[文献紹介]p・i・ブランバーグ「アメリカ社会におけ 琉大法学 =...
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Title [文献紹介]P・I・ブランバーグ「アメリカ社会における巨大企業 : 会社権力の範囲」
Author(s) 中原, 俊明
Citation 琉大法学 = RYUDAI LAW REVIEW(23): 57-71
Issue Date 1978-10-15
URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/10065
Rights 琉球大学法文学部
文献紹介(中原)57
P・I・ブランバーグ(以下著者という)は、現在コネティカット大学法学部長であり、会社法及び証券取引法
分野の学者であるが、とくに企業の社会的責任に関する研究は日本でも広く知られ、高く評価されている。
一九四二年にハーバード・ロースクールを出てニューヨーク市で弁護士を開業、後にご己冨」ご自自『の社々長
等をも歴任したが、六八年にボストン大学(BU)法学部教授となり、七四年九月以降現職にある。本書はコネテ
ィカット大学で著者の担当する「現代株式会社と証券市場」というセミナーのテキストとしても使われたもので
ある。
著者の姿勢は、机上の理論に走らず、終始実証的手法により、統計数字を重視し、多角的な分析を通して、今
日、アメリカの大企業が当面する問題を鮮やかに浮きぽりにしてくれる。以下に本書の内容紹介を試みる。
はじめに
P・I・ブランバーグ「アメリカ社会における巨大企業
11入室社権力の範囲1-J
で宮一一ご閂・ローニョケの弓館・目呑の一(の頤。。。「ごC「貝8百ミエョの『胃ロ富、○○局ご⑪
『苛め8℃。こ○ミごミミの、・冨の『】ロロ、}の二・・」○一一{『Pz・』・ル
ヨゴの勺『のpご○の’四m一一争嵜○・・]②ゴロ勺で。』⑫鯨
中原俊明
琉犬法学第23号 <1978) 58
「会社権力は明らかに社会の支配力である。問題はこれをいかに制約するかである」(ダニエル・ベル)という
意識に立って、会社権力の範囲と国の狛月・愚・『自自の位置づけに関して著者は実証的研究を挑むのである。
耳馴れぬ曰①、目・目。『:。。という言葉は、必ずしも著者の独創の産物ではないようだが、要するに大きな会社
の意であり、筆者(中原)は巨大企業という仮訳をあてておきたい。
巨大企業は、今や政府機構に近似した権力中枢として、利潤追求に従事するわけだが、会社の内外から種々の
制約が働いていることも確かである。例えばリフォーム・グループからの絶え間ない圧力、都市、環境、雇用と
いった社会的諸問題解決のための企業関与の要請、従業員の企業依存の増大、等々で、これらの要求や期待を無
視しては本来の経済的目標の達成自体が困難となってきた。
一九七四年の世論調査でみると、七割のアメリカ人が企業は営利を犠牲にしても社会的進歩に助力すべきだと
答えている。市場の見えざる手で株主の利益、ひいては社会の富が実現されるといってみても、もう通用しない。
企業が生き残るには、社会の信頼と期待に応じざるをえない。
元来、会社の目的は利潤極大化、株主利益至上主義で規定された。しかし従業員福祉や慈善寄付も企業利益に
役立つとして承認され、一九五三年のスミス事件で、企業利益は寄付者たる特定企業との具体的関連性でなくて
あり、他方では艶
力をもち始めた。
企業の経済力は二重の意味で集中化現象をみせている。即ち一方では、総合的(売上、資産、純利益)集中で
り、他方では機関投資家による株式所有の集中である。これにより、大企業が政治的、社会的にも強大な影響
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もよく、企業界全体という広い意味でも是認されるに至った。かくて株主利益至上主義との訣別が始まった。
これと軌を一にして、英国でも一九七三年の会社法改正に際して、企業が株主のほか従業員、消費者、社会一
般の利益にも奉仕すべき責務を有していることを定款の規定中に盛りこませることが主張された(英国産業連盟)。
アメリカでも、プロ野球のシカゴ・カブスが夜間照明燈で球場周辺の住民生活を害することを理由に、リグリー
球場でのナイター中止を決定した事例がある。
裁判所も今や一般の賞賛以外に何の見返りもない社会的支出や負担に対し株主がクレームをつける}」とを認め
ないと思われるが、しかし、かかる利益度外視行為にも自ら限界はある。つまり企業利益が皆無となるような社
会的支出まで支持されるのではない。いぜんとして、百m旨の⑪⑪。〔百m旨の:一mm三一一盲⑪ヨの⑪⑰だという。
所有と支配の分離により大企業経営者は株主の支配から自由になった。むろん製品競争市場、資本市場、株式
市場の制約や連邦法、州法の規制からは免れえない。しかし広大な裁量権が与えられていることは確かである。
’一
二章では企業規模と総合的集中を検討している。米国の約一七○万の全企業の僅か○・一%にすぎぬニューヨ
ーク証券取引所上場会社約一、七○○社に集中化がみられる。
つまり、これらの上場企業が米国の全会社のもつ資産の四割、企業収入の六割、株主数の六割を占める。更に
上場会社中でも、少数の上位グループへの集中がみられる。とくに工業分野の大企業の上位「○○○社をとっ
てみると、その上位二○○社に売上高、資産、従業員数の3’4が集中しており、これを工業的巨大企業と名づけ
ている。
他方、非工業的巨大企業(金融、保険、小売、交通その他)の上位三○○社と比較すると、資産額のみを別と
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大規模性の功罪として、|方では中央管理方式による節約、高度の信用に基く資金及び原材料供給源へのアク
セス等で有利であるが、他方、管理部門と営業部門の分離で管理機構が第一線の当面する現実に無感覚、無反応
となり、同時に有効な経営管理を末端まで届かせることができず硬直化する危険もある。
次に大規模性と利潤との関連の有無をめぐって肯定否定の両説があるが、著者はフォーチュン誌の数字を検討
することから始めている。’九七○年に上位五○○社(第一グループ)の大企業の収益減が一二・二%であった
のに対し、五○一位から一○○○位まで(第二グループ)の大企業は二七・三%であったこと、七一年及び七二
して、収入、従業員数、純利益等でいずれも工業的巨大企業の方がかなり上まわっている。
巨大企業に関連して、多国濡企業にもふれているが、直面する問題として、それらが米国内法の規制も及ばず、
かつ受入国による規制も働かないため、広範な活動の自由をもち、米国内の法的、道徳的基準を逸脱する危険が
あることを指摘するに止めている。
’一一
三章では企業規模を中心に考察している。
独占の弊害として、低歴用、高物価、富の集中、過剰利潤等があげられるが、その他に重役派遣による権力集
中の促進と米国経済の意思決定権の少数グループへの集中もある。
大規模性は、強大な影響力ある経済力少里癌味する。例えば、対内的には従業員への影響力が、とくに、ホワイ
ト・カラーの場合に大きい。ブルー・カラーは組合の組織率にもよるがプレッシャーがある程度減殺される。政
治的場面では、離合への圧力、政治献金、政府の各種委員会への参加等を通じて巨大企業と政治の連帯関係は深
まる。
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説に傾くようである。
年には、第一グループが第二グループの約二倍の収益をあげたこと、七○年から七一一一年の間、売上高がダウンし
た企業は第一グループで二七九社であったのに第二グループでは三七○社にのぼったこと等を考慮に入れて肯定
著者も、過去五千
多数説に組みする。
巨大企業と軍事生産の関連性についても言及するが、読者は意外な事実を知らされる。
なるほど国防関連産業に多くの巨大企業が含まれているが、しかし総売上商に占める軍事契約の割合は意外に
低い。但し、航空機やエレクトロニックス関係は別である。ただこの分野では高度の集中化がみられ、トップ一○
社(ロッキード、GE、ボーイング、マクドネル・ダグラス、グラマンその他)で三割、トップ一○○社で七削
を受注している(なおこの点の妓近の情報についてはCCE二・二。。詞8コ・ヨー向で1。『一ロの⑪。zの星の一の【[の「・』巨一》『
后・己邑が参考になるI中原)。
著者の結論によると、大企業が必ずしも大軍事生産者ではなく、また軍需企業がアメリカ経済の指導者ともぃ
えぬとする。
大規模性と技術革新が相伴うものか否かも見解が分れるところである。シュムペーターやガルブレィスは、そ
の関連性を肯定し、大企業ほど技術革新にも熱心とみるのに対し、多数説はむしろ逆だとする。
著者も、過去五五年間で六一件の主要な発明のうち、大企業によるのはわずか一二件のみという事実をあげて
鎧後に大規模性と社会的関与の関係をのべる。目立つ存在たる大企業は、定めし慈善寄付、少数人種雇用、そ
の他地域のニーズに応える上で顕著な業績を示しているのではないかと思われがちだが、事実は異なるらしい。
慈善寄付は伝統的に企業の社会的責任の表現と考えられてきたし、今日でもそうである。内国歳入法の下で税
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引前利益の五%まで控除されるという奨励策もとられているが、実際は収入の多い企業ほど寄付の割合が低く、
中でも巨大企業は低い。例えば一九七三年の慈善寄付額と税引前利益との割合を二、三の大企業についてみると、
GM社で一六六○万ドル(○・三七%)、IBM社で一七七○万ドル(○・六%)、ゼロックス社で六六○万ドル
(○・九一%)となっている。むろん中には控除率五%を完全に満している会社もあるく□ご【目‐ェ己⑪CPOニョー
ョヨ、丙二噸ヨの)。著者はかかる政府の租税政策の中で奨励されている慈善寄付の制度自体には好意を示している。
四章では、高度集中で力をえた有力企業が市場の競争で不当な影響をもたらしていないかをとりあげている。
集中の実態については、一九六六年の政府調査によると三九業種で顕著とされ、中でも自動車、鉄鋼、コンピ
ューター、航空機、タイヤ等がきわだっているという。歴史的な流れでみると、第二次大戦以降、多少の例外を除
き、概ね集中率自体は横ばい状態であった。とくに合併が活発な時期でもこの傾向が維持された要因として、著
者は反トラスト法のインフォースメントの成功とみる。
市場集中化の要因として、新規企業の市場参入における諸種の障害をあげる。例えば、宣伝費や、テクノロジ
ー投資の巨額さ、パテントやノーハウ等の絶対コストの高さ、大企業による弱肉強食的行勤等々である。なお、
例外的に集中化が急速に進行したのは二○○社の巨大企業の活動分野と消費財の分野とされる。これらの領域で
は、テレビの莫大な宣伝費の負担能力やひんぱんなモデル・チェンジで勝敗が決まり、集中化を促進したとみら
トップ二○○社の巨大企業と市場集中の関連性について、否定的な見方(エィデルマン、ターナー等)もある
が、附加価値全体に占める割合(約四割)でも、市場シェアの点でもこれが肯定される。ただし、逆に高度集中化
れる。
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した業種がすべて巨大企業というわけではない(製靴、チューインガム等)。
続けて集中化と利潤及び価額支配力との関連にふれ、更に反トラスト政策の問題点を論じている。とくに高度
の集中化がもたらされた場合に、解体措置をとるべきか否か(槙極消極の一一論が対立する)、集中の認定基準をい
かに設定するかがポイントである。後の点につき、司法省のガイドラインとしては、水平的結合の場合に、同業
種の上位四企業の市場占有率七五%を分岐点となしているが、これに対し、ハート上院議員は五○%を基準とし
五
五章において、株式所有と支配の実態にメスを入れている。
バーリ・ミーンズ以来、大企業における所有と支配の分離が指摘されて久しいが、しかし、この現象は一時的
であって究極には株式が機関投資家の手に集中することも、一九五九年にバーリー自身により予言されていた。
まず株式の拡散を示す事実として、一九七一二年現在で全米の株主人口が三、六○○万人に達し、成人の四人に
一人の割となったことがあげられる。けれども大部分は少額保有者で一万ドル以下のものが六二%を占める。
反面、株式集中化も同時進行した。即ち、全株主の九・六%に当る株主が全投資の五八%を有しているからでぁ
て解体策を主張した。
もう一方の支配については、その伝統的理解として、取締役の任免を左右しうる力とされ、バーリー・ミーン
ズは一一○%の株式所有があればこの力ありとした。しかしこの基準は今日高すぎるとされ、六九年のウィリァム
ズ法では一○%とされ、その七一一年改正では五%にまで引下げられた。
著者の立場は、支配力を画一的に考えるのに批判的で、それが行使される状況に応じて違うべきだとする。
る。
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金融機関の中でも、とくに商業銀行信託部の優位性が目立ち、その普通株式投資額は一一、七六七億ドルで金融
機関全体の六七%を占める。信託部の資金の源泉は、各企業の年金、福祉基金の異常な伸びに裏付けられている。
その他、投資会社、保険会社といった金融機関以外の機関投資家として、州や地方自治体の年金財団、免税諸団
体(財団、大学、教会)等がある。とくに大学や教会は、経済力はないけれども、公益志向乃至社会派株主に近
いものがあり、ニュース価値、道義的影響力という点でその動向は軽視できない・
これら機関投資家が相当数の株式を保有している場合、その投資先企業の経営者の側からは、その株式が議決
権を伴っている場合はもちろん、伴っていない場合(受益者や実質株主に宮⑪⑪(庁自警していることも含めて)
でさえ、彼らの声に耳を傾けざるをえないのが実状だという。
著者は株式所有の機関集中化は、これからも続くと予想している。
一ハ
六章では将来の企業支配者としての機関投資家を観察する。
近年、機関保有の増大の結果、巨大企業を所有し支配しているのは主として金融機関だとみる。即ち、商業銀
行の信託部門、投資会社、保険会社等であるが、一九七一一年現在で金融機関によるニューヨーク証券取引所上場
株式の保有は同所上場株式全体の約三割(一一五八億三千万ドル)に達し、しかも金融機関を広義に解すれば四五
%になるともいう。主要企業につき、金融機関の株式保有状況をみると、ゼロックスでは七六の金融機関で五一一
%、ガルフの場合一○一|社で五○%、IBMの場合八一社で四一一一%、エクソン社の場合一○|社で一一一○%等とな
っている。そこで重要なことは、個々の金融機関というより、それらの集合的地位から恐るべき経済力が生れる
ことだとする。
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一九七一年に出たSEC(連邦証券取引委員会)の調査報告で指摘された二つの重要な点は、①機関所有の集
中化で金融機関が会社に対する経済力を有していること、②しかしかかる経済力が会社の意思決定に実際に影響
を与えた形跡はまだないこと、であった。
著者は第二点にクレームをつける。つまりそれは明らさまの干渉という意味に限って妥当するのであって目に
見え種い影響力とか穏やかな説得すら存在しないとはいい切れぬ筈だとする。
むろん機関投資家は元来、経営への関与という面で保守的、消極的体質をもつ。その要因として①伝統的な思
考として、機関投資家の不満の表明は経営方針の変更要求という形によらず、持株の売却によるべきとされたこ
と(三m一一m[『の⑦【喜一の)、その構成員のために最大限の利潤を達成することこそ第一義であり、他の株主、従業
員、消費者、地域社会には何ら責任を負わないとされたこと、②法律上認められた支配株主の少数株主に対する
信任義務により、前者が後者の犠牲の上に利益を計ることは禁止されたが、支配株主には会社の問題に対して持
株の処分によらず、株主の地位を維持して解決に当るべき作為義務が謀されていなかったこと、③機関投資家は、
公権力による規制を誘発しないよう低姿勢(一・二日。この)を貫き、支配力の顕在化を自己抑制してきたこと、
④比較的短期の業繍をベースとして評価し、問題があれば他に切り替えるという方向での圧力が強く働くため、
機関投資家は所有者というより、一時的な投資家としての側面が強いこと等々があげられ検討されている。
今までのところ、機関投資家はその潜在的支配力を行使せず消極的にふるまってきたが、それはあくまで三昌
のす、の【ご一のが働くという前提で可能であった。今後、もし状況が変って、持ち株が売れず逃げ道がふさがれ
ると、逆に投資先の企業へ積極的に関与し始めるかもしれぬ、と著者は予測する。こうして支配力を顕在化させ
た場合にどんな影響が起りうるかを四つの側面で考察している。第一に政治的側面では、自由社会にとってその
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七
七章において、所有と支配の分離下での経営権とその影響に焦点をあてている。
大企業経営者が、株主のチャレンジから超然とした力を有することを可能ならしめている要因として、個人へ
の株式拡散、機関投資家の支配力不行使等の他、委任状機構の支配があるとみて、第一点として自己永続化集団
としての経営者の実態をえぐっている。
取締役会は自らとその後継者を選任する永続的寡頭政治体で、株主総会は自動的追認機関にすぎない。経営者
は、いわば会社の負担で一党独裁国家を運営しているようなものともいう。会社の選挙過程で、株主総会はすで
結果は耐えがたいものとなり、直ちに公権的制禦を求めるプレッシャーを生むとする。第二に企業目的という面
では、経営者から株主(機関投資家)ヘの支配の移行により、株主利益の実現が唯一絶対のものでないという考
え方を導入する契機たりうるかもしれぬ。とすれば、企業目的の変化が期待できる。第三にアカウンタビリティ
ーの回復の可能性も示唆される。つまり、従来、経営者にとって巨大で未組織でかつ無関心な株主層からチェッ
クされることもなく、真に答責の対象たる機関がなかったが、まがりなりにも機関投資家が監視役の座につくこ
しジテイマシー
とになる。けれども、}」の機関投資家という後見人を誰が後見するかの問題は残る。第四に正当性の側面では、
機関投資家の支配により、株主による企業所有が名実共に回復するとみる向きもあろうが、しかし正当性が広範
な社会的承認を前提とする頁目の『なシステムを意味する限り、やはり少数の金融機関の企業支配に正当性を認
めるのは困難となる。また仮に株主支配が回復したとしても万事めでたしというわけにもいかない。というのは、
企業の発展を長い目で見通し、企業の公共的使命に自覚的なのは株主でなく、実は経営者の方であるという現実
があるからである。
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に重要性を失い、最大のイベントは株主の代理権授与になっている。その際、賛否を明示しない委任状は経営者
支持票として扱われている。また、取締役候補者を少数派グループから出して会社の委任状説明書に便乗するこ
とはできない。自己負担でやるしかないという不公平が存在している。取締役の推薦以外の事項については、S
ECの提案権規則の要件を充足すれば、提案権が保障される。しかし、この提案権行使が実を結んだ例は殆どな
第二の点は経営者支配の影響であるが、著者は企業の収益性、配当政策、役員報酬との関係につき、経済学者
の相異なる見解を紹介し検討を加えるが、要するに、意見の対立が目立つということは経営支配型の場合と株主
支配型の場合とで容易に結論づけられる程の差異を生んでいない証拠だとし、これら相違する結論も、仮に一方
が誤まっていたにせよ、その偏差は深刻でないことを示す、とうけとっている。
八
八章で支配と重役派遣(兼任)の問題を論究している。重役派遣は支配力行使の一方法という理解に立つ。
重役派遣が社会的、経済的害悪を生むものとして批判されて久しい。すでに而旦・委員会による一九一二年1-
三年の調査によれば、当時、一八○人の指導的財界人が主要銀行等で廷三八五の取締役ポストを占めていたとい
う。ブランダイスも当時の論文中でそれが「人間社会の法も、神の法をも侵す」と非難した。
ウィルソン大統領も金銭信託筋からの重役派遣による権力集中化を懸念して立法的対応を訴え、その結果一九
一四年にクレイトン法の制定をみた。ただ、その八条で重役派遣を禁じたものの、欠陥だらけの規定である上に
インフォースメントも伴わなかった。連邦取引委員会(FTC)が、積極姿勢に転じたのは一九七○年代に入って
からだといわれる。
1A。
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重役派遣は金融機関との間で繋ぐ行われているのが特徴的である。その要因として、大企業の資本市場への依
存の増大があげられる。一九七四年現在の非金融会社への銀行融資総額は二七○億といわれ、今後とも金融機
関が信用供与、証券の新規発行等で果す重大な役割は不変だから、取締役会に金融に明るい人を加えるメリット
は充分ある。そこで、金融機関が重役派遣により支配的役割を果し続けるとみる。
次に重役派遣を支える社会的素地に目を転じると、例えばある会社で外部取締役の採用を試みる場合、すでに
知られた地位、能力、実績、社会的通用性等から、候補者はしぼられてきて、結局同じ「クラブ」のメンバーが
その供給源となってしまうという。これを裏づけるかのように、W・L・ワーナーらが一九六七年に公けにした
研究によると、米国の代表的企業五○○社の五、七七六人の取締役が有していた取締役としての肩書を延数にす
が報告されている。
重役派遣の問題点として著者は次の五点をあげる。①競争排除による市場への悪影響、②兼任取締役の忠誠心
分断による利益衝突、③兼任によるポスト又はチャンスの減少、④取締役自身の時間的労力的負担、⑤社会的経
済的権力集中の促進。とくに本書のテーマとの関連で⑤が重要だとする。
著者は懸念をこう表明している。アメリカの大企業の意思決定責任を複数の取締役会をかけもちする一部少数
者の手に集中し、経済的政治的社会的諸問題に対する共通の考え方を相互に形成補強し合うパワー・エリート又
は企業コミュニティーを作るのは賢明だろうか、と反問するのである。つまり、経歴、体験、価値観、思考を共
通にし、かつ代表性の欠如した自己選任的な少数グループによる経済支配の是非が問われるとする。
大企業の重役派遣の実態をみると、’九六九年のFTCの調査報告では、上位二○○社の大企業で合計一四五
○件の派遣が認められたし、六五年のスタフ・リポートでもトップ二九の大企業に関し、一二六一一件の派遣関係
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ると二○、五一一二になったとされる。さらに一般的には、取締役という地位のもつ心理的インセンティヴも見逃
せないようで、著者の言葉によると「丁度、名誉学位と同じく、すでに何もかも待てる人にとって、一つのステ
イタス・シンボルである」わけである。
従来の論議の中で殆ど欠落していた派遣重役の忠誠心の対象にも言及している。
当然の理解として、派遣重役は母体金融機関に第一義的忠誠を尽し、その利益代表として派遣先企業の取締役
会で動くとされ、そこで、他の企業は金融機関の植民地主義({一コ目am-C『宮。【ヨ、8一○.国一一⑪ョ)の犠牲者の
ようにみられたりした。けれども著者は、データで判断する限り、金融機関派遣の重役でも、母体銀行への第一
義的忠誠を確認できるケースは割合として多くないとし、金融機関と非金融企業との間の重役派遣を禁ずるとい
う発想に対して、外部取締役の範囲を縮少するし、更に金融機関出身重役のもつ専門知識の非代替性からみても、
賛成し難いとの立場をとる。
最後に、重役派遣と株式所有の関係にふれているが、実際の資料を検討したのち、両者は関連性を有し、相ま
って支配力強化に寄与しているとみる。
九
九章は結論部分であるが、先づ全体のまとめを試みている。即ち、総合的集中(トップ二○○社の巨大企業へ
売上高、雇用、収益の3’4が集中していること)、市場集中(一般的な横ばい傾向にも拘らず、巨大企業二○○社
の活動領域では集中化が進んでいること)、重役派遣(少数の経営者グループに経済支配を許していること)、潜在
的機関支配〈商業銀行の信託部を中心とする機関投資家が証券所有の集中、証券市場での優位性を通じて会社に
対する潜在的支配力を有していること)等である。
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さはあれ、ここ当分は、選挙機構を支配している経営者が会社権力を支配し続けるという前提のもとに、考え
られる制約として、非公権的には資本市場、証券市場、世論等があり、公権的には政府の直接介入と潜在的な介
入可能性がある。そして、とくに介入可能性が有益な予防効果をもつと判断する。これらの制禦装置が実は自由
社会の維持に重要な意味をもつ。基本的な問題は、強大な会社権力をいかに自由社会の保持と両立させつつ制限
するかである、と結んでいる。
一o
以上が本書のアウトラインである。筆者(中原)の拙ない語学力と特に経済学等の隣接分野に疎いことから、
原著の内容や味わいを充分に伝えられなかったのではないかという不安が残る。最後に、若干の感想を附加する
ことが許されるなら、次のようなことになろうか。
H、著者は、バーリー、ミーンズ、ラーナーらの方法論に大きく依拠しているとはいえ、これら先達の弱点には
容赦なく批判(例えばラーナーが機関保有の本質的意味に対する認識を欠いていたことを鋭く突く。九九頁)を
次に、有力金融機関が潜在的支配力を掌握していることと、今日大企業による意思決定の範囲が拡大しその影
響も広範囲に及ぶことの二つの事実が作り出す状況の中で、著者はかかる巨大な経済権力がわれわれの政治的意
思決定機構に及んでいる民主的統制をどの程度脅すのかを懸念する。
他方、企業の側にもある種の混乱が起っていることを指摘する。
つまり、大企業の目ざすべきゴールに関して思想的基盤に自信喪失と動揺が生じている。伝統的な利潤極大化
が唯一絶対の目標としては、もはや通用せず、企業は利潤志向に社会的責任の要請を加味したイデオロギーを模
索しているという。
文献紹介(中原)71
加え、自ら補完しており、従って伝統的方法論を無批判に踏襲して単に内容を目8」員のにしたものではなく、
全体にユニークな構成となっている。とくに本書の大きな底流をなしているのが、企業の社会的責任論の問題意
識である。更に対象を観念的にでなく、統計数字に基いて用心深く実態把握を試みており、著者の意図した実証
的(の冒已1.四一)考察は達せられていると評価できる。更に、法律学はもとより経済、政治学等の隣接領域の成
果も充分に踏まえて分析に役立てている。各章ごとに付された多彩な参考文献は極めて有益である。
口、欲をいえば次のことが望まれよう。副題中の85.『胃のロ・乏の円は、実は、それ自体極めて多義的な概念で
ある。著者も引用しているようにすでにカリフォルニア大学已・○・Fシ・)のE・エプステイン教授による優れた研
究があるが、この問題多いターゲット自体の概念規定を著者の立場からもう少し丁寧にしてほしかったと思う。
曰、多くの取締役会をかけもちし、かつホモジーーァスな体質をもつ少人数の経営者グループに経済支配を許すこ
とへの懸念は共鳴できるが、これをどう打開すべきかについて必ずしも本書で特効薬は提示されなかったように
思う。極めて困難な問題ではあるが、しかし、著者はその後別のところで若干これを論じているので、参考まで
思う。極めて西
に掲げておく。
甸目・国一ロョケの届》弓斉の罰・』の旦暮のoミロ・「§・菖冒m:局ご『・ここ・曽団こい旨のいいFp三・』g⑬
(』①『④、己の○一色一円、、巨の)。
とまれ、本書は大企業の支配構造や企業の社会的責任論にタックルする者にとって一読に値するものと信ずる。
なお、末筆ながら著者ブランバーグ学部長には本書をこのような形で紹介するにつき、好意的にお許しを与え
て下さったことを附記し、厚くお礼を申しあげたい。
二九七八年一○月末日了)