『新聞の“さし絵”、“写真”初登場と、 当時の社会的...

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〕さし絵(Illustrations) 1)ハーバート・イングラム(Herbert Ingram) 1842 、ロンドン ストランド街(Strand 198に大き プラカードを 200 した。 にしたプラカードに “ザ・イラストレイテッド・ロンドンニ ュース、30 “さし 6ペンス” されていて街ゆく を引いた。 The Illustrated London News ”(以 ILN刊1 PRデモンストレーション あった。 さし これ以 「ザ・タイムズ」 「オブザーバー」に 々みられたが、 それら あくま あって、“さし ”そ えた ILN」が ある。 刊した ハーバート・イングラム(1811 60ある。 ロンドン し、印 め“さ くから っていた ある。“ が、 に大 えてしまう していた ある。 ”にして、ニュース し、 をきわめるヴィクトリア ニーズに“さし いう え対 しよう した。 1842 、イギリスに って あった。 アヘン し、 んだ一 した し、 が溢れていた。 そして大英 ヴィクトリア Queen Victoria 18371901) 位から5 、アルバート Prince Albertして2 23 しいリーダーに をあげていた あった。 してきた じるか ように、 んに りつ つあったイギリス ジャーナリズム、印 メディアが をみせ めた あった。イン グラムに って 、こ るため 刊する しい “さし して した く、 をリアルに けれ かった。 い、 する“ けれ かった。 しい りした チャレンジ が、こ “さし たら した ある。25 ILN ピクチャー・ライブラリーに れ、110 スケッチ めて にした れるこ い。 167大学 域学 2001.3) 『新聞の“さし絵”、“写真”初登場と、 当時の社会的背景との関連性について』 A Study on the First Appearance of Illustrations and Photographs in Newspapers in relation to the Social Background of the Times KANEKO Yasuo

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〔Ⅰ〕さし絵(Illustrations)

1)ハーバート・イングラム(Herbert Ingram)

1842年5月6日の金曜日、ロンドンのストランド街(Strand 198)路上に大きなプラカードを掲げ

た200人もの男達の行列が出現した。手にしたプラカードには“ザ・イラストレイテッド・ロンドンニ

ュース、30の“さし絵”入りで値段は6ペンス”と大書されていて街ゆく人々のを眼を引いた。絵入

り新聞“The Illustrated London News ”(以下ILN)の創刊1週間前の大PRデモンストレーションで

あった。新聞の木版画さし絵はこれ以前にも「ザ・タイムズ」や「オブザーバー」に時々みられたが、

それらはあくまでも不定期で、簡略な記事の添えもの的なものであって、“さし絵”そのものを報道の

中心に据えた定期刊行物はこの「ILN」が嚆矢である。創刊したのはハーバート・イングラム(1811

~60)である。彼はロンドンでの長年の印刷職人を経て後に独立し、印刷業や新聞販売店を始め“さ

し絵入り新聞”への読者の要望を早くから嗅ぎとっていた人物である。“絵”の具象性が、抽象的な文

字表現以上に大衆の心を捉えてしまう作用を彼は感知していたのである。彼の構想は毎週土曜日発行

の“週間絵入り新聞”にして、ニュース性の強い内外の情報を前面に押し出し、海外覇権を目指し隆

盛をきわめるヴィクトリア朝時代の情報ニーズに“さし絵”という視覚要素を加え対応しようとした。

1842年は、イギリスにとっては記念すべき年であった。中国とのアヘン戦争を終結し、清朝に香港の

割譲などを含んだ一方的な不平等条項を強要した南京条約を締結し、国内には戦勝気分が溢れていた。

そして大英帝国の象徴ヴィクトリア女王(Queen Victoria 1837~1901) が即位から5年目、アルバート

公(Prince Albert)と結婚して2年目、芳紀23才の美しいリーダーに国民が歓声をあげていた時期で

あった。又、産業革命以後、急速に成長してきた市民社会の要求に応じるかのように、盛んになりつ

つあったイギリスのジャーナリズム、印刷メディアが急激な展開をみせ始めた時代でもあった。イン

グラムにとっては、この時代の風にのるため創刊する新しい新聞の“さし絵”は、今まで時として登

場した図形的な單純なものではなく、現実をリアルに描きとる細密画でなければならなかった。想像

画ではない、事実と実在を証明する“絵”でなければならなかった。新しい時代の大衆の動向、趣向

を先取りした彼のチャレンジ精神と先見性が、この歴史的な世界初の“さし絵新聞”の成功をもたら

したのである。25年前、ILNのピクチャー・ライブラリーに取材で訪れ、110年前の精密な日本の原風

景のスケッチ絵を初めて目にした時の驚きと興奮を今でも忘れることが出来ない。

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

『新聞の“さし絵”、“写真”初登場と、当時の社会的背景との関連性について』

A Study on the First Appearance of Illustrations and Photographs in Newspapers,in relation to the Social Background of the Times.

金 子 靖 夫KANEKO Yasuo

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

〈図版1〉“The Illustrated London News”創刊号(1842年5月14日)第1面。下部の“さし絵”がハンブルグの大火災の速報。燃えさかる街を、港の埠頭や小舟の上から眺める野次馬を入れこんで描いた生々しい現場スケッチである。さし絵下の説明文は、「View of the Conflagration of the city ofHamburgh」である。

2)創刊号

1842年5月14日(土)、ILN創刊号が鳴物入りで発刊された。タブロイド版、16ページに32枚の“さ

し絵”が掲載されていた。ILNピクチャー・ライブラリーに保管されている創刊号全ページを詳細に

見ると、特長ある紙面づくりと興味深い“さし絵”の内容が浮び上がる。ILNの“さし絵”は画家

(Artist)がスケッチした細密線画を木彫職人(Wood Engraver)が彫り、その版木を印刷するもので

ある。木彫りの技術は実に精緻で、完璧に画家の作品を再現する。創刊号の32枚の“さし絵”はニュ

ース性の強いドイツの「ハンブルク市の大火」を筆頭に、外国情報として「フランス王室の夏の別荘」

「アフガニスタン戦争」など。又、珍しい「ヴィクトリア女王結婚2年目を祝う宮廷舞踏会」での華や

かな宮廷ファッションと衣裳スケッチ、園芸欄での植物「さんざし」の紹介、犯罪、経済等世相の

「風刺人物画」「ILNの創刊宣伝PR用スケッチ画」など様々だが、ここでは興味深い3つの異なった分

野の“さし絵”に絞って考察したい。

第1は創刊号の1面を飾る「大火によりハンブルク市壊滅」という見出しの火災の“さし絵”であ

る。(図版1参照)これは、1842年5月5日(木)の早朝午前1時に、葉巻工場の倉庫から出火したド

イツ北部の港町ハンブルク市の火災で、折からの北西の風に煽られて2日間にわたって燃え続け、市

の大半40エーカーを焼滅する大火となった。このニュースは、記事とスケッチ絵によって5月10日

(火)の夕方到着した商船カレドニア号(G.S.N.Caledonia)によってロンドンにもたらされた。新聞

史上初のヴィジュアルニュース速報である。記事は“The Times”や“Herald”の駐在特派員報告を

引用して、火災の推移を克明に報道しながら、肝心の“さし絵”は、依頼した画家が描いた“The

View of the Conflagration of the City of Hamburgh ”の説明文のついた1枚が第1面を飾っている。中

心街で燃えさかる炎と煙を、港周辺の野次馬たちが桟橋やボートの上から見ている臨場感と迫力のあ

る現場のドキュメントスケッチである。イングラムは14日の創刊号のトップページに入れる絵はこれ

だ!との判断に立ち、木彫職人たちをこの絵に集中させ、およそ2日間で原版を彫りあげた。そのス

ピード版木づくりの秘密は「分割彫り方式」にある。原版木に貼られた絵を6ないし8分割、多いと

きは12分割し、分割された個々のブロックを複数の木彫職人が1人1個づつ彫り、彫り上がったブロ

ックを再び組み合せて元の1枚の原版を完成させるわけである。1人の木彫職人が1枚の絵を全部彫

る場合とくらべればHQないしKQのスピードで仕上る。ILNのピクチャー・ライブラリーに保管されて

いるそれらの原版木をみると、再組合せに寸分の狂いもなく、更に驚かされるのは、これによって印

刷され完成した絵に、分割された線の根跡が全く出ていないという精緻な技術である。

斯くして、新聞“さし絵”の第1号は、現代の写真報道の原型とも言えるニュース性の高く、速報

性のある火災現場のドキュメント画として登場したのである。“さし絵”の伝える生々しい現場の状況

は記事を超えて読者に大火の勢いをストレートに伝え、“さし絵新聞”という新しいジャンルの創刊号

トップページで立派に主役を演じたのだった。そしてこの精神は以後120年余り続くこのさし絵新聞の

“絵”に対する基本姿勢となって続いてゆくことになる。

2番目にとりあげる“さし絵”は、創刊号の8~9ページの見開きを飾っているバッキンガム宮殿

で開かれたヴィクトリア女王結婚2周年を祝う宮廷舞踏会の華麗な8枚の組み絵スケッチである。こ

れは大衆の興味と関心の的である宮廷トピックスの特ダネヴィジュアルレポートである。(図版2参照)

特別に入廷を許されたILNスタッフ画家による作品には、日頃庶民が見ることの出来ない宮廷内の舞

踏会の、夢のような世界が描き出されており、大衆が目を大きく見開いて見入ったことは想像に難く

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

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〈図版2〉“The Illustrated London News”創刊号第8面。バッキンガム宮殿で開かれたヴィクトリア女王御結婚2周年記念舞踏会の様子。ILNの画家が特別の許可で入り、上部中央のヴィクトリア女王(芳紀23才)をはじめ華麗な宮廷ファッションを8、9の2面にわたって特集している。

ない。記事の中でも“本紙創刊号を飾るこの素晴らしい催しの特別な“さし絵”について。種々の制

約で女王の全身の衣裳を紹介出来ないが、ここにお見せ出来る“さし絵”から、読者は説明文と共に

型やアイディアの素的な輝きを充分得ることが出来るだろう。”と自信のほどを覗かせている。中でも

500年も前のエドワード3世(King Edward Ⅲ 1327~77)夫人の衣裳をまとった芳紀23才、輝くばか

りのヴィクトリア女王の絵姿は、夫君のアルバート公(Prince Albert)と共に国民の熱狂と憧憬をが

っちりと吸収し、ヴィクトリア朝時代の、大衆の好奇心の充足をめざしたジャーナリズムの1つの方

向を見事に具現していると言えるであろう。

3番目に興味をひく“さし絵”は最終ページにのっているILN創刊のPR宣伝画である。本稿1)の

冒頭に書いたロンドン中心部ストランド街での創刊1週間前のプラカード・宣伝デモ行列の様子を描

いたものである。今までの活字でのPR方式をヴィジュアルな方法に変え、絵の持つ具体性、証拠性、

臨場感を前面に押し出し、宣伝に新しいインパクトを与えている点が新鮮である。説明コメントでも

“さし絵新聞という重要な出版物の登場を称えて200人もの人がプラカードを持ってロンドンの街をパ

レードした。”と待望の“絵入り新聞”の登場を率直に意義づけ、イングラムが打ち出した、情報伝達

のヴィジュアル化による新聞ジャーナリズムの大衆化への情熱を、ストレートに読者に伝えているの

である。(図版3参照)

以上、創刊号で読者の注目を集めた3つの“さし絵”についてみてみたが、ILNが大衆に受け入れ

られたもう1つの点は価格・ ・

であった。ロンドン北西部コリンデール(Colindale)にある大英図書館付

属の新聞資料館(Newspaper Librery & Archiues)で、1840年代ロンドンで発行されていた大小80近

い新聞の中から16の有力紙を調査してみた。主だったものだけでも、

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〈図版3〉最終16面に載せられた創刊1週間前のILN、PR街頭デモンストレーションの風景。宣伝さし絵の“はしり”である。

The Times 5d(ペンス)

Gardian 7d

Observer 6d

Sunday Times 6d

London Gazette 8d

など、平均して6d~7dといったところであり、ILNが16ページに32枚もの“さし絵”をのせて、週刊と

はいえ他紙とほぼ同じ価格の6dで売り出したことは、非常にコストのかかる“さし絵”をサービスと

して読者に提供するという姿勢である。この点について同資料館のマネージャー、スケルトン-フォ

ード博士(Dr.C.Skelton-Foord)も筆者の質問に『指摘の通り、これだけの“さし絵”の量をのせて

他紙と同じ価格で走り出したことは、“さし絵”の内容の魅力からしても読者に安い!という印象を強

烈にアピールしただろう。』と述べている。ヴィジュアルな明るい雰囲気のページに展開する興味ある

“さし絵”の数々。そうした新聞が、べったりと活字だけで埋った他の新聞と同じ価格ということは、

購読する者にとって非常に安く感じたことであろう。いや事実、これは安かったのである。毎週30枚

ほどの“さし絵”を彫るために30人もの一流木彫職人を雇い、16ページのスペースにちりばめること

は大変な労力と資金がかかった。創刊号の“宣伝さし絵”で200人が掲げたプラカードの大文字“30枚

のさし絵、それで6ペンス”は、如何にこの価格が大衆にアピールするものであるかを強く訴えている。

もともとイギリスでは19世紀初期、木彫職人の数は多くはなかった。“さし絵”は非常にコストが高

くつく上、紙面スペースを広く占めてしまい、ページ数の少ない当時の新聞にとってスペースは貴重

で、採算面で問題になっていたからである。1820年頃は、特に少なく1827年ではロンドン中で20人ほ

どしかいなかったと伝えられている。そこにILNが30人もの木彫職人を全国から集め、30枚もの“さ

し絵”を使用して他紙と同じ6ペンスの価格で打って出たのには、新聞フリート街が仰天したのも無

理はない。そして1917年に、1ペンス値上げして7ペンスにするまで、実に75年間にわたってこの6

ペンスの価格を据置いたのである。ILN資料室のデータによると、1835年~50年頃のイギリスでの各

新聞の発行部数は少ないもので、一般的には月間6~7千部(The Timesは例外で約7万部)であっ

たが、ILNは創刊号で驚異的に2万6千部を売りあげ、1ケ月後には4万部、1842年末には6万5千

部に達している。創刊から1年7ケ月後の1843年12月には最新式の蒸気機関動力両面印刷機を導入し、

1時間に2千部の印刷を可能にした。1851年のロンドン万博では、新しい産業機械や世界各国の珍ら

しい物産を興味深いスケッチで紹介し15万部、及び翌年の1852年死去したウエリントン公(Duke of

Wellington、1815年ワーテルローの戦いでナポレオン1世軍を撃破した英雄)の葬儀を、克明にスケ

ッチ報道して25万部を売り上げ、創刊から13年後の1855年には定期購読20万部、21年後の63年には週

1回の売上げが31万部を記録し、イギリスの大衆ジャーナリズムの中で確固とした位置を占めるよう

になった。取材対象もクリミア戦争をはじめあらゆる戦争に従軍画家を派遣、宮廷行事、社会事件、

娯楽話題等を積極的に取材し、ニュースの多様さと大衆性は他紙の追従を許さなかった。また記事、

さし絵には、Our Special Artist and Correspondentのクレジット(By-line)を入れ、信頼性と責任を

明示し、世界各国に30名をこえる画家特派員を駐在させ、昇り竜大英帝国に必要な世界情報をヴィジ

ュアルにかき集めたのである。1861年からは著名な画家、C.ワーグマン(Charles Wirgman 1832~91)

を日本に派遣、幕末から明治維新への社会の激動、明治初期における一般庶民生活の近代化への変化

の姿を約25年間にわたってスケッチレポートしたことは有名である。創業者イングラムは1860年アメ

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リカ旅行中、ミシガン湖で遊覧船の沈没事故に遭い、志半ばにして早逝したが、以後、孫のブルー

ス・イングラム(Bruce Ingram)をはじめ、イングラム家代々の経営者、及び15代にわたった優秀な

編集者たちが事業を引継ぎ、伝統を守ってきた。1972年からフルカラーの写真構成による月刊雑誌に

変り、89年からは季刊プラス王室特別号、クリスマス特集号の、年6回刊行のA4版タイプ、オフセ

ット印刷の豪華な総合写真雑誌となって今日に至っている。ILNが継続して長年存在してきたのは、

何よりも時代の流れに沿って柔軟な変化をとげてきたからに外ならない。テムズ川南岸からセントポ

ール寺院のドームを眺望した、創刊以来変らないLogo・Markを表紙に掲げ、ILNは今も158年の出版

の歴史を刻んでいる。

3)“さし絵新聞”登場の社会的背景

a)産業革命の大輪

さて、こうした“さし絵新聞”登場の要因をH.イングラムの個人的な先見性のみに委ねてよいもの

であろうか。否、この発想の基盤となった当時の社会、ヴィクトリア朝時代初期から中期にかけての

社会構造及び大衆のニーズにも、その発芽の温床をみることが出来る。

1769年、J.ワット(James Watt)の蒸気機関発明をきっかけとする産業革命の流れは、1789年カー

トライト(E.Cartwright)の紡績機械の蒸気動力化によるランカシァ地方の織物工業の隆盛をもたら

し、工場増加による農村から都市への人口移動、工場賃金労働者の雇用増大という社会変動を引き起

しながらヴィクトリア朝時代に入った。ヴィクトリア女王は、前国王ウイリアム4世(King William

Ⅳ)の姪で、18才で即位、以後64年間にわたって大英帝国繁栄の基礎を築いた。産業革命の成果はヴ

ィクトリア朝時代初期に円熟期を迎えて大輪を咲かせている。一方、蒸気機関動力による工業化の支

柱となったのは鉄道の発達であった。1825年、G.スチーブンソン(George Stephenson)の蒸気機関車

“Locomotion号”が、イングランド北東部ストックトン・オン・ティーズ(Stockton on Tees)とダー

リントン(Darlington)間21㎞を結んだ世界初の鉄道が誕生し、石炭の運搬にあたったのを皮切りに、

5年後の1830年に、イングランド北西部の工業都市マンチェスター(Manchester)の綿製品を、貿易

港リバプール(Liverpool)へ輸送するための鉄道45㎞が開通、G.スチーブンソンの息子ロバート

(Robert Stephenson)の製作した“Rocket号”が走り出すなど、各地で鉄道の建設が進み、工場工業

化、人口の都市集中を促進させてゆく。18世紀末では人口のFEが農村に住居していたのが、1840年代

にはほぼSQが都市に移住するといった変化を示し、例えばロンドンの人口だけみても1830年代150万人、

40年代で250万人と膨れあがり、その後も毎年10万人の増加を示していた。都市への出稼ぎ労働者と農

村の家族との連絡、情報交換の必要が増大し、1840年に郵便システムがスタート、いわゆる1ペニー

郵便(Penny Post)による手紙でのコミュニケーションが行われるようになり、文字によるコミュニ

ケーションが活発になっていた。

b)チャーチスト運動(Chartist Movement)の影響

ヴィクトリア朝時代の工業化による社会変革は、当然のこととして工場労働者の台頭を強めること

になった。1833年には工場法(Factory Act)が制定され、国の工場監督官による労働調査が実施され、

それまで公然と行われていた長時間労働の禁止や、年少者や女性の雇用及び労働時間の制限等が義務

づけられ、人道的立場から労働者の権利保護が認められた。1824年の団体禁止法の撤廃以来、労働組

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合も続々結成され、労働者を中心に「チャーチスト運動」が盛んに展開された。チャーチスト運動は

ヴィクトリア女王が即位した1837年頃に始り、産業革命の影響で生じた貧富の差を是正し、議会の民

主化、男子普通選挙権、選挙区の平等、議員の毎年改選等を求めた「人民憲章(People's Charter)」

の実現を目指す運動であった。運動は産業資本形態絶対の社会構造の中で、やがて挫折してゆくが、

労働者階級の位置づけが明確にされた点で、以後の民主主義大衆運動に大きな影響を与えた。特に活

動推進のための教宣用機関紙、雑誌、パンフレットなど各種印刷物の発行を盛んにし、大衆の情報交

換の場を大きく拡げ、生活での活字コミュニケーションを活発化させた。ヴィクトリア朝時代の繁栄

基盤となった中産階級の生活風習や価値観も、次第にこのコミュニケーション活動の流れに同調して

ゆき、これがイギリスの大衆ジャーナリズム全盛期へと連動してゆくことになる。

C)教育環境と識字率

ヴィクトリア朝時代の大衆ジャーナリズムの発展を支えたのは、民衆の教育環境と識字率

(Literacy)であることは明らかである。18世紀までのイギリスの子供の教育は、主として親権に属す

るという考え方であった。親による自由な教育が重視され、従って経済的、家庭的に豊まれない子供

に対する教育の場はほとんど無かったと言ってよい。産業革命による社会変動で、文字、数の読み書

き能力が必要とされ、国による公的な教育、いわゆる“義務教育”が始められたのはヴィクトリア朝

時代の後半であった。1870年に初等教育法(Education Act, 起草者W.E.フォスターの名をとって別

名Forster Act)の成立でイギリスは義務教育を開始する。法の内容は、小学校設立を各地方自治体の

義務とし、5才から13才までの子供の読み書き、算数の能力を公的に保障するものであった。しかし

法律は出来ても労働者階級にとって10才前後の子供は大切な労働力であり、実際には全体の半分ほど

しか学校へは行けなかった。初等教育法施行以前の子弟教育の大半は親の自由裁量であり、ほとんど

が家庭内で両親からの・手・ほ・ど・きの域を越えていなかった。上流社会では家庭教師(Tutor)が雇われ

たが、中産階級を主体とした一般家庭は18世紀後半から始った「日曜学校」に頼っていた。キリスト

教会指導型の宗教行事の1つとはいえ、これは知識教育というより行儀作法、礼儀、躾けなどの道徳

教育の側面が強かったが、教育効果は大きく、一般的な読み書き能力の基礎的母体となったのは事実

である。他に日曜学校よりはるかに組織だった方式で、19世紀初めから発達した独特の教育制度、「モ

ニトリアル・システム(Monitorial System)」があったが、これは教会や地域の教師が、まずモニタ

ー(Monitor, 助教生)と名づけられた年長の生徒に授業し、その後その助教生が年少の子供たちに教

えるという、日曜学校よりかなり公的色彩をもったもので、宗教、道徳、社会規律などに効果を示し

たという。1人の正式な教師が数十人のモニターを教え、各モニターが数十人の生徒を教えるので生

徒の数はネズミ算的にふえてゆくが、やはり対象となる生徒は中産階級の一部の子弟が主で、社会全

体のリテラシー向上には連携していない。その上この方式は、教師と生徒との人格的交流が薄く、機

械的に行われた結果、次第に親から批判敬遠され、現在のような1人の教師が全生徒に直接触れ合っ

て教える方式へと変っていったのである。その他、一般家庭の主婦が、近所の子供達を集めて教えた

「婦人学級(Dame School)」もこの時代の基礎教育の一翼を担っていた。「婦人学級」の数はヴィクト

リア朝時代に最高となり、生徒の親の労働状況、生活内容、収入等に柔軟に対応し、かなり自由な教

育環境をつくっていた。

子供たちだけではない。労働者のための「夜間学級(Night School)もこの時代の成人教育に重要

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であった。チャーチスト運動の中で展開された各種の請願署名や書類作成は、運動そのものの成果に

結びつくもので労働者の識字率アップは切実な要望であった。工業化の中で経営者にとって労働者の

リテラシーの欠如からくる怠惰、無秩序は、生産性を阻害する要因であり、労働者にとっては、無制

限の労働時間や非人間的な労働環境を押しつけられる危険性から、自らを守るために基礎学力は必要

であった。1870年の初等教育法はこうした社会的な必要条件として誕生したものであった。1840年代

以前では、私的な教育方法が社会に浸透していたとはいえ、その恩恵を受けられたのは一部の人々で

あり、成人を含めると識字率は全体としてまだ低い位置にあったとみるのが妥当である。イギリスの

社会学者R.K.ウェブ(R.K.Webb)とR.D.アルティック(R.D.Altick)の研究では、1812年頃、国民のDW

は・字・が・読・め・たといい、1839~40年の識字率の公式調査でも男性65%、女性51%が読み書き能力を持っ

ていたとある。しかしこの読み書き能力とは・読・書・の・理・解・力とまではいかず、公的な登記簿に

・自・署・名

・出・来・る・程・度であった様である。(以上_下_点筆者)18世紀末ではイングランドで平均して男性の5割、女

性の3割が結婚届に名前をサイン出来たという記録もあるが、ヴィクトリア朝時代初期の大衆の多く

が、新聞、書籍を読んで理解することは必ずしも容易ではなかったと考えられよう。特に、急激な工

業化、鉄道の発達による都市への人口の流入は、若年労働者層が圧倒的に多く、“勉強より賃金稼ぎ”

の風潮が高まり、都市人口における識字率は減少していったことが指摘されている。全体的には徐々

に向上してはいたが、人口の都市集中の煽りで低迷した一瞬の隙を、イングラムは見逃さなかったの

であった。ロンドンで、彼が文字だけではないヴィジュアルな、具体的で理解しやすい“絵入り新聞”

へのニーズが高まっていると見抜いた根拠には、こうした社会現象が裏付けになっていたことは間違

いない。情報理解のための“助っ人”、さし絵新聞ILNの登場は、ロンドンの民衆によって喝采をもっ

て受け入れられたのは当然であった。

d)さし絵新聞と大衆ジャーナリズム

ヴィクトリア朝初期の繁栄は、経済に支えられて科学の進歩、産業機械化を促進し、植民地施策に

より海外情報の必要性を飛躍的に増大させ、全体として情報ニーズが高まった。社会情勢として出版

ジャーナリズムの進展は必然的なものとなった。特に都市での工場労働者の増加はジャーナリズムを

大衆化し、印刷、出版の集中的台頭は目を見張る勢いであった。ロンドンのフリート街(Fleet St.)

には新聞、雑誌、印刷会社が軒を並べ、“フリート街”は“新聞ジャーナリズム街”の代名詞となった。

(現在はそれらはほとんど他所へ移りその面影はないが。)印刷技術の発達で、いわゆるマスコミ時代

を迎え、印刷出版の量産化による価格の低廉化が進んだこと、C)の項でも触れたように地域社会で

の子供や労働者への教育努力による識字率の向上、それに伴う知識欲の涌出などがその背景として指

摘出来るだろう。社会構造の変化によって生じた現象への興味、好奇心が大衆に芽生えてきた結果で

ある。当時のジャーナリズムの花形、C.デッケンス(Charles Dickens 1812~70)は、小説家として

よりむしろ雑誌の編集者として活躍していて、彼の主宰する週刊誌「きまり文句(Household Words)」

は、市井の人間模様を楽しく紹介して人気を博していたし、1838年に、ヴィクトリア朝時代の社会矛

盾、“貧困”の中で、社会悪にめげずに生きる孤児オリバーを温かい眼差しで描いた「オリバー・ツイ

スト(Oliver Twist)」を月刊誌に連載して大衆の喝采を得ていた。ジャーナリストとして同じく有名

だった、W.M.サッカレー(W.M.Thackeray 1811~63)は、大衆雑誌「レビュー(Review)」や社会風

刺が売りの「パンチ(Punch)」に、政治批判から犯罪事件報道にまで健筆をふるっていた。新聞社も

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

ロンドンだけで80社近くに増え趣向をこらした記事で競っていた。

しかし出版物は、以前よりは低廉化したとはいえ、小説本は10シリング、雑誌は2~3シリング、

新聞は6~7ペンスであり、労働者の経済力に見合った読物はそう多くはなく、又、恵まれない居住環

境、労働条件では自宅での読書など容易ではなかった。庶民がこうした出版物に接する最も便利な場

所は、「貸本屋」か「コーヒーハウス」であった。1838年頃から「貸本屋」は盛んになり、労働者、下

層階級を相手に普通1冊1日1~2ペンスの低料金で貸し出し繁盛したという。特に当時庶民の憩い

の場だった「ペニーコーヒーハウス(Penny Coffee House)」での閲覧は大人気であった。コーヒーは

庶民の大好物で、1840年代にはロンドンにおよそ2千軒の「コーヒーハウス」があり、新聞をはじめ

多くの出版物が置かれていて、誰もがそこで読むことが出来た。その上、半数の「コーヒーハウス」

には貸本コーナーが設けられていた。M.ドロシー・ジョージ(M.Dorothy George)の“18~19世紀の

ロンドン暮らし(London life in the 18~19 Century, 1925)”によると17世紀末から19世紀前半にかけ

て、コーヒー1杯1ペニーの店には1日約1,600人の労働者が入れ代り訪れ、出版物に目を通していた

とあり、「コーヒーハウス」は、あたかも労働者の教養施設のようであったと書かれている。大英博物

館で見た18~9世紀のコーヒーハウスの木版画には、コーヒーの置かれた机の上に新聞、雑誌が多く

並び、コーヒーを飲みながらそれらに目を通している人々の姿があり、コーヒーハウスが、街の情報

交換の場であったことを示している。(印刷されたこの絵のコピーは、2000年10月、横浜市の情報文化

センター内に開館した「新聞博物館」の2階ロビーでも見ることが出来る。筆者注。)1850年に「公共

図書館法(Public Library Act)」が成立し、出版物が図書館で無料で公共展示されるまで、「コーヒー

ハウス」と「貸本屋」が庶民と出版文化との接点であったのである。正に、こうしたヴィクトリア朝

初期の大衆ジャーナリズムの勢いの中で、“さし絵新聞”ILNは、以上にあげた種々の社会的要因の上

に立って、庶民の呼び声に答えるが如く、生れるべくして生れてきたのであった。創業者イングラム

の先見性もさることながら、こうした時代背景を俯瞰すると、ヴィジュアルな世界のもつ大衆性を備

えたILNは、いわば社会的要請から誕生したものと言っても過言ではないであろう。

〔Ⅱ〕写真(Photographs)

1)G.イーストマン資料館 (George Eastman House Archives)

2000年夏、アメリカ、ニューヨーク州ロチェスター市(Rochester N.Y)にある、G.イーストマン資

料館を訪れた筆者は、副資料司書、ステュルーブル氏(Assistant Archivist, J.R.Struble)の案内で資

料館地下の資料保管室に通された。1880年、世界で初めて新聞に印刷された写真の、唯一のオリジナ

ル網目製版(Half tone Plate) をこの目でみるためである。製作者はニューヨーク・ディリー・グラフィ

ック紙(The New York Daily Graphic)の写真製版部上級監督者だった、S.H.ホーガン氏(S.Hensy

Horgan,1854~1941)である。資料机の前に白い手袋をして座っている私の前に、ステュルーブル氏

が大きな箱を抱えてきた。箱を開けると、2枚の網目製版が、はめこまれるようにあけられた穴にぴ

ったりと納まっていた。少し緊張しながら1枚をとり出した。ずっしりと重い。網目点で構成された

金属の凸凹面には紛れもない“ニューヨークの貧民窟の風景”が浮び上っている。木版ががっちりと

とりつけられた裏面をみると“Shanty town 61st, & Central Park west, New York, April 1880, First

Published Half tone, Mar.4, 1880 in New York Daily Graphic made by S.H.Horgan, Supt. Graphic's

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Photo mechanical Department”と手書きペン字で書かれてあった。メジャーで計ると、横17.8㎝、縦

11.5㎝、厚さ1.5㎝である。裏書きで驚いたのは、Central Park 61st. Westの文字だった。掲載された当

の写真は以前既に見ていたが、その説明文はただ“ニューヨークの貧民窟の風景”だけで、ニューヨ

ークのどの辺の風景なのかは解らなかった。それがセントラル公園西側61番通り附近だったのだ。西

側61番通りというと、南から公園に入って北に向いすぐの左手、8番街に面した一帯で、隣の9番街

には州立劇場やメトロポリタン歌劇場がある、現在では緑濃い閑静な場所である。次に、箱の中の2

つ目の網目製版である。取り出すと、縦長のプレートで女性人物像が浮び上っている。縦14㎝、横8.6

㎝、厚さは同じ1.5㎝。“Shanty town”よりは少々小さめで、裏を返すと同じような手書きのペン字で

次のような文字が読みとれた。

By Stephen Henry Horgan, 1880“Maud Granger”~as little Bo-Peep~

ステュルーブル氏の説明によると、これは当時のブロードウェイの人気舞台女優モード・グランガ

ーの、舞台衣裳をつけた全身肖像写真である。小さな羊番の娘に扮している、と注釈がついている。

これによって、1880年の2月に、ホーガンは2つの網目製版を製作していたことが明らかになった。

1つ目の“ニューヨーク貧民窟”は新聞写真第1号として、新聞に印刷され注目を集めたが、2つめ

の“女優、モード・グランガー”は印刷されず新聞にも掲載されていない。新聞写真第1号には、美

しい人気女優の舞台姿ではなく、殺風景で暗いニューヨークの貧民窟が選ばれ、歴史に刻まれたこと

に、筆者は深い感慨を覚えたものであった。

ステュルーブル氏は、ホーガンが晩年書き遺した「ノートブック(Note book)」の1章、“網目製版の始

まり(The Beginning of Half tone,1924)”を要約解説した、L.R.マッカーブ(L.R.Mccarb)の小冊子を

とり出してくれた。この中でホーガンは『当時の風景写真には生活臭がなく、新聞には不向きだった。

カメラマンは現場で何かを求め描く時代だった。全ての画像は読者に受け入れられるべく取材者の特

別の意図(Touch of the Artist)がなければならない。』と述べている。1880年代、写真はジャーナリ

ズムの中で、まだ脇役でしかなかった。写真ジャーナリズム(Photo・Journalism)という概念は未だ

無く、ジャーナリズムのための写真、或はジャーナリズムとしての写真の模索が始まろうとしていた。

網目製版の成功で、写真によるニュース報道を積極的に展開しようとしていたNew York Daily

Graphicの編集者、或いはホーガン自身が、史上初の網目製版写真に、女優の肖像写真ではなく、繁

栄の歪みとして社会問題化していたニューヨークの貧民窟の現場写真を選んだことは、先のホーガン

の言葉と併せ考えても容易に理解出来ることであった。そこには、その後20世紀に全盛期を迎えるア

メリカのフォト・ジャーナリズムの力強さを感じることが出来るのである。スチュルーブル氏も『2

つのプレートから“New YorkのShanty town”の写真が新聞網目写真第1号として登場したことは、

アメリカのフォト・ジャーナリズムの1つの方向づけをした点で、大きな意味がある。』と述べてい

る。

2)S.H.ホーガン(Stephen Henry Horgan 1854~1941)

写真が印刷物に登場するのは1880年以前にもあった。イギリスの“タイムス(The Times, 1785年創

刊)”や“オブザーバー(Observer, 1791年創刊) ”のような古くから発行されている新聞にも、写真

らしき“さし絵”が時として出ている。しかしそれらは、写真を元に彫職人(Engraver)によって彫

られた木版画(Wood Engravings)や石版画(Lithographs)や銅版画(Copper Plates)から印刷した

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

もので、直接写真が紙上に印刷されたものではなかった。1880年、S.H.ホーガンによって製作された

網目製版(Half tone Plate)で、3月4日のNew York Daily Graphicに掲載された1枚の写真の説明は、

“Reproduction Direct From Nature(自然の原風景を直接再現したもの)”とあり、更に“Picture will

eventually be printed direct from photographs without the invention of drawing (人によって写し描か

れるという創作活動なしに、直接原写真から印刷されたもの)”と、従来の写真さし絵とは全く異なっ

た新しい方式であることを強調している。この新しい方式が網目製版で、発案者のホーガンは1874年、

カメラマンとして New York Daily Graphicに入社、以来生々しい現場写真をストレートに紙面に載せ

ることこそ報道カメラマンの使命と、写真製版技術の研究にとりくんだのだった。入社13年後、彼は

現像技術の新しい改善に成功し、抜擢されて写真製版部へ配転となった。彼は集中的に写真製版技術

の開発に没頭し、1880年2月、26才で遂に現在の写真製版の原理となった金属製網目製版(Metal

Half tone Plate)を完成させたのであった。その原理は、まず原写真を微細な網目スクリーンを通して

撮影する。写真の暗い部分は反射光が少なく感光するからネガでは小さく淡い点(網点、dot)となり、

明るい部分は光量を多く通して大きく濃い点となる。その大小、濃淡の網点が像を浮び上らせ、その

ネガを銅、錫、亜鉛等の合金プレートに光学的に焼付け、酸による処理を与えて網点の間の部分を腐

触させて流し、凸版をつくる。凸版は従ってポジ写真と同じで、それを紙面にプレスすると網点の大

小濃淡の構成で原写真の像が再現される仕組みであり、現在の新聞写真製版技術の基本原理となった。

これにより、従来のように第3者が写真を版画化する必要はなくなり、写真はストレートに紙面に転

写印刷されることになったのである。ホーガンは改良を重ねながら、網目製版印刷の写真を、これか

らのニュース写真報道の主流として位置づけ、ペンによる線画、版画作成による面倒な“さし絵”方

式を解放した。ホーガンは、その後“New York Herald”、“New York Tribune”各紙の美術監督も兼

任する傍ら、網目製版を開発する過程を記録した膨大な量の「ノートブック(Notebook)」を出版す

るなどして名誉を得、1941年、87才の高齢で没している。

3)New York Daily Graphic 1880年3月4日特集号

網目製版による新聞写真第1号については、過去、2説存在していた。1つは、S.H.ホーガンによ

るこの1880年3月4日付New York Daily Graphic掲載の“ニューヨーク貧民窟”、もう1つは、1871年

6月3日、Canadian Illustrated Newsに掲載された“新税関庁舎”説である。これは1つ目のホーガ

ン作品より9年も前の作品で、製作者は、W.A.レゴ(William. A. Leggo)である。

後者は、レゴ・タイプと呼ばれる石版画網目方式(Lithographic Half tone type)で、印刷されたの

はモントリオールに完成した新税関庁舎の正面からの全景の写真であるが、紙面上での画質は両者共

大差はない。技術書によると化学処理の後、若干手先の加工修正を必要としたらしいが、網目製版原

理はほとんど変らないとされ、Half tone Engravingとも言われている。

結着をつけたのは、1980年3月3日付のイギリス“ザ・タイムズ(The Times)”紙の記事であった。

この日、“タイムズ”は1面中段に大きな見出しで“Through the lens, a Century of News”との囲み

記事を掲載し、丁度100年前の1880年3月4日にNew York Daily Graphicに登場したH.ホーガンの網目

製版印刷による“A Scene in Shanty town, New York”の写真が、歴史的な新聞写真第1号であると報

じたからである。(図版4参照)ジャーナリズム界で、リーダーシップをとる“ザ・タイムズ”のいわ

ばお墨付きであった。前述したロンドンのColindale新聞資料館で当日の“ザ・タイムズ”を引っぱり

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〈図版4〉1980年3月3日付“ザ・タイムス”の1部分。左下にThrough the lens, a century of news の囲み記事をかかげ、New York Daily Graphicに掲載された“A Scene in Shanty town, New York”の写真を網目製版による歴史的な新聞写真第1号として紹介している。(矢印と囲み枠、筆者)

出して記事を読むと、大きく該当写真をのせ、説明では「歴史的な新聞写真New YorkのShanty town

の風景、網目製版によって新聞に印刷された最初の写真で、1880年3月4日のNew York Daily

Graphicに登場したもの」と、かなり大きなスペースを割いて報じている。歴史的な伝統を持つ有力

紙“ザ・タイムズ”によって、ジャーナリズムの中での新聞写真登場の歴史事実が最終判断されたと

言える。その理由が、技術的問題なのか、ジャーナリズム的内容判断なのか議論は分かれるところだ

が、筆者は網目製版開発の技術的時間差ではなく、“A Scene in Shanty town,New York”に表現された

フォト・ジャーナリズムの精神を高く評価したもので、写真内容による価値判断であったと考えている。

今日では、この作品をして新聞写真第1号とするのが定説となっているが、1880年3月4日は、

New York Daily Graphicの創刊7周年の記念日で、特集が組まれ、特に挿入された見開き2ページに

それぞれ異った製法の14枚の“さし絵”を並べ、7年間紙面を飾ったグラフィック報道の流れを解説

している。フロントページは、全面一枚の大きな“さし絵”(網目製版を一部混合させた銅彫版画)で、

7年間紙上に登場した“さし絵”を画架に飾り、美女がそれらを説明している姿が描かれている。周

囲には、当時人気のコロジオン湿版カメラや、新聞の保存製本冊などが置かれた華やかな絵柄である。

(図版5参照)

特集ページでは、今までに使用された木版、石版、銅版、ペン画など14枚を列挙し、左下隅に網目

製版の歴史的な“ニューヨーク貧民窟”の写真が掲載されている。正式な写真のタイトルは“A

Scene in Shanty town, New York”である。セントラルパークの現場で、この写真を撮影取材したのは

New York Daily Graphic社のスタッフカメラマン、H.J.ニュートン(H.J.Newton)で、ホーガンはその

写真ネガをもとに網目製版を製作した。筆者がこの記念号の写真を初めて目にしたのは、5年前ニュ

ーヨーク市立図書館のマイクロフィルム資料室で、マイクロフィルム化された新聞資料から記念号を

コピーしたときで、フィルムの状態が悪く、当の写真も全体として見にくいものであった。だらしな

い荒地は残雪に囲まれ、大きな岩山の頂上には、今にも倒れそうな貧弱な掘っ立て小屋が乗っかかる

ように立ち、人影はなく、右後ろには安っぽいテネメント(Tenements)と呼ばれる安アパートが見

える、全く殺風景な写真であった。(図版6参照)別ページの写真説明記事は「さし絵特集の最下段左

隅の“さし絵”は今までの、絵や彫版画によるさし絵と異って、写真から直接紙上に印刷再現された

ものである。我社のカメラマンが写した貧民窟のネガから、網目製版がつくられ印刷されたものであ

る。見てわかる様に、細かい点の濃淡によって写真が再現されているが、この方法はまだ完全なもの

とは言えない。しかしこれから実験的に使用するし、本当の普及までには時間がかかるだろうが、こ

れは将来必ず成功し通常的に我社の紙面を飾ることになるだろう。」と明確にその将来性を見通してい

る。確かにホーガンらの努力にもかかわらず、この網目製版技術が新聞写真の主役になるまでには、

この後およそ20年を経なければならなかった。アメリカでは、1898年頃から“ニューヨーク・ヘラル

ド(New York Herald)”紙をはじめ多くの社が網目製版の写真を紙面に多用し始め、イギリスでも

1903年創刊のデイリー・ミラー(Daily Mirror)が、肖像写真をふんだんに使用して、視覚を重視し

た新聞が大流行することになる。このように活字と写真は次第に調和して、ニュース伝達での相乗効

果を発揮し、新聞ジャーナリズムの本流となって流れ始めたのであった。

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〈図版5〉“The New York Daily Graphic”創刊7周年記念グラフ特集号(1880年3月4日)第1面。美女が、紙面を飾ってきた14種の“さし絵”を説明している。彼女の右手でかくれている左下隅の“さし絵”“A Scene of Shanty town in New York”が網目製版による新聞写真第1号(図版6)である。

4)新聞写真登場の社会的背景

a)The Gilded Age(金メッキの時代)

南北戦争終了(1865年)後、’70~’80年代の活気溢れるアメリカ社会を描いたM.トーウェン(Mark

Twain)と、C.D.ウォーナー(C.D.Warner)の合作小説“The Gilded Age(金メッキの時代)”という

題名がこの時代の特長を見事に言いあてている。人種差別、男女性差別を撤廃し、農業国家から近代

工業国家へと飛躍的な変貌をとげつつあったこの時代は、混乱の中にもかかわらず軍需景気を引きず

った好景気に沸き、1869年完成した大陸横断鉄道によって、機械革命ともいわれた東部の工業化

(American Mechanical Revolution)と、大草原の西部に夢を賭けた移住民の大規模農業、特に小麦栽

培の成功が合体し、東部と西部の大連結により全国的な経済流通体制が完成した。その上、戦前には

ほとんど無に等しかった関税を見直し、平均47%まで引き上げる高関税政策で、あらゆる国内生産の

保護育成を図った。結果、広大な農地は次第に姿を変え、新しい街、工場、鉄道、汽船が出現してい

った。変化は急激且大規模であり、それに伴う社会の変化も大きく、生活様式、価値観の変化に人々

は戸惑った。しかし、ともかくアメリカはヨーロッパの波から脱して、新民主主義工業社会として世

界に出る力量を備えたのである。経済の発展は必然的に社会文化の成熟を促し、芸術、ジャーナリズ

ムの進展をも加速した時代でもあった。しかし、その反動として巨大な社会的歪み、いわゆる影の発

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〈図版6〉歴史的な網目製版による新聞写真第1号今回、G.Eastman House Archives(アメリカ、ロチェスター市)にあるオリジナル原版で直接プリントしていただいた原寸大のプリントで貴重なものである。(7inches×4.5inches,Copyright:G.Eastman House.)

生もまた必然であった。経済景気が最高の価値観となり、拝金主義による人心、モラルの低下と社会

腐敗の進行、政治家、役人の贈収賄の横行は、ホワイトハウスのグラント大統領にまで及ぶ有様だっ

た。大工業化は労働者階級を一挙に増加させ、特に下層労働者の増大は急激で、貧富の格差拡大はダ

イナミックに進んでしまった。それに輪をかけて、この時代のヨーロッパを中心とした世界各地から

の大量移民はすさまじく、1860年から80年代にかけておよそ1,300万人に達し、実に都市人口増加のDQ

は移民であった。それら移民の大多数は、イタリア、ポーランド、ロシア、ユダヤ人など南東ヨーロ

ッパ系移民で、下層農民層であった。彼らを求めたのは新興の都市工場群であり、移民は職を求めて

都市に殺到した。生活の変化にとまどうアメリカ庶民と、押し寄せた移民群とが混合し、人口が大都

市に集中的に流入したため、結果、都市生活の巨大で異常な歪みとなって露呈してしまった。大都市

の生活環境は劣悪を極め、人々は住む所さえなかった。進歩と貧困が同時に進行した。M.トーウェン

らは、こうした社会を表面的な繁栄だけの軽佻浮薄の社会として蔑み“This is gilded, not golden.(金

ではない。金メッキだ。)と言ってこれを“The Gilded Age(金メッキ時代)”と命名したのである。

b)ニューヨークの狂騒(1860~80年代)

さて、新聞写真第1号となった“A Scene in Shanty town,New York”の背景を考察するには、スト

レートにこの時代のニューヨークの生活環境を見なければならない。アメリカ大工業機械化は、大都

市化と同義であり、19世紀前半までの工業動力は主に水力で、工場も農村に立地することが多かった。

1859年にはペンシルヴェニア州での石油機械掘りの成功による新エネルギー時代がスタート、更に南

北戦争後蒸気機関への急激な移行で、工場は都市に立地するようになり、必要な労働力も都市に集中

し、都市人口は超過密になり、最大都市ニューヨークは軽工業を中心に製造業、金融のメッカとなっ

た。人口は膨張し、1880年の国勢調査では120万人と20年前の2倍、都市人口はアメリカ総人口のDQに

達し、なお増加の一途にあった。人口密度は1平方マイルあたり3万1千人と非常に濃く、環境の劣

化は当然の帰結であった。特にニューヨークの居住環境は記録に残るほどの、驚くべき劣悪さであっ

た。当時の状況を記録した“The good old days, they were terrible! By O.Bettman, 1974”や“The

Biography of New York. By M.Pye, 1996”などから具体的にみてみると、120万人のFEは市内に約3万

棟あるテネメント(Tenements, 安共同住宅)に住みついていた。一番ひどいもぐりの木賃宿は、1家

族1部屋どころではなく、1部屋に10数人が折り重なるようにつめ込まれ、1人が横になれるスペー

スが“1スポット、5セント(Five cents a spot)”で貸供される有様だった。この外、住居に溢れた

移民を中心にした下層民衆は、公園や空地に不法な掘っ立て小屋を立て住みついていた。排出された

ゴミは道路や空地に山積みされ、汚水は下水溝からあふれた。こうした不衛生な環境から、ニューヨ

ーク市の対人口死亡率は26.5%と、ロンドンなどヨーロッパの都市と比較しても5~6%高い数値を

示していた。1880年代には貧民窟は7年前に完成した憩いの場、セントラルパークの西側沿いに北に

向って立ち並んだ。特に8番街に沿って60番通りから80番通りまで、現在の自然史博物館に面した公

園北部一帯は、正に“Shanty town(貧民窟)”大通りであったのである。Shantyという言葉は、外観

的には掘っ立て小屋を意味するが、内部の劣悪状態をも併せ含んでいた。いわゆるスラム街であった。

不衛生で疫病の巣と言われた。19世紀半ばでは、未だ未開発だったニューヨークの空地や公園に、

Shanty townが出現するのは自然の成行きだった。安アパートで1人分のスペースを貸り、足も伸ば

せないで丸くなって寝るより、不法でも自分の“箱”をつくって足を伸ばして寝る方がずっと楽だっ

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た。当時の新聞記事は『建築現場からは度々廃材や板キレが持ち去られ、数時間後にはShanty town

が出来上る風景は、まるで魔法のようだ』と報じている。従って当時のニューヨークは、好景気に踊

る資本家や、上流階級の派手で贅沢な金メッキ生活がある反面、中流階級以下の極端な住宅飢餓とが

同居していた。仕事は臨時の日雇い仕事が山ほどあったが、貧民窟の生活環境は、人々の心を荒廃さ

せ、絶望的な自暴自棄に陥し入れ、犯罪の温床となり社会問題として焼付いていた。1870年から80年

にかけてこのニューヨークのスラム街Shanty townに住む人々の数はおよそ50万人とも言われていた。

ニューヨーク人口の42%という驚くべき数である。ニューヨークは狂騒の渦の中で身もだえし、明る

い部分と暗い部分をはっきりと照し出していた。こうした社会の歪み、矛盾を放置したまま、表面的

な繁栄のみにエネルギーを集中した社会構造は、正に、Gilded Age(金メッキの時代)とよぶにふさ

わしい。

C)Photo ・Journalismの萌芽

New York Daily Graphic創刊7周年記念号(1880年3月4日付)の特集に並べられた14枚の“さし

絵”を改めて眺めてみると、唯一の網目製版写真“A Scene in Shanty town New York”が、他のさし

絵とくらべ全く異質な雰囲気を持っていることに気付く。13枚は、海や田園風景、男女人物像など、

美術的にも優れた叙情的、絵画的美しさを備えた絵が多い。しかし左下隅に位置した“Shanty town”

の写真は、残雪の中、岩山の上に人気もなく寒々と立つ掘っ立て小屋という殺風景、無味乾燥、美的

印象を一つも与えない写真であり、まわりの作品とは全く異なった一線を画している。が、この“異

質”こそ、新しいフォト・ジャーナリズム(Photo・Journalism)の萌芽を感じさせる“特質”なので

ある。活版印刷技術が普及し、活字による宗教・政治批判、論評などいわゆる活字ジャーナリズムが

開始された17世紀半ばからおよそ2世紀を経て、新しい世界としての映像ジャーナリズムがスタート

したのである。現場に手を加えない、あるがままの姿、人間の生活臭、取材する者の意図が明確に存

在する写真。記事の添ものとしての“さし絵”ではなく、映像が独立して自己主張するもの。それら

は今までにないジャーナリズムのジャンルでの表現で、活字が主役ではない、映像主役のPhoto ・

Journalismの世界であった。従来、Artist(美術画家)によって描かれた“さし絵”は、新たに

Photographer(カメラマン)によって取材されたジャーナリスティックな“写真”へと明確に変化を

とげた。一見、殺風景な味気ない写真ではあるが、中味は重厚で、ニューヨーク中心部に出現した貧

民窟の現状を撮影したこの一枚は、取材者の意図があり、説明記事を伴わなくても訴える独立した映

像主張と問題提起がある。この写真を、新聞写真第1号と定義したイギリスの“The Times”の記事

(図版4参照)には『H.J.ニュートンによって取材されりこの写真はニューヨークの貧窮生活者の現状

を示し、今日の社会的ドキュメント写真の先駆けとなった。』と書かれている。伝統という視点からみ

れば、活字ジャーナリズムには“さし絵”に対する拒絶意識が強く存在していた。長い間、ジャーナ

リズムは文字で行われなければならなかった。大多数が無学の大衆の中で、新聞は読み書き能力を示

すエリートとしてその地位を読者層にアピールするものでなければならなかったのである。読める人

も、“さし絵”だけを見る人も、ただ異なった方法で新聞に接するだけで、変りはないのであるが。ア

メリカでも、ILN創刊から13年も遅れて、1855年にF.レズリー(Frank Leslies)が“Frank Leslies

Illustrated Newspaper”をニューヨークで創刊している。レズリーはILN社で働いていた木彫職人で、

イングラムの下で“さし絵新聞”の編集構成を学びニューヨークで独立、アメリカで最初の“さし絵

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

新聞”の発行人となった。この“さし絵新聞”は1860年に日米通商条約批准のためアメリカを訪問し

た徳川幕府初の遺米使節団の行動をことごとくスケッチして報じ、極東の風俗の珍らしさで日本使節

団ブームを引起したことで有名である。

“版画さし絵”から“網目製版写真”への移行は、イギリスでもアメリカでも1880年から1910年に

かけて進んだが、ペースはアメリカの方が速かった。それはアメリカがイギリスのような優秀な木彫

職人を持たなかったためと言われている。イギリスではILNはじめ多くの木彫職人がいたため、それ

に依存し過ぎて写真製版技術の開発対応が遅れたとされている。ILNピクチャー・ライブラリーの、E.

ハート(E.Hart)マネジャーの調査によると、ヴィクトリア朝時代、ヴィジュアル新聞の先駆といわ

れたILNでさえ、木版画彫りの“さし絵”に固執したため、最初に網目製版の写真を使用したのは

1889年6月15日号で、プリマスで行われたサイクリング大会の優勝トロフィーやレプリカの写真であ

ったといい、創刊から実に47年を経てからであった。この他、写真の発明(1839年、フランスのダゲ

ール L.J.Mandi Dagurre)から、網目製版による新聞写真の登場までの41年間の間に、新聞写真に関し

て1つの興味ある試みが、日本の横浜で行われている。1870年、横浜に住んでいたイギリス人J.R.ブ

ラック(J.R.Black)が創刊した“ザ・ファー・イースト(The Far East)”である。当時主流だったコ

ロジオン潤版撮影によって得たガラス板ネガから、何枚もの紙ポジプリントを焼付け、それらプリン

ト写真を1枚1枚紙面に直接貼りつけて売り出したのである。斬新なアイディアは歓迎されたが、プ

リント写真の数に限りがあり、発行部数は100部前後と極めて少なく、価格も1部1ドルと高すぎて長

続きが出来ず、5年間で幕を閉じてしまうが、網目製版技術が登場するまでの過渡期に出現したこの

発想は、新聞写真誕生への足がかりとして、影響は非常に大きなものであった。

新聞ジャーナリズムを発展させた3大技術は①1800年、イギリスのスタンホープ(C.Stanhope)に

よる金属製印刷機出現。②1846年、アメリカのホウ(R.M.Hoe)によるロータリー輪転印刷機出現。

③1880年、アメリカのホーガン(S.H.Horgan)による金属製網目製版製作とされているが、特に③の

発明は新聞ジャーナリズムの他に、新しくフォト・ジャーナリズムの理念と実践を生んだことで重要

である。勿論、1880年の第1号“Shanty town”は実験的要素が強く、不完全なものであった。網目

スクリーンも布製であったため網点が粗雑であった。きちんとした網目スクリーンの登場は6年後で、

2枚のガラス板の各々全面に細かく正確な平行線を引き、それぞれを直角に重ね合せて精密な網目ス

クリーンを完成させた。この流れにのり、アメリカで網目製版方式による新聞写真が現在のように日

常的に紙面を飾るようになるのは、17年後の1897年“ニューヨーク・トリビューン(New York

Tribune)紙や、イギリスでは1904年のデイリー・ミラー(Daily Mirror)あたりからであり、実に20

年以上の時間を必要としたのであった。写真製版技術の革新は“ひとっ跳び”にはいかず、社会生活

の変化の中で、徐々に読者のニーズに対応していったのである。フォト・ジャーナリズムは、アメリ

カ、イギリス共に19世紀後半に萌芽し、20世紀に入って繁栄成熟をとげた。政治、社会を映像で切り

撮る作業は、次第に力をつけてゆき、1895年に始った“映画”(フランスL u m i e r e兄弟の

Cinematographe)の発達と相まって、20世紀は映像の世紀となった。アメリカのジャーナリスト、

M.L.カールバック氏はアメリカのフォト・ジャーナリズムについてのこの著作“American Photo・

Journalism Comes of Age (By M.L.Carleback 1997)”の中で、『現在隆盛を誇るフォト・ジャーナリ

ズムを支える3本柱として、写真の持つ表現力、網目製版の発達、さし絵新聞の伝統と蓄積が挙げら

れるが、これらは全て19世紀に始まり、20世紀に引継がれ成熟した。特に写真印刷技術の進歩は、映

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富山国際大学地域学部紀要 創刊号(2001.3)

像の力を広く社会に浸透させ、社会矛盾を告発するジャーナリズム活動の強い武器として認識させた

点で重要であった。』と述べている。

アメリカのフォト・ジャーナリズムは、この“Shanty town(貧民窟)”の1枚に始まり、進化した。

徹底した現場取材で世界の出来事を報じた写真雑誌“ライフ(LIFE)”は1937年、H. ルース(Henry

Luce)によって創刊されたが、これはホーガンの網目製版登場の副産物とさえ言われたのだった。ア

メリカのフォト・ジャーナリズムを支えたのは、実にこの写真製版技術であり、その上に立って“ラ

イフ”は世界で最も強力で重要なフォト・ジャーナリズムの出版物となったのである。今やニュース

映像は写真だけではないが、全ての映像は現代ジャーナリズム活動の先頭に立って活躍しており、

1880年の網目製版による最初の新聞写真“A Scene in Shanty town, New York”の登場こそ、20世紀フ

ォト・ジャーナリズムの正に萌芽であったのである。

References: 〔Ⅰ〕

1)Files of British Library Colindale Newspaper Library and Archives(London ,Dr.Christopher Skelton-

Foord,Reading Room & Information Manager)

2)Files of St.Bride printing Library(London ,Mr.Nigel Roche,Head Librarian)

3)Files of Picture Library in The Illustrated London News(London ,Mr.Richard Pitkin,Circulation Manager & Ms.

Elaine Hart,Picture Library Manager)

4)A History of The Illustrated London News(ILN Self Booklet)

5)「ロンドン~ある都市の伝記~」C.ヒバート著 1988

6)Social History of Victorian Britain By Christopher Hibbert, 1960

7)The English Common Reader:~a social history of the mass reading public~By R.D.Altich, 1957

8)The British working class Reader(1790~1848)~literacy and social tension~1955 ,By R.K.Weff

9)An Illustrated History of Britain ,By D.Mc Dowall ,1989

10)London Life in the 18 Century ,By M.D.George, 1925

11)The English Newspaper,(1622~1932)By S.Morison, 1932

12)Graphic Journalism in England ,By C.Fox, 1988(1830~1840)

〔Ⅱ〕

1)Files of George Eastman House Archives.(Rochester N.Y, Mr.Joseph R.Struble,Assistant Archivist)

2)Files of British Library Colindale Newspaper Library Archives.(London)

3)New York City Library Newspapers Microfilm Collections(New York)

4)How The Other Half Lives. ~Studies Among The Tenements of New York ~ By Jacob. A . Riis , 1914

5)The Origins of Photojournalism in America. By M.L.Carleback . 1992

6)The Origins of British Press Photograph. By J.Wright ,University College Swansea, 1982

7)The Beginning of Half Tone. ~A History of The Process ~ By William Gamble, 1927

8)The Antecedents of American Photo Journalism. By R.Kahan 1969

9)世界歴史大系『アメリカ史』第2巻(1877-1992)有賀貞他編 , 1993

10)Eyes of Time ~Photojournalism in America. ~By Marlanne Fulton, 1998

11)People and Our Country.(State UTAH, High School Text)By N, K, Risjord, 1978

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