市計画協会、1957-1960年)。

(61) 東京都『東京都戦災誌』、横浜市・横浜の空襲を記録する会『横浜の空襲と戦災 3

 -公式記録偏-』横浜市(1975年)。

(62) 『昭和年間 法令全書 昭和19年(第18巻12)』14-21頁。

(63) 「中央防空計画」内務省等、1944年7月。

(64) 建設省編『戦災復興誌 第9巻』(都市計画協会、1960年)13頁。

(65) 建設省編『戦災復興誌 第5巻』(都市計画協会、1957年)351頁。

(66) 「水道施設戦災状況一覧表」『水道協会雑誌』43頁。

(67) 東京都『東京都衛生行政史』22-23頁。

(68) 同上、112-113頁。

(69) 同上、114-115頁。

(70) 同上。

(71) 「中央防空計画」内務省等、1944年7月。

Page 24: 空襲対策としての防疫活動 ―防空法と伝染病予防法の関係を中心 …nda-repository.nda.ac.jp/dspace/bitstream/11605/55/1/2-2-大井.pdf · とは史実にも明らかで、明治維新後の防疫対策としては、1871年にとられた

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(72) 「防毒面の種類と用途」『防空関係資料全防空図解防毒』(国立公文書館デジタルアー

カイブ)

(73) 内務省『時局防空必携 昭和十八年改訂』(防衛省防衛研究所所蔵)。

(74) THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY, FINAL REPORT

Covering Air-Raid Protection and Allied Subjects in JAPAN (Civilian

Defense Division,1947), p.154. (米国戦略爆撃調査団「太平洋戦争白書第5巻」、

民間部門④(日本図書センター、1992年))。

(75) 「十六年式十七年式防空用防毒面配給状況調」防空総本部業務局援護課(警備隊装備

関係書類綴、国立公文書館デジタルアーカイブ)。

(76) 米国戦略爆撃調査団『太平洋戦争白書 第1巻 本部報告』(日本図書センター、

1992年)解説。

(77) THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY, The Effects of

Bombing on Health and Medical Services in Japan( Medical Division),

p.180.(米国戦略爆撃調査団「太平洋戦争白書第6巻」、医療部門(日本図書センター、

1992年))。

(78) 東京都『東京都衛生行政史』22頁。

(79) 同上、29-30頁。