米中和解と朝鮮問題、1971–73 - jaas米中和解と朝鮮問題、1971–73 年 3...

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????? 1 米中和解と朝鮮問題、1971–73 在韓米軍と正統性をめぐる攻防と協力 李 東俊 Ⅰ 問題関心 1970 年代初頭における米国と中国 1) との和解については、従来主として台湾問題を中心 とする 2 国間関係や、米中ソ日など大国間の勢力均衡の脈絡で説明されることが多かった。 しかし、米中がその約 20 年前の朝鮮戦争で戦火を交えたことに鑑みれば、両国の和解は、 「勝敗なき停戦」 2) に帰結した朝鮮戦争に対する「中間決算」の意味を帯びてもいた。しか も、米中両国はその後、それぞれ韓国と北朝鮮との間に同盟関係を結び、南北間の対決を 後押ししてきただけに、和解し合うにあたっては、否が応でも各々のジュニア ・ パート ナーと和解の方向性を共有しなければならなかった。米中両国が和解に際して、朝鮮問題 を整理し合うために、数多くの「裏」の舞台を設けた所以である。 本稿は、このように米中が和解に際して展開した、朝鮮問題をめぐる秘密交渉の経緯と その帰結を歴史的に解明することを目的とする。米中は和解に際して、朝鮮問題をいかに 認識し、再規定しようとしたのであろうか。また、米中共同による朝鮮問題への戦略的介 入は、朝鮮半島分断構造にいかなる影響を及ぼしたのであろうか。 米中和解と朝鮮問題との関連は改めて指摘するまでもないが、その歴史的実態は依然不 明なところが多い。近年、韓国現代史への関心の高まりなどを背景に、冷戦史において一 般にデタント期として知られるこの時期に対する研究が活発化し始めたものの、その多く は米韓関係など特定領域の文脈に集中している 3) 。さらに先行研究のほとんどは、きわめ て断片的な資料に依拠するあまり、米中和解が朝鮮問題に多大な影響を及ぼしたと主張し ながらも、それを立証する具体性を欠いていると言わざるを得ない。よって、この時期に おける朝鮮問題の動向を総合的に理解するためには、何よりも、米中間に行われた朝鮮問 題をめぐる「秘密取引」自体に対する体系的な実証分析が緊要である。そこで本稿が用い るように、先般米政府が機密解除したニクソンRichard M. Nixon大統領期の外交文書は 有用な分析材料となる。 では、米中和解において争点となった朝鮮問題はいったい何を意味するのであろうか。 それは大きく見て、在韓米軍に象徴される安全保障問題と、朝鮮半島における「唯一合法 政府」という意味での正統性をめぐる問題という 2 点に絞ることができる。この 2 つは、 南北関係に内在する対決要因であるが、米中関係にも深く関わる争点であるからこそ、重 Vol. 55, No. 4, October 2009

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米中和解と朝鮮問題、1971–73年在韓米軍と正統性をめぐる攻防と協力

李 東俊

Ⅰ 問題関心

1970年代初頭における米国と中国1)との和解については、従来主として台湾問題を中心

とする 2国間関係や、米中ソ日など大国間の勢力均衡の脈絡で説明されることが多かった。

しかし、米中がその約 20年前の朝鮮戦争で戦火を交えたことに鑑みれば、両国の和解は、

「勝敗なき停戦」2)に帰結した朝鮮戦争に対する「中間決算」の意味を帯びてもいた。しか

も、米中両国はその後、それぞれ韓国と北朝鮮との間に同盟関係を結び、南北間の対決を

後押ししてきただけに、和解し合うにあたっては、否が応でも各々のジュニア・パート

ナーと和解の方向性を共有しなければならなかった。米中両国が和解に際して、朝鮮問題

を整理し合うために、数多くの「裏」の舞台を設けた所以である。

本稿は、このように米中が和解に際して展開した、朝鮮問題をめぐる秘密交渉の経緯と

その帰結を歴史的に解明することを目的とする。米中は和解に際して、朝鮮問題をいかに

認識し、再規定しようとしたのであろうか。また、米中共同による朝鮮問題への戦略的介

入は、朝鮮半島分断構造にいかなる影響を及ぼしたのであろうか。

米中和解と朝鮮問題との関連は改めて指摘するまでもないが、その歴史的実態は依然不

明なところが多い。近年、韓国現代史への関心の高まりなどを背景に、冷戦史において一

般にデタント期として知られるこの時期に対する研究が活発化し始めたものの、その多く

は米韓関係など特定領域の文脈に集中している3)。さらに先行研究のほとんどは、きわめ

て断片的な資料に依拠するあまり、米中和解が朝鮮問題に多大な影響を及ぼしたと主張し

ながらも、それを立証する具体性を欠いていると言わざるを得ない。よって、この時期に

おける朝鮮問題の動向を総合的に理解するためには、何よりも、米中間に行われた朝鮮問

題をめぐる「秘密取引」自体に対する体系的な実証分析が緊要である。そこで本稿が用い

るように、先般米政府が機密解除したニクソン(Richard M. Nixon)大統領期の外交文書は

有用な分析材料となる。

では、米中和解において争点となった朝鮮問題はいったい何を意味するのであろうか。

それは大きく見て、在韓米軍に象徴される安全保障問題と、朝鮮半島における「唯一合法

政府」という意味での正統性をめぐる問題という 2点に絞ることができる。この 2つは、

南北関係に内在する対決要因であるが、米中関係にも深く関わる争点であるからこそ、重

Vol. 55, No. 4, October 2009

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2 アジア研究 Vol. 55, No. 4, October 2009

要である。

第 1に、在韓米軍問題は、米中和解に直接影響する争点であった。周知の通り、在韓米

軍は朝鮮戦争以来、中朝同盟の脅威に対応する「抑止力」として機能してきた。他方、中

朝にとって在韓米軍は、自らの安全保障上の脅威であり、北朝鮮主導の朝鮮半島統一の障

害要因として認識されてきた。したがって、米国としては、中国と和解するためには、少

なくとも在韓米軍が中国を標的にしないと中国を納得させなければならなかった。つま

り、米中和解には、在韓米軍の位置付けに対する認識の共有が必要不可欠であった。

第 2に、正統性をめぐる問題とは、統一を志向する分断国家にとって宿命付けられた呪

縛とも言えるが、韓国と北朝鮮がそれぞれ国内外で統一の主体として認知されるために競

い合うことを指す。この競争は多岐にわたって展開されたが、デタント期にその熾烈さを

増したのは、それまで朝鮮半島における正統性を韓国だけに与える根拠となっていた、い

わゆる「国連帽子」(U.N. cap)の存在をめぐる攻防であった。すなわち、朝鮮戦争中に国

連から「侵略者」という烙印を押された中朝両国は、米中和解を機に、かつ、ちょうどそ

の頃中国が台湾を排除して国連での正統性を獲得した余勢をかって、United Nations

Commission for Unifi cation and Rehabilitation of Korea(国連朝鮮統一復興委員会。以下、UNCURK

と略)とUnited Nations Command(国連軍司令部。以下、UNCと略)に代表される「国連帽子」

を外そうとしたのである。他方、米国にとってこの「国連帽子」の喪失は、それまで享受

してきた韓国の「唯一合法性」と、国連を後ろ盾とする「正義」を損なうことに等しかっ

た。それゆえ米中和解の場では、この「国連帽子」をめぐって熾烈な駆け引きが展開され

た。

米中和解は、上記の 2つの朝鮮問題に対する均衡解を探る過程であったと思われる。こ

うした視点に立ち、本稿では、米中が和解に際して、両国の戦略的利益に合わせて、この

2つの朝鮮問題をめぐっていかに接点を設けたのかを検討する。その上で、結論に代えて、

米中レベルの取り決めが朝鮮半島に及ぼした影響とその含意について簡単に言及したい。

Ⅱ 在韓米軍役割の転換―「抑止力」から「安定力」へ

米中関係の変動を受けて何よりも先に動揺したのは、在韓米軍であった。ニクソン政権

にとって在韓米軍は、対中接近と「ニクソン・ドクトリン」という 2つの戦略的課題を同

時に追求するにあたって、調整すべき対象であった。言い換えれば、米国は、それまで中

国の膨張を封じ込める手段として位置づけてきた在韓米軍を削減することで、中国の対米

認識の変化をもたらし、対中接近を容易にさせようとした。他方で米国は、対中接近に

よって、同盟諸国の対中脅威を低減させ、アジアに対する軍事的コミットメントの縮小を

骨子とするニクソン・ドクトリン、とりわけ在韓米軍削減の道を開こうとも思った(クロ

フ、1976: 237; Ross, 1993: 151)。ニクソンが 1970年 3月、国家安全保障決定覚書(以下、

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NSDM)-48を通じて、さしあたり在韓歩兵 1個師団の撤退を決定した上で、追加的に相当

規模の削減を模索することを決めた背景には、対中接近という戦略的要因が大いに働いた

のである。

しかし興味深いことに、その後米中和解とニクソン・ドクトリンとの相乗作用によって

ますます削減される筈であった在韓米軍は、結果的に 1971年 3月の第 7師団の撤収のみで

収束した。その理由はいかなるものであったのであろうか。後述するように、逆説的であ

るが、米中和解の過程で、在韓米軍に対する新しい需要が生じたからである。

1. 在韓米軍をめぐる攻防と日本ファクター

1971年 7月 9日、キッシンジャー(Henry A. Kissinger)米国家安全保障担当大統領補佐官

は秘密裏に北京入りし、7月 11日まで周恩来総理と計 6回の秘密会談を持った。この会談

こそが、米中共同による朝鮮問題介入の出発点であるが、在韓米軍問題はキッシンジャー

訪中当日の夜に開かれた第 1回会談で俎上に上った。周は、58年に中国人民志願軍が北朝

鮮から完全撤退したことに触れながら、「貴側の南朝鮮駐留部隊も撤退すべきである」(U.S.

Department of State, 2006: 390–391)4)と在韓米軍の撤退を求めた。しかしながら、むしろこの会

談においてより注目すべきは、周が在韓米軍の撤退を要求すると同時に、日本の再武装と

朝鮮半島介入への懸念を強く表明したことである。

周は、「もし貴側が極東に駐留するすべての軍隊を今撤退させようとすると、その目的

は、アジアを支配するための極東における前衛として(as your vanguard in the Far East)日本

を強化することにある」と述べ、日本が米軍撤退に伴う「力の空白」を埋める可能性を警

戒した。周は最後の会談(7月 11日)でも日本の自衛隊が毎月訪韓し軍事情勢を視察する

という具体的な事例を挙げながら、「日本の軍関係者は、朝鮮や台湾を、日本の領土でも

ないのに、忘れようとしない」(U.S. Department of State, 2006: 449)と日本軍国主義復活への

懸念を繰り返し披瀝した。

しかし、周が在韓米軍撤収と日本脅威論を同時に取り上げたのは、自家撞着的な側面が

強かった。なぜなら、中国が日本の韓国進出を懸念すればするほど、在韓米軍撤収の要求

はトーンダウンせざるを得なかったからである。つまり、米中が敵対関係を清算すること

を前提とすれば、在韓米軍撤退の空白を日本が埋めることよりも、引き続き米軍が韓国に

駐留し日本進出の防波堤となることが、中国にとって、安全保障の上ではより好ましい筈

であった。

こうした中国側の日本警戒論に付け込むかのように、キッシンジャーは、「もし日本の

軍隊が朝鮮にいたら、貴側は米軍が朝鮮にいるよりずっと心穏やかでなくなるだろう」と

述べた。在日米軍に対しても、「それはパラドックスを作り出している。なぜならば、我々

と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしているからである」(U.S.

Department of State, 2006: 450)と語り、在日米軍の日本を封じ込める役割を指摘した。このよ

うに高姿勢をとりながらも、キッシンジャーは、「在韓米軍問題は、この地域の全般的な

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関係によるものであり、私たち双方が国際的関係の 1つの局面から別の局面への移行を

取り扱う際に用いる知恵に左右されるものである」(U.S. Department of State, 2006: 390–391)と

述べるなどして、妥協の可能性を探った。以上のキッシンジャー・周の対話を受けて、

National Security Council(米国家安全保障会議。以下、NSCと略)は、次のように中国の在韓

米軍観を分析した。

貴方(キッシンジャー)と周恩来との会談録を見る限り、在韓米軍撤収の緊急性を全く

感じ得ない。周の在韓米軍撤収要求は、日本による肩代わりを憂慮することとは矛盾

するからである。さらに、周は、力の空白に言及し、米軍がアジアにおける安定役割

を果たしていることについても、受容するか、少なくとも反対しなかった(資料 1)。

このようにNSCが中国側の在韓米軍観を再評価し始めたこと自体は、ニクソン政権の

在韓米軍政策を根本から動揺させていた。それまで抑止の対象であった中国がむしろ在韓

米軍の駐留を容認するとすれば、その抑止機能は事実上無力化するからである。単なる軍

事的な効用だけでは、在韓米軍はその存在意義を失いかねない状況に直面したのである。

他方で、当時ニクソン政権内では、キッシンジャーとレアード(Melvin Laird)国防長官

がニクソン・ドクトリンの適用をめぐって激しい論争を展開していた。ニクソン・ドクト

リンがアジアの同盟諸国に対する政治的コミットメントを維持しつつも軍事的コミットメ

ントの縮小を図るものであるとすれば 5)、総じて、キッシンジャーは前者に、レアードは

後者にそれぞれ強調点を置いていた。こうした両者の意見対立は、在韓米軍の追加削減問

題をめぐって激しさを増した。レアードが「ベトナム化政策」の延長線上で、在韓米軍の

追加削減を推し進めたのに対して、キッシンジャーを中心とするNSCは、韓国や日本と

の同盟関係など、主として政治的理由を掲げてそれに抵抗した(資料 2)。

そしてキッシンジャーの秘密訪中直後、レアードがNSDM-48に基づいて 1974予算年度

まで在韓米軍第 2師団を 1個旅団規模に削減する追加計画を提示すると、NSCは国防総省

の試みを阻止することを「最も重要な官僚的利益」(the most important bureaucratic benefi t)と

見なし、歯止めを掛けた(資料 3)。ニクソンはNSCの見解を受け入れ、1973予算年度ま

で在韓米軍 1個師団の維持を決定した。中国の在韓米軍受容論とも相まって、ニクソン・

ドクトリンそのものが早くも揺れていたのである。こうした米政府内の動向を踏まえて、

同年 10月に再び訪中したキッシンジャーは、中国首脳部の在韓米軍に対する本音を真剣

に探ることになる。

2. 接点の模索

前述のように、周恩来は 1971年 7月に行われたキッシンジャーとの初の対面で在韓米

軍撤退と日本脅威論とを同時に提起していた。こうした周の曖昧な姿勢は、第 2回キッシ

ンジャー訪中(1971年 10月 20日から 26日まで)の際にも繰り返された。ただし、在韓米軍

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に対する周の姿勢は、7月に示した撤退要求に比べ、はっきりと後退していた。それだけ

でなく周は 10月 22日の第 4回会談では、在韓米軍の駐留を容認するような発言さえ行っ

ていた。

日本軍国主義者は、朝鮮と台湾を膨張のための跳躍台にしています。……中国と米国

はともに、日本の軍隊が台湾の米軍部隊に取って代わり、南朝鮮の米軍部隊に取って

代わることを防止しています(資料 4)。

このように周は在韓米軍撤退を主張するに先立って、「日本軍国主義の膨張」を防止す

るための米中協力を力説した。こうして中国が在韓米軍の急激な撤退による「力の空白」

の発生を懸念していることがより明確になった。これを受けてキッシンジャーは、「もし

在韓米軍の目標が、朝鮮半島の安定や、戦争の危険を防ぐこと、そして他の勢力がこの地

域に向けて膨張するのを抑えることならば、米中両国の利害は一致していると私は思う」

(資料 4: 9–10)と胸襟を開いた。このキッシンジャーの発言は、在韓米軍を地域安定力とし

て再定義し、継続駐留させることを中国に打診することに他ならなかったが、周はまった

く反発することなく「暗黙の了解」を示した。

さらに、キッシンジャーは、「米軍が韓国に駐留する限り、韓国が現存の境界線を越え

ようとするいかなる試みにも協力しないことを保障する」と述べ、在韓米軍の対韓封じ込

めの役割を指摘した。この点についても周は、「米国は最終的には南朝鮮から部隊を撤退

させる、そしてそれ以前に南朝鮮の部隊が境界線を越えて侵攻することを許さない」と

キッシンジャーの発言を確かめるに留まった。この発言以来、周は、在韓米軍撤退を主張

する際には、「最終的には」または「究極的には」という、きわめて曖昧な条件を付ける

ようになった。

中国の在韓米軍に関する認識は、ニクソン訪中に備えたコミュニケ起草作業にも反映さ

れていた。中国側の第 1次草案は、「在韓米軍は完全に撤退しなければならない……とい

う朝鮮民主主義人民共和国の立場を断固支持する」と明記されたが(資料 5)、この文句は

米国との交渉過程で削除され、上海コミュニケ(資料 10)ではその姿を消したのである。

在韓米軍をめぐる米中間の認識の幅は、ニクソン訪中を通じてさらに縮まる。周は 1972

年 2月 22日に開かれた会談で、「我々は、大統領の公式政策では将来朝鮮から最終的に軍

隊を撤退する用意があること、また極東の平和に有害であるから日本軍を南朝鮮には入れ

ないことを分かっている」と述べた。これを受けてニクソンは、「その教書(ニクソン・ド

クトリン)によって在韓米軍を削減した。もちろん、韓国のケースは違う。ある意味でそ

れは日本と結びついていて、台湾とは違う」(U.S. Department of State, 2006: 769)と語り、在

韓米軍の追加削減可能性すら否定した。これに対しても周は、対応しないことで事実上の

了解を示した。

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3. 米中間の秘密「取り決め」

在韓米軍の新しい役割に関するキッシンジャーの構想は、第 5回訪中(1973年 2月 15日

から 19日まで)を通じてより確固たるものになる。この訪中で目立ったのは、それまでの

会談で中国側が提起した日本警戒論が影を潜め、その代わりにソ連脅威論が浮き彫りに

なったことである。中国は 1972年 9月、日本との国交正常化で日本警戒論をかなりの程

度緩和させたものの、ソ連の攻勢的な外交・軍事路線については相変わらず神経を尖らせ

ていたからである。

1973年 2月 17日に行われたキッシンジャーと毛沢東との会談は、毛が冒頭で取り上げ

たように、「協力して問題児(ソ連を指す)に対処する」(資料 6)ことに集中された。毛は、

「我々としては、日本がソ連との関係を緊密化させるより、貴国との関係をよりよいもの

にしてくれることの方を願っている」と述べた。キッシンジャーが会談後の報告書に書い

たように、毛は、ソ連に対抗するために対日姿勢を大逆転させ、米国とともに日本を「初

期段階の同盟」と見なすようになったのである(資料 7)。やがて毛は、在韓米軍を含むア

ジア駐留米軍を列挙した上で、「アジアと太平洋に展開している米軍は、分散しすぎてい

る」と指摘し、在韓および在日米軍の対ソ抑止機能を期待するに至った。

このような毛の戦略観を踏まえて、キッシンジャーと周は翌日の 2月 18日、それまで

の会談の中で最も長い討論を通じて在韓米軍問題に取り組んだ。両者ともに「撤収への原

則」(the principle of withdrawal)と呼んだ同問題のガイドラインは、次の 3点に集約される。

第 1に、中国は在韓米軍に関する米国の裁量権を認めた。周は、「貴側が在韓米軍を撤

収させるという原則は、朝鮮半島の民衆や北朝鮮が変えられる原則ではない」(資料 8)と

明言した。つまり、周は、将来的には在韓米軍は撤収されるべきであるものの、撤収の時

期や規模は米国の所管事項であるとの見解を示した。

第 2は、第 1の点の延長線上において在韓米軍の「段階的撤収」(gradual withdrawal)に同

意した。周は、「我々は貴側がとにかく漸進的に軍隊を韓国から撤収させようとすると理

解している」(資料 8: 43)と述べた。さらに、周は、「その間(在韓米軍が完全撤収するまで)、

貴側は韓国に自らを守れる確信を与えることを望んでいる」とも語り、ニクソン政権が在

韓米軍 1個師団撤退の際に対韓「見返り」として約束した韓国軍現代化計画に対しても理

解を示した。これを受けてキッシンジャーは「急激ではなく、漸進的に実現することが重

要である」と確かめた。

第 3に、それまでの会談で周が繰り返したように、在韓米軍撤収による日本の韓国進出

可能性への懸念が表明された。この点についてキッシンジャーは直ちに「我々は、日本の

軍隊が韓国の領土に入らないという原則を守る」(資料 8: 44)と応じたが、ソ連脅威論を優

先する中国にとって、日本の韓国進出への懸念は相対的にその緊急性を失うしかなかった。

上記の 3つのガイドラインは、米中の妥協点であった。中国は在韓米軍撤収というそれ

までの原則的な立場を守りながらも、実際には当分の間在韓米軍の駐留を容認するとの姿

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勢をとった。周は、在韓米軍が急激に撤収すれば、北朝鮮が軍事挑発を試み、ソ連に朝鮮

半島への介入の余地を与えることを懸念したのである。これに対して米国は、将来的には

在韓米軍を撤退させることを約束しながらも、自国の判断による段階的撤収を貫徹するこ

とで、同問題に対してより大きな融通性を確保することができた6)。キッシンジャーは周

とのやり取りを次のように取りまとめた。

周は、北朝鮮に対して漸進的な米軍撤収を受け入れ、かつ、統一への忍耐心を持つよ

う説得しており、北朝鮮もそれを理解し始めたと述べた。……私は、韓国からの漸進

的な撤収を考えているが、それはニクソン・ドクトリンと韓国の防衛力強化という脈

絡で行われるべきであると応じた。周は、異議を唱えなかった(資料 7: 18)。

さて、在韓米軍の漸進的撤収は、米中がその 1年前の上海コミュニケにおける台湾駐留

米軍への言及を想起させる。当時、中国の台湾駐留米軍の撤収要求に対して、米国は、最

終目標として撤退を明言しながらも、「当面、この地域の緊張が緩和するに従い(as the

tension in the area diminishes)」(資料 10)との条件を付けた。該当地域の安定水準に鑑み、漸進

的に米軍を撤退させるという点、すなわち米国が撤収の原則問題に同調し、中国が撤収の

時期問題について譲歩した点において、在韓米軍問題は上海コミュニケ・モデルに追随し

ていた。

4. 「安定力」としての在韓米軍

第 5回の訪中を通じて確認した中国の対ソ認識と在韓米軍観を踏まえて、キッシン

ジャーは、対中関係を発展させ制度化させるためには、アジアにおける強力な米軍の駐留

は欠かせないとニクソンに建議した。

中国にとって受動的な米国は役に立たない。毛と周はより攻勢的な米軍を期待している。

……もし我々が内側に向かうと、中国は急激に対米姿勢を変えるだろう(資料 7: 23)。

こうしたキッシンジャーの認識は、ニクソン政権がNSDM-48に基づいて進めていた在

韓米軍の追加削減計画を取り消し、かつ、在韓米軍の役割を転換させる重要なきっかけと

なる。1973年 3月 26日、新任リチャードソン(Elliot L. Richardson)国防長官は、上院軍事

委員会において、在韓米軍の維持方針を明らかにした上で、その目的の 1つとして「ソ連

の同地域への進出を懸念する中国に配慮することにある」(韓国外務部、1973a)と述べた。

この発言は、在韓米軍がソ連に対抗する米中戦略関係の文脈の中に位置付けられたことを

示唆する。

しかしながら、むしろ興味深いのは、ソ連さえも暗黙裡に、自国に直接的な脅威を与え

ない範囲内で、中国と日本の潜在的危険を緩和する存在として在韓米軍の駐留を受け入れ

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ていたことである7)。さらに、日本が中国とソ連の脅威に対する防波堤として在韓米軍の

駐留を望んだのは言うまでもない。要するに、中ソ関係の悪化とデタントの進展に伴って、

朝鮮半島を取り巻くすべての周辺大国が、力の均衡を維持する存在として在韓米軍の意義

を再認識しつつあったのである(資料 11)。こうした新しい情勢を踏まえて、国家安全保障

研究覚書(NSSM)-154は、在韓米軍の役割について次のように取りまとめた。

在韓米軍の役割は軍事的であると同時に、政治的である。この軍事力は朝鮮半島およ

び東北アジア地域を安定させる影響力(stabilizing infl uence)を持っている。…… 東北ア

ジアの諸大国は在韓米軍の急激かつ完全な撤収を望んでいない。諸大国にとって在韓

米軍は、南北双方の冒険主義に歯止めを掛ける存在である。デタント期における在韓

米軍は、中国とソ連に脅威として映らない。在韓米軍が完全に撤退すると、日本は自

国の防衛力の適切性に対して疑念を抱き、他方で中国とソ連は日本の韓国に対する意

図を懸念するだろう。…… したがって、在韓米軍は東北アジア全般を安定させる政

治的役割を担う(play a stabilizing political role for the whole of Northeast Asia)(資料 13)。

かくして従来は中朝同盟に対する抑止力として限定されてきた在韓米軍は、友敵関係に

基づいた概念を超えて、朝鮮半島及び東北アジアにおける安定化並びに現状維持要因とし

て捉え直された。こうした在韓米軍の役割変化はもちろん、米中和解と中国の在韓米軍に

対する認識の転換があればこそ、可能であった。

デタントに相応しい新しい役割が在韓米軍に付与されることにより、在韓米軍追加削減

計画は説得力を失った。ニクソンは同年 7月 31日、日本の田中角栄総理との会談で、「我々

の目標は安定を増進することである。これはイデオロギーの問題ではない。我々は(在韓)

米軍の撤退によって真空が生じることを避けたい」(資料 14)と述べつつ、安定力としての

在韓米軍の維持を力説した。在韓米軍に対するニクソン・ドクトリンの適用はここで正式

に修正されたのである。

Ⅲ 米中和解と「2つの韓国」

米中和解は、キッシンジャーが第 2回訪中後にニクソンに報告したように、朝鮮半島に

おけるそれぞれの友邦との関係をも互いに尊重し合い、とりわけ南北朝鮮いずれも朝鮮半

島全体を代弁し得ないことを前提にして行われた(資料 15)。すなわち、米中は、互いに相

手の正統性を認め合った上で和解しただけに、それぞれの同盟国に対しても「独立した主

権国家」として「平和共存」することを望んだ。こうした平和共存を定着させるためには、

南北双方に対する相互承認または対等な法的・政治的地位の付与は必須不可欠な要件で

あった。ここで朝鮮戦争以来、それぞれ国連の朝鮮問題への政治的かつ軍事的介入を象

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米中和解と朝鮮問題、1971–73年 9

徴し、実質的には韓国だけの唯一合法性を後押ししてきた、「国連帽子」、すなわち

UNCURKとUNCの 2つの国連機構の解体問題が焦眉の課題となった。

1. UNCURK解体への「暗黙の了解」

UNCURK問題は 1971年 10月、キッシンジャーの第 2回訪中の際に本格的に取り上げら

れた。周恩来はこの会談で、前述のように、在韓米軍問題に対しては柔軟な姿勢を見せた

が、国連を舞台とする北朝鮮の法的地位問題には神経を尖らせた。実は当時、キッシン

ジャーが北京滞在中に国連では「アルバニア決議案」が採択される形で中国の国連復帰が

実現していた8)。中国は、朝鮮戦争を契機にして国連から敵対国の烙印を押された自国が

国連に承認されたとすると、同じ立場の北朝鮮も同等に待遇されるべきであるとの立場を

取ったのである。

周は 10月 22日の第 4回会議で、「どのようにして彼ら(北朝鮮)は国連における不平等

な立場を我慢できるのか。もし中国が国連に加盟したら、かえってより多くの問題が発生

するだろう」と北朝鮮の法的地位問題を切り出した。これに対してキッシンジャーは、

「UNCURKについては、研究を始めている」と応じながら、次のように前向きな姿勢を示

した。

もし貴方が平等性の問題を考えておられるなら、我々は有意義な議論をすることがで

きると思います。……我々は、朝鮮民主主義人民共和国は事実として存在していると

認識しています(資料 4: 10–11)。

このように好意的な反応を受けて、周は、「貴方が今言ったことは、米国側では国連を

含めて、朝鮮民主主義人民共和国を法的存在として国際的に容認するということである。

つまり、国連における現在のような状況は存続できないということである」と結論付けよ

うとした。これに対してキッシンジャーは、「それに、韓国も承認されるならば、という

条件がある」と言い張ったが、周が「UNCURKは廃止されるべきである」と主張し続け

ると、「仮の結論を、大統領訪問の前に我々のチャンネルを通じて伝える」と応えた(資料

4: 13)。

以上の周・キッシンジャーの対話をみる限り、キッシンジャーは確答を持ち越したもの

の、周のUNCURK解体要求におおむね同意したことが分かる。ただし、ここでキッシン

ジャーが韓国に残存するもう 1つの国連の権能、すなわちUNCにあえて言及していなかっ

たことは強調されてよい。後述するように、米国にとってUNCの解体問題は、朝鮮半島

停戦体制の維持だけでなく、在韓および在日米軍の運用や韓国軍に対する作戦統制権の行

使にも影響しうる難題であった。

キッシンジャーからUNCURK解体への言質を得た周恩来は、翌年 2月 23日に開かれた

ニクソンとの会談で、「UNCURKの役割が終わる日が来ればよいと思う」と同問題に対し

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10 アジア研究 Vol. 55, No. 4, October 2009

て釘を刺そうとした。これを受けてニクソンは、「首相がキッシンジャー博士に問題提起

をしている。我々はそれを検討中である」(U.S. Department of State, 2006: 733)と述べ、事実

上了解を与えた。米国にとっては、中国が国連に復帰し、さらに自らが中国との和解を図

る以上、従来の国連の規定そのものに修正を加える用意を披瀝せざるを得なかったのであ

る。

2. 米中協力による国連討論延期

しかしながら、UNCURK解体はすぐさま実行に移されなかった。その原因は多岐にわ

たるが、何よりも、米中和解の「ショック」を引き込む形で展開した南北対話が早くも行

き詰まり、南北間の正統性をめぐる競争が一層激しくなったからである。相互承認を前提

とするデタントの進展にもかかわらず、韓国は国連における自国のみの「唯一合法性」に

こだわり続け、それに対して北朝鮮はUNCとUNCURKを一気に解体させ、少なくとも韓

国と同等の正統性を得ようとする姿勢を強めた。とりわけ、北朝鮮にとって「国連帽子」

の解体は、「外勢排撃」の名目で在韓米軍撤収への国際世論を喚起するきわめて有用なカー

ドであった。

こうした北朝鮮の攻勢を受けて韓国政府が当面望んだのは、一言で言えば、問題回避に

よる時間稼ぎであった。すでに 1968年から国連における朝鮮問題を自動上程から「裁量

上程」に転換させた韓国は、72年にも討論を避けることで、UNCURKの「延命」を図った。

したがって、米中はそれぞれの同盟利益を抱えながら、この問題の沈静化のための駆け引

きを展開した。

1972年 6月 22日の会談で、周恩来が「UNCURKは一方(北朝鮮)に対する敵対行為に

他ならない」と主張しつつ米側の「遅延戦術」を非難すると、キッシンジャーは、「この

問題が国連に上程されれば、国連における南北間の正統性をめぐる対決が先鋭化し、大統

領選挙を控えている米政府としても韓国を支持せざるを得ない」と抵抗した。これを受け

て周は、「それほど緊迫しなくなった朝鮮半島情勢を念頭において対応する必要はある」

と妥協の余地を垣間見せながらも、「我々は反対の立場に立つしかない」と譲らなかった

(U.S. Department of State, 2006: 990)。

UNCURK解体を求める中国の対米圧迫は、その後さらに強まった。中国は英国、カナ

ダなど西側諸国に対して北朝鮮の主張に同調するよう呼びかけたばかりか、同年 7月 18

日には北朝鮮支持 14カ国とともに朝鮮問題の討論を要求する覚書を国連に提出した(資料

16)。中国国連大使の黄華は 7月 26日、「国連が朝鮮問題にあまりにも長く介入してきた」

と指摘しつつ、キッシンジャーにUNCURKの即時解体を迫った。キッシンジャーは、「必

ずしも 72年にそれを行う必要はなさそうである」(資料 17)と拒否したが、この問題が米

中関係自体に悪影響を及ぼすことを憂慮せざるを得なかった。結局、黄華が 1週間後の 8

月 4日に再びUNCURK解体を要求すると、キッシンジャーは、米大統領選挙を掲げてこ

の問題の 1年棚上げを要請しながら、「来年(1973年)にはUNCURKが解体されるだろう」

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(資料 18)と妥協案を示した。

これに中国は応じた。同年 9月 19日、黄は「中国はより柔軟な姿勢を取り、朝鮮問題を

めぐる国連討論を 11月の米大統領選挙以後に行うことにする」と記された中国政府の訓

令をキッシンジャーの前で読み上げた。ここで黄は、「この問題が米側に不便をきたすこと

を考慮した」(資料19)と付け加え、大統領選挙を控えたニクソン政権への配慮を強調した。

しかし、この中国の行動は北朝鮮の了解を得ずにとられたようである。周恩来がキッシ

ンジャーに「北朝鮮を支持する国々がUNCURK解体決議案を自力で提出するだろう」(U.S.

Department of State, 2006: 990)と予想した通り、実際その後北朝鮮はアルジェリアなどととも

に独自の決議案を提出しようと試みた。それに対して中国は協力しなかった(資料 20)。金

日成が 1972年 8月 22~ 25日に秘密裏に訪中し周恩来と会ったことを想起すれば(中共中

央文献研究室編、1997: 546)、中朝首脳会談でも意見の差が縮まらなかった可能性がある。こ

の点について、米中央情報局(CIA)は、「結果的に北朝鮮は中国の決定を受容したものの、

中国が『裏切る』可能性を最後まで払拭し得なかった」と評価した(資料 21)。

結局、9月 20日に開かれた第 27次国連総会運営委員会では、朝鮮問題の討論延期案が

可決され、UNCURK問題は再び留保された。中国は反対票を投じたものの、反論を加え

なかった。米国務省はこうした中国の「暗黙の協力」を高く評価した。しかし、キッシン

ジャーが 1973年にUNCURK解体を中国側に約束しただけに、それ以上の問題回避は不可

能になった。これは、米国の国連代表部の表現通り、一時的な勝利に過ぎなかった(資料

22)。

3. ニクソン政権の「国連帽子」対策

中国の協力を得て 1972年の国連総会を済ませた米国は、73年のUNCURK解体を既成事

実として受け止めていた。しかし、米国にとってより重要なことは、UNCURK解体それ

自体ではなく、その「過程」であった。米政府は、UNCURK解体が米国の朝鮮戦争介入

の意義さえ否認し、さらに在韓米軍やUNC問題にまで飛び火する事態を憂慮した(資料

23)。つまり、米国は、UNCURKだけが「静かに」その活動を中止し、「名誉」を守るこ

とを望んだ。

しかし、「静かな」UNCURK解体への展望は不透明であった。北朝鮮が依然として過去

の国連介入を否定した上での明確なUNCURKの解体(dissolve)を、それに加えてUNCと

在韓米軍問題をも討論すべきであるとの立場を堅持したからである。さらに、その間、北

朝鮮がWHO(世界保健機関)への加盟を果たし、韓国と同じくオブザーバー資格で国連総

会に参加するようになったため、「国連帽子」をめぐる東西対決の可能性は一層高まった。

そこで米中はこの問題をめぐる討論を重ね、取りあえずUNCURK解体の方式について接

点を設けた。

1973年 2月 17日に行われた会談で周恩来がこの問題を提起すると、キッシンジャーは、

「UNCURKは、今年の下半期には解体されると予想する」(資料 8)と述べつつ、「我々は韓

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国自らがUNCURK解体を提案する方案を検討している」とUNCURKの自発的解体案を示

した。これに対する周の反応はきわめて肯定的であった。周は「それは最善である」と評

しつつ、「貴側がその方案の実行を約束してくれれば、我々は同イシューが(国連において)

深刻にならないように最善を尽くす」と応じた。キッシンジャーが「それは国連での討論

を避けられることを意味するのか」と問い質すと、周は「そうである」と確認した。この

周の答弁は、中国が北朝鮮を含む社会主義陣営などに対して影響力を行使し、米国の望み

通りのUNCURK解体への協力を約束したことに他ならなった。

UNCURKが国連の朝鮮戦争介入の正統性、立場を換えれば中国の不当性を象徴する存

在であったことを想起すれば、上記の周の発言は、中国にとって決定的な政治的譲歩を意味

していた。中国にとって「静かな」UNCURK解体とは、国連の朝鮮問題に対する「不当な

判断」を不問に付すことに等しかったからである。にもかかわらず、周がキッシンジャー

の提案に「最善を尽くす」と協力意思を表明したのは、それほどまでに中国が対米関係を

重視していたことの表れである。米国と同様に、中国はUNCURK問題が両国関係を阻害

することを望まなかったし、特に国連で米中対決の場面を作りたくなかったのである。

このようにUNCURKは解決の方向性が見出されたが、他方でUNC問題は複雑な様相を

呈していた。米国にとってUNCは、一言で言えば、「安全保障上、絶対必要ではないが、

重要な(signifi cant, although not essential)もの」(資料24)であった。ここで「絶対必要ではない」

とされたのは、UNCが法的には在韓米軍の駐留に影響しないからである。すなわち、米

政府は在韓米軍が米韓相互防衛条約に法的根拠を置き、UNCの傘下部隊でもないことを

見抜いていた。

しかしながら、国連軍司令官が在韓米軍司令官を兼務するなど、UNCと在韓米軍は事

実上一体化していただけに、北朝鮮側の「国連帽子をかぶった外国軍」という非難を免れ

なかった。さらに、UNCが停戦協定の署名者であることからすれば、UNC解体は署名者

の喪失による停戦協定の機能不全にもつながりかねなかった。しかも、米国にとって

UNC解体は、韓国有事における在日米軍の出動や在日米軍基地の利用を制限する余地が

あった9)。国務省のグリーン(Marshall Green)次官補はUNCの役割について、次のように

整理した。

1)UNCは、韓国軍に対する作戦統制権を行使し、韓国の対北攻撃可能性を封じる。

2)朝鮮半島有事の際には、国連所属の第3国の兵力を韓国に呼び寄せる仕組みとなる。

3)停戦協定の実行に関わる公式的役割を担う。

4)米国と第 3国の兵力が韓国防衛の際に、形式的な手続き以外のいかなる事前協議

をもなしに(without any more than pro forma prior consultation)、在日基地を使用しうる法

的条件を提供する。

5)北朝鮮の武力攻撃を国連に対する攻撃と見なす根拠となり、北朝鮮を心理的に圧

迫する(資料 25)。

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米中和解と朝鮮問題、1971–73年 13

このようにUNC問題をめぐって苦慮する中、米政府は取りあえずUNCURKとUNC問題

を分離し、段階的に対応する方策を設けた。すなわち、1973年の国連総会ではUNCURK

だけを「静かに」解体し、74年以後にUNC問題に対応することであった。国務省の報告

書にもあるように、米国にとって、国連総会の決議に法的根拠を置くUNCURKは戦術上

の問題(tactical concern)に属する反面、国連安保理の決議に則るUNCは戦略上の問題

(strategic concern)として、到底譲れない事案であった(資料 26)。ニクソンは 73年 8月 24日、

UNCURK 解体を許可しつつも、UNCについては「いかなる解体への試みをも打ち破るこ

と」を命じた(資料 27)。しかし、こうした米国の思惑に対する中国の出方はなお流動的で

あった。

4. 米中協力と UNCURKのみの「静かな」解体

米政府は 1973年 6月 14日、韓国政府による活動停止(suspension)作業に次ぐ正式解体

(dissolution)を骨子とする 2段階のUNCURK解体案に加えて、74年の国連総会に先立って

UNC解体問題を中国側と討論することを記した文書を中国側に手渡した。引き続きその 5

日後の 6月 19日には、キッシンジャー自らが駐米中国連絡事務所の黄鎮所長との会談に

臨み、ほぼ同様の用意を披瀝しつつ、それを明記した文書を再び伝えた。その上でキッシ

ンジャーは、「我々は、韓国政府に対して、近いうちにこうした提案の一部を、UNC問題

を除いて、発表するよう勧める」と語り、韓国主導によるUNCURKの自発的解体を再確

認した(資料 28)。

さて、前述のように、キッシンジャーはすでに 1973年 2月にUNCURKの自発的解体を

周恩来に約束したが、それは当事者の韓国の了解を得た上で行われたものではなかった。

それゆえ、米政府はUNCURKを放棄するよう執拗に韓国政府を説得した。この過程で

UNCURKの主要構成国であった豪州は脱退を明言し、韓国を圧迫した。結局、韓国の金

溶植外務長官は 73年 7月 12日、「国連加盟国の意思に従う」と述べ、UNCURKの自発的

解体に同意した。

そして争点は一応UNC問題に絞られたが、中国は米国のUNCURK・UNC分離対応案に

対しては依然反対の姿勢をとっていた。キッシンジャーは 9月 26日、黄華との会談で、

同問題に決着を付けようと試み、「UNCは停戦協定と関わる問題であるがゆえに、過渡的

措置を取る必要がある」と主張しつつ、「この問題を少なくとも 1年間棚上げにしたい」

と要請した。これに対して黄は、「UNCは朝鮮半島の当事者関係の進展に妨げとなるだけ

である」(資料 29)と述べ、UNCURK・UNC同時解体の立場を崩さなかった。

このように米中交渉が難航を重ねる中で、北朝鮮は 1973年 9月、独自の決議案を自力

で国連に提出し、対決姿勢を鮮明にした。同決議案は、UNCURKとUNCを明示して解体

を求めただけでなく、韓国にある外国軍、すなわち、在韓米軍の撤退をも要求していた。

米国務省の国連情勢評価によれば、この北朝鮮側の決議案は、韓国支持決議案とともに国

連第 1委員会を通過し、両者ともに 3分の 2以上の同意を要する「重要事項」と指定され

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14 アジア研究 Vol. 55, No. 4, October 2009

総会で票決される可能性がきわめて高かった(資料 30)。

しかし、国連での米中対決が迫ってくると、中国が妥協へのシグナルを送り始めた。喬

冠華外交副部長は同年 9月、ポンピドゥ(Georges Pompidou)フランス大統領に、「中国は朝

鮮問題をめぐって対立したくない。対立状態から抜け出す妙案があれば、受け入れるだろ

う」と前向きな姿勢を示した。中国外交部の朝鮮半島担当者は、同年 10月に訪中した中

立国監視委員会関係者に、「1973年の国連総会ではUNCURK解体以外の変動はあっては

ならない。UNCの将来問題はさらなる対策が必要である」と述べた(韓国外務部、1973b)。

米中間の意見の相違は、キッシンジャーの第 6回訪中直前の 1973年 11月初旬、ようや

く解消された。黄華が、米国のスカーリ(John A. Scali)国連大使との会談で、対立する決

議案を一本化させることに合意したからである。つまり、中国は差し迫った第 28回国連

総会ではUNCURKだけを「静かに」解体させることに同意したのである(資料31)。しかし、

この中国の行動はまた、北朝鮮の同意を得ないまま、一方的にとられたものであった。

同年 11月 11日、キッシンジャーを迎えた周恩来は、「妥協に至った。……しかし、我々

は北朝鮮が動員した支持国と討論しなければならない」とし、11月 14日や 15日に予定さ

れていた朝鮮問題の上程を延期するよう求めた(資料 32)。この周の要請は、米国との秘密

合意を実行するための北朝鮮説得工作が失敗したことを裏付ける。周は、「我々の大使(黄

華)が急いでやってしまった」と不満を漏らしつつ、「ソ連とその追従国家らが妨害策動

を行うだろう」と憂慮した。これを受けてキッシンジャーは、国連大使に中国側との協力

に万全を期することを指示すると応えた。いずれにせよ、この場面は、UNCURK解体を

めぐる米中交渉が政治的に決着付けられる瞬間であった。

ここで注目すべきは、中国がUNCURKだけでなく、UNC問題に対しても相当柔軟な姿

勢を示した点である。周は翌日の 11月 12日に開かれた会談で、UNC解体に伴う、停戦協

定の平和協定への転換問題について、「この問題に対する解決策を探さなければならない」

と主張しながらも、「これは、長い時間を要する」(資料33)と述べた。こうした周の認識は、

停戦協定の有効性を認めつつ、UNC解体に先立って「安定」を保障する制度的整備が必

要であるという米国の考えとも通じるものであった。

中国はUNCURK解体に関する米国との事前合意を守るために、社会主義陣営と第 3世

界圏、特に当事者の北朝鮮に対する説得と根回し工作に奔走した。中国が具体的にどのよ

うに北朝鮮などに影響力を行使したのかは不明であるが、この点について米国務省は、「中

国は我々との妥協案を支援するために、自分の能力以上を発揮している(overplay its hand in

pressing for support for the compromise resolution)」と評価した(資料 34)。

そして 1973年 11月 21日に開かれた第 28回国連総会の第 1委員会では、両者の意見が

折衝され、UNCについては一切言及されないままUNCURK解体決議案だけが総会に提出

され、満場一致で可決された。こうしてUNCURKはその過去の活動を不問に付したまま、

「静かに」解散した。朝鮮問題は、毎年UNCURKが韓国の統一政策を支持する報告書を国

連総会に提出する過程で論争となっただけに、その解体は、国連による朝鮮問題への政治

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米中和解と朝鮮問題、1971–73年 15

的介入の大義名分が大きく傷つけられることを意味し、結局、朝鮮問題が一応国連から切

り離されることに等しかった。

さて、UNCURKの解体過程では、米中ソの三角関係の一面も見られた。当時キッシン

ジャーと周恩来は、UNCURK解体に関する米中間の秘密合意が事前に漏洩され、ソ連が

同問題に介入し妨げることを憂慮した。しかし、キッシンジャーはその 1年後の 1974年

10月、喬冠華との会談で、「ソ連人はUNCURKがどのようにそれほど静かに消えたのか

と聞いてきた。ソ連はいまだに我々の裏面合意を分かっていない」と述べた(資料 35)。

Ⅳ 結論に代えて

「権力政治」(power politics)の支配したデタント期において、米国と中国は和解するにあ

たり、朝鮮問題を調整・「管理」し、その方向性を決定する必要性を共有していた。その際、

米中にとって望ましい朝鮮問題のあり方とは、キッシンジャー・周恩来の会談録を通じて

も明らかになったように、同問題の局地化かつ安定化であった。局地化とは、朝鮮問題が

少なくとも両国関係の障害要因にならないように、同問題を当事者間の問題に限定させる

ことを、安定化とは、同問題の局地化を実現するために必要不可欠な朝鮮半島の緊張緩和

をそれぞれ意味していた。米中はこうした戦略的目標を描き合いながら、「朝鮮半島をめ

ぐる米中協調体制」(U.S. and China Concert of Korean Peninsula)10)とも言うべき新しい危機管理

システムを作り上げ、それまでの朝鮮問題の性格を一変させたのである。

まず、米中和解は、朝鮮半島安定化における物理的な要因となる在韓米軍の役割を再規

定した。当初ニクソン政権はNSSM-48に基づいて歩兵 1個師団を撤退させた後、さらな

る削減を模索したが、この計画は対中接近の過程で中断された。なぜなら、中国が在韓米

軍を安全保障上の脅威ではなく、日本やソ連の朝鮮半島進出を抑える存在として認識する

姿勢に転じたからである。こうした中国側の了解の下で、ニクソン政権は、在韓米軍の追

加削減計画を取り消す一方、その役割を、朝鮮半島及び東北アジアにおける「安定力」

(stabilizer)として再定義する。安定力としての在韓米軍は、地域の不安定化につながりう

る南北いずれの軍事行動を抑制し、かつ、朝鮮半島における「力の真空」を回避して周辺

大国との勢力均衡を維持し、地域全体の安定を保全する役割を担うものと位置づけられ

た。

いま 1つのポイントは、米中が和解に際して、朝鮮半島における正統性をめぐる南北間

の競争に対して一定の規範を示したことである。それは、一言で言えば、朝鮮半島におけ

る「2つの韓国」を認め合わせる過程であった。中国は公には「1つの中国」原則を掲げ

て北朝鮮主導の「1つの朝鮮」を支持したものの、米韓同盟と韓国の存在を否定しなかっ

た。米国にとっても対中関係を進展させ、かつ、朝鮮半島緊張緩和を熟成させるためには、

北朝鮮の政治的かつ法的地位を認めるしかなかった。こうした前提に立ち、米中は、それ

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16 アジア研究 Vol. 55, No. 4, October 2009

まで朝鮮半島における「唯一合法政府」という意味での正統性を韓国だけに与える根拠と

して言われていた「国連帽子」を除去することに向けて協力した。その象徴的な例は、

1973年国連総会で米中協力の下でUNCURKが「静かに」解体されたことである。

UNCURKの解体は朝鮮半島における「正統性を持つ 2つの国家」の存在が国際的に承認

されたことに等しかった。

振り返ってみると、米中和解は、決して朝鮮半島分断構造の解消、すなわち「統一」を

生み出す方向に向けられなかった。それどころか、米中和解は、朝鮮半島における分断構

造の固定化をさらに促進させたという意味で、統一問題をはるか将来の懸案として放置し

た。朝鮮半島の視点からみれば、安定力としての在韓米軍の継続駐留は軍事力による統一

の可能性の封印を、UNCURK解体は分断の現状承認をそれぞれ意味していた。

こうした脈絡で、米中両国がもう 1つの「国連帽子」であるUNCの解体に関しては慎

重な姿勢をとり続けたことは注目に値する。これは、米中ともにUNCの解体による停戦

体制の変動を望まなかったことを示唆する。結局、UNC問題は 1974年以後に大争点とな

り、国連での東西間票対決につながるが、75年の第 30回国連総会で、相反する両側の決

議案が同時に採択されることによって、事実上永久凍結された。そこには、当分の間は急

激な現状打破が好ましくないという米中両国の思惑が反映されていた。

以上のように本稿では、米中を主役とする朝鮮問題の展開に焦点を合わせたが、デタン

ト期に形成された米中共同の影響力がそのまま朝鮮半島に投影された訳ではない。より厳

密に言えば、朝鮮半島は独自のダイナミズムを持ったばかりか、韓国と北朝鮮は度々米中

の戦略的利益に衝突し、その働き掛けを屈折させていた。ここに朝鮮半島におけるデタン

トの内在的矛盾もしくは限界が隠されているが、この点については、改めて別稿で論じた

いと思う。

(注)1) 本稿では、中華人民共和国を中国と表記する。なお、大韓民国は韓国、朝鮮民主主義人民共和国は北朝鮮、かつ、韓国と北朝鮮との関係は南北関係と呼称する。

2) 1953年 7月に締結された停戦協定の正式名称は、「朝鮮半島における軍事停戦に関する一方国際連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官および中国人民志願軍司令官との間の協定」である(神谷不二編、1976: 508–527)。停戦協定における大部分の条文は次第に死文化したが、同協定の核心とも言える責任所在と非武装地帯、軍事境界線に関する規定は依然有効である(黄、2005: 27–28)。

3) ただし、その中でも、洪(2001; 2004)、倉田(2005; 2006)、木宮(2005; 2006)は、米中和解期の朝鮮問題を理解する上で裨益するところ大であった。とくに、拙稿は朝鮮問題を正統性と安全保障の視点で捉える分析の仕組みにおいて倉田氏の論文から示唆を受けた。

4) 第 1回キッシンジャー訪中時の会談録は、毛里・増田監訳(2004)、Burr ed.(1998)にも収録されている。

5) 例えば、リトワクは、ニクソン・ドクトリンを、「政治的撤退を伴わない軍事力削減(military retrenchment without political disengagement)」と定義した(Litwak, 1984: 54)。

6) 米政府は、段階撤収への合意の実質が中国による在韓米軍の容認を意味すると受け止めた。例えば、キッシンジャーは、「周恩来はまったく形式的に漸進的な撤収を宣伝した(He made only a pro forma pitch for gradual U.S. withdrawal)」とニクソンに報告した(資料 9)。

7) ソ連は米側との会談では、公の主張とは裏腹に、在韓米軍の安定力としての役割を認めてきた(資料12)。ちなみに、1970年代におけるソ連の在韓米軍観については、Stilwell(1977)、Choi(1979)を参照。

8) より正確に言えば、「アルバニア決議案」は 1971年 10月 25日、周恩来との会談を終えて帰国するキッ

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シンジャーの飛行機が飛び立った直後に可決された(岡部、2002: 188)。9) UNCが解体されれば、「日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定」(1954年 2月)や、「韓国有事議事録」(別名、「朝鮮密約」、1960年 6月)など、韓国有事における在日米軍の出動および在日基地の使用に関わる「取り決め」が無効になる恐れがあった。詳細は、李(2008)を参照。

10) これは、19世紀における「ヨーロッパ協調体制(the Concert of Europe)」(Shroeder, 1989)になぞらえた造語である。

参考文献日本語

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英語

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Shroeder, Paul (1989), “The Nineteenth-Century System, Balance of Power or Political Equilibrium?,” Review of International Studies, Vol. 15, pp. 135–153.

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(資料 3)Memorandum for Kissinger from K. Wayne Smith, “Five-Year Korea Program,” Jul. 30, 1971, Box

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18 アジア研究 Vol. 55, No. 4, October 2009

H-227, NSC Institutional Files, NPM.(資料 4)Memorandum of Conversation: Chou En-lai & Kissinger, Peking, Oct. 22, 1971, 4:15–8:28 p.m., Box

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1:20 a.m., Box 98, Henry A. Kissinger Offi ce Files, NPM, p. 6.(資料 7)Memorandum for the President from Kissinger, Subject: My Trip to China, Mar. 2, 1973, Box 98,

Henry A. Kissinger Offi ce Files, NPM, p. 16.(資料 8)Memorandum of Conversation: Chou En-lai & Kissinger, Feb. 18, 1973, 2:43 p.m.–7:15 p.m., Box 98,

Henry A. Kissinger Offi ce Files, NPM, p. 44.(資料 9)Memorandum for the President from Kissinger, Subject: My Asian Trip, Feb. 27, 1973, Box 98, Henry

A. Kissinger Offi ce Files, NPM, p. 8.(資料 10)Joint Communiqué between the People’s Republic of China and the United States, Feb.27, 1972,

Box 846, NSC Files, NPM.(資料 11)Memorandum for the President from NSC USC, Subject: Reexamination of the Korea Force

Modernization Plan, May 30, 1973, Box 2324, Central Subject Numeric Files(以下、SNと略記)1970–73, Record Group(以下、RGと略記)59.

(資料 12)Memorandum for Kissinger form the Deputy Secretary of Defense, Attached Paper, “Merits of Converting the Division in Korea to a More Mobile Confi guration,” Sep. 26, 1973, Box H-069, NSC Institutional Files, NPM.

(資料 13)Memorandum for Kissinger, NSSM-154: United States Policy Concerning the Korean Peninsula, Annex A “The Role of U.S. Forces,” Apr. 3, 1973, Box 14, RG 273, pp. 6–7.

(資料 14)Memorandum of Conversation: Kakuei Tanaka and the President, Aug. 1, 1973, 9:30 a.m., Box 927, NSC Files, NPM, p. 3.

(資料 15)Memorandum for the President from Kissinger, “My October China Visit: Discussions of the Issues,” Nov. 11, 1971, Box 847, NSC Files, NPM, p. 4.

(資料 16)telegram 2561 from USUN, “Korea in 27th UNGA: Opposition Activity,” Jul. 19, 1972, Box 2427, SN 1970–73, RG 59.

(資料 17)Memorandum of Conversation: Kissinger & Huang Hua, Jul. 26, 1972, Box 329, Winston Lord Files, RG 59.

(資料 18)Memorandum of Conversation: Kissinger & Huang Hua, Aug. 4, 1972, Box 329, Winston Lord Files, RG 59.

(資料 19)Memorandum of Conversation: Kissinger & Huang Hua, Sep. 19, 1972, Box 850, NSC Files, NPM.(資料 20)telegram 3742 from USUN, “Korea in 27th UNGA: Role of North Korea,” Oct. 7, 1972, Box 2429,

SN 1970–73, RG 59.(資料 21)Staff Notes: East Asia, “The View from Pyongyang,” May 15, 1975, CIA Records Search Tool.(資料 22)telegram 3439 from USUN, “Korea in 27th GA: Comment on Deferral Vote,” Sep. 24, 1972, Box

2427, SN 1970–73, RG 59.(資料 23)Memorandum for the Secretary from Alexis Johnson, “Senior Review Group Meeting, Aug. 10,

1972,” Box 2427, SN 1970–73, RG 59.(資料 24)Kenneth Rush to Kissinger, Subject: Removing the U.N. Presence from Korea, May 29, 1973, Box

99, NSC Files, NPM, p. 1.(資料 25)Memorandum for the Secretary from Marshall Green, “UN Presence in Korea,” Mar. 15, 1973, Box

328, Winston Lord File, RG 59.(資料 26)Memorandum for Kissinger, “Korean Question,” Aug. 3, 1973, Box 2429, SN 1970–73, RG 59.(資料 27)Memorandum for the Secretary of State, “Strategy on the Korean Question in U.N. General

Assembly,” Aug. 24, 1973, Box 99, NSC Files, NPM.(資料 28)Handed over Jun. 14, 1974, Box 99, NSC Files, NPM; Memorandum of Conversation: Kissinger &

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Huang Zhen, Jun. 19, 1973, Box 328, Winston Lord Files, RG 59.(資料 29)Memorandum of Conversation: Kissinger & Huang Hua, Sep. 26, 1973, Box 374, Winston Lord

Files, RG 59.(資料 30)Memorandum for the Secretary, “Korean Question in the UN General Assembly,” Oct. 31, 1973,

Box 2421, SN 1970–73, RG 59.(資料 31)Winston Lord to Kissinger, Subject: Your Trip to China, “The international Scene,” Oct. 11, 1973,

Box 100, NSC Files, NPM, p. 6.(資料 32)Memorandum of Conversation: Kissinger & Chou En-lai, Nov. 11, 1973, Box 100, NSC Files, NPM,

pp. 35–36.(資料 33)Memorandum of Conversation: Kissinger & Chou En-lai, Nov. 12, 1973, Box 100, NSC Files, NPM,

p. 17.(資料 34)DOS Briefi ng Paper, “Korea,” undated, Box 371, Winston Lord Files, RG 59.(資料 35)Memorandum of Conversation: Chiao Kuan Hwa & Kissinger, Oct. 4, 1974, box 331, Winston Lord

Files, RG 59.

中国語

中共中央文献研究室編(1997)、『周恩来年譜』下巻、北京:中央文献出版社。

韓国語

洪錫律(2001)、「1970年代前半における東北アジア・デタントと韓国統一問題」『歴史と現実』通巻42号、ソウル:韓国史研究会、207–241ページ。―(2004)、「1970年代前半における米朝関係」『国際政治論叢』第 44集 2号、ソウル:韓国国際政治学会、29–54ページ。黄源卓(2005)、「停戦協定代替後における韓国防衛体制に関する研究」ソウル:檀国大学博士号請求未公刊論文。

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(り・どんじゅん 日本学術振興会外国人特別研究員 E-mail: [email protected]