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ー119- 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 50 12 分冊 1998 119 ~140 蛇女- レイ アとメリュジーヌの比較考察 1 は じめに 蛇女 とは何 ものなのだ ろ うか。 それ はまず,水 に関係 した超 自然 の生 き物 つまり水の妖精である。水の妖精の最 も代表的な存在は,人魚,特に女の人 魚であろ う。 そ して,人魚 の姿 は, よ く知 られてい るよ うに,上半身 は女性 で下半身 は魚か蛇であ る。 キ リス ト教的図像で は,人魚 は 「女性 の姿 を した 蛇」であり,OED に も.人魚 と同義的 に使われ るセイ レー ンは, 「想 像 上 の 蛇 の一種」 と説明 されて い る。蛇女 は人魚 と同類 と言 え る。人魚 がた いてい 女性であるのと同様, イン ド・ヨーロッパ語圏では,古代の神話 ・伝説 か ら 現代の文学 ・芸術 まで, た いてい蛇 も女性 に化身す る。 しか し, なぜ人魚 も 蛇 も女性 なのだろ うか。蛇 と女性 の繋が りとは何 なのか。 実 は,蛇女 とい うは, イ ン ド・ヨー ロ ッパ語圏 に特有 のテーマで はない。 日本で も,古 くか ら 「女の性 は蛇」 とい う考え方があり, 「女性 が蛇 にな る 話」が数多 く存在す る。 「道成寺物」 と呼 ばれ る様 々な芸能 において描 かれ, 民間でも親 しまれてきた物語が,その代表的な例である。そこに表れている 考え方 は,蛇 は女性 の邪悪 な情欲 の象徴 とい うものであ る。 このよ うな蛇 と女性 の繋 が りの捉 え方, あ るいは,女性 に対 す る認識 は, ヨーロッパの場合 と通 じる ところがあ る。 日本 の場合,蛇 が女性 の肉欲 と結 びっ く背景 には, おそ らく仏教 の影響 が あ ると思 われ るが, ヨーロッパでは, 男性本位 の宗教であ るユ ダヤ ・キ リス ト教 が, それ に対応す る働 きを した こ とには,疑 問の余地 がない。 キ リス ト教 による蛇 と女性 の同一視 は,中世 キ リス ト教美術 において,悪魔 の蛇 の頭部 が, しば しば女性, つ ま りア ダムを 誘惑 したイヴであることに端的に見て取れる。中世 ヨーロッパ社会において は, キ リス ト教的立場 か ら,女性 につ いて,堕蕗 したイ ヴと清 らかな聖母 マ リアという単純な二分法的解釈がなされたが, イヴを唆 してアダムを誘惑 さ せ,彼 らを性 に目覚 め させ た蛇 は,神 の按 に達反す る異教 の象徴であ ると同 (997)

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ー119-

人文研究 大阪市立大学文学部紀要

第50巻 第12分冊 1998年119頁~140頁

蛇女- レイ アとメリュジーヌの比較考察

高 島 葉 子

1 はじめに

蛇女とは何ものなのだろうか。それはまず,水に関係 した超自然の生き物

つまり水の妖精である。水の妖精の最も代表的な存在は,人魚,特に女の人

魚であろう。そして,人魚の姿は,よく知られているように,上半身は女性

で下半身は魚か蛇である。キリスト教的図像では,人魚は 「女性の姿をした

蛇」であり,OEDにも.人魚と同義的に使われるセイレーンは,「想像上の

蛇の一種」と説明されている。蛇女は人魚と同類と言える。人魚がたいてい

女性であるのと同様,インド・ヨーロッパ語圏では,古代の神話 ・伝説から

現代の文学 ・芸術まで,たいてい蛇も女性に化身する。 しかし,なぜ人魚も

蛇も女性なのだろうか。蛇と女性の繋がりとは何なのか。

実は,蛇女というは,インド・ヨーロッパ語圏に特有のテーマではない。

日本でも,古くから 「女の性は蛇」という考え方があり,「女性が蛇になる

話」が数多 く存在する。「道成寺物」と呼ばれる様々な芸能において描かれ,

民間でも親 しまれてきた物語が,その代表的な例である。そこに表れている

考え方は,蛇は女性の邪悪な情欲の象徴というものである。

このような蛇と女性の繋がりの捉え方,あるいは,女性に対する認識は,

ヨーロッパの場合と通じるところがある。日本の場合,蛇が女性の肉欲と結

びっく背景には,おそらく仏教の影響があると思われるが,ヨーロッパでは,

男性本位の宗教であるユダヤ ・キリスト教が,それに対応する働きをしたこ

とには,疑問の余地がない。キリスト教による蛇と女性の同一視は,中世キ

リスト教美術において,悪魔の蛇の頭部が,しばしば女性,つまりアダムを

誘惑したイヴであることに端的に見て取れる。中世ヨーロッパ社会において

は,キリスト教的立場から,女性について,堕蕗 したイヴと清 らかな聖母マ

リアという単純な二分法的解釈がなされたが,イヴを唆 してアダムを誘惑さ

せ,彼らを性に目覚めさせた蛇は,神の按に達反する異教の象徴であると同

(997)

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時に,I) 人間を堕落させる情欲,特に男を誘惑する堕落 した女性の情欲の象

徴として必要祝されたのである。

中世 ヨーロッパでは,このように女性を単純な二分法的解釈で捉え,女性

の負の面を異教と情欲の象徴としての蛇で表 していた。 しかし,時代が進む

につれて女性観 も変化 し,女性を人間的に捉えるようになると,蛇女のイメー

ジにも変化が見 られるようになる。特に19世紀ロマン主義においては,かつ

ては異教と情欲の象徴としてしばしば描かれた,蛇を含めて人魚など一般に

「水の妖精」と呼ばれる超自然の生物が,再評価され,人間的な膨6'みを持っ

た女性像を与えられるようになる。2)たとえば,フ-ケの 『水妖記』(1841)

のウンディーネは,騎士への愛のために人間界に住み,その結果,人間の魂

を持っようになる。やがて,夫である騎士の誤解から水の世界に戻るが,騎

士が別の女性と結婚することになり,水の世界の按に従って夫の命を奪わね

ばならなくなる。今や魂と感情を持っ存在である彼女には,それはあまりに

残酷な定めである。このようなウンディーネには,邪悪な蛇女の姿はない。

蛇女のイメージは同一ではない.時代とともに変化する.時代を遡った前

ユダヤ ・キリス ト教時代であれば,また,当然,蛇と女性の関係は異なる。

多くの古代世界で,蛇は地母神と同一視され,信仰の対象であった。

このように,蛇と女性の関係は,時代,社会,宗教の違いによって大きく

異なる。本論では,こうした背景を踏まえたうえで, ヨーロッパの異なった

時代の 「女性が蛇になる話」を二話選び,個々のテキストにおいてどのよう

に蛇女が描かれているか,比較検討 してみたい。二話は,イギリス ・ロマン

派のジョン・キーツ(JohnKeats)による 『レイ ミアJI(Lamia)(1819)と,

フランスのクー ドレット(Coudrette)によって15世紀初頭に書かれた rメリュ

ジーヌ物語J)(LeRomandeMblusine)である.議論の進め方として,キー

ツの 『レイミア』を中心にして,これを 『メリュジーヌ物語』と比較 してゆ

くことにする.すでに述べたように,ロマン派は蛇女をプラス ・イメージで

人間化 して描 く傾向にあった。このようなロマン主義時代の蛇女の例として,

レイミアを採り上げる。そして,これと中世時代の蛇女のメリュジーヌを比

較する。このことによって, ヨーロッパのロマン主義時代の生んだ蛇女の一

つの像を浮き彫 りにしてみたい。

近代 ヨーロッパにあっては,女性を,邪悪な魔女と清純な聖女というよう

な,単純な二分法的解釈によって見ることはもはや時代遅れであり,それと

ともに,蛇が女性の邪悪さの象徴,特に情欲の象徴という考え方も揺らいで

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -121-

くる。蛇女は,ロマン派にとって,悪女の化身でも,恐れの対象でもないよ

うである。このようなロマン派の一人であるキーツの描 く蛇女とは,どのよ

うな存在であろうか。 レイミアをメリュジーヌと比べるとき,メリュジーヌ

より脆弱な存在に見える.か弱く,惨い存在という印象を与える。これは,

レイミアが魔物ではなく,善でもあり悪でもある人間の女性として描かれて

いるためなのであろう-か。この違いはどこから来るのだろう。

2 レイミア像の新 しさ

まず,本題に入る前に,従来の蛇女のイメージとの レイミア像の違いを確

認 しておく。

キーツの rレイミアJIは,中世の蛇女とはかなり異なったイメージを持っ.

物語の背景はキリス ト教社会ではなく,ギリシャ・ローマ神話の世界であり,

登場する超自然の生き物 も,ヘルメス,ニンフ, レイ ミア,すべて神話世界

の住人である。そして,舞台はイギリスではなく,ギ リシャのコリントとい

う設定になっている。ロマン主義時代には,キリス ト教信仰が揺 らぎ,古代

の異教や土着信仰に関心が向けられた。キーツにも当然その傾向があり,古

代ギリシャの神話を題材とした作品を多 く書き残 している。 レイミアち,神

話時代の想像力の産物である。 しかし,無論,キーツの レイミアの新味は,

舞台設定だけのものではない。

重要な違いは,邪悪のイメージが非常に弱いことである。確かに,第-部

の前半にある蛇身のレイミアの描写には,悪魔的な美 しさが表現されている。

Shewasagordianshapeofdazzlinghue,

Vermilion-spotted,golden,greenandblue;

Stripedlikeazebra,freckledlikeapard,

Eyedlikeapeacock,andallcrimsonbarred;

Andfullofsilvermoons,that,asshebreathed,

Dissolved,orbrightershone,or,interwreathed

Theirlustreswiththegloomiertapestries-

Sorainbow-sided,touchedwithmiseries,

Sheseemed,atonce,somepenancedladyelf,

Some.demon'smistress,orthedemon'sself.(Ⅰ47-56)3)

(999)

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この蛇が,人間の美 しい乙女に姿を変えて青年哲学者 リシアス(Lycius)を誘

惑し,美 しい宮殿で官能の悦楽に浸るのである。これはまさに妖魔の所業で

ある。 しかし,第二部において,二人の快楽の園に繁りが見え出すころから,

レイミアの妖魔性が急速に薄れる。 レイミアとの濃密な愛の生活に酔いしれ

ていたリシアスも,やがて現実に目覚める。人間社会に戻りたいという気持

ちの強まりつつあるリシアスの,心ここにあらずの様子に, レイミ了の心は

悲 しみと嘆きで一杯になる。その悲嘆の姿は,傷っきやすい純真な乙女その

ものであり,男を誘惑 し破滅させる魔性の女ではない。

‥ .andshebegantomoanandsigh

Becausehemusedbeyondher,knowlngWell●

●Thatbuta●moment'sthoughtispassion'spasslng-bell.

Whydoyousigh,faircreature?'whisperedhe;

Whydoyouthink?'returnedshetenderly,

Youhavedesertedme- wheream Inow?

Notinyou'rheartwhilecareweighsonyourbrow-

No,no,youhavedismissedme;andIgo

From yourbreasthouseless;aye,itmustbeso.I(ⅠⅠ37-45)

このようなレイミアの姿を見て, リシアスがコリ¥十で結婚式をすること

を提案すると,それが破局に繋がると分かっているレイミアは,泣いて,忠

い止まってくれるように懇願する。 しかし,これは,彼女の真意を分かるは

ずもないリシアスを怒 らせてしまう結果となる。興味深いことに,このとき

邪悪に描かれているのは,むしろリシアスの方である。彼は, レイミアを苦

しめることを楽 しみさえしている。とうとうレイミアの同意を得たリシアス

は,「蛇 ピュトンを打ち殺すアポロ」のようであり, レイ ミアは彼に殺され

る蛇というより, もはや 「蛇ではなくなった」従順な乙女とされやいる。

●AgalnSthisbetterself,hetookdelight

Luxuriousinhersorrows,Softandnew.

Hispassion,Cruelgrown,tookonahue

FierceandsangulneOuSaS'twaspossible●

Inonewhosebrowhadnodarkveinstoswell.

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -123-

Finewasthemitigatedfury,like

Apollo'spresencewheninacttostrike

Theserpent- ha,theserpent!Certes,She

Wasnone.(ⅠⅠ73-81)

もはや蛇性を失 った レイ ミアではあるが,結婚式の宴で, リシアスの老師,

アポロニウスに正体を見抜かれ,脱み殺 される。 ここで もキーツは,邪悪な

のはレイ ミアではなく, アポロニウスとして描いている。 レイ ミアを凝視す

る老師の視線は, リシアスによって 「悪魔の眼」 と呼ばれるのである。

Corinthians!Lookuponthatgray-beardwretch!

Markhow,possessed,hislashlesseyelidsstretch

Aroundhisdemoneyes!(ⅠⅠ287-89)

このように,キーツの レイ ミアは,邪悪な魔性の女性 という蛇女のイメー

ジからはかなりずれている。 このずれについてさらに議論を進めてゆ くわけ●●●●● ●●

であるが, ここで少 しレイ ミアの常套的イメージを概観 しておこう。

伝説によると, レイ ミア (ラミアとも呼ばれる)はベ ロスと リビュ工の娘

で,その美貌ゆえにゼウスに愛 されたため,ヘラが嫉妬 し, レイ ミアが子供

を産むたびに貴 り食 うようにさせた。 レイ ミアは絶望のあまり洞窟の奥にこ

もって怪物になり,夜毎,子供をさらって食べた, と言われている。4) 中世

になると, レイ ミアは魔女の総称 となる。5) イギ リスでは,17世紀 に トプセ

ル(Topsell)によって書かれた 『四足獣物語J)(TheHistoricofFoure-

FootedBeasts)(1607)のなかに, レイ ミアが登場する.キャサ リン・プリッ

グズ (KatharineBriggs)によれば, トプセルの本文 には木版画の挿絵がつ

いており,そこに描かれた レイ ミアは,鱗のある四足獣で後脚に蹄,前脚に

的爪があり,顔は女だが,男性性器 と女性の乳房を持っ,両性具有の生 き物

であるという。6) また,次のように,淫 らな女性あるいは売春婦であ り, し

ばしば男を喰い殺すと トプセルは説明 しているということである。

So the Lamiae are but poeticall alligories of beautifull

Harlottes,whoaftertheyhavehadtheirlustbymen,doemany

timesdevourand makethem away,asweread of DioTnedes

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daughters,andforthiscausealso'HarlotsarecalledLupae,shee-

Wolves,andLepores,Hares.7)

中世以来の, このような邪悪のイメージが,当時のイギ リスでも一般的で

あったのであろう。 しか し,キーツのレイミアは常套的な扱いはされていな

い。確かに姿は 「蛇になる」が,上記のような,いわゆる 「ワギナ・デンクー

タ」のイメージは持たない。キーツが 『レイミア』を書 く際に拠 り所とした

のは,同 じ17世紀だが 『四足獣物語』より後に出版されたロバー ト・バー ト

ン(RobertBurton)の 『憂苦の解剖』(TheAnatomieofMelancholy)

(1621)の中で紹介されている,フイロストラトスによる 『アポロニウスの生

涯』に出てくるというレイミアの話である。哲学の徒である青年メニッボス・

リシアスが美 しい蛇女 レイミアに誘惑され,ついに結婚式をコリントの町で

挙げることになった。ところが,婚礼にはリシウスの師であるアポロニウス

も列席 していたが,彼によってレイミアが実は蛇であると見破られる。正体

を見破 られたレイミアは,何千もの人々の目前でかき消えてしまう。8) バー

・トンの記述によれば, レイミアは男を喰い殺す妖魔などではない。無論,キー

ツは, レイミアについての古 くからの伝説 もトプセルの解釈 も知っていたは

ずである. しか し,あえてそれを無視 してバー トンの記述に従ったoここに,

邪悪なイメージを剥ぎ取 ったレイミア像を描こうという,彼の意図が窺える。

そして,実際,キーツのレイミアは,上述のように,常套的な魔性の蛇女で

はなく,傷っきやすく純情な人間の女性という性格を強く持つ水の妖精であ

る。

しか し,ここでひとっ疑問が生 じる。キーツのレイミアは蛇性を失ったに

もかかわらず,最後に蛇に戻る。 これはどう考えればよいのか。すでに指摘

したように, レイミアは, リシアスの怒りによっていったん蛇ではなくなっ

た,と語 られていた。 しかし.アポロニウスによる凝視で蛇の姿に戻る。女

性が蛇である内実が変化 しているというのか。つまり, リシアスによって,

彼女の中の 「蛇」が魔性の蛇ではなくなり,別の善良な属性をもっ蛇になっ

たということなのか。アポロニウスにはその違いが分からぬというわけだろ

うか。それゆえ,彼の眼線は 「悪魔の眼」ということなのか。それとも,蛇

女は退治すべき邪悪な存在である, という払拭 し難い観念の残倖なのか。

「蛇」の意味合いがどうも嘆味であり, レイミア像 も捉え難 くなる。

次節では,この唆昧さについて,メリュジーヌと比較 しながら考える。

(1002)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -125-

3 蛇女の両義性

批評家諸氏のレイミア解釈を見てみると,善良説ばか.りではなく,善 ・悪

両説が存在する。「有害な女性,魔性の蛇女, リシアスを破滅させた女性」

という説もあれば,「人間愛を越えた愛の精霊」と見る説もある。また,初々

しい乙女のしぐさでリシアスを誘惑する欺嘱性がある一方で,傷っきやすい

心をもつ処女のようでもある,というような両価説もある。9) このように解

釈が分かれるのも,上述 した彼女が 「蛇に戻る」ことの意味の唆昧さに一因

があるだろう。確かに, レイミアは邪悪な妖婦ではない。かといって,慈愛

に満ちた聖母,混じりけのない純白イメージでももちろんない。学徒である

リシウスを誘惑し,官能の世界に引きずり込んだのは,紛れもない事実であ

る。そして,純真な人間の女性になったかと思うと,最後にやはり正体は蛇

であると露見する。

邪悪説に対する反論として,たとえば,次のような見解がある。

もしレイミアが邪悪なら,自分の破滅につながることを知りつつ,人間界

の按による結婚式をあげ,自分の正体をさらす愚行はしなかっただろう。

もし残酷な女としたら,男を愛の樫椿にがんじがらめに捕える,その束縛

性だけだろう。10)

これは,一見なるほどと思われる説明だが,よく考えてみると,男性側から

の論理にすぎないのではないだろうか。破滅に繋がると知りつつ結婚式を挙

げるのも,相手を束縛するのも,結局のところ,相手に対する一途な思いか

ら出る行為である。その思いの切実さという点では,何 ら変わらない。女性

にとっては,ただ,心情の表れ方が違うだけである。結果だけを見て,邪悪

な妖魔か純真な乙女か,二分法的解釈をすること自体が,中世的観念を引き

ずった無意味な議論であろう。女性の愛が,男性にとって,そもそも両義性

を持っものである,と考えるべきである。キーツのレイミア像の唆昧さも,

この両義性のゆえであろう。女性に関する中世的な善悪二元論を超えるには,

蛇女を汚点のない清らかな聖女的女性へと変身させるのではなく,善 も悪も

兼ね備えた,より人間的女性像として措 く必要があったのであろう。このよ

うに考えれば,レイミアが最後に蛇に戻るというのも納得がゆく。

では,この両義性が, レイミアがメリュジーヌに比べて脆弱な印象を与え

る理由なのだろうか。次に,この点に考察を進めてゆこう。

(1003)

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いよいよ, もう一人の蛇女メリュジーヌに登場 してもらう。まず,彼女の

蛇身はどのように表現されているだろう。 レモンダン(Raymondin)が覗 き

見する彼女の入浴姿は,次のように下半身が 「太 く恐ろしい」蛇である。

●Ilregardeetd昌couvreM昌1usineaubain:illavoit,]usqu'畠 1a

taille,blanchecommela neige sur la branche,bien faite et

gracieuse,1evisagefraisetlisse. Certes,onnevitjamaisplus

bellefemme.Maissoncorpssetermineparunequeuedeserpent,

enormeethorrible,burel昌ed'argentetd'azur.ll)

(彼が覗いてみると,休浴するメリュジーヌの姿が見えました。腰までは

木の枝に積 もった雪のように真 っ白で,形のよい,優美な身体で した。疎

は,みずみず しく,つややかで した。ほんとうに,これほど美 しい女性は

いませんで した。 しか し彼女の下半身は蛇の尾だったのです。それは,太

くて恐ろしく,銀色と紺碧色に輝いていました。)

これは.女性の頑と胸を持ち,下半身は蛇 というようにしばしば描かれた,

中世の教会に見 られる 『創世記』の蛇の姿 と一致する。12)そして,最後に レ

モンダンに正体を暴露されて, リュジニヤン城か ら飛び去 る場面では,全身

巨大な蛇 と化 したと書かれている。

Devanttouslesbarons,ellequittelafen昌tre,aprescesparoles,ヽ

ets'envoleaussit6t.Al'6bahissementgan6ral,elles'esttransform6e

enuneimmenseserpente,etlafe'edevenueserpentealaqueue

burel昌ed'argentetd'azur.TandisqueRaymond[in]sed昌sesptere,elle

faittroisfoisletourdelaforteresse,poussantachaquetourun

criprodigieux,uncriStrange,douloureuxetpitoyable.(106)

(このように言い終えると,そこにいたすべての臣下の目前で,彼女は窓

から飛び出したかと思 うと,あっという間に,空中に舞い上がりました。

誰 もがぼう然 としました。なんとそのとき彼女は大きな蛇に変身 したので

す。蛇になったこの妖精の尾は,銀色と紺碧に輝いていました。 レモンダ

ンが悲嘆にくれていると,彼女は三度城砦のまわりを旋回 し,その度に異

様な声で叫びました。奇妙な,それでいて悲しく哀れを誘う叫び声でした。)

(1004)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -127-

この空飛ぶ巨大な蛇は,聖書の黙示録の中で天に現れる,「悪魔 とか, サタ

ンと呼ばれる,年を経た蛇」13)である巨大な龍を連想させる.キ リス ト教的

中世においては,龍は,黙示録のこの記述に基づいて,悪の化身,悪魔その

ものを意味 していた。14)メリュジーヌが変身 したこの巨大な蛇 も,紛れ もな

い悪魔の蛇と見える。 しか し,不思議にも,物語においては,メリュジーヌ

には悪魔的性格は見られない。

『メリュジーヌ物語』は15世紀初頭というキリス ト教的時代の作品である。

従って,キリスト教的色彩が濃い。 しかし,それは,メリュジーヌがキリス

ト教的常套の悪女や,悪魔として描かれているということではない。ジャン・

マルカル(JeanMarkale)によれば,『メリュジーヌ物語』には 「教化の意図

がはっきりと表れている。」15) メリュジーヌは,人間ではなく,妖精であり,

魔物である。下半身が蛇であり,生まれてくる子供もみな身体に何 らかの異

常のある魔物である。にもかかわらず,いや,だからこそ,彼女はキ リスト

教徒化され,非常に信心深いキリスト教徒となっている。寄進者であり,城

ばかりではなく,修道院や教会も建設する。そして,人間と同じように死ぬ

こと,救われることを願っている。 レモンダンとの結婚 もそのためである。

死すべき人間の男性と結婚 し,正体を知 られることなく,人間として平穏に

死ぬまで暮 らさなければならない。これが救われるための条件である。 しか

し,結局,彼女は人間として救われることはない。まじめなキリス ト教徒で

ある魔物,これがメリュジーヌである。彼女もまた,邪悪な蛇女とは言えな

い存在である。

確かに,メリュジーヌには,わが子の命を奪うようにレモンダンに命じる

という残酷な面がある。 しかし,蛇の姿になりリュジニヤン城を去った後も,

末子二人に乳を飲ませににやって来るという,母親 らしい愛情 も持ち合わせ

ている。

また,男性に対する愛情という点でも, レイミアに見 られた優 しさが,や

はりメリュジーヌにもある。ある意味では, レイミアより優 しいと言えるか

もしれない。彼女は, レモンダンが禁忌を犯 して自分の正体を知って しまっ

たとき,彼を許 し,気づかぬ振りをする。知ってしまった以上,いずれ他言

して正体を暴露することは,十分予想できるにもかかわらず,気づかぬ振り

をして見逃すのである。そして, レモンダンがとうとう彼女が忌まわしい蛇

であると公言 したときでさえ,恨みの言葉というより嘆きの言葉を吐き,神

に彼の過ちを許 してくれるように祈る。

(1005)

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-128-

C'estpartaseulefaute,Raymondin,etpouravoirtroppar16,que

tuvasperdrecellequetuaimes. Maisjenepeuxplusfester,

momamour,jedoispartir.QueDieutepardonnetonslescrimes

quetuascommisenversmoi,carpartafaute,JeCOnnaitraile●

tourmentjusqu'aujourduJugement.J'6taisgr丘ceatorsortiede

latristessepourentrerdamslaJOle.H81as!malheureuse,mevoici●■

rejet6edansladouleuralaquellej'avais6chapp6!(104-05)

(それはあなた一人のせいなのです, レモンダン様。あなたはおしゃべり

が過ぎたために,愛する者を失 うことになるのです。さあ, もうこれ以上

は居 られません。愛 しい人,行かなくてはなりません。 どうか神様が,あ

なたが犯 したわたしに対する罪をお許 し下さいますように。あなたのせい

でわたしは最後の審判の日まで苦 しみを味わうのです。あなたのお陰で,

わたしは悲 しみから抜けだし,喜びを知 りました。ああ,でも何という不

幸で しょう !またあの苦 しみの中に戻っていくのです。一度は逃れたあの

苦 しみに !)

そして,彼女の正体を暴露するレモンダンの方を,むしろ残酷で理性のない

愚か者であると,語 り手は告げる。

Ilper°laraisonetprononceuneparoledontilnepourrapas

assezserepentirjusqu'asamort. Illafixed'unregardfarouche

etorgueilleuxet,apresquelquessecondesder6flexion,la folie」コ

s'emparedeluietluifaitprononcerdevanttousd'unevoixforte

cesparolesimpitoyables:

- Ha,serpente,talign6en'arriverajamaisariendebon!...(101)

(彼は理性を失 って,一生悔やんでも悔やみきれない言葉を口にしてしま

うのです。残忍で倣慢な日差 しで,彼はメリュジーヌを見つめました.少

し考えた後,彼は狂気に捕 らわれ,皆の前で,大 きな声で,残酷にもこう

言 ったのです。「ああ,蛇め,おまえの血を引くものは善とは無縁なのだ…)

このように, メリュジーヌも,善悪二元論では説明できない両義的な存在

となっている。 もっとも,作者クルー ドレットの意図は,キーツの場合とは

明らかに異なっている。マルカルの述べているように,その目的が教化にあっ

(1006)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -129-

たことは疑いない。にもかかわらず,結果として,いずれも中世的常套の邪

悪な悪魔の化身である蛇女ではない,という点で似ている。善悪二元論を超

えた両義的蛇女像が,ロマン派キーツのレイミアの特性 というわけではない,

と言わねばならない。それならば, レイ ミアをメリュジーヌに比べて脆弱に

見せているのは何なのか。善でも悪でもない両義性が, レイミアに人間的女

性 らしさを与えている結果ではないようである。そこで,視点を変えて考え

てみよう。

4 異界の住人

レイミアの脆弱さが際立っのは,やはり彼女があまりに簡単に,あっけな

く息絶え,幻影のごとく消え失せてしまう場面である。哲学者アポロニウス

の凝視によって,何 ら抵抗を示さぬまま殺され,かき消えてしまうのである。

アポロニウスの鋭い視線に見据えられ,みるみる生気を失 っていくレイミア

の姿は,哀れを誘いさえする。

● ●'Begone,fouldream!'hecried,gazingagain

Inthebride'sface,wherenownoazurevein

Wanderedonfair-spacedtemples;nosoftbloom

Mistedthecheek;nopassiontoillume

Thedeep-recess昌dvision.(ⅠⅠ271-75)

そして,ついに蛇身に化すが,おぞましいはずのその姿はもはや描写されず,

Aserpent!'echoedhe;nosoonersaid,

Thanwithafrightfulscream shevanish昌d:.‥ (ⅠⅠ305-06)

とのみ記されて,惨 く哀れな最期という印象を強めている。

アポロニウスは神に仕える聖職者ではなく, レイミアは神を恐れる悪魔で

はない。にもかかわらず,あたかも悪魔払いによって姿を消す魔物のように,

レイミアは哲学者の視線によって消え去る。なぜかくも簡単に消滅 してしま

うのか。

キーツ的文脈で読むなら,妖精であるレイミアは, もはやキ リス ト教的悪

(1007)

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-130-

の化身ではなく,詩人の想像力が生み出した美の幻影であり,哲学者アポロ

ニウスは,その想像力を破壊する理性,合理主義的思考である,という解釈

が可能である。物語の第二部で,アポロニウスが登場する場面に先立っ箇所

に,次のような詩句がある。

Donotallcharmsfly

Atthemeretouchofcoldphilosophy?

●PhilosophywillclipanAngel'swlngS,

Conquerallmysteriesbyruleandline,

Emptythehauntedairandgnom昌dmine-

Unweavearainbow,asiterewhilemade

Thetender-personedLamiameltintoashade.(ⅠⅠ229-38)

井村君江氏は,この箇所について,「想像力 (空想)と感覚の美を重んずる

キーツにとって,哲学 (知識)は神秘のヴェールをはがし,精霊や妖精たち

を追い払い美 しいレイミアをも溶かし消すものと考えられている」16)と述べ

ている。「美こそ真実」17)とするキーツであれば,想像力が生み出す美を冷

徹な合理精神が消 し去ることこそ,もっとも忌まわしいことである。想像力

の産物である美 しい妖精 レイミアを消し去る哲学者アポロニウスの視線が,

「悪魔の視線」とされるのも,このためであろう。 ここで 「鋭い刃物のよう

な」("Likeasharpspear")(ⅠⅠ300)理性の眼によって暴かれるものは,厳

密には二つある。-まず,美 しく 「優しい心根の」("tender-personed'')乙女

が実は蛇女であること,次に,そのような超自然の生き物が,実体のない幻

影にすぎないこと。そして, レイミアが蛇の正体を顕わすやいなや一瞬にし

て消えてしまうこと, しかも,蛇の姿がリシアスの言葉によって伝えられる

のみで,描出されていないことから,第二の暴露に重点が置かれていると考

えられる。近代合理主義の時代にあっては,妖精は想像力の生み出す幻影に

すぎない。キーツは,このような惨いものの中に永遠性を求めた詩人である。

しかしそれも,やはり出発点に厚さの認識があるからこそである。 レイミア

が脆弱に感 じられるのは,近代人キーツ自身による,この捗さの認識に一因

があるのではないだろうか。

メリュジーヌは,このように惨い存在のレイミアに比べて,はるかに存在

(1008)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -131-

感があり,達 しさが感 じられる。メリュツナ ヌが中世の蛇女であることを考

えれば,これは当然と言える。中世は,妖精にせよ,悪魔にせよ,超自然の

生き物が合理主義精神によって幻影として消し去 られることなどなく,その

実在がまだ多くの人々に信 じられていた時代なのであるから。

メリュジーヌの,幻影であり,実体のない存在でしかないレイミアとの違

いは,正体が暴露されても存在が消失 しないという点に如実に表れている。

すでに述べたように, レモンダンに正体を知られるときには,他言 しなかっ

たという理由で彼の裏切 りを許 し,それまでどおりの生活を続ける。最後に

人々の前で暴露され, リュジニヤン城を去るが, レイミアのように一瞬にし

てかき消えるわけではない。まず,長々と,夫の愚かしさのために去 らなけ

ればならなくなった悲 しみを語る。 レモンダンも他の人々もその場に居合わ

せた者は皆,彼女の悲痛な嘆きを涙を流 して聞く。 レモンダンは自分の愚か

な行為を嘆きさえする。その後,別れの挨拶を交わして空の彼方へ飛び去る。

しかし,まったく姿を消すわけではなく,乳飲み子に乳を与えに密かに戻っ

たり, リュジニヤン城の城主が代わるときには,城の回りに姿を現 したりす

る。

重要な違いは, レイミアの場合,その実在自体が否定,あるいは少なくと

も疑われていることである。メリュジーヌも,確かに,表面上は姿が消える。

しかし,存在が消失 したわけではなく,見えない場所で存在 している。地中

であれ,空の彼方であれ,それは 「異界」と呼ばれる場所である。彼女は人

界から異界へ戻ったと言える。従って,その実在が疑われることは決 してな

い。中世人クードレットの措 く世界は,いわば人界と異界が共存 している。

超自然の生き物が異界から人界を訪れ,人間と暮らし,また異界へ戻ってゆ

く。またその逆も可能である。人界と異界が交錯する世界観が,まだ生きて

いた時代である。 しかし,近代人キーツにあっては,異界は夢想の中にしか

存在し得ない。理性の眼で見つめれば,それはたちどころに霧のように消え

失せる。この違いは,結婚式に対する二人の態度にもよく表れている。多く

の人を招いての盛大な結婚式というリシアスの提案に, レイミアは,恐れで

青ざめ,泣いて反対する。

Thelady'scheek

Trembled;shenothingsaid,but,paleandmeek,

Aroseandkneltbeforehim,weptarain

(1009)

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-132-

Ofsorrowsathiswords;atlastwithpalm●

Beseechinghim,thewhilehishandshewrung,

Tochangehispurpose.(ⅠⅠ64-69)

これにたいして,メリュジーヌは恐れることも,怯えることもない。むしろ,

Nousc616breronsnoblementmosnoces.Ilfautt'efforcerd'amener

icidesgensquisoientt6moinsdumariage.(55)

(立派な結婚式を挙げましょう。結婚に立ち会って下さる方を,あなたに

は努力 して,たくさんお連れしていただかなくてはなりません。)

と,自ら,多 くの参列者を招待 して,結婚の披露をすることが必要であると

語る。人間の理性の眼を恐れるものと,恐れぬもの,いや,恐れることを知

らぬものの違いであろう。

レイミアとメリュジーヌは,同じく妖精という異界の生き物でありながら,

人間界との関わり方には,それぞれの時代の異界に対する考え方の違いが反

映している。それが,二人の人物像にも影響 している。 しかし,メリュジー

ヌが, レイミアに比べて,存在感のある遥 しい女像性を呈 しているのには,

他にも原因があるようである。それは,メリ土ジーヌがより古い時代,太古

の時代に起源を持っ蛇女であることと関係がある。

5 ケル ト神話の残照

メリュジーヌ伝説はケル ト神話と関連があると言われている。マルカルも

「アヴァロン島へのさりげない言及は,この物語が明らかにケル ト起源であ

あると示 してしていると思われる」lHと述べているoF'メリュジーヌ物語』は,

極めてキ リス ト教的時代に書かれた物語であるにもかかわらず,異教である

ケル ト神話の影響が認められる。ケル ト神話においては,力強く,遥 しい女

神達が活躍する。主導権を握るのは男神ではなく女神である。男神や英雄は,

父親ではなく,母親の名前にちなんで呼ばれることが多い。例えば,アイル

ランドには 「トァ- ・デ ・ダナ-ン」と呼ばれる神族がいるが,この名前の

意味は 「女神ダヌを母とする部族」である。土地の守 り神にも女神が多く,

その名前が山や野原など地名の起源となっている。 このような女神像が,メ

リュジーヌの性格にも反映 している. レイミアには見られない性格上の達 し

(1010)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -133-

さは,太古の神話の女神に起源を持っ妖精の遥 しさである。

メリュジーヌの母親であるプレジーヌ(Pr6sine)は,妖精, あるいは女神

であり,妖精の国であるアヴァロン島の住人である。アヴァロン島は,ケル

ト神話における異界であり,理想郷である。そして,この島は,女神モルガ

ンを長とする十人姉妹の女神が統治 しているという.19)従って,-プレジーヌ

はモルガンの妹の一人ということになる。このモルガンは,傷や病気を癒す

術に長け,姿を変え,鳥になって飛ぶことができるとされている。後に,アー

サー王物語のモルガン・ル ・フェとなるわけだが,モルガンの原型は,ウェー

ルズの神マボンの母である女神モ ドロンであると言われている.20)「モ ドロ

ン」はウェールズ語で 「母なる」という意味の言葉であり,この女神は母神

(mothergoddess),さらには太母神(greatmother一goddess)で ある。21)従っ

て,プレジーヌはもとより,メリュジーヌも,ケル トのこの母神をその先祖

に持っことになる。また,アイルランドでモルガンに対応するのは,戦いの

女神モリガン (モリグ-)である.モリガンをもルガジの原型とする解釈が

かつてはあったが,現在では無関係であるという見方が主流である.22)しか

し,モルガンとモリガンは鳥に変身するという共通点を持っ23). メ リュジー

ヌも翼のある蛇に変身 して空を飛ぶことを思い出すなら,彼女とこれ らの女

神との類縁関係が見える。

プレジーヌもメリュジーヌも,未来の夫と出会うのは泉のほとりである.

これは民話においては月並みなモチーフであるが,ケル ト神話との関係で考

える以上,無視はできない事柄である。泉のほとりで出会う女性は,アーサー

王物語のヴィヴィアンや湖の姫と同様に,水の妖精であり,古代ケル トの

「水神」(watergoddess)の末商である。古代ケル ト人にとって,泉,井戸,

湖,河など,水のある場所は神聖な場であった。彼 らにとって,水は生命力

の源泉であり,異界への入 り口であり,また,傷や病気を癒す場所であった

のである。24)そして,こうした聖なる水を司る 「水神」はたいてい女神であ

る。古代ケル トの地にある多 くの河の名前には,女神の名前が兄い出される。

先に言及 した女神モ ドロンのガリア名はマ トローナ(Matrona)であるが,25)

これはマルヌ川(theRiverMarne)の起源となる。26)また,アイルランドの

女神ダヌの名前も,イギ リスやアイルランドばかりでなく,大陸にも多 く河

の名として残っている.27)そして,この河の名の由来となっているマ トロー

ナとダヌが,母神であることに留意されたい。ケル トの水信仰は母神信仰と

の繋がりが強い。生命を産み育てる力 と癒す力は分かち難 く結びっいてい

(1011)

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- 134-

る。28) メリュジーヌの祖先は水神であり,母神である.

ま.た,メリュジーヌが蛇女であるという事実も,彼女とケル トの女神との

血縁を示 している。女神と蛇の繋がりはケル トに固有の現象ではない。古代

宗教にあって,蛇が再生と豊鏡の象徴によって地母神と結びついていたのは,

かなり普遍的な事柄であったようである。 しかし,ローマ-ケル ト図像にお

いて,移 しい数の女神像,特に母神像が蛇を伴っているのはやはり無視でき

ない。29)

古代の母神を祖先にもつメリュジーヌは,その性格を受け継いでいる。彼

女は,豊鏡の象徴である母神のごとく,多産である。次々と子供を産み,育

てる。そして,すでに言及 したように,夫のもとを去った後 も母としての役

割は捨てない。また,城や砦や教会を建設 し, リュジニヤン家に栄誉と繁栄

をもたらす。これも,広い意味で,豊かさを与える母神の力の表れと言える。∫さらに,彼女はレモンダンの妻というより母親と呼ぶにふさわしい。何事に

つけ,導き,主導権を握るのはメリュジーヌの方である。すでに述べたよう

に,ケル ト神話では女神が主導権を握る。メリュジーヌとレモンダンの関係

にもそれが反映 している。彼女は城砦を建設するが,これに名前を与えたの

は彼女自身である. しかも,自分の名前の一部をとって リュジニヤンと付け

たのである。結婚を申し出るのも彼女からである。結婚式を取り仕切るのも

彼女である。 レモンダンは,言われるままに動 くだけである。この力関係は,

レイミアの場合と全 く逆である。出会いの場面では,_.レイ ミアは積極的に行

動 し,魅惑的な姿で リシアスを誘惑する。 しかし, リシアスの心に人間社会

に戻りたいという気持ちが芽生えたことに気づくと, もはや彼女は彼を失い

たくないばかりに,彼の言いなりになる。人目に身を曝せば破滅に繋がると

知りつつ,泣 く泣く結婚式を承諾する。主導権はリシアスの手中にある。

Sheburnt,shelovedthetyranny,

And,allsubdued,consentedtothehour

Whentothebridalheshuoldleadhisparamour.(II82-83)

メリュジーヌとレモンダンの出会いと結婚には,ケル ト色が濃く表れてい

る。二人の出会いは,一見, レイ ミアとリシアスの出会いと似ている。人里

離れた場所を, リシアスはぼんやりと, レモンダンは誤って伯父を殺 してし

まった絶望感に打ち抜がれて,坊捜い歩いている。そこに美 しい女性が現れ

(1012)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -135-

る。声を掛けるのは,いずれも女性のほうである。男性二人は最初は女性の

存在に気づかないのである。声をかけられ,ふと見ると世にも美 しい女性が

立っている。その美 しさに眼が舷み,心を奪われる。そして, リシアスは誘

われるままに,女性の館へ連れられてゆき, レモンダンは請われるままに結

婚を承諾する。どちらも,女性の美 しさに魅了されて,骨抜きにされた男の

話のようである。ところが,よく読んでみると,事情は違っている。確かに,

レイミアはその艶姿で リシアスを虜にする。それは,

Ah,Goddess,See

Whethermyeyescaneverturnfromthee!

Forpitydonotthissadheartbelie-

EvenasthouvanishestsoshallIdie.(I257-60)

という, リシアスの言葉どおりである。 しかし,メリュジーヌは美 しさでレ

モンダンを惹き付けるのではない。取引を提案するのである。自分の言 うと

おりにしてくれるなら,窮状から救ってあげましょう,と申し出るのである。

相手の気を惹こうとする恋する女性とはほど遠い台詞である。そして,これ

にレモンダンは,「わたしは全心全霊をかたむけて,あなた様の意に添 うよ

うに致 します」(49)と応える。この後はすべてこの調子である。先にメリュ

ジーヌは母親のようだと書いたが,さらに言うなら,この時点から,彼女は

レモンダンの主人であり,女王である。マルカルはこの状況を,「愛 と畏怖

に快惚となった哀れな男性の前に,神のごとき女性が絶対君主として現れる

という神話的状況」30)であり,メリュジーヌは古代アイルランドの物語に登

場する女王メップのようだと評 しているが,31)まさにそのとおりである。 こ

こには,ケル トの支配的な女神の姿がある。さらには,それはケル ト的女性

の姿でもある。古代ケル トの伝承においては,女神ばかりか,人間の女性も,

女王メップのように,「重要な,時として支配的な役割を果た している」㍊)

のである。

異類婚姻欝では禁忌の侵犯が婚姻を破綻させる.メリュジーヌの場合も,

レイミアの場合もこれに当たる。本性を知られるという禁忌の犯しが起こる。

しかし,メリュジーヌの場合,この禁忌はケル ト的文脈で理解できる。つま

り,これはゲッシュである。ゲッシュとは,絶対的な禁忌あるいはタブーで

あり,これを破ると不名誉や最悪の場合は死が訪れるとされる。ケル ト人は

(1013)

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-136-

名誉を重んじる民族であり,英雄達はみな,何 らかのゲッシュに縛 られてい

る.33)女性が男性にゲッシュをかけることもでき, この場合は,挑戟的にな

る。メリュジーヌは, もしレモンダンが彼女の秘密を知ろうとしたり,暴い

たり,他言 したりすれば,彼女を永久に失 うばかりか,一族の没落を招 くだ

ろうと脅す。挑戦的な態度である。ケル ト神話に登場する悲劇の女性ディア

ドラも,ニーシャにゲッシュをかける。ディア ドラの物語は様々に語り直さ

れているが,マイルズ ・ディロン(MylesDillon)の伝える物語は, 口承の

初期のものである。これによると,ニーシャが王を恐れてディア ドラの求愛

を退けると,彼女は,大胆にも彼の両耳をつかんで,自分を連れて逃げない

のなら,この二つの耳は不名誉と恥辱の印となるだろうと告げる.34)ニーシャ

にはこの名誉に対する挑戦を拒むことはできない. レモンダンはニーシャの

ような勇者ではないが,やはりメリュジーヌの挑戦を拒めない。メリュジー

ヌの禁忌は,強いケル ト女性ディア ドラのゲッシュに等 しい力がある。これ

に対 して, レイ ミアの禁忌は単なる秘密にすぎない。 レイ ミアは自分の正体

を知られることを恐れ,ただ怯えるだけであり,メリュジーヌやディア ドラ

のように男性に挑戟する強さを持 っていない。 レイ ミアの時代には,ケル ト

的な強 く蓮 しい女性像は,遠い過去の存在にすぎないようである。前述のよ

うに, ディア ドラの物語 は繰 り返 し語 り直 されて きた。 特 に, シンダ

(J.M.Synge)やイェイツ(W.B.Yeats)などアイルランド文芸復興期の作家は,

好んでこの悲劇の物語を作品化 した。 しかし,興味深いことに,彼 らの描 く

ディア ドラには,ケル トの強い女性像は見 られない。ディア ドラのゲッシュ

も軽視あるいは無視されている。古代ケル ト神話が伝えるような男性に挑戦

する女性としてのディア ドラ像は,ヴィク トリア朝の時代には好まれなかっ

たようである。 レイミアの描かれたロマン派の時代 も事情は同じであろう。

男性優位社会の女性観が反映 し,男性の視点から美化された女性像が描かれ

ているように思われる。それは強 く遥 しく誇 り高い女性ではなく,どこか惨

く哀れさのある女性である。

しかし,実は,キーツはケル トと無縁であったわけではない。キーツがギ

リシャ神話を題材に作品を書いたことはすでに述べた。ロマン主義の一つの

傾向は異教への憧憶や関心であり,キーツは古代ギ リシャに心惹かれていた。

しかし,それと同時に,キーツにはケル ト的要素があると言われている。マ

シュー ・アーノル ド(MatthewArnold)は,「ナイチンゲールによせるオー

ド」("OdetoaNightingale")の次の詩句をケル ト的表現であると評 して

(1014)

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いる。36)

蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -137-

Whitehawthorn,andthepastoraleglantine;

Fast-fadingvioletscovereduplnleaves;36)●

ここに表れているのは,ケル ト的な自然との一体感,自然の神秘に対する感

受性である。キーツにはケル ト的な要素が確かにあると言わねばならない。

しかし,少なくともレイミア像には,メリュジーヌに見出されるようなケル

ト的な女性の姿は認められない。自然の神秘や霊的なものへの親近感という

ケル ト的特性はあるものの,女神像や女性像に関しては,キーツはケル ト的

とは言い難い。異教への親近感や異教の神々の末商である妖精への関心を持

ちながら,女性観に関しては,父権宗教的な視点から逃れることができなかっ

たのである。キリスト教絶対の時代である中世のテキス トに,異教ケル トの

残像があり,異教主義的ロマン派のテキストに,根強く父権宗教の視点が残っ

ているのは,まことに皮肉なことと言わねばならない。

6 おわりに

以上,ロマン主義時代と中世という,異なる時代の二人の蛇女を比較考察

してきた。キーツの描 くレイミアは,妖魔としての常套的なレイミアではな

く,ロマン派の蛇女らしく人間化されている。中世的な異教と情欲の象徴と

ははど遠 く,魔女でも,聖女でもなく,血も涙もある人間の女性という面が

強い。中世キリスト教社会の善悪二元論的女性観を脱 した,近代的女性像を

反映した蛇女と言える.一方,クードレットのメリュジーヌは中世の蛇女で

ありながら,悪魔の化身としての蛇という中世的観念では説明しきれない両

義的存在であり,意外にもレイミアとの類似性を示 している。

しかし,やはり二人の問には時代の隔たりを証言する差違がある。 レイミ

アにはメリュジーヌと比べたとき,存在感が希薄で,性格も脆弱である。こ

れには二つの原因が考えられる。まず一つ目は,蛇女という超自然の生き物

の描き方に,それぞれの時代の異界に対する考え方が,必然的に影響 してい

ることである。ロマン派キーツは,妖精に心惹かれはするが,近代人である

彼にとっては,それはやはり想像力の作り出す幻影にすぎず,冷徹な理性の

眼で眺めた瞬間に霧のように消えてしまう。 しかし,中世人にとっては,異

界はまだ存在 していた。従って,そこの住人である妖精 も実在感のある存在

(1015)

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-138-

であった。二つ目は,二人の蛇女が呈する女性像の違いである。男性を誘惑

し破滅させる悪女的側面があるとはいえ, レイミアは惨 く,哀れな女性であ

る。それに比べて,メリュジーヌは,男性との関係において常に主導権を握

る,強 く,遥 しい女性である。 レイミアには,当時の男性中心社会の女性像

が反映 していると考えられる。強い女性は,歓迎されない時代であった。こ

れに対 して,メリュジーヌの物語は,表面はキリス ト教的作品でありながら,

その背後に異教ケル トの残像が重なり,ケル ト的女性像が影響 している。ロ

マン派キーツには,無論ケル ト的要素が指摘されているが,レイミア像に限っ

て言えば,ケル ト色はきわめて希薄であると言わねばならない。

このように見て くると,異教への傾斜や,異教の神々の末商である妖精へ

の関JLりま,ロマン派的特徴 とされているが,そこにはやはり近代的思考が濃

厚に反映 しているように思える。異教への憧憶による異教的要素と異教の残

照としてのそれは,本質的に異なる現象である。その差が, この二つのテキ

ストの問にはある。

1)マンフレー ト・ルルカー 『鷲と蛇- シンボルとしての動物』林捷訳 (_法政大学

出版局,1996),159-61頁参照。イヴを唆す蛇は,聖書作家にとって,異教にお

いて崇拝された性的シンボル,ファルスであり,神と敵対する諸力を表すもので

あった。

2)-松浦暢 『水の妖精の系譜』(研究者出版,1995),4頁参照。

3)キーツのテキス トはThePoeTnSOfJohnKeats,ed.Miriam Allott

(London:Longman,1970)を使用した。以後Lamiaか らの引用箇所は( )

内に巻数と行数を示す。

4)マイケル ・グラント,ジョン・へイゼル 『ギリシャ・ローマ神話事典』西田実,

入江和生,木宮直仁,中道子,丹羽隆子共訳 (大修館書店,1988),578寅参照。

5)バーバラ・ウォーカー 『神話 ・伝承事典』山下主一郎,青木義孝,栗山啓一,塚

野千晶,中名生登美子共訳 (大修館書店,1988),428頁参照。

6)KatharineBriggs,ADictionar)′OfFairies(London:PenguinBooks,

1976),260貢参照。

7)Briggs262.

8)キーツが拠 り所 としたバー トンの一節は,Allott編のThePoemsofJohn

Keats,614の註に引用されている.

9)松浦暢 『水の妖精の系譜』,152-53貢に諸氏によるレイ ミア像の解釈が紹介され

ている。

(1016)

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蛇女- レイミアとメリュジーヌの比較考察 -139-

10)松浦暢 F水の妖精の系譜Jl,150-51頁.

ll)Coudrette,LeRoTnan deM∂lusine,trams.LaurenceHarf-Lancner

(Paris:Flammarion,1993),89.以下 この作品からの引用 はすべて この現代

仏語による散文訳のテキス トにより,( )内に頁数を示す。 日本語訳 は筆者に

よる。

12)マンフレー ト・ルルカー 『鷲と蛇』,161頁参照。

13)Rev.12:9.

14)マンフレー ト・ルルカー 『鷲と蛇山 171頁参照。

15)JeanMarkale,Muusine(Paris:AlbinMichel,1993),15.

16)井村君江 『ケル ト妖精学』(講談社学術文庫,1996),296貢参照。

17)JohnKeats,"OdeonaGrecianUrn,''49.

18)Markale30.

19)MikeDixon-Kennedy,CelticMythandLegendIAnA-Z ofPeople

andPlaces(London:Blandford,1996),33.

20)Dixon-Kennedy224and226-227.

21)MirandaGreen,CelticGoddesses:WaTTiors.ViT・gins and MotheT・S

(London:BritishMuseum Press,1995),65.

22)Dixon-Kennedy227.23)アイルランドの戟いの女神は,通常三人組と考えられており,モリガンはその一

l

ことが多 く,実際には単一の神性の三重化とされ,モリガン一人に代表 されるこ

とが多い 〔プロンシァス ・マッカーナ 『ケル ト神話』松田幸雄訳 (青土社,1991),

169貢〕。それゆえ,バッグというのが 「烏」という意味で,女神バッグは戦場を

烏の姿で飛び回ると信 じられているが(Dixon-Kennedy34), モ リガンも烏 と

なって現れる。息絶えたク・ホリンの肩に止まった烏は, このモリガンであった。

24)Green89-90.

25)Dixon-Kennedy224.26)Green90.

27)PeterBerresfordEllis,CelticWomen:WoTneninCelticSocietyand

Lilerature(London:Constable,1995),23.28)Green89-90.

29)Green169-171

30)Markale44.

31)Markale45.

32)ゲル-ル ト・ヘルム 『ケル ト人一 古代 ヨーロッパ先住民族』関楠生訳 (河出書

房新社,1979),415貢。

33)Dixon-Kennedy149及 び BernhardMaier,DictionaT・yOfCelticReligion

andCultuT・e.trams.CyrilEdwards(Woodbridge:TheBoydellPress,

(1017)

Page 22: 蛇女-レイアとメリュジーヌの比較考察dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00001037.pdf · 蛇女のイメージは同一ではない.時代とともに変化する.時代を遡った前

-140-

1997),126-27参照。

34)大野光子『女性たちのアイルランド- カ トリックの (母)からケル トの (娘)へ 』(平凡社,1998),49-50頁において,ディロンによるディア ドラの物語が紹介さ

れている。

35)MatthewArnold,"OntheStudyofCelticLiterature,"TheCoわtPlete

ProseWorksofMattheLuAT・nOlduol3:Lecturesand Essaysin

Criticism,ed.R.H.Super(UofMichiganPress,1962),378.

36)JohnKeats,`OdetoaNightingale,"46-47.

(1018)